8/12 説教要旨

マタイによる福音書6章24節
わずか1節のみ言葉ですが、時代ごとに多彩な解釈をされてきた箇所です。ここで言われている「富」はそのまま「お金」のことです。神さまとお金に同時に仕えることはできない、と教えられていることは明らかです。お金というのは更に、神さまでない被造物ということですから、神さまと偶像に同時に仕える(信じる)ことはできないということでもあります。しかし、私たちは同時に仕えるような生き方をしているなあ、と自分の生き方を振り返って思うのではないでしょうか。実はその主人を選べると思っている感覚こそが「大間違い」なのです。「仕える」とは当時の理解では奴隷として仕えるということです。奴隷は主人を選べません。報いは自分の所有者である主人からのみいただきます。私たちは神か富かどちらかに所有されているということです。どちらかを選ぶ力など私たちにはないのです。そして、ここで主イエスが伝えたいのは、私たちは「富」という言葉で代表される被造物を主人として仕えているのではなく、神さまに所有されているのだということです。神さまは御心をもって私たちを「救う」と決断してくださり、ご自身の独り子イエス・キリストを十字架で代価として支払って私たちを罪と悪と滅びからご自身の所有としてくださいました。しかも神さまは、私たちを奴隷ではなく自由な「子」として迎えてくださいました。父なる神に親しんで仕え、父なる神から豊かな報いをいただいて生きるのが信仰者なのです。

2018年09月22日