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説教要旨、牧師の思い、集会案内、会報などを記したサイト管理人のブログです。

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11/25 オープンチャーチ礼拝説教

来週の日曜日から教会は「アドベント」と呼ばれる期間になります。クリスマスを迎えるための準備の期間です。

ハロウィンが終わると、お店は一晩でクリスマスのデコレーションに変えられます。アメリカではデパートや小売業の年間売り上げの4分の1はクリスマスの時期にあるということです。それだけ商売にも力が入ります。けれどももちろん、アドベントはクリスマスの気分を盛り上げるためにあるのではありません。アドベントは「到来」という意味の言葉です。アドベントの一日一日を重ねるごとに、「救い主は到来された」という信仰の喜びと感謝をより深く心に刻み、神さまを礼拝しよう、と呼びかける期間です。

救い主の到来は、私たち人間が熱心に求めたからではありません。旧約聖書のイザヤ書に、救い主の誕生を告げる預言の言葉があります。そこには、「主の熱意がこれを成し遂げる」と書いてあります。「主」とは神さまのことです。神さまの私たちへの愛の熱意が救い主を送ってくださいました。この方によって私たちを罪と滅びから救うためでした。そのために愛する独り子を人として生まれさせてくださったのです。

世の中は、闇が覆っていると思えるようなことが沢山あります。戦争があり、飢えがあり、病があり、犯罪があります。罪のために死と滅びがいつも私たちを脅かしています。そのただ中にいる私たちのもとに、救い主はお生まれになりました。神さまの私たちへの愛の熱意がそれを実現してくださったのです。

この神さまの熱意が、一人の女性のもとに届けられました。天使ガブリエルが遣わされて、マリアを訪れて男の子を生むことを告げたのです。有名な「受胎告知」と呼ばれる出来事です。

この時マリアは、何が何だか分からなかったと思います。彼女にしてみれば、まだ結婚もしていないのに、どうして男の子を産むなどということが起きるのか、起きるはずがない、そう考えるのは当たり前のことです。しかし、天使ガブリエルはマリアに告げます。「神にできないことは何一つない。」これがマリアを納得させた言葉でした。

「神にできないことは何一つない。」このことを信じる。これが信仰です。これは、私たちの経験やそれに基づく見通しといったものを放棄し、神さまの愛の熱意に自分を委ねるということです。どうしてそんなことができるのかと思われるかもしれません。しかし、これを信仰と呼ぶのです。

私たちが自分の経験や見通しだけに立っている限り、神さまの救いを知ることは出来ないのです。それはどこまでも自分によることであり、その結果は死と滅びという限界がいつも私たちを脅かしている罪の支配の範囲で収まってしまいます。それはやがて私たちに疲れと諦めをもたらし、希望を失わせます。しかし、このアドベントの時、私たちが心に刻まなければならないことは、「神さまにできないことは何一つない」ということと、「神さまの愛の熱意が成し遂げられる」ということです。神さまの愛の熱意が始められることは、罪と死に打ち勝って実現されるのです。

この時マリアは天使の言葉に対して、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えました。神さまの奇跡が他人事であるならば、私たちは「そういうこともあるかもしれない」と言って済ませることも出来るでしょう。しかし、神さまの救いは私たちの人生の上で起きるのです。神さまの愛の熱意である救い主イエス・キリストを、私たちの人生にお迎えしましょう。

2018年12月01日

11/18 説教要旨

マタイによる福音書8章14~17節

イエス様の病の癒しの奇跡が続けて記されます。マタイによる福音書は、山上の説教を語られたのと同じ一日の間に起こった出来事として記しています。これは、イエス様の地上での宣教のお働きの一日が、こういうものだったと教えていると言えるでしょう。つまり、神の国について教えられ、求められると病を癒してくださる。それもすぐにお応えくださいます。神の民として祝福された者が病になるのは、何か罪を犯しているからだ。本人でなければ先祖に罪があるからだ、という考えがありました。そのため病は、神さまの救いの枠から外れた状態、神から見捨てられた状態とされました。イエス様はそのような悩みを担い、人々に神さまの愛を伝え、連れ戻してくださることに熱心でした。それが病の癒しの御業にあらわれています。この癒しについて「彼は…患いを負い、病を担った」というイザヤ書の言葉の成就だと記しています。病の苦しみは消滅したのではなく、イエス様が負ってくださいました。それは「神から捨てられる」という悩みです。罪のゆえに私たちの命は死にさらされることになりました。その時から病の悩みが私たちを襲いました。罪のもたらす絶望を神の独り子が引き受けてくださったのです。救い主はご自分の一日をそのために休む暇もなくすべて費やしてくださる日々を送られたのです。その極みに十字架の贖いがありました。イエス様が神から捨てられるべき罪の重荷を負い、私たちに代わって悩み苦しんでくださったのです。

2018年11月25日

11/11 説教要旨

マタイによる福音書8章5~13節

イエス様のもとに、僕の癒しを求める百人隊長が近づいてきました。彼もまた、普通ならば近づくことのない人です。彼は外国人でした。当時の敬虔なユダヤ教徒は外国人との交流を避けることが多かったですし、ましてユダヤを支配していたローマ帝国の百人隊長に対してはなおさらでした。しかし、「イエス様こそ救いの神であられる」という信仰が彼をイエス様へと近づかせました。ここにマタイ福音書は第一の信仰の姿を見ています。この方こそ救い主と信じたならば、まっすぐに近づくのです。私たちは救いをいただくよりも、世の事情や気遣いに心を奪われて、救い主を見送ってしまうのです。しかしどんな事情も気遣いもイエス様は担ってくださり救いの道を開いいてくださいます。多くの人がそこまで信じぬいていないのです。第二に、彼は徹底的にイエス様を「神の子」、「救い主」として向かい合っています。自分の屋根の下にお迎えできないというのも、神さまの御心を本気で尊重しているからです。神さまがお命じになれば、万物はその御言葉に服さなければならないということを信じていました。だから、余計な儀式で慰められることを求めませんでした。自分勝手に救いの実現を決めることをしませんでした。御言葉を求めました。本当に御言葉によって救われるのは百人隊長自身であることを承知していたのです。この徹底して神を神とする信仰に、神の独り子である救い主、イエス様は喜んで応えてくださいました。

2018年11月12日

11/4 説教要旨

マタイによる福音書8章1~4節

山上でお話を終えてイエス様は山をおりられます。ここからイエス様の言行を記した箇所がはじまります。そこに重い皮膚病の人が近づいてきて、清められることを願いました。イエス様はその人を清めて病を癒してくださいました。この出来事は、山上の説教の最後の教えにあった「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」の具体的な姿です。重い皮膚病の人は、当時「汚れている」と言われていました。重い皮膚病は神さまの罰を受けていると信じられていたからです。ですから、病の苦しみ以上に、ユダヤ人でありながら神さまの救いの外に置かれるという苦しみを背負っていました。汚れを人に移さないために人々から離れていることを強制されていました。おそらくこの人は人々から離れてイエス様の言葉を聴いていたのでしょう。そして、この方ならば自分を清めて神さまの元へと帰らせてくださる救い主だと信じて近づいてきたのです。これが「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」の姿です。イエス様は、近づいてきた彼を「手を差し伸べてその人に触れ」て、迎え入れてくださいました。「手を差し伸べて」という言葉には「広げて」という意味もあります。つまりイエス様は片手を伸ばして触れたというよりも、両手を広げて迎え入れたと理解してよいと思います。「よろしい、清くなれ」という言葉も、癒しの宣言であるとともに、「そうだ、あなたは神の御腕の中にいる」という宣言です。救いの宣言です。山上の説教で語られた、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」「求めなさい。そうすれば与えられる」「岩の上に自分の家を建てた賢い人」の実現がここにあります。

2018年11月12日

10/28 オープンチャーチ説教要旨

マルコによる福音書2章17節

 キリスト教会において親しまれてきた「あしあと(フットプリント)」という詩があります。今日は、この詩と、この詩についての伝えられているエピソードを紹介します。

あしあと(Footprints) 原作者 マーガレット・F・パワーズ
ある夜、彼は夢を見た。それは主イエスとともに海岸を歩いている夢だった。空に彼の人生が次々と映し出された。彼は、人生のどの場面にも、二人分の足跡が残っていることに気づいた。ひとつは自分のもの、そしてもうひとつは主イエスのものであった。
そして人生最後の光景が映された時、彼は砂浜の足跡を見た。そこには一人の足跡しかなかった。それは、彼の人生で最もつらく悲しみに打ちひしがれていた時も同じであった。彼はそのことでひどく悩み、主イエスに尋ねた。
「主よ、かつて私があなたに従うと決心した時、あなたはどんな時も私とともに歩んでくださると約束されたではありませんか。けれども私の人生で最も苦しかった時には、一人の足跡しかありません。私が最もあなたを必要としていた時、どうしてあなたは私を置き去りにされたのですか?私にはわかりません。」
主イエスは答えられた。
「私の大切な子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの只中にいた時、ただ一人の足跡しかない時には、私があなたを背負って歩いていたのだ。」

 この「あしあと」という詩は、人生に疲れ、重荷に押しつぶされそうになっている多くのクリスチャンたちを励まし続けてきた有名な詩です。この詩はカナダのクリスチャン、マーガレット・パワーズという女性が、夫のポールさんにプロポーズされた日に、この詩は生まれました。ポールさんはキリスト教の伝道者、マーガレットさんは学校の先生でした。

 二人は共にクリスチャンで、将来の不安など何もないかのように周りからは見えました。ところが、二人の心の奥底には、ある不安があったのです。それは、二人の育ってきた環境があまりにも違う、ということでした。

 マーガレットさんは、本当に幸せな家庭で育った人でした。一方、ポールさんは、父親の激しい虐待を受けて育ちました。彼は少年院を転々としていました。しかし出所後、老齢のクリスチャン夫婦宅でお世話になったことがきっかけになり、心から悔い改めてクリスチャンになる決心をしました。イエス・キリストが自分の罪のために十字架にかかって死んでくださった。そのことを知った時に、彼は母親が死んだ7歳の朝以来、初めて涙を流したと言います。

 そういう二人が、プロポーズのあと、湖のほとりを歩きながら、将来のことを真剣に語り合っていたのです。そろそろ戻ろうと思い、砂浜を折り返そうとした時に、彼らは二人の足跡が波に掻き消され、一人分しか残っていないことに気づきました。それを見てマーガレットさんは、「これは神様が二人を祝福してくれない暗示ではないか」と不安に思った、と言うのです。けれども、ポールさんは言いました。「いや、そうじゃない。二人は一つになって人生を歩んでいけるんだ」と。けれども、マーガレットさんはまだ不安でした。そして「二人で処理できないような困難がやってきたら、どうなるの」と聞きました。その時にポールさんは、すかさずこう答えたそうです。「その時こそ、主が私たち二人を背負い、抱いて下さる時だ。主に対する信仰と信頼を持ち続ける限りはね」。詩を書くのが好きだったマーガレットさんはこの出来事を詩に書きとめました。

 この話には続きがあります。25年後に彼らは大きな試練に出会いました。今度は、娘さんを含めた家族三人が大きな事故に巻き込まれて重傷を負ってしまったのです。ある時にポールさんの病室を訪ねてくれた看護師が祈ってくれました。その看護師は「作者は分からないけれど、とてもいい詩なので、この詩を読んで元気を出して!」と言って、ある詩を贈ってくれたそうです。その詩こそ、なんと25年前にマーガレットさんが作った「あしあと」という詩でした。ポールさんは、その詩を聞き、驚きと共に慰めを与えられたそうです。そして、このことをポールさんから伝えられたマーガレットさんも、25年前の信仰の原点に立ち返り、本当に慰められたと言います。

 苦しみの時だけではありません。罪という重荷はいつでも私たちの人生の歩みを捉え、動けなくします。その時に、私たちを背負って支えてくださる救い主イエス・キリストがおられます。イエス様はそのためにこそ自分は来たのだとおっしゃってくださったのです。

2018年11月03日
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