映画の誘惑

最終更新日 2016年7月10日

「映画の誘惑 セレクション」

This is Cinema

映画の誘惑 セレクション

コメディ映画 ベスト50

映画史を作った30本

フィルム・ノワール ベスト50

西部劇ベスト50

戦争映画ベスト50に向けて

《プチ・ニュース》

■映画 DVD 新作

ハワード・ホークス『赤ちゃん教育 THE RKO COLLECTION』 [Blu-ray]

『ジャック・ドゥミの初期傑作 Blu-ray BOX(初回限定版)』

『ローラ ジャック・ドゥミ監督 Blu-ray』『天使の入江』 Blu-ray

『ローラ DVD HDマスター』『天使の入江 DVD HDマスター』

ピーター・ボグダノヴィッチ『マイ・ファニー・レディ』

ミア・ハンセン=ラヴ『EDEN/エデン』 [Blu-ray]『EDEN/エデン』 [DVD]

『三里塚シリーズ DVD BOX』

『日本解放戦線 三里塚の夏』『日本解放戦線 三里塚』『三里塚 第三次強制測量阻止斗争』『三里塚 第二砦の人々』『三里塚 岩山に鉄塔が出来た』『三里塚 辺田部落』『三里塚 五月の空 里のかよい路』

『Frederick wiseman : 1968-1979, vol, 1』(『フレデリック・ワイズマン全集』)

『フレッド・アステア&ジンジャー・ロジャース Blu-ray BOX』

『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ DVD-BOX Vol.16』

『ハリウッド西部劇悪党列伝 DVD-BOX Vol.2』

『世界の推理小説 傑作映画 DVD-BOX』

ジャン=ピエール・メルヴィル『サムライ』 [Blu-ray]

ジャン=リュック・ゴダール『ゴダールのマリア【HDリマスター・完全版】Blu-ray+ ウディ・アレン会見レポート/ソフト&ハードDVD』

『ゴダールのマリア 【HDリマスター・完全版】』 [DVD]

『ロバート・アルトマン ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男』 [DVD]

三隅研次『処女が見た』 [DVD]

 

小川紳介 『青年の海 四人の通信教育生たち』 [DVD]、『現認報告書 羽田闘争の記録』 [DVD]、『圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録』 [DVD]

『【Amazon.co.jp限定】サム・ペキンパー 情熱と美学 特製スリーブケース仕様(初回生産限定)』 [DVD]

ジャック・ターナー『法律なき町』 [DVD]

『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ DVD-BOX Vol.16』

ジョー・ダンテ『マチネー/土曜の午後はキッスで始まる』 [Blu-ray]

ジャック・ドワイヨン『ラブバトル』 [DVD]

リチャード・フライシャー『王子と乞食』 [DVD]

『ハリウッド刑事・犯罪映画傑作選 DVD-BOX 1』

『夜の人々 THE RKO COLLECTION』 [Blu-ray]、『夜の人々 HDマスター THE RKO COLLECTION』 [DVD]

ウィリアム・ウェルマン『野性の叫び』 [DVD]

ウィリアム・ディターレ『欲望の砂漠』 [DVD]

『ポランスキーの欲望の館 HDマスター 完全版』 [DVD]

エリオ・ペトリ『華麗なる殺人』

ベルトラン・ボネロ『サンローラン』

オリヴィエ・アサイヤス『アクトレス ~女たちの舞台~』 [Blu-ray]

『映画監督 村川透 (和製ハードボイルドを作った男) 』

「ジャック・ターナー『私はゾンビと歩いた! THE RKO COLLECTION』 [Blu-ray]、『キャット・ピープル THE RKO COLLECTION』 [Blu-ray]

『ハリウッド西部劇悪党列伝 DVD-BOX Vol.1』

『冒険・海賊映画 ベスト・コレクション DVD-BOX Vol.2』

ヴェレナ・パラヴェル『リヴァイアサン』 Blu-ray、『リヴァイアサン』 [DVD]

イリーサ・バーバッシュ『モンタナ 最後のカウボーイ』 [DVD]

『ジョン・フォード Blu-ray BOX』 《初回限定生産》

『ハリウッド西部劇悪党列伝 DVD-BOX Vol.1』

『ハリウッド悪女映画傑作選 DVD-BOX』

『冒険・海賊映画 ベスト・コレクション DVD-BOX Vol.2』

『怒涛の果て』

『マイエルリンクからサラエヴォへ』『七月のランデヴー』『白い足』『罪の天使たち』 『乙女の星』

アンリ・ジョルジュ=クルーゾー『ミステリアス・ピカソ 天才の秘密』 [Blu-ray]

神代辰巳『四畳半襖の裏張り』 [Blu-ray]、 田中登『マル秘色情めす市場』 [Blu-ray]、渡辺護『セーラー服色情飼育』 [Blu-ray]

ヴィンセント・ミネリ『ハリウッド・メロドラマ傑作選 二日間の出会い』

『珠玉のフランス映画名作選 DVD-BOX』

アベル・ガンス『SFムービーベストコレクション 世界の終り』 [DVD]

『フィルム・ノワール ベスト・コレクション フランス映画篇 DVD-BOX2』

ダリオ・アルジェント『スタンダール・シンドローム [Blu-ray]

ジャン・ルノワール『ピクニック(HDリマスター版)』 [Blu-ray]

アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ Blu-ray 特典ディスク(メイキングドキュメンタリー)付属!』 『神々のたそがれ HDマスター アレクセイ・ゲルマン監督』 [DVD]

『アンドレイ・ズビャギンツェフ Blu-ray BOX (初回限定)』

『ザ・ヴァンパイア~残酷な牙を持つ少女~』 [DVD]

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『雪の轍』 [DVD]

ジョシュア・オッペンハイマー『ルック・オブ・サイレンス Blu-ray』 『ルック・オブ・サイレンス』 DVD

『フェルナンド・アラバール初期』

『黒衣の刺客』 [Blu-ray]

『大地の子守歌』 [Blu-ray]

 

『ハリウッド・メロドラマ傑作選 DVD-BOX Vol.1』

フランク・ボザーギ『死の嵐』

マイケル・カーティス『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ 誇り高き反逆者』 [DVD]

リー・ショーレム『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ 牧場荒し』 [DVD]

フィル・カールソン『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ 荒馬サンダーホーフ』 [DVD]

『西部劇 パーフェクトコレクション 廃墟の群盗 ヴァージニアン 草原の追跡 アリゾナの決闘 ヴァジニアの血闘 サンタフェ 虐殺の河 拳銃街道 サンダウナーズ 熱砂の戦い DVD10枚組』

『西部劇 パーフェクトコレクション DVD10枚組 ホンドー 西部の四人 地獄への挑戦 拳銃往来 北の狼 サン・アントニオ 幌馬車隊 カナダ平原 懐しのアリゾナ ミズーリ大平原』

『西部劇 パーフェクトコレクション 星を持つ男 モヒカン族の最後 愛の弾丸 渓谷の銃声 高原児 硝煙の新天地 銅の谷 荒野の三悪人 叛逆の用心棒 デンボー牧場の争い DVD10枚組』

『西部劇 パーフェクトコレクション DVD10枚組 丘の羊飼い 西部の二国旗 ブラボー砦の脱出 アパッチ族の最後 ブラックストーンの決闘 早射ち無宿 モンタナ 限りなき追跡 銃弾 続・テキサス決死隊』

『西部劇 パーフェクトコレクション DVD10枚組 女群西部へ 復讐の二連銃 脱獄者の秘密 シエラ ネバダ決死隊 勇者のみ 最後の酋長 牧場荒し 硝煙のカンサス パウダー・リバーの対決』

『西部劇 パーフェクトコレクション 復讐の荒野 砂漠の生霊 掠奪の町 勇魂よ永遠に フロンティア・マーシャル 赤い空 キャトル・ドライブ 荒原の疾走 トマホーク峡谷の待伏せ 最後の無法者 DVD10枚組』

マイケル・アンダーソン『生きていた男』 [DVD]

リチャード・フライシャー『見えない恐怖』

ジョセフ・ロージー『唇からナイフ』 [Blu-ray]

『ハリウッド・ブルバード(続・死ぬまでにこれは観ろ!)』 [DVD]

ピーター・ワトキンス『懲罰大陸★USA』 [Blu-ray]

『懲罰大陸★USA』 [DVD]

 

ラオール・ウォルシュ『フィルム・ノワール ベストコレクション フランス映画篇 大雷雨』

ダグラス・サーク『フィルム・ノワール ベストコレクション フランス映画篇 夏の嵐』

『遊星よりの物体X HDマスター THE RKO COLLECTION』 [DVD]、『断崖 HDマスター THE RKO COLLECTION』 [DVD]、『私はゾンビと歩いた! HDマスター THE RKO COLLECTION』 [DVD]、『キャット・ピープル HDマスター THE RKO COLLECTION』 [DVD]

『アカデミー賞 ベスト100選 オズの魔法使い 我が道を往く ブルックリン横丁 オペラハット 遥かなる我が子 哀愁の湖 イヴの総て ジョニー・ベリンダ 戦場 真昼の決闘 DVD10枚組』

ジョン・フォード『荒野の女たち』 [DVD]

『ハリウッド西部劇映画 傑作シリーズ DVD-BOX Vol.15』

ニコラス・レイ『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ 不屈の男たち』 [DVD]

『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』 Blu-ray

オーソン・ウェルズ『偉大なるアンバーソン家の人々』 [Blu-ray]、『偉大なるアンバーソン家の人々 HDマスターDVD』

『巨匠たちのハリウッド バッド・ベティカー傑作選 DVD-BOX2』

『ミステリアスな一夜』『ロデオ・カントリー』『美女と闘牛士』 [DVD]

ウィリアム・キーリー『我れ暁に死す』 [DVD]

ベン・ヘクト『情熱なき犯罪』 [DVD]

ジャック・アーノルド『それは外宇宙からやって来た』『縮みゆく人間』 [DVD]

『ハリウッド西部劇映画 傑作シリーズ DVD-BOX Vol.13』

『ハリウッド西部劇映画 傑作シリーズ DVD-BOX Vol.14』

ヘンリー・レヴィン『コロラド』 [DVD]

ジョン・カーペンター『「要塞警察」Blu-ray+「真夜中の処刑ゲーム」DVD 籠城映画2本立て エクストリーム・エディション』

『フィルム・ノワール ベスト・コレクション DVD-BOX Vol.6』

『テレグラフ・ヒルの家』『14時間の恐怖』(ヘンリー・ハサウェイ)『マルタの鷹』『底流』(ヴィンセント・ミネリ)『パスポートのない女』(ジョセフ・H・ルイス)『ヒッチ・ハイカー』(アイダ・ルピノ)『ビッグ・ボウの殺人』(ドン・シーゲル)『M』(ジョセフ・ロージー)の全8作を収録。

ジョン・ファロー『夜は千の眼を持つ』 [DVD]

ダリオ・アルジェント『シャドー -HDリマスター特別版- [Blu-ray]

ダルデンヌ兄弟『サンドラの週末』 [DVD]

小津安二郎『晩春 デジタル修復版』 [Blu-ray]

溝口健二『残菊物語 デジタル修復版』 [Blu-ray]

万田邦敏『イヌミチ』 [DVD]

エドワード・ヤン『恐怖分子 デジタルリマスター版』 [Blu-ray]、『光陰的故事』 [DVD]

『巨匠たちのハリウッド ヘンリー・ハサウェイ&ゲイリー・クーパー傑作選 DVD-BOX』

トビー・フーパー『悪魔のいけにえ 公開40周年記念版』 [Blu-ray]

モンテ・ヘルマン『果てなき路(続・死ぬまでにこれは観ろ!)』 [Blu-ray]

『ジャン=ピエール・メルヴィル監督作品『海の沈黙』『マンハッタンの二人の男』Blu-ray ツインパック』

『クロード・ランズマン決定版BOX』 [Blu-ray]

オットー・プレミンジャー『バニー・レークは失踪中』

イングマール・ベルイマン『魔術師』 ≪HDリマスター版≫ [DVD]、 『仮面/ペルソナ』 ≪HDリマスター版≫ [DVD]、『叫びとささやき』 ≪HDリマスター版≫ [DVD]

『ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団 Blu-ray BOX deux』DVD 版も同時発売 )

バッド・ベティカー『第二次世界大戦 戦争映画傑作シリーズ レッドボール作戦 [DVD]』

『第二次世界大戦 戦争映画傑作シリーズ 怒りの海 [DVD]』

『終戦70周年記念 第二次世界大戦 戦争映画傑作シリーズ DVD-BOX Vol.2』

『巨匠たちのハリウッド トッド・ブラウニング傑作選 DVD-BOX』

『満州アーカイブス 満映作品映画編「迎春花」』 [DVD]

『ブルー・リベンジ』 [Blu-ray]

『ATG初DVD化BOX』

『ルイス・ブニュエル ≪メキシコ時代≫最終期 Blu-ray BOX』(初回限定版)

『ストーカー』 【Blu-ray】

『坊やの人形』 <HDデジタルリマスター版> [Blu-ray]

『童年往事 時の流れ』 <HDデジタルリマスター版> [Blu-ray]

『イングマール・ベルイマン 黄金期 Blu-ray BOX Part-3』

『ハリウッド・スクリューボール・コメディ傑作選 DVD-BOX』

マチュー・アマルリック『青の寝室』

『イーダ』 Blu-ray

『さらば、愛の言葉よ 3D』

『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』Blu-ray、『夜と霧』 Blu-ray

『エル・スール』 Blu-ray、『ミツバチのささやき』 Blu-ray

『アポロンの地獄』 [Blu-ray]、『奇跡の丘』 [Blu-ray]

E・A・デュポン『ヴァリエテ』【淀川長治解説映像付き】 [DVD]

キング・ヴィダー『ビッグ・パレード』

ルドルフ・マテ『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ ミシシッピの賭博師』 [DVD]

ゴードン・ダグラス『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ オクラホマ無宿』 [DVD]

ホン・サンス『自由が丘で』 [DVD]、『ヘウォンの恋愛日記』 [DVD]

増村保造『大地の子守歌』 [DVD]、『足にさわった女』 [DVD]

三隅研次『雪の喪章』 [DVD]

『巨匠たちのハリウッド バット・ベティカー傑作選 DVD-BOX』

『北国の帝王』 [Blu-ray]

『唇からナイフ』 [Blu-ray]

『メアリー・ピックフォードのシンデレラ 』

『紐育の波止場』

『ランジュ氏の犯罪』

『最後の切り札』

『西部戦線一九一八年』『炭坑』

『ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2 2枚組(Vol.1&Vol.2)』 [Blu-ray]

『これは映画ではない』 [DVD]

『薄氷の殺人』 [Blu-ray]

『海を感じる時』

『巨匠たちのハリウッド リチャード・フライシャー傑作選 DVD-BOX2』『札束無情』『ニューヨーク大騒動』 を収録)。

マイケル・カーティス『破局』

キング・ヴィダー『東は東』

ミッチェル・ライゼン『別働隊』

クラレンス・ブラウン『雨ぞ降る』

ジャック・タチ『プレイタイム』【Blu-ray】、『ぼくの伯父さん』【Blu-ray】、『トラフィック』『のんき大将 脱線の巻《完全版》』【Blu-ray】、『ぼくの伯父さんの休暇』【Blu-ray】、『ジャック・タチ短編集』【Blu-ray】

グザヴィエ・ドラン『わたしはロランス』 [Blu-ray]

フェデリコ・フェリーニ『ジンジャーとフレッド』『オーケストラ・リハーサル』

ジャック・スマイト『真説フランケンシュタイン/北極に消えた怪奇人間』 [Blu-ray]

『ツァイ・ミンリャン初期三部作+引退作「郊遊 <ピクニック> 」ブルーレイBOX 』[Blu-ray]

リティ・パニュ『消えた画 クメール・ルージュの真実』

安藤桃子『0.5ミリ 特別限定版』

たむらまさき(旧名:田村正毅)『ドライブイン蒲生』 [Blu-ray]

『夢』

『フィルム・ノワール ベスト・セレクション フランス映画篇 DVD-BOX1』

マルコ・ベロッキオ『ポケットの中の握り拳』 [DVD]、『エンリコ四世』 [DVD]

『ハリウッド西部劇映画 傑作シリーズ DVD-BOX Vol.11』

ロバート・アルドリッチ『カリフォルニア・ドールズ』 [DVD]

ノア・ムーアバック『フランシス・ハ』 [Blu-ray]

三隅研次『古都憂愁 姉いもうと』

『バグダッドの盗賊 【淀川長治解説映像付き】』 [DVD]

『アナタハン』 [DVD]

『恐怖の土曜日』 [DVD]

『東は東』 [DVD]

『荒野の千鳥足《痛飲エディション》』 [Blu-ray]

『美しき冒険旅行』《HDニューマスター版》 [Blu-ray]

『ダーク・スター』 【HDニューマスター版】スペシャル・エディション初回生産限定版 [Blu-ray]

『ヘルブレイン/血塗られた頭脳』 [DVD]

『ウィズネイルと僕』 [Blu-ray]

『ジャージー・ボーイズ ブルーレイ&DVDセット』 (初回限定生産/2枚組/デジタルコピー付) [Blu-ray]

『プロミスト・ランド』 [Blu-ray]

『SCUMスカム《拷問エディション》』 [Blu-ray]

『ありきたりの映画』 [DVD]、『たのしい知識』 [DVD]、『ウラジミールとローザ』 [DVD]

『パラダイス:トリロジー Blu-ray BOX +1』

『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』 [DVD]

『壊された5つのカメラ パレスチナ・ビリンの叫び』 [DVD]

『収容病棟』[DVD]

『パリ、ただよう花』 [DVD]

『蘇州の夜』 [DVD]、『初恋問答』『サヨンの鐘』(清水宏) [DVD]

『無人地帯 No Man's Zone』 [DVD]

『ノスタルジア』Blu-ray

『美しき冒険旅行』《HDニューマスター版》 [Blu-ray]

『荒野の千鳥足《痛飲エディション》』 [Blu-ray]

『ウィズネイルと僕』 [Blu-ray]

『ジャージー・ボーイズ ブルーレイ&DVDセット』 (初回限定生産/2枚組/デジタルコピー付) [Blu-ray]

『プロミスト・ランド』 [Blu-ray]

『県警対組織暴力』 [Blu-ray]

『網走番外地 Blu-rayBOX I』 (初回生産限定)

『昭和残侠伝 Blu-rayBOX I』

『リチャード・フライシャー監督 Blu-rayBOX (犯罪バイオレンス傑作選)』

『アンダー・ザ・スキン 種の捕食 [Blu-ray])』

『戦艦ポチョムキン Blu-ray)』

『イングマール・ベルイマン 黄金期 Blu-ray BOX Part-1』『イングマール・ベルイマン 黄金期 Blu-ray BOX Part-2』

『ジャン=リュック・ゴタール ベストバリューBlu-rayセット』

『恋恋風塵 -デジタルリマスター版- [Blu-ray]』

『名作 映画 セレクション 戦場よさらば カンサス騎兵隊 ノートルダムのせむし男 スタア誕生 群衆 我等の町 都会の牙 雨 虚栄の市 タルサ DVD10枚組』

『戦争映画 パーフェクトコレクション 戦場 太平洋航空作戦 鷲と鷹 英空軍のアメリカ人 戦場の誓い 大編隊 特攻戦闘機中隊 大空の戦士サンダーバード 折れた銃剣 東京スパイ大作戦 DVD10枚組』

ポール・モリセイ『処女の生血 HDリマスター版』[Blu-ray]

ラス・メイヤー『ファスタープッシーキャット キル! キル!』

ジャ・ジャンクー『罪の手ざわり』

『砂時計』

『生誕110年 ジャン・ギャバン DVD-BOX HDマスター』

『巨匠たちのハリウッド ジョン・フォード傑作選 第2集 DVD-BOX3』

『冒険・海賊映画 ベスト・コレクション DVD-BOX Vol.1』

『アクト・オブ・キリング オリジナル全長版 2枚組(本編1枚+特典ディスク) 日本語字幕付き』

『闇のあとの光』

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『スリー・モンキーズ』『昔々、アナトリアで』

ルキノ・ヴィスコンティ『イノセント』 Blu-ray

ルイス・ブニュエル『この庭に死す -デジタルリマスター版-』 [Blu-ray]

アンリ=ジョルジュ・クルーゾー『犯人は21番に住む -デジタルリマスター版-』 [Blu-ray]

クロード・ミレール『伴奏者』

イエジー・スコリモフスキ『出発』『ムーン・ライティング』

ジョン・カーペンター『ゼイリブ 初回限定版』 [Blu-ray]

ジョージ・スティーヴンス『ガンガ・ディン』

キング・ヴィダー『ステラ・ダラス』

『巨匠たちのハリウッド キング・ヴィダー傑作選 DVD-BOX』 『牧場の闇』『同志X』『城砦』

『ドラキュラ vs ミイラ男 ホラー映画 傑作集 魔人ドラキュラ 女ドラキュラ 夜の悪魔 ドラキュラとせむし女 吸血鬼蘇る ミイラ再生 ミイラの復活 ミイラの墓場 執念のミイラ ミイラの呪い』

ラオール・ウォルシュ『世界の戦争映画名作シリーズ 決死のビルマ戦線』

『恐怖への旅』

ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル(初回生産限定)』 [Blu-ray]

ホウ・シャオシェン『恋々風塵 -デジタルリマスター版-』 [Blu-ray]

田中徳三『鯨神』

島耕二『怪談おとし穴』

山本薩夫『牡丹燈籠』

『ジャック・タチ コンプリートBOX』 [Blu-ray]

『マルグリット・デュラスのアガタ』 [DVD]

『イングマール・ベルイマン 黄金期 Blu-ray BOX Part-1』

マルコ・ベロッキオ『肉体の悪魔』 [DVD]

ジャン=リュック・ゴダール『万事快調』 Blu-ray

ジャック・リヴェット『修道女 【HDマスター】』 [DVD]

ホセ・ルイス・ゲリン『『ある朝の思い出』+『アナへの2通の手紙』+『思い出』』 Blu-ray

アブデラティフ・ケシシュ『クスクス粒の秘密』

ルネ・アリオ『Histoires de René Allio - Vol. 1』

ルネ・アリオ『Histoires de René Allio - Vol. 2』

トビー・フーパー『悪魔の起源 ─ジン─』

『巨匠たちのハリウッド ロバート・シオドマク傑作選 DVD-BOX』 『暗い鏡』『ハリー叔父さんの悪夢』『血塗られた代償』

『エフゲニー・バウエル作品集 命には命を』

サミュエル・フラー『地獄と高潮』

オーソン・ウェルズ『黒い罠 完全修復版』 [Blu-ray]

『フィルム・ノワール ベスト・コレクション DVD-BOX Vol.5』

『世界の史劇映画傑作シリーズ DVD-BOX Vol.1』

『世界の戦争映画名作シリーズ DVD-BOX Vol.3』

フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない/あこがれ』Blu-ray、『突然炎のごとく』 Blu-ray、『終電車』Blu-ray

マルコ・フェレーリ『ひきしお』 [Blu-ray]

増村保造『清作の妻』

『戦記映画復刻版 亀井文夫作品集 DVD3枚組 上海 支那事変後方記録 戦ふ兵隊 日本の悲劇』

『戦記映画 復刻版シリーズ 終戦70周年特別企画 国策映画選集 亀井文夫作品集 セット DVD7枚組』

『戦記映画復刻版 国策映画選集 DVD4枚組 支那事変海軍作戦記録 富士に誓ふ 少年戦車兵訓練の記録 帝国海軍勝利の記録 海軍戦記』

『小間使の日記』

『機械人間 感覚の喪失』

『ボリス・カーロフ のスリラー 恐怖の館 10話収録』

『ジェス・フランコ 凌辱エロスコレクション(ヘア無修正版)』

『抱きしめたい -真実の物語- メモリアル・エディション』 [Blu-ray]

Riot in Cell Block 11 (Criterion Collection)』

『巨匠たちのハリウッド 生誕百周年記念 マックス・オフュルス傑作選DVD-BOX2』『ディヴィーヌ』『ヨシワラ』『 明日はない』

『エレニの帰郷』 [Blu-ray]

『聖なる酔っぱらいの伝説』 Blu-ray

『フェイズ IV/戦慄! 昆虫パニック』 [DVD]

『ウォールフラワー [Blu-ray]

『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』 Blu-ray

『パッション』 Blu-ray

『ラッシュ/プライドと友情』 [Blu-ray]

『わたしはロランス(特典DVD1枚付き2枚組) 』

(『映画「立候補」』

『風立ちぬ』 [DVD]

『風立ちぬ』 [Blu-ray]

『もらとりあむタマ子』【Blu-ray DISC】

『悲情城市』

マイケル・カーティス『コマンチェロ』 [Blu-ray]

『ベイジル・ラズボーン版シャーロック・ホームズ 緋色の爪』

ジェフ・ニコルズ『MUD -マッド』

イグナシオ・アグエロ『100人の子供たちが列車を待っている』

アンジェイ・ワイダ『戦いのあとの風景』『約束の土地』Blu-ray

トーマス・イムバッハ 『終わりゆく一日』

ローラン・カンテ『フォックスファイア 不良少女の告白』 Blu-ray

増村保造『積木の箱』『妻二人』『女の小箱より「夫が見た」』

森崎東『あの頃映画 松竹DVDコレクション ラブ・レター』

中村登『あの頃映画 松竹DVDコレクション 夜の片鱗』

神代辰巳『離婚しない女』

土本典昭『海盗り -下北半島・浜関根』

『インタビュー 1996年7月14日記録映画作家土本典昭』

白石和彌『凶悪』 [Blu-ray]

『この空の花 -長岡花火物語』 (BD通常版) [Blu-ray]、『この空の花 -長岡花火物語』(DVDプレミアBOX版)

宮崎駿『風立ちぬ』 [Blu-ray]

ロイ・ウィリアム・ニール『緋色の爪』

マーティン・スコセッシ『キング・オブ・コメディ 製作30周年記念版』 [Blu-ray]

モンテ・ヘルマン『ヘルブレイン/血塗られた頭脳』 [DVD]

『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ DVD-BOX Vol.8』

大林宣彦『この空の花 -長岡花火物語』 (DVDプレミアBOX版)

ルチオ・フルチ『ビヨンド HDニューマスター <コレクターズ・エディション> 』 [Blu-ray]

『アン・リー"父親三部作"』 [Blu-ray]

アラン・ロブ=グリエ『不滅の女』 [Blu-ray]

モーリス・ピアラ『愛の記念に』 Blu-ray、『ヴァン・ゴッホ』 Blu-ray、『悪魔の陽の下に』 Blu-ray、 『ソフィー・マルソーの刑事物語』 Blu-ray

『ジョン・カサヴェテス Blu-ray BOX (初回限定版) 』

フリッツ・ラング『怪人マブゼ博士(原題:マブゼ博士の千の眼) 』[DVD]

アキ・カウリスマキ、ビクトル・エリセ、マノエル・デ・オリヴェイラ『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』

ジョナス・メカス『ウォールデン』 [DVD]

ロバート・アルドリッチ『ヴェラクルス』 [Blu-ray]

ジョセフ・L・マンキーウィッツ『イヴの総て』 [Blu-ray] 、『幽霊と未亡人』 [Blu-ray]

チャールズ・ヴィダー『ギルダ』 [Blu-ray]

ヘンリー・キング『地獄への道』 [Blu-ray]

オットー・プレミンジャー『カルメン』 [Blu-ray]

ラオール・ウォルシュ『世界の戦争映画名作シリーズ 北部への追撃』、ジャック・ターナー『世界の戦争映画名作シリーズ 炎のロシア戦線』

『ジム・ジャームッシュ 初期3部作』 Blu-ray BOX(初回限定生産)(Blu-ray Disc)

ホン・サンス『3人のアンヌ』 [DVD]

ワン・ビン『三姉妹 ~雲南の子』[DVD]

松本俊夫『修羅 HDニューマスター版』 [Blu-ray] 、『薔薇の葬列 HDニューマスター版』 [Blu-ray]

『セブンスコード 劇場公開記念特別盤(多売特典付き:生写真予定)』 [CD+DVD, Limited Edition]

森崎東『ペコロスの母に会いに行く』

熊切和嘉『夏の終り』 [Blu-ray]

青山真治『共喰い』 [Blu-ray]

『巨匠たちのハリウッド エドガー・G・ウルマー傑作選 DVD-BOX』

『恐怖のまわり道』

『レフ・クレショフDVD-BOX』

『キートス!! カウリスマキ Blu-ray BOX』 【Part 1】『キートス!! カウリスマキ Blu-ray BOX』 【Part 2】

『ホーリー・モーターズ 【リムジン・エディション】』(Blu-ray Disc)

『サラゴサの写本』 Blu-ray、『愛される方法』 Blu-ray

『ゴダールの決別』

『ビッグ・アメリカン ≪完全版≫』

『草原の追跡』

『吹き荒ぶ風』

『クロニクル』

『ゼロ・シティ HDマスター』

『エドガー・G・ウルマー DVD-BOX』

『巨匠たちのハリウッド アンソニー・マン傑作選 高い標的』

大島渚『KYOTO, MY MOTHER'S PLACE キョート・マイ・マザーズ・プレイス』

ジャック・ターナー『草原の追跡』

ラオール・ウォルシュ『高原児』

ウィリアム・ワイラー『砂漠の生霊』

レオス・カラックス『ホーリー・モーターズ 【リムジン・エディション】』 (Blu-ray Disc)

ロバート・アルトマン『ビッグ・アメリカン』[DVD]

マキノ正博『弥次喜多道中記』『野戦軍楽隊』『不沈艦撃沈』『忠臣蔵「天の巻」「地の巻」(総集編) 』

『フィルム・ノワール ベスト・コレクション DVD-BOX Vol.3』

マイケル・カーティス『トゥルー・クライム殺人事件』、フィル・カールソン『スキャンダル・シート』、ルドルフ・マテ『武装市街』、ロバート・ワイズ『捕われの町』、、ジョン・ファロー『替え玉殺人事件』、エドワード・ドミトリク『影を追う男』、アンソニー・マン『国境事件』『窓』

『アンソニー・マン傑作選 夜のストレンジャー』 『アンソニー・マン傑作選 必死の逃避行』

『ハリウッド西部劇映画 傑作シリーズ DVD-BOX Vol.7』

『素晴らしき哉、人生!』 Blu-ray

『もどり川』

『炎628』

『鏡』 Blu-ray、『鏡』DVD HDマスター、『僕の村は戦場だった』 Blu-ray、『僕の村は戦場だった』 DVD HDマスター、『アンドレイ・ルブリョフ』 Blu-ray、『アンドレイ・ルブリョフ』 DVD HDマスター

『夜までドライブ』 [DVD]

『轟く天地 - The Thundering Herd -』

『われら生きるもの』

『鬼才ピエル・パオロ・パゾリーニ 3枚セットDVD ~生誕90年特別限定セット~』

『ハリウッド西部劇映画 傑作シリーズ DVD-BOX Vol.6』

『最後の酋長』 [DVD]

『幻の湖』 【期間限定プライス版】 [DVD]

『奪命金 ≪特別版≫』

『スプリング・ブレイカーズ』 [Blu-ray]

『ラストスタンド Premium-Edition』[Blu-ray]

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『沈黙の声』 Blu-ray

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ホセ・ルイス・ゲリン『Guest』

シャルナス・バルタス『Indigène d'Eurasie』

『L'intégrale Pierre Etaix』

F.J. Ossang『Coffret ossang』

マックス・オフュルス『De Mayerling à Sarajevo』『Sans lendemain』

ジャン=ピエール・メルヴィル『Quand tu liras cette lettre』

サッシャ・ギトリ『Aux deux colombes』

ジャック・ベッケル『Antoine et Antoinette』(『幸福の設計』)、『Falbalas』(『偽れる装い』)、『Rue de l'Estrapade』(『エストラパード街』)

ジャック・リヴェット『La religieuse - Suzanne Simonin, La religieuse de Diderot』『修道女』

オーソン・ウェルズ『Une histoire immortelle』『不死の物語』

アベル・ガンス『Tour De Nesle』(『悪の塔』)

『レンブラント 描かれた人生』『ヘンリー八世の私生活』

『小津安二郎名作映画集10+10 1 東京物語+落第はしたけれど』

『青ひげ』

『不安は魂を食いつくす』

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『アリア HDマスター版』

『天使の入江』

『ジャック・ドゥミ短編傑作選』

『アンジェイ・ワイダ DVD-BOX II』

『恐るべき親たち』

『夢の中の恐怖』

『ジキル博士とハイド嬢』

『伝説の映画監督 ハワード・ホークス傑作選 DVD-BOX2』

『永遠の戦場』『無限の青空』『バーバリー・コースト』

『激怒』

『吸血鬼 ボローニャ復元版』

『伝説の映画監督 ハワード・ホークス傑作選 DVD-BOX1』『特急二十世紀』『今日限りの命』『エア・フォース』

『不滅の映画監督 ジョン・フォード傑作選 DVD-BOX3』

『四人の息子』『三悪人』

『吸血鬼ノスフェラトゥ 《IVC BEST SELECTION》』

『絞死刑』

『四季を売る男』『聖なるパン助に注意』

『沈黙の女 ロウフィールド館の惨劇』『主婦マリーがしたこと』

『影なき淫獣 完全版 -デジタル・リマスター版-』

『怪談 お岩の亡霊』

『徳川女刑罰史』『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』『徳川女系図』

『エロ将軍と二十一人の愛妾』『徳川セックス禁止令 色情大名』

『ドリアン・グレイの肖像』

『青ひげ』

『ソフィアの夜明け』

『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』

『勝手にしやがれ』

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『マダムと泥棒』

『野獣狩り』

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『魚が出てきた日』

『二つの世界の男』

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『緋ぢりめん博徒』『ならず者』『現代任侠史』

『剣と十字架』

『トロッコ』

『スプリング・フィーバー』

『カール・Th・ドライヤー コレクション 短編集』

『メロドラマの巨匠 ダグラス・サーク傑作選 DVD-BOX』

『ダグラス・サーク傑作選 わたしの願い』『ダグラス・サーク傑作選 ぼくの彼女はどこ?』『ダグラス・サーク傑作選 南の誘惑』

『地獄と高潮』

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『周遊する蒸気船』『プリースト判事』『俺は善人だ』

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『カラヴァッジオ』

『彼女が消えた浜辺』

『ゾンビランド』

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『ゲゲゲの女房』

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『キック・アス』

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『マンハント』(ジュネス企画版)

『ヴァジニアの血闘』『コマンチェロ』

『晴れた日に永遠が見える』

『アメリカン・ジゴロ』

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『北朝鮮映画の全貌 ホン・ギルトン』『北朝鮮映画の全貌 花を売る乙女』

『桃太郎侍』『婦系図』『編笠権八』『忠直卿行状記』『昨日消えた男』

『牛の鈴音』

『RKO ホラーへの誘い』『黒沢 清監督 推薦 恐怖の精神病院』

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『豹(ジャガー)は走った』

『倫敦(ロンドン)から来た男』

『アニエスの浜辺』

『抱擁のかけら』

『2H』

『拳銃の報酬』

『悪徳』

『暴力行為』

『パリ・オペラ座のすべて』

『カティンの森』

『36時間 ノルマンディ緊急指令』

『夜の人々』

『春の序曲』

『ポー川のひかり』

『アンナと過ごした4日間』

『カール・Th・ドライヤー コレクション 奇跡 (御言葉) 』

『フランスの巨匠 ジャン・ルノワール DVD-BOX リクエスト復刻箱』

『イングロリアス・バスターズ』

『誇り高き男』

『 <岡本喜八監督作品> どぶ鼠作戦』

『クリーン』

『スリ』

『ヴィターリー・カネフスキー DVD-BOX』

『襲われた幌馬車』

『血を吸うカメラ 【ベスト・ライブラリー 1500円:ホラー特集】』

『スペル コレクターズ・エディション』

『溶岩の家』

『玉割り人ゆき 西の廓夕月楼』『玉割り人ゆき』

『バッタ君 町に行く』

『たぶん悪魔が』『湖のランスロ』『バルタザールどこへ行く』『少女ムシェット』

『ラ・ジュテ -HDニューマスター版-』

『血』

『忘れられた人々』

『アレクサンドル・ソクーロフ DVD-BOX 3』

『ジャックポット』

『チャップリン メモリアル・エディション DVD-BOX IV』

『四川のうた』

『マダムと女房/春琴抄 お琴と佐助』

『阿賀の記憶』『阿賀に生きる』

『イタリアの巨匠 ロッセリーニDVD-BOX リクエスト復刻箱"ボックス"』

『ロシア革命アニメーション コンプリートDVD-BOX』

『DVDBOXノーマン・マクラレン マスターズ・エディション』

『カール・Th・ドライヤー コレクション ゲアトルーズ 』

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『カラスの飼育 HDニューマスター』

『殺人幻想曲』

『戦慄の七日間』

『逃亡地帯』

『乱暴者』

『クィーン・ケリー クリティカル・エディション 』

『意志の勝利』

『決斗!一対三』

『青い戦慄』

『十字路』

『SELF AND OTHERS』

『追臆のダンス』

『解散式』『暴走パニック 大激突』

『のんき大将』『アルチバルド・デ・ラクルスの犯罪的人生』

『万華鏡(英語字幕版)』

『ミネソタ大強盗団』

『夏時間の庭』

『ジョン・カサヴェテス 生誕80周年記念DVD-BOX HDリマスター版』

『ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー BOX 5 (シナのルーレット/ペトラ・フォン・カントの苦い涙/悪魔のやから)』

『陰獣』

『ざくろの色 プレミアム・エディション 「ざくろの色」デジタルリマスター版+「パラジャーノフ・コード」』

『愚かなる妻 クリティカル・エディション』

『につつまれて/きゃからばあ』

『ジャン・ルノワールの小劇場 』『恋多き女』『ラ・マルセイエーズ』『素晴らしき放浪者』『牝犬』

『ロビンソン漂流記』『それを暁と呼ぶ』

『果てなき船路』

『ロルナの祈り』

『アストレとセラドン 我が至上の愛』

『踊る海賊』

『月蒼くして』

『攻撃』

『THE LAST SUNSET』

『王国の鍵』

『豚小屋』『アポロンの地獄』『大きな鳥と小さな鳥』『愛の集会』『奇跡の丘』『アッカートネ』

『砂漠のシモン』『哀しみのトリスターナ』『ブルジョワジーの秘かな愉しみ(1972) 』『小間使の日記』

『牝犬』『黄金の馬車』『恋多き女』

『ざくろの色 プレミアム・エディション 「ざくろの色」デジタルリマスター版+「パラジャーノフ・コード」』

『坊やに下剤を』『のらくら兵』『草の上の昼食』『素晴らしき放浪者』

『ナサリン』『河と死』

『日曜はダメよ』

『攻撃』

『狩人の夜』

『黒い眼のオペラ』

『チェンジリング』

『大島渚 4 - 愛のコリーダ/愛の亡霊/マックス、モン・アムール』

『ジャック・ドゥミ初期作品集DVD-BOX』

『砂丘 (初回限定版)』

『去年マリエンバートで HDニューマスター版 [DVD]』

『王女テラの棺』

『白い肌の異常な夜 コレクターズ・エディション』

『ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー DVD-BOX 4』

『アシャンティ』

『アリババと四十人の盗賊』

『幻影は市電に乗って旅をする』

『女優ナナ』『カトリーヌ』

『踊る海賊』

『大疑問 <全長版> 』

『不思議の国のアリス 1903-1915』

『馬上の男』『叛逆の用心棒』

『恐怖城 ホワイト・ゾンビ』

『ジャーマン+雨』

『ロシュフォールの恋人たち デジタルリマスター版(2枚組)』『モン・パリ』『シェルブールの雨傘 デジタルリマスター版(2枚組)』

『ドヌーヴ×ドゥミ×ルグラン コンプリートDVD-BOX(7枚組)』

『NIKKATSU COLLECTION 天使のはらわた 赤い眩暈』『NIKKATSU COLLECTION 神々の深き欲望』『NIKKATSU COLLECTION にっぽん昆虫記』『NIKKATSU COLLECTION 炎の肖像』『NIKKATSU COLLECTION 蕾のルチア』『NIKKATSU COLLECTION リボルバー』

『愛のそよ風』

『白い肌の異常な夜』

『ジキル博士とハイド嬢』

『コロッサル・ユース』

『ギャング対Gメン』『仁義の墓場』『県警対組織暴力』『現代やくざ 人斬り与太』

『ギャング対ギャング』

『やくざ戦争 日本の首領〈ドン〉』

『喜劇 急行列車』

『奇跡の丘』『アッカートネ』『愛の集会』

『歩兵の前進』

『糧なき土地-ラス・ウルデス』『ビリディアナ』

『裁きは終わりぬ』

『港のマリー』

『偽れる装い』

『オルフェの遺言-私に何故と問い給うな-』

『密告』

『 <エンタメ・プライス> ショック集団』

『 <エンタメ・プライス> イメージズ 』

『砂丘の敵』

『激戦地』『北極星』

『TOKYO!』

『この自由な世界で』

『原始惑星への旅 新訳版』

『驚異の透明人間』

『白衣の男』

『ピーター・セラーズの労働組合宣言!!』

『夢の中の恐怖』

『賭博師ボブ』

『天使』

『間諜X27』

『人生模様』

『唇からナイフ』

『皆殺しの天使』

『おくりびと』

『横浜に現れた!鞍馬天狗』

『夜歩く男』

『映画創世期短編集/ジョルジュ・メリエスの月世界旅行 他三編 』

『惑星Xから来た男 』

『ティム・バートンのアラジンと魔法のランプ』

『デイヴィッド・リンチ・ワールド DVD-BOX【期間限定生産】』

『源氏九郎颯爽記 白狐二刀流』

『山中傳奇』

『果てしなき蒼空』

『世界を彼の腕に』

『真珠の首飾り』

『悪の花園』

『接吻 デラックス版 』

『リダクテッド 真実の価値』

『R246 STORY 浅野忠信監督作品 224466』

『ランジェ公爵夫人』

『東京暗黒街・竹の家』

『二重結婚者』

『赤軍‐PFLP 世界戦争宣言』

『抵抗-死刑囚は逃げた』

『フランソワ・トリュフォーDVD-BOX「14の恋の物語」[I]』『フランソワ・トリュフォーDVD-BOX「14の恋の物語」[II]』『フランソワ・トリュフォーDVD-BOX「14の恋の物語」[III]』

『コッポラの胡蝶の夢 スペシャル・エディション(2枚組) 』

『女鹿』

『イントレランス(淀川長治解説映像付)』

『さすらいの二人』

『白と黒のナイフ』

『ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー DVD-BOX 3』

『ダーティ・メリー クレイジー・ラリー』

『赤い影』

『アキレスと亀』

『野獣刑事』

『アメリカ』

『猫とカナリヤ』

『国際諜報局 プレミアム・エディション』

『江戸川乱歩の陰獣』

『浪人街』

『王になろうとした男』

『シチリア! コレクターズ エディション』

『クロード・シャブロル コレクション 不貞の女』

『イントレランス クリティカル・エディション』

『映画作家ストローブ=ユイレ あなたの微笑みはどこに隠れたの?』

『黄色いロールスロイス』

『前田陽一監督作品 SELECTION(3枚組)』

『原子人間』

『ビクトル・エリセ DVD-BOX』

『明治一代女』

『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』

『マニアック・コップ』

『女ともだち』

『生き残るヤツ』

『ズール戦争』

『ルイス・ブニュエル DVD-BOX 6』

『國民の創生 グリフィス短編集 クリティカル・エディション』

『レ・ヴァンピール-吸血ギャング団- BOX クリティカル・エディション』

『密告』

『ふたり』

『ザ・デッド ダブリン市民より』

『國民の創生』『嵐の孤児(全長版)』

『地球最後の女 アイ・アム・ウーマン・オブ・レジェンド』

『和解せず/マホルカ=ムフ』

『夜顔』

『パラノイドパーク』

『Pieces of TOKYO!~映画「TOKYO!」サブテキスト』DVD

『ソール・バスの世界』

『地球爆破作戦』

『月世界征服』

『戦場よ永遠に』

『スイス・コネクション 狙われたブラック・マネー』

『シヴィリゼーション 小津安二郎の愛した映画』

『すべての些細な事柄』『動物、動物たち』

『ミニー&モスコウィッツ』

『サラトガ本線』

『私はゾンビと歩いた!』

『殺人容疑者』

『愛欲の罠』

『陽気な中尉さん』『ラヴ・パレード』

『夕なぎ』『秘密の儀式』

『大追跡』

『レディアサシン』

『巴里祭』『ル・ミリオン』

『コーエン・ブラザーズ コレクショ

『火の馬 プレミアム・エディション デジタル・リマスター版』

『ジェリー・ルイス キング・オブ・コメディBOX』

『地獄の警備員』

『曽根崎心中 【初DVD化】』

『ニコラ・フィリベール レトロスペクティヴ DVD-BOX』 『かつて、ノルマンディーで』

『マーゴット・ウェディング』

『潜水服は蝶の夢を見る 特別版【初回限定生産】』

『ミリキタニの猫』

『ノーカントリー スペシャル・コレクターズ・エディション』

『石の微笑』

『闇の曲がり角』

『深夜復讐便』

『情無用の街』

『雷鳴の湾』

『顔のない殺人鬼』『幽霊屋敷の蛇淫』

『ルイス・ブニュエル DVD-BOX 5』

『恥 (特別編)』 『狼の時刻 (特別編)』

『隣りの八重ちゃん』

『清水宏監督作品 第二集~子どもの四季~』

『それぞれのシネマ ~カンヌ国際映画祭60回記念製作映画~』

『山の焚火』

『ロベール・ブレッソン DVD-BOX 2』

『8 1/2 愛蔵版』

『佐藤真監督作品BOX』

『「ヒドゥン」&「ヒドゥン2」ツインパック』

『リオ・ブラボー』

『カメレオンマン』

『フリッツ・ラング コレクション ハウス・バイ・ザ・リバー』

『ジャン=リュック・ゴダール フィルム・コレクション』

『忘れられた人々』

『有りがたうさん』按摩と女』『簪(かんざし)』『小原庄助さん』

『河瀬直美ドキュメンタリーDVD-BOX』

『影なき殺人』

『長江哀歌』

『水没の前に』

『F・W・ムルナウ コレクション タブウ クリティカル・エディション』

『忘れられた人々』『乱暴者』『愛なき女』

『マラノーチェ』

『死神の谷』

『HAXAN 魔女』

『X線の目を持つ男』『蜂女の恐怖』

『グラインドハウス コンプリートBOX 【初回限定生産】』

『石井隆監督3作品+特典BOXケース』

『清水宏監督作品 第一集 ~山あいの風景~』

『石井輝男 地帯 (ライン)シリーズ コンプリートボックス』

『殯の森』

『ペドロ・コスタ DVD-BOX』

『ストローブ=ユイレ コレクション アンティゴネー (ソポクレースの《アンティゴネー》のヘルダリーン訳のブレヒトによる改訂版(1948年))』

『カインド・ハート』

『ブルー・ガーディニア』

『ヴェロニカ・フォスのあこがれ』

『とらんぷ譚』

『三文オペラ』

『恋人たちの時刻』

『魚影の群れ』

『ヒポクラテスたち』

『不死身の保安官』

『青山真治 TRILOGY BOX [初回限定生産]』

『日活名作ロマンシリーズDVD-BOX 女優選集 Vol.1』

『恋山彦』

『要塞警察 デラックス版』

『続 地獄の天使』

『嵐の青春』

『聖バレンタインの虐殺/マシンガン・シティ』

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2016年7月10日
リチャード・クワイン『媚薬』『求婚専科』

リチャード・クワインのことなどいまさら話題にしてもさして興味を引かないだろうことはわかっている。たしかに偉大な監督とはいえないだろう。つまらない作品もたくさん撮っている。しかしわたしはかれが撮った何本かの作品が本当に好きなのだ。とりわけ『殺人者はバッヂをつけていた』『媚薬』『逢う時はいつも他人』、それに『悪名高き女』といった作品が。

「偉大な映画作家たちのひそかな核心を分析するあまり――その分析はたいていの場合成功しているのだが――、魅力、感受性、繊細さといった〈マイナーな〉資質がまったく無視されるようになってしまった。ラングやプレミンジャーやミネリにおいて、そうしたマイナーな資質が仕方なく認められることはある(そうした資質はかれらにおいては超越されているからだ。だれもいまさらミネリを、バレエの演出のことで褒めはしない)。だが、それらが演出全体の最終目的となってしまっている映画監督たちにおいては、そうした資質は軽蔑されるのである。名前を挙げるなら、チャールズ・ウォルターズ、ジョージ・シドニー、とりわけリチャード・クワインといった監督たちだ。なかでもクワインの『媚薬』と『逢う時はいつも他人』は、繊細さ、優雅さ、上品さの驚くべき結晶である」

「カイエ・デュ・シネマ」1962年8月号に掲載された「リチャード・クワインを導入=紹介する」という、クワインのインタビュー記事のなかでベルトラン・タヴェルニエは上のように書いている。たしかに、ウォルターズ、シドニー、クワインといった監督たちは、「作家」と呼ぶには弱々しく思え、「カイエ」の作家主義とはあまりなじまなかったものたちだったと言えるだろう。

こういうインタビューが行われていたわけだから、リチャード・クワインは「カイエ」で決して無視されていたわけではない。ゴダールは1956年のベストテンの10位に『マイ・シスター・アイリーン』を選んでいるし((ちなみに、この年のゴダールのベストテンは、1.『アーカディン氏』 2.『恋多き女』 3.『知りすぎていた男』 4.『バス停留所』 5.『悪の対決』(アラン・ドワン) 6.『アナタハン』 7.『抵抗』 8.『不安』(ロッセリーニ) 9.『ボワニー分岐点』 10.『マイ・シスター・アイリーン』))、セルジュ・ダネーも『求婚専科』についてのレビューを書いたりしている。しかし、クワインが「作家」として認識されていたかどうかと言うと、それは非常に疑わしく思える。2000年代になっても、『媚薬』がリヴァイヴァルされたり、『逢う時はいつも他人』が DVD 化されたりした際にクワインが「カイエ」で取り上げられたことが、わたしが記憶しているだけでも数回あった((実を言うと、わたしがクワインという監督に初めて興味を持ったのは、ステファン・ドロルムが『逢う時はいつも他人』について分析した文章、というよりも、それに付されていたこの映画のワン・シーンから取り出された連続写真を見たときだった。まるでダグラス・サークの映画のような影の濃いカラー画面にとても興味を引かれたのだった。))。しかし、やはり再評価と呼ぶにはまだ程遠い段階であるというのが、今のリチャード・クワインの現状であろう。

 

■ 『媚薬』(Bell, Book, and Candle, 58)★★★

「―今までなにをやって来たんだい? まさか非米活動かなんかに関わってたんじゃないだろうね?
―いいえ、わたしは生粋のアメリカ人よ。大昔からいるアメリカ人」

「あなたはわたしに素敵なものをくれたの。わたしを不幸にしてくれたのよ」

 

まだまだ重要な作品を見逃しているのだが(とりわけ『マイ・シスター・アイリーン』『スージー・ウォンの世界』『ホテル』。特に『ホテル』)、わたしが見たなかでは、『媚薬』は、『殺人者はバッヂをつけていた』『逢う時はいつも他人』などと並ぶクワインの最高傑作といってよいだろう。

雪のちらつくニューヨーク。通りに面した怪しげなアンチーク・ショップのショーウィンドーがまず映し出される。場面が店内にかわり、棚や壁一面に並べられたアフリカのものらしき不気味な仮面や木彫りの彫刻をキャメラがなめるように画面に収めてゆく。ただのレプリカだとは思うのだが、どう見ても本物にしか見えない。昔の大映映画などを見ていても思うのだが、美術の小道具が、小道具とは思えない存在感を持ってそこにあるという感覚。こういう感覚は、最近の映画を見ていて抱くことはほとんどなくなってしまった。このアンチーク・ショップのオーナー(実は魔女)を演じる主役のキム・ノヴァクさえまだ登場しないこの出だしの数ショットを見た瞬間から、わたしはこの映画にすでに魅せられはじめている。

恋をすると魔力を失ってしまう都会の魔女(キム・ノヴァク)が、同じマンションに住む男(ジェームス・スチュワート)に恋をしてしまう……。ルネ・クレールの『奥様は魔女』を思い出させもする陳腐な物語ではある。しかしクワインが見せる上品で繊細な演出、ジェームス・ワン・ハウがこの上なく美しいカラーで捉えてみせる雪の舞うニューヨークの街路、ワイルダー作品に比べればずいぶんと抑えた演技をしていて好感の持てるジャック・レモン、そして何よりも、美しさと怪しさの化身のように現れるキム・ノヴァクの、力強くもありまた弱々しくもある可憐な姿を見れば、だれがこの映画を嫌いになれるだろうか。

ヒッチコックの『めまい』と同じ年に、同じノヴァクとスチュワートを主演にして撮られたこの映画を、ベルナール・エイゼンシッツは「『めまい』のオプティミスティックなヴァージョン」と評していた((出典は不明だが、ジョナサン・ローゼンバウムの『Goobye Cinema, Hello Cinephilia』所収のキム・ノヴァク論にそう書かれている。))。一人二役を演じるキム・ノヴァクに『めまい』のスチュワートが魅惑されると同時に引き裂かれるように、『媚薬』のスチュワートもまた、魔女としてのノヴァクと女としてのノヴァクという彼女の持つ二面性に翻弄される。

この映画には『めまい』のような螺旋階段も出てこないし、むろんキム・ノヴァクが高いところから落下する場面もないが、マジソン・スクエア・パークを遙かに見下ろす映像に画面オフから声が重なり、つづいてフラットアイアンビルディングの屋上でキスし合うノヴァクとスチュワートが現れ、やがてスチュワートがビルから投げ捨てた帽子が、ゆっくりゆっくりと落ちてゆき、雪に濡れた舗道に着地するまでを、キャメラがパンダウンして画面に収めるシーンが忘れがたい。

キム・ノヴァクが着る赤や全身黒の衣装も注目に値する。コスチューム担当は、ジャン・ルイ。『ギルダ』のあのエロティックな長い手袋をデザインした人物だ。

有名な話なので改めて書く必要もないと思うが、監督のクワインとキム・ノヴァクは当時恋人関係にあった。ふたりは『殺人者はバッヂをつけていた』『媚薬』『逢う時はいつも他人』と作品を連発するが、そのあとキム・ノヴァクが『黄金の腕』で共演したフランク・シナトラのもとに走ってしまう。破局した後で二人はもう一本『悪名高き女』という映画を撮るのだが、そのなかでクワインはノヴァクに、夫殺しのうわさのある女を演じさせるのだ!

 

■『求婚専科』(Sex and the Single Girl, 64) ★★

ゴシップ誌の独身記者(トニー・カーチス)がスクープ記事をものにするために、身分を偽り、患者として売れっ子の女精神科医(ナタリー・ウッド)に近づく。記者は、うまく患者のふりをするために友人夫婦(ヘンリー・フォンダとローレン・バコール)の抱えている問題をまるで自分のことのように女医に話して聞かす。記者にすでに惹かれはじめていた女医は、かれが既婚者だと思い込んで悩む……。

原題はたしか原作通りだったと思うが(物語に登場する女医が書くベストセラーのタイトルも同じ)、扇情的なタイトルが想像させるようなきわどい部分はまったくない。 映画の前半は、ナタリー・ウッドやトニー・カーチスといった新世代の俳優たちによるアステア=ロジャース風のロマンチック・コメディ。嘘と誤解によって話がこじれてゆき、クライマックスは思いもかけない大カー・チェイスになる。関係者全員と、タクシー運転手や白バイ警官などが入り乱れ、乗り物を奪い奪われ、奪い返してのスラップスティックな大活劇は、なかなか面白いと言えば面白いし、古めかしいと言えば古めかしい。

こういうロマンチック・コメディはクワインが得意としたジャンルで、数多くの作品を撮っているが、わたしの印象では、こういう映画を撮っているときのクワインがいちばんつまらない。しかし、そのなかではこの『求婚専科』は最も成功した作品のひとつであるとは言えるだろう。

 

ほんとうは、『殺人者はバッヂをつけていた』『逢う時はいつも他人』『悪名高き女』についても書きたいところだが、いずれも見たのはだいぶ前なので、記憶があやふやな部分も多い。また見直したときに、改めてクワインについては論じたいと思う。

日本語でクワインについて書かれた文章はほとんど記憶にないが、『殺人者はバッヂをつけていた』については、山田宏一が『新編 美女と犯罪』所収の「キム・ノヴァクはバッヂをつけていた」という素晴らしい文章のなかでふれているので参照のこと。

2016年7月7日
アルトゥーロ・リプスタイン『純粋の城』

アルトゥーロ・リプスタイン『純粋の城』(El castillo de la pureza, 73) ★★

メキシコ映画史に残るカルト作品。

これはたぶん実話の映画化なんだろうなというのは、見ているときになんとなく感じてはいた。信じがたい事件を描いてはいるが、もし本当の話だとしても不思議ではない。はたして、やはり実話だった。

これもまた幽閉と狂気の物語である。 外の世界は薄汚れ、腐敗しており、悪に満ちていると考えた父親が、妻と子供たち(一人息子と、娘2人)を外の世界から遮断し、家のなかに閉じ込めて育てる決心をする。テレビやラジオはむろん、外に向かって開かれた窓さえ一つもないこの家のなかで、いわば純粋培養された子供たちは、悪を知らず、汚れない大人へと育つはずだ。父親のこの考えに妻は同意し、彼をサポートする。父親は子供たちに、道徳と教養を教え込み、言うことをきかないときは、地下にある檻の中に閉じ込めて折檻する。しかし、この「純粋の城」((映画の原題。オクタビオ・パスによるマルセル・デュシャン論のタイトル、『マルセル・デュシャン、あるいは純粋の城』から取られたという。))のなかで育った子供たちは、はたして彼が思っていたような無垢の存在に育ったのだろうか。そもそも、この父親そのものが悪だったのではないのか……。

映画が始まるのは、この驚くべき生活がすでに10数年つづいた頃あたりである。一家が住んでいたのが辺鄙な一軒家などではなく、いくつもの住居が並ぶ中心街の一角であったことに驚く。 カフカの『審判』に出てくる扉を思い出させる巨大な玄関扉を開いて入ると、そこは吹き抜けの広々とした中庭になっている。中庭の向こう、画面奥に、仕事部屋と居間が並んで見える。中庭を囲むように、二階にも部屋がいくつかあり、夫婦と子供たちがそこで寝起きしている。窓はどこにもなく、ここと外をつなぐ唯一の通路は玄関の扉だけである。この通路を通って外に出て行くことができるのは父親しかいない。外の世界を知らない子供たちはもちろん、父親と出会うまでは外で暮らしていた妻も、彼と結婚してからはこの家の外には一歩も出たことがない。

広い中庭には、冒頭からずっと、雨が降りしきっている(この雨は、現代にこの黒いノアの箱舟を出現させた大洪水だったのだろうか)。父親がいないとき、子供たちは濡れるのもかまわず雨の中で遊び回る。それが彼らの唯一のレクリエーションなのだ。そんなとき妻も、まるで子供に戻ったように彼らと一緒に遊び回る。しかしその光景は天上的なイメージ(例えばラングの『メトロポリス』に描かれていたような)とはほど遠い。負けた相手がなにかのポーズを取らされるという戯れに始まったゲームで、息子はいやがる母親に「死のポーズ」を強要する……。

いかにもメキシコらしいことだが、この映画には死が充満している。一家の暮らしを支えているのは、ネズミ駆除用の毒薬の売り上げであり、子供たちは毎日欠かさずその毒作りを手伝っている。まだ年端のいかぬ末の娘も、新しい毒の効き目を試すためにネズミに毒を与える実験を、平気な顔でやってのける。しかし、最近はもっと手軽なねずみ取りが市場に出回り始め、毒薬の得意先が減り始めてきたことに父親は危惧の念を抱く。

彼が築き上げたこの城に迫る脅威は、そんなふうに外側からやってくるだけではなかった。この城にはすでに内側からひび割れはじめていたのだ。自分は、外に出かけたときに、得意先の店の女を口説いたり(結局、相手にされないのだが)、時には娼婦を買ったりしているくせに、父親は、上の娘が知らず知らずのうちに男を惹きつける性的な魅力を現しはじめたことに、恐怖にも似た怒りを覚える。しかし、そういう話題にはなにも触れずに来たために、子供たちはセックスがなにかもあまりわかっていない。あるとき、息子と上の娘が中庭に置かれた車(一度も動いているのを見たことがない)のなかで互いの体をまさぐり合っているのを見て、ついに父親の狂気は歯止めが利かなくなる……。

幽閉と狂気。世界を脅かす存在=ネズミ。この映画には、ゴーパーラクリシュナンの『ねずみ取り』と不思議と似ている部分がたくさんある。この映画の父親も、自分こそが駆除されるべき存在であることに全く気づいていない。もしも、これが実話でなかったなら、彼はきっと己の作ったネズミ用の毒によって死んでいたのに違いないだろう。

この物語のなかに、父権的な独裁政治やマチスモ、あるいは狭量な思想や政治に対する批判を読み取ることはいくらでも可能であるにちがいない。しかしなにも語ろうとしないこの映画をあれこれ解説するのも野暮というものだろう。

アルトゥーロ・リプスタインは43年にメキシコに生まれ、未だに(?)メキシコで映画を撮り続けている。彼はブニュエル作品で助監督を務めるなどして映画の修行をしたことになっているが(日本版のウィキペディアの短い記述のなかにもそう書いてある)、実際には、ブニュエルのアシスタントをしたことはなかったようだ。ただ、ブニュエルとは友人として長い付き合いだったことは本当で、それが彼の映画作りに影響を与えたことは間違いないだろう。『純粋の城』に漂っているペシミズムには、ブニュエル作品の人を食ったユーモアや、トリュフォーいうところの「陽気さ」が欠けてはいるが、ブニュエルの精神はたしかに受け継がれているように思える。(ちなみに、この映画で父親を演じたクラウディオ・ブルックは、『若い娘』『砂漠のシモン』など、ブニュエル作品の常連だった俳優だ)

((ブニュエルの自伝『最後の吐息』には、72歳になったブニュエルが80過ぎのフリッツ・ラングの自宅に招かれ、長年敬愛してきたラングに初めてあった興奮から、生まれて初めて人にサイン入りの写真をねだるという行為に出たエピソードがユーモラスに語られている。その時貰った2枚の写真は「例によって」今はどこにあるのかわからないが、おそらくそのうちの1枚は「アルトゥーロ・リプスタインというメキシコ人の監督にあげたのではないかとぼんやり記憶している」と書かれている。))。

わたしが見たリプスタイン作品はまだ数えるほどしかない。もう少し作品を見たあとで、彼についてはまた改めて書きたいと思う。

2016年6月28日
『高慢と偏見とゾンビ』、『希望のかたわれ』

最近読んだエンタメ系の小説を2冊、簡単に紹介する。

 

■ジェーン・オースティン+セス・グレアム=スミス『高慢と偏見とゾンビ』

サマセット・モームが「世界の10大小説」の一つに選んだ文学の古典、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』に、ゾンビという要素を加えたらいったいどうなるか。そんな驚くべき、というか、馬鹿馬鹿しい発想から出発して書かれたのがこの小説だ。

6年ほど前に日本でも翻訳されてかなり話題になったようなのだが、わたしはついこの間初めてこんな小説があることに気づいた。気になってすぐに読んでみたのだが、これが意外にも面白い。一気に読み終えてしまった。

パロディといっても、この小説のなかには原作に登場しない人物は出てこないし、原作に登場するのにここに出てこない登場人物もいない(はず)。『高慢と偏見』の9割はそのままなのである。 オースティンの原作が書かれたのは、フランス革命、ナポレオンの登場、相次ぐ戦争に、ヨーロッパ全体が揺れ動き、イギリス国内では産業革命によって経済が大変革を遂げつつあった時代だった。しかし、そうした社会の動きなどまるで存在しないかのように『高慢と偏見』は書かれている。原作の舞台となるイギリスの田舎町ロンボーンには、軍隊が駐留していて、ベネット家(この小説の中心に描かれる地方地主の一家)の娘たちが軍人たちに夢中になるというエピソードに、戦争の影はかろうじて描かれているだけだ。『高慢と偏見とゾンビ』は、ここを巧みに、というか強引に利用して、この町に駐留している軍隊は、町にあふれるゾンビを駆逐するためにいるのだということにしてしまっている。

どこに出かけるにもいつゾンビが襲ってくるかわからないという状況のなか、ベネット家の娘たちはみなゾンビと戦うための武術を身につけていて、毎日のように訓練を続けている。いちばん笑ったのは、ダーシーの叔母で、娘をダーシーと結婚させようとしているキャサリン夫人が、ダーシーとの仲を疑ってあまり心よく思っていないエリザベスを、日本の忍者(!)と戦わせる場面だ。キャサリン夫人は、中国で学んだというエリザベスの武術などたいしたことはないと高をくくっているのだが、エリザベスは何人もの忍者を一瞬で殺してしまう。ほとんどマンガである。

しかし、不思議なのは、このようにめちゃくちゃな設定にもかかわらず、読後の印象が原作のそれとそれほどかけ離れたものではないということだ。「ゾンビ」という言葉の破壊力は凄くて、これを加えるだけで原作の世界などもろくも崩れ去ってしまいそうに思えるのだが、さにあらず、原作のエッセンスはそのまま傷つかずに残ってる。これはどう考えればいいのか。セス・グレアム=スミスによるマッシュアップが巧みだからか。それとも、オースティンの原作のフォーマットが揺るぎないということか。

それはともかく、この小説は、むろんオースティンの原作を知っている人が読めば、より一層楽しめると思うのだが、原作を読んでいない人が読んでもきっと面白いと思う。今いったように、原作のエッセンスはそのまま残っているので、2世紀も前に書かれた文学の古典など自分には縁遠いと思っている人には、この小説は、『高慢と偏見』という傑作に近づくための絶好の入門書になるに違いない。

ちなみに、この小説は映画化されて、今年公開された。最初はナタリー・ポートマン主演を予定されていたのだが、結局、別の女優がヒロインを演じることになった。

 

■メヒティルト ボルマン『希望のかたわれ』

ドイツの女性ミステリー作家メヒティルト・ボルマンが、福島の原発事故をきっかけに書き始めたという2014年刊行の最新作。非常に読み応えのある骨太のミステリーだ。

ドイツの田舎町。ほとんど裸同然で、靴も履かず、何者かに追われるように歩いていた若い女を、それまで一人静かに余生を送っていた初老の男が、自分の意に反して家に匿ってしまうところから物語は始まる。

ロシア、ドイツ、オランダと国境を越えて行われている女子学生人身売買。組織によって拉致された娘と、彼女を匿ってしまったドイツ人の老人、チェルノブイリの立ち入り禁止地区「ゾーン」に住む娘の母親、そしてこの事件を追う者たち。お話自体は特に目新しいものではない。しかし、時間軸と視点を変えながら、同じ事件が複数の切り口から平行して語られてゆくにつれて、事件の背景となっているロシアの闇が浮かび上がってくる。「大祖国戦争」とロシアでは呼ばれている第二次大戦中に起きた悲劇、スターリン時代の弾圧、そしてチェルノブイリの原発事故。全てがどこかで繋がっていて、「しあわせ」を「ふ・しあわせ」に変え、21世紀を生きる者たちの運命さえをも狂わせてしまう。

一つ印象的な場面がある。チェルノブイリ原発の事故の瞬間、遠くに煙が舞い上がるのを目撃した登場人物の一人が、あとでその時の印象を、ドイツ表現主義の画家フランツ・マルクが描いた「青い馬の塔」のイメージと重ね合わせるところだ。動物たちに純粋で無垢な存在を見てきたフランツ・マルクだが、彼の絵に描かれる動物たちには、たしかにそういった不気味さがないわけではない。同時に、わたしには、原発事故によって汚染され人の住まなくなった無人の荒野に動物たちが解き放たれたイメージが目の前に広がり、しばし考えさせられた。

こういう事故が起きると、おもに狂信的な外国人だが、「それは天罰だ」と無神経に声高に叫ぶ人間が必ず現れる。百歩譲ってそれが天罰だとして、では、同じく事故の犠牲となった動物たちはどんな罪を犯したというのか。キリスト教には動物の苦しみという視点が全く欠けている……。 むろん、そんな話はこの小説には出てこないのだが。

 

2016年6月1日
ジャック・ゴールド『恐怖の魔力/メドゥーサ・タッチ』

ジャック・ゴールド『恐怖の魔力/メドゥーサ・タッチ』(The Medusa Touch, 78)

サイコキネシス(作中では「テレキネシス」という言葉が使われている)をテーマにしたオカルト・ミステリー。日本では未公開だが、カルト的な人気があり、allcinema では 9.5 ポイントというハイスコアがついている。

舞台はロンドン。パイロットを乗せた宇宙船が事故によって帰還不能になるかもしれないことを伝えるテレビのニュース中継を、自宅の暗いリヴィングで見ていた小説家(リチャード・バートン)が、謎の訪問者によって撲殺されるところから映画は始まる。いったんは死んだと思われていた作家は、奇跡的に息を吹き返し、意識不明の状態でICUに運び込まれる。事件の捜査を担当するフランス人のベテラン刑事(リノ・ヴァンチュラ)は、小説家が念力で物を動かすせると信じていたらしいことを、彼を診ていた精神科医(リー・レミック)から聞き出す。しかも、その力は、人を殺すとか、物を壊すとか、破壊的なことにしか働かないらしい。刑事は、そんな話はばかばかしいと一笑に伏すが、捜査を進めるうちに、小説家は本当にそのような力を持っていたのかもしれないと考え始める。しかも、彼の念力は、意識不明で病院のベッドに横たわっている彼の脳髄から、今も破壊の力を及ぼさんとしているのだった……。

脳から発せられるエネルギーが外界に破壊的な力を及ぼすという点だけをとると、カート・シオドマク原作による『ドノヴァンの脳髄』を思い出させもする物語である。しかし、純然たるSFだったあちらと比べると、こちらはもっとずっとリアルな現実を背景に描かれているだけに、かえって現実感に欠けるところがあり、わたしのようにオカルト趣味があまりない人間には、ちょっと入り込みにくい作品になっているかもしれない。回想シーンでのリチャード・バートンの演技も(彼は映画開始早々に意識不明の寝たきり状態になってしまうので、まともに演技しているのは回想シーンの中だけなのだ)、鬼気迫る熱演というよりは、ちょっとオーヴァー・アクト気味に見え、これも作品に入り込む妨げになっている。

しかし、この映画は全体としてとても丁寧に作られている。リチャード・バートン演じる小説家の念力話は、最初、彼が精神科医に語った物語を、精神科医がリノ・ヴァンチュラに語り直すというかたちで伝えられる。超能力をとりあげたこの現実離れした話を、いわば物語のなかの物語のなかの物語として、最初は半ばフィクションとして提示しているのがこの映画の巧みなところで、それが、ミステリーの謎解きが進むにつれて徐々に現実味をましていき、気づけば、それはもうフィクションのなかではなく、現実の脅威としていま目の前で起きつつある。ここまで来ると、観客はもう、リノ・ヴァンチュラがこのフィクションを信じたように、この映画の物語を信じるようになっていて、念力によって飛行機が墜落しようが、大聖堂が崩落しようが、原子力発電所が爆発しようが、すべて受け入れる態勢になっている、というわけだ(冒頭のスペースシャトルの事故も、実は、バートンの念力によって引き起こされたのだった)。

ちなみに、作中に挿入される、サイコキネシスを実演するドキュメント・フィルムは、実在するフィルムをそのまま使ったものだと言う(もっとも、その一部は後でインチキだと判明した)。

制作者たちにはその意図はなかったろうが、旅客機がビルに突っ込むところは 9.11 のテロを思い出させずにはいない。キリスト教の象徴であるカテドラルや、原子力発電所がターゲットになるというのも、今見ると違った意味を持ってきそうだ。

日ごろ参考にしている映画ガイドに、「この映画の原作の作者は映画監督のグリーナウェイである」と書いてあったので、ホントかよと思ったのだが、調べてみたらやっぱり同名の別人だった。

大傑作だとは言わないが、SF・ホラーファンなら必見の映画だろう。幸い、日本でもブルーレイと DVD が出ている。

2016年5月25日
ジョン・H・バウア『眠りなき街』——都市の声、機械人形の涙

ジョン・H・バウア『眠りなき街』 (City That Never Sleeps, 53)

これまでも折にふれてフィルム・ノワールの変種をいろいろ紹介してきたが、この作品もまたフィルム・ノワール史上まれに見る風変わりな作品のひとつと言ってもいいかもしれない。

* * *

黄昏時のシカゴの高層ビル街をキャメラがゆっくりとパンしながら映し出してゆく。その画面にかぶさって聞こえてくる男性の声のナレーションに驚く。「わたしは都市、アメリカの中枢であり心臓だ……」。

驚くべきことに、この映画は人格化した都市の一人称の語りと共に始まるのである。死人や動物によるナレーションなら知っているが、都市によるナレーションというのは初めてだ。フィルム・ノワールにおいて都市が、たんなる背景としてだけではなく、時にはその主題=主体として、きわめて重要な役割を果たしてきたことは、様々に論じられてきた。ところが、この映画では、たんに比ゆとしてではなく、実際に都市が人格を与えられて声を持ってしまったのである。 短いイントロダクションを終えると、この都市の声は、物語の登場人物たちに主導権を譲り渡し、その後は聞こえなくなる。しかし実は、後でわかるのだが、この映画の仕掛けはそれだけでは終わらない。

時おりついてゆけなくなるほど複雑に入り組んだこの映画の物語を要約するのは大変だ。様々な人物が入り乱れるが、とりあえずの主人公は、ジョニー・ケリー(ギグ・ヤング)という警官である。彼は妻との結婚生活にも、日々の警察業務にも疲れ、その両方を捨てて愛人のダンサーとどこかに逃げたいと思っているが、結局、思い切って踏み出すことができないでいる。そんなとき、知り合いである悪徳検事から、都合よく利用してきた強請屋の男が最近目障りになってきたので、捕まえて国外に連れ出してくれと依頼される。しかし、この強請屋の男は、実は検事の妻と恋仲で、逆にふたりで検事を意のままに操ろうとたくらんでいた。さらに、ケリーの弟や、ダンサーに片思いしている客引きの男などが加わり、事態は複雑に絡み合ってゆく……。

この映画には実はもう一人、ジョン巡査部長と名乗る奇妙な人物が登場する。ケリーのパートナーが病気になり、その代わりとしてこの男がケリーのパトカーに同席することになるのだが、その登場の仕方が妙なのである。ふと気がつくとそこに立っている。まるで幽霊のようだ。この男はいったい何者なのだろう。彼は何らかの形で犯罪にかかわっているのだろうか。しかし、物語が進んでも、それらしきヒントは現れないし、そもそもこの男が本当に重要な人物なのかどうかさえも判然としない。彼はただケリーのそばに付き従い、ときおり傍観者として意見を述べるだけだ。

そしてすべてが終わったとき、男はまた忽然と姿を消す。最後に、冒頭の都市の声がまた聞こえてきて映画は終わるのだが、そのとき初めて気づくのである。この声の主は、ジョンと名乗っていたあの男の声と同じであると。彼はシカゴの化身だったわけである。

なんと意表をついた設定だろうか。しかし、このトリッキーな部分を別にすれば、この映画はとてもよくできたフィルム・ノワールであると言っていい。ここに描かれるのは、日没に始まり、夜明けに終わる、たった一夜の出来事である。パトカーに乗って街を巡回するケリーと共に、観客はこの街の夜にうごめく様々な人々を目撃する。ちゃちなカード詐欺師や、赤ちゃんの出産現場、そしてもちろん殺人も……。

ノワール的な人物にも事欠かない。検事は骨の髄まで腐りきっているし、彼とつながりのある警官ケリーも、根は善良ながら決してクリーンとはいえない。悪徳検事の妻役のマリー・ウィンザーは『現金に体を張れ』のときのようなビッチを演じて、やはり悲惨な最期を迎える。だれもが深い夜のなかで自分を見失って生きているようだ。ただ一人、ナイトクラブの客引き係だけは、ケリーの愛人である踊り子にひたむきな思いを寄せているが、彼もまた、顔に金粉を塗って、ショーウィンドーで機械仕掛けの人形として生きる毎日を続けている。

その機械人形の眼から大粒の涙がこぼれ落ち、それが殺人者に拳銃の引き金を引かせるきっかけとなる場面は、あざといながらもこの映画の最良の瞬間であった。

2016年5月16日
クリスチャン=ジャック『聖アジール学園消失事件』――戦争の不安を背景にしたミステリアスな子供映画の傑作

「フランス映画の墓堀人」と呼ばれた批評家時代のトリュフォーが「フランス映画のある種の傾向」と題された記事のなかでドラノワやオータン=ララといった巨匠たちを痛烈に批判し、結果的に、彼らを半ば葬り去ってしまったことはよく知られている(正確に言うと、そこでのターゲットは彼らと言うよりも、脚本を書いていたオーランシュ=ボストだったのだが)。これらの監督たちはかつて日本でももてはやされ、わたしが子供だった頃には、テレビで毎月のように彼らの映画が放映されていたものだ。しかし、それも昔のこと。今ではテレビで放映されることもほとんどないし、ソフト化されている作品もほんの一握りしかない。むろん、それはトリュフォーひとりのせいではないのだが、ヌーヴェル・ヴァーグの若き映画作家たちの登場によって彼らが突然時代遅れの存在となってしまったこと、そしてその最初の一撃が、トリュフォーのあの記事だったことは間違いないだろう。

もっとも、トリュフォーが記事のなかで批判した監督たちや、その中には名前こそ出てこないが、彼らと同じく戦前のフランスで活躍したデュヴィヴィエ、ルネ・クレールなどといった巨匠たちの作品は、たしかにヌーヴェル・ヴァーグの登場以後、いささか影が薄くなってしまったとはいえ、フランス本国において、大衆レベルではそれ以後もテレビやビデオを通してずっと見られ続けてきたのであり、決して忘れられていたわけではない。とりわけ、最近は、DVDやブルーレイといったメディアの登場にともなって彼らの作品は修復作業が進められ、装いも新たに観客の眼にふれる機会もふえ、批評的な再評価も高まりつつある。つい最近も、デュヴィヴィエの代表作が何本かリヴァイヴァルされ、話題になった。

この時代のフランス映画の再評価を行っている一人が、『ファム・ファム』などの作品で知られる映画作家ポール・ヴェキアリだ。彼は30年代のフランス映画を扱った著書『 L'Encinéclopédie: cinéastes « français » des années 1930 et leur œuvre』(2巻に分かれた百科辞書的な分厚い本)において、ヌーヴェル・ヴァーグ以後すっかり変わってしまった戦前のフランス映画観を覆すような再配置を試みている(「ジャン・ルノワールは30年代フランス映画におけるもっとも偉大な映画作家ではありません」などといった発言は、いささか物議をかもした)。

というわけで、トリュフォーらが性急に葬り去ってしまったフランス映画の遺産については再調査が必要だと前々から思っていたのだが、そろそろ本格的に始めていこうと思う。まず最初に取り上げるのは、クリスチャン=ジャックの最高傑作のひとつであり、また戦前のフランス映画屈指の名作と言われる作品、『聖アジール学園消失事件』である。

 

■ クリスチャン=ジャック『聖アジール学園消失事件』(Les disparus de St Agil, 38)

映画の舞台となるのはフランスの地方にある全寮制の男子校「サン・タジール」。都会と田舎という違いはあるが、『操行ゼロ』に出てくるような学校を思い浮かべればイメージに近いだろう。この学校の腕白3人組がとりあえずの主人公だ。3人は秘密結社を作っていて、その目的はアメリカに渡航するための準備をひそかに整えることだった((秘密結社といっても、メンバーは3人だけ。なぜアメリカに行きたいのかもよく分からない。そういえばフランスで撮られたラング版『リリオム』の主人公もたしかアメリカに憧れていた。この時代特有のなにかがあるのか。))。真夜中、みなが寝静まった後、自然科学の教室で彼らはミーティングを行っていたのだが、ある夜、3人のうちの一人が、教室の何もない壁から見知らぬ男が忽然と現れて消えるのを目撃する(こういうことが起きるのは、たいてい解剖模型が置いてある教室なんだよね)。しかし、翌日その話をしてもだれも信じてくれない。ところがその日、その少年が学校から跡形もなく姿を消してしまい、やがて二人目の少年まで失踪してしまうと、残された三人目の少年は、何かただならないことが学園内で起きているに違いないと、調査を始める。だれも信用できないので、たった一人で真相を突き止めようとする彼に、一人の教師が近づいてくる。彼は、教師たちの中でもひときわ不気味で、怪しい教師だった……。

ミステリーの筋立て自体は、おそらく観客の予想をそれほど覆すものではないだろう。しかし、ここでは謎解き自体はさして重要ではない。学園を舞台にしたミステリー(謎)は、何もかもが謎に満ちていた幼年時代の神秘を、観客のなかに呼び覚ます。 さらには、1938年というフランスに戦争の脅威が迫りつつあった時代にこの作品が撮られたという事実が、この映画に並々ならぬ緊張感を与えている。映画のなかでも、登場人物たちは迫り来る戦争に対する漠とした不安をひっきりなしに口にしていた(「戦争はおきるんですかね?」)。「スパイ」ということばもたびたび聞こえてくる。さらに事態を複雑にしているのが、教師たちのなかに一人だけドイツ系らしき人物が混じっていることだ。威圧的な外見とは裏腹に非常に繊細な一面をみせる一方で、カッとなると暴力的になってしまうというこの複雑な人物をエーリッヒ・フォン・シュトロハイムが演じている。そしてもう一人、ことあるごとに彼に絡んできて挑発する芸術家崩れのシニカルなフランス人教師が出てくるのだが、これを演じているのがミシェル・シモンだ。この二人の聖なる怪物の共演を見られるだけでもうれしい。

この映画にはさらにロベール・ル・ヴィギャンまでが出演している。戦前に活躍していたが、対独協力した罪で戦後になって逮捕され、投獄されることになったことでも有名な俳優だ。彼はセリーヌの小説の中にも登場する。ドイツ=オーストリア的なイメージを引きずっているシュトロハイムと、後の対独協力者ル・ヴィギャンがこのタイミングで居合わせているというのも、今にして思えばだが、この作品に予期せぬ意味作用をもたらしている。 まさにこの時代のこの時期に、この俳優たちが集まったからこそ撮られえた、そういう意味では二度とリメイクすることのできない作品と言っていいかもしれない。

2016年5月14日
スティーヴ・エリクソン『ゼロヴィル』――映画は世界の始まりから存在している

"I believe that cinema was here from the beginning of the world."

Josef von Sternberg

Everybody say, "Is he all right?"
And everybody say, "What's he like?"
Everybody say, "He sure look funny."
That's...Montgomery Clift, honey!

The Crash "The Right Pfofile"

 

 

スティーヴ・エリクソン『ゼロヴィル』

1969年の夏、フィラデルフィアからバスを乗り継いで、一人の若者がロサンゼルスに到着する。彼のスキンヘッドの頭には『陽のあたる場所』のモノゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラー(「映画史上もっとも美しい二人の人間――女は男の女性バージョンであり、男は女の男性バージョンである」)の刺青が彫られている。ヴィカー(c ではなく k の)と名乗るこの若者は、着いて早々に入った食堂で、モンゴメリー・クリフトとジェームス・ディーンの違いもわからないヒッピーにぶちキレて、トレーで頭を殴る。世界の映画首都にやってきたというのに、だれも映画のことを知らない。

その日、ヴィカーが最初に見る映画は、クレジットで「マドモワゼル・ファルコネッティ」とだけ記された若い女が、部屋を埋める修道士たちに尋問され、迫害される映画だ(タイトルは書かれていないが、言うまでもなく、カール・テオ・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』のことを指している)。ヴィカーがこの日つぎに見るのは、宇宙を高速で旅するトラヴェラーが、最後に白い部屋にたどり着き、そして胎児に、おそらくは神たるスターチャイルドになる映画である(これもタイトルは書かれていないが、あえて答えを書くまでもないだろう)。

ヴィカーは、ローズヴェルト・ホテルに向かい、かつてモンゴメリー・クリフトが住んでいた928号室を所望するが、部屋はあいにくふさがっている。モンゴメリー・クリフトのこともろくに知らないホテルの受付の男にヴィカーが、「モンゴメリー・クリフトの亡霊がこのホテルに住んでいるんだ」と言うと、男は、「それってD・Wの方だよ」と答える(「D・Wグリフィスか?」「そうそう、D・W・グリフィン」)。

『ゼロヴィル』はこんな風に始まる。 映画のこと以外は世の中のことをほとんど何も知らない(「映画オタク」((フランス語ではふつうに「映画作家」を意味する "cineaste" という言葉は、英語ではこの意味にもなるらしいので、気をつけたほうがいい。))というよりは「映画自閉症」の)若者ヴィカーは、様々な人たちとかかわりながら映画の世界に徐々に足を踏み入れて行き、60年代末から80年代にかけてのハリウッド――つまりは、スタジオ・システムが崩壊し、『イージー・ライダー』や『真夜中のカーボーイ』といった新時代の映画が台頭しはじめ、やがてルーカス、スピルバーグといった新たなスター監督が登場するまでの時代のハリウッド――を、独特の距離感をもって目撃する。

そのなかで彼が出会う人たちは、シネフィルの黒人押し込み強盗(「『捜索者』はさ、こりゃもう最高にやばい映画だね。[…]だけど『捜索者』は、ジェフリー・ハンターとヴェラ・マイルズが出てくるたびにだめになる。フォードはご婦人をぜんぜん監督できなかったのさ。そこはわれらがハワード・ホークスとはぜんぜん違う、ホークスのご婦人方はみんなイケてるし、おまけにタフときてる、まあたしかに全員同じメス狐の別バージョンっていうか、プレストン・スタージェスの『レディ・イヴ』でウィリアム・デマレストも言うがごとく『絶対同じ女だ!』)や、スペインで「ファシストの人殺しの総統」に対抗するために、半ば誘拐同然の形で連れてきたヴィカーに、わけのわからない映画を撮らせる〈ヴィリディアナの兵士たち〉なる組織のリーダーなどなど、どれも常識はずれのユニークなキャラクターばかりだ。

最初は、ハリウッドで美術の仕事をすることからはじめたヴィカーは、やがて編集を任されるようになり、ある作品で、その「連続性」(コンティニュイティ)を無視した斬新な編集が評価されてカンヌで受賞するまでにいたる。そして、これをきっかけに、ユイスマンスの『彼方』を映画にするという自らの企画を監督するチャンスが訪れる……。

しかし、こんな物語を語ったところで、何を伝えたことになるのだろう。この小説のほぼ全頁が映画の話で埋め尽くされており、作品のなかにはおびただしい数の映画のタイトルが登場する。それらのタイトルは、同時代を反映した作品である場合もあれば、まるで関係ない無声映画や戦前の作品であったりもする。その一方で、いくつものテーマが作品全体を通底するかたちで繰り返し現れ、それらが様々に反響しあう。

小説の冒頭で、ヴィカーがこの映画の首都に到着したちょうどその頃、マリリン・マンソンの「ファミリー」たちによってシャロン・テートが妊娠中の胎児と共に殺害されるという事件が起き(これも、小説の中では実名は出てこないが、アメリカ人ならだれでも知っている事件である)、ヴィカーは、その怪しげな風采からこの事件にかかわっている人間として逮捕されてしまう(すぐに疑いは晴れて釈放されるのだが)。 このエピソードは、同時代の事件を伝えるだけでなく、この小説の重要なテーマの一つを導入してもいる。ヴィカーは、この小説のなかで、「神が子供を殺す」という言葉を何度も繰り返す。彼が映画化しようと企てるユイスマンスの『彼方』も、冒頭の『裁かるゝジャンヌ』と結びつく一方で、ジル・ド・レーを通して子供殺しのテーマとも深くかかわっている。 ここには、宗教的に厳格だった父がヴィカーに語ったアブラハムとイサクの物語(神がアブラハムに、息子イサクを殺せと命じる話)が大きな影を落としている。この小説全体が、そんな父=神への反抗、挑戦の物語であるともいえる(「神が子供たちを殺すのではなく神自身が子供である場」。スターチャイルド?)。それが奇妙なかたちで映画と結びついているのが、この小説のユニークなところだ((このアブラハムの物語はニコラス・レイの『ビッガー・ザン・ライフ』でも、驚くべきかたちで使われているのだが、エリクソンは、『理由なき反抗』や『孤独な場所で』のことは話題にしておきながら、奇妙なことにこの映画についてはまったく言及していない。)))。

ヴィカーはもともと建築を学んでいた。彼が神学校の卒業制作で作った教会の模型には出口がなかった。だが審査員の教授たちは口々に、「入口がない」ことを非難する。しかし、実は、その模型のなかには小さなスクリーンが張られていることに彼らは気づかない。それは教会というよりは映画館であったのだ。

ヴィカーは、夜ごと奇妙な夢を見る。その夢の中で、石の祭壇のようなものに誰かが横たわり、読めない文字で何かが書かれている。この奇妙な夢は、小説の最後で、サイレント時代から今に至るまでに撮られた無数の映画のフィルムのコマのなかに隠されていたことが判明する。世界の始まりから映画は存在していたと言うわけだ。なんと奇妙な展開だろうか。

次第に夢とも現実とも区別がつけがたくなってゆき、ついには映画史全体を飲み込むような広がりを見せはじめる小説のクライマックスにおいて、ヴィカーがハリウッドで最初に見た映画『裁かるゝジャンヌ』が、ふたたび決定的な役割を果たすことになる。ジャンヌが火刑にされたように、相次ぐ火事によって永遠に失われていたと思われていた『裁かるゝジャンヌ』のオリジナル版が、1984年にノルウェーの精神病院で奇跡的に発見されるという、嘘のような本当のできごと、さらには、ジャンヌを演じたファルコネッティが後に発狂してしまったという事実を、エリクソンは、巧みにこのクライマックスの部分で利用している。

そんな小説なら、映画のことに詳しくなければ楽しめないのではと思う人もいるかもしれない。むしろ、逆の気がする。これを読めば増村保造の『盲獣』や鈴木清順の『殺しの烙印』が見たくなるに違いない、といったことがこの本の紹介文に書かれているのだが、それはこれらの映画を見ている人よりも、むしろ見ていない人に当てはまる言葉だと思う。この本のなかには無数の映画タイトルが出てくるが、その多くはエピソード・トーク的なものにとどまっており、知っている人ならば、「それ見てる」で終わってしまうような場合が少なくない。そういう意味で、例外的なのは、『陽のあたる場所』のある場面について詳細な分析が10ページ近く続く場面だ。わたしはこの映画が必ずしも好きではなかったのだが、それを読んで急にこの映画を久しぶりに見直したくなった。ここだけはとことんディテールにこだわって書かれていたからだろう。欲を言うならば、こういう箇所がもっとほしかったなと思う。

読み終わった後で、ジェームス・フランコがこの小説を映画化した作品が今年完成していたことをはじめて知った。映画をテーマにした作品なので、映画化したいという気持ちはわかるが、これをどうやって映画化したんだろうかという不安は感じる。この小説のなかに出てくる映画は、登場人物たちのプリズムを通してある意味ゆがめられている場合が多く、それをただ実際のフィルムを見せるだけではうまくいかないのではないかと思うのだ。たとえば、ヴィカーにとっては、『サウンド・オブ・ミュージック』は、「雪山に住む歌う妖怪の家族が、警察に追われ悪意ある音楽の跡を残していく話」と要約される((ついでにいうと、この家族はマリリン・マンソンの「ファミリー」と呼応しあっている。))。その辺をどう処理しているのか、興味深いところではある。

(ちなみに、「ゼロヴィル」というタイトルは、ゴダールの『アルファヴィル』でレミー・コーション(エディ・コンスタンチーヌ)が言うせりふ、「ここはアルファヴィルじゃない、ゼロヴィルだ」から取られている。この小説は、章の数字が本の中ほどあたりで、逆周りになって、カウントダウンが始まり、「0」の章で小説が終わる、あるいは、円環を描いて序章に戻るというかたちになっている。エリクソンとしては仕掛けの少ない小説だと思うが、これはこの小説の大きな仕掛けの一つである。)

2016年5月9日
アンドレ・ド・トス『おとし穴』――郊外のフィルム・ノワール

アンドレ・ド・トス『おとし穴』(Pitfall, 48)

ディック・パウエル演じる保険会社の調査員ジョンが、会社の金を横領したかどで逮捕された男の愛人モナ(リザベス・スコット)の住む家を訪ねる。男が女に貢いだ品物のリストを作って、損失の一部を回収するためだった。ジョンは、その魅力的な愛人を一目見た瞬間から彼女に惹かれ、たちまちにして二人は深い関係になる……。

この出だしは『深夜の告白』をすぐさま思い出させるが、似ているのはここまでに過ぎない。『深夜の告白』のフレッド・マクマレーとは違って、ジョンには妻子がある。ジョンとモナの不倫、そこにモナの服役中の夫と、モナに横恋慕している不気味な探偵マックが加わり、事態はしだいに緊張感を増してゆき、ついには悲劇的な結末を迎える。

この映画は、ジョンの妻がフライパンで朝食の玉子焼きを作っているショットから始まる。閑静な郊外の住宅街にある、緑の芝こそなかったかもしれないが、きれいに整地された一戸建。ジョンはこの郊外の家に、妻(ジェーン・ワイマン)と一人息子の3人で住んでいる。そして、この映画のクライマックスの舞台となるのは、フィルム・ノワールとしてはいささか異例な、この家庭のただ中なのだ。

アメリカでは、第二次大戦後になって都市の人口が急速に郊外へと流れ始める。この映画が撮られた48年はちょうどその頃だ。ジョンが住む郊外の家には、まだテレビはないし、芝刈り機も出てこない。われわれが知っている郊外のイメージが定着するのはもう少し先、50年代に入ってからである。しかし、郊外に住む幸福な中流家族というイメージはすでに出来上がっていたはずである。 たしかに、冒頭の玉子焼きのショットは、そんな郊外のささやかな幸福を予感させるものだ。しかし、小さなほころびはすでに見え隠れしている。「朝食をテーブルに置いたわよ」という妻に、「テーブル以外のどこにおくんだ」とジョンは答える。毎朝9時ちょうどに家を出て、夕方5時50分に家に帰ってくるという決まりきった生活におれはうんざりした。自分がなんだか「歯車のなかの歯車のなかの歯車のひとつ」に過ぎないように思える、とジョンは言う。あなただけじゃない、5千万の人がそういう歯車のひとつなのよと言う妻に、おれはそんな5千万の人間と同じになりたくないとジョンは反論する。

「妻:あなたはジョン・フォーブス、平均的アメリカ人。この国のバックボーンなのよ。 ジョン:おれは平均的なアメリカ人にも、この国のバックボーンにもなりたくない。誰か他の人間がバックボーンになって俺を支えてほしい。」
(この場面に限らず、この映画のなかには立ち止まって考えてみたくなる印象的なせりふが数多く出てくる。)

愛する妻と子がいて、決して金持ちではないが暮らしに困っているわけではない。しかし若い頃に夢に見ていた生活とは、現実は大きくかけ離れている(「学生時代にクラスでおれは、成功しそうな男ナンバーワンに選ばれてたんだ。そんな男には何か起きてもいいだろ?」「あたしと結婚したじゃない?」)。この平均的アメリカ人ジョンの心の隙間に入り込んできたのが、ブロンドの美女モナ(リザベス・スコット)だったというわけである。 なるほど、一人の男の人生を狂わせてしまったという意味では、『おとし穴』のリザベス・スコットはファム・ファタールと呼ぶべき存在であるかもしれない。しかし、興味深いことに、この映画の彼女は徹底的に善良で、何の落ち度もない人間として描かれているのである。ディック・パウエルと不倫するのも、最初は彼が結婚していると知らなかったからであり、そのことがわかったとたんに彼女は身を引く。彼女に落ち度があったとすれば、それは彼女が人よりも魅力的だったということだけだ。これもまた、フィルム・ノワールにおいては異例といっていいことかもしれない。『ローラ』のジーン・ティアニーにしても、この映画のリザベス・スコットにしてもそうだが、ファム・ファタール=「男を惑わす悪女」(峰不二子的な?)という紋切り型のイメージはぜんぜん正確でないということが、改めて確認される。

この映画において、ついには人を殺してしまうことになるジョンは、結局、正当防衛で罪を免れ、家庭も寸前で崩壊することなく守られる。しかし、正当防衛はしぶしぶながらという形で与えられるに過ぎないし、妻の許しも、いわば新たな試練として課されるだけだ。その意味で、この映画は因習的なモラルを説く教訓的な映画としてみることができる。 一方で、何の落ち度もなかったにもかかわらず、男たちの欲望の対象となったがために、ついにはこちらも人を殺すことになってしまったモナの方は、ジョンとは対照的に殺人罪で起訴されることになる。たしかに、彼女の殺人は、到底正当防衛とは認めがたいものであったわけで(武器を持っていない相手を後ろから撃っているのだから)、その意味では、この裁かれ方は正当であるといえるのだろうが、ここには、同じ不倫の当人でありながら、男性よりも女性のほうが世間から批判されてしまうという、現在でも認められる理不尽な現実が反映されていると見ることもできるだろう。

全体的に明暗のコントラストに欠ける画面はフィルム・ノワールらしくない。唯一、クライマックスの郊外の家のシーンだけが深い闇に包まれ、ノワール的なキアロスクーロで撮影されている。その意味でも、この映画は郊外のフィルム・ノワールとして記憶されるべき作品である。

最後に、この映画で最も重要な登場人物の一人といっていい探偵マックを演じているレイモンド・バーについて一言。レイモンド・バーといえば、数多くの作品で活躍してきた名バイ・プレイヤーだが、それこそが名脇役というべきか、気がつけばそこにいるといった感じで、正直言って、あまり意識したことのない俳優だった。しかし、この映画で、今で言うストーカーを演じる彼は、実に不気味で薄気味悪く、童顔といっていいような顔とアンバランスな巨体という独特な容姿とあいまって、強烈な印象を残す。この映画の彼の存在感は、『裏窓』の殺人者役以上だといってもよいかもしれない。

少し地味かもしれないが、郊外の存在、善良なファム・ファタールなど、ユニークな部分が数多く、フィルム・ノワールの隠れた傑作といってもいいだろう。

2016年5月7日
ポール・ヘンリード『誰が私を殺したか?』

ポール・ヘンリード『誰が私を殺したか?』(Dead Ringer, 64)

俳優として有名なポール・ヘンリードが監督したサスペンス映画。原題はクローネンヴァーグの『戦慄の絆』を思い出させるがまったく関係はない。『何がジェーンに起ったか?』と『ふるえて眠れ』のあいだに撮られたこの作品は、そのあまり知られざる姉妹編であるといっていい(邦題は明らかにそれを意識してつけられている)。ここにはジョーン・クロフォードもオリヴィア・デ・ハヴィランドも出ていないが、そのかわりベティ・デイヴィスが二役を演じている。 ベティ・デイヴィス、とくに晩年の彼女は画面のなかに一人いるだけでも重苦しくて気がめいる存在なのだが、この映画は、そんな彼女が一人二役を演じた、まさに悪夢のような作品だ。

映画は葬式の場面で始まる。ベティ演ずるエディスは、参列者のなかに黒衣に身を包まれ、顔を黒いヴェールで覆われた女の視線に気づく。女はエディスの双子の姉妹で、エディスと瓜二つの顔をしているマーガレットだった。マーガレットは大富豪と結婚し、大邸宅に住んで裕福な生活をしていて、貧しい暮らしのエディスとは長年音信不通だった。実は、マーガレットは、エディスが付き合っていた恋人を奪って結婚したのだった。今日は、そのマーガレットの夫であり、エディスがかつて愛した男の葬式だったのである。エディスは、マーガレットが金目当てに、ありもしない妊娠まででっち上げて自分の恋人を奪ったことを今になって知ると、マーガレットを自宅に呼び出して、自殺に見せかて殺害する。髪型を変え、服を着替えて、マーガレットに成りすましたエディスは、マーガレットの屋敷に入り込んで、マーガレットとして振舞い始めるのだった……。

一卵性双生児の双子の一方が他方を殺して成りすますという話なら、「名探偵コナン」や「古畑任三郎」でも使われるトリックであり、今となっては新味に欠ける。画面も平板で、監督の力量を感じさせるところはあまりない。しかし、この映画はとにかくよくできていて、最後まで飽きずに見ることができる。 一卵性双生児による殺人という物語では、どちらがどちらなのか観客にもわからないという曖昧さがしばしばサスペンスを生むのだが、この映画ではエディスがマーガレットを殺したことは最初からわかっており、観客が二人を混同するシーンも皆無といってよい。サスペンスは別のところにある。

マーガレットに成りすましたエディスが屋敷につくと、大勢の来客(もちろん、だれが誰かもわからない)が彼女を迎える場面からはじまって、つぎつぎと降りかかってくる難題を、エディスはそのたびに機転を利かせて乗り越えてゆく。まずは、どこに応接間があるかといった家のなかの配置から、金庫の開け方、サインの書き方といったことまで、マーガレットなら当然知っているはずのことを、実は自分が知らないことを、家族やメイド、執事などに怪しまれてはいけない。おまけに、マーガレットの死について捜査する刑事は、エディスが結婚寸前だった恋人(カール・マルデン)であることが、事態をややこしくする。

映画はエディスが直面するこうした困難をサスペンスフルに描いてゆくのだが、その一方で、これは容易にコメディにも転換できるような題材であり、この映画には、作者にその意図があったのかどうかはともかく、そこかしこに笑いを誘う部分があったりもする。

エディスはどんどん深みへとはまってゆき、やがて意外な真実が明らかとなり、最後は予想外の結末を迎える。そのアイロニカルなラストもなかなか興味深い。

二人のベティが対峙するシーンは、すでに『暗い鏡』のころからハリウッドではもう完成の域に達していた技法によって、何の違和感もなく撮影されている。

決して傑作とはいえないが、『何がジェーに起ったか?』が好きな人なら、押さえておいていい作品だろう。

ところで、ベティ・デイヴィスもオリヴィア・デ・ハヴィランドも一人二役を演じたことがあるのだが、ジョーン・クロフォードに一人二役の映画があっただろうか。あったような気もするが、思い出せない。もしあるとすれば、それも結構気持ちの悪い作品になったに違いない(実を言うと、わたしはこの三人の女優がどうにも苦手なのである)。

2016年4月28日
サイ・エンドフィールド『アンダーワールド・ストーリー』

才能ある監督でありながら、サイ・エンドフィールドは日本ではあまり人気があるとはいえない。それどころか、作家としてもあまり認知されていないような印象さえ受ける。あちゃんと語られることはあまりないし、作家論の類もほとんど見た記憶がない。目立ったものとしては、『亡命者たちのハリウッド』に収録されている数十ページの記述ぐらいのものだろうか。

サイ・エンドフィールド(または、シリル・エンドフィールド)は、赤狩りの時代にブラックリストに載せられた監督として有名だ。アメリカで映画を撮れなくなった彼は、結局、イギリスに亡命せざるを得なくなる。『アンダーワールド・ストーリー』は、デビュー後、何本かマイナーな作品を発表した後でエンドフィールドが作家として転機を迎えるきっかけとなった作品であるといわれる(というか、本人がそう語っている)。この作品と、次作『群狼の町』によって、エンドフィールドは作家として自己を確立したといっていいだろう。

 

この映画に描かれるのはジャーナリズムの世界だ。自分の記事がきっかけでギャングによる殺人事件が起き、新聞社をクビにされてしまった記者(ダン・デュリエ)が、そのギャングから大金を借り、その金で地方都市のつぶれかけの新聞社を窮地から救い、そこで記者として働きはじめる。ちょうどその頃、地方の新聞王(ハーバート・マーシャル)の息子の妻が殺される事件が起きる。犯人は新聞王の息子だったが、新聞王と息子の隠ぺい工作によって、その日から行方不明になっている黒人のメイドが容疑者にされてしまう。記者は、その事実をいち早くつかむと、新聞社の若い女オーナーがうちではそういう事件は扱わないというのにも耳を貸さず、さっそく記事にしようとする。しかし、黒人メイドが無実だと信じる町の住人が多いことを知ると、記者はすぐさま態度を一変させ、新聞社をあげて、メイドを擁護する一大キャンペーンを展開しはじめる。多くの人から集めた募金で、彼は弁護士を雇ってメイドの弁護を依頼するのだが、彼にとっては、真犯人が誰だろうが、メイドが有罪だろうが無実だろうが、実はどうでよかった。とにかく話題になって、自分が記者として名を上げられればそれでよかったのだ……。

何の信念も持たず、その場その場で風見鶏のようにころころと立場を変え、人の善意に付け込み、時にはギャングにさえ恩を売って、自分を売り出そうとする記者を演じるダン・デュリエの無軌道ぶりが素晴らしい。こういう小悪人みたいな役をやらせたらピカイチだと思うのだが、この映画では最後に本当にヒーローになってしまうところがいつもの彼らしくない。実際、こういうアンチヒーローはリチャード・ウィドマークなんかが得意とするところで、ダン・デュリエとしては割と珍しいのではないだろうか(オルドリッチの『ワールド・フォー・ランサム』の探偵役が少しこれに近いか)。

メイドを黒人に変えたのはエンドフィールドだそうだが、この映画ではメイドを白人俳優が演じているので、人種問題への言及はやや曖昧なものにされてしまっている(「ニガー」という言葉も最初は検閲で削除されたが、吹き替えで入れ直されたという。ともかく、DVD ではちゃんと確認できた)。トルーマンの時代に人種問題に踏み込んだ映画が撮られはじめたのは本当である。だが、やはりまだそれは微妙な問題だったのだ。この映画における人種問題の扱いがちぐはぐなのには、その辺りに原因がある。

しかし、ここで言及されているのは黒人問題だけではない。黒人メイドを擁護するために新聞社によって組織される委員会は、明らかに、ハリウッド・テンを擁護するために組織された「修正第一条のための委員会」(Committee for the First Amendment)を暗に指し示している。最初は委員会を支持し、メイドを擁護していた町の人たちは、新聞王の画策によって世論の傾きが変わりはじめると、すぐさま有罪説に転じる。それは、「修正第一条のための委員会」がたどったのと同じ顛末なのだ。言論の自由を訴えてハリウッド・テンを擁護した映画人たちは、どこからともなく圧力がかかるとすぐさま意見を撤回してしまい、「修正第一条のための委員会」はなし崩し的に崩壊してしまうのだ。

映画の冒頭、自分の記事のせいでギャングによる殺人事件が起き、その結果、新聞社をクビになってしまった記者は、金が必要になると、あろうことかそのギャングに会いに行き、「あんたのせいで〈ブラックリスト〉に載せられてしまった。金を貸してくれ」と頼む。これも明らかに赤狩りへの言及である。もっとも、善だろうが悪だろうが、利用できるものなら何でも利用しようとする記者を演じるダン・デュリエは、赤狩りの犠牲者とも、また転向者とも容易に重ならない独自のキャラクターを打ち出していて、強烈な存在感を残す。

ここでは、ジャーナリストも、弁護士も(「流れが変わったときは、それに流されるのが賢い人間のすることさ」)、新聞王も、警察も、誰も彼もが灰色である。クライマックスのシーンで、息子の犯行をもみ消すために利用したギャングと対峙した新聞王が、良心にさいなまれてギャングに、「貴様は何様なんだ?」と尋ねると、ギャングはこう答えるのである。「お前と同類だよ。ただ、俺のほうがちょっとばかり利口なだけさ」

赤狩り時代のハリウッドを知る上で見逃せない一本である。当時の事情を知っていればよりいっそう楽しめるが、知らなくても普通に面白い。

 

2016年4月27日
アドゥール・ゴーパーラクリシュナンについての覚書

一昔前は、日本でインド映画といえば後にも先にもサタジット・レイ(「レイ」ではなく「ライ」と読むのが正しいらしいのだが、いまさら言われてもなぁ)のことだった。やがて、『ムトゥ 踊るマハラジャ』でインド製ミュージカル映画の空前のヒットと共にインド映画ブームが始まるころには、グル・ダットににわかに注目が集まり、回顧上映が行われることもあった。そのころには、サタジット・レイは、かつての評価など何かの間違いだったとばかりに完全に忘れ去られていたが、しばらくすると、グル・ダットもほとんど上映されることもなくなり、半ば忘れ去られていく。いつもながらの光景だ。その時々の流行で、誰かに注目が集まると、その陰で、他の重要な作家たちのことはあっさりと忘れ去られてしまう。インド映画に限ったことではない。ニュー・ジャーマン・シネマがブームになったころも、ヴェンダースに注目が集中し始めると、ヘルツォークやファスビンダーは見る機会すらなくなっていった。いつもながらのことである。

そんなわけで、あれだけブームになったにもかかわらず、インド映画は渉猟されつくすどころか、いまだに未知の作家たちを数多く残したままだ。とても一回では紹介しきれない。今回紹介するアドゥール・ゴーパーラクリシュナンは、サタジット・レイやリットゥク・ガタクの後に現れたインドの新世代の監督たちの中でもっとも重要な一人と考えられている人物だ。日本ではほとんど無名に近い存在である。もっとも、後で紹介する『マン・オブ・ザ・ストーリー』は、実は、NHKが製作に絡んでいる作品であり、テレビでも放映されたことがあるので、見ている人は案外多いかもしれない。

 

■『ねずみ取り』(Elippathayam, 81)

アドゥール・ゴーパーラクリシュナンは、インド最南端に位置するケーララ州の出身で、マラヤーラム語で映画を撮る監督である。彼は好んでこの地方を舞台に映画を撮ってきた。ちなみに、『サーカス』などの作品で日本でも多少名前の知られるアラヴィンダンもこの地方の出身である。ゴーパーラクリシュナンとは5歳ほど年上に当たるが、ほぼ同世代の監督といっていいだろう。 マラヤーラム語は、インドにおいてはほとんどこの地方でしか話されない言葉であり、その意味において、ゴーパーラクリシュナンの映画は、地方性を身にまとったマージナルな存在であるといえる。もっとも、それは必ずしも、マラヤーラム語映画の観客数が、ヒンズー語映画の観客数と比べて極端に少ないことを意味しはしない。一時期は、ヒンズー語映画の製作本数を超える数のマラヤーラム語映画が作られていた時代もあったほどで、今ではさすがに、製作本数でヒンズー語映画には及ばないものの、それでも、相当な数の作品が作られているという。

『ねずみ取り』が描くのも、このケーララ州に住むある特権階級の家族の物語だ。もっとも、特権階級といっても、時代は変わりつつあり、封建主義は崩壊しかけていて、家の財政もかつてのように豊かではない。ゴーパーラクリシュナンは余計な説明は一切しないので、最初は家族関係を見極めるのもなかなか大変なのだが、この映画に登場するのは、古い大屋敷に住む若き主(あるじ)ウンニとその3姉妹である。3姉妹のうち一番上の姉は結婚して家を出ている。主のウンニは独身で、2番目の姉ラジャマが彼の身の回りの世話を一身に引き受けている。

映画は、ウンニの枕元にねずみが現れ、大騒ぎになるところから始まる。二人の妹が木製のねずみ取りを仕掛けると、ねずみはまんまとわなに引っかかる。ラジャマは捕まえたねずみをねずみ取りごと水汲み場にもって行き、水につけて殺す。 この冒頭のシーンにこの映画のほとんどすべてが集約されているといってよい。ねずみ騒動でも見て取れた主のウンニの行動力のなさと無能ぶりは、このあとも繰り返し描かれてゆく。どこかに出かけていこうとしたものの、道に水溜りがあるのを見つけると、服が汚れるのはいやだとばかりにすごすごと引き返してくる。真夜中、家の重要な収入源である椰子の実を泥棒が盗みに来たときも、妹たちが何とかしてくれと頼むのを、ウンニは、「あれは泥棒じゃない。風の音だ」といって、布団を頭からかぶってやり過ごそうとする。口だけはえらそうだが、彼は独りでは何もできず、炊事、洗濯、その他もろもろは、すべて二番目の妹ラジャマにまかせっきりで、彼女がいなければ、風呂を沸かすことすらできない。ウンニは、おじが持ってきたラジャマの結婚話を、相手がつりあわないといって断るが、それもおそらくは、ラジャマがいなくなると自分が生活できなくなるからという理由からに違いない。 ラジャマが一家の母親役を従順に(もっと言えば奴隷のように)引き受け、自分のことは差し置いて人の世話ばかりに明け暮れ、日増しに焦燥して行く一方で、いちばんの現代っ子である末の妹は、ウンニの横暴も、ラジャマの苦悩も意に介さず、考えていることといえばボーイフレンドや化粧のことばかりで、ウンニとは別の意味でだが、これもひたすらわが道を行くだけだ。

あるとき、この末の妹が突然姿を消す。例によって何の説明もされないのだが、おそらく、イラクに戦争に行った恋人の後を追ったのではないかと推測される。やがてラジャマも病に倒れ、家から運び出される。とうとう一人になってしまったウンニは、行動に移るどころかますます殻に閉じこもり、文字通り、屋根裏部屋のような一室に鍵をかけてそこから出てこなくなる。映画は、冒頭のねずみ取りにかかったねずみのように、自ら罠にかかってしまったウンニが、捕らえられてそこから運び出されるシーンで終わっている。

テーマはわかり過ぎるほどわかりやすい。自分の境遇に何の疑いもなく、その特権に甘えて生きてきた人間が、周りの変化に順応できず、結局、自分の中へと閉じこもってゆき、自滅してゆく。タイトルそのままの映画だ。似たようなテーマを描いた作品に、サタジット・レイの名作『音楽室』がある。この映画もまた、周りの変化に順応できずに、自滅してゆく貴族を描いたものだった。しかし、『音楽室』の貴族が、金で物を言わせるブルジョアに、破産してまでも対抗しようとするまさに「高貴さ」によって人を魅了したのに比べると、『ねずみ取り』のウンニにはそんな意地も、高貴さも皆無である。

蓮實重彦によると、ゴーパーラクリシュナンは「精神的にはベンガル語系のリッティク・ガタックの弟子筋に当たる」とのことだが、これには彼の趣味もたぶんに混じっているのだろう。ゴーパーラクリシュナン自身は、サタジット・レイの『大地のうた』を始めてみたときの衝撃を繰り返し語っている。

まだ数本しか見ていないのでこの作家について全体像を語る立場にはないが、この映画に描かれる幽閉(あるいは自閉)、狂気といったテーマは、彼のほとんどすべての作品に通じるものであり、その意味でもこの作品は彼のフィルモグラフィーの中でも中心的作品と考えていいように思える。 たしかに、全体としてはわかりやすい作品であるが、ゴーパーラクリシュナンは、余計な説明を一切省略し、日常の細部をいわばミニマルに反復して描くことで、この映画をまるで音楽のように作り上げている。音や色彩の使い方も非常に繊細で、わたしの筆ではとてもこの映画の魅力を伝えきれない(例えば、二度繰り返される飛行機の音。一度目は、ラジャマと末の妹が庭で空を見上げる。二度目は、末の妹が消えた直後に、やはり飛行機の音に気づいたラジャマが、今度はひとりで空を見上げる。主と3人の妹が来ている服の、白・緑・青・赤という色の使いわけも、考え抜かれている)。

上映される機会はまずないと思うから、DVDでいいのでとりあえず見てほしい。わたしが見た Second Run から出ている DVD はとても画質がよくて、自分の環境ではほとんどブルーレイに近い感覚で見られた。お薦めである。

 

■『マン・オブ・ザ・ストーリー』(Kathapurushan, 95)

NHK の製作によって撮られた作品。これもやはりケーララ州を舞台に描かれる物語だが、『ねずみ取り』と違って、空間的にも時間的にもずっと大きな広がりを見せる作品になっている。

この映画が描くのは、ある一人の男の少年期から壮年期へと至る人生の物語である。彼もまた、封建貴族の家に生まれ育つが、やはり、時代は変わりつつある。少年時代の主人公が、「友達に〈プチ・ブル〉と言われた。〈プチ・ブル〉って何?」と泣きながら学校から帰ってくる場面に、時代の変化は端的に現れている。

やがて青年になった主人公は、ガンジー主義者でコミュニストのおじに影響されて、マルクス主義に傾倒するようになるが、そのために警察に捕まって10年間投獄されてしまう。 ようやく釈放された主人公は、小さいころからの仲良しだった幼馴染の女(彼女は、彼の家の使用人の娘で、身分としては格下)と結婚し、政治活動からも離れ、穏やかな生活を始める。彼は若いころから小説を書き続けていたが、一向に眼が出ないでいた。しかし、今度書き上げた小説の原稿が人の目に留まり、初めて出版され、話題を集める。だが、その内容が、共産主義の過激派を支持するもので、反社会的であるとして、本はたちまち発禁処分になってしまう。 発禁処分を伝える新聞を読みながら、あとは逮捕を待つだけだなといって、主人公がヒステリックに笑うと、そばにいた息子と妻もやがて笑い出すという、アイロニカルな笑いによってこの映画は終わっている。こんな糞みたいな世界、もう笑うしかないのだ。

この映画では、カットが変わるとその間になにげに10年近くの時間が流れているという場面が何度かあり、『ねずみ取り』の澱んだような世界とは対照的な時間の流れが描かれるのだが、それでも結局、最後は何も変わっていなかったというラストがなんともペシミスティックである。

この作品に描かれる、ガンジー主義やコミュニズムへの共感と、それに対する微妙な距離のとり方は、おそらくゴーパーラクリシュナン自身の経験によって裏打ちされたものだろう。彼の映画は、独自の物語の中にインドの社会の変化をそれとなく巧みに描きこんでいるが、この映画では、それが最もわかりやすい形で現れている。

 

■ 『シャドー・キル』(Nizhalkkuthu, 2002)

ケーララ州における最後の死刑執行人を描いた映画。上の2作品は共にスタンダードサイズで撮られているが、この作品だけはシネマスコープ作品である(残念ながら、この作品の DVD はレターボックスサイズの収録になっていて、上の2作品の DVD のクオリティーの高さに比べると、とても物足りない。字幕もハードサブである)。

内容的には、日本の観客にいちばん受けそうな作品であるが、よくよく見るとこの3本の中で、最も狂気をはらんだ作品であるかもしれない。

この映画には、インドの死刑執行人の生活が描かれていて、それだけでも実に興味深い。インドでは死刑執行人は、他とは隔絶された場所で、食料などをたっぷりともらうなど、ある種の特権を与えられて暮らしていたらしい。彼を訪ねてきたものが、数十キロにわたって橋ひとつない大川を、二人の男に肩に担いでもらって渡って会いに行くという場面に、インドの死刑執行人が、文字通り社会の周縁で生活していることが示されている。

彼の家には、絞首刑に使ったロープの縄が天井からつるされている。そのロープを燃やした灰には、聖なる力があると考えられていて、病人が尋ねてくると彼はそのロープを少しちぎって燃やし、その灰を病人にかけて癒してやるのである。死刑執行人は、もちろん不浄な存在として恐れられていた一方で、聖なる人間として尊ばれていたのである。不浄なる存在が反転して聖なる存在でもあるというのは、民俗学の常識といってもいい事柄だが、死刑執行人がこういう具体的な聖なる力を持つというのは、日本ではあまり聞いたことがない気がする。映画の中では、そのロープが死刑囚たち自身によって作られるシーンも描かれる。

『ねずみ取り』や『マン・オブ・ザ・ストーリー』に描かれる封建階級の人間たちと同じく、この映画の主人公である死刑執行人も、やはり自分に与えられた特権に何の疑いも抱かずに生きてきたのだが、最後に行った死刑執行で、彼は無実の人間を死刑にしてしまったらしく、それ以来、彼は後悔にさいなまれ、酒におぼれる日々を送っていた。そこに、マハラジャから、新たに死刑執行を行えというお達しが来る。断るわけには行かないので、いやいやながら彼は仕事を引き受ける。

これもまたインド独特だと思うのだが、死刑執行人は、死刑執行の前日は、眠ってはならないというしきたりがあるらしい。そこで、彼を迎えに来た役人が、眠気覚ましに彼に物語を語って聞かせる。このあたりから、この映画の語りは捻じ曲がり、屈折して、静かな狂気をはらんでゆく。

役人の語る話はこうだ。ある若い娘が、村の若者と恋に落ち、何度か逢瀬を重ねる。幸せな時間が流れるが、娘の義理の兄が、彼女によからぬ気持ちを抱き、ついには彼女を強姦して殺してしまう。しかし、その罪は、あろうことか、恋人の若者に帰せられてしまうのだ……。

この物語は映像として繰り広げられるのだが、不思議なことに、その中で若い娘を演じているのは、死刑執行人自身の娘であり、義理の兄を演じているのも、死刑執行人の娘の義理の兄なのである。 実は、これに先立つシーンで、死刑執行人の娘が初潮を迎え、その祝いが行われ、その後で、娘の義理の兄が娘に投げかける一瞬の視線にきづいた死刑執行人が、あわてて娘を学校に行かせることをやめさせるという出来事が描かれていたのだった。 それが、役人の語る物語のなかに、死刑執行人の意識のプリズムを通して、屈折した形で入り込んでいたのである。その一方で、この物語は、死刑執行人が最後に行った死刑、無実の人間を処刑してしまったという死刑を思い出させるものでもあった。(この映画の後半の語りのねじれを、だれかがリンチの『マルホランド・ドライブ』と比較していたが、それもあながち的外れではないように思える。)

役人の話をそこまで聞くと、死刑執行人はたまらず、もういい、聞きたくないと言うのだが、役人は、お前が明日処刑する男こそ、今話した物語の若者なのだぞと、こともなげに言ってのける。犯人が無実だとわかっていながら、処刑は行われるのだ。それを聞くと、死刑執行人は突然卒倒してしまう。死刑執行は、結局、彼の息子の手にゆだねられることになる。この息子は、『マン・オブ・ザ・ストーリー』の主人公のような新世代の若者で、ガンジー主義者であったのだが、彼が淡々と父親の仕事を引き受ける場面で映画は終わる。最後に現れる、「マハラジャの恩赦が与えられたが、すでに処刑は実行されてしまっていた」という字幕がむなしい。

この映画に描かれる死刑執行人の姿は、『ねずみ取り』の無能な主の姿とも重なる。彼もまた、自分の存在に何の疑いも抱かず、あるいはそれに眼をふさぎ、狭い世界に閉じこもって生きたのだが、いったんそこにほころびが生まれると、酒におぼれ、よりいっそう己のうちへと閉じこもってゆくことしかできない。

表面的には、死刑への疑問を呈した形となっているが、『マハバーラタ』の挿話から取られたらしいタイトルには、この物語の射程がもっと広く、深いものであることが暗示されている。死刑執行人の息子、おそらく死刑には反対の立場であるはずの彼が、無実と分かっている犯人の処刑を引き受けるのは、この『マハバーラタ』の挿話が下敷きになっているのだろう。

 

3作とも極めてペシミスティックな内容である。それだけに、わたしは今、ゴーパーラクリシュナンの『壁』という映画のことがとても気になっている。タイトルからしてもう、『ねずみ取り』に近いものを感じさせる映画であり、すぐさま幽閉の物語を予見させる。しかし、わたしが気になるのはそこではない。 ヴェネチアでこの作品を見ていたく感動した蓮實重彦が、「ここでの驚きは、これまでの彼の作品に色濃く漂っていたペシミズムが影をひそめ、一人の男が投獄され、閉ざされた場での時間をゆっくりと生き、やがて自由のみになるまでを、むしろ楽天的ともいえる明るさで描いていることだ」と書いているのを読んだからだ。それはたしかに、わたしの知るゴーパーラクリシュナンとは少しイメージが違う。ぜひ見てみたいのだが、残念ながらまだその機会に恵まれていない。

2016年4月20日
『The Lost Moment』『私刑の街』

どっちもそんなにたいした映画ではないのだが、こういう地味な作品を救い出してゆくのがわたしの使命(?)なので、紹介しておく。

■ マーティン・ガベル『The Lost Moment』(47)

ヘンリー・ジェイムスの小説『アスパンの恋文』の最初の映画化(Amazon のコメントを読むと、この小説が何度も映画化されていることを知らない人が意外と多いようだ。特にこの作品は、小説の原題とはぜんぜん違うものになっているので、気がつかない人も多いのだろう)。

19世紀の作家が書いた恋文を、いまや100歳を超える年齢になってヴェネチアに隠れ住んでいるかつての恋人が持っていることを知ったジャーナリスト(ロバート・カミングス)が、身分を偽って彼女の屋敷に住み込み、手紙のありかを探ろうとする。しかし、その屋敷には、老婦人の姪(スーザン・ヘイワード)が一緒に住んでいて、まるで『レベッカ』のデンヴァース夫人のように、彼の行動に目を見晴らせているのだった……。

この映画は大筋において原作に忠実に描かれているといっていいだろう(例えば、最近の映画化作品のひとつでは、舞台はヴェネチアではなくベネズエラに変えられている)。

しわくちゃの手以外はほとんど姿を見せない老婦人の存在(アグネス・ムーアヘッドがすごいメーキャップで演じている。わたしが見たブルーレイのパッケージは、主役を差し置いてこの老婆の手のアップが使われていた)や、屋敷への潜入など、『スペードの女王』を思い出させる部分も少なくない。いわゆる「ゴシック・ノワール」のひとつに分類することもできるだろう。

スーザン・ヘイワードが憑依状態になって若き日の老婦人と自己同一化するという、原作にはないはずの後半の展開は、興味深くはあるものの、さしたる伏線もないまま唐突におきるので、説得力に欠ける。そもそも、スーザン・ヘイワードにはこの役はちょっと荷が重すぎたという気がしないでもない。 しかし、妙な渡り廊下があったりするヴェネチアの屋敷のセットの雰囲気はなかなかのものだ。ジャーナリストは、猫に導かれるようにして秘密の通路を見つけ、ヘイワードの隠れた顔を発見する。時おり立ち止まって誘うように振り返る猫が名演技で、個人的には、この映画最大の見せ場はここだった。

 

■チャールズ・F・ハース『私刑(リンチ)の街』(The Big Operator, 59)

労働組合の指導者でありながらマフィアとも黒いつながりがあったジミー・ホッファ(92年にダニー・デヴィートが彼の生涯を映画化して話題になった)をモデルにしたとも言われるマフィア映画。ホッファと同じくチビの俳優ミッキー・ルーニーが、『殺し屋ネルソン』の延長上にあるような冷酷な組織のボスを演じていて、強い印象を残す。 ルーニーの演技をのぞくと全体的に地味な印象を与える作品だが、邦題にもなっているリンチの場面が、この時代としては非常に暴力的であるのが注目に値する。殺人を目撃してしまった組合員が、口封じのために誘拐されてリンチを受ける。裁判での証言を拒むよう脅されるが、それを拒否したため、ルーニーは彼の息子を誘拐して人質にし、無理やり証言をやめさせようとする。 映画のクライマックスは、組合員が目隠しして連れて行かれた敵のアジトを、車の中で聞いた音だけを頼りに探し当てて、息子を救い出すというもの。

2016年4月17日
最初と最後のロッセリーニ——『白い船』と『メシア』についての覚書

■『白い船』(41)

映画作家ロベルト・ロッセリーニのキャリアは、ムッソリーニによってイタリアが統治されていたファシズム時代のまっただ中に始まった。『白い船』はロッセリーニが撮った最初の長編劇映画である((短編映画がこれ以前に数本撮られているが、ほとんどはフィルムが紛失してしまっている。この習作時代に撮られた短編の正確な本数は分からない。全部で5本にも満たなかったのではないかと思われる。))。

海外では、この映画が公開された当時、フィルムに監督名としてクレジットされているロベルト・ロッセリーニという見慣れない名前に注目した人は少なかった。というのも、この映画の功績の大部分は、監督ロッセリーニではなく、脚本・製作指揮に当たったフランチェスコ・デ・ロベルティスのものであるとされたからである。 デ・ロベルティスはこの前年に、潜水艦を描いたセミ・ドキュメンタリー的作品『Uomini sul fondo』を撮って大成功を収めていた。わたしはまだ見ていないのだが、多くの人がこの映画に、後のネオ・リアリズム映画に見られることになる要素が全て詰まっていることを指摘している。現地でのロケーション、素人俳優の起用、ドキュメンタリーとフィクションの融合、等々である。そして、こうしたスタイルは『白い船』においても踏襲されており、それは、ロッセリーニではなくデ・ロベルティスの功績であるとされたのである。

例えば、ロッセリーニの短編にキャメラ担当として加わっていたこともあるマリオ・バーヴァは、次のように語っている。

「デ・ロベルティスこそが真の天才で、ネオ・リアリズムの創造者だった。ロッセリーニは彼から全てを盗んだに過ぎない。デ・ロベルティスは天才で、不思議な人物だった。彼はロッセリーニに好感を持っていて、彼に『白い船』を撮らせた。それから全部をやり直し、手柄はロッセリーニに譲ったのだ」

バーヴァの主張はあまりにも極端すぎるとしても、デビュー当時のロッセリーニが、『Uomini sul fondo』でデ・ロベルティスが作り出したスタイルに多大な影響を受けていたことは間違いないだろう。その意味でも、この作品とデ・ロベルティスの存在の重要性は決して無視すべきではないはずである。しかし、『Uomini sul fondo』は、今となっては、その新しさよりも古さのほうが目立ち、映画史的な価値以上のものを失ってしまっている、と、これも多くの人が指摘している。デ・ロベルティスは、ムッソリーニのファシスト政権下において、国策映画を牽引するような存在だったようだが、この時期に彼が撮った映画は、いずれも『Uomini sul fondo』の二番煎じのようなものであったらしい。

ロッセリーニはこの時期、3本の戦争映画を作っている。『白い船』、『ギリシャからの帰還』(42)、『十字架の男』(43)の3本である。『白い船』は海軍を、『ギリシャからの帰還』は空軍を、『十字架の男』は陸軍を、それぞれ描いたものだ。全部を語っている余裕はないので、『白い船』に話を限ろう((そもそも、『ギリシアからの帰還』をわたしはまだ見ていない。それも見た上で、『Desiderio』を含めた初期作品については、また改めて語るつもりである。))。

『白い船』は、戦艦の砲台を捉えたショットで始まる(『戦艦ポチョムキン』を思い出す人も多いだろう。この映画はたぶんエイゼンシュタインに少なからぬ影響を受けている。アンドレ・バザンが打ち出していたエイゼンシュタインのモンタージュと、ロッセリーニらのネオ・リアリズムとの対立を考えるならば、これはなかなか興味深い)。この船に乗り込んでいる若いメカニックの青年が、この映画の主人公である。彼は、手紙のやりとりで知り合った、まだ顔さえも知らない戦時代母(前線兵士に見舞品を送り世話をする女性)と今日初めて会うのを楽しみにしていた。この戦時代母は、手紙でいつも「義務」を語る熱狂的な愛国女性で、そのことで青年は仲間からからかわれていたのだった(「戦時中には一つの思いしかありません。義務の思いです」)。しかし直前になって彼の下船は取り消され、すぐに船は出航する。やがて船が敵に攻撃されて、戦闘が始まり、青年は負傷してしまう。他の負傷者達と一緒に病院船(「白い船」とはこの病院船のことである)に移された青年のもとに、文通相手の戦時代母が赤十字のヴォランティアのナースとしてやってくる。その若くて美しい女性は、彼が持っていたペンダントを見てすぐに彼のことに気づくが、青年のほうは、それと知らずに彼女に、彼女宛の手紙を書いてくれるように頼む……。

物語を要約するならだいたいこうなる。しかし、実は、このラブ・ロマンス的な部分は、最初の予定にはまったくなかったのだった。当初は、船の救出作業を描いた短編ドキュメンタリー作品になるはずだったが、長編にするためにこのラブ・ロマンス部分が追加されたらしい。ロッセリーニは、この映画の半分は自分のものではないと言っていて、船の戦闘シーンは自分が撮ったが、青年と戦時代母のロマンスのところはデ・ロベルティスによるものだと主張している。たしかに、戦闘が始まってからの一連の描写は、戦いの様子を素早いモンタージュを通して、台詞もなく淡々と描き出してゆくドキュメンタリーのようであり、ロマンス部分とは明確な違いを見せている。とりわけこの戦闘シーンにおける、事物に対する唯物論的とでも言いたくなるような眼差しは、以後のロッセリーニ作品すべてに共通するものだ。しかし、デ・ロベルティスとロッセリーニの主張は微妙に違っていて、この映画の「ロッセリーニ部分」を見分けるのは、実際にはなかなか困難であると言わざるを得ない。ただ、少なくとも、デ・ロベルティスもロッセリーニも、この青年と戦時代母の物語は嫌々押しつけられたものだという点では一致している。

このように『白い船』の「作者」がだれなのかは、なかなか微妙な問題をはらんでいる。それに加えて、『白い船』について語るのを難しくしているのは、この映画がムッソリーニの時代に、というよりも、ムッソリーニ政権のただ中で撮られたという事実である。

『白い船』『ギリシアからの帰還』『十字架の男』をファシズムの映画と断じるものは少なくない。しかし、これもなかなか簡単には語れない微妙な問題なのである。とりわけ、『白い船』のように作者が不確かな場合はなおさらである。

『白い船』はたしかに一見プロパガンダ映画に見えなくもない。『戦火のかなた』や『無防備都市』のようにレジスタンスの活動を描いているわけでもなければ、反戦をあからさまに訴えかけるわけでもないという意味では、この映画は、ムッソリーニの体制に、あるいは戦争に、正面切って異を唱える映画ではないといってもいいだろう。だが、その一方で、この映画は、逆に、ムッソリーニを賛美することもなければ、ことさらに戦意を高揚したり、勝利を声高に叫ぶこともない。なるほど、作戦室の壁にムッソリーニの写真が飾られているのが見える場面はある。しかし、それは、ただそこにあったから撮ったにすぎないという扱いであって、わざとらしくそれがアップで映し出されて、特別な意味をこめられることもない。

注目すべきは、この映画の戦闘シーンだ。キャメラは船の中からほとんど外に出ることがなく、兵士たちにも観客にも敵の姿はほとんど見えない。そもそもどの国の敵と戦っているのかも分からないのである。こちらの攻撃が相手に届いたのかさえ判然とせず、むろん、勝利の感覚ともほど遠い。ランプが点滅するたびに、盲目的にダイヤルが回され、レバーが引かれ、ボタンが押され、そそれに合わせて機械が動き、攻撃が開始させれる。人間も含めて全ては巨大な機械であり、キャメラはただそれを記録しているだけ、とでも言えばいいか。「機械と人間、一つの心臓」──壁に書かれたスローガンが一瞬映し出され、ぞっとさせる。この映画自体がファシズム的かどうかはともかく(わたしはそうは思わないが)、この機械と人間と関係には、たしかにファシズム的なものが映し出されていたとは言えるかも知れない((カリグラフ派について書いた時のも軽くふれたが、ロッセリーニを離れて一般論として語るなら、初期のネオ・リアリズムはファシズム的だったという主張には、一定の真実が含まれているとは言えるだろう。))。

微妙な問題をはらんでいる映画だが、ロッセリーニ本人が自分で撮ったといっているこの映画の戦闘シーンを見る限りでは、事物に注がれる眼差しはまさしくロッセリーニのものであると思える。結論から言って、ロッセリーニは最初からロッセリーニであったというのが、『白い船』を見て感じたわたしの印象である。

 

■『メシア』(75)

最晩年のロッセリーニが映画化を考えていた最も大きな二つの企画が、キリストとマルクスの伝記映画だった。マルクスの映画は結局完成することはなかったが、キリストの伝記は『メシア』に結実する。これがロッセリーニ最後の長編映画となった。

あるがままの現実を見せる。『白い船』においてすでに示されていたロッセリーニの姿勢は、この美しい(という言葉は、ロッセリーニが一番嫌っていた言葉だが)宗教映画においても健在である。ロッセリーニは最後までロッセリーニだった。

『メシア』は聖書に忠実に従いながら、キリストの生涯を描いた映画である。ロッセリーニは、ユダヤの民がカナーンの地に流れ着く場面がから映画をはじめる。やがてサウルがイスラエル初代の王となり、その後、次々と新しい王が入れ替わり登場するが、いつの世も戦争はなくならず、人々は虐げられたままだ。人々の間に、真の王=メシアを待望する声が次第に高まってゆく。キリストが登場するまでの歴史を、ロッセリーニはほんの数分の間に、短い数シーンで語り終わる。

イエスが生まれてからの物語はだれもが知っているだろう。ロッセリーニも、これはだれもが知っている物語だと知った上で、この映画を作っている。キリストを描いた映画なら当然あってしかるべきシーンもあっさり省略されるだろう。処女懐胎の場面も、暗い画面の片隅であるかなきかの一瞬に示されるだけだ。イエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘へ向かう場面さえ、ロッセリーニは大げさで、見せ物的だと考えたのだろうか、この映画の中では一切描かれない。

スペクタクル性を排除するという姿勢は、この映画において徹底して貫かれている。『メシア』のほぼ全ての場面はロングショットで撮られていて、アップはほとんど一つもない。キャメラはパンとズームを繰り返しながら、絶えずゆらゆらと揺れ動き、遠い距離から事態を見守るだけである。時として、顔の表情も口の動きもよく見えず、声で聞き分けなければだれが喋っているのかも判然としない画面の中で、イエスさえもがその他大勢の中にまぎれて、見失われることさえある。

聖書に忠実に作られていると言ったが、この映画には「奇跡」はほとんど映っていない──たぶん、ほとんど。目が見えなかった男がイエスによって目が見えるようになる挿話は、目が見えるようになった男がユダヤの高僧に向かって語る言葉を通じて描かれるだけだ。イエスが手にしていたたった一切れのパンが、無数のパンに増殖する逸話も、普通ならば、一切れのパンが次の瞬間には大量のパンに変わっているところを、ショットをつなげて見せたりするのだろう。しかし、ロッセリーニは、イエスが信徒に一切れのパンを渡すところを見せ、そのままキャメラをゆっくりと移動させて周りにいる信徒がパンを手にしているのを次々と見せてゆくだけだ。むろん、天上から神の声が聞こえてくることもない(この「奇跡」の不在は、『メシア』の製作者をいらだたせ、この映画の公開を危ういものにすることになるだろう)。

もしもこの映画に奇跡が映っているとするならば、その最大の奇跡は、イエスの磔刑を見守るマリアの姿が、イエスの少年時代の時と全く変わらない若々しい姿であることである。ここもふつうならば、マリア役の女優をメーキャップで老けさせるところだろう。だが、ロッセリーニはあえてそうしない。これが彼のリアリズムであり、「奇跡」なのである。

処刑されたイエスの遺体は、布にくるまれて洞窟の墓に運ばれ、その入り口は巨大な石でふさがれる。イエスの死体が亡くなったと知らされたマリアが墓に駆けつけると、入り口の石がどかされている。マリアは一瞬で事態を察し、手を差し出して空を見上げる。その時、この映画で初めて空が大写しで映し出され、そこにエンド・クレジットが流れるのである。空のショットにこれほど心揺さぶられたのは、ゴダールの『パッション』を見た時以来だった。

 

2016年4月2日
マリオ・ソルダーティとカリグラフ派についての短い覚書

「カリグラフィスム」(イタリア語で「カリグラフィスモ」、あるいは「チネマ・カリグラフィスタ」)は、1940年代前半にイタリアで制作された映画作品について使われる言葉で、この時代の「映画の流派(傾向)」のひとつ。複雑な表現、文学作品を原作としていることなどが、この流派の共通の特徴であり、これらの点において、ファシズム時代の最晩年のイタリア映画における主流の作品とは異なっている。この流派に与した映画監督としては、マリオ・ソルダーティ、ルイジ・キアリーニ、レナート・カステラーニ、フェルディナンド・マリア・ポッジォーリ、アルベルト・ラトゥアーダなどがいる。(ウィキペディア フランス版)

 

1940年代の初頭のイタリアに「カリグラフ派」と呼ばれる映画監督たちがにわかに登場する。もっとも、こういう流派の名称によくあるように、「カリグラフ派」、あるいは「カリグラフ主義」という名前は彼らが自分たちで付けたものではなく、当時の批評家たちによって半ば侮蔑的に貼り付けられたレッテルであった。その上に、「白い電話」や「ネオレアリスモ」などといった映画の流派を表す名称と比べると、この「カリグラフィスム」は、名前とそれが指し示しているものとの関係があまり明確でないこともあって、何を意味しているのかがいまひとつわかりづらい。わたしが理解したところでは、カリグラフィスムとは、リアリズムがことさら重んじられていたファシズム政権下のイタリア映画において、現実よりも美学や形式を重視し、多くの場合、文学作品の中に題材を求めたり、19世紀など過去の時代に物語を設定するなどのかたちで撮られた映画作品をさしている。共通の映画スタイルというよりは、ひとつの映画的傾向といったほうがよく、その背景にはファシズムの現実からの逃避があったと考えられる。ロッセリーニでさえも一見ファシズムに荷担するような作品を撮っていたこの時期(『白い船』では、わたしの勘違いでなければ、「ドゥーチェ万歳」という声がどこかで聞こえるはずだし、『ギリシャからの帰還』の原案を書いている「ティト・シリヴィオ・マルシーニ」とは、実は、ムッソリーニのペンネームである。ロッセリーニの〈ファシズム時代〉については、そのうちまとめて書いてみたい)、ネガティヴなかたちであったとはいえ、これらの映画はムッソリーニの体制にたいする抵抗の一つの形を曲がりなりにも示していたとも言える。

今回紹介するマリオ・ソルダーティは、カリグラフ派と呼ばれる作家たちのなかで、日本では、幾分なじみのあるカステッラーニやラトゥアーダ(彼らとて、今となっては上映されることは皆無だし、言及されることさえほとんどないのだが)などと比べてもずっと知名度は低く、ほとんど無名に近い存在であると言ってもいいだろう。フランスなどでは昔から一貫して評価は高かったように思えるのだが、それでも、上映の機会に恵まれていたとはとても思えない。また、ソロルド・ディキンソンのように、近年、再評価の動きが高まっているという話も聞かない。これからも当分のあいだは、日本でソルダーティの作品が DVD 化される事は、何かの間違いでもない限りなかなか望めないだろう。

実は、わたしもつい最近になってやっと3本ほど見たばかりなのだが、これがどれもなかなか素晴らしくて、ちょっと驚いているところである。ソルダーティは、一目でわかる映画的才能にあふれた映画作家という感じではなくて、どちらかというと巧みな語り手であるといったほうがいいだろうか。適切な題材と出合った時はいい仕事をするが、そうでないときは平凡な結果しか出さない。そういう監督である可能性は大いにあるが、少なくとも今回見た3本、特に『Malombra』と『Le provinciale』は、傑作といってもいい作品であった。

かれはそもそも小説家としてデビューし、海外でも翻訳が出るぐらいに成功した後に映画を撮り始めたのだった。作家出身の監督だからと簡単に結論付けてはいけないとは思うが、今回見た3本がどれも物語性に富んでいて、またその語り口が見事であるのはたしかである。もっとも、自作を映画化することもあったソルダーティだが、この3本の原作はどれもソルダーティ自身の小説ではない。

 

■ 『Malombra』(1942)

ソルダーティの代表作のひとつであり、また、カリグラフィスモの屈指の傑作のひとつとも言われる作品。わたしも、これがいちばん気に入っている。 19世紀末にアントニオ・フォガッツァーロによって書かれた同名の小説の映画化。映画の時代設定も19世紀になっていて、戦争などどこ吹く風と数奇な物語が語られてゆく(このように時代を前世紀などの過去に設定するのが、カリグラフィスモの特色のひとつであった)。

両親を失ったマリア・デ・マロンブラ侯爵夫人(イサ・ミランダ)は叔父によって引き取られ、アルプスの麓にある風光明媚な湖を見下ろす城館で暮らすことになる。彼女がそこから出て行くための条件はただ一つ、誰かと結婚することであった。厳格で冷たい叔父によってなかば幽閉されるようにして暮らすうちに、彼女は次第に正気を失ってゆく。そのきっかけとなったのは、彼女の先祖に当たるセシリア伯爵夫人が書き残した草稿を、寝室で見つけたことだった。セシリアは嫉妬深い夫によって幽閉されていたのだった。侯爵夫人は、このセシリアというすでにこの世にはない女性に次第に自己を重ね合わせるようになり、やがては自分をその生まれ変わりだと思い込むようになっていく。そこに、この一族とも縁があり、また魂の輪廻をめぐる本を書いてもいるコッラード教授なる人物が館に来て住まうことになる。侯爵夫人は、匿名で書かれたその魂の輪廻をめぐる本を読んでいて、作者に手紙を送りさえしていたのだが、コッラードがその作者だとは気づかない。侯爵夫人は、狂気の中で、厳格な叔父はかつてセシリアを幽閉した嫉妬深い夫の生まれ変わりであり、コッラード教授はセシリアが愛した男の生まれ変わりであると信じるようになる。病死した叔父の葬儀が行われる中、侯爵夫人は狂気に駆られてコッラードを殺すと、ボートで湖に漕ぎ出し、湖に飛び込んで息絶える。ちょうど遥か昔にセシリアがそうしたように。

湖をボートで渡って行き来するしかない閉ざされた城館という舞台、そしてそこで繰り広げられる物語もなかなかのゴシックぶりを見せている。イタリアにジャンルとしてのホラー映画はまだ生まれていなかったが、この映画にはホラーに近い雰囲気が随所に漂っている。ここからリカルド・フレーダやマリオ・バーヴァはそう遠くはない。

何度も言うように、19世紀に時代設定されていること自体が、ファシズムの現実を否定することであったのだが、その物語のなかでさらに、ヒロインは狂気に駆られて現実を拒否し、いっそう深い過去へと逃避する。この映画の全編にみなぎっている閉所恐怖症的な息苦しさは、同じくこの時代に撮られた次の『悲劇的な夜』にも同様に見られるものだ。

当初はアリダ・ヴァッリがヒロインを演じる予定だったが(ヴァッリは、ソルダーティの前作『Piccolo mondo antico』に出演していた)、諸事情でイサ・ミランダに変更された。ソルダーティはこの配役に満足していなかったとも聞くが、侠気のヒロインを演じるイサ・ミランダのあえかな演技は実に素晴らしく、アリダ・ヴァッリだったら(当時はまだかけだしだったとはいえ)、若干、たくましすぎる感じになっていたのではないかという気もする。

ちなみに、タイトルの "Malombra" はヒロインの名前であると同時に、フランス語で言うなら "mal"(「悪い」)+"ombre"(「影」)という意味も含み持つ。

 

■『悲劇的な夜』

デルフィーノ・チネッリの原作の映画化。これもソルダーティの代表作のひとつであり、カリグラフィスムに属する作品のひとつに数えられる。 この映画には城館も湖も出てこず、舞台装置にはゴシック的なところは少しもない。しかし、物語は『Malombra』ほど現実離れはしていないものの、やはり非常にロマネスクである。この映画は一言で言うならば、復讐の物語ということになるだろう。しかも、その復讐というのが、回りくどくて、 非常に陰湿なのである。

森の密猟者たちと、彼らを見張るサディスティックな森番とのあいだには長年の確執があった。あるとき森番が密猟者たちによって袋叩きに会う。密猟者たちは覆面をしていたが、森番はそのなかにナンニがいたことに気づく。森番は、うわべだけはすべてを水に流して忘れた振りをして、ナンニに近づくが、実は、かれはあの屈辱を受けたあと、2年もの歳月をかけて、復讐の準備を着々と進めていたのだった。ナンニの妻が、密猟者の幼馴染である領主の伯爵とプラトニックな恋愛関係にあることをかぎつけた森番は、密猟者をたくみにたきつけて、狩りの最中に事故に見せかけて伯爵を殺させようとする……。

『Malombra』に比べると舞台装置は地味だし、全体として際立った部分に欠ける作品ではある。しかし、この作品にもどことなく漂っている閉塞感は、ネガティヴなかたちで時代を反映しているようでもあり、興味深い。陰湿な復讐をねちねちと時間をかけて実行してゆくサディスティックな森番ステファノの容貌や、猟銃を担ぐしぐさがムッソリーニを彷彿とさせるといううがった見方もあるが、果たしてソルダーティによるこの俳優の起用と演技指導に、そのような意図が込められていたのかどうか。わたしには疑わしく思えるのだが、むろんありえない話ではない。

 

■ 『Le provinciale』51

モラヴィアの小説を映画化したもので、ソルダーティ自身がこれを自分の最高傑作と考えていたとも言われる。戦後に撮られた作品で、描かれる時代も、映画が作られたのとほぼ同時代を描いたものと考えてよく、したがって、一般にはカリグラフィスムの作品には数えられないはずである。

クラウディア・カルディナーレ演ずるヒロイン、ジェルメーヌが、なにやら思いつめた表情で家を飛び出し、質屋へ向かう。彼女はそこで宝石のついた指輪を売ろうとしたのだが、それがただのイミテーションの宝石だとわかり、うなだれて帰ってくる。ジェルメーヌは、彼女の夫と、もう一人いかにも品のなさそうなマダムと、自宅で会食をするのだが、その間もずっと思いつめた顔をしていたジェルメーヌは、何を思ったか、横に座っていたそのマダムを、手に持っていたフォークでいきなり突き刺す。マダムに命の別状はなかったが、ジェルメーヌの夫はわけがわからず、うろたえる……。

こんな風に映画は衝撃的なシーンとともに始まる。ジェルメールの夫同様、観客にも、最初は事態がまったく飲み込めない。続く回想シーンが少しずつ謎を解き明かしてゆくのだが、そこだけ見ると、この映画の構成は、ブレッソンの『やさしい女』のそれと似ていなくもない。ただ、違うのは、『やさしい女』では、回想の主体となるのが、妻の行動が理解できずに苦しむ夫だけだったが、この映画では、回想の主体が複数存在することだ。回想中心に映画は進んでいくのだが、その回想の語り手が次々と変わってゆくのである。一見トリッキーにも思えるこの語りに最初は驚くが、これが実に自然に、また効果的に使われており、ヒロインの最初は異常とも思えた行動の意味が徐々に明らかになるにつれて、見るものをぐいぐいと物語に引き込んでゆく。

金持ちと結婚して玉の輿の生活をすることを夢見る田舎娘が、結局はぱっとしない大学教授と結婚する。そこに悪魔のような女が近づいて来、娘の欲望とフラストレーションに付け込んで、ただならぬ道へと引きずり込んでゆく。イタリア版『ボヴァリー夫人』とでも呼べそうな内容の、下手をすればただの下品なメロドラマになりかねない物語を(フランスではこの映画は不当にも「愛を売る女」という扇情的なタイトルで公開された)、いわば力技で、非常に見事に、そして上品に映画にしていて、最後はちょっと泣ける話になっている。悪くない。ぜんぜん悪くない。

 

見たのはこの3作だけ出し、最高傑作との呼び声も高い『Piccolo mondo antico』もまだ見ていないので、性急な判断は控えたいが、今回見た作品だけから判断しても、マリオ・ソルダーティという監督は、到底無視できる存在ではないし、少なくとも、レナート・カステラーニなどよりは、よほどわたしの好みに合っていることはたしかである。日本ではネオリアリズム作品に注目が集まる一方で、正当な評価を得ることなく忘れられていったイタリアの映画監督が少なくない。ソルダーティはそんな作家たちの筆頭だったといってもいいだろう。彼以外にも、発掘すべき作家たちがきっとまだまだ埋もれているはずである。続けて探し出してゆきたい。

2016年3月26日
ロバート・シオドマク『大いなる罪びと』――ギャンブル、エヴァ・ガードナー、そしてゴダール

ロバート・シオドマク『大いなる罪びと』(The Great Sinner, 49)

『The Rocking Horse Winner』、『スペードの女王』……。偶然なのだが、なぜか最近、ギャンブルをテーマにした映画を見ることが多い。今回紹介するこの『大いなる罪びと』もまた賭けを描いた映画である。

ギャンブルを主題にした映画は、これまでそれこそ数え切れないほど撮られてきた。『スペードの女王』はサイレント時代にすでに映画化されているし、ほとんど映画の創造と同時に存在しはじめたといっていい西部劇において、ギャンブルはこのジャンルに欠かせない舞台装置のひとつであった。ギャンブルこそ明確に描かれてはいないが、カードゲームに興ずる人たちを撮影したリュミエール兄弟の『エカルテ遊び』までさかのぼるとすれば、それこそ賭けは映画の創成期から常に存在してきたといえるだろう。日本のやくざ映画においても賭博はなくてはならない要素のひとつであり、また『博奕打ち 総長賭博』や「女賭博師」シリーズなどにおいては、物語そのものを動かす原動力にさえなっている。

一口にギャンブルを主題にした映画といっても、カジノやパチンコ店、あるいはボクシング界を舞台にイカサマがらみの物語を描いた映画もあれば、『ハスラー』のようにギャンブラー同士の熾烈な勝負を描いた映画もあり、様々である。しかし、ロバート・シオドマクの『大いなる罪びと』が描くのは、いかさま師のたちの騙しあいでも、ギャンブラー同士の勝負でもない。ギャンブルに魅了され、その誘惑に抗えずに破滅していく一人の男の姿である。ソロルド・ディキンソンの『スペードの女王』も、賭けで破滅してゆく男を描いた映画だったが、どちらかというと賭けそのものよりも、それにまつわる数奇な物語を語ってゆくことに眼目がおかれていた。『大いなる罪びと』に描かれるのは、そういう外側から見られたギャンブルではなく、いわば賭博者の内面の戦いであるといってもいいだろう。それは、「大いなる罪びと」というタイトルにも現れている。日本人の感覚では若干わかりづらいのだが、キリスト教が根付いている欧米諸国において、賭博者は、勝とうが負けようが、誘惑に負けた敗残者、罪びとであるということなのかもしれない。ギャンブルを描いた映画に、「The Sin Unatoned」や、「The Sins of St. Anthony」などといった「罪」という言葉の入ったタイトルが多いのは多分偶然ではないのだろう。

グレゴリー・ペック演じる有名作家フェージャは、列車のなかで出合った美しい女性ポーリーヌ(エヴァ・ガードナー)に導かれるようにしてヴィースバーデン(ドイツ)のカジノに出入りするようになる。最初は、ギャンブラーを描く小説の取材のつもりだったのだが、ポーリーヌが父親のつくった借金のかたにされていることを知ると、その借用書を取り戻すつもりで自らもギャンブルに手を出す。はじめは負け続けるが、やがて強運が訪れ、ついにはカジノが一時ストップするほどの大金を手に入れる。しかし、カジノのオーナー(メルヴィン・ダグラス)は、適当な口実をもうけて借用書を渡すのを一日引き伸ばす。しかし、フェージャはそのたった一日を待つことができず、せっかく手に入れた大金を賭けで失い、挙句の果てに、自分がこれまでに書いたものだけでなく、これから先に書くであろうすべての著作物の権利までをカードゲームで賭けて、あっという間に負けてしまう。フェージャは教会で一人ひざまずいて自らの罪を懺悔するが、近くにあったお布施箱が目に入ると、それにまで手を伸ばそうとする……。

多くの人が指摘していることであるが、この映画のベースになっているのはおそらくドストエフスキーの『賭博者』であろう(ただし、クレジットはされていない)。大まかなあらすじや、ドイツを舞台にしていること、あるいは、登場人物の名前など、ドストエフスキーの小説との類似点は多々ある。重要な違いは、主人公が小説家という設定になっているところだろうか。ドストエフスキー自身が、この小説を書いていたころ、自分の著作の権利を借金の肩代わりにしていたことを考えると、それも物語に取り入れて脚色したということなのだろう。いずれにせよ、作家が自分の作品の権利までをも賭けの対象にするというのは、金や土地の権利をギャンブルで賭けるよりももっとずっと凄まじいものがある。ちなみに、ドストエフスキーの『賭博者』が正式に映画化されるのは、シオドマク作品の約10年後に撮られたクロード・オータン=ララ監督、ジェラール・フィリップ主演の映画『賭博者』(58) においてである。

ソロルド・ディキンソンの『スペードの女王』のように、一目でわかるような視覚的効果や演出はなされていないが、シオドマクはこの映画で、ギャンブルに堕ちてゆく一人の男の内面を、巧みな編集によって、まるで観客自身が目くるめく渦に飲み込まれてゆくかのような感覚と共に描いている。ギャンブルで破滅する人間を描いた映画はたくさんある。しかし、人がどうやってギャンブラーになるのかを、ドラッグのようにいったん知ってしまうと抜け出すことのできない賭けの誘惑を、これほど見事に描いた映画はあまりないのではないだろうか。そういう意味では、ギャンブルを描いた最高の一本といってもいいと思う。

シオドマクは、周知のように、ドイツからフランスをへてアメリカに渡った亡命映画作家である。アメリカに渡ったシオドマクは、先に渡米していた弟カートの手助けで、ユニヴァーサルと契約し、『幻の女』をはじめとする数々の名作をこの製作会社で撮ることになる。シオドマクのアメリカ時代は、ほとんどこのユニヴァーサル時代であるといってもいいくらいである。しかし、ユニヴァーサル一色の彼のアメリカ時代にも、RKOで撮られた『らせん階段』や、二〇世紀フォックスで撮られた『都会の叫び』など、他社に貸し出されて作った作品がほんの数本だけ存在する。実は、この『大いなる罪びと』もまた、シオドマクがMGMに貸し出されて撮った作品であった。

『大いなる罪びと』を見ていてまず驚くのは、俳優陣の豪華さだ。グレゴリー・ペックとエヴァ・ガードナーの共演というだけでも十分ゴージャスなのに加えて、エヴァ・ガードナーの父親役にウォルター・ヒューストン、そのウォルター・ヒューストンの母親役にエセル・バリモアという贅沢な配役。さらには、ギャンブラーたちが煙草入れなどの私物だけでなく、〈魂〉をも売り渡す場所として作中重要な位置を占める質屋の陰険な女店主をアグネス・ムーアヘッドが演じているというのもすごい。この豪華さは、ユニヴァーサルで撮られたシオドマク作品にはめったにないものだ。ウォルター・ヒューストンとエセル・バリモアの掛け合いには目を奪われるし、ほんの2回しか出てこないアグネス・ムーアヘッドも強烈な印象を残す。グレゴリー・ペック演ずる主人公と同じく、ギャンブルにおぼれて、娘の金まで平気で次々と賭けにつぎ込んでことごとく負けながら、いつも陽気に笑っていて、決して破滅のほうへは(少なくとも自ら進んでは)向かっていかないという意味で、主人公とは対照的な敗残者を演じるウォルター・ヒューストンはいつものように最高だし、ほとんど死に掛けていると思われていたエセル・バリモアが車椅子に乗って現れ、ヒューストンに乗せられてギャンブルの味を覚えたかと思うと、瞬く間に全財産(その遺産をウォルター・ヒューストンは当てにしていたわけだが)を失ってしまい、気づくとテーブルに背筋を伸ばして座ったまま死んでいるというシーンも忘れがたい。

しかし、このMGM的大作主義とでも呼べそうなものは、果たしてこの映画にふさわしかったのだろうか。この映画がユニヴァーサルで撮られていたら、ひょっとしたらもっと素晴らしいものになっていたかもしれないという気がしないでもない。もっと地味な俳優たちで、こじんまりと作られていたほうがこの作品には合っていたのではないだろうか。そもそも、エヴァ・ガードナーという女優はあまりにも華やか過ぎるのだ。オーラがありすぎて、どの映画に出ているときも、彼女がそこにいるだけで現実感が若干薄らいでしまうようなところがあり、いつも少し周りから浮いてしまう。彼女のそういうところが、わたしは少し苦手なのである。もちろん、そういう彼女でなければできない役もたくさんあるのだが(たとえば、『パンドラ』など)。

さて、ここからは余談になる。この映画のことを調べているときに、なぜかゴダールの名前がちらちら出てくるので、不思議に思っていたのだったが、その謎が解けた。この『大いなる罪びと』は、フランスで公開されたときに、"Passion fatale" (「破滅的な情熱」)というタイトルをつけられていた。ゴダールの『映画史』で、歌うエヴァ・ガードナーのイメージで始まるセクションのタイトル "Fatale beauté"(「破滅的な美しさ」)は、実は、このシオドマク作品のフランスでのタイトルにちなんで付けられたものだったのである(と、ゴダール本人が言っている)。そのなかでゴダールは、性と美と死と映画との宿命的な関係を考察し、女が常にキャメラの背後にいる男によって撮られてきたという映画の歴史が指摘されていたのだった。ゴダールの『映画史』は何度となく見ているのだが、今回、このシオドマク作品をはじめて見て、そう言えばそんなエピソードがあったなとぼんやり思い出したしだいである。

折にふれて、本気なのか冗談なのかわからない発言を繰り返しているゴダールの、これもまた言葉遊びに過ぎないのだろうか。それとも、ここにはさらに深く考察すべき何かがあるのか。ゴダールがエヴァ・ガードナー主演の『裸足の伯爵夫人』がお気に入りだったことは知られているし、そういえば、『さらば、愛の言葉よ』でも、ペック=ガードナー主演の『キリマンジャロの雪』が引用されていたのだった。しかし、エヴァ・ガードナーとゴダールのひそかな関係について考えるのはまたの機会にしよう。

2016年3月19日
ロイ・ウォード・ベイカー『The House in the Square』

20世紀を生きる科学者がふとしたきっかけで19世紀にタイムスリップし、そこで恋をする。そんな物語にいまさら何の興味がある? と思いながら見はじめたのだが、これがなかなか良くできていて、思わぬ拾い物だった。さすが、わたしの大好きな『火星人地球大襲撃』を撮った監督である。

近代的な実験室で、防御服に身を包んだ主人公の物理化学者(タイロン・パワー)が、なにやら核実験らしきことを行っているシーンから映画は始まる。B級SF映画を思わせる雰囲気の出だしだが、実際の内容はSFというよりはファンタジーに近い。主人公が科学者だから、何かの実験中にタイムスリップしてしまうのかと思いきや、家に帰ってきたところ玄関先で雷に打たれてそのまま19世紀に行ってしまうという、科学とは何の関係もない理由付けになっている(タイロン・パワーが科学者というのはにわかには信じがたいのだけれども、いかにも科学者らしいシーンは冒頭だけなので、そのうちに慣れる)。現代に帰ってくるシーンもやはり、ただ雷に打たれて帰ってくるだけだ。もっとも、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も、過去と現在の行き来は落雷のエネルギーを使っていたわけだから、この映画はそのルーツだともいえる(あちらは雷をちゃんと科学的に利用していたわけだが)。

正直言って、この映画には目新しいところはほとんどない。最初はモノクロで始まり、主人公がタイムスリップすると同時に画面が色づき始めてカラーに変わるという手法がとられているのだが、これも今となってはそれほど興味を引くものではない(マイケル・パウエルはすでに、『天国への階段』(46) のなかで、この世をカラーで、天国をモノクロで見せるという、意表をついたカラーの使い方をしていた)。

しかし、タイムスリップした主人公が、あまりにもいろんなことを知りすぎているために周囲から恐れられ、ついには狂人扱いされて、次第に追い詰められていくという展開はなかなか新鮮である。その過程も実に丁寧に、スリリングに描かれていて、最後まで飽きさせない。一人だけ彼を理解してくれている女性を演じているアン・ブリスのあえかな美しさも特筆に価する。

日本では DVD 化はされていない。原題は『The house in the square』だが、アメリカでは「I'll Never Forget You」というタイトルで公開されたので、こちらで検索しないとヒットしないかもしれない。 ロイ・ウォード・ベイカーという監督はときおり、おっと思う作品を撮る人なのだが、でき不出来の差が結構あって、もうこの人の傑作はあらかた見てしまったのではないかという気もする(そのなかでわたしが特にすきなのは、『火星人地球代襲撃』 を別格とすると、『脱走四万キロ』『残酷な記念日』など)。個人的には、『黒い狼』のちゃんとした DVD をなんとかTSUTAYAでレンタルしてくれないものかと思っているのだが、難しいか(日本でもいちおう DVD は出ているのだが、けっこうお粗末な代物らしい)。

2016年3月10日
『スペードの女王』とソロルド・ディキンソンについての覚書――イギリス映画の密かな愉しみ2

 

『Rocking Horse Winner』もなかなかの拾い物であったが、この『スペードの女王』は文字通りの傑作であったといっておこう。これも小説を映画化した原作ものであるが、とにかく出来がいい。いや、びっくりするほどよく出来ているといってもいい。

『スペードの女王』は、戦後まもなくに日本でも公開され、かつてはビデオ化もされていたようだ。しかし、今となっては、この作品を見たことがある人はそれほど多くはないだろうし、ソロルド・ディキンソンという名前に聞き覚えがある人もほとんどいないのではないだろうか。実はわたしも、つい最近になってこの監督の存在を初めて知ったばかりなのである。日本だけでなく、本国イギリスを始めとして、海外においても、ディキンソンはこれまで正当な評価を受けてきたとは言いがたい。そんな彼に、近年、新たな注目が集まり、再評価の動きが現れはじめたのには、例によって、マーティン・スコセッシの活動が少なからぬ影響を与えているようだ。スコセッシはディキンソンのことを、「イギリスにおける第一級の映画作家の一人である」と高く評価し、この『スペードの女王』についても傑作と絶賛している。わたしが見た DVD にもスコセッシによる短いが熱烈なイントロダクションが特典としてつけられていた。ディキンソンを高く評価している監督は彼だけではない。例えばジョン・ブアマンは、ディキンソンのことを、「マイケル・パウエルのように大胆で、デイヴィッド・リーンのように編集に無駄がなく、キャロル・リードように感情に訴えかける緊張感がある」と評している。

このようにプロからも高く評価されている映画作家が、なぜこんなに長いあいだ忘却に近い状態におかれていたのだろうか。その理由は定かではないが、彼のキャリアは最初からタイミングの悪さと不運につきまとわれていたというこことはできそうだ。ディキンソンの初期の傑作『ガス燈』(40) に感銘を受けたデイヴィッド・O・セルズニックは、すぐに電信を打って彼をハリウッドに招こうとした。しかし、ディキンソンは戦争を理由にこれを断る。もしもセルズニックの招待を受け入れていたなら、彼はヒッチコックがたどったのとちょうど同じような道をたどって、ハリウッドで成功を収めていたかもしれない。『ガス燈』は高い評価を得た作品だが、その数年後にはMGMによってバーグマン主演でリメイクされてしまい、その結果、ディキンソン版『ガス燈』は早々に市場から引っ込められてしまう。

こんなふうにどこかくすんで見えるディキンソンの映画監督としてのキャリアは、わずか20年ほどのあいだに9本の長編を作っただけで終わってしまう。しかし、彼の映画との関わりはこれで終わりはしなかった。1952年に現役を引退すると、ニューヨークを拠点に映画製作に携わり、その後、60年にロンドンに戻ると、英国で初めて大学に映画学科を設置し、67にはこの国で最初の映画研究の教授になった。ディキンソンは映画についての研究書も出していて、彼が書いたソヴィエト映画についての研究書は、あのジェイ・レイダ(『ゴダールの映画史』でも言及される人物)の高名なロシア映画史のなかでもたびたび引用されている。 ディキンソンは、まだ映画を撮り始める前の30年代の初め頃にすでに、エイゼンシュタインやヴェルトフの映画をロンドンの観客に紹介する活動を行っていた。ロシア・ソヴィエト映画についての彼の造詣の深さは、プーシキンの高名な小説を映画化した『スペードの女王』においても随所に発揮されている。

有名な小説なので『スペードの女王』の物語については詳しく書く必要はないだろう。19世紀のロシア。賭けトランプにとりつかれていた工兵士官シュヴォーリンは、賭けに必勝する秘密と引き替えに悪魔に魂を売ったと噂される老伯爵夫人に、下女を誘惑して近づくが、結局、秘密を聞き出す前に伯爵夫人をショックで死なせてしまう。落胆している彼の前に伯爵夫人の亡霊が現れ、トランプに勝つ秘密の数字を彼に教える。シュヴォーリンはその秘密を使ってトランプに勝ち続けるが、結局は、伯爵夫人の亡霊に呪われて破滅してゆく。

この小説は、ロシア映画のサイレント時代に『アエリータ』のプロタザーノフによってすでに映画化されている。こちらもけっして悪い作品ではなかったが、ディキンソン版と比べるとやはり地味な印象はぬぐえない。ディキンソンの『スペードの女王』も金のかかっている映画ではないと思うのだが、繊細な美術と見事な撮影(『マダムと泥棒』『血を吸うカメラ』のオットー・ハート)、そして映画的な創意工夫によって、とてもゴージャスな印象を見るものに与える。しかも、この企画はもともと別の監督の下で進められていたのだが、彼が突然降板したために、撮影開始のわずか5日前にディキンソンが急遽代役を務めることになったのだというから、作品の完成度になおさら驚いてしまう。

鏡、枝付き燭台、時代物の調度品の数々。石造りの歩道に落ちる影。逢引と陰謀の舞台となるオペラ座に舞う雪(墜落したドイツの航空機の防風窓に使われる合成樹脂から作られた偽物の雪)。ディキンソンはサイレント映画は撮ったことがないはずだが、20年代末にフランスで映画製作の現場を知り、ハリウッドでサイレントからトーキーへと時代が移り変わるのを目撃した経験からか、この映画にはどことはなしにサイレント映画の呼吸が感じられる。しかし、その一方で、彼は音に対しても大変なこだわりを見せている。画面のどこかで終始聞こえている風のうねり。あるいは、亡霊となった伯爵夫人がクリノリンのペチコートの裾をゆっくりと引きずるときのシュッ、シュッという音……(ディキンソンによると、ジェット機が飛び立つ音などをミックスして様々な効果音が作られたという)。ディキンソンは、限られた手段を巧みに駆使し、繊細に作り上げた音とイメージを見事に絡み合わせて、陰鬱で、息詰まるような世界を作り上げている。

主人公シュヴォーリンが立ち寄るかび臭い古本屋のメフィストフェレスを思わせる主人。伯爵夫人がカードの秘密を知るシーンで、彼女が謎の屋敷を訪れ、廊下の先の暗闇に飲み込まれていく瞬間(この数年前に撮られたコクトーの『美女と野獣』を彷彿とさせるとさせる)。悪魔に魂を売り渡してしまった伯爵夫人がマリアのイコン画に向かって祈りをささげた瞬間、絵のなかのマリアの顔にさっと影がさすという照明の巧みさ。伯爵夫人に近づくために彼女の下女を誘惑しようとしてシュヴォーリンが恋文を書いているとき(といっても恋文の指南書の文章を丸写しするだけなのだが)、テーブルの上の燭台を覆っていた蜘蛛の巣が、何も知らずに遠くで彼からもらった手紙をベッドの上でそっとなでている純情な下女の顔にオーヴァーラップしてゆく、あざとくも忘れがたいシーン。あるいは、ロシアの教会で行われる伯爵夫人の葬式を描いた驚くべき場面で、シュヴォーリンが棺に顔を寄せたとき、死んでいるはずの伯爵夫人の両眼がかっと見開かれる、あのぞっとするような瞬間。そして、姿を見せない伯爵夫人の亡霊が、声となって現れ、一陣の風がシュヴォーリンの部屋の中をかき回したかと思うと、次の瞬間には嘘のように消えている、悪夢のようなシーン……。

『The Rocking Horse Winner』に比べると、ずっとずっとホラーよりの作品ではあるが、ここでも、すべては主人公の狂気が見させた幻覚だったという解釈もできるつくりになっていて、その意味では、この映画もまたトドロフの言う「幻想」属する作品であるといえる。

わずかな予算のなかで、あるものすべてを最大限に映画的に活用する手腕において、ディキンソンにはエドガー・G・ウルマーなどに近しいものを感じるが、肝心のものを何も見せずに怪しげな恐怖の雰囲気を増幅させていくところは、ヴァル・リュートン製作ののホラーにも似ている。B級映画ファンにぜひ見てほしい一本である。

主人公を演じているアントン・ウォルブルックは『ガス燈』にも主演している俳優だが(彼がこの映画の監督にディキンソンを強く推したのだという)、日本の映画ファンにはマイケル・パウエルの『赤い靴』で芸術に憑かれた団長レルモントフを演じた男優といったほうがわかりやすいだろう。宮崎アニメに登場する魔女のような伯爵夫人役のイーディス・エヴァンスは、これが映画デビューだとは信じがたい、存在感を示している(もっとも、わたしはよく知らないのだが、彼女は演劇の世界では伝説的な存在であったようだ)。

『スペードの女王』が作られた49年のイギリスでは、ロバート・ハーメルの『カインド・ハート』、アレクサンダー・マッケンドリックの『ウィスキー・ガロア』、パウエル&プレスバーガーの『The Small Back Room』、そして『第三の男』といった、数々の傑作が撮られている。この作品の印象が多少かすんだとしても不思議ではないのかもしれない。しかし、それにしても、これだけの作品が今までほとんど忘れ去られていたというのはちょっと信じられない。

しかし、それと同じくらいに驚くのは、実は気づいていなかっただけで、このソロルド・ディキンソンという映画作家が、意外に身近な場所にいたことである。彼の代表作のひとつである『ガス燈』は、なんと驚いたことに、日本でも発売されているジョージ・キューカー版『ガス燈』の DVD におまけとして収録されていたのだ。これだけではない。冷酷なテロリズムに巻き込まれてゆく姉妹を描いたサスペンス映画の傑作『Secret People』も、『オードリー・ヘップバーンの初恋』というタイトルで DVD が出ているのである(この映画にはたしかにデビュー間もないヘップバーンが出演してはいるのだが、主演でもなんでもないし、邦題が匂わせているような「初恋」要素もほとんどない。まったくふざけたタイトルである。たしかに、だれも知らないソロルド・ディキンソンという監督が撮った『Secret People』として売り出すよりも、ヘップバーンの恋愛映画として売ったほうが、DVD の売り上げは桁違いに上がるだろう。しかし、このB級映画を潜在的に求めていた観客は、このタイトルではこの映画に近づかないだろうし、逆に、ヘップバーンの恋愛映画を期待してみた人たちは肩透かしを食うだろう。こういう DVD マフィアたちは、商品を売るためには何だってするが、肝心の映画のことだけは考えていない。人はこうして映画と出会い損ねるのである)。

2016年3月2日
アンソニー・ペリッシャー『The Rocking Horse Winner』──イギリス映画の密かな愉しみ1

グリアスンらによるドキュメンタリー運動、イーリング・コメディ、フリー・シネマ、ハマー・プロ……、といった映画史の概説に出てくるような事柄なら知ってはいるし、多数の作品を見てもいる。しかし、それ以外に自分はイギリス映画のことをどれだけ知っているのだろうか。正直言って、あまり自信がない。そんなことを痛感したのは、最近、監督の名前もタイトルもまったく聞いたことがないイギリス映画の佳作を何本か見たからだ。こんな素晴らしい映画があったなんて、どうして今までだれも教えてくれなかったのか。 今日はそのなかから2本の作品を紹介しようと思う。偶然だが(偶然なのか)、どちらも賭けにまつわる映画である。

 

■ Anthony Pelissier『The Rocking Horse Winner』

子供たちだけが大人にはない特殊な超能力を持っていて、独自の世界を生きている。そのために子供の世界と大人の世界のあいだに見えない亀裂が走り、大人たちには子供のことが理解できず、あるいはその本当の姿が見えない。そんな状態を描いた最初の映画は何だったのだろうか。アンソニー・ペリッシャー(名前の読み方がわからないので適当な表記だが)の『The Rocking Horse Winner』は、『光る眼』あたりを通って『シックス・センス』へといたるそんな〈子供映画〉の、最初とは言わないまでも、いちばん古い作品のひとつとは言えるかもしれない。もっとも、特殊な能力といっても、この映画に描かれるそれは、空を飛べるとか、時間を止められるとかいったたいそうなものではなく、それこそ幽霊が見えるなどといった、第六感に毛が生えた程度のものにすぎない。

この映画の舞台となるのはイギリスのとある上流家庭だ。いまこの家は経済的に困窮していて、家庭内には張り詰めた空気が漂っている。そんな状態にあっても父親のほうはろくに仕事を探そうともせず、それが高級志向の母親をなおさらいらだたせている。少年には、そんな家庭内のぴりぴりとした空気が〈ささやき〉として聞こえてき、そのたびに頭がおかしくなりそうになる。あるとき、プレゼントにもらった木馬に乗って遊んでいた少年の脳裏に、競馬の勝ち馬の名前が突然ひらめく。そしてそのとき、彼を悩ませていた〈ささやき〉も消えていたのだった。嘘のような話だが、その馬は実際にレースで一着になる。こうして少年は、新しく家にやってきた運転手の男と、叔父さんの3人で、木馬から予知した競馬馬に賭け、次々に大穴を当ててゆく。少年はただただ母親を助けるために、木馬に乗って競馬で賞金を稼ぎ続けるのだが、縁起を担いで、そのことを両親には秘密にし、貯まった金を、親戚からだと偽って定期的に母親の手に渡るようにしていた。両親はそんなこととは露知らず、その金で、高級な服を買い、毎晩のように夜会へと出かけてゆく。最初は楽しく始まった競馬もやがては義務とプレッシャーで少年を追い詰めてゆき、やがてスランプに陥ったとき、少年は木馬の上で狂ったように体をゆすりながら気を失い、そのまま意識不明の昏睡状態に陥ってしまうのだった……。

原作はD・H・ロレンスの同名小説。最初は子供向けのファミリー映画かと思ってみていたのだが、少年が狂ったように髪を振り乱し、顔中から汗をたらしながら、薄暗い部屋で必死に木馬を揺らしている姿を下から仰ぐように撮ったシーンの、壁に映る影とか、木馬の不気味な表情。そしてそこから、少年が絶命したあとに初めて事の真相を知った母親の手によって木馬が焼かれるラストまでは、ほとんどホラー映画のクライマックスに近いものがある。 子供が超能力を持つ世界といっても、この映画の少年が本当に木馬から競馬馬を予知できたのかどうかは、本当のところわからず、たんに超ラッキーだっただけかもしれない(実際、少年は、しきりと「ラッキー」という言葉を口にしている)。この映画に描かれる不思議な出来事は、合理的に説明可能であるともいえるし、また超自然的な説明をすることもできるという意味では、ファンタジーでもSFでもなく、ツヴェタン・トドロフいうところの「幻想」にまさに属する作品といっていいかもしれない。少年が主人公でありながら、彼の内面は周囲の大人たちには(そして観客にも)うかがい知れず、それゆえにひたすら不気味である。

テーマは一目瞭然で、浅薄な物質主義と愚かな虚栄心が批判されていると思うのだが、この映画に描かれる父親の影の薄さには、経済的な無力さだけでなく、性的な不能も暗に示されているのかもしれない。母親が高級な毛皮やバッグに向ける欲望は、そもそも、性的な欲求不満の代償であったともいえる。おそらく、ロレンスの原作(実は読んでいない)では、そのあたりがかなり強調して描かれているのではないか(『チャタレー夫人』からのただの推測だが)。ただし、この映画のなかでは、検閲のせいもあってか、そのあたりのことはほとんど暗示すらされていない。しかし、ラストでひとりで狂ったように木馬を揺らす少年の姿にマスタベーションへの示唆を読み取るのはそれほど難しいことではないし、彼の行為は、性的に満たされずにいる母親を満たしてあげたいという少年の欲望の表れであるという解釈も可能であろう。深読みだろうか?

ロレンスの原作をそつなく映画化しただけという気がしないでもないが、思った以上に面白かった。

もう一本紹介しようと思っていたが、長くなったので、またの機会にしよう。

2016年2月23日
クロード・ファルラド『テムロック』――アナーキー・イン・フランス

クロード・ファルラド『テムロック』(Themroc, 1973)

 

またしても奇妙奇天烈な映画を発見してしまった。いろんな映画を見てきたつもりだったが、まだこんなものが残っていたとは。つくづく映画とは奥が深いものだ。

それにしても、アンダーグランドの底深いところで作られた映画ならともかく、ここにはミシェル・ピッコリを始め、『クレールの膝』のベアトリス・ロマンや、ミュウ・ミュウといった名の知れた俳優たちも多数出演しているのだから、なおさら驚く(その多くはカフェ・ド・ラ・ガールの団員である)。ミシェル・ピッコリは数々の風変わりな役を演じてきたが(その中の最たるものは、『最後の晩餐』『Dillinger è morto』などのマルコ・フェッレーリが監督したいくつかの作品である)、この映画のピッコリの役は、彼が生涯に演じたあらゆる役のなかで最もエキセントリックなものといえるかもしれない。

見始めてまず驚くのは、この映画には台詞がないことだ。台詞がないといっても、『裸の島』のように登場人物がだれも喋らないわけでもなければ、『アーチスト』のように擬似サイレント映画風に作られているわけでもない。みんな普通に話しているし、その声も観客には聞こえている。ただ、彼らが話す言葉がまったく意味不明なのである。なにやら言葉らしきものを喋ってはいるのだが、もごもごと口ごもるようにして吐き出されるその言葉は、どこの国の言葉でもなく、ときには言葉としての体さえなしていない。それでも、彼らの間ではそれで十分にコミュニケーションが取れているらしく、だれも相手に聞き返したり、意味を尋ねたりすることもない。ただ、観客にはその言葉がまったく意味不明なのだ(この言葉の扱い方は、ジャック・タチの作品のそれを思い出させもする)。しかし、そんな風に理解可能な言葉がひとつとして発せられないにもかかわらず、観客にはおよその状況が理解できるように、この映画は作られている。

要約してみよう。

ミシェル・ピッコリ演じる主人公は、ビルの塗装の仕事をしている低賃金労働者で、毎朝バスで仕事場に行き、彼と同じような労働者たちに混じって、毎日同じような仕事を繰り返して生きているらしい(ロッカー・ルームでピッコリの同僚たちが、赤と白のユニフォームに着替えて2チームに分かれるシーンが出てくるから、一瞬、ラグビーの選手か何かと思ってしまう。紅白に分かれる理由は、結局、わからなかった)。あるとき、彼は、社長らしき人物が秘書と浮気をしている現場を、高いビルの窓から仕事中に目撃してしまう。たぶんそれが原因で、ピッコリは社長に呼び出され、なにやら小言を受ける。むろん、このときも、社長が語る言葉はまったく意味不明である。ピッコリのほうはというと、社長の一言一言に、ゴホゴホと咳き込むというか、その咳でもって返答するだけで、もはや意味不明の言葉さえまともに発しない(ピッコリと咳というと、この十数年後に撮られるゴダール『パッション』におけるピッコリの役をどうしても思い出してしまう)。

そして彼はそのまま社長室を出てゆくのだが、ここで何かがぷつんと切れてしまったのか、この直後からピッコリの行動は次第に常軌を逸してゆく。まずは、どこかから拾ってきたコンクリートブロックを荷台に積んで自宅に持ち帰ると、入り口のドアにそれを積み上げてセメントで固め、自分と家族をマンションの中に閉じ込めてしまう。もっとも、家族といっても何か説明があるわけではないので、ピッコリとの関係は推測するしかない。年老いた女は明らかに母親だろうが、ベッドで裸同然の姿で寝ている若い女(ベアトリス・ロマン)は誰なのか。ピッコリが彼女を見るときの様子などから、愛人とはいかないまでも、彼がひそかに淫らな感情を寄せている女なのかなと思ってみていたのだが、実は、彼女はピッコリの妹であるらしい。いずれにしても、もはやここには普通の意味での親子や、兄妹の関係は存在しないといっていい。

ピッコリは入り口のドアを封じる一方で、通りに面した窓の枠をハンマーで叩き壊しはじめ、それから、家のなかにあるテレビや家具など、ありとあらゆる文明の利器をそこから下に放り投げる。やがて騒ぎを聞きつけて警察の機動隊が出動してくるのだが、ピッコリはまったく意に介さず、逆にこの状況を楽しんでさえいるようにも見える。しかし、おかしいのはピッコリだけではない。警察のほうもどう見ても普通ではないのだ。現場に集まった野次馬の一人をぼこぼこに殴りはじめる警官がいるかと思えば、同じく現場周辺にいた若い女を羽交い絞めにしてレイプしはじめる警官たちもいる。一部の警官だけとはいえ、彼らがやっていることを周りの警官たちは、知ってか知らずか、だれ一人注意しない。

そうこうするうちに、近隣の住民たちのなかにピッコリの〈反乱〉に共感する者たちも現れはじめる。とりわけ、ピッコリの住居の向かいのビルに住む女は、彼の行動に激しく反応し、同じように自宅の窓枠をハンマーで壊しはじめ、彼女の夫もそれに理解を示すようなそぶりを見せる。やがて、そんな住民たちが数名、縄梯子を伝ってピッコリの住居に集まってくるようになる。

社会生活のレールから外れはじめたときから、ピッコリの口から発せられるのは、もはや意味不明の言葉でも、文節不明瞭な言葉ですらなく、アーとか、ガウガウとかいった、うめき声や叫びでしかなくなる。人間というよりは、まるで一匹の獣である。あるいは、石器時代の人間にまで退化してしまったといったほうが正確だろうか。だれかがこの映画のピッコリをレオス・カラックス作品(とりわけ「メルド」)におけるドニ・ラヴァンと比較していたが、そのとおりだと思った(機動隊によって投げ込まれた催涙弾の臭いをうまそうにかぐシーンなどを見ると、もはやこいつは動物でさえなく、宇宙人なのではないかという気さえしてくるのだが)。そして彼の周りに集まってくるものたちも、同じように、反社会化してゆくというよりは、社会性を次第に失ってゆく。彼らは、他人だろうと、兄妹だろうと、何のタブーも感じずに肉体的に交わる。

しかし彼らの奇行はそれだけにとどまらない。 ピッコリは、夜中、はしごを使って一人で夜の街に出かけてゆくと、警官を2名ほど殴り倒して自宅につれて帰り、それを丸焼きにする。そして、その人肉を、彼の周りに集まったものたちも嬉々として食べはじめるのだ……(人肉嗜食というテーマも、『ウイークエンド』(67)を通じてまたゴダールとつながるのだが、これは偶然だろうか)。

もうめちゃくちゃである。しかし、一見意味不明であるこの映画は、実に単純明快な作品であるとも言える。その場ではだれが支配者であり、だれが被支配者であるのか。だれが権力の側にいて、だれがその支配下にあるのか。そんなことは見ればわかることであり、いちいち説明する言葉など必要ないのである。だからこの映画には普通の言葉は一切話されないというわけだ(しかし、この映画に理解可能な言葉が欠落している理由は、それだけではないだろう。政治的、社会的、あるいはエディプス的な、全ての抑圧に逆らうというのであれば、それを支えている言葉というシステムもまた根底から問題視されるというのは、当然といえば当然のことである)。

むろん、ここには1968年5月の革命の、あるいはその挫折の余波が色濃く反映されているのだろう。同時代のフランス映画だけを取り上げるならば、この作品が撮られたころには、例えばギ・ドゥボールの『スペクタクルの社会』(74)のように5月以後の社会の現状を映画という媒体を通して分析し、そこに一定の理論を与えようとする作品や、ゴダールの『万事快調』(72)のように工場のストライキ騒動をジャック・タチ風に描きつつ労働と愛というテーマを取り上げた〈教育映画〉、あるいは、直接政治や社会問題が描かれるわけではないが、恋愛映画のなかに同時代の社会の空気を見事に描き出し、ある意味、絶望的に〈別の生〉への渇望を感じさせたユスターシュの『ママと娼婦』といった作品が作られていた。そんななかで、クロード・ファルラドの『テムロック』は、その是非はともかくとして、生産ではなく破壊というアナーキーな方向に最も振り子を切った作品のひとつであったことは間違いない(そこに、ジャック・ドワイヨンらによる『01年』を付け加えてもいいだろう。そこでは、〈すべてを止める〉をモットーに、労働も、時間割も、車も、テレビもない世界で、人々が気ままに散歩し、議論し、歌い、フリー・セックスに興じる世界、まさしくユートピアの01年が描かれていたのだった。事実、この作品は、当時の「カイエ・デュ・シネマ」において、『テムロック』と一まとめに論じられている)。

[それにしても「テムロック」とはいったい何なのだろう。映画のなかで、隣のビルの女と、催涙弾をラグビーボールのように投げ合いながら、ピッコリが「テムロック!」と何度も叫ぶシーンがあるだけで、結局、何の意味かぜんぜんわからなかった。それが実はピッコリ演じる男の名前だと知ったのは、映画を見終わってからだ(ひょっとしたら、途中にあるヒントを見落としていただけかもしれないが)。]

註:『01年』が当時話題になっていた漫画にインスパイアされたものだということは知っていたが、その漫画というのがあの「シャルリ・エブド」の漫画家ジェベのものだというのを知ったのはつい最近である。

2016年2月18日
ウジェーヌ・グリーン『La Sapienza』についての覚書

ウジェーヌ・グリーン『La Sapienza』(2014)

ただの覚書。

ほとんど棒読みのような抑揚のない台詞回し(アルティキュラション、書き言葉的なリエゾン)、カメラに真正面向いて話す俳優たち、そのミニマムな演技。似て非なるものだとあらかじめ断った上で、「ブレッソン的」と言いたくなる禁欲的スタイル(あるいは、『繻子の靴』のオリヴェイラ)。それでいて、ブレッソン作品のような画面連鎖のサスペンスは皆無。要するに、いつものウジェーヌ・グリーン……。

といえばそれまでだが、なかなかに興味深い内容で、最後まで飽きずに見られた。成功作といってもいいだろう。実際、このアメリカ生まれのヨーロッパ映画作家の長編第5作目となる本作は、彼の映画としては例外的に、映画祭などを中心に世界各地で頻繁に上映され、アメリカにおいても、グリーンが本格的に紹介されるきっかけになった。

『La Sapienza』を一言で言うなら、ウジェーヌ・グリーン版「イタリア旅行」とでもいうことになるだろうか。 名誉ある賞を受賞したパリ在住のスイス人建築家が、冷え切った関係になっていた妻を伴ってイタリアに旅立つ。彼の目的は、かねてより執筆を考えていたイタリアバロック盛期の建築家フランチェスコ・ボッロミーニの足跡を訪ね直すことだった。旅の途中、マジョーレ湖のほとりで、夫婦は、偶然、若い姉弟(あるいは兄妹)と出会う。「時代遅れの」謎の病に悩まされている姉を妻と共に後に残して、建築家は、建築家の卵だという弟のほうと、男二人でローマへと旅を続けることになる(ちょうどロッセリーニの『イタリア旅行』のバーグマンとサンダースが、イタリアでいったん離れ離れになるように)。二人の間にやがて師弟関係のようなものが生まれる。建築家は、若者に建築について教えているつもりが、実は、本当に教えられていたのは自分のほうだったことに気づく。建築においても、結婚生活においても、行き詰まり、意味を見失っていた彼は、旅の最後に、芸術の、人生の意味を新たに見出す。一方、建築家の妻と病気の姉は、モリエールの『病は気から』を観劇に出かけ、この劇の中に生へのヒントを見出していた。

知と光、愛と人生をめぐる省察。

建築とは光と人を迎え入れる空間である……。

"“To me, it’s obvious that it’s there. But that’s the Baroque way. In the Baroque period, there was no longer the feeling that God was visible in the world. God was hidden, like in Caravaggio: never a representation of God, always a light that comes from an invisible source. So that’s my way of expressing divinity in the modern world through cinema. It’s present, not through visual things, but in what the characters go through, the architecture, the movement of the camera. I don’t feel a need to have a direct discussion about it." (Eugene Green)

フランチェスコ・ボッロミーニの神秘主義とボロニーニの合理主義の対立(名前が似ているので混乱する)。 「わたしはボロニーニだ」(ボッロミーニではなく)と建築家は言う。ボッロミーニにあこがれるボロニーニ……。(モダンで合理主義的、物質主義的、官僚主義的なパリの描写から映画が始まっていたことを想起。)

作品のタイトルは、ボッロミーニの代表作のひとつ、サンティーヴォ・デッラ・サピエンツァ聖堂から取られている(映画のポスターなどに使われている写真に写っている建物)。チャペルの鍵をめぐるエピソードがユーモラスだ(グリーン自身の体験から来ているらしい)。

ウジェーヌ・グリーンについては、かつてこことかここに書いた記事を参照。

 

2016年2月9日
レオ・マッケリー『マイ・サン・ジョン/赤い疑惑』--反共プロパガンダ映画の臨界点

これはいろんな意味ですごい映画だ。レオ・マッケリーにさえこのような映画を撮らせてしまったとは、1950年代のハリウッドというのはなんと暗澹たる時代だったのだろう。

1940年代の半ばあたりから(正確に言うならば、1930年代に始まり、第二次大戦中の一時期をのぞいて)50年代の米ソ冷戦の時代に至るまで、ハリウッドで数多く作られたいわゆる「反共映画」(反共産主義プロパガンダ映画)については、すでに5年ほど前にここで簡単に紹介してある。ただ、そこで取り上げた作品は、基本的に40年代に撮られた作品ばかりだった。50年代の米ソ冷戦時代に作られた作品についてはほとんどふれなかったのだが、共産主義の脅威を扇情的に訴えかけるプロパガンダ映画の数は、この時代になって減るどころかますます増えていく。

1952年に撮られたこのマッケリーの『マイ・サン・ジョン』は、そんな冷戦時代のハリウッドで撮られた反共映画のなかで、いや、端的にいって、あらゆる反共映画のなかで、もっとも悪名高い一本なのである。(ちなみに、1952年は大統領選の年で、50年代前半に制作された反共プロパガンダ映画の3分の1近くがこの年に集中している。その中には、リベラル派として知られるあのドア・シャリーが製作した反共ドキュメンタリーの短編『The Hoaxters』も含まれる(註1)。)

40年代にハリウッドで撮られた反共プロパガンダ映画というのがどのようなものであったかについては、先ほどのページを読んでいただければだいたい分かると思うので、ここでは繰り返さない。50年代に作られた反共映画も、基本的には同じようなものだったのだろう。もっとも、わたしはこの時代に撮られた反共映画は数えるほどしか見ていない。あえてみる気がしないというのが正直な気持ちである。見る前から、見終わった後の疲労感がだいたい想像が付いてしまうと言ったほうがいいか。しかし、善悪2項対立の構図をつくり、極端な形でその一方を賛美・高揚するというのがプロパガンダの基本的あり方であるからには、時代が変わったからといって反共プロパガンダ映画のかたちがそう極端に変わるとは思えない。

ただし、プロパガンダ映画といえども時代の影響は多少なりともうける。40年代に撮られた反共プロパガンダ映画の多くが、ギャング映画やフィルム・ノワールに近いスタイルで撮られていたのは、これらのジャンルの作品がその頃に数多く作られていたからに他ならない。これに対して、50年代の反共プロパガンダ映画が特権的に活用したジャンルの一つが、SF映画であった。いわゆる〈侵略もの〉SF映画──宇宙からやって来た異星人たちが、人間そっくりの姿をして社会に潜り込み、知らず知らずのうちに地球を支配してゆく。隣人や親族がいつの間にかエイリアンに乗っ取られているという恐怖が、〈侵略もの〉SF映画の醍醐味である──は、自分たちの身近な人間がいつの間にかコミュニストになっているかも知れないという恐怖を扇情的に描き、反共を訴えかけるのにまさにうってつけのジャンルであった。英語では「敵性外国人」のことを「エネミー・エイリアン」と呼ぶわけだから、共産主義のスパイがエイリアンとして描かれるのもいわば当然だったと言える。(もっとも、これらの映画に描かれるエイリアンたちは、当然、共産主義者だと直接名指されているわけではないから、今これらのSF映画を見る観客たちは、これらのエイリアンがはたしてコミュニストを表しているのか、それとも逆に、コミュニストたちを弾圧しようとするマッカーシーイスムを象徴しているのか、どちらに解釈していいのか時として分からなくなる)。

前置きが長くなってしまったが、レオ・マッケリーの『マイ・サン・ジョン』という映画は、実に、この〈侵略もの〉SF映画とほとんどそっくりと言ってもいい構造をしているのである。

この映画が描くのは、ごくごく平凡なアメリカの一家だ。2人の息子たち(二人とも絵に描いたような健全なラグビー選手である)が両親に別れを告げ、米ソ代理戦争の地と化していた韓国へと(アメリカを共産主義から守るために?)出征してゆくところから映画は始まる。そこに、長い間留守にしていた一家の長男ジョン(ロバート・ウォーカー)が帰ってくるのだが、息子の変化に父親はめざとく気づく。この父親(ディーン・ジャガー)は、ごくごく気のいい男ではあるのだが、聖書を盲信し、アメリカを共産主義の魔の手から救わなければならないと本気で考えていて、在郷軍人会に出かけていって稚拙なスピーチをしたりするような頭の硬い人間でもあった(彼がナイーヴな愛国主義によって書き上げた自作の稚拙な詩をジョンの前で披露するシーンは、この映画でもっとも滑稽でおぞましい瞬間のひとつである)。

ジョンと父親は、宗教や愛国心をめぐって何度も口論し合い、そのうちに父親は、ジョンが共産主義者になってしまったのではないかと疑うようになる。母親(ヘレン・ヘイズ)のほうは、3人の中でもとりわけ出来のいいお気に入りの息子ジョンのことを信じ切っていて、夫に向かって「あんたは頭が悪いんだよ」といって息子をかばう(註2)。しかし、あるとき父親がジョンのことをコミュニストと呼ぶのを聞いてしまってから、母親の中にも小さな不安が芽生えはじめる。母親はジョンに、自分は共産主義者ではないと聖書に誓わせ、それで安心する。しかし、父親にいわせれば、共産主義者たちにとって聖書などなんの価値もないのだから、聖書に誓ったからといって真実を語っていることにはならない。

そこに偶然(あるいは偶然を装って)、一人の男(ヴァン・へフリン)が母親に近づいてくる。やたらジョンのことに関心を示すこの男は、実はFBIの捜査官だということが判明する。ジョンは、折しも世間を賑わせていた共産スパイの女の事件と関わりを持っていたらしいのだ。そういえば、母親は、名前を名乗らない女からジョンにかかってきた電話を何度か取り次いでいた。こうして母親の内に芽生えた不安は徐々に大きくなってゆく。 慌ただしくワシントンに帰っていったジョンからの電話で、彼が置いていったズボンを届けに飛行機でワシントンまで出かけていった母親は、ズボンのポケットに入っていた鍵が女共産スパイの部屋の鍵だと知り愕然とする(母親がその鍵で部屋に入っていく様子を隠しカメラで撮影したフィルムを、FBI の捜査官たちが上映してみているシーンがまた気味が悪い)。母親からも糾弾され、FBIの捜査官の追及も厳しくなり、ジョンはいったん国外に逃亡を図るが、最後になって思い直し、自首することを決意する。だが結局、その前にコミュニストのエージェントによって殺されてしまう。

なんとも居心地が悪いのはその後に続く場面だ。ジョンは死ぬ直前に、自分が共産主義を信じたのは間違いだったと告白した音声カセットテープを残していた。彼の死後、そのテープの告白が、彼の母校のクラスで、無垢な眼をしたティーンエージャーたちに向かって再生されるのであるが、これがまたなんとも不気味なのである。その告白のなかでジョンは、父親と母親を愛し、尊敬していると語り、教育を悪魔にも等しい悪だと断定する。教育は「刺激剤」であり、

「この刺激剤は麻薬のようなものになります。常習性の麻薬の売人が、蛇のような狡賢さで、無知な人間に最初の接種を行うのと同じように、別の蛇たちが若者の欲望を満たそうと待ち構えているのです。今この瞬間も、ソヴィエトのスパイたちがあなた方を見張っているのです」

まるで、知性を持つことが悪の始まりであるかのようだ……。

すでにかなりの長文になってしまったが、もう一つどうしても指摘しておかなければならない。マッケリーがこの映画で断罪しているのは、共産主義や、反体制主義、あるいは、ハート=心を忘れて(マッケリーにとって、結局一番重要だったのは「ハート」なのである)あまりにも知性的になりすぎることだけではない。非常にさりげなくほのめかされているだけなのでわかりにくいのだが、『マイ・サン・ジョン』のジョン(ロバート・ウォーカー)は、明らかにホモセクシャルであることが暗示されている。それはたとえば、彼に女から電話がかかってきた時に、母親が「息子にはカノジョがいる」と大はしゃぎする場面などが逆説的に雄弁に物語っている。そして、この映画のジョンは、このホモセクシャリティにおいても同様に断罪されているのである。ジョン役にロバート・ウォーカーが選ばれた理由の一つがそこにあったことは間違いない(むろん、『見知らぬ乗客』で彼が演じた役と重なるからである)。

こんな映画を本当にあのレオ・マッケリーが撮ったのだろうか? たしかに、マッケリーの政治信条を知らずとも、『恋の情報網』における愛国主義の発露、『我が道を往く』『聖メアリーの鐘』のカトリシズムの顕揚、『善人サム』の愚かさこそ善なりといった主人公の描き方を見れば、彼がどちらかというと右寄りで、小難しい共産主義とはほど遠い人物であったとしても不思議ではない。いってみれば、『我が道を往く』や『善人サム』の底流に流れていたものを論理的に極端に突き詰めて出てきた結論がこの『マイ・サン・ジョン』だったのである。しかし、それにしてもこれはあんまりだという気がしないでもない。われわれが『我輩はカモである』に見たと思ったあのアナーキズムはいったい何だったのだろうか。

この時期のマッケリーを雄弁に物語るエピソードがある。1947に行われた非米活動委員会による聴聞会で、「ロシアであなたの『我が道を往く』が公開禁止になったのはなぜだと思いますか?」と訊かれたマッケリーは、「あの映画の中には〈神〉がいるからです」と答えたというのである。さらに、1950年には、セシル・B・デミルと一緒になって、監督協会のメンバーたち全員に忠誠宣誓(公職に就く者に要求される、反体制活動をしないという宣誓)を求めたといわれる。 マッケリーがこの映画で、共産主義を本気で糾弾しようとしていたことはほぼ間違いないのだろう。

しかし、時として、極端はもう一方の極端にふれてしまうことがある。『マイ・サン・ジョン』の古めかしい愛国主義に凝り固まった愚鈍な父親の描き方は、あまりにも滑稽すぎて、もはやパロディにしか思えない。同様に、共産主義者だと分かったとたん、あんなにも愛していた息子を、怪物でも見るように見る母親の姿も、これまた哀れなほどに愚かしく、とても共感を呼ぶようには思えない。ひょっとしたら、この映画は、一見、反共プロパガンダ映画を装ってはいるが、実は、共産主義を盲目的に悪だと決めつけ、愚かしい愛国主義を押しつけてくる者たちをあざ笑っているのではないかとさえ思えてくる。だが、一方で、窮地から脱するために、母親を精神病院に入れようとさえ考えるジョンにも、やはりおぞましいものを感じずにはいられない。

この映画は時として、教育映画のような印象を見る者に与える。しかし、ではこの映画はいったい何を教えようとしているのだろうか。それが一向に判然としないのである。教育すべきことが判然としない教育映画とは、なんとも居心地悪いものである。

この映画をまがまがしいものにしている理由が他にもある。実は、映画の完成直前にジョン役のロバート・ウォーカーが亡くなってしまったのである。ジョンがワシントンから故郷の母親に電話をするシーンで、電話ボックスのウォーカーがほとんど目にもとまらぬほどの短いショットでインサートされ、しかも母親の音声しか聞こえてこないという奇妙な編集がされているのを見て、これはいったい何事かと思ったのだが、理由はこれだったのである。未撮影のシーンを残してウォーカーが死んでしまったので、マッケリーは仕方なしに、ヒッチコックの『見知らぬ乗客』の彼の出演シーンをこの映画に流用したのである。その結果、『マイ・サン・ジョン』のウォーカーには、コミュニストのスパイだけでなく、殺人鬼のイメージまでがオーヴァーラップすることになってしまったというわけだ。

この映画のことを前回取り上げなかったのは、リストの範囲を40年代に絞ったからという理由だけではない。単純に、この作品がまだソフト化されておらず、見ることがかなわなかったのである。これは日本だけに限った話ではなく、『マイ・サン・ジョン』という映画は、アメリカ本国においても、長い間なかなか見ることが難しい作品であり続けていたようだ。この作品がハリウッドの反共プロパガンダ映画の中でもとりわけカルト作品になってしまったのには、これがいわば不可視の作品であったということも少なからず関係しているに違いない。それが今では、こんな映画でさえも、ブルーレイの美麗な画質で見ることができるとは、実にありがたいと同時に、なんともあっけない気がしてしまうのは、贅沢というものだろうか。

日本では未公開なので、「赤い疑惑」という副題は、テレビ放送時に付けられたものである(とりあえず、山口百恵に謝れといいたい)。

註1:1952年製作のハリウッド映画についての同時代の総括としては、例えば、マニー・ファーバーの「Blame the audience」(1952) という文章などを参照のこと。ちなみに、ファーバーは彼なりの論理で、この作品をこの年のベストフィルムの一つと考えていた。

註2:実際、この父親も母親も、教育の低い無知な人間として描かれている。マッケリー自身はこう語っている。「この両親には教育がありません。ふたりは全財産をつぎ込んで息子たちに高い教育を受けさせました。でも、子供たちのひとりが賢くなりすぎてしまったのです。これが問題を突きつけます。人はいったいどこまで賢くなれるのでしょうか? 母親が読んだことがある本はたった2冊、聖書と料理本だけです。それにしても、本当に賢かったのはどちらなのでしょう。母親でしょうか、それとも息子でしょうか?」

2016年1月29日
ラオール・ウォルシュ『賭博の町』

ラオール・ウォルシュ『賭博の町』(Silver River, 48)

41年の『壮烈第七騎兵隊』より始まる、ウォルシュとエロール・フリンが組んだ全7作の最後を飾る映画(なぜかこれだけ見逃していた)。

賭博場、銀鉱山、銀行の設立、インディアンの襲撃……。西部劇でおなじみの要素がぎゅっと詰まった、いつものように傑作。 ただし、この映画のエロール・フリンは、他のウォルシュ作品やそれ以外の彼の出演作とはいささか趣が違う。南北戦争中、軍のためにやったはずの行いによって不当にも除隊を余儀なくされた彼は、以後、自分のルールのみを信じて己の内に閉じこもるようになる。賭博場を開き、その儲けで銀鉱山の権利を手に入れ、銀行まで設立して、町を一人で支配するまでに至った彼は、自分が欲する女の夫(彼は銀鉱山の持ち主でもあったのだが)を、危険と分かっている地域にみすみす行かせ、結果的に彼を死に至らしめ、そのことを黙ったまま、女を妻にする……。

いつになく複雑でダークなこの映画のフリンは、この直後に登場しはじめる新しい西部劇(アンドレ・バザンいうところの「超西部劇」)、とりわけアンソニー・マン作品における登場人物たちの複雑なサイコロジーを先取りしていたかのようである。 暗黒面に堕ちそうになるフリンをいさめる良心の声ともいうべき弁護士役のトマス・ミッチェルが、これまたいつものように素晴らしい。フリンが次第に権力者にのし上がっていって誰も刃向かうことができなくなっていっても、彼だけは変わらずに己を貫く一方で、酒におぼれる弱さも見せる(酔っぱらっていないトマス・ミッチェルがいただろうか?)。ときに傍観者のように、ときにピエロのように振る舞う彼は、シェイクスピアに登場する重要な脇役のようでもある(シェイクスピア的でないトマス・ミッチェルがいただろうか?)。

 

2016年1月28日
ショーン・ベイカー『Tangerine』── iPhone で撮られたバーレスク・コメディ

しばらくまともに更新していなかったので、その埋め合わせに、年末からずっとハイペースで更新を続けていたのだが、そろそろペースダウンしようと思う。書くネタならいくらでもあるが、あんまり急いで更新していると、書く内容が散漫になってくる。それに、頻繁に更新したからといって急激にアクセスが増えるわけでもない。特にいいことがあるわけでもないので、これからはもうちょっと間隔を開けて更新をしていこうと思う。

* * *
一本の映画がまるまる携帯電話によって撮影され、それが世界中で公開される。とにもかくにも凄い時代になったものだと思う。

ショーン・ベイカーの『Tangerine』は、何よりもまず、全編が iPhone のみによって撮影されたことで世界の注目を浴びることになった映画である。今の携帯電話の動画機能の驚くべき進歩についてあまり詳しくないものなら、それはさぞかしチープな映像に違いないと思うかも知れない。たしかに、キャメラのアングルやポジションはいささか変化が乏しく、単調な印象を与えはする。しかし、映像自体にはほとんどチープさは感じられず、わたしのような素人の目には金をかけた大作映画の画面とそれほど大差のないものにさえ思えた。もっとも、テレビの画面で見ただけなので、映画館の大スクリーンで見たら、また違った感想を持つのかも知れない。(彼がこの映画の撮影にどういうアプリを使ったか、どうやって撮ったのかは、いろんなインタビューで語っているので、独自に調べていただきたい)。

そんなわけで、作品自体よりもその撮られ方のほうにもっぱら注目が集まっているこの映画だが、意外と古風な映画だったというのが見終わっての素直な感想である。といっても、古風なというのは別に悪い意味ではない。いかにもタランティーノ以後の作品という雰囲気を漂わせつつも、この映画にはキーストン・コメディ以来のどたばた喜劇の伝統がそれとはなしに感じられる。その影響が見て取れるとか、そういうものを意図して撮られたといいたいわけではない。ただ、何気ないことをきっかけに始まった「追っかけ」が雪だるま式にふくらんでいって、最後は大勢を巻き込んでの大騒動になるというのは、大昔からあるコメディのパターンであり、この映画は、ある意味で、それをきちんと踏襲して、なかなかうまく作品をまとめ上げているということである。

ただ、そんな古典的なコメディとこの映画が違っているのは、「追っかけ」の中心にいるふたりが、ハリウッドのストリートで客引きをして生計を立てているニューハーフであり、しかも彼らは、監督が街でスカウトした本物のニューハーフだということだ(とりあえず、「ニューハーフ」という言葉を使ったが、これでよかったのか。英語だと「トランスジェンダー」という便利な言葉があるのだが、この言葉は日本ではまだそれほど市民権を得ているようには見えない。ちなみに、「トランスジェンダー」ではない人たちのことは、「シスジェンダー」と呼ぶのがポリティカリー・コレクトのようだ)。主役ふたりがニューハーフというのはともかく、それを演じるのが素人のニューハーフというのは、ハリウッドのメジャー映画ならあり得なかったことだろう。

『Tangerine』の監督が社会的にマージナルな存在に寄せる関心はこれだけではない。ふたりのニューハーフ(シンディとアレクサンドラ)の物語とは別に、ショーン・ベイカーはアルメニア人のタクシー運転手を登場させ、この一見無関係な二つの物語を同時並行させて描いていく。彼のタクシーには酔っぱらいからネイティヴ・アメリカンまで、社会の落伍者や周縁的存在が次々と乗り込んでくる。一方、彼自身も、多くの家族を抱え(彼以外はほぼ全員英語が話せない)、妻がいる身でありながら、シンディやアレクサンドラのような男の娼婦相手に自分の欲求を抑えることができない。ふたりのニューハーフの物語がこの映画の物語の縦糸だとするならば、このアルメリア人のタクシー運転手とその家族の物語は、この映画の物語の横糸であり、この二つの物語が最後に一つになる時、混沌はクライマックスに達する。

もっとも、タクシー運転手こそ登場するが、この映画は基本的に「歩く」映画である。理由は簡単で、ふたりのニューハーフは車を持っていないし、金もないからだ(そしてこの映画のスタッフにも金がないからだ)。だから、彼らの移動手段はもっぱら二本の足であり、たまに乗り物を利用することがあっても、それは市バスだったりする(ハリウッドを舞台にした映画で、こういうふうに市バスが登場するのは珍しいのではないだろうか)。そんなわけで、狂ったように街を歩き回るふたりをキャメラは追いかけてゆくのだが、その中で、何度もこの街を描いてきたはずのアメリカ映画が見せたことのなかったような都市の横顔が、ふいに浮かび上がる瞬間がある(『Los Angeles Plays Itself』のトム・アンダーセンもこの映画は気にいるのではないだろうか)。そういえば、ジャームッシュの映画を初めて見た時もこんな感覚を覚えたな。ふとそう思ったりもする。むろん、そういう感覚は、この映画のほんの稀な瞬間に訪れるだけである。最初にもいったように、『Tangerine』が全体として与える印象はどちらかというと古風なものであって、ジャームッシュを初めて見た時の衝撃とはほど遠い。

しかし、この映画にはインディーズ映画ならではの美点がいろいろあることもたしかである。監督のショーン・ベイカーは、インタビューなどで、本当は金のかかった映画を撮りたかったと繰り返し語っている。『Tangerine』の成功で彼は間違いなくメジャーへの道を進むことになるだろう。その時、彼が次に撮る映画に、この映画が持っていた少なからざる美点──それらはすべて、幸か不幸か資金不足がもたらしたものだった──がどれほど失われずにいるか。そのあたりをじっくり見定めたいと思う。

 

日本では未公開だと思っていたが、東京国際映画祭で上映されたことがあるらしい。案外、見ている人が多いのかも知れない。

監督のバックボーンについては全く調べていないのでほとんど知らない。知っているのは、彼が映画を撮りたいと思うようになったきっかけが、ジェームズ・ホエール『フランケンシュタイン』のラストで館が焼け落ちる瞬間を見たときだったということ。それから、彼がブノワ・ジャコの『シングル・ガール』が好きなこと、ロメールからブリュノ・デュモンにいたるフランス映画が大好きだということくらいだ。もっとも、ブノワ・ジャコ云々はフランスのメディアについて語った時の言葉なので、多少のリップ・サーヴィスも混じっているのかも知れない。

2016年1月24日
ドミニク・ブニシュティ『従兄ジュール』

備え付けの古めかしい大きなドリル、その横には万力がおかれている。埃だらけのテーブルの上に所狭しと並べられた大小様々のやっとこやハンマーを、キャメラは横移動でなめるように映し出してゆく。どうやらここはなにかの作業場らしい。剥き出しの地面には、入り口から入り込んだのか、3匹の鶏が勝手に動き回っている。やがて小屋とは別の住居らしき建物の扉が開き、中から現れた老人が、表においてあった靴を履いて歩き出す。そのカツカツという響きからそれが普通の靴ではなく、木靴であることに気づく(この映画が撮られた時代を考えるならば、この頃になってもまだ木靴を履いて生活している人がいたのかと驚く)。近くの道路からだれかが通りすがりに声をかける。そのやりとりから、老人の名前がジュールだということが知れる。

老人は先ほどの仕事場にやってくると、おそらく湯などを沸かす時に使ったりするらしい小さな竈に藁くずを入れて火を付ける。それから、さっき映った工具がずらりと並べてあったテーブルの上に木くずのようなものをばらまくと、木くずはたちまち赤くなって燃え出す。テーブルだと思っていたものはどうやら大きな竈の一部だったらしい。老人がすかさずテーブルの上に散らばっていた小さな石ころのようなものを集めて燃えはじめた木くずに振りかけると、炎は突然めらめらと勢いをまして燃えはじめ、それと同時に、ガシャン、ガシャンというけたたましい音がどこかから聞こえてくる。

一瞬何が起きているのかわからなかったが、ガシャン、ガシャンというものすごい物音は、『千と千尋の神隠し』の釜爺が使っていたのもこんなのだったかと思わせる古めかしい巨大なふいごから空気が送り出される音だった。老人は手元の鎖ひもを使って画面奥に見えるふいごを操作していたのである。いったい何を作っているのか一向にわからないが、そのふいごを使って竈で真っ赤になるまで熱した金属を、老人は次々と、ハンマーでリズミカルにたたきながら、器用に変形させてゆく。

『従兄ジュール』とぶっきらぼうに名付けられたこの映画はそんなふうに静かに始まる。いや、静かにというのは正確ではない。冒頭からこの映画には静謐な雰囲気が漂っている一方で、いたるところに様々な音が満ちている。木靴がたてるカツカツという靴音、ふいごから空気が送り込まれるガシャガシャという音、バチバチと炎のはぜる音、真っ赤になった鉄をハンマーでたたく音、金属板の上に置いたハンマーがカタカタと震えてから平衡状態になって止まる音……。何気ないこれらの音が驚くほどクリアに聞こえてくるのだ。

おそらく老人の妻らしき老婆が、表でジャガイモの皮を剥いている。ふたりはそのジャガイモを茹でた料理を小さなテーブルを囲んで食べる。それから、彼女は井戸で水をくみ、仕事場の竈でお湯を沸かせてコーヒーを淹れ、ふたりで椅子を並べてそれを飲む。ふたりともほとんど何もしゃべらない。おそらく、これら一つ一つの行為やしぐさは、これまで毎日のように繰り返されてきたのであろう。ふたりの間にも、今さら余分な言葉など必要ないといった空気が流れている。 台詞がほとんどないだけではない。冒頭、ロケ地を示す短い字幕が入るだけで、この映画にはナレーションもまったくない。見るものはだから多くを推測するしかないのだが、ここに描かれているのは、あえて推測するまでもないシンプルきわまりない世界であるとも言える。

フランス、ブルゴーニュ地方の田園地帯。見渡すかぎりに野原と雑木林が広がるその緑の中にその家はぽつんとある。おそらくは一番近い隣家でさえも数キロ離れたところにあるのだろう。そんなふうに隔絶され、時間さえもが止まってしまったような世界で、ほとんど儀式と化した日常が繰り返される。映画に描かれるのはたった一日の出来事(のように見える)のだが、ふたりが見せる一つひとつの所作には何十年という時間が刻み込まれているのが見ていて感じられる。

しかし、何とも不思議なのは、この素朴きわまりない世界が、見事なカラーによるシネマスコープの大画面とステレオ音響によって再現されていることだ。ゴージャスなカラー、シネスコの大画面で撮影された『草とり草紙』といった作品を想像してもらえれば、この映画の雰囲気がいくらか分かってもらえるだろうか。

監督の Dominique Benicheti ドミニク・ブニシュティ(とりあえずフランス語の綴りの規則通りに読んでみたが、この呼び方でいいのだろうか)は、この映画をこのフォーマットで撮ることにこだわったという。当時のフランスでは、この手の映画は、アート系の映画ばかりを上映する cinema d'essai と呼ばれる映画館でしかなかなか上映が難しかったのだが、そういう映画館が、シネスコでステレオサウンドの映画を上映できる設備を備えていることはまだ稀だった。作品のフォーマットを変えればもっと多くの劇場で上映されたはずであるが、ブニシュティはそれを頑なに拒んだという。『従兄ジュール』が、公開当時に多くの批評家から高い評価を得ながら、すぐに忘れ去られていったのには、監督のこのこだわりに一因があったことは間違いない。

それどころか、2000年代になってこの映画の修復を自ら手がけはじめた彼は、最新のデジタル技術によってこの作品を3D映画として甦らせることさえ試みていたというのだ(結局、彼はその途中で他界してしまうのだが)。時代の流れからぽつんと取り残されたような世界と、最新の映像テクノロジーとの何とも奇妙な結びつき。正直、監督のこのこだわりにはわたしの理解を少し超えたところがある。

そもそも、この映画はシネスコで撮影される必要が本当にあったのだろうか。老人と老婆がいかにも田舎の農家らしい小さなテーブルを囲んで食事をする場面では、最初しばらくの間、この横長の画面に老人だけが映し出される。てっきり彼一人なのだと思っていると、不意にキャメラが右にパンし、向かいに座っている老婆を映し出すのだ。しかし、今度は老人の姿が画面から消えてしまい、われわれは老婆だけを眼にすることになる。するとキャメラは今度は左にパンをし、老婆を画面から閉め出す代わりに、また老人だけを捉えてみせるのだ(シネマスコープの横長の特性をあえて無視したようなフレーミング)。

一方、屋外の田園風景を撮ったショットでは、シネスコの画面は緑の広がりを申し分なく見事に捉えてみせる。ただ、ここでも、多くの場合、キャメラは、道や川が画面に平行に収まるようなかたちで、遠い位置から風景を映し出すだけだ。いささか単調なキャメラワークという印象を与えるが、それも、ずっと見ているうちにミニマリズムの作品を見ているような効果をもたらしはじめるから不思議だ。(ちなみに、この映画の撮影監督はふたりいて、そのうちのひとりは『アメリカの夜』のピエール=ウィリアム・グレン。)

ここでは事件など何も起こらないし、起きようがないように思える。事実、映画は老人の周りの日常を淡々と描き出してゆくだけのように見える。しかし、ふと気づくのだ。老婆の姿をしばらく眼にしていないことに。老人があの仕事場に寄りつかなくなったことに。あまりにも淡々と進んでいくので気がつかなかったのだが、そういえば先ほどから老人は、一人でテーブルに座って紅茶を飲み、一人で料理を作り、一人でベッドメイキングをしている。薄々感じられていたことは、映画の終わり近くになって彼が一人で服のボタンを付け直す姿を見て、確信に変わる。

夜の暗闇の中にぽつんと浮かび上がる明かりのともった窓越しに老人を捉えたショットにつづいて、無人の仕事場が映し出され、映画は終わる。そこに、老人の名前と生年を示す「ジュール:1890年生まれ」という字幕が現れ、そのあとに老婆の名前(ここで初めて彼女の名前がフェリシーだということが分かる)と、彼女の没年が「1971年」と記され、「この映画は1968年から1973年までの間に撮影されたと」と書かれているのを見て、やはり彼女は撮影中に亡くなっていたのだと分かった時、わたしは鈍い感動がこみ上げてくるのを抑えられなかった。

ところで、この映画はいったいどういうジャンルに分類されるのだろうか。一応はドキュメンタリーということになるのだろう。老人は監督の従兄にあたる人物で(映画のタイトルはそこから)、実際にこの家に妻のフェリシーと一緒に住み、この映画に描かれたような暮らしをしてきた。この映画はそれをありのままに描いているように見える。たしかに、キャメラのポジションなどから多少の演出はあったのだろうということは、見ている時から推察された。しかしそれぐらいのことなら『北極の怪異』の頃からドキュメンタリーの許容範囲であったはずだ。だから、これは純然たるドキュメンタリーだといわれても特に疑問は感じなかっただろう。

しかし、見終わった後で、監督自身が話している映像を見てみると、この映画が思った以上にフィクションに近かったことが分かってくる。撮影前には詳細な絵コンテが準備され、その通りに撮影が進められていたようなのだ。 何も知らずに見たならば、この映画はある一日の老人を朝から晩まで描いた映画のように思える。しかし実際には、この映画の撮影には数年の月日がかかっていたのである。これもこの映画のフィクションの部分ということになる。 しかし、この映画に限らずドキュメンタリーか、フィクションかというのは截然と分けることができるものでもないし、結局のところ、そんなことは問題ではないのだ。老夫婦はひょっとしたらキャメラの前で日常を演じていただけなのかも知れない。しかし、それは同時に彼らが実際に生きてきた日常だったのである。

2016年1月20日
沢島忠『間諜』

なんというか、単純に面白かったですね。 ベテラン監督沢島忠による時代劇なんですが、タイトルからもわかるようにスパイ映画でもある、そういうちょっと変わった作品です。

1964年の作品だから、東映がいわゆる集団時代劇によって新風を吹き起こしていたというか、その最後のあだ花を咲かせようとしていたときに撮られた映画ですね。東映が時代劇から任侠映画へとシフトしていくちょうどその境目で、試行錯誤が重ねられ、ときに実験的な試みも行われる。そういう背景の中から現れた時代劇の一本と言っていいでしょう。 いわゆる明朗時代劇とは全然違うし、また集団時代劇とも違うアクション時代劇ですが、山根貞男が集団時代劇に見た「死との戯れ」「陰惨な活劇性」といったものは、明らかにこの作品にも存在しており、その意味では、『十三人の刺客』などの作品と同じ空気が感じられる映画と言えます。

3人の間諜=スパイが主人公の映画で(スパイを演じるのは、内田良平、松方弘樹、緒形拳。今でこそ豪華な顔ぶれですが、この当時はそれほどでもなかったはずです)、その意味では、たしかにスパイ映画なのですが、忍者映画に近い部分も多分にあります。情報戦というよりは、アクションに重きが置かれて作られているスパイものといってもいいでしょう(そもそもこの頃は情報といっても、盗み出すべきテープもマイクロチップもなかったわけですし)。

しかし、松方弘樹が敵に捕まった仲間を助けに行く場面での、下水口(?)の柵越しのショットとか(ワイダの『地下水道』のラストのような)、内田良平と松方が垂直の断崖をロープ(というか、縄)一つでロッククライミングしていく場面などは、時代劇ではあまり見たことのない画面であり、今見てもなかなか新鮮です。あと、松方と野川由美子が、あれは何というのでしょうか、雨露に濡れた製糸場のような場所の間をゆっくりと歩きながら、初めて愛を確かめ合う場面も忘れがたいですね(どちらかというとかなりドライに作られているこの映画で、珍しく情感のあふれる場面です)。 阿波踊りの盛り上がりをアクションに転化させていくところなどは、マキノの『阿波の踊子』を思い出させますね。

ちなみに、沢島忠はこの前年に鶴田浩二・高倉健主演で『人生劇場・飛車角』を撮っており、これが任侠映画の始まりとされています。山根貞男は、集団時代劇に描かれた「死との戯れという要素」は、「任侠やくざ映画の内部」へととめどなく内向してゆくと分析していますが、そういうふうに見ると、この映画のラストで松方弘樹がたった一人で敵陣に突っ込んでいくシーンは、任侠映画のクライマックスのようにも見えてきます。

2016年1月18日
クシシュトフ・ザヌーシ『カムフラージュ』

クシシュトフ・ザヌーシ『カムフラージュ』(77)

傑作だと思った。

わたしがこれまでに見たザヌーシの映画は、『結晶の構造』『イルミネーション』『家族生活』『太陽の年』『巨人と青年』のわずか5本に過ぎない。どれも興味深い作品だったが、実を言うと、心から面白いと思ったことは一度もなかった。しかし、この『カムフラージュ』は最初から最後まで本当にいろんな意味で面白い映画だった。

クシシュトフ・ザヌーシは、68年に『結晶の構造』で長編デビューするのだが、これは70年に物価高騰に抗議する労働者たちによる暴動、いわゆる〈12月事件〉が起きたのをきっかけに、ポーランドがギエレク政権へと移行する時期とほぼ軌を一にしている。この政権下でポーランドは70年代の前半に〈奇跡〉の経済回復を遂げる。こうして、しばらくは政治的安定が保たれるのだが、70年代の後半になると、ギエレク政権は高度経済成長政策の失敗から深刻な経済危機を招き、76年6月にはふたたび物価高騰に抗議する労働者のストライキが発生する。80年にはストライキはポーランド全土に波及し、ギエレクは辞任を余儀なくされる。そして、こうした流れの先にあの〈連帯〉が誕生するわけである。

簡単に言うならば、ポーランド人たちの自由を求める動きが、ソヴィエト体制下にある権力によってなんとか押さえつけられていた時代である。しかし、決して明るくはなかったこの70年代は、ザヌーシのフィルモグラフィーにおいて、多くの傑作が生み出されるもっとも実り豊かな時代だったと言われている。見逃している作品が山ほどあるので大きなことは言えないが、『カムフラージュ』はその中でも屈指の傑作であるとわたしは思う。

(ザヌーシはちょうど同じころに登場したキエシロフスキら同世代の映画作家らとともに、「モラルの不安派」などと呼ばれたりもする。この「モラルの不安」の元のポーランド語が正確に何を意味するのかは知らない。英語では "Cinema of Moral Concern" などと書くのが普通であるから、むしろ「モラルの問題」とか、「モラルへの関心」ぐらいのほうが近い気もするのだが、「モラルの不安」という日本語がある程度流通している。 手元にある『巨人と青年』の劇場用パンフレットには、「ポーランドが社会主義体制になり、政治経済ら、あらゆる領域で多くの問題を残した。基本的人権の無視、言論統制による真実に触れることへのタブー、官僚政治の汚職と腐敗など。国民とくに若者たちに政治への無関心、社会主義への不信を生み、個人的モラルの欠如へと結びついた。こうした政治、社会問題をカメラを通して洞察し、あるがままの現実をえぐり出して国民に訴え、ゆがんだモラルを正そうという作家たちのこと」と書いてある。

こうしたレッテルというのは、ほとんどの場合、作家たち本人ではなく、批評家などによってつけられるもので、往々にして的をはずしているものである。少なくともザヌーシの場合には、誤解を招きかねない表現なので、ここでの「モラル」とは「政治」とほぼイコールであるぐらいに思っておいたほうがいいのではないか。つまりは、直接政治を描くことができないので、モラルの問題を通して政治を描いた映画、それが「モラルの不安」と呼ばれる作家たちの映画であると。)

 

『結晶の構造』

 

ポーランドのとある大学で言語学の夏期キャンプが数日にわたって行われている。ここで学生たちが言語学についての研究発表を行い、優秀な論文が審査されるのである。これがこの映画の唯一の舞台である。この研究発表会の審査員として新しくやってきた大学助手、若きヤロスワフは、同じく審査を担当している古株の教授ヤークブとのっけから対立しあう。ヤロスワフはまっすぐな性格で、理想主義者だが、軽率で思慮が足りないところがある。一方、経験豊富な年長者ヤークブは狡猾な出世主義者で、何もかもをシニカルな眼で見ている。映画は、次第に激しくなっていくこの二人の対立関係を軸に進んでゆく(この二人の対立は実は見かけほど単純ではないのだが)。ヤークブは折にふれて、ヤロスワフのナイーヴさをからかい、挑発し、まるでメフィストフェレスのようにヤロスワフを抜き差しならぬ状況へと導いてゆくことになるだろう。

ザヌーシの映画がしばしば科学者やエンジニアらを主人公にしてきたことはよく知られている。ザヌーシ自身が最初は大学で物理を学んだということももちろんあるだろう。しかしそれだけではない。セルジュ・ダネーも指摘するように、この時代の東欧の社会主義国の多くがそうだったように、ポーランドでも直接的に権力を批判することは難しかったが、「科学の権力=権威」を批判するこことなら可能だったからである。『カムフラージュ』に登場するのは科学者でもエンジニアでもなく、言語学の研究者たちだが、広い意味でサイエンス=知に携わるものである点では彼らも科学者と変わりない。

この『カムフラージュ』もいくつかのレベルで見ることができる映画である。

一つ目は、ごく表面的な物語が語るとおりの映画として。

そのように見たとき、この映画は、大学を舞台に、理想に燃える善玉教師(ヤロスワフ)と体制ばかりを気にするシニカルな悪玉教師(ヤークブ)の闘いを描いた、例えば『青い山脈』のような映画(全然関係のない古い日本映画だが、この映画を見ているときにふと思い浮かべたので)と、そう大差ない物語を語っているように見えなくもない。

二つ目は、大学の夏期キャンプを、同時代のポーランドの社会を映し出す陰画として描いた映画として。

この一見社会とは隔絶されたように見えるアカデミックな世界にも、腐敗した政治、序列をめぐる不毛な闘い、硬直した制度、階級格差といった、現実社会のゆがみが様々な形で見え隠れしている。学生たちが貧しい食事をする一方で、教授たちは豪勢なディナーを楽しんでいる。論文の審査は、斬新さや想像力ではなく、(党によって)認められている規範にどれがいちばん近いかによって判断される。いちばんわかりやすいのはプールのシーンだろう。キャンプのあいだ空になっていたプールが、最終日近くになって、突然、きれいに掃除され、水を入れられる。最終日にやってくる大学総長がそこでひと泳ぎ(というか、ひと飛び込み)する、ただそれだけのためにプールに水が張られるのだ(このシーンに限らず、この太っちょの大学総長が登場する場面は、この映画のもっともコミカルな部分になっている)。

ヤロスワフとヤークブの対立は最初、一人の学生の論文をめぐって始まる。提出期限がわずか一日遅れただけの論文をヤークブは、「ルールはルールだ」といって冷たく拒絶する。理想主義者のヤロスワフは、その型破りの論文を認めるようにヤークブを説得する。ヤークブは結局その論文を認めることにするが、「君はこの結果を受け止めることができるのか?」と不敵な笑いを浮かべながらヤロスワフに警告する。実は、やがてここを訪れることになっている大学総長は、その問題の学生(彼は別の大学から来ているのだが)の指導教授を嫌っていたのだ。ヤークブは、そういう大学内の政治を知り尽くした上で物事を判断しているのだが、ヤロスワフにはそういったことはまったく見えていず、単純によい悪いですべてを性急に判断することしかできない。ヤロスワフは、この論文を認めさせたことで、後々、自己矛盾とでも言うべき袋小路へと追い込まれてゆき、事態はとんでもない結末を迎えることになるのだ。

三つ目は、ポーランドという一地域に限定されない普遍的な寓話として。

最初は、いつも人を小ばかにしたような薄笑いを浮かべたいけ好かない人物と思えたヤークブも、実は、若いころはヤロスワフのように理想に燃えていた時期があったのかもしれない。しかし、そのように真っ直ぐなだけでは必ず壁にぶつかる。彼はそれを警告するために事あるごとにわざとヤロスワフを挑発していたのだろうか。愚かな理想主義と、利口な折衷主義、果たしてどちらが正しいのか。例によってザヌーシは結論など与えてはくれない。次第に緊張感を増していく二人の対立は、最後についに取っ組み合いのけんかにまで発展するのだが、結局、どちらが勝つでもなく、負けるでもなく、向かい合った二人を置き去りにして映画は終わる。喜劇でも、悲劇でもなく、笑劇として。

 

『イルミネーション』

 

「カムフラージュ」というタイトルも様々な意味に解釈が可能だろう。わたしはポーランド語のことはまったくわからないのだが、原題の "Barwy ochronne" は直訳すると「糞の色」(失礼)という意味になるとも聞く(違うかもしれない)。映画のタイトルバックが、かえるやイモリなどの冷血動物のイラストで始まっていることを考えるならば、「カムフラージュ」は動物的な「擬態」をまず連想させる(あまりふれる余裕がなかったが、ヤークブはいつも双眼鏡を片手に鳥などを観察していて、ダーウィン的な弱肉強食を肯定し、それを人間社会にも当てはめて考えているようなところがある。彼は、ヤロスワフがキャンプの間に知り合い、一時いい感じにもなったイギリス人女性(彼女は、小鳥を襲わないように野良猫に鈴をつけさせる)が、別の男と水辺で裸で抱き合っているところを、ヤロスワフにわざわざその双眼鏡で目撃させるのだ。「自然」はこの映画のいま一つの隠れたテーマである)。

カムフラージュ:偽装、迷彩、だまし、ごまかし。この言葉はすべてが見かけどおりではないことを意味している。悪意に満ちているように見えるヤークブは、実は、若い世代が現実を生き抜くための実践的な指導者なのかもしれないし、彼自身、ある意味、犠牲者だったのかもしれない。何も間違ったところがないように思えたヤロスワフは、最後には、偽善者のように思えてくる。一見政治とは無縁に見えるアカデミックな世界にも政治は隠れているし、一見政治的ではないこの映画自体も、非常に政治的な映画である……。

ポーランド映画に限らず、東欧の映画というのは、歴史に詳しくないとなかなか理解できない部分も多く、単純に楽しめないことが少なくない。この作品にも、ポーランド人が見れば誰にでもわかるが、そうでないものには見過ごされてしまう細部が多々あるのだろう(そんな細部の一例を挙げておこう。ザヌーシは、この映画と同じ年に撮られたアンジェイ・ワイダの『大理石の男』で使われた銅像をセットに運ばせ、ヤロスワフとヤーコブが歩きながら激しく議論しあう場面で、二人をわざわざその彫像の前で立ち止まらせるのだ。これはいったい何を意味しているのだろう?)。 しかし、同時に、『カムフラージュ』は、ポーランドのことなど何一つ知らないものが見ても、ここに描かれているのは自分がおかれている状況のことだと思えるような、そんな作品にもなっている。単純に見ても楽しめるし、見直すたびにきっと新しい発見があるに違いない。そんな奥の深さを感じさせるところが、この映画の魅力である。

2016年1月14日
ジャック・ターナー『Circle of Danger』

ジャック・ターナー『Circle of Danger』(51)

ついでに、ジャック・ターナーの映画をもう一本簡単に紹介しておく。 これはターナーが独立プロで撮った初めての作品である。そして、この映画はアメリカ映画ではなく、イギリス映画として製作された。

タイトルからフィルム・ノワール的な作品を想像してしまうが、実際は、ちょっと違う。この映画にはたしかにフィルム・ノワール的な部分があるにはる。事実、フィルム・ノワールの研究書などでも、たまにこのジャンルのひとつとして語られることも作品なのである。しかし、やはりこれをフィルム・ノワールとして考えるのはちょっと難しい気がする。むしろ、素人探偵の登場する犯人探しミステリーものとでも言った方が近いだろう。

主人公のアメリカ人(レイ・ミランド)は、英国軍に参加して戦死した弟の死の真相を確かめるためにイギリスに渡る。主人公の弟はある作戦中に命を落としたことになっていた。レイ・ミランドはその作戦に参加していた関係者の一人ひとりをたずねて回るのだが、彼らはすでに亡くなっていたり、現場に居合わせていなかったので真相を知らなかったりして、なかなか核心にたどり着けない。それに、疑ってかかると、誰もが何かを隠しているようにも見えてくる。 一方、調査を進めるうちにレイ・ミランドはある女性と知り合うのだが、彼女との関係も、一向に進みそうで進まない。こうして、映画はほとんど回り道をするようにジグザグを描きながら進んでゆき、最後の最後にようやくレイ・ミランドは弟を殺したのが誰だったかを突き止めるのだが……。

とまあ、簡単にまとめるとそんな話である。普通の人が見ると、物語がなかなか進まず、中だるみしているように思えるかもしれない。たしかに、傑作とはいえない作品ではあるだろう。しかし、ジャック・ターナーのファンには、紛れもなくターナーの映画だと思える瞬間が随所にあらわれるので、見ていて飽きない、非常に興味深い作品である。

たとえば、スコットランドの田舎町の家が舞台となるシーン。玄関の扉を開けると、戸外と玄関と居間が一直線に見えるような空間を人物が進んでいくのだが、そのわずか数秒の間に、人物は光と影のアーチを何度も潜り抜けるのである(『過去を逃れて』のワン・シーンを思い出させる照明)。

レイ・ミランドはスコットランドのその家で知り合った女性に、丘の上から湖を見下ろす場所に連れて行かれる(「この景色を見せたかったの」)。夕暮れの中でその絶景を並んで見ている二人を逆光で捉えるショットがいい(この逆光もまた非常にジャック・ターナー的だ)。

しかし何といってもとりわけ素晴らしいのは、ラストの数分間だ。レイ・ミランドはイギリス中を歩き回った挙句、最後に、またスコットランドに帰ってくることになる。ミランドと犯人は、それぞれライフルを片手に、見渡す限り何もないスコットランドの平野に出てゆく。そこにもう一人が加わる。ターナーは、驚くべき正確さで人物を動かし、そのわずかの動きだけでこの上ないサスペンスを作り出してゆく。派手なアクションは何もなく、ただ人物が立ち、ゆっくりと歩き、そして振り返る。それだけで画面が張り詰めていく見事さ。 このラスト・シーン(実は、このあとに蛇足と呼ぶべき大団円のシーンがつづくのだが)は、ジャック・ターナーが生涯を通じて撮った最も素晴らしい場面のひとつといってもいいくらいだ。このシーンを見るためだけでも、この映画を見る価値はあると断言しておく。

2016年1月12日
ジャック・ターナー『Experiment Perilous』

ジャック・ターナー『Experiment Perilous』(44)

 

「視覚的スタイルだけで判断するなら、ターナーの最も完成された作品のひとつ。ターナーは俳優たちの身体、キャメラのポジション、舞台装置を用いて、作品全体に広がる繊細なイメージのパターンを作り上げている」(クリス・フジワラ)

 

ヒナギクの咲く草原に黒雲がゆっくりと立ち込めてゆき、稲光がした瞬間にカットが切り替わるとあたりはもう真っ暗で、土砂降りの雨の中、海岸沿いの線路を一台の列車が、画面手前に向かって走ってくる。不吉なことの始まりを予感させるこのオープニングがすばらしい。(列車はミニチュアのように見えるが、だとすればあまりにもリアルだし、実際の列車だとしたら不気味なほど非現実的だ。)

列車には主人公である精神科医ベイリーが乗っている。彼は車上で一風変わった老婦人と出会う。最初彼は、精神を病んでいる女性ではないかと疑うが、話してみるとすぐにそうではないことに気づく。この気さくな老婦人は名家として知られるベドロー家のひとりだった。どういうわけか彼女は、自分の家には死んでも帰りたくないのだけれど、兄のニックに会うためにどうしても帰らなくてはならないのだという。 駅に到着すると二人はすぐに別れるのだが、ベイリー医師は、その直後に老婦人が心臓発作で亡くなったことを知る。やがて彼は一枚の肖像画をきっかけに、老婦人の兄ニックとその若き妻アリーダ(へディ・ラマー)の住む屋敷へと導かれてゆく。そして、ニックから彼の妻アリーダはひょっとして狂っているのではないかと相談される。彼女は本当に狂っているのだろうか……。

わりと予想通りに進んでいく筋立てではあるが、一応ミステリーなので物語については全部を書かないことにしよう。 この映画は「ゴシック・ノワール」という言葉でしばしば語られる。「ゴシック・ノワール」の正確な定義は知らないが、わたしが理解するところでは、現代ではなく、20世紀初頭とか、場合によっては19世紀末といった、少し過去の時代に物語が設定され、薄気味が悪い屋敷などを舞台に(本物のゴシックならば古城などが出てくるところだが、そこまではいかない)繰り広げられるフィルム・ノワール、とでもいうことになるだろうか。キューカーの『ガス燈』などが、ゴシック・ノワールの代表的作品とされる。 実際、『Experiment Perilous』は、同じ年に撮られた『ガス燈』との類似をしばしば指摘されてきた。不気味な屋敷、狂気を疑われる妻、妻を殺そうとしているかもしれない夫……。類似点は多々ある。しかし、『ガス燈』程ではないにしろ、『レベッカ』(40)『断崖』(41)といった同時代の作品ともこの映画は似通っている。いずれも『Experiment Perilous』以前に撮られた作品だ。もっとも、これは影響関係云々というよりも、「ゴシック・ノワール」と呼ばれるもののある種のパターンと考えたほうがいいのかもしれない。

ターナー自身の作品に立ち返るならば、クリス・フジワラも指摘するように、「魅惑的な女性、彼女を精神病者扱いにしようとするヨーロッパ人、平凡で、単純なアメリカ人」よりなるトライアングルは、「キャット・ピープル」における同様のトライアングルの再現である。 たしかに、この映画は、フィルム・ノワール以上に、この時代に同じ RKO で撮られていたヴァル・リュートン製作の一連のホラー映画に近いものがあるといっていいかもしれない。ただし、リュートンのホラー作品に比べるならば、『Experiment Perilous』には魅力的な曖昧さがいささか欠けているといえる。多くの魅力を持つ作品ではあるが、あと一歩で傑作になり損ねているという印象を与えるのは、脚本の穴と思える部分以外に、このあたりにも原因があるのだろうか。

この映画を見ていていちばん驚いたのはその多層的な声の使い方だ。冒頭、ベイリー医師は、列車の中に登場する前に、まずナレーションの声として現れる。その後も、時には画面に映っている彼自身や登場人物たちの声を掻き消すようにして、彼の声が画面外から聞こえてき、さらには、彼の意識の中で聞こえている他の様々な声がそこに加わる。老婦人が書いたニックの伝記を読む彼女の声、彼女の死について語るベイリーの知人の声、A・グレゴリーなる人物が書いたニックについての記事をベイリーの秘書が読み上げる声……(この謎の人物のイニシャルAは、アレック、アレクサンドルというふうに、思いもかけぬ反響を聞かせることになるだろう)。それだけではない、ニックが息子に読んで聞かせる(というよりも洗脳しようとするといったほうがよい)魔女の物語も、何よりも不気味な声としてベイリーに(そして観客に)扉の陰から聞こえてくる。このどちらかというといささか平凡な物語を魅力的にしている要素のひとつが、この多層的な声の使い方であることはたしかだろう。

ちなみに、タイトルの "experiment perilous" とは、映画の中でニックが引用する、古代ギリシャの医者ヒポクラテスが医術について語ったとされる言葉、"Life is short, art is long, decision difficult, and experiment perilous."(「人生は短く、技芸の道は長い。決断は難く、試みには危険が伴う」ぐらいの意)の中に出てくる一節である(もっとも、ヒポクラテスのこの言葉には、これ以外にも微妙に違うヴァージョンが存在する)。日本では「芸術は長く、人生は短い」という訳で知られる言葉だが、これはある種の誤訳だと考えていいだろう。

2016年1月9日
エリック・フォトリノ『光の子供』──映画のキスから生まれた子供の物語

「私は自分の生まれについてほとんど何も知らない。パリで生まれたことは知っているが、母は誰かわからず、父はただひたすら女優のスナップを撮り続けていた。そして息を引き取る少し前、私が映画のキスから生まれたことを打ち明けた。」

冒頭2ページ目に現れるこのフレーズが、この小説の本質的な部分を要約している。主人公であり、語り手でもある人物、ジル・エクトールは、ヌーヴェル・ヴァーグ映画の撮影技師だった亡き父ジャンが、おそらく映画の撮影中に出会ったはずの女優が母親であると信じて、自分が生まれた頃(60年代)に撮られたヌーヴェル・ヴァーグ作品が上映されているパリの映画館に、フィルムに刻まれた母の姿を探し求めて通い詰める(フィルムの中に父親の姿を探すセルジュ・ダネーを意識した?)。

そんなふうにして、映画館でルイ・マルの『恋人たち』を見ていた時(予定では『モード家の一夜』が上映されるはずだったのだが)、かれは謎めいた女性マイリスと出会い、たちまち恋に落ちる。マイリスは実は人妻だったが、二人はそんなことにはお構いなく逢瀬を重ねてゆく。だが、ふっと現れては消えるマイリスの存在はいつまでたってもつかみ所のないままだ。

物語(といえるほどはっきりした物語はないのだが)は、この「ママと娼婦」とでもいうべきふたりの女性をアリアドネの糸にして紡がれてゆき、最後に、幻のようにこのふたりが溶け合う瞬間、どちらも主人公の前からフェイドアウトすると同時に、物語も終わりを迎える。 とまあ、乱暴にまとめるとそんな風な話になるだろうか。しかし、この小説における本当の中心は、少なくとももっとも魅力的な存在は、この小説が始まった時にはすでに亡くなっている主人公の父親であると言っていい。

「父は映画スタジオの写真家だった」という言葉でこの小説は始まる。映画スタジオの写真家 "photographe de plateau" というのは、映画の撮影とは別に、あるいはそれと平行して、現場のスナップショットを撮ったり、俳優の顔写真を撮ったりする人のことで、その写真はポスターや雑誌などの宣伝媒体で使われたり、場合によっては、写真集にまとめられたりもする。ただ、読み進めていくうちに、主人公の父親ジャン・エクトールは、映画スタジオの写真家であっただけでなく、いわゆる撮影監督 "chef operateur" でもあったらしいことがわかってくるのだが、そのあたりについてはあまりちゃんとした説明がなかったように思う。

それはともかく、主人公の記憶の中に現れるこの父親、「彼の人生は《光》が全てで、寝ても覚めても光のことしか考えていなかった」と主人公の語るこの撮影技師の言葉がなかなかに興味深い。

 

「映画には夜がない」ジャンはよくそう言っていた。 「観客は視覚を研ぎ澄ませてスクリーンを見なくちゃいけないのに、フランス映画に出てくる夜のシーンはいつも青みがかっている。フランス人に想像力がないからだ」

というようなエピソードが随所に出てきて、映画好きを楽しませてくれるのである。

 

ところで、このジャン・エクトールという人物は、『モード家の一夜』『突然炎のごとく』『野生の少年』『ぼくの小さな恋人たち』などなど、さらには『キューバ・シ』でクリス・マルケルとも仕事をしたことになっている。それどころか、フランス映画だけにとどまらず、『甘い生活』の頃のフェリーニとも組んだことがあるという。むろん、そのような撮影監督は実在しないから、この人物は、様々な撮影監督よりなるアマルガムということになるはずなのだが、奇妙なことに、訳者後書きでは、この大事な点には全くふれられていない。原作の最後のページにオマージュとして、アンリ・アルカン、ネストール・アルメンドロス、ギスラン・クロケ、ラウール・クタール、アンリ・ドカエなどなど、30数名にも及ぶ撮影監督の名前が挙げられているので、それで事足りると思ったのだろうか。 しかし、これらの撮影監督たちが撮る映像は十人十色で、それぞれにはっきりした個性がある。それを一人の人物にまとめるというのは、彼らに対する、何よりも彼らがフィルムに定着させた光に対する裏切りのような気がしないでもない。それがこの小説を読んでいて覚えた大きな疑念の一つである。

納得のいかないところは他にもいろいろある。この小説には、ほとんど毎ページと言っていいぐらいに映画のタイトルが登場するのだが、そのほとんどはヌーヴェル・ヴァーグの作品である。この小説が、フィルムの中に自分の母親かもしれない女優の姿を探す物語であるからには、アメリカ映画の話がほとんど出てこないのは仕方がないし、主人公の父親がヌーヴェル・ヴァーグの映画ばかり撮っていたという設定なのだから、ヌーヴェル・ヴァーグの作品しか出てこないというのもわかる。しかし、この小説に出てくるヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちというのは、トリュフォー、ロメール、ユスターシュなどが中心で、後はシャブロルなどの名前がほんの数回出てくるぐらいだ。ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちの中でもどちらかというと〈軟派〉な、といって悪ければ、〈ロマネスクな〉作家たちばかりで、私の記憶が正しければ、この小説の中にはゴダールの名前も、リヴェットの名前も、一度として登場しない。 これはわたしが嫌いなタイプの(というとまずいので、わたしとは話が合わないタイプのといい直しておく)〈フランス映画好き〉と姿が重なってくるわけで、読み始めて割と早い段階から感じていた違和感は、結局最後までぬぐえなかった。

そもそも、アメリカ映画の話をせずにヌーヴェル・ヴァーグについて語るというのが間違いだと思うのだが、そういう意味では小説のかなり終わり間際に出てくるジョージ・キューカーのエピソードはちょっと面白かった(オードリー・ヘップバーン──これもいかにもという平凡な選択──の話などと並ぶ、この小説におけるアメリカ映画についての数少ない言及の一つ)。

 

「《見る》という行為はそもそもなんなのだろう? 父はジョージ・キューカーのエピソードを教えてくれた。彼は50年代、数十名もの無名若手俳優のオーディションをしていた。ジョージ・キューカーはまだ当時知られていないゲイリー・クーパーという名の男が自分の前を通っても見向きもしなかった。ジョージ・キューカーが初めて心を動かされたのは、実は自分で撮ったフィルムを映写した時だった。ゲイリー・クーパーはスクリーンにまぎれもなく確かにいた。キューカーは本当の意味で《見る》ことなく見ていたことに戸惑いを覚えながら、クーパーを直ちに呼び戻した。」

 

読む前は、タイトルからもっと哲学的な、あるいは瞑想的な小説を期待していたのだが、肝心の〈光〉について書かれている部分にはさして深みが感じられないし、単なる知識面においても、読んでいて映画について教えられることはあまりなかった。

この小説は、テーマとかスタイルの点でモディアノの小説とよく比較されるようだ(パリという街が第2の主人公であるように描かれているところとか、推理小説的な〈謎〉の探求とか)。たしかに読んでいて近いものは感じた。実は、わたしはそれほどモディアノの小説を評価してはいないのだが(まあ、あんまり読んではいないのだけれど)、しかし、これと比べればモディアノの小説のほうが数段上だというのが正直な感想である。 「フランス映画ってなんだかオシャレ」とか、「パリが好き!」という人が読めばそれなりに楽しめ、ひょっとしたら大好きになる小説かもしれないが、わたしのようなすれっからしのシネフィルを唸らせるような小説ではなかったし、映画とは関係なく、単なる小説としてみても、それほどのものとは思えなかった。だから、『舞踏会に向かう三人の農夫』(あれは写真をめぐる物語だったが)クラスの小説を期待して読むと、ちょっとがっかりするかもしれない。 しかし、まあ、映画好きが読めばそれなりに興味深い小説ではあるし、読んで損はないと思う。

フォトリノは本作で2007年にフェミナ賞を受賞した。

 

2016年1月6日
アレクサンダー・マッケンドリック『The Maggie』と異世界としてのスコットランド

アレクサンダー・マッケンドリック『The Maggie』(54)

マッケンドリックがイーリング・スタジオで撮ったコメディ。残念ながら日本では未公開で、『マダムと泥棒』などと比べるとあまり知られていない作品ではあるが、マッケンドリックを代表する傑作のひとつである。

この映画は、マッケンドリックのもう一つの傑作コメディ、『Whiskey Galore』ととても共通する部分があって、ほとんど姉妹作といいたくなるほどだ。といっても、ストーリー的に似ているという意味ではない。似ているのは、その背景とテーマである。 スコットランド沖で難破した船からウィスキーを根こそぎ盗み出そうとする村民たちの悪戦苦闘と、かれらと英国国防市民軍の指揮官との騙し合い(そこに、主人公の結婚問題やら何やらがいろいろと絡んでくる)をコミカルに描く『Whiskey Galore』は、スコットランドという異世界とその住民たちの魅力をたっぷりと描いた作品だった。

『The Maggie』が描くのもまたスコットランドの世界であるが、この映画は、この土地の生活や風習とはまったく正反対のアメリカ人のビジネスマンを登場させることによって、〈スコットランド的なもの〉をよりいっそう鮮やかに浮かび上がらせているといえる(もっとも、ここに描かれる〈スコットランド的なもの〉が、本当にスコットランドの現実を反映しているものなのかどうかは、正直、わたしにはよくわからないのだが)。 『Whiskey Galore』と同じく、この映画にも船が登場し、危うく難破しそうにさえなるところまで同じである。しかし、『Whiskey Galore』があくまで島の住民たちの側から描かれていたのに対し、『The Maggie』では、逆に、船の側から物語が語られてゆく。タイトルの「The Maggie」とは、実は、この映画に出てくるおんぼろ蒸気船("puffer")の名前である。誰からも馬鹿にされ、笑われるこの船が、実はスコットランドの魂とでも呼ぶべき存在であることが最後に理解されてくる。そんな映画なのだ。

物語は、このスコットランドのおんぼろ船が港に入ってくるところから始まる。この船のいかにも一癖ありそうな老齢の船長マクタガートは、船のライセンスを更新するための金がなくて、やっきになってた。彼がそのことで海運事業事務所を訪れていたとき、偶然そこに、船を探しに一人のイギリス人がやってくる。彼はあるアメリカ人のビジネスマンに雇われていて、このビジネスマンが新居に家具などを運ぶための船を調達しに来ていたのだが、船が見つからずに困っていた。これはチャンスだと思ったマクタガート船長は、船ならあると話を持ちかける。イギリス人は、港で「The Maggie」の隣に泊まっていた立派な船を船長のものだと勘違いして、「The Maggie」をチャーターすることを決めてしまう。

こうして、「The Maggie」は、アメリカ人のビジネスマン、カルヴィン・B・マーシャル(ポール・ダグラス)の高価な積荷を載せて、スコットランドのとある島を目指すことになるのだが、自分の荷物がおんぼろ船に載せられたことにすぐに気づいたアメリカ人ビジネスマンは、すぐにも積荷を別の船に積み替えるように部下のイギリス人に指示を出す。ところが、このイギリス人の部下が間抜けで、「The Maggie」の船長や乗組員に簡単にあしらわれてしまう。業を煮やしたアメリカ人ビジネスマンは、飛行機で船に追いつき、船長に積荷を降ろすように言うのだが、船長らはのらりくらりと、あの手この手で、話をそらし、ごまかして、ビジネスマンを翻弄する。最初は自信満々だったアメリカ人ビジネスマンは、次第に自信をなくしてゆき、最後には、事態を自分の手でコントロールすることは不可能だとあきらめてしまう。彼は、この短い旅の間に、大げさではなく、文字通り自己のアイデンティティを喪失しそうになりさえするのだ。

アメリカ人ビジネスマンが、途中の小さな船着場で「The Maggie」から積荷を降ろさせ、それを積み替える別の船が到着するのを待っていると、桟橋に横付けにしていた「The Maggie」が満ち潮でせり上がったために、もともと崩れかけていた桟橋が船に押し上げられて崩落してしまう(船長と乗組員たちは、そうなることに気づいていながら、くすくすと笑いながら事態を眺めているだけだ)。これで、別の船が到着しても、桟橋が崩れてしまったために積荷を載せかえることはできなくなってしまった。そこに、待っていた船が到着し、降りてきた船長がアメリカ人ビジネスマンに、「あなたがマーシャルさんですか」とたずねると、アメリカ人は途方にくれたようにこう答えるのだ。"I am no longer absolutely sure."

たしかに、部外者(ストレンジャー)にとって、スコットランドという土地は異世界のようなものに思えるに違いない。それがこの映画の中では、イーリング・コメディ独特の論理によってさらに誇張されて、独自の世界に作り上げられ、『Whiskey Galore』以上に抱腹絶倒の笑いを生む一方で、時としてまるで悪夢のようにたち現れてくる。だから、誰だったか忘れたが、この映画を他のイーリング・コメディの作品よりも、例えば『ウィッカーマン』のような作品に近い映画だと指摘していたのはあながち的外れではないと思う。

よくあるアメリカ映画ならば、この悪夢のような世界の中でアイデンティティを喪失してしまった主人公が、新しい人間として生まれ変わるところで映画が終わるというのが定石だろう。しかし、マッケンドリックはそれほど甘くはない。たしかに、アメリカ人ビジネスマンは、この船旅の中で、スピードと功利性、そして金という彼が信じていたものすべてが崩れ去ってゆくのを眼にする。いくら急がせても、船長は隙を見ては酒場に行って酔っ払う。金に執着しているように見えた船長の妹(実は彼女が「The Maggie」の所有者)は、結局、船を売ることを拒み、アメリカ人を唖然とさせる。暇があったら電話ばかりしているアメリカ人を見て誰かがこういう。「あんなに電話ばかりしているやつは見たことがない」(携帯電話がなくては生きていけない人間には、耳がいたい、あるいは理解しがたいせりふかもしれない)。ここではすべてがアメリカ式とは正反対なのだ。

ところで、アメリカ人がそんな風に始終電話をかけている相手は、彼の奥さんであるのだが、彼女の声は観客にはまったく聞こえない。せいぜい、電話口でのアメリカ人の短いせりふから、どうやら夫婦の関係がうまくいっていないらしいことがわかるぐらいだ。そもそもアメリカ人が船で運ばせようとしている積荷は、奥さんへのプレゼントなのだが、結局、彼女は最後まで画面に一度として姿を現すことはない。

あるとき、アメリカ人ビジネスマンは、100歳になったスコットランドの老人の誕生パーティに無理やり連れて行かれるのだが、この場面で、アメリカ人ビジネスマンと彼の妻との関係がようやくぼんやりと見えてくる(この場面は、スコットランド人の共同体意識とでもいったものを知る上でも重要である)。彼は最初いやいや参加するのだが、幸せに満ちた光景を見るうちに次第に笑みがこぼれ、やがて一人の若い娘と楽しそうに踊りはじめさえする。彼女には今、結婚を考えている相手が二人いるという。一人は将来が約束された青年実業家。もう一人は貧乏な船乗りだ。アメリカ人ビジネスマンは、それなら迷うことはない、青年実業家を選ぶべきだと言うのだが、彼女はこう答える。たしかに彼と結婚すれば生活は安定するかもしれない。でも、忙しい彼とは一緒にいられる時間はあまりないだろう。漁師の青年はたしかに貧しいかもしれないが、船を下りているときはいつでも自分と一緒にいてくれる。だからわたしは彼と結婚するのだ、と。

アメリカ人は彼女が話すのをただ聞いているだけなのだが、その表情や短い受け答えの台詞から、彼と妻との関係が仄見えてくる。おそらく彼の妻も、安定した生活と引き換えに、夫との幸せな時間を失ってしまったのだろう。そして、今まさに彼は、高価なプレゼントというまたしても物質的なもので妻を喜ばせようとしているのだが、果たしてそれは本当に彼女にとってうれしいことなのか。マッケンドリックはそんなアメリカ人の心のうちを、台詞を使って語らせたりはしない。アメリカ人ビジネスマンの妻は画面に一度として登場しないし、彼も彼女のことをほとんどまったく語らないのだが、そんなふたりの関係を、直接的な台詞を使わずに観客にわからせていく、マッケンドリックの手腕はなかなかに見事だ。

ようやく目的地に近づいたとき、「The Maggie」は危うく座礁しそうになる。そのとき、驚いたことに、アメリカ人は、あれほど大切にしていた積荷をすべて海に投げ捨てるように船長に言う。こうして彼は、船を軽くして座礁から免れさせるのだ。彼は生まれ変わったのか? 平凡な映画なら、彼が新居で妻と抱き合ってキスする姿でも見せてそう確信させて終わるところだろうが、マッケンドリックは、ほとんど言葉を交わすこともなく、ただ船長と握手して、手ぶらで新居に向かってゆくアメリカ人ビジネスマンの後ろ姿を見せるだけだ。

映画は最後に、冒頭の場面と同じ港からでていく船の姿を見せて終わる。しかし、船の名前はもはや「The Maggie」ではない。船には、アメリカ人ビジネスマンから取った「カルヴィン・B・マーシャル号」という新しい名前が刻まれているのだ。洒落た終わり方である。

***

 

アメリカ式との闘いとローカル・コミュニティの存在をコミカルに描いた作品という意味では、ジャック・タチの『のんき大将』などとの比較も可能かもしれない。

この「〈スコットランド〉映画」とでも呼ぶべきものは、たとえば『ローカル・ヒーロー/夢に生きた男』のビル・フォーサイスなどを通じて確実に受け継がれている。

2016年1月1日
G・W・パプスト『懐かしの巴里』『炭坑』

■ 『懐かしの巴里』(Die Liebe der Jeanne Ney, 27)

なにやらノスタルジックな邦題が付けられてしまっているが、実際の内容は、タイトルからイメージするものとはだいぶ違う。パプストとしてはあまり有名な作品ではないけれど、時にどぎつくいやらしい人間描写が、いかにも『パンドラの箱』と『淪落の女の日記』の監督にふさわしい、なかなかの傑作である。

原題は「ジャンヌ・ネイの恋」ぐらいの意味だろう。邦題は、とにかく「巴里」と付けたかっただけだと思うが、ロケーション撮影によってこの当時のパリの様子がふんだんに記録されているのは本当である。

物語は、ロシア革命に揺れるクリミアから始まる。ヒロインのジャンヌ・ネイは、この地にオブザーバーとして滞在している外交官の父親をボルシェビキに殺されてしまうのだが、そのボルシェビキというのが、実は、自分が愛した男アンドレアスだと知って彼女は愕然とする。 ジャンヌは、革命軍に占拠されたクリミアを辛くも脱出し、パリに逃げ延びる。アンドレアスも実は、革命の任務のためにパリに来ていた。やがてふたりは再会し、再び逢瀬を重ねる。父親を殺した男との恋愛というものすごいドラマのはずなのだが、彼女の心の葛藤はほとんど描かれず、それどころか、そんな出来事などなかったかのように物語は進んでゆく。

実際、パプストは、ジャンヌとアンドレアスとの恋愛の行方を描くこと以上に、彼らの周りに現れる人間たちの姿、とりわけ、彼らの欲にまみれた醜い姿を描くことに興味を持っていたようだ。ジャンヌがパリで身を寄せることになる私立探偵の叔父、その盲目の娘(ブリギッテ・ヘルム!)、この娘を利用して事務所の金を盗もうとする売国奴ハリビエフ(彼はクリミアで、ジャンヌの父親が殺されるきっかけを作った男で、今はアンドレアスと同じくパリにいて、ジャンヌの叔父の金だけでなく、ジャンヌをも狙っている)などなど、あくの強い人間たちが次々と現れるのだが、パプストが彼らを描くタッチがこれまたいやらしい。

売国奴ハリビエフ(フリッツ・ラプス)は、ジャンヌの叔父の盲目の娘の境遇につけ込んで、金を盗む目的のためだけに彼女に結婚を申し込む。ハリビエフは、喜びに舞い上がる彼女の手を右手で握りしめる一方で、彼女の目が見えないのをいいことに、もう一方の手で隣に座ったジャンヌの体をまさぐろうとする。 中でも強烈な印象を残すのは、ジャンヌの叔父が守銭奴になる場面だ。金持ちの盗まれた指輪を取り戻し、その謝礼に大金を受け取ることになったこの叔父は、まだ受け取ってもいないその大金を貰った時のことを想像して、真夜中にひとりでありもしない札束を数え、舌でなめ回すのである(エアー札束?)。 この叔父は結局ハリビエフによって殺され、その罪はアンドレアスになすりつけられる。恋人の無実を証明しようとジャンヌが奔走するクライマックスは、まるでグリフィスの映画を見ているように面白い。

 

 

『炭坑』(Kameradschaft, 31)

『我が谷は緑なりき』『どたんば』『メイトワン-1920』など「炭坑映画」とでも呼ぶべき映画の名作は数あるが、これはその最高傑作のひとつと言ってもいい一本。

炭坑映画には炭鉱事故の場面がつきものである。それはこの映画も例外ではない。ただ、ここで描かれる炭坑は、他の炭坑映画とは少し状況が違っている。この炭坑の真ん中にはフランスとドイツの国境が走っているのであり、しかも、映画が描くのは、フランスとドイツの間に様々なわだかまりがまだ残っていた第一次大戦終戦直後であるから、状況はいっそう複雑だ。

映画の冒頭、2人の少年が空き地でビー玉遊びをしている。最初は仲良く遊んでいたふたりは、やがて勝ち負けをめぐって喧嘩をはじめ、地面を指さして、ここからこっちはフランスで、そっちはドイツだ、この線からこっちに入ってくるなと言って、別々の方向に去ってゆく。少年のひとりはフランス人で、もうひとりはドイツ人だったのである。映画はこうして見えない国境を描くところから始まるのだが、国境は、やがて次々と物質化されてゆく。まず、独仏の国境の検問所の杓子定規な対応が描かれ、次には、地下深くの坑道でさえ、頑丈な鉄柵が両国の行き来を閉ざしていることが示される。

そんな状況の中、フランス側の炭坑で最悪の事故が起きる。坑内に充満していたガスが引火し、大爆発したのである。一刻も早い救助活動が必要とされる時、例外的な処置として、ドイツ人たちの救助チームが国境を越えてフランス側の炭坑に向かう。その一方で、3人のドイツ人が、地下の坑道をふさいでいた国境の鉄柵を勝手にぶちこわして、坑内に閉じ込められたフランス人の救助に向かう。彼らは、その直前のシーンで、フランス人たちがたむろする酒場に乗り込んでいって、フランス人たちに侮辱された(と、少なくとも本人たちは思い込んでいる)3人である。

こうして、両国間の様々な怨恨を乗り越えて、必死の救助活動が行われるさまを映画は描いてゆく。この映画でもっとも有名な場面の一つは、ガスマスクをかぶったドイツ人の救助員を眼にしたフランス人抗夫が、その瞬間、第一次大戦の戦場での記憶をフラッシュバックさせてしまい、錯乱状態に陥るシーンだ。このシーンは、当時でさえ、やり過ぎだと言われて批評家から批判されもした、悪名高い場面でもある。しかし、パプストとしては、この炭坑映画を戦争の問題と重ね合わせて描くことにこそ意味があったのだろう。

救助活動が終わった時、フランス人抗夫たちもドイツ人抗夫たちも、国の違いを超えて皆が一つとなって闘い、この困難な作業をやり終えたことをたたえ合う。そして最後に、ドイツ人のリーダーと、フランス人のリーダーがそれぞれ、自分たちの敵はドイツ人でもフランス人でもない、われわれの共通の敵はガスなのだという趣旨の演説を行って、拍手喝采をあびる。『西部戦線一九一八』を見たものならば、これはあの映画で描かれた、「真の敵はドイツ人でもフランス人でもなく戦争なのだ」というテーマと全く同じものだということに気づくだろう。

この映画は実際に起きた炭鉱事故をもとにしているのだが、いくら実話をもとにしているとはいえ、炭鉱事故をきっかけにフランス人とドイツ人が互いの立場を超えて一つになって戦う姿を描くことを通じて、最後に反戦を訴えかけるというのは、今のわれわれにはいささか理想主義的過ぎると思えてしまうのもたしかである。しかし、忘れてはならないのは、この映画がこの演説のシーンで終わっているわけではないということだ。 パプストは、ドイツ人とフランス人が協力し合う姿を描く一方で、それを妨げる国際政治の力学や、その政治を基底で支える資本主義の構図(現場に出向きもせず、建物の上階から電話のみで指示を出す会社の幹部たちと、地下で必死で作業する抗夫たちの対照)を、随所に描き込んでいた。そして、この映画のラストがまた非常にアイロニカルなものだ。あの3人のドイツ人によって壊された地下の坑道の鉄柵は、結局、元通りに設置し直され、柵のドイツ側とフランス側それぞれに、銃を持った見張りが立ち、再び国境の行き来が閉ざされるところで映画は終わっているのである。

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しかし、わたしがこの映画でいちばん驚いたのは、実は、今書いてきたこととはあまり関係のないシーンだった。その場面を見た時、最初、わたしはそれが何を意味しているかがわからず呆然としてしまった。それほど強烈な印象を残すシーンだったのだ。

鉄とガラスでできた巨大な建物の天井から、絞首刑にされた無数の死体がつり下げられている──。と、最初はそう思えたのだが、つづくショットで、これもまた広大なシャワー室が映し出され、そこで無数の抗夫たちが汚れた体を洗い流しているのを見て、やっと、先ほど天井からつり下げられた死体に見えたものが、実は、抗夫たちが脱いだ衣服がひもにつり下げられていたのだと理解したのである。

『炭坑』はパプストの映画の中ではドキュメンタリータッチで撮られたリアリスティックな作品と見なされるのが普通である。たしかに、暗い炭坑の底の場面でもことさら表現主義的な照明が用いられることはなく、パプストはあくまで自然な描写に徹しているといっていい。しかし、この映画には、この絞首刑を思わせる場面のように不吉なイメージがときおり紛れ込んでもいるのだ。この映画のリアリズムには表現主義が染みこんでいると、映画批評家のバルテレミー・アマンガルは指摘している。

パプストがこのシーンをどういう意図で撮ったのかはわからない。しかし、今われわれがこの映画のこのシーンを見る時、そこにナチスのガス室のイメージを重ね合わせて見ないことは難しいだろう。無論、この映画が撮られたのが1931年だということを考えれば、パプストがそんなことを考えていたことはあり得ない。ただ、彼がこの映画にこめた平和へのメッセージを考えると、このシーンがやがてドイツに起きる事態を予言していたように思えてきて仕方がない。

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