映画の誘惑

最終更新日 2017年10月13日

「映画の誘惑 セレクション」

This is Cinema

映画の誘惑 セレクション

コメディ映画 ベスト50

映画史を作った30本

フィルム・ノワール ベスト50

西部劇ベスト50

戦争映画ベスト50に向けて

《プチ・ニュース》

リチャード・ブルックス『デッドラインU.S.A.』 [DVD]

シドニー・ギリアット『絶壁の彼方に』 [DVD]

パトリシオ・グスマン『チリの闘い』 [DVD]

コーネル・ワイルド『最後の脱出』 [DVD]

『ジャン=リュック・ゴダール Blu-ray BOX Vol.3/ヌーヴェル・ヴァーグの成熟』『ジャン=リュック・ゴダール Blu-ray BOX Vol.4/新たな旅立ち』

『パッション 無修正版』 [Blu-ray]、『カルメンという名の女 <ヘア解禁版> 』 [Blu-ray]

『フェリーニのアマルコルド 4K修復版』 [Blu-ray]

エドワード・ヤン『牯嶺街少年殺人事件』 [Blu-ray] 、『【Amazon.co.jp限定】牯嶺街少年殺人事件(オリジナルロゴステッカー付)』 [Blu-ray] 『牯嶺街少年殺人事件』 [DVD]、『【Amazon.co.jp限定】牯嶺街少年殺人事件(オリジナルロゴステッカー付)』 [DVD]

『台北ストーリー』
[Blu-ray]、『台北ストーリー』 [DVD]

『溝口健二 4Kデジタル修復版 Blu-ray BOX』 『山椒大夫 4K デジタル修復版』 Blu-ray, 『近松物語 4K デジタル修復版』 Blu-ray

『【Amazon.co.jp限定】 この世界の片隅に (特装限定版) (Amazon.co.jpオリジナルメイキングDISC付)』 [Blu-ray] 、『この世界の片隅に』 [Blu-ray]

 

フランク・キャプラ『奇蹟の処女』 [DVD]

ダニエル・マン『ウイラード』 [DVD] 、『ウイラード』 [Blu-ray]

ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』 [Blu-ray]、『軽蔑』 [Blu-ray]、『ワン・プラス・ワン』 [Blu-ray]、『カルメンという名の女』 [Blu-ray]、『ジャン=リュック・ゴダール Blu-ray BOX Vol.1/ヌーヴェル・ヴァーグの誕生』『ジャン=リュック・ゴダール Blu-ray BOX Vol.2/ジガ・ヴェルトフ集団』

ジャック・リヴェット『美しき諍い女 リストアHDマスター 無修正版』 [DVD]、『美しき諍い女 リストアHDマスター 無修正版』 [Blu-ray]

エットーレ・スコラ『魅惑の女優シリーズ パッション・ダモーレ』 [DVD]

グザヴィエ・ドラン『たかが世界の終わり』 [Blu-ray]

ルキノ・ヴィスコンティ『夏の嵐/白夜 Blu-rayセット』 (初回限定生産)、 『夏の嵐』【HDリマスター】[DVD]

ヴィル・ドゥニヌーヴ【Amazon.co.jp限定】『メッセージ (2Lサイズ ブロマイド付き)』 [DVD]、【Amazon.co.jp限定】『メッセージ (2Lサイズ ブロマイド付き)』 [Blu-ray]

ジャファル・パナヒ 『人生タクシー』 [DVD]

佐藤純彌 『新幹線大爆破』 [Blu-ray]

若松孝二『日本暴行暗黒史 怨獣』『壁の中の秘事(ひめごと)』 [DVD]

石井輝男『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』 [DVD]

大森一樹『オレンジロード急行』 [DVD]

ロバート・フラハティ『極北のナヌーク(極北の怪異)』 [Blu-ray] 、『極北のナヌーク(極北の怪異)HDマスター』[DVD]

ジョゼフ・フォン・スタンバーグ『アメリカの悲劇』 [DVD]

ドン・シーゲル『刑事マディガン』 [Blu-ray]

『血の祝祭日』 [DVD] 、『ゴッドファーザー・オブ・ゴア』(Blu-ray Disc) ,『ゴッドファーザー・オブ・ゴア』 [DVD]、『2000人の狂人』 [DVD] 、『血の魔術師』 [DVD]、『ゴア・ゴア・ガールズ』 [DVD]

『モンテ・ウォルシュ』 [Blu-ray]

ヴィンセント・ミネリ『いそしぎ』 [DVD]

マルセル・カルネ『北ホテル マルセル・カルネ』 [Blu-ray] 、『北ホテル HDマスター』 [DVD]

オーソン・ウェルズ『不滅の物語 』 [Blu-ray] 、『不滅の物語 HDマスター』 オーソン・ウェルズ [DVD]

ロベール・ブレッソン『バルタザールどこへ行く』 [Blu-ray] 、『バルタザールどこへ行く』 HDマスター [DVD] 『少女ムシェット』 [Blu-ray] 、『少女ムシェット HDマスター』 [DVD]

ジャック・ベッケル『幸福の設計』 [Blu-ray]、『幸福の設計 HDマスター』 [DVD]

ジャック・リヴェット『パリはわれらのもの』 [Blu-ray]、『パリはわれらのもの HDマスター』 [DVD]

『悪霊』 ドストエフスキー原作 アンジェイ・ワイダ [Blu-ray] 、『悪霊 HDマスター』 ドストエフスキー原作 アンジェイ・ワイダ [DVD]

ベルナルド・ベルトルッチ『シェルタリング・スカイ』(Blu-ray Disc)

『禁じられた歌声』 [DVD]

オタール・イオセリアーニ『皆さま、ごきげんよう』 [DVD]

J・リー・トンプソン『恐怖の岬』 [Blu-ray]

マーヴィン・ルロイ『犯罪王リコ』 [DVD] 、フランク・キャプラ『一日だけの淑女 【淀川長治解説映像付き】』 [DVD] 、キング・ヴィダー『ステラ・ダラス 【淀川長治解説映像付き】』 [DVD]

ニコラス・ウィンディング・レフン『【早期購入特典あり】ネオン・デーモン(非売品プレス付)』 [DVD] 、『【早期購入特典あり】ネオン・デーモン(非売品プレス付)』 [Blu-ray]

ルイジ・コメンチーニ『ブーベの恋人 【HDリマスター版】』 [DVD] 、『ブーベの恋人 【ブルーレイ版】』初ブルーレイ化! [Blu-ray]

シルヴァーノ・アゴスティ『ふたつめの影』 [DVD] 、『快楽の園』 [DVD]

ジャン=ジャック・ベネックス『ディーバ』 [Blu-ray]

大島渚『マックス、モン・アムール』 [Blu-ray]

フリッツ・ラング『リリオム』 [DVD]

『イジ―・メンツェル傑作選 ブルーレイボックス (収録『厳重に監視された列車』『スイート・スイート・ビレッジ』『つながれたヒバリ』) 』[Blu-ray] 『厳重に監視された列車』 HDマスター[DVD] 、『スイート・スイート・ビレッジ』 HDマスター [DVD]、『つながれたヒバリ』 [DVD]

『カレル・ゼマン傑作選 ブルーレイセット』(『悪魔の発明』『ほら男爵の冒険』収録) [Blu-ray]、カレル・ゼマン監督『悪魔の発明』 HDマスター [DVD]

ゲオルギ・シェンゲラヤ『放浪の画家 ピロスマニ』 Blu-ray、『放浪の画家 ピロスマニ』 HDマスター

ウィリアム・クライン『ポリー・マグーお前は誰だ?』 [DVD]

『パトリシオ・グスマン監督『光のノスタルジア』『真珠のボタン』DVDツインパック』

アレハンドロ・ホドロフスキー『ホドロフスキーの虹泥棒』 [Blu-ray]

ジョン・フォード『駅馬車 HDリマスター』[Blu-ray]

ラルフ・ネルソン『不時着』 [DVD]

サム・ペキンパー『荒野のガンマン HDリマスター版』[Blu-ray]

ジョージ・シドニー『バイ・バイ・バーディー』 [DVD]

ロバート・マリガン『ハイウェイ』 [DVD]

アーネスト・シュードサック『ドクター・サイクロプス』 [DVD]

『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』 [DVD] 、『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』 [Blu-ray]

『Amazon.co.jp限定】ドント・ブリーズ』 (最強おやじの着せ替えジャケット特典付) [Blu-ray] 、『ドント・ブリーズ』 [DVD]

溝口健二『雨月物語 4Kデジタル復元版』 [Blu-ray]

山下耕作『強盗放火殺人囚』

中島貞夫『脱獄広島殺人囚』 [DVD]

リチャード・クワイン『殺人者はバッヂをつけていた』 [DVD]

リチャード・サラフィアン『荒野に生きる』 [Blu-ray]

コンプトン・ベネット『追想のヨーロッパ映画~死ぬまでに観たい名画 100 かくてわが恋は終わりぬ』 [DVD]

リッカルド・フレーダ『追想のヨーロッパ映画~死ぬまでに観たい名画 100 神秘の騎士』 [DVD]

ヴィリ・フォルスト『追想のヨーロッパ映画~死ぬまでに観たい名画 100 罪ある女』 [DVD]

『珠玉のフランス映画名作選 DVD-BOX 3』

イエジー・スコリモフスキ『イレブン・ミニッツ』 [DVD]、『イレブン・ミニッツ』 [Blu-ray]

足立正生『裏切りの季節』 [DVD]、『毛の生えた拳銃』 [DVD]

森達也『FAKE ディレクターズ・カット版』 [DVD]

庵野秀明『シン・ゴジラ Blu-ray2枚組』『【早期購入特典あり】シン・ゴジラ DVD2枚組(シン・ゴジラ&初代ゴジラ ペアチケットホルダー付き)』

たむらまさき『ドライブイン蒲生』 [Blu-ray]

『超短編映画集 ONE PIECE 矢口史靖×鈴木卓爾監督作品 テトラパック』 [DVD]

『超短編映画集 ONE PIECE 矢口史靖×鈴木卓爾監督作品 水玉 COLLECTION』 [DVD]

『超短編映画集 ONE PIECE 矢口史靖×鈴木卓爾監督作品 チェック COLLECTION』 [DVD]

『超短編映画集 ONE PIECE 矢口史靖×鈴木卓爾監督作品 花柄 COLLECTION』 [DVD]

クレランス・ブラウン『世界の推理小説傑作映画 墓地への侵入者』 [DVD]、ロバート・シオドマク『世界の推理小説傑作映画 クリスマスの休暇』 [DVD]

『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ DVD-BOX Vol.19』

バッド・ベティカー『決斗ウェストバウンド』 [DVD]

リチャード・ブルックス『最後の銃撃』 [DVD]

クリント・イーストウッド『ハドソン川の奇跡』 ブルーレイ&DVDセット(初回仕様/2枚組/デジタルコピー付) [Blu-ray]、『ハドソン川の奇跡』 <4K ULTRA HD&2Dブルーレイセット>(初回仕様/2枚組/デジタルコピー付) [Blu-ray]

『マルセル・パニョル/マルセイユ三部作』 [DVD]

ギオルギ・シェンゲラヤ『放浪の画家 ピロスマニ』 Blu-ray、『放浪の画家 ピロスマニ』 HDマスター [DVD]

ゲオルギー・ダネリヤ『不思議惑星キン・ザ・ザ』≪デジタル・リマスター版≫ [Blu-ray]、『不思議惑星キン・ザ・ザ』≪デジタル・リマスター版≫ [DVD]

ヴィム・ヴェンダース『ミリオンダラー・ホテル』 HDマスター版 Blu-ray&DVD BOX、『ミリオンダラー・ホテル』 Blu-ray、『ミリオンダラー・ホテル』 HDマスター版 [DVD]

マノエル・デ・オリヴェイラ『コロンブス 永遠の海』 Blu-ray、『コロンブス 永遠の海』 [DVD]

『家族の灯り』 [Blu-ray]、『家族の灯り』 [DVD]

アピチャッポン・ウィーラセタクン『光りの墓/世紀の光』 Blu-ray、『世紀の光』 [DVD]、 『光りの墓』 [DVD]

松田優作『遊戯シリーズBlu-ray BOX』(初回生産限定)

 

フランク・キャプラ『オペラハット 80周年アニバーサリー・エディション』 [Blu-ray]

ウィリアム・ウェルマン『ロビン・フッドの復讐』

『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム(デラックス10周年エディション)』 [Blu-ray]

セシル・B・デミル『絶海の嵐』 [DVD]

『ハリウッド・メロドラマ傑作選 この三人』 [DVD] 、『ハリウッド・メロドラマ傑作選 さすらいの涯』 [DVD]

『西部劇 ベストバリューDVDセット (期間限定スペシャルプライス)、『西部劇 ベストバリューBlu-rayセット (期間限定スペシャルプライス)』

『騎兵隊西部劇コレクション DVD-BOX』

ラッセル・ラウズ『必殺の一弾』 [DVD]

ブレイク・エドワーズ『追跡』 [DVD]

ベイジル・ディアデン『悪魔の虚像/ドッペルゲンガー』(1970) [DVD]

リチャード・フライシャー『ラスト・ラン 殺しの一匹狼』 [DVD]

トビー・フーパー『ファンハウス/惨劇の館≪最終盤≫』 [Blu-ray]

『コーエン兄弟 ベストバリューBlu-rayセット (期間限定スペシャルプライス)』

ジェームズ・グレイ『エヴァの告白』 [DVD]

ロン・ハワード『白鯨との闘い』 [Blu-ray]

マルセル・レルビエ『かりそめの幸福』 [DVD]

『おかしなドラマ(1937)』 [DVD]

『追想のヨーロッパ映画 ~死ぬまでに観たい名画 100 DVD-BOX』

『ベルリン・アレクサンダー広場 DVD-BOX <新装・新価格版> 』

デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン『裸足の季節』 [Blu-ray]、『裸足の季節』 [DVD]

曾根中生『不倫』『赤い暴行』

『サッシャ・ギトリ 傑作選 Blu-ray BOX』(初回限定生産)、『サッシャ・ギトリ 傑作選 DVD BOX』(初回限定生産)

クロード・シャブロル監督『クロード・シャブロル初期傑作集 Blu-rayセット』 (『いとこ同志』『美しきセルジュ』収録)《初回限定生産》 『美しきセルジュ』 HDマスター [DVD]、『美しきセルジュ』 Blu-ray、『いとこ同志』 Blu-ray

『アレクセイ・ゲルマン コンプリートDVD-BOX』(初回限定生産)

『七番目の道づれ』 [DVD]と『神々のたそがれ』をくわえた完全版BOX。

『ウンベルトD』 Blu-ray

ヴァレリアン・ボロヴツィク『インモラル物語【ヘア無修正】HDリマスター版』 [DVD]、『邪淫の館 獣人【ヘア無修正】HDリマスター版』 [DVD]

『世界の推理小説 傑作映画 DVD-BOX Vol.2』

バッド・ベティカー『決闘コマンチ砦』 [DVD]、『反撃の銃弾』 [DVD]

アレクサンダー・マッケンドリック『マダムと泥棒』 [DVD]

 

『ハリウッド刑事・犯罪映画傑作選 DVD-BOX 2』

『ハリウッド・メロドラマ傑作選 DVD-BOX Vol.2』

『チャップリン Blu-ray BOX』

『殺人狂時代 Monsieur Verdoux』『独裁者 The Great Dictator』『ライムライト Limelight』『チャップリン短篇集1 Short Films of Chaplin 1』『チャップリン短篇集2 Short Films of Chaplin 2』『サーカス The Circus』『キッド The Kid』『モダン・タイムス Modern Times』『ニューヨークの王様 A King in New York』『黄金狂時代 The Gold Rush』『巴里の女性 A Woman of Paris』

ウォルター・ルットマン『伯林/大都会交響楽』 [DVD]

ルネ・クレール『眠るパリ(1923)/幕間(1924)』 [DVD]

『ジャン・ルノワール ブルーレイセット『大いなる幻影』『ゲームの規則』収録《初回限定生産》』 [Blu-ray]

『ゲームの規則』 Blu-ray、『ゲームの規則 HDマスター』 [DVD]

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『あやつり糸の世界 Blu-ray 初回限定生産版』『あやつり糸の世界 DVD HDマスター』

『侯孝賢 「冬冬の夏休み」「恋恋風塵」デジタルリマスターBOX』[Blu-ray]、『風櫃の少年 [Blu-ray]、『童年往事 時の流れ』 <HDデジタルリマスター版> [Blu-ray]

増村保造『黒の超特急』 [DVD]

阪本順次『団地』

 

ヴェルナー・ヘルツォーク『小人の饗宴 HDリマスター』 [DVD]、『小人の饗宴 HDリマスター』 [Blu-ray]、『カスパー・ハウザーの謎 HDリマスター』 [Blu-ray]

『ジャン=リュック・ゴダール ベストバリューBlu-rayセット』 (期間限定スペシャルプライ

小沼勝『軽井沢夫人』 [Blu-ray] 、『時には娼婦のように』 [Blu-ray]、『妻たちの性体験 夫の眼の前で、今…』 [Blu-ray]

神代辰巳『赤線玉の井 ぬけられます』 [Blu-ray] 、『嗚呼!おんなたち猥歌』 [Blu-ray] 、『女地獄森は濡れた』『濡れた欲情 特出し21人』 [Blu-ray]

相米慎二『ラブホテル』 [Blu-ray]

長谷部安春 『暴行切り裂きジャック』 [Blu-ray]

黒沢清『クリーピー 偽りの隣人 豪華版』[Blu-ray]

『映画の都 山形国際ドキュメンタリー映画祭'89 [DVD]

真利子哲也『ディストラクション・ベイビーズ 特別版(2枚組)』[Blu-ray]、『ディストラクション・ベイビーズ 特別版(2枚組)』

『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ DVD-BOX Vol.18』

ピエトロ・ジェルミ『越境者』[DVD]

ロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、フェデリコ・フェリーニ『世にも怪奇な物語 -HDリマスター版-』 [Blu-ray]

『幻の馬車』『失われた楽園』『ショタール商会』『あなたの目になりたい』『高原の情熱』

ジュリアン・デュヴィヴィエ 『我等の仲間』Blu-ray、『我等の仲間』DVD HDマスター 『旅路の果て』Blu-ray、『旅路の果て』DVD HDマスター

ジャン・ルノワール『素晴らしき放浪者』Blu-ray、『素晴らしき放浪者』DVD HDマスター

マルセル・カルネ『枯葉~夜の門~』DVD HDマスター

カルロス・サウラ『カラスの飼育』 Blu-ray、『カラスの飼育』DVD HDマスター

ダニエル・シュミット『トスカの接吻』Blu-ray、『トスカの接吻』[DVD]

『台湾新電影(ニューシネマ)時代』 [DVD]

ハワード・ホークス『赤ちゃん教育 THE RKO COLLECTION』 [Blu-ray]

『ジャック・ドゥミの初期傑作 Blu-ray BOX(初回限定版)』

『ローラ ジャック・ドゥミ監督 Blu-ray』『天使の入江』 Blu-ray

『ローラ DVD HDマスター』『天使の入江 DVD HDマスター』

ピーター・ボグダノヴィッチ『マイ・ファニー・レディ』

ミア・ハンセン=ラヴ『EDEN/エデン』 [Blu-ray]『EDEN/エデン』 [DVD]

『三里塚シリーズ DVD BOX』

『日本解放戦線 三里塚の夏』『日本解放戦線 三里塚』『三里塚 第三次強制測量阻止斗争』『三里塚 第二砦の人々』『三里塚 岩山に鉄塔が出来た』『三里塚 辺田部落』『三里塚 五月の空 里のかよい路』

『Frederick wiseman : 1968-1979, vol, 1』(『フレデリック・ワイズマン全集』)

『フレッド・アステア&ジンジャー・ロジャース Blu-ray BOX』

『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ DVD-BOX Vol.16』

『ハリウッド西部劇悪党列伝 DVD-BOX Vol.2』

『世界の推理小説 傑作映画 DVD-BOX』

ジャン=ピエール・メルヴィル『サムライ』 [Blu-ray]

ジャン=リュック・ゴダール『ゴダールのマリア【HDリマスター・完全版】Blu-ray+ ウディ・アレン会見レポート/ソフト&ハードDVD』

『ゴダールのマリア 【HDリマスター・完全版】』 [DVD]

『ロバート・アルトマン ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男』 [DVD]

三隅研次『処女が見た』 [DVD]

 

小川紳介 『青年の海 四人の通信教育生たち』 [DVD]、『現認報告書 羽田闘争の記録』 [DVD]、『圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録』 [DVD]

『【Amazon.co.jp限定】サム・ペキンパー 情熱と美学 特製スリーブケース仕様(初回生産限定)』 [DVD]

ジャック・ターナー『法律なき町』 [DVD]

『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ DVD-BOX Vol.16』

ジョー・ダンテ『マチネー/土曜の午後はキッスで始まる』 [Blu-ray]

ジャック・ドワイヨン『ラブバトル』 [DVD]

リチャード・フライシャー『王子と乞食』 [DVD]

『ハリウッド刑事・犯罪映画傑作選 DVD-BOX 1』

『夜の人々 THE RKO COLLECTION』 [Blu-ray]、『夜の人々 HDマスター THE RKO COLLECTION』 [DVD]

ウィリアム・ウェルマン『野性の叫び』 [DVD]

ウィリアム・ディターレ『欲望の砂漠』 [DVD]

『ポランスキーの欲望の館 HDマスター 完全版』 [DVD]

エリオ・ペトリ『華麗なる殺人』

ベルトラン・ボネロ『サンローラン』

オリヴィエ・アサイヤス『アクトレス ~女たちの舞台~』 [Blu-ray]

『映画監督 村川透 (和製ハードボイルドを作った男) 』

「ジャック・ターナー『私はゾンビと歩いた! THE RKO COLLECTION』 [Blu-ray]、『キャット・ピープル THE RKO COLLECTION』 [Blu-ray]

『ハリウッド西部劇悪党列伝 DVD-BOX Vol.1』

『冒険・海賊映画 ベスト・コレクション DVD-BOX Vol.2』

ヴェレナ・パラヴェル『リヴァイアサン』 Blu-ray、『リヴァイアサン』 [DVD]

イリーサ・バーバッシュ『モンタナ 最後のカウボーイ』 [DVD]

『ジョン・フォード Blu-ray BOX』 《初回限定生産》

『ハリウッド西部劇悪党列伝 DVD-BOX Vol.1』

『ハリウッド悪女映画傑作選 DVD-BOX』

『冒険・海賊映画 ベスト・コレクション DVD-BOX Vol.2』

『怒涛の果て』

『マイエルリンクからサラエヴォへ』『七月のランデヴー』『白い足』『罪の天使たち』 『乙女の星』

アンリ・ジョルジュ=クルーゾー『ミステリアス・ピカソ 天才の秘密』 [Blu-ray]

神代辰巳『四畳半襖の裏張り』 [Blu-ray]、 田中登『マル秘色情めす市場』 [Blu-ray]、渡辺護『セーラー服色情飼育』 [Blu-ray]

ヴィンセント・ミネリ『ハリウッド・メロドラマ傑作選 二日間の出会い』

『珠玉のフランス映画名作選 DVD-BOX』

アベル・ガンス『SFムービーベストコレクション 世界の終り』 [DVD]

『フィルム・ノワール ベスト・コレクション フランス映画篇 DVD-BOX2』

ダリオ・アルジェント『スタンダール・シンドローム [Blu-ray]

ジャン・ルノワール『ピクニック(HDリマスター版)』 [Blu-ray]

アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ Blu-ray 特典ディスク(メイキングドキュメンタリー)付属!』 『神々のたそがれ HDマスター アレクセイ・ゲルマン監督』 [DVD]

『アンドレイ・ズビャギンツェフ Blu-ray BOX (初回限定)』

『ザ・ヴァンパイア~残酷な牙を持つ少女~』 [DVD]

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『雪の轍』 [DVD]

ジョシュア・オッペンハイマー『ルック・オブ・サイレンス Blu-ray』 『ルック・オブ・サイレンス』 DVD

『フェルナンド・アラバール初期』

『黒衣の刺客』 [Blu-ray]

『大地の子守歌』 [Blu-ray]

 

『ハリウッド・メロドラマ傑作選 DVD-BOX Vol.1』

フランク・ボザーギ『死の嵐』

マイケル・カーティス『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ 誇り高き反逆者』 [DVD]

リー・ショーレム『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ 牧場荒し』 [DVD]

フィル・カールソン『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ 荒馬サンダーホーフ』 [DVD]

『西部劇 パーフェクトコレクション 廃墟の群盗 ヴァージニアン 草原の追跡 アリゾナの決闘 ヴァジニアの血闘 サンタフェ 虐殺の河 拳銃街道 サンダウナーズ 熱砂の戦い DVD10枚組』

『西部劇 パーフェクトコレクション DVD10枚組 ホンドー 西部の四人 地獄への挑戦 拳銃往来 北の狼 サン・アントニオ 幌馬車隊 カナダ平原 懐しのアリゾナ ミズーリ大平原』

『西部劇 パーフェクトコレクション 星を持つ男 モヒカン族の最後 愛の弾丸 渓谷の銃声 高原児 硝煙の新天地 銅の谷 荒野の三悪人 叛逆の用心棒 デンボー牧場の争い DVD10枚組』

『西部劇 パーフェクトコレクション DVD10枚組 丘の羊飼い 西部の二国旗 ブラボー砦の脱出 アパッチ族の最後 ブラックストーンの決闘 早射ち無宿 モンタナ 限りなき追跡 銃弾 続・テキサス決死隊』

『西部劇 パーフェクトコレクション DVD10枚組 女群西部へ 復讐の二連銃 脱獄者の秘密 シエラ ネバダ決死隊 勇者のみ 最後の酋長 牧場荒し 硝煙のカンサス パウダー・リバーの対決』

『西部劇 パーフェクトコレクション 復讐の荒野 砂漠の生霊 掠奪の町 勇魂よ永遠に フロンティア・マーシャル 赤い空 キャトル・ドライブ 荒原の疾走 トマホーク峡谷の待伏せ 最後の無法者 DVD10枚組』

マイケル・アンダーソン『生きていた男』 [DVD]

リチャード・フライシャー『見えない恐怖』

ジョセフ・ロージー『唇からナイフ』 [Blu-ray]

『ハリウッド・ブルバード(続・死ぬまでにこれは観ろ!)』 [DVD]

ピーター・ワトキンス『懲罰大陸★USA』 [Blu-ray]

『懲罰大陸★USA』 [DVD]

 

ラオール・ウォルシュ『フィルム・ノワール ベストコレクション フランス映画篇 大雷雨』

ダグラス・サーク『フィルム・ノワール ベストコレクション フランス映画篇 夏の嵐』

『遊星よりの物体X HDマスター THE RKO COLLECTION』 [DVD]、『断崖 HDマスター THE RKO COLLECTION』 [DVD]、『私はゾンビと歩いた! HDマスター THE RKO COLLECTION』 [DVD]、『キャット・ピープル HDマスター THE RKO COLLECTION』 [DVD]

『アカデミー賞 ベスト100選 オズの魔法使い 我が道を往く ブルックリン横丁 オペラハット 遥かなる我が子 哀愁の湖 イヴの総て ジョニー・ベリンダ 戦場 真昼の決闘 DVD10枚組』

ジョン・フォード『荒野の女たち』 [DVD]

『ハリウッド西部劇映画 傑作シリーズ DVD-BOX Vol.15』

ニコラス・レイ『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ 不屈の男たち』 [DVD]

『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』 Blu-ray

オーソン・ウェルズ『偉大なるアンバーソン家の人々』 [Blu-ray]、『偉大なるアンバーソン家の人々 HDマスターDVD』

『巨匠たちのハリウッド バッド・ベティカー傑作選 DVD-BOX2』

『ミステリアスな一夜』『ロデオ・カントリー』『美女と闘牛士』 [DVD]

ウィリアム・キーリー『我れ暁に死す』 [DVD]

ベン・ヘクト『情熱なき犯罪』 [DVD]

ジャック・アーノルド『それは外宇宙からやって来た』『縮みゆく人間』 [DVD]

『ハリウッド西部劇映画 傑作シリーズ DVD-BOX Vol.13』

『ハリウッド西部劇映画 傑作シリーズ DVD-BOX Vol.14』

ヘンリー・レヴィン『コロラド』 [DVD]

ジョン・カーペンター『「要塞警察」Blu-ray+「真夜中の処刑ゲーム」DVD 籠城映画2本立て エクストリーム・エディション』

『フィルム・ノワール ベスト・コレクション DVD-BOX Vol.6』

『テレグラフ・ヒルの家』『14時間の恐怖』(ヘンリー・ハサウェイ)『マルタの鷹』『底流』(ヴィンセント・ミネリ)『パスポートのない女』(ジョセフ・H・ルイス)『ヒッチ・ハイカー』(アイダ・ルピノ)『ビッグ・ボウの殺人』(ドン・シーゲル)『M』(ジョセフ・ロージー)の全8作を収録。

ジョン・ファロー『夜は千の眼を持つ』 [DVD]

ダリオ・アルジェント『シャドー -HDリマスター特別版- [Blu-ray]

ダルデンヌ兄弟『サンドラの週末』 [DVD]

小津安二郎『晩春 デジタル修復版』 [Blu-ray]

溝口健二『残菊物語 デジタル修復版』 [Blu-ray]

万田邦敏『イヌミチ』 [DVD]

エドワード・ヤン『恐怖分子 デジタルリマスター版』 [Blu-ray]、『光陰的故事』 [DVD]

『巨匠たちのハリウッド ヘンリー・ハサウェイ&ゲイリー・クーパー傑作選 DVD-BOX』

トビー・フーパー『悪魔のいけにえ 公開40周年記念版』 [Blu-ray]

モンテ・ヘルマン『果てなき路(続・死ぬまでにこれは観ろ!)』 [Blu-ray]

『ジャン=ピエール・メルヴィル監督作品『海の沈黙』『マンハッタンの二人の男』Blu-ray ツインパック』

『クロード・ランズマン決定版BOX』 [Blu-ray]

オットー・プレミンジャー『バニー・レークは失踪中』

イングマール・ベルイマン『魔術師』 ≪HDリマスター版≫ [DVD]、 『仮面/ペルソナ』 ≪HDリマスター版≫ [DVD]、『叫びとささやき』 ≪HDリマスター版≫ [DVD]

『ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団 Blu-ray BOX deux』DVD 版も同時発売 )

バッド・ベティカー『第二次世界大戦 戦争映画傑作シリーズ レッドボール作戦 [DVD]』

『第二次世界大戦 戦争映画傑作シリーズ 怒りの海 [DVD]』

『終戦70周年記念 第二次世界大戦 戦争映画傑作シリーズ DVD-BOX Vol.2』

『巨匠たちのハリウッド トッド・ブラウニング傑作選 DVD-BOX』

『満州アーカイブス 満映作品映画編「迎春花」』 [DVD]

『ブルー・リベンジ』 [Blu-ray]

『ATG初DVD化BOX』

『ルイス・ブニュエル ≪メキシコ時代≫最終期 Blu-ray BOX』(初回限定版)

『ストーカー』 【Blu-ray】

『坊やの人形』 <HDデジタルリマスター版> [Blu-ray]

『童年往事 時の流れ』 <HDデジタルリマスター版> [Blu-ray]

『イングマール・ベルイマン 黄金期 Blu-ray BOX Part-3』

『ハリウッド・スクリューボール・コメディ傑作選 DVD-BOX』

マチュー・アマルリック『青の寝室』

『イーダ』 Blu-ray

『さらば、愛の言葉よ 3D』

『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』Blu-ray、『夜と霧』 Blu-ray

『エル・スール』 Blu-ray、『ミツバチのささやき』 Blu-ray

『アポロンの地獄』 [Blu-ray]、『奇跡の丘』 [Blu-ray]

E・A・デュポン『ヴァリエテ』【淀川長治解説映像付き】 [DVD]

キング・ヴィダー『ビッグ・パレード』

ルドルフ・マテ『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ ミシシッピの賭博師』 [DVD]

ゴードン・ダグラス『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ オクラホマ無宿』 [DVD]

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マイケル・カーティス『破局』

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ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『スリー・モンキーズ』『昔々、アナトリアで』

ルキノ・ヴィスコンティ『イノセント』 Blu-ray

ルイス・ブニュエル『この庭に死す -デジタルリマスター版-』 [Blu-ray]

アンリ=ジョルジュ・クルーゾー『犯人は21番に住む -デジタルリマスター版-』 [Blu-ray]

クロード・ミレール『伴奏者』

イエジー・スコリモフスキ『出発』『ムーン・ライティング』

ジョン・カーペンター『ゼイリブ 初回限定版』 [Blu-ray]

ジョージ・スティーヴンス『ガンガ・ディン』

キング・ヴィダー『ステラ・ダラス』

『巨匠たちのハリウッド キング・ヴィダー傑作選 DVD-BOX』 『牧場の闇』『同志X』『城砦』

『ドラキュラ vs ミイラ男 ホラー映画 傑作集 魔人ドラキュラ 女ドラキュラ 夜の悪魔 ドラキュラとせむし女 吸血鬼蘇る ミイラ再生 ミイラの復活 ミイラの墓場 執念のミイラ ミイラの呪い』

ラオール・ウォルシュ『世界の戦争映画名作シリーズ 決死のビルマ戦線』

『恐怖への旅』

ウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル(初回生産限定)』 [Blu-ray]

ホウ・シャオシェン『恋々風塵 -デジタルリマスター版-』 [Blu-ray]

田中徳三『鯨神』

島耕二『怪談おとし穴』

山本薩夫『牡丹燈籠』

『ジャック・タチ コンプリートBOX』 [Blu-ray]

『マルグリット・デュラスのアガタ』 [DVD]

『イングマール・ベルイマン 黄金期 Blu-ray BOX Part-1』

マルコ・ベロッキオ『肉体の悪魔』 [DVD]

ジャン=リュック・ゴダール『万事快調』 Blu-ray

ジャック・リヴェット『修道女 【HDマスター】』 [DVD]

ホセ・ルイス・ゲリン『『ある朝の思い出』+『アナへの2通の手紙』+『思い出』』 Blu-ray

アブデラティフ・ケシシュ『クスクス粒の秘密』

ルネ・アリオ『Histoires de René Allio - Vol. 1』

ルネ・アリオ『Histoires de René Allio - Vol. 2』

トビー・フーパー『悪魔の起源 ─ジン─』

『巨匠たちのハリウッド ロバート・シオドマク傑作選 DVD-BOX』 『暗い鏡』『ハリー叔父さんの悪夢』『血塗られた代償』

『エフゲニー・バウエル作品集 命には命を』

サミュエル・フラー『地獄と高潮』

オーソン・ウェルズ『黒い罠 完全修復版』 [Blu-ray]

『フィルム・ノワール ベスト・コレクション DVD-BOX Vol.5』

『世界の史劇映画傑作シリーズ DVD-BOX Vol.1』

『世界の戦争映画名作シリーズ DVD-BOX Vol.3』

フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない/あこがれ』Blu-ray、『突然炎のごとく』 Blu-ray、『終電車』Blu-ray

マルコ・フェレーリ『ひきしお』 [Blu-ray]

増村保造『清作の妻』

『戦記映画復刻版 亀井文夫作品集 DVD3枚組 上海 支那事変後方記録 戦ふ兵隊 日本の悲劇』

『戦記映画 復刻版シリーズ 終戦70周年特別企画 国策映画選集 亀井文夫作品集 セット DVD7枚組』

『戦記映画復刻版 国策映画選集 DVD4枚組 支那事変海軍作戦記録 富士に誓ふ 少年戦車兵訓練の記録 帝国海軍勝利の記録 海軍戦記』

『小間使の日記』

『機械人間 感覚の喪失』

『ボリス・カーロフ のスリラー 恐怖の館 10話収録』

『ジェス・フランコ 凌辱エロスコレクション(ヘア無修正版)』

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Riot in Cell Block 11 (Criterion Collection)』

『巨匠たちのハリウッド 生誕百周年記念 マックス・オフュルス傑作選DVD-BOX2』『ディヴィーヌ』『ヨシワラ』『 明日はない』

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『聖なる酔っぱらいの伝説』 Blu-ray

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(『映画「立候補」』

『風立ちぬ』 [DVD]

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『悲情城市』

マイケル・カーティス『コマンチェロ』 [Blu-ray]

『ベイジル・ラズボーン版シャーロック・ホームズ 緋色の爪』

ジェフ・ニコルズ『MUD -マッド』

イグナシオ・アグエロ『100人の子供たちが列車を待っている』

アンジェイ・ワイダ『戦いのあとの風景』『約束の土地』Blu-ray

トーマス・イムバッハ 『終わりゆく一日』

ローラン・カンテ『フォックスファイア 不良少女の告白』 Blu-ray

増村保造『積木の箱』『妻二人』『女の小箱より「夫が見た」』

森崎東『あの頃映画 松竹DVDコレクション ラブ・レター』

中村登『あの頃映画 松竹DVDコレクション 夜の片鱗』

神代辰巳『離婚しない女』

土本典昭『海盗り -下北半島・浜関根』

『インタビュー 1996年7月14日記録映画作家土本典昭』

白石和彌『凶悪』 [Blu-ray]

『この空の花 -長岡花火物語』 (BD通常版) [Blu-ray]、『この空の花 -長岡花火物語』(DVDプレミアBOX版)

宮崎駿『風立ちぬ』 [Blu-ray]

ロイ・ウィリアム・ニール『緋色の爪』

マーティン・スコセッシ『キング・オブ・コメディ 製作30周年記念版』 [Blu-ray]

モンテ・ヘルマン『ヘルブレイン/血塗られた頭脳』 [DVD]

『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ DVD-BOX Vol.8』

大林宣彦『この空の花 -長岡花火物語』 (DVDプレミアBOX版)

ルチオ・フルチ『ビヨンド HDニューマスター <コレクターズ・エディション> 』 [Blu-ray]

『アン・リー"父親三部作"』 [Blu-ray]

アラン・ロブ=グリエ『不滅の女』 [Blu-ray]

モーリス・ピアラ『愛の記念に』 Blu-ray、『ヴァン・ゴッホ』 Blu-ray、『悪魔の陽の下に』 Blu-ray、 『ソフィー・マルソーの刑事物語』 Blu-ray

『ジョン・カサヴェテス Blu-ray BOX (初回限定版) 』

フリッツ・ラング『怪人マブゼ博士(原題:マブゼ博士の千の眼) 』[DVD]

アキ・カウリスマキ、ビクトル・エリセ、マノエル・デ・オリヴェイラ『ポルトガル、ここに誕生す~ギマランイス歴史地区』

ジョナス・メカス『ウォールデン』 [DVD]

ロバート・アルドリッチ『ヴェラクルス』 [Blu-ray]

ジョセフ・L・マンキーウィッツ『イヴの総て』 [Blu-ray] 、『幽霊と未亡人』 [Blu-ray]

チャールズ・ヴィダー『ギルダ』 [Blu-ray]

ヘンリー・キング『地獄への道』 [Blu-ray]

オットー・プレミンジャー『カルメン』 [Blu-ray]

ラオール・ウォルシュ『世界の戦争映画名作シリーズ 北部への追撃』、ジャック・ターナー『世界の戦争映画名作シリーズ 炎のロシア戦線』

『ジム・ジャームッシュ 初期3部作』 Blu-ray BOX(初回限定生産)(Blu-ray Disc)

ホン・サンス『3人のアンヌ』 [DVD]

ワン・ビン『三姉妹 ~雲南の子』[DVD]

松本俊夫『修羅 HDニューマスター版』 [Blu-ray] 、『薔薇の葬列 HDニューマスター版』 [Blu-ray]

『セブンスコード 劇場公開記念特別盤(多売特典付き:生写真予定)』 [CD+DVD, Limited Edition]

森崎東『ペコロスの母に会いに行く』

熊切和嘉『夏の終り』 [Blu-ray]

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『クロニクル』

『ゼロ・シティ HDマスター』

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『巨匠たちのハリウッド アンソニー・マン傑作選 高い標的』

大島渚『KYOTO, MY MOTHER'S PLACE キョート・マイ・マザーズ・プレイス』

ジャック・ターナー『草原の追跡』

ラオール・ウォルシュ『高原児』

ウィリアム・ワイラー『砂漠の生霊』

レオス・カラックス『ホーリー・モーターズ 【リムジン・エディション】』 (Blu-ray Disc)

ロバート・アルトマン『ビッグ・アメリカン』[DVD]

マキノ正博『弥次喜多道中記』『野戦軍楽隊』『不沈艦撃沈』『忠臣蔵「天の巻」「地の巻」(総集編) 』

『フィルム・ノワール ベスト・コレクション DVD-BOX Vol.3』

マイケル・カーティス『トゥルー・クライム殺人事件』、フィル・カールソン『スキャンダル・シート』、ルドルフ・マテ『武装市街』、ロバート・ワイズ『捕われの町』、、ジョン・ファロー『替え玉殺人事件』、エドワード・ドミトリク『影を追う男』、アンソニー・マン『国境事件』『窓』

『アンソニー・マン傑作選 夜のストレンジャー』 『アンソニー・マン傑作選 必死の逃避行』

『ハリウッド西部劇映画 傑作シリーズ DVD-BOX Vol.7』

『素晴らしき哉、人生!』 Blu-ray

『もどり川』

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『鏡』 Blu-ray、『鏡』DVD HDマスター、『僕の村は戦場だった』 Blu-ray、『僕の村は戦場だった』 DVD HDマスター、『アンドレイ・ルブリョフ』 Blu-ray、『アンドレイ・ルブリョフ』 DVD HDマスター

『夜までドライブ』 [DVD]

『轟く天地 - The Thundering Herd -』

『われら生きるもの』

『鬼才ピエル・パオロ・パゾリーニ 3枚セットDVD ~生誕90年特別限定セット~』

『ハリウッド西部劇映画 傑作シリーズ DVD-BOX Vol.6』

『最後の酋長』 [DVD]

『幻の湖』 【期間限定プライス版】 [DVD]

『奪命金 ≪特別版≫』

『スプリング・ブレイカーズ』 [Blu-ray]

『ラストスタンド Premium-Edition』[Blu-ray]

『不運』 Blu-ray

『沈黙の声』 Blu-ray

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『イタリア旅行』 Blu-ray、『無防備都市』 Blu-ray

『イタリア旅行』HDマスター [DVD] 『無防備都市』HDマスター [DVD]

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『あの頃映画 松竹DVDコレクション 男の顔は履歴書』

『リアル~完全なる首長竜の日~ スタンダード・エディション』 [DVD]

『「秋日和」 小津安二郎生誕110年・ニューデジタルリマスター』 [Blu-ray]

『巨匠たちのハリウッド エルンスト・ルビッチ傑作選 DVD-BOX2』

『肉の蝋人形 3D & 2D (1枚組)』 [Blu-ray]

『血と砂』 [Blu-ray]

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『ミクロの決死圏』 [Blu-ray]

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『詩人の血』

『鉄路の男』Blu-ray、『エロイカ』 Blu-ray

『反撥』 [Blu-ray] 、『水の中のナイフ』 [Blu-ray] 、『袋小路』 [Blu-ray] 『テス』 Blu-ray スペシャルエディション

『ベルナルド・ベルトルッチ アーリー・イヤーズ』 【DVD BOX】

『孤独な天使たち スペシャル・エディション』 [Blu-ray]

『駆ける少年』

『あの頃映画 「夕陽に赤い俺の顔」』

『座頭市 Blu-ray BOX』

『「東京物語」 小津安二郎生誕110年・ニューデジタルリマスター』 【初回限定版】 [Blu-ray] (2013)

『「Color 4 OZU~永遠なる小津カラー」小津安二郎監督カラー4作品 Blu-ray BOX』 【初回限定生産】

『キッズ・リターン』 [Blu-ray]

『恋多き女』 Blu-ray

『渓谷の銃声』

『カリフォルニア』『荒原の疾走』

『潜水艦轟沈す』

『復讐の二連銃』『平原の落雷』『血ぬられし欲情』

『最後の酋長』

『わが谷は緑なりき』 [Blu-ray]

『コックファイター HDニューマスター版』 [Blu-ray]

『巨匠ニコラス・レイ教授の「映画の授業」DVD-BOX』 『ウィ・キャント・ゴ―・ホーム・アゲイン』『あまり期待するな』

『ゲスト』 Blu-ray、『シルビアのいる街の写真』

『リオ・ロボ 』[Blu-ray]

『ハリウッド西部劇映画 傑作シリーズ DVD-BOX Vol.4』『女群西部へ!』『復讐の荒野』『血ぬられし欲情』

『修道女』

『修道女』

『街の恋 ~フェデリコ・フェリーニ×ミケランジェロ・アントニオーニ~

『奪命金 ≪特別版≫』

『わたしたちの宣戦布告』

『アギーレ/神の怒り』 Blu-ray、『コブラ・ヴェルデ 緑の蛇』 Blu-ray、 『シュトロツェクの不思議な旅』 Blu-ray、 『ヴォイツェク』 [DVD]

『北朝鮮の全貌シリーズ 戦争映画名作選 DVD-BOX』

『小津安二郎 DVDコンプリートボックス』

『出来ごころ/浮草物語』『その夜の妻/非常線の女』『東京の合唱/淑女と髯』『淑女は何を忘れたか』『戸田家の兄妹』『長屋紳士録』

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『シュトロツェクの不思議な旅』 Blu-ray

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『巨匠たちのハリウッド リチャード・フライシャー傑作選 DVD-BOX』 『その女を殺せ』『カモ』『静かについて来い』

『ハリウッド西部劇映画 傑作シリーズ DVD-BOX Vol.4』

『ハリウッド西部劇映画 傑作シリーズ DVD-BOX Vol.5』

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『ローマ法王の休日』

『クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち』

『メゾン ある娼館の記憶』

『灼熱の肌』

『孤独な惑星』

『奴隷妻』

『母娘監禁・牝』

『くノ一淫法 百花卍がらみ』『実録エロ事師たち』『ためいき』『天使のはらわた 赤い教室』

『ベッド・イン』

『レッドソニア 』 [Blu-ray]

『アメリカ時代のフリッツ・ラングDVD-BOX3』

『ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督傑作選DVD!』

『ハーシェル・ゴードン・ルイス ブルーレイBOX』 [Blu-ray] 『血の祝祭日』『2000人の狂人』『ゴア・ゴア・ガールズ』『血の魔術師』

『穴 LE TROU』 HDマスター、『現金に手を出すな』 HDマスター(Blu-ray 版もあり。『現金に手を出すな』『穴 LE TROU』

『惑星ソラリス』

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『ビリー・ザ・キッド』

『征服されざる西部』

『丘の一本松』

『インディアン渓谷』

『死の砂塵』

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『ル・アーヴルの靴みがき』

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『 <あの頃映画> にっぽんぱらだいす』

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2017年10月13日
ジャッロ映画の秘かな愉しみ2――ルチオ・フルチ『幻想殺人』ほか

ルチオ・フルチ『幻想殺人』(Una lucertola con la pelle di donna, 71) ★★½

さすがは〈巨匠〉ルチオ・フルチというべき見ごたえのある作品である。

これもロンドンを舞台にしたミステリー。後年、元祖スプラッター映画の監督として名を馳せてゆくことになるフルチだが、この頃は残酷描写を比較的抑えた上品な(?)作品を撮っていた。『ザンゲリア』などの後期作品が好きな人には物足りなく思えるかもしれないけれど、わたしにはこっちのほうが好みに近い。

上流夫人キャロルは、毎夜、奇妙な夢に悩まされている。夢のなかで彼女は、自分とは真逆の退廃的な生活をしている隣のアパルトマンの若い女をナイフで刺し殺すのだった。キャロルがその夢の話を精神分析医に話した直後に、その女が夢のとおりに殺されてしまう。現場からはキャロルのものであるコートや、彼女の指紋の付いたナイフが見つかり、警察は彼女に疑いの目を向ける。キャロル自身も、あれが夢だったのか、現実だったのか次第にわからなくなってゆく。弁護士であるキャロルの父親は証拠を集めて、彼女を釈放させるが、その直後から、キャロルは、夢の中の殺人現場に居合わせていた怪しげなヒッピーに付け回され始める……。

これもありがちな話ではあるが、フルチは観客の注意をあちこちにそらしながら、曖昧な雰囲気をたくみに作り上げてゆき、最後にあっと言わせる。その手腕はなかなかのものだ。キャロル役を演じているフロリンダ・ボルカンは、フルチの傑作『マッキラー』でも主役を演じている女優で、この映画では、次第に精神のバランスを失ってゆく女を見事に演じきっている。ロケーション撮影もなかなか巧みだ。今は使われていない教会(?)の廃墟のなかでキャロルがヒッピーに追い詰められ、ようやく扉をこじ開けて外に出ると、そこはもう逃げ場のない屋根の上で、そこに追手が迫ってくるという場面は、とりわけ忘れがたい。

刑事の役でスタンリー・ベイカーが出演している。事件の解決には実のところあまり貢献しないのだが、ただそこにいるだけで大きな存在感を示しているところはさすがだ。口笛の妙な使い方も印象に残る。

残酷描写は抑えてあるといったが、一箇所、犬を使った凄まじいシーンがあるので要注意。この場面はヴァージョンによってはカットされていて、見ることができない。動物虐待の疑いで、たしか裁判沙汰にもなったはずである。裁判では、製作者側が、撮影中に犬を実際に虐待したのではなく、特殊効果を使ってそう見せているだけだということを、実演してみせたらしい。

フランチェスコ・マッツェイ『尼僧連続殺人』 <未> (L'Arma, L'Ora, Il Movente, 72) ★½

原題は「凶器、犯行時刻、動機」くらいの意味だろう。ひょっとすると原作そのままのタイトルなのかもしれないが、いずれにしても、ミステリーとしてここまで直接的なタイトルはあまり見たことがない。

清廉潔白で通っているが実は複数の女性と関係をもっている神父が、教会のなかで何者かによって殺害されるところから映画は始まる。ジャッロ映画に悪徳神父が登場するのは珍しくないが、この映画はその最初の一本であるとも言われる。 教会の屋根裏が、孤独な孤児の少年の遊び場になっていて、その床の穴から殺人現場がまるみえになっているという空間が、サスペンスに貢献している(床の穴から教会に落下する少年のビー玉)。

ジャッロ映画としてはいささかパンチに欠けるけれども、修道女たちの全裸シャワーシーンなど、カトリックのイメージをジャッロ特有のエロティシズムと結びつけた最初の一例としては記憶に値する作品である。

2017年10月1日
ジャッロ映画の秘かな楽しみ1

ジャッロ映画と呼ばれるイタリアのサスペンス&ホラーのジャンルについては、ダリオ・アルジェントやマリオ・バーヴァといった何人かのお気に入りの監督作品を除くと、あまり熱心に見てこなかった。信頼できる道案内人がいなかったというのが、その最たる理由の一つである。要するに、いろいろあってどれを見たらいいのかわからないのだ。 特に理由はないのだが、最近になって、このあたりの作品をまとめてみておきたいと思うようになった。さすがに全部見るわけには行かないので、ネットなどで公開されている「ジャッロ映画ベスト20」などといったたぐいの、だれが作ったかもわからないリストなどを参考にしながら、代表作と言われている作品を順番に見ていっているところである。 ほんのメモ代わりだが、何かの参考になればと思って、感想を書いておく。

ジャッロ映画についてはここを参照。


マッシモ・ダラマーノ『おまえ(たちは)ソランジェになにをしたのか?(未)』(Cosa avete fatto a Solange?, 72) ★★

「ソランジェ、残酷なメルヘン」というよく分からない邦題がついている。

物語にはほとんど登場しないソランジェという女性がタイトルになっているという奇妙さ。このタイトルは半分ネタバレと言ってもいいものだが、これは、ミステリー仕立てのものが大部分であるジャッロというジャンルにおいて、「謎」はたいてい口実にすぎないことを雄弁に物語っている。ここでも、物語は、繰り返される残酷な殺人方法(その意味は最後にわかるのだが)をスタイリッシュに見せるためのアリバイにすぎない。

ただ一方で、このドイツ=イタリア合作映画は、60年代にドイツで量産された一群のエドガー・ウォレス((エドガー・ウォレスは『キング・コング』の原作者として名高いが、SF小説ではほとんど成功していなかった。『キング・コング』はこのジャンルでの唯一の成功例といっていいのだが、ウォレスは映画の製作途中に病に倒れ、完成作品を見ることはなかった。))原作映画("krimi" film)の流れのなかでも理解しなければならないだろう。ロンドンを舞台にした連続殺人というのも、この "krimi" ジャンルの特徴でもあるのだ。この映画は、"krimi" の最後の作品の一つであると同時に、ジャッロ映画の一つでもあるということである。

映画の鍵を握る女性ソランジェは結局ほとんどセリフ一言もしゃべらないのだが、これは、彼女を演じる女優カミーユ・キートンが、あのバスター・キートンの孫娘であるという事実と関係があるのだろうか(この映画はカミーユの映画デビュー作だった)。

この映画について調べているときに、ニコラス・ウィンディング・レフンがこの映画をリメイクしようとしていることを知って驚いた。ひょっとすると、オリジナル以上に面白い映画になるかもしれない。



アルド・ラド『彼女が死ぬのを見たのはだれか?』(Chi l'ha vista morire?, 72) ★½

この映画にも、「死んでいるのは誰?」という意味不明の邦題がついている。

アルプスの雪山での殺人シーンに始まった映画の舞台は、すぐにヴェネチアに移る。幼い娘を殺された父親が、犯人を探し求めて迷路のようなヴェネチアの街をさまようという物語は、ニコラス・ローグの『赤い影』をどうしても思い出させる。

ジャッロ映画にしては珍しく、残酷シーンをあまり見せないことに徹しているところが特徴。黒いヴェールをかぶった殺人鬼が犠牲者に迫る場面で繰り返し使われる主観ショットと、エンニオ・モリコーネの不安を煽る音楽がなかなか効果的に使われている。これも非常に評価の高いジャッロ映画ではあるが、いささか平凡な作品に思えた。

日本版 DVD

エルネスト・ガスタルディ、ヴィットリオ・サレルノ『リビドー』(Libido, 65) ★★

リビドーという原題、冒頭に掲げられるフロイトの言葉、主人公にトラウマを残すことになる少年時代の原光景(ベッドに縛り付けられた母親が父親によって殺される現場)……。しかし、この通俗フロイト主義とでも呼ぶべきものは、実のところ、巧妙にしかけられた物語の罠の一つでしかない。映画は、主人公が、トラウマとなっている光景の現場である少年時代の家に帰ってくるところから始まる。そこから奇妙な出来事が次々と起き始めるという物語は、まあ、ありがちなものと言っていい。舞台となる一軒家の撮り方もいささか凡庸ではあるが(鏡の間もあまり効果的に活用されていない)、あれこれ予想していた展開を次々と裏切ってゆくストーリー展開は、なかなか楽しませてくれる。



2017年8月30日
ジュリアン・デュヴィヴィエ『モンパルナスの夜』――ジャン・ルノワールの余白に

神戸映画資料館の連続講座「ジャン・ルノワール『素晴らしき放浪者』編」があと一ヶ月もないところまで近づいてきたので、しばらくはフランス映画の話題が増えると思う。

 

ジュリアン・デュヴィヴィエ『モンパルナスの夜』(La tête d'un homme, 32) ★★½

ジョルジュ・シムノンの小説を初めて映画化したジャン・ルノワールの『十字路の夜』の直後に作られた、シムノン小説の最初期の映画化作品の一つ。

原題は直訳すると「男の首」くらいの意味になるのだが、たぶん恋愛ものと錯覚させようと狙ったのであろう邦題は、この原題が持つ不気味なニュアンスを台無しにしてしまっている。

金のかかる恋人に手を焼いていた男が居酒屋で冗談でこういう。「だれでもいい、だれか叔母を始末してくれたら10万フランあげてもいい。そしたらおれに遺産が入ってくるんだ」。するとその直後に正体不明の何者かが彼にメモを手渡す。そこにはこう書かれていた。「取引は成立した」
男は悩んだ末に、指定された場所に金を持ってゆく。すると本当に、彼の叔母は何者かによって殺害されてしまうのだ。むろん男はその時間に完璧なアリバイを用意していた。犯人はすぐに捕まるのだが、彼は真犯人によってまんまとはめられた単なるスケープゴートに過ぎなかった……。

『見知らぬ乗客』をちょっと思い出させる映画の出だしからしてなかなかスリリングだ。追い詰められていけば行くほど不気味に落ち着き払ってゆく真犯人の、絶望的であると同時に、達観したような顔、仕草、セリフが強烈な印象を残す。そのため、メグレ警視ものの一つであるのにもかかわらず、この映画のメグレはほとんど存在感を発揮していない。

ミステリー映画なので、内容についてはあまり多くは語らないことにするが、今で言うところサイコ・サスペンスの先駆けと言ってもいい作品であり、現在でも十分に鑑賞に耐える。というか、単純に、とても面白い。

刑事による聞き込みの場面で、手前の刑事はそのままに、相手だけがスクリープロセス画面で次々と変わっていくところなど、当時としては洒落た演出だったのだろうが、今見ると古めかしく、やっぱりデュヴィヴィエはセンスがないなぁと思ってしまうところも多いが、ルノワールの『牝犬』『ボヴァリー夫人』と同じくビアンクール撮影所のマルセル・クルムが音響を担当しているので、サウンド面では数々の実験を試みていて実に興味深い。

警察署内部を捉えた場面での、各自が一斉に関係のない話をしている声をざわめきのように聞かせるところや、オフ・サウンドの多用、あるいはメグレが車のタイヤのパンクを装って容疑者をわざと逃がす場面におけるイメージと音とのズレなど、見るべきところ(というか、聴くべきところ)はいろいろある。しかし、同時代のルノワールが同時録音に徹底してこだわっていたのに比べると、デュヴィヴィエにはこの点においてもやはりルノワールが持っていた現代性に欠けていると言っていい。ルノワール作品のオフ・サウンドは、カメラがパンすればそこに音源となるものが確実に存在していることを確信させる厚みと存在感を持っているのだが、このデュヴィヴィエ作品のオフ・サウンドにはそれがまったくない。

同時代のフレエル((30年代を代表する歌手で、多くの映画に使われ、また本人も『とらんぷ譚』や『望郷』など少なからぬ作品に女優として出演している。ルノワールの『大いなる幻影』ではラジオ放送の歌として使われ、ジャン・ギャバンが口ずさむ。また、『ママと娼婦』『アメリ』など、その後のフランス映画のなかでも彼女の歌を聴くことができる。))と並ぶ女歌手ダミアの歌も実に効果的に使われている。映画が始まると同時にクレジット画面(タイトルを連想させる不気味なギロチンのイメージ!)をバックにすでに彼女の歌は聞こえている。その後も、彼女の声は、あくまでも画面オフから、だが真犯人の部屋の隣の部屋から聞こえてくるリアルな歌として、作中で大きな存在感を放つ。真犯人はその見えない歌声の主を、かれが性的に執着する女(そのために彼は犯行を犯すのだ)と、想像のなかで重ね合わせるのである。こうした歌の使い方も、『牝犬』の殺人をストリート・ミュージシャンの歌に接続する場面や、あるいは『獣人』の殺人場面での同じような歌の使い方など、ルノワール作品における歌の使い方と比較することが可能だろう。

2017年8月6日
『Canoa: A Shameful Memory』――メキシコ版 実録『2000人の狂人』?

フェリペ・カザルス『Canoa: A Shameful Memory』(76) ★★★

こんな映画が存在することさえ、つい最近まで知らなかった。それなりに映画を見てきたつもりだが、この世にはわたしが見たことも聞いたこともない映画がまだまだ残っているらしい。当たり前といえば当たり前の話である。しかし、この映画にはそんなことを久しぶりに痛感させられた。実にユニークな作品である。

「メキシコ版 実録『2000人の狂人』」とでもいえば、この映画の内容を簡潔に言い表したことになるだろうか。この映画に描かれるのは、1968年のメキシコで起きたある事件である。

メキシコ中南部の都市にあるプエブラ大学の職員5名が登山目的で地方に旅行する。しかし、目的の山の麓にある村サン・ミゲル・カノア(映画のタイトルになっている)に到着した時、折悪しく土砂降りの雨になる。仕方なく一夜の宿を探そうとするが、教会の神父を始めとして、村人たちはなぜか彼らに敵意を剥き出しにしてくる。それが、田舎の村でよく目にする「よそ者」に対するたんなる警戒心などではなく、殺意そのものであることにやがて彼らは気づくが、そのときはもう手遅れだった。 彼らは酒場で知り合った村人の家(というよりも小屋に近いあばら家)に泊めてもらうことになるのだが、気がつくとそこに何十人もの村人が詰め寄せ、家の周りを取り囲んでいた。やがてかれらは扉を押し破ってなかになだれ込み、家の主人を殴り殺すと、5人の職員に襲いかかり、一人ひとり殺してゆく。滅多打ちにした挙句、泥道を引きずってゆき、死にかけの状態で倒れているところをさらにナタ(マチェテ)で何度も何度も斬りつける。残酷極まりない。直接犯行に加わっていないものたちも、憎悪の叫び声を上げて囃し立て、街全体がお祭り騒ぎの様相を呈してゆく。知らせを受けてようやく機動隊が駆けつけたときには、二人だけがなんとか生き残っていたが、どちらも瀕死の重傷を負っていて、一人は片方の手の指をほとんど切り落とされていた……。

まるでハーシェル・ゴードン・ルイスの『2000人の狂人』のようなホラーな展開だが、実はこれは、この映画が撮られる数年前にメキシコで実際に起きた事件なのである。

こんなことが本当に起きたのかと信じられない気持ちになるが、これは、幾つもの要因が重なって、起こるべくして起こった事件だった。当時この村は、一人の怪しげな神父によって支配されていた。彼はよその教区から追放されていわばこの村に逃げ込んできていたいわくつきの人物だった。ほとんどが読み書きもできない無知な村人たちを、神父はその右翼的といってよい思想でたちまち洗脳してしまったのである。村人たちは、反政府的な運動をする学生たちは憎むべき共産主義者であり、カトリックの教会を破壊し、村人たちの土地を奪おうとしていると教え込まれた。そして、共産主義者の学生たちがやがて村に現れるから、警戒を怠るなと言われていたのである。 プエブラ大学の職員たちが村に現れたのは、そんな最悪なタイミングだった。彼らは共産主義の学生たちと間違われ、命を狙われてしまったのである。この日、雨が降っていなければ、彼らは悲惨な事件に巻き込まれることもなく、登山を楽しむことができていただろう。そんな不幸な偶然も重なって起きた出来事だった。

しかし、この事件をほんとうに理解するには、当時のメキシコの社会情勢を知っておく必要があるだろう。当時メキシコは、長期にわたる高度経済成長を達成する一方で、貧富の差が拡大するなど、様々な社会問題を抱えていた。この映画に描かれる1968年は、メキシコ・オリンピックが行われた年であり、オリンピックの直前になって学生たちによる反政府運動は激しさを増していた。そんなときにこのカノアの村の事件は起きたのだった。メキシコシティで、軍隊が学生のデモ隊に向かって発砲し、一説によると300人近くの学生が死亡したと言われる有名な虐殺事件が起きるは、このカノア村の出来事が起きたわずか数ヶ月後のことだった。このメキシコシティーでの虐殺事件はこの映画で直接的には描かれていない。だが、監督のフェリペ・カザルスはこの虐殺事件も射程に入れているに違いない。いや、むしろ、それこそが本当のターゲットであったとも考えられる。

この出来事を描くにあたってカザルスは、直線的な語りではなく、ブレヒト的ともいえるような距離をおいた複雑な語りを用いている。映画は、二人の新聞記者が、その夜起きたばかりのこの事件のことを電話で語るシーンで始まる。ついで、殺戮の現場に転がっている死体、その周りに群がる村人たち、それを制止する機動隊員を捉えたニュース映像風のモノクロ画面をバックにタイトル・クレジットが流れる。それが終わると、殺されたプエブラ大学の職員たちが登るはずだったラ・マリンチェ山を捉えた美しいカラー画面が現れ、サン・ミゲル・カノア村の風景が次々と映し出されてゆくにつれて、画面外の語り手が、この村の経済的に貧しい現状や、識字率の低さなどを、まるで教育ドキュメンタリーのように説明してゆく。やがて野良仕事をする一人の男をカメラがアップで捉えると、男はカメラに向かって語り始める。むろん、この男も役者である(実は、彼は映画監督のフアン・ロペス・モクテスマであり、彼はこのあとも狂言回しとして何度も画面に登場することになるだろう)。

こんな風にして始まった映画は、一体この映画は何がしたいのかと観客がいささか不安になり始める頃になって、ようやくプエブラ大学の職員たちの物語を再現ドラマとして語り出すのだが、そこにもモクテスマ演じる男は何度も現れ、物語から超越した存在として、出来事にコメントを加え続ける。モクテスマの語りはときにアイロニーたっぷりであり、こうして映画は終始一貫して出来事とは一定の距離をおきながら語り進められてゆく。

事件そのものも悲惨だが、事件の結末がまたやりきれない。この犯行には、神父をはじめ村人全員が加担していたと言ってもいいのだが、それを立証することは難しく、直接手を下した何人かだけが結局裁判で有罪になる。いずれもわずか数ヶ月の刑期であり、しかもほとんどは刑期よりもずっと短い期間で出所した。このなんとも中途半端な結末は、この直後に起きるメキシコシティーでの虐殺事件を予告している。カザルスがこの事件をただの再現ドラマとしてではなく、一歩距離をおいたところから構成し直して描いたのは、これを非常に特殊なケースとして片付けるのではなく、起こるべくして起きた出来事として描くためだったのだろう。まるで中世の世界で起きたような現実離れした事件だが、条件さえ整えば、現在においてもこういう事件はきっと起こりうるに違いない。そう考えると恐ろしくなる。

2017年7月24日
ジョン・M・スタール『裏町』――メロドラマの輝き

ジョン・M・スタール『裏町』(Back Street, 32) ★★★

メロドラマとは不思議なものだ。 メロドラマとは一体何なのか。考え始めるとわからなくなる。しかしそれは西部劇であっても、フィルム・ノワールであってもホラーであっても同じだ。どんなジャンルでも突き詰めてゆくととたんにわからなくなるものである。しかしそれでも、自分が西部劇やフィルム・ノワールを好きか嫌いかくらいは答えられる。ただ、メロドラマだけは違う。自分がそれを好きなのか嫌いなのかさえ、いまだにわからないのである。

ジョン・M・スタールのメロドラマ『裏町』を見る前に、たまたま『野玫瑰之戀』(王天林監督)という香港映画を見ていたのだった。日本では、香港映画ファン以外にはほとんど知られていない作品だが、香タイム・アウト誌「香港映画ベスト100」の11位に選出され、香港映画賞協会が選定する「史上最高の中国映画ベスト100ランキング」においても64位に入っている有名な作品である。 この映画の主演女優グレース・チャンは歌手としても有名であり、映画ファン以外のあいだでもよく知られている。ツァイ・ミンリャンが『Hole』のなかで、彼女に対して熱烈なオマージュを捧げていることも、よく知られている事実である。

しかし、わたしはグレース・チャンという女優=歌手にははまらず、『カルメン』に緩やかに基づいたフィルム・ノワール風のメロドラマ((グレース・チャンが最初と最後に歌う唄は、ビゼーの『カルメン』の広東語(?)バージョンである。))にも早々に嫌気が差してしまった。自分はやはりメロドラマが好きではないのだ。 そんなことを思ったりもしたのだが、その直後に見たスタールの恋愛メロドラマ『裏町』にはいたく感動し、思わず涙してしまった。そして、やはりメロドラマはわからないと、思い悩んでしまったのだった。

結局、これは監督の力量の差にすぎないのだろうか。同じメロドラマでも、凡才が撮れば見るに堪えない作品になり、才能ある監督が撮ればまばゆいばかりの傑作になる。それだけのことなのだろうか。いずれにせよ、メロドラマというジャンルには、他のどのジャンル以上に、映画のエッセンスがむき出しの形で現れるような気がする。

ジョン・M・スタールは、日本では、ダグラス・サークによって2度リメイクされた作品(『心のともしび』『悲しみは空の彼方に』((サークによるスタールのリメイクとしてはこの2本が有名だが、実は、『間奏曲』もスタールの『When Tomorrow Comes』のリメイクである。もっとも、サークはいずれの場合もスタークの作品をそれまで見たことがなかったと主張している。その真偽はともかく、これらはリメイクというよりも、同じ原作の映画化といったほうが正確なのだろう。ちなみに、『裏町』の原作を書いたファニー・ハーストは、『模倣の人生』とそのリメイク『悲しみは空の彼方に』の原作者でもある。))の監督くらいのイメージしかいまはない(ほとんどまったく知られていないが、マックス・オフュルスの『忘れじの面影』も、実は、スタールの『昨日』のリメイク)。しかし、『哀愁の湖』一本を見るだけでも、この監督がそんなに簡単に忘れ去られてしまっていい存在でないことはわかるだろう。ただ、日本では彼の作品を見る機会がほとんどなく、実を言うと、私もトーキー作品をほんの数本見ているだけにすぎず、スタールのサイレント時代の作品(彼の監督デビューは1914年)に至っては、ただの一本も見ていないのだ。

今回、かれが30年代に撮ったメロドラマ『裏町』を初めて見て、この監督の重要性を改めて確信した。『裏町』に描かれるのは、一言で言うならば、不倫の物語である。原題の "back street" とは、不倫の関係にある恋人たちが、人目を忍んで逢引することを暗に意味している。

20世紀初頭のシンシナティ。アイリーン・ダン演じるヒロイン、レイ・シュミット((映画の中では特に説明はなかったと思うが、彼女はおそらくドイツ系移民の子供である。オハイオ州はドイツ系の移民が多く(今日でも30%近くいる)、とりわけシンシナティはそうだった。この映画には、この街のドイツ系移民のコミュニティがさり気なく描かれている(冒頭のビアガーデンの場面など)。))は、偶然出会った若きビジネスマンの富豪ウォルター(ジョン・ボールズ((ボールズは、この時期、スタールの映画に立て続けに主演している。)))とたちまち恋に落ちる[一目惚れ]。しかし、実はウォルターには母親に気に入られている婚約者がいて、近々結婚することになっていた。二人は今度公園で行われる演奏会で会うことを約束する。ウォルターは、そこで母親にレイを紹介するつもりだった。母親にさえ気に入ってもらえれば二人は結婚できるはずだ。しかし、当日、レイはやむをえぬ事情で演奏会に遅れてしまい、ウォルターにも母親にも合うことができない[すれ違い]。

何年かが過ぎたとき、二人はまたしても偶然出会う[再会]。ウォルターは婚約者と結婚していた。二人はそれでもどうしようもなく惹かれ合い、逢引を続ける。妻を捨てることができず、彼女の孤独も辛さも理解できない男(子供がほしいというレイを彼は激しくなじる)に、レイは一時は愛想を尽かして別れを告げ、愛してもいない別の男と結婚する寸前まで行く[真の愛と偽の愛]。しかし、ウォルターに懇願されて、レイは結局不倫の関係を続けることになる。ウォルターが家族とともに旅行するときも、レイは「影のように」彼らのあとをついて行く。そんな関係が何十年も続いたとき、ウォルターが突然病に倒れる。瀕死のベッドでウォルターは、家族を部屋から追い出し、事情を知っている息子(父親の愛人を憎んでいる)に、レイに電話をさせ、愛していると言い残して死んでゆく。ウォルターの死に呆然とし、一人自宅でうなだれているレイの元を、ウォルターの息子が訪れ、父親が彼女をほんとうに愛していたこと、これからは自分が彼女を援助することを告げて立ち去る。これを嬉しく思ったレイは、満足そうな笑みを浮かべて死んでゆく。

こうやって物語を言葉にしてみると、本当に陳腐な映画にしか思えないのだが、これが映画になるとあんなにも感動的になるのだから不思議だ。最初にいったように、描かれているのは確かに不倫の物語なのであるが、最後まで見ると、実はこれは純愛の映画であったことがわかる。男の妻が夫に愛人がいることを最後まで知らないという設定はずるいといえばずるい。この映画がどろどろした不倫の物語になっていないのは、いささか信じがたいこの設定のおかげだからである。しかし、この映画を純愛メロドラマと考えるならば、そんなことは些細な問題に思えてくる。愛し合う二人の障害になるものが、ここではたまたま相手に妻がいたという些細な事実だったということにすぎない(こんなことを書くと誰かに怒られそうだが)。

ダグラス・サークの映画のような迫力のある画面も鮮やかな色彩もここにはない。バロック的ともいえるサークのスタイルとの避けがたい比較から、この映画は(この映画自体はサークによってリメイクされているわけではないが)見劣りがするように思えるかもしれないが、それは単に見かけに騙されているだけだ。『裏町』の画面の平板さ(コントラストは自然で、クロースアップもほとんどない。もっとも、スタールの映画としては、この映画のカメラは冒頭からよく動く)、演技の素っ気なさ=自然さ(サークの映画の演劇性とくらべて)は、単にこの二人の作家のスタイルの違いを示しているにすぎない。サーク作品との比較からスタールの才能が影に霞んでしまい、なかば忘れ去られてしまっているのは、残念で仕方ない。 『裏町』でとりわけ感動的なのは、突然数十年の時間が過ぎ、ふたりの恋人たちがともに白髪になっている映画の終わり近くの部分だ。同じ俳優が、メーキャップで老人を演じるのは、時として滑稽に思える場合があるのだが、その一方で、それはしばしばとても感動的な場面にもなる。『裏町』のラストはまさにその成功例であり、スタールの決して目立たない演出と俳優の抑えた演技が、ここでも功を奏している。とりわけ、ウォルターの死を知らされたあと、質素なアパートの一室で一人思いにふけるアイリーン・ダンは素晴らしい。ここでは、もしもあの演奏会の約束に間に合っていたらという、あり得たかもしれない過去をレイが回想するという、なんともユニークな場面が設けられているのも注目だ。もしかすると、白髪のアイリーン・ダン演じるレイは、ドライヤーの『ゲアトルード』のヒロインと同じセリフをいうこともできたかもしれない。

「私は若かったか。いいえ、でも愛した。私は美しかったか。いいえ、でも愛した。私は生きたか、いいえ、でも愛した」

 

ファニー・ハーストの原作は3度映画化されていて、スタール版はその最初の作品である。この映画はいわゆるプレ・コード時代に映画化された。38年にこの映画のリバイバルが企画されたとき、ブリーン・オフィスはこの映画が不道徳だとして、公開を禁じた。ユニヴァーサルは代わりにシャルル・ボワイエ、マーガレット・サラヴァン主演、ロバート・スティーヴンソン監督で再映画化した。61年には、デイヴィッド・ミラーがスーザン・ヘイワード、ジョン・ギャヴィン主演で再び映画化している。41年版は日本でも DVD が出ているし、61年版も比較的入手が簡単なのだが、この32年版だけは、わりと最近修復されたにも関わらず、わたしの知る限りスペイン版しか DVD が出ていないし、現在は入手するのがなかなか難しい。下写真はそのスペイン版のはずなのだが、コメントはすべて61年版について書かれている。これはたぶんアマゾンのシステムのせいだろう(タイトルが同じなどの類似製品のページに関係のないコメントが付くことがよくある)。まあ、あたりまえだが、買う人は自分で確かめて、自己責任でお願いします。

 

2017年7月18日
リチャード・C・サラフィアン『荒野に生きる』

リチャード・C・サラフィアン『荒野に生きる』(Man in the Wilderness, 71) ★★

いささか冗長な気もするが、なかなかユニークな西部劇として記憶に残る作品。

もっとも、アメリカン・ニューシネマの名作『バニシング・ポイント』の監督リチャード・C・サラフィアンが撮った映画だけあって、この映画は西部劇というジャンルにふつうに期待するものとはだいぶかけ離れている。

探検隊のガイド役を務める主人公(リチャード・ハリス)が、旅の途中で熊に襲われて瀕死の重傷を負う。探検隊のリーダーは、彼を置き去りにし、場合によっては殺せと部下に命じる。奇跡的に生き残った主人公は、彼らへ復讐することだけを考えて、ひたひたと跡を追いかける。 アンソニー・マンの『怒りの河』の後半をちょっと思い出させもする展開だが、実際は、復讐話は二の次で、主人公が傷を癒やしながらいかにして荒野のなかでサヴァイヴァルするかを描くことに映画の主眼は置かれている。その意味で、「荒野に生きる」という邦題はなかなか的を射ている。

面白いのは、探検隊の一行が大きな船を引っ張りながら移動していることだ。船を担いで山を超える西部劇なら、この30年前にすでにキング・ヴィダーが『北西への道』でやっているが、この映画に出てくる船はあんなボートではなく、何十人も乗せることができ、縄梯子で昇り降りするような、とても大きな船で、しかも大砲まで積んでいる(インディアンが襲ってきたときは、この大砲をぶっ放すのだ)。しかも、映画の最初から最後まで、雪が降ろうが、敵が攻めてこようが、探検隊はこの船を延々と運び続けるのだ。 そんなわけで、この探検隊のリーダーは船長と呼ばれているのだが、それを演じているのがなんとジョン・ヒューストンなのである。黒いコートに山高帽という西部劇らしからぬ出で立ち。息子同然のハリスをあっさり置き去りにし、いつも何を考えているのかわからい。この船長を演じるヒューストンは、自分が映画化した『白鯨』に出てくるエイハブ船長を意識しているとしか思えない。

最後にハリスとヒューストンが対峙する場面の〈スカシ〉かたは、自分的にはピンとこなかった。このラストも70年代的というべきなのか。

『レヴェナント:蘇えりし者』はこれとそっくりの話を描いていて、リメイクか、でなければパクリだと思ったのだが、実は、ここに描かれる物語は本当にあった出来事を元にしているらしい。実話なのだ。似ていて当然だ。

 

2017年7月14日
リトウィク・ガタク『Ajantrik』

リトウィク・ガタク『Ajantrik』(58) ★★★

インドの映画監督リトウィク・ガタク(読み方いろいろ)がデビュー作『Nagarik』に続いて撮った長編劇映画第2作(共同監督作品も数えると違ってくるが)。これまでガタクの映画は6,7本見ているが、出来不出来は別にして、これが一番好きかもしれない。素晴らしい作品だ。

これは一種の恋愛映画ということになるのだろうか。ただし、ここに描かれるのは男女の愛ではなく、一人のタクシー運転手と彼の愛車との愛の関係なのである。

この映画に描かれているのは、作品が撮られたのとほぼ同時代、50年代のインドであると考えていいだろう。主人公のタクシー運転手は、20年型のオンボロなシボレーをいまだに使って営業を続けていて、金ピカの新車を使っている同業者や、町の人達からいつもからかわれている。しかし、彼の車はどんなにポンコツであっても壊れたことはなく、今までちゃんと走り続けてきた。それが彼の誇りだった。しかし、その車にもとうとう寿命が近づいてくる……。 ま

ず注目すべきは、主人公が自分の車に対してみせる愛、というか執着の凄まじさだ。車を "Jaggadal" という愛称で呼び、客が車のことを馬鹿にすると怒り狂う。それだけならば、車好きが少し行き過ぎただけということになるのだろうが、かれが車に対して抱いている感情は、そんな普通の車愛好者と愛車との関係を遥かに超えるものだ。車に対してまるで人間相手のように呼びかけ、ラジエーターの水が不足すると、近くの川で汲んできた水を、「のどが渇いたかい?」と言いながら車に飲ませてやる。すると車は、ごくごくと音を立てながらその水を文字通り美味しそうに飲むのだ。

このように、主人公のいささか常軌を逸した愛情に応えるかのように、車もときとして生き物のように振る舞う。それどころか、だれもふれていないはずの車のヘッドライトが点滅することさえあり、この車には自立した意識さえあるのではないかと思わせる瞬間まである。この映画に描かれる人間と車との異様な関係を見ていると、どうしてもジョン・カーペンターの『クリスティーン』を思い出してしまう。ジャンルもスタイルも何もかも異なる作品だが、車に対する異常な執着という一点でこの2作は共通している。ただ、『クリスティーン』に出てくる車はタイトルからもわかるように女性だったのだが、『Ajantrik』の車の性別はなんなのだろうか。ベンガル語は全くわからないのだが、英語字幕を見ると、車は "he" という男性代名詞で呼ばれている。どうやらこの車は男性であるようだ。となると、この映画に描かれる主人公と車との関係はどのように理解すればいいのだろうか(同性愛?)。かれがこの車を初めて買ったのが、母親の死の直後だったというのもポイントになるところかもしれない。いずれにせよ、主人公がタクシーの乗客の女に恋をして、それまで大事に扱ってきた車に無理をさせ、彼女が乗った列車を追いかけさせたことがきっかけで、車が壊れ、ついには廃車=死を迎えることになるというのは、とても意味深である。

ガタクは、車がまるで生き物であるかのように見せるために、ヘッドライトの動きや、とりわけ様々なサウンド効果を巧みに使っている。その斬新かつユーモラスなサウンドの使い方は、たしかにジョナサン・ローゼンバウムの言うとおり、ジャック・タチ作品のそれを思わせもする。なかでも、ラストのところで、なんとか車を甦らせようとする主人公の努力にも関わらず再起不能となってしまった車がとうとうスクラップ業者によってくず鉄として運び出されてゆく場面の哀切極まるサウンドは筆舌に尽くしがたい。ガタクの映画をあまり音を意識してみたことはなかったが、この映画を見ると、その側面から彼の作品をまた見直したくなってきた。

なにかファンタジー映画のような印象を与えてしまったかもしれないが、ぜんぜん違う。下手をすると現実離れしたファンタジーになりそうな主題を、ガタクはあくまでリアルに描き出してゆく。デビュー当時から晩年まで、フィクションと並行してドキュメンタリー映画を作り続けてきた監督らしい鋭い眼差しが、この映画にも随所に感じられる。そこがまた素晴らしい。

この時代、タクシー運転手を描いたインド映画がもう一本存在する。巨匠サタジット・レイが62年に撮った『Abhijaan』である。レイがガタクの作品からいかなる影響を受けたかは定かではない。レイの映画に描かれる不機嫌なタクシー運転手も、30年型クライスラーに並々ならぬ執着を見せ、その点では共通する部分もある。しかし両作品のテーマはやはり全く異なる。『Abhijaan』では、タクシー運転手の困難な人生を通じてインドの社会的現実を描くことにこそ監督の狙いがあるといっていい。たぶんだが、スコセッシの『タクシー・ドライバー』はこの『Abhijaan』から少なからぬ影響を受けている。

2017年7月6日
ラリー・コーエン『スペシャル・イフェクツ/謎の映像殺人』

ラリー・コーエン『スペシャル・イフェクツ/謎の映像殺人』 (Special Effects, 84) ★½

「スペシャル・エフェクト」というタイトルでサスペンスとなると、『F/X 引き裂かれたトリック』のような作品をちょっと想像してしまうが、ぜんぜん違う。原題も邦題もいささかミスリーディング。 女優の卵が経験する悪夢が描かれるという意味では、『マルホランド・ドライブ』や『ネオン・デーモン』などに近い題材を扱っているといえるが、むしろ、『血を吸うカメラ』や『女の香り』(アルドリッチ)、あるいはキューカーの『二重生活』などといった作品の系譜と微妙に重なる部分のある作品だ。今見るといささか古めかしく思える映画であるけれど、こうしたテーマに興味がある人にはなかなか興味深い作品ではあるだろう。 ちなみに、ヒロインを演じているゾー・タマリス(ルンド)は、アベル・フェラーラのパートナーとして彼の数作品に出演しているだけでなく、『バッド・ルテナント』の脚本を書いてもいる女性。

2017年7月6日
ゴードン・ダグラス『駅馬車』&セシル・B・デミル『スコオ・マン』

ゴードン・ダグラス『駅馬車』(Stagecoach, 66)★

フォードの『駅馬車』をゴードン・ダグラスがリメイクした作品。 フォード版の冒頭シーンでは、通信士の漏らす「アパッチ」のたった一言によって、物語を理解するのに必要な状況が簡潔に提示されていたわけだが、ダグラスは、フォードがあえて見せなかった、アパッチが駐屯地の騎兵隊を襲撃し、電線を切断するところを律儀に見せてゆく。駅馬車の乗客一人一人に対しても導入場面がたっぷりと設けられ、おかげで全員が馬車に乗るまでフォード版の2倍近く時間がかかっている。ここでは何もかもが映像で丁寧に説明されていくにもかかわらず、オリジナル版に付け加えられるものは何もなく(むしろその逆で)、人物もいっこうに際立ってこない。

何とか見せ場を作ろうと、馬車に崖っぷちを走らせたり、大雨を降らせたりといろいろやっているが、すべてから回りしている。唯一興味深かったのは、オリジナル版がカリフォルニア近郊のモハーヴェ乾燥湖(モニュメント・ヴァレーではない)で撮影したクライマックスのアパッチ襲撃シーンの舞台を、ダグラス版は森の中に設定しているところぐらいだろうか。

セシル・B・デミル『スコオ・マン』(The Squaw Man, 31)★

サイレント時代にデミル自身が撮った作品をリメイクした西部劇。

冒頭、都会のシーンがしばらく続いてから、西部に舞台が移る。こういう出だしで始まる西部劇はないこともないのだが(チミノの『天国の門』とか)、そこのところは別にしても、西部劇らしからぬ作品で、恋愛メロドラマといったほうが近い。いわゆる「偽の西部劇」。 弟の犯した横領事件の罪をかぶって主人公は西部に渡り、そこでたまたまかかわることになったインディアンの女と結婚する。女がインディアンである物語上の必然性はほとんどなく、主人公の幸せを阻む女というメロドラマ上の設定が、たまたまインディアンでもあったというに過ぎない(そもそも、このインディアンの女は何族だったかすら説明はなかったと記憶している)。

インディアンの女とのあいだに子供が生まれ、それなりに平和に暮らしていたところに、都会から、主人公の愛する女(彼の弟は彼女と結婚していた)がやってくる。都会に帰ることを拒む主人公に、女の父親は、せめて子供だけでもちゃんとした教育を受けさせるべきだと説得する。 今までいろんな西部劇を見てきたが、西部で生まれた子供を都会で教育を受けさせるべきかどうかなどという話が出てくるウエスタンというのは見た記憶がない。東部からやってきた女が野蛮な西部に嫌気がさして都会に帰ろうとするという話ならよくあるが(その場合、たいていは、結局、西部にとどまる)。

2017年6月29日
"a fate worse than death" についての覚書――西部劇における先住民の表現についての一考察

神戸映画資料館「連続講座:20世紀傑作映画 再(発)見 第2回『駅馬車』」補足

"a fate worse than death" についての覚書――西部劇における先住民の表現についての一考察

 

先日の神戸映画資料館での『駅馬車』についての講座を終えたあとで、あのクライマックスの駅馬車とアパッチが激走するシーンで、ハットフィールドが最後に残った一発の銃弾でルーシー・マローリーを殺そうとする場面の意味を正確に理解してなかった人が少なからずいたのでびっくりした。神戸映画資料館に映画を見に来るような観客には、この場面の説明はわざわざ必要ないだろうと思って、講座の中ではあえて言及しなかったのだが、どうやら認識が甘かったようだ。日本とアメリカの文化的環境の違いに加えて、西部劇を日常的に見るという環境が失われているまでは、かつてはあえて説明する必要もなかった場面でも、今は回りくどい説明が必要になってしまっているのかもしれない。『駅馬車』の冒頭では、アパッチの脅威が「ジェロニモ」の一語で完結に示されているのだが、この「ジェロニモ」という言葉も、今の日本の若い観客にはどれほどのインパクトがあるのか、正直、全然わからない。講座のなかでふれた、『駅馬車』に最初つけられていた冒頭の字幕は、今こそ必要なのかもしれない。

『駅馬車』でハットフィールドがルーシーに拳銃を向ける場面は、"a fate worse than death"(「死よりも最悪な運命」) を描いた典型的な場面のひとつである。"a fate worse than death" とは、インディアン=先住民に襲われた白人女性は、レイプされて殺されるか(『駅馬車』のフェリー乗り場に打ち捨てられていた白人女性の死体)、インディアンと無理やり性的な関係を結ばされ、奴隷として働かされる(『捜索者』のデビー)ということを暗に示唆する言葉である。むろん、そういう出来事が実際に何度もあったのに違いないが、それでも、この言葉が、すべての先住民は野蛮であるというステレオタイプな発想に基づいていることは確かだろう。さらに、ここには、セクシャリティの問題が深く関わっている。白人女性が先住民と性的な関係を持つことに、白人は異常な恐怖を覚えるが、白人男性が先住民の女と性的関係を持つことに対しては、さほどの抵抗を覚えない。先住民を妻に持ついわゆる「スコウマン」はしばしば軽蔑の対象となる一方で、ふつうの白人にはない知識を持つものとして、一定の尊敬を集める存在でもある(『大いなる勇者』のロバート・レッドフォードや、『ワイルド・アパッチ』のバート・ランカスター)。

"a fate worse than death" という言葉は17世紀にはすでに存在していたらしい。西部劇映画以前に、西部劇小説のなかで、"a fate worse than death" は繰り返し描かれてきた。むろん、具体的に白人女性が陵辱される場面が描かれることはほとんどなかった。具体的に説明しなくても、"a fate worse than death" という一言で、読者には十分通じるようになっていたのである。これは西部劇映画でも同様だったといっていいだろう。

"a fate worse than death" を最初に描いた映画は、おそらくグリフィスの西部劇『エルダーブッシュの戦い』である。この映画のなかで、インディアンに周りを取り囲まれた一軒家のなかで、ただ一人の若い成人女性を演じるリリアン・ギッシュは、赤ん坊を失い、絶望的な状況の中で、画面奥の階段にヘナヘナと座り込む。するとそのとき、階上にたつ男性(顔は見えない)の手にしたピストルが、画面フレームの上方からギッシュの頭部に向けてゆっくりと近づいてくる。『駅馬車』同様、ラスト・ミニュト・レスキユーによって、ギリギリの瞬間、彼女は発砲を免れる。

同様のシチュエーションは、『駅馬車』と同じ年に公開されたセシル・B・デミルの『大平原』にも描かれている。この映画では、インディアンによって列車が転覆させられ、バーバラ・スタンウィックと、彼女を愛する2人の恋敵(ジョエル・マクリーとロバート・プレストン)の3人が、周りをインディアンに囲まれるかたちで車両に閉じ込められ、状況がいよいよ絶望的となったとき、マクリーがスタンウィックの後頭部に拳銃を突きつける。この場合も、最後の瞬間に救助隊が駆けつけ、スタンウィックは救われる。ちなみに、二人には聞こえない騎兵隊のホイッスルの音をスタンウィックだけが最初に聞き取り、"Did you hear it?" というところも、『駅馬車』に酷似している。


『エルダーブッシュの戦い』『駅馬車』『大平原』の3作とも、この場面に言葉による説明を一切加えていない。それは、こういう状況で女にピストルを向けることが何を意味するかを、観客は迷うことなく理解できたからだろう。

もう一つ興味深いのは、いずれの作品でも、女は自分にピストルが向けられていることに気づいていないところである。「死よりも最悪な運命」は、男性によって女性が支配される運命でもあるのだ。ただ、『大平原」の場合だけ異様なのは、グリフィスとフォードの映画では、女にピストルが向けられていることに周りのだれひとり気づいていないのに対して、デミルは、そこに第三者(プレストン)の視線を介在させている点だ。これは決定的な違いであるような気もするのだが、今はうまく説明できない。

『駅馬車』のジョン・フォード=ダドリー・ニコルズが、ダラスにつぶやかせた "there are worse things than Apaches." という言葉は、ひょっとするとこの "a fate worse than death" という表現を意識していたのかもしれない。いずれにせよ、ダラスのこのセリフは、西部劇が描くインディアン=文明のステレオタイプな関係に大きなひねりを加えるものであり、『駅馬車』のなかでは突き詰められることはなかったが、フォード後期の西部劇『馬上の二人』において痛々しいドラマとして描かれることになだろう。

わたしの認識では、"a fate worse than death" という言葉は、とりわけインディアンと白人女性との異種交配の恐怖を表す言葉であるが、白人女性と黒人男性とのあいだの似たような状況に対しても使われることがあるようだ(たとえば、グリフィスの『國民の創生』に描かれたような状況)。さらには、性的な意味は関係なく使われる場合もまれにあるようである。イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』のラストに描かれるヒロインの脊椎損傷の状態を "a fate worse than death" という言葉で表して抗議し、この映画の上映をボイコットしようとする団体がたしかあったと記憶している。

 

参考文献: "A Fate Worse than Death: Racism, Transgression, and Westerns." (J. P. Telotte)

2017年6月23日
ジョン・フォード賛

6月24日に神戸映画資料館で行う予定の「連続講座:20世紀傑作映画 再(発)見 第2回 ジョン・フォードと西部劇の神話──『駅馬車』をめぐって」(タイトルはいつものように適当につけたもので、実際の内容はちょっと違うものになると思います)が、あと一週間と迫ってきたので、さすがに焦っている。なんとか間に合わせるつもりだ。

それまでのあいだ、様々な映画監督がジョン・フォードについて語った言葉を、順次アップしてゆく(ほぼ毎日このページに追加してゆく予定)。フラーとヴェンダースの言葉は雑誌「リュミエール」掲載のテキストからの引用だが、それ以外はすべて筆者による拙訳である。急いで訳したもので、中には英訳からの重訳も混じっている。不正確な部分もあるかもしれないが、とりあえず今は、これでご勘弁いただきたい。時間の余裕ができたときに、再チェックするつもりだ。

古い記事だが、「ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ、ジョン・フォードを語る」も参照していただきたい。

「ジョン・フォードはわたしの教師だった。わたしの作風は彼の作風とはまるで関係ないが、『駅馬車』はわたしの教科書だったんだ。40回繰り返して上映した……。映画はどういうふうに作るのかを、この作品から学ぼうとしたんだよ。『駅馬車』はまさに、古典として完璧な作品だった……。[『市民ケーン』を準備しているあいだ]一月以上に渡って、毎晩、RKOの制作スタッフを一人づつ呼んで、『駅馬車』を上映しながら、あれこれと質問しまくったんだ」

オーソン・ウェルズ

「アメリカ映画がかつて長いあいだそうだったもの、リヴェットいうところの〈探索弾頭 tete chercheuse〉の役割を今や担っているのは、ヨーロッパ映画である。ベティカーが撮った数本の近作以来、アメリカ映画(ニューヨーク派も含めて。ただし『沈黙のこだま』は除く)は、空回りし(フラー)、足踏みし、パロディ化し、剽窃し、ニコラス・レイのように(かれは、デュースブルクで、アトラス・フィルム向けにくだらない仕事を引き受けたばかりだという)、裏切り、自己を否定しさえしている。(たとえばチャップリン、ラング、ルノワール、ロッセリーニらが、人から嘲笑われることなどまるで恐れずに新作を発表し続けているのにくらべれば、ヒッチコック、ホークス、ウォルシュでさえ、少しばかり足踏みしているように思える。)例外が二人いる。ジェリー・ルイスはおそらくその一人であり、もうひとりはジョン・フォードだ。フォードは、アメリカ映画をその頂点にまで高め(『馬上の二人』『捜索者』『騎兵隊』)、そしてその失墜を加速させたあとで(『リバティ・バランスを射った男』『シャイアン』)、アメリカ映画を崇高なものにしたばかりだ。無論、『荒野の女たち』のことである」

ジャン=マリー・ストローブ

「私は、ジョン・フォードの映画の友情を、入念さを、正確さを、手堅さを、真摯さを、静謐さを、人間性を、惜しむ。私は、決して作り物ではない表情を、決して単なる背景ではない風景を、決して押し付けられたものでも、滑稽なものでもない感情を、たとえそれが喜劇的なものであっても、決して自らを嘲笑しない物語を、絶えず完全な変貌を遂げる俳優を、惜しむ。私は、騒々しいジョン・ウェインを、ぎこちないヘンリー・フォンダを、誠実なコンスタンス・タワーズを、内気なヴェラ・マイルズを、謙虚なジョン・クォーレンを、アイルランド人のヴィクター・マクラグレンを、母性的なジェーン・ダーウェルを、不平屋のラッセル・シンプソンを、子供っぽいハリー・ケリー・ジュニアを、惜しむ」

ヴィム・ヴェンダース

「その神話的ともいえる西部劇に加えて、ジョン・フォードの社会的影響力を持つ作品は、私を最も震撼させるものだ。ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』は30年代の大恐慌を描いた、愛国的で、絶望的な小説であり――そしてもちろん、映画化されるために書かれたわけではない。だがフォード、心の腐った馬鹿な連中によって、右がかった男らしさ(マッチョ)を誇示する監督と決めつけられたこの男は、映画館に足を運ぶアメリカ人たちの様々な感情を視覚的につかみ取り、それらの感情を極めて大きな衝撃力で揺すぶった。それゆえ、アメリカの国全体が、スクリーンに次々に映される、失業による社会構造の崩壊、干からびた大地、放浪する農民たち、土地を追われた家族、自国にありながら難民化したアメリカ人、などといったイメージに反応を示したのだ。彼のカメラは,ユーモアと、温かい心と、いきいきとした動きをもって、合衆国において決して起こりえなかった、だが実際に起ってしまったことを示してみせた。この映画は一人のアメリカ人が、法の「向こう側」のために働くおまわりに対して抱く、不信、恐怖の最初のきざしを明らかにした、初めての映画だった」

サミュエル・フラー

「ジョン・フォードは〈完璧な監督〉Compleat Director だった(『人類の戦士』『男の敵』『駅馬車』『怒りの葡萄』『果てなき船路』『わが谷は緑なりき』『静かなる男』)。どんな映画でも撮れる最強の監督だった。ジョン・フォードにとってメガフォンは、ミケランジェロにとっての鑿のようなものだった。つまりは、彼の命であり、情熱であり、十字架だった。フォードをピンで留めて分析することはできない。彼はただ単にフォードだった。つまりはただ単に偉大だった。ジョンは、半分は暴君で、半分は革命児。半分は聖人で、半分は悪魔。半分は我慢できるが、半分は我慢のならない男。半分は天才で、半分はアイルランド人だった。だが、いつだって、全身映画監督だった」

フランク・キャプラ

「私がジョン・フォードでもっとも好きなところは、純粋状態の芸術家であるということだ。芸術家であることに気づかず、無骨で、不毛で回りくどい文化を介さず、知性偏重主義に汚染されていない、芸術家であるところだ。彼の力強さと、人に警戒心を解かせるようなシンプルさが好きだ。フォードのことを考えると、掘っ立て小屋や、馬や、火薬のにおいがしてきて、静かで、人を不安にさせる平坦地が、ヒーローたちの終わることのない旅路が、眼に浮かぶ。だが、私が何よりも思うのは、映画を愛し、映画のために生きた一人の男のことだ。彼は映画を、万人に語られるおとぎ話に、いやなによりも、彼自身によって生きられるおとぎ話に、ごく自然に楽しく人を楽しませ、情熱を持って生きられる住みかに、変えた。こうしたことすべてにおいて、私は彼を尊敬し、賞賛し、愛する」

フェデリコ・フェリーニ

「ジョン・フォードの映画は視覚的な喜びだった――明快であることと見かけの単純さにおいて、雄弁な彼の撮影技法。暖炉の炎越しに部屋を撮ったショットだの、シャンデリアを揺らしながら進んでゆくカメラだの、これといった目的もなしに果てしなく繰り返されるズームイン・ズームアウトだのといったものは、フォードの映画には存在しない。彼の脚本には、始まりと、真ん中と、終りがあるだけだ。それは世界中どこででも理解される。そしてそれは、彼が愛した土地、モニュメント・ヴァレーを讃える金字塔(モニュメント)であるのだ」

アルフレッド・ヒッチコック

「才能というのは稀なものだ。技術的な巧みさは誰もが持っているものではない。撮影現場での統率力は、どこにでも見つかるものではない。だがそれにもまして稀なのは、高潔さだ。ジョン・フォードは王様だった。かれは、この上なく幸運なことに彼とともに仕事をすることができたものたちすべてに、ナイトの爵位を授けてくれたのだ。彼を失ってしまったことは、取り返しのつかない損失だ」

ジャン・ルノワール

「若いとき、私は、ベートーヴェンを賞賛したのとほぼ同じ理由で、ジョン・フォードを賞賛した。その力強さと飾りのなさ(simplicity) を。その暖かさと、詩情と、視野の広さを。その英雄的な態度と、限りない信念と楽観主義を。この二人は、突然荒れ狂い、しばしば感情的になりすぎるところも、共通している。フォードは、私に映画への愛を吹き込み、そのイロハを教えてくれた5、6人の監督たち(その多くはアメリカ人だ)の一人だった。だれよりも彼のおかげで、私は、一本の映画が命を持ち、呼吸し、健全な一人の人間のように振る舞うことを、そして、このような命を吹き込む芸術は、我々を取り巻き支える空気のように、しばしば目には見えないものであり、また、それでこそ命をよりいっそう吹き込めるのだということを、理解した。これほど長きに渡って実り多い仕事をしてきた芸術家が亡くなったことを惜しみはしないが、ジョン・フォードを可能にした一つの時代が終わり、息をする空気そのものが汚染されてしまっている新しい時代が来てしまったことを、心から惜しむ」

サタジット・レイ

「たいていの監督は、前景で起きている出来事を美しく飾るために風景を利用するだけだ。わたしがジョン・フォードの幾つかの作品を好きな理由の一つはそこにある。フォードはモニュメント・ヴァレーを一度として単なる背景として使わなかった。彼はむしろそれを、登場人物の心を表すために使ったのだった。西部劇は、実のところ、我々が正義というものを基本的にどう考えているかを描いている。フォードの映画に描かれるモニュメント・ヴァレーを見るとき、不思議なことに、信じたくなるのだ。アメリカにも正義があると」

ヴェルナー・ヘルツォーク

「古典的作家のなかで最も現代的な映画作家。彼が西部劇を発明したのであり、そしておそらくは映画そのものを生み出したのだ」

「ジョン・フォードは世界で最も有名な監督の一人であったが、その振る舞いや言葉、彼にまつわるすべてから、本人はそんな名声を求めてもいなければ、受け入れてもいないという印象を受けた。ぶっきらぼうで、人には見せないでいるが、実は心優しい人物だといつも言われていたこの男は、ジョン・ウェインが演じた主人公よりも、ヴィクター・マクラグレンが演じたキャラクターたちのほうに、間違いなく近かった。 ジョン・フォードは「芸術」という言葉を決して使わない芸術家であり、「詩」という言葉を決して使わない詩人だった。 ジョン・フォードの映画で好きなのは、彼がいつも登場人物を優先させたことだ。長いあいだ、私は彼の女性の描き方を批判していた。あまりにも19世紀的な女性観に思えたのだった。やがて、ジョン・フォードの映画を通して、私は理解した。モーリン・オハラのような素晴らしい女優は、1941年から1957年にかけてのアメリカ映画における最高の女性の何人かを演じることができたのだということを。 ジョン・フォードは、ハワード・ホークスとともに、「透明な演出」賞を受賞することもできただろう。この二人の物語作家(ストーリーテラー)のカメラワークは、観客には見えないのだ。動いている人物を追いかけるとき以外は、カメラはほとんど動かないし、固定ショットの多くは、常に正確な距離を置いて撮られる。こうして、ギー・ド・モーパッサンやツルゲーネフなどと比較しうる、しなやかで流れるような文体が生み出されたのだ。 堂々たる余裕で、ジョン・フォードは観客を笑わせ、泣かすすべを知っていた。かれが唯一知らなかったのは、観客をどうやったら退屈させることができるかだった!  ジョン・フォードは神を信じていたので、最後にこう言おう――ジョン・フォードに神の祝福を」

フランソワ・トリュフォー

2017年6月19日
アラン・ドワン『フロンティア・マーシャル』

アラン・ドワン『フロンティア・マーシャル』(Frontier Marshal, 39) ★★

保安官ワイアット・アープのトゥームストーンでの活躍を描いた西部劇。『荒野の決闘』と同じスチュアート・N・レイクの小説を原作としているため、登場人物やエピソードはフォード作品と重なる部分が多い。ちなみに、レイクはアンソニー・マンの『ウィンチェスター銃’73』の原作者でもある。

酒場で暴れているならず者をアープが外に引きずり出して町の人たちに一目置かれるエピソードとか、『荒野の決闘』のチワワ(リンダ・ダーネル)にあたるジェリー役のビニー・バーンズが賭博師とグルになってイカサマをしているところをアープ(ランドルフ・スコット)がみつけ、彼女を水桶に放り投げるところとか(その直後に、ドク・ホリディが登場し、アープと一触即発の状態になるところも同じ)。

『荒野の決闘』ではアープ兄弟とクラントン一家の対立が物語の中心になっていたが、ドワンの映画ではアープに兄弟はいないし、クラントン一家も登場しない。ドクが、流れ弾にあたって大怪我をした子供を手術して命を救った直後に(このエピソードも『荒野の決闘』に出てくる)、ならず者に殺され、アープがたった一人でOK牧場に向かうところが映画のクライマックスになっている。ところが、酒場から一分も歩かないところに牧場があるという空間の描き方が何だか異様だった。

『荒野の決闘』と素材が同じだけにどうしても並べてみると見劣りしてしまうし(ドク役のシーザー・ロメロは意外と悪くないが、リンダ・ダーネル、キャシー・ダウンズと比べると二人の女優はいささか影が薄い)、『バファロウ平原』『逮捕命令』『対決の一瞬』など、50年代にドワン自身が撮った西部劇の傑作の数々と比べても、随分マイナーな印象を受ける。しかし、フォードの演出の独自性を見極めるために、この映画はなかなか助けになる(フォードの見せない演出)。

2017年6月13日
ウェズリー・ラグレス『シマロン』

ウェズリー・ラグレス『シマロン』(Cimarron, 31) ★½

1889年のオクラホマの土地獲得競争(オクラホマ・グレート・ラン)から大恐慌の時代に至るまでの40年近い時の流れを年代記的に描いたこのスペクタクル大作を、単純に西部劇に分類していいものかどうかわからないが、少なくとも前半部分には、西部劇的な要素がいろいろと詰まっている(教会のなかでの悪漢との対決や、大通りでのガン・ファイトなど)。

リチャード・ディックス演じるヤンシーは、妻を連れてオクラホマに移住し、新聞社を立ち上げる。西部劇においてジャーナリズムが果たしてきた役割を考えると興味深い展開である。しかしこの映画では、新聞はたんに主人公の職業である以上の役割は果たしていない。

ヤンシー夫婦の旅に勝手に同行する黒人少年の描き方は、黒人のステレオタイプそのもの(キーキー声でしゃべり、知性のかけらも感じられない)。しかし一方で、主人公ヤンシーの考え方や行動が、意外なほどポリティカリー・コレクトなことに驚かされる。彼は、教会にユダヤ人を受け入れ、町の品行方正な人たちから軽蔑されている女(『駅馬車』のダラスや『三悪人』のミリーのような孤児)を裁判で擁護し、息子がインディアンの娘と結婚するのを歓迎する(彼の妻は、最初、それがまったく理解できない)。

すぐに水溜りの出来るでこぼこ道はゆっくりと整備されてゆき、やがて市電が通り、最後には、両側にビルが立ち並んで車がひっきりなしに往来するようになる。同じ位置から撮られた町の風景が40年の時間の流れのなかで変貌してゆく様子には、なにがしかの魅力がないわけではない。 しかし、この長きにわたる時間を描いた年代記映画で、その中心となる人物たちがあまり魅力的でないというのは、ちょっと致命的だ。とりわけ、後半でヤンシーに取って代わって物語の中心となる彼の妻を演じるこの映画のアイリーン・ダンはまったくと言っていいほど魅力を欠いている。

とにもかくにも、サイレントからトーキーへの移行期に最もダメージを受けたジャンルである西部劇が、トーキーにおいても成功作を作ることが出来ることを示したという意味で、無視できない作品ではある。

2017年6月10日
マイケル・カーティズ『無法者の群』

マイケル・カーティズ『無法者の群』(Dodge City, 39) ★★

ワーナーでウォルシュと肩を並べていた冒険映画のヴェテラン、マイケル・カーティズは、エロール・フリンとコンビを組んで数々の冒険映画・海賊映画を作っている。これは、その分野ですでに成功していた二人が初めて撮った西部劇であり、フリンにとっては最初の西部劇だった。二人が組んだウェスタンは、『カンサス騎兵隊』、『ヴァジニアの血闘』(40) と続く。この二人の西部劇のなかでは、南北戦争を描いた『ヴァジニアの血闘』(ある意味、『無法者の群』の続編)のほうが、ランドルフ・スコット、ハンフリー・ボガートの共演も含めてより興味深い作品だったと思うが、作品としていちばんまとまっていたのはこの『無法者の群』だったかもしれない。

オーストラリア、タスマニア生まれのエロール・フリンを西部劇のヒーローとして認めるのは多少抵抗があるものの、フリンがいない後年のカーティズの西部劇がいささか精彩を欠くのも確かである。

『駅馬車』からわずか1ヶ月遅れで公開された映画だが、華麗なテクニカラー((DVD では色ズレを起こしているが、これはテクニカラーにはありがちなこと。とは言え、なんとかならなかったかと思うが。))、製作費やスター性において、〈無名の〉ジョン・ウェインが主役の『駅馬車』と比べて、当時は格上の作品として扱われていたはず。酒場をめちゃくちゃにぶち壊す派手な乱闘シーンだけでも、『駅馬車』の制作費の5分の1近くがかかっていると思われる。

名前は変えてあるが、エロール・フリン演じる主人公は、あきらかにワイアット・アープに基づいて作られたキャラクターである。ワイアット・アープの名前が使われていないのは、別の会社がワイアット・アープの映画をすでに進めていて、当時唯一の伝記本の権利を手に入れていたので、裁判になることを恐れたためだと思われる。

ヴァージニア・シティ、ウィチタ、トゥームストン、西部劇に登場する神話的な響きを持った都市の名前のなかでも、ダッジ・シティはとりわけ名高いものの一つと言っていいだろう。新たにできた町に「ダッジ・シティ」という名前がつけられるところから始まるこの映画の主人公は、ある意味、この町そのものであると言ってもいい。西部劇においては、都市は、繁栄するのも凋落する(ゴーストタウン)のもスピーディだ。祝福されて生まれたダッジ・シティは、あっという間に腐敗し、悪党ブライアン・ドンレヴィ(またしても)によって支配されてしまう。無論、彼を倒すのが町の保安官になったエロール・フリンの役割だ。

冒頭、列車が駅馬車と並走して打ち勝つ場面は、駅馬車(ホース)から列車(アイアン・ホース)への交通手段を端的に物語る場面として記憶に残る。『大平原』と同じく、この映画でも列車は進歩の象徴として描かれている。 『地獄への道』と同じく、ここでも新聞社が重要な役割を果たしている。

西部劇の新聞社の社長はたいていならず者によって殺される運命にあるが、それはこの映画でも例外ではない。そして、その後を受け継ぐのが、主人公の恋人でもある社長の美しい娘というのもよくあるパターンだが、ここでは、娘の代わりに、新聞社で雇われていた美人記者(オリヴィア・デ・ハヴィランド)がその役を引き受けている。

2017年6月9日
セシル・B・デミル『大平原』

セシル・B・デミル『大平原』(Union Pacific, 39) ★★

大陸を横断する鉄道ユニオン・パシフィックとセントラル・パシフィックの建設を背景に、金儲けのためにそれを妨害する一味(一味のボスを演じるブライアン・ドンレヴィは、この年、4本の西部劇で同様の悪役を演じている)と、彼らから鉄道を守る役目を政府から与えられた男(ジョエル・マクリー)との攻防が描かれ、そこに、鉄道機関士の娘(バーバラ・スタンウィック)、ドンレヴィ一味の下で働いているロバート・プレストン、彼とは戦友だったが今は敵同士のマクリーの3人の三角関係がからむ。

1939年は、いろいろ議論はあるがハリウッドで最初に撮られた長編映画とされるデミルの西部劇『スコウ・マン』(14) の25周年を記念する年にあたっていた。また、この年は、1869年の大陸横断鉄道の完成70週年でもあった。メジャーの映画会社が揃って大作西部劇の製作に乗り出したこの年、デミルがこの西部劇を撮ったのは、ある意味、当然であったといえる。

『地獄への道』に描かれる鉄道とは対象的に、アメリカの未来を象徴するものとして描かれる鉄道。物語の大筋がフォードの『アイアン・ホース』と酷似していることに驚かされるが、『大平原』の原作は、実は、『駅馬車』の原作と同じ、アーネスト・ヘイコックスである。ヘイコックスはおそらく『アイアン・ホース』に大いに触発されて原作を書いたのであろう。

インディアンの描き方は、『駅馬車』と似ているようでいて、細かく見ていくとフォードとは全然違う。この映画では、インディアンは愚かな存在として徹底的に戯画化されていて、そこには何の敬意も感じられない。「死よりも残酷な運命」のシーンも、『駅馬車』のなかの該当シーンが持つ意味と比べると、ニュアンスはかなり違っている。

鉄道工夫たちに支払われるはずの金が入った給料袋を強奪したプレストンをスタンウィックがかばおうとするくだりも、なんだかデミルの人間性が現れているようで、見ていてちょっと気分が悪い。

しかし、倫理的な問題を別にすれば、インディアンの列車襲撃や、派手な列車転覆シーンなど見せ場満載の大スペクタクル西部劇であり、39年の西部劇ルネサンスを代表する一本であることは間違いない。

ちなみに、『スター・ウォーズ』の冒頭の下から上に上がっていくクレジットは、この映画のオープニング・クレジットを真似したものだと言われている。

 

2017年5月30日
アルトゥール・ロビソン『戦く影』――影と鏡の戯れ

 

アルトゥール・ロビソン『戦く影』(Schatten - Eine nächtliche Halluzination, 23) ★★★

 

「『今宵かぎりは』のダニエル・シュミットがこの映画のリメイクを撮ってくれないものかと思う。シュミットなら必ずやこの作品をより豊かなものにし、再発見させてくれるだろう。それは、ヘルツォークが『ノスフェラトゥ』のリメイクで失敗した試みでもある」(フレディ・ビュアシュ)

 

アルトゥール・ロビソン『戦く影』は、ドイツ表現主義映画の傑作の一本とされる映画でありながら、日本のみならず、海外でも言及されることが比較的少なく、なかば忘れ去られていると言ってもいい。むろん、当然知っているという映画研究者はたくさんいるだろう。しかし一般の映画ファンのほとんどはアカデミックな映画研究など無縁の世界で生きている。だから、身近で上映される機会もなく、手頃なメディアで取り上げることもなければ、こうした重要な作品であってもすぐに忘れ去られていってしまう。

実を言うと、わたしもつい最近になってこの映画を初めて知ったと言ってもいいくらいなのである。『戦く影』はロッテ・アイスナーの『悪魔のスクリーン』でも大きく取り上げられており、その存在はぼんやりと認識してはいたのだが、やはり見ていない作品はつい頭の片隅に押しやられてしまうものらしい。そんなわけで、以前少しふれた岡田温司の『映画は絵画のように』のなかで使われているスチル写真を見てようやくこの映画に興味を持ったという次第である(映画の写真というのは、映画と出会う上でとても重要だ。写真の選択一つで、その映画と一生出会いそこねることだってあるのである)。

ドイツ表現主義映画において、強烈なコントラストを与えられたスクリーン上の光と影の戯れが、単なるホラーめいた効果以上の形而上学的な意味をときとして与えられてきたことはよく知られている。スクリーン上をうごめく影は、人間のうちにひそむ不安であり恐怖であり悪であった。そして、そのような重々しい意味をもたされた影をいかに巧みに演出して見せるかに、表現主義の映画作家たちの手腕が試されていたと言ってもいいだろう。

「影」という意味の原題を持つこの映画は、そんな表現主義的な〈影〉のテーマを、最大限にまで突き詰めた究極の影映画である。監督のアルトゥール・ロビソンは、アメリカ生まれのドイツ系ユダヤ人で、ドイツに育ち、ドイツで映画監督になった。『プラーグの大学生』(これも分身をめぐる作品)のリメイクなど数本の映画を監督しているが、一般にはこの『戦く影』一本だけが彼の撮った重要な作品だとされている。

この映画には中間字幕は一切使われていない。冒頭、登場人物とそれを演じる役者の名前を示す字幕が現れる以外は、この映画にはセリフも説明も一切出てこないのである((無字幕映画というとムルナウの『最後の人』が有名であるが、『戦く影』は、実は、『最後の人』の一年前に撮られている。))(もっとも、この映画に登場する人物たちにはいずれも名前はなく、「伯爵」「妻」「若者」といった普通名詞がただ付されているに過ぎない)。物語そのものは単純であるとはいえ、現実離れした奇想天外な話を、ロビソンは、入念に練られた演出と俳優の演技をとおして、映像だけで巧みに語ってゆく。それは、こんな物語だ。

嫉妬深い伯爵とその妻の住む館に、ある夜、4人の招待客がやってくる。4人は、伯爵がそばにいるにもかかわらず、伯爵夫人への欲望を隠そうともしない。夫人は夫人で、招待客との駆け引きを大いに楽しんでいるらしい。夫人は4人の招待客のなかでもとりわけ色男の若者に惹かれているようで、二人のあいだには今にも一線を越えそうな空気が漂っている。伯爵はそういったことにすべて気づいていて、嫉妬で気が狂わんばかりの状態だ。そんなとき、予期せぬ訪問客が現れる。彼は影絵を使って芝居を見せる影絵使いであり、伯爵は、気まぐれなのか何かの意図があってか、この影絵使いを招き入れる。館の中で何がおきているのかを一目で見て取った影絵使いは、用意していた出し物に代えて、別の影絵を伯爵夫妻と4人の招待客に見せはじめる。それは彼ら自身が主人公である影絵芝居であり、その影絵芝居の中では、これから彼らがたどるべき恐るべき運命が物語られているのだった……。

通りから見上げる階上の窓のカーテンに映る伯爵と夫人の影から始まった映画は、影のテーマを次々と変奏させてゆく。影はまず、「語る」と同時に「騙る」ものとして現れる。ガラスのドアのカーテン越しに、招待客の一人が妻の体をまさぐっているのを見た伯爵は嫉妬に身もだえするのだが、室内に切り替わったカメラは、それが実は、ドアのカーテンに写った夫人の影を、招待客がたわむれに手でなぞっていただけに過ぎないことを示す。やがて登場する影絵使いは、ろうそくの灯りを使って影を巧みに操り、意図的に、伯爵に影を現実と信じ込ませようとさえするだろう(実際には影が重なって見えただけなのに、伯爵は、妻と色男の若者がテーブルの下で手をつないでいるのだと思い込む)。影は見せかけであると同時に、彼らの隠された欲望を示してもいるというわけだ。

映画が面白くなるのはここからだ、『最後の晩餐』のごとくテーブルに一列に並んで座った伯爵夫妻と4人の招待客に、影絵使いは、最初、中国の伝承を扱ったらしい影絵を見せていたのだが、彼はその出し物を不意に中断し、テーブルに近づいてゆくと、催眠状態にかかったようになっている客たちの足元に伸びていた長い影を、光を使って巧みに操り始める。影はどんどん短くなってゆき、ついには消えてしまう。それと同時に、客たちの反対側に、かれらとそっくりの分身が登場し、元の体のほうは突如消滅してしまう。まるで影たちが本体から抜け出て独自に生きはじめたかのようである。しかし自分たちが影だとも知らない彼らは、危険な恋の駆け引きのゲームを続けてゆく。

影たちにも影はある。本人が現れるよりも先に現れ、実物以上に巨大な姿になって壁に映し出される影が不安を掻き立て、悲劇的な結末を予感させる。夫人は色男の若者とついに一線を越えてしまい、伯爵は二人が愛撫しあう部屋の前で、嫉妬にもだえる。ここからの展開はいささか現実離れしているのだが(というか、これは現実ではないのだが)とうとう我慢の限界を超えた伯爵は、あろうことか夫人をロープで縛り上げてテーブルに寝かせると、4人の招待客に剣を持たせ、彼らに無理やり夫人を殺させる。すると今度は伯爵のほうが、激怒した招待客らによって、窓から外の通りに突き落とされてしまうのだ。

しかし彼らは影に過ぎず、すべては影絵使いが見せる夢に過ぎない。彼らはいわば登場人物たちの潜在意識が実体化したものなのだ。悪夢のような影芝居が終わると、彼らは元の体へと戻って目覚める。部屋にはいつの間にか朝日がさしている。自分の欲望に従ってあのまま突き進んでいたらどんな恐ろしい事態になっていたかを悟った招待客たちは館を去ってゆく。そして残された伯爵と夫人が、憑き物が落ちたように穏やかな表情になって愛を語らうという嘘のようなシーンで映画は終わっている。

この映画全体を、影絵芝居による一種の心理セラピーを描いたものとみなすこともできるだろう。潜在意識をあからさまに見せつけられることで、彼らは自分たちのどうしようもない妄念から解放されるのである。

フリッツ・ラプスがいつもながらの強烈な存在感で召使の一人を演じている。もしもシュミットがこの映画をリメイクしていたならば、この人物がシュミット作品らしい〈傍観者〉の役割を演じることになっていたのだろうか。いや、もうひとりの、年がいった方の召使のほうがシュミット的な〈傍観者〉にはふさわしいか。

ところで、映画の最後に、影絵使いは広場にいた豚の背中に乗ってどこへともなく姿を消す。豚は悪魔と関連付けて語られることも多い動物だ(この時そばにいた町人が慌てて胸の前で十字を切る)。そういえば、かれが着ている上着の背中には妙な形に突き出た部分があり、それが悪魔の尻尾に見えなくもない。結果的に、全てを丸く収めて去っていったが、かれが時折浮かべる表情や、振る舞いには、たしかに悪魔的な部分が見え隠れしている。このラストは彼が悪魔であることを示唆しているのだろうか。

影の話ばかりしたが、この映画では鏡を使った巧みな演出も注目される。夫人の寝室(そこで逢引が行われる)へと向かう廊下の曲がり角に大きな鏡が2つあり、夫人の寝室の扉の開閉と、その中で起きていることは、しばしばその鏡に映った影像を通してのみ示されるのだ。その鏡を通して妻の逢引を目撃した伯爵は、鏡に映る自分の姿に耐えられず、鏡を叩き割る。しかしそれはいたずらに鏡像を増幅させるにすぎない。

鏡と影。この2つは言うまでもなく、スクリーンに映し出される映画イメージのメタファーでもある。この映画は、いわば映画を見るという体験自体を描いた映画でもあるという解釈もできる。実際、登場人物たちの影が実体の方に帰ってくる場面で、映画のなかのスクリーンに映し出されていたものは映画だった。

たとえばカール・テオドア・ドライヤーの『吸血鬼』に描かれる、独り歩きしたあとで体に戻ってくる影や、納屋の鋤や鎌などが壁に投げかける不気味な影、あるいは影たちのめくるめく舞踏会などといった、あの驚くべき瞬間の数々に比べるならば、『戦く影』の影のイメージはどれも凡庸なものに思われてきもしよう。それはたしかであるのだが、この映画が映画史上における実にユニークな作品であることに変わりはない。何はともあれ必見の映画である。

2017年5月8日
ピーター・エマニュエル・ゴールドマン『灰の車輪』――ゴダールやストローブも注目した前衛作家の横顔

"His people come to life simply and believably; more believably than most of the people in the Chabrol and Truffaut cinema... the film has a thematic and formal beauty that is remarkable." - Jonas Mekas "

[…] the most exciting new filmmaker in recent years. Echoes of Silence, his first film, is a stunning piece of work." - Susan Sontag

(ともに、『沈黙のこだま』についてのコメント)

 

 

ピーター・エマニュエル・ゴールドマン『灰の車輪』(Wheel of Ashes, 64) ★★★

「アメリカ映画がかつて長いあいだそうだったもの、リヴェットいうところの〈探索弾頭 tete chercheuse〉の役割を今や担っているのは、ヨーロッパ映画である。ベティカーが撮った数本の近作以来、アメリカ映画(ニューヨーク派も含めて。ただし『沈黙のこだま』は除く)は、空回りし(フラー)、足踏みし、パロディ化し、剽窃し、ニコラス・レイのように(かれは、デュースブルクで、アトラス・フィルム向けにくだらない仕事を引き受けたばかりだという)、裏切り、自己を否定しさえしている。(たとえばチャップリン、ラング、ルノワール、ロッセリーニらが、人から嘲笑われることなどまるで恐れずに新作を発表し続けているのにくらべれば、ヒッチコック、ホークス、ウォルシュでさえ、少しばかり足踏みしているように思える。)例外が二人いる。ジェリー・ルイスはおそらくその一人であり、もうひとりはジョン・フォードだ。フォードは、アメリカ映画をその頂点にまで高め(『馬上の二人』『捜索者』『騎兵隊』)、そしてその失墜を加速させたあとで(『リバティ・バランスを射った男』『シャイアン』)、アメリカ映画を崇高なものにしたばかりだ。無論、『荒野の女たち』のことである。」

これは、1966年にジャン=マリー・ストローブがアメリカ映画の状況について書いた一文である。このなかで、60年代なかばのアメリカ映画における例外的な注目作の一つとしてストローブが挙げている『沈黙のこだま』という作品の作者として脚注に小さく書かれていた名前を見たのが、ピーター・エマニュエル・ゴールドマンという映画作家の存在を知った最初だった。

ゴールドマンのデビュー作『沈黙のこだま』(64) は、サイレント映像に音楽だけをつけたような映画で、これといった物語もなく、短いエピソード(といってもほとんど何も起きないのだが)が並べられてゆくだけの、一見素人が撮ったようにも見える作品だったが、ニューヨークのの空気と孤独感だけは見事に捉えられていた。

この最初の映画の撮影をはじめた1962年頃、ゴールドマンは写真にも魅せられていて、友人たちの生活や、自分が生まれた街であるグリニッジ・ヴィレッジを中心とするニューヨークの街の風景などをカメラに収めはじめる。この頃彼は、敬愛する写真家ロバート・フランクに会いに行ったりもしている。(かれがこの時期に撮った写真はやがて忘れ去られてしまうが、今、ゴールドマンは映画作家としてだけではなく、写真家としても新たに注目されはじめている)。

正確な時期は分からないが、この頃、ゴールドマンはヨーロッパに渡り、いっときソルボンヌに在籍したあとで、またニューヨークに戻ってきている。その間、船乗り、ウェイター、トラックの荷物積みや、ヌード映画の撮影までしながらなんとか生き延びる一方で、ウォーホルの映画を発見したりもしている。

65年、『沈黙のこだま』がニューヨーク、ついでペサロ映画祭で上映され、そこでこの映画を見たジャン=クロード・ビエットが「カイエ・デュ・シネマ」に熱狂的な記事を書き、ゴールドマンの名前は映画通のあいだで知れ渡ることになる。ゴダールもこの映画を見て気に入り、ゴールドマンがパリで生活するための奨学金を得られるように尽力したとも聞く。

こうして66年にスエーデン人の恋人とともにパリに渡ったゴールドマンは、最初のあいだ、アニェス・ヴァルダとジャック・ドゥミ夫婦の家に泊めてもらっていたという。やがて出会った俳優ピエール・クレマンティとともにかれは長編第2作『灰の車輪』にとりかかる。

『灰の車輪』は、基本的には、『沈黙のこだま』の延長線上にある作品であるが、実質サイレント映画であった『沈黙のこだま』とくらべると、ずっとトーキー映画らしい作品になっている。ピエール・クレマンティ演じる若者の生活を、その欲望と孤独と内面の探求を、親密な日記のようなタッチで描いてゆくところは、『沈黙のこだま』同様、実存主義的映画とでも呼びたくなるものだ。しかし、この映画は、前作にはなかった神秘主義的な傾向を色濃く作品ににじませている。だが、今にして思えば、その傾向は『沈黙のこだま』の時からすでに見え隠れしていたのかもしれない。

クレマンティ演じる若者は東洋的な神秘思想にのめり込んでゆき、やがて、欲望にまみれたこの混沌とした現世から解き放たれるために、恋人を捨ててひとりアパルトマンに閉じこもって瞑想にふけりはじめる。冒頭の「カルマの法」について書かれた字幕から始まって、クレマンティが読みふける東洋思想の書物、通りすがりの女性の胸にかかった大きな十字架のペンダント、教会の十字架、チベットやインドの宗教画、あるいはヒエロニムス・ボスやデューラーの絵画などなど、この映画には東洋的かつ西洋的な宗教的イメージがあふれている。 クレマンティの声によって語られる神秘主義的な想念は、正直言って、あまり頭には入ってこない(英語字幕だとなおさらだ)。しかし、前作のニューヨーク同様、この映画では、ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちでさえできなかったような生々しさでサンジェルマン・デ・プレをとらえた映像が実に素晴らしい。知らずに見たならば、これを撮った監督がアメリカ人だとはだれも思わないだろう。なお、この作品には、ジュリエット・ベルトもチョイ役で出演している。

わずかこの2作で多くの映画人や批評家から映画作家としての将来を期待されていたゴールドマンだったが、72年、ベルリン・オリンピックにおけるパレスチナ・ゲリラによるイスラエル選手団の殺害事件(スピルバーグの『ミュンヘン』にも描かれた)に衝撃を受け、ユダヤ人としての自分の存在に突然目覚めると、以後、シオニズムへと急速に傾いてゆく。『灰の車輪』でクレマンティの恋人を演じているカティンカ・ボーは、当時ゴールドマンと結婚していて、二人の間には娘もいたのだが、ユダヤ教徒でない彼女が改宗を拒んだために、ゴールドマンはついには離婚を決意する。

80年代に入ったときには、かれは AFSI(Americans for a Safe Israel)という団体を立ち上げ、その会長となっていた。その一方で、82年の第5次中東戦争におけるNBCニュースの不誠実な報道姿勢を描いたドキュメンタリー『NBC in Lebanon: A Study of Media Misrepresentation』を監督したりもしている。ゴールドマンはまた、イスラエルの首相や合衆国の上院議員などが監修している『The Media’s War Against Israel』という本を共同編集し、それがきっかけでホワイトハウスに招待されてレーガン大統領と中東情勢について議論したこともあるという。

イスラエルのために四苦八苦するこの人物が、60年代に2本の前衛映画を撮った映画作家ピーター・エマニュエル・ゴールドマンと同一人物であるとは、にわかには信じがたい。しかし、これは事実であり、今のゴールドマンを知る人たちには、数十年前に彼が映画を撮っていたことのほうが嘘としか思えないらしい。

ゴールドマンは、75年に『Last Metro to Bleecker Street』という自伝的な小説を発表したりしてもいる。

1939年生まれだからすでに80近い年齢になるはずで、映画からはすっかり遠のいてしまったようだが、現在も精力的に活動を続けているらしい。写真家、映画作家、小説家、シオニスト……。様々な顔を持つこの人物にはまだまだ謎が多い。しかし、それ以前に、日本では彼の名前はまだほとんど知られてさえいないというのが実情だ。少し前まではほとんど見ることもかなわなかった彼の作品だが、幸いなことに、今は DVD で見ることができる。もっとも、これもいつ絶版になるかわからない。気になった人は、早めに手に入れておいたほうがいいだろう。

2017年5月4日
チャールズ・ブラービン『街の野獣』――プレ・コード時代の壮絶な銃撃戦

チャールズ・ブラービン『街の野獣』 (The Beast of the City, 32) ★★½

正直、あまり期待していなかったのだが、予想もしていなかった展開と、何よりもラストの銃撃戦の凄まじい暴力性に圧倒された。

厳密に言うならば、この戦前に撮られた警察映画はフィルム・ノワールには分類されないだろう。しかし、この作品は、当時としてはユニークなその題材によって、しばしばフィルム・ノワールの先駆的作品として取り上げられる。

厳格なほどに正義を貫こうとして警察内部からも疎ましがられる警部(ウォルター・ヒューストン)と、弱さからどんどん堕落していくその弟の警察官。この兄弟の確執が、ギャングと警察の戦いと同時に語られてゆく。腐敗警官はフィルム・ノワールで繰り返し描かれることになる主題であり、その意味で、この映画がこのジャンルの先駆的作品とされることもうなずける。弟を堕落させるギャングの情婦役をプラチナ・ブロンド、ジーン・ハローが演じていて、そんなに見せ場もない脇役だが、なかなかの存在感を見せている。

しかし、この映画の見所は、なんといっても、ラストの壮絶な銃撃戦の場面だろう。悪徳弁護士の活躍によって、裁判でギャングのボスに負けるという象徴的なシーンがあったあとで、警部(ヒューストン)は、法に従っていてはギャングを一掃できないことを痛感し、最後の手段に訴える。それは、討ち死に覚悟でギャングと一戦を交えるという、信じがたいものだった。

向かい合ったギャングたちと警官隊が唐突に撃ち合いを始め、互いに身を守ろうともしないまま、死体の山が築かれていくこのすさまじい暴力場面は、まさにプレ・コード時代のハリウッド映画を象徴する場面の一つと言ってもいいだろう。

警察官が法を逸脱したかたちで悪を制裁するというこの後半の展開から、この映画は「ダーティ・ハリー」シリーズの先駆けとも言われる。 この映画の企画は、MGMのルイス・B・メイヤーと当時のフーバー大統領との会談に端を発するとも言われていて、映画の冒頭にはフーバーの言葉が引用されている。しかし、完成した作品を見たメイヤーは、内容がMGMにふさわしくないとして、映画の興行を大幅に縮小した。

あのウィリアム・ランドルフ・ハーストが内容を批判する手紙をプロデューサのルイス・B・メイヤーに送ったらしいが、結局、そのまま上映されることになったという話も聞く。

原作のW・R・バーネットはアメリカ映画には馴染み深い存在であり、『犯罪王リコ』『俺は善人だ』『ハイ・シエラ』『アスファルト・ジャングル』などなど、彼の小説が原作の映画は挙げればきりがない。

2017年4月28日
アンリ・ドコワン『家の中の見知らぬもの』――ナチの資本で撮られた仏製ミステリー映画の問題作

アンリ・ドコワン『家の中の見知らぬもの』★★

『十字路の夜』、『パニック』、そしてこのドコワンの『家の中の見知らぬもの』と『La vérité sur Bébé Donge』……。 そのうち、「ジョルジュ・シムノンとフランス映画」という本が書かれねばならないだろう。このベルギー生まれの作家は、今やだれからもフランス人だと思われるほどフランス人の心性に入り込んでいるといっていい。

アンリ・ドコワンがドイツ占領下のフランスで撮った映画『家の中の見知らぬもの』は、ジョルジュ・シムノンが戦前(40年)に発表した同名小説を映画化したものである(日本での DVD のタイトルは単数形になっているが、原題を直訳すると「家の中の見知らぬものたち」になる。この単数形と複数形の違いは作品の解釈にも大きく関わってくる重要な部分だ)。

このミステリー小説は、シムノンの数ある小説の中でもとりわけ陰鬱なものの一つと言われ、当時、この小説を読んだアンドレ・ジッドは、「驚愕した。長い間、私にはこれほど激しい興奮をよびさまされた本がなかった」と絶賛したという。この原作小説を映画のために脚色したのは、まだ監督デビューする前のアンリ=ジョルジュ・クルーゾーだった。その点でもこの映画は興味深い。

小さな地方都市の、雨の降りしきる暗い夜の情景から映画は始まる。ミニチュアで作られた精巧な街のセットをカメラがゆっくりとなめるように映し出してゆく。そこに重々しいナレーション(クレジットされていないが、実はピエール・フレネーの声)によって、散文詩のような説明が加えられる。

「街には雨が降っている。雨だれの音をひびかせる屋根に、水浸しになった庭に。街には雨が降っている。降りしきる雨に木々の影がぼんやりと霞む。街には雨が降っている。土砂降りの中、小さな町は震え、店の鎧戸を下ろす。街には雨が降っている。洪水のごとき雨のなか、嵐に打たれる船のように大聖堂が姿を見せる……。」

モノクロ映画に描かれる街のミニチュアセットに対するわたしのフェチシズムがたぶん大きく作用しているのだろうが、この冒頭のシークエンスが、この映画における最高の瞬間だったように思う。名も知れぬ語り手の声は、このあと何度も映画のなかに現れ、次第に耳障りなものになってゆくだろう。

やがて、場面は、この映画の主人公であるルールサ氏(レイミュ)が娘ニコルと暮らす屋敷のなかへと移ってゆく。ルールサは、かつては名うての弁護士だったが、妻が家を出ていって以来、長年のあいだ、酒に溺れ、生ける屍のようになって、無気力に生きつづけている。一人娘との関係は冷え切っていて、今やまともに言葉がかわされることもない。そんな二人が、いつものように、冷ややかな夕食を終えた直後に、階上で銃声が鳴り響く。行ってみると、屋根裏部屋のベッドに見知らぬ男が死体となって横たわっていた。警察の捜査が進むに連れ、事件の背景には、無為をもてあましてゲーム感覚で盗みを始め、やがてそれをエスカレートさせていくブルジョア家庭の子供達の存在があったことがわかってくる。そのなかでやがて有力な容疑者として浮かび上がったのは、ルールサ氏の娘ニコルの恋人マニュだった。ルールサ氏は容疑者の青年の弁護を引き受けるのだが、裁判のあいだじゅう彼は、ほとんど沈黙したままで、まるで弁護をする様子がない。彼は本当に青年を救おうとしているのだろうか……。

原作を脚色したクルーゾーは、主人公の孤独に焦点を合わせていた小説から、ブルジョア社会によって生み出される犯罪という社会問題へと焦点をずらしている。小説のタイトルである「家の中の見知らぬものたち」のなかには、おそらく主人公のルールサ氏自身も含まれていたはずだ。長いあいだ無為と孤独のなかで自分を見失っていた彼は、不意に自分を「家の中の見知らぬもの」として見出す。このタイトルにはおそらくそんな意味も込められていたのだろうが、ドコワン=クルーゾーはそこにはあまり深入りしていない。レイミュが見事にシニカルに演じるルールサ氏は、どちらかと言うとコミカルなトーンを与えられている(だからこそ、裁判の終盤での彼の有名な口頭弁論は、その激しさによって心を打つのだが)。

よくできたミステリー映画である。しかし同時に、どこといって際立ったところがない映画でもある。そんなこの作品を極めて興味深いものにしているのは、やはりなんといっても、この映画がドイツ占領下のフランスで作られた事実にあるといっていい。 『家の中の見知らぬもの』を製作したコンティナンタル・フィルム(英語読みするとコンティネンタル・フィルム)は、ゲッベルスの指揮のもと、ドイツ占領下のフランスで設立されたドイツ資本による映画製作会社で、1941年から1944年の間に、30本近い映画がここで作られた。クルーゾーの『密告』は、その中で最も有名な作品である。(コンティナンタルについては、いずれ近いうちにもっと詳しく書くつもりだ。)

戦後になって、フランスが占領下から開放されたとき、『密告』は内容が対独協力的だとのそしりを受け、フランス映画史上最も激しい論争の渦に巻き込まれてゆくことになる。結果、クルーゾーは長年フランスで映画が撮れなくなり、『密告』は47年になるまで上映禁止になる。 一方、『家の中の見知らぬもの』も、『密告』ほどの物議をかもしはしなかったものの、一部のものたちから反ユダヤ主義を指摘され、戦後しばらくのあいだやはり上映禁止になる。しかし、『家の中の見知らぬもの』が反ユダヤ的だというのは、少し的はずれだったように思える。シムノンの原作自体には、おそらく反ユダヤ主義を指摘されても仕方がない部分があったのかもしれない(事実かどうかは不明だが、シムノンは、戦後になって、第二次大戦中にドイツと通じていたとの告発を受け、フランスから逃げるようにして米国に渡ることになる)。しかしクルーゾーとドコワンは、少なくとも、原作のなかの反ユダヤ的な偏向と受け取られかねない部分を強調するようなことはしていないし、むしろその痕跡を薄めようとしていたように思える。

この映画が反ユダヤ主義的であるとの指摘は、実は、映画に出て来るある名前をめぐってなされることになるのだが(ミステリーの核心に関わる部分なので、あえて曖昧に書いている)、戦後、その名前は、新たに吹き替えられて、別の名前に変えられることになる。ただ、主役のレイミュがその前に亡くなってしまったので、彼のセリフの中だけはその名前がそのまま残されることになってしまった。

単なるミステリー映画として以上に、消すことができなかった声というかたちで、ナチ占領下の記憶が刻みつけられている映画として、『家の中の見知らぬもの』は実に興味深い作品である。

2017年4月22日
『市民ケーン』余話――コウルリッジの夢とディケンズの謎

オーソン・ウェルズの『市民ケーン』でケーンが自分のために建て、最後に、そのなかで孤独に死んでゆく城の名前「ザナドゥ」が、イギリスの詩人サミュエル・テイラー・コウルリッジによって書かれた叙事詩「クブラ・カーン」Kubla Khan のなかに登場する土地の名前に由来することはよく知られている。 1797年のある夏の日、コウルリッジはその詩を夢で見る。あるいは、夢のなかでその詩を受け取ったといったほうが正しいかもしれない。目が覚めると、彼はその300行からなる詩を書きとめようとしたが、途中で不意の来客があったために、最初の数十行しか記すことができず、残りはすべて忘れ去られてしまったという。つまりは、詩の全容は謎のままに残ってしまったわけである。

「クブラ・カーン」とは、13世紀のモンゴル帝国第5代皇帝の名前である。われわれ日本人には「フビライ・ハン」あるいは「フビライ汗」などといった呼び名のほうがおそらく馴染みがあるだろう。「ザナドゥ」(あるいは「キサナドゥ」((懐かしのグループサウンズ、ザ・ジャガーズに「キサナドゥの伝説」という曲があるが、この「キサナドゥ」がザナドゥのことである。ちなみに、この曲は、もともとはイヴ・ディー・グループが発表した楽曲だった。ザ・ジャガーズの曲はそのカヴァー。)))とは、このフビライ・ハンが夏の離宮を建てた土地の名前なのである。

興味深いのは、フビライ・ハンもまた、王宮を夢のなかで見、その夢に従って王宮を建設したと伝えられていることだ。しかも、その事実は、コウルリッジがこの詩を書いた頃にはまだヨーロッパでは知られていなかった。なんとも不思議な話である。ボルヘスがこの奇妙な符合に注目したのも不思議ではない。

「最初の夢想者は宮殿の幻を授けられ、それを建てた。最初の夢を知らない2番目の夢想者は宮殿の詩を授けられた。計画が失敗に終わらないとすれば、今から数世紀のちに「クブラ・カーン」を読んで、ある夜大理石像か音楽を夢見るものが現れるだろう。この男は他の二人が夢に見たことを何も知らないであろう。ことによると、夢の連鎖は尽きないのかもしれない。それとも、最後に夢を見るものが全ての鍵を握っているのかもしれない」(ボルヘス『続・審問』所収の「コウルリッジの夢」より

((余談だが、同書に収められている「コウルリッジの花」という文章のなかで語られる花こそは、ゴダールの『映画史』のラストで言及されるあの「花」のことである。)))。

これで、オーソン・ウェルズが『市民ケーン』を夢で見、夢のとおりに映画を作ったというオチがつけば完璧であったのだが、むろん、話はそこまでうまくできていない。「クブラ・カーン」の冒頭の詩句("In Xanadu did Kubla Khan/A stately pleasure-dome decree")は、映画のなかのニュース映画「ニューズ・オン・ザ・マーチ」のなかでも引用されており、ウェルズのことだから、この詩の内容にもおそらく通じていたのであろう。実際、コウルリッジの詩には『市民ケーン』の内容と奇妙に符合する部分が少なからずあるのである。そもそも、主人公の "Kane" という名前自体が、詩のタイトルにもなっている名前 "Khan" と極めて類似しており、ひょっとしたらケーンという名前のもとになっていたのかもしれない(このことはたしかトリュフォーも指摘していたはずだ)。

しかし、この際そんなことはどうでもいい。「不死の物語」"the immortal story" の観点から見た時、この逸話は『市民ケーン』そのものよりもウェルズの作品全体と深く関わってくるように思える。フビライの建てた宮殿は廃墟となり、それを主題にしたコウルリッジの詩は未完の断章としてのみ残された。廃墟、未完の断章……。これはまるでウェルズの映画を指し示す形容詞のようではないか。『イッツ・オール・トゥルー』、『ドン・キホーテ』、『ヴェニスの商人』、『ザ・ディープ』、『風の向こう側』……。ウェルズのフィルモグラフィーは、まるで未完の断章を集めた廃墟のようである。

ここにもう一つ、『市民ケーン』と関係を持っているかもしれない文学的テクストが存在する。チャールズ・ディケンズの『エドウィン・ドルードの謎』という小説のことである。もっとも、こちらは、コウルリッジの詩とちがって、『市民ケーン』とは極めて緩やかな、いや、荒唐無稽と言っていいほどの、関係しか持っていない。

文豪ディケンズの絶筆となったこの小説は、簡単に言うと三角関係をめぐって起きるある失踪事件を扱った本格的推理小説であり、そして、この物語のヒロインとでもいうべき人物の名前がなんとローザ・バッド(しばしばローズ・バッドとも呼ばれる)というのである。それだけではない。ジャスパーという何を考えているのかよくわからない不気味な人物になかば強要されるようにして、彼女がピアノに合わせて歌を歌う場面が出てくるのだが、ここも、『市民ケーン』のスーザンの歌の練習場面に奇妙に類似している。

しかし、そうした細々とした類似点以上に興味深いのは、この小説もまた、謎を残して未完のままに終わった作品であるということである。ディケンズは、推理小説としてこの小説を書き始めながら、結末の謎解きをする前に亡くなってしまった。エドウィン・ドルードの失踪の謎は、永遠に謎のままに残される。ちょうど、『市民ケーン』のラストで、焼却炉に投げ込まれて燃え上がる橇の表面に「ローズバッド」の文字が一瞬浮かび上がり、たちどころに消えていくことに登場人物たちが誰一人気づかないように、読者はこの小説の真相をもう知ることはできない。

ウェルズはこの小説のことを知っていたであろうし、おそらく読んでもいただろう。とはいえ、この小説が『市民ケーン』に何らかの影響を与えたと考えるのは少々無理がある。ただ、この小説と『市民ケーン』とのいわば荒唐無稽な関係は、「ローズバッド」をめぐって今まで様々に言われてきたもっともらしい説明(いわく、それはウィリアム・ランドルフ・ハーストの愛人であったマリオン・デイヴィスの陰部の愛称であるとか、脚本を書いたハーマン・J・マンキーウィッツが少年時代に盗まれた自転車のことであるとか…)よりは、よほど面白いし、想像力をかきたてる。

「ケーンの秘密とは、彼には秘密がないことだ」と、ウェルズはあるインタビューのなかで語っていた。『市民ケーン』は視覚的イメージとしては驚異的だが、人間が描かれていない。映画に描かれる主人公ケーンの人物像は薄っぺらい、という批判はしばしばされてきた。しかし、それは正しくない。『市民ケーン』は、主人公を空っぽに描いた映画ではなく、空っぽの主人公を描いた映画なのである。そして、ボルヘスがいうように、この映画そのものが「中心のない迷宮」であるとするならば、この映画はそれ故にブラックホールのように様々な外部のテクストを引き寄せ続けてきたのかもしれない。ディケンズの「ローザ・バッド」の物語は、『市民ケーン』の「ローズバッド」がこの映画の中心ではありえないことを逆に証拠立てているのだということもできる。

そんな無数のテクストの中には、ジョージ・デュ・モーリア((『レベッカ』のダフネ・デュ・モーリアの祖父に当たる人物。ちなみに、『レベッカ』と『市民ケーン』もしばしば類似を指摘される。とりわけ、最後に燃え上がるあの "R" の文字。これもまた因縁である))の小説1『トリルビー』から、はては中世の『薔薇物語』((『薔薇物語』がそうだとうのは町山智浩による説。その根拠はよくわからない。))までが含まれる。『市民ケーン』が不滅である限り、これらのテクストの数はまだまだ増え続けるに違いない。それこそ「不滅の物語」として。

2017年4月2日
『市民ケーン』劇場その6――ガラス玉遊戯

サム・ウッド『恋愛手帖』





"snowglobe" と呼ばれる雪の降るガラス玉は19世紀にはすでにヨーロッパで知られていた。それがアメリカに伝わったのは20世紀の初頭だったという。

『市民ケーン』の前年に撮られたこの映画には、死ぬ直前にケーンが手にしていたものとよく似た雪景色の入ったガラス玉が出てくるだけでなく、ジンジャー・ロジャース演じる主人公の父親が死ぬ瞬間、そのガラス玉が床に落ちる。

この映画の撮影監督はグレック・トーランドだった。

ハンス・ユルゲン・ジーパーベルク『ヒットラー:ドイツ映画』









ジーバーベルクの『ヒットラー:ドイツ映画』には無数の映画的記憶が散りばめられている。

7時間にも及ぶ映画の終結部で、それまで何度も登場していた頭にフィルムを巻き付けた少女(映画的記憶の象徴)が、ヒットラー犬のぬいぐるみを片手に、ルドゥー作のブザンソン眼球劇場の内部を覗き込むと、そこには雪の降るガラス玉が見える。ガラス玉のなかの雪景色に浮かび上がるのは、映画創成期にエジソンが作った〈黒いマリア〉と呼ばれる映画スタジオの姿だ。『市民ケーン』のガラス玉のイメージが手繰り寄せる無垢な少年時代が、映画の幼年期とオーヴァーラップする。少女は、楽園の樹木から滴り落ちてきた巨大な水滴のなかへと胎内回帰してゆく。そのとき彼女がそのなかで見せるポーズこそは、サイレント時代の女優メアリー・ピックフォードを有名にした祈りの仕草なのである。

レオス・カラックス『ボーイ・ミーツ・ガール』



割れたガラスのモティーフが繰り返されるこの映画の終盤近くで唐突に現れるこの完璧なガラス玉のイメージは一体何を意味するのか。

2017年4月1日
『市民ケーン』劇場その5――ヘンリー・C・ポッター『ヘルザポッピン』

ヘンリー・C・ポッター『ヘルザポッピン』(41)

"It's a picture about a picture Hellzapoppin."

映画のなかの登場人物が映写技師に向かって、フィルムを巻き戻せとどなる場面から始まるスラップスティック調の不条理コメディの〈傑作〉。フランスのテレビで初めて見たときは、この時代に〈映画内映画〉をテーマにしたこんな映画があったのかと驚いたものだ。

何よりもびっくりしたのはこのシーンだった。冒頭近くで、映画の(中の映画の)主役二人が雪の中を歩いていると、魚と一緒に「ローズバッド」と書かれた橇がかけてある。男はすかさず、「この橇はたしか燃やされたはずだが」とつぶやく。

このユニヴァーサル社製作のコメディが公開されたのは『市民ケーン』と同じ1941年なのだが、ローズバッドと橇はこのときすでにギャグにされていたわけである。 最近見直してみたら、正直、古さしか感じなかった。しかし、これがコメディ映画史上で重要な作品であることは今でも変わりない。

2017年3月30日
『市民ケーン』劇場その4――アニメ「ザ・シンプソンズ」と『市民ケーン』

89年にアメリカのFOXテレビで放送開始されるアニメ「ザ・シンプソンズ」でも『市民ケーン』は何度もパロディにされてきた。シュルツの漫画に比べるとさすがにちょっと下品で、これならトリュフォーも引用しなかったろう。しかし、ローズバッドと橇だけの「ピーナッツ」とちがってギャグのバリエーションは豊富である。

 

『市民ケーン』75周年を記念して「ザ・シンプソンズ」のパロディをまとめた動画がこれ。

 2017年3月29日 『市民ケーン』劇場その3――漫画「ピーナッツ」と『市民ケーン』その3

1984年9月2日



スヌーピーが Pawpet Theater で『市民ケーン』のパロディ(?)『市民ビーグル』を演じる。 すべてを手に入れた男が、すべてを失う。失ったもののなかで彼が何よりも悔やんでいたのは、実は……、というオチ。

スヌーピーによる『市民ケーン』のこの要約は、少なからぬ数の観客によって共有されていたものだろう。たぶんそれは今でも共有されている。ローズバッドと橇、それがこの映画の中心なのだと……。

しかし、公開当時にこの映画を見て絶賛したホルヘ・ルイス・ボルヘスはこう書いている。

「『市民ケーン』には少なくとも2つのプロットがある。一つ目のプロットは、無意味なほど平凡なもので、バカな観客から喝采を搾り取ろうとする。それはこういう内容だ。虚栄心の強い大金持ちが、彫像、庭園、宮殿、プール、ダイヤモンド、車、図書館、男や女、すべてをコレクションするが、この大量の寄せ集めは、空しさ以外の何物でもないことを知る。全ては虚しい。死の間際、彼はこの世でたった一つだけのものを欲する。子供の頃に遊んだみすぼらしい橇だ!」

この一つ目のプロットに比べると、カフカのニヒリズムに通じるような、「形而上学的探偵物語」とでも呼ぶべき第2のプロットのほうが、はるかに優れているとボルヘスは語る。「一人の男の内的自己の調査」を主題としながら、究極的にはケーンが何者でもない影のような存在にすぎないことを示すことで、この映画はこの上なくおぞましい「中心なき迷路」を構成している。『市民ケーン』は「知的なのではなく、この悪しき語の最も陰鬱で、最もゲルマン的な意味において天才の作品である」

1990年4月23日



〈ローズバッド〉と〈橇〉以外の『市民ケーン』の挿話が珍しく具体的に描かれているエピソード。 リディアとライナスが話題にしているのは、エヴァレット・スローン演ずるバーンスタインが、フェリーで見た女の記憶を、記者トンプソンに語る有名な場面。

1993年4月11日



『オズの魔法使』のドロシーのセリフから「ローズバッド」というオチ。

1995年10月8日



1991年、50周年を記念して『市民ケーン』がアメリカで再公開され、たった4週間の、それも限定公開だけで、1000万ドルの収入を上げた。これは1941年の公開時の興行収入の合計を上回る額だった。50年という長い時間は要したが、『市民ケーン』は、映画批評やアカデミズムにおける評価だけでなく、当時かなわなかった商業的成功をようやく手に入れたわけである。

しかし、この「ピーナッツ」のエピソードが1973年のエピソードを繰り返しているように、「ローズバッド」の一言で『市民ケーン』は語り尽くせるという風潮は、90年代以後も相変わらず続いている。

(おわり)

2017年3月29日
『市民ケーン』劇場その2――漫画「ピーナッツ」と『市民ケーン』その2

1972年10月29日



73年12月9日のエピソード同様に、このエピソードでも、70年代はじめには『市民ケーン』は普通にテレビで見られるようになっていたことが伺える。 前回書いたように、『市民ケーン』は50年代以降はアメリカの映画館ではほとんど上映されなくなっていたと言われる。アメリカの大手スタジオが映画をテレビで放映し始めるのは、50年代の中頃のことだった。『市民ケーン』の批評的地位が復権していくのには、このテレビ放送の開始が少なからぬ役割を果たしていると思われる(ちなみに、メジャー映画会社のなかで最初にテレビでの放送を始めたのは『市民ケーン』を製作した RKO だった)。

1984年4月28日



スヌーピーの兄であるビーグル犬スパイクがハリウッドに行き、『市民ケーン』をアニメにする企画を売り込むが、すげなく断られる。 84年はクライテリオンから『市民ケーン』の最初のレザー・ディスク版が発売される年である。85年には、RKO Home Video から VHS と Beta のビデオが発売されている。映画の見方が変わりつつあった時代である。

ちなみに、80年代末に『市民ケーン』の権利を買い取ったメディア王テッド・ターナーは『市民ケーン』をカラー化しようと目論んだが、RKO との契約には白黒でなければならないという条項があったために断念したという。おかげで、我々はカラー版『市民ケーン』などという醜い代物を見なくてすんだ。

(つづく)

2017年3月29日
『市民ケーン』劇場その1――漫画「ピーナッツ」と『市民ケーン』その1

神戸映画資料館でやることになっている連続講座「20世紀傑作映画 再(発)見」第1回、「『市民ケーン』とは何だったのか」の期日が迫ってきたので、正直、ブログを更新している余裕が全然なくなってきた。というわけで、宣伝も兼ねて、当日に話す内容とはあんまり関係ないネタを、「『市民ケーン』劇場」と題して発表していくことにした。

 

 



1973年12月9日の「ロサンゼルス・タイムズ」に掲載された、スヌーピーで有名なチャールズ・M・シュルツの連載漫画「ピーナッツ」のエピソード。ネタバレをギャグにした漫画なので、『市民ケーン』をまだ見ていない人は読まないほうがいい。

1978年にアメリカで出版されたアンドレ・バザンの『オーソン・ウェルズ』(いわゆる72年版『オーソン・ウェルズ』の英訳)にトリュフォーが序文として書いた文章「バザンとウェルズ」にも引用されている漫画なので知っている人も多いだろう。 トリュフォーの文章では、「1973年のクリスマスにハリウッドの人たちに最も人気のあったプレゼントの一つは、漫画を小さな額に入れたものであった。その漫画はロサンゼルス・タイムズに掲載されたシュルツの「ピーナッツ」で、内容は次の通り……」という風に紹介されている(もっとも、トリュフォーは、この漫画に登場するライナス・ヴァン・ペルトをなぜかチャーリ・ブランと勘違いしているのだが、ひょっとすると、わたしの手元にある日本語訳が間違っているのかもしれない)。

トリュフォーのおかげというわけではないだろうが、このエピソードは『市民ケーン』ファンの間ではかなり有名である。しかし、実は、「ピーナツ」で『市民ケーン』がネタにされるエピソードはこれだけではない。全部で20近いエピソードでウェルズのこの作品は取り上げられているのである。その中から特に興味深いものをこれから数回に分けて順次紹介していく。 漫画のなかでの映画の扱い方は様々だが、「ローズバット」と橇をギャグにしたものがほとんどであると言っていい(だから、ある意味、ほとんどどれもネタバレである)。

1968年12月18日「ロサンゼルス・タイムズ」



「ピーナッツ」に初めて登場する『市民ケーン』ネタ。

「ピーナッツ」が「ロサンゼルス・タイムズ」に掲載され始めるのは、1950年であることを考えると、『市民ケーン』を扱ったエピソードが68年になって初めて登場するというのは興味深い。『市民ケーン』は50年代以降、アメリカ国内の劇場ではほとんど上映されなくなっていたという。それが徐々に批評的な評価を再び高めてゆき、不動の地位を確立するにいたるのがこの時期だった(その辺の事情については、神戸資料館の講座でふれることになると思う)。 52年に「サイト・アンド・サウンド」誌が初めて行ったオール・タイム・ベスト映画を選ぶアンケートで、『市民ケーン』は12位だった(ちなみに、この時のベストワンは『自転車泥棒』)。このアンケートは10年毎に行われ、1962年の第2回めのアンケートで、『市民ケーン』は初めて1位に選ばれる。1972年と1982年の投票でも『市民ケーン』は1位だった。

60年代末には『市民ケーン』はその批評的地位を確立していたと言っていいだろう。しかし、この「ピーナッツ」のエピソードを見ると、この時期には、この映画は、批評家だけでなく、一般の観客からも支持されるようになっていたことが推察される。

(つづく)

2017年2月18日
アンドレイ・ウジカ『ニコラエ・チャウシェスクの自伝』――プロパガンダ映像によるアンチ・プロパガンダ

アンドレイ・ウジカ『ニコラエ・チャウシェスクの自伝』 (Autobiografia lui Nicolae Ceausescu, 2010) ★★★

「民衆とは、まず画面の切り取り方なのだ。カメラが切り取る長方形の画面がある、そしてこの画面のなかに、沢山の人々がいる。それで十分だ。[…]そしてこの表象が完璧であるためには、部外者、学術用語でいうところの、民衆の内部における矛盾も必要なのだ」(ジャック・ランシエール)

 

奇妙なタイトルだ。なんとなれば、この映画の作者はチャウシェスクではないし、そもそもこの映画が作られたのは、かれが処刑されてしまった後だからである。しかし、この映画の〈作者〉がチャウシェスクではないというのは本当だろうか。ひょっとしたら、この映画を「ニコラエ・チャウシェスクの自伝」と呼ぶことは間違いではないのかもしれない。映画を見ているうちに、ふとそんなことを考え始めてしまう。全くユニークな映画だ。

おそらくヴィデオで撮影されたと思われる荒い画質のカラー映像で映画は始まる。狭い一室の壁際にチャウシェスク夫妻が座らされている。1989年のクリスマスの日、チャウシェスクがルーマニア社会主義共和国の最高権力者の座から失脚し、妻エレナともども公開処刑された日の映像だ。ふたりは憔悴し、落ち着きがなく、不安を隠しているようにも見える。しかし、カメラの後ろの尋問者が問いを投げかけると、チャウシェスクは毅然として、「大国民議会の前でしか質問には答えない」と繰り返すばかりだ。

アンドレイ・ウジカがハルーン・ファロッキと共同で監督した前作『Videograms of a Revolution』(92) が終わったところから、この映画は始まるのだといってもいい(『Videograms of a Revolution』とこの『ニコラエ・チャウシェスクの自伝』、そしてその次に撮られた『Out of Present』(95) は、ルーマニア社会主義共和国の最後を描いたドキュメンタリー三部作をなす)。しかし、この短いプロローグが終わると、画面は突然、画質の荒いカラーのヴィデオ映像から、モノクロのフィルム映像へと切り替わる。群衆が列をなしてどこかへと向かっている。どうやら国を挙げての葬儀が行われているところらしい。現代史に詳しくなければ、これが1965年に行われたゲオルゲ・デジ(チャウシェスクの前任者であったルーマニア労働者党の書記長)の国葬の映像であることはわからないだろう。

これ以後も、この映画には説明的な字幕やナレーションは一切使われていない。場面は、ド・ゴールのルーマニア訪問(68年)、ソ連のチェコ侵攻を公然と非難するチャウシェスク(これで西側諸国における彼の人気が高まった)、ニクソンのルーマニア来訪(69年)、中華人民共和国を訪問し、熱烈な歓迎を受けるチャウシェスク、イメルダ・マルコスの歌を聞くチャウシェスク夫妻(75年)、アメリカでのカーター大統領との会談(78年)、渡英してエリザベス女王に謁見した際の映像、というぐあいに、なんの説明もなく移り変わってゆく。観客はそのつど、画面のなかの情報と歴史の知識を総動員して、そこに映し出されている出来事が何なのかを理解することを余儀なくされる。その意味では、これはとても不親切な映画であるといってもいい。もっとも、この映画が何かを教えてくれるとするならば、それはグーグルで調べればすぐにわかるような歴史的な知識ではなく、もっと別の何かである。

冒頭のヴィデオ映像をのぞくと、この映画に使われている映像はすべてルーマニア政府の施設に保存されていたものだという。なかには、家族で見るために撮影されたプライベートな映像も混じっているが、いずれにしても、それらはすべてチャウシェスクが望んで撮影された映像ばかりであることにかわりはない。その意味では、これらの映像の作者はチャウシェスクであり、この映画はチャウシェスクの自伝なのだ((チャウシェスクは権力の座についていた25年間のあいだに、平均1日1時間映像に撮影されていて、その映像は延べ1万時間にも達していた。そのうち映像が失われずに残っていたのは千時間程度だと言うが、それでも、それらが破棄されずに残っていたというのは、状況を考えるとすごい。J・ホバーマンはこの映画を、ヴェルトフの作品をもじって「カメラを持った独裁者」と名づけている。))。

だが、その一方で、これらはルーマニアのオフィシャルな映像でもあり、またプロパガンダ映像でもある。ここにはルーマニアの経済政策の失敗も、人民を弾圧する秘密警察も、数え切れないほどの孤児を生み出した避妊禁止令も描かれていない。ここに見えるのは、チャウシェスクが世界に見せたいと思ったものだけだ。ルーマニアの実情を少しでも知っているものならば、ここに映っている栄光と繁栄の陰で実際にはどのような事態が進行していたのかを考えるとき、暗澹たる気持ちになるに違いない。しかし、それ以上に恐ろしいのは、チャウシェスクには世界は本当にこのように見えていたのかもしれないということだ。

ウジカは、一見、このオフィシャルな映像に何の注釈も与えていないように見える。これは、独裁政権を描いた映画としては、例えば、パトリシオ・グスマンの『チリの闘い』や、この映画と同時期に撮られた『光のノスタルジア』などと比べると、まったく異なるアプローチである。しかし、この一見無批判的な態度は見かけだけのことに過ぎない。膨大な映像の中からなにを取捨選択するかという段階からすでに批判の眼差しははじまっている。そしてそれらの映像断片をいかにしてモンタージュ(編集という意味ではなく、異なる2つを並べるという意味のモンタージュ)するかにおいて、ウジカの批判的眼差しは、さりげなく、だがはっきりと示される。だが、何よりも注目すべきは、この作品でウジカが映像にサウンドを加えるやり方だ。

普通の観客はほとんど気づかないかもしれないが、実は、この映画に使われている映像の9割近くは、もともとは音のないサイレント映像だったのである。ウジカはそのほぼすべてに後から音をミキシングして、トーキー映画に再構築したのだ。冒頭のゲオルゲ・デジの国葬のシーンで聞こえる参列者の足音からしておそらく後から付け加えたものだろう。ダンスのシーンで聞こえる曲 "“I Fought the Law and the Law Won”も、ウジカが皮肉たっぷりに付け足したものだ。このようにして、この映画のなかで聞こえる音は、チャウシェスクの演説スピーチなどの例外を除くと、ほぼすべて後から加えられた偽物の音なのである。

こうなってくると、この映画をドキュメンタリーと呼ぶことがはたして正しいのかどうかも、怪しくなってしまう。すべては演出されているのだ。しかし、考えてみれば、もともとのアーカイヴ・フッテージ自体が、チャウシェスクによって壮大に演出されたものだったのである。そして、そのハリウッド・ミュージカルめいた派手な個人崇拝の演出は、他の似たような独裁国家を模倣したものであり、また、そうした国へと伝染して行くものでもあったようだ。中国や北朝鮮を訪問した際のあっけにとられるほどの盛大な歓迎振りは、むろん、チャウシェスク本人が演出したものではないとはいえ、こういした個人崇拝の演出がある種の国家におけるプロトコルになっていたことを物語っている。

このようにもともと演出されていた映像を現実へと近づかせるために、ウジカはそこにほんの少し手を加えただけに過ぎない。ウジカの演出は、うっかりすると見逃してしまう、いや、聞き逃してしまうかもしれないほど、さりげないものである。だが、注意深く見、耳を澄ましているならば、そこに不穏な何かが見え隠れしていることに気づくはずだ。

最初、映画はクロノロジーに従って進んでいくのだが、映画がなかば近くに達し、78年にチャウシェスクがイギリスを訪問してエリザベス女王に謁見するあたりまで描くと、ウジカはとつぜん映画の時間を巻き戻す。それはあたかも、歴史の映像をたどり直し、そこに見えないひずみを探そうとするしぐさのようにも思える。最初に映し出されるのは、75年の大洪水の映像だ。すでに不穏な空気はあたりに漂い始めている。ついで、77年の国会でチャウシェスクが演説している映像が映るのだが、演説の途中で不意に画面が真っ黒になったかと思うと、地響きのような音が響き渡り、形容しがたい叫びのようなものが聞こえてくる。この後に続く場面で明らかになるのだが、実は、これは、この国会のさなかに実際にルーマニアを見舞った大地震の音なのだ。数十秒間続いたその地震の音は、マイクロフォンによって約半分ほど録音されて残っていた。ウジカはそのサウンドを使って、この場面を再構築したのである。だが、そんなことを知らないわれわれがこの場面を見るとき、そこに聞こえてくるのは、チャウシェスクが演出した栄光と繁栄のルーマニアの背後で、ルーマニアの現実がきしみ、叫び声を上げる音であるとしか思えない。

この映画を表面的に見る限りでは、チャウシェスクは最悪の独裁者には見えない。歴史に残る悪女といわれるチャウシェスク夫人も、上品なご夫人のように思える(こころなしか、すこしダニエル・ユイレに似ている)。この映画のなかには一人として彼らに異を唱えるものは映っていない。唯一、党の集会でチャウシェスク再選に異を唱えた党員の声(この映画でただひとつ画面に見える形で現れる不協和音)も、会場を埋め尽くしたチャウシェスクの支持者たちの拍手と歓声によってかき消されてしまう。

ひょっとすると、チャウシェスクはマルクス=レーニン主義によってルーマニアが理想の国家として繁栄することを本気で信じていたのかもしれない。しかし、悲劇的なことに、かれには自分の信じるイデオロギーと現実との落差がまるで見えていなかったのである。『Videograms of a Revolution』とこの映画を続けてみれば、そのことがよりはっきりとわかるだろう。

映画は、最後に、冒頭のヴィデオ映像にふたたび戻ってくる。あたかも、このプロローグとエピローグに囲まれた部分は、チャウシェスクの最後の回想であったのようだ(ベルトルッチの『ラスト・エンペラー』を少し思い出させもする構成である)。ざらざらとした画質の荒さが、われわれをふいに生(なま)の現実へと引き戻す。デモ隊に発砲命令を出したのはお前なのかと問い詰める尋問者に、何のことかわからないと答えるチャウシェスク。ここにいたっても、彼には何も見えていない。この後になにが起きたかはだれもが知っているだろう。映画もあえてそれは描かない。

プロパガンダ映像を用いてプロパガンダ映像を批判する、歴史を描きつつ歴史の虚妄を暴く。この映画でウジカがやろうとしているのは、そんな綱渡りのような試みである。現代史に無知なものにとっては、ちょっととっつきにくい映画かもしれない。しかし、独裁国家が遠い昔の話でないことは、われわれもつい最近思い知らされたばかりだ(むろん、北朝鮮のことを言っているのだが)。そういう意味でも、これは今だれもが見るべき映画のひとつだと思う。

 

* * *

 

ウジカは、コルネリウ・ポルンボイウとクリスティ・プイウらに代表されるルーマニアの若い世代の映画監督たちを高く評価し、エールを送っている。フィクションとドキュメンタリーという逆の方向からだが、目指しているものは同じだと。ポルンボイウとプイウについては、5年ほど前にここで簡単に紹介した。ウジカの作品と合わせて、こちらも見ていただきたい。

2017年2月7日
ダグラス・トランブル『ブレインストーム』

ダグラス・トランブル『ブレインストーム』(83) ★★

「いつの日か、映画を作る必要さえなくなるだろう。観客は頭部に電極を埋め込まれ、こっちでどれかのボタンを押すだけで、「おお」とか「ああ」とか言って、驚いたり笑ったりしてくれるようになるんだ。すごいと思わないかい?」(アルフレッド・ヒッチコック)

 

他人の頭の中を覗き見て、何を考え、感じているのか知りたい。そんなことを誰しも一度は考えたことがあるだろう。頭部にヘッドギアを装着した被験者が体験した視聴覚、嗅覚、味覚、触覚、すべての情報が、コンピュータを通じて接続されている人間と共有され、更にはテープに記録されて再生可能になる。『ブレインストーム』は、そんな夢のようなことが科学的に可能になった世界を描いた映画だ。ブレイン・スキャンと名付けられたその研究をクリストファー・ウォーケンらの科学者チームが完成させるところから映画は始まる。しかし、研究はやがて本来とは別の目的に向けられてゆく。セックスをVRで記録したテープをドラッグのように繰り返し再生して廃人寸前になるものが現れたかと思うと、最後はお約束どおりの軍事利用だ。ヴァーチャル・リアリティは洗脳と拷問にかつてないほどの効果を発揮するに違いない(映画の中では、このヴァーチャル・リアリティの軍事利用が「ブレインストーム」計画と名付けられている)。その計画に反対したために研究チームから追い出されたウォーケンは、同僚であり、妻でもあるナタリー・ウッドらと共に会社のコンピュータをハッキングし、計画を頓挫させようと目論むが……。

『ブレインストーム』は、ヴァーチャル・リアリティを最初に映像化した作品の一つである。この一年前に撮られた『トロン』(スティーヴン・リズバーガー監督)ですでにVRは扱われていたが、この作品ほどのリアリティもインパクトもオリジナリティもなかった。『2001年宇宙の旅』、『未知との遭遇』、『ブレードランナー』などの宇宙船や宇宙空間の精緻でリアルな設計によってSF映画を確実に進化させた特撮監督ダグラス・トランブルが自ら監督したこのSF映画は、いつものように精緻なディティールと何よりもそのユニークさによって、彼のもう一本の監督作『サイレント・ランニング』(72) 同様に、SF映画史上に名を残している((トランブルのフィルモグラフィーを見ると、この2作以外にもう一本、『Luxor Live』という映画を監督しているようなのだが、IMDb にはなんの情報もなく、だれも見てすらいないようだ。はたしてこの映画は完成していたのか。))。

たしかに、ヴァーチャル・リアルな世界が半ば現実化しつつある今この映画を見ると、多少時代遅れに思えてしまう部分はあるだろう。視覚のみならず、嗅覚や触覚など、五感すべてが第三者に伝わり、まるで本人になったかのように体験を共有できるというのだが、映画の中に登場するヴァーチャル・リアリティの映像は、映画を見ている観客にとっては、要するに、ジェットコースターに乗ったり、食事をしたり、セックスをしたりしている人間を一人称カメラで撮影した単なる2D映像に過ぎないように見える(この映画は今なら確実に3D映画として映画化されたであろう)。

この映画は、視覚と聴覚の体験にすぎない映画でそれを超える体験を表現しようとしているわけだから、これは致し方ないことなのかもしれない。トランブルは、このいわば映画の限界とも言えるものを、あるギミックを使うことでなんとか拡張しようと試みている。そのギミックとは、映画の画面サイズを変化させるという、当時では画期的だった手法だ。無論、これもこの映画が最初ではない。アベル・ガンスの『ナポレオン』がすでにサイレント時代に、三つのスクリーンを自在に使い分けて画面の大きさを変化させる手法(トリプル・エクラン)を試みていた。とはいえ、『ナポレオン』以後、このようなことを試みた映画は殆どなかったのではないだろうか。少なくともこのようなメジャー作品が(『ブレインストーム』はMGM製作の大作である)こういうことを試みたことはなかったはずである。

トランブルはこの映画で、客観的シーンをヴィスタ・サイズで、ヴァーチャルな映像を見ている人物の主観的イメージをシネスコ・サイズで撮影している。この画面サイズの使い分けが理にかなったものであるかどうかはいささか疑問だ。それに、これもまた単に視覚上の変化に過ぎない。とはいえ、この画面サイズの変化によってヴァーチャル・リアルな映像に、現実(リアル)の映像を超える迫力と「リアリティ」がもたらされていると言うことはできるだろう。わたしはテレビで見ただけだが、これを映画館で見たならばその効果は絶大だったに違いないと想像できる。 視覚を超える体験という意味で興味深いのは、ウォーケンの同僚であるルイーズ・フレッチャーが発作で亡くなるシーンだ。彼女は自分が死ぬ瞬間をヴァーチャル映像として録画する。その映像には、死の直前に彼女が感じた激しい苦痛の感覚がそのまま記録されている。この映像を直接目にしてしまったら、彼女が味わったのと同じ発作の苦しみを感じて、ヘタをすると死んでしまうかもしれない(実際、職員の一人はそれで死にかける。やがて軍部はこの映像を拷問に利用しようとするだろう)。さて、その映像というのがちょっと変なのである。例によって、映像ははじめは一人称で撮られているのだが、なぜか彼女が死ぬ瞬間に、天井から彼女を見下ろすアングルに視点が切り替わるのだ。この瞬間も画面はシネスコのままだから、これは彼女が見ているイメージのはずである。このヴァーチャル映像は被験者の脳波を記録したものであるのだから、普通に考えればこれはあり得ない。一人称カメラが人称を失ってしまったとでもいうようななんとも不可思議な場面である。

ウォーケンは、この臨死体験を記録したテープの一部を、見るというよりも体験し、その映像に取り憑かれてしまう。そのテープに対する彼の執着ぶりは常軌を逸している。映画のクライマックスは、ウォーケンらが会社のコンピュータをハッキングしてブレインストーム計画を阻止しようとする姿を描いているのだが、ウォーケンは、ただたんにその臨死体験のテープがどうしても見たいがために、皆を巻き込んで大騒ぎを起こしているとしか見えない。ウォーケンは公衆電話からコンピュータを通じてテープを再生させ、ついにその映像を見ることに成功する。体験のあまりの強烈さからいっとき死の淵をさまよったウォーケンが、駆けつけた妻ナタリー・ウッドが呼びかける声によってこの世に引き戻されるところで、映画はあっけなく終わっている。

後半、ウォーケンのオブセッションが物語を動かしていくところが面白いといえば面白いのだが、はたしてそれが本当にドラマを盛り上げることにつながっているのかというと、ちょっと疑わしい。幕切れも中途半端だ。と思っていたのだが、見終わったあとで、実はこの映画の撮影中にナタリー・ウッドが交通事故でなくなってしまったために、シナリオの変更を余儀なくされたということを知った。具体的にどのような変更がなされたのかはわからないのだが、これでラストの中途半端な終わり方は説明がつく。

大傑作だとは言わない。しかし、実に興味深い作品である。SF映画ファンならば絶対に見逃せない作品だろう。

2017年2月4日
アレクサンドル・メドヴェトキン『新モスクワ』――ユートピアをディストピアに変容させる曖昧な風刺

アレクサンドル・メドヴェトキン『新モスクワ』(Novaya Moskva, 1938) ★★★

『幸福』で知られるロシアの映画監督アレクサンドル・メドヴェトキンのトーキー時代の代表作の一つ。モスクワの都市再建計画が進行中に撮られたこのシュールなコメディは、スターリンを讃える歌が歌われ、空にレーニンとスターリンの顔が星で描かれたりするプロパガンダ映画の体裁を取っているにも関わらず、この共産党指導者の逆鱗に触れ、公開前にお蔵入りにされてしまった(スターリンは公開される映画を事前に全部自分でチェックしていたことで知られる)。

物語は、モスクワから何千マイルも離れた村に住む若きエンジニア、アリョーシャが、党の集会で自分が発明した「モスクワのライブ・モデル」を発表するために祖母とともにモスクワに向かって旅立つ場面から始まる。モスクワ再開発の構想を動きとともに表現するミニチュア模型のシュールな映像にまず度肝を抜かれる。

アリョーシャは同じ列車に乗り合わせたゾーヤに恋をするが、一時停車した駅で、偶然出会った娘が持っていた子豚が逃げ出し、探すのを手伝ううちに列車に乗り遅れてしまう。バルネットの『トルブーナ広場の家』でも、田舎からモスクワにやってきたヒロインの持っていたガチョウか何かが逃げ出す場面がたしかあったはずである。当時のロシアでは、こういうことは日常茶飯事だったのか。 それはともかく、アリョーシャはなんとかモスクワにたどり着き、祖母とゾーヤにも再会する。しかし、そこにゾーヤに思いを寄せる若き青年画家が登場し、さらには画家と子豚娘との間にもロマンスのようなものが生まれ始める……。

登場人物たちがなにかと勝手に歌いはじめるミュージカル調の陽気なロマンティック・コメディ。ひとまずはそう要約できる作品である。それはそれでなかなか楽しめる部分ではあるのだが、この映画の魅力は実はそこにはない。この映画が観客をひきつけてやまないのは、そこにモスクワという都市が、リュミエール的な現実とメリエス的な空想が二重写しになる形で映し出されているからである。


(未来都市モスクワの最後に現れるレーニン像)

すったもんだのあげくアリョーシャはようやく「モスクワのライブ・モデル」を発表することになる。当時は、スターリンの掛け声のもと1935年に開始されたモスクワの再開発計画が、現実に進行中だった。その模様を捉えたドキュメンタリー映像(と、おそらくはセットの中でそれを再現した映像)と、未来のモスクワを描いた空想の絵を使って、来るべきモスクワのユートピア的都市像をプレゼンするはずだったその発表会は、手違いからフィルムが逆回転で上映されてしまい、20世紀のモスクワは一瞬で帝政時代の姿に逆戻りしてゆく。取り壊された古い建物が煙の中から再び立ち上がり、近代的なビルディングはソフトクリーム型のドームを戴いた大聖堂へと一変する。スターリン時代に作られたロシア映画の最もマジカルな瞬間の一つと言ってもいいくらい強烈な印象を残す場面だ。

むろん、フィルムはすぐに正しい方向に上映され始めるのだが、一度革命以前へと逆戻りしたあとで現れた未来のユートピア都市はどこか嘘くさいものにしか見えない。しかも、ユートピアとして描かれるモスクワの未来図には人が一人も描かれておらず、それは時としてディストピアの様相を呈しさえする。スターリンを激怒させたのはおそらくこの場面だろう。

この映画にコミカルな味わいを添えている若き青年画家は、モスクワの町並みを好んで絵のモチーフにしているのだが、悩ましいことに、モスクワの風景は都市開発によって絶えず変貌しつつある。今描いているビルが目の前で破壊されたり、あろうことか、建物ごと引っ張られて視界から消え失せてしまうといった有様で、彼は一度として描きかけた絵を完成させることができない。消え行く古き町並みへのノスタルジーとでもいったものがここにはどうしても感じられてしまうのだが、これもおそらくスターリン政権においては「間違った」イデオロギーだったのだろう((『新モスクワ』がお蔵入りになった明確な理由は推測するしかない。この年、メイエルホリドが「ブルジョア的形式主義」を理由に逮捕され、40年に処刑されたことを考えれば、この危険な時代に逮捕されずにすんだだけでもラッキーだったといえるかもしれない。))。

 

他にも注目すべきところは多々あるが、一つ挙げるならば、この映画には、当時完成したばかりのモスクワの地下鉄が、おそらく初めてフィルムに収められていることだ。子豚を持った娘がこの地下鉄に乗るのだが、動物の乗り入れは禁じられているため、彼女は豚に布を巻いて赤ん坊を装う。隣りに座っていたおせっかいな老人(実は医者)が、赤ん坊の変な鳴き声に気が付き、布の中身を垣間見る。顔の色がおかしいという医者に、「麻疹なんです」と女は答え、そそくさと次の駅で下車する。

 

メドヴェトキンにとっては、こういうステレオタイプなコメディはおそらく本当に撮りたい映画ではなかったのだろう。この映画は、スターリン体制を支持するプロパガンダ映画の体裁を取っている作品でもある。しかし、『幸福』で見せた鋭い風刺は、多少ソフトになってはいるものの、この映画でもあちこちに散りばめられており、それがときとして非現実的なイメージとともに現れるところが実に面白い。カーニヴァルの場面で使われている〈仮面〉と〈人違い〉のテーマは、どちらかと言うとコメディのお約束であり、『幸福』に出てくる仮面のグロテスクな衝撃とは比ぶべくもないのだが、実は、シナリオ段階では、メドヴェトキンはもっとシュールでグロテスクな場面を用意していたようだ。それによると、モスクワ中の人たちがカーニヴァルの仮面をつけて街を歩く場面が撮られる予定だったらしい。残念ながら、完成作品にはそのシーンは出てこないが、それでもこの映画には、都市のカオスがときおり顔をのぞかせており、我々をはっとさせる。

クリス・マルケルの『アレクサンドルの墓/最後のボルシェヴィキ』には、『新モスクワ』のさわりの部分が引用されていて、これを見ればこの映画をある程度見た気になれる。しかし、残念ながら、スラップスティックな豚との追っかけっ子も、地下鉄のシーンも、共産党の指導者を讃えるカーニヴァルも、スターリン讃歌もでてこない(はずである)。

2017年1月14日
ラリー・コーエン『ディーモン/悪魔の受精卵』

ラリー・コーエン『ディーモン/悪魔の受精卵』(God Told Me To, 76 未)★★½

有名でないわけでは決してない。才能にも恵まれている。しかしなぜかどうにも影が薄い。そういう映画作家がいる。ラリー・コーエンもそんな監督の一人だ。

『God Told Me To』は、『悪魔の赤ちゃん』などと比べると日本での知名度は極端に低いが、コーエン初期の代表作であり、これを彼の最高傑作と考える人も少なくない。しかし、この映画もやはり、低予算で撮られた地味な作品であり、いかにも一般受けしそうにない映画だ。実際、アメリカでも公開当時の興行成績はふるわなかったという。

映画は、ニューヨークの街なかで、スナイパーによる乱射事件が起きるシーンでいきなり始まる。ビルの屋上の貯水槽の上から眼下の通行人をライフルで無差別に射殺していた犯人は、説得に当たった主人公の刑事ニコラス(トニー・ロ・ビアンコ)に犯行理由を尋ねられて、ただ一言、「神のお告げだ (God told me to)」と言い残して、飛び降り自殺する。このような殺人事件が、あちこちで起きていた。一見、それらの間にはなんの関連性もなかったが、唯一の共通点は、いずれの事件も、犯人が冒頭のスナイパーと同じ「God told me to」という言葉を口にしていたことだった……。

このように、最初は刑事映画のように始まった映画は、ニコラスの捜査が進むにつれ、SF映画めいたとんでもないものへとなってゆく(詳しくは書かないが、エイリアンが出てきたりするのだ。なんだそれ?)。まさに荒唐無稽な物語である。だから、もっとあざとく、パンチの効いた演出をすれば、わかりやすいカルト映画になっていたかもしれない。しかしコーエンは、そんな派手な演出には興味がなく、終始一貫して抑えたトーンで撮っている。結果、刑事映画でもあり、ホラー映画でもあり、SF映画でもあろうとして、結局、そのどれにもなりきれなかったような、舌足らずな印象を残す映画になってしまった。しかし、この未完成さは、この作品の欠点であると同時に魅力でもあると言っていいかもしれない。来たるべき壮大な完成作を想像しながら、そのために描かれたスケッチを見るようにして、この映画は見ればいいのではないだろうか。

実際、ラリー・コーエンの映画は、その欠点が魅力であるような、そんな映画なのである。例えば、ロビン・ウッドが指摘している、刑事ニコラスが病院を尋ねる場面。ナースから、廊下の左側の病室だと教えられたニコラスは、なぜか右側の病室に迷わず入ってゆく。一見、なんでもないシーンだが、観客は映画を最後まで見終わったときに初めてこの場面の意味に気づくことになる(もしも、その時この場面を覚えていたならばの話だが)。普通の監督ならば、これみよがしに音楽を流したり、わざとらしくカメラをズームしたりして、そこに何か意味がありそうなことを匂わせたりするはずである。しかしコーエンはそういう演出は決してしない。ただ淡々と、何の変哲もないシーンのように撮るだけだ。この渋い演出は映画好きには好まれこそすれ、一般の観客には面白みに欠けると思えるだろう。とりわけ、数分おきに派手な見せ場がなければすぐに飽きてしまう今の観客には、こういう映画の面白さはなかなかわからないに違いない。

描かれる物語の新奇さとは裏腹に、コーエンの映画は、同時代の映画よりもむしろハリウッドの古典映画に近い無駄なのなさとシンプルさに貫かれている。デ・パルマやウェス・クレイヴンなどの監督たちと比べて、ラリー・コーエンの影が薄い理由はおそらくこういうところにあるのだろうが、それはまた彼の映画の魅力でもあるのだ。 過去のハリウッド映画に対するリスペクトは、コーエン作品の配役にも現れている。『God Told Me To』では、シルヴィア・シドニーやサム・レヴィンといった俳優が重要な役どころで起用されていて、作品に重みを添えている。また、『悪魔の赤ちゃん』の音楽を書いたバーナード・ハーマンに作品が捧げられていることも見逃せない。こうした目配せも、デ・パルマのヒッチコックへのオマージュと比べると地味なものに見えてしまうが、こういう部分もコーエンらしいといえるのかもしれない。

『God Told Me To』は、決して完成度の高い作品ではないかもしれないが、ラリー・コーエンが撮った最も実験的な作品の一つであり、のちの映画作家たちに与えた影響も大きい。ホラー映画・SF映画のファンであるならば必見の作品である。

 

ラリー・コーエンは『悪魔の赤ちゃん』のせいで何かホラー映画の監督というイメージが付いてしまっているが、実は、デビュー作はコメディだったし、30年代ギャング映画を黒人キャストで取り直したようなブラックプロイテーション映画『ブラック・シーザー』なんてものや、エドガー・フーヴァーの伝記映画まで撮っている。しかも、そのほとんどすべてを自分で脚本を書いているだけでなく、原案も自分で考えている。そういう意味で、かれは完全な〈映画作家〉である。脚本家としての実績も含めて、ラリー・コーエンという作家の全貌はまだまだちゃんと語られていないといえる。機会があればまた取り上げたい。

ところで、この映画は「God Told Me To」というタイトルで作られたのだが、〈神〉が犯罪を行わせるという意味の原題は、保守的な観客などから批判され、結局、「Demon」(悪魔)というタイトルに変更されてしまった(実を言うと、この映画では宗教問題とからめて同性愛が問題となっていて、それが余計に物議を醸すことになったのである)。しかし、この映画に描かれているのは、クローネンバーグの、『スキャナーズ』を彷彿とさせる、曖昧模糊とした〈善〉と〈悪〉の対立であって、どちらが〈善〉であるかも途中でわからなくなり、最後も、結局、誰が勝ったのか判然としない終わり方をしている。これを〈悪魔〉の話にしてしまうと、切っ先が鈍るどころか、作品の意味がほとんどなくなってしまいかねないだろう。それにしても、カトリック国でもない日本でも、なぜ「ディーモン/悪魔の受精卵」などというタイトルをつけて、〈悪魔〉の話にしようとしているのか、意味がわからない。

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下の日本版 DVD は見ていないのだが、「4:3」と書いてあるし、写真を見る限り、どうやらオリジナルのヴィスタ・サイズをスタンダードにトリミングしたもののようだ。ワイド版になっているとコメントしているレビュアーもいるようだが、「ワイド」の意味がわかっていないか、他のエディションと間違っているのだろう。わたしなら海外版の Blu-ray を買うが、もちろん日本語字幕はついていない。

2017年1月5日
G・W・パプスト『財宝』――パブストが撮ったただ一つの表現主義映画

明けましておめでとうございます(今年になって、この言葉を初めて口にした、というか書いた)。今年も、昨年同様、のんびりとやってゆきます。

 

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G・W・パプスト『財宝』(Der Schatz, 23) ★★

パプストのデビュー作であり、彼の最初にして最後の真に表現主義的作品。

リアリズム、というよりも自然主義的な作風で知られる((ディテールに異常にこだわる彼の〈リアリズム〉はときとして悪夢のような世界に通じ、同時代の新即物主義の流れに近いものとして捉えられれることも多い。))パプストだが、この監督デビュー作においては、冒頭の家の外観を捉えたショットからラストに至るまで、文字通り表現主義的なスタイルが貫かれている。表現主義の影響ならばその後のパプストの作品のあちこちに見て取ることができるが、これほどあからさまに表現主義に近づいた映画は、パプストのフィルモグラフィーにおいてこの作品だけだろう。「光と影の美がしみついた表現主義の映画監督であるならば、だれがこの映画の監督であってもよかったであろう」(ロッテ・アイスナー)というは多少言いすぎであるにしても、この作品にはパプストらしさがいささか欠けていることは確かである。

マリボル(現在のスロヴェニア)で、鐘作りをしている職人の家が物語の舞台である(鐘作りというと、タルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』の荘厳な鐘づくりのシーンを思い出すが、あんなに大規模なものではない。家族だけでやっているようなもっとこじんまりしたものである)。かつてこのあたりの土地はトルコの侵攻を受け、そのときどこかに莫大な財宝が隠されたと言う。だれもまともに取り合わないそんな噂を、鐘作りの親方の助手(ヴェルナー・クラウス)ただひとりが信じこんでいる。

舞台となる家は、外側にも内側にもひとつとして直線がない。家の内部の壁や天井は手で粘土をこねて作ったようなぐあいで、まるでポール・トーマス・アンダーソンの映画に出てくる狐が住んでいた穴倉のようだ。バルネットの『トルブーナ広場の家』に出てくるものにも似たむき出しの階段が家の上下をつなぎ、家の中心には大黒柱ならぬ、大黒樹とでも呼ぶべき一本の太い木の幹が据わっていて、その枝が家全体を支えているように見える。 真夜中に、洞窟のような薄暗い廊下を、ろうそくの明かりだけを頼りに、『エル・スール』のオメロ・アントヌッティが持っていたような2本の探知棒(?)を手にして、うろつきまわるヴェルナー・クラウスの姿が不気味だ。

財宝の噂を信じこんでいるクラウスを、親方とその女房は最初は笑いものにしていたのだが、クラウスが大黒樹の幹のなかに宝を見つけたと知るや否や(実際は、親方の娘の恋人が最初に見つけたのを横取りしただけなのだが)、ふたりの態度は一変する。親方の娘に片思いをしていた醜いクラウスが、財宝を譲る代わりに娘をくれと頼むと、親方と女房はあっさりと、娘をクラウスにやる約束をし、お宝を酒の肴にして酔いつぶれる。こういう醜い人間の姿は、パプストの以後の作品でも繰り返し描かれるものだ(人間の貪欲さについていうならば、前に紹介した『懐かしの巴里』における守銭奴のシーンが思い出される)。

親たちが財宝に酔いしれているあいだに、金には興味がない娘はクラウスの求婚をきっぱりとはねつけ、恋人の彫り物細工師と一緒に家を出て行く。恋に破れ、自分にはもはや財宝しかないとばかりに、クラウスは、まだ宝が隠されていないかと、大黒樹の幹を狂ったようにまた掘り返す。すると、樹の幹が崩れ落ち、それと同時に樹に支えられていた家全体が緩やかに崩壊し、親方夫婦とクラウスはその下敷きになって息絶える。

たしかに、パブスト本来の資質が今ひとつ発揮されていない作品かもしれないが、デビュー作からこれだけの堂々とした演出を見せているところはさすがだと思う。クラウスの財宝への執着が、親方の娘への性的欲求と並列に扱われているところも興味深い。のちに『心の不思議』などといういささか幼稚な精神分析映画を撮ることになるパブストだけに、この財宝とはいったい何を象徴しているのだろうかと考えてみたくもなるが、まあ、そんなつまらない話はやめておこう。

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