これを見ずしてはなにも語れない、映画史上最も重要な映画作品30本を紹介する。
ここに上げた作品がすべてその映画作家の最良の作品であるわけではない。フリッツ・ラングであれば『メトロポリス』よりも晩年のアメリカ時代の作品のほうが映画としての完成度は高いし、ブニュエルについても、『アンダルシアの犬』よりもメキシコ時代のB級映画のほうがはるかにすばらしいだろう。しかし、映画史におけるインパクトという点を考えるなら、ここに上げた作品をはずすことはできない。ともかく、これだけは見ていなければ話にならない究極のクラシック映画ばかりを集めた。
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『列車の到着』(ルイ・リュミエール)
外光のみでとらえられた原初の映画の至福の光景。リュミエール(光)と共に映画は生まれた。この作品で映画というものをはじめて目にしたパリの観客は、スクリーンのなかの列車にひかれるのではないかとおそれて逃げまどったという逸話がある。
『月世界旅行』(ジョルジュ・メリエス)
トリック映画の元祖メリエスによる最初のSF映画。リュミエールの映画がドキュメンタリーやネオ・レアリズモへとつながっていく流れの源流だとすれば、メリエスの映画はのちのSFX映画のはるか起源だということもできる。だが、はたして本当にそうなのか。
メリエスの作品はいまだ日本ではDVD化されていないはずだが、『死ぬまでに観たい映画1001本』というとてもよくできた映画ガイドを買えば、メリエスの短編を10本以上収録したDVDがおまけとしてついてくる。ちなみに、この本で紹介されている映画のなかには、バッド・ベティカーの作品もはいっている。これだけでも信用できるというものだ。
『国民の創生』(デヴィッド・W・グリフィス)
「映画とは、グリフィスによって形づくられ、ゴダールによって破壊された」というひと言に、映画史は要約することができる。いまわれわれが映画という言葉で呼んでいるものの基礎は、すべてグリフィスによって作られたといっても過言ではない。グリフィスの作品には、映画が素肌をさらしてしまったかのような美しさがある。
『イントレランス』『散りゆく花』『東への道』『嵐の孤児』などなど、グリフィス作品はすべて必見。
『北極のナヌーク』(
22 、フラハティー)
この作品と共にドキュメンタリーははじまる。被写体と共に生活しながら作品を撮り上げていくというスタイルは、のちの小川紳介にまで受け継がれゆく。映画どころか写真すら見たことがなかったイヌイットたちは、『北極のナヌーク』のセイウチ狩りのシーンをラッシュで見たとき、ナヌークを助けようと一斉にスクリーンに飛びかかった。かれらは映画のことを「アギィ」(狩り)と呼ぶようになったという。興味深いエピソードだ。
■マック・セネットの「キーストン・コップ」ものなど
グリフィス映画の俳優であり、アシスタントであったマック・セネットが、借金をしていた相手に「グリフィスの映画より儲かる」と巧みに話を持ちかけて、逆に投資させて立ち上げたのが、キーストン撮影所だった。メイベル・ノーマンド、ロスコー・アーバックル、チャーリー・チェイス、アル・セイント・ジョンなどなどが集まり、そこはやがて「笑いの工場」と呼ばれるようになる。警官はつねに笑いの的にされ、金持ちの所有物はことごとく破壊される。無秩序が勝利し、不条理が笑う。子供じみた大人たちが、無意味な追いかけっこに明け暮れる。「スラップスティック・コメディ」の誕生だ。チャップリンやグロリア・スワンソンを発見したのもセネットだった。
■『吸血鬼ノスフェラトゥ』(
22 、F・W・ムルナウ)
ブラム・ストーカー原作の『ドラキュラ』の最初の映画化作品だが、作者の名前は権利上クレジットされていない。『カリガリ博士』の表現主義がせき巻きしていたドイツで、ムルナウは自然を最大限に生かした怪奇映画を撮り上げた。「橋を越えると亡霊たちが迎えにやってきた」。交響楽のように詩的に組み立てられた映像の夢魔的魅力。ペストを運んだ船がゆっくりと港にはいってくる瞬間は、忘れようにも忘れられない。
『グリード』(
23 、エーリッヒ・フォン・シュトロハイム)
24 年、 メトロ=ゴールドウィン=メイヤーが誕生し、その製作責任者となったアーヴィング・タルバーグは、監督のシュトロハイムとのっけから対立しあうことになる。おのれの作品の芸術性を追求する作家と、商品としてそれを見るプロデューサーとの確執。この確執はかたちを変えて、映画史において何度も繰り返されることになるだろう。最初7時間にも及ぶ上映時間に達してしまったこの作品を、シュトロハイムは結局2時間弱に短縮させられてしまう。それはシュトロハイムの敗北だったのか。いや、そうではなく映画の勝利であったのである。
『戦艦ポチョムキン』(
25、セルゲイ・エイゼンシュタイン )
モンタージュという言葉を世に知らしめた理論家エイゼンシュタインの代表作。しかし、見るときはモンタージュという言葉は忘れてしまった方がいい。彼の映画にはときとして理論をはるかに越えた映画のみずみずしい運動が力強くほとばしる。
壮絶な「オデッサの階段」のシーンは、デ・パルマの『アンタッチャブル』など様々な映画で引用されている。
『メトロポリス』(
27 、フリッツ・ラング)
映画史上最初の SF というわけではないが、この作品がこれ以後の SF 映画に与えた影響は計り知れない。『吸血鬼ノスフェラトウ』同様、この映画もそのジャンルの最初の傑作というだけでなく、たちまち一つの神話となったのだった。はじめ建築家を目指していたというラングが設計した未来都市の光景は、『ブレード・ランナー』や『フィフス・エレメント』といった作品にまで遠い残響を響かせている。
『アンダルシアの犬』( 28 、ルイス・ブニュエル)
ナイフで切り裂かれる眼球、ピアノの上の腐ったロバ、手のひらをうじゃうじゃする蟻。映画作家ブニュエルと画家ダリとのパリでの出会いが生んだシュルレアリスムの傑作。
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『暗黒街の顔役』(32、ハワード・ホークス)
1930年、アメリカ映画製作者配給業者連盟によって「映画製作倫理規定」、いわゆるヘイズ・コードが発令される。映画をシナリオの段階から事前にチェックし、行き過ぎた性描写や暴力描写を検閲するためのものだった。ヘイズ・コードは、その後60年代にいたるまでのアメリカ映画に、道徳的・イデオロギー的・政治的、そして何より美学的に多大な影響を与えつづけることになる。しかし、この法令が実際に有効となるのは1934年になってからであり、その間をすり抜けるようにして『犯罪王リコ』(30)、『民衆の敵』(31)などのギャング映画の傑作が撮られ、エドワード・G・ロビンソンやジェームス・キャグニーなどが演じるアンチ・ヒーローが強烈な印象を与えた。これらの作品の頂点を極めたのがホークスのこの作品である。のちに、デ・パルマが『スカーフェイス』として凡庸なリメイクを作っている。
『或る夜の出来事』(34,
フランク・キャプラ)
「コメディが偉大であった時代」がトーキーと共に終わりを告げ、多くの喜劇役者たちが消えていったあと、30年代のハリウッドで、真に独創的なコメディが誕生する。笑いは、もはやコメディアンの身体的ギャグではなく、美男美女のスターたちが置かれた倒錯的なシチュエーションから生まれた。『新婚道中記』『淑女イブ』『スミス夫妻』『赤ちゃん教育』『素晴らしき休日』『天国は待ってくれる』などなど、いずれにおいても、「結婚しそこなうことが婚約者の定義だといった倒錯的なコード」(蓮實重彦)が、これらの作品を支配している。スクリューボール・コメディの最高傑作であるかどうかは大いに疑問があるところだが、『或る夜の出来事』がその最初の作品であるという点では、多くの論者が一致している。当時、メジャー系のなかでもユニヴァーサル、RKOとともに「リトル・スリー」に分類された二流の映画会社コロンビアに初のオスカーをもたらし、会社の基盤を確立させたという意味でも、この作品は映画史的に重要である。
『意志の勝利』(35, レニ・リーフェンシュタール)
ヒトラーは映画をプロパガンダの道具として極めて重視し、その模範としてハリウッドから多くを学ぼうとした。『意志の勝利』はその不吉で見事な達成である。はたして、このナチスの宣伝映画とハリウッドの大衆映画とのあいだに本質的な差異はあるのだろうか。少なくともこの作品以後、映画はかつてのように無垢ではいられなくなった。
監督のリーフェンシュタールは、イデオロギーとは無縁なところで純粋に映画としての美を構築することだけを考えたと主張している。たとえそうだとしても、それが彼女の無罪を証明することになるのか。その後の海洋映画をふくめたリーフェンシュタールと映画との関係については、スーザン・ソンタグの『土星の徴のもとに』のなかでほぼ言い尽くされている。
『駅馬車』(39,
ジョン・フォード)
「ジョン・フォードは、社会的神話やら歴史的想起やら心理的真実やらと西部劇演出の伝統的な諸テーマとの間で、完全な均衡を保つことに成功していた。それらの基本的な諸要素のうちのどれもが他のどれかより重いということはなかった。『駅馬車』は、どんな位置においてもその心棒で均衡を保ってる完全な車輪を思わせる。」(アンドレ・バザン)
映画の起源と同じぐらい古くから緩やかに発展してきた西部劇というジャンルは、『駅馬車』で古典的な均整美を極め、その後、50年代に至ってバザンのいう「超西部劇」へと進化する。500円DVD も出ている。
『ゲームの規則』(39,
ジャン・ルノワール)
戦前、ハリウッド映画をのぞいて唯一輝いていたのがフランス映画だった。日本でもてはやされたデュヴィヴィエやルネ・クレールがすっかり忘れ去られたいま、当時もっとも評価の低かったジャン・ルノワールだけがただひとり世界的な栄光に包まれている。大戦前のブルジョアジーの姿を残酷かつユーモラスに描いた『ゲームの規則』は、公開当時、批評家からも観客からもそっぽを向かれ、45年に再公開されたときも、だれからも認められなかった。文字通り呪われたこの作品は、50年代のシネフィルたちの擁護を通して、いまや「世界最高の監督の最高傑作」として不滅の地位を獲得している。
『市民ケーン』(41,
オーソン・ウェルズ)
若きオーソン・ウェルズの衝撃のデビュー作は、いまや多くの批評家によって映画史上最も重要な作品とみなされている。パン・フォーカス撮影によるワン・ショット=ワン・シークエンスは、古典的な映画の演出を根底から覆すものだった。複数の証言よりなる回想形式、大胆なフレーミング、天井が写るほどの仰角ショット、強烈なコントラストのモノクロ撮影、窓ガラスを通り抜けるキャメラの幻惑的運動。すべてが新しかった。死ぬ直前のケーンが手に握っていた雪の降る水晶玉のイメージは、レオス・カラックスの『ボーイ・ミーツ・ガール』や、ティム・バートンの『チャーリーとチョコレート工場』などといった作品のなかにも、反響をとどめている。
500円DVDでも出ているが、こちらは画質が相当ひどいらしいので要注意。
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古典映画を支えていたさまざまな要素(スタジオ・システム、スター神話などなど)が崩壊する60年代以降、映画は主題・手法的に多様性を深めてゆくので、そのなかからメルクマールとなるような作品を選び出すのは非常に困難になってくる。以下では、とりわけ大きな影響力を持つ映画作家の代表作を挙げるにとどめた。たとえば、ヌーヴェル・ヴァーグは『勝手にしやがれ』で代表させるという具合に、大きな流れのなかからいちばん目立つ作品を挙げていったつもりだが、もちろんその選択は恣意的であることを免れない。また、小津や溝口など、日本映画については別にセレクションを作るつもりなので割愛した。なお「」内の引用はすべてユセフ・イグシャプールの『ル・シネマ』より。
『サイコ』(アルフレッド・ヒッチコック)
「ヒッチコックの映画は、『サイコ』におけるように、願望が、それに対する懲罰を悪夢のような抗し難さをもってひきおこしながら、実現する世界である。」
『無防備都市』(ロベルト・ロッセリーニ、
Roma, citta aperta
「第二次大戦とその悲惨によって破壊されたものは多いが、なかでも、映画の想像世界の無邪気さが破壊されたことは特筆に値する。ロッセリーニはこの想像世界よりも『現実の開示』のほうを好んだのだった。」
『バンド・ワゴン』(ヴィンセント・ミネリ、
ハリウッドが映画における歌と踊りをどこまでも洗練させていったひとつの到達点。
『仮面/ペルソナ』(イングマル・ベルイマン、57)
分身のテーマをあつかったベルイマンのもっとも実験的な作品のひとつ。個人的には、いまはそれほど関心のない監督になってしまったが、ゴダールやウディ・アレンなどに与えた影響は大きい。
『スリ』(ロベール・ブレッソン、59)
Pickpocket
ばらばらに切り離されて断片化した空間。空虚なロボットのような登場人物。そこに精神の次元が立ち現れる。ドライエルとならぶ宗教的映画作家の代表作。
『勝手にしやがれ』
「『勝手にしやがれ』はサミュエル・フラーのある作品に対するロッセリーニの視線、つまり、パリの街中でオープン撮影された、しかもアクションと感動がクラシック映画の歯車装置を破壊しながら進行するという、逆毛をなでるようなハリウッド映画なのである。」
『アメリカの影』(ジョン・カサヴェテス、60)
「テレビが引き起こした技術上の変化は、スタジオ美学との完全な決別をもたらしたのだった。すなわち、ポータブル・カメラでの撮影、夜のシーンを追加照明なしに撮影できる超感度フィルムなど。そして、フレーミングや照明を常時変化できる柔軟さは[・・・]あらかじめ考え抜いたものや完成したものとは反対に、即興的なものを可能にする。こうした技術は、ヨーロッパでは作品に距離性を導入するようになるのに反して、ジョン・カサヴェテスの『アメリカの影』と『フェイシズ』では、対象に最大限接近して撮影されたものに、新しいエネルギーを吹き込んだのだった。」
『欲望』(ミケランジェロ・アントニオー二、
Blow-Up
「ドラマの不在、かすかな感情の曖昧さ、そして、フレームによって抽象的に切り取られた空間的・時間的な瞬間の連なりの中で、仕草に拡散し風景や装置・背景に物象化する生」
アントニオーニ作品では『情事』を挙げたいところだが、まだ日本では DVD は出ていないようだ。
『去年マリエンバードで』(アラン・レネ、61)
難解な前衛映画の代名詞的作品であるが、流麗なキャメラ・ワークによってとらえられためくるめく空間と、過去・現在・未来が見分けがたく共存しあう迷宮のような時間の魅力は、否定しがたい。
『81/2』(フェデリコ・フェリーニ、62)
Oto e mezo
古典映画を支えていた基盤が傾くとき、映画自体が映画作品のテーマとなる。
『ゲアトルーズ』(カール・テホ・ドライヤー、64)
ドライヤーは空間を二次元化することで第四の次元、「精神」の次元に達する。耐え難いほどの緊張感に貫かれた映画の極北。
『まわり道』(ヴィム・ヴェンダース、74)
Falsche Bewegung
本当は『さすらい』を挙げたかったのだが、DVDで入手しやすいこの作品を選んだ。ともあれ、「間違った動き」を意味するドイツ語の原題は、ヴェンダースの映画作品を見事に言い表している。ペーター・ハントケによる脚本にはドイツ現代史に対する苦渋に満ちた反省が込められているのだが、幸か不幸か、映画のことしか知らないシネフィルたちには、そのあたりのテーマは見事に無視された。
『未知との遭遇』(スティーヴン・スピルバーグ、77)
80年代は良くも悪くもスピルバーグの時代であった。『激突』では決して姿を見せないことにこだわったスピルバーグは、ここでは宇宙人の姿を最後にあっさりと見せてしまう。ハリウッド映画における過剰なスペクタクル化が以後加速化してゆく。
『ゴダールの映画史』(ジャン=リュック・ゴダール、98)
「この新しい技術[ビデオ]とそれがもたらしたものとを用いることによって、映画は、ゴダールの『映画史』において、自己と自己の歴史についての反省的な思索を通して、自己を振り返り、またそうすることによって、新しい文体を、別の次元での映画を生み得た、と言うことが出来る。」
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