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フィルム・ノワール ベスト50(DVDガイド)

 フランスの映画雑誌「レクラン・フランセ」の1946年8月号のなかでニーノ・フランクが〈フィルム・ノワール〉という言葉をはじめて用いて以来、幾多の批評家や映画史家がこの言葉の定義を試みようとしてきたが、いまだに決定的といえるような結論は出ていない。どんなものでも多かれ少なかれそうだが、このフィルム・ノワールと呼ばれるジャンルはとりわけ、明確に定義しようとすればするほどその境界がぼやけ、すべてが曖昧になってしまう不思議なジャンルだ。そもそも、これが映画のひとつのジャンルであるのかどうかも、識者たちのあいだで意見が分かれている。ヌーヴェル・ヴァーグのような歴史上の一時期に限られたひとつのムーヴメントだというひともいれば、作品の持つある種の雰囲気にすぎないというひともいるのだ。

これまで数多くのフィルム・ノワール論が書かれてきた。しかし、その多くは結局フィルム・ノワールの特徴を列挙するだけで、きちんとした分析をおこなっているものはほとんどないといっていいくらいである。なるほど、「宿命の女の存在」「ナレーションによる回想形式」「道徳的決定論の不在」などなどは、フィルム・ノワールを定義するさいの有力な徴になりうるものだろう。しかし、いくらこうした諸特徴を並べ立てていったところで、それらすべての特徴を満たすものがすべてフィルム・ノワールになるわけでもないし、また、そのすべての特徴を満たしていなくても、フィルム・ノワールとしかいいようのない作品が存在する。そもそも、そうした特徴自体が、あらかじめフィルム・ノワールの定義を前提としていなければ抽出できないものであるから、それによってフィルム・ノワールを定義づけようとするのは、一種の循環論法ということにもなるだろう。

フィルム・ノワールとは本当にやっかいなジャンルだ。定義も定かでないこのフィルム・ノワールと呼ばれるジャンルのベスト作品を選ぶというのは、だから厳密にことをおこなうとすれば、非情にたいへんな作業となることだろう。しかし、なにもわたしはフィルム・ノワールの新たな定義を提示しようなどという大それた考えを抱いているわけでは毛頭ない。したがって、ここで紹介する作品も、厳密に定義されたフィルム・ノワールの基準に従って選ばれたわけではなく、極めて無責任に選別されたものであることをまずお断りしておく。

とはいえ、いまこのフィルム・ノワールという言葉はあまりにもいい加減に使われすぎているのもたしかだ。「フィルム・ノワールというのはフランスの言葉で、本来はフランスの犯罪映画を指す」、などということをしたり顔でいう職業映画評論家がいたりする始末である。厳密な定義は無理だとしても、そうした初歩的な間違いはできる限り正してゆきたい。そこで、フィルム・ノワールの歴史をたどるかたちで、年代順にリストアップしてゆくことにした。

時間がかかりそうなので、小出しにしてゆくことにする。まずは40年代作品から。

(日本で入手できるDVDがあればそれに、ない場合はビデオにリンクをしてある。日本でビデオも DVD も発売されていないものに限り、海外版の DVD にリンクした。)

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フィルム・ノワール40年代篇

フィルム・ノワールが41年に撮られたジョン・ヒューストンの『マルタの鷹』に始まるという点では、多くの論者が一致している。わたしとしては、32年にフランスで撮られたジャン・ルノワールの『十字路の夜』も、フィルム・ノワールという言葉が発明されるはるか以前に撮られたフィルム・ノワールの傑作だと思っているのだが、むやみに範囲を広げすぎると収拾がつかなくなる。ここでは定説に従うことにしよう。

 

『マルタの鷹』 (ジョン・ヒューストン、41)
The Maltese Falcon

ハードボイルド映画がすべてフィルム・ノワールになるわけではないが、法社会と犯罪の世界の中間にいて、腐敗した世界を冷めた眼で見ながら、ときに悪党まがいの暴力や違法行為さえやってのける私立探偵という存在は、優れてフィルム・ノワールの主人公たりうる。『マルタの鷹』はハードボイルド映画の誕生と同時に、フィルム・ノワールの誕生を告げていたのである。同時に、この作品はヒューストンのデビュー作であり、彼が繰り返し撮ることになる「失敗の悲劇」の始まりを告げるものでもあった。ハンフリー・ボガード、ピーター・ローレ、太っちょのシドニー・グリーンストリート、メアリー・アスターがいつまでも繰り広げるばかし合いは、見ていて飽きさせない。不器用な殺し屋を演じているエリシャ・クックは、この後ヴェンダースの『ハメット』でタクシー運転手を演じることになる。

マルタの鷹

『拳銃貸します』 (フランク・タトル、42)
This Gun for Hire

アラン・ラッド=ヴェロニカ・レイクのコンビものを一本挙げておかないと、フィルム・ノワールのリストは完全なものとはいえない。 ストーリー・ラインや雰囲気はまだまだこのジャンル独特のものとはいえないが、猫だけを愛する冷酷な殺し屋アラン・ラッドの人物像は、メルヴィルの『サムライ』をはるかに予告している。ヴェロニカ・レイクのトレード・マークとなった長く美しい金髪がときに顔の半分を覆ってしまうあの独特の髪型は一世を風靡した。敵国のスパイが敵に設定されているところが、いかにも戦時中の作品らしい。戦後になると「敵」はもっと内面的なものとなってゆき、フィルム・ノワールはジャンルとして深化してゆくことになる。 ラッド=レイクのフィルム・ノワールとしてはほかに『青い戦慄』が有名。

『ガス燈』(ジョージ・キューカー、44)
Gaslight

女を描かせたら並ぶもののない巨匠ジョージ・キューカーが、イングリッド・バーグマンに初のアカデミー賞をもたらした作品。オフュルスの『魅せられて』などにも通じる「囚われの女」のテーマを、キューカーはフィルム・ノワールと女性映画をブレンドさせた極上の味わいを持つ作品に仕上げている。

ガス燈

『深夜の告白』(ビリー・ワイルダー、44)
Double Indemnity

ジェイムズ・M・ケインの『殺人保険』をレイモンド・チャンドラーが脚色(チャンドラーのハリウッドでの初仕事)。袋小路の回想形式とバーバラ・スタンウィック演ずる蠱惑的な悪女。フィルム・ノワールのスタイルはこの作品とともにとりあえず完成したといえる。わたしがフィルム・ノワール的悪女の魅力にはまったのはこの作品が最初だった。悪女の登場する瞬間をどう見せるかは、フィルム・ノワールの生死を決するほど重要だといっても過言ではない。その後のフレッド・マックマレーの転げ落ちるような転落ぶりを見れば、この映画でバーバラ・スタンウィックが現れるシーンが見事な成功であったことは証明済みだ。

031 深夜の告白

『飾窓の女』 (フリッツ・ラング、44)
The Woman in the Window

40年代のフィルム・ノワールはフリッツ・ラングの時代だといってもいい。『飾窓の女』の姉妹編『スカーレット・ストリート』、「青ひげ」を思い出させるダークなおとぎ話『扉の陰の秘密』など、傑作が多すぎてどれを選んでいいのか困るが、代表作として比較的手に入りやすいこの作品を挙げておく。平凡な生活を送ってきた初老の犯罪学者(E・G・ロビンソン)の前に、 絵のなかから抜け出してきたかのような美女(ジョーン・ベネット)が現れたとき、すべての歯車が狂いはじめる。ロビンソンは殺人まで犯してしまうのだが、知人の予審判事がその事件を担当しているため、自分が犯した犯罪の現場検証に立ち会う羽目になる・・・。これほど悪夢に近づいたフィルム・ノワールもめずらしい。最後の夢オチは悪夢を解消するどころか、いわく言い難い後味を残す。

『ローラ殺人事件』 (オットー・プレミンジャー、44)

マイ・フェイヴァリット・シネアストのひとりプレミンジャーによる最初の傑作。 美しく心優しいローラが何者かに殺された。捜査を担当する刑事(ダナ・アンドリュース)の前に何人かの容疑者が浮かび上がる。彼らの証言を聞くうちに、刑事はこのすでにこの世にいない美貌の女性に心惹かれてゆく・・・。あっと度肝を抜く展開になっているので、ストーリーはあまり詳しく語れない。フィルム・ノワールにおけるナレーションの重要性については多くの研究者が指摘するところだが、この作品の回想形式にはいくつもの罠が仕掛けられており、とりわけ興味深いものだ。息づかいが感じられるようなキャメラの長回しはすでにプレミンジャーのスタイルの確立を告げている。被害者が一転容疑者に変わる曖昧さ。この曖昧さが作品全体を支配している。なによりも、ヒロインを演じるジーン・ティアニーの、純真無垢さとファム・ファタールのあいだでたえず揺れているような曖昧な演技がすばらしい。ただし、あの帽子はどうかと思うのだが・・・。

ローラ殺人事件

『哀愁の湖』(ジョン・M・スタール、45)
Leave Her to Heaven

ジーン・ティアニーが珍しく悪女を演じたテクニカラーによるフィルム・ノワールの傑作。

「 夫コーネル・ワイルドの愛を独占するため、湖水で溺れる小児麻痺の夫の弟を見殺しにするばかりか、自ら階段から落ちて妊娠中の自分の子供を死産させもする。妹ジーン・クレインへの嫉妬が高じて、ついには自らの遺書ーーつまりは自分の命をかけてーーで夫と妹を告発するティアニーの狂気の美しさが圧倒的だ。」筒井武文

『らせん階段』(ロバート・シオドマク、45)
Spiral Staircase

ウルマー、ワイルダーらとともに作った 『日曜の人々』など、ドイツで少なからぬ作品を撮っていたシオドマクは、ナチスの台頭と同時にドイツを離れ、フランスを経由してハリウッドに亡命してきた。フィルム・ノワールにドイツ表現主義の影響を安易に見て取ることは避けたいと思うが、フィルム・ノワールの代表作の少なからぬ部分がウルマーやワイルダー、ラング、プレミンジャーなど、ドイツ亡命組によって撮られていることは事実である。シオドマクのこの分野における代表作は、『幻の女』『殺人者』『裏切りの街角』など数多い。しかし、わたしがいちばん好きなのはこの『らせん階段』だ。口がきけない娘が殺人鬼につけねらわれるという物語は、サスペンスやホラーなどのジャンルとも重なるが、作品全体を支配しているダークな雰囲気はまさにフィルム・ノワールのものである。階段、鏡、蝋燭などの舞台装置をシオドマクは完璧にあやつってサスペンスを高めてゆく。

らせん階段

『恐怖のまわり道』 (エドガー・G・ウルマー、45)
Detour

低予算早撮り映画の天才エドガー・G・ウルマーによるカルト・ムーヴィー。フィルム・ノワール的なフラッシュ・バックが、運命の一本道をジグザグな迷宮へと変える。ロード・ムーヴィー的フィルム・ノワール? あまりにも有名な作品なので、いずれ日本でもDVD化される日がくると思うが、いまのところビデオにさえなっていない。

恐怖のまわり道

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(テイ・ガーネット、46)
The Postman Always Rings Twice

ジェイムズ・M・ケインの小説の3度目の映画化(その後、ボブ・ラファエルソンによって4度目のリメイクが作られている)。この映画のラナ・ターナーの淫蕩な悪女ぶりは、『深夜の告白』のバーバラ・スタンウィックとならんで、フィルム・ノワール的ファム・ファタールの典型のひとつをなす。彼女の着るまばゆい純白のドレスは、ローレンス・カスダンの『白いドレスの女』へと受け継がれてゆくことになるだろう。

郵便配達は二度ベルを鳴らす

『殺人者』(ロバート・シオドマク、46)
The Killers

ふたりの殺し屋が自分を殺しにくるのを、なにもせずにじっと待ち受けている元ボクサー(バート・ランカスター)。映画はこの男の人生最後の瞬間からはじまる。原作はヘミングウェイの同名短編小説。小説ではほとんど触れられていない男の過去に映画的脚色が施され、宿命の女(エヴァ・ガードナー)に人生を狂わされてゆく男の姿が、彼の過去を調べて回る狂言回し的人物を通して徐々に浮き彫りになってゆく。完璧すぎるほど完成度の高いフィルム・ノワールの古典中の古典。ジョン・ヒューストンがノン・クレジットで脚色に加わっており、最初は監督もする予定だったが、プロデューサーとのあいだに確執があったため降板にいたった経緯がある。(ドン・シーゲルによるリメイク『殺人者たち』も優れた作品である。また、タルコフスキーが同じ原作をかなり忠実に映画化した短編も存在する。)

『ギルダ』 (チャールズ・ヴィダー、46)
Gilda

おそらくもっとも神話的なフィルム・ノワールの一本。アルゼンチンのカジノを舞台に、グレン・フォード、リタ・ヘイワース、ジョージ・マクレディの三人が曖昧模糊とした感情の駆け引きを演じる、恋愛映画としても一級の傑作だ。黒いサテンのドレスを着たギルダ(リタ・ヘイワース)が、男たちの視線を一身に集めて歌いながら、黒の長いオペラグローブをゆっくりと脱ぎ捨てる換喩的ストリップティーズの場面はいまや伝説。

『三つ数えろ』 (ハワード・ホークス、46)
The Big Sleep

チャンドラーの原作『大いなる眠り』をウィリアム・フォークナーとリー・ブラケットが脚色してできあがったハンフリー・ボガートとローレン・バコール主演の伝説的フィルム・ノワール。映画においてはストーリーなど本当はどうでもいいものだということを、わたしはこの映画とストローブの『妥協せざる人々』で学んだ。実際、何度見ても話がよくわからないのだ。タクシーの女運転手や書店の女(眼鏡をかけたドロシー・マローン)など、どうでもいい脇役の女優たちがやたら忘れがたい一方で、男優陣はボギー以外ほとんど記憶に残らない。

三つ数えろ

『暗い鏡』(ロバート・シオドマク、46)
Dark Mirror

シオドマクによるサイコ・ホラーの傑作。ある女が殺人事件の容疑者として浮かび上がる。しかし、その女はうり二つの顔をした一卵性双生児の姉妹のひとりだった。目撃者が多数いながら、警察は、姉妹のどちらが犯人なのか見定めることができない。やがて、姉妹のうちのひとりが狂人であることが明らかになってくる・・・。一人二役で双子の姉妹を見事に演じ分けるオリヴィア・デ・ハヴィランドの演技がすばらしい。トリック撮影で同一の画面に収められたふたりのオリヴィアは、同じ役者が演じているから顔が同じなのは当然として、服まで同じなのが見るものを混乱させ、さらに、効果的に使われる鏡の反射がダブル・イメージを増殖させる。犯人によって姉妹のうちの正常なほうまでが精神のバランスを崩しはじめてくるあたりがすごいのだが、こっちの方向にあまり行き過ぎるとハリウッド的な物語の自己同一性が破綻し、クローネンバーグの映画に近づいてしまう。

『過去を逃れて』(ジャック・ターナー、47)
Out of the Past

最も重要なフィルム・ノワールとしてこの作品を挙げる人も多いはず。このころまだ売り出し中だったロバート・ミッチャムが、すでに後年を思わせるノンシャランとした演技で主役を演じている。醒めた目ですべてを他人事のように見ているその彼でさえ、典型的なファム・ファタール、ジェーン・グリアーにころりとだまされて破滅してゆく。フィルム・ノワールにおいては、知性は結局なんの役にも立たないのだ。むかしビデオが発売されていたが、とっくに廃盤になっており、レンタル・ショップで見つけるのは至難の業だろう。しかも、オリジナルよりも20分近く短い短縮版だ。下のDVDは、店ではなかなか見かけないが、値段も安く、97分ヴァージョンが収録されている(たぶん)完全版。

out of the past

『ボディ・アンド・ソウル』
(ロバート・ロッセン、47、未)
Body and Soul

『罠』『殴られる男』と並ぶ、ボクシング界を舞台にしたフィルム・ノワールの傑作。『背信の王者』というタイトルでも知られる。 助監督にロバート・アルドリッチ、脚本にエイブラハム・ポロンスキー、撮影にジェイムズ・ウォン・ホウ、編集にロバート・パリッシュという顔ぶれがすごい。ボクシングの世界が腐敗した社会の縮図として描かれるとき、ボクシング映画はフィルム・ノワールに急接近する。強さと弱さをあわせ持ったボクサーを見事に演じている主演のジョン・ガーフィールドは、脚本を書いているポロンスキーをこのあと『苦い報酬』で監督デビューさせることになる(『苦い報酬』を参照)。

ジュールス・ダッシン『街の野獣』

ダッシンが47年から50年にかけてたてつづけに撮った4本のフィルム・ノワールの最後を飾る傑作。『裸の町』のマーク・ヘリンジャーがその前年に同じダッシンと組んで撮った監獄サスペンス。『真昼の暴動』『裸の町』『深夜復讐便』『深夜復讐便』日本では『裸の街』ほど知られていないが、それと同じぐらい評価の高いダッシンの未公開作品 "Thieve's Highway" がDVD化。


『Tメン』(アンソニー・マン、48、未)
T-Men

西部劇の巨匠として知られるアンソニー・マンが、デビュー当時、弱小プロダクションでフィルム・ノワールを数多く撮っていたことはよく知られている。西部劇や戦争映画で発揮されるアンソニー・マン特有の画面構成はいまだ確立されていないが、この分野においてもその天才的な映画センスは一目瞭然だ。偽造貨幣の摘発などに命を捧げる米国財務省(Treasury Department)の特殊諜報員たち T-Men の活躍を描くセミ・ドキュメンタリー的な部分と、天才キャメラマン、ジョン・アルトンの撮影による強烈なコントラストのモノクロ画面で描かれるノワールなアトモスフェアがひとつになって、なんともいえない味わいを醸し出している。

『悪の力(苦い報酬)』(エイブラハム・ポロンスキー、48、未)
Force of Evil

『ボディ・アンド・ソウル』 の脚本家エイブラハム・ポロンスキーが、同じジョン・ガーフィールド主演で撮った処女作。ギャングの顧問弁護士が、兄の死をきっかけに、どっぷりと浸かっていた悪の世界から足を洗う決心をする・・・。デスクの引き出しに隠された秘密の電話、深い深い地の底へとつづいてゆく階段のイメージなど、喚起力に富んだイメージが忘れがたい印象を残す。とても処女作とは思えないたしかな演出力だ。しかし、ハリウッドはこの圧倒的な才能を持った新人を、赤狩りによって映画界から抹殺してしまう。ポロンスキーがその第2作『夕日に向かって走れ』を撮るのは、実にこの21年後である。

『上海から来た女』 (オーソン・ウェルズ、48)
The Lady from Shanghai

赤毛のリタ・ヘイワースをプラチナ・ブロンドに染めさせてウェルズが撮り上げた伝説的フィルム・ノワール。これも何度見ても話がよくわからない。例によってウェルズは、ストーリーを語ることよりも、バロック的なイメージを構築することに心血を注いでいる。名高い鏡の間のシーンの、砕け散る鏡のイメージは、『ドラゴンへの道』といった作品にまで残響をとどめている。なによりも、海というフィルム・ノワールとしては異例の舞台装置が、この映画を突出したものにしているといっていい。ちなみに、この映画に登場するクルーザーはエロール・フリンの持ち船で、本人も出演している。

上海から来た女

『魅せられて』(マックス・オフュルス、49)
Caught

しがない暮らしをしている娘(ヒッチコックの『めまい』でスチュアートの秘書を演じていたバーバラ・ベル・ゲイス)が、偶然知り合った大金持ちのロバート・ライアンと電撃結婚する。今はやりのセレブ婚というやつだ。しかし、ライアンには最初から愛はなく、しかも彼は恐ろしい性格異常者だったのだ・・・。オフュルスが得意の女性映画とフィルム・ノワールを融合させた傑作。最初は脇役としか思えないぐらい印象の薄かったベル・ゲイスがしだいにヒロインとしての存在感を際だたせていくところは、さすがに女性映画の巨匠オフュルスである。

魅せられて

『罠』(ロバート・ワイズ、49)
The Set-Up

もっとも美しいボクシング映画のひとつ。そしてフィルム・ノワールの一本。八百長試合が絡むとボクシング映画は一挙にフィルム・ノワールに接近する。夜の9時5分から10時17分までの1時間12分が上映時間とそのまま重なるという映画史上珍しい構造を持つ作品。人生最後の試合にのぞむ落ちぶれた中年ボクサーをロバート・ライアンが迫真の演技で見せる。うらぶれた町を映し出すミルトン・クラスナーのキャメラの見事さ。サディスティックなボクシングの観客の描写も印象的だった。


『白熱』(ラオール・ウォルシュ、49)
White Heat

キャグニー演ずる、マザコンで、ときおり激しい頭痛におそわれて頭を抱え、狂ったような怒りを爆発させるギャングのボスの描写は、同じキャグニーが演じた『民衆の敵』のギャングとは明らかにちがうニューロティックな味付けがされている。この作品は正確にはフィルム・ノワールというよりは遅れてきたギャング映画というほうがいいのかもしれないが、フィルム・ノワール全盛期を色濃く反映した作品であることはたしかだ。しかし、そんなことはどうでもよい。この映画はとてつもなく面白いのだ。(ウォルシュ作品では、『追跡』が西部劇でありながら内容的にもっともフィルム・ノワール的な作品といえるかもしれない。)

白熱

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50年代篇

『魅せられて』や『白熱』がすでにそうだったが、50年代のフィルム・ノワールは、精神異常や自殺的衝動などのゆがんだ精神を好んでテーマとして取り上げ、倒錯的傾向を強めてゆく。40年代にはかたちだけは残っていた社会正義の建前はますます影を潜めてゆくだろう。『拳銃魔』や『キッスで殺せ』に見られるように、典型的な50年代フィルム・ノワールのなかでは、犯罪者も探偵も欲動に従って歯止めなく行動するか、最初からとことん堕落しているかのどちらかだ。

 

『拳銃魔』(ジョゼフ・H・ルイス、50)
Gun Crazy

拳銃に魅せられた恋人たちの逃避行を描くフィルム・ノワール屈指の傑作。車のなかにおかれたキャメラを通して、ワンショット・ワンシークエンスで撮られた名高い銀行強盗の場面には何度見てもゾクゾクさせられる。同じく男女の逃避行を描く『夜の人々』や『暗黒街の弾痕』などと比較したとき、その暴力性とエロチシズムの点で際だつ。ここには社会の不公正を告発する意図などポーズとしても皆無であり、欲動に従って動く恋人たちの狂気の愛だけが鮮烈な印象を残す。ジョン・ダールがペギー・カミングスにいう「おれたちは拳銃と弾みたいに一心同体なんだ」というセリフはあまりに有名。ちなみに、ジョン・ダールはヒッチコックの『ロープ』に出演しているぐらいで、役者としては短命に終わった。

『孤独な場所で』(ニコラス・レイ、50)
In a Lonely Place

キレると自分を抑えられない暴力的な性格のハリウッド脚本家(ハンフリー・ボガート)に、ある殺人容疑がかけられる。幸い、隣人の女性(グロリア・グレハム)が彼のアリバイを証明してくれ、ふたりのあいだには愛が芽生えるのだが、女は次第に彼の暴力性におびえるようになってゆく・・・。この映画のボギーはなにかに突き動かされてでもいるかのように、終始いらだち、じっとしていることができない。外ではなく内に向かってゆく暴力の痛々しさ。この痛々しさはニコラス・レイ特有のものであると同時に、ハリウッドの50年代作家たちに共通して流れているものでもある。

孤独な場所で

『アスファルト・ジャングル』(ジョン・ヒューストン、50)
The Asphalt Jungle

『マルタの鷹』同様、ここでもヒューストンの関心は宝石強盗のストーリーそのものよりも、サム・ジャッフェ スターリング・ヘイドン ルイス・カルハーンらのあいだでかろうじて保たれている力のバランスの危うさと、それが一瞬にして崩れ去るむなしさを描くことにある。フィルム・ノワール的な陰影に富んだ都市のイメージとは微妙に異なる、抽象的で、寒々とした街のイメージがすばらしい。ある意味、ここでは街が主人公なのである。「街が眠るとき」というフランス語タイトルはこの作品をずばりい当てているが、それだけに真昼の牧草地でスターリング・ヘイドンが倒れるラストが鮮烈な印象を残す。デビュー当時のモンローの素顔が見れるのもうれしい点だ。

アスファルト・ジャングル

『都会の牙』(ルドルフ・マテ、50)
D.O.A.

ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』『吸血鬼』などで知られる撮影監督ルドルフ・マテが監督した非常にユニークなフィルム・ノワール。マテは監督になる前に『ギルダ』の撮影などですでにフィルム・ノワールと関わりを持っている。フィルム・ノワールにドイツ表現主義の影響云々を安易に指摘することが誤りであるひとつの証拠としたい。平凡な市民である主人公が、何者かに毒を盛られ、必死で犯人を突き止めるまでのいきさつを、死を間近にして警察に物語るというストーリーが秀逸。

『歩道の終わる所』(オットー・プレミンジャー、50)
Where the Sidewalk Ends

『ローラ殺人事件』のジーン・ティアニーとダナ・アンドリューズが再びコンビを組んだプレミンジャーの傑作。プレミンジャーのフィルム・ノワールでは、『ローラ殺人事件』よりも、50年代に撮られたこの作品や『天使の顔』のほうがわたしはずっと好きだ。最初にこれを見たフランスでの公開タイトルが「刑事マーク・ディクソン」だったので、主人公の名前が忘れがたい。事件を捜査中に誤って容疑者を殺してしまった刑事が、犯行を必死でもみ消そうとして次第に追いつめられてゆく。ジム・トンプスンならこの悪夢のようなシチュエーションから主人公の狂気を浮かび上がらせてゆくところだが、プレミンジャーはあくまで倫理的な問題にこだわっているように思える。

『ヒッチ・ハイカー』(アイダ・ルピノ、53)
The Hitch-Hiker

『ハイ・シェラ』や『危険な場所で』の女優アイダ・ルピノは、50年代になって監督としてメガホンを取り始める。この作品はルピノが撮った3作目に当たる ロード・ムーヴィー的フィルム・ノワール。ロバート・ハーモンがルトガー・ハウアー主演で撮った『ヒッチャー』はこれのリメイクだということだが、ヒッチハイカーが殺人鬼だったという設定以外はまったく別の作品に思える。寝ているときも片目を開けている殺人鬼が不気味。

ヒッチ・ハイカー

『その女を殺せ』(リチャード・フライシャー、52)
The Narrow Margin

フライシャーのB級魂ここに極まれり、といった感のある傑作サスペンス。裁判で重要な証言をすることになっている元ギャングの情婦をふたりの刑事が列車で護送する。列車のなかには女の暗殺をもくろむものたちが、客に紛れて乗り込んでいる。だが、いったいだれが悪者なのかわからない・・・。フライシャーは無駄のない演出で、最小のものから最大の効果を引き出しながら、サスペンスを完璧に操ってみせている。列車の横を影のように寄り添って走る車が不気味な効果を上げていた。映画を気に入ったハワード・ヒューズが、大幅にアップした予算で、ロバート・ミッチャムとジェーン・ラッセルのスターを起用してフライシャーに撮り直させようとしたが、フライシャーはまったく興味を示さなかった。

narrow margin

『天使の顔』(オットー・プレミンジャー、53)
Angel Face

プレミンジャーのなかでわたしがいちばん好きな作品。最初は、RKOのハワード・ヒューズが20世紀フォックスのザナックにジーン・シモンズ を貸し出す(というか押しつける)かたちで、結果的にプレミンジャーがいやいやながら撮らされることになった企画だった。 シモンズの撮影拘束日数はたった18日。夜のあいだに書いた脚本を朝になって撮影するという強行日程で撮影は行われた。「この映画が成功したのは奇跡だ」とプレミンジャーは語っている。裕福な英国人一家の運転手となったロバート・ミッチャムが、その家の娘ジーン・シモンズと恋仲になる。やがて彼は、娘が義理の母親を殺そうとしているのではないかと疑いはじめる・・・。いったん動き出した歯車は止めることはできない。もう墜ちていくしかない自分を冷ややかに見つめている主人公。こういう役をやらせたらロバート・ミッチャムの右に出るものはいない。そしてミッチャムならずとも抵抗しがたい天使の顔をした悪女ジーン・シモンズ。セルジュ・ダネイでなくったって、「だれが『天使の顔』のジーン・シモンズを忘れることができようか」といいたくなる。

『狩人の夜』(チャールズ・ロートン、55)
Night of the Hunter

俳優チャールズ・ロートンガ撮ったただ一本の監督作品。殺人鬼の手を逃れてさすらう幼い兄妹の冒険が、ときにメルヘンのように、ときに悪夢のように描かれる。西部劇、フィルム・ノワール、恐怖映画、様々なジャンルの影響が見られるが、結局どれにも分類しがたい不思議な映画だ。どこまでもふたりを追いかけてくる殺人鬼を演じるロバート・ミッチャムの怪物じみた演技がすごい。殺されて湖に沈められたシェリー・ウィンターズの長い髪の毛が水中でなびいている不気味なイメージなど、忘れがたい場面が多々ある。そして、子供たちが最後にたどり着く孤児院で孤児たちの母親代わりをしている女性を演じているリリアン・ギッシュの圧倒的な存在感! ロートンのあのとぼけた顔からは想像もつかないほどの傑作であり、ハリウッド映画史上真にユニークな作品である。

狩人の夜

『キッスで殺せ』(ロバート・アルドリッチ、55)
Kiss Me Deadly

ハードボイルドのヒーロー探偵マイク・ハマー(テレビ・ドラマの「探偵濱マイク」はもちろんこの名前のもじり)が活躍するミッキー・スピレーンの原作をアルドリッチは軽蔑しきっていたといわれる。結果、原作は換骨奪胎され、映画は核の脅威を背景にした終末SFめいたものへと近づいてゆく。夜のハイウェイを裸足にトレンチコートという姿の美女が、なにかに追われるように息を切らしながら走る場面に逆向きにクレジットが重なる冒頭の場面からしてスリリングだ。やがて女はハマーに「リメンバー・ミー」という謎の言葉を残して息絶える・・・。この映画のマイク・ハマーには、『マルタの鷹』や『三つ数えろ』のサム・スペードやフィリップ・マーロウが隠し持っていたロマンチシズムや正義感のかけらも残っていない。そしてハマーがその中を歩き回る悪の世界は原爆の存在によってほとんど無にも等しいものと化す。アレックス・コックスが『レポマン』でオマージュを捧げ、ゴダールの『アワー・ミュージック』でも引用される傑作中の傑作。

『ビッグ・コンボ』(ジョゼフ・H・ルイス、55)
Big Combo

日本では『拳銃魔』ほど有名ではないが、ジョゼフ・H・ルイスの代表作の一本であり、フィルム・ノワール史上に残る傑作である。個人的には、『拳銃魔』よりもこちらのほうがわたしは好きだ。ギャングのボスのふたりの手下を明らかにホモセクシャルとして描いているところなど、『拳銃魔』同様、暗喩的な性描写の点ではルイスは他に一歩先んじていた。ジョン・アルトンの撮影によるモノクロ画面がとにかくすごい。フィルム・ノワールの魅力のかなりの部分が、夜の闇をニュアンス豊かにとらえる優れたキャメラマンの才能に負っていることはいうまでもない。わけても、このジョン・アルトンというキャメラマンは天才中の天才である。そしてかれが撮った最高の作品は間違いなくこれだと思う。嘘だと思うなら、この映画のラストの霧のシーンを見てほしい。


フィルム・ノワール傑作選

『現金に体を張れ』(スタンリー・キューブリック、56)
The Killing

フィルム・ノワールの佳作『非常の罠』などをすでに撮り上げていたキューブリックが、低予算ながら初めてプロのスタッフ・キャストを使って撮った犯罪活劇。台詞にジム・トンプスンが協力している(トンプスンは『突撃』の脚色にも参加)。映画は、スターリング・ヘイドンたちの計画する競馬場の売上金強奪計画が、実行に移され、そして最後に失敗に終わるまでを、時間の流れをいったん解体し、複数の視点から構成し直して、緻密に描いてゆく(タランティーノの『レザボア・ドッグス』はおそらくこの作品の影響を受けている)。公開当時、「出来のいい生徒が作った映画ではあっても、それ以上のものではない」と評したゴダールの意見にわたしは大方賛成だが、一瞬で終わる銃撃シーンの魅力は忘れがたい。

現金に体を張れ

『悪の対決』(アラン・ドワン、56)
Slightly Scarlet

これまで年代順にリスト・アップしてきた作品のなかで、 これが最初のカラー作品になる。フィルム・ノワール的文体が、光と影を際だたせるロー・キーのモノクロ撮影に支えられていたことはいうまでもない。カラー映画が全盛となるとき、フィルム・ノワールはいったん終わりを告げるということもできるだろう。しかし、撮影監督ジョン・アルトンによってまるでモノクロのように撮られた、この映画の陰影深いモノクロ画面を見れば、フィルム・ノワールは決して白黒映画の特権ではないとわかる。ロンダ・フレミングとアーレン・ダールが演じる赤毛の姉妹の漂わす淫蕩な雰囲気が忘れがたい。

slightly scarlet

『条理ある疑いの彼方に』 (フリッツ・ラング、57)
Beyond a Reasonable Doubt

フリッツ・ラングのアメリカ時代最後の作品。正確で抑制された筆致はラングの到達点を示す。ある新聞記者が、死刑制度に反対するために、殺人事件の現場に偽の証拠を残してわざと自分が犯人であると思われるようにし向ける。そして、死刑が確定した時点で、自分が無実である証拠を法廷で突きつけ、死刑制度の恐ろしさを訴えるというのが、最初の予定だった。しかし、思わぬ展開から彼は本当に死刑にされそうになってしまう・・・。このストーリーはいつもわたしに倫理的めまいとでもいったものを起こさせる。なんとも恐ろしい映画だ。原題は「合理的な疑いを超えて」と訳される法律用語。『口紅殺人事件』同様、スーパースコープというややこしいフォーマットが使われていて、スクリーン・サイズの問題がはっきりしない。両方ともアテネの16ミリスタンダードサイズのフィルムで見慣れているので、『口紅殺人事件』をパリのシネマテークで初めて見たときもそうだったが、この作品も数年前公開されたときワイド・サイズでの上映にちょっと違和感を覚えた。

『成功の甘き香り』(アレキサンダー・マッケンドリック、57)
Sweet Smell of Success

ブラック・コメディの傑作『マダムと泥棒』 などで知られるアレキサンダー・マッケンドリックが、独立プロの招きで渡米して撮った、ショービジネス界の内幕を暴くフィルム・ノワールの傑作。新聞のコラムニストが主役というのが新しい。ジェイムズ・ウォン・ホウによって夜間撮影されたニューヨークの街頭シーンが新鮮だ。脚色を担当しているのがあのクリフォード・オデッツというのも注目。

成功の甘き香り

『黒い罠』(オーソン・ウェルズ、58)
Touch of Evil

車に仕掛けられた爆弾が爆発するまでを、ワンショット・ワンシークエンスで見せつける冒頭の驚くべきクレーン撮影から、ラストの橋の上下での悪徳警官ウェルズとそれを暴こうとするチャールトン・ヘストンの対決に至るまで、ウェルズ的バロック趣味が怒濤のように繰り広げられる。アクロバティックな長回し撮影、極端なキャメラ・アングル、ふくれあがるウェルズの巨体。バロックというのがひとつの様式の終わりに現れるものだとすれば、バロック的フィルム・ノワールとも呼ぶべき本作は、このジャンルの終わりを予告していたということもできる。

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60年代以後篇

フィルム・ノワールは、『深夜の告白』の撮られる44年から戦後にかけての約10年間ぐらいを全盛期とし、50年代末には終わりを迎えるとするのが、現在もっとも一般的な見方である。ただし、フィルム・ノワールがいつ終わるかについてはいまだ定説がない。『マルタの鷹』が撮られた41年に始まるというのはいまでは一般化しているが、終わりの年については研究者のあいだで意見がわかれるところだ。53年に終わるという説もあれば、『黒い罠』が撮られる58年が最後だという説もあり、いろいろなのだが、わたしにはどれも恣意的に思えてしかたがない。

とはいえ、50年代の終わりにフィルム・ノワールが終わりを迎えるというのにはそれなりに納得できる理由がある。赤狩りによって優れた映画作家やスタッフたちが亡命を余儀なくされたり、野心的な主題を自由に描けなくなったこと。アメリカ人たちが、暗い犯罪者たちの世界ではなく、もっとブルジョワ的で豊かな自分たちのイメージを見たいと思い始めていたこと。影など入り込む余地がなく、クロースアップが盲目的に支配するテレビが一般に普及し、ノワール的な世界は周辺へと駆逐されていったこと。そしてカラー映画が主流となったことも、フィルム・ノワールにとっては大きな打撃だった。

公式的には50年代でフィルム・ノワールが終わるというのが正しいとしても、60年代以後にフィルム・ノワールがまったく撮られなくなるわけではない。ただし、そこには、意識的・無意識的にかかわらず、「それはすでに終わってしまっているのだ」という感覚がどこかにつきまとうことになる。70年代以後ともなれば、ディック・リチャーズの『さらば愛しき女よ』のようにあからさまに懐古趣味的な作品は別として、フィルム・ノワールをこの時代に撮ろうとする作家たちは多かれ少なかれ、いまフィルム・ノワールを撮るとはどういうことなのかを意識せざるをえなくなるだろう。

 

『ピアニストを撃て』(フランソワ・トリュフォー、60)
Tirez sur le pianiste

トリュフォーがアメリカのB級映画に捧げたオマージュ。トリュフォーが試みた犯罪映画は、『黒衣の花嫁』にせよ『暗くなるまでこの恋を』にせよ、どちらかというと失敗作の部類にはいると思うのだが、『ピアニストを撃て』はその最初の試みであり、もっとも成功した作品であるといっていい。原作はデイヴィッド・グーディス(『メイド・イン・USA』に同じ名前の人物が登場する)。

『暗黒街の帝王 レッグス・ダイアモンド』
(バッド・ベティカー、60)
The Rise and Fall of Legs Diamond

西部劇と闘牛映画の人といっていいベティカーが撮った数少ない犯罪映画のひとつ。こちらのジャンルでももっとたくさん撮ってほしかったと、つくづく残念に思う。

『エヴァの匂い』(ジョゼフ・ロージー、62)
Eva

レオン・シャムロイの見事な撮影による寒々としたヴェネチアを舞台に、ジャンヌ・モローがファム・ファタールを演じるフィルム・ノワールの傑作。 原作は、ハドリー・チェイスの『悪女イヴ』。

『アルファヴィル』(ジャン=リュック・ゴダール、65)
Alphaville

ゴダール作品では、『上海から来た女』を意識して撮られた『小さな兵隊』、リチャード・スターク(『殺しの分け前』を参照)の『悪党パーカー/死者の遺産』を換骨奪胎して政治ドラマ化した『メイド・イン・USA』、ピーター・チェイニーの原作から生まれた人物レミー・コーションが活躍する『アルファヴィル』の三つのうちで、どれを選ぶかで迷うところだ。ここでは、ストーリーよりもモノクロの画面がフィルム・ノワールを彷彿とさせる『アルファヴィル』を挙げておく。

Made in USA

『殺しの分け前/ポイント・ブランク』 (ジョン・ブアマン、67)
Point Blank

リチャード・スタークの『悪党パーカー/人間狩り』を映画化した作品。同じ原作は、のちにメル・ギブソン主演で『ペイバック』として映画化される。ただし、スタークはストーリーの映画化権を売っただけなので、主人公の名前はどちらの作品でもパーカーとは別の名前に変えてある。非常に爽快な気分にさせてくれる原作から、ブアマンはなんともいえない陰鬱な映画を作り上げている(これに比べて、『ペイバック』はかなり原作のテイストに忠実に映画化されていたといえる)。

『悪の神々』(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、67)
Götter der Pest

ファスビンダーが救いようもなくちっぽけなギャングたちを描くフィルム・ノワール。

『仁義』(ジャン=ピエール・メルヴィル、70)
Le cercle rouge

メルヴィルにはほかにも『いぬ』や『サムライ』などのフレンチ・ノワールの傑作がたくさんあるので、選ぶのに困る。この映画のイヴ・モンタンは、幻覚を見るほどのアル中にもかかわらず、アラン・ドロンに宝石強盗の依頼を受けると、翌日、別人のようなジェントルマンの姿で現れる。『リスボン特急』同様に、一言も交わされないまま展開する強盗の場面がすばらしい。モンタンは、ポケットからウィスキーのボトルを取り出し、匂いだけかいで元に戻す。メルヴィルの映画ではだれもがプロに徹しているのだ。元刑事の彼が最後に同僚に殺される場面を見て、北野武は『HANA-BI』の脚本を書き換えたという。

仁義

『ロング・グッドバイ』 (ロバート・アルトマン、73)
The Long Goodbye

70年代でもっともフィルム・ノワール的な作品をあげるとすれば、ディック・リチャーズの『さらば愛しき女よ』(75)になるだろう。ストーリー、雰囲気、ロバート・ミッチャム演じるフィリップ・マーロウ、どれを取ってもフィルム・ノワール的だった(おまけにジム・トンプスンまで俳優として出演しているのだ)。しかし、フィルム・ノワールのクリシェをただよせ集めただけのこの作品は、当時でさえどうしようもなく時代錯誤に見えたに違いない。70年代的フィルム・ノワールの神髄は、エリオット・グールドがよれよれネクタイのフィリップ・マーロウに扮し、アルトマンがフィルム・ノワールを批評的に読み直して撮った本作にある。グールドがジミー・スチュワートの物まねをし、老いたスターリング・ヘイドンが『スター誕生』にオマージュを捧げて入水自殺する。おまけにシュワルツネッガーまでちょい役で出ているのだから、ハリウッド万歳だ。マーロウが親友テリー・レノックスを殺すラストは原作にはなく、「ハリウッド神話の破壊」と解釈する向きもあった。ニコラス・レイの『夜の人々』をリメイクした『ボウイ・アンド・キーチ』も忘れがたい。

『チャイナタウン』(ロマン・ポランスキー、74)
Chinatown

1937 年のロサンジェルス。LA の水利権をめぐる権力争い(「映画本ベスト・オブ・ベスト」で紹介した『ハリウッド帝国の興亡──夢工場の1940 年代』 を参照)をバックに、《ファム・ファタール》フェイ・ダナウェイの背後に隠された近親相姦がらみのどろどろとした闇が浮かび上がってくる。その黒幕を演じているのがジョン・ヒューストンだというあたりに、ポランスキーのこのジャンルへの批評意識がうかがえる。

チャイナタウン

『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』
(ジョン・カサヴェテス、76)
The Killing of Chinese Bookie

ストリップ小屋のオーナーがのっぴきならない事情から殺しを引き受けることになってしまう。カサヴェテス作品のなかでは、『グロリア』と並んで古典的なハリウッド映画にもっとも近い作品といえるかもしれない。ベン・ギャザラ、シーモア・カッセルなど、カサヴェテス映画の俳優はみんないい顔をしている。

『白いドレスの女』(ローレンス・カスダン、81)
Body Heat

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』や『深夜の告白』を彷彿とさせるフィルム・ノワールの傑作。ローレンス・カスダンはその後これといったものを撮っていないと思うが、この作品だけはよかった。

白いドレスの女

『ハメット』(ヴィム・ヴェンダース、83)
Hammett

この映画のヴェンダースは、フィルム・ノワールというジャンルの創造に関わっている作家ダシール・ハメットの創作活動そのものを主題とすることで、このジャンルへの省察をだれよりも遠く押し進めている。

ハメット

『汚れた血』(レオス・カラックス、86)
Mauvais sang

愛のないセックスによって感染する死の病が蔓延する近未来のパリを舞台に、フィルム・ノワール、ゴダール、サイレント映画など、さまざまな映画的記憶が混じりあう。

『スラムダンス』(ウェイン・ワン、87)
Slamdance

香港生まれの監督ウェイン・ワンが、イラン系の撮影監督アミール・モクリなどを始めとする多国籍のスタッフらとともに、80年代後半のロサンゼルスを異邦人の新鮮な眼差しでとらえたフィルム・ノワールの傑作。これもDVD化を希望する。

 

ある人は、90年代はノワール復興の時代だといい、その証拠に何十本もの作品を並べ立てみせるのだが、わたしにはそのどれもぴんとこない。たしかに、題材だけ取ればフィルム・ノワール的な作品が、90年代以後数多く作られている。けれども、『L.A.コンフィデンシャル』や『氷の微笑』がハリウッドの風景を変えたとは思えないし、コーエン兄弟も、アベル・フェラーラも、ジェイムズ・フォーリーも、わたしには小者でしかないように思える。才能というよりはその存在感でひとり際だっているタランティーノのB級精神にはまだなにがしか期待していいのだろうが、21世紀にふさわしいフィルム・ノワールはまだ現れていないといっていい。

そのほかのフィルム・ノワール

これ以外のフィルム・ノワールの秀作

マンキーウィッツ『記憶の代償』

ジョゼフ・L・マンキーウィッツの初期フィルム・ノワール "Somewhere in the night"。『呪いの城』と同じ46年度作品。こちらのほうが後だと思うのだが(気が向いたら、マンキーウィッツの伝記で確認)。 こんなに初期の作品からフラッシュ・バックが使われているのだろうか。それにしても売れそうにないタイトルだ。

ヘンリー・ハサウェイ『闇の曲がり角』
The Dark Corner

フィルム・ノワールの名作の一本として必ず取り上げられる有名な作品です。

 

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