映画の誘惑

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『サタンタンゴ』
Satantango
──共同体の夢と挫折
1991-93年/ハンガリー/35mm/白黒/438分

監督:タル・ベーラ
脚本:クラスナホルカイ・ラ−スロ−、タル・ベ−ラ
撮影監督:メドヴィジ・ガ−ボル
音楽:ヴィ−グ・ミハ−イ

サタンタンゴ

不安と、漠とした期待の気配が漂う、終わりのない悪夢のような7時間の大作。

レビュー

2000年に撮られた『ヴェルクマイスター・ハーモニー』がすでに伝説となりかけているハンガリー監督タル・ベーラ(ファースト・ネーム、ファミリー・ネームの順にいうならベーラ・タル。このいい方のほうが世界標準だ)が、94年に撮り上げた『サタンタンゴ』は、7時間半という上映時間ゆえに見る機会がきわめて少ないこともあって、『ヴェルクマイスター・ハーモニー』以上に幻の傑作として知られてきた。スーザン・ソンタグがその著書のなかで傑作として言及していることも、『サタンタンゴ』の伝説化に寄与したと思われる。ジャームッシュも『ヴェルクマイスター・ハーモニー』が気に入っているようだし、ガス・ヴァン・サントがタル・ベーラ作品をまとめて見てひどく感銘を受け、今度の『Gerry』ではその影響が如実に現れているとも聞く。大げさに持ち上げる人もいるようだが、わたし個人としては、それほどには高く評価していない。今回のハンガリー映画祭のパンフレットには、中沢新一(なつかしい)が映画祭の実行委員長としてタル・ベーラを賛美する文章を寄せていたりするのだが、タル・ベーラはソンタグや中沢新一にもわかる映画という言い方もできるわけだ。

詳しくは書かないが、タル・ベーラに感じる違和感は、タルコフスキーの作品に感じる違和感と少し似ている。どこか大時代なところがあり、20世紀的というよりも19世紀的な作品という印象を与えるとでもいえばいいだろうか。ところで、タル・ベーラのように好んで長回しを使う監督は、ふつうクロースアップはあまり使用しないのだが、かれはアップもよく使う。その点ではウェルズなどに近いのかもしれない。それはともかく、この監督は人物の会話を撮るのがあまりうまくないように思う。いろいろ不満はあるが、こういう映画は一度機会を逃すと二度と見ることはできない。どこかで上映されていたなら四の五のいわずにまず見に行くこと。話はそれからだ。

さて、この『サタンタンゴ』という映画はいったいどんな作品なのか。『ヴェルクマイスター・ハーモニー』をすでにごらんになっている方には、『サタンタンゴ』は『ヴェルクマイスター』のプロトタイプのような作品だといっておけば事足りるだろう。もっとも、プロトタイプのほうがふつうは短いものだが、この場合は逆で、『サタンタンゴ』は『ヴェルクマイスター』の二倍以上の上映時間を持っている。そのせいか、『ヴェルクマイスター』を弛緩させたような作品という気がしないでもない。とはいえ、7時間半という長さにもかかわらず、『サタンタンゴ』の物語はきわめてシンプルなものだ。
ある寂れた村が舞台である。楽しみといえば酒を飲んで酔っぱらうことしかないような、そんな死ぬほど退屈で平穏な村に、死んだと思われていたならず者イリミアーシュが帰って来るという噂が流れる。まるで西部劇のような話だ。実際、わたしが真っ先に思い浮かべたのは、『真昼の決闘』だった。イリミアーシュが到着するまでの長い時間(といっても実際はほんの数時間なのだが)、村では夜通し雨が降りしきり、不安が、そしてまた、漠とした期待の気配が、漂う(最初死んだと思われていたイリミアーシュとはいわば亡霊であり、過去の人物である。同時にかれは、来るべきメシアであり、未来でもある)。話はこれだけなのだが、映画は視点を変えながらこの同じ物語を延々と繰り返す。まるでタンゴのように──。物語が繰り返されるたびに、イリミアーシュの到来は先へ先へと繰り延べられ、観客は悪循環のなかをどこまでも巡らされていることに気づく。

イリミアーシュと並ぶ重要な人物として、自宅の窓から傍観者的にすべてを記録(Know everithing)しているアルコール中毒の医者がでてくる。かれが、切らしたアルコールを求めて、雨の降る真夜中、家を出てさまよい歩く場面があるのだが、その途中で突然ひとりの少年(と最初は思えた)がかれに助けを求めてくる。医者が邪険な態度をとると、少年は足早にどこかに走り去ってしまう。そのあと今度は、ひとりの孤独な少女が、自分が支配することのできる唯一の対象であるペットの猫を虐待して殺したあと、毒を飲んで自殺するエピソードが語られる(この場面は猫好きには耐え難い)。ところで、自殺する直前の少女が、猫の死体を脇に抱えて雨の夜をさまよい歩いているときに遭遇するのが、先ほどの医者なのである(最初少年だと思ったのはこの少女だった)。このふたりが遭遇する場面は、わたしがこの映画でもっともお気に入りの瞬間だ。まるで牛のように群れをなして生きている村人たちのなかで、このふたりだけはいつも孤独である。そのふたりが不意に出会うというのがいい。

少女が窓の外からちらっとのぞいた酒場のなかでは、村人たちが踊り狂っている。次に語られるのは、この酒場のなかの視点から撮られた、同じ物語である。踊り狂っていたものたちが酔いつぶれたとき、ぐるぐると同じ場所を巡っていた物語は、村人を前に横たえられた少女の遺体とともに、不意に悪循環の輪から抜け出す。いつまでたっても到着しなかったイリミアーシュは、いつの間にかそこにいて、唐突に、村人たちにコミューンの理想を語り始める(意図的なのかどうかわからないが、かれの顔がドライエルの『奇跡』の主人公とそっくりなので、死んでいた少女がよみがえるのではないかとわたしは半ば信じていた)。ここからの物語は非常に旧約聖書(のパロディ)的である。この村を捨てて荘園で共同生活せよと、イリミアーシュは説く。ただし、そのためには金がいるといって、かれは村人たちに全財産を出させる。どう見ても詐欺師のかれに、村人たちはころりとだまされて全財産を差し出す。こうしてモーゼの出エジプト記にも似た、約束の地を求める旅が始まる。荘園に一足先についたかれらが、イリミアーシュが来るのが少し遅れただけですぐに仲違いを始めるところなどは、モーゼがシナイ山に登っている少しのあいだに、人々が堕落してしまう場面を彷彿とさせるものだ。

こうして物語は悪循環から抜け出したかに思えたが、すぐに映画は、表から見た物語・裏から見た物語という具合に、ふたたび視点を変えて物語を繰り返し始め、牛の群のようにイリミアーシュのあとに従った村人たちのコミューンの夢も、延期を余儀なくされてしまう。そして、急激に視点が転換して、イリミアーシュが実は警察に内通している錯乱した密告者であることが暗示され、ついで、酔っぱらいの医者が、聞こえてくるはずのない鐘の音に誘われて、小高い丘の上にある鐘楼にやっとたどり着くと、見知らぬ男が鐘の代わりにぶら下げた鉄板をたたきながら、「トルコ人がやってくるぞ!」と叫びつづけているのを発見する場面が続く。正直いって、この場面の意味はわたしにはよくわからなかったのが、それだけに非常にインパクトがある場面だった。ここは、『ヴェルクマイスター・ハーモニー』で、病院になだれ込んだ暴徒が、最後の最後に、やせ細った小男の老人を発見する場面をちょっと思い起こさせる。なにか非常に空しさを感じさせるシーンだった。

映画は、文字通り「閉じた円環」という名のエピローグで、あの酔っぱらいの医者がようやく家にたどり着き、部屋の内部からたったひとつの窓を板でふさいで、画面が真っ暗闇となったところで終わる(そもそもこの映画は、冒頭の牛の群をとらえた長い移動撮影のあとで、人妻が逢い引きをしている真っ暗な部屋の窓に次第に朝の光が差してくるシークウェンスで始まっていたのだった──そして光ありき・・・)。

 

ヴェルクマイスター・ハーモニー 『ヴェルクマイスター・ハーモニー』

 

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