2001年を振り返ってみた。映画的にはなにもなかった年だと思っていたが、改めて振り返ってみると結構いろいろあったかなという気がしてくる。暇にまかせて、昨年のベスト20を選んでみた。ただし、リヴァイヴァル上映された作品は除外してある。
こういうベスト10というのは結局はお遊びだから、順位の付け方はいい加減なものだ。特に10位以下の作品は気分によっていくらでも順番が変わりそうな気がする。見逃した作品も多い。特に、『千と千尋の神隠し』や『ジュリアン』などが気になる。
1. ユスターシュ連続上映(ジャン・ユスターシュ)
2. モレク神(アレクサンドル・ソクーロフ)
3. ヤンヤン 夏の想い出(エドワード・ヤン)
4. ユリイカ(Eureka)(青山真治)
5. モフセン・マフマルバフ連続上映
6. クレーヴの奥方(マノエル・デ・オリヴェイラ)
7. A.I.(スティーヴン・スピルバーグ)
8. SELF AND OTHERS(佐藤真)
9. ブラクボード 背負う人(サミラ・マフマルバフ)
10. ベレジータ(ダニエル・シュミット)
11. 戦争のリハーサル(マリオ・マルトーネ)
12. 見出された時(ラウール・ルイス)
13. アクロバットの女たち(シルヴィオ・ソルディーニ)
14. 風花(相米慎二)
15. メメント(クリストファー・ノーラン)
16. ミリオン・ダラー・ホテル(ヴィム・ヴェンダース)
17. アンブレイカブル(M・ナイト・シャマラン)
18. グル・ダッド連続上映
19. エスター・カーン めざめの時(アルノー・デプレシャン)
20. 柳と風(モハメド・アリ・タレビ)
去年を一言で総括するなら、ゴダールの新作がまたもや公開されなかった年ということになる。某雑誌が「60年代ゴダール」の特集を組み、『小さな兵隊』や『はなればなれ』や『カラビニエ』といった旧作ばかりがノスタルジックに、ファッショナブルにリヴァイヴァルされる一方で、いっこうに新作が公開されない状況が続いているというのは反動以外の何ものでもない。
そのかわりといってはなんだが、ユスターシュの作品が数本まとめて(『ママと娼婦』、『サンタクロースは青い眼をもつ』、『不愉快な話』、『アリックスの写真』、そしてとりわけ『僕の小さな恋人たち』)公開されたことは非常にうれしい。ぼくは昔から、映画というのは本質的に楽天的な芸術なのではないかという考えをもっている。その証拠に、画家や作家やミュージシャンには自殺したものが多いが、映画監督には自殺した奴はほとんどいないではないか。単純な理由だが、これはほとんどぼくの強迫観念だ。死ぬまで自分を追いつめる奴は映画にはいない。この楽天性に、ときにいらだち、ときに希望を覚える。その繰り返しだ。そんななかで、あれだけの映画を撮りながら、40歳そこそこでピストル自殺したこのユスターシュという男は、なにか映画の秘密を握っている謎のような、可能性のようなそういう存在であり続けている。ユスターシュはひたすら自分のことだけを映画で語り続けながらやせ細っていった (体ではなく、作家としての存在がだ)。死ぬ直前、かれはベケットを読みふけっていたという。
完成度の高さという点では、ソクーロフの『モレク神』とエドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の思い 出』が他を圧倒していた。『モレク神』については他ですでに書いたので、改めて書かない。『ヤンヤン夏の思い出』のほうだが、この邦題はなんとかしてほしかった。これではなんだかホウ・シャオシェンの初期の映画のようではないか。結婚式で始まり葬式で終わるこの映画には、いくつもの人生が反復するかたちで詰め込まれている。一見似たような映画が多いなか、圧倒的な才能の差を見せつけられる。ほとんど完璧な出来だ。
すでに90なかばに達する年齢というのにまだ現役で映画を撮り続けているポルトガルの監督、マノエル・デ・オリヴェイラの『クレーヴの奥方』は、ラ・ファイエット夫人の原作とロック・ミュージックを結び合わせるというとんでもない怪作がこの上もなく古典的な風貌をしているという点が驚きだ。映画監督が老いるとはどういうことなのかを、そのうち真剣に考えてみたい。ところで、鈴木清順の『ピストルオペラ』はぼくには清順の悪しきパロディとしか見えなかった。清順さんもとうとう老け込んでしまったのだろうか。
日本映画については、『千と千尋の神隠し』を始め、見逃した作品が多いが(というかほとんど見ていないが)、やはり青山真治の『Eureka』が抜きんでていたことは認めざるをえないだろう。『Helpless』で華々しくデビューした青山が、試行錯誤を繰り返しながら、らせんを描くようにして一回り大きくなって出発点に立ち戻ってきたことを素直に評価したい。ちまちまとした映画ばかりが撮られてうんざりする日本映画のなかで、このように「大きな」映画が撮られたことはうれしい。2001年は青山真治が本当の意味でブレイクした年だった。『Eureka』が九州へと向かう旅を描いたロードムーヴィーだとすれば、同時期に公開された相米慎二の『風花』は北海道へと向かう正反対のベクトルを描いたロードムーヴィーだった。青山作品にくらべ「小さい」印象は否めないが、その古典的な演出の背後に案外歴史が深く刻み込まれていたのかもしれないという気がしてくる(「ここの村人はどこに行ってしまったんだ!」)。黒沢清の『回路』はもちろん水準以上の出来だったが、今の黒沢清に期待するのは正直こういう映画ではない。『Brother』で自作反復モードに入っている北野武にも次回作では新たな展開を期待したい。そのほかでは、篠崎誠の『忘れられない人々』などが印象に残った。増村保造レトロスペクティブや小沼勝レトロスペクティブなど、回顧上映が充実していたのは喜んでいいことなのか悪いことなのか・・・
何かの間違いだとはいえ、ラウール・ルイスの作品が公開されてしまったこともうれしい驚きだった。プルーストをあまり知らない人には、『見出された時』は非常にふざけた映画に見えるかもしれないが、ルイスはこの映画でプルーストの作品世界を非常に忠実に再現しようとしている。普通の文芸映画ほどプルーストから遠いものはないのだ。だから、逆にいうと、ラウール・ルイス作品としては、この作品はいまひとつパンチに欠ける。ルイスにしてはまともすぎるのだ。結局、ルイスのファンにもプルーストのファンにも欲求不満が残る映画だったかもしれない。
『戦争のリハーサル』と『アクロバットの女たち』については、「イタリア映画祭報告」ですでに触れた。イタリア映画はなかなかどうして捨てたものでない。では、フランス映画はどうか。カトリーヌ・ブレイヤの『ロマンスX』はだめだったし、ブリュノ・デュモンの『ユマニテ』もだめだった(不遜な映画作りと、見ているときの居心地の悪さは、逆に少し評価してもいいとは思うが)。唯一『エスター・カーン』のデプレシャンが健闘していたぐらいだ。アイリスの使用、冷めたナレーションなどに、『恋のエチュード』のトリュフォーを思い出しながら見ていたが、あとでデプレシャンが『野生の少年』を意識しながら撮ったと言っているのを読んで、なるほどと思った。主演のサマー・フェニックス(リヴァー・フェニックスの妹)の演技は、なにか見たこともない野生の動物を思わせ、久々に期待を抱かせる新人女優だ。デプレシャンは、好きかと訊かれればたぶん嫌いと答える監督だと思うのだが、どこか自分と似ているところがあるのか気になって仕方がない。
アジア映画ではイランのマフマルバフ父娘の活躍が光った。父親モフセンの才能についてはもう言うまでもないが、『ブラックボード 背負う人』を見ると、案外娘のサミラの方が父親よりも器が大きいのではないかという気さえしてくる。爆撃で学校を失った教師たちが黒板を背中に担いで生徒を捜しながらむき出しの大地を歩き回る姿は、ほとんどシュールでさえある。一枚の黒板がときには骨折した少年の脚に添える木となり、またときには病弱の老人を運ぶ担架と化し、さらには銃撃をさけるための楯となりさえする。映画の背景にはイラン=イラク戦争末期のクルド難民の置かれた状況があるのだが、映画にはそうした固有名詞はいっさい登場せず、一種の生々しい寓話として描かれている。とりわけクライマックスの大モブ・シーンなどは、アンゲロプロスの映画の最良の瞬間を見ているときのような緊迫感があった。サミラはまだ二十歳そこそこの女性、末恐ろしい。イラン映画では、キアロスタミの見事な脚本を映画化した(だけとも言えるが)『柳と風』も忘れがたい。
韓国映画のニュー・ウェーヴがつぎつぎと公開され、高い評価を得ているようだ。今年のワールドカップ日韓共催を控えて、ある種政治的にむりやり盛り上がっているところもあるのだろう。あまり見ていないので大きなことは言えないが、真の傑作と言えるような作品にはまだ出会っていない。評判の良かった『魚と寝る女』も、社会から逃げ出した男女が互いの傷をなめ合っているだけの映画で、見ていて気が滅入ってしまった。ただ、イ・チャンホらの時代とくらべて明らかに作品は多様化しており、なかなか期待できるのではないかという気はしている。
そのほかのアジア映画では、ウォン・カーウォイの『花様年華』が世評が高かったが、2時間つづけてCMを見せられているようで、まったくだめだった。はっきり言って、こんな映画に酔っている暇はない。
インドの巨匠グル・ダッドの連続上映のことも忘れてはならない。なかでも『乾き』と『紙の花』は 飛び抜けた傑作であった。ただ、個人的な感想を言えば、この公開は少しばかり遅すぎたのではなかろうか。もしも20年前にこの上映が行われていたならばもっと素直に楽しめたのではないかという気もする。
今に始まったことではないが、アメリカ映画の衰弱ぶりには目を覆いたくなる。そのなかではやはり、スピルバーグの『A.I.』の壮大な失敗作ぶりが突出していたというのには、なにか複雑な思いがする。それにくらべると『メメント』や『アンブレイカブル』は相対的に出来のいい佳作でしかない。20本の中には入れなかったが、それ以外では、アン・リーの『楽園をください』、サム・ライミの『ギフト』、ジュリアン・シュナーベルの『夜になる前に』などが印象に残った。スプラッター・ホラーで出発したサム・ライミは今や古典的なアメリカ映画を撮っている。ガス・ヴァン・サントとフィリップ・カウフマンの新作は見逃した。評判はいいみたいだが、カウフマンにサドが描けるんだろうか? どうも「アメリカ映画」という言葉がかつて持っていた魔術的な力は急速に失われてしまったみたいだ。その意味では、技巧ばかりが目立って見える『アンブレイカブル』のナイト・シャマランよりも、『メメント』のクリストファー・ノーランには、たとえばモンテ・ヘルマンのような70年代の最良のアメリカ映画が持っていたものが受け継がれているような気がするので、これからも彼には期待してみたい。
かつて蓮實重彦が「73年の世代」と名づけたダニエル・シュミットとヴィム・ヴェンダースがそろって健在ぶりを示したのもうれしいが、実はそれ以上に今は、同じ世代に数えられたもう二人、ヴィクトル・エリセとクリント・イーストウッドの新作が待ち遠しい。どうもこの4人のなかではイーストウッドのひとり勝ちという気がしないでもないのだが、今年はエリセが『マルメロの陽光』を撮ってからちょうど10年目に当たる。そろそろ何かやりそうな気がするのだが・・・
ここまで書いて、なかば無意識のうちにラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のことを忘れていたことに気づく。これまでのフォン・トリアーのなかではいちばんいいと思うし、完成度も高かったと思うが、なぜかベスト20には入れたくなかった。やはり好きにはなれない監督だ。
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