失敗作の魅力。「感動の作品」を期待して見に来た観客は期待を裏切られるに違いない今度のスピルバーグの新作は、「感動」とは別の、不思議な感銘を残す力作だ。
スピルバーグは人工知性の問題にさして興味は持ってないように思える。デビッドがロボットであるという設定は、母の愛をえられない子供が母の愛を獲得するまでの物語という、昔ながらの物語を語るための道具に過ぎない。下敷きになっている物語はコッローディの「ピノッキオ」である。1本の丸太ん棒から、指物師のジェッペットじいさんによってつくりだされた操り人形のピノッキオは、できあがるとともにいたずらを始め、さんざんいたずらを繰り返したあげく、フカの腹の中に閉じ込められているジェッペットじいさんを助け出して、母親がわりの空色の髪の仙女(ブルー・フェアリー)の手で、人間の子供に生まれ変わる。スピルバーグ版「ピノッキオ」では、デビッド=ピノッキオは、水没したロサンゼルスのビル(フカの腹?)で、彼の生みの親ウィリアム・ハートに会い、水底に沈んだコニーアイランドでブルー・フェアリーを見出すことが出来るのだが、結局人間に生まれ変わることはない。その代わりに、人類が絶滅した2000年後に、人類の最後の記憶を持った生き残りとして冷凍から甦ることになるのだ。
火星人に取り囲まれたデビッドは、いわば人類の代表である。そして、母に捨てられた人工の息子は、最後に、自らが母親を再生させる。母と子の逆転。ここでは、子供がその母親を生むのである。父親は二人ともすでに死に絶えている(生みの父のウィリアム・ハートも、彼を買った「育ての」父も。ところで、ウィリアム・ハートは、おそらく亡くした我が子を元にデビッドを作り上げたのであろう)。完全なる母と子だけの幸福な世界。けれども、テレビコマーシャルが予感させるような感動のクライマックスはここにはない。何か非常に屈折したものが、素直に物語に没頭して感動することを阻んでいる。水底のブル ー・フェアリーとデビッドが向かい合い、2000年の時が流れるところで、多くの観客はとまどい始めるのではないだろうか。この映画に素直に感動できた人はよほどのお人好しに違いない。
ぼくは、この映画を最初キューブリックが映画化しようとしていたことを、後から知ったのだが、映画を見ているときから、後半の3分の1は非常にキューブリック的だな、と思いながら見ていた。キューブリックからスピルバーグへのバトンタッチによって、映画は明らかに破綻しているのだが、それが逆にこの映画の魅力になっているのも確かだ。少なくともぼくは、スピルバーグの首尾よく成功した作品にはあまり興味がない。むしろ失敗したときにこそ、スピルバーグの秘めたる可能性が見えるような気がするのだ。
ところで、スピルバーグは映画を撮り始める前に必ずジョン・フォードの映画を見直すそうだが、この映画を撮るに当たって彼はどのフォード作品を見たのだろうか。
(B・オールディス、早川文庫)
■この映画の原作は、ブライアン・オールディスの『スーパー・トイズ』。この本は、映画公開に合わせて翻訳が出るらしい、あるいはもうすでに出ているかもしれない。オールディスといえば、ずいぶん昔に読んだ、『地球の長い午後』が忘れがたい。植物も、昆虫も巨大化し て、その中
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