映画の誘惑

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『戦争のリハーサル』

『アクロバットの女たち』

『目をつぶって』

『血の記憶』ほか

イタリア映画祭2001

ここ最近イタリアで映画を撮り続けているストローブ=ユイレ。再評価の著しいパゾリーニ。そして『息子の部屋』でカンヌ映画祭グランプリを受賞したナンニ・モレッティ。今イタリアが熱い。

 マキアヴェッリは、思わずきいていた。
「イタリア?」
 チェーザレは、その鋭く光る眼で、マキアヴェッリをじっと見つめて言った。
「そうだ、イタリアだ。」

イタリア。この言葉は、何世紀もの間、詩人の辞書以外には存在しなかった。マキアヴェッリの知り合ったどの人物も、その地位の上下を問わず、誰一人、この言葉を口にした者はいなかった。当時のイタリアには、フィレンツェ人、ヴェネツィア人、ミラノ人、ナポリ人はいても、イタリア人はいなかったのである。

『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』塩野七生

レビュー

今年、《イタリア映画祭2001「イタリア旅行」90年代秀作選》と題して、イタリア映画の連続上映が全国的に行われ、この関西でも6月に大阪で、9月には京都映画祭の一環として京都で、約10本のイタリア映画が公開された。この手の映画祭には、興味は引かれてもなかなか足が向かないことが多い。ほとんど無名の監督の映画を見に行くにはそれなりの勇気と金がいるからだが、それよりももっと大きな理由がある。その映画祭で上映される作品の選考基準がよくわからないことだ。東京国際映画祭のようなコンペティション中心の映画祭では、どの作品が賞を取るかばかりに注目が集まるが、それより前に、どの作品をコンペティションに入選させるかで勝負は決まるのだ。いくら最終審査員に有名人をずらりと並べても、最初に選ばれる映画がどうしようもなければ何にもならない。だが、残念なことに、いい映画と悪い映画を見分ける眼を持った人はますます減ってきているように思える。もっとほかに選ぶ映画があったんじゃないか、そう思わせる映画祭が実に多いのだ。

フェリーニもアントニオーニも亡くなり、ベルトルッチもベロッキオも落ち目の今、ナンニ・モレッティだけがだけがひとり気を吐くイタリア映画に、はたしてどれほど期待できるのか。イタリア映画はもうだめだ、そんな声がかつての黄金時代を知るファンのあいだから聞こえてくるようになってもう久しい。しかし、イタリア映画は本当にもうだめなのか、それともたんに紹介されるべき映画が日本に紹介されていないだけなのか。今回のイタリア映画祭を見終えて、ぼくは正直言って、その水準の高さに少し驚いている。見逃した『笑う男』と『ラジオフレッチャー』と、ほとんど寝てしまって見ていない『死ぬほどターノ』をのぞいて、いずれも見て損はないできであった。イタリアにも有望な若手世代の作家たちが登場してきたことが、少なくとも確認できた。ただ、「レンフィル映画祭」や先の「ポルトガル映画祭」で上映されたパウロ・ブランコ製作の諸作品のように、なにかとんでもないものを見てしまったという気持ちにさせる、真の驚きに満ちた作品はなかったのが残念だ。そのなかでは、マリオ・マルトーネの『戦争のリハーサル』とシルヴィオ・ソルディーニの『アクロバットの女たち』がひとつ抜きんでていた。

『戦争のリハーサル』は、アイスキュロスの「テーバイ攻めの七将」を内戦の続くユーゴスラビアで上演しようとしている劇団のリハーサル風景を中心に描いた「戦争」映画だ。この内容を聞いて、スーザン・ソンタグがサラエヴォでベケットの「ゴドを待ちながら」を上演したことを思い浮かべる人がいるかもしれない。実は、このエピソードはマルトーネの映画の中にも出てくる。劇団員が雑誌社に自分たちがやろうとしているユーゴでの公演の取材を頼みに行くと、そういう記事ならソンタグのときに書いたのでもう古いと雑誌社の人間に言われるのだ。この話にはまだ続きがあって、作家のフィリップ・ソレルスが「ル・モンド」誌上でソンタグを皮肉って、彼女はベケットではなくマリヴォーをサラエヴォで上演すべきではなかったのか、という記事を書いたのだが、この記事がきっかけとなって撮られたのがなにを隠そうゴダールの『フォーエヴァー・モーツァルト』なのだ。『フォーエヴァー・モーツァルト』は『戦争のリハーサル』の2年ほど前に撮られているので、マルトーネは見ている可能性が高いのだが、このあたりの事情についてはパンフレットではなんら言及されていないので、わからない。マルトーネは元々は演劇畑の人間で、実際にアイスキュロスの芝居を上演するためのリハーサルをかさねながら、それと平行してこの映画のシナリオを作り上げていったという。この演劇と映画を平行させながら即興的に映画を組み立ててゆくというやり方は、ゴダールと言うよりむしろリヴェットの映画作法により近い。劇団のユーゴ公演はけっきょく土壇場になって挫折するのだが、マルトーネはリハーサルが次第に周囲に不穏な空気を生み出してゆく模様を通じて、今そこにある戦争状態を描き出すのに成功しているように思える。

一方、ソルディーニの『アクロバットの女たち』は、イタリアの北部と南部でまったく無関係に生きるふたりの女がひとりの老婆を介して奇妙な相似形を演じ始める様を、単純で力強い構成の中に描いた映画だ。それぞれの女の北から南への、南から北への旅を通じて、イタリアの北部と南部の風景が、空気感の違いさえも感じさせる繊細さで対照的に描き出されてゆき、最後にモンブランの白い風景の中に溶解する。ソルディーニは『ベニスで恋して』がすでに日本でも公開されているが、ぼくは不覚にも見逃している。マルトーネ同様ソルディーニという名前も、今後要注意のひとつになりそうだ。

これ以外の作品で特記すべきは、フランチェスカ・アルキブージの『目をつむって』、ヴルマ・ラバーテの『僕らの世代』、エドゥアルド・ウィンスピアの『血の記憶』といったところだろうか。『目をつむって』はベロッキオの『乳母』と同じような時代を背景に、「目をつむって」生きる主人公の幻想と幻滅を描いた風変わりな映画で、コスチュームプレイに初めて監督が挑んだ作品らしく、完全には成功しているとは言い難いが、注目すべき映画ではあった。アルキブージは『カボチャ大王』ですでに有名ということだが、ぼくは見ていない。大の小津安二郎ファンだと伝え聞く。

『僕らの世代』は、シチリアからミラノまでテロリストを運ぶ護送車の中のテロ犯人と警官との対話を中心に、「鉛の時代」の苦い記憶を甦らせる構成になっていて、「この世代」の深い政治的挫折感をある意味巧みすぎるほどに描いていた。ジャン=ピエール・メルヴィルの映画を思わせる作品だと言えば、雰囲気はわかってもらえるだろうか。『血の記憶』はタイトルからペドロ・コスタのような映画を予想していたので、その意味では期待はずれだったが、藤田敏八の映画を髣髴とさせるマフィアがらみの青春映画で、これも悪くなかった。

今回のプログラムには入っていないが、痴呆症の老人と不良娘の奇妙なふたり旅を描いた『雨上がりの駅で』(なんといい加減な邦題!)のピーター・デルモンテなど、ほかにも注目に値する監督がまだまだイタリアにはいそうである。どうか配給業者の方々は、目先のことにとらわれて『踊れトスカーナ』なんかでヒットを狙うことばかり考えて、結局はイタリア映画への関心を失わせることにならないように、優れた作品を勇気を持って公開していってほしい。

雨上がりの駅で  
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