文学のための「F+f」 ものを書く基礎
2002/7 北井正機
論文は文学ではない
F+f。これは夏目漱石の「文学論」の冒頭に書いてあるものである。
単純な考えであるが執筆に携わるものにとっての基本である。分類すれば、文章には「F」だけのもの「f」だけのもの、そして「F+fの三種類がある。f
「F」はFact、事実のことである。これは認識的要素である。事実に基づくものとして、新聞のニュース、技術論文、レポート、企画書、教科書の記述などが主である。事実を伝えることだけを目的とする。順序良く、分かりやすく書かれていることが重要で、その他の特別な工夫は必要としない。
「f」はfeeling、感情である。情緒的要素であり、感情や心の動きが主となる。「ぞくっとした」「本当に恐かった」「超、気持いい!」など感情だけのフレーズである。
文学は当然「F+f」でなければならない。文学が内界を表現する芸術である以上、feelingのないFだけの伝達では、小説的感動は起こらない。「F」だけが主の論文やマニュアルは必要な情報であるとしても、その中身に感動は要らない。記述パターンがあって、伝えるべきFactがわかればいい。論文には理論的根拠が必須であるが、パターンの決まった文が書けるからといって執筆に長けていることにはならないのである。「f」は断片的な話し言葉で、それだけを聞いただけでは何がどうなっているのかはわからない。
小説やエッセイを書こうとしたとき、まずアイデアが浮かぶ。小説のアイデアは、そのテーマが「F+f」でないと必ず行き詰まる。歴史上の人物も「F」だけなら教科書に書いてある。歴史教科書に「f」はない。物語とするなら人物の業績だけでなく、何に惚れたか、何に心が打たれたかという「f」が必要である。
文学は「F」を丹念に調べても、歴史や事実を語ることだけが目的ではないので、調べた事実の伝達のみにこだわることはない。ロマンを語るには、一旦これを捨てることさえ必要にもなる。「切断」という作業だ。一旦すべてシュレッダーにかける。事実の切断をして、それまでの文献や調査を打ち切りすべてを無にしてみる。その後、何かが自分の脳裏に再び蘇ってきたとき、そこに自分があたかも体験したように感動が生まれ、情緒的なものが生き生きと湧き出てくるのである。司馬遼太郎の歴史長編小説は渾身の人間の生き様が髣髴としている。血が滾り、ロマンへの架け橋となってその世界へ誘ってくれるのである。
ものを書くという行為は、自分の自由な心を自由に生かせるように解放してやることであるとも言える。学校で学んだ常識や因習など、学習による意識の、心からの解放である。このとき成果があるなしや挫折などは実に取るに足らないことなのである。一時の世間からの分離である。
書くとき、初め「F」に抑圧されている。自分の経験や知っていること、また身辺のことである。そのときまだ充分な「f」はない。本来あるべき想像の世界の大きさに比べればちっぽけなものだ。
想像には自分の世界がある。自分を陶酔させるもの、勇気付けるものが溢れた世界である。これが生命の湧き水であり、止まることなく滾々と出る。旅人が回り道の中で、湧き水の発見に至るとき、ここに初めて人間が単調な世界から抜け出せることができるのである。
そして、創造の世界とは、まさに自由な世界なのである。したがって、その内面的活動の成果は派生的な世間の評価は本来必要ではないのである。極論をすれば、短期には理解する人が一人でもいれば良いと思う。
小説は緊張と解放の連続線だ。楽あり苦あり。そもそも人間には緊張と解放かが交互にやってくるので、少しの苦痛にも耐えられる。どちらかに偏れば必ずひずみがでてくる。自由な創造をするためには、心を広くし、すべてに納得できる鷹揚さがなければならない。書く喜びは知る喜びにも?がる。
未知の世界は無限の宇宙のようにとてつもなく広い。
想像の世界に浸るとエドガー・ポーもヘンリー・ジェームズもヘミングウェイも生き生きと蘇る。完
大学受験の人へ
この頃小論文の出題が多くなってきています。コツを知っていると役に立ちます。
【小論文の注意事項】
[基本] 気負って、無理に難解な内容に入らないこと。自分が思うことを素直に論理的に述べることを心掛けよう。
◎ 課題文の引用はよいが、繰り返しの説明は不要である。
◎ 具体的な社会問題に対しては、その解決策を提言しなければ論文としての条件を満たしたことにならない。
◎ 問題点として論じたところとズレないように注意しなければならない。
◎ 課題文に反応することばかり考えては危険である。課題文に問題がある場合は論点を絞ることが第一条件である。
◎ 具体的な内容を伴わない精神用語は小論文には用いるべきでない。「心」「思いやりの精神」など何を言いたいのか、具体的にどうするのかを明確にする事が重要である「心の触れ合い」「心をこめて」では意味が伝わらない
◎ 筆者の意見そのものについて訊かれているのではない場合なるべく課題文の内容とは別の点から論じる工夫をするとよい。
◎ あなたせの結論は避けること。「政府に努力を望む」ではなく自分が何をしなければならないかを考えなければならない。
◎ 政府や他者の努力を期待するような結論では小論文として通用しない。
◎ 設問の特殊条件は出来るだけ始めのうちに満たしておいたほうが安全である。
◎ 六〇〇〜八〇〇字では「序論」「本論」「結論」の三つの段落展開を基本とする。内容によって「本論の分割」「客観説明」「自分の意見」などに分けてみる。
◎ 主題に特別結び付かない部分は最小限の表現にとどめる
◎ 自説に対する反論を取り上げ、それをさらに克服して自説を補強すると論の正当性が増す。
◎ 「事実であるという保証がない」事実として確認できない事柄を議論の前提として論じてはならない。証拠を出した上での論述なら良い。
◎ 感情が直接表れたような語句は避ける。「馬鹿」など。
◎ 改革も感情的に叫んだだけでは意見としての意味をなさない 論理化の努力が必要である。
◎ 自分の体験を書く場合、あまり具体的なことまで書きすぎて一般性を失わないように注意する。
◎ 自分の案の欠点も考えることが重要。
◎ 着眼点を絞る。問題点を絞る。ただの資料分析に終わらない
◎ 他人の心情を勝手に想定すると、説得力のない議論になる。
日本よ「環境大国」へ目ざめよ
ヨーロッパ諸国に比べ、アジアは著しく環境意識が低い。アジアにおいて、日本のとるべき役割は常に大きい。しかるに環境保護に対する日本国民の意識は、決して高いとはいえない。環境問題を真剣に考えている人がいないわけではないが、国家の政策はあいまいであり、環境省のメッセージは国民には全然伝わらないし、組織的アプローチは全く弱い。少しましな企業においても利益追求との天秤でしか考慮されない。まず環境ありきという発想にはならない。
国際規格ISO14001の認証企業は増えたが、実際には何の役にも立たないだろう。ISOそのものが仕組みを調えるための形式である。真の取り組みは自主的活動にゆだねられる。
それは当然そうあるべきだが、認証合格後はサーベランスを受けるための最小の活動になってしまう。言ってみれば環境問題の中身はどうでもいいのだとさえ思わせる。認証審査をする側も、与えられる側も環境そのものは単なるテーマでしかなく、真の環境問題解決へ向けたものではない。
所詮ISOでは埒があかない。資格重視主義の日本には国際規格のお墨付きをえるために、競って取り組むが、そこで終わっている。
日本の進むべき道は、国家がはっきり大局曲的に、環境政策を打ち出し世界と歩調をあわせ、実質的に推進する事がもっとも大切な事である。
最高の人間像/帝釈天はインドで最も優れた神として尊ばれてい
三学 戒律、禅定、智慧
戒律:悪をやめ、善を修すること
汚れに染まない行動や思考
禅定:寂静の中にあって、精神を統一
精神の散乱を防いでその統一を図る
智慧:一切の真実を見きわめる
経験的知識を超えた霊智
現在執筆中 村上水軍
真っ青な空。紺碧の海に勇壮に浮かぶ船団の長、高重は感慨深げに前方を見た。敵の船団は平常時の編成で大三角陣形を敷いていた。第三角陣形とは、大将船を中心に前衛船団、左右中衛船団、左右後衛船団の三角形をなして進行する陣形であり平常時のオーソドックスなものであった。
村上水軍は戦法、兵器、天候、潮流、航海術などを研究した自然における運をも含めた総合的なものであった。歩兵や騎兵など多種な兵法を生み出している陸地と違い、海上では板子一枚下は地獄というきびしい状況にあるため、当然、陸地の戦法とは大きく異なる。三島村上家の家法兵学書には「船に乗る事は天の利とし、天地の利を考えるに長けた者こそ戦略者であり、最良の位置の利を考えるべし。船上は漕ぎ手に至るまでみな家族であり、軍の始むる人の和を先とすべし」とその心得を示している。また「海上は天気の善し悪しなどによって大いに利害となる」という有利不利は全て天気次第の考えを第一に優先していた。
この日は快晴そのものであった。
「こしゃくな」
「あの旗は平郡島か八島界隈の餓鬼共じゃ。けちらしょうぞ」
高重の行き先は豊前蓑島である。来島から伊予灘を通り周防灘を経て、防予諸島を進めば間近に見える九州国東半島を右上に舵を切って迂回しさらに左舵でまっすぐ進めば海岸線が見える。周防灘を形成する普段穏やかな海路であったが、今蓑島は毛利と大友の戦闘中である。瀬戸内海には無数の島、入江があり、無数の海賊が潜んでいた。徒党を組んだ海賊同士の争いは日常頻繁に行われていた。歴とした軍船でも成り上がりの海賊は戦を仕掛けてくることが多かった。食いっぱぐれの海賊まがいのほとんどは相手にもされず蹴散らされたが、中には武器を大量に持っているものや、戦略に長けたものもいて手を焼くことも多かった。戦略に長けたものが首領の場合もあり、あなどって仕損じることがあってはならない。常に一発勝負がかけられていた。
つづく
散歩の楽しみ
日頃運動不足なので散歩を日課として楽しんでいる人も多い。散歩もだらだら歩くのも良いが、ある程度のスピードでエネルギッシュに歩くと充実感も倍加する。20分までが準備運動のようなもので、そこまではエネルギーの消費はあまりない。それを過ぎたころから体はやわらかくなり、心地よい負担を感じるようになる。エネルギーが燃えているのだ。散歩の充実感はこのじわっと汗が滲み出てくるころからしばらく持続する。
マイペースなのも気が楽でよい。集団で散歩するのをたまに見るが、一人で気ままに歩くのが何より体にいい。時々デジタルカメラをぶら下げて四季の草花をとりパソコン上でアルバムにするのも楽しみの一つだ。歩いている間は思考は奔放でとりとめもないことを自由に考えるのもすこぶる健康に良い。
散歩を楽しくするために
散歩は健康のため、悠々と歩く。
自然を愛する気持ちを強く持つ。
他人を意識しない。
義務感を持たない。
充実感を味わう。
たまには音楽を聴きながらも悪くない
季節の変わり目には感動を忘れない。
花は近くまで寄って愛でるとよい。
脳裏にしまうことが出来ればなおよい
とにかく散歩はすばらしい。
散歩をする幸せは永遠に続く。
我が家のざくろ 2001年撮影
柘榴は秋の季語である。しかし実際は柘榴が実をつけるのは初夏であり、緑輝く真夏の逞しさは眼を愉しませる。四季を通してこれほど生き様の見事な植物は地球の宝物にさえ思える。事実、柘榴はピンクの光り輝く宝石が内蔵されていて、あるときになると惜しげもなく披露する、その色や艶は自然にしかない、人工的には決して作れないものである。
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