「ベートーベンさんに会うなんて」
正機
この前、ベートーベンさんに会ったんだ。夢の中だけど本当だよ。いくら夢の中だって、まさかベートーベンさんに会えるなんて、信じられますか?
あれは演奏会の真っ最中だった。僕はどうしたわけか、あまり夢中になってしまって、気がついたら、ステージに上がってしまっていたんだ。1曲が終わったとき、矢も楯もたまらなくなって、ベートーベンさんにお願いしたんだ。
「僕にも指揮をさせて!」
ベートーベンさん、初めは無愛想だった。僕のお願いが聞こえたのかどうか、そのとき知らない顔していたんだけど、時間になると、僕をちゃんと指揮台まで案内してくれて、楽団のみんなに「宜しく」とお願いしてくれたんだ。そして指揮棒を渡してくれた。
まさかのことなので呆然としていると、ベートーベンさんは僕の身体を半回転させ、手で頭を押さえお辞儀をさせてくれたんだ。聴衆を見たら、はじめ暗くてよくわからなかったが、暗い中に人が見えた。それも大勢の人だ。演奏会なのに会場はひどくがやがやしていたし、物珍しげにぎょろぎょろとした顔の中に白い歯が見え笑っているんだ。二階にも三階にも人がいて、どの顔も口があいているように見えた。無言だが、「しっかりやれ」と励ましてくれているようだった。もう一度お辞儀をすると、拍手はわーっとわれんばかりになったが、僕がくるりと背にすると、場内はさっと水が引くように静まった。
中央に黒くぴかぴかの大きなグランドピアノが扉を開けてでんと据わっていた。曲は僕の大好きなピアノ協奏曲第五番「皇帝」だった。ピアノのそばにはすでにすらりとしたソリストがにこやかに立っていた。あまりのかっこよさに見とれて戸惑っていると、いきなり握手をしてくれたんだ。とても緊張した。このベートーヴェンさんの「皇帝」だけど、大好きなんです。ずっと前から毎日聴いていて、そらで歌えるほどになっていたものだった。
静寂の中、僕は両手を高く上げて思い切り棒を振った。
「ジャーン」
これは最初の音だが、音がでてビックリした。言葉ではこれしかいえないけど、これはすごい音なんだ。希望と喜びに満ちた音なのだ。この音が出たときはあまりの嬉さに身体中に血がたぎり飛び出てしまうような気がした。そして勇気も湧き出た。こんなすべてが満足することがあるなんて、これはひょっとして夢ではないのかと思った。
その後の軽やかなメロディはとても気持が良い。いよいよ独奏ピアノが演奏に加わって入ってきたとき、僕の胸は興奮のるつぼだった。ソリストは身体中のエネルギーを注ぎ込むようにピアノに向かっていた。時折り、ソリストは僕の顔を、瞬間ではあるが、充実した自信のある顔で捉えて、オーケストラの波に溶け込んだように、きめ細かい表情で弾いた。流れがあまり自然だったが、ふと何気なく目が合ったのだが、幕の向うでベートーベンさんが満足そうにしているのが見えた。フルート、オーボエなど木管の響が心地よい。弦楽の流れるような艶のある音色に魅せられた。トランペットも優雅に奏でる。楽団員の気持の入った演奏をバックにピアノはベートーヴェンさんのその真髄を見事に引出した。
指揮者には譜面が無かった。無我夢中で演奏しているところがどこの部分なのか分らない。しかし、脳裏にきっちり埋め込まれた旋律が次々と現れた。これは夢なのか。夢ならさめないでほしい。
派手なパフォーマンスをしたように思えた。ざわめきの中に、我に返って気がついたとき曲は終わっていた。聴衆の拍手喝采はカーテンコールやソリストに対する花束などの間も延々と続いた。ぎっしり詰め込まれた拍手の中にも、私の思いは違っていた。
「こうしてはいられない。ベートーヴェンさんに会わなくっちゃ」
「ベートーヴェンさんはどこにいますか?」
「ベートーヴェンさん!」
どこを見てもその姿は見当たらない。呼んでも声はしない。誰かに聞いても知らないと言う。まさか、最初からいなかったのか。そうではない、確かにさっき目の前にはっきりいたのを知っている。指揮台に連れて行ってくれたのは、そのベートーヴェンさんだったから。
いまでも、いつ、夢から覚めて現実の戻ったのか記憶がない。
しかし、信じられないでしょうが、私はベートーヴェンさんに確かに会ったのです。
「ばちが当たる」 1
子供のころよく聞いた。この言葉には執念深さがこもっている。
お釈迦様は決してばちは与えない。そうなるとだれがばちを与えると言うのか。全然理論的でない。「ばちが当たる」と言う人はみんなが次のように考える事を望んでいる。「その世界は人間を超越した何かわからない強い力があり、人々の行為を天上から観察している。それは瞬時のときもあり、永年にわたった継続的な場合もある。そして正しい見地から裁きを執行してくれる。」
理屈で証明することしない時代であって、祈祷や迷信を盲目的な信仰が、生活の重要な一部であったときのことだから、たしかに「誰が」とか「どんな作用で」などと分析するのは本来説を最初から認めていない人間の一方的な解釈だとそしられかねない。現にいまでも一部のアフリカの未開地では怪しげな信仰が尤もらしく生活を仕切っているのを見ることが出来る。祈祷師の言葉はいつもこうだ。「祟りじゃ」
主語も述語も正確でないこの言葉だがけっこう今でも遣われる。「そんなことをするとばちがあたるよ。」「今にばちが当たるよ」
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