アマチュア・オーケストラの真髄とは何か。アマチュアとは、言うまでもなく素人のことである。いくら音楽が好きでも、いくら鍛錬を積んでも、究極的には技量が伴わないのが一般的だ。それでも、アマチュア・オーケストラは演奏会ともなれば、しっかり入場料をとって堂々と行う。アマチュアの技量で、お金がとれるのかと指摘する人もいる。しかし、演奏会は興行の一種であるから、主体がプロであろうとアマチュアであろうと、一定の経費がかかるのは確かだ。未熟な演奏を聞いてもらうからといってもこれだけは止むを得ない。ところがどっこい、そんなに卑下することはない。アマチュア・オーケストラにも、お金を出してでも聞くべき価値があるのである。プロにはないものが厳然とあるのである。
演奏会は音楽芸術表現の一環である。うまいか下手かというものは一般人の単なる印象でしかない。芸術性は一つの評価基準ではカバーできない。うまいかへたかより大切なこともある。その中にどれだけ、音楽の心が詰まっているかを考えることが重要だ。プロはそれが仕事であるから、芸術性への追及は当然のこととして思う存分果たすことが出来る。きちんとやって当たり前で、その技量を持ち合わせている。指揮者はある水準以上の時点から目指すものに対してしっかりまとめていく。演奏の確実性を根拠として、聴衆も納得して期待を込めて演奏会にいくのである。これがアマチュアとなると大変だ。真似ごとはできても、本来、逆立ちしてもできないものはできない。しかし、演奏会を行うというときに、中途半端にここまでで勘弁してくださいとはいえない。貪欲に最終的なものを得ようとする。ひたむきさとか作りあげる喜びのために、損得無しの情熱やお互いへの思いやりや少しでも向上させるという団結心など、およそ芸術とは無関係な要素を振りかざしながら、七転八倒し、必死にもがきながら何かを掴もうとしている。無駄な努力のように見えるが、実はここに異なるものの訴えが聴衆の心を捉えることになる。鈍感な人は、ホルンがミスったとかバイオリンがそろっていないとか、未熟な演奏の方にばかり囚われてしまう。あらや欠点などに惑わされて見逃す場合が多いが、現実にはプロの演奏にはない念力のような味わいが存在するのである。アマチュア・オーケストラといえども、決してこの付随的なもののためだけに、長期間の練習に励んできた訳ではないが、結果的にアマチュアの産物としての貴重な宝となっているのである。
中には少々技量の高いといわれるアマチュア・オーケストラも存在するようだ。スマートで華やかで、これがアマチュアかと見まがう場合もある。しかし、それだけでは、結局はアマチュアにしては上々といわれるのが関の山で、技量が未熟という意味では同じになる。演奏技術に対しては、それなりに厳しい目がある。アマチュアである限り、プロとの境目である厳しい障壁があるのは否定できない。その壁がある限り、どう振舞ってもアマチュアの域から脱出はできない。演奏が泥臭いかどうかではない。無知がゆえに、無知がなせる技として、無謀な挑戦を試みる。アマチュアの特権でもある。そのためにありとあらゆる術を駆使する。しかも、難しいからといって初めから誤魔化そうという気はない。それどころか、全く相応しくないものにまでに、敢然と向かおうとするから始末が悪い。
あるとき、アマチュアの演奏会でテンポが異常に速い「フィンランディア」を聴いた。終わってから聴衆は騒いだ。あの「フィンランディア」は速すぎる。プロなら絶対そんなことをしない。いや、あり得ない、奇抜すぎる、などの声が起きたのは常識的で不思議なことではない。しかし、肯定の意見を言う人も確かにいた。思いがけないものに出くわすと人はどぎまぎする。新解釈に満足する人もいれば不満で消化不良になっている人達もいて、議論はエスカレートする。ピアノで静かにするところをフォルテでここまで誇張したら曲想が変わってしまう。ここはホルンの聴かせどころではないだろう。作曲者の意図はこうではない。もっと重厚さが欲しい。いや、その代わり民衆の怒りの爆発が高まる効果があるではないか。玄人、素人入り混じっての評論があるのは平和で健康的だ。芸術における解釈は決まり切ったものではないから、人それぞれ感じ方が異なるのは当たり前だ。説得力があるかないかはさておいて、アマチュアならではの発想も生きる。
公平にするために、今まで伝統的な解釈として聴いてきたことなど一般的な常識は一旦横に置くことも一考だ。新しい発想にチャレンジするのはよい。それをしっかり表現できればご立派だ。プロとかアマチュアとかいう次元の話ではない。これこそ極めつけの音楽観の追求かもしれない。しかし、云うだけでなく、演奏となるとおいそれと簡単にはそれができない。発想が奇抜というだけでは話にならない。前衛的な音楽家も現れ、その都度革命を起こしてきた。自由な身でのチャレンジはよいが、やはりそこに立ちはだかり、容易に革命を果たさせないのが技量の壁だ。
できないものはやはりできない。ところが、その挑戦の中で物凄いものを得てしまうことがあるのだ。アマチュアが誇張したいのは、細かいことにこだわらないで、未熟者が見事に作り上げた奔放な作品という一つの成果である。偶然にも、創造者が描いていた本質的なところにまで、肉薄している場合もある。芸術においての必須条件である、感動させるという究極の結果を果たしているのである。芸術の神がいるとすれば、この偶然に驚くに違いない。ところがそれが予期せぬうちに厳然と起きてしまうのである。
論理から外れるが素人がなせる技と言うべきものだ。そこでは伝わるものが異なるのである。
できた音楽が異質なものであるということではない。やたら不純物が多い鉱石の中からダイヤを見つけるようなものであるが、ダイヤを含めて雑多なものの詰まり方が、実に絶妙なのである。純粋に研ぎ澄まされた音楽性の追求という点では、プロのものとは比べものにはならないが、アマチュアでしかあり得ない無鉄砲な純粋さによる訴えは、一味異なるのである。不ぞろいがもたらすアンバランスがそれぞれ干渉しあってかすかな光となり異様に輝いてしまうのである。音楽を純粋に愛する人にだけ、切に訴えかけているものが、光を放ち、共感を与えるのである。これが、分かる人だけ通じるアマチュア音楽の真髄なのである。
アマチュア・オーケストラと言えば大学交響楽団やそれらを経て加わる各地市民オーケストラが多い。アカデミックということばは、一般的に大学での学問や研究を指す場合が多く、特に音楽には関係のないものではあるが、この学生らしい、純粋さや執拗な学究的な雰囲気は、やはりアマチュアの中でも、ひたむきに取り組む学生オーケストラの持ち味ともなる。したがって、学究での偶然の発見のように、無謀でも、一心不乱の追及という一途さこそが、アマチュアがアマチュアたる所以でもあるのだ。技術だけをひけらかし、金儲け主義の興行を主としたり、プロのまねをしている模倣の集団ではあり得ない。したがって、この宝はどのアマチュア楽団にもあるとは言えないが、期待せずにいる場合、時として、偶然のなせる妙技がその渦の中にはまり込んでしまうことさえあるのだ。これこそ、プロにはないものなのでもある。どれだけの人がこれを味わったかは不明である。しかし、色眼鏡をかけずに、音楽そのものを素直な気持ちで受け入れる人であれば、必ずジーンと胸を打つという場面に出くわしているはずである。
プロであれば当然だが、アマであっても、独自のスタイルを貫き、人にいかに感動を与えることができるか、計算できない僥倖の幸運を信ずるべきだ。成果だけを追いかけてはいけない。技量の未熟さに悲観することなく、今しかできない自分の音楽を真剣に、思いっきり、表現することが大切なのだ。
☆こぼれ話 神秘的なホルンの音
管楽器の中でも際立って演奏が難しいのが、ホルン。難しさゆえその音色は神秘そのものだ。
コンサートなどで、ホルンの出だしでコンマ何秒間の不適切な音が興ざめになる。名手でもたまにあるほどだ。
不思議な事に演奏者は、何事も無かったような顔をしている。細かい事にくよくよしないのがホルン奏者のいいところだ。
ニュース・トピック
2011年1月22日 ニコニコ会
今年初めての日本フィルを聴く会 曲目はブラームス「交響曲第1番」ハイドン「トランペット協奏曲」ベートーヴェン序曲「コリオラン」アンコールバッハ「G線上のアリア」 参加者 濱野、服部、田中庸夫、田口、松岡、北井
服部さんは女性ソロトランペット奏者に感動した様子。この後は楽しい集いでした。みんなは音楽よりお酒を酌み交わしながら、昔話をする方が良かったみたい。中にはプロの音楽とアマチュアの音楽の違いなどまともな話がありました。
2010年 10月 「音楽短編集1集」を贈る。
たくさんの感想が寄せられて感激しております。ありがとうございました。中でも、中山さん、福田さん、富岡さん、立花さん、田口さん、伊藤弘さん、加藤範子さんのお便りは心を打ちました。心ある人に巡り合えたようで、作ってよかったなあと思いました。第?集は10月ごろになりますが、まず、感想を寄せられた方だけにお送りする予定です。
2010年9月
田中庸夫さん、服部伍郎さんからメールあり
関東在住を知る。
早速、東京OB会会合を開くべく濱野、松岡さんに連絡した。
懐かしいなあ。
2009年立花さんが大阪城ホールの第九に参加した。あの立花さんが、大したもんだ。どんな顔して歌ったのだろうか。
後日談 そのときのDVDが発売されたそうです。合唱団の中に立花一郎さんが映っているそうです。
伊藤哲夫さんからメールが来た。40数年前の懐かしいことが書かれていた。その頃のことを思い出して心が温かくなった。2009.9
立花さんと連絡が取れたのは実に喜ばしい出来事だった。
松岡さんと連絡が取れたのも実に喜ばしい出来事だった。
NEW 濱野さんから佐治さん、吉田さんとも連絡が取れたとメールがあった。
みんなしっかり生きてきたのだろうな。
へたくそだったオーケストラを思い出しているのだろうか
2009、3月に濱野さん、松岡さんと千葉県文化会館へ行った。芥川也寸志の音楽ショスタコーヴィッチの交響曲第1番などを聴いた。素晴らしい演奏に感動した。その夜は旧交を温め一献傾けた。しばらくぶりで楽しい時間を過ごした。
梯剛之の「いつも僕のなかは光」を紹介した。
濱野氏
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