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開拓歴史 ◆音吉の祠 |
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音吉は、元抜海に住んでいたアイヌであるが、明治29年ごろから兜沼囲む原生林に小屋をつくり、季節に来て付近の山野に住む熊、狐、狸、テン、カワウソ等を狩り、あるときは湖水のさけ、ます、うぐい、イトウを漁り、また菱の実を採取し、まったく原始的な生活をしていた。この森は音吉が終生愛しつづけていた森で、春ともなるとウグイスの声を聞きながら山野に湖水にえものをあさっていたものであり、部落の人たちはいつとも無くこの森を称して、音吉の森と呼んでいた。
明治36年はじめて和人梅村庄次郎入地してから相提携して土地の開墾につとめるようになった。その傍ら狩猟に従事していたが、特に熊取の名人として、有名であり、狩猟方法は熊の穴をみつけ、入口をふさぎ、出てきたところを火なわ銃で射ち殺す、この他毒矢、しかけ矢などで獲っていたという。この捕獲した熊は一代で大小89頭に及ぶものといわれ、捕獲のつど熊送りと称して神棚を設け、これに頭蓋骨を祭ることを例としていた。しかし、この神棚は野天に晒されているので、風雪、鳥獣のため離散する事を心配し、大正15年6月15日梅村庄次郎は、これを収集し湖畔に高さ1.5メートルの祠を建て、その霊魂を祭ったものである。それ以来、この祠を称して音吉神社といっていた。音吉は、入植者の道案内を勤めるほか、豊富をいろいろな面から紹介するようになってから、入植者も次第に増え、この地方の開拓功労者であった。名前を富本治郎と改名したが一般に音吉と呼ばれていた。また、同族の世話もよくしたといわれ、宗谷地方の酋長(首長)イシンリキは晩年音吉を頼ってきて息を引き取ったとのことである。音吉は昭和11年1月12日、87歳で他界した。
なお、昭和33年12月3日、道立公園審議会、北大犬飼教授が視察されて「埋もれている文化財」として発表した。
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