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開拓歴史 ◆梅村庄次郎 |
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岐阜団体長の梅村庄次郎は、明治35年兜沼に未開地460町歩の無償貸付を受け入地した。当時は道路無く、家無く、まことに無人の郷にして、ただ、幸いにもアイヌの音吉なるものの狩猟のため兜沼湖畔に小屋を構え、月に1度か2か月に1回くらい抜海に往来する踏み分け山路のあるのみで、笹深く茂り往復の困難は実に筆紙に尽くし難い状態であった。ことに熊の危険もあり、アイヌ音吉を案内役に頼み、付近を調査探検したところ、農耕適地の広大である事と、風致に富む一大湖水をみて、これも将来の楽園地になるものと、8月1日いったん帰国し移民の勧誘につとめた。そして、翌年渡道の準備をし、4月小作人12戸をつれて、兜沼に移住した。しかし、小作人等は内地と異なり、米、味噌は、8里余りも離れている稚内から、人の背で運搬するというようなことの不便さや、開墾の苦労、猛熊の危険に恐れて、各方面に離散してしまった。梅村団長のみは、当初の希望を捨てず、アイヌの音吉と力を合わせ、作小屋を建て、農耕に従事し、さらに自信もできたので、明治39年12月故郷へ帰り、翌年4月、妻子を伴い、定住の決意を固めた。大正7年6月には、兜沼郵便局長に任命され、また、住民の信望厚く、明治44年以来、村総代人に選ばれ、あるいは学務委員、移民世話係等あらゆる公職に就かれ、地方開発に尽力、特に天塩線稚内分岐速成については、収支有志と協力し、その運動に東奔西走され目的達成に尽くされた。昭和18年8月12日81歳で他界された。梅村庄次郎氏の自宅は当時郵便局として利用されていたが現在では、兜沼郷土資料館として提供されている。
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