朝、アルバイトへ行く前にちょっと寄り道をする用事があったので、いつもと違う道を通った。
途中で、昔バレーボールのコーチをしてくれていた、おじさん(70代になられたかな)に会った。
おじさんは家の周りの掃き掃除をしていた。
今は亡くなられたおじさんのお父さんも、近くにある小学校の周りを毎朝、掃き掃除をしてみえた。
それが「朝から、うるさい」の中傷があり止めたと聞いている。
掃き掃除をしている姿はおじさんのお父さんを思い出し、ほほ笑ましい気がした。
「おはようございまーす」と元気よく挨拶をし、自転車で通り過ぎようとした私に、「ちょっと待て待て、前からおまえにやろうと思っているものがある」といいながら玄関に入っていった。
そして「俺が作ったやつ」と嬉しそうな顔して手渡してくれたものは、3センチほどの小さなキュウピー人形とこけし人形。
綺麗なリリアンのような紐で、帽子や服が編んである。
私は「へー、可愛いね。ありがとう」と、お礼を言って一目散に自転車をこいだ。
職場に着くと人形をポケットから取り出し早速、手提げ袋に二つとも付けた。
今日1日、とっても心が温かくて、幸せな気分で仕事ができた。
先日、ある小学校のクラブ活動の場にお邪魔する機会がありました。
ボランティア部というのだそうです。
20数名の子どもたちの大部分が4年生でした。
点字のことを少しやりたいというお話でした。
たまたま都合のついた視覚障害者が一緒に行ってくれて、はじめに彼が自分の普段の生活について少し話をしました。
外出は今はひとりではほとんどしないこと、テレビは見えないので主にラジオを聞いていることを除けば、ほぼみんなと同じようなものだよ、という話でした。
そのあと、子どもたちが一人ずつ感想を述べてくれたのです。
「目が見えないのに、普通に何でもできてすごいと思いました!」
話し手が意図したのは、見えない人が何もできなかったり、特別な生活をしているわけではないんだよ、ということでしたから、そういう意味では期待どおりの、あるいは、「!」の分お釣りがくるような、いい反応でした。
それは多分、ごく普通の教室風景だったのでしょう。
二人いた担当の先生も別に何もおっしゃらなかったし、子どもたちも、当然のように発言していました。
きっといつものことなのです。
その中で私一人だけが、なんともいたたまれないような不安感というか、居心地の悪さに身を捩る思いでした。
子どもたちの発言が進むにしたがって、それは昂じていきました。
どういう顔をして聞いていていいのか、表情がひきつってくるような感じでした。
何故かというと、子どもたちの発言が、まるで判でおしたように、片言隻語、寸分の狂いもない、と言っても過言でないくらい同じだったからです。
まるで、同じ文章を読んでいるみたいなのです。
なげやりな態度でそうなるのではないんです。
みんなとても真面目で一生懸命なのです。
だからこそ、とても異様なのです。
小学校4年生というのがどんなことを考えている年齢だったか、自分のことはもちろん、娘のことももう忘れてしまいましたが、それにしても、こんな事態に出くわした記憶はありません。
無論、きっとみんなが心から、その発言のように感じたのでしょう。
表現も簡潔でわかりやすく、文章として過不足のないものだったのでしょう。
だから、敢えてその形を逸脱する必要もなく、結果的に同じ表現を繰り返すことになったのでしょう。
それはよくわかるのですが、それにしても、なのです。
もしも私だったら、この全面的「右へならえ」状態を、何とか打開するために、一番強く感じたことは無視してでも、違うことを言ってしまったような気がします。
あるいは、内容は同じでも、せめて別の表現を探したのではないかと思います。
それは、素直でない、ひねくれた姿勢なのかもしれませんね。
でも・・・でも・・・
周りと同じなら無難で安心、という気持ちはわかります。
私自身にも、もちろんあります。
祝儀や不祝儀の際に包む金額は、一応世間の相場を気にしますし、何人かで外で食事をするときは、みんなからあまりかけ離れない値段のものを頼んだりします。
それはそうなんですが・・・でも・・・
前の2人が同じことを言っても、3人目は、別のことを言うのに大した努力は要りません。
けれども、前の20人が同じことを言ってしまったら、21人目は、大変な勇気を奮い起こさないと、違うことは言えません。
自分が安全圏に入ることで他人の選択肢を非常に狭めているのだということを、なんとか子どもたちに伝えていかないと、ものすごく窮屈な世の中になってしまいそうです。
もちろん、人と同じことを言うのがいけないわけでは決してないのです。
そういう自由も保証されなければならない。
だから、人と違う意見だけがもてはやされ、前に誰かが言ったのと同じだと鼻も引っ掛けられない、というのは絶対にまずいのです。
そう考えると、先生方がどういう指導をし、どういう環境を作る必要があるのか、とても難しい問題ですね。
でも、とにかく、私が教室で感じた不安感、恐怖感は、日が経っても背筋を離れません。
個性尊重と言い、自分らしさを育てると言いつつ、これは、なんだか大変なことになっているのではないか? という気がしてなりません。
まだ、4年生だから?
もう、4年生だから?
杞憂だといいな、一過性の症状だといいな、とせつに念じています。
先日のこと、テレビの洋画劇場で、スティーヴン・キング原作の映画『グリーン・マイル』を放送していました。
劇場公開されたときにも見ているのですが、好きな映画だったので、テレビも見ることにしました。
見る前から、ちょっと不安がないこともなかったんです。
映画は3時間の大作ですから、コマーシャル入りで、2時間半くらいの中に押し込んでしまうためには、かなりカットしなければおさまらないことは、容易に想像できました。
案の定、テレビ放映された『グリーン・マイル』は、印象的な場面や、大事な場面がことごとくカットされた惨憺たるしろものに変貌していました。
落胆したのと、腹が立ったのとで、私はレンタルビデオ屋に行って、『グリーン・マイル』のDVDを借りてきました。どこがどれだけカットされたのか、確認してやろうと思って。
私が腹を立てた話は横に置いておくことにして、DVDを見ているうちに、ちょっと面白いことに気がつきました。
民法テレビで放映される洋画は、たいてい吹き替えになっていますよね?
吹き替えるためには、誰かがそれを日本語に翻訳しているわけですけれど、これがDVDの翻訳と微妙に違っているんです。
翻訳した人が違うんだから、当然といえば当然なんですけど、元はといえば同じ英語なのに、いろんなところでニュアンスが違ったり、解釈が違ったり、しているんです。
『グリーン・マイル』は、刑務所の死刑囚の監房が舞台ですから、囚人が何人も登場します。
中にフランス系の囚人がいて、ときどき言葉の中に「メルシー」とか「ジュテーム」とか、フランス語が混じるんですが、吹き替え(つまり日本語)なので、彼がフランス語なまりの英語をしゃべっているのかどうかはわからない。
看守主任役のトム・ハンクスが、彼に向って「何かねだるときだけは調子がいいな」って言う場面があるんですが、テレビのこのセリフは、見ている人に、彼がフランス系であることがよく伝わっていない場合だと、まあこれでもいいのかもしれません。
でも、DVDでは、「何かをねだるときだけ、言葉が流暢になるな」って、そういうふうに翻訳されているんです。
もとのシナリオには、きっと、彼がフランスなまりの英語で話している、ということを前提にこういう台詞が書かれているんでしょう。
DVDの翻訳家は、そのへんのところを、ちゃんと訳したのだと思いますが、日本語の吹き替えで聞いている我々には、なかなか伝わりにくいんですね。
嫌われ者の看守パーシーが、囚人のひとりに恐ろしい目にあわされて、恐怖のあまりおもらししてしまう。
彼のフルネームは、パーシー・ウェットモア、つまり、「ウェットモア(wet more)--さらに濡れる」という、キングがちょっと意地悪な名前をつけていて、その名前がこのおもらしの場面で生きてくるんですけど、テレビではこの場面が全部カットになっているので、ちっとも面白くないんです。
DVDでは、そのあたりはちゃんと、わかるように翻訳されていました。
私のように、英語はもちろん、日本語以外のありとあらゆる言語について、まったく不案内だと(最近は日本語もあやしくなってきた)、映画を見るにしろ、本を読むにしろ、翻訳されていないものは、存在しないのと同じです。
だから、翻訳されたものを見たり読んだりせざるをえないわけですが、すると、いつも翻訳というフィルターをかけた状態でしか、その作品に触れることはできないことになります。
『グリーン・マイル』には、不思議な力を持った黒人ジョン・コーフィーが登場するんですが、テレビでは、彼は少し訛りがある、たぶん南部の農民のしゃべり方をしている、そんなふうに翻訳されています。
しかし、DVDでは、彼は「標準語」をしゃべっています。これは、ほんとうに大きく印象が違います。
南部訛りだと、いかにも田舎ものの感じ、標準語だと、もう少し毅然とした印象です。
もとのシナリオを見てみたい気がします。
レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説は、清水俊二さんの翻訳で、日本ではとても人気が高いのですけれど、一部では、その感傷的な文体がハードボイルドにそぐわない、チャンドラーの原文はもっと、ドライで、荒々しい感じのものだ、という意見もあるそうです。
でも、チャンドラーが日本で人気が高いのは、その「感傷的」な翻訳が、日本人の心情や感性に合致した結果なわけで、そうでなかったら、チャンドラーが日本でこんなに有名になったかどうか、わかりません。
同じチャンドラーでも、田中小実昌訳のだと、やはりちょっと荒っぽい感じです。
一人称も、清水訳では、「わたし」、田中訳は「おれ」なんですけど、これだけで、もう全然雰囲気が違います。
私は「わたし」のほうの訳にいかれて、チャンドラーファンになったクチです。
私の姉は、子供のころ自称文学少女だったのですけれど、子供向きの文学全集で『赤毛のアン』を読んだとき、その中に「喜びの白い道」という言葉を見つけて激怒していました。
姉によると、これは「歓喜の白路」でなければならない、というのです。
主人公アンが、養父のマシューに連れられて馬車で家に向うところで、素敵な小道を見つけて、彼女はそんなふうに名づけるんですけど、姉の意見は、「喜びの白い道」では、なんの魅力もない、「歓喜の白路」だからこそ、わざわざアンが名づけた意味があるんだ、ということなんです。
姉はきっと、もう少し年齢層の高い読者を想定して翻訳されたものを、先に読んでいたのでしょう。
「喜びの白い道」と書いた翻訳家の方は、きっと小さい子供にもわかる言葉を選んだのだと思います。
こういうことは、子供向きの物語を翻訳する時、きっととても気を遣うところだと思います。
子供のころ、アメリカのホームドラマを見ていたら、食事時、お母さんが子供に、「お漬け物を持ってきてちょうだい」と言うシーンがありました。
私にとって「お漬け物」といったら、キュウリのぬかづけとか、たくあんとか、白菜の新漬けとか、そういうイメージしかありません。
そういうものが、アメリカにもあるのか、と思って、とっても驚きました。
あとで考えてみると、この「お漬け物」というのは「ピクルス」のことだったんですね。
まだ、ピクルスという言葉があまり知られていない頃のことですし、子供向けの番組ですから、翻訳された方が、きっと悩まれた末に、「お漬け物」にしたのではないでしょうか?
確かにピクルスも漬け物の一種かもしれません。
翻訳というのは、やはり言葉を知っているだけではだめで、その言語の文化的背景とか、その国の生活習慣といったものも理解していないと、良いものにはならないだろうと思います。
日本で「ポチ」といったら、まずたいてい犬のことですし、「タマ」だったら猫でしょう?(最近は犬にタマって名づける飼い主もいるようですが)
でも、外国人が「ポチ」「タマ」という名前を聞いて、即座に犬や猫を思い浮かべることは不可能で、やはり、それが犬の名、猫の名として、日本ではみんなに了解されていることがらである、という前提がなければ、「ぽちたま」なんていう動物の番組も成り立たない、逆にいえば「ぽちたま」というタイトルだけで、日本人ならどういう種類の番組か、わかってしまう、ということなんですけど、日本語を外国語に翻訳する方は、「うちのポチが、お腹をすかせて・・・」なんていう台詞には、なんらかの注釈を加えて、それが「犬」であることを知らせる必要があるんだろうな、なんて考えると、面白いですね。
ワイルダーの『大草原の小さな家』のうんと古い翻訳に中に、「寄せ布細工」という言葉が出てきます。主人公のローラたちは「寄せ布細工」の布団で寝ているんですけど、これは、パッチワークのことなんですね。
パッチワークは、いまでこそ誰でも知っている言葉になりましたけど、この本が日本で最初の翻訳されたころには、そんな言葉を知っているひとは誰もいなかっただろうと思います。
翻訳者のかたは、きっと頭を悩ませただろうと思いますね。
簡潔で、しかもどういうものか、ある程度わかってもらえる訳を考えなくてはならなかったわけですから。
時代とともに、外国語をカタカナにするだけで、充分わかってもらえる言葉が多くなってきて、翻訳者にとって良い時代なのか、それとも腕のふるいがいのない時代なのか、どっちなんでしょう。
もとの言語がわからない人間は、その翻訳がいいのか悪いのか、知りようもない、というのが残念ではあるのですが、翻訳ものを読んでいる時、「この言葉を翻訳するのには、きっと苦労したんだろうな」なんて思うときもあって、翻訳家の苦労がちょっぴりわかるような気がしたりします。
今日の午前中、どっこいしょとパソコンの前に。
「えーっと、談話室、談話室」と言いながら、パソコンの電源をON。
「さあ、何を書こうかな…」とじっとワードの画面を眺めてから、おもむろに、指が動き始める。けれど、すぐに止まる。
「うーん」と言ったかな?「はぁー」とも言ったかな?
また画面とにらめっこしている。
カチャカチャと音がしたけれど、今度はトントントントンと結構速い音がしたので、覗いてみたら、画面の字が後ろから消えていく。そして「あぁーあ」。
おっと、立ち上がった、いったいどこへ?
コーヒーをすすりながら現れた。そして再びパソコンの前に。
コーヒーは熱そうだ、ズーズーいわせながら飲んでいる。目はパソコンの画面。
マグカップを机のはじっこに。ひっくり返すぞと心配。
カチャカチャと調子のいい音がしてたと思うと、トントントントンと速い音。
あっ、また消しているに違いない。お気の毒。
おっと、立ち上がった。どうやらトイレ?
ムニャムニャ言いながら戻ってきた。やっぱりトイレだったに違いにない。
すっきりした顔をしてるしね。
パソコンの画面を覗き込んでいたけれど、そのうち時計に目をやると、「おひる、おひる」と、のんきな声。
午後、よっこらしょとパソコンの前に。
電源を入れているところをみると、どうやら、午前中の続きをするらしい。
カチャカチャとトントントントンの繰り返し。
これがいつまで続くのか興味津々。
しばらくすると、ジーパンのポケットからガサガサ何か取り出して、口に放り込む。
うーん、甘い香りがしてきた、どうやらキャンディーのようだ。
ムニャムニャ言っているけれど、一向に手は動かない。お気の毒。
そのうち、大きな声で「ざ・せ・つ!」と。
すかさず僕は、「無理しないで、もうやめたら」と猫語で声をかけてみた。
な、なんと僕の言葉が通じたらしい。
「今日はやめとこ」と言って、おばさんはパソコンのスイッチを切った。
そして、僕の方を見て「アチャく〜ん」と。
僕は心の底から「ニャァ〜ン」とねぎらいの言葉をかけてあげた。
はい、以上、「おばさん『談話室』で悪戦苦闘」の巻でしたニャン。
ふだん自転車を使っているので、駅前の駐輪場をよく利用します。
私の住んでいる街の駅前駐輪場は、地下になっていて、階段の横についているスロープに自転車を乗せて、押して降りていくようになっています。
でも、若い人たち、とくに高校生などは、いちいち自転車から降りて押して歩いたりしません。
自転車に乗ったまま、スルスルーっと、滑り降りて行くのです。
駐輪場のあちこちに、「自転車から降りて入庫」という張り紙があります。
でも、そんなことを、守っている若い人はほとんどいません。
私は、そもそも狭いスロープを自転車で滑り降りるなんて運動神経は持ち合わせていませんから、もちろん、降りて自転車を押します。
後ろから、自転車に乗って降りてくる高校生がいても、こちらは規則を守っているのですから、あまり気にしないことにしていますし、高校生たちも、心中「オバサン、早く行ってよ」とは思っているのでしょうが、規則違反をしている、という気持があるせいか、仕方なく私が降りるのを待っています。
この、自転車に乗ったままの駐輪場への入庫、というのは、確かに危険で、けっして良いこととは思えません。
幅の狭いスロープから車輪がはずれでもしたら、階段をまっ逆さまですし、まわりも巻き込まれてしまいます。
しかし、若い人たちが早いスピードでスロープを降りて行くことは、朝の混雑時に、入庫をスムーズにするのにかなり貢献している、という一面もあるのです。
なにしろ駅の駐輪場です。
朝は通勤・通学の人が、ひっきりなしに自転車を入れたり出したりしにきます。
彼らがみな規則を守って、いちいち自転車を降りて歩いていたら、大混雑になってしまいます。
「必要悪」なんていう言葉が、頭を掠めます。
先日、私がいつものように自転車を押して降りていたら、私の前に一人のおばあさんがいて、やはり自転車を押していました。
高齢の方にしてみれば、下りのスロープを、自転車を支えて歩くだけでもたいへんです。
一歩一歩、ゆっくり降りて行かれるので、すぐに私は追いついてしまいました。
あまりすぐ後ろにくっつくのも悪いので、少し離れたところで、止まって待っていました。
すると、おばあさんは、踊り場のところで、自転車をスロープから降ろし、私を振り返って、「どうぞ、先に行ってください」と言いました。
「いいえ、急ぎませんから、そのまま行ってください」と、言ったのですけれど、おばあさんは、その場で立ち止まってしまわれたので、しかたなく先に行かせていただきました。
もし、朝、こんな方がゆっくりと自転車を押していたら、駐輪場の入口は、たちまち大混雑になってしまうでしょう。
自分の後ろに、山のように自転車に乗った人が待っていたら、ゆっくりでないと自転車を運んでいけない人たちは、身が竦んでしまうかもしれません。
規則を守っている人が、守っていない人に対して、申し訳ないような気分になる、というのは、とても変です。
でも、現実問題として、規則破りのスロープ滑り降りが、混雑緩和に一役買っていることは、否定できません。
私は、それでもやっぱり、危険なことはやるべきではないと思っていますが、目の前でどんどん滑り降りていく若い人たちを見ると、ちょっと複雑な気持ちになります。
どんな人も引け目を感じることなく、規則も守れて、安全で、入庫もスムーズなんていう駐輪場、お役所の方、考えていただけませんか?
「暑さ寒さも彼岸まで」ほんとに昔の人は偉い!
異常に暑かった今年の夏もお彼岸を迎えたら嘘のように涼しくなりました。
エプロンをつけてお台所をするのも嫌だった私がもう平気。
夏の間はかなかったスリッパもないと足先が冷える感じ。
この変わり様。
庭の木々もなんだか元気を取り戻しました。
今が一番気持ちの良い時期ですね。
エアコン無しで電気代も安いし、果物もいろいろあって美味しいし、「秋はいいなすずしくてお米が実るよ果物も・・・?」あれっ?歌詞忘れました。
朝晩は冷えますからどうぞ皆さんお風邪など引かれませんようにご注意ください。
それから食べすぎにもね。
夫と9月4日から北京・上海・蘇州・周荘5日間の旅に出かけた。
名古屋空港から上海までは2時間15分、上海から北京まで2時間。
時差は1時間。中国の方が遅い。時季は初秋。
1日目は移動だけで北京料理を食べるのが目的のよう。少し油に癖があった。
2日目は7時半出発。バスで天安門広場へ。さすがに広い。
早朝から行列が出来ているのは地方から出てきた人々が毛沢東の遺体を見るためだ。
永久保存処置がされているのだそうだ。
そこから歩いて、故宮博物院へ。映画のラストエンペラーの場面を彷彿させる。
こちらは建物など入れ物を見る感じなので、台湾の故宮博物館とは全く違った。
バスで万里の長城へ。結構、勾配の急な坂道が続く。夫を途中に残し、黙々と登った。
記念撮影用か、ラクダと白馬がいる所から引き返した。
眼下の景色を眺めながら心地よい汗をぬぐうものの、何処か心から喜べないものを感じた。
バスで天壇へ。階段の段数や欄干の数は全て9の倍数になっていた。9は皇帝の数とか。
日本では苦が重なると、よいイメージではない。ちなみにサザエは9月9日生まれ。
母に聞くと999番地で9時ごろに生まれたと言う。中国で生まれていたらどんな運命だったか?
夕食は北京ダック。オプションで京劇鑑賞。言葉は分からないが見てよかった。
3日目、7時15分出発。空路、上海へ。バスで周荘市内観光。運河遊覧を楽しんだ。
しかし、その川で釣った魚を店の生け簀に入れたのには驚いた。川で野菜を洗ってる女の人も。
今回の旅で目立ったのは、ツーアー22名がバイキングの生野菜をほとんど食べなかったこと。
夕食は松鼠桂魚。オプションで足つぼマッサージ、初めての経験だ。女の子でお願いした。
気持ちがよかった。
4日目、7時45分出発。バスで蘇州市内観光後上海へ。上海市内観光。
南京路歩行者天国は人であふれてかえっていた。昼食は四川料理。
夕食は小龍包。中華料理もそれぞれに味に特徴があり美味しくいただけた。
デザートには必ずスイカが出た。
オプションで上海雑技団鑑賞。席は前から2列目、しかも中央。演技者の緊張した顔つきまでよく見えた。
最後は外灘夜景鑑賞。長江を挟んで新市街と旧市街が全く違った雰囲気でライトアップされていた。
中国のすさまじい発展の象徴か。新旧がバランスを保ち、なかなか奥深い所だ。
5日目、7時20分出発、空路名古屋へ。夫は「今度はどこへ行く?」と機中で聞いてきた。
「エジプト」と答えたが返事がなかった。
旅は体力がいる。どこでもいいが二人とも少しでも元気なうちに出かけないとネ。
お土産はすべて現地ガイドさんに案内された所とバス内試食した物などを車内販売で調達した。
にもかかわらず、家でチョコレートを開けたら明らかに1個分空白になっていて、20個入りが19個しか入っていないし、紹興酒の1本の量が1センチ以上少ないものがあった。
街中でインスタントカメラを買った人は3枚しか写せなかったと嘆いていた。その他もろもろ。
お国柄というか非常に残念な部分だ。
フケツさんが書いたという軸を故宮で30万円で買った人は目の前で包んでもらい持ち帰った。
テレビ鑑定団に出すと言っていたので楽しみだ。「人生感動」とはなかなかいい言葉である。
おばさんが慌てて夕ご飯を作ってる。
簡単トマトソースのシーフードスパゲティとサラダ。
玉ねぎをしんなりするまで待っていられないので、適当に炒め、1度取り出す。
同じフライパンにバターを入れ、シーフードに火が通り過ぎないよう軽く炒め、白ワイン。
玉ねぎを戻し、トマトの水煮缶を入れ、トマトをつぶし、煮立ったら、固形スープをふたつ。
はい、ソースのできあがり。
茹であがったスパゲティをソースの中に。
全体にからめて、一丁上がり。
「いっただきまーす!」
半分ほど食べた時。
「なにか入ってる!」とおじさん。
もぐもぐ、口の中から取り出した、茶色で、丸っこくて小さいもの。
おじさん、ぼくのご飯のカリカリだと思ったニャン。
「阿茶って、こんなに固いものを食べてるんだあ。あっ、もひとつあった!」
これは前のよりも少しこぶり。
えっ、まさか、どうしてぼくのカリカリが入っているわけ?
いくら可愛くても、ぼくのエサとなるとおじさんも適わないと変な顔。
ああでもない、こうでもないと言い合うおじさんとおばさん。
ぼくも不思議だニャァー。
それにしても変、阿茶のエサなら柔らかくなっているはずと、考え込むおばさん。
おじさんが、また一言。
「それにしても、辛いものなんだな、カリカリって」
おばさんが、突然笑い出した。
どうやら謎が解けたらしい。
ぼくのご飯を食べさせられたと思っている上、どうしておばさんが笑っているのかわからないおじさん、やや不機嫌。
おばさん、ちょっと落ち着いてきたらしく、笑うのをこらえておじさんに言った。
「ごめんね、ごめんね。阿茶のエサじゃないよ、アハハ」
「じゃあ、なに?」
「こ・け・い・スープ。固形スープが溶けていなかったんだ」
「えっーーー!」
この日のおばさんの教訓。
慌てても、ちゃんと溶かそう、固形スープ!
昭和20年8月13日、母の父(つまり私の祖父)は、勤め先の軍需工場で機械に手を挟まれ、左手の親指以外の4本の指を、すべて根元から切断するという大怪我を負った。
そのころ母の一家が住んでいたのは、現在のサハリン、当時は樺太と呼ばれていた土地である。
母は7人兄弟の3番目、三女で、当時18歳。その年の春、女学校を卒業して、国鉄に勤めていた。
敗戦目前で、病院の設備も医薬品も不十分だったに違いなく、祖父はろくな治療も受けられず、重い破傷風になってしまった。医者は、この数日が山だろうと言う。
家族が枕頭に集まって、父親の死を覚悟しながら看病しているうちに、8月15日がやってきた。
終戦である。
敗戦が決ったとたん、病院を追い出された。
強制疎開命令が出て、住民の北海道への引き揚げが始まったのである。
医者も病人を診ているどころではない。うかうかしていると、すぐにもソ連の進駐軍がやってきて、何をされるかわからない、港から引き揚げ船が出るので、ただちに樺太から退去しろ、という。
そう言われても、今にも死にそうな祖父を残していくわけにもいかない。
当面、15歳以上の男子は残れ、という命令だったので、15歳になったばかりの弟と、公務員であった母が、祖父の看病のために居残ることになった。
終戦の翌日、祖母と二人の姉が、下の3人(いちばん下は一歳だった)と、当時まだ健在であった曾祖母を連れて、北海道行きの引き揚げ船に乗った。
幸い、祖父は持ちこたえた。
本人の言葉によると、三途の川までは行ったらしいが、川岸で誰かに追い返されたそうである。
母と弟が、祖父を看病しながら、どうなることかと過ごすうち、8月22日になって、本格的に住民全員の引き揚げが始まった。
持てるだけの荷物を身につけ、まだ足元のおぼつかない、血まみれの祖父を、二人で両脇から抱えるようにして、なんとか港に着いた。
ところが、引き揚げ船は出ない、という。
何か事故がおきたらしかったが、よくわからないまま、数ヶ月間わずかな荷物を売って食いつなぎながら、港付近で船の出港を待っていた。
しかし結局、引き揚げ船は出ずじまいだった。
母たちが乗るはずだった船の、前に出た3隻の引き揚げ船が、戦争が終わっているにもかかわらず、どこかの国の潜水艦に攻撃されて、沈没してしまった。危険なので、安全が確認されるまで、引き揚げが中止になったのである。
その後、2年間、引き揚げ船は出なかった。
仕方なく、また祖父を抱えて家に戻ったら、家の中がたいへんなことになっていた。
北の方から、南の港を目指してやってきた人々が、無人の家はすでに引き揚げたものと見当をつけ、あちこちの民家に入り込んで、わずかに残っていた家財を全て持っていってしまっていたのである。
家の中はからっぽになっていた。
ソ連軍が続々と進駐してきた。
最初は、占領された日本人よりもまだみすぼらしい格好をしていたが、そのうち物資の流通がよくなるにつれ、母たちが見たこともないようなものが、街中に出回り始めた。
硬くて酸っぱいロシアのパン、巨大なコンビーフの固まり、頑丈な革ブーツや、本物の毛皮のコート、バラライカを弾いて歌い踊る女性兵士などなど・・・。
母は、どういうわけか、軍服姿の女性兵士の豊満なバストを見て、日本が負けるのも当然だ、と思ったそうである。
しばらく様子をみていたが、引き揚げ船は出ないし、占領状態とはいえ、世の中も多少は落ち着いてきたので、母は再開された国鉄に戻って働き始めた。
一度、家の中を見せてくれ、と言って入ってきたソ連兵の、母を見る目つきがおかしかったので、弟が機転を利かせて、母を裏口から逃がした、ということはあったものの、終戦直後に聞かされていたほど、ソ連兵が悪逆非道である、ということもなかったらしい。
あちこちにソ連兵があふれていたので、母は聞き覚えで、いくつかのロシア民謡をロシア語で歌えるようになった。
後年、母は姉に、「よくも、敵国の唄なんか歌うわね」と言われたそうだが、私の母は、どこかあっけらかんとしているのか、今でもロシア語の響きを懐かしんでいる。
ソ連兵は山ほどいるが、日本人男性の働き手は、まだ戦争から帰ってこない。
母は、もともとは国鉄の電話交換手だったのだが、戦後はとにかくなんでもやらされた。
山の中の線路の照明に灯りを点すために、真夜中、真っ暗な中で、風に揺れる照明搭に上り、ようやく灯をつけて降りてきたら、風で消えてしまって、泣く泣くまた上った、だの、空襲でたくさんの人が死んだ場所付近のトンネルで、夜、通過する列車のために、カンテラを下げて、一人で長いこと立っていなければならなかったのが、怖くてたまらなかった、だの、今は笑い話めかして話すが、18歳の少女としては、心底辛い仕事だったに違いない。
2年後、引き揚げが再開された。
母と弟と祖父は、なけなしの荷物を持って、港に向った。
ところが、ほんの一瞬目を離したすきに、荷物を全て盗まれてしまった。
三人は、ほとんど着の身着のままで船に乗ったそうである。
樺太の真岡(現ホルムスク)港から、北海道の函館港までは一両日の船旅である。
ところが、函館に着いても、下船許可が下りない。
先に着いていた引き揚げ者の上陸手続きがなかなか進まず、それから1週間函館の港に泊めておかれた。
女性たちは船底で、港から運ばれてくる食料品を毎日調理した。母も連日ジャガイモの皮むきに明け暮れていたらしい。
半分腐ったような食べ物を食べて、ひどい下痢をしたり、衛生状態は最悪で、みんな具合が悪くなったそうである。
ようやく、上陸許可が出た。
祖母と下の兄弟たちは、北海道の内陸に住む親戚の家に身を寄せていた。
二人の姉たちは、本州の親戚を頼って、それぞれ別々のところに住んでいた。
三人で、ようやく祖母のもとに辿りつくと、祖母は、曾祖母と食べ盛りの子を三人も連れて、親戚で肩身の狭い思いをして、毎日慣れない農作業などを手伝い、やっとの思いで生きていた。
それぞれの無事を喜び合ったのも束の間、母は、樺太から何一つ持ってこなかったことを、祖母にひどく責められた。
祖母にしてみれば、母が無事に引き揚げてくれば、ほんのわずかでも、世話になっている親戚にお返しができる、と思って、母たちを待ちわびていたのだろう。
「こんな情けない娘は、死んでしまっていたほうがましだ」
それまで、何度も辛い思いを味わってきたが、実の母にそう言われたときほど辛かったことはない、と母は言う。
逆に、祖母の、引き揚げてからの二年間が、どれほど過酷であったか、想像にするにあまりある。
母の年代の人は、多かれ少なかれ、戦争で辛い経験をしている。
母自身、「私の経験など、比べ物にならないくらいひどい目にあった人がたくさんいる」と、常々言っている。
しかし、この母の経験が、数ある戦争体験の中で、特別なものでも、目立って悲惨なわけでもない、ということが、逆説的に、戦争の酷さを物語ってはいないだろうか。
満蒙開拓団や、沖縄のひめゆり部隊、広島・長崎などのように、記録に残ってはいなくても、また、自ら語ろうとしなくても、過酷な戦争体験が、戦争体験者の数だけ存在する。
母の同級生で、正規の引き揚げ船に乗らず、自分たちで用意した船で、北海道への渡航を試み、針路を誤って、離島の方まで流され、あげくに攻撃されて沈没し、命からがら助かったという人もいる。
かと思えば、父親が軍の関係者だったため、事前に日本が戦争に負けることを知っていて、密かに財産のすべて(母の言葉を借りると、箪笥の隅のゴミに到るまで)を早い時期に内地に送っていたため、終戦後何も失わずに、ゆうゆうと引き揚げてきた、という一家もいる。
母には、子供のころの写真や、思い出の品は、まったく残っていない。
それでも、家族全員が無事生き残れただけ、戦争による引き揚げ者としては、かなり幸運であったとは言える。
しかし、幸運の度合いのくらべっこをするために、戦争を経験してきたわけではない。
100人の戦争体験者いれば、100の、比べることなどできない、辛さや想いがあるのではないだろうか?
その後のことを少し付け加えると、指を失った祖父は、20年程前、天寿を全うして87歳で亡くなった。
私を含め、大勢の孫たちは、生まれたときから、指のないおじいちゃんを見ていたので、ことさら奇妙に感じたこともなかったが、何も知らない人は、祖父の左手を見て、大いにぎょっとしたことであろう、と今ごろになって考えたりする。
祖母は、引き揚げ後の慣れない農作業のせいで、足を悪くし、晩年はほとんど自力では歩けなかった。
指を失って、すっかり働く気力を失ってしまった夫と、たくさんの子供を抱えて、ずいぶんと苦労した人だった。
この祖母も長命で、10年程前に亡くなっている。
母の兄弟も、すでに二人欠けている。
戦争の体験を語れる人が、年々減っていくのは仕方がない。
しかし、身近な人からそれを聞く機会があれば、何かのかたちで残していくのが、聞いた者の義務ではないか、という気がして、8月15日を前にして、以上のような一文を書いてみた。
母の話を聞き書きしたもので、すでに57年も前にこととて、記憶違いやあいまいな点も多いかと思うが、そのあたりはお許しいただきたい。
私は戦後生まれですが、子どもの頃は、まだ世の中に戦争の記憶が生々しく生きていた時代でした。
ですから、敢えて見ようと思わなくても、日常の風景の中に戦争の痕跡は当たり前のこととしてありました。
駅や、学校に通う途中の公園には(人出の多い花見の季節には殊に)、盲目や片脚の傷痍軍人が白い装束で、裏返した軍帽を前に、ハーモニカやアコーディオンを弾く姿がありました。
ラジオは、「尋ね人」の放送を続けていました。
親戚のおばさんは、南方の空で消息を断ったという息子を、まだ待っていました。
けれども一方で、世間は、そういう戦争の記憶を一日も早く忘れようと懸命になっているようでした。
とりあえず目の前から隠してしまいたい、後ろは振り返らず、足元さえ見ずに、ひたすら前だけを見て暮らそう、という空気に満ちていました。
戦争は、「負の記憶」「消したい記憶」だったわけですから。
私の両親は、父が復員して1年ほどのちに結婚しています。
父は、「北支」で敗戦を迎えました。
私は父から戦争の話を直接聞いたことがあまりありません。
それは、ひとつには、父が当時の細かいことをよく覚えていないからです。
後年、戦友会などに行っても、「他の奴はいろんなことようく覚えてるんだよなあ。俺、何にも覚えてない」と言っていました。
多分、本当に覚えていないのです。
父にとっても、無意識に「消したい記憶」だったせいかもしれません。
そして父は、戦後ずっと東京に住んでいながら、一度も靖国神社に参拝したことがありません。
周りの者が行こうと言っても、俺はいい、と言って外で待っていたりします。
強固な主義主張がある人ではないと思うのですが、そのことについて、納得できるような理由を聞いたことがありません。
母によれば、父は、戦地にいた人間としては非常に幸運で、苦労した人たちからは何と罵られても、石をぶつけられても文句が言えないくらいの軍隊生活を送っていたのだそうです。
始めに配属された部隊は、後に南方へ転戦し、全滅に近い状態になったらしいのですが、その前に父は別の部隊に転属になります。
転属先では、将校でも何でもない一兵卒だったのですが、たまたま大隊本部付きの<事務屋>だったため、母に言わせれば、「空襲に怯えていた内地よりずっと安全で、食糧も豊富だったんだから、まったく!」ということになります。
内地からは、戦地の兵隊さんへ、ということで、ありったけの物資が送られる、けれども、戦況が悪化してくると、本当に物資を必要としている前線への輸送ルートは既に切れてしまっていて、行き先を失った物資は大隊本部に溜ってしまうのです。
さらにその後、日本の敗戦と同時に、蒋介石軍は共産軍との戦闘に突入します。
蒋介石軍は、日本との戦争のあげくですから、兵力も低下していて、猫の手も借りたい状況です。
そこで、手近にいた日本の部隊はまるごと、蒋介石軍の管轄下に置かれ、武装解除もされないまま、対共産軍の警備を命じられるのです。
一応訓練も受けており、戦闘能力もあり、組織内の規律も保たれている集団ですから、昨日までの敵とはいえ、とりあえずの役には立つ、というわけです。
「充分ではないまでも食い物は支給されたし、共産軍は夜しか攻めてこないから、昼間は凍った川でスケートばかりしていた」というような生活が半年あまり続きます。
ああ、やっぱり石をぶつけられそうですね。
もう少し北にいたら、ソ連軍が侵攻してきて、たとえ命があっても、シベリアに抑留されていたのでしょう。
それは、ほんの紙一重の分岐点なのです。
そういう父ですが、母によれば、結婚後しばらくは夜中にうなされることもあった、といいます。
聞くと、「討伐に出て退路を断たれたときの夢を見た」と言っていたそうです。
そういう折に戦死した仲間も何人もいるのです。
もちろん、その「討伐」の対象になって命を落とした人も、たくさんいるはずです。
理不尽と言えばあまりに理不尽ですが、本人の意志や努力や心がけのせいでも何でもなく、本当に偶然に、境遇は分かれます。
戦時には、その分かれ方は、平時よりもずっと極端で残酷です。
偶然の積み重ねで、幸運な道を歩み、生き残った者も、それなりの重石を抱えて戦後を生きているのでしょう。
父があまり語りたがらないのも、わからなくはありません。
8月8日は立秋。こんなに暑いのに秋ですって。
人間として生まれてきて今年の夏が一番暑く感じます。
年のせいでしょうか。
どこに行っても「暑いですね」の挨拶。
これからは 「残暑お見舞い申しあげます。」ですね。
残暑ではありません。暑さ真っ盛り。
皆さんお体に気をつけて!
追伸 夜外に出て「えっ」いつもならせみのこえが聞こえるのですが今夜は虫の音。
自然界の生き物はおりこーさん。感心、感心。
毎年こんなに暑い日が続いていましたっけ。
更年期障害?の影響で暑さがよけいにつらく感じるのでしょうか。
クーラーの効いてない部屋では何もできない状態。
でも食欲だけは落ちないんです。
食欲がなくなればダイエットの効果がでてこの暑さもいいことあるって思うのですがなにを食べてもおいしい。
しかも胸や腕を出して運転してると後で真っ赤になった肌をボリボリ・・・。
血がでるぐらい引っ掻いて傷だらけ。
若い頃はそんな傷もすぐに治ったのが今はかならず傷跡が残ってしまうのです。
色々着る物も考えたのですがショートパンツが一番快適。
でも訪問者があるとエプロンで隠すとか着替えが大変。
まだまだ夏は終わりません。まだ始まったところ。
台風も良く接近するし激しい夏になりますね。
皆さんお体に気をつけてこの夏を乗り切ってください。
車の運転ができないので、ふだんよく電車を利用しています。
たいていはみなさん整然と乗っていますが、ときには、びっくりするようなことも・・・
制服のスカートを極限まで短くした女子高生。
私の横に座るなり、履いていたふつうのハイソックスを脱いで、かばんの中からルーズソックスを取り出しました。
何のためらいもなく、大きく足を広げて、どう見ても1ヶ月くらいは洗濯していないようなルーズソックスに履き替えはじめました。
正面に座っていた青年が、目のやり場に困り果て、あっちをむいたりこっちをむいたり・・・
6,7人の、見るからにガラの悪そうな男の子たちが、どかどかと乗り込んできました。
「騒がしくなりそうでいやだなあ・・・」と思っていたら、全員いっせいに、わき目もふらず、無言で携帯のメールチェック。
とっても静かでしたけど、ちょっと異様な世界。
正面の席に座った高齢のご婦人。
一分の隙も無く、きっちりスーツを着こなして、背筋もまっすぐ。
ところがそのうち、知らず知らずのうちに、両膝が離れてきて、スカートの中の、重ね履きしている分厚い下着類が、みんな露わになってしまいました。
年をとると、膝の緊張感を維持するのはとても難しいということが、私もよくわかる年齢になりました。
特急の指定席の方から、なにやら言い争う声。
車掌さんが、大学生くらいの青年を、普通席の車両に連れてきたのですが、青年は、どうやら料金を払わずに指定席に座っていたようです。
「俺がどこに座ろうと、俺の勝手だろうが! てめえに、俺に命令する権利があんのかよおお!!!」
それは、きちんと指定席料金を払っているひとの言うセリフ。
もうひとつ、指定席にて。
会社員らしき男性がお弁当を食べていました。
でも、この男性、どうやら指定席料金を払っていないと見えて、車掌さんが検札に来そうなころあいになると、お弁当と箸とかばんを抱えて、こそこそと普通席へ。
一通り検札が終了すると、また、右手に箸、左手にお弁当、肩にかばん、というスタイルで、指定席に戻ってきます。
お弁当を買っちゃったので、350円の指定席料金が払えなくなってしまったんでしょうか?
少し混んでいる車両に中年のご婦人が二人乗ってきました。
席が一人分だけ空いています。
「奥さん、お座りになったら?」
「いいえ、奥さん、お座りになって。私はかまいませんから」
「いえいえ、奥さん、どうぞ、遠慮なさらないで」
「いいえいいえ、私はけっこうですから、どうぞ」
空席の前に立って、延々とこのやりとり。
あのー、もうすぐ終点なんですけど。
梅雨明け宣言は、まだでしょうかね?
どちらにしても、今日も猛烈な陽射し。
これからが夏の本番なんですよ、という現実が、とてもとても信じられません。
で、そんな陽射しからちょっとでも逃れようと、猫に留守番をさせ、夫婦で帽子を買いに出かけるのです、今までと何も変わっていない各自の問題を抱えながら。
標準的なサイズから見て、大きいほうに範囲を出てしまった頭をしている僕は、デザインがどうとか価格がどうとか言う以前に、かぶることの可能なものが果たして存在するであろうか?と考え、一方、小さいほうに範囲を出ている彼女は、大人用が並べられた売り場を素通り、こども用を手にして思い悩むことになります。
お店には、買い上げられるのを待っている帽子がいっぱい。
しかしながら、今回もかぶることが不可能に終わった僕は、工夫次第で何とかなりそうな、悩みと
してはB級にしか思えない彼女に対して、勝手な発言をぶつけ始めます。
詰めものをしてみたら、頭にタオルを巻いてかぶってみたら、可愛いくまさんのアップリケが付けてあるそれ、結構いいじゃないのお、などなど。
帰り道は、悩みが軽い分だけ、なんとか買い求めることができた彼女ひとり、容赦なく降りそそがれてくる狂いそうな陽射しを遮って歩くことができました。
僕にはもう、モネに描かれた貴婦人のように、日傘をさすしかないのかな。
W杯、サッカーの神様はブラジルに微笑み、21世紀最初の王者に。
チケット問題、誤審問題、おまけにとんでもないタイミングで起きた朝鮮半島近海での韓国と北朝鮮の銃撃戦と、せっかくのW杯に水を差すようなこともありましたが、にわかサポーターのおばさんは本当に楽しませていただきました。
日本がトルコに負けてしまった後しばらく、我が家のチラベルトおじさんと交互に「あーあ」とため息を漏らし、それでもご贔屓の国を応援。
しかし、なぜだか決勝Tに入ってからは、ご贔屓チームにとって、私たちふたりは疫病神。
愛しのメツ監督率いるセネガルも、貴公子ベッカムのイングランドも、スペインのラウルは怪我で実力を発揮することもなく、姿を消すことに…。
「あーあ」ごめんなさい。
「フラット3」「ボランチ」「センタリング」「カウンター」「オフサイド」などサッカー用語も覚えましたが、いまだに「オフサイド」は理解不能、「あーあ」お恥かしいことで。
それにしても、決勝戦の試合終了後、喜びに湧くブラジル選手、監督、関係者、ピッチをあとにするドイツ選手の中、ゴールポストにもたれたまま動かない、ドイツの守護神オリヴァー・カーンの姿がとても印象的でした。
放心状態だったのか、それとも、ひとりゲームを振り返っていたのか。
うーん、胸がキューンとしました。
FIFA公認「もう一つのW杯決定戦」。
世界ランク最下位決定戦。
W杯予選を資金難で辞退したブータン(202位)と、90年の火山噴火で国土の半分、もちろん競技場も灰に埋まったカリブ海に浮かぶ英領のモントセラト(203位)との戦い。
こちらは4−0でブータンが勝利。試合後、「双方とも勝者」を意味する半分に分けたトロフィーが両チームに贈られたそうです。
なんとも、のどか?なことで。
多くの国の人が、丸い地球の上で丸いボールを蹴って、楽しんでいるんですね。
世界中でいろいろな問題が山積になっていますが、これらの問題もコロコロといい方向へ転がっていってくれるといいのですが…。
ちなみに韓国では、3位決定戦も終わってしまい、熱気もさめて、決勝戦への関心も薄かったそうです。
なんだか残念!
まあ、それでも「VIVA!ワールドカップ、楽しかったよぉー!」