サッカーWカップは、日本がトルコに惜敗。
残念無念。
日本代表のみなさん、お疲れさまでした。そしてよぉーくがんばりました。
おばさんが俄かサポーターに変身してから今日まで本当に楽しませてくれました。
ときめきと、ハラハラと、ドキドキと、感動をありがとう。
おばさんは「いい男」とかいってワイドショーが外国人選手を取り上げているところから興味を持ったくらいだから、いかに動機が不純であったか…。
ベッカム、デルピエロ、トッティ、うーん確かに「いい男」。
おばさんは心密かにセネガルの監督、ブルーノ・メツさんにお熱。
もちろん、日本選手もそれぞれに個性的で大好き。
あっ、「いい男」の話はこれくらいにして、「時間」の話し。
予選リーグで同点もしくは日本がリードしてからは、「ああ、あと○分か」「わぁ、まだ○分も残ってる」と選手の動きとは裏腹にゆっくりゆっくり過ぎて行く時間。
ところが今日、1点をリードされてからは、時間の経つのが速いこと、速いこと。
特に後半30分過ぎてからは、時計が止まって欲しいくらいに、すごいスピードで過ぎて行く。
ロスタイムの3分も瞬きするくらいに感じられて…(ちょっと大袈裟)
同じ時間でありながら、おかれた立場でものすごく感じ方が違う。
時計は1分、1秒、正確に刻まれていっているのに。
ゆっくり過ぎていくのも、速いのも、有意義な時間であれば、それはそれでいいものでしょう。
まだまだ続くWカップ。さぁて、どこが優勝するのでしょう。
おばさんのサッカー熱はもうしばらく下がりそうもありません。
ちなみに、うちにはチラベルトおじさんと、貴公子ベッカムニャンコがいます。
舗道を歩いていると、数メートル先の交差点の青信号が点滅し始めました。
とくに急ぐこともないので、赤になったら待てばいいと思って、そのままのスピードで歩いていると、後ろからバタバタと走ってくる音。
誰かが私を追い越して、すでに赤になってしまった信号の横断歩道を大急ぎで渡っていきました。
子供が小学校の低学年だった頃、信号が赤なので、「青になったら渡ろうね」と言って待っていました。
子供は学校で教えられたとおり、青になったら手をあげて渡ろうと待ち構えています。
ところが、向こう側から歩いてきた、中年のご夫婦らしい二人が、左右をさっと見て、車がこないと見るや、あたりまえのような顔で、こちらに渡ってきました。子供の前でさえ、信号無視をしなければならないほど、このお二人が急いでいたようにも見えません。
さらに、あるとき、やはり私が赤信号で待っていると、手押し車を押した、足元のおぼつかないお年寄りが、よろよろと近づいてきました。
いくらなんでも止まるだろう、と思っていたら、左右を見て車が来ないとわかると、やはりよろよろと、でももちろんできる限りの大急ぎで渡っていきました。
このお年寄りに、息せき切って、危険をおかしてまで赤信号を渡らなければならないどういう理由があったのか、私にはわかりません。
今住んでいるところに引越してきて以来、赤信号で左右から車がこないとき、立って待っていると、私はたいてい後ろから来た人に追い越されます。
ときには、立っている私が邪魔だ、というように迷惑げな顔をされることもあります。
年齢・性別にかかわりなく、みんな、赤信号で、あたりまえのように渡っていくのです。
このあたりでは、赤信号は、車が来なければ渡っていい、というルールになっているのでしょうか?
車が来る来ないで解釈を変えていいのなら、最初からルールは要りません。
各人が状況を見て、渡ったり止まったりすればいいのです。
私にとってよくわからないのは、このあたりの人々が、なぜいつも、そう急いでいるのか、ということです。
信号待ちをしている私より、ほんの数十秒先に行ったところで、何か大きな違いがあるのでしょうか?
待っている人より早く渡ると、どんないいことがあるのでしょう?
あるいは、信号待ちをすることが何かとんでもない不都合をひきおこすのでしょうか?
私はいつも赤信号で止まっていますが、これといって困ったことが生じたことはありません。
不思議です。
「あ、点滅してるなあ・・・」と思いながら、足を速めない私の後ろから、今日も大急ぎで走ってくる人がいます。
みなさん、とても忙しい生活をおくられているんですね。
しつこいようですが、目下、私のなかで流行っているものですから、ついこの話になってしまいます。
自分の母語というのは、無意識に喋っているので、とくにそれについて研究しようとか、説明する必要がある場合以外には、敢えて、あれこれ考えることはありません。
漢字の読みや品詞の問題は、点訳に関わるようになって初めて意識に上り、その複雑さにビックリしました。
けれども、点訳は文字から文字への移し替えなので、発音やアクセントについてはほとんど問題になりません。
音訳の方たちは、いろいろご苦労がおありなのだろうな、と思いながらも、それ以上何も考えずに、日々、日本語で生活していました。
ところが、思わぬことで発音の問題が身近なことになって、ドロナワで音声学の入門書など拾い読みしてみると、これがまた、とても複雑な、でも、なんとも興味深い世界なのです。
日本語は、一つのカナに対して一つの音だけだから、いたって単純明快、と思っていたのが、いかに間違っていたか・・・。
たとえば、「新聞」という言葉の中の二つの「ん」が、違う音だということに、私は今まで気づかずにいました。
実は、別の音なのだそうです。
さらに、「新聞も」という場合と、「新聞と」という場合と、「新聞が」という場合、あとの「ん」の音はそれぞれ違うのです。
「ん」の置かれている環境、この場合はあとに続く音によって、mに近いか、nに近いか、ngになるかが決まるそうです。
p、b、mの前ではmに、n、t、dの前ではnに、kやgの前ではngになるらしいのです。
そういえば、以前、「新橋」のローマ字駅名表示をめぐって、JRと地下鉄でshinbashiなのか、shimbashiなのか、議論があったように記憶しています。
そのとき、どうでもいいような気がしたのは、私がその違いに気づいていなかったからなのですね。
その違いをはっきり区別している国の人たちにとっては、それは、全然別の駅名になってしまうのでしょう。
また、「暖かい」とか「高かった」というように同じ字が続くときも、はじめの「た」「か」と次の「た」「か」は、どうも違う音らしいのですが、気をつけて言ってみても、私にはよくわかりません。
それから、たとえば「直線」と言うとき、その「く」は、単独に言うときのkuとは違って、母音がほぼ抜け落ちてkだけになっているんですね。
「です」の「す」もそうです。
でも、先日テレビを見ていて、ああ、関西の方は最後のuもちゃんと発音なさるんだなあ! と、いまさらながら気がつきました。
逆に、英語でwaterと言うとき、tの部分をtで発音しても、rのように発音しても、英語国民が気にしないのは、日本人にはまるっきり別だと思える音が、彼らには大して違わないと感じられるからだそうです。
韓国語でも、たとえば、大田という地名の「大」と、金大中というときの「大」とでは、発音が違うんでしょう? と私が聞くと、韓国人の友だちは、えーっ? と意外そうな顔をし、自分で何度も繰り返し言ってみたあげくに、違わない! と言います。
でも、私には、少なくとも日本人のアナウンサーが言うのは、「テジョン」と「キムデジュン」というふうに、かなり違って聞こえます。
アナウンサーはもちろん日本語で喋っているので、そう言い分けているのでしょうが、つまり、日本人にはそう聞こえる、ということです。
日本人が書いた韓国語の入門書を見ても、t、p、chは語頭にくるとそのままで、母音に挟まれる場合は濁音化する、と書いてあるのですが、音韻学などには縁のない普通の韓国人にとっては、それは意識下のことで、同じ音だと思っているらしいのです。
「新聞」の「ん」と同じですね。
私は、高校の頃に自分の英語習得能力に見切りをつけて以来、外国語とはなるべく関わらないように過ごしてきてしまいましたが、こうやって別の切り口を見つけてみると、こんなに面白いものだとは・・・!
A先輩から「敬老パスもらってる?」と聞かれ驚いたが「いいえ」とだけ答えた。
「若いんだねェ」と言われてもちっとも嬉しくない。敬老パスにはまだ10年ぐらい先だ。
今度はMさんに「敬老パスもらってる?」
Mさんはテレビに出てくる加藤たき(?こんなような名前の人)さんのようなきれいな白髪。
Mさんは心得ているようにはっきりと「60歳にはまだ1年あります」と言った。
A先輩は「ヘエーッ。若いんだねェ。そオーぉ。若いんだねェ」と大きな独り言。
敬老パスは65歳から名古屋市民ならもらえる。当然自分はもらってみえる。
A先輩のお役目は私たちの交通費を会から出すことなのだ。
それにしても「交通費いくらかかりました?」でわかる話しである。
そこで「敬老パス持ってます」となれば「もう、もらってらっしゃるの?」となった方が気がよい。
私も年々、ストレートにものを言えると言うか、ものを言うようになった。
気をつけなくてはと内省した。
A先輩のことは話しの種のいい材料が転がっているが、ネットに乗せる怖さを身にしみ感じここまでとしておこう。
我が家は名古屋市瑞穂区。
1ヶ月前あたりから生ごみがカラスに時々つつかれ我が家のゴミもなるべく厚く包んでおくようにしていました。
それが先週の月曜日、斜め前の方たちの袋がそれはそれは無残に引き裂かれあちこちに散乱しているのです。
そして上を見てびっくり。
カラスがいっぱい飛んでいて電柱にも止っているんです。
お爺さんがゴミを掃いている上でカラスが「アホーアホー」ってないてるんです。
私は最近警戒してましたのでまだ出していなかったのでそのときは良かったのですが・・・。
しばらくしてもういいかなって出したところがつつかれてしまいました。
それでゴミを掃き集めていましたらうえでカラスが「アハハハ・・・」ってわらってるんです。
本当にアハハハってわらうんですよ。
その日からあちこちでゴミが散乱してるのを目撃するようになりました。
四方八方に散乱してすごいんですよ。
このカラスどうにかならないものでしょうか。
カラスをいじめると攻撃されるそうでこわいですものね。
お向かいのわか奥さんは学校の集まりの帰り目の前に夏みかんを落とされたそうです。
こどもが持っているガス銃で撃ってしまいたいのですが後がこわーい。
カラスは頭がいいそうですね。
それにしても大変迷惑している住民のお話でした。
今も声がしました。
もう夕方なので帰るところでしょう。
「カーカー」って帰るのよ!!!
追伸
今日の夕方町内の回覧が!
私の気持ちが通じたのか、カラスが近寄らない方法が書かれていました。
「生ゴミ袋に入れたらその上から臭いのする殺虫剤をかけて下さい」とのことでした。
効き目あるんでしょうか?
次のゴミ収集に期待!
月曜日は掃除の日、と決めているわけではないけれど、週末遊び呆けていると、そのしわ寄せは、当然月曜日にくる。
私は、まったく、きれい好きでも、片付け魔でも、過剰な清潔志向でもないのだが、狭いアパートでは、週末ふたりの男(つれあいと息子)が家にいるだけで、とにかく片付かない。
だいたいうちの男どもの思考回路に、片付ける、もとに戻す、という概念が組み込まれていないのは間違いないことで、はずした瓶の蓋も、あけた引出しも、脱いだ洋服も、読みかけの本も、お菓子を食べたあとの袋も、決してもとの場所には戻らない。
だから、狭い部屋は、どんどん出しっぱなしのものであふれていくことになるのだが、それを気にするのは、我が家では、私一人だけだ。
気にしない人間は、常に勝者である、と私は思う。
どんなに汚れていようと、ぐちゃぐちゃであろうと、それが気にならない人間が、片付けるはずはない。
そういう状態を苦痛に感じる人間が、たとえ、その人間がちらかしたのではなくても、結局掃除することになるのだ。
私は神経質な人間ではないけれど、テレビニュースの『かたづけられない女たち』シリーズの取材対象になるほど、家の中にゴミがあふれている状態は、さすがに許せない(それにしても、某テレビ局の『かたづけられない女たち』に出てくる女たちは、ほんとうにすさまじい。ゴミと悪臭とカビの中で暮らすことになるまで、なぜ片付けないのか理解できないが、シリーズがえんえんと続くほど、取材対象者に事欠かないことの方が、もっと驚異だ)。
男どもがいる週末は、部屋をきれいにすることは事実上無理なので、自動的に月曜日は掃除の日、となるわけである。
どうがんばってみたところで、すっきりきれいになるはずもない、狭い賃貸住宅ではあるけれど、とにかく、月曜日の朝、男どもが出かけた後、私は、すべてのものを本来あるべき場所に戻す。
茶の間の卓袱台の上のパソコンは、壁際のパソコンデスクへ、点訳のためにだしっぱなしの辞典類も本棚へ。
息子が奥の座敷から出してきた座椅子や座布団ももとに戻し、テレビゲームも所定の場所へ片付ける(自分で片付けないとゲーム機を捨てるぞ、と脅しているが、効き目はない。決して安い値段ではないゲーム機を、親が捨てるわけがない、とヤツは読みきっている)。
つれあいが読み散らした雑誌・新聞、脱ぎ散らかした衣服、お茶を飲んでそのままの湯のみ、洗面所で、蓋をとったままのリキッドやらコロンやらの瓶にも蓋をしなおす(しかし、どうしてうちのつれあいは、瓶の蓋、というものをもとに戻す能力がないのだろう?)。
衣類を出したあとの、たんすの引出しもきちんと閉まっていたためしはないし、ソックスはあっちに一方、こっちにまた別のガラのが片一方という具合で、これは即洗濯籠に放り込む。
玄関では、靴とサンダルが四方に飛び散っている。
そういう状態を、とにもかくにも 本来あるべき姿に復元し、そして、掃除機をかけて、必要なところを雑巾がけして、ちょっと見、片付いたように見える状態までなんとかもっていく。
なに、こんなことをやったところで、数10分後には、私がパソコンを卓袱台に引っ張り出すし、息子は夕方学校から帰ってきて、アイスキャンディーの棒をそのへんに投げ散らかし、駄菓子のクズを四方に飛び散らせておやつを食べ、台所に盛大に撒き散らしながら、牛乳をがぶ飲みするのだから、「きれいな状態」もほんのわずかな命ではある。
しかしなあ、だからといって、全然かたづけなければ、ちかいうちに『かたづけられない女たち』へまっしぐらだ。
そして、それを気にするのは我が家では私だけなのだから、私が敗者である。
敗者は、片付かない原因のほとんどが、二人の男どもにあるのが明白だとしても、やむにやまれず、掃除をすることになる。
洋式トイレなんて、使用形態的・身体構造的に、女には汚すのがむずかしいシロモノであって、汚しているのは、二人の男ども以外には考えられなくても、その二人が、どんなに汚いトイレも気にしない(だいたいきれいか汚いか、などということを考えたこともない)のだから、気になる人間が、憤懣やるかたなく、掃除することになる。
私は、なるべく掃除には手を抜きたいので、埃をかぶりそうな場所にあるものには、ふきんや小さな布をかけたりしているのだが、先日、ちょっと思い立って、台所のテーブルクロスや、炊飯器や電子レンジ、ポットのうえ等の埃よけを、同じ柄の布で縫って、統一してみた。
サイズの違う四角い布を作って、台所用品の上にかけただけだが、それでも、少し、見た目がよくなった(ような気がする)。
その晩、会社から帰ってきたつれあいは、その台所を見ても、何もいわず新聞を読みながら、ごはんを食べて寝てしまった。
頭にきて、翌朝、「なんかいうことないの?」と聞くと、
「え?」と不思議そうな顔をする。
「なんか、気がついたことないの、っていってるの!」
「気がついたことって?」
つれあいは、あたりを見回して、なにがなんだかわからん、という顔をする。
私は信じられなかった。
だって、昨日の朝、食事をしていたテーブルクロスは、ブルーだったのだ。しかし、晩には、ピンクの花柄になっていた。
それを この、バカ亭主は気がつかなかったのだ!
洋裁の全然できない私にしてはめずらしく、せっせとミシンを使って、炊飯器の上にも、電子レンジの上にも、テーブルクロスと同じ柄の布がかけられている、そんな大変化に、うちのつれあいは、今のいままで気がつかなかった、ということなのだ。
しつこく言うが、朝まで、ブルーだったクロスが、夜にピンクになっていたら、そしてその上で食事をしたら、ふつう、気がつきません?
これが、気がついてはいたけれど、口に出していうほどのことじゃない、と思っていたのなら、頭にはくるが、まだ理解できる(生意気盛りの息子はそうだった)。
しかし、うちのつれあいは、台所の変化そのものに、まったく気がついていなかった。
あいた口がふさがらなかった。
私は、腹を立てることもたてたが、それより、いかに世の中年男が、「家」というものに愛着も執着も関心もないか、ということについて考えてしまった。
もちろん、賃貸だから、持ち家ほど大事に思えなくても仕方がない。
私だって、さほど現在の住居に愛着があるわけではない。
しかし、毎晩疲れて帰ってくる場所である。
家族がいて、雨露がしのげて、ごはんを食べて、気兼ねなく寝られる場所は、いまのところ、ここしかない。
だったら、もう少し、大事に思う気持はないのか?
食べて寝られれば、あとはどうでもいいのか?
私以外に誰一人ハウスキーピングを担当しようとしない我が家では、むかっ腹を立てながらも、月曜日にはまた、掃除をすることになるのだ、敗者の私が。
買物から帰る。買ってきたものをガサガサと袋から取りだし、冷蔵庫の中へ。
すると足許に監督さんがやってくる。ただ黙って、こちらのすることを見ている。でも目は口よりも…で、なんだかんだと言って来る。
「なに買ってきたの?」「僕の食べられるもの、ある?」「冷蔵庫、いつまで開けてんの!」と。
で、言ってやる。「監督さんしてないで、手を貸して!」
食事の仕度を始める。どこからともなくシンク前の出窓に監督さんがやってくる。チンと座ると、黙って見ている。そして言って来る。
「何、作るの?」「またぁ、レパートリー少ないね」「そんなにジャバジャバやらないで、お水が飛んでくる。つ・め・た・い!」と。
で、言ってやる。「監督さんしてないで、鍋出して!」
掃除を始める。監督さん、遠巻きに見ている。黙って見ている。そして言って来る。
「掃除機、ガーガーうるさいなあ」「僕の飛ばした砂、まだ落ちてるよ」「砂、踏んづけると足が痛いんだよぉ」と。
で、言ってやる。「監督さんしてないで、自分の飛ばした砂くらい自分で拾って!」
点訳の校正をしようかな。印刷したA4の紙をひろげる。原本、原本と。
ふと見ると、監督さんはもう、A4の紙の上に陣取って、黙って見ている。そして、上目遣いに言って来る。
「なにするの?」「この上、好きなんだよな」「ぼくも見てあげる」と。
で、言ってやる。「監督さんしてないで、国語辞典持ってきて!」
パソコンの電源を入れる。監督さんがやってくる。でも、ほかの時とは些か違う。監督さん自ら、始業前の点検をしようと、キーボードに手?をかける。
こりゃぁー!と一喝と言いたいところだけれど、何せ相手は監督さん、控え目に「ダメ、ダメ」と。
パソコン横のおじさんの机の上に鎮座して、言ってくる。
「おっと珍し、点訳するの?」「打つの遅ーい」「あっ、また考えてる」と。
で、言ってやる。「監督さんしてないで、肩でも揉めよ!」
我が家の監督さんは、茶トラの美男子。無口で、シャイ。
だからか、いつも無言のプレッシャーをかけてくる。
うーん、なかなかきびしい監督さん。
今年のさくらの開花は本当にはやかったですね。
東京は終わり、名古屋は2日ほど前に満開を向かえ今日明日までが最高で我が家の近くの山崎川も人が多くてまた、うっとうしい日をむかえています。
数年前から河岸工事が始まり今年は白雲橋周辺のため我が家に近いところはお花見でなく工事見学で橋の上は混雑中。
その気持ちわかります。
私もこの橋を歩くときはつい下を覗いてしまいます。
ここには何ヶ月も同じおじさんがガードマンとしてたっていらしてなんだか顔見知りになって挨拶を交わす仲になってしまいました。
このあたりにさくらが見られないためかさくらがいっぱいのところを通ると"ああーきれい"って思います。
今年は結構あちこちにさくらの美しいところがあるのに気がつきました。
さくらのトンネルくぐるときついアクセルがゆるみます。
いつもこんなにきれいでしたっけ。
今年は子供が春休みの間に咲いたので私も見る機会が多かったのかも。
来週2日はわが息子の入学式。花びらがヒラヒラするのもまた情緒ってことで。
このところ、ひょんなことから、知り合いの韓国出身の人の日本語学習につきあうことになって、発見と驚きの連続です。
何が一番の発見かというと、自分の耳の悪さです。
悪いというのはちょっと違うのかもしれませんね。
私の耳、あるいは脳が、日本語の音しか感知しないのです。
韓国語(朝鮮語)には、母音が8つ(複合母音まで入れると、一説には20個)あるんだそうです。
日本人が5つに聞き分けている音を、あちらでは、少なくとも8種類の別の音と聞いているのです。
子音についても、日本語の音の分け方とは全然違うようです。
実際に目の前で発音してもらっても、私には区別できません。
彼女が、「買い物」の「カ」は「カ」ですか、それとも「カ」ですか? と聞くのですが、私には同じ「カ」にしか聞こえないんです。
しょうがないので、「私にはそれは聞き分けられない。多分ほとんどの日本人が聞き分けられないだろうから、ということは、どちらでもいいということでしょう」というと、彼女は、それはとても困る、と言います。
たしかに、全然別の音だと思っているものを、どちらでもいいと言われても、そりゃ困るでしょう。
「買い物」と言おうとする度に、どっちにしよう、どっちにしよう、と悩まなければいけない。
でも、こちらとしては、区別のないものを、どっちだと問われても困ります。
結局、私が何回か「買い物」と言ってみて、彼女が、「うーん、そうですか、カですか」と勝手に納得することになります。
どう納得したのかは私にはわかりません。
音をどう聞くか、どう分けて認識するか、というのは、きっと生まれてから数年の言語生活の中で決まってきてしまうのでしょう。
韓国では、豚は「グルグルグル」というふうに鳴くそうです。
豚はどこででも同じように鳴いているのに、それをどう聞くかが違うんですね。
英語圏では、犬は「バウワウ」と鳴くのでしょう?
音ではないけれど、虹の色を、ヨーロッパでは6色と認識する国が多い、という話もありましたね。
自分が何十年も、当たり前のことだと思って過ごしてきたことが、実は、広い世界の中ではかなり特殊なこと、というか、ひとつの受け取り方にすぎなかった、と知ることは、新鮮な驚きであると同時に、自分の足元の不確かさの発見です。
その不確かさにまるで気づかずに長年暮らしてきたことに、慌てふためいてしまいます。
ある日突然、地球は丸くて太陽の周りを回っている、と言われたときの人々の不安がよくわかります。
彼女は、日本に来てからもう10年になり、今ではほとんど支障なく日本語を聞いたり話したりします。
今のままで充分通じるからかまわないじゃない、と言うと、でも、発音が悪いから、と気にするのです。
発音が、自分の母語の発音に引っ張られるのは当然のことで、日本人の英語だってLとRの区別なんかたいていないし、それはしょうがないことだと私は思うんですが、彼女には彼女の事情があるようです。
彼女のご主人は韓国語を解さない日本人であり、しかも全盲の方なので、情報の伝達はひとえに彼女の発音にかかっている、というのです。
たとえば、一緒に歩いているときに、目に入る物について説明しても、すんなり伝わらなくて、え? え? って何度も聞き返される。
わかってもらうためには、あっちからこっちから、言葉を尽くして説明しなければならない。
それが度重なると、お互いにとても疲れちゃう、と言います。
なるほど、そういう事情もあるんだ・・・と納得はするものの、発音の修正はなかなか難しいですね。
なにしろ、音の切り取り方が違うのですから。
日本人の多くは朝鮮半島から来た人たちを祖先に持ち、中国文化も朝鮮を経由して入ってきて、地理的にも、九州北部からはほんの目と鼻の先という近さなのに、こんなに音の感覚が違うというのは、どういうことなのでしょう?
いままで迂闊にも全然気づかなかったことに、今ごろビックリしている次第です。
夫の退職を記念してハワイ六日間の旅に出かけた。
空港に着くとすぐに首からレイをかけられ記念写真。15ドル。買わなかった。
日本語の何処かおかしいパクさんの案内で市内観光。
「ハワイは雨季でもあまり雨が降らない。貿易風が吹くと、こうした優しい雨が降る」と説明があった。
雨男の看板を上げている夫の威力はさすがだ。
私は晴女。車を走らせるうちにスカイブルーの青空となった。
昼食は日本でも味わえないような趣のある和食の「よしや」。
お客は夫と二人だけ。額に書かれた字を見ていると女店員さんが「吉 幾三さんが書いたもの」と言う。彼の店だった。
ホテルの近くにはデューティ−フリーがあった。何を買ったらいいのか訳がわからずとにかく店内を歩き回った。
夕食はポリネシアンディナーショーを見ながらバイキングをいただく。
ホテルに戻り先に風呂へ入った夫が「風呂の栓が抜けん」と言う。
栓をしたのは私だ。どうやらシャワー用風呂のようだ。
もう遅いからフロントに電話をするのはやめた。
そこで洗面場にあった小物入れでお湯をくみ出し洗面台に流した。
髪は洗面台で洗った。シャワーをひねったら水が勢いよく出てくるのでお湯の調節がつかないまま冷ためのシャワーを浴びることになった。
トルコへ行ったとき、ツアー客がいっせいにお湯を使ったため後から入ろうとしたら水風呂だったことを思い出した。
カーテンがうまく閉まっていなかったのか洗面場の床が水浸しになってしまった。
そこで床掃除。明朝フロントにきてもらうために、残り湯の上澄みを丁寧に丁寧にすくい取った。
ハワイの1日目はこうして終った。
追伸
夫は「あんなに楽しい旅は初めて」と言いながらアルバムの整理をしてくれた。
先日、ちょっと面白い本を見かけたので紹介します。
といっても、ちゃんと読んだわけではなく、パラパラと見ていたら面白そうな文章が目に入ってきた、というだけですが。
尾上圭介著 『文法と意味 1』 (くろしお出版) という分厚い本です。
何年か前、私の大学の国語学特殊講義の試験で「『ねこが池にボチャンと落ちた』と『ボチャーンねこ池落ちてん』の相違をできるだけ多面的に考察せよ」という問題を出したところ、「ボチャーンねこ池……」のほうは、ねこがよそ見をしていて思わず足をすべらせたような感じがするが、「ねこが池に……」の方は、ねこが草履をそろえて覚悟の入水自殺をしたという感じがすると答えた答案があった。「覚悟の入水」というところが気に入ったので優を与えたが、たしかにこの答案は両表現の雰囲気の差をうまく言い得ている。もっとも、ねこの草履というのはどんな形だろうという疑問がわくし、もっと根本的に、池のほとりにそろえてあった草履は左右二つであろうか、それとも四つであろうかという疑問もぬぐえないのであるが、その点は許すことにした。
わぁ、蓮丈那智みたいな試験だぁ!と思ってしまいました。
蓮丈那智については「みずほ点訳」データリスト No.36 『凶笑面』 を参照のこと。
稲沢市の国府宮(奇祭)はだか祭りに知人に誘われ始めてお参りをしました。
毎年、沢山の人で賑うというので朝早く名鉄電車に乗り出かけたのです。
電車の中はそれらしき人たちでもう一杯です。
なぜかそう思うと全部の人が国府宮に行くのではないかとどきどきしました。
駅では駅員たちが年一度のお祭りの為に総動員で応対しています。
おそらく正月と、このお祭りぐらいではないでしょうか、このように賑うのは(失礼かな?)
知人の話によりますと、このお祭りは毎年 旧正月から13日目に行われるそうで、そして寒く雪混じりになるのが常だったようです。
でも今年は暖かく日曜日と重なり人出は近年にない最高になったと聞きました。
参道に並ぶ露店も活気があり売り子とお客さんとのやり取りを聞くだけで私は久しぶりにお祭りの気分を満喫しました。
だってお正月の熱田様の露店とは全然違うように思います。
お店が並ぶ道幅のせいもあるかもしれませんね。
狭い道に沢山の人が押し合いぶつかり合うのはそれだけで興奮しますものね。
そうしながら拝殿に向かいます新聞にも報じられた大鏡餅を一目見てと必至で前に進みます。
その頃になるとうしろからお賽銭を投げる人があり頭の上を掠めます。
近くには砂埃になったお賽銭が一杯落ちていますがとても拾える状態ではないのです。
やっとの思いでお参りをすませましたがおまいりするのも結構体力がいるものだと痛感しました。
はだか祭りは1200年以上の歴史があるお祭りで近在の人たちは会社も当日はお休みになるのだそうです。
下帯一枚の裸の男たちが神男に触って厄を落とそうともみ合うのです。
当然はだかの肌が触れ合いますそこで水を掛けるのですがその水もただ普通に掛けるのではなく神男をなおい殿に引き上げるように導くために左右、前後に水を掛け人並み(はだか男)を動かすのだそうでちゃんと水をかけるプロの人たちがいてその役目を果すのです。
ちなみにそのプロの日ごろの職業は消防士さん。
これで納得、水を掛けるのはお得意中のお得意ですもの 笑っちゃいました。
家では厄を向かえる子があり最近はあちらのお寺こちらのお宮とお参りに専念しています。
仏様も神様もさぞかし呆れておられるでしょうが続けております。
お参りを済まされた人たちは皆さん幸せそうでニコニコしておられるように感じます。
帰りの電車、窓から見ていたら一駅離れただけなのにさっきの賑わいが嘘のように静寂。
そんな普通の生活風景がなんだか不思議に感じられました。
何かのお祭りのときだったと思う。
高校の和太鼓部(というのかクラブなのかサークルなのか知らないけど)の演奏が予定されていて、部員らしい男子生徒が大きな太鼓を会場に搬入しているのを見たことがある。
かれは、いまどきの高校生男子の例に漏れず、お尻の中ほどまで制服のズボンをずり下げているので、差し渡し1メートルくらいの大太鼓を、そっくりかえって胸の上に乗っけているものだから、それはそれは歩きにくそうであった。
裾のわりあい長いブレザーを着ているにもかかわらず、その下からズボンのベルトが見えかくれしていて、さらにその上にトランクスの縦じまがちらちら見える。
今にもズボンに足をからめそうで、どう考えても大きなものを運ぶのに適したスタイルとは考えられなかったけれど、彼はよたよたしながらも、絶対にズボンをずり上げようとはしなかった。
私は、サーカスの熊が、短い足で無理に直立歩行しているところを思い浮かべた。
最近の男の子たちのあのずり下げズボンは、いったいなんなのか?
どう考えても行動的とは思えないし、だいいち危険だ。
私などは根が意地悪だから、自分の目の前で、ああいうカッコをした男の子が、ズボンに足をひっからませて見事に転んでみせてくれたひには、大歓声とともに拍手してやろうと思っているのだが、やはり若いだけあって運動神経がいいのか、なかなか転んでくれない。
しかし、だからといって、転ぶのを期待してあまり近くによりすぎるのは考えものである。
階段やエスカレーターでは、なるべく離れているにかぎる。
彼がズボンに足を取られてまっさかさまに転げ落ちるのはまったくかまわないが(そういう危険性のあるカッコをしているヤツが悪い)、ずり下げズボン男との心中はごめんである。
その、ずり下げズボン(正式名称がなんというのか知らないので、仮称としておく)について、いつだったか「みずほ点訳」で話題になったことがある。
つまり、ああいうカッコをしているとき、トイレではどのような状況になるのか、ということである。
えーと、なんだか話がヘンなところにいってしまうのだけれど、あれだけズボンをずり下げていると、当然前のファスナーは、所定の位置にはないわけですよね?
本来あるべき位置よりかなり下にファスナーがある、ということは、トイレを使用するとき、やっぱり、ずずず、っとズボンを引っぱりあげる、ということなんだろうか?
適切な位置にファスナーがこないと、すっごく目的を果たしにくいであろうと、想像するんだけど(こればっかりは経験できないもんな)、逆にズボンを下ろす、とかってことは、やっぱりないんでしょ?
公衆トイレの男性用って、個室じゃない場合が多いから、もろに下げるのは、やっぱりまずいだろなあ・・・。
このあたり、日頃ずり下げズボンを愛用している青少年にうかがってみたいものである。
トイレをどのように使用するかもオバサンにはかなりの謎だが、もうひとつ、ズボンをあれだけ下げていると、当然裾は地面で引きずっていることになるよね?
トイレその他、どう考えても、床や地面が清潔とはいえない場所でも、ずーっと引きずっているわけでしょ?
そのような状態を続けたズボンは、これまた当然、ものすごーく汚れている、と愚考する。
アンタたちのお母さんは、そういうズボンをはいた息子が、そのまま家に上がることを容認しているのだろうか?
どっかの汚い公衆トイレとか、雨上がりの泥道とか、誰かが酔っ払って吐いちゃったものが残ってるかもしれない繁華街とか、そういうところを歩き回って、しっかり汚れたズボン、そういうもので、アンタたちは、自宅であれ、よその家であれ、平気で上がっちゃうんだろうか?
そんなもん、こっちの知ったこっちゃねえよ、てな声が聞こえてきそうだけど、だったらこっちも言わせてもらう。
ずり下げズボンのヤツは、いかなる理由があろうとも――瀕死の重傷を負って、我が家に助けを求めてきても、大地震が起こって、我が家がたった一軒だけ被害に遭わなかったとしても――ぜーったいにうちにはあげてやんない!
夏場、若い女の子たちのあいだで、スカートやジーパンの上から、下に穿いているショーツをちらつかせるのが流行っていたけれど、ずり下げズボンの男の子たちの中には、下げたズボンの上から、トランクスをちらつかせているものも多い。
しかしねえ、うちにはトランクス派のつれあいと息子がいるのだ、アンタたちの汚い柄パンを見せていただかなくても、日頃から充分食傷している。
そんなもん、街の美観を損ねるだけなんだから、奥にしまっときなさい!
男の子が「ずり下げズボン」なら、女の子はご存知「生足」である。
それにしても「生足(なまあし)」とは、なんとも即物的な、センスのかけらもないネーミングではある。
彼女たちは、真冬でも超ミニスカートに、生足、ルーズソックス、というスタイル。
知り合いの奥さんがいみじくも言ったものである。
「あのカッコで越冬したら、さぞかし脂肪がたっぷりつくだろうね」
つまりですね、ほら、アザラシとかペンギンとか、極寒の地で冬を越す動物がいるでしょ?
ああいう動物達って、厳しい環境で越冬するために、身体にたっぷり皮下脂肪を蓄える。
それと同じで、常に寒さの中に素肌をさらしていると、身体の防衛本能が働いて、足に脂肪がどんどんつくんじゃないか、っていうんだけど、これって、けっこう的を射ているかもしれない。
そういえば、最近女子高生の足がこころなしか太くなってきたような・・・・ってことはないかも知れないけれど、長期追跡調査をやってみると、あんがいこの「生足・脂肪増加説」は証明されるかもしれない。
桜島大根足になりたい方には、生足がオススメ!
脂肪がどの程度つくかはともかくとして、どう考えても、真冬に素足、というのは、健康によいとは思えない。
とくに、若い女の子たちが、今はなんでもなくても、将来子供を産むときとか、さらに年を経て、更年期障害の年齢になったとき、この「生足」がどのような影響を及ぼすか、誰にもわからない。
彼女たちが身をもって実験台になってくださっているにしても、結果が出るのは、はるか先である。
「女は冷やしちゃだめ」というおばあちゃんの知恵を信じておいた方が、いまのところは賢明ではないかと思う。
・・・なんてことに耳を傾けるような子たちなら、最初から「生足」なんてやってないだろうけどね。
ずり下げズボンも生足も、「誰にも迷惑かけてない」と、当人達はいうんだろうな。
アンタたちのそういうカッコなんかちっとも見たくない、と思っている人間には、充分に迷惑なんだってこと、もちろん考えないんだろうなあ、連中は。
やれやれ。
運転免許証の更新に行ってきた。
優良ドライバーの私、といってもペーパードライバーなので「優良」で当たり前。
視力検査で「ちょっと乱視がはいってきているようなので、気をつけてください。今回はまあ、いいことに」
「まあ、いいことに」で済ませていいわけないんだろうけれど、私にはラッキー。
そして、いよいよ免許証の写真を撮る。
この写真はどんなに変な顔で写ったとしても次の更新までお付き合いしなければならない、大事な1枚。
「今、変な顔したから」と言っても、撮り直してはくれない。
なにかの折には身分証明書として他人様に見せなくてはならない。
ちょっと緊張。
すごく緊張。
入り口を入って左側の2台で写真を撮っている。
そして、その左側の壁に大きな鏡。
何人か並んで順番を待つ。
ふと気がついた。
女性は必ず鏡を覗く。
ちょっとだけ通りすがりに覗く人。
鏡の前に立ち止まる人。
私の前の人はというと、じっと鏡を覗き込み、まず前髪を直し、肩にかかる髪をてぐしで整える。
服の襟元も。
思わず、その女性に「お先に」と言って、カメラの前に座りたくなるくらい、しっかり鏡とにらめっこしてからカメラの前に。
するとお気の毒なことに、「髪で顔が暗くなるので、前髪、もう少しあげて」とカメラのおじさん。
「えっ!」と小声で呟いた女性。
女性がみんな鏡を見るのに気がついてしまった私、なんだか気恥ずかしくって、てぐしで髪をサッサッ。
そして、カメラのレンズを睨みつける。
ここで一瞬、ニコッとした方がいいのかな?それも変かなと思っているうちにパチリ。
「優良講習」を受ける。
時間は30分。
「免許証ができたら講習は途中でも中止します」と言うお言葉に疑問を感じながら、早く済むのならと、「ひやっと、はっと」(?)とかいうビデオを見る。
20分程して違うおじさんが入ってきて、「免許証ができました」と。
再び、写真のことが気になり始める。
5年間お付き合いしなければならない写真。
よし、今度は免許証を手にした女性の様子を観察してやろうと思っていたら、すぐに名前を呼ばれてしまった。
何気なく、何気なく、横目で写真を見て、そそくさと講習会場を後に。
それにしても5年は長いか短いか。
やっぱりふけたなあと、ガックリ!
先日近所で、迷彩服のような色と柄の上着を着て、自転車に乗った、10歳くらいの女の子を見かけました。
私は、どうも迷彩服とか国防色とかいうのが苦手で、自分ではもちろん、子どもに着せようと思ったこともないんですが、もうずいぶん前から、そういうものが若い人たちのあいだで流行したり、店頭にたくさん並んだりしているのは知っています。
時代が変わった、ということかなあ、と思っていました。
迷彩色のハンカチだとか、ミスマッチを狙ったのか、裾に白いレースをあしらったミニスカートとか、びっくりするような商品がありました。
まあ、それは、かなり冗談みたいなモノですから、あのハンカチ、すぐ失くしちゃうよねえ、と笑っていただけでした。
その後、小さい子どものものにも、迷彩色が取り入れられて、ああ、あの若い人たちが親になったんだなあ、と妙な感慨を抱いていたのですが、どんなもんかなあ、という苦手感はずっとありました。
だから、その女の子を見かけたときも、なんとなく、「あーあ・・・」という感じはあったのですが、もちろん私がとやかく感想を述べる筋合いはありませんから、そのまま通り過ぎました。
歩道を走ってきたその子は、信号で右折しようと、横断歩道のところで待っていたので、直進する私は彼女を追越し、彼女は私の視界から消えました。
それから5〜6秒して、背後で信号が変わったらしい気配がした、と思ったら、キキーッと車の急ブレーキ音。
えっ!と振り返ったら、車道の真ん中で、左折してきた車とその子が1メートルほどの距離で止まっていました。
一瞬の凍結の後、彼女も車も、なにごともなかったように、それぞれの方向に走り去っていきました。
私だけがその場に取り残されて、ドキドキしていました。
(もちろん、両者とも内心はドキドキだったのかもしれませんが。)
単に、左折車の前方不注意なのかもしれません。
でも、私の頭に先ず浮かんだのは、「見えなかったんだ!」ということでした。
言うまでもなく、迷彩服の目的は、背景に紛れて、敵から見えにくくすることです。
世界中の軍隊がそれを採用しているということは、実際に効力があるということなのです。
親は、そういうことを知って、子どもに着せているんでしょうか?
知ってなお、敢えて着せているとも思えません。
では、迷彩服の何たるかを知らないということでしょうか?
こういうことは、誰かに教わらなければわからないことでしょうか?
世代間で、情報や知恵が受け継がれていないということでしょうか?
それはつまり、我々の世代の怠慢なのでしょうか?
ものごとのそもそもの意味を知らずに、その形だけを取り入れてしまうことは多々あることですが、ちょっと間違えると、命にかかわることもある、ということですね。
それにしても、目の錯覚というのは、いろんな場面で起こるものです。
「百聞は一見に如かず」という諺が、当たっている場面ももちろんあるけれど、そうでない場合もたくさんあります。
「見る」という行為も、結構いい加減だったり、間違いだらけだったり、騙されやすかったりするんですよね。
普段、「見える」ということに頼りきって暮らしている者は、それがいかに危ういものであるか、つい忘れてしまうのですが、ほんとは常に気をつけていないといけないんですね。
ひとり暮らしの母(76歳)に超簡単な携帯電話を持たせることにしました。
最近発売された子供とお年より向きのワンプッシュボタン式を買って母に届けました。
「お母さん、1のボタンを長押しすると小川さん、2のボタンを長押しするとママの携帯、3のボタンは留守電に設定してあるけど1と2だけ覚えればいいわよ」って操作を教えました(操作っていうほどのことではありません)。
それからが大変。
本当にまったく全然おぼえられないのです。
ボタンを一つ押すことができないのです。
さんざん練習したあと、次に電話がかかってきたときのボタン、かけ終わったときのボタン操作を教えたのですがこれまた覚えられないのです。
「お母さん、電話がかかったら受話器をはずすでしょ?終わったら受話器を置くでしょ?そのマークのボタンを押せばいいのよ」
この言葉30回は言いました。
これだけのことを教えるのに1時間半。
なぜ覚えられないのですか?
どなたか教えてください!
はっきりいってすごーく腹がたって冷静になれませんでした。
新しいことを覚えようとしないようで悲しくなりました。
昨日電話したときに携帯電話のこと聞きましたら寝室に置いてあるそうです。
使えるようになったか?はわかりません。
私も将来そうなるのかなって思ったら・・・・あーあ。
新聞にシルバー川柳が載っていました。
面白さに思わず声を出して笑ってしまいました。
女性 夫より三歩前歩く老後かな
男性 次の世も一緒と言えば妻はNO
やはり女性は強い。
お母さん お願い 元気で長生きしてね!
みずほ点訳ホームページ効果か、昨年12月にあるケーブルテレビ局から取材を受けた。
10月から始まった点訳講座のお手伝いをしているところだ。
一週間ほど毎日放映されると聞いてはいたがグループの誰も見る機会は無かった。
1月の講座時に先生から「受講生の人が収録したものです」と、ビデオをお借りした。
怖いものみたさにテープをかける。
先生アップ。
講座の様子。
ぬし様ちらり。
ママさん落ち着きベテランみたい(失礼、失礼)。
ぼさぼさ髪で鼻眼鏡のサザエズーム。
白魚のような(ムムムむ)指先アップ。
本当は点字を映している。
いつもの活動場所、図書室へ移動。
tenさんアップ。
さすがtenさんアポなし取材にもかかわらず、点訳のことなど的確に答えている。
tenさんの隣で点字資料を持っているオリーブさん、最後まで、伏し目のまま。
自分でビデオ操作のできないサザエは息子にダビングを頼んだ。
ところがテ−プがビデオデッキから勝手に出てしまう。
不思議がる息子は「テープが切れている!」と・・・。
パニックサザエは点訳仲間にSOSメールを送った。
直ぐにtenさんから返信。
「先生も見たことだし来週、皆でお詫びをすればいい。気にしない」なんてね。
オリーブさんは風邪でダウン。
だから旦那様であるおっとっと様から「テープがビデオデッキに絡まなくてよかった」と。
少し(大変)気が楽になった。
パソコンで検索してもテープ修理は見つからない。
大手電器店でテープを買いながらレジ嬢に聞いても「切れたら直りません」と簡単な返事。
そんな時ママさんが「パパさんがセロテープでつないだことがある」と電話をくれた。
近くの電気店へ行き訳を話すと「切れた前の部分は捨てて残りを芯に捲きつける事になるかもしれないがやってみる」と預かってくれた。
一時間ほどで「直ったよ」と電話が入った。
テープの切れた箇所は、他のコマーシャル部分であった。
持ち主には、新しくダビングしたものを快く受け取ってもらえた。
一件落着!サザエお騒がせ第一弾でした。
今月の21日朝、瀬戸市の山中で車が燃え車内から母子三人は焼死体で見つかった、無理心中とみられる、というニュースがありました。
私は、世の中不況、暗いことばかりと、そんなにも気にしないでいました。
ところが今朝の新聞を見て、えっ あの親子は、視力の弱いお子さんを持つ、親子だったのだ。
長男(6つ)次男(3つ)二人とも視力が弱かったようで、保育園に通う傍ら、名古屋市千種区の盲学校にも通っておられたそうです。
お母さんは点訳ボランティアサークルにも入られ「我が子と同じ境遇のこどものために、何かしてあげたい」と積極的に活動をしておられたようです。
そんなお母さんがどうして、なぜ?
特殊学級と普通学級どちらに進ませるかを学校側と話し合われる時期でもあったようです。
小学校に上がれば本を読む機会が増え、黒板の字をノートに書き写す。
視力の弱いお子さんをもつ親御さんは誰でも不安になるでしょう。
いずれにせよ、私たちには計り知れない何かがあったのだと思います。
無念です。そして悲しいです。
色々な障害をもちながらも前向きに生きておられる方も多くおられます。
もうすぐ冬のオリンピックが始まります。
そしてパラリンピックの競技を見るとき大変な障害を乗り越えて活躍される選手に私はいつも感動します。
健康で毎日を過していますのに、何かと不満ばかり言う自分に反省するのですが、それも直ぐに忘れてしまっています。
点訳ということに少し関わっている私には、このニュースはやりきれない思いで一杯でした。
次回はもっと明るい出来事を載せたいと思います。