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文化・歴史 ◆間宮林蔵の立像 |
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命をかけて海峡を渡った探検家"間宮林蔵"
最果ての地に魅せられてやってきた旅人たち
文化5年(1808年)、幕府は間宮林蔵と松田伝十郎の2人に樺太探検を命じました。かくして文化5年4月13日、林蔵は伊能忠敬から譲られた測量用の羅針盤を手に、伝十郎とともに宗谷から出発しました。
このときは北緯52度近くのラッカまで行き、樺太は島であると判断しましたが、過酷な自然を前にそれ以上北上して確認してくることはできませんでした。
やむなく宗谷に戻った林蔵は、幕府より"樺太東岸の奥を見極めよ"と申し渡され、同年の7月13日、単独でアイヌ船に乗り込み、宗谷の地を再び後にしました。この時彼は郷里から持ってきた墓石を海岸に建てて探検への覚悟の程を示したといいます。林蔵は厳しい寒さに耐え、文化6年5月、ヨーロッパ人がいまだ調査をしたことのない水域を突破し、樺太北端に近いナニオー(現在のプロワ)に到達し、樺太が島であること、つまり間宮海峡を発見しました。林蔵29歳のときです。
林蔵のほかに宗谷から樺太に渡った探検家に松浦武四郎がいます。武四郎は樺太をはじめ蝦夷の探検で成果をあげ、後には「北海道」の名付け親にもなりました。また樺太には、かの宮沢賢治や菊地寛も訪れておりますし林扶美子や井上靖、詩人の並木凡平など多くの文人が稚内を訪れております |
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