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入所者の思いから重監房復元運動が立ち上がったのでした。
- 重監房を復元してほしいという発想は、栗生楽泉園の入所者で、国家賠償訴訟の先頭に立って戦ってきた谺雄二さんが最初に言い出されたものでした。悲劇の象徴である重監房を忘れ去るのではなく、そこで何が行われたのかを後世の人々が実感をもって理解できるような形で伝えたい・・・。
- 重監房は各地の療養所に暮らすハンセン病の患者さんたちにとって、恐怖の対象でした。重監房に火をつけて破壊する計画もありました。1947年に重監房が国会で追求され、二度と使用しないことが確約されたことは、彼らの人権回復運動にとって大きな成果でした。しかし、その建物が自分たちの知らないうちに壊されたことは、そこで行われた悲劇の歴史を消し去ろうとする「証拠隠し」ではないのか?
- こうして、重監房を復元させようという声が、他ならぬハンセン病療養所に暮らす人たちから発せられたのです。
重監房の復元を「国」が責任をもって行うことを訴えました。
- 重監房問題の検証は、現在、熊本地裁判決を受けて設置された検証会議・検討会(事務局:日弁連法務研究財団)においても重要なテーマとなっていました。しかし、現在までに知られていることだけを見ても、重監房は歴史的な意義を持っていると、私たちは考えます。
- 私たちは、この悲劇の現場である重監房を、国の責任において復元するべきと考えました。その理由は、一つには重監房が国立のハンセン病療養所に、国が法律に基づいて設置した「国の施設」であったことにあります。もう一つには、ハンセン病政策のような過ちを繰り返さないために、後世の人々にこの凄惨な悲劇のことを確実に語り伝えていかなければならず、そのための「媒体」として、重監房はこの上なく重要な資料と考えるからです。
- このような理由から、私たちの運動は、「国に復元を訴える」というスタンスをとってきたのです。
広く国民の声として、また世界の人々とも連帯して、復元を呼びかけました。
- 入所者の思いから生まれた重監房復元運動は、この悲劇の語り伝えの重要性を理解するすべての人々が連帯して行われるべきものと、私たちは考えます。党派を超え、利害を超え、ただ私たちの子孫に歴史を語り継いでゆくために、この会はつくられました。
- 国会議員、文化人、学者、ハンセン病問題に関わってこられた方々等、様々な人々が立場の違いを超えて呼びかけ人になり(呼びかけ人名簿は準備が整い次第、本サイトでも公開します)、また多くの国民ならびに海外の人々がこの運動を支持してくださいました。
- 重監房の廃止・破壊から半世紀、熊本地裁の画期的な判決で、ハンセン病患者・元患者の方々に対する、長く過酷な人権侵害の事実がようやく認められました。しかし、国の政策の誤りの背後に、私たち国民の、この問題への無知・無関心があったこともまた事実です。
- もう一つ重要なことは、世界の医療史のなかでも、日本のハンセン病政策と重監房問題は大変に特異なものであるのに、国際社会にはほとんど知られていない、ということです。重監房の存在はもちろん、日本が戦後も長く絶対隔離政策を続けたこと、自国のハンセン病政策を周辺の植民地化した国に押しつけていたことなど、わが国のハンセン病問題そのものが、海外ではほとんど知られていません。その意味で、私たちは重監房を国際的な遺産として位置づけ、国の枠を超えた理解の輪を広げていきたいと考えました。
- こうした私たちの呼びかけが、予想以上に多くの方々の共感を呼び、10万人署名という大きな目標を達成することができました。そして、その呼びかけに基づいて、国は重監房の一部を実寸大で復元させた「重監房資料館」を2014年に開館したのです。
会の連絡先
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