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重監房(特別病室)とは?
- 1916年に、「癩予防ニ関スル件」(法律第11号、1907年制定)が改められ、ハンセン病療養所の所長に対して、患者の懲戒検束権が与えられました。これは、裁判の手続きを経ずに、所長の裁量によって患者に懲罰を与え、拘束する権限であり、当時の法体系に照らしても根拠薄弱な違法性の強く疑われるものでした。
- この非人道的な懲戒検束権のいわば「最高刑」を与える場所として、1938年に群馬県吾妻郡草津町の国立ハンセン病療養所栗生楽泉園に建設されたのが、重監房(正式名称「特別病室」)でした。それは「特別病室」という名前からほど遠い、懲罰用の独房の集合体でした。
- 各地の療養所では、不満を訴える患者に「草津送りにする」(重監房への収監を意味する)という脅し文句が使われ、実際に全国の療養所から多数の入所者がここへ送り込まれ、収監されました。その数は、わかっているだけで92人、そのうち22人がこの中で亡くなり、また出獄後まもなく死亡した人も多数にのぼります。しかも、監禁は最大2カ月以内という規定が守られずに長期に及び、500日以上という例も知られています。
- 建物全体は厚い壁に仕切られ、内部は幾重もの鉄扉で遮断されていました。内部の各独房は、隣の収監者と声を交わすことができないように隔てられ、この独房を隔てる空間の上には屋根の覆いがなく、降雪時には独房の周囲に雪が降り積もりました。逃走を警戒して、土台は非常に低く作られ、そのために独房内は地面からの低温にも曝されました。暖房設備はまったくなく、厳寒期の房内はマイナス20度にもなったともいわれています。
- 1947年に、この重監房の存在は国会で追求され、建物は1953年に入所者も知らぬ間に壊されてしまいました。現在は土台のみが残り、「重監房跡」という石碑が建っているのみです。
現在の重監房跡地の様子
重監房跡地を実測して作られた平面図
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