京都岩倉 実相院
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実相院の1つは池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)。庭池には日本では数少なくなったモリアオガエルが生息しているらしい。 池に掛る石橋は苔生している。誰も渡る人はいない。
この庭はカエデが有名。見所は、部屋の板の間に写る「床紅葉」「床緑」。この季節に訪れると大賑わい。 |
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京都 宝が池周辺
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宝が池は江戸時代に農業用のため池として作られた人工池である。 比叡山と国立京都国際会館を借景として楽しむ遊歩道があり、京都市内とは思えないほど自然に溢れている。
遊歩道は、池と林に挟まれ苔の天国。 野面石積み、木の根っこに至るまで苔生し酸素で満ちている。 |
静寂な佇まい
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遊歩道石積み
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路傍の苔
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京都 嵐山天竜寺
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開基は足利尊氏。暦応2年(1339)8月、後醍醐天皇が崩御したが、その菩提を弔うため、 無窓国師が足利尊氏に進言し開創されたという。後醍醐天皇と足利尊氏は言わば不倶戴天の間柄。
その尊氏を発心させた無窓国師という人が作庭した池水回遊式庭園は流石に見事だ。 元治元年(1864)七月の「蛤御門の変」では長州兵の陣所となり、兵火のために焼けた。
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池の周りの植え込み
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苔が木の周りを囲んでいる
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苔の絨毯
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庭石にも
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水汲み場は苔で近づけない
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南禅寺 方丈庭園
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南禅寺は臨済宗南禅寺派大本山。開基(創立者)は亀山法皇。 日本最初の勅願禅寺であり、京都五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺) および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院である。
名勝に指定されている枯山水庭園は小堀遠州作、通称「虎の子渡し」。 裏へ回ると苔のサンプルが並べてあった。 |
隣の寺院の屋根を借景とした枯山水
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鮮やかな苔のコントラスト
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このサンプルの手入れも大変だろう
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丈夫なスナゴケ
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大和郡山城
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天正8年、筒井順慶が織田信長より大和一国20万石を与えられ、本格的な戦国城郭の築造を始めた。当時は大和20万石の中心だった。 天正13年に豊臣秀長(秀吉の異父弟)が、大和・紀伊・和泉100万石の太守として入城し修築する。
現在残る石垣はこの頃のものであるらしい。その後、この城の城主は度々代わる。 享保9年に甲府城主柳沢吉里が15万石で入封し、以後、柳沢氏は信鴻-保光-保泰-保興-保申と代々居城し明治維新を迎える。
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幾度の戦火に耐えてきた石垣。
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古城には苔が似合う
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秀長の大改築の頃、石材が不足していた。路傍のお地蔵さんも集めてきて石材として利用している。 何とも不心得な。
こんな筈では 城の石垣 地蔵様 |
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世田谷豪徳寺
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豪徳寺(ごうとくじ)は世田谷区にある曹洞宗の寺院。山号は大渓山(だいけいざん)。 招き猫発祥の地として有名。安政の大獄で名高い井伊直弼の墓もある。
豪徳寺が井伊家の菩提寺になったのは、ある日彦根藩主井伊直孝が鷹狩に出かけた帰り道、この寺の前を通りかかると寺の飼い猫が手招きした。 そこで、直孝が寺に立ち寄り一休みしていると、急に空模様が悪くなり雷雨になってしまった。
猫のお陰で雷雨を免れた直孝は喜び、それでこの寺を菩提寺にしたという。 日頃怠けて何もしない猫にブツブツ言っていた和尚だが、 これには喜びその猫を「招福猫児(まねぎねこ)」として福の神にした。これが招き猫の由来とか。
豪徳寺を走っている世田谷線の沿線に松陰神社があり吉田松陰が祀られている。この二人の墓所が世田谷沿線に並んでいるのは皮肉だ。 |
墓所に向かう静かな参道
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傍らの祠
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井伊直弼の墓所。風通しが良いせいか苔は少ない。
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京都 相国寺
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京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山、山号は萬年山(万年山)。名勝鹿苑寺(金閣寺)や慈照寺(銀閣寺)は、 相国寺の境外塔頭(けいがいたっちゅう)である。
足利尊氏に後醍醐天皇を弔うため天龍寺の建立を進言した夢窓国師を勧請開山とし、足利三代将軍義満が建立した。 広い境内は観光客も少なく落ち着いた雰囲気。度重なる災禍にもかかわらず禅宗行政の中心地として多くの高僧を輩出し、壮大な伽藍を保持している。
境内の承天閣美術館は相国寺と関連寺院(鹿苑寺など)の文化財を収蔵展示する施設。 水墨による歴代の高僧の肖像画が面白かった。画僧雪舟は相国寺の出身である。
梅の花が美しかった。 |
境内の梅の花
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苔庭に配置された庭石
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苔が庭石に這い上っている
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静かな境内。柵はないけれど誰も立ち入らない。
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済州島
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韓国の最南端に位置する火山島。韓国の中では最も気候が温暖で、「韓国のハワイ」と呼ばれている。 島の中央に漢拏山(ハルラ山;標高1950m、韓国最高峰)がそびえ、冬になると北西季節風が吹き荒れる。
漢拏山、城山日出峰(噴火口跡である岬)、拒文岳溶岩洞窟系は「済州の火山島と溶岩洞窟群」 として2007年に世界遺産に登録されている。
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漢拏山(ハルラ山)バスの窓から。
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漢拏山溶岩台地の苔。火山噴出後の溶岩台地に最初に出現する植物は苔である。
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台地に拡がる畑は、開墾した時出てくる石の石積みで区切られている。
ちなみに済州島の三多は石と風と女と言われている。
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城山日出峰の威容、海に突き出た岬の頂上に世界遺産の火口がある。
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火口へ上る石段は海に突き出た切り立った溶岩。よく見ると苔がへばりついている。
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頂上、見事な火口原。
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中文洞海岸の玄武岩柱状節理。さすがにここには苔はなかった。
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清閑寺
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東山山麓の清水寺を南に15分ほど歩いたところ。 802年開創。歌の中山とも呼ばれている。
悲恋物語の舞台としても有名。 当時の高倉天皇の中宮(后)は平清盛の娘徳子(安徳天皇の母)であった。天皇は権力者の娘徳子に頭が上がらない。 そこへ美貌の小督局が現れたので、天皇はたちまち夢中になってしまう。
怒った清盛は小督局を嵯峨に追いやった。 天皇の嘆きは深く、みかねた側近の源仲国が密かに小督局を宮中に呼び寄せた。 (これが、謡曲「小督」として有名な話らしい。)
しかし、こういうことはいずればれる。 今度は、清盛は二度と宮中に戻れぬよう小督局を尼にさせる。 尼にした場所がこの清閑寺。世を儚んだ小督局は21歳の若さでこの世を去った
高倉天皇深く悲しみ、「死んだら小督のいる清閑寺へ葬ってくれ」と遺言を残して崩御された。 お寺の後ろには、高倉天皇陵があり小督のお墓も傍にある。
境内にある郭公亭(跡) は安政5年(1858)清水寺成就院の日照上人が、西郷隆盛と密かに会合して、都落ちの計画をたてた有名な茶室。
歌の中山清閑寺とも言われている。清閑寺の寺伝に「見るにだにまよふ心のはかなくてまことの道をいかでしるべき」 という歌が詠むまれた場所であることがその所以。
辿り来ぬ 歌の中山 落ち葉径
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参道入り口。
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小さい門構え
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静まりかえった境内。昔は立ち寄る人も少なかっただろう。
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日照上人や西郷隆盛が眺めた苔
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遥かに京都市街をのぞむ。
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王禅寺
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川崎市麻生区にある真言宗豊山派の寺院。山号は星宿山。 日本最古の甘柿の品種と言われている禅寺丸が発見された寺。 白秋の詩がある。 |
欝蒼としたたたずまい。
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右手の祠。西側斜面の為か階段には苔。
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禅寺丸の原木。幹は結構太く根元には苔。
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白秋の詩。もう少し立派な碑にすればいいのに。
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街角にて
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街を歩いていると、オヤと思うところに苔の一群が目に入る。 |
世田谷区烏山緑道に沿った擁壁。
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経堂駅付近のマンホール蓋
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川崎市新百合ヶ丘付近の住宅擁壁
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この一角だけ苔の擁壁
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海老名駅前のせせらぎ
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滑らかな石には苔は付いていない
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