Movie Review 2005
◇Movie Index

ミリオンダラー・ベイビー('04アメリカ)-Jun 8.2005
[STORY]
ベテラントレーナーのフランキー(クリント・イーストウッド)は経営するジムでボクサーを育成しているが、有望な教え子を大事にしすぎて逃げられたりしている。そんなある時、女性ボクサーのマギー(ヒラリー・スワンク)がトレーナーになってほしいとやってくる。フランキーは断るがマギーは諦めない。見かねた元ボクサーで雑用係のスクラップ(モーガン・フリーマン)が彼女の手助けをし、やがてフランキーも彼女を認めるようになる。
監督クリント・イーストウッド(『ミスティック・リバー』
−◇−◇−◇−
原作はF・X・トゥールの『テン・カウント』に収録されている6編のうちの1編。第77回アカデミー賞の作品賞・監督賞(イーストウッド)主演女優賞(スワンク)助演男優賞(フリーマン)の4部門を受賞した。

イーストウッドの前作『ミスティック〜』と、スワンクがあまり好きじゃなかったので見るつもりなかったんだけど、成り行きで見てしまいました・・・成り行きなんて言ってすいませんでした。絶賛されているほど自分は良かったとは思わないけど、前作より良かった。
スワンクの演技も『ボーイズ・ドント・クライ』の時よりいい。ひたむきで真っ直ぐで芯の強いところがとても美しかった。ただボクシングシーンは素人目に見てもいまいちだったな。勝ち続けている設定の割には腰が引けてて強そうじゃない。対戦相手の“青い熊”ビリーのほうが構えがしっかりしてる、と思ったらこちらはプロボクサーでしたか。

説明過多な映画は好きじゃないんで、フランキーがどうして娘と疎遠になってしまったのかを省略してあっても気にならなかったし、むしろなくて良かったと思う。でもマギーがどうしてボクシングをやるようになったのか?31歳の彼女が始めてから3年と言ってたから、28歳の時でしょ。そのきっかけは何だったのかということと、なぜフランキーにトレーナーをやってほしいと思うようになったのか、彼の何を見てそう決めたのか?は説明が欲しかった。そこが抜け落ちているせいで後半の2人の絆が浮かび上がってこない。ぼやけてしまったように感じた。

また、マギーがどんどん勝ちあがっていくシーンは、今までのアメリカ映画にありがちな軽い表現になっていて、これはアメリカン・ドリームな映画を皮肉っているのかなーと思ったんだけど、後半との差をつけすぎて、いびつな感じがした。もう少しなだらかにシフトさせたほうが違和感なかったと思う。
音楽も映像と同じようにシンプルだが、こちらはフランキーの心情を表現しているようで胸に響いた。作曲もイーストウッドだったのね。余計なものを削ぎ落としたようなこの音楽もまた、過剰に音を重ねることで奥行きあるように錯覚させる映画音楽を皮肉っている?というのは考えすぎか(笑)

とはいえ、フランキーがマギーのガウンに刺繍したゲール語(アイルランドの言葉)“モ・クシュラ”の意味を教えた時はさすがに涙が出た。アイルランド系アメリカ人とかキリスト教について分からなくても、フランキーのマギーへの思いは理解できる。彼女はこの言葉を背負って戦っていたんだな・・・と思い返すとまた泣けてくる。

後半は、同じ年に賞を受賞したある作品と同じテーマになっていて、アメリカでのこの問題についての関心の高さを伺わせる(裁判もあったし)両方見てみて、個人的にはやっぱりもう1つの作品のほうが心を揺さぶられた。本作のほうが壮絶なんだけど、そこに至るまでの描写や本人の意思を受け入れられるのは何故かもう1つのほうなんだな。まぁ本作はこれがメインテーマじゃないからかも。あくまでもフランキーとマギーと、そしてスクラップの絆の話。血の繋がりはなくても、肉親より強い絆で結ばれた人たちの話だった。
home

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

おわらない物語―アビバの場合('04アメリカ)-Jun 4.2005
[STORY]
従姉妹のドーンが自殺したことにショックを受けた幼いアビバは、自分はたくさん赤ちゃんを産んで幸せになると決意する。そして12歳になったアビバは妊娠し産もうとするが、アビバの母ジョイス(エレン・バーキン)に猛反対され、無理やり中絶させられてしまう。母親になる夢を諦めきれないアビバは家出をし、ヒッチハイクで町を出るが・・・。
監督&脚本トッド・ソロンズ(『ストーリーテリング』
−◇−◇−◇−
原題は『Palindromes(回文)』で、主人公アビバ(AVIVA)の名前が回文になっている。また12歳のアビバを人種も年齢も性別も違う8人が演じているのだが、この8という数字えを書く時、右上から左にいって斜め右下、左下を回ってまた右上へと最初の線へ戻ってくる。この数字の書き順と同じようにアビバは紆余曲折し、またふりだしへ戻るような構成になっている。ただ、ふりだしに戻ったと思っているのはアビバだけで、でも現実にはもう戻れない。ふりだしではないのだ。ラストで最初に演じたアビバが再び登場するのだが、ここで8人が1人を演じるという監督の意図が分かったような気がした。

アビバを演じる中に1962年生まれのジェニファー・ジェイソン・リーがいるのもスゴイのだが(でも違和感ない!)男の子アビバが8人の中で一番可憐なのにも笑ってしまった。でも見た目は全然違う人が演じていても、喋り方は指導したのか統一されているので、1人のアビバにちゃんと見える。それにアビバが変わっても周りの人の演技は変わらないので違和感がなかったというのもあるだろう。特にエレン・バーキンの演技は多少オーバーに感じたけど、この設定をブレさせず説得力を持たせたと思う。でも見る前からこの設定を知っていたから楽しめたけど、全く知らないで見たらビックリして混乱しただろうな。

実は、この作品とソロンズの1995年の作品『ウェルカム・ドールハウス』が関係していたということは見るまで知らなかった。前にも書いたけど、私はソロンズ作品の中でこの映画だけは見てなくて(というか見たかったんだけど劇場でやってる時には見そびれ、レンタルしたくても自分が会員になっているショップに置いてないので見れない!)だから関係していると知ってものすごく悔しかった。見てなくても話は通じるけど、ドーンのお兄さんが出てきてもピンとこなかったし、後のほうでもう一度彼が出てきてアビバと会話するシーンを見て、たぶん『〜ドールハウス』を見ていたらこのシーンでもっと感じるものが大きかったんじゃないかな、と漠然とだけど感じた。だから余計に悔しい(両方見てる人、どうだったでしょうか)

家出したアビバがサンシャイン・ホームという病気や障害を抱えた身寄りのない子供たちが暮らす施設へたどり着くシーンは、まるでおとぎ話のように美しい。善意の塊のような夫婦と、障害を持ちながらも明るい子供たち。誰かが冗談を言うと一斉に笑いがはじける。アビバにとって救いとなりそうな場所――にもかかわらず、いびつで薄ら寒い雰囲気を感じ取った。すると案の定、裏の部分が明らかになる。このエピソードは実際にあった事件を元にしたというが、普通ならこの事件を柱として映画を作りそうなもんだけど、本作ではアビバが遭遇した事柄の1つであり通過点にすぎない。でも信心深すぎて考えが矛盾していることに気付かない人間の怖さは伝わった。とはいえ、人間の裏の顔を知ことは愉しかったりする。表で感じた薄ら寒さというのは、これが偽善であってほしいという願望だったのかも。ソロンズ作品を見ていると、人の本質を見せてくれると同時に、自分の中の本音も露わになってしまうようだ。それが怖ろしくもあり、快感だったりします(笑)
home

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

イン・ザ・プール('04日本)-May 25.2005
[STORY]
伊良部総合病院の地下にある神経科に「継続性勃起症」に悩む田口(オダギリジョー)という男がやってくる。泌尿器科では治療できず、精神的なものではないかと判断されたのだ。神経科には伊良部一郎(松尾スズキ)という病院の跡取りながら不真面目な医者がおり、田口の助けになりそうにない。一方、ルポライターの涼美(市川美和子)はガスの元栓や鍵を掛けたかどうかが気になる「強迫神経症」で伊良部の元を訪れる。そして伊良部が通うプールには、ストレス解消のために泳いでいたはずが徐々にエスカレートして「プール依存症」となってしまった大森(田辺誠一)がいた。
監督&脚本・三木聡(短編『まぬけの殻』)
−◇−◇−◇−
監督の三木はシティボーイズのライブやTV番組「トリビアの泉」などを手がけている。原作は奥田英朗の同名小説。続編の『空中ブランコ』は第131回直木賞を受賞した。

原作は2作とも読んだんだけど、連作短編なので1話につき1人しか患者は登場しない。映画では2人が伊良部の診察を受け、1人は病が進行中という構成になっていて映画としてはこういう構成で正解だと思うし、この3人が知り合いになったり会話するようなシーンを作らなかったのも正解だった。

でもストーリーは原作のエピソードから離れたオリジナルのシーンになるとつまらなくなった。この作品は真剣な患者とフザけた伊良部との掛け合いや彼の荒療治(?)が面白いのだから、そこを外してしまったらまずダメでしょ。「プール依存症」は映画のタイトルである『イン・ザ・プール』のエピソードだから他のエピソードとの違いをつけたかったんだろうと思うが、この話に伊良部を絡ませないのはもったいない。しかも他の病気に掛かったり、大森の愛人を登場させたりと余計な枝葉をつけたおかげで本来の病気がよく分からないものになってしまった。病が進行中の人物を出すなら「フレンズ」のケータイ中毒の雄太にして、あらゆるシーンに登場させてメールを打たせておけば良かったんじゃないかな(笑)

田辺・市川・オダギリとも神経質には見えない役者をあえて起用し、見てるほうにストレスや息苦しさを感じさせない演技をしていたように見えた。それはいいんだけど「強迫神経症」の涼美を演じた市川はもう少し喋りを早くして神経質さを出したほうが、伊良部との掛け合いが面白くなったと思う。あとピザや水のペットボトルいっぱいの部屋はこの映画の中で一番ダメ出ししたいところだ。あそこは作りすぎ。カブトムシの飼育ケースや冷蔵庫の話はオリジナル展開の中では面白かっただけに、ホントに残念だ。

結局、原作に一番忠実だった「継続性勃起症」の話が纏まりも後味も良かったと思う。でもオダジョの焦った時の顔って、ちょっと森下能幸に似てると思ってしまったことは内緒だ。
home

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

クローサー('04アメリカ)-May 21.2005
[STORY]
ロンドン。新聞記者のダン(ジュード・ロウ)は、ある朝、交通事故で怪我したアリス(ナタリー・ポートマン)を助けて病院へ連れて行く。彼女はニューヨークでストリッパーをしていて、ロンドンには着いたばかりだった。2人は恋に落ち同棲を始める。1年後、アリスのことを書いた小説を出版することになったダンは、アンナ(ジュリア・ロバーツ)という写真家に写真を撮ってもらううちに彼女に一目惚れする。アンナはダンを拒む。半年後、ダンはアンナの名前を使って男とチャットをし、会う約束をする。騙されたのは医師のラリー(クライヴ・オーウェン)だった。しかし待ち合わせ場所に偶然本物のアンナがおり、2人は付き合うようになる。
監督マイク・ニコルズ(『パーフェクト・カップル』)
−◇−◇−◇−
1997年にイギリスで初上演されたパトリック・マーバーの同名戯曲の映画化(日本でも1999年に上演された)第77回アカデミー賞の助演男優賞(オーウェン)と助演女優賞(ポートマン)にノミネートされた。香港映画の『クローサー(原題SO CLOSE)』とは別の映画。

内容は「勝手におやりよ」って感じで誰にもどこにも共感できないが、セリフのやりとりは楽しめた(元が舞台だからね)英語は苦手だけど、なるべく字幕でなく原語や役者の口から出た時の言い回しを見て感じ取ろうと頑張った。例えばアリスがダンに初めて言った言葉は字幕では「ハロー、見知らぬ人」だが、やっぱり原語の“hello,stranger”のほうが耳ざわりが良くてミステリアスだ。
また女のフリしたダンと、本気(笑)のラリーがアダルトサイトでチャットするシーンでは、“you”を“u”だけに省略したり“for”を“4”と打ったりと、早く打てるよう省略するんだーと勉強になりました。ここは下らなくてシーン自体も好きだ。1人盛り上がってベルトに手を掛けるラリーのカッコ悪さにニヤニヤしました。

まっすぐにダンを愛しながらも驚くような秘密を抱えるアリスが1番魅力的だ。“hello,stranger”というセリフはアリスがダンに言うセリフだけど、本当にstrangerなのはアリスのほう。彼女の秘密が分かった時、今まで見てきたもの感じたことが全て覆されたようで唖然とした(となると、ダンが書いた小説の中身もひょっとしたら・・・?)
そしてプライドのある男なら口にしないだろうセリフや要求を平気でぶつけるラリーも、一歩間違えると最悪な男になりそうなのに、正直すぎて不思議と嫌いになれない男だった。オーウェンは舞台ではダンを演じていたというが、そっちのほうが驚き。舞台でもてっきりラリーをやっていたから映画でも起用されたんだと思ってた。ダンのほうが想像できないな。
ダンは見た目や話し方はスマートだけど、中身はラリー以下かも(苦笑)ラリーは相手に真正面からぶつかって傷つくタイプだけど、ダンは相手を振り回しながら自分が傷つかないようにするタイプ。やり方は上手い。しかしムカツク!(笑)
と、3人は良くも悪くもしっかりしたキャラクターになっているが、アンナはこの3人の中で埋もれてしまったような感じ。この役は最初ケイト・ブランシェットがキャスティングされてたらしいけど、彼女だったらもっと立体的で綺麗な四角形ができあがったんじゃないかな。知的で美人だけど身勝手な男に翻弄されて・・・というのがロバーツだとホントに流されてるだけだし、言っちゃ悪いが知的でも美人でもなくむしろオランウー(以下略)

ところで、アメリカ人女性とイギリス人男性という組み合わせにしたのは何故なんでしょうか。イギリス人同士とどう違うんだろう。イギリス男性から見てアメリカ女性はstrangerな存在なんだろうか。
home

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

キングダム・オブ・ヘブン('05アメリカ)-May 17.2005
[STORY]
12世紀フランス。妻子を亡くしたばかりの鍛冶屋バリアン(オーランド・ブルーム)の元に、十字軍の騎士ゴッドフリー(リーアム・ニーソン)がやってきて、自分はバリアンの父親だと告げ、一緒に聖地エルサレムへ行かないかと誘う。ためらっていたバリアンだったが妻子を弔うためにとエルサレムへと旅立つ。エルサレムでは、キリスト教徒の王ボードワン4世(エドワード・ノートン)と、回教徒の指導者サラディン(ハッサン・マスード)によってかろうじて平和が保たれていた。しかしエルサレム王の妹シビラ(エヴァ・グリーン)の夫であるギー(マートン・ソーカス)によって、その平和が崩れようとしていた。
監督リドリー・スコット(『マッチスティック・メン』
−◇−◇−◇−
最近見た歴史ドラマ(『キング・アーサー』『トロイ』。『アレキサンダー』は見てない)の中では1番いい出来だったが、もうちょっと丁寧だったら良かったのになぁと思っていたら、どうやら劇場版は1時間以上カットしたものらしい。どうりで冒頭から飛ばしまくり。
いきなり十字軍登場 → お前の父さんだ → バリアン修行 → もう強い → 父やられる → 死去 → 跡を継ぐ
エルサレムまで全力疾走だ(笑)そこからようやく落ち着くが、見てるこっちは鍛冶場に置いてけぼりにされたような気分。前半ももう少し時間を取っても良かったんじゃないかなぁ。ディレクターズカット版が出るようなので、見たらまた感想を書き足したいと思うが。

ブルームがヘタレじゃなかったのがまず奇跡(笑)でもバリアンというキャラクターは虚無感を表現しなければならない難しい役柄のため、英雄のような存在感はない。ハッティンの戦いも勝つための戦いではないので、彼の言葉も兵士たちを鼓舞させるようなものではない。でも、ここで自分たちが出来ることをやらなければならない、という決意が伝わるものだった。
そしてその戦いは兵士たちで真っ黒に埋め尽くされた地上で繰り広げられるが、その頭上ではやけに青い空があり、ぶつかり合う激しい音がするにもかかわらず、どこか静寂さが漂う。それはこの戦いが、長い長いこの血の争いの歴史の、ほんの一部に過ぎないということを表現しているように見えた。
このとき『平家物語』の有名な冒頭を思い出したので引用してみる。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
キリストとイスラムの話だけど、何故かぴったりな感じしませんか(私だけか)

そんな混沌とした世界の中で、エルサレム王ボードワン4世とサラセンの指導者サラディン(ハッサン・マスード)の高潔さが際立っていた。己に厳しく、対立する宗教の者であっても正しければ尊重し、身内であっても愚かな者に対しては厳しく罰する。偉大な人物がいれば平和が保たれ、愚かな者が上に立てばあっという間に崩れ去る。このあたり現代の情勢を揶揄してるようで鼻につくのだが(『トロイ』の時も書いたけど、あまり現代を意識させる描写は好きじゃない)宗教が抱える矛盾にも切り込んでいて、こちらは素直に感心させられることばかりだった。バリアンが言う「神はその人の頭と心にいる」という言葉と、サラディンが聖地の価値について聞かれて「ない(だが)すべてだ」と答えるところが印象的だった。
home