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タイの経済←クリック

タイの政治経済、2006年以前

タイの政治経済、2007年以降

⇒パトゥム・ワナーラム寺院の6名の殺害に軍は関与していない、フランス人ジャーナリスト証言(2013-3-19)

⇒アピシット首相らへの不信任決議案を否決、新たな対立の火種も(2010-6-2)

⇒夜間外出禁止令は解かれたが「非常事態宣言」は継続(2010-5-30)

⇒タイ政府・軍は赤シャツへの警戒態勢緩めず(2010-5-27)

⇒タクシンに「テロリスト容疑」の逮捕状が出る(2010-5-25)


⇒外出禁止令を24日(月)まで延期(2010-5-23)

⇒バンコクついに鎮火、すさまじい破壊の跡(2010-5-21)

⇒バンコク市内で31箇所の火災、ラートプラソン地区の制圧は未完(2010-5-20)

⇒赤シャツついにデモ解散宣言、朝から軍が強制排除に乗り出す(2010-5-19)

⇒「黒シャツ・テロリスト武装集団」を赤シャツ幹部が統括指揮(2010-5-18)

⇒赤シャツ降伏を決断できず(2010-5-17)


⇒赤シャツ隊全面降伏間近、女子供老人の撤退始まる(2010-5-16)

⇒カッティヤ少将重態で新たな展開(2010-5-14)


⇒バンコク情勢いよいよ緊迫、軍隊今夜18時から排除行動か?(2010-5-13)

⇒赤シャツ投降取りやめ、軍も閉鎖強化(2010-5-12)

⇒赤シャツついに全面降伏を決める(2010-5-10)

⇒赤シャツ時間稼ぎ、東北からの援軍待つ(2010-5-9)

⇒赤シャツついに5月10日(月)に解散を決める?(2010-5-7)

⇒往生際の悪い赤シャツ、開城の日を明言せず(2010-5-6)

⇒タクシン、アピシット提案受け入れのタイミング(2010-5-4-2)


⇒アピシト首相11月14日の選挙と「ロード・マップ」を提示(2010-5-4)

⇒アピシット首相、近く「和解案」を提示(2010-5-3)

⇒アピシット首相、強制排除のタイミングを模索(2010-5-2)

⇒ドン・ムアン空港付近で赤シャツ隊大敗北、手榴弾間に合わず(2010-4-29)
(運び屋の警察官逮捕)

⇒プミポン国王、軍・警察の職務怠慢を間接的に批判(2010-4-27)

⇒アピッシット首相は断固赤シャツの解放区を奪還する方針(2010-4-25)

⇒赤シャツ先制攻撃、手榴弾投擲で市民1名死亡75名重軽傷(2010-4-23)

⇒軍が赤シャツ隊に最後通告?(2010-4-21)

⇒赤シャツ防戦一方、ラートプラソン一角を死守、幹部の大半は逃亡(2010-4-20)

⇒黄色シャツいよいよ動き出す(2010-4-19)

⇒アヌポン陸軍司令官ついに平和維持本部長に就任(2010-4-17)

⇒バンコク市民の反赤シャツ感情高まる(2010-4-15)

⇒タイ軍ロムクラオ大佐の戦死(2010-4-13)

⇒4月10日の赤シャツ・デモ排除で20人死亡842人負傷、赤シャツは武装(2010-4-11)


⇒タイ国軍ThaiComを再確保、ついに軍が赤シャツ排除に動く(2010-4-10)

⇒赤シャツ・デモ、「過去最大」のはずが竜頭蛇尾に終わる(10-4-9)

⇒タイ非常事態宣言(2010-4-7)

⇒赤シャツのワールド・トレード・センター周辺の占拠3日連続(2010-4-5)

⇒赤シャツ4月3日4日とショッピング・センター封鎖作戦(2010-4-4)

⇒ロシアより愛を込めて-タクシン強硬路線を指示(2010-3-31)

⇒3月29日(月)の第2回会談も物別れに終わる。タクシン打ち切り示唆(2010-3-30)


⇒3月28日にアピシット首相と赤シャツ幹部との初協議があるも物別れに終わる(2010-3-29)

⇒3月27日(土)赤シャッツのバンコク・デモ、手榴弾攻撃(2010-3-28

⇒タクシン派の勢力急速に衰える(2010-3-24)

⇒赤シャツ隊、3月20日から新たな「階級闘争」宣言(2010-3-18)

⇒アピシット首相自宅の玄関先に赤シャツ隊が血をばら撒く(2010-3-17)

⇒タクシンの破壊活動指示を米当局が電話傍受(2010-3-16)

⇒第1歩兵連隊基地に6発の手榴弾投擲、2人の衛兵が負傷(2010-3-15)


⇒3月15日以降の赤シャツ隊の行動が問題、多数の手榴弾投擲機を押収(2010-3-14)


⇒タクシンの家族は既に海外に逃亡(2010-3-10)


⇒武器・弾薬盗難でタイ政府に緊張感高まる(2010-3-8)

T110-7.3月12〜14日の赤シャツ100万人集会とその後に要注意(2010-3-7)

⇒連続爆破事件の下手人はやはり赤シャツ過激グループか?(2010-3-5)


T110-6.メコン河大渇水、雲南省のダム建設が原因(2010-3-4)


T110-5.タイの財務相、世界のトップ財務相に選ばれる(2010-3-2)


T110-04.タクシンの差押さえ資金760億バーツ中460億バーツ没収最高裁判決(2010-2-26)

⇒タクシンにはなお10件の違法行為が残されている(2010-2-27)

⇒攻撃目標にされているバンコク銀行(2010-2-28)



T110-03. タイでタクシン派不穏な動き、大金がアラブ地区から流入(10-2-10)

T110-02.タイで最高裁判事やアヌポン陸軍司令官への殺人予告(10-2-2)

T110-01.タクシン派の武闘派指導者カッテヤ少将家宅捜査(10年1月22日


.T109-36⇒タイとカンボジアの関係はこじれる一方(09年12月17日)

T109-13.⇒タクシンは赤シャツの4月暴動の指揮をカンボジアからとっていた(09年11月12日)

T109-37.タクシン曰く「国王が死ねば輝かしい新時代が開ける」(09年11月9日)


⇒タイムズの記事はタイでは閲覧禁止措置(09年11月10日)

⇒フンセン首相のタクシン擁護でアピシット首相の支持率急上昇(09年11月6日)

T109-34.⇒ウワサばら撒き犯2人逮捕(09年11月2日

.T109-36.カンボジア・フンセン首相がタクシンの亡命受け入れ(09年10月23日)

T109-35.タクシンの士官学校同期生が20名、プア・タイ党に参加(09年10月21日)

⇒バンコク株式市場翌日には3.5%戻す。ウワサの犯人は誰?(09年10月18日)

T109-34.ウワサを信じちゃイケナイヨ?バンコク株式暴落-5.3%((09年10月15日)

T109-33.PADが新政党発足、ソンティ氏が党首に(09年10月8日)

T109-32.中国工商銀行がタイのACL銀行買収(09年10月6日)


⇒ニポン9月30日付けでやはり辞任。後任はコブサク副首相(09年10月6日)

T109-31.首相秘書ニポン氏辞任か?古手民主党幹部の叛乱(09年10月2日)


T109-30.タイ、マプタ・プットの76工場に一時的に建設停止命令(09年10月1日)


T109-29.タクシン時代の「2-3桁富くじ」事件で猶予付き判決(09年9月30日)


T09-16.⇒警察長官代行にパティープ氏を任命、長官を決められず(09年9月30日)

T109-28.公共保健省で汚職容疑発覚(09年9月28日)

T09-16.⇒パチャラワート国家警察本部長辞任、タニー副本部長が代行(09年9月9日

T198⇒ソムチャイ前首相、チャワリット前副首相らの訴追決まる(09年9月9日

T09-27.世界最高水準をいくタイの通信技術、首相の音声を偽造(09年8月31日)

T09-26.赤シャツ軍団からチャクラポップ等元共産党メンバーが脱退(09年8月28日)

T09-25.タイの新インフルエンザで111人が死亡、治療費300万バーツの例も(09年8月19日)

T09-24. タクシン派500万人の署名を集めタクシンへの恩赦を請願(09年8月17日)

T09-16.⇒国家警察本部長はゴテ、タクシンの義弟が「不公平」を非難(09年8月11日)

T09-23. アピシット政権はタイ鉄道の本格改善に取り組む(09年8月10日)

T09-22.世論調査にみるアピシットとタクシン(09年8月9日)

T09-16.⇒ソンティ氏、暗殺未遂事件の資金提供者は「国外にいる人」と指摘(09年7月30日)

T09-21.タクシン国外から赤シャツ軍団に全国で誕生祝の集会をさせる(09年7月29日)


T09-16,⇒ソンティ氏銃撃容疑で兵士と警官2名に逮捕状(09年7月14日

⇒パンヤー容疑者は一時チェッター元国防相系の工場に身を隠す(09年7月16日)

T09-20.中国がタイの鉄道網大改革に全面協力(09年6月26日)

T09-19.PADが新政党結成(09年6月6日)


T09-18.タイ、非常事態宣言解除、株価高騰(09年4月24日

T09-17.アピシット首相、憲法改正で「国内融和」を目指す(09年4月21日)

T09-16.PADリーダー、ソンティ氏銃撃され、重傷(09年4月17日)

T09-15.国際格付け会社タイの格付けを引き下げ(09年4月16日)

T09-14.アピシット首相の人気急上昇(09年4月15日)

T09-13.タクシン派の赤シャツ・デモ大暴れ(09年4月8日)

⇒タクシン派交通マヒ作戦、4月10日臨時休日に(09年4月10日)

⇒赤シャツ軍団、ASEANサミット会場乱入、サミット粉砕(09年4月11日)

⇒バンコクほか5県で非常事態宣言(09年4月12日)

⇒4月13日未明から軍による掃討作戦始まる。死者はゼロ(09年4月13日)


⇒バンコク制圧近し、赤シャツ隊市民2名を銃殺(09年4月14日)

⇒赤シャツ隊全面降伏(09年4月14日)



T09-12.タクシン派が4万人集会(09年3月27日)

T09-11.アピシット政権の安定感増す(09年3月5日)

T09-10.タクシン派の反政府集会は竜頭蛇尾に終わる(09年2月27日)

T09-9.タイ政府、経済浮揚政策として2兆バーツの支出を決定(09年2月18日)

T09-8.タクシン派の拠点のウドン・タニでPADが集会を開く(09年2月15日)

T09-7チュラ大のウンパコーン先生、不敬罪逃れで英国に亡命(09年2月10日)


T09-6.タイ、世銀、アジア開銀、日本から20億ドルの借入れ(09年2月2日)

T09-5.「貴方の過去など知りたくないの」朝日新聞のタクシン元首相インタビュー(09年1月26日)


T09-4.アピシット首相、ソムチャイ事件などの重要事件の解決を督促(09年1月21日)


T09-3.ネーウィン派約30名がブーム・ジャイ・タイ党に合流、与党連合第2党に(09年1月16日)


T09-2.タイ下院補欠選挙で与党民主連合が圧勝、タクシン派の退潮目立つ(09年1月12日)


T09-1.バンコク・ナイト・クラブの火災で60名死亡、日本人も犠牲に?(09年1月1日)

225.アピシット首相、施政方針演説を外務省で(08年12月30日)

224.アピシット政権起動、まず1,800億バーツの景気刺激策(08年12月25日)

223.アピシット首相の支持率は60%と上々(08年12月21日)

222.アピシット内閣発足(08年12月20日)

221.トンチンカjンな朝日新聞のタイ政変記事(08年12月16日)

⇒毎日新聞も同罪(08年12月19日に書き足し)

220.アピシット首相に当選、民主党7年11ヶ月ぶりに政権奪還(08年12月15日)

219.プア・タイ党が民主党連合に肉薄、一大買収作戦展開(08年12月11日)

218.プア・タイ党、挙国一致内閣を提言、ついにあきらめたか(08年12月9日)


217.プア・タイ党の党首にヨンユット氏、民主党有利に(08年12月8日)


216.タイ大政変か?ネーウィン派と少数与党が民主党につく(08年12月6日)


215.新首相選びは旧PPPからということで連立6党合意(08年12月5日)

214. 憲法裁判所、PPPほか2党に解党判決、ソムチャイ政権崩壊(08年12月2日)


213.PADが首相府の占拠を終える?(08年12月1日)

212.ソムチャイ首相、チェンマイから動けず(08年11圧30日)


211.軍事クーデターの噂がバンコク中に広まる(08年11月27日)

210.⇒アヌポン陸軍指令官、議会解散と選挙のやり直しを提言(08年11月26日)

210.PADが「最後の闘い」と称して11月24,25日バンコクを駆け回る(08年11月25日)

209.PADの集会にまたもロケット弾攻撃、1名死亡23名負傷(08年11月21日)

208.タイ陸軍、カッティヤ少将についての査問委員会設置(08年11月13日)


207.イギリス政府タクシンのビザを取り消す(08年11月8日)


206.タクシン派7万人の大集会を開く、勢力誇示も空し(08年11月2日)

  ⇒タクシン派大集会後の国民の反応はマイナス(08年11月10日

205テロリストが集団がPADの集団に手榴弾、1名死亡9名負傷(08年10月30日)

204.タクシン2年間の禁固刑、ラチャダピーセック土地問題で(08年10月21日)

203.民主党への支持率高まる(08年10月20日)


202.アヌポン陸軍司令官がテレビでソムチャイ首相に辞職勧告?(08年10月17日)


201.タイ、カンボジア国境紛争で銃撃戦、戦死者2名(08年10月15日)

 ⇒タイ・カンボジア両軍で合同パトロールで合意(08年10月16日)

200.ソムチャイ首相、ポーンティップ所長の発言に不快感(08年10月15日)

199.ソムチャイ首相延命を図るもサドン・デスの可能性も?(08年10月13日

198.ソムチャイ首相、催涙弾でPADのデモ隊をけちらす。「和解」の行くえは?(08年10月7日)
⇒10月7日、夜になり警官隊とデモ隊との間で衝突、女性1名死亡、負傷者多数

⇒警官隊が手榴弾をデモ隊に投擲、動かぬ証拠写真(08年10月8日)


⇒タクシン派暴力組織、「タクシン王戦闘部隊」のメンバーが捕まる(08年10月9日)

⇒警察が使ったのは殺傷能力のある催涙弾?(08年10月11日)

197.ソムチャイ新首相に早くも難題(08年10月1日)

196.タクシンの義弟ソムチャイが首相に就任、対決姿勢を避ける(08年9月25日)

195.首相指名議会が9月12日は不成立、9月17日に再度召集(08年9月12日)


194.PPP党サマク首相の再任を決議、連立与党も合意?(08年9月11日)

193.タイ憲法裁判所がサマク首相のテレビ出演で失格判決(08年9月9日)

192.タイの上下院議長と民主党党首の3者協議で首相の辞任と選挙を勧告(08年9月8日)


191.テト外相辞表提出(08年9月3日)

190.バンコクで両派のデモ激突、死者1名重傷数十名、軍出動(08年9月2日)

189.サマク首相辞めず、国会も解散せず(08年9月1日)

188.バンコク騒然、PADが空前のデモ展開、政府機関占拠(08年8月28日)

187.メコン河が100年来の大増水、中国のダムの影響を懸念(8年8月16日)

186.⇒タクシン一家イギリスに亡命、子供達は先にロンドンに(08年8月11日)

186.タクシン夫妻、予定の飛行機で北京から帰国せず、亡命か?(08年8月10日)

185.与党PPP内部にキレツ表面化(08年8月9日)


184 タイ最高裁、ネーウィンが関わるゴム苗木不正事件の審理開始(08年8月7日)


183.タイーカンボジア国境紛争、タ・モーン・トム寺院に飛び火(08年8月3日)

182.タイの内閣改造コーウィット元警察庁長官が内相に(08年8月3日)

181.ポジャマン・タクシン夫人に脱税の罪で3年の禁固刑(08年7月31日)

180.⇒プア・パンディン党20議員が連立政権に残る(08年7月31日)


180.プア・パディン党スウィット党首、連立政権から離脱の方針(08年7月30日)


179⇒ウドンタニの暴力事件はPPP関係者が指揮(08年7月29日)

178.⇒テト・ブナン元駐米大使が外相に就任(08年7月27日)

179.ウドンタニで民主連合関係者が殺害される(08年7月25日)


178.ノパドン外相辞意表明(08年7月10日)

158-5.⇒最高裁がヨンユット前下院議長にレッド・カード判決、PPP解党の可能性(08年7月8日)

177.西松建設、サマク知事時代(2003年)にバンコク当局に4億円のワイロ(08年7月7日)

176.タクシン派による国営組織の不当人事を行政裁判所が救済(08年6月28日)

⇒タクシンの弁護士ら3人に6ヶ月の禁固刑判決(08年6月25日)

174.⇒PADデモ隊首相府包囲、警察も衝突回避(08年6月21日


174.⇒PADのデモ隊5千人、選挙管理委員会事務所に向かう(08年6月18日


175、某弁護士、.最高裁に200万バーツを菓子折りに詰めて持ち込む(08年6月17日)

174.タイでPAD反政府集会を再開、5千人が集まる(08年5月26日)

173.タイ与党憲法改正案を下院議長に提出(08年5月21日)

172.PPP政権はタクシン救済の憲法改正が優先課題、国内のキレツ深まる(08年5月19日)

171.サマク首相の不用意発言で2銀行が取り付け騒ぎ(08年5月9日)

170.PPPがタイ下院議長候補にネーウィンの父親を指名(08年5月7日)

168.⇒タイ、地主に土地を取り上げられる小作農(08年4月23日)

142.⇒タイでのエコ・カーの生産は2015年で80万台に(08年4月16日)

161.⇒選挙管理委員会が連立2党の解党が適当という結論(08年4月11日)

169.密航ビルマ人54名がコンテナー内で窒息死(08年4月10日)

168.タイのコメ輸出規制の動きでアジアにパニック広がる(08年4月4日)

167.タイ政府、景気浮揚策として大量のビタミンMを注射(08年4月2日)

166.通貨危機時のインサイダー取引でボーキンの名誉毀損訴訟は敗訴(08年4月2日)

165.警察公安副局長を南タイに左遷(08年3月19日)

164.タイ国鉄、南京虫駆除のため 特急を大運休(08年3月17日)

163.タイのビルマ外交、制裁には反対(08年3月15日)

162.アピラック・バンコク知事が自ら職務一時停止を宣言(08年3月13日)

161.タイ選挙管理委員会分科会が連立中小2党に対する解党処分勧告(08年3月11日)

160.バンコク鉄道網拡張プロジェクトに日本と北朝鮮が資金提供申し出(08年3月8日)

159.タイ新政権、報復人事を次々実行(08年3月5日)

158-5.⇒ヨンユット下院議長に選管としてレッド・カードの裁定、最高裁に提訴(08年2月26日)

158-5.⇒.ヨンユット下院議長に対しレッド・カードの判定ーPPPの解党の可能性も(08年2月15日)

158-9.タクシンとサマク首相の思惑の違い早くも表面化?(08年2月5日)

158-8. タクシンのゴホウビ内閣固まる(08年1月30日)

158-7.ヨンユットPPP副党首がタイの下院議長に(08年1月20日)

158-6.タイ最高裁、PPP党がタクシンの名義政党か否かの判断を憲法裁判所に託す(08年1月18日)

158-5.PPP副党首のヨンユットの買収疑惑が解党命令に結びつく可能性(08年1月9日)

158-4.タイの選挙をめぐる混乱、大量の当選非認定と解党裁判(08年1月4日)

158-3.PPP(タクシン派)が勝ったがハシャグ者なし(07年12月24日)

158-2.選挙終盤の買収資金、外国から持ち込まれる現金、ヘロイン(07年12月17日)

158-1.異様な雰囲気の選挙戦、PPP党(タクシン派)は解党命令か?(07年12月8日)


 158.タイの2007年選挙

158-1.異様な雰囲気の選挙戦、PPP党(タクシン派)は解党命令か?(07年12月8日)

12月23日の投票日を控え、タイの国会議員選挙はPPP(パラン・プラチャーチョン党=タクシン派)が優勢のうちに終盤戦を迎えようとしている。

PPP党がイサーンといわれる東北部とタクシンの出身地チェンマイを中心とする北部で圧勝がはじめから予想され、一方民主党は南部ではほぼ完勝が予想されるが、バンコクではPPP党もかなりの議席を取ると見られ、第1党はPPPになることは確実視されている。

総数480議席(うち80議席は比例制)のうちPPPは200議席前後を獲得すると見られる。タクシン系のメディアはPPPが過半数をとるという予想を出し、バンコク・ポストも独自のインターネット調査(調査方法はデタラメ)でPPPの過半数獲得を予想している。

また、タクシン派が強いとみられる警察も公安警察の独自の調査と称してPPPの過半数獲得を予想し、メディアに流している。これにはさすがの国家警察本部もアワテて、警察はそんな調査を実施していないと打ち消しに懸命になっている。

また、PPPのサマク党首は第1党になって政権をとれば、タクシンを凱旋させるといきまいている。既にタクシンはタイ国内に潜伏しているという噂まで流している(そんなことはありえないが)。

PPPのサマク党首は今回の選挙はタクシン支持か反タクシンかの選択を国民に迫るものだという言い方をしてきた。

しかし、万一PPPが政権を取ってタクシンを「凱旋」させるような事態になったら何事が起こるかは自明である。タクシンは汚職容疑の刑事被告人であり、裁判所の出頭命令を無視しておそらくロンドンに 居を構えている。 選挙で勝ったからといって、裁判は別問題である

バンコク市民が怒ってデモを再発すれば政治的大混乱は必至である。そうなれば「軍事クーデターのやり直し」ということになるであろう。 それは軍部としても何とかして避けたい事態である。

プミポン国王は病み上がりの身をおして、先の80歳誕生記念日(12月4日)に1時間以上の長い演説を行い、「国民の団結(unity)」を呼びかけたのは選挙戦が泥仕合の様相を呈しているからであり、選挙後も かなりのシコリが残る事を憂慮されたためであることは明らかである。

PPPは民主党に投票することはソンディ(雑誌プーチャドカンの社主であり、反タクシン・キャンペーンのリーダー)に投票することと同じであるとか、貧農を助けた(?)「タクシンをとるか否か」というまるで小泉の「郵政改革か否か」のような「二者択一」型選挙 戦に持ち込もうとしている。

これはタクシン一派の基本的選挙戦術であったことは明白であり、500万枚の選挙キャンペーン用CD(タクシンの演説が26分含まれる)が東北部を中心にバラ撒かれたという。

これに対して選挙管理委員会は公民権を失っているタクシンがPPPの選挙キャンペーンをおこなうことは選挙法違反であり、違反が確定すればPPPは解党命令が出されると言明している。また、ウエブ・サイトでタクシン一派が流している「hi-thaksin.net」も特定政党を一方的に支援しているとして問題視しており、情報通信省が独自の判断でブロックしたという(理由はアクセス過多でパンクしたため )。

PPPはCDの配布には関係ないといっているが、500万枚ものCDがばら撒かれた以上無関係では済まされないであろう。

また、PPPのサマク党首が他党の幹部を党員に自党の党員として偽造サインを使って登録したとされる容疑が持ち上がっており、12月11日に裁判所に提訴するかどうか選挙管理委員か決めるという。これが有罪となれば、それだけでPPPの解党命令が出される可能性があるという。

もちろん、これらの問題以外にPPPは盛大に買収工作をおこなっていると取りざたされており、これが摘発されればPPPは解党命令を下されることになる。また、凍結されているタクシンの銀行預金が金利相当分として流出しているという容疑もあり、これらが一挙に表面化する可能性もある。

いずれにせよ、PPPが政権をとることは「許されざる」ことであり、これから先ナニが起こっても不思議でない。

ことの発端は、この選挙にタクシンがいわば政治生命をかける形で、自分のお気に入りの子分を総動員して選挙戦に挑んだことにあり、「選挙に数の上で勝てばそれが成功する」 と読んだ結果である。彼等は従来どおりの選挙戦をやっている。ただし、票の買収のやり方は大分巧妙になったといわれる。

なぜか、ついこの間までTRTの残党を率いてきた、多少は「良識派」の匂いのする元共産主義者のチャトロン前TRT代表代行などはタナ上げされている。

選挙で「タクシンの復権」などが許されるなら、最初から軍事クーデターなど誰も起こさなかったであろう。数の上で勝てば「それが民主政治であり、ナニをやっても許される」と勘違いしたところにタクシンの誤算があったのだ。またそれをサポートする外国のメディアも存在したのである。

タクシンのポピュリズム政策自体がタイを財政破綻の一歩手前まで導き、「何でもあり」のタクシン自身とクローニーの汚職がタイを蝕みどうにもならないところに差しかかってきたところに、バンコクの市民の抵抗が表面化したのである。

タクシン自身が「身の危険を感じて」シン・コーポレーションの株の売り逃げを図ったのである。しかも、それを無税で逃れようとして返って墓穴を掘ったのである。

これを「利権を奪われた軍のクーデター」だなどと日本では報道されるのだから開いた口がふさがらない。こういうメディアは日本のファッショ化の入り口でファシストの旗振りをやりかねない。小泉自民党圧勝の時もそうなりかけた。(その点参院選の民主党は自前の選挙戦を戦って勝利した。)

今回も、タクシンにはおそら軍部から「許さないぞ」という脅しがかかったのかも知れない。国王演説の直後の12月7日(金)に香港で外国メディアのインタビューで「今は国民の団結が必要で、挙国一致内閣を作り、2年後に再度、憲法を改正し、選挙をやり直すべきだ。私は2度と政界には戻らない」といっているという。

PPP党も最近そういう言い方に切り替えたようだ。タクシンはロンドンではなく至近の香港から今回の選挙戦の指揮をとっているようだ。

しかし、いつものことだが、タクシンの言葉を「額面どおり」受け止めるワケには行かないであろう。それと、ここまで悪評高いサマク等にやらせてしまってはもう取り返しがつかないのである。彼等は従来どおりのあくどいやり方で選挙戦を戦った。その危険性すら最近まで無視してきた。

とりあえず、選挙管理委員会は12月11日(火)に会議を開いて、PPP問題の取扱いを審議するという。

このままいけば、PPPの解党命令が法にしたがって下される可能性が強くなっってきた。

 

158-2.選挙終盤の買収資金、外国から持ち込まれる現金、ヘロイン(07年12月17日)

バンコク・ポスト(12月16日、インターネット版)によると、タイ北部のチェン・ライで14Kgの精製ヘロインが押収されたという。このヘロインはビルマから持ち込まれ、売却されて選挙資金に使われる疑いがあったと同紙は報じている。

こういう荒っぽいやり方はタクシン派一流の手口であるとタイでは見られている。気になるのは、これらの麻の現物がかなり大量に南タイに流れ、イスラムゲリラの資金源になっていた(る)のではないかということである。

ということは、タクシン系(あるいは警察系)の麻薬組織が南タイのイスラム叛徒の資金源になっていたのではないかという疑念すらわいてくるのである。

また、国内の銀行口座を押さえられてしまったタクシンは海外からタイに巨額の現金を持ち込むという、これまた荒業をやっているらしい。

目下、タクシンが滞在していると思われる香港から数人の「ビジネス・マン」が6,000万バーツ(≒2億2500万円)の香港ドルを持ち込もうとして、スバンナプーム国際空港で捕まった。

ビジネスのためであれば、このような桁外れの現金を持ち運ぶことは通常はありえないので、これまた選挙資金(買収のための)ではないかという容疑で当局は取調べをおこなっている。キャッシュ・カードなど使っていたら「間に合わない」ある事情が存在すると見られるのは当然である。

この事件がきっかけになったと思われるが、従来タイに出入りする外国人旅行者は1人当たり5万ドル相当の現金の持込や持ち出しが許可されていたが、来年早々から2万ドルに制限されるという。余分に持ち込むと「没収」される危険があるので、お金持ちの読者は要注意である。

さらに、タイ北部のチェン・セーン地区で、ラオスからメコン河を渡って2,000万バーツ(≒7,500万円)持ち込もうとしていた、「村の顔役」が乗り合わせたボートが河の真ん中で他の40人乗りのボートと衝突し、水中に消えてしまったという事件が起こった(12月14日)。

この顔役はタクシン派政党(PPP)の買収を担当していた人物で、PPPの副党首のヨンユット(Yonyuth Tiyapairat)の手下であったという。ヨンユットはPPPのチェン・ライ地区の大ボスであり、タクシン政権下では閣僚(環境相)を務めていた。

自分の票をカネで売っても良いとう選挙民が65%いるというあるアンケート調査があった(上記#157参照)が、ポピュリスト政策(国家資金を使っての買収)以外に候補者がカネ(もしくはプリペド・カードなど)をバラ撒くというのが、タクシン一派の常套手段であった。

今回は捕まれば「解党命令」が出されるリスクを犯してもあえて、買収工作がおこなわれているということのようである。

日本の一流(タイの記事については4流)の某紙が「他の政党」もタクシンのポピュリズム政策と同様の選挙公約を掲げておりやはり「タクシンが正しかった」と言わんばかりの子供じみた記事を書いている。ポユリズム政策を「救い」として受け止めるような国では、そうしなければ選挙に負けてしまうから当然ではないか。

また、その記者は「クーデター後」タイの経済は悪くなったなどとも書いている。私のホーム・ページの経済分析をよく読みなさいといいたい。今、東南アジアで経済がもっともマトモな国はベトナム(投資ブーム)を別とすればタイがダン・トツなのである。経済音痴の特派員などというものが結構いるのには驚かされる。

 

158-3.PPP(タクシン派)が勝ったがハシャグ者なし(07年12月24日)

12月23日(日)にクーデター後待望の国会議員選挙が実施された。投票率は70.27%と高いものであった。結果は既に日本でも報道されているように、非公式ながらタクシン派のPPP(バラン・プラチャーチョン=人民の力党)が480議席中232議席を占め、総数480議席の48.3%を占めた。

党首のサマク氏は「オレが次期首相だ」などといきまいているがバンコク市民は白けきっている。前回TRT党は75%の議席をしめて圧倒的多数を支配していた点を考えると大敗北だが 、第1党の地位は確保し、宿敵民主党に67議席の大差をつけた。ただし、過半数には届かなかった。

PPPを選挙直前まであれほど露骨に応援してきた「良質な英字紙(?)」バンコク・ポストも心なしか元気がない。

PPP(バラン・プラチャーチョン党)  233(34)
民主党 165(33)
チャート・タイ 37(4)
プア・ペーンディン 24(7)
ルアム・チャイ・タイ・チャート・パタナ 9(1)
マッチマーティパッタイ 7(0)
プラチャラート 5(1)
合計(内は比例区で内数) 480(80)

第2位は民主党であり、165議席を獲得した。 民主党は前回は100議席にとどかなかったが、今回議席を7割伸ばした。東北部に基盤を持たない民主党としては、今の党勢としてはこんなところであろう。

バンコクでは38議席中26議席を獲得し、PPPの12議席に大きく差をつけた。バンコクの新中間層(Richard Robison教授のいうNew Rich)は今回民主党を圧倒的に支持したが、バンコクの低所得層はタクシン支持が多く、こういう結果になったと見られる。

日本人におなじみのスラムの住民運動のあるリーダーが「ネズミ(タクシンの汚職)を追い出すのに家まで焼く必要ない(軍事クーデターによる政府転覆)」というセリフをはいてた。面白いことに日本人のタイ学者や新聞記者もこれを口真似しているものがかなりいる。

汚職はタイにはつきものだからかまわないというのがその言い分である。スラムの住民がそう考えるのは自由であるが、その口真似をしながらタクシンを支持する日本人のインテリというのは一体何者かといいたくなる。

彼等は民主主義者の仮面をかぶった「開発独裁論者」なのである。いやただ独裁政治が肌に合うのである。独裁者の元にいると何も自分で考えたり、決めたりしなくて良いから安心できるのである。タクシンというのはCEO型政治と称して、そのような政治をおこなった独裁者であった。

汚職とは一言でいえば、「国民の財産をクスネて私服を肥やする行為であり、大ドロボーである」。ポユリズム政策とは国家資金をバラまいて選挙民の買収をおこなう行為である。買収をやりたければポケット・マネーでやれば良いではないか?そんなことはタイでも日本でも許されることではない。

大ドロボーであってもモノを呉れる政治家を支持する人々の票をかき集めて、それが多数なら政府を形成できるのが「民主主義」だという。それしか、仕方がないにしてもそんな国にどれほどの明るい展望が開けるというのだろうか?

本当の民主主義者の闘いとは「ドロボーを支持しない」という世論を造るための個人的努力がまず必要ではないか?日本においても同じことである。国民の資産を食い潰す輩はドロボーである。「清濁併せ呑む」などというオトナの対応などしていては何時になっても世の中は良くならない。

「30バーツ診療」などといった先進国でも不可能な医療政策を強行することは合理的な福祉政策の範囲を逸脱していることはあきらかである。

さて、選挙の話しに戻ると中小政党が今回意外に健闘した。バンハーン元首相率いるチャート・タイが37議席獲得して、新政権の台風の目となりそうである。

PPPは後9議席集めれば政権を取れるが、それは案外難しい。まず、大量の選挙違反者がおり、失格するものが相当数出てくる。また、党としても解党の要件を満たすような重大な疑惑行為がある。また、サマク党首が首相の器だなどと考える人は少ないだろう。

PPPが実弾をばら撒いて、少数政党(4〜6位)を抱き込めば、政権は取れるであろうが、やがて大失態を演じ政権を降りざるをえなくなることは明らかである。タイの政局は当面混乱が続くが、いずれは良い方向に向かっていくことは間違いない。

日本のメディアなどはこういう話をもってまわるのが大好きだから、なんといってもタクシンは偉大な政治家であるとか、彼の経済政策は間違ってなかった(最近の朝日新聞の記事に見られるごとく)などといって騒ぎまくるであろう。しかし、日本人がヤキモキしても仕方がない。

こういう場合、賢明なタイ人はわれわれがビックリするような解決策を過去見つけてきた。基本的に健全な国なのである。日本は何時からアメリカの同盟国になったのか知らないが、アメリカ並みに「病める国」になりつつある。 こっちの方をもっと心配すべきだろう。

 

158-4.タイの選挙をめぐる混乱、大量の当選非認定と解党裁判(08年1月4日)

07年12月23日の下院選挙で第1党となったPPP(人民の力党=タクシン派政党)はその後腕力(金力)にモノを言わせ、瞬く間に民主党を除く全ての中小政党(5党)を連立に抱き込み、480議席中315議席(65.6%)を占める勢いとなった。この間にPPPが使ったカネは莫大なものがあったと推定される。

特にバンハーン元首相が率いるチャ−ト・タイは選挙前はPPPとの連立はありえないとしながらも、いざ目の前に札束を見せ付けられると、そちらになびいてしまうという結果になってしまった。予想されたこととはいえタイの政治の体質の一面を見せ付けられる思いである。

これでサマク首相の誕生かと思いきや、今年に入って思わぬ事態に発展しつつある。それは主にPPPが選挙戦でおこなった買収行為などの大掛かりな選挙違反である。警察は依然としてタクシン支持者が多く、選挙違反の取締りには甘いと見られていたが、マジメに職務を遂行した警察官もかなりいたことは確かで、徐々に選挙違反の摘発も進んでいる。

当初は、レッド・カード(失格者=再選挙に出られない)やイエロー・カード(やり直し選挙に再立候補可能)を受けるものは10名以内という観測も流れており、1月2日まではPPPの仮当選者のうちおのおの3名ずつ計6名がアウトになっていた。

しかし、1月3日になって選挙管理委員会が確定当選者として発表した数字は397人にしか過ぎず、83人が当選保留になり、さらに詳しい審査がおこなわれると発表された。内訳は地方選挙区当選者79名、比例区4名であり容疑は「買収」である。

地方選挙区ではPPPが62人ともっとも多い。ついでプア・ペンディーン党6人、民主党5人、チャート・タイ4人、2つの小政党から各1人である。また、比例区ではタクシンの右腕といわれたヨンユット(Yongyuth Tiyapairat=チェンライ地区の大ボス)が含まれている。

彼ら83名の運命がどうなるかは分からないが、今までの連立政権構想は大きな打撃を受けることは間違いない。

それよりも、もっと大きな問題としてPPPに解党命令が出される可能性が出てきたことである。それは前々から指摘されてきたことではあるが、今回新たな動きが出てきた。

民主党のチャイワット(Chaiwat Sinsuwong)氏が最高裁に提起していた4項目について最高裁とし審理をおこなうことを決定したのである。その4項目とは;

@PPPは総選挙に候補者を擁立し得ないTRT党の名義政党(身代わり=nominee)ではないか?もしそうだとすれば今回の選挙自体が無効になるのではないか?

APPPのサマク党首がすでに解党させされたTRT党首のタクシン前首相の代理人として候補者を擁立し、選挙活動をおこなったことの是非。

BPPPの候補者がタクシンの映像を含むVCDを大量に配布したなかで、ブリラム県第3選挙区(チャイワット氏は同区で落選した)でおこなわれた期日前投票の有効性と同選挙区の有効性についての疑義。

C選挙期間中にタクシンの映像を含むVCDを大量に配布すると言う行為の違法性についてとPPP候補者全員の当選確認の差し止め。

といった内容である。

チャリー(Chalee Thappanwimol)最高裁長官はPPPに対し7日間以内に反論書を提出するように要求したという。

この話しの成り行きはかなり重大で、タクシンがカネにモノを言わせ闘った選挙戦が水泡に帰す可能性は低いとはいえない。

また、サマク党首は連立政権成立のメドが立つや、それまで口にしていた「国民和解と融和」発言から一転して、「連立政権阻止を狙った汚い神の見えざる手(a dirty invisible hand)がある」と暗にプレム枢密院議長を批判する発言をおこなった。

また、政権をとったら「軍の改革」を真っ先に行い、冷や飯を食わされているタクシン派の軍人(タクシンと同期の第10期生で彼らが先にクーデターを仕掛けようとしたという説もある)の復権を図るという構想がPPP内部で練られているという一部新聞報道もある。

サマク発言とあわせ考えると今回の選挙結果とその後のPPP幹部の言動が必要以上に軍部、CSNメンバーを刺激していることは間違いない。

 

158-5.PPP副党首のヨンユットの買収疑惑が解党命令に結びつく可能性(08年1月9日)

選挙管理委員会のアピチャート(Apichart Tiyapairat)委員長の言としてバンコク・ポスト(1月9日、インターネット版)が伝えるところによれば、タクシン派政党のPPPの副党首であり、タクシンの右腕として知られるヨンユットが買収作戦を指揮していた容疑が固まりつつあるという。

もし彼がクロとなればPPPの解党命令につながることになろうと言明した。

ヨンユットは本日選挙委員会によって買収容疑の取調べを受けたが、ヨンユットがチェンライ地区の村長などのPPPの「支持者」をバンコクに集めて買収を指揮していたビデオがとられていたという。

選挙管理委員会が下せるのは「レッド・カード」というやり直し裁判に再立候補できず、1年間は立候補の資格を剥奪することであり、実際に解党命令を出せるのは「憲法裁判所」である。

しかし、副党首にレッド・カードが出されれば、それは「個人の行動」という範疇を超えたものだという判断が裁判所によって下される可能性は大きい。しかも広範囲にPPPの候補者が買収容疑に問われ65人もの仮当選者が当選認定を受けていない。

1月8日朝、香港にタクシンとともに滞在していたポジャマン夫人が帰国し、一時逮捕されたが現在保釈中である。彼女の帰国も「早く裁判を受けたい」ということよりも実質的な危機状態にあるPPPの解党問題の対策のためではないかとという見方もされている。

また、警察が調べた調査資料のコピーが事前に選挙管理委員会のメンバーによってヨンユットの手に渡った可能性もあるという。タクシンの買収の手が選挙管理委員会メンバーにも伸びてきていることを示唆している。

 

⇒.ヨンユット下院議長に対しレッド・カードの判定ーPPPの解党の可能性も(08年2月15日)

選挙管理委員会に設置されたヨンユット前PPP党副党首で現在は下院議長のヨンユット・ティヤパイラット氏の選挙違反(票の買収)疑惑に対する調査特別委員会(委員長は前憲法裁判所判事スウィット・ティヤパイラート氏)はヨンユット氏が票買収をおこなった事実があるとして同氏に対しレッド・カード(議員資格剥奪)の勧告を選挙管理委員会にすることを決定した。

選挙管理委員会はその内容を審議した上で最高裁に提訴する。

最高裁はそれを受けて判決を下すが、シロ判決が出る可能性は低いと見られる。もしクロの判決を最高裁が下せば、PPPには解党の命令が下る可能性がある。

裁判所に提訴されてから判決が下される間ヨンユット氏は議長と国会議員の職務を停止させられる。

同じく党幹部の選挙違反(いずれも買収)容疑でチャート・タイ党とマッチマー・ティッパタイ党も解党命令が下される可能性がある。

タクシンがスポンサーになって巨額の札束が乱れ飛んだ噂される今回のような選挙を「無罪」で済ますわけにはおそらく行かないであろう。民主主義国家タイとしては悪質政治家の露骨な挑戦に対して裁判所が毅然たる態度を示さないことには今後の政治的発展はないであろう。

悪事を当然とする政治をなくしていくことにタイの近代国家としての将来がかかっている。既にタイではこの問題に対してはフィリピンやインドネシアにくらべ一歩も二歩も前進しつつある。それを支えているのは同国の司法である。

 

⇒ヨンユット下院議長に選挙管理委員会としてレッド・カードの裁定、最高裁に提訴(08年2月26日)

選挙管理委員会は3対2でヨンユット下院議長が昨年12月23日の選挙で、買収行為をおこなったとして、クロの判定を下した。これによって選挙管理委員会は正式にクロ判定の妥当性について最高裁に提起することとなった。

最高裁がこれをクロと判定すればヨンユット氏は下院議長の職だけでなく、国会議員の地位も失い、かつ5年間被選挙資格を失う。それだけではない。ヨンユット氏は与党PPPの副党首(議長主任で辞任)であったことから、PPPの解散命令につながる可能性が出てきた。

ヨンユット氏はタクシンの忠実な部下であり、今回の選挙でも資金の使い方をチェンライ地区において任されていたといわれ、村長など有力者をバンコクに集め現金をばら撒いていた。それが隠しカメラで撮影されるという決定的なヘマをやらかした。

ヘマといえば、タクシン政権が2003年に麻薬撲滅運動で派手に被疑者を殺しまくっていた頃内相を務めていたヨンユットは武装した部下を引き連れ、被疑者の家に乗り込み、そとから自動小銃を乱射させた。

家にいた人は冷蔵庫の裏に隠れて奇跡的に助かったが、ヨンユットは弾痕あとも著しい冷蔵庫にナワを掛けて差し押さえ意気揚々と引き上げたという。

冷蔵庫の中には麻薬も入っておらず、その家の人も麻薬とは無関係であり、それ以降ヨンユットは「冷蔵庫ヤロー」というニック・ネームを頂戴したという。しかし、タクシンノ命令とあらばたとえ「火の中水の中」、前後の見境もなく突進するということで、今に至るまでタクシンの信望は極めて厚いといわれている。

最近も、タクシンに会いに香港まででかけ、善後策を協議してきたといわれている。

サマク首相は最近のCNNやアルジャジーラの単独インタビューで「1997年10月16日」のタマサート大学虐殺事件では死者はたったの1人だと発言してタイ国民の怒りを買っている。政府の公式発表でも47人が死亡したとされ、行方不明者は数百名いたといわれう事件でる。

この事件のすぐ後にタニンという右翼反動判事が首相になったが、そのときサマクも同じ右翼仲間ということで国内治安担当の内務相に就任し事件の後処理を担当したはずである。逮捕と殺害を免れた学生はジャングルに逃げ込み反政府武装闘争を数年にわたっておこなったのである。

それを「タイ国民の悲しむべき分裂」ととらえ、過去を不問にするということでタイ社会への復帰を許したのが、当時のプレム首相(現枢密院議長)であった。そのときにジャングルで学生ゲリラと対峙していたのがスラユット前首相である。

この事件はタイの戦後史では73年の10月にタノム・プラパート独裁政権を学生運動が打倒した事件に続く多くの学生が命を落とした事件として有名である。

この時のジャングル・ゲリラ経験者が何人かタクシン政権に参加している。現在PPPの副党首に納まりかえっているスラポン蔵相や、タクシン追放後はTRT党首代行として活躍したチャトロンも76年事件のとき学生運動の活動家だったという。

タクシンのポピュリズム政策が「貧民救済」を目指したまっとうな政策だと彼らの目には映ったのかもしれない。あるいは単にカネと地位を目的にタクシンに迎合しただけかもしれない。もちろんどうしようと彼らの勝手である。

ドイツのヒットラー政権で活躍した元左翼マルクス主義者が少なからずいたといわれるが、それと同じ図式であろう。

タクシン政権というのは一種のファシズム政権なのである。警察はもとより財務相(特に国税局)や司法省など主要官庁を自分の子分や親族でかため、軍も自分の士官学校の同期生で制圧しつつあった。

独裁政権完成一歩手前のその前夜に06年9月の軍事クーデターが起こったのである。タクシン首相が公務でニューヨークに出張中にクーデターが起こったなどとタクシンは言っているが、それは真っ赤なウソで、タクシンは既にクーデターが起こることを承知しており、現金を20数個の旅行カバンに詰めて出国政府専用機で出国したといわれている。

無一文で着替えだけで出国したのであればマンチェスター・シティなどというサッカー・チームを百数十億円も出して買収できるはずがないではないか。 もちろん「申告していない隠し金」も相当あったに相違ない。それだけでも本来首相失格なのである。

この軍事クーデターはタクシン独裁政権から民主主義へ回帰という大儀名分があり、スラユット政権はいわば「選挙管理内閣」であった。スラユット首相が「無能であった」というのは誤りである。

軍事予算は増額になったかもしれないが、私服を肥やしたものはさほど多くは無い(悪いやつは少しはいたことは事実である。)朝日新聞のように「軍部は取るべきものを既に取った」などといっているが、それが狙いならもっと長期政権を目指したはずである。スチンダ政権との違いがまるでわかっていないようである。

今回の選挙後にPPP政権が何ををやるかをみていれば、すぐにわかるが、まず第1に言論弾圧である。チャクラポプという内閣府担当相がそれにあたり、早くもサマク批判を封じる動きの出でている。

法務相のソンポンは警察幹部の異動を真っ先に行っている。特別捜査局長を更迭し、タクシン派と知られる人物を後任に据えた。また、チェンライでヨンユットの選挙違反を取り締まった警察署長のクビをきった。

チャレム内務相はタクシン時代の「麻薬撲滅運動」を再開するといっている。これは麻薬密売業者が2,500人警察に裁判抜きに殺害されたといわれ、国連も問題にしている事件(日本と独裁国家ではほとんど報道されていない)である。

チャレムは元警察大尉の悪徳政治家としてタイでは広く知られているが、タクシン政権時代に自分のセガレがバーで警察官と喧嘩し、射殺してしまっても、それをもみ消してしまった。確かに実力者ではある。

チャレムはこの「麻薬撲滅作戦」が2003年当時タイ国民の間で評判がよかったなどといっている。確かに悪が殺されてこの世から消えたら喜ぶ人間も少なからずいるであろう。

しかし、悪を取り締まるには法律というものがどこの国にもある。それを無視して国家権力が「気に入らない人物」を勝手に殺したらそれは法治国家ではない。しかも前回2,500人の犠牲者のうち、麻薬取引とは無関係の人が半数近くいたというのだからすさまじい。

タイでは警察はマフィアと変わらないなどと極言する人もいる。もちろん警察官の大多数はマトモな人々であり、国民を犯罪から守るために命がけであっている人が多いことはいうまでもない。

しかし、法律抜きで2,500人もの人間を処刑できるマフィアが世界にいるだろうか?しかもその犯人は誰も捕まっていないという。それをよしとする政治家が堂々と閣僚になる世界である。

選挙の真っ最中にバンコク・ポストはこのチャレムとのインタビュー記事を長々と掲載したのだからたいしたものである。もっとも、日本では自民党びいきの一般紙が存在するのだから、タイにもその手の新聞があっておかしくはないのだが。

結論からいうとタイの政治の混乱は当分収まりそうもない。サマク政権はそう長持ちしないだろう。ただし、タクシンがカネを出さなくなれば、いつの間にか洪水が引くように政治は正常化に向かうことは間違いない。タクシンも年貢の納め時を悟るべきであろう。もう復活の芽などはないのだ。

それとタクシンも巨額の個人資産を凍結されており、自由に動かせるカネがそろそろそこをついてきた頃であろう。

⇒最高裁がヨンユット前下院議長にレッド・カード判決、PPP解党の可能性(08年7月8日)


既に選挙管理委員会からレッド・カード(今後5年間被選挙権が剥奪される)が出されている前下院議長で最大与党PPPの副党首でもあったヨンユット氏に対し、最高裁判所は7月8日(火)有罪判決をくだした。

その結果、ヨンユット氏個人が今後5年間被選挙権を剥奪されるのみならず、PPPそのものが党幹部から選挙違反者を出したことにより、「党の解散命令」が出される可能性が強まった。

既に少数与党であるチャート・タイ党とマッチマーティパッタイ党も党幹部による選挙違反の有罪が確定しており、いずれ解党命令が出るものと見られている。

今回の判決により、タイ政局は新たな段階を迎えた。

サマク首相としては議会を解散して下院議院選挙を実施する方針であると伝えられ、何度選挙をやっても今の与党が勝利すると以前から豪語していた。PPPが解党されたら別の新しい政党をつくればそれで万事OKだというのだ。

しかし、選挙をやるたびに「タクシン党」は議席を減らしていくことは間違いないであろう。また、スポンサーのタクシンが何時までどれだけカネを出し続けるかも問題である。

タクシンの個人的利害は裁判所の判決にかかわっており、裁判官や検察官への「工作」が激しくなってきているように見受けられる。先日の最高裁判所事務局への「200万バーツ菓子折り事件」などはその氷山の一角かもしれない。

それにしてもサマク政権は出発の当初からトラブル続出でハジを天下にさらし続けたと言えよう。これほど醜悪な政権はタイの歴史上でも珍しい。

 

158-6.タイ最高裁、PPP党がタクシンの名義政党か否かの判断を憲法裁判所に託す(08年1月18日)

タイの最高裁判所はチャイワット(元民主党員)から提起されていた「PPP党がタクシンの代理人政党である」との訴えにつき、最高裁としての判断を避け、「それは憲法裁判所で裁くべき問題である」との判決を下した。

一方、選挙管理委員会は問題になっているPPP党のヨンユット副党首の当選を一応認め、その適否をもっと時間をかけて審査するという決定を下した。それにより民主党以外の政党はPPP等を中心に内閣を組織することが可能となり、誰が首相になるかは別として12月23日の選挙に基づく政党政治が復活する見通しとなった。

タクシンは「PPP党首のサマク氏が首相としてふさわしい」という発言をしており、サマク内閣が発足する公算が強い。ただし、その政権が長続きするであろうと言う見方は少ない。タイの政治の混乱は今後も続く見通しである。

また、PPPが第1党ではあるが、それは東北部と北部の議席とバンコの周辺部と南タイの2議席に限られており、全国的からくまなく議席を獲得した政権ではないため、特にバンコク市民との軋轢が強まれば、再び反政府運動が激化することも予想される。

これからは、憲法裁判所が慎重審議の末どういう判決を下すかも問題である。ヨンユット副党首の「適格性判断」も選挙管理委員会としては「時間切れによる仮の判断だ」としており、彼が有罪になれば解党問題に直結する可能性が依然として大きい。

いずれにせよ紆余曲折の予想される、時限爆弾を抱えた政権発足ということになろう。

 

158-7.ヨンユットPPP副党首がタイの下院議長に(08年1月20日)

「民主的に選ばれた」タクシン支持者の政党PPP(人民の力党)を中心とする新しい6党連立内閣の内閣の顔ぶれがやがて明らかになりつつある。

233議席を獲得したPPPではるがその約30%に当たる当選者が選挙管理委員会の審査で引っかかり、レッド・カードやイエロー・カードを受けてモノがゴロゴロしている。今日現在20名以上がいまだに審査中という異常なカネまみれ泥まみれの民主主義選挙であった。

まずタイ国民を驚かせたのは疑惑のデパートという評判で辛くも時間切れで選挙管理委員会の処罰を免れたヨンユットPPP副党首が下院議長に選出されるという。

また、首相にはサマク党首が就任し、国防相も兼ねる見通しだという。いずれにせよすごい顔ぶれになることは間違いないであろう。何しろタイの民主主義の勝利(?)の結果 だから、これはタイ国民が受け入れなければならない。

バンコクのアチコチからため息が聞こえてきそうだ。真の民主主義などというものは他人が与えてくれるものではないことがタイでも立証された。日本でも同じこと だ。国民が普段政治に無関心でいるとワルが国をハイジャックするのが世の常というものだ。

これからどういう顔ぶれが閣僚として出てくるかは「タイの地元新聞を読む」というタイでは多くの日本人が読んでいるWEBをご覧ください。コメントが詳しく、かつなかなか秀逸なものが多いと思います。Googleですぐに検索できます。http://thaina.seesaa.net/でもアクセスできるはずです。

suzuktk.comもこれには一目置かざるをえません。

 

158-8. タクシンのゴホウビ内閣固まる(08年1月30日)

タクシンの政党PPPの党首を務めるサマク氏が首相に指名され、内閣の顔ぶれが明日(1月31日)発表されるが、PPPに強いバンコク・ポストは昨日、タクシンに一貫して批判的な姿勢を貫いてきたネーションは一日遅れの今日(1月30日)予想される主な顔ぶれを記事にした。

バンコク・ポストはタクシンやそのクローニーの汚職行為を追及してきたASC(資産調査委員会)を早く解散しろなどと社説でいち早く主張している。ASCはタクシンの汚職追求のために造られたような組織であり、タクシンガもっとも目の敵にしているものである。

ASC(ネーションはAECと表記)はそれどころかタクシンの片腕として東北地方の選挙対策を取り仕切ってきたネーウィン・チドチョーブ(Newin Chidchob)を含む53人の「食品輸出検査機関」がらみの汚職問題を捜査する小委員会を設立した。

また先に、最高裁判所がチャイワット(元民主党員)から提起されていた「PPP党がタクシンの代理人政党である」との訴えにつき、最高裁としての判断を避け、「それは憲法裁判所で裁くべき問題である」との判決を下した が、チャイワット氏はこの問題を憲法裁判所に改めて提訴した。同裁判所はこの問題をどうするかはまだ明らかにしてないが、おそらく取り上げるものと思われる。

サマク首相個人についてもバンコク知事時代の「消防車大量購入汚職事件」に加えて「ゴミ処理契約事件」もNCCC(汚職撲滅委員会)が追求を開始するという(バンコク・ポスト1月30日)。また、名誉毀損事件で2年の実刑判決を受けており、現在控訴中である。

 

首相件国防相 Samak Sundaravej 前バンコク知事、元副首相、内務相経験あり73歳
副首相兼教育相 Somchai タクシンの義弟、前司法省事務次官
副首相兼商業相 Mingkwan Sangusuwan 前MCOT社長
副首相兼財務相 Surapong Saehgsuwan PPP副党首、医師、元情報通信相、政府報道官
外務相 Noppadon Pattama タクシンの弁護士
首相府担当相 Chakrapob Penkair 広報担当。言論弾圧に意欲?
副首相兼工業相 Suwit Khunkitti プゥア・ペンディーン党
副首相 Sahas Bandikul サマク首相の腹心
副首相 Sanan Kachornprasart 少将、チャート・タイ党
法務相 Sompong Amornwwiwat チェンマイ出身、タクシン派
内務相 Chalerm Yoobamrung 警察大尉、息子が警官射殺、バンコク知事選敗北

以下1月31日に続報

ネーションにはさらに詳細が出ていたが、アクセス件数が多すぎて現在内容が見られない状態になっている。

いずれにせよあまり政策的に大きな期待を抱かせるような人事にはなっていない。何よりも論功行賞人事である。財務相のスラポンは要領の良い人間 で口は達者だ(タクシン時代には広報官を努めていた)が何しろ医者である。外相のノパドンは弁護士でタクシンの脱税容疑の弁護に活躍した人物である。 屁理屈は達者だが、外交官向きではない。

ソムチャイはタクシンノ妹のヤオワパ(Yaowapa)の亭主である。ただし、なかなかの切れ者という話しで、裁判官の買収などをやったり、ソムチャイ弁護士事件(イスラム教徒で警察に拉致殺害された)では検事を頻繁に取り替えるなどの小細工をした人物との評判がある。

今回はタクシン家のお目付け役としての役割をになうことになる。

国防相は軍部からはPPP党員以外から出すように、タクシンに要請があったということだがタクシンは軍の人事権に影響を及ぼしうるポストを手放すはずがない。 サマクはサマクなりの思惑でこのポストを確保した。しかし、それが新たな火種になることはいうまでもない。

PPPというのは東北部・北部の農民票とバンコク周辺部の低所得者層の票をかき集めて第1党ンあった政党である。彼らにバンコクで集めた税金を配分していこうという政策がポピュリズム政策である。当然バンコクの中産階級の利害とは相容れない。軍や司法との対決もある。容易な らざる事態が最初から予想される。

ただし、サマク首相は最初から軍部との激突は避ける模様であり、軍の人事には干渉しないと述べている。タクシンの「代理人」ではあるが「タクシンにどこまで義理立てするか」は分からないといったところも見受けられる。 サマクも一筋縄ではいかない人物である。(2月3日追記)

 

158-9.タクシンとサマク首相の思惑の違い早くも表面化?(08年2月5日)

サマク首相とタクシンの思惑の違いが早くも表面化してきている。タクシンにしてみればサマクはお雇いマネージャーであり、用が済んだら早々にお引取り願うという目論見だったが、サマクにしてみればせっかく獲得した首相の座をそう簡単には明け渡さないというところから今回の問題が出発している。

タクシンの思惑はスラユット政権が造った新憲法を一日も早く改正して、公民権停止状態が5年間も続くTRT幹部110人(タクシンを含む)の早期赦免を実現したらサマクには退任してもらい、タクシン一族と本当の腹心の部下ネーウインらとでタクシンン政権を再現したいという狙いであろうと思われる。

そのためにはカネも惜しまず使ってきた。今回の選挙で票の買収資金がいくらかはもちろん分からないが、選挙の経済効果として200〜300億バーツ(≒700〜1,050億円)あったとされている(バンコク・ポスト2月4日付けAdam Cooper氏の記事)。

買収行為の「タレ込み」が少ないのは資金が村の顔役経由で流され、それを密告すると報復され「村八分」どころか命まで狙われるからであるという。恐るべき民主主義社会である。その結果が「民衆の意思表示」だなどといえるはずがない。

それはともかくサマクは首相として実績を残したいという思惑から、まず軍部と妥協を図ったことはいうまでもない。国防相の兼務を主張したのは軍部と直接対話のポジションを確保したかったからである。

「軍の人事は軍に任せ適材適所でやってもらう」と表明したことによって軍からは先ずお墨付きを貰うことに成功したとみられる。「軍に逆らうとまたクーデターを起こされるから」という主旨の発言をサマクはしている(2月5日バンコク・ポスト)

また、サマクは最優先の政策課題としてメガ(大型)・プロジェクトの実現をあげている。その主なものはバンコク首都圏の鉄道網の整備であり、タクシン政権時代に青写真が出来上がっていたモノをなるべく早く実現したいというものである。

それには日本政府の協力が不可欠であり、サマクは最初の訪問国を日本にしたいとしている。ちなみにタクシンの最初の訪問国は父親の母国中国であった。

また、サマクはメコン河から水を引いて乾季の農業用水に使いたいと言い出した。地下に用水トンネルを作って、ウドンタニまでメコン河の水を引こうというのである。しかし、乾季にはメコン河の水位が下がり、流域全体が水不足になるので周辺国との水争いが深刻化するのは必至である。

大型プロジェクトをやるにはある程度の長期政権を前提とするというのがサマクの言い分であろう。

また、新内閣の閣僚名簿の提出hが1週間近くも遅れているのはタクシンとサマクの閣僚構想が相当食い違っているためだといわれている。2月5日付けのネーション紙(インターネット版)に主な食い違いの内容が報じられている。

そのうち首相府担当相(官房長官に当たる)にタクシンはネーウインの父親のチャイ・チッドチョ-ブ(Chai Chichob)を就けたい意向であるといわれているが、サマクにしてみれば悪名高いネーウィン一家の主が官房長官になって四六時中監視されてはタマリゴトナイということであろうか。

ついで、利権の塊ともいえるエネルギー相にタクシンはシームアン(Srimuang Charoensiri)を就けようとしたが、これまたサマクが猛反対してといわれる。シームアン氏の件については詳しい事情は報じられていない。エネルギー利権はサマクが確保したいためであろうか。

サマクは長年の盟友であるサハト・バンディクン(Sahas Bandikul)という人物を副首相に据え、行政の実務に当たらせるという。

こうなるとタクシンは自分のカネで作った政権が自分の思惑通りには動かせないことが明らかになった。アヤツリ人形が自分の意思で勝手に動き出しかねない状況になってきた。

一方、サマクは自分の権力の後ろ盾になんと「軍部」を持ってきたようである。こうなるとタクシンはいずれはサマクの追い落とし工作を次に着手しなければならなくなる。ロンドンから香港に「亡命先」を替えなければならくなったようだ。

 

159.タイ新政権、報復人事を次々実行(08年3月5日)

タクシン派のサマク政権は軍事政権時代にタクシンの旧悪を暴くなどの行動をとった主要人物に対する報復的人事異動を次々に実行し、その後任にタクシン派人物を据えるという露骨な行動に出ている。

サマク政権そのものが起訴中のものや札付きのマフィアがらみの人物を閣僚や閣僚補佐官や政府顧問政府首脳に次々登用しており、マトモな政権であるという評価はなぜか「日本の良識派新聞」はおこなっていない。軍事政権を口汚くののしってきた割にはマフィア色濃厚な政権にやけに寛大である。

逮捕を逃れて海外から選挙資金の提供などの政治活動を行っていたと噂される、汚職と権力乱用の罪に問われている「刑事被告人のタクシン」が帰国した際には4回も記事にした某新聞としては、サマク政権の中身について多少のコメントがあってもよさそうなものである。

タクシンが4月とも5月ともいわれていた帰国時期を2月28日に早めた最大の理由はサマク首相がタクシンノ思惑に反して軍部と組んで勝手な行動をし始めたからであろう。このままだとカネだけ出して、中身はサマクにさらわれてしまう危険があると感じたのかも知れない。

空港の床にキスするなどのタクシン一流のパフォーマンスののち裁判所に警察によって連行されたが800万バーツ(≒2,700万円)の保釈金を積んで直ちに保釈された。

タクシンは「有罪が決まるまでは無罪だ」との例の主張を繰り返し、「政治活動には一切かかわらない」と宣言した。しかし、タクシンの嘘は毎度のことであり、こんなことをまともに信じるタイ人は少ない。

報復人事についてはいずれも政治にかかわらないとか「国内に融和」を主張していたタクシンの意向に即したものであることは明白である。警察人事をタクシン派が奪還することが第1の狙いであることは間違いないが、法務省などタクシンがかつて押さえてきた役所にも手をつける日は近いと見られている。

真っ先に槍玉にあがったのがタクシンの罪状調査に当たっていたスマイ特別捜査局長であったが、次いで警察トップのセリピスト警察長官代行のクビをきった。また、セリピスト長官代行の補佐官で広報担当のポンサパット警察中将も更迭された。

特にセリピスト長官代行の更迭は、いずれタクシン夫人の実弟にあたるプリューワン・ダマポンを長官に据える狙いがあるとされている。

それ以外にも警察改革に取り組もうとした有能な警察幹部が次々と更迭されるという噂が広まっている(詳細はバンコク・ポスト、3月5日版参照)。

今はまだ噂の段階だが法務省次官ジャラン氏の首切りが近くおこなわれるという見方が広まっている。その後任にはタクシン時代に大活躍したピラパン・プレムプーティ警察少将が座るという憶測が流れているという(タイ地元紙を読むー3月4日付け記事参照)

ピラパン少将はタクシン時代に「資金洗浄取り締まり委員会」の事務局長として反タクシン派言論人や市民運動化の個人資産を洗うなどして法を言論弾圧の道具に使った「キレ者」として著名である。

このような動きにバンコクの民主派グループや学者は危機感を募らせており、タクシン追放の口火を切ったPAD (People's Alliance for Democracy=民主主義のための人民連合)は反サマク政権運動の開始に向かって動き出した。

ソンディ(雑誌マネージャーのオーナー)やチャムロン・シームアン少将などである。いずれにせよPADの再旗揚げが近くおこなわれるであろう。PADの危機感はさらに進んでいてタクシン派の将軍が軍事クーデターを起こすことを危惧しているという。

そういう事態に進む前に裁判所がPPPなど違法な選挙活動をおこなった政党の解散命令を出すかもしれない。

 

160.バンコク鉄道網拡張プロジェクトに日本と北朝鮮が資金提供申し出(08年3月8日)

交通渋滞解消の決め手はバンコクへの鉄道網を拡張するほかないということでタクシン政権時代からメガ・プロジェクトとして計画されていたが、新政権の発足にともないいよいよ動き出すこととなった。

このプロジェクトはサマク首相が「直接みる」といいだして早速物議をかもしている。新政権にとっては最大の利権のタネであることはいうまでもない。このままでは大変なことになると思って、過去にあまり正義漢であると言う評判は取ったたことはないが、ここは一番オレ様の出番だということになったのであろう。

日本の国際投資銀行(JBIC)の代表者が早速サンティ(Santi Sundaravej)交通相と面談し、資金提供の申し出をおこなったという。

プロジェクト全体では9系列のバンコクへの鉄道乗り入れ計画があり、総予算は7千億バーツ(≒2兆3千億円)であるとされている。

そのうちの最初に手がける1系列(紫ライン=Purple Line)というノンタブリのバン・ヤーイ(Bang Yai)からバンコクのバン・スー(Bang Sue)まで乗り入れる線(予算180億バーツ≒590億円)の工事につき、日本側が融資を申し出たものである。

それ以外にもタイ国鉄全体の路線増強計画やスバンナプーム国際空港への鉄道乗り入れプロジェクト(工事が遅れている)へも資金と技術の提供に「関心あり」との意思表示をおこなったという。

これらのプロジェクトについては外国の金融機関も融資機会を狙っており、JBICが独占的に資金供与できるはずもないが、注目すべきは北朝鮮も融資申込みをしてきているという。まさかとは思うが、それだけ各国の関心を集めているということであろう。(バンコク・ポスト、3月8日付、電子版参照)

タイを旅行して気が付くことはバンコクから地方への鉄道は20世紀のはじめから敷設され、一応北から南まで列車は走っているが、本数も少なく、単線のためか時間もかかり、実際は異常とも思えるほどバス輸送やトラック輸送に依存している。

私も南タイに何回か旅行したが、利用したのは全て飛行機とバスであり、鉄道は当日の切符を買おうなどと思って成功したためしがない。道路輸送に異常に負担がかかっているのがタイの交通事情である。そのためにGDPの単位当たりに占める石油の使用量が世界のトップ・クラスだといわれている。

バンコク市内の交通渋滞も昔から名物であるが、鉄道によってしか抜本的な解決の方法はない。一応高架鉄道と地下鉄ができ部分的には改善されたが、まだまだこれからである。

 

161.タイ選挙管理委員会分科会が連立中小2党に対する解党処分勧告(08年3月11日)

タイの選挙管理委員会の内部に設置された分科会がチャート・タイ党とマッチマー・ティパ ッタイ党が昨年末の選挙で票の買収行為をおこなった党幹部がおり、解党命令に値するかどうかが検討されていた。

その結論として2党とも解散命令を受けるに十分は違法行為があったとして、分科会としては満場一致で解党勧告をだすということで選挙管理委員会に報告することが決まった。

選挙管理委員会はその報告を検討し、解党の要件を満たしていると認定すれば、「憲法裁判所」に提訴し、その判断を仰ぐことになる。

しかし、実際の解党命令を出すための具体的な法令が整備されておらず、憲法裁判所も判断に苦しむことになるという見方が出ている。また、解党命令が出た後の処理も問題になる。

問題は最大与党のPPPも回答命令が出されるような要件をいくつか抱えており、これが解党命令が出れば内閣は直ちに解散せざるを得ず、政党の作り直しと選挙のやり直しを余儀なくされる。

何回選挙をやっても結論は同じだという見方もあるが、農民層の間にもタクシンが中国と結んだFTAの被害が出始めるなどの不満が徐々に表面化してきており、次第にタクシン派の数は減っていくことになろう。タクシンも無制限に選挙資金を出し続けるわけには行かなくなることは自明である。

特に最近のサマク政権の「報復的人事」はタイ国民の不信と反感を買い始めていることは間違いない。

また、最近の話題としては外国人ビジネスマンのアンケート調査の結果として、東南アジアで汚職の最も激しい国は第1位がフィリピンでついで第2位がタイ、インドネシアは僅差で第3位だという内容が報道されている。(WSJ、08年3月11日付け、インターネット版参照)

これはタクシン政権になってからこうなったといわれている。私がタイに駐在していた1990年前後はインドネシアがダントツでタイは大分マトモな国だったような気がするが変われば変わったものである。

インドネシアも依然汚職は多いが、現在は裁判官や検察官の汚職と不公正な裁判に可なりポイントが絞られてきているようである。ユドヨノ大統領になってから事態が多少なりとも改善されたのであろうか?

汚職というのはその国の政治リーダーの姿勢がもっとも大きな影響を持っていることは経験の教えるところである。そういえば日本も公務員の不祥事や経済事犯がやたらと目立つようになった。「何でもあり」の風潮のなせる業か。

 

⇒選挙管理委員会が連立2党の解党が適当という結論(08年4月11日)

先に、タイの選挙管理委員会の分科会はチャート・タイ党とマッチマー・ティパ ッタイ党の幹部が昨年末の選挙で票の買収行為をおこなった容疑があり、解党命令に値するという報告書を委員会に報告していた。(上記3月11日の記事参照)

それを受けて選挙管理委員会で解党の是非を検討していたが、4月11日(金)に「2党とも解散命令を受けるに十分は違法行為があった」として、 憲法裁判所に解党を提訴する決定を下した。

5人の委員のうち、ソムチャイ・ジュンブラスト氏のみが解党に反対し、残りの4人は解党に賛成したと伝えられる。

憲法裁判所がどういう判断を下すかは余談を許さないが、これによってタイの政局は新たな段階を迎えた。タクシン派のPPP党もヨンユット副委員長が重大な違反行為をおこなっており、国会解散・選挙のやり直しと言う事態も予想される。

何度やってもタイ東北部と北部のタクシン支持は変わらないという見方があるが、タクシンも無制限に選挙資金を投入できるわけでもなく、時間はかかるが自然と落ち着くべきところに落ち着くこととなろう。

PPPは政党の「解党条項」を憲法改正により削除するという意図もあるように見受けられるが、改正自体時間がかかるし、成功するとも限らない。

今の政権自体、マフィア的だといわれる灰色のイメージがあり、タイ国民は必ずしも全幅の信頼を寄せてはいないとみられている。まともな閣僚もいることは間違いないが、彼らの影が薄くなっているとすらいわれている。

サマク首相と旧TRT党の幹部の間のキレツも次第に目に付き始めている。

 

162.アピラック・バンコク知事が自ら職務一時停止を宣言(08年3月13日)

サマク首相がバンコク知事時代に契約した消防設備一式をオーストリアから購入する汚職容疑事件で首謀者に擬せられているが、AEC(バンコク・ポストはASC=資産調査特別委員会)は現職のアピラク知事も、機械輸入の信用状(L/C)に署名したカドで調査象者として名前が挙げられている。

アピラク知事(民主党副党首)は契約には関与しておらず、就任後機械の輸入の事務手続き上の信用状の発給だけにかかわっており、汚職の共犯者ではないことは明白であり、法務省特別捜査局は既に「シロ」の判定を下している。

しかし、アピラク知事の立場としてはAECから正式の「無罪放免」の通知があるまでは、知事の職務を続けられないとして、一時職務を停止し、副知事に権限を委譲することを宣言した。

これに比べ現在のPPP政権はサマク首相を初めとして、スラポン副首相兼財務相など数人の閣僚がタクシン政権時代の「トミくじ不正問題」などに関与しているという指摘を受けているが、「有罪判決が下るまでは無罪」というタクシン流の論理を振りかざして職務を継続している。

アピラク知事の自らの「職務一時停止」宣言は汚職問題に対する同党の「姿勢」をアピールする狙いがあることはもちろんであるが、タイの政界に汚職が蔓延してきているという国際的評価のなかでも、「襟を正す姿勢」は重要な意味をもつモノである。

翻って、わが東京都の石原知事の「新銀行東京」問題での都議会の答弁くらい不快感を催すものはない。杜撰な計画を作成し、それがうまくいかなかったら責任逃れに終始し、厚顔無恥もいいところである。その態度には戦前の軍部の指導者の姿が見て取れる。

結果が悪ければそれは百万言費やそうとも、リーダーとしての責任なのである。

 

163.タイのビルマ外交、制裁には反対(08年3月15日)

サマク首相は3月14日(金)にビルマ(ミヤンマー軍事政権)のトップに表敬訪問したが、それに先不立ちタイのノパドン外相(タクシンの元顧問弁護士)は隣国ビルマ(ミヤンマー軍事政権)が引き起こしている数々の人権抑圧政策に対する西側諸国の制裁には反対する立場を明らかにした。

制裁よりも交渉を優先するというものである。また、08年5月に実施される予定の「憲法改正」国民投票を支援することを明らかにした。国民投票については軍事政権は国連の「技術的援助」を拒否している。

サマク首相はビルマ訪問に先立ち、政治問題や人権問題の話しはしないで、経済問題を議題にしたいといっていたが、軍事政権の人権抑圧政策を「黙認すうる」というタクシン政権時代そのままの外交政策を展開するようである。

ビルマへの外国投資は1位がイギリスの15.6億ドル、2位がシンガポールの14.3億ドル、3位がタイの13.4億ドルと僅差で並んでいる。2007年の貿易ではタイがビルマからの輸入額は800.3億バーツ(≒2,600億円)と06年比9.8%増、輸出額が330.6億バーツ(≒1,090億円)で前年比14.6%像である。

輸入の主な品目は天然ガスである。

ビルマ(ミヤンマー軍事政権)はASEAN内部の民主化の流れの中で孤立を深めていたが、シンガポール(表立っては民主化支持)についでタイの新政権から支持を得られたことにより、ますます「人権抑圧政策への自信を深めた」格好になった。

タクシン政権が人権や民主主義への関心が皆無といえる政治をおこなっていたにもかあくぁらず、単に議席が多いというだけで朝日新聞などの支持を得て好き勝手に言論抑圧政策などの非民主主義政治を続けてきた。

そういう抑圧体制を復活させたいというのがサマク政権であり、ビルマの軍事政権は絶好のパートナーなのであろう。

しかし、このタイ政権の「態度の変更」はASEAN内の民主化の流れを逆行させるものである。

一方、シンガポール政府はタイのこのような非常識極まりない外交政策の仲間だと思われたくないためであろうか、「ミヤンマー軍事政権は国連と協調せよ」という呼びかけをおこなっている。外交感覚に敏感な お国柄ではある。(この青字部分は3月17日に追記)

 

164.タイ国鉄、南京虫駆除のため 特急を大運休(08年3月17日)

タイの国鉄がいかに緩慢極まりない運行をおこなっているかについては私も及ばずながら拙著「シュリヴィジャヤの謎」の48-49頁で指摘しておいたが、図らずもエアコン車両で大量の南京虫が最近発生し、その駆除のために列車の運行を大幅に削減すると発表した。

車両は韓国のDAEWOO製のエアコン特急車両であるという。韓国製の車両だからというわけではなく、外国人の 観光客の利用者が多く、ピッピー風の薄汚れた格好ー日本人も結構多いーの若者のセイだなどとささやかれている。

運休になるのはバンコクーチェンマイ間の特急9〜12号、バンコクーウボン・ラチャター間の特急21と22号、バンコクーヤラ(南タイ)の特急41と42号、バンコクースラタニ間の特急43と44号の合計10本が3月17日〜31日の2週間にわたり運休になうという。

ずいぶん丹念かつスロー・モーな南京虫退治である。なぜこうなったかはいうまでもない、タイ国鉄が普段殺虫剤散布や消毒などロクにやってないからである。

これを批判する記事が英字紙ネーション(3月17日)に出ていた。それによると石油価格暴騰の時期に、トラックやバスに比べエネルギー効率のよい鉄道がろくに機能 していないことと、タイ人が突如国鉄の非効率運行に気が付いたというのである。

車両は普段とても汚く、洗面所など到底使う気にもなれないとアチャラ記者は書いている。少しぐらい高くなってもよいから民営化でもやってもっとマシな鉄道にして欲しいとこの記者は結んでいる。

私もタイ駐在の経験者だが、残念ながら切符が取れないため、タイの鉄道には乗ったことがない。ここ数年自由の身(時間と給料から)になって、シュリヴィジャヤの謎を解くための取材(?)旅行にでかけるが、いざ鉄道を利用しようとしても、とても「お呼びでない」ことを思い知らされるのである。

当日売りの切符が欲しいなどという無知な旅行者は駅員から呆れ顔で見られるだけである。

タクシン政権下の5年有余、彼はこの問題に手をつけなかった。票にもならないしカネにもならないからであろうか?ポピュリズム政策といってもナニかが基本的にかけているのである。

「タクシン改革」はすばらしかったなどといってタクシンをやけに高く評価する学者がタイよりも日本い多く存在するようだが、私にはその理由が全く理解できない。

小泉改革も同じようなものであった。こんな政権下で羽振りがよかった役人や学者先生が次の日銀のトップになるなどといわれても、「なにとぞご勘弁を」といいたくなる。民主党の反対に内心拍手を送りたい。

ましてや、財務省と日銀の「たすきがけ人事」だなどという話しは一般国民には関係ない話である。政策がどうあるべきかなどという議論でなく「役人の人事利権」の実行者としてわが国政府は存在しているのだろうか。これが決まらなければ「日本売り」が起こるなどとNHKの解説者までが言っている。そんなのはウソですよ。

もともと歴代の日銀総裁が国際的に通用するようなエコノミストとして評価を受けていただろうか?大蔵大臣、財務相しかりである。比較的評判の高かったのは短期で終わってしまったが、今は民主党におられる藤井さんぐらいなものである。

一般紙の論説が民主党を「混乱の元凶」と口をそろえていっている。混乱の元凶は自民党政府であることは明白である。日銀総裁が誰れでも良いわけではないのだ。新聞記者諸君!もっと生きた経済を勉強して、国民のタメになるいい記事を書いてくださいよ。

 

165.警察公安副局長を南タイに左遷(08年3月19日)

ヨンユット下院議長をはじめとする、選挙違反の摘発の指揮をとったタイ警察の公安局副局長のチヤイヤ・シリアムパンクン(Chaiya Siri-amphankul)警察少将が南タイのヤラ県内の国家警察本部前線対策本部付きに更迭された。

この異動人事は露骨な報復人事として、バンコク市民には受け止められており、タクシン派政党PPPに対する反感がいっそう強まっているという。

こういうことは止めようということで、発足した新議会ではあったが、タクシン流の露骨かつ傲慢なやり方がサマク政権発足以来続いており、裁判所が下すであろう、被疑政党(PPP、チャートタイ、マッチマ党)への解党判決も世論の支持を得る空気が高まってきたといえよう。

また、ヨンユット下院議長(職務停止中)はチャチャイ少将と3人の選挙管理委員を「彼を選挙違反のワナにはめた」として刑事告発している。検察庁の判断は出ていないが、職務権限違反があったようには一般国民には受け取られていないようである。

自分が罪を警察に摘発されたら警察官を刑事告発するのだからたいしたものである。気の弱い警察官は到底太刀打ちできそうもない。自分がシロというなら裁判で争えばよいだけの話しである。

タクシンの亜流というのはこういう手合いが多い。マファイが巣食う政権という陰口がたたかれるのもむべなるかなである。最初から、印象が陰湿で薄暗い。

日本にも「タクシン大好き学者」が複数いるが、彼らがこともあろうに天下のアジ研から「タクシン改革」のすばらしさを強調する本を出したようである。読むのが楽しみである。彼等はタクシンといわずに「タックシン」という共通語を使っているのも面白い。

1997年の通貨危機のときチャワリット首相ータクシン副首相ータノム財務相という組み合わせだったが、そのときのことには触れていないようである。タクシンがどういう手腕をそのとき振るったかも解説していただけたら、もっとすばらしい本になったであろう。

また、民主党はサマク首相は国防相兼務であり、自ら前線に出向いて指揮に当たるべきだというコメントを出している。南タイはタイ国民にとって最大の懸念材料であり、タクシン時代に問題をこじらせたのだ。

 

166.通貨危機時のインサイダー取引でボーキンの名誉毀損訴訟は敗訴(08年4月2日)

1997年のタイの通貨危機が始まる前夜のことである。当時タイ政府と中央銀行(バンク・オブ・タイランド)はヘッジ・ファンドなどによるバーツ売りの攻勢にたいして、あくまでバーツ価値を守るとして、タイの銀行や国民にバーツの思惑売りを禁止して防衛の協力を呼びかけていた。

ところが、バーツ防衛をあきらめることは公式発表(97年7月2日)の前の11日も前に決定し、当時の財務相であったタノン ・ビダヤ(現在横浜国立大学客員教授、同大学名誉博士)がタクシンの会社のシン・コーポレーションにタイ政府では5人しか知らなかったこの「重要国家機密」を教えていたという 疑惑が取りざたされていた。ところがもう一人、重要情報をチャワリット首相に流した人物がいたというのである。

この5人の中に、タノン財務相、レンチャイ中央銀行総裁、ボーキン(Bhokin Bhalakula)内閣府国務相、ほかに高級官僚2名の5人でこの会議が行われたという。

このボーキンは担当外であったにもかかわらず、チャワリット首相が特命で会議に出席させたと、国会で当時野党であった民主党のステプ(Suthep Thaugsuban)書記長(現在の)が質問した。これに対しチャワリット首相は「ボーキンは出席したが、秘密は守った」と言う答弁をしたという。

通貨危機直後のタイ語新聞には、当時首相であったチャワリットの夫人とタクシン副首相が「バーツ売り」を事前におこなって大もうけをしたという記事が出ていたようである。

ボーキンは名誉を傷つけられたとしてステプ議員に対し40億バーツ(≒130億円)の損害賠償を要求(後に25億バーツに減額)して裁判で争っていた。タイでは政治的な敵対者や言論人に対し、こういう法外な名誉毀損・賠償要求をするのが流行っている(特にタクシン以降)。

これに対し、最高裁は昨日(4月1日)、「ステプ被告は野党国会議員の責務として疑惑を追及したのであり、名誉毀損の罪には当たらない」という判決を下した。

また、原告側証人のレンチャイ、タノンの両氏はボーキンが権限外にもかかわらず、会議に出席したと証言した。

こういうことがあるから、中央銀行の独立性が大事なのである。福田首相はこの辺がよくわかってないらしい。日銀は財務省と一体になって経済政策に取り組まなければならないなどと言明している。日銀は財務省と離れた(独立した)立場で金融政策をおこなっていかなくてはならない。財務相の出先機関ではないのだ。

 

(参考記事)

102-3..タノンがバーツ切り下げ情報をタクシンの会社に流す?(05年12月17日)

ソンディ(雑誌マネージャーの社主)のタクシン批判「ルンピニ公園」集会は依然として続いているが、昨夜(05年12月16日金)はかねてから噂には上っていたが、タイの現代政治経済史上きわめて重要な話しが出た。

それは1997年のタイの通貨危機が始まる前夜のことである。当時タイ政府と中央銀行(バンク・オブ・タイランド)はヘッジ・ファンドなどによるバーツ売りの攻勢にたいして、あくまでバーツ価値を守るとして、タイの銀行や国民にバーツの思惑売りを禁止して防衛の協力を呼びかけていた。

ところが、バーツ防衛をあきらめることは公式発表(97年7月2日)の前の11日も前に決定し、当時の財務相であったタノン(現在財務相)がタクシンの会社のシン・コーポレーション(携帯電話などの通信会社)にタイ政府では5人しか知らなかったこの「重要国家機密」を教えていたというのである。

通貨危機直後のタイ語新聞には、当時首相であったチャワリットの夫人とタクシン副首相が「バーツ売り」を事前におこなって大もうけをしたという記事が出ていたようである。その噂が今、ソンディによって蒸し返されたのである。

タノンは政治の世界に入る前にシン・コーポレーションの財務担当役員をしており、タクシンの強い推薦でチャワリットはタノンを財務相に任命したといわれている。

そのタノンがバーツをフロート制に切り替える11日前に情報をシン・コーポレーションに流した張本人であるという「疑いが濃厚」であるとソンディが昨夜すっぱ抜いたのである。聴衆の多くは当時の噂話を思い出し、拍手喝采したとネーションは報じている。

そういわれてみると、当時多くのタイ企業が、通貨危機のあおりを受けて倒産や破産寸前に追い込まれたが、シン・コーポレーションは打撃を受けるどころか、かえってこの頃から勢いを増したようである。

そこまでいわれたら、現在タクシン政権のもとで財務相として権勢を誇っているタノンとしては黙っていられないところであろう。タクシンももちろんである。

その後、チャワリット政権は崩壊し、代わりに民主党のチュアン・リークパイ政権になったが、IMFの厳しい「融資条件」に悩まされて長いこと不況に苦しんだ。

ところが景気の立ち直りかけた2001年に資金量豊富なタクシンがTRT(タイ・ラク・タイ=タイ愛国党)を率いて政権を握り、「TRTの政策よろしきを得てタイ経済は立ち直った」というストーリーが出来上がってしまったのである。ひどい目に会ったのは民主党である。

ソンディはさらにタノン攻撃の手を緩めず、通貨危機直後に58社のノン・バンクを潰して、バーツの下落にいっそうの拍車をかけ、ドル買いをおこなった貪欲な投機者(ヘッジ・ファンドや一部のタイの政治家・企業家)にさらに大もうけをさせたというのである。

 

167.タイ政府、景気浮揚策として大量のビタミンMを注射(08年4月2日)

サマク政権は「低迷する」タイ経済の立て直し策として総額5,700億バーツ(≒1兆8,000億円)の景気刺激策(ビタミンM(=Money)の注射)を実施することを閣議決定した。

対象はPPP党の選挙地盤の農村が中心になる。

@10万バーツ以下の借金をBAAC(農民お呼び農業組合銀行)から受けている30万の農家に対し、3年間の返済猶予をおこなう。現在、同行から総額180億バーツの借金があるという。

A政府貯蓄銀行(GSB=Government Saving Bank)は貸出金利を月1%から0.5%に減額する。これによって100万人以上の債務者が救済を受ける。ただし、優良な債務者のみが対象になる。そのメリットは50億バーツになるとされる。

B月収1万5000バーツ(≒4万8000円)の月収で借金が総額6万バーツ以下の所帯で、住宅を新たに取得しようとするものに対し、金利の優遇と返済期間の延長をおこなう。

Cこれら以外にバイオ燃料栽培のための融資などきめ細かくおこなっていくとしている。

D3月25日には全国77,000の村に対し規模に応じて小は20万バーツ、中は25万バーツ、大は30万バーツを支給する。総額は400億バーツを支給すると言う。それらが合計約5,700億バーツに達する (数字の根拠は不明)と政府は見ている。

PPPは解党判決により、選挙が近いと見ているのかもしれない。 国家資金を使っての集団的買収が盛大に始まったのである。税金の過半を負担するのはバンコクの個人と企業である。

 

168.タイのコメ輸出規制の動きでアジアにパニック広がる(08年4月4日)

WSJ(4月4日付け、インターネット版)は世界最大のコメ輸出国のタイがコメの輸出を規制する(Clamp dpwn)ためアジア諸国(特にフィリピン)は打撃を受けるというセンセーショナルな記事が出ていた。

タイの英字紙をみるとコメ輸出を直接規制するという記事はみられないが、ミンクワン副首相兼商業相が価格が3万バーツ/トン(≒9,750円)になるまでコメを輸出するべきではないといった商業資本根性丸出しの発言をしたことがカナリ深刻に受け止められているようである。

これはタイのコメ輸出業組合幹部が、コメの国際価格が投機家によって大幅な価格上昇を招いており、輸出の価格設定が難しくなり、輸出のオファーを手控えざるをえない。

タイ政府が「輸出最低価格を決めてもらえば、それが指標になって値決めも容易になる」と言っているのを受けた発言とも考えられる。

実際に3月には100万トンあったタイのコメ輸出は4月には70万トンに減少するとみられている。(The Nation、4月4日付け)

タイ政府としては国内の米価が急騰すると、大幅インフレの引き金になりかねないとして、政府の手持在庫(200万トンはあるといわれている)を5Kg詰めパックにしてスーパー・マーケットなどに放出をおこなっている。

いまや、世界最大のコメ輸入国(年間約200万トン)になったフィリピンでは政府が輸入米を補助金つきで安値販売しているにもかかわらず、このところ米価が急騰しており、1Kg=23ペソ(1ペソ≒2.47円として57円)だったものが31ペソ(77円)に35%もハネあがったという。

1日3食ともコメを食べる習慣があるフィリピンで貧困所帯を直撃していることは間違いない。政府も米価抑制策に懸命になっており、輸入米に補助金をつけて特別価格によるコメの配給制度を実施しているというが、市場価格の高騰を止められない。

フィリピン政府は販売業者の「コメの隠匿=売り惜しみ」に対しては最高終身刑を課す方針で臨むという。また、コメの便乗値上げをおこなう販売業者には「ライセンス」の取り消しをおこなうと警告を発している。

世界銀行の調査では平均の家計消費に占める食糧の比率(いわゆるエンゲル係数)は米国では15%、マレーシアでは31%、中国では34%、タイでは36%、インドネシアでは40%、ベトナムでは43%、フィリピンでは50%であるという。

これをみても米価の影響がいかに大きいかが窺われる。

 

⇒タイ、地主に土地を取り上げられる小作農(08年4月23日)

コメの輸出(年間輸出量約900万トン)で最大のシェアーを持つタイでは、4月には入ってからの米価の高騰によってさぞタイの農民は潤っているであろうと思うと実態はさにあらずという記事がタイの新聞に頻繁に現れるようになった。

現在の米価の倍増はタイの農民にとっては何の関係も無いというのだ。というのは今市場に出ているコメは半年も前にタイの農民が仲介業者に売ってしまったものだからだ。

今後生産されるコメの値段は彼らにカナリの恩恵をもたらすのは間違いないが、農民にとっては意外な災難が待ち受けている。1つは肥料や農機具要のディーゼル油の高騰である。そもそもタイには農業国にしては科学肥料の会社があまりない。もっぱら輸入に依存してきたのである。

タイの水田は雨季の洪水によって稲を育てるという伝統的な手法に頼ってきたために、化学肥料を撒いても流されてしまい、効果が無い。肥料が必要となるのは乾季におこなわれる2期作目である。

2期作目には灌漑用水を使って、田ごとに水の管理をきちんと行い、化学肥料をまいて、高収量米(ハイブリット・ライス)を栽培する。しかし、この灌漑用水という日本では当たり前のものがタイでは少ないのである。乾季に水が無いからいかんともしがたいという地域が多いのである。

しかし、このハイブリット・ライスといううものは1993年の日本の干ばつ時に大量に輸入されてタイ・ライスの評判を一気に悪化させた代物である。タイの米はこんなにまずいのかといって公園に捨てられたなどという話しもあった。捨てられたコメは「輸出用」の2期作米である。

雨季の1期作の米の多くは「ジャスミン・ライス(香米)」と称して国際的にももっとも高値で取引される。中流以上のバンコク市民はもっぱらこれを食べている。このコメには私も駐在員時代にさんざお世話になったが、少し香りはあるものの慣れるとすこぶる美味いものであった。

タイの農民は今、急遽2期作目のコメを生産しようとして準備をし始めたが、肝心の水が無い。米作地帯が干ばつに襲われているのである。ダムに貯めてあった水では到底足りない。しかも、ダムの水も普段水力発電に使われ、以外に農業に回せるものが少ないようだ。

それよりももっとひどいことが起こっているという。それは小作農が借りていた農地を地主が取り上げ始めたというのである。タイは東南アジアでは比較的自作農が多いが、田んぼを借りて 耕作しているケースも結構多い。

タイには小作農保護の法律があって1981年の法令によると1ライ(約500坪)あたりの小作料の上限が年間籾米で225キロと決められているが、地主は1期作当たり225キロだと称して2期作目の小作料を請求しているケースがあるという。

そればかりか、小作契約の解消を申し渡すケースが急増しているという。地主は小作契約解除を1年前に予告することになっており、借り手の農民は返還の猶予を6年間要求することができることになっている。しかし、実態はそうは行かない仕掛けになっている。

というのは、小作契約書が「文書化」されておらず、単に「口約束」で小作をおこなっているケースが少なくないといわれている。しかも、地主は村の顔役だったり、政治家だったりするので、アッサリと土地を取り上げられるという。こういうことは当然「小作争議」に発展する可能性がある。

コメ大国であるタイが東南アジアでも反当り収量が最も低い。それは乾季の2期作が水不足のためあまりおこなえないからである。特に東北部ではそれが顕著である。乾季になると東北の農民が大挙してバンコクの建設現場に出稼ぎに来るのはそのためである。

2期作対策として、メコン河から水を引いて、東北部に灌漑用水を供給しようという方法が検討されているが、工事費がベラボーにかかるのと、乾季にはメコン河も水量がすくないという事情があって今まで実現されていない。

サマク首相は地下水路をつくろうなどといっているが実現は難しい。さしあたりは貯水池をもっと作って、農業専用にすることが先決であろう。

(Bangkok Post, 4月23日、Internet版参照)

 

169.密航ビルマ人54名がコンテナー内で窒息死(08年4月10日)

タイのクラ地峡のラノン市郊外で10トン・トレーラーに牽引されていたコンテナー(20フィート)から100人以上のビルマ人密航者がすし詰め状態で発見され、そのうち54名(うち34名が女性)が窒息死していたという悲劇が発生した。21名が手当てを受けているという。 生存者は47名といわれる。

かれらはビルマ領の島からラノンの港に小船でひそかに渡航し、プーケット島などで働くために密航して来たものと考えられる。

コンテナーには換気装置がついていたが運転手はなぜかそれを稼動させなかった(壊れていたという説もある)。

ビルマ人たちはあまりに息苦しいので、中からドンドンと叩いたが、運転手は「警官に見つかるから」と一喝して、そのまま運転を続けた。さらに、中から叩くので、運転手がコンテナーの扉をあけたところ、多数の死者が出ており、運転手は怖くなってそのまま逃亡したと言う。

ビルマ人達は通りすがりの自動車をとめて、警察に通報したが、警官が駆けつけたのはそれから30分後であった。彼等は2時間もコンテナーに閉じ込められ、あと30分そのまま走ったら全員死亡していたであろうと生存者の1人は語ったという。

タイ人のトレー・ラーの所有者のタイ人は逮捕されたと伝えられる。密航者達は1人当たり5,000バーツ(≒1万6000円)支払ったという。

生存者は現政権下ではビルマ(ミヤンマー軍事政権)側官憲に引き渡される可能性が強い。

BBCの記事によれば、現在、タイではビルマ人の不法就労者が最大135万人いるとみられ、それ以外に難民キャンプに収容されているものが14万1千人、正式に登録している労働者等が50万人おり、合計約200万人近いビルマ人が現在タイで生活している。

昨年12月にも22人のビルマ人とみられる水死体がアンダマン海のタイ領側で発見され、ビルマ人のタイへの密航者は後を絶たない実態が今回の事件で垣間見られた。いずれにせよ、国民を食べさせることができない政権は失格である。

 

170.PPPがタイ下院議長候補にネーウィンの父親を指名(08年5月7日)

ヨンユット下院議長は選挙における不正疑惑からつい先ごろ辞任したが、その後任として与党PPPはタイ国民を愕然とさせる人物を候補者として決めた。その人の名はチャイ・チョーチーブである。

彼はタクシンノ腹心中のナンバー・ワンといわれるネーウィン・チョ-チーブの父親であり、本人は目下下院で与党の国会対策委員長を勤めている。

ネーウィンはもとTRT党の最高幹部で被選挙権を剥奪された111名のうちの一人だが、タクシンの意向を受けてPPP党を影で仕切っていると噂されている。

チョーチーブ一家は大変な名望家(??)であり、ネーウィンの弟はネーウィンがからむ刑事事件の担当検事を暗殺しようとした容疑で指名手配を受けており、目下行方不明である(海外に逃亡していると言われている)。

ともかく今の連合政権はキナ臭い人物が多く、マフィア政権などとタイでは陰口を叩かれているという。

最近、バンコク大学(私立)がおこなったバンコク市民に対するアンケート調査ではもっとも評判の悪い閣僚がチャレム内相であり、次がサマク首相で、もっとも評判のいい人物がミングワン(Mingkwan Sangusuwan)副首相兼商業相であるという。

サマク首相は最近のコメ・ブームに気を良くしてコメ生産国でカルテル(石油のOPECに似た)をつくろうなどという提言をしてコメ輸入国フィリピンから猛反発をくらった。そればかりか、賛同する国もほとんどなくサマク提案はあっさり潰され、国際的な信用も失った。

目下、PPP党が画策しているのは2007年憲法の改正であり、その中でも政党の幹部が選挙違反をおこなった場合はその政党にたいし裁判所は「解散命令」を出せると言う条項を何とか無くしたいということである。また、TRT党の幹部が5年間の「被選挙権」剥奪をされている事態をなくそうという意図である。

これを強行しようとした場合はタイの政治的混乱は避けられず、早くも軍事クーデターの噂が飛び交い始めている。軍の幹部はそういう噂を強く否定しているが、国民の不安は逆に高まっている。それというのもサマク首相やスポンサーのタクシンがいう「国民和解」の精神とは程遠い、というより、全く逆行するようなことが日常おこなわれているからである。

今回の下院議長問題も国民感情を逆撫でしていると受け止められても致し方ないであろう。

タイは経済はまあまあだが、政治が極端にわるい。日本の方がまだマシである。与党はともかく、首相は日本のほうが断然いい。(連休ボケで頭がおかしくなったといわれそうだが、福田さんは最近の首相の中では人物的にはベストだと思う。ただし、今の政府は前もそうだが相当ヒドい。)

 

171.サマク首相の不用意発言で2銀行が取り付け騒ぎ(08年5月9日)

数日前、サマク首相は国営テレビ(NTB)とのインタビューでいくつかの銀行の経営状態が悪く、80億バーツの資本注入がFIDF (the Bank of Thailand's Financial Institurtions Development Fund=金融機関開発基金=通貨・経済危機時にできた金融機関の不良債権買い上げ機構) によってなされなけれならないと語った。

この発言によって一昨日から2日間バンク・タイ(BankThai)とサイアム・シティ・バンク(Siam City Bank)に対し、預金者が預金をひき下ろす、いわゆる「取り付け騒ぎ」が発生した。

サマクはこれら2行が倒産するとはいっていないと強弁しているが、危機感を感じ取った国民が多かったということは否定すべくもない。首相という立場にいる人間としては言っていいことと悪いことをわきまえなければいけないが、タクシン同様サマクはその辺の感覚がずれているとしか言いようがない。

かつてタクシンはソムチャイ弁護士が警察に拉致されて「失踪」したときに「夫婦喧嘩があって家出したのではないか」という発言をしてソムチャイ夫人だけでなく、一般市民の怒りを買ったが、その無神経さは今までも変わっていないようだ。

タクシンが所有するイギリスのサッカー・チーム、マンチェスター・シティの試合に大型のタイ国旗の白地の部分に、「THAKSIN」と大書させていた事件はタイ国民の憤激を買った。また、マンチェスター・シティの選手にグランドでタクシンに敬礼(多分ワイ=合掌のこと)を強要したとが、相変らず話題には事欠かない(これらは日本では多分報道されていない)。

ところで、タイの銀行の経営状態はどうなっているのであろうか。バンコク・バンクやタイ・コマーシャル・バンクやカシコム・バンク(前のタイ・ファーマーズ・バンク)など一流どころは問題ないであろうが、中小銀行のなかには内容が良くないところは確かにあるのではなかろうか?

 

172.PPP政権はタクシン救済の憲法改正が優先課題、国内の対立深まる(08年5月19日)

サマク政権が発足してから3ヶ月たって何事が起こったかをみると、悪質閣僚や暴力議員 (国会内で民主党議員に対し、頭を狙ったハイ・キックを仕掛けたヤクザ議員がいる)がバッコして、マトモな政権の態をなしていないと言う印象である。

タクシンが資金面のスポンサーとして誕生した政権であるから、スポンサーの意向にそった政策がおこなわれるのは当然で、先ず気に入らない官僚のクビを盛大に切った。同時に、昨年改正された憲法を改正しなおして、旧TRT党(党が解散させられた上に111名の幹部が5年間被選挙権を剥奪)の復権である。

また、タクシンの違法行為(特に経済事犯)を追求するために作った組織AEC(資産調査委員会)の解散や、汚職取締りに厳しい内容の条項のホネ抜き、もしくは撤廃である。

それとは別にとんでもないことを一部の改憲派は考えていると言う指摘がなされている。それはタイの王室をタナ上げ(廃止とはいっていない)して、タイを共和制にするという案だそうである(『タイの地元紙を読む』5月18日付)。

共和制にするというのは国王以外に「大統領」を置くことを意味すると考えてよいであろう。

実は、こういう構想はタクシンがTRT(タイ・ラク・タイ=タイを愛するタイ人)党を旗揚げするときに、フィンランドの首都ヘルシンキに有志が集まって「タクシンを大統領にいただく共和制を作ろう」という、「ヘルシンキ宣言」なるものが採択されたというのである。

これはあくまで噂に過ぎないが、タクシンが政嫌の座にあったときに、しばしば国王の「忠告」を無視して、我が物顔に振舞っていた時期があったことも事実である。そのたびに、この「ヘルシンキ宣言」の噂を思い起こす人がいたようで、この宣言の存在が蒸し返されてきた。

タクシンはもちろん「ヘルシンキ宣言」の存在は否定しているが、「国王」とその顧問機関である「枢密院」とりわけ「プレム議長」を目の敵にしている人物がかなり存在することは事実である。

先日「映画館」で上映前に「タイ国歌」が演奏され、観客は起立をする「慣習」があるが、それを無視したある「活動家(自称左翼)」が周囲の人からとがめられ、ひと悶着を起こしすという事件があった。彼の言い分は「思想信条の自由は憲法によって保障されている」というものである。

なるほど立派な言い分だが、かれは以前にプレム議長邸にデモをかけ暴力的であったとして逮捕されたことがある。プレム邸にデモをかけるということはタクシン派でしかも「反王室派」だということを意味するとタイでは受け止められている。

「反国王」を標榜するとこれまた法律違反(不敬罪)になるので、王室を守る「枢密院議長」を個人攻撃するという風に見られているのである。 また、タクシン派はプレム議長こそが06年9月の軍事クーデターの首謀者だと見ている。

1976年10月のタマサート大学事件でジャングルに逃れ「反政府武装闘争」をおこなったタイ共産党の元活動家がカナリの数、タクシン陣営に加わり、「貧者のための政策=ポプリスト政策=30バーツ医療制度など」を企画立案し、それがタクシン人気の源泉となったが、彼等はもともと「反王室」であり、おそらくその信念だけは変えていないつもりなのかもしれない。

タクシンはもともとが「華僑意識」の強い人物であり、「王室」に対しては一般の「善良なタイ人」とは別な感覚の持ち主であるという見方もされている。もし、そうでないならば、国王の再三の忠告を「馬耳東風」と受け流してはこなかったはずである。

タクシン政権と言うのはタクシンとその周辺の「マフィア的仲間」と元共産党員が組むと言う奇妙な政権であり、それが今なお継続されているのである。しかし、タクシンが本当に信頼を寄せているのは「マフィア的な子分ども」であり、左翼崩れのインテリなどではない。

元共産党員はいわば「タクシンの走狗」として使い捨てられてきたのである。こういう構図はナチスのヒットラー政権と良く似ている。ナチスには元共産党員がカナリ協力したが、最後は彼らはパージされて悲惨な運命をたどった。

タクシンは「タイの貧者」に同情心をもって彼らのために何かをしようなどということで政治の世界に入ったわけではない。はっきりいって政治は「金儲けの手段」にしか過ぎなかった。それに、実際のところ政治は大変儲かるビジネスであった。愚かな貧者は票を騙し取れる「可愛い」連中であった。

この拝金主義者と元左翼の組み合わせは現在のタイの政治的混乱の出発点である。軍事クーデターが2006年9月に起こったときに「善良な左翼」の代表的な人物であるチュラロンコーン大学のジル・ウンパコン(サリット政権時代の蔵相の良識派ウンパコンのセガレ)先生は先頭に立って、軍事クーデター反対のデモをおこなった。

彼らも口では「タクシン政権に反対」などといっていたが、実際行動に出たと言う話しは聞いたことがない。

はっきり言って彼らはタクシンを応援する左翼ピエロである。それ以外の役割を何も果たしてはいない。タクシン体制に反対する「民主連合」にタクシン・マフィアに成り代わって「攻撃」を仕掛けている。「王室」は「タクシンよりも憎し」といったところであろうか?

彼らには「タイの民主主義の敵」は誰かということがまるで分かっていない。タイ国王はタイの民主主義にはっきりコミットしているのである。それは1992年5月の流血のデモの惨事の中でも示されたではないか?

「血迷える左翼」あるいは「左翼原理主義」がいまやタイの民主主義を潰しの先陣を走っているのである。しかし、彼らがタイの民衆の支持を得ることはないし、タクシンからカネも貰えない。単なる迷えるピエロであり、「かく乱要因」にしか過ぎない。

これに悪乗りしている「真性タクシン派」がジャクラポプ内閣府担当相である。かれは反タクシン派のマスメディア関係者を目の敵にしている。特に政府系テレビからの追い出しに辣腕を振るっている。政府の言うことを聞かないものは許さないと言う、タクシン時代の再来である。

彼はプレム邸襲撃事件の首謀者としてしばらくブタ箱にいれられていたが、2週間後に釈放され、昨年8月出所後「外国人プレス・クラブ」で長広舌を振るったことが今問題にされている。演題は「タイの民主主義とタイのパトロン(保護者)制度」とうものであり、タイ国民のパトロンとは「王室」を意味する。

ジャクラポプはプレム議長批判にことよせて「王室批判」をやったという。それを「少し舌が滑っただけだ」などとバンコク・ポストの副編集長が弁護しているのだから、タイのメディアも複雑である。

しかし、「王室」問題が政治のテーマにあがってきたことは確かで、これには軍部だけでなく、タイ一般大衆もかなり刺激を受けている。タイ軍幹部が入れ替わり立ち代り「クーデターはありえない」と言う発言を繰り返しているのも気がかりである。

「王室問題を政治から切り離せ」というのは前首相のスラユット枢密院議員の最近の発言である。

サマク政権には「まともな政治」は期待できそうもない。タクシンの子分はもはやサマクの言うことなど聞いていない。また、まともな閣僚も少なすぎる。

早いとこ解散して、もう一度選挙をやるほかない。2度、3度とやっているうちに少しはまともな政権ができるかもしれない。タイの政府はメチャクチャだが経済は結構きちんと動いている。

 

173.タイ与党憲法改正案を下院議長に提出(08年5月21日)

サマク政権はついに、彼らにとって最大の政治課題である憲法改正を早期に実行すべく下院議長に「改正審議案」を提出した。これにはPPP議員123名、マッチマーティパッタイ党議員2名、プア・ペーンディン党議員5名、ルワム・チャイ・タイ・チャート・パタナ党議員4名と、上院議員30名の署名があるという。

他の与党のチャート・タイ党とプラチャート党は署名に参加していない。

憲法改正の狙いは「タクシンとTRT幹部の復権」であることは明らかであり、再び国論を2分する騒動に発展することが明らかになってきた。タクシンの追い落とし運動の中心となったPAD(民主 主義のための人民連合)は早くも街頭行動を計画していると宣言した。

サマク政権としては「憲法改正の意図」があまりに露骨なので、「憲法改正をすべきかどうか」を問う「国民投票」を7月に実行し、国民の賛成が得られれば、改めて「憲法改正案」を審議し、再度国民投票にかけるという2段構えの方法をとるとしている。これは軍事クーデターの回避策でもある。

サマク首相は、その前に「反王室発言」で問題を引き起こして世論の総攻撃を受けているジャクラポップ内閣府広報担当相のクビを切るものと思われる。(内閣改造を示唆している)

一方、民主党はジャクラポップ担当相がメディアへの干渉をおこなっているとして同氏の罷免を要求する手紙を同党の下院議員164名の署名を添えて上院議長に提出している。その書状にはジャクラポップ氏の「王室関連発言」については触れていないという。

こういう事態になることは予想されていたが、PPPは政権をとったもののロクなせ政策をおこなわずひそかに「憲法改正」の準備をしていたものと見える。

最高裁がPPPをはじめ他の2党の幹部の選挙違反により「解党」すべしとの提訴を受けながら、いわば「優柔不断」に時間の引き延ばしをやっている間に、タクシン一派は上院議員30名の抱きこみに成功したことになる。

上院議員は本来中立であるべきでPPPと「憲法改正」の共同提案者になるというのは「政党行為」であり明らかに問題で、今後議論を呼ぶことは間違いない。

このまま事態が悪化していけば、機会をみて軍部が動く可能性があるが、その前に裁判所が行動に出るものと予想される。

 

174.PAD反政府集会を再開、5千人が集まる(08年5月26日)

かつて反タクシン運動の中心となったPAD(民主主義のための人民連合)は5月25日(日)にバンコクで「サマク首相の即時辞任と現行憲法改正のための国民投票反対」の街頭 運動を実施した。

一方、政府与党を指示するグループも200人ほど集まり、PADのデモ隊に対し、石やペット・ボトルを投げつけ、猥雑なしぐさをしてケチをつけるなど相変らずの行動を おこなったが、大した混乱はなかった。

憲法改正の狙いが「タクシンの無罪獲得や解散命令を受けたTRTの幹部の復権」ではいかにも迫力がなく、サマク首相の支持率も激しく低下している。

最近のABACポール(アサンプション大学の世論調査)が首都圏在住の2,008人を対象に5月20日〜21日におこなった世論調査ではサマク首相を支持すると答えたものは21..4%(3月の調査では45.4%)に過ぎなかった。

特に、憲法改正が最優先の政治課題としているサマク首相はやはり「タクシンノ走狗」に過ぎなかったと言う失望感がうかがわれる。

クビをすげ替えたい閣僚の筆頭にサマク首相があげられ、次にチャルム内相、ついで露骨なプレム批判(実質は王室批判)や言論統制志向の強いジャクラポプ内閣府広報担当相の名前があがっていると言う。

軍トップは今回のPADの反政府デモとそれに対抗するタクシン派のデモ(無頼の徒や東北から動員されてきた貧農が多い)隊の対立激化に懸念を示すとともに警察にも公正な行動を期待する(タクシン在職時代はPADデモ参加者がヤクザに攻撃されるのを黙認したこともあった)と語っている。

⇒PADのデモ隊5千人、選挙管理委員会事務所に向かう(08年6月18日


PADのデモ隊はマカワン・ランサン橋付近に根を下ろし、抗議活動をおこなっているが、一部はそこから離れた場所に別にデモをかけている。

6月16日には約5千人のでも隊が選挙管理委員会(EC)事務所に押しかけ、5人の委員のうちタクシンに同情的と見られているソムチャイ(Somchi Juengprasert)委員の辞任を要求し、女性委員であるソドスリ委員に対する非難をおこなった。

ソドスリ委員は反タクシン派であったが、最近タクシン派に鞍替えしたと噂されている。

ヨンユット前下院議長の選挙時における票買収疑惑でソムチャイ委員は訴追に反対票を投じ、ソドスリ委員は棄権した。残りの3人は訴追に賛成したがこの2人のおかげで「満場一致」にはならなかった。

また、この件の重要証人であるチャイワート氏が元民主党員であったという「証拠の文書」を提出したECの捜査員であるクリット・ナ・チェンマイ(Krit na Chiang Mai)警察大佐の更迭を要求した。

チャイワート氏は元タイ・ラク・タイ(TRT=タクシンの政党)党員であり、民主党に加入した事実はなく、加入届けに付けられていたチャイワート氏の署名は偽造されたものだと主張している。そのインチキ書類を作成したのがクリット大佐だというのである。クリット大佐は現司法相ソンポン氏の補佐役を務めていた前歴があるという。

そもそも選挙時にECが票買収容疑の取り締まりにきわめて緩慢な動きを見せ、700件以上もの「買収疑惑」の提議をたった10日間にも満たない調査で「証拠不十分」として破棄したといわれる。

それらは警察官僚出身者の事務局の仕業だと言うのがPADの言い分である。

また、6月17日にはタクシン派とみられる集団(約50人)がEC事務所前でPADから非難されたソムチャイ・ジュンプラスット委員とソトシリ・サタヤム委員(女性)を支持し、気勢を上げた。

これによって選挙管理委員会も3対2という色分けができてしまったようである。ほんらい中立であるべきECではあるが、タクシンが絡むとしばしばこういう現象が過去にも起こった。

⇒PADデモ隊首相府包囲、警察も衝突回避(08年6月21日)

反政府のPADデモ隊は6月20日政府庁舎(Government House)の包囲を完了し、反政府集会の拠点をマカワン・ランサン橋付近から庁舎前に移した。

朝日新聞の報道によるとデモ隊と警察が衝突し数十人の負傷者が出たということになっているが、警察側が衝突を回避したため、けが人は警察官4人を含め数人しか出ていない模様である。朝日の報道はアイマイかつオーバーな表現になっている。現地紙の報道によればとある特派員は現地取材して生地を書くべきであろう。

また、朝日はPADに対する国民の支持が減ったということになっているが、PADのデモ隊は国営企業の労組の参加もあり、人数は増え、20日にはPAD発表では10万人、警察の調べでも2万2千人以上に膨れ上がっているという。

サマク首相はアヌポン陸軍司令官やパチャラワット警察長官と会談を開いたが、衝突回避という結論に至ったようである。PADも政庁を包囲したものの政庁内部には立ち入らず、政庁前のステージからサマク首相の退陣を求める集会を継続するという。

仮に警察がサマク首相の意向をたいして強硬策に出れば、軍が介入し、新たな軍事クーデターも起こる可能性があり、サマク側と軍と警察とPADの4者かんで何らかの政治的な取引が行われた可能性が窺える。

サマク首相は与党PPPの中でも支持基盤が弱く、党内からも辞任要求が出かねない。後任としてはソムチャイ副党首兼教育相の名前が挙がっているが、かれはタクシンの妹の連れ合い、すなわち「タクシンの義弟」であり、いかにも無理筋である。

アヌポン陸軍司令官は解散して選挙をやり直してはどうかと語ったといわれている。おそらく、そうする以外に方法は無いであろう。また、PPPが第1党になることは間違いないが、その議席はさらに減るであろうことは間違いない。

タクシンもそんな政治にいつまでも多額の資金を投入し続けるわけには行かないであろう。

175、某弁護士、最高裁に200万バーツを菓子折りに詰めて持ち込む(08年6月17日)

政治家の弁護を専門にしている某弁護士が6月10日(火)に最高裁判所を訪れ、手土産に持参した「菓子箱」のなかに200万バーツ(≒650万円)の現金を詰め込み「皆様でお分けください」といって差し出すというインドネシア並の事件が起こった。

事務局は札を数えた後、写真をとって、そっくりその弁護士に返却した。その弁護士は事務員がそうするのを一部始終みていたという。

高等裁判所の汚職担当部長のクリアンカイ判事は「そういう時はその現金を押収しておくべきであった」と語った。

当日はタクシンとポジャマン夫人の公判が開かれており、タクシンの弁護士が「菓子折り事件」の犯人ではないかと取りざたされたが、タクシンの弁護士ピチット氏はこれを否定した。

この何とも大胆な「買収劇」は信じがたい話であるが、実際に起こった事件であり、当然ながらその「弁護士」の氏名は特定されていると言う。

最高裁はこの事件の調査を既に開始した。


⇒タクシンの弁護士ら3人に6ヶ月の禁固刑判決(08年6月25日)

200万バーツ(≒640万円)を菓子折りに入れて最高裁に持ち込んだ犯人はこともあろうにタクシン夫人が不正に取得したとされる「ラチャダピーセック土地取得事件」の主任弁護士ピチット・チュンバーン(Pichit Chuenban)とタクシン元首相弁護団調整役のタナー・タンシリ(Thana Tansiri)弁護士およびピチット弁護士のアシスタントのスパシリ・シーサワット(Supasiri Srisawat)女史の3人であることが明らかになった。

最高裁は3人に対し「法廷侮辱罪」で即決の判決を下しし、いずれも6ヶ月の禁固刑を言い渡した。

それ以外の「買収」の容疑については裁判所として担当の調査官を置き、チャナソンクラム警察署に告発した(6月26日)。

次に、最高裁としてはこの資金の出所先の解明であるという。

この件は最高裁が直接扱った事件であり、控訴は認められず実刑が確定し、ピチットおよびタナー弁護士は法廷での弁護活動が将来できなくなる可能性があるという。タイ弁護士会は急遽懲罰委員会を招集し、2人の弁護士の行動について調査の上処分を決めるとしている。

菓子折りを持ち込んだのはタナー弁護士であり、法廷には出頭しなかったので逮捕状が出された。なおタナー弁護士はポジャマン夫人の実の妹と結婚しておりタクシン元首相とは「義兄弟」(義理の甥という説もある)にあたり、ポジャマン家の親族である。

また、スパシリ女史はポジャマン・タクシン夫人の「金庫番」兼秘書役であったと言う説がある。

いずれにせよ、本件はタクシン一家に密接に関係した弁護士による犯罪であるが、タクシンは「一切関係ない」としている。

(タイの地元新聞を読むおよび英字紙The Nation;08年6月25日版参照)

また、「たった200万バーツで最高裁の判事が買収できるはずは無い」などといったトンチンカンな議論が出ているが、それはまちがいで、この200万バーツは最高裁事務局へのほんの「撒き餌」に過ぎないのである。


176.タクシン派による国営組織の不当人事を行政裁判所が救済(08年6月28日)

GPO(Government Pharmaceutical Organazation=政府薬事組織)のウィチャイ(Vichai Chokewiwat) 会長は新政権のチャイヤー(Chaiya Sasomsab)保健相によって一方的に解任され、後任に元タイ・サッカー・チーム監督のティラチャイ(Thirachai Wuthitham)氏が就任していた。

チュチャイ(Chuchai Suphawongse)理事らも同時に解任されていたが、解任は政治家の干渉によるものだとして不当解任を撤回するよう行政裁判所に提訴していた。

行政裁判所はウィチャイ氏らの解任は不当だとして「地位の回復」を命令し、同氏らは6月27日から業務に復帰した。ウィチャイ氏は遣り残していた「抗癌薬」問題に直ちに取り掛かると、仕事に熱意をしめしている。

判決を不服とするチャイヤ保健相は「最高行政裁判所」に控訴するとしている。

GPOはエイズ新薬の外国製薬会社のタイ国内における特許差し止めなどで活躍したメンバーであり、彼らがなぜ元サッカー・チームの監督と交代させられたのか疑問を寄せられていた。

チャイヤーは「GPOの経営が赤字だった」という以外これといった説明はしてこなかったが、背後にタクシンの意向があったとの風評が流れていた。

チュチャイ博士は国営企業、国の独立組織(選挙管理委員会、資産調査委員会、司法関係など)は政治家の人事介入から自由であるべきだと主張している。

しかし、それらの組織にもタクシン派の買収工作が徐々に浸透していることが、上記の最高裁判所事務局への200万バーツ菓子折り事件をみても明らかになった。

司法関係ではもともとタクシン派は「検察庁」に根を下ろしているといわれ、ソムチャイ弁護士事件で担当検事がしばしば差し替えあっれ、まともな裁判にならなかったとの指摘がある。

⇒タイ国際航空でも解任された社長が翌日復権(08年6月28日

タイ国際航空の取締役会は6月25日(水)にアピナン(Apinan Sumanaseni)社長を経営責任者から外し、ノラハット(Norahat Phloiyai)副社長を「実権ある社長」に昇格させる人事を決定した。

奇妙なことに2人とも「共同社長(co-president)」という肩書きでアピナン「社長」の方は実権の無い「社長」とし、ノラパット「社長」のほうは実権のある社長(Chief Executive)にするというものであった。

これはノラパットはタクシン派であったためであり、サンティ(Santi Prompat)運輸相が取締役会に強く働きかけた結果だと見られていた。

これに対し、タイ国際航空の労組は強く反発し、この人事の撤回を求めていた。労組の反対理由はノラハットはタクシンとの結びつきが強すぎるというものである。

サンティの言い分はアピナンは「経営がへたくそ」で会社の経営状態が悪いというのが表向きの事情であったが、本当の理由は別のところにあった(航空機の買い付けでアピナンがサンティの要求を拒否した?)といわれている。

ところが6月27日(金)になって突如として取締役会がアピラク氏の復権を決定した。

その背景には、サマク政権への国会(下院)での不信任動議で現政権はタクシンの傀儡政権であるという民主党の主張を裏付ける証拠とし、最近目立つ「タクシン人脈」の復権もしくは昇格をトーン・ダウンさせる狙いがあったものと考えられる。

もし、今回のノラハット人事が強行されれば、労組のストを始め、新しい航空機の購入にも「あらぬ疑い」がかけられ、世論の反発を受けることになりかねないからである。

それにしてもタクシンのやり方は「露骨」である。次は、先の国会で「不信任動議」の俎上に挙げられた閣僚の何人かを更迭し、タノン・ビダヤ(横浜国立大学特任教授?)といったタクシン系の「大物」を入閣させるという下馬評がある。(www.nationmultimedia.com/ 08年6月28日)


177.西松建設、サマク知事時代(2003年)にバンコク当局に4億円のワイロ(08年7月7日)


西松建設が2003年にバンコク北部の洪水対策地下道建設を受注するためにバンコク市の役人にたいし4億円以上のワイロを提供したことを東京地検に明らかにしたという。

このときはサマク首相がバンコク知事を勤めていた時代である。

この工事は20億バーツ以上の大型工事であり、西松建設とタイのパ^トナーが2003年9月に共同で受注した。

西松建設は8.9キロ・メートルの地下道のほか、地下鉄駅の9箇所を受注している。

この汚職事件が明るみに出たきっかけは1億円ほどの金額が外国から不正に送金され、外為法違反の捜査が進んでいるうちに明らかになったものという。

サマク首相はバンコク知事時代にも消防車のオーストリアからの輸入事件で収賄が疑われている。

(ネーション、バンコク・ポスト08年7月7日付け参照)

なお、下院の汚職調査委員会のチャンチャイ副委員長(民主党)はこの問題を7月10日に委員会で取り上げることとしたと語った。

チャンチャイ副委員長は日本の国会に対し、この事件についての情報提供を求めるとともに、サマク首相(当時バンコク知事)や副知事であったナタノン女史や日本の国際協力銀行の在タイ代表からも事情聴取をおこなうという。

現知事のアピラク氏も日本側から情報の提供を求めるとともに、この問題を国家汚職防止取締り委員会に提議する可能性を示唆している。


178.ノパドン外相辞意表明(08年7月10日)


カンボジアが世界遺産に登録し、7月7日UNESCOが承認したプレア・ビヘア(カンボジア語=Preah Vihear, タイ語ではカオプラウィハーン)寺院遺跡について、ノパドン外相は「閣議決定」に基づきカンボジアの世界遺産登録を支持する共同声明にサインした。

このことがカオプラウィハーンはタイのものであると主張するタイ人の「国民感情」をいたく刺激し、ノパドン外相は批判の矢面に立たされていた。

これについて上院議員77人と下院議員(民主党)151人が「憲法190条2項違反」であるとして憲法裁判所に提訴していた。

これを受けて憲法裁判所はノパドン外相の「署名行為」は「タイの主権にかかわる決定であり、議会の承認を得なければならない」という判決を7月8日に下した。

この国境紛争は1962年国際司法裁判所がプレア・ビヘア遺跡は「カンボジア領内」にあるという判断を下された結果を踏まえたもので、「タイの領土はいささかも失われていない」とサマク首相やノパドン外相は主張していた。

しかし、この遺跡は「タイ領土を通らないとアクセスできない」という地理的条件かにあり、しかもタイの一般国民は「カオプラウィハーンはタイのもの」だと信じている厄介な案件であった。

この「共同声明」にサマク政権があっさり署名してしまったのは実はカンボジアのフンセン首相とタクシン元首相が最近一緒にゴルフをやった際にカンボジアでの利権(内容は不明)と引き換えに「認める」という「密約」があったからだという疑惑が持たれていた。

ノパドン外相は憲法裁判所が「手続き違反」の判決を下した以上何らかの責任を取らざるをえず、今回の辞任表明となったものであろう。正式辞任は7月14日である。

ノパドン外相はもともとタクシンの弁護士であることから「外相」に抜擢されたもので、カンボジアとの折衝もタクシンの気に入るようなことをやったのではないかと「痛くない(?)腹」をさぐられた面はある。

これとは別件だがチャイヤー国民保健相は資産報告の際に夫人が5%以上所有する会社の株式を報告しなかったとして憲法裁判所から「失格宣告」を受け、辞任することとなった。

また、与党のプア・パディン党のワタナ(Watana Asavahame)元党首、現最高顧問(パクナムのゴッド・ファーザーの異名を持つ)はクロン・ダン廃水処理場建設をめぐる汚職疑惑で裁判所へ出頭しなかったため最高裁判所は「逮捕状」を出し行方を追っている。ワタナ党首は本気で「雲隠れ」しているとみられている。(08年8月17日に欠席裁判で10年の禁固刑判決

これまた与党連合にとっては思わぬ痛手である。

⇒テト・ブナグ元駐米大使が外相に就任(08年7月27日)


ノバドン氏が外相を辞任してから空席になっていた外相のポストにキャリア外交官であるテト・ブナグ(Tej Bunnag)氏か就任した。

テト氏(64歳)はオックスフォード大学で博士号を取得した後、外務省に入り駐米大使などを歴任した後に枢密院顧問やタイ・カンボジア協会の会長などをつとめいる。

外交官時代の評価は高く、アナン元首相も「テト氏はタイのイメージを高めるであろうと」賛意を表している。確かにタクシンのお抱え弁護士であったノパドン前外相とは比べものにならないであろう。

テト新外相は急遽タイーカンボジア国境紛争(プレア・ビヘア遺跡問題)のタイ側代表としての初仕事が待っている。

タクシンもPPP政権を自分のマフィアまがいの手下などで固めないでこういう人材を起用していれば少しは評判も改善されたと思うが、「勝ったら独り占め」というような米国式(あるいはガラの良くない華僑的)価値観から抜けきれないからこういうことになるのである。こういう価値観は明らかに「タイ的(もしくは東洋的)」ではない。


179.ウドンタニで民主連合関係者が殺害される(08年7月25日)


7月24日(木)タイ東北部ウドンタニ県で反政府キャンペーンを行っていたPAD(民主主義のための人民連合)のメンバーに対し、約1,000人のタクシン支持派とみられる群集が鉄パイプや棍棒で襲い掛かり、無防備のPADの運動員1名が殺害され、約20名が負傷した。

PADの集会を妨害しようという呼びかけはタクシン派が支配する地方のラジオ局が呼びかけ、それに応えて付近の群衆(多くは農民)が棍棒などで武装して集まったという。

警備に当たっていた警察はタクシン派の暴徒の乱暴狼藉を静止しようともせず傍観し、後に現場を立ち去った様子がテレビで放映されたという。

現在、PADはバンコクだけでなく、地方にも運動を広げており、タクシン派の勢力が強い東北部などでは今回のような衝突の可能性が予想されていた。

多くの農民は村の有力者や地方政治プロの扇動や命令で間単に動員されるといわれ、今回の事件も背後にマフィア系政治家がいたことが指摘されている。警察も地域によっては彼らとグルになっているといわれる。

(ネーション他、08年7月25日インターネット版参照)

⇒死者は出ていないが2名が病院の集中管理室で治療

その後の情報では結局死者は出ていなかった。ただし、2名がかなりの重傷を負い病院の集中治療室に収容されているという。

警察が反PADの暴行を黙認した形となった。この件について陸軍司令官アヌポン大将は「暴力行為は許されるべきではない」という談話を発表し、これは軍の管轄の事件ではないが関係者はきちんとした対応をすべきだという趣旨の発言をした。

これにすっかりおびえたチャレム内相は「事態を憂慮している」などと急遽発言しているが、チャレム自身が反PADのリーダーに激励の電話をしていた疑惑が報じられている。

内閣府も各県知事に「暴力沙汰が起こらないように配慮すべし」という訓令をあわてて出したという。しかし、今回の暴力事件はマフィア政治家が背後にいたことは間違いないであろう。

一方、反PADのリーダーのクワンチャイ・プライパナーという人物は各テレビ局などに「ウドンタニの名誉のためにPADを懲らしめた」と得意げに語っていたという。

民主党のステープ幹事長は今回の地方におけるPADの集会を妨害するために反PAD派に3,000万バーツ(約1億円)以上の資金が渡されたと語っている。資金の出所は聞くだけ野暮というものである。

⇒ウドンタニの暴力事件はPPP関係者が指揮(08年7月29日)

ウドンタニ警察はPADの集会に殴り込みをかけ多数の負傷者を出した事件の首謀者として、クワンチャイ・サラカム(Kwanchai Sarakham別名Kwanchai Phraipana)とウタイ・セーンケウ(Uthai Saenkaew)の2名を特定し初期的な捜査に入ったと発表した。

ウタイはPPP党員で副農業相をやっているテラチャイ(Theerachai Saenkaew)の実弟である。

警察が重い腰を上げて捜査に乗り出したのは世論の反発と軍からの圧力があったためと見られる。

なお、クワンチャイの方は暴力事件を起こした「論功行賞(?)」により首相府秘書官付きの官職を与えられている。いったいPPP政権とはいかなる政治倫理を持った政党なのだろうか?

タクシン時代からの非民主的な暴力政権敵な伝統をより露骨な形で引き継いでいる。こういう政権を支持する学者がタイにも日本にもいるのはどういうことであろうか?

180.プア・パディン党スウィット党首、連立政権から離脱の方針(08年7月30日)

サマク政権を構成する小政党のプア・パンディン(Puea Pandin=24議席)のスウィット党首は現政権の副首相兼工業相に就任している。

そのスウィット党首が7月29日夕刻、突如連立政権から離脱するという方針を発表した。

離脱の理由としてサマク政権は本来政権がなすべき国内経済問題などをなおざりにして「憲法改正問題(タクシン救済策)」に集中しすぎていることや最近のカンボジアとのカオプラハーン((プレア・ビヘア)遺跡問題で重大な外交上のミスを冒し、タイの国益を損ないかねな事態に立ち至ったことなどを挙げている。

また、背後には近く予想される内閣改造(7月30日発表予定)で、サマク首相に批判的なプア・パンディン党の閣僚ポスト(工業相、情報通信技術相、副財務相)を減らす可能性があることも指摘されている。

これに対し、PPP党は早くも国会議員の「切り崩し」をおこなっているらしく、プア・パンディン党の副党首のピチェート・タンヂャルゥン氏が連立離脱反対を表明しているという。

スウィット党首は政権離脱について党内のコンセンサスを得ていない模様で、最悪同党の分裂も予想される。

仮に24議席が全て減ってもサマク政権が直ちに影響を受けることはないが、現在単独野党の民主党にとっては野党仲間が増えることは何よりありがたいことはいうまでもない。


⇒プア・パンディン党20議員が連立政権に残る(08年7月31日)

スウィット党首の連立政権からの離脱宣言に賛成した議員は数名にとどまり、24人中20人の議員が連立政権にとどまるべきだとした。これによってスウィット氏は党首の座から追われる形でプア・パンディン党を離党することになるであろう。

プア・パンディン党はもともとTRT党員によって結成された党で、以下のようにいくつもの派閥(個人名はリーダー)に分かれていた.

@ピヤ・ナガ(Phya Naga)派;ピニット・ジャルソンバット(Pinij Jarusombat=元TRT執行委員で被選挙権剥奪)。

Aコラート(Korat)派;パイロット・スワンチャウィー(Pairoj Suwanchawee=元TRT執行委員で被選挙権剥奪)。

Bバン・リム・ナム(Ban Rim Nam)派;スチャート・タンチャルン(Suchart Tancharoen=元TRT執行委員で被選挙権剥奪 ).

Cスアン・ルアン(Suan Luang)派;ワタナ・アサバハメ(Vatana Asavahame)。スラキアート(Surakiart Sathirathai) とソムキット(Somkid Jatusripitak)という元TRT党の大物(比較的良識派といわれた)も設立に参加したが両名ともプア・パディン党がPPPと連立を組むことになって離党した。

スウィット党首はコラートの選挙区から立候補して落選したが、@のピヤ・ナガ派に所属していたと見られている。副首相兼工業相というポストについたが、タクシンの一の子分のネーウィンと露骨に対立していたため、閣僚のポストを外されることは確実と見られていたという。

ピヤ・ナガ派はネーウィンの傘下に入ったと観測され、他の派閥もピヤ・ナガ派に従った形になった。これによてPPP政権内のネーウィンの立場がより強化されることになるであろう。

また、南タイ出身のプア・パンディン党下院議員であるウェーマーハーディー・ウォーダーオ(医師でジェマー・イスラミア・メンバー容疑でタクシン政権時代に捕らえられ警察で拷問を受けたとされ、ソムチャイ弁護士は拷問を告発したことが原因になって警察に拉致され抹殺された=ソムチャイ事件)氏とマーノップ・パントンウォン(比例区議員)の2議員はサマク政権の南タイ政策に反対であるとして、野党の立場で行動するとしている。

また、同党から情報通信技術相になっているマン・パタノータイ氏は連立にとどまることで同党議員の大勢を固めた「功績」により副首相に昇格することが確実視されている。

結局、今の連合政権はタクシンのカネの力とポストによって維持されているのであり、政策は2の次という感じである。それでも多数派なら政権が維持できる。それが「理想的な民主主義」の形と考える人も少なくないだろうが、そういう政権の打倒を目指す人々の存在が許されるのも民主主義であろう。最近、タイの大学の教官(特にチュラロンコーン大学が多い)で人民民主連合(PAD)を批判する人が増えてきているのはなぜだろうか?彼等は結局多数が選んだのだから「タクシン」が良いという認識なのであろうか?

タイの現在の政治は第2次大戦前にドイツが経験したヒットラーの台頭期と類似したような状況を呈している。今のタイは軍部がバンコクの民主派の擁護者として現れるという「皮肉な現象」となっているが、それは1976年のタマサート事件以降右翼のタニン政権を潰して登場したプレム首相(間にクリアンサク政権をはさんで)という新しいタイプの軍人のイデオロギーの影響を強く受けていることは確かである。そういう意味ではスチンダなどというのはむしろ軍人ととしては「異端(サリット的な古いタイプ)」であった。

その辺の区別を一切せずに「軍事クーデター」だからケシカランという議論はことの本質を見誤るであろう。

(お詫び)前の記事でウェーマーハーディー・ウォーダーオ議員の党籍をPPPと勘違いしていました。


181.ポジャマン・タクシン夫人に脱税の罪で3年の禁固刑(08年7月31日)


ポジャマン・タクシン夫人がシン・コーポレーションの前身である「チナワット・コンピュータ・アンド・コミュニケーション社」の株式を義理の兄(Adopted Brother)のバンナポット・ダマポン(Bnnaphot Damapong)氏にj譲渡した際(1997年11月)に生じた5億4,600万バーツの税金を脱税した罪に問われていたがタイの刑事裁判所は有罪を認め、ポジャマン・タクシン夫人とダマポン氏に対して禁錮3年の実刑、一連の取引を取りしきったとされる秘書のペナパ・ホンゲーン(Pennapa Honghern)女史に対しては2年の禁固刑の判決が言い渡された。

3年の内訳は2年間が脱税の陰謀にたいするものであり、残りの1年は虚偽の証言(書類提出を含む)に対するものであるとされている。

3被告人とも控訴する意向で1人あたり500万バーツの保釈金で保釈された。

タクシン一家が絡む数多くの裁判で、本件が最初の判決であったが、やはり司法の判断は厳しいものがあった。

タクシン一家の方針は「ともかく税金を極力払わない」ということで一貫しており、タクシン失脚のきっかけとなったシン・コーポレーション株の売価事件でも、巨額の課税を回避するために国税庁の人事まで動かし、周到に対策を練った跡が窺われる。

もし、ポジャマン夫人の実刑が確定すればおそらく「海外に亡命する」可能性が高いであろう。タクシンの場合も同様である。この2人がゴクに繋がれるという図はとうてい想像できない。


182.タイの内閣改造コーウィット元警察庁長官が内相に(08年8月3日)

サマク首相は内閣改造を行い評判の悪かったチャルム内相を更迭し、タクシン時代の悪名高い警察長官のコーウィットを後任に据えた。

また、プア・パンディン党のスウィット党首を副首相兼工業相から更迭し、3人の閣僚をプア・パンディン党から迎え入れた。

1.退任した閣僚
@スウィット副首相兼工業相;プア・パンディン党党首、サマク首相と対立。
Aラノーラク副財務省;プア・パンディン党、スウィット党首と行動を共にする。女性議員。
Bシテチャイ副内務相;プア・パンディン党、スウィット党首と同一行動。
Cチャルム内務相;PPP党、言動が過激で評判が悪かった。下院副議長に就任との噂あり。
Dウィルーン副商務相;資産の申告漏れで調査対象になった。

2.新任の閣僚
@コーウィット・ワタナー副首相兼内務相;元警察庁長官でタクシンの信任が厚い。
Aマン・パタノタイ副首相兼情報通信技術相;プア・パンディン党、副首相に昇格。
Bスチャート・ターダタムロンウェート副財務相
Cピチャイ・ニラパッタパン副財務相;プア・パンディン党
Dアヌソン・ウォンフォン社会開発・人間の安全保障相;文化相からの横滑り
Eチャイヤー・サソムサップ商務相;前公共保健相で婦人の資産申告漏れによって失職したが復活。
Fピチェート・タンジャルン副商務相;プア・パンディン党
Gプラソン・コーシタノン副内務相;プア・パンディン党
Hソムサク・ギタットスラノン文化相;前下院第1副議長でネーウィン派
Iチャワラット・チャンウィーラクン公共保健相;社会開発・人間の安全保障相からの横滑り
Jミンクワン・セーンスワン工業相;副首相兼商務相からの降格横滑り。

なおPPPのタイ東北部の議員の会派イサーン・パッタナー(東北タイ開発)・グループはサマック側近がある閣僚からポストの代償として1,000万バーツ(≒3,200万円)を受け取ったと主張している。


183.タイーカンボジア国境紛争、タ・モーン・トム寺院に飛び火(08年8月3日)

タイとカンボジアは既にプレア・ビヒア(Preah Vihear)寺院の領有権を巡って紛争中であり、両国の間で外交折衝がおこなわれているが、今度は同寺院から数百キロ西方のタイのスリン県に近いタ・モーン・トム(Ta Moan Tom)寺院をタイ国軍兵士70名が占拠し、半径80メートル以内にカンボジア軍の立ち入りを阻止する行動に出ているという。

タイ国軍はそれを否定しているが、カンボジア政府は事態を深刻に受け止めており、外国のメディア(AP,BBCなど)にアピールしているという。

タイ国軍の言い分によればプレア・ビヒア(Preah Vihear)寺院問題が解決すれば撤兵すると言っているという。

カンボジア政府はタ・モーン寺院はカンボジアのオダール・ミーンチェイ(Oddar Meanchey)県内にあると主張している。

一方、タイ政府は1935年からこの寺院の敷地はタイ領と認識しているという。またタイの「考古局」はこの寺院を含め国境の数箇所の寺院遺跡(多くは13世紀以降のもの)をユネスコの世界遺産に登録するといっている。

もともとこの辺の国境線はフランスが植民地統治時代にかなりイイカゲンに設定した経緯があり、国境線が曖昧にされている部分が多いことも確かである。



184 タイ最高裁、ネーウィンが関わるゴム苗木不正事件の審理開始(08年8月7日)

現在のサマク政権内でタクシンの意向を受けて強い発言権を持つといわれるネーウィン・チョットチーブ(Newin Chidchob)元農業・協同組合副大臣やソムキット元財務相らがからむ「ゴム苗木」不正疑惑について最高裁掲示法廷(政治家担当部)は9月13日に第1回公判を開くことを決定した。

この事件はタクシン政権時代に「ゴムの苗木」9,000万本、総額14億4000万バーツを政府が発注し、ゴム栽培農家に配った件で苗木買い入れに不正があったというものである。

本件はAEC(資産調査特別委員会)がタクシン時代の政権の不正行為の1つとして調査を終え、その後NCCC(国民汚職取締り委員会)が提訴していたものである。

今回注目されるのはタクシンの右腕と呼ばれ、サマク政権の人事にも強い影響力を持っているネーウィンが被告席に立つことにある。

ネーウィンはタイ東北部(スリン県を中心とした)の選挙戦を取り仕切っていた人物であり、その手法は「マフィア的」であるとしてタイでは知られていた。

タイではタクシン首相とその政権時代の数々の不正疑惑が次々と裁判にかけられ、国民の目の前に不正の実態がさらけ出されることになった。

これまで「タクシンの疑惑は何一つ立証されていないからタクシンは無罪だ」と主張してきたタイや日本の一部のインテリ・学者にとっても都合の悪い真実が急速に明らかにされつつある。

また、タクシンはイギリスのサッカー・プレミア・リーグのマンチェスター・シティのオーナーとして知られているが同チームの売却を考えているという報道が出ている。


185.与党PPP内部にキレツ表面化(08年8月9日)


タイ東北部の議員が「イサーン・パッタナー(東北開発)」グループとして結集しているが、彼等はサマック政権に対する批判を強めており、特に今回(#182参照)の内閣改造人事についてはネーウィンに対する批判を強めている。

ネーウィンは現在「被選挙権を剥奪中」の身であり、表面に出て政治活動はできないが、ネーウィン派の国会議員は70〜80人いるといわれている。どうしてこのような実力が維持できるかといえば最大の理由はカネの力である。それはネーウィンのポケット・マネーではなく、タクシンの右腕ということでカネが集まってきたと解すべきであろう。(タクシン自身がカネを出したと見る向きもある)。

ネーウィンがサマク政権の中で、実力を持っており、サマク党首、ネーウィン、スラポン副首相兼財務相、テラポン(Teerapol Nopparampa)官房長官の4人に対して「4人組(中国文化大革命時の呼び方)」というニック・ネームをイサーン・パッタナー・グループはつけたという。PPPを牛耳る4人の実力者という意味であろう。

PPPそのものは何時解散命令を受けてもおかしくない状態(ヨンユット元副党首の選挙違反事件)にあり、サマク首相は新党を作りいつでもそこに「逃げ込める」ようにしておけと指示を出しているといわれている。

これに呼応してかネーウィンとスラポン(副首相兼財務相)が組んで新党結成に動いているという情報が流れている。

この「新党」にはPPPの議員が全員そろって参加するとはいえないところに問題がある。あるものは民主党に鞍替えするという情報が出てきている。

ネーウィン派がこともあろうに天敵の「民主党」に移るという話が出て、民主党はあわててそれを否定するという一幕もあった。

また、ロイエ県選出のPPP党議員のサクダ(Sakda Khongphet)氏はPPP幹部が画策している利権汚職疑惑が進行していることをすっぱ抜きNCCC(国民汚職撲滅委員会)は調査を開始すべきだと主張している。
その汚職のタネとはバンコク大量輸送庁(Bangkok Mass Transit Authority)が進めようとしているガス利用のエアコン・バス6,000台の新規購入計画であるという。

またサクダ議員は仲間4人と新党を作り民主党と共同歩調をとるといっている(8月8日、バンコク・ポスト)。
新党を作るにしても解散総選挙のやり直しにしても先立つものがないとPPPとしてはどうにもならない。昨今の動きをみるとタクシンが大金を投入することはありえないのではないかとみられる。

タクシンはPPPに政権をとらせてみたところ、あまりタイシタ「政治的メリット」を見出せなかった。タクシン自身は「憲法改正」という手段では自らを救うことができず、むしろこれから次々開かれる裁判に集中せざるを得ないことは明らかである。

また、タクシンの義弟のソムチャイ副首相兼教育相はサマク首相らとシックリいかず孤立気味であるといわれている。

「カネの切れ目が縁の切れ目」はタイ政治では当たり前である。選挙をやればまた「タクシン党」が勝つというのもかなりマユツバになってきたようである。

なお、イサーン・パタナ・グループのリーダーはプリーチャ(Preecha Rengsomboonsuk)下院議員で同グループの資金担当であるという。プリーチャは特にネーウィンとの関係が険悪で、今回プリーチャが入閣できなかったのはネーウィンのセイだとしている。


186.タクシン夫妻、予定の飛行機で北京から帰国せず、亡命か?(08年8月10日)

タクシン夫妻は北京オリンピックの開会式に参列するため北京を訪れており、8月11日(月)の公判に出廷するため本日(8月10日)TG615便(北京発5時35分、バンコク着9時45分予定)に搭乗すると明言していたが、本日はこの飛行機に乗っていないことが判明した。

タイでは前からタクシン夫妻の亡命が取りざたされており、同夫妻が中国に出発する際、短期滞在では考えられないような9個ものトランクを積み込んでいた。

また、空港に見送りに来ていた3人のタクシンの子供が夫妻との別れを惜しんで「号泣していた」姿が目撃されていた。

おそらくポジャマン夫人が下級審とはいえ3年の実刑判決を受け、さらに夫妻にはより罪状が重い裁判が目白押しに待っており、長期の実刑は免れないとみて外国への亡命を決めた可能性が高い。

そうなると、タクシンはタイの政治に資金提供はせず、現在のサマク政権は「砂上の楼閣」になりかねず、議会を解散して次の選挙をおこなうこと自体が困難になってきた。そうなるとタイはしばらくは「政治的空白」期間が生じることになりかねない。

しかし、しょせんはモノゴトは「落ち着くべきとこ落ちつく」であろう。

⇒タクシン一家イギリスに亡命、子供達は先にロンドンに(08年8月11日)

タクシン夫妻は8月10日(火)にバンコクには戻らず、やはりロンドンに行っていた。タクシンは声明の中で「タイの裁判は公正ではない」としている。

どういう裁判が公正なのかはもちろん明らかではないが、タクシンが買収できる裁判官が多数を占める裁判所が公正な裁判を行いうるというのであろうか?

最高裁の事務局に「撒き餌さ」として菓子折りに200万バーツを詰めてタクシンの主任弁護士が最近持ち込んだという事実は同解釈すべきなのだろうか?

また、タクシンは政権時代と失脚後も己の批判者にたいする「名誉毀損」訴訟を次々に起こし、批判封じに躍起になってきた(例、スピンヤ事件)。そのタクシンが頼りにしてきた「タイの司法制度がインチキ」であったとでもいうのであろうか?

当時、司法省のトップ・クラスの役人としてタクシンのために辣腕を振るっていた取りざたされているタクシンの義弟のソムチャイ現副首相兼教育相のコメントを聞きたいものである。

タクシンは800万バーツ、ポジャマン夫人は500万バーツ計1,300万バーツ(≒4,250万円)の保釈金は募集され、最高裁は2人に対し「逮捕状」を出したことはいうまでもない。

イギリスに亡命したのはイギリスは「民主的」でタクシンの人権を守ってくれるためらしい。日本が選ばれなかったのは残念至極である。

空港でタクシン夫妻と涙の別れをしたタクシンの子供達(いずれも成人)は涙が乾くまもなくロンドンに飛び立ったことが確認されていた。

8月11日(月)以降に予定されているタクシンがらみの裁判は当然「欠席裁判」になる。その間時間を稼いで憲法改正により「司法制度改革」(タクシンの都合の良いように)をおこなうべくPPP党を動かすかも知れないがすでに「憲法改正」などということは国民の支持を得られない段階にきてしまった。

タクシンは現在タイ国内で約20億ドルの資金をさしおさえられており、BBCの推計によればタクシンの持ち金は約4億ドルとのことである。これをはたいて政治的影響力をタイ国内で維持することは考えられないであろう。PPP党は資金源が枯渇する事態になるであろう。

タクシンの不当な扱いに抗議して、タイ東北部の農民やバンコクのスラムの住民が「決起」しバンコクの民主派や中間層と対立が激化するかもしれないなどという「希望的あるいは無責任な観測」が日本の一流紙に出ているが、そんなことは起こりえない。

タクシン人気というものは多分に一部の政治家によって「作られた」ものであり、時間の経過とともに消滅していくであろう。日本の一部のタクシンびいきの学者やジャーナリストはタクシン政治の本質をもっと研究する必要がある。

⇒タイ株式はタクシンの亡命によって高騰?(08年8月11日)

バンコクの株式市場はタクシン亡命の報によって高騰したといわれている。既に8月7日(木)からタクシン亡命の噂は流れており、6日=676.35、7日=705.35、8日=690.70、11日=702.93(一時712.61)とかなり活況を呈してきた。

これは原油価格の値下がりを好感しての上昇という要因もあるが、タクシンがタイからいなくなったことによって政治的混乱の元凶が遠ざかり、将来はかえって政治の安定が期待できるという見方が強まったためだという解説がおこなわれている。多分それは正解であろう。

PPPの解党命令がいつでるかはわからないが、そのときまた選挙がおこなわれるとすればタクシンは前回のときのように多額(?)の選挙資金を投入することは最早できないであろう。既にタクシンの残り金が400億円程度とすれば、100億円をこえるようなムダガネは使う気にならないであろう。

買収資金がなくなればPPP党が第1党になるにせよ、議席を大幅に減らす可能性がある。民主党はかなり躍進するであろう。カネが使われない選挙こそタイにとっては「民主主義の前進」であろう。


187.メコン河が100年来の大増水、中国のダムの影響を懸念(8年8月16日)

メコン河が100年来の大増水になり、沿岸部のタイの北部および東北部は各地で洪水の被害にあっている。洪水被害はラオスのルアン・プラバン、ビエンチャンにも及んでいる。

原因はタイ北部、東北部の雨量が今年は異常に多いためだとされているが、環境団体(日本の某閣僚の筆法によれば「環境にヤカマシイ人々」)は中国雲南省に建設された大型ダムがダムの崩壊を恐れて放流しているためではないかとしている。

これに対し、サマク首相は「洪水は大量の雨によるものであり、中国のダムの影響ではないと信じる」としており、MRC(メコン河委員会)も大量の降雨(8月8〜10日の暴風雨)によるものであり、中国のダムの放流によるものではないと発表している。

しかし、地元民や環境保護団体では中国のダムの放流による影響もあるのではないかという疑念を捨てていない。

特に環境団体TERRA(Towards Ecological Recovery and Regional Alliance)のモントリー・チャンタウォン幹事は「中国はダム建設によって下流域の洪水を緩和できるといっていたが、そんなことはできないということが立証された」としている。

確かにその通りで、小規模の雨量であれば、ダムは洪水を緩和できるが、大量の水が流れ込めばダムの崩壊を懸念して放水せざるを得なくなり、かえって下流域の洪水を激化するというのは大いにありうることである。

ただし、目下のところ中国はダムの放水について何の情報も下流域の諸国(タイ、ラオス、カンボジア、ベトナム)には流していないという。サマク首相もMRCも中国の状況を確認しないまま「ダムは無罪である」と外交的配慮をした発言をしたものと見られる。

ちなみに、昨年の乾季にはメコン河は極度の水不足で船の水路にも事欠く有様であった。




Bangkok Post 08年8月18日より


188.バンコク騒然、PADが空前のデモ展開、政府機関占拠(08年8月28日)


サマク政権打倒を掲げるPAD(民主主義人民連合)は予告通り8月26日(火)に一大デモを行い、政府系テレビ局NBTを占拠し、ついで14時過ぎに首相官邸を占拠した。

サマク首相は国軍本部に立てこもり閣議を開くなどして対策を協議している。

数十万人という大デモ隊を警察も制御できず、下手に動けば軍が再度クーデターを虚構しかねないため、目下のところサマク首相が「ならず者は断固許さない」といったことを表明するにとどまっている。

PADのデモ隊はアナーキーな暴動といった性格のものではなく、一般市民との争いもなく、規模の割には比較的整然とした行動をとっている。ただ、首相官邸の占拠については「悪徳政府により占拠されている国民の施設を取り戻す」という主張を行い建物を占拠し、周辺で座り込みをおこなっている。

PADは9箇所の政府機関の占拠を目指しているといわれ、それがほぼ「成功」したとしてソンティ氏やチャムロン少将などは「勝利宣言」をしたと伝えられる。

PADのデモの背後には軍が控えているという見方がされており、警察も強権発動(暴力的排除)を控えているため双方に負傷者が出ているという報道は目下のところない。

政権側も大衆行動を組織するという動きがあるようだが、人数の動員力はさほど無いとみられており、目下のところは掛け声だけに終わっている。

与党PPPの支持者は北部・東北部とバンコク周辺のスラム地区などに多く集まっているが、農民は目下農繁期であり、日当を貰ってもバンコクまで出向くという人は少ない。バンコク周辺の支持者もPADと直接対決するほどの力はなさそうである。両者が対決し、「流血の惨事」を引き起こせば「秩序維持のために」軍が出動することは明白である。

主要政府機関を3日間は占拠し続けるとPADは主張しているが、これからいかにしてデモ隊をスムーズに解散させせるかPADの指導者の手腕が問われる。

サマク政権は早めの国会解散を行い、「ご破算で願いましては」という形でやり直しをするほかない。もはやこのままズルズルと政権にしがみつくことは不可能になってきた。

それは日本の福田政権も同じである。ただし、「不乱の民」日本人には大デモをおこなうような元気はない。


189.サマク首相辞めず、国会も解散せず(08年9月1日)

サマク首相は週末に国王に拝謁してその後辞任するか国会を解散するかという推測記事が日本の新聞にも書きたてられた。しかし、サマクはその両方ともやらずに居座りを決め込んでいる。

そうなると、今度はデモを仕掛けたPAD(民主人民連合)が敗北したと見て、メディアが攻撃に出た。その急先鋒が実質的にタクシン支持で一貫していたバンコク・ポストである。バンコク・ポストはタクシン派の学者のティティアン先生の論評は掲げ、ついで副編集長ウィーラ・プラテープチャイクンなどの論評(社説ではない)である。

彼らの論調はWSJにも取り上げられている。要するにタクシン派は選挙で勝ったのだから正しい。それに反対するPADのデモは「少数者の横暴」だというのである。

また、PADは右翼(Right Wing)・保守派であるというのである。(WSJ)

それならばタクシン派は進歩的・民主主義勢力かというとそれに対する積極的評価はいくらなんでも付けられない。それは当たり前の話である。ポピュリスト政策として「国家予算」を貧民階級にバラ撒き選挙で多数を占めれば、彼らの言うことがすべて正しいと言うことにはならないのは当たり前である。

右翼・保守派というレッテルの根拠はPADは「軍と保守派官僚と国王」という伝統的「支配構造」に支えられているということにある。これはチュラロンコーン大学の教官などに多い見方である。

彼ら進歩派学者の政治思想の背景には1976年のタマサート事件がある。民主派学生が軍の大弾圧を受けて多くの死者をだし、多くの学生がジャングルに逃げ込み、タイ国軍と武力闘争を続けたという歴史である。

しかし、その後プレム政権時代の「融和策」によってジャングル組の活動家は帰順し、タイ社会に「溶け込み」普通の市民生活を送っているものが多い。

今回のPADを支える人々の多くは経済繁栄の結果タイに出現した多くの「新中産階層」と呼ばれる人々である。彼等は1992年の5月事件でスチンダ軍事政権に反対して闘った階層である。かれらは右翼でも保守派でもない。

現在と将来のタイの民主主義を支える「進歩的階層」である。かれらが軍・王室の支持をうけているとすれば「国軍主流派」や国王の考え方が「民主派支持」に変わったのである。

この辺の変化を欧米や日本のメディアの一部は全く読んでいないか理解しようとしていない。

ジャングル組みの旧左翼の一部ははコッケイにもタクシンと組み彼らなりの「福祉政策」の実現に努力している。スラポン副首相兼蔵相やチャトルーン元TRT党首代行もその一人であろう。「30バーツ」医療制度の導入も彼らの理想を反映したものであろう。

それによってタクシンは「国民的人気」を獲得したことは間違いない。しかし、日本社会でも実現していない「30バーツ(100円)診療」がタイの経済で長期に実現可能であろうか?それどころか日本政府は高齢者に対して露骨な「楢山節考(姥捨て山)」政策に踏み切っている。

タクシンは30バーツ診療に象徴されるポピュリスト政策の影で、自分自身とクローニー(お仲間)の懐を肥やすための努力をやりぬいた。それが今次々に裁判沙汰になっている汚職・利権確保疑惑である。

有罪判決を避けられないとみたタクシン一家はロンドンに逃亡し「優雅な生活」を送っている。

一方、国内ではPADは首相府を占拠したり、地方の空港の機能をマヒさせたりしてやりたい放題やっている。私など「日和見主義」に徹して世渡りを続けてきた人間にとっては誠にヒヤヒヤものである。しかし、タイ国鉄やタイ航空の労組などもPADに同調してストに出てきている。勝負はこれからである。

今回サマクは窮地を一応乗り切った形になった。それはサマク自身が「軍と妥協」したからである。その1つが「警察のデモ隊への対応」である。要するに警察はデモ隊への強行策をとらないということにしたのである。非常事態宣言もだされない。しかし、PADの行動に対する批判も強いようだが、それ以上にサマク首相は国民からの支持を失っている。

福田首相は嫌気がさして首相を辞任してしまった。サマク首相もそう長くは続かないであろう。

⇒全国の公社系労組20万人が9月3日よりスト突入の構え(08年9月3日)

「タイの地元新聞を読む(日本語)」によれば鉄道労組などに加え電力などタイ公社系労組約20万人がPADに同調して9月3日から一斉休暇闘争(実質的スト)に入り、政府機関への電機・水道の遮断をおこなうことを明らかにした。

一般家庭などへの影響はさほど無い模様である。

⇒タクシンがマンチェスター・シティの株式を譲渡(08年9月1日

タクシンが所有していたイギリスのウロ・サッカー・チームの「マンチェスター・シティ」の株式をアブダビの資本家にj譲渡する方針であることが判明した。

190.バンコクで両派のデモ激突、死者1名重傷数十名、軍出動(08年9月2日)

タクシン派のDAAD(反独裁民主主義同盟)と反タクシン派のPAD(民主主義人民連合)が首相府近くで2日午前1次頃激突し、死者1名と重傷者10名が出ている。

DAADのデモ隊はタクシー運転手などを中心に動員されたバイクに乗った若者など数千人が集まり、彼等は銃器やナタや棍棒などで武装し、衝突時に銃声が聞こえたと報道されている。

犠牲者は名前が特定されており、55歳の男性でナコン・ラチャシマからDAAD(PADではなく)のデモに参加するためにやってきたばかりだったという。胸部を銃撃され、頭部にも殴打された跡があった。この人は雇われデモ隊員であったといわれている。

他の重傷者(いずれもPAD側)も数人銃創をおっていて、うち4人は危篤状態であると報じられている。

DAADのデモ隊の先頭にはカッティヤ・サワディポン少将という極右の現役軍人が立っていたと報じられている。彼はタクシン派が引き起こす血なまぐさい事件(爆弾事件)に関与しているのではないかという疑惑が持たれている。また、閣僚やPPP議員が複数参加していた。サマク政権は別名「マフィア政権」ともいわれかなり「荒っぽい」性格の政治家が少なくないといわれている。

両派の間には最初は警官隊がいたが、警官隊は何もせず結局軍が出動し、両派の間に割って入ったことで一応衝突は収まった。しかし、今回軍が初めて介入した形になり、軍の再クーデターの可能性が出てきたといえよう。少なくともその口実を与えたことは間違いない。

(非常事態宣言)

サマク首相兼国防相は9月2日朝バンコクに「非常事態宣言」を行い陸軍司令官アヌポン大将が実行司令官に、警察庁長官パチャラワート氏が副司令官に任命されバンコクの秩序回復に当たる。

非常事態宣言下では6人以上の集会が禁止される。タクシン派のDAADグループは既に解散させられているがPADはそのまま残っているという。ただし、軍がPADを暴力的に解散させるかどうかは不明である。
なお軍は銃器を所持していないといわれている。

また、非常事態委員会はPAD系のケーブルテレビASTVと政府系テレビNBT(サマク政権の御用テレビ)に対し何らかの行動をとると宣言している。

PADのリーダーのソンディ氏は今回のデモは2日以内に終わらせると宣言したといわれている。しかし、サマク首相が辞任しない限り交渉には入らないという報道もあり、事態はなお流動的である。軍との話し合いが水面下でおこなわれているものと思われる。

9月3日になっても軍はPADの排除に乗り出していない。警察はPADの座り込みを包囲した形で待機しているという。


191.テト外相辞表提出(08年9月3日)

先に外務省の事務次官のポクサク(Poksak Nilbon)氏がサマク首相の下では仕事をやっていられないとして辞任してしまったが、今度は7月27日に外相に就任したばかりのテト・ブンナグ(Tej Bunnag)氏が辞表を提出した。

辞任の理由は「妻が病気」だからということであるが、これまたサマク首相にアイソが尽きたためと見られている。

ちなみに、福田首相の突然の辞任はタイでは好意的に受け止められている。デモもないのに自発的に辞めるというのは「日本的ですばらしい」のだそうである。

たしかに、命運尽きた感の否めないサマク首相が「将来の展望も開けないまま」政権に居座っているのはあまり格好の良いものではない。

民主的に選ばれた首相だからなどといってチュラ大のティティナン先生やWSJの特派員がサマクを擁護するがごとき論陣を張っているが、カネまみれ選挙で勝った党を擁護して一体何の意味があるのだろうか?

解散して選挙をやり直すしか仕方があるまい。タクシンからのカネが切れた段階でどれくらい勝てるかというのを示せばPPPも少しはバンコクのニューエリート(新中産階級)からも見直されるかもしれない。

PADを王室ー軍ー官僚の旧体制の擁護者だと切って捨てるのはいくらなんでもひどすぎる。彼らのコアの部分は明らかにタイの現代経済社会に出現した「新中間階級」なのである。

かれらは1992年の血の5月事件を闘った階層と同じなのである。「新中間階級」がタイの政治の方向を決めていくのである。かれらはWSJのトンチンカン記者が言うような保守派でもなければ右翼でもない。

わが国の若者は「漫画好きの保守政治家」を次の首相にふさわしいなどといっている。むしろノーテンキで遅れているのは日本の方ではないだろうか?


⇒外相後任にサロート氏(キャリヤ官僚)が就任(08年9月8日)



192.タイの上下院議長と民主党党首の3者協議で首相の辞任と選挙を勧告(08年9月8日)

9月8日におこなわれた上下院議長と野党民主党アピシット党首の3者会談で現状の政治的混乱を打開するにはサマク首相が辞任して「暫定政権」をつくるか国会を解散して改めて民意を問うしかないという結論に達しサマク首相に勧告することにした。

一方首相府を選挙しているPAD(民主主義人民連合)には法律を遵守し、ただちに官邸占拠を止めるように勧告することにした。

政府与党は「国民投票」によって政府の信任を直接国民に問うべきだという方針だが、それには憲法上の疑義があり、選挙管理委員会も法的な理由から反対しているため実現の可能性はない。

また、NIDA(国立行政開発大学院校)が全国の1914人を対象におこなったアンケート調査では「非常事態宣言の発令」には53.8%が賛成している。一方、その効果については74.2%が否定的であった。

アヌポン陸軍司令官が明言している「デモ隊に武力を行使しない」という方針については63.0%の人が支持している。

55.1%の人がサマク首相の辞任か国会(下院)解散をすべきであると答え、33.4%が現状を続けるべきだと答えた。

サマク首相についてはタクシンノ出身地タイ北部(チェンマイを中心とする)では続投を支持する一方、東北部では44.7%が辞職すべきであると回答した。
(タイの地元新聞を読むー08年9月8日晩参照)

国民投票をやるまでもなくすでに国内世論の大勢はサマク首相辞任か下院議院選挙のやり直しかをおこなわない限り現状は打破されないという見方が広まっている。

選挙をやってもまた「タクシン派」が勝つ(北部と東北タイで)にせよ、タクシンの政治資金が減ってくれば結果はおのずと変わってくる可能性が大きい。タイの農村部ではまだ「村の顔役」の意向で選挙結果が左右されるのはかつての日本と同じであるが、「金の切れ目が縁の切れ目」ということはタイでも日本でも同じである。

そもそも与党PPPの「政治的課題=政党としてやりたいこと」は何だったのか?政権ができて一番大騒ぎをしたのが「タクシン救済のための憲法改正」ではなかったか?こういうことは普段政治に無頓着な階層にもイヤでも見えてくる。


193.タイ憲法裁判所がサマク首相のテレビ出演で失格判決(08年9月9日)

タイ憲法裁判所はサマク首相が今年2月に首相就任後テレビの料理番組に数回出演して報酬を得ていたことに対し、首相が民間企業に雇用されることは憲法に違反するという判断を示し「失格」の判決を下した。

サマク首相としてはその番組は首相就任以前7年間も自分が中心になってやってきた「人気番組」だったので首相に就任してからも気軽に出演したものであろう。

サマク首相と同時に首相によって任命された全閣僚も地位を失う事となった。

現在の内閣は次期政権が成立するまでは「暫定的に」政権を継続する。なぜか現在は筆頭副首相のソムチャイが首相代行をやっているという報道がある。

与党のPPP党は次期の首相候補にサマク氏を推薦すると息巻いているようである。国会の承認を得ればそれは法的には可能であるという。

しかし、もしそういうことになれば「憲法裁判所」の判決は実質的に無視されるということになり、国民の強い反発を招くことは自明である。

それはさらに政治的混乱に拍車をかけるものになりかねず、最終的には別人を首相にせざるをえないであろう。

PPP党内ではソンポン司法相(強硬なタクシン派、チェンマイ出身)、スラポン副首相兼財務相(元協賛ゲリラ、医師)、ソムチャイ副首相兼教育相(タクシンの妹の夫、元司法省事務次官)などの名前が後継候補としてあがっているという。

タクシンとしてはソムチャイを後継者にしたいところであろうが、それではあまりに露骨すぎるということで別の人物が選ばれることになるであろう。PADはソムチャイを容認することはありえない。

与党連合からはチャート・タイ党のバンハーン党首(元首相)が次期首相候補に挙がっているという。


194.PPP党サマクを首相を再任決議、連立与党も合意?(08年9月11日)


9月9日(火)に憲法裁判所の判決で失職したばかりのサマク氏を次の下院議会で再度首相に推すことを与党のPPP(人民の力党)が90%の賛成多数で決めた。

他の5党の連立与党もPPPが決めた候補で同意するという決定を下したという。

サマク氏は推薦を受ければ喜んで受託し「民主主義のために闘う」と意気軒昂である。

これには私のような部外者だけでなく、タイ人の多くもその厚顔無恥ぶりに唖然とし、怒り心頭に発したことであろう。

PPPの内部では23人の東北出身の議員グループ(反ネーウィン派のイサーン・パタナー会派)はサマク氏には投票しないと「造反」宣言をしたという。造反派の数は70名に達しているという報道もある(ネーション、バンコク・ポスト)。

だらしがないのが中小連立5党の幹部である。「寄らば大樹の陰」を決め込んで、タナからボタモチが落ちてくるのを心待ちにしている風情である。しかし、これもまた「民主主義」である。

サマク首相失職後におこなわれたアサンプション大学の世論調査(ABACポール)では政治混乱を解決するには総選挙をおこなうべきであると回答した人が68.1%(それまでは57.4%)と急増しているという。

また、誰がPPP党内で次期首相にふさわしいかという設問にたいしてはスラポン副党首兼財務相の名前を挙げた人が53.8%、ソンポン副党首が24.3%、ソムチャイ副党首(タクシンの義弟)が12.4%だったという。タイの有権者も見るべきところは見ているという感じである。

なお、憲法裁判所の判決については70.3%が支持していると回答したという。

もし、タイの下院が本当にサマクを首相に再任すればタイの政治的混乱はいっそう収拾のつかない状態になることは明らかである。


195.首相指名議会が9月12日は不成立、9月17日に再度召集(08年9月12日)

9月12日(金)に首相指名のための緊急議会が開催される予定であったが、161人しか集まらず最低限236人の出席が得らなかったため、下院議長判断で9月17日に再度緊急議会を召集することになった。

出席者は民主党以外の与党議員はほとんどおらず、与党PPP内でサマク氏への反対がかなり多く、内部で紛糾しているためであるといわれている。

PPP議員233名90%がサマク支持であったといわれていたが、東北部の造反派23名に同調する動きが次第に広まり、70名から133名に増加しあっといわれている。

サマク支持の強硬派はネーウィン派を含む100名程度といわれ、とうてい「サマク首相」で議会を押し切る情勢ではなくなったと見られている。

サマク再任はタクシンがロンドンから支持し、サマク首相が再任されなければ「総選挙」はさけられないといったという。タクシンにしてみれば総選挙はカネがかかるうえに「議席減」は確実と見ているのであろう。

ともかくサマク再選の線はかなり細くなってきたことは確かである。


196.タクシンの義弟ソムチャイが首相に就任、対決姿勢を避ける(08年9月25日)


サマクはPPPの内部分裂により、支持基盤を失いついに辞任した。その後に来たのがタクシンノ妹ヤオワパ(Yaowapa Wongsawat)の亭主ソムチャイ ウォンサワット(Somchai Wongsawat)である。

ソムチャイはもともと司法官僚(裁判官)であり、ナコン・シ・タマラート出身である。表向きはソフトな風貌であるが、タクシンの意向を受けて司法省内のトップ官僚としてさまざまな画策をしたことは間違いない。

ともかく、彼の就任でPPP連立政権は「タクシン政権」そのものであるということを天下に明らかにした。

PPP内部ではスラポン副首相兼財務相が対抗馬としていたが、彼はもともと共産ゲリラの経験のある医師であり、30バーツ診療などの福祉政策の立案者の一人であった。これはタクシンのポピュリズム政策の典型と考えられているが、もともとタクシンの政治理念に占める「ヒューマニズム」などというファクターは皆無に近い。いわば方便として「貧民福祉政策」を利用したに過ぎない。

スラポンを首相にしたら、タクシンは彼をコントロール下におくことはほとんど不可能であったと思われる。今回副首相として残ると見られていたが閣僚名簿に名前がない。

また、皮肉にもスラポンの支持クループは「マフィア的」というレッテルを貼られている悪名高いネーウィンのグループであり、サマク政権下では4人組の一人として評判は良くなかった。

ネーウィンは「ネーウィン友の会」という73人の下院議員のグループのボスであるが、彼自身は5年間の被選挙権剥奪の身であり、国会議員ではないがサマク政権下で4人組の一人として権勢を振るっていた。しかし、彼もタクシンの子分であり、例え気に入らなくてもソムチャイ支持に回らざるを得なかった。結局カネを出しているのはタクシンなのである。

タクシンは当初はサマク再任を指示していたが、上に述べたとおり、イサーン・パタナ会派(東北部開発)の執拗な抵抗によってダメになり、次にスラポンを避けて義弟のソムチャイを首相にするように指示を出した。これはタクシンにとっても政治的ギャンブルというか、そういうコースに追い込まれたと見るべきであろう。

ソムチャイはサマクと違い低姿勢で「国民の和解」を求めることが第1課題だとしている。サマクがあまりにひどかったために目下のところ比較的好意的に受け止められている。しかし、「和解」とはタクシンの立場を認めさせることが大前提であり、簡単にはコトは運ぶはずがない。


ソムチャイ政権の顔ぶれをみて驚くのはチャワリット退役大将・元首相が副首相として入閣していることである。彼の役割は国軍とのパイプ役であろう。国防相はソムチャイ首相がサマク同様に兼務する。アヌポン陸軍司令官との直接対話の重要性を考慮してのことであろう。

チャワリット政権下でタクシンが副首相を務めており、その時に通貨危機(0997年7月)が起こり、この両者は事前に「ドル買い、バーツ売りに走り」巨額の富を手にいれたという噂が当時立った。そのときに影で怪しい動きをしたのはタクシンの手下であったタノン・ビダヤ財務相(当時)であったといわれる。

今回、経済担当副首相にオラーン・チャイプラワット(Olarn Chaiprawat)が入閣している。このポストはタノンがつくという下馬評があった。もしタノンが就任すれば議会で民主党から1997年当時の「噂の真相」を追求されることは避けられなかったであろう。

オラーンは切れ者という評判であり、サイアム・コマーシャル・バンクの頭取を務めたこともある。要領の良い男として知られ、タクシンの評価は高い。サイアム・コマーシャル・バンクはタクシンがシン・コーポレーションの株をシンガポールのトゥマセクに売り払った時に「大きな役割」を果たしたことで知られている。

同行の大株主は「王室財務管理室」であり、政治的攻撃の矢面からは外れているが、なかなかやり手の銀行である。影にはオラーンなどの存在ががある。

副首相兼外相には下院議長や司法相を務めていたソンポン(Sompong Amornwiwat)が就任した。彼はチェンマイ出身のベテラン政治家であり、タクシンの政治的な先輩であり師匠格にあたる。

財務相にはスチャート(Suchart Thada-Thamrongvech)が昇格した(前副大臣)。かれは中央銀行総裁のタリサ女史の辞任を迫ったことで知られているが今回は「仲良くやる」と言明している。スチャートはプア・タイ党の党首であり、スマートさが身上である。

元内相のチャレムは悪名高い人物だがよほどタクシンの覚えがめでたいらしく国民保健相で入閣した。

なお、私がタイに滞在した間(9月12日〜24日)はバンコクはきわめて平静であったが、PAD支持者のシンボルとも言うべき黄色のシャツを着た人がやけに目立った。PADの支持者は中年以上の比較的富裕層だというのはデタラメである。バンコクのオフィス勤めの若者にも相当の支持者がいることは間違いない。

ナコン・シ・タマラートにも行ったが、ソムチャイが首相になってよかったなどという浮かれた雰囲気は町ではかんじられなかった。

いずれにせよソムチャイ政権もそう長いことはない。いずれ解散総選挙は避けられない。その間、政治的なコンフリクトは最小限にとどめたいというのが本音であろう。


197.ソムチャイ新首相に早くも難題(08年10月1日)

ソムチャイ新首相は前任のサマクとはことなり、報道陣にも攻撃的な発言はなく、一見ジェントルマン風な風貌もあって目下のところたいした波風は立っていない。

しかし、首相としての資格要件に関わる重要な問題があることが明らかになった。

その@は政府が事業者免許を与えている民間企業の大手通信関連事業会社の「CX Loxindo」社の株式10万株(時価368,000バーツ=114万円)を保有していることが明らかになった。

選挙管理委員会がこれを違憲として憲法裁判所に「罷免訴訟」を起こし、有罪と判断されれば首相職を罷免されることになる。

また、本人とは関係ないが娘さんも下院議員であるが20台の若さで3億バーツの金融資産と1億バーツの借入金があり、「異常な豊かさの理由」が問われており、また借入金についても「過少申告」していた事実が明らかになっている。彼女の母親はタクシンノ実の妹でPPPの最高実力者のヤオワパである。ソムチャイもヤオワパには頭が上がらないといわれている。


そのAはソムチャイが法務省の事務次官をしていた2001年当時、タクシンが資産隠し(持株を運転手やメードを名義株主としていた)が指摘され、憲法裁判所が8対7という微妙な評決で「シロ」と判断したときにソムチャイが担当判事のウラ・ワンオームクラーン氏にタクシンを引き合わせたという。

そのときタクシンはウラ判事に対し、「シロ」評決とひきかえに外務官僚であったウラ判事の息子に「特別昇進」の道を開くと約束したという。これは2003年10月14日付けのタイ・ポスト(Thai Post)という新聞にスクープされたという。


この時の判決は「微妙」どころか「不当」だという見方がされており、ウラ判事以外にもかなり大掛かりな工作がなされていたのではないかという噂があった。このときの憲法裁判所の判事で「シロ」と判断した判事の多くは官僚OBであったことも疑惑を生んだ。しかし、この判決のおかげでタクシンは5年間首相の座にとどまることができた。憲法裁判所対策はいうまでもなく「ソムチャイ次官」の働きが大きなウエイトを占めていたという推測がなされている。

日本の「有力」な学者グループは「タクシンの政治ヨロシキを得てタイは経済発展を遂げた」という説を唱えており、これが日本の主要メディアに受け入れられている。この説は全くのマヤカシである。2003年以降の若干の成長率の回復は「中国への輸出急増」と日系自動車メーカーの輸出努力に負うものであり、タクシンの政策の影響はほとんど見られなかったというのが筆者の見解である。

ポピュリスト的なバラマキ政策は資金効率が悪く、その弊害は今日に及んでいる。日本の1村1品運動を真似た「OTOP」の製品(土産物)が売られているコーナーが空港はじめあちこちにあるが、客が何か買っているのをほとんど見たことがない。また、クレジット・カードの普及によって家計の負債が急増し、今日逆にタイの「民間消費」が停滞する原因を作った。

いずれにせよソムチャイ政権がそう長続きするとは見られていないので、これらの問題が掘り起こされて裁判所に持ち込まれるかどうかは明らかではないが、ソムチャイはサマクよりマシな「タクシンの傀儡」であるといった程度の見方しかされていない。ナコン・シ・タマラート出身ではあるが、そこを先日彼が訪問したときも「熱烈歓迎」といたムードはなかったようである。

タクシン時代の経済については別に稿を改め論じたい。


198.ソムチャイ首相、催涙弾でPADのデモ隊をけちらす。「和解」の行くえは?(08年10月7日)

ソムチャイ首相は国会を包囲するPADのデモ隊を排除し、国会内で「施政方針演説」を強行するために武装警官隊を出動させ、催涙弾を乱射さた。

隠れタクシン派とみられるバンコク・ポストは「警官隊は素面で催涙弾を発射した」などと報じているが、かなりの警官隊は「防毒マスク」をかぶり催涙弾を発射していた。なぜかバンコク・ポストにはPADの負傷者の写真がインターネット版を見る限りほとんど掲載されていない。

こういう緊迫した場面になると新聞社としての本音や素顔が見えてくるのはタイでも日本でも同じである。

それに引き換え「恥知らずのネーション(某タイ人学者の表現)」は警官隊の姿や「催涙弾で片足吹飛ばされた」人や頭から血を流している負傷者の姿を写真報道している。

負傷者は100名近くに達し(最終的には400名以上)、近くの病院に運ばれたが、担当の医師は「催涙弾でこんなに酷い怪我をしたとは思えない」と語っている。

バンコク・ポストはデモ隊に殴られて負傷した1人の警官の「安否」を心配そうに報じている。どちらが「恥ずべき」新聞なのかは知らないが、報道姿勢の明確な差が現れていることは素人目にも一目瞭然である。バンコク・ポストがオカシクなったのは前にも書いたが、スバンナプーム空港滑走路の亀裂報道で事実を書いた記者をタクシンの圧力で「誤認記事を書いた」として解雇した頃からである。

その後、少しはマシな編集者も出てきているが、主流派は「タクシンびいきの民主派(?)」なのかもしれない。今後のバンコク・ポストの報道を見て判断するより仕方が無い。

早朝のデモ隊の排除によって議場に入った国会議員は、野党欠席でも何とか定足数を満たし、ソムチャイ首相が「施政方針演説」を終え、これでソムチャイの「首相としての憲法上の資格」が確保されたという。

その後、国会周辺には急を聞きつけたバンコク市民がぞくぞく集まり、国会の包囲網は強化された。ソムチャイ首相とチャイ下院議長は塀を乗り越え「国会を脱出」したが、残りの国会議員は建物内に取り残され、「軟禁状態」になった。そこで夕方になってから再度警官隊が催涙弾を発射しながら道を開き、国会議員を助け出したという。

一方、今日の午後デモ隊の負傷者の搬送に当たっていたジープが何者かに爆破され、中にいた中年男性(ブリラム県から応援に駆けつけたメテー=Metheeさんという名前の元警察中佐でPADの活動家)が死亡するという事件が起こった。警察は本人が持っていた爆発物が誤って爆発したのだろうと言っているが、こういう事件のときの警察一流のコメントであり、それは考えにくい。

とういう一連の事件をみると、催涙弾は通常破裂しても、人間を負傷させるものではないが、警官隊の中にいた、あるものが「特殊な砲弾」を発射した疑いが残る。また、PADの「救急ジープ」を爆破するというのもタクシン時代の警察の「特殊部隊」の常用の手口である。

これはただ事ではないと知ったチャワリット副首相は辞表を首相に提出してさっさと辞任してしまった。チャワリットは陸軍大将で元首相(新希望党)で、今回政府とPADの和解の調停役としてあえて「火中の栗」を拾うべく就任したといわれている。警察が手荒な行動に出ることを事前に知ったために先手を打って抗議の「辞任」をしたと推測される。

しかし、今回の事件によりソムチャイ首相には口では「和解」を唱えながらも、やっていることはタクシン時代の「強権政治」そのものであったことが露呈されたとチャワリットは見たのであろう。特にソムチャイ政権が警察傘下の「特殊部隊」を動員して計画的にデモ隊に多数の負傷者を出したことは決定的な事件なのである。

シリキット王妃は多数の負傷者が出たことを憂慮すると発言され、見舞金10万バーツを負傷者治療のための費用として寄付されたという。(後にチュラロンコーン大学と警察病院に各20万バーツ寄付を追加)

この事件はもちろんタダではすまない。ソムチャイは手ひどい報復を受けることは間違いない。徹頭徹尾タクシンの傀儡として行動してしまってはもう取り返しがつかない。

今日(10月7日のバンコクの株式は昨日の暴落に引き続き23.09ポイント下げ528.71で引けた(4.2%のマイナス)。今年の新安値更新である。

一方、タクシンはイギリス政府に対し「政治亡命」を申請していたという。タイ国民としてタイで裁判で争う気が無いことの意思表示とも受け取れる。

余談だが、先日タイを訪問した際、旧知の2〜3の友人(タイ人で今も昔もノンポリ)と話した際に「タクシンはタイのカルチャー」に反した人物だというのである。言わんとすることは「腐敗汚職も巧妙にやってケタ外れのカネを手にしたが、政治手法は強権的(CEOスタイルの政治)で、周囲との調和や伝統文化への配慮に全く欠けていた」というのである。

タイ人の伝統的な生活スタイルは「質素を旨とし」やたらに他人を傷つけないところにあるというのだ。「シンプル・ライフ」を愛する大多数のタイ人とわたしは駐在時代には「馬が合っていて」居心地が良かったことを思い起こした。彼らの生き様は私の生活信条と合致していたのである。

普通のタイ人にとっては「貪欲」というのは最も忌むべき思想である。しかし、日本人はいかに「貪欲」な生き方をしている人が多いことか。

「経営が苦しいから」などと言い訳をしながら金儲けのためには「汚染米」を捨て値で買って「お化粧して」高く売りつけるなどという輩が後を絶たない。役人も結託している疑いもある。

「貪欲」こそが「経済発展の原動力」だなどと新聞やテレビで公言してはばからない経済学者が特に小泉政権時代にバッコしていたのだから、小心者の私などは身のすくむ思いであった。よせばいいのに「日本には経済格差」などはないなどという論文を発表する学者が後を絶たない。もうカンベンしてくれといいたくなる。

⇒10月7日、夜になり警官隊とデモ隊との間で乱闘、女性1名死亡、負傷者多数

朝からの警官隊の催涙弾攻撃でPAD側に多数の負傷者が出たが、夕方再度警官隊が国会内にいる議員等の「救出」に向かい、再度催涙弾攻撃を仕掛けたことにより、PAD側も反撃に転じ、警察本部前で火炎瓶を投げたり、鉄棒を投げたりする乱闘に発展した。

なお、国会議員等は全員無事脱出したということである。

警官隊とPADのデモ隊との衝突は次第にエスカレートし、警察部隊では手に負えなくなり、警察も軍隊の出動準備が要請され、非武装の軍隊がスタンバイしていると伝えられる。(後に軍隊が要所要所に配備された)

夜の乱闘で、アンカナ(Angkana)さんという28歳の女性が警察側の発射した催涙弾(?)が左胸部に当たり左肋骨が吹飛ばされ、心臓も破壊されていたと言われる。ラマティボディ病院に運ばれたが死亡が確認された。アンカナさんの死因はまだ正式には特定されていないが、催涙弾発射銃で特殊催涙弾(中国製で殺傷力がある)の直撃を受けた可能性が高い。隣にいた母親も重傷を負った。恐れていた事件がついに起こってしまった。

また、国会ビルに隣接するチャート・タイ党本部前で発生した自動車の爆発事故で死亡した男性はブリラム県のPAD系団体の幹部で元警察中佐であり、元上院議員のカールン・サインガーム氏の義弟にあたる人物であるといわれている。これも警察は「自分が所持していた爆弾が暴発したものだろうと」と自爆説を主張している。警察はPADが爆発物を隠し持っていたことを主張し、けが人はそれらが暴発したためだなどという「子供だまし」にもならないような遁辞を弄している。

警官隊の幹部で頭部に飛んできた鉄棒が当たり、重傷を負うものや、やデモ隊で手足が吹飛ばされる重傷者が複数出ている。けが人の数は午前の衝突をはるかに上回っている。全体で死亡者2名と400人をこえる負傷者が出た。タイ警察の「催涙弾」の威力は世界に冠たるものである。

死者が警察側の攻撃によって出たとなると、いずれソムチャイ首相の責任は追及されることになるであろう。軍も独自に今回の一連の事件を解明するとアヌポン陸軍司令官は述べている。

また、市内の要所要所に軍隊が派遣され警備を始めた

⇒警官隊が手榴弾をデモ隊に投擲、動かぬ証拠写真(08年10月8日)

10月8日(水)早朝国会付近で警官隊が使用したと見られる2個の手榴弾が発見されたという報道がなされている(ネーション、インターネット版)

昨日の警官隊のPAD排除の際に警官隊のある者が催涙弾の発射にあわせて手榴弾をデモ隊に投げつけた可能性が濃厚となった。

警官隊の催涙弾発射銃も手榴弾にも使えるものであり、警察官が発射した可能性がきわめて高い。手で投げ込んだことも考えられる。そうでなければ手足を吹飛ばされたりするような負傷者は出なかったはずである。手榴弾の持込などは普通の民間人には困難であり、警察の一部が事前に仕組んだ可能性がきわめて強い。

しかし、現場の警官隊が「自発的に」こんなたいそれたことをやるとは考えられない。背後の政治勢力がかなり前から画策したものに違いない。ソムチャイは「知らぬ存ぜぬ」で通すであろうが、タクシン系政権はもともとマフィア的な性格を持っているのである。閣僚の顔ぶれをみればいつも「話題の人物」が顔を出しているか、背後で動いている。

PPPが選挙で選ばれた最大政党だからこれに政治をゆだねるのが民主主義だなどといわれても多くのタイ人特にバンコク市民は納得できないであろう。ヒトラーだって民主主義体制下で政権をとったのである。

下の、写真(ネーション、インターネット版、10月8日掲載)が動かぬ証拠を捉えている。










これらの写真は何時誰が撮影したかは明らかにされていないが、大変ショックなものである。撮影者が特定されればタダではすまない。

警官が所持しているjのは「M26」という小形手榴弾であるとされているが、警察はあくまで催涙弾の一種であると主張している。

亡くなったカンチャナさんは自分の持っていた爆弾が偶発的に爆発したもので警察には一切責任がないと「自爆説」を主張している.

それでは足を吹飛ばされたり、指を吹飛ばされたりした負傷者はどうかというと、何の説明も無い。400人以上に達した大量の負傷者はそれぞれがPADが隠し持っていた爆発物で「自爆負傷した」ということになってしまうのではないか?

非常事態宣言が出されたときに設けられた政府の「情勢監視委員会(委員長はアヌポン陸軍司令官)」は今回の事件を究明するため司法省科学捜査研究所長のポーンティップ女史を委員長とする「解明委員会」を結成した。ポーンティップ女史は過去においてしばしば「警察にとって好ましくない司法解剖結果」を出していることで知られている。

タイ警察は恐ろしい組織である。タクシン派がこの組織を未だに支配しており、タクシンの命令でナニをしでかすかわからない。

日本の輝ける民主主義の「守護神」であると素人目には映る朝日新聞の特派員は「タイの裁判所はPADの幹部の逮捕状から「国家反逆罪」の条項を無効とするなど、PAD寄りの判決を下している」というような記事を書いているが、そういう解釈がピンボケなのがわからないらしい。「反政府デモや集会」は日本でもタイでも国家反逆罪などではない。こういう発言は、タクシン時代だったら「法廷侮辱罪」で訴えられかねない記事である(08年10月9日、インターネット版参照)。

⇒タクシン派暴力組織、「タクシン王戦闘部隊」のメンバーが捕まる(08年10月9日)

タクシン派は独自の暴力組織を持っており、そのひとつは「タクシン王戦闘部隊」と呼ばれる。この場合の「タクシン王」とは18世紀にアユタヤを占領したビルマ王国の軍隊を撃破して一時期王位についた「タクシン王(トンブリ王朝)」とタクシン元首相を結びつけた命名である。

この組織のメンバーがバンコク市内で「爆弾や大型爆竹」を破裂させたりして市民を恐怖に陥れる活動をしている。この戦闘部隊を訓練しているのはカッティヤ・サワティボン少将だという噂がある。(「タイの地元新聞を読む」 http://yhaina.seesaa.net/ 参照)

10月9日(木)午前1時ごろ、PADが集会を開いている近くで、大きな爆発音がして、男が現場から逃げ出そうとしていたところをPADの警備隊に捕まった。男は右足の指の一部が吹飛ばされており、負傷のため逃げ遅れたものとみられる。

男は37歳で「タクシン王戦闘隊」のメンバーであることが明らかになったという。足の怪我は大型爆竹を爆発させた際に負ったものだ見られるが、男はオートバイで転倒してできた傷だと主張しているという。

こういう怪しげな人物が暗躍していたのはタクシン政権時代からのことで、新聞社に手投げ弾が投げ込まれたり、プレム枢密院議長宅に爆弾が仕掛けられたりする事件が当時からしばしば起こっていた。タイの警察が彼らを捕まえたことは過去一度も無い。

それはタイ警察が間抜けだったからではなく、警察黙認の組織だったからである。

⇒警察が使ったのは殺傷能力のある催涙弾?(08年10月11日)

科学捜査研究所長のポーンティップ女史を委員長とする「鑑識」委員会は早速、衝突現場3ヵ所の調査をおこなったが、通常の手榴弾撫に見られる爆薬の痕跡は見られなかったという暫定報告を10月10日(金)におこなった。なお、被害者の傷の状況は痕跡を精査すると語った。(その後多少の爆発物の痕跡があったと訂正。)

通常の「手榴弾」が使われなかったとすると、警官が使用したとされる卵型の催涙弾は「国際標準の催涙弾(催涙効果のみで人体への殺傷能力は無い)」ではなかったとしか考えられない。

品質が極端に落ちる粗悪品か、殺傷能力がある「高性能」の催涙弾兼手榴弾かのどちらかであろう。使用された催涙弾で多数の死傷者が出たという事実からすれば後者であろうし、警察は事前にその効果についても知っていたはずである。実験もしないで「新型催涙弾」を使用するはずはない。

この催涙弾は一説によると「中国製」(事実であった)であるという。真相のさらなる解明が待たれる。

(その後の実験で、「中国製の催涙弾」には強い破壊能力があり、発射銃によるものが直径8cm(センチ・メートル)、深さ3cm、手投げ式が直径16cm、深さ5〜8cmの穴が明くことが判明したという。これはコンクリートか地面にあいた穴かの報道は無いが、仮に地面としても相当な衝撃を人体に与えたことは間違いない。こんなことは実際に使用する前から警察はわかっていたはずである。中国からこの危険な催涙弾を輸入したのはタクシン政権の可能性が高い。)10月12日追記

(また、アンカナさん(28歳)の死因についてはポーンティップ科学捜査研究所長は爆発性物質RDXを使用している中国製催涙弾の直撃によりものであるとの結論を出した。アンカナさんの火葬はシリキット王妃が主催して13日午後16時から執り行われるという。(08年10月13日)


アヌポン陸軍司令官は今回の事件の責任は全て政府にありとして強く非難している。また、チャワリット大将(7日に副首相を辞任)がバンコク・ポスト紙とのインタビューで語ったとされる「事態解決には軍事クーデターしかない」という発言をアヌポン司令官は強く否定した。

アヌポン司令官は軍事クーデターをやっても次の選挙で、前と同じ顔ぶれの政治家が復活してくるのであれば意味がないというのが主な理由のようである。

また、アヌポン司令官はチャワリット大将(退役)が7日にPADを国会議事堂から強制排除をするという方針を自分でも会議に参加して決めてから「辞任」したのは筋が通らないとして非難した。暗に、死傷者が出ることを予想して、土壇場で「責任回避」したのでないかという見方を示したものといえよう。

いずれにせよ、このような事件を起こしたソムチャイ首相がこのまま政権を維持していくことは最早不可能であり、近々辞任するか国会解散をせざるを得なくなった考えられる。ソムチャイはASEAN諸国歴訪のスケジュールなど全てキャンセルした。

⇒ソムチャイ前首相、チャワリット前副首相らの訴追決まる(09年9月9日

08年10月7日に国会前広場を占拠していたのPAD(民主主義のための人民連合=通称”黄色シャツ隊”)デモ隊を強制排除した際、警官隊が使った「催涙弾」により、2名が死亡し、約500人が重軽傷を負うという事件が起こった。

事件の調査に当たっていたNCCC(The National Counter-Corruption Commission=国民汚職追放評議会)はソムチャイ前首相、チャワリット前副首相、パチャラワット現警察庁長官ら約10名につきデモ隊鎮圧の際の違法行為があったとして近々刑事告発すると発表した。

「催涙弾」でデモ隊に死傷者が出るというのは通常ありえないことで、「特殊な催涙弾」が事前に用意され、しかも必要以上に多数デモ隊に発射されたこと事態が問題になる。死傷者が出ることが十分予見でき、かつ多量の催涙弾を打ち込んだことは殺人事件として立件される可能性もある。

また、10月6日の閣議で「デモ鎮圧」計画が議論され、チャワリット副首相がその責任者に任命され、事件後直ちにチャワリット首相が責任逃れのために辞職するなど異例な事態となった。

ソムチャイは早くも、チャワリット以下に全責任を押し付けて保身を図ろうと記者会見などをおこなっている。また、警官隊は10月7日に「任務を正しく遂行したので、賞賛に値する」とあくまで「正当性」を主張し対決姿勢を示している。


199.ソムチャイ首相延命を図るもサドン・デスの可能性も?(08年10月13日)

10月7日のPADデモ隊強制排除で2名の死者と400名をこえる負傷者を出した事件で、警察は国際的には武器とみなされる「中国製催涙弾」を100発も発射し、国内での批判が強まる中で、ソムチャイ首相は「いつでも辞めるか国会解散をして責任を取る心の準備ができている」などと公言していた。

しかし、昨夜(12日夜)の政府系テレビのインタビューで「何時辞めてもいいが、年末までに首相府(官庁)をPADから奪還し、政府の機能が正常化した後で自分の進退を考える。その間、経済危機対策やASEANサミット(12月中旬)の問題もあり政治的な空白を作るわけには行かない」などと何処かで聞いたようなセリフをはいた。

また、10月7日の事件については「真相解明のための委員会(委員長はプリーチャ元最高裁副長官)を設立し、その結論を待ちたい。また、事件の被害者についてはチャワラット副首相を委員長とする「特別委員会」で補償問題について検討させたい」としてじっくり時間をかけていく方針を打ち出した。

真相解明も被害者の補償も大事だが、もっと大事なのはソムチャイ政権の「延命」ではないかという批判が出ている。「何時辞めてもいい」などといいながら、シブトク結論を先送りし、世論の沈静化を待ち、被害者には「手厚い補償をして世論を懐柔する」挙に出たことはミエミエである。

また、催涙弾で殺害されたアンカナさんの火葬が13日(月)におこなわれるが、それをシリキット王妃が主催するということになった。式には王妃のほかチュラポーン王女、ブンサーン前国軍司令官、アヌポン陸軍司令官ほか3軍司令官、民主党アビシット党首、アピラク・バンコク知事、ロサナー上院議員、ジャルバン会計検査院長などが出席したが、政府関係者は官房長官以外ソムチャイ首相をはじめ閣僚は出席しなかった。しかし、ソムチャイにとっては大変なことになってしまった。

中国製の催涙弾を誰が購入し、誰が使用を命じたかについての追求がすでに始まっており、前夜PADのデモ隊の強制排除を決めた責任者としての首相の立場はさらに厳しいものになってきた。タクシンの子分達の「タカ派的行動」がついに自らの墓穴を掘りつつある。

ソムチャイには別にNCCC(汚職防止取締り評議会)が10年前から追求している「パトムタニ県タニヤブリ地区の土地払い下げ競売疑惑」の被疑者としての事案があり、それで有罪とされれば「国会議員」としての地位が剥奪され、同時に「首相失格」になる可能性があり、その判決が今週に迫っているという。」(バンコク・ポスト、08年10月13日)

その事案とは2000年にソムチャイが司法省事務次官であったときに、パトゥム・タニ県で裁判所が所有していた土地を競売にかけた際、徴収すべき義務のあった7,000万バーツ(2億1000万円)の徴収を怠った司法省執行局長と副局長に対し、ソムチャイ次官は懲戒処分を下さなかった「義務違反」に問われていた。
そればかりか、刑事責任を問われた両名をNCCCに告発した裁判官に対して、逆に懲罰をかける委員会を設置するなど、国家公務員としての著しい義務違反と、国家の利益をそこなう行為をしたことが問われていた。この事案に対してソムチャイが有罪判決を受ける可能性は高いと見られている。


200.ソムチャイ首相、ポーンティップ所長の発言に不快感(08年10月15日)


ソムチャイ首相は10月7日の催涙弾による死傷者について調査している科学捜査研究所長のポーンティップ女史が権限を越えた発言をしたとして、面会したPPP党に対し、「不快感を述べた」という。

ポーンティップ女史が権限として与えられているのは「催涙弾の殺傷能力についてのに』であったにもかかわらず、彼女は「催涙弾についての背後関係」についてまで言及したというのである。

彼女の発言は;

@使用された催涙弾は国際的には武器とみなされる爆発性物質RDXを使用した中国製のものであった。
Aアンカナさん(28歳)の死因については爆発性物質RDXを使用している中国製催涙弾の直撃によりものである

B警察が1995年に購入した中国製の催涙弾はすでに在庫が無く、新しい催涙弾は中国製のものであるが、警察が購入したものではなく、何者かが警察に持ち込み「支給した」ものであった。

C当初警察は「強制排除」に反対していたが、土壇場になって警察が抵抗できない政治家による政治的圧力があった。それがチャワリット副首相かコーウィット内務相かは明らかでない。

コーウィットはタクシン政権下で警察長官を務め、さまざまな「謀略的事件」に関与したとされ、内務相就任についてもタクシンからご指名があったと噂される人物である。

D強制捜査に当たり、なぜ国境警備警察や機動隊といった複数の部局の警察を使用したのか?数発で済むはずの催涙弾をなぜ執拗に多数使用したのか?早朝の催涙弾で爆発効果がある危険なものであることを認識しながら、その後も使用し続けたのか?

といった細部に踏み込んだ問題提起をしたのが。ソムチャイはポーンティップ所長の越権行為でケシカランと息巻いているという。

ポーンティップ所長は前々から突っ込んだ鑑識調査をするということで、いわば「国民的人気」のある鑑識官である。

彼女が指摘した問題はいずれ「真相解明委員会」で調査の対象になる問題であろう。しかし、今回使われた「催涙弾」は警察が直接調達したものでなく、外部の者(政治家?)がこれを使えといって、警察に支給したという事実がスッパ抜かれたことである。これはおそらく警察トップの誰かがポーンティップ所長にバラシたに違いない。

ソムチャイ首相にとっては、まことに「都合の悪い事実」が明るみでてしまったので、さぞご立腹なのであろう。

(タイの地元新聞を読む http://thaina.seesaa.net/ 08年10月15日参照)


201.タイ、カンボジア国境紛争で銃撃戦、戦死者2名(08年10月15日)


かねて紛争の的であった、UNESCO世界歴史遺産に指定されたクメール遺跡のプレア・ビヒア(Preah Vihear)寺院付近の国境でのタイ・カンボジア両軍の緊張関係が最近高まり、10月15日(水)両軍が本格的に戦火を交えるというASEAN設立(1967年)以来始めての域内武力衝突が起こった。

両国は、お互いに相手が先に銃撃したと主張している。タイ側はカンボジア軍が先に「重火器」で攻撃をしかけてきたとし、負傷者が4名出たと発表している。

カンボジア側はタイ軍がロケット弾攻撃をしかけ、カンボジア兵2名が戦死したと発表している。

また、タイの英字紙ネーションはAFPのカメラマンの目撃談として、プレア・ビヒア寺院付近を警備していたカンボジア兵10名が両手を挙げ、タイ軍に投降したと報じている(カンボジア側は10名のタイ兵士を捕虜にしていると発表しているが、タイ側は確認していない)。

数日前にタイ軍兵士がカンボジアの仕掛けた地雷(クメール・ルージュが以前仕掛けたものである可能性もある)で2名が負傷するという事件が起こった。

両軍はそれぞれ1,000名近い軍隊を現地に派遣しているという。現在両軍の現地指揮官が停戦について交渉をおこなっており、とりあえず戦闘は中止されている。

これ以上の戦火の拡大に繋がる可能性は低いと思われるが、周辺の住民は戦火を避けて避難を開始した。タイ外務省はカンボジア領にいるタイ人に可及的速やかに、タイに帰国するように呼びかけている。

なお、インドネシア政府は紛争の仲介役を申し出ているとジャカルタ・ポストは報じている。

ASEAN議長国でもあるタイの立場としては、これ以上紛争を拡大できないことは明らかだが、ソムチャイ首相にっとては「国内問題から国民の目をそらす絶好の機会」になりうる。


⇒タイ・カンボジア両軍で合同パトロールで合意(08年10月16日)

プレア・ビヒア(Preah Vihear)寺院付近の国境でのタイ・カンボジア両軍の軍事衝突(10月14日)後、現地で両軍幹部が停戦と、今後の衝突回避のための話し合いを行っていらが、紛争地帯を両軍が合同でパトロールをすることによって突発的な戦闘再開を防止することで10月15日合意をみた。

国境を設定する両国の協議は10月21日から再開することとなった。これで、ひとまず紛争は回避される見通しである。

問題は、プレア・ビヒア遺跡そのものはカンボジア量にあるが、そこへのアクセスはタイ側からしかできないため、国境付近での両国の対応がギクシャクしていると遺跡そのものの価値が半減してしまうことにある。


202.アヌポン陸軍司令官がテレビでソムチャイ首相に辞職勧告?(08年10月17日)


10月15日(水)の3チャンネル(国軍系)の夕方のテレビ番組に出演した、ソンキッティ国軍総司令官、アヌポン陸軍司令官、カムトン海軍司令官、イテポン空軍司令官およびパチャラワート国家警察本部長が10月7日事件について語った。

その中で、アヌポン陸軍司令官とパチャラワート国家警察本部長はそろって流血の惨事を招いた責任は「警察に強制排除を命じた政府にあり」と明言した。

さらに加えて、アヌポン司令官は「、「貴方がもし首相だったらどうするか?」という司会者の質問に答える形で、「流血事件を起こした政府が長続きした例はなく、私だったら国民を殺傷した責任をとって、首相を辞任するであろう」という突っ込んだ発言をした。

これはソムチャイ首相に対する「辞職勧告」とも受けとあっれ、「テレビ放送によるクーデター」ではないかと論評されている(バンコク・ポスト)。

いずれにせよ、ソムチャイ首相が長く政権にとどまることは不可能になってきた。

203.民主党への支持率高まる(08年10月20日)

最近のABAC(アサンプション大学が伝統的におこなっている世論調査)世論調査では、10月7日の警察によるPAD弾圧事件後の政府の支持率は43.7%、ソムチャイ首相への支持率は46.0%であった。

18県にまたがる3,667人の回答者のうち、民主党への支持が43.8%であるのに対し、与党のPPPに対する支持率は39%にとどまった。

民主党の支持者は、学生、自営専門職、ビジネスマン、会社社員(ホワイト・カラーなど)、引退した女性が多かったのに対し、PPPへの支持者は労働者、農民、失業者、公務員が多かった。

これを見ると、PPPを中心とする「与党連合」の支持者は「低所得層」が多く、民主党の支持者は「中産階級、知識人」が多いことがわかる。

地域的な支持率は民主党が南部で83.1%、中部で48.3%で、PPPのの支持者は北部(チェンマイ、タクシンの出身地など)で58.2%、東北部で48.3%であった。東北部におけるPPPの支持率の低下傾向が見られる。

バンコクでは民主党の支持率が44%、PPPの支持率が40%であった。先の知事選挙では民主党のアピラク候補が圧勝したが、政党支持率の差はさほど大きなものではないことがこの調査では明らかになった。

「与党連合」を過去に支持してきた人々の30%が次回の選挙では野党(民主党)に投票すると回答した。また、23%の人従来の「与党連合の中小政党」からPPPに鞍替えすると回答した。


従来の与党連合の支持者でお10月17日事件以降は与党のやり方に反発して、支持を取りやめる人が少なくないことが判明した。

政府庁舎を占拠しているPADへの支持率は.34%で、支持も反対もしないという人々は33%であった。


204.タクシン2年間の禁固刑、ラチャダピーセック土地問題で(08年10月21日)

タイ最高裁はラチャダピーセクの「競売土地物件」についてポジャマン夫人が落札したことがAEC(資産調査委員会)からタクシン元首相の「犯罪」として提訴されていた。

問題は「担保流れ」になっていた土地をタイ銀行傘下の「FIDF(Financial Institution Development Fund=金融機関の不良債権買取機関」)が買い上げ、「競売」にかけたものをポジャマン夫人が一番札で落札し、膨大な見込み利益を得たことにある。

FIDFの競売物件については政府高官は「利害相克」によって買うことができないというのがタイの法律である(普通はどこの国でもそうだが)ある。ところが、FIDFは行政機関ではないから「国家の機関」とはいえず、誰が買ってもかまわないよいう解釈をおこなった人間がいた。それは当時のタイ銀行(中央銀行)総裁のプリディヤトン氏である。

タイ最高裁においては先ず、このFIDFを国家の機関と見なすべきかどうかについて審議し、実質的に国家の機関(行政機関)と見なすべしという結論に達したという。「閣僚およびその親族が国家との間で契約を締結することを禁じた、国家汚職防止取締り法」の規定に違反したという判断である。

FIDFすくなくとも民間の機関ではありえず、「取引物件」は国有財産であり、有罪の判決は当初から予想されていたともいえる。

タクシンは結局2年間の禁錮刑を言い渡された。もしタクシンがこの判決に不服がある場合は「原判決を覆すにたる新たな証拠や証人が得られる場合」には30日以内に異議を申し立てることできる。

この裁判の過程でタクシンの主任弁護人が菓子折りにつつんで200万バーツを最高裁に持ち込み逮捕され、「法廷侮辱罪」で6ヶ月の禁錮刑を言い渡され、目下服役中である。(#175参照)

タクシンのやり口は巨額の「儲け話」には昔から積極的に首を突っ込んでいくということにあり、このラチャダピーセックの土地競売は時価の数分の一で落札できるとあって大いにハッスルしたものと思われる。

それが違法であっても「無罪の可能性があればあえて危ない橋を渡る」ことをも辞さない大胆さがあったといえよう。その典型的な例は「資産隠し」で憲法裁判所から強引に無罪判決を獲得したことが挙げられよう。

タクシン夫人はこの件では本人は国家公務員ではないので「無罪」判決が言い渡され、この件についても「逮捕状」は破棄された。しかし、ポジャマン夫人は別の「脱税容疑で3年の刑を受けており、控訴中である。

タクシン一家はロンドンに亡命中であり、実刑は免れる形となっている。しかし、実刑が確定したアカツキにはタイ国政府としてはタクシンの身柄の送還を求めざるを得ないものと考えられる。そのとき、ソムチャイ首相はどうするつもりであろうか?多分、イギリス政府は政治亡命を認め、身柄の送還は拒否するものと思われる。


Voting on key points of the historic verdict(9人の判事の評決結果、ネーションより)

9-0 - The 1999 anti-corruption act is effective.

9-0 - Appointment of Assets Examination Committee is constitutional with authority to investigate cases.

9-0 - Financial Institutions Development Fund, the land seller, is a government agency.

6-3 - The prime minister has oversight of FIDF.

5-4 - Thaksin Shinawatra violated the 1999 anti-corruption act.

7-2 - Khunying Pojaman Shinawatra is not guilty and her arrest warrant will be cancelled.

7-2 - The Ratchadaphisek land plot and transaction money will not be confiscated.

9-0 - Thaksin is sentenced to a two-year jail term.


205.テロリストがPADの集団に手榴弾、1名死亡9名負傷(08年10月30日)

10月30日(木)午前3時半頃、マカワーン・ランサン橋付近にいたPAD(民主主義人民連合=反政府派)の集団に対し、モーター・バイクに乗った2人組が手榴弾を投げつけ、10名が負傷した。そのうち1名は病院に運ばれたが、死亡した。

警察の分析によると手榴弾はM-87タイプの強力なものであったという。

また、首都圏警察付近にいたPADの自警団にたいし、4〜5名の男が銃を乱射し、逃亡した。PAD側に数名の重傷者が出ている模様である。

また、憲法裁判所判事のチャラン・プリディーパノムヨン氏の私邸に何者かが爆発物を投げ込んだ。こちらはけが人は無かったが、TNT火薬が使用されていたという。

チャラン判事は元司法省事務次官で、その後最高裁長官の秘書官長当時、2006年4月におこなわれた総選挙の無効判決に向けて調整役を果たしたといわれ、軍事クーデター後に制定された「現憲法」の制定にもかかわった人物とされ、タクシン派からは目の敵にされていたという。

警察は、いつものことだがこの種のテロリストを逮捕していないが、手口や使用された爆発物などからみて「タクシン派テロリスト」の仕業であることは間違いないといわれている。

タイではほかでも「政治テロ」はしばしば起こっていて、政敵を殺害するなどという話しはゴク当たり前であり、悪徳政治家はこの種のテロリストを活用している。警察が彼らを捕まえることはめったに無い。

タクシンは現職時代からこの種のテロリスト集団を活用して、新聞社への爆発物の投げこみなどをしばしばおこなっていた。タクシンは自らを「真の民主主義者はオレだ」などと自称し、未だに日本のマスコミのなかにはタクシンよりの報道をしているところもある。

日本の民主主義を背負って立っているという噂のある某紙の報道によると、チャラン判事の家に爆発物が投げ込まれた背景には、軍事クーデターによってそれまでの「憲法裁判所の判事が全員交代させられた」からだといわんばかりのことが書かれている。

それを書くならば、その前の憲法裁判所がどういう判事の構成で、タクシンの「資産隠し裁判」でどういう判決を下したかも書くべきであろう。

国民の大多数が「クロ」だと信じていた案件で8対7で「シロ」判決が出たのである。タクシンはそのとき、持株を家政婦や運転手に名義を書き換え、「切り抜けた」のである。そのための工作にはソムチャイ現首相も司法省内で暗躍していたといわれている。

PADとタクシン派集団のDAAD(反独裁民主主義同盟)との間で、一部には和解の動きが出てきている中で、タクシン派の強硬部隊はいっそうのテロ活動を強化している狙いはどこにあるかはわからないが、一説に寄れば「混乱を助長し、軍のクーデターを誘発する」ことを狙ったものといわれている。

軍のクーデターが起これば、ロンドンにいるタクシンの「政治亡命」がイギリス政府によって容易に認可される可能性があるからである。

現在、民主党やPADは政府に「有罪判決が出たタクシンの身柄引き渡し」をイギリス政府に要求すべきであると圧力をかけており、タクシン氏のイギリスにおける立場は微妙になりつつあることは確かである。


206.タクシン派7万人の大集会を開く、勢力誇示も空し(08年11月2日)

タクシン派は11月1日(土)に赤いシャツを着た7万人(警察発表、実際は5万人という説もある)を全国から集めた大集会をラジャマンガラ国立競技場(Rajamangala Studium)で開いた。集会の目玉はタクシンが海外(香港という説があるが不明)から電話で集会に参加し、集まった群衆に直接アピールすることにあった。

その模様は日本のテレビでも一部報道されており、新聞にも出ていて「タクシン人気はすごい」という締めくくりになっている。

タクシンは民衆に「民主主義を愛する皆さんこんにちは。私のことを覚えていますか?」という挨拶から始まったという。自分で集めておいて「覚えていますか?」とはご挨拶である。

その後、民主主義選挙で選ばれたものが軍事クーデターで追放されたのはケシカランとかお決まりの泣き言を並べて挙句、自分が政権いついていたときやってきた数限りない悪行のことは一言も触れずに、不当な裁判で2年の実刑判決を食らい、刑を逃れて逃亡生活を続ければ10年間は帰国できないことにふれ、タイに早く戻りたいなどと語った。

早く帰国するのは「国王の恩赦」か「人民の力」の2つに1つしかないことを訴えたという。

早く帰国する方法は6本もの逮捕状が出ているのだから、自ら帰国して「法廷闘争」をやる以外に方法は無いハズである。「国王の恩赦」にしても「服役していないと国王も恩赦の出しようがない」というのがタイの法律である。

臭い飯を食うのがいやで、大型のロールス・ロイスに乗り回してイギリスで優雅に暮らしたいなら、貧しい「東北の農民の力」に頼るというのもお門違いである。

いずれにせよ、政府主導の大集会という茶番劇は終わった、タクシンもソムチャイも「和解」を口にしながらこういう馬鹿げた大集会によって国民の間のキレツはさらに深まった。

大体、警察が「催涙弾」という「凶弾」を使って国民を殺傷しておきながら「和解」もないであろう。ソムチャイ首相も口では「和解」をとなえながら、実際は何もやってないに等しい。

東北から動員されてきた「民主主義者」はバスの中で500バーツの日当を支給されているのを目撃されている。また、バンコクの住民も会場を出ると多くは赤シャツを脱いで、普段着に着替えて帰宅したといわれている。白昼公然と赤シャツを着てバンコクにどれくらいの市民が出歩いているかどうかがミモノである。

それはさておき、アサンプション大学が、今回19の県の2,698人を対象に10月27日から31日にかけておこなった世論調査で以下の回答が寄せられたと報じられている。

@94%の人が「政治的暴力を早く止めるキャンペーンに賛成である」と回答した。国民は政治テロなどゴメンダといっているのである。
A92%の人が「司法制度に信頼を置いている」と回答した。

これによるとタクシンがいうように「自分は政治的裁判にかけられ、不当な判決を受けた」とは思っていない人が大部分であるということである。

いずれにせよ、最高裁判所は「幹部の選挙違反」によるPPPほか2党の「解散」の是非について早く判決を下し、選挙のやり直しをやるなりしないと事態は打開できそうもない。何よりも「警察を含む政治テロ」の撲滅をソムチャイ政権はいやでも緊急課題として取り上げざるを得ないであろう。


⇒タクシン派大集会後の国民の反応はマイナス(08年11月10日)

大金をかけて決行したタクシン派の11月1日(土)大政治集会後にアサンプション大学がおこなった世論調査(ABAC Poll)によると、タクシンの海外からの電話出演については「好感が持てた」と回答した人は5〜10%にとどまったのに対し、30%の人がタクシンに対する「嫌悪観が増した」と答え、66.7%が「タクシンの電話出演で政治情勢が悪化する」と答えた。

また、政府に対する支持率は、10月18日の調査では10ポイント中4.31ポイントだったのに対し、今回は3.97に低下した。

ソムチャイ首相に対する支持率は10月末には56.3%だったが、今回は49.0%に低下した。

挙国一致内閣の結成については前回50.8%の要望に対し、今回は60.2%に上昇した。

憲法改正については「今はその時期ではない」と回答した人が62.9%に達し、「今すぐ改正すべきだ」の37.1%を大きく上回った。これは、憲法改正が「タクシンへの免罪」に結びつくと考えている人が多いことを物語っている。

また、今総選挙がおこなわれたらどの党に投票するかという問いに対しては「民主党」と答えた人は40.6%で「PPP(タクシン派人民の力党)」と答えた人の39.0%を若干上回った。その他の政党もしくは「支持政党なし」と答えた人が20%強いることになる。

今すぐ選挙をやれば、PPPがかなり議席を減らすのは間違いなさそうである。とすればソムチャイも簡単には「解散総選挙」には踏み切れない。極東の某経済大国に似た状況にある。

なお、アンケートは18県の有権者5,416人に対しておこなわれた。


207.イギリス政府タクシンのビザを取り消す(08年11月8日)


イギリスの入国管理局はタクシン夫妻のイギリスへの入国ビザを取り消す決定をし、各航空会社に対し夫妻をイギリスに運ばないように通知を出した。

タクシン夫妻は心の故郷中国から昨日、フィリピンに向かい、そこでタイ東北部選出の国会議員たちと会う予定であるされている。

その後、タクシン夫妻は住居のあるロンドンには戻れなくなった。現在イギリスにいるタクシンノ子供達のビザはとりkwされてはいない。

11月1日(日)にバンコクでおこなわれたタクシン支持派の大集会に、タクシンは香港から電話で「参加」し、タイに戻りたいが「国王の恩赦」か「民衆の支持」がなければ帰国できないと訴えた。

今回のイギリス政府の措置は、タクシンがイギリスに政治亡命を求めながら香港あたりに出かけていって、タイでの政治活動を積極的におこなったことが影響しているものと見られる。

「国王の恩赦」発言については「国王を政治の題材にした」として協会タイ法律家協会の専門家からは「不敬罪」の疑いがあるという声が上がっている。

また、最高裁の下した有罪判決についても「政治的な判決である」と批判したことについても「法廷侮辱罪」の容疑が指摘されている。

タクシンの国内外での立場はいっそう難しくなってきた。


208.タイ陸軍、カッティヤ少将についての査問委員会設置(08年11月13日)

タイ陸軍司令官アヌポン大将はカッティヤ(Khattiya)少将が陸軍の名誉を傷つけ、上官を侮辱した疑いがあるとして、同少将の言動についての査問委員会を陸軍内に設置すると発表した。

カッティヤ少将は現役の高級士官でありながら、タクシン派のDAAD(バンコク・ポストはUDD=反独裁民主主義連盟)の武闘集団に対し、さまざまな「軍事教練」をおこなっているとの噂が絶えず、実際に彼は11月初めに政府庁舎を占拠しているPAD(民主主義人民連合)に対し、手榴弾およびロケット砲をによる攻撃がおこなわれるだろうと予言・警告していた。

最近、実際に手榴弾攻撃がおこなわれ、ここ数日というもの連日のようにPADの集会の演壇付近に手榴弾が投擲され、けが人が続出している。

これに対して警察はもとより、陸軍も有効な対策を講じているとは思えないとして、アヌポン司令官の市井に対しても疑惑の声が上がっていた。

カッティヤの直属上官に当たるサンセーン大佐(階級は下でも上官ということは軍の組織ではありうる)は陸軍内にカッティヤ少将に対して「規律違反委員会」と「犯罪調査委員会」を設置し、調査を開始すると発表した。有罪と認められれば最大3ヵ年の禁錮刑に処せられる。

カッティヤ少将は「私は何も悪いことはしていない。PADは政府官庁の選挙を説くべきであると」と述べている。

しかし、カッティヤ少将は熱烈なタクシンびいきとして知られ、タクシン派武闘集団に軍事教練を施しているとの情報は前からあり、最近タクシン派が使用している武器も軍から流れているのではないかっという疑惑が持ちあがっている。同少将の「警告」のなかには「対戦車砲ロケット」による攻撃も含まれている。

特に、故ガラヤニ王女(プミポン国王のあねん)の葬儀が終わる11月中旬以降、タクシン派武闘集団の攻撃が激化するというのも同少将の予言である。信じられないような物騒な将軍である。日本にも「専守防衛」はだめだなどという幕僚長がいたらしいから、あまり大きなことは言えないが。

「勇敢な将軍ほど恐ろしいものはない」とは古今の名言である。

209.PADの集会にまたもロケット弾攻撃、1名死亡23名負傷(08年11月21日)

11月20日(木)午前3時ごろ、PAD(民主主義人民連合)の中央官庁前の演壇付近にロケット弾と思われる爆発物(手榴弾かもしれないがテントを突き破って爆発したといわれている)が投げ込まれ、48歳の男性が1名死亡し、23名が負傷した。

これは陸軍のカッティヤ少将の予言、すなわち「19日のガラヤーニ王女の葬儀が終わったら、PADは再び、ロケット砲攻撃にさらされるであろう」ということが現実のものとなった。

下手人には軍関係者が関与していると言われている。というのは使用されている武器があきらかに軍の仕様のもので、大尉クラスの士官の指揮で、曹長クラスの人間が実行犯に加わっているという情報があるという。

軍のなかにはカッティヤ将軍系の「暴走族」がいることは大いにありうることである。

また、警察はこういう実行犯をいまだかつて逮捕したためしがない。

アヌポン理従軍司令官はカッティヤ少将の言動について「査問委員会」で調査するとしているが、「規律違反」のかどで「訓告」程度の軽度の処分で終わったようである。現役の高級将校が、殺人を指導し、あまつさえ軍の武器庫から「手榴弾や投擲機器」を持ち出した容疑についてはどうなっているのか良くわからない。

業を煮やしたアヌポン司令官は、カッティヤ少将に対して、「市場でエアロビクス・ダンスの指導をやれ」と命じたという。これは最近軍が国民の健康促進のために軍幹部が自らエアロビクス・ダンスの指導するチームを作って、各地で実行しているものである。

これにはカッティヤ将軍も頭にきて「オレが得意なのはエアロビクスではなく手榴弾の投擲指導だ」といったという。(バンコク・ポスト、11月21日・電子版参照)

PADはタクシン派のテロ攻撃に対し、11月23日(日)にはバンコク市内で一大抗議デモを行うという。これに対してカッティヤ将軍は「再度、爆弾攻撃があるだろうと」予言しているという。

実際に11月22日の午前2時10分に教育省の向かいの政府庁舎の近くにいた20名ほどのPADの集団に対し、手榴弾が投擲され、8名が負傷した。そのうち1名が重傷で集中治療室で手当てを受けているが、危篤状態にあるという。.

目撃者のタクシーの運転手によると、2名の10代の若者が200メートルほど離れたところから、手榴弾をロケット投擲し、現場からオートバイで逃げ去ったという。(11月22日、ネーション電子版参照)

警察はもとより、軍もこういう「暴走族」に甘いからこういう事態になってしまったといえよう。現職の将校が、パブの「護衛」をあるアルバイトでやっていることが黙認されているとうのだから、規律が大分弛緩しているのかもしれない。カネにさえなれば何でもやるという将校・下士官が軍にもいるのである。


210.PADが「最後の闘い」と称して11月24,25日バンコクを駆け回る(08年11月25日)


反政府のPAD(民主主義人民連合)は「最後の闘い」と称して、デモ隊を組織し、国会を包囲し、11月24日の国会開催を阻止した。

また、国軍総司令部やドン・ムアン空港に設けられた臨時の「政庁」にも押しかけ、業務を停止状態に追い込んだ。

ソムチャイ首相がAPECの総会から帰国するというので、スバンナブーム国際空港にも動員をかけている。一部のデモ隊が空港の建物に侵入したため、空港は閉鎖された。PADにいわせると、「PADの黄色のシャツを着たタクシン派が過激な行動をとってビル内に入った。PADのメンバーには空港ビルへの立ち入りを禁止している」とのことである。

PADの目的は「タクシン救済のための憲法改正を阻止すること」と「タクシンの代理人のソムチャイ政権の打倒」にあるが、ソムチャイは辞任の意志は全くない。

途中でタクシン派のDAADのメンバーとの小競り合いがあり、11名が負傷したというニュースがあるが、それ以外はいまのところ大きな事故は起こっていない。

10月7日の警察の「催涙弾による大量殺傷事件」やタクシン派の手榴弾投擲による連続殺傷事件の後だけにPADの自警団もある程度の武装をして、いわば「決死の覚悟」でデモに参加している人々も少なくない。

PADの気勢におされて、タクシン派も「赤シャツ」着用をやめ、息を潜めているようである。

警察も、先月の事件で世論の袋叩きにあり、しかも今回は軍隊が2千人という規模ながら、要所要所に展開しており、得意の荒業(?)を控えているようである。

しかし、これから深夜にかけて「突発事故」は起こる可能性がある。

「血の気の多いカッテイヤ少将の実行部隊」がこのままジットしているとも思えない。おそらく彼らの仕業とみられるが、反政府派の有線テレビ局(ASTV)の近くで手榴弾2発が爆発した。幸いけが人は出なかったという。

このままでは政治的混乱は一向に収まる気配がない。憲法裁判所が早く結論を出して、PPPほか2党の解散命令を出し、選挙をやりなおすしが当面事態の改善は望めそうもない。

軍はPADから「クーデターを催促されているようなもの」だがアヌポン陸軍司令官は「軍事クーデター」は問題解決にはつながらないとして動こうとはしない。


⇒アヌポン陸軍指令官、議会解散と選挙のやり直しを提言(08年11月26日)


PADのスバンナンブーム国際空港突入は同空港の離発着の停止というPADも予想していなかった事態に進展してしまい、1万人以上の旅行客が影響を受けたといわれている。PADの「占拠」も第3者に危害を加える目的はないため、ほとんどの乗客が空港から数時間後には無事避難したといわれる。

ソムチャイ首相の乗った専用機はチェンマイ空港に着陸し、軍用機でバンコクに帰るということになった。

事態の収拾方法についてアヌポン陸軍司令官は「有識者グループ(学者、民間企業代表者、高級官僚など)」と討議を重ねていたが、結論として「議会を解散して、国会議員選挙のやり直し」以外にないとして、ソムチャイ首相に提言することとなった。

議会の解散にともない、反政府グループは官庁等の「占拠」をただちに止めよというものである。

PADはソムチャイが辞任し、選挙の実施ということであれば異議はないという。

しかし、タクシン派はアヌポン司令官の提言は認めるわけにはいかないとして、数十万の赤シャツ(DAAD)のデモ隊を動員するといきまいている。残念ながら、彼等はバンコクでは圧倒的に少数派で、地方から仲間をバスで大量輸送しないと間に合わない。

PADのメンバーがピストルを発射している映像がテレビで流されたそうだが、市内の数箇所で爆弾事件があり、負傷者はことごとくがPADのデモ参加者である。


(ソムチャイ首相辞任を拒否)

ソムチャイはチェンマイ空港に降り立ち、アヌポン司令官の提言を拒否し、首相の座にとどまる決意をテレビ放送で述べた。

一方、スバンブーム国際空港は依然閉鎖状態が続き、民事裁判所はPADに対し、立ち退きを命じたが、空港周辺のデモ隊は1万人程度に増加し、あくまで立ち退きを拒否している。

PADを立ち退かせるには、警察と軍の協力が不可欠だが、警察が動けば軍との衝突は不可避であり、完全なデッド・ロックに乗り上げてしまった。

ソムチャイはいわば軍と警察のサボタージュにあっており、アヌポン司令官が動かない以上、閉鎖状態を打開する手段はなく、すでに先が見えてきた。


211.軍事クーデターの噂がバンコク中に広まる(08年11月27日)


アヌポン陸軍司令官の「議会を解散して、総選挙を実施すべし」という提言がソムチャイ首相によって拒否され、PADもスバンナブーム国際空港から退去を拒否し、しかも国際線国内線共用のドン・ムアン空港も占拠するという事態になり、情勢はいよいよ切迫してきた。

バンコク市内では最早軍事クーデターは不可避であるという噂が飛び交い、教育省などの一部官庁や民間会社の一部でも職員に早期の帰宅命令が出された。

ソムチャイ首相はペルーからチェンマイ空港に帰国し、バンコクには戻らず、閣僚をチェンマイに集め緊急閣議を開いた。

ソムチャイ首相は国防相を兼務しており、アヌポン陸軍司令官を解任するのではないかという噂が広まった。しかし、内閣の広報担当のナタワット・サイクア(Nattawat Saikua)氏はわざわざ緊急記者会見を開き「アヌポン司令官の解任はない」ということを言明した。

しかし、国際空港の開放は喫緊の課題であり、時間的余裕はすでになくなっていることは明白である。

閣議決定したので近く両空港に「非常事態宣言」が出され秩序回復には警察が当たり、軍隊は「兵舎に戻る」ようにという布告が出されるとチャレム保健相がテレビで語ったという。彼の担当外だが、彼自身「実力者」を持って任じているようだ。

また、アヌポン司令官の2度にわたる勧告をソムチャイ首相が強硬に突っぱねたことにより「面子を潰された形になった」司令官としては最早「軍事クーデター」による事態の打開以外に手段はなくなったと見ることができよう。

ソムチャイ首相も「地位にすがり付いていくわけではない」といいながらも、ボスのタクシンの了解が得られなければ辞任することもできない立場であろう。

選挙のやり直しをすればタクシンにとっては数十億円もしくは100億円をこえる出費を覚悟しなければならないであろう。

タクシンが「選挙をやってもカネは出せないよ」といったら、ソムチャイも返す言葉が無いはずである。北部や東北部の「タクシン派」の農民がどれだけ「手弁当で」カネのかからない選挙に協力してくれるかは未知数というより、そんなことはほとんど「ありえない」というべきであろう。

結局、ソムチャイ首相もPADも「軍事クーデター待ち」という事態に立ち至ってしまったのではないだろうか。このままでは仮に警察が実力行使をして「空港解放」に成功しても多くの犠牲者が発生し、バンコクで今後正常に政治をおこなっていけるような雰囲気からはほど遠いことは間違いない。

「国民和解」を唱えながらタクシン救済のための「憲法改正」などを最大の政治課題にした(せざるをえなかった)ことが今日の事態を招いたとも言える。

また、憲法裁判所が「党幹部の選挙違反は解党」という憲法上の規定でPPPほか2党の解散判決を出すのに必要以上の時間をかけたことも問題をややこしくしているともいえよう。


212.ソムチャイ首相、チェンマイから動けず(08年11圧30日

ソムチャイ首相はペルーからチェンマイ空港に降り立ち、その後もチェンマイに居座り続け、そこで閣議を開くなど、一向にバンコクに戻る気配はない。バンコクに戻れば軍部に拘束され「軍事クーデター」を招くと考えているのであろうか。

チェンマイでスバンナブームとドンムアン空港に「非常事態宣言」を発し、警察にPADの排除を命令した。警官隊は両空港に近づいたが、PADの排除という直接行動には乗り出していない。

なぜ動かないかといえば、動くメリットが何もないからである。警察は10月7日の「催涙弾事件」ですっかりミソをつけた上に、今回空港で乱暴狼藉を働けば、「軍事クーデター」の引き金になり、その後の警察幹部に待っているのは「手厳しい報復」である。

軍も警察も意のままにならないソムチャイ政権は「死に体」状態にあるといえよう。したがってソムチャイもチェンマイからバンコクに戻るのは容易でない。いわば「チェンマイ政権」になってしまった。

チェンマイはタクシンの出身地であり、タクシン派が多く、つい先日もPADの活動家の父親を惨殺するというテロ行為をおこなっている。それも警官が見ている前で行ったというのだからすさまじい。

12月2日(火)には憲法裁判所が「PPPほか2党の解党」問題で最終弁論を開くことになっており、早ければその日に「解党判決」が出る(PPPにのみ出される可能性もあるという)可能性もあるという。

12月5日(金)は国王の誕生日であり、その日までには答えが出て、空港占拠も解かれるはずである。

憲法裁判所の判決待ちというのが今の政治状況である。

11月30日(日)にはタクシン派(DAAD)の大集会がバンコクで開かれ、そのときPADと大衝突が起こるという観測も流れているが、DAADの集会が10万人規模と自称するほど集まるとも思えない(実際は15,000人以下)。

タクシン派はもっぱら手榴弾攻撃のテロ活動をおこなっており、11月29日(土)午後11時半には首相官邸前のPADエンバー約50名が負傷し、そのうち4名(全員女性)が重傷を負い集中治療室で手当てを受けているという。

それ以外に両空港でも爆発事件がありスバンナブーム空港では2名が負傷した。また反政府系のテレビ局(有線)ASTVににも再三爆弾が投げ込まれ、30日(日)午前0時25分に手榴弾が投げ込まれた。

このようなテロを組織的に利用してきたのがタクシンの政治手法の一つであった。バンコク市民はそれを承知している。

バンコクに足止めされたはずの外国人はかなり帰国の途についている。それはバンコクから車で3時間ほど東に行ったところにあるウタパオ空軍基地を臨時に利用しているからである。

この基地こそはベトナム戦争時代、米軍が「北爆」のために建設した、広大な施設を備えた軍事基地なのである。



213.PAD首相府の占拠を終える?(08年12月1日)

PAD(民主主義人民連合)の指導者チャムロン・シームアン退役少将は一部の警備要員をのこして首相府(中央政庁)の約100日間に及ぶ占拠(8月26日から)を終了し、メンバーはスバンナブームおよびドンムアン空港に移動し、抗議集会を継続するという宣言を発した。

これはタクシン派の武装集団が執拗な手榴弾テロ攻撃を繰り返し、連日数十人の負傷者を出すという事態を回避するためというのがチャムロン・シームアン氏のメンバーに対する説明である。

また、ラーマ5世像の前で2日(火)おこなわれる、「国王生誕記念閲兵式」の邪魔にならないようにするためであるとも説明している。また戻るのかという記者団の質問には「状況次第だ」と答えた。

いずれにせよ、実質的にタクシン派の政党PPPが昨年末の選挙における党幹部(ヨンユット副党首)による買収容疑で「解党判決」が一両日中に憲法裁判h所から下され、タクシンの義弟ソムチャイ首相が辞任に追い込まれるという見通しに基ずくものと思われる。

そうなればPADとしては一応の目的は達せられたとして、一旦抗議行動は終わらせることになるであろう。

PADはトラックなどに放送機材などを積み込み全面的移動の準備を開始した。

空港の占拠も、憲法裁判所の判決が出次第、終了するものと思われる。

PADの「実力行使」は欧米や日本のメディアの多くから、「既得権益を守ろうとする保守勢力の抵抗である」などと批判されてきたが、手段は行き過ぎがあったにせよ非武装の市民の「民主的抗議行動」そのものは当然の権利であったことも銘記されなけければならないであろう。

今回のバンコクにおける市民の抵抗運動はタイの民主政治に大きな意味を持つものであったことは歴史が証明することになるであろう。

一部日本の大新聞は過去において民主主義に名を借りたタクシンの金権独裁政治についてほとんど批判らしい批判をせずに、議会で多数を占める「ソムチャイ首相に大義は存する」などという社説を掲載したところもある。

その「多数党」が法律違反で解党命令を受けたら今度はどういう論説を書くのであろうか?今回のタイ報道で目立ったのは一部の特派員の「脱線報道」である。主な理由は本人の基礎知識の不足もさることながら、取材源の多くをタクシン派に依存していたためではないかと思われる。

本ホーム・ページでも時折コメントしたが、あまりに低レベルの記事や論説には再三ヘキエキさせられた。これは学者についても当てはまる。読者が何も知らないと思ったら大間違いである。お互いにもっと勉強しないとダメですね。


214. 憲法裁判所、PPPほか2党に解党判決、ソムチャイ政権崩壊(08年12月2日)

憲法裁判所はPPP(People Power Party), チャート・タイ党(Chart Thai Oarty) およびマッチマー・ティパッタイ党(Matchima Thipataya Party)の3党が先の下院議院選挙で党幹部が選挙違反(買収)をおこなったとして選挙管理委員会から出されていた「解党提訴」に対して「解党処分」と占拠当時党の執行役員であったもの全員(109名で29名が下院議員)に対し5年間の「被選挙権の剥奪」という憲法に規定(第237条)された判決を下した。

109名の内訳は政党別にはPPPが37名、チャート・タイ党が43名、マッチマー・ティパッタイ党が29名である。PPPは下院議院233人中14名人が執行委員、チャート・タイ党は国会議員34名中、19人が執行委員であり、今回議席を失う。マッチマー・ティパッタイ党はは議員11名全員が執行委員ではないため議席を失うものはない。33議席のついては明年1月に補欠選挙がおこなわれる。

ソムチャイ内閣は即日解散し、解党の対象になっていない残りの2党から出ている閣僚を「暫定閣僚」とし「空席」になった閣僚ポストには各省の「副大臣もしくは次官」が就任し、「暫定内閣」を組織し、改めて国会を召集するための「暫定首相」を指名することになる。

暫定首相(首相代行)には副首相のチャワラット・チャンウィーラクン(Chaovarat Chanweerakul)氏が就任することとなった。

解散命令を受けた党の国会議員は60日以内に他の政党に移籍しないと議員資格を失うことになっているが、各党ともその準備はすでにできていると言われている。

従来、票の買収は半ば「慣例」になっていたかの観のあったタイの選挙を正常化しようとした憲法の規定が今回適用されたことになるが、一見厳しいようではあるが、タイ政治の「民主化」の重要なステップであるといえよう。

票の買収は農村部で特に激しく、タクシンのPPP党の北部・東北部では買収容疑で多くの議員がレッド・カード(再出馬禁止)やイエロー・カード(再出馬可能)の判定を選挙管理委員会から出された。こういう事情を無視して、欧米や日本のメディアの多くはPPPの正当性をつい昨日まで主張し続けた。

今後どういう政治プロセスを辿るかは今の段階では見えていない。下院議員選挙のやり直しというのが、最もオーソドックスな方法であると考えられるが、これまた依然として多数の下院議員を確保しているタクシンの出方一つにかかっているともいえる。与党連合は下表に見るごとく287議席を確保しており、単独野党の民主党の166議席を大きく上回っている。

なお、スバンナブーム空港は貨物輸送機の発着が再開された。旅客機の再開についても比較的早期に再開されるであろう。

PADは12月3日(水)午前10時をもってスワンナブームとドン・ムアンの両空港で集会を解散することにし、しばらくは「休憩」には入るという。タクシン救済のための「憲法改正」が阻止されたことと、「タクシン傀儡政権」が崩壊をみたことでPADの所期の目的を果たしたということである。

それにしても、PADはタクシン派や警察のテロにさらされ多くの死傷者を出しながらよく頑張りぬいたものである。この頑張りの原点は1973年の学生革命、1976年のタマサート事件、1992年の「血の5月事件」といった民主主義確立のための犠牲をものともしない闘争精神である。

死者が8名(チェンマイのPAD活動家の父親の惨殺事件を除く)、負傷者が737名という膨大な数に達した。警察も1名の死者を出したが、負傷者の数は100名以下であろう。PADも鉄棒やパチンコで武装し、一部にはピストルなども所持していたが、これらは本来「lぷげき用」えはなく、「自衛上」のものであった。

警察は「殺人催涙弾」、タクシン派武装部隊が軍仕様の手榴弾攻撃をおこなった。これは内戦というより、タクシン派政権が仕掛けたテロリズムというほかない。

しかし、PADにとって今回の「勝利」は一時的なものであり、今後さらにかぎりない「続編」が待っていることであろう。

今回、タクシンの味方についたとされるタイ北部、東北部の貧しい農民やバンコクの貧しい労働者がPADに参加した人々にとっての「真の敵」ではないだけに今後の戦いはより難しいものとなるであろう。

もとより傍観者に過ぎない筆者もタイ人の「真の民主主義確立」への苦闘の日々を察して心休まることが少なかった。それにしても日本の現状はひど過ぎる。こちらの方が私達にとってはより大きな問題である。

215.新首相選びは旧PPPからということで連立6党合意(08年12月5日)

ソムチャイ政権崩壊の後、誰が次の首相になるかで、さまざまな水面下の動きがあるが、タクシンは各党、各派閥に対し、誰のおかげ(カネ)で政権に加われたのか良く考えろという主旨の電話をかけまくっているという「噂」である。ただし、タクシンが「後継者」を指名したかどうかはわからない。

PPPの受け皿政党であるプア・タイ(Puea Thai)党のメンバーから首相を選ぶということで6党の合意が成立したという。

当初はプラチャラット(Pracharaj)党のボスであるスノー・ティエントン(Snoh Thienthong)氏はプア・タイと民主党以外から新首相を選ぼうということで「根回し」をしていたようだが、タクシンに一喝されて、プア・タイ党関係者から選ぶということになったようである。

いずれにせよ、総選挙は近いうちにおこなわれるという読みうから、次の「選挙戦の資金」のことを考えれば当然の結論であろう。

旧PPPのなかでヨンユット(元副党首で解党理由のモトを作った人物)と犬猿の仲のネーウィ(Newin)は自らは国会議員ではないが(前回、失格で5年間被選挙権なし)、隠然たる勢力を誇り「ネーウイン友の会」と称する派閥に37人の国会議員を擁している。

そのうちの何人かはいち早く、プア・タイ党に入籍したが、残りの30人ほどは態度を保留している。

ネーウィンとしてはプア・タイ党にはいっても「主導権」は握れそうもないので、他の5党の何処かに合流するという観測が流れている。また、一部にはこともあろうに民主党と組むという説もある。いくら民主党が政権をとりたくても、「悪魔と手を組む」などということはありえないであろう。

ネーウインは温厚な人柄で知られるチャイ・チットチョーブ(Chi Chidchob)下院議長の息子でありながら、政治手法は「マフィア的」といわれ、恐れられている悪評高い人物である。ヨンユットと並ぶ、タクシンの腹心の部下の一人である。

現在、下院議院の定数は480人(うち80名が党のリストによる比例代表)であるが、12月2日の判決で33名が失格し、他にも議員資格停止状態にある6名を加えると、実働441名である。

旧PPPは213名だがネーウィン派が30名抜けると183名になり、民主党の165名とかなり、接近してくる。連立5党が造反し、民主党のアピシット党首を支持すれば、アピシットが首相になる計算になるが、冒頭申しあげたように、それは実際はありえない。

ただし、連合6党のなかでも、あまりに露骨に「タクシン色」が濃い人物が首相になれば、再度PADが街頭に立つことになりかねないので人選は慎重にやろうという空気が強いという。政治混乱の再現となるからである。

新首相の候補者は何人か取りざたされているが、なかなか決まりそうもない。世の中を納得させるような人材が少ないのである。

国王が12月4日の誕生日の前夜におこなう演説を「体調」を理由に中止したことも、意味深長である。「国民和解」を呼びかけても「タクシンが政治を支配しよう」とする限り、実現不可能だからである。タクシンがカネの力に物を言わせ「引っ掻き回す」限り、タイの政治の安定はない。

日本では「諸悪の根源は裁判所だ」などというたわけた記事が「一流紙」の紙面を飾っている。PPPほか2党が解散命令を受けたのは「選挙」で党幹部が派手な「買収」を性懲りもなくやったからでで、選挙管理委員会が「解党提訴」をしてかた半年以上もたってからの判決である。それも「憲法違反」の事犯である。

そもそもタイ国民の約90%が「司法を信頼している」と最近の世論調査でも答えが出ている。(#206参照)

これを「司法の政治介入だ」などと日本のジャーナリストがタクシン派はだしで書きたてるのはいかがなものであろうか?これは「法廷を侮辱」していることにはならないだろうか?「もしかするとコイツもタクシンに「買収されているのではないか」とすらかんぐりたくなる。実施に外国人新聞記者を買収するという手法は東南アジアではありうる話しである。

タクシンも米国人の某ジャーナリストを「PR顧問」に雇って「自分にとって都合のいい記事」を書かせていたというのは周知の事実である。

実働
旧PPP(バラン・プラチャーチョン党) 232 219 213
民主党 165
165
165
旧チャート・タイ 34
15
15
プア・ペーンディン 24 24 23
ルアム・チャイ・タイ・チャート・パタナ 9 9 9
旧マッチマーティパッタイ 11 11 11
プラチャラート 5 5 5
合計(内は比例区で内数) 480 447
441


(注)PPPは6名の議員が「活動停止」状態にあり、実際の勢力は213名。このうち37名がネーウィン派議員であるといわれている。もしこのうち30名が民主党に合流すれば民主党が第1党になる可能性もある。欠員39名の補欠選挙は09年1月11日ごろおこなわれるという。


なお、この中には比例代表で選ばれた議員はPPPが34名、チャート・タイが4名おり、党の消滅とともに彼らも議員資格を失うものと考えられるが、正式に議論されてはいない。(08年12月8日現在)


216.タイ大政変か?ネーウィン派と少数与党が民主党につく(08年12月6日)

前回(#215)、私は次もタクシン派の首相が出るであろうと書いたが、実は意外な展開になりつつある。


旧PPPのネーウィン派約30名の議員グループが、他の少数政党である旧チャート・タイ(15名)、旧マッチマーティパッタイ党(11名)、プアン・ペンディン党(23名)、ルアム・チャイ・タイ・チャート・パタナ党(9名)が民主党165名と新連立政権を作るという方向に急に動き出したという。


そのために5党と1グループ(ネ−ウィン友の会)が合同で記者会見を開いている(タイ時間午後7時頃)。

一方の旧PPPはプア・タイ党に衣替えをして新政権の発足の準備をして、昨夜ポジャマン夫人(タクシンとは最近離婚したが、これは形式的離婚と考えられている)が急遽帰国し、テコ入れをしているはずだが、事態は意外な方向に展開しているようである。

プア・タイはネーウィン・グループが入らなければ議席は180強に減ってしまい、これにプラチャート党の5議席が加わっても到底、民主党を軸にした「新連合」には太刀打ちできない。

上の表のとおり各党がそのまま「新連合」に参加し、ネーウィン派も30名(実際は37名だが何人かはプア・タイに参加か)が加われば総勢250名以上となり、民主党アピシットを首相とする新政権誕生ということになるであろう。

各党代表のコメントも「現状では経済問題をはじめとするタイの国難に対処できないので、新連合に加わることにした」と語っている。

タクシンは「カネの力」に物を言わせ、巻き返しにかかるであろうが、情勢は圧倒的に不利になったようである。

こういう姿が、実はタイ国民の多くが望むかたちであることは、「民主党党首のアピシットが首相として最も望ましい」という声が最近の世論調査にも現れている。

アピシットは若くて優秀な人物であり、彼が首相になればタイは万々歳であり、バンコクの株も上がることは間違いない。そう申してはナンだが、サマクやソムチャイは到底首相の器ではなかった。

東南アジアでは彼の右に出る政治家は少ないであろう。彼に匹敵するような政治家はマレーシアのアヌワール・イブラヒムくらいなものであろう。マレーシアもいずれ変わるであろう。

狭い利害や、偏狭なナショナリズムにとらわれているような人物は政治家としてははじめから失格であると私は思います。


217.プア・タイ党の党首にヨンユット氏、民主党有利に(08年12月8日)


解散命令を受けた旧PPPの受け皿政党としてタクシン派はプア・タイ(Puea Thai)党を用意していた。その党首の選挙が12月7日(日)におこなわれ、ヨンユットPPP副党首・党首代行がプア・タイ党の党首に選ばれた。

当初の大方の予想ではタクシンの末の妹であるイーンラック・チナワット(Yinglak Shinawatra)が選ばれるとみられていたが、PPP党解散命令を受ける原因(買収事件)を作った張本人のヨンユット(Yongyuth) が党首に選ばれた。

このことによって、ヨンユットと「犬猿の仲」であるネーウィン(Newin)がプア・タイ党に参加する可能性はほとんどなくなり、ネーウィンは仲間の議員(ネーウィン友の会)37名の多くを引きつれ民主党の連立政権に加わることとなった。

プア・タイ党と民主党の多数派工作は熾烈を極めているようで、タクシン自身がネーウィン派の下院議員に直接電話して翻意を促しているという。最後は「実弾(カネ)」の力でプア・タイ党はかなりの議員を獲得できると見ているようだ。

昨年末の選挙でタクシンはそれに成功し、民主党以外の政党が全てPPPにつく形になった。反タクシンを標榜していたチャート・タイ党も与党連合に参加してしまった。

すでに帰国したポジャマン夫人もネーウィンに直接電話するなど、帰国早々大活躍をしているという。ネーウィンは「時すでに遅し」と側近に語っているようだが、ヨンユットが党首になってしまってはいかんともしがたいであろう。

ヨンユットがなぜ党首に選ばれたかというと、彼はカネ(タクシンから預かった)を持っているからだという説がある。前回選挙で彼が「資金担当」として活躍していたと見られている。

民主党の方もこれだけの政党をまとめていくには相当のカネが必要であろう。資金源はいうまでもなく、タイの財界である。チェンマイではタクシン派がバンコク・バンク支店から「預金を引き出せ」という指令を発していたという噂もある。

大勢は民主党連立政権成立に向かって大きく動いているが、タクシンがどのくらい巻き返せるかがミモノである。また、不思議なことにプア・タイは次の首相を誰にするかという肝心の問題を明らかにしていない。

話しは違うが日本では有力なメディアやシンク・タンクや大学の有名教授などが、こぞって「タクシン派」であり、タクシンを「民主主義のシンボル」だと考えているようである。いったい彼等は民主主義をどう考えているのであろうか?

結局、彼らは「アジアの政治体制は権威主義でなければならない」という日本の伝統的保守・反動政治家・官僚・企業家の考え方(戦前の大日本帝国のイデオロギー)に迎合しているのであろう。

アジアは中国や北朝鮮を除き、21世紀に入り急激に「民主化」に向かって動いているのである。タクシンは「民主主義の仮面をつけた独裁者」だったところに問題があるのである。


218.プア・タイ党、挙国一致内閣を提言、ついにあきらめたか(08年12月9日)


タクシンの新政党プア・タイ党はついに、自党から次の首班候補者を出すに至らず、今日に至っている。そればかりか、今になって「挙国一致内閣」を提言し始めた。

これをみると、多数派工作に失敗したとも受け取れる。つまり、「ネーウィン友の会」の大半がプア・タイ党には参加せず、ネーウィンに従って民主党のアピシット党首を首相に指名し、こちらの連立政権に加わることになったということである。

ネーウィンの議員の自宅がタクシン派によって「攻撃」されるという事件が起こっているが、「脅迫と暴力」というタクシン派お得意の戦術で事態の流がいまさら変わるとも思えない。

プア・タイの失敗はヨンユットという問題の人物を党首に据えるという、信じがたいような戦術的ミスを犯してしまった。これはネーウィンに「出て行け」と宣言したに等しい。

ネーウィン自身も相当な問題児ではあるが、当面は「民主党」の枠内で行動せざるをえない。

首相の指名は12月11日(金)以降になるらしいが、民主党政権ができればバンコクは非常に静かな街に戻ることは間違いない。プア・タイが勝てば「混乱の再開」である。

タクシン派が動員した「赤シャツ・デモ隊」そのものはさほどの勢力は持っていない。PADに比較し、参加メンバーの自主性とエネルギーは各段に落ちる。

ただ、タクシン派の「武闘集団」は警察が手をつけそうもないので、随所で爆弾事件が引き続き起こる可能性は否定できない。かれらはカネを貰って暴力沙汰を引き起こす、ヤクザ・テロリスト集団なのである。もっとも、その数はそう多くはない。恐ろしいのは今回、誰かが軍の武器庫から盗み出した手榴弾を持っていることである。

一部のタイの観念左翼は「赤シャツ隊こそプロレタリア革命の前衛部隊である」などといきまいているがとんでもない話である。それは「時代錯誤」にすらなっていない幼稚な考え方である。

タイ社会が今築こうとしているのは「ブルジョア民主主義社会」である。そのなかで資本主義化が進み、増大する労働者階級や新中間層がみずからどういう政治体制を築いていくかはまだまだ先の話である。

東北の農民とバンコクの貧民層だけで、タイの「国民経済」を切り盛りしていけるはずはない。しかもそのリーダーがタクシンでは最初から話しにならない。


219.プア・タイ党が民主党連合に肉薄、一大買収作戦展開(08年12月11日)


英字紙ネーションによれば、案の定、タクシン派は民主党連合に対し、1人5,500万バーツ(≒1億4300万円)というカネで自陣への引き戻し作戦を展開しているという。タクシン一流の手法の効果はすでにかなり出てきている。


プア・タイ党の情報筋の話として「ネーウイン友の会」の議員37名中18名の買収に成功し、プア・ペーンディン党から5名、ルアム・ジャイ・タイ・チャート・パタナ党から4名,計25名を確保したといわれる。

もともとプア・タイは213名おり、ネーウィン派が37名抜けて176名となったが、ここですでに25名挽回し、現在201名を確保していることになる。

現在、首班指名の投票権を持つ国会議員数は438名であり、219名が過半数である。タクシンにとってはもう一息のところまでこぎつけた。逆転の可能性が出てきたといえよう。

というのは、もともとタクシンのTRT党出身者が多い、プア・ペーンディン党は23議席を有しており、そのうち5名がプア・タイ党についたが残り18名がそっくり移る可能性があるということである。そうなればプア・タイ党の逆転勝利である。

昨日になって、プア・ペーンディン党のプラチャ(Pracha)党首が「挙国一致内閣」への「理解」を示し、現在のスタンスは「中立」であるといって,急に無口になったと報じられている。

なんといっても5,500万バーツは大金である。大富豪タクシンにとってはあと20名、11億バーツ(30億円弱)で勝てるところまでこぎつけた。

「挙国一致内閣」というのはプア・タイ党すなわちタクシン派が「政権を維持する」という仕掛けであるが、一応の「大義名分」らしきものがある言葉である。

勝ってしまえば「タクシンの民主主義」は再び市民権を獲得でき、日本の大新聞の支持も得られるというものである。最後の勝負どころである。

今の段階で、形勢は混沌としてきたとというよりタクシンが逆転しつつあるといえよう。首班選びは12月14日(月)と考えられ、あと4日間あればタクシン派が勝利する可能性が出てきた。

タクシン派は「挙国一致内閣」をスローガンとして少数党から首相を選び、なんとしても「民主党主導の政権」を阻止する構えである。

220.アピシット首相に当選、民主党7年11ヶ月ぶりに政権奪還(08年12月15日)

民主党連合とタクシン派連合との激しい票争いの末、民主党のアピシット党首(44歳)がタクシン派が推すプア・ペンディーン党のプラチャ党首(元警察大将)に235票対198票の大差(37票)をつけて当選した。

タクシン直系のプア・タイ党は最大派閥のネーウィン派が民主党支持に回ったこともあり、一挙に形勢不利となり、自党からの首相候補擁立をあきらめ、プア・ペンディン党のプラチャ党首を首相候補に担ぎ、「挙国一致内閣」の成立を目指すという、いわば「捨て身」の作戦に出たが、プア・ペンディン党自身が民主党支持にまわる議員が続出するなど「タクシン支持」でまとめきれず、思わぬ大敗を喫した。

プア・タイ党は投票の直前まで、10票差で勝てると宣伝していたが、民主党連合に及ばなかった。しかし、後でわかったことだが、ネーウィン派が32票もアピシットに投票したということである。

ネーウィン派の票が19票プア・タイに流れていればプア・タイが217票、民主党連合が216票でプア・タイの勝利に終わっていたのである。

中小各党、派閥は14日夜は議員をホテルに缶詰状態にし、外部との連絡を一切取らせないようにして、切り崩し対策を行い15日の国会に臨んだといわれる。

タクシン派は大金を用意して切り崩しをおこなったと伝えられたが、下手な「裏切り」をすると政治生命に関わるという判断が働いた議員も多かったものと思われる。

民主党政権の誕生により、タイの民主主義は大きく飛躍するきっかけつかんだといえよう。それにしてもまたも多くの血が街頭でながされた。

ブルジョア民主主義でさえ、その確立の過程で民衆は大きな犠牲を払わされる。

これを機会にタクシンの求心力はタイ東北部においてさえ、次第にしぼんでいくであろう。タクシン政治のインチキ性に気がついている農民もすでに少なくはないのだ。

彼の欺瞞性に気がついていないらしいのが、日本のシンク・タンクの研究者や一流国立大学の専門家教授や一流新聞の記者だったりするのは一体どういうわけだろうか?

アピシット(Abhisit Vejjajiva)は中国系(客家)タイ人である。医学者の両親が英国滞在中にイギリスのニューキャッスルで生まれた(1964年)。

そのまま英国で育ち、名門パブリック・スクールのイートン校を卒業し、オックススフォード大学で政治学、経済学、哲学を学んだ。1992年に民主党に入党し、27歳で最年少の国会議員となり、若い頃から将来の首相候補として嘱望されていtた。

私が神戸大学で教官をやっていた頃(1997年)、タイで最も有望な政治家は誰かと数人のタイ人の留学生に質問したところ全員口をそろえてアピシット名前を挙げたのが印象に残った。

アピシットはチュアン・リークパイ元首相の後を受けて民主党の党首になると思っていたら、バンヤートという古手のパットしない老政治家が2003年4月に党首になってしまった。これで2005年のタクシンの勝利は確実なものになってしまった。

私はあまりのことに、「次の選挙では民主党は大敗する」とこのホーム・ページ(参考のために下に当時の記事を掲載)に思わず書いてしまった。事実はそのとおりになった。

当時の民主党は怪しげな党員が少なくなかったのである。これは明らかに「民主党つぶし」の策略に民主党自身が乗ったとしか思えなかった。いわば一部幹部の裏切り行為のように思えた。

この後民主党を脱党して、現在プラチャート党の党首におさまって今回「挙国一致内閣」の旗振り役をやったサノー氏は昔の民主党書記長であった。

民主党からは複雑怪奇な人物が次第に抜けていき、今は比較的スッキリしてきたように思える。

今までのタクシン派政権とは一味違った政策運営がおこなわれることは間違いない。タイ人のエコノミストは日本の御用学者とは比べ物にならない優秀な人が少なくない。

2009年1月には今回の憲法裁判所判決で議員資格を失った人たちの穴埋めを含め40人ほどの補欠選挙がおこなわれる。

それがプア・タイ党(タクシン派)の議席増につながることは確かだが、チャート・タイ・パタナ(バンハーン氏の旧チャート・タイ党)や民主党からもかなりの当選者が出るはずであり、「新野党」が国会で多数を制するには至らないであろう。

民主党連合政権としてはとりあえずタイ経済の「浮揚策」を実行してから国会を解散して改めて国民の信を問う形になであろう。また、ネーウィン派という「得体の知れない」集団(32議席)を抱えていては長期政権は難しいであろう。

しかし、新内閣は少数党から多くの閣僚が出ることになるであろうが、前のPPPのような「マフィア政権」と陰口をたたかれるような陣容にはならないであろう。

結論的に、タイは政治・経済とも「曙光」が見えてきたことは間違いない国際的な経済環境は悪化するであろうがタイ経済は「大健闘」するであろう。

いうまでもなく、それを支えるのはタイに進出している日系企業であり、そこで育ったタイ人のエンジニアやマネージャーであり、数多くの熟練工集団である。


(参考)←2003年4月に書いた記事です

17. 民主党の新党首にバンヤート氏、次回選挙で惨敗確実に(03年4月21日)

4月20日におこなわれた民主党の党首を選ぶ党大会で、民主党右派のベテラン政治家のバンヤート氏(61歳、タマサート大学法学部卒)が僅差(163:150票)で若手のアビシット氏(38歳)を破り、チュアン・リークパイ前党首の後継者となった。

バンヤートはカリスマ性のない、ごく平凡なベテラン政治家で副首相の経験はあるものの国民的な人気はゼロに等しい。民主党の地盤ともいえる南部出身である。

なぜ、バンヤートが勝ったかといえば、反アビシット派の保守派グループのサナンとプラディットの後押しによるものである。民主党にはサナンという元書記長で元軍人あがり金権体質の右翼政治家がいて隠然たる勢力を持っている。

彼は、政治家の財産申告で不正申告をおこなったため、目下5年間の「公民権停止」状態で、公式政治活動はできない。しかし、サナンの子分でやり手のフラディット(46歳)が専ら活躍している。

プラディットが目下民主党の金庫番的存在といわれているが、鉄道建設の汚職関与が取りざたされるなど、いまいち評判がよくない。

バンヤートはサナンとプラディットのいわば「傀儡(かいらい)」であるというのは衆目の見るところである。バンヤートは民主党の新書記長に、プラディトを選んだ。新執行部はバンヤート派で固められた。

国民的人気の高いハンサムなオックスフォード大学卒のアビシットは副党首の1人の地位にとどまり、出番は事実上なくなってしまった。

アメリカでブッシュが僅差で、大統領になったおかげで、アメリカはとんでもない方向に進みつつあるが、バニャンの率いる民主党はタクシン率いるタイ・ラク・タイ党に対して対抗手段は何も持たない政党になってしまった。

金権体質のパットしない政党に成り下がったといえよう。この結果を最も喜んだのはタクシンであろう。タクシンの天下は当分続き、タイは東南アジアのなかでもたいした魅力のないファシズム的国家の道をたどることになりかねない。

民主党の良識派党員の困難な闘いはこれから始まるであろう。そして、いつかは彼らが勝利するのである。それが戦後のタイの政治史の教えるところでもある。好漢アビシットの自重を望みたい。


221.トンチンカjンな朝日と毎日新聞の記事(08年12月16日)

バンコクのタニヤ街という歓楽街に「キンコンカン」という名前のナイトクラブが昔、私が駐在していた頃あった。今でもあるかどうかは知らない。

本日の朝日新聞を読むと、タイの民主党のアピシット党首が首相に選ばれたのがよほど「お気に召さなかった」様子で、タイでもあまり例を見ないような悪口雑言がナリフリかまわず書き散らしてあった。

一体何を考えてこんな「トンチンカン」な記事を書くのかといいたい。

まず、タイの憲法裁判所は「不当判決」を下して、PPPほか2党の解党命令を出したが、民主党は無罪であっという。裁判所も新聞も軍も(警察もとはさすがに言っていない)タクシン潰しにヤッキになっていたというのである。

タクシン政治の弊害はあまりに大きいのでバンコクの知識階級の多くはタクシン潰しに一生懸命であったとしても、民主党が無罪なのはおかしいということの根拠は一体何か?朝日新聞の特派員がそう断言するのならその根拠をわれわれ無知な読者に先ず示すべきであろう。

憲法裁判所が不当判決をしたというのなら、タクシンの政党が解散させられる理由がないことをタイの法律に即して主張すべきではないだろうか?

それをやらなければ、朝日新聞は逆に「タイの司法制度」がデタラメで信用できないものであると、日本の読者に根拠無しに宣伝したに等しい。これは重大な「法廷侮辱」であるし、タイに進出している多くの日系企業とその駐在員と家族に大きな不安を与えるものではないだろうか?

他にも、かずかずの問題点はあるが、この点だけでもはっきりさせていただきたいと思う。

それから、民主党が昨年末の選挙で大敗したというのも変である。民主党は前回(2005年)の選挙に比べ70%も議席を伸ばし、逆に75%の議席を持っていたタクシンの政党のPPP(人民の力党)は48.5%と過半数割れをしたのである。それも盛大なる買収工作をおこなっての結果であった。

民主党を嫌うのはご自由だが「惨敗」というのはこれまた「トンチンカン」な表現ではなかろうか?

⇒毎日新聞も同罪(08年12月19日に書き足し)

毎日新聞もひどい解説記事を載せている(12月16日付け)。それはわかっていたが、多忙で書くのが少し遅れた。

見出しが「財界に軍・司法協力、民主的なデモ装い」とか「実態は守旧派復権』といったものである。要するにPAD(民主人民連合)のでもはバンコク市民の「タクシン政治」への拒否などではなく「財界に踊らされたものである」という論旨である。

「タクシン」がなぜ潰されなければならなかったかという分析はただの一行も書いてない。毎日も朝日も「タクシン政権」の問題点について過去ロクな報道もしてこないで、今になって「タクシンの恨み節」を増幅してに日本国内に流しているのである。

はっきりいって両紙の論調は「タクシンの言い分そのものであり」新たな分析はなく、下品さを付け加えただけである。やたらに「感情的」に軍や裁判所の悪口を並べ立てている。この両紙は「タクシンの代弁者」といっても過言ではない。

タクシン政治の功罪については私はこのホーム・ページで過去7年間書き続けてきた。いくつかを挙げれば
@タイの国民経済をなおざりにした、極度の福祉政策(30バーツ診療)。それは国家資金による票の買収=ポピュリズムであった。

A民主主義政治とは程遠い、極度の独裁政治(政治にアメリカ流経営法のCEOの手法を導入。

B極端な汚職、ネポチズム(縁故主義)による国民資産の私物化と山分け。

C麻薬撲滅事件に見られるような、裁判抜きの国民の大量虐殺(3,000人近い)。

D民主党の地盤である南部、イスラム教徒への弾圧(南タイの騒乱はタクシンの政治手法にその多くの責任がある)。ソムチャイ弁護士失踪事件。

E脱税のための権力の計画的乱用。これがタクシンの命取りになった。

F国王の忠告の無視(国王はタクシンの言動が常軌を逸していることを再三タシナメたが一切無視された。

などなど具体例はいくらでもある。タクシンはタイの「司法」にヤラレタと主張しているが、タクシンが政権に就いた2001年に資格検査(資産公開)のときに資産を運転手やメードの名義に切り替えて、ゴマカシをやったときに、憲法裁判所の判事を買収して、辛くも8対7でシロ判決をもぎ取り政権に居座ったことを忘れている。

また、タクシンほど言論弾圧で司法を活用した首相もタイの歴史では類をみない。シンガポールでも時々みかけるが、批判者を「名誉毀損」で訴え多額の賠償を請求するというやり方である。安月給の1女性レポーターにまで数億円の賠償請求をするというエキセントリックなやり方をして、ジャーナリスト全体を威嚇した。

また、最近でも「ラチャダピーセックの国有地払い下げ」でポジャマン夫人が落札するという「国際社会ではおよそありえない」事件の裁判で、主任弁護士が最高裁事務局に「手土産」として200バーツの現金の入った「菓子折り」を持ち込む事件を起こし、主任弁護士は現在ブタ箱に入れられている。

このようなタクシンの「輝かしい事跡」をほとんど何一つ報道してこなかった朝日や毎日が、ここに来て「タイの裁判所」はケシカランとか「財界や保守派の言いなり」になってタクシンつぶしをおこなったのは問題だなどと大きな紙面をさいて主張している。

特に、毎日の藤田悟特派員の言い方で気になるのは「クーデター後のスラユット政権が経済政策の失政をおこなった」という記事である。これが、タクシンの政党のPPPが2007年末の選挙に勝った理由であるということを書いている。

これは珍説である。スラユット首相の在任期間は短く、「憲法改正と選挙管理内閣」というべき役割を誠実に果たしたに過ぎない。自ら長期に政治権力を維持しようなどとご自身でも考えていなかったし、周囲も早く選挙を実施して交代するとみていた。

「経済政策の失政」とはいたい何を意味しているのか経済学者の私には全く理解できない。藤田氏はその「失政の内容」を説明していない。過去にもそういう報道をされたようには思えない(因みに私は40年以上毎日新聞を購読している)。

前回の選挙でタクシン派がいかにすさまじい選挙違反をやったかを毎日新聞は報道したことがあるのかと言いたい。それとタクシンの政党は過去75%の議席を確保しながら、今回PPPは過半数割れの48.5%「にまで議席を減らしたのである。

逆に民主党は70%も議席を増やしたことが今回の政変につながっていたのである。民主党の大敗北というのは実は「大勝利」だったのである。

タクシン派のPPPの副党首が現金バラマキをおこなったかどで「解党命令」を出されたのが「国際基準では疑問符が付けられる」などと藤田氏は書いているが、「タイの憲法の規定が国際基準以下」であるなどということを偉そうに言う資格が藤田氏にはあるのだろうか?

憲法そのものが国民投票で支持されたものであり、「解党判決」も60%以上が「妥当なもの」とアンケート調査では評価されている。「国際基準」云々というのは思い上がりの発言であろう。タイでは選挙に「買収が付き物」とう慣行を打破しようという国民的願いから出た憲法の条項である。

首相のアルバイトも当然禁止している。パーティーでのカネ集めなども同様である。民主主義国家日本は首相のセガレが急にテレビのコマーシャルに出たり、国会議員がパーティーでカネ集めなどを公然とおこなっている。これは「国際基準」に照らすとどういうことになるのであろうか?

また、朝日や毎日の報道内容の「国際基準」はそれではどうなっているのだろうか?この両紙の特派員は「タイの民主主義」や「裁判制度」の危機を大所高所から論じている積りかもしれないが、過去自分達がどういう報道をしてきたか謙虚に反省すべきであろう。


今回の民主党政権はタクシン派の「ネーウィン・グループ」の寝返りによって生じたものであるが、逆に言えばタクシンの求心力の衰えの反映である。なぜそうなったかを報道・解説すべきである。「守旧派」がタクシンにジェラシーを感じておこした「静かな軍事クーデター」などという上滑りな表現で読者をだまそうとしてはならない。

PADのあれだけの大闘争のエネルギーを「旧派の財界に踊らされた」無知な大衆の妄動では説明になるまい。行き過ぎはあったにせよ、「タイの民主政治の発展」の重要なステップであったと後世評価されることは間違いない。

なお、今まで本ホーム・ページでは特派員の記事を名指しで批判することは避けてきたが、署名入り記事については今後は本人名も場合によっては書かせていただくことにした。


日経の記事はもっと穏当な書き方であったが、「守旧派」の巻き返しという論旨で、上記2紙と大同小異であった。それではタクシンが「進歩派」でタイ経済の発展に本当に貢献したのかといいたい。最近のアジ研から出た本では「貢献」したと書いてあるが、中国向け輸出ブームで日系企業を中心に輸出が急拡大しただけの話しである。


222.アピシット内閣発足(08年12月20日)

アピシット政権の閣僚名簿が国王の認証を得て、12月22日(日)に認証式がおこなわれる運びになった。7党会派の連立政権であり、多くの閣僚ポストが民主党以外に振り当て入るのは下表のとおりである(一部所属会派が不明)。

特に商務相と工業相の重要経済閣僚ポストが弱体であると経済界から指摘されている。アピシット首相は主要経済委員会の委員長は首相自身が務めるのでさほど心配は要らないと説明している。

首相府担当国務相のウラチャイ氏財閥チャロン・ポカパン・グループからの強い推薦で入閣したと取りざたされている。タクシン時代からタイの金融界代表として国際会議でも活躍している。チャロン・ポカパン・グループは身内をタクシン政権に送り込むなどしていたが、最近はタクシンと袂をわかって、資金面などで民主党にかなり肩入れしてきたといわれている。

また、連立政権を左右するネーウィン派(FON)とプア・ペーンディン党(PPD)に各各4ポストが振り当てられるなどの配慮がなされているのはいたし方がないところであろう。バンハーン元首相率いるチャート・タイ(現在はCTP=Chart Thai Pattana)からはリーダーのサナンが副首相、バンハーンの息子のチュンポン・シラパアーチャ氏が観光スポーツ相として入閣した。

この閣僚の顔ぶれから見て、あまり汚職で新聞種になりそうな人物は含まれていないように見受けられる(政治の世界ではしばしば善人が悪人に転化するが)。弱体ではあるが比較的良質であり、タクシン政権時代よりはマシであるといえよう。

特に、財務相のコーンは44歳の若さで、民主党内ではアピシットに並ぶ逸材といわれている。1999〜2004年までJ.P.Morgan Chase & Co.のバンコク支店長を務めていた。タイではトップ・クラスのエコノミストとして知られる。アピシットとはオックスフォード大学時代のクラス・メートでもある。

カシット外相は年齢64歳(1944年生まれ)の外務官僚であり、ジョージ・ワシントン大学出身で、駐日大使、駐米大使のほかインドネシア、ドイツ、ソ連大使なども務めた超大物外交官である。正義感が強く、反タクシン派であり、PADの支持者として知られている。スバンナブーム、ドンムアン空港を占拠したデモ隊に激励演説ヲしたことがタクシン派から攻撃の槍玉に挙げられそうだ懸念されている。

アピシットはそんなことは百も承知で彼を外相に任命した。それが朝日の特派員の逆鱗に触れているらしい。そんなことはアピシット首相に任せておけばよいことである。

また、この政権で当面は国民の支持もあり、たいした問題はないと思われるが、タクシンの執念深さは想像を絶するものががり、揺さぶりも続くことが予想され、何時まで持つかは予断を許さない。

いずれにせよ短期政権となるであろうことは予想される。次の選挙で民主党がどこまで議席を伸ばせるかが焦点になる(現有168議席、全体480議席)。

首相 アピシット Abhisit Vejjajiva 民主党
副首相 ステ-プ(国民安全担当) Suthep Thaugusban 民主党
副首相 コ-プサク(経済担当)「 Korbsak Sabhavasu 民主党
副首相 サナン(農業担当) Sanan Kachornprasat CTP
首相府担当相 サーティット Satit Wongnongtaey 民主党
首相府担当相 ウィラチャイ(元外務次官)) Virachai Virameteekul 財界
国防相 プラウィット(元国軍司令官) Prawit Wongsuwan 独立
財務相 コーン Korn Chatikavanij 民主党
プラディット Pradit Pataraprasit RC
プルゥティチャイ Pruektichai Damrongra PPD
外務相 カシット(元駐日大使)) Kasit Piromya 民主党
観光・スポーツ相 チュムポン Chumpol Silapa-archa CTP
社会開発・福祉相 ウィトーン Witoon Nambutr 民主党
農業・共同組合相 ティーラ(前灌漑局長) Theera Wongsamut 官僚
チャーチャイ Chartchai Pukkayaporn FON
運輸相 ソポーン Sophon Saram FON
クアクーン Kuakul Danchaiwijit CTP
プラチャク Prajak Kaewklahan FON
天然資源・環境相 スウィット Suwit Khunkitti SAP
情報通信技術相 ラノンラット(女性) Ranongruk Suwanchawee PPD
エネルギー相 ワンナラート Wannarat Chanweerakul RC
商務相 ポンティワー(女性) Pornthiva Nakasai BJT
アロンコン Alongkorn Pollabutr 民主党
内務相 チャワラット Chaovarat Chanweerakul FON
ブンジョン Boonjong Wongtrirat FON
タウォン Thaworn Senneam 民主党
法務相 ピラパン(元判事) Peeraphan Saleerattavipak 民主党
労働相 パイトーン Paitoon Kaewthong 民主党
文化相 ティーラ Teera Slukpetch 民主党
科学技術相 カラヤー(女性) Kalaya Sophonpanich 民主党
教育相 ジュリン Jurin Laksanawisit 民主党
ナリサラー(女性) Narisarat Chawaltabpithak PPD
チャイウット Chaiwuti Bannawat 民主党
公共保健相 ウィッタヤー Witthaya Kaewparadi 民主党
マニット Manite Nopamornbodi 不明
工業相 チャーンチャイ Charnchai Chairungrueng PPD

注;一部所属会派などが不明な点がありますが判明次第改訂します。


CTP=Chart Thai Pattana
FON=Friend of Newin Faction
SAP=Social Action Party
RC=Ruam Jai Thai Chart Pattana
PPD=Pua Pandin
BJT=Bhum Jai Thai

223.アピシット首相の支持率は60%と上々(08年12月21日)

ABACポール(アサンプション大学による世論調査で17県3,515人対象)によればアピシット首相への支持率は59.7%の回答者がアピシット首相をを支持すると答えたという。

意外なことにバンコクでの支持率が低く、51.1%が支持すると答え、48.9%が支持しないと答えたという。理由は良くわからない。一方、地方の都市部の住人は65.9%、農村部の住民は59.2%が支持すると答えた。

政権発足後の政治情勢については「良い方向に向かう」と答えた人が38.2%、「悪い方向へ向かう」と答えた人が28.2%、「分からない」と答えた人が33.6%であった。確かに多党連立政権であり、すっきりしないという印象を人々は持ったのであろう。

それでも、「政権交代により希望が持てるようになった」というひとは59.1%あり、「依然として不穏な動きがあり、不安が残る」とした人が40.9%いる。確かにタクシンの執念深い性格を考えれば、このまま収まるはずがないと思う人が多くいても不思議ではない。タクシンは過去何回も「政治からは手を引く」と約束しながら、いっこうにその気配は感じられない。

全体的な「幸福度」が08年10月調査では10点満点で4.84ポイントであったのに対して今回6.55ポイントと急速に高まったという。

日本では麻生内閣成立直後は支持率が70%であったが、数ヶ月後には20%そこそこまで急落した例があるから「楽観」は必ずしもできないが、朝日新聞の記事のように「論功行賞」内閣だとはタイ人は必ずしも見ていない。

連立政権ではある程度はどこの国でも「論功行賞」はつきものであり、それがないには日本だけ(???)かもしれないが、苦しいワクの中から財務省関係はきっちりとした人材で抑えたし、農業相もテーラ(THeera Wongsamut)灌漑局長を抜擢し、農業対策を本格的にやる姿勢を明確にしている。

前のタクシン派政権は「マフィア内閣」とすら陰口を叩かれていたことを忘れてはならない。ネーウィン派も比較的質の良い人を出してきたように思う。首相代行をやっていたチャワラット氏が議会を解散しなかったので「ゴホウビに内務相」の地位につけてもらったなどという朝日の記事は全くのナンセンスである。

議会の解散に反対していたのはソムチャイ首相であったし、首相代行から暫定首相になったチャワラット氏に「議会の解散権」がないという説が有力だったはずである。朝日に限らないが日本の一流紙はもっと客観的で公正な報道をすべきである。

気になるのはやたらに「感情的」とも思える書き方である。何も知らない読者はそれを鵜呑みにし「タイに対する誤ったイメージ」を持ってしまいがちである。

(ABACポールの記事は『タイの地元紙を読む』の08年12月21日版を参照しております。コメントは全て筆者自身のものです。)


224.アピシット政権起動、まず1,800億バーツの景気刺激策(08年12月25日)


コーン財務相は1,800億バーツの緊急景気対策を策定した。これは前政権の1,000億バーツ対策案よりも80%多い。

しかし、コーン財務相は前政権が実施を目指した「ビッグ・プロジェクト」については内外の経済的客観情勢をみながら優先順位について再検討するとしている。

しかし、既に入札済みで外国の援助が織り込まれているプロジェクトについては予定通り進める方針である。例えばパープル(紫色)・ラインと呼ばれる、バン・ヤーイからバン・スーまでの高速鉄道計画は日本政府の190億バーツ(≒500億円)の初期借款が決まっており、予定通り進める。

レッド・ライン(ターリン・チャン⇒バン・スー)とブルー・ライン(ター・プラ⇒バン・スー)がこれに続く。

また、新政権は従来のタクシン政権がとってきた貧困者層政策(無料公共バス(特定ルートのみ)、電気と水道の無料供与)は継続する。

ただし、今月末で期限切れになる石油製品の「減税」措置は石油価格が低下してきたので廃止する。

法人企業減税は見送る。そのかわり、財政支出の効率化によって「景気刺激」をおこなう(汚職等を減らし、財政資金効率を上げる)。

国営銀行への増資を検討する。

これらの対策では2009年の経済成長率はプラスになるか否かはわからない。特に08年11月の輸出は突如前年同月比で20%近いマイナスになったといわれており、その動向如何では思い切った内需振興策が必要となろう。

タクシンの「ポピュリズム」政策によってタイの財政は「政策の自由度」が制約され硬直化の傾向にあり、赤字財政の許容度が改めて議論されることとなろう。

また、商業相が「弱体」であるとの指摘(ポンチワー女史はナイト・クラブの経営経験しかないといわれている)に答えて政府は強力な顧問団を結成し、主要テーマごとに分科会(貿易交渉、輸出振興策など)の設置が決められ、人選もおこなわれた。こういう話はアピシット政権は「経済専門家」政権だけあって対応が機敏である。

その点、極東の某経済大国は「経済音痴」政権といわれ、右往左往ばかりが目立つ。もっともお坊ちゃまはそれくらいのユトリがあって当たり前かも知れないが。

⇒保健省が地域保健・医療ボランテアーに60億バーツ支給の予算措置(08年12月25日

上の1,800億バーツに含まれるか否かは別として、現在タイ全土で83万人いるといわれる保健・医療ボランテアーに対し、月額200バーツ(620円)の手当てを支給することとし、60億バーツ(156億円)の予算措置を講じた。

今までは手当てはゼロで交通費も弁当も自分持ちだったというのだからすさまじい。短期間のボランテアなら話は別だが、年中では農業などで生計は維持していてもかなりきつい話しである。

タイではタクシンの始めた30バーツ医療が、スラユット政権時代に、「カネを取ると事務費が嵩み、かえって診療施設の負担が増える」として思い切ってゼロ診療にしてしまった。

そのかわり、医療の質の低下は加速された。診療所から医師や看護婦が逃げ出すものが後を絶たないといわれている。ソレモソノハズでタクシンは「ポピュリスト政策」で票を集めてしまうと後は現場で働く医師や看護婦に負担と犠牲を強いるといいう無責任な態度を取った。

マトモな処遇をしていてはタイの財政規模で30バーツ診療を維持することは最初からムリな相談である。従って30バーツ診療を受ける「有資格者」を貧民層に制限するという措置は講じられている。

バンコクの普通の中間層はこの30バーツ診療を受けずに民間の病院で診察を受けるという人が多い。

ところが問題は地方の国営の診療所の医師の待遇のひどさである。月の報酬が2,000バーツ(5,200円)だというのである。しかも同僚が次々辞めていく中で、残った数少ない医師はもっぱら自己犠牲の精神で長時間労働をおこなっている。

せめて月10,000バーツにしてくれというのが医師団の要求だという。バンコクで働く労働者は最低でも8,000バーツくらいの賃金は得ている。こんな収入ではいくら地方にいても生活は維持できないであろう(実態はもう少し別なのかも知れない)。

こういうムリは長続きしない。抜本的に考えなおさなければやってはいけない。しかし、ゼロ診療をなくすといったら、選挙で負けることは目に見えている。タクシンのポピュリスト政策の禍根は簡単に癒すことは不可能である。

日本の一部の特派員もタクシン派の片棒ばかり担いでいないで、少しは「ポピュリズム政策の功罪」といった記事でも書いてもらいたいものである(ただしご自分で取材して)。


(バンコク・ポスト、08年12月25日の記事参照)


225.アピシット首相、施政方針演説を外務省で(08年12月30日)


12月29日(月)に国会でおこなわれる予定であったアピシット新首相の施政方針演説は、タクシン支持の反独裁民主主義連盟(バンコク・ポストはDAADといいネーションはUDDと表記)のデモ隊(9,000人、一説には2〜3万人)が国会の入り口を封鎖したため、議会に議員が入れず、30日(火)に延期された。

この辺の事情は日本の新聞でも報道されているので、ご存知の読者も多いと思われる。朝日新聞の特派員の記事を読むと「ザマミロ」といわんばかりの書き方がしてある。まったく下品な記事である。

アピシット首相はソムチャイ首相と違って、警察によるデモ隊の「暴力的排除はおこなわない」ということで無理押しをしなかった。民主派(??)タクシンの義弟であるソムチャイ前首相は「タイの民主主義を死守するため(??)」警察に爆弾催涙弾を発射させ2名の死者と500名近い負傷者を出す「惨劇」を強行した。これは21世紀のタイの政治史に残る重大事件である。

アピシットは30日、バスを連ねて国会に向かったが2000人ほどのUDDのデモ隊(赤シャツ隊とも呼ばれている)が徹夜で国会への入り口を封鎖しているので、次善の策として用意していた外務省の建物で臨時に国会を開催し「施政方針演説」をおこなった。

タイの法律では首相に選ばれると15日以内に「施政方針演説」をおこなうことが義務付けられている。

この「外務省国会」は与党と上院の議員は参加したが、タクシン派のプア・タイ党はボイコットした。「憲法裁判所」に国会規則違反であるとして提訴する方針だという。民主党はこれは違法ではないとしている。

バンコク・ポストは国会から「外務省」に施政方針演説の場を移したという記事をなんと「AFP」電で報じている。"POLICY speech delivery relocated."という記事である。国内の重要記事を外電を使って報道するというのは一体何事が起こったのであろうか?英文を書ける記者が足りないのであろうか?そんなはずはあるまい。

バンコク・ポスト内には「タクシン派とみられる」編集スタッフがいることは想像がつくが、これは異常である。タイの社会のアチコチに深いキレツが生じているらしいことはなんとなく感じられる。


ところで、日本の新聞は「タクシン派一辺倒」の一流新聞が多いから、そういう心配はない。彼等はタクシンの都合の悪いことは一切報道しないという方針でやってきたようである。

新聞以外でも日本の社会では活字になっている文章のほとんどがタクシン派で固められている感じがする。特にアジ研の出版物などその典型である。これには東大や京大の「偉い先生」がついているので唖然とさせられる。

いつの間にか日本の東南アジア政治経済論は「開発独裁論=独裁者礼賛」に一本化されてしまっているようである。独裁者はマルコス、スハルト、リークワン・ユー、マハティール、タクシンと続いてきた。彼らが「在職中」に彼らの批判がほとんどなされていない。失脚後も「義理堅く」彼らを擁護・礼賛し続けている場合が多い。

これがわが国の「東南アジア外交」の基本的なイデオロギーになっているとしたら大問題である。個人的には「民主派(本当の)」や「良識派」の研究者やジャーナリストも多少はいることは承知しているが彼等は「陰に陽に」押さえ込まれてしまっている。

特に、国民の税金を使っているアジ研はおそまつな「タクシン礼賛本」ばかり出さないで、もっと客観的な分析をおこなったまともなレポートを出してもらいたいものである。


T09-1.バンコク・ナイト・クラブの火災で60名死亡、日本人も犠牲に?(09年1月1日)

09年1月1日午前零時少し過ぎに、日本人が多く居住するスクムビット通りのソイ(枝道)63にちかい、ワッタナー区ソイ・エカマイ9-11にある巨大パブ(ナイトクラブ)「サ−ンティカ(Sankika)」で火災が発生し、60名が焼死または煙に巻かれて窒息死し、負傷者が200名以上発生するという大惨事が起こった。

原因何時いては既にNHKなどで報道されている通り、新年のアクント・ダウンの際に小型花火がホール内で打ち上げられ、それが天井の飾りなどに引火したものとみられている(真相は調査中)。

客は外国人が多かったといわれているが、英字紙ネーションが報じている犠牲者28名(判明した人たち)中1名がシンガポール人であとは全員タイ人の名前であった。病院で手当てを受けた200人のうち35名が外国人であったという報道(WSJ)もある。

問題は姓名がわかっていない32名の遺体(女性14名、男性17名、不明2名)である。また、負傷者の中から死亡者が出ており、最新のWSJは既に61名が死亡したと奉じている。

チュラロンコーン大学病院によれば「ケイイチ・ワダ(25歳)」という日本人が「全身60%以上のやけどを負い危篤状態にある」ということである。別の報道では「死亡」とされていたようである。


「サンティカ」は「パブ」という言い方がされているが、3階建ての建物に1千人もの客が入っている、一大オープン・ナイトクラブとも言うべきもので、観光客や単身でタイで働いている駐在員などが気軽に出入りする場所のようである。

サンティカには出入り口は1箇所しかなく、そこに避難客が殺到したため、将棋倒しになり、犠牲者が拡大してしまった。館内には「避難口」の掲示もなく、それでもタイでは違法ではないらしい。

アピシット政権発足早々大事件が起こったものである。アピシット首相も早速現場に駆けつけ、「一体誰が花火を持ち込むことを許可したのか?」と語っていたという。たとえ禁止しても平気で持ち込むのがタイである。

昨年の元日は早朝に爆弾テロがあったが、ことしはそういう報道は今のところない。ただし、南部でイスラム・ゲリラが大攻撃を加え、既に兵士が10名近く殺害されている。



T09-2.タイ下院補欠選挙で与党民主連合が圧勝、タクシン派の退潮目立つ(09年1月12日)


1月11日(日)におこなわれた下院議院の29議席(12月はじめの3党解散命令を受けて議員資格が失われた分)の選挙がおこなわれたが、与党連合が20議席を確保し、タクシン派のプアタイ党は失われた13議席中5議席しか確保できず大敗した結果となった。

速報段階ではあるが党は別に見ると、旧チャート・タイ・パタナ党が10議席(先に失った議席数は19)、民主党が7議席、プア・ペンディン党が3議席、与党連合は計20議席。

一方、野党連合はプアタイ党(旧PPPで失われた議席13)5議席、プラチャート党4議席で計9議席となった。

特に注目すべきは従来民主党の議席がゼロであった北部ランパーン県でタクシン派の大物であるペーチャラワット氏を民主党公認のカヤン・ウィポロムチャイ氏が破ったことである。今回の選挙で、民主党はタイ東北部や北部に足場を築いたともいえる。

タクシン派の「赤シャツ軍団」はランプーン県に遊説に来ていた民主党の元党首であるチュアン・リークパイ氏に卵を投げつけるなどして応援演説をさせなかったが、それがかえって住民の反発を買ったという見方もされている。

いずれにせよ、今回タクシン派の牙城といわれていたタイ東北部と北部を中心とする(一部バンコクなどもあったが)選挙で与党連合が圧勝し、しかも民主党が議席ゼロから7議席獲得したことは「政治の流が変わった」ことを示唆している。

また、同日おこなわれたバンコク知事選挙では民主党公認のスクムパン氏が45%以上の得票でプアタイ党候補のユラナン氏を大きく引き離して圧勝した。これはアピラク前知事が「消防車汚職疑惑」のトバッチリを受けて起訴され、知事を辞任したことを受けての補欠選挙であった。

当初 解党後
実働 新議席
旧PPP(バラン・プラチャーチョン党) 232 219 213 218
民主党 165
165
165 172
旧チャート・タイ 34
15
15 25
プア・ペーンディン 24 24 23 26
ルアム・チャイ・タイ・チャート・パタナ 9 9 9 9
旧マッチマーティパッタイ 11 11 11 11
プラチャラート 5 5 5 9
合計(内は比例区で内数) 480 447
441 470


旧PPP党から約0名ほどの「ネーウィン友の会」の議員が民主党連合に加わったので、タクシン派は少数になってしまった。今回の選挙で民主党連合政権は250名を超え、野党連合に40議席以上の差をつけたので、一応政権としては安定した。


T09ー3.ネーウィン派約30名がブーム・ジャイ・タイ党に合流、与党連合第2党に(09年1月16日)


旧PPP(タクシン派)から離脱し、民主党連合政権に参加したネーウィン友の会のメンバーが旧マッチマーテイパッタイ党のブーム・ジャイ・タイ(Bhum Jai Thai)党に合流することになった。

旧マッチマーテイパッタイ党というのはタクシンの政党の「タイ・ラク・タイ(タイ愛国)党」の非主流派が作った政党であるが、今回約10人の議員集団として民主党連合政権に参加し、代表格のポーンティバ(Pornthiva Nakasai)女史が商業相として入閣している。

ネーウィン派の30名が参加すると、約40名の国会議員を擁する、与党内では第2位の政党となる。この両者の合併大会が1月14日(水)に開かれた。

党首にはポーンティバ女史が選ばれたが、最大の実力者はネーウィン氏である。

さらに注目すべきは現在被選挙権を奪われている旧タイ・ラク・タイ党の非主流派の派閥のボスがこの「合併大会」に出席していることである。

しばしばタクシンの妹のヤオワパ(Yaowapa=夫はソムチャイ前首相)率いる主流派と対立していたナムヨム派の幹部のスリヤ(Surya Jungrungruengkit)氏や中部タイの議員グループ(サノー氏のナム・イエン派に属していたが離脱した)のボスのソロアット(Sora-at)氏などの影の実力者がかなり参加したことが注目される。

彼等は新政権に「裏口入学」を試みているようである。

タクシン派の本流のプア・タイ党がヨンユットを党首にしたことで、彼とはソリが会わない人たちは「裏口入学」の志望者になるであろう。ヨンユットにしても実権はヤオワパ女史が握っており、いわば「雇われ党首」の立場である。彼は自分のせいでプア・タイが落ち目になったなどといわれては心外であろう。

しかし、ブーム・ジャイ・タイ党が大きくなってもアピシット政権が安定するわけではない。むしろ「時限爆弾」が大きくなったとみることができよう。ネーウィンは今回の合併により完全に連合政権の「キャスティング・ボート」を握った。

民主党としては時期をみて総選挙に打って出てもっと議席を増やし、できれば単独過半数を獲得するほか仕方がなくなったともいえよう。また、それはある程度可能な状況でもある。

ポイントは北部と東北部で民主党の議席をいくつ増やせるかである。今回の補欠選挙では不利が予想されたいやランプン県で勝利した。

ネーウィンはもともとチャワリットの率いる「新希望党」の出身で、同党はもともとタイ東北部に強く、次回の選挙ではプア・タイ党との激突が予想される。しかし、勝敗に関係なく選挙が終われば再びタクシンの魔の手が伸びてきて、そちらに移る可能性も否定できない。

ネーウィンを首班とするタクシン派政権ができるかもしれない。

タクシンはそれまで「ムダがね」を使わないでジット待つという作戦にでているようである。しかし、「タクシン人気」も急速に衰えつつあるように見受けられる。


T09-4.アピシット首相、ソムチャイ事件などの重要事件の解決を督促(09年1月21日)


アピシット首相は警察トップと会議を開き「法の支配」という考え方を国内に徹底させるためにも従来の重要事件で捜査が進展していない事案の解明を急ぐように促した。

会議に出席したのはターニー警察本部副部長(Thani Somboonsap警察大将)と本部長輔佐アサウィン警察中将(Asawin Kwanmuang)が居た。

アピシット首相が挙げた具体的な事例は
@ソムチャイ、イスラム教徒弁護士会会長失踪事件;警察官に拉致されてことは判明しているが、その後どうなったかは解明されていない。これは日本では報道されなかったが国際的にも注目されている事件である。

Aゴーンテェープ・ウイリヤ氏事件;タクシンの会社であったシン・サテライト社の関税脱税事件疑惑を告発し、証拠書類を提出した乙仲業者で、殺害脅迫があり、逃れていたがチェン・ライ県で暗殺された事件であり、タクシンが暗殺を指示した疑いがもたれている。

この2件はタクシンが警察に影響力を持っている限りは解決不可能といわれていた。

現在の法務省特別捜査局のターウィ局長はサマック首相が任命した人物でタクシンときわめて近い人物であり、近く更迭されるといられている。

これ以外にもサウジの外交官やホア・ヒンでイギリス人の大学職員夫妻が殺害された事件も解決を督促された。

しかし、警察としてもアピシット政権がいつまで続くかわからない現状では動きそうにない。タクシンの警察への影響力は依然として根強いものがある。しかし、タクシンは軍の掌握には失敗した。自分の従兄弟を国軍総司令官に無理やり昇格させたこともシコリを残したことは間違いない。


T09-5.「貴方の過去など知りたくないの」朝日新聞のタクシン元首相インタビュー(09年1月26日)

1月17日の朝日新聞にタクシン元首相と柴田直治記者のインタビュー記事が載っている。内容的にはタクシンの言い分を右から左に書き流しただけの無内容なものであった。この記事の「英訳」をタイの英字紙ネーションに送った奇特な方がおられ、その内容が気に入らなかったようで朝日がわざわざ「英文の要約」をネーションに送ったようである。

そんな経緯は私にはどうでも良いことだが、タクシンノ言い分を無批判に垂れ流す朝日の意図が私にはどうにも理解ができない。

インタビューの中でタクシンの「税金逃れ」について質問があり、タクシンは「不当に多額のカネを差し押さえられ」たといっているが、それはタイの法律の問題であり、正当性については法廷で争えばよいことである。

子供達に株を譲渡するのになぜタックス・ヘーブンを使ったのかすらタクシンは説明していない。違法性がないというのはタクシンの勝手な言い分であろう。問題がないのであれば、バンコクで白昼公然と譲渡すればよいではないか?

柴田氏の「解説」によると「タクシンはかつて大金持ちだったが今はカネがない」らしい。確かにタクシンは選挙のたびごとに大金を投入し、多数を維持してきた。

気になるのは「(タクシンは)財界や旧来の支配層の意向を気にする必要もなく、貧困対策を進めて地盤の北部や東北部で絶大な支持を得た。」と書いている。しかし、選挙で多額のカネをばら撒くこと自体が「憲法違反」であり、PPPはそれがゆえに解党処分を受けたのである。

あたかもタクシンが「貧者救済」を目的として政治の世界にはいって行ったかの書き方である。タクシンがポケットマネーで「貧者救済」をやったというのならば誠に尊敬すべき政治家といってよいであろう。

しかし、タクシンの「貧者救済」なるものはいわゆるポピュリスト政策であって、「国家資金をばら撒いて、貧民層の票をかっさらって」政権を維持してきたのである。タクシンの政治目的は柴田氏の書き方によればあくまで「善の追及」ということになるようだ。


税金を主に納めているのは誰か?それは企業家であり、新中間層と呼ばれる比較的所得の高い人々であろう。彼らの税金を使ってタイの北部と東北部で票を集め、「CEOスタイルの政治と称して独裁権を振るっていた」のがタクシンである。

その間に汚職や利益誘導(お手盛り行為)をさんざやっていたのがタクシンである。バンコク市民が「怒るのはアッタリマエでしょう」ということになる。

プーチャドカン(マネージャー)という雑誌社のオーナーのソンティ氏が「タクシン氏への私怨」から反タクシン運動を起こしたというが、PAD(民主主義のための人民連合)に集まった数十万の人々はそういう個人的動機の有無などは無関係にタクシン政治ではダメだと思って運動に参加したのである。ソンティに「騙される」ほどバンコク市民はアホではない。

私が気になるのはタクシンが政権についた直後からおこなってきたさまざまな言論の自由の抑圧や非合法行為(麻薬キャンペーンの時の3千人近い「被疑者」の虐殺や脱税証人の暗殺やソムチャイ弁護士の拉致・抹殺事件など)への「容認・黙認」や数限りない「汚職行為・お手盛り行為」など一切朝日新聞も報道しなかったし、柴田記者もそれらの問題には言及していないことである。

「ああそれなのにそれなのに」なぜタクシンの擁護・弁護に狂奔してきたのかである?現にドバイまでタクシンを追いかけていって「毒にも薬にもならない」(実際は毒が充満しているが普通の読者にはそれが見えない)記事を書くのか?

しかし、タイ国民の多くはそれらの事実を知っているのである。タイ人であれば、タクシン派であれ反タクシン派であれ、こんなレベルの記事は見向きもしないであろう。特に教育レベルの高いバンコクの知識階級の多くははタクシン政治を容認しがたいという認識を持っているのである。

アピシット政権の悩みは「タクシンのやったポピュリズム政策を止める」わけにはいかないのである。タイの財政規模で「国民医療を無料化したらどういうことになるか」はエコノミストならずとも普通の常識を持っていればすぐにわかることである。

しかし、ポピュリズム政策を止めれば、次の選挙には必ず負けるであろう。その辺を知ってか知らずか柴田記者は「(バラマキ政策)と批判した元首相の政策を現政権がほぼ丸飲みいているように、政策的な対立軸は存在しない」などとマトハズレとしかいいようがない書き方をしている。

最後の締めくくりはもっとふるっている。「タクシンという稀代の個性をめぐり、極論すれが好きか嫌いかの争いだったともいえる。」だと。好き嫌いだけで誰が命がけでデモなどやるかといいたい。

好き嫌いの問題ではない。タイ人の政治の選択の問題である。独裁汚職政治を選ぶか自由・民主主義(私は日本の自由民主党を必ずしもイメージしてはおりません)を選ぶかの選択の問題なのである。

このインタビュー記事をみて朝日新聞および柴田記者の姿勢が良く理解できた。タクシン政治の「本質」の研究もしていないし、タクシン政治の「過去など知りたくないの」といった態度である。これが日本一流のジャーナリズムの姿勢だとしたら、われわれ日本人の将来はけして明るいものではない。

また、日本人はタイについて何も知らないと思ってこんなイイカゲンな記事を書いているとしか思えない。そこには「真実を伝えよう」という姿勢が見えない。一種の思い上がりである。

私は及ばずながらタイの政治経済(あるいは東南アジア全体)の「観察者」としてタクシン政権発足のときからの政治をみててきた。それはこのホーム・ページのアチコチに書いてきた。「タクシン政治」(その2その3)についての項目も数年にわたり書き続けてきた。御参照いただければ幸甚である。私のテーマはもちろん好き嫌いの問題ではない。

「東アジア共同体」などという議論に朝日新聞も多かれ少なかれコミットしているようである。「東アジア共同体論」などという怪しげなコンセプトのものは「百害あって一利なし」というのが私の見方であるが、朝日新聞ももっと「亜細亜」ではなく「アジア」のことを「普通に」勉強してもらいたいものである。

⇒タクシンが外国のPR会社を雇う?(09年1月9日、ネーション電子版))

民主党はタクシンが外国のPR会社を雇い、タイ国内外に積極的に宣伝をおこなっていると非難した。

民主党の報道担当のブラナート(Buranat)氏はタクシンが雇った会社は「Edelman, Baker Botts LLP, Barber Griffith & Logers LLC, Bell Pothinger North」であり、そのうち Barber Griffith & Logers LLCのみが契約切れとなっているとのことである。

タクシンの宣伝部長としてはジャクラポップ(Jakrapob Penkair)が当たっていた。

これらPR会社以外にも個別のジャーナリストにカネを私、タクシンに都合のいい記事を書かせているというのは公然の秘密である。

タクシンの子分のプロミン(Dr. Phrommin Lertsuridej)は事を全面的に否定している。


T09-6.タイ、世銀、アジア開銀、日本から20億ドルの借入れ(09年2月2日)

タイ財務省は当面の経済活性化資金(インフラ投資に充当)として700億バーツ(≒1,700億円)を世銀、アジア開銀、日本国際協力銀行から借り入れる方針を決め、2月3日(火)の閣議で決定する。

それ以外に国営企業の資金不足を補うなどで2,000億バーツ(≒5,200億円)の予算措置をきめた。

国債をタイ国内で大量発行すると国内での資金不足が生じることを懸念して、外債を取り入れる措置は今後とも採られていくであろう。

タイ銀行はタイ経済の見通しについて比較的楽観しており、2Q続けて前Q比マイナス成長(リセッションの定義)にはまらないと見ている。

アピシット首相は2月初旬、訪日するという。タクシンは先ず最初に中国に行ったが、アピシットはタイにとっての最重要国はどこかをきちんとわきまえているようである。

日本に来ても、今の政治の状況では「反面教師」という以外に、参考にはならないと思うが、日本経済について、もっと学びたいという姿勢は明確である。

多くのタイ人の留学生が日本で学んでおり、その一人がタイ中央銀行総裁のタリサ女史である。もっとも、タクシンの右腕として怪しげな資金作りに協力したといわれる、タノン・ビダヤ元財務相は横浜国立大学のOBであるが。

タイに行って驚くのはチュラロンコーン大学やタマサート大学という超名門校に日本の留学経験者が少なからずいるということである。

彼等は「タイと日本、タイと米国、タイと中国」といったさまざまな視点としっかりした座標軸をもって、モノゴトを見ており、日本の保守本流(最近は影が薄いが)のようにアメリカ人の口真似だけしてやってきたインチキ学者とは一味違う。

タクシン一辺倒できた日本のメディアやアジア学者もアピシット政権について何とか言ったらどうかといいたい。すぐにつぶれる政権だなどと考えていると、意外にそうでもなかったりすることが世間にはままある話ではある。

一方、タクシンは今までにカネを使いすぎたようで、タクシン派の「赤シャツ軍団」はこれから自前で「資金集め」をおこなうと宣言している。

今までタクシンに「おんぶに抱っこ」でやってきたような他力本願の輩に、たいしたカネは集められるはずはないと思うがどうだろうか?

先週末、バンコクのサナン・ルアン広場で3万人の大集会を開いたということだが、たいしたこともなく流れ解散に終わったようである。タクシン派の運動は目に見えて衰退していくであろう。

もともと「社会正義」などとは無縁の人物がやってみせて、一時期貧困層の支持を得た「ポピュリズム」政策の「負の遺産」だけがずっしりとタイ国民にのしかかっている。

最大の被害者は現地で「人道主義の精神」で頑張りぬいている医師や看護婦であり、税の負担にあえぐ中産階級であろう。


T09-7チュラ大のウンパコーン先生、不敬罪逃れで英国に亡命(09年2月10日)


タイを代表する知識人であり、自他共に認める「左翼」の論客として知られるチュラロンコーン大学の政治科学部教官(教授)のジャイ・ウンパコーン(Giles Ji Ungparkorn)先生はかねて強烈な反PAD(民主主義のための人民連合)キャンペーンを繰り返していたが、反王室発言にまで踏み込み、警察から「不敬罪」の容疑で取調べを受けていた。

ウンパコーン先生はタイと英国両方の国籍を持っており、どちらで暮らそうとご自由という特権的なご身分の方だが、今回は英国でのお暮らしを選択されたようだ。英国のガーディアン紙に「タイでは公正な裁判を受けられないので英国に逃げてきた」とタクシンと同じような発言をして、事実上「亡命した」ことを認めたという。

先生の父親はプエイ・ウンパコーンという有名な財政家であり、サリット軍事政権下で蔵相やタイ中央銀行総裁を務め、「軍事政権下での自由主義者」としてタイでは今でも評価の高い人である。

実際、プエイ・ウンパコーン氏は「自由化政策」を推進し、外資にも門戸開放を行い、1960年前後にサムット・プラカーンに「工業団地」を開設し、主な日系企業が続々と進出した。

それが今日のタイの工業化の出発点になっていることは間違いない。進出企業はトヨタ、いすず、ホンダ、住友金属(タイ・スチール・パイプ)、花王、味の素など枚挙に暇がない。

その息子のジャイ先生はなぜかタイの代表的「左翼」として知られ、貧民(農民・労働者)の味方として大奮闘されてきたらしい。しかし、勢い余ってタクシンの熱烈な支持者としての言動が最近は目立ってきた。

特に目の敵にしてきたのがPADの運動である。PADこそは王室・軍・伝統的ブルジョワジー(金持階級)の利害を代弁する運動であり、民主党は彼らの手先であり、カッコつきの「民主」でしかないという論調である。

この論調が日本をはじめとする「先進国」のメディアにさかんに「利用」され、今日に至っている。

事実2月5日に他の国に先駆けて訪日したアピシット首相に関する報道は日本のメディアではほとんどなされなかった。毎日や日経は私の見落としかもしれないが1行も報道しないという、異例中の異例の扱いをした。朝日もタクシンとのインタビュー記事は大きな紙面をさいて、彼の「泣き言」を盛大に宣伝したが、アピシット首相については民主党の岡田副代表とのインタビュー記事を少しだけ載せた。

要するに、日本のメディアはタイの若き政治リーダーをボイコットしているのである。こんな日本が「東アジア」のリーダーといえるのであろうか?日本の主要メディアの良識とはこの程度のものなのであろうか?その偏狭さには背筋が寒くなる思いである。

それはさておき、なぜジャイ・ウンパコーン先生が「不敬罪」に問われたかといえば、例えば08年12月4日付けのプラチャタイ(Prachatai)というインターネット紙にPADをファシスト呼ばわり(そういう発言は結構だが、タクシンこそがファシストと多くのタイ人は考えている)し、勢い余ってこんな発言をしている。

「反政府(当時はタクシンの義弟のソムチャイ氏が首相)のエリート王党派同盟(the elite Royaist alliance)は国民のあらゆる民主的権利を取り上げようとしている(多数で選ばれたタクシン派政党の正当性を認めないで反政府運動をするのはケシカランという意味)。」また、王党派同盟は「ファシストPAD、軍、警察、主流メディア、”民主党"、大部分の中産階級の学者、および王妃」によって構成されている」と述べている。

なぜ「王妃」が入れられたかは明らかにしていないが、10月6日にPADのデモ隊に対し、警察が「殺傷能力のある催涙弾」を大量にブチ込み女性が殺害されるなど多くの死傷者が出たときに、「死亡した女性の葬儀」にシリキット王妃が出席したのがジャイ先生のご機嫌を痛く損ねたようである。「ファシストの死」に王妃が出向くのはケシカランとでもいうのであろうか?

それ以外に、ジャイ先生は11月26日のプラチャタイでこんなことを言っている。

「タイの国王はこの大事なとき(PADの空港占拠事件)にどこにいるのか?3年間の政治危機の間に国王は政治危機を解決(diffuse the problem)しようとは決してしなかった。多くのタイ人は彼(国王)はPADを支持していると信じているが、王室は弱体であり危機にたいしても常に、干渉するだけの力を持っていないと信じているようだ」

これは国民に「王室不信」をアピールする狙いがあると解釈される可能性があるであろう。事実彼は「共産主義者」で王室は邪魔物だと考えているという疑念をもたれているようである。どういう政治的信条を持とうとタイでは自由だが、王室を批判するような意見を直接間接に公表することが今のタイの法律では禁止されているのである。

また彼はタクシンのポピュリズム政策を全面的に支持している。それがタイの財政にどういう影響を与えるかについての省察はない。ただ「ケインズ的政策で正当である」といっているにしか過ぎない。巨額の財政支出を伴う問題であれば、国民経済全体のバランスの中で評価するのが政治科学者としての立場というものであろう。

しかし、タクシンの政治手法や麻薬撲滅事件の大量虐殺や証人暗殺事件やソムチャイ失踪事件などについての発言はない。ただただ、PADがにくくてたまらんという感情だけは伺える。

ジャイ・ウンパコーン先生の主張はタイに真の民主主義をもたらすものは「民主的な選挙」であり、それで多数を取ったタクシンは国民の支持を得ているから正当な政治権力者であるということを言っているに過ぎない。タクシンの汚職や不正はあるにしても、それは民主党とて同じであるといって不問に付している。

そういうご立派な主張をお持ちのジャイ先生がタイの哀れな貧民を放り出して、もう1つの国籍をお持ちのイギリスに「亡命」などなさらずに、もっとタイでご活躍されるのが本筋ではないでしょうか?これでは「お坊ちゃま左翼」といわれても仕方がないではないか。こういう手合いは日本にもいて日経の「私の履歴書」などで自慢たらしく「活動暦」などを語られた大先生もいるが。

オブザーバーの記者にジャイ先生は「タクシンはタイに真の民主主義をもたらすものではない」と付け加えたということである。しかし、なぜそれをタイでいわなかったのか?結局ジャイ・ウンパコーン先生は「タクシンの走狗」にしか過ぎなかったことで本件は終わりであろう。政治的スタンスを間違えたのである。ヒトラーだってドイツ国民の90%の支持を得ていたのである。

これはアジ研をはじめとする超一流シンク・タンクや一流国立大学の大先生方も日本の一流紙もみな同じでる。


T09-8.タクシン派の拠点のウドン・タニでPADが集会を開く(09年2月15日)


民主党を中心とする連立政権ができてから、しばらく鳴りを潜めていたPAD(民主主義のための人民連合)はタイ東北部の主要都市のウドン・タニ(日本のウドンの語源ではない。念のため)で「政治コンサート」と証する大集会を2月14日(土)に開いた。

この集会を妨害すべく「タクシン派の赤シャツ軍団」が召集されたが、警察の防御ラインを突破できなかった。それもそのはずで動員された2,000人の警察官に対し、赤シャツ軍団は3,000人しか集まらなかったという。

一方PAD側の集会は他県からの参加者もあって15,000人が集まったという。PADも赤シャツ軍団の殴りこみに備えて2,000人の自警団を組織していたという。警察はPADの参加メンバーに対して厳重な「手荷物検査」を実施したため、周辺道路は交通渋滞に陥ったといわれる。

一方、赤シャツ軍団は現在3グループに分裂していて、PADに対しても統一行動がとられていないと伝えられる。しかし、動員力の低下は、タクシン派の資金力が低下してきたための証左でもある。

ドンムアン空港の近くのパイ・キエオ寺院(Wat Phai Khieo)で開かれたタクシン派の集会では、1テーブル1万バーツ(≒26,000円)の「寄付金」をとり、1千テーブルが用意されたという。1テーブル10人としても1万人ほどが1人当たり1,000バーツ(≒2,600円)の「寄付」をして、「タクシンの電話の声」を聞くために集まった計算になる。

タクシン派の集会で、参加者からからカネを集めるようになったとは時代も変わったものである。これでは「赤シャツ軍団」の動員力が日に日に衰えていくのもムリもない。だいたい1,000バーツもの大金を出せる層はタクシン派では少数のはずである。(他に金持のスポンサーがいたとしかかんがえられない)

PADは思いきって「敵の本拠」に乗り込んでいて、支持者の獲得をはかる行動に出たのもムベなるかなである。タイの政治の流れはここにきて大きく変わろうとしていることは否定できない。

その代わり、アピシット政権はタクシン以上に「ポピュリズム」政策を採らざるを得ないということになってきた。

アピシット政権は高齢者に対する生活補助金を今年4月から1人1ヶ月500バーツ支給するという。また、本決まりではないが、月収15,000バーツ以下の「低所得者」には一時金2,000バーツの「定額支給」を検討しているという。

15,000バーツといえば農民や工場労働者の大半が対象になるのではなかろうか?こんなことまでタイ政府の実力でやれるとは到底信じがたい。(民間給与所得者800万人と公務員100万人の合計900万人が対象という)

T09-9.タイ政府、経済浮揚政策として2兆バーツの支出を決定(09年2月18日)

タイ政府は経済関係閣僚級のチームで景気の浮揚策を検討していたが、今後3〜4年の間に、2兆バーツ(≒5兆2000万円)を投入することを決定した。

投資先は@水の供給システム、Aガス・電気・水道など公益部門、B物流、Cエネルギー、DIT部門、E観光、F教育、G保健と多岐にわたっている。一見総花的に見えるが、例えば「教育」による「人間としての能力向上が経済成長につながる」という確信を持っての施策である。

人間として誰もが教育の機会を平等に与えられれば、能力のある人材は浮上し、技術やマネージメントの向上・発展に役立つ人間の層が厚くなることは明らかである。

資金は、国家予算、地元銀行からの借り入れ、国際債借ということで、これからは、日本をはじめ海外からの借り入れに依存していく考えである。

短期の消費喚起策としてはタイ正月(ソンクラン=水掛祭り)の直前の4月8日を実施のメドとし、民間会社従業員、公務員で月収15,000バーツ(≒43,000円)以下の「低所得層」に2,000バーツを支給するというものである。

対象は民間で800万人、公務員で100万人、合計900万人が見込まれるという。タクシン時代のポピュリスト政策そのものではないかという批判もあるが、消費ムードの冷え込みが内需不振の原因だとして、限られた予算内で的を絞り込んだ施策だという。

公務員には銀行口座への振込みとし、民間人には「ギフト・チェック(商品券か?)」を渡すという。

日本は2兆円のバラマキが問題になっているが、「本当に必要な人間に必要なものがいきわたる」ように配慮した分だけタイの方がまっとうな感じはする。

T09-10.タクシン派の反政府集会は竜頭蛇尾に終わる(09年2月27日)

2月27日からリゾート地ホア・ヒンでASEANサミットが開催されるのを目標にタクシン派(赤シャツ部隊)のUDD(バンコク・ポストの表現で、ネーション紙はDAADとしている。United Front for Democracy against Dictatorship)が2月24日から反政府集会を3日間おこなった。

最初の日は1万人集まったが、3日目には1千人に減ってしまったと各紙は報じている。タクシンが急速に求心力を失いつつある様子が見て取れる。

首相府前で座り込みをやっているデモ隊を尻目に、アピシット首相は毎日出勤し、平常通りの執務をした。しかし、ASEANサミットはバンコクで開くのを避けて、ホア・ヒンという離宮のあるリゾート地で開かれる。

ここにも赤シャツ隊は押しかけるというが、資金切れもあってさほどの動員はかけられないとみられている。

タクシンは香港に陣取って、赤シャツ集会に「電話参加」をしたり、プア・タアイ党の国会議員と合ったりして反政府活動を続けている。

アピシット首相はこれに対し、中国にタクシンの引渡しを要求する考えがあることを明らかにした。1993年にタイと中国は「犯人引渡し協定」を結んでおり、香港も中国の一部である以上、タクシンの身柄引き渡しは要求できるとしている。

肝心のASEANサミットだが、各国のトップの集まりは悪いと報じられている。それもそのはずであり、ASEAN憲章に盛られる「人権問題」と今回の世界同時不況に対する対策がテーマとなるからである。

ビルマ(ミヤンマー軍事政権)がメンバーになっているASEANで人権問題を取り上げるというのだから、どういう会議になるか推して知るべしでる。

おりしも米国国務相が各国の「人権レポート」を発表したが、タクシン政権崩壊後大分ましになったタイでさえも、南タイのイスラム教徒の叛乱で捕らえた捕虜や容疑者に対し、拷問を加えた事実などが、指摘されている。

ビルマの軍事政権はこのASEANサミットを前に、7千人近い「政治犯」を釈放したと報じられている。これは明らかに「ASEAN効果」ともいうべきものであろう。

ASEANの中では人権問題に対してもっとも大きな進歩をとげたのはインドネシアであろう。その次がタイでマレーシアが第3位といったところであろうか。マレーシアも警察の横暴さは時々報じられるが、司法がかなり改善されてきている。

悪くなっているのがフィリピンである。政権批判をするジャーナリストや人権活動家を暗殺するということが平然とおこなわれているのだから話しにならない。マルコス時代の暗黒政治の再現を思わせる。

今回の経済危機に際してはASEANは「経済統合の前進」のためにさらなる「自由化」を進めようというのが建前だが、本音は少しでも先送りしたいところであろう。

特にインドネシアは「自動車部品の保護」などということを業界団体が政府に働きかけ始めたと報じられている。(ジャカルタ・ポスト2月27日電子版)

しかし、通貨危機対策は各国の利害が一致し、先のチェンマイ・イニシアチブをさらに前進させるということでASEAN+3(日本、中国、韓国)のミーティングは盛り上がりをみせるであろう。

この際「アジア通貨基金」を前進させることは意味がある。ともかくIMFというのはヒド過ぎた。米国の金融機関の利害を露骨に代弁してきたのだから話しにならない。

T09-11.アピシット政権の安定感増す(09年3月5日)

ホア・ヒンでおこなわれたASEANサミットは2015年にはASEANの地域統合を実現するといったおよそ誰もが、「実現を信じない」決議をおこなった。

人権問題も委員会を発足させることが決まったが、「牙のない虎」とか「ゴムの歯を持つ虎」などとヤユされる内容になってしまった。しかし、そうなることは始からわかっていた事であり、むしろビルマ(ミヤンマー軍事政権)に多少なりとも圧力をかけ続けることができれば成功であろう。

ともかくビルマ連邦共和国を不法に暴力で占拠している軍事政権は程度が悪い。自分達が完敗した選挙結果を認めないで、次の選挙をやるというのだから話しにならない。

こういう政権が入ってきたおかげでASEANの前進は完全にストップしてしまった。そのドサクサにまぎれてフィリピンは民主主義から明らかに後戻りをしてしまった。

唯一話しがまとまるテーマが「経済危機対策」であり、ASEAN+3(日、中、韓)にオーストラリア、ニュージーランド、インドの参加も求め、4月中旬にプーケットでサミットをやり直すことになった。

アピシット首相はホア・ヒンサミットでは完全にホスト役をこなしきった。それは当然で彼の右に出るような政治家は今のASEANにはいない。

タイ国内ではアピシット政権が経済危機下にもかかわらず順調な滑り出しをみせていることに危機感を感じているのはタクシン元首相である。

タクシン派の赤シャツ集会に海外から「電話参加」なるものを行い「今の政権ではタイの経済は良くならない。オレは1年以内にタイの首相にカム・バックしタイ経済を立て直す」などと主張している。

タクシンが政権にあった2001〜6年の間に経済政策が良くて「タイ経済が通過・経済危機から脱した」などというのはデタラメで中国への輸出ブームに助けられて、他のASEAN諸国並みに成長率が上がったのである。

その間、ポピュリズム的な政策で消費を煽ったツケがいま回ってきて、農民が借金を棒引きしろなどというムリな要求を政府に突きつけているのである。

タクシンの政党である「プア・タイ党」はこのままではアピシット政権が安定してしまうことを恐れて「不信任動議」を提出し、3月26日、27日に国会で政府を追求することになった。

しかいし、意外なことに野党連合の2党がこの不信任動議に「賛成しない」ことを表明している。プア・ペンディン党の12名の議員がプラチャ党首(先に首相候補に担ぎ出された)とともに、不信任動議は時期尚早(特に現政権は失点がない)として不参加を取り決めた。

また、プラチャート党のサノ党首もプア・タイ党の不信任動議に反対して、もし政府を追及するなら、政策論争をおこなえばいいと主張している。

プア・タイ党も人材が枯渇しているためか、不信任動議につきものの「次の首相」の候補者にかの悪名高いチャレム警察大尉・元内相を挙げている。ここにきてタクシン派は打つ手がなくなってきたかの感は免れない。

アピシット首相としては時期をみて選挙をおこない、民主党の議席を増やす必要があるであろうが、問題山積で選挙をやっているような場合ではないであろう。数こそ少ないがアピシット政権は軌道に乗って着ている。万一、連立政権の叛乱があり、選挙をやらざるを得ない破目になったら、いつでも国会を解散して選挙に臨める体制はできつつある。


T09-12.タクシン派が4万人集会(09年3月27日)

3月26日(木)タクシン派は全国から赤シャツを着用した「タクシン軍団」を集め、サナウウ・ルアン広場(国立博物館、タマサート大学などの前)で最大規模の4万人といわれる大集会を開いた。

スローガンは軍部に支えたれて不当に政権を奪取したアピシット首相の打倒である。タクシンも自分を追放したのは軍と枢密院(プレム元首相が議長)だとアピールしている。

3月26日のタクシンの電話演説ではタクシンならタイを「経済危機から救うことができる」という主張をおこなったという。

本日(3月27日)はタクシン追放の首謀者の名前を明らかにする予定であるという。たぶんプレム枢密院議長とアヌポン陸軍司令官の名前があがってくるであろう。

タクシンノ狙いは現在凍結されている760億バーツ(2,050億円)の銀行資産を取り戻すことにある。首相に1年以内に返り咲くなどともいっているが、到底それは不可能であるが、凍結されているカネは一部返還される可能性がある。

それには、タクシンが帰国し、いくつかの裁判を終えて、最終的な判決が確定しなければならない。現在出ている判決は「職権乱用罪」が適用されたラチャダピーセク土地買取事件の2年の禁固刑(タクシンが控訴せずに海外逃亡したため確定)だけである。


タクシンのあせりは、アピシット政権が予想に反して、日ましに安定してきていることである。

数日前にもプア・タイ党が議会に提出した主要閣僚の不信任案の評決でも、予想以上の大差で敗北した。プア・タイ党議員からも10名前後の「棄権」が出たといわれ、何とか現状を維持したいという狙いもある。

アピシット首相は信任246票、不信任176、保留12、棄権15であった。またPADの空港占拠を支持したガシット外相について信任237票、不信任184表、保留12、棄権13であった。ガシット外相の不信任が意外に少なかったことが注目される。与党支持者も9名が不支持に回ったことが首相と外相の信任票の違いで分かる。

それはさておき、タクシン派の集会であるが、資金的に行き詰まりつつあり、またタクシン個人の支持率が急速に低下しており、今後はますます尻すぼみになっていくであろう。

低所得者層に支給される2,000バーツ(5400円)を資金カンパしろと呼びかけているという。応じるものはあまりいないであろう。

タクシンは「タークシン(18世紀にビルマ軍を打ち破った英雄で短期間チョンブリ王朝を開いた将軍)計画」なるものを実行しつつあるという。

狙いは王室の力を削減し(象徴的存在にする)、枢密院を無力化し真の民主主義を確立することや。選挙法違反で被選挙権を失った者への恩赦などである。

具体的には赤シャツ隊のデモを軍が実力で解散させたときに、それをキッカケに騒擾状態を作り出し、一気に世論の動向を逆転させることも狙いとしているという。

しかし、アピシット政権も軍もタクシンより役者が上という感じであり、やすやすとタクシンの挑発に乗るとは思えない。

また、サマク元首相が最近のインタビューで首相当時の話を聞かれ、「タクシンというのは取り巻きが悪すぎた」と語った。全てが「利己的な目的でタクシンに接近し、タクシンは正しい情報から遮断されたままモノゴトを判断し、間違ってしまった」というのである。

いわれてみれば、ヨンユットをプア・タイ党の党首に据えたり、悪役で有名なチャレム警察大尉(元内相)をアピシット不信任動議の説明責任者にしたりしている。悪役が「善良な王子様」を攻撃するような図を国民の前にさらしてしまった。タクシンは「人が見えていない」ということになるであろう。

タイの政治は急速に改善されつつある。


T09-13.タクシン派の赤シャツ・デモ大暴れ(09年4月8日)

タクシン派の赤シャツ・デモは4月9日(水)を総決起集会の日とさだめ、バンコクで数万人を集めてデモをおこなっている。人数は10万人といわれているが、バンコク・ポストは6万人といっている。タクシンの目標は30万人には遠く及ばない。

目標はタクシン追放のクーデターの元凶として枢密院のプレム議長他3人(アナン元首相、スラユット元首相、チャンチャーイ枢密院議員)を指名し、プレム議長の公邸を取り囲み、午後2時までに辞任を要求しているという。

辞任するまで、包囲網を解かないといっているが、プレム邸は数百人の警察官がバリケードを築き護衛している。プレム議長は公邸内にいるという。

また、昨日(4月7日)はパタヤで20人の赤シャツ隊がアピシット首相の乗った乗用車を襲撃し、後部ガラスを破り、運転手に暴力をふるいケガを負わせたという。アピシット首相は無事で平然としているという。警察は2人の男を現行犯逮捕した。

また、タクシンから名指しで非難されているチャーンチャイ枢密院議員の暗殺計画が発覚し、3人の男が逮捕された。3人の男は不法に拳銃を所持し、口座には暗殺代金の60万バーツが何者かによって振り込まれていたという。

この暗殺計画にはティエンチャイ(Thienchai)陸軍少佐が関与していたとして逮捕された。ティエンチャイ少佐は150万バーツを貰ってこの計画を組織したことを自白してという。また、海軍大尉もこの暗殺計画に関与していることが判明し、警察は調査をおこなっているという。

一味は、チャーンチャイ氏暗殺だけでなく、バンコク市内でクルンタイ銀行をはじめ10ヵ所の放火を計画していたという。

チャーンチャイ氏は元最高裁長官でタクシン時代に2006年4月2日の選挙の無効判決を下し、軍事クーデター後のスラユット政権では法務相に就任した。その後、枢密院評議員に選ばれている。

タクシンとその子分達の狙いは上述の「タークシン将軍計画」にそったもので、バンコクを騒乱状態に陥れ、軍隊の出動に乗じて民衆によるクーデターを引き起こそうということにあるようだ。

こういう作戦はタクシンの子分になった元左翼が考えたシナリオのようで、彼らなりに「実現可能」と考えているようだが、そういう安手の挑発には軍やアピシット政権は乗るはずもない。

しかし、タクシンは大真面目で「不測の事態に備えて」家族を国外に脱出させたという。子供達だけでなく、夫人の親族や、ソムチャイなども含まれ、タクシンの妹のプア・タイ関係者だけが国内に残っているという。

この意味するところは重大で、複数の要人の暗殺や、爆弾事件が実行される可能性があることを示唆している。デモそのものは目下のところ比較的平穏だが、赤シャツ隊には暴力行為専門の「軍団」が存在しすることは既に確認されている。

彼等はカッティヤ少将などから訓練を受けて、騒乱状態を作り出す準備を整えていることも予想される。流血事件が起こった場合、タクシン一家が報復を受けることを恐れて海外に避難したとも受け取れる。

タクシンは3日後(4月11日)に
タイに真の民主主義がもたらされるという不気味な予告をおこなっている。要警戒である。これは「民衆蜂起による革命」(People's Revolution)を意味していると見ることができる。

こんなことは、今のタイでは起こりえないが、タクシンとその一派は最早普通の精神状態にはないようだ。何をしでかすか分からない怖さがある。

これからのタクシン派の狙いは4月10日(金)から3日間パタヤで開かれるASEANプラス6カ国(日本、中国、韓国、インド、オーストラリア、ニュージーランド)の首脳会議まで何とか「バンコクの騒乱状態」を継続させることにあり、一部の外国メディアも動員してアピシット政権不安定説を印象付けようとしている。

一方、バンコクではタクシンが外国メディアの一部を「買収している」という噂が前々から流れている。そういわれてみれば、欧米の有力紙は執拗にタクシンへの同情論やアピシット政権の違法性を露骨に書き立てているものがある。

また、タクシンの海外からのアジ演説も一定時間はわざわざ英語でやっている。これは外国特派員用のアナウンスであることは明らかである。目標はBBCやAFPやWSJなどであろう。

BBCなどは「わが社の特派員はこういっている」」というような注釈をつけながら、本社で書いた記事を多くの場合流している。

タクシンびいきの報道が日本にもかなり流されているが、どうもそれは特定の特派員の「好き嫌い」の問題らしく、日本人は買収されてはいないようである。

タクシンが最も恐れているのはアピシット政権がこのまま安定してしまうことである。そうなるとタクシンは忘れられた存在になることは目に見えている。なんとしても今回騒ぎを大きくしたいという願望がありありと見える。.

⇒タクシン派交通マヒ作戦、4月10日臨時休日に(09年4月10日)

タクシン派はバンコク市内の交通マヒを引き起こす作戦に出た。戦勝記念塔付近の交通をタクシー100台ほどで封鎖し、周辺への交通を遮断している。

また、スクムビト通りのプラカノンの三叉路を50人ほどのデモ隊が封鎖し、チャイナ・タウンのヤワラートでも一部の道路封鎖がおこなわれている。

バンコクは交通渋滞が多いことで、世界的に有名であり、タクシーやトラックが意図して交通を妨害すれば、たちまち市内いたるところで交通がマヒしてしまう。

これは比較的少ない人数でも可能であり、動員数が減ってきたといわれるタクシン派にとっては「効率的」な反政府活動である。

アピシット首相は先手を打って4月10日(金)臨時の休日に指定し、官公庁や民間企業に休業を呼びかけた。ただし、銀行は急には資金の決済などの業務をとめられないので通常通り営業をおこなうとタイ中央銀行はいっている。

民間企業も急には業務を停止できないところも多く、「臨時休日」が徹底するとは限らない。最近は地下鉄や高架鉄道もあるので、バンコクの道路がマヒしても営業活動を続けられる会社も多い。

タアクシン派は一部の地下鉄の入り口を封鎖するといっているが、そうなると一般市民の反発を買うことになる。

パタヤでは4月10日からASEANプラス6カ国のサミットがおこなわれることになっており、赤シャツ隊はサミットを徹底的に妨害すると宣言し、そちらへの動員をかけている。

政府もパタヤ方面に数千人の軍隊と警察管を派遣し、「攻撃」に備えているが、幹線道路はトラック数台でブロックできるためナニが起こるかは予断を許さない。


タクシン派は「民主主義の確立のための闘い」などと称しているが、背景は「タクシンの個人的利益の擁護」であり、やがては国民の反発が出てくることは必至である。特にバンコクの交通妨害作戦などはタクシン派にとってはマイナスであろう。

⇒赤シャツ軍団、ASEANサミット会場乱入、サミット粉砕(09年4月11日)

予想されたことではあるが、タクシン派の赤シャツ軍団がパタヤで開かれる当日の13時過ぎに、ASEAN+6カ国の会議場のホテルになだれ込み、ついにASEANサミットを中止に追い込む事態となった。

赤シャツ軍団は目的を達成したとして、勝利宣言をして意気揚々とバンコクに凱旋したという。アピシット首相はすっかり面子を潰された形となった。

一方タクシンは「ザマー見ろ、オレ様の力は凄いだろう」などと得意満面といったところであろう。しかし、ふとわれに返ると「バンコクの騒乱」はまだ起きていない。子分に早速電話をかけて「バンコクは燃えているか?」などと詰問しているかもしれない。

子分は「いや予定では明日12日です」などとヘドモド答えているかもしれない。以上は全て私の推理だが、タクシンは全てが自分の作戦通りにいっていることに自信を深めていることは間違いないであろう。

サミットの延期に追い込まれたアピシットにとっては大打撃であることは間違いない。8月に延期するといっても「タイは大丈夫なのか?」という声がASEANの中から上がっているという。

確かに、こういうことはシンガポールやマレーシアでは起こらない。そもそもいかなる反政府デモも過酷に弾圧される。両国とも治安維持法(ISA=Internal Security Act)があって、反政府危険分子は裁判抜きでいつでも、何年でも牢屋にぶち込めることになっている。これには共産主義者もテロ容疑者も当然含まれる。

タイにはそんなものはない、ただ国王を侮辱したりすると「不敬罪」という刑事罰があるくらいである。それも捕まって判決が出ても比較的短期で釈放されてしまう。

今回もASEANサミット会場のホテルは警備されていたが、デモ隊に催涙弾や放水はおこなわれなかった。アピシットよりも民主的(?)であるはずのタクシンの義弟のソムチャイ政権は昨年10月7日にPAD(民主人民連合=黄色シャツ)のデモに爆弾付き催涙弾を警官隊が乱射し、2人の死者を含む400人もの重軽傷者を出したことは記憶に新しい。

アピシットはなんとかそういう事態を回避したかったのであろう。タイには言論の自由も集会の自由もあり、これ以上民主的な国はないと思われるが、軍事クーデターで追われたタクシンにとっては「非民主的」な国なのであろう。

なぜそうなったかは本ホーム・ページで数年にわたって書き続けてきたので、ご関心の向きは是非さかのぼってお読みいただきたい。因みに、タクシン時代は実に非民主的であった。

今回のサミットは延期されたからといって実は大して実害があるわけではない。「経済危機サミット」といっても日本からの援助や支援の方針は既に発表されているし、ASEAN内部でやるべきことも決められていて、首脳が集まって「シャンシャン」と拍手をして、並んで写真を撮って終わりである。(その前に豪華なお食事もつく)

首脳がいまさら「一から」相談することなど何もない。すべて事務ベースでアレンジメントは終わっている。各国ともやれる範囲のことは既にやっている。

ただ中国の温家宝首相にとって残念だったのは「ASEAN-中国」の自由投資協定の調印式の機会が次回に延期されたことであろう。

日ー中ー韓の3カ国会議は実行できたので、日本にとってはそれなりの成果はあった。

面子を潰されたアピシット首相の国内の立場はどうなるであろうか?もちろん、弱腰の対応を非難する人もいるであろう。しかし、はっきりいって大多数のタイ国民の同情を大いに買うことは間違いない。

暴力で赤シャツ隊を蹴散らさずに、国際的な非難をタイ国民に代わって一身に背負ったという評価になるであろう。

それに反し、海外から好き勝手なことをいって赤シャツ隊を扇動したタクシンへの評価はガタ落ちになることは目に見えている。タクシンとその取り巻きにはそういうタンジュンな因果関係がサッパリ読めていない。ジコチュー人間の宿命である。

タクシンにしてみれば、過去自分のやってきたことは何もかも思惑通りにうまくいった。それなのになぜ土壇場で「ズッコケた」かが分かっていないらしい。そのため「前世の因縁」のなせる業だと考えて高僧の説法を聞いたり、有名寺院を99ヵ所も参拝したり、イロイロやってみたらしい。占星術にもコッテいるという。

今回の赤シャツ・デモの動員からパタヤ・サミットの粉砕まで,全てが思惑通りにコトが運んでいる。しかし、結果はタクシンの意図とは全く別なところに落ち着くであろう。

その原因は何かということ、「タイの国民の本当のニーズを把握して,それに答えていない」からであろう。行動の基準が「自己の利益」にあることを仏様はもちろん多くにタイ国民に見透かされてしまっているのである。何も分かっていない支持者だけを集めて、乱暴狼藉をいくら働いても、これからのタイの政治を動かすことはきないであろう。これは日本の政治家も心すべきことであおう。


⇒バンコクほか5県で非常事態宣言(09年4月12日)

昨日(4月11日)の赤シャツ隊のASEANサミット会場乱入によって、ASEAN+6カ国のサミットは無期延期となった。

これを聞いたタクシンは大喜びで赤シャツ隊の乱暴行為を激賞し、「あと数日で目標を達成できるから頑張れ」と激を飛ばしたという。また、タクシンは蜂起した赤シャツ隊の先頭にたっていつでもバンコクに帰るなどと「豪語」しているという。しかし、タクシンの一族は全員昨日までにタイから脱出したと伝えられる。

11日のパタヤの乱入事件を指揮し、英雄気取りで記者会見を開いていた歌手出身のアリサマン(Arisamun Pongruengrong)は既に逮捕されている。また、赤シャツ隊をバンコクで指揮しているDAAD(反独裁民主主義連盟)の幹部のチャトゥポン・プロームパンなどにも近く逮捕状が出ることは確実である。

彼は、この際法律などは問題ないから、アピシット首相とスーテップ副首相をやっつけろなどとわめいているらしい。

一方、ASEANサミットをブチ壊されたアピシット首相は赤シャツ隊を「国家の敵」(enemy of the state)と激しく非難した。確かに潰されたのはアピシットの面子ではなく、「タイ王国の威信」である。

意気軒昂たる赤シャツ隊はバンコクやその他の地域で騒乱状態を現出すべく、道路封鎖や県庁前での集会など暴れまわっているため、ついに午後2時30分にバンコク全市とノンタブリの全県、サムット・プラカン、ナコン・パトム、アユタヤの4県の一部地域に「非常事態宣言」を発動した。

非常事態宣言の発表は内務省の建物内でおこなわれたため、怒った赤シャツ軍団は内務省の建物になだれ込んだといわれる。

また、アピシット首相一行の乗った自動車の車列に対し、赤シャツ軍団が発砲したというニュースが流れた。しかし、アピシット首相は別の車でいち早く内務省を出たため、腕に軽傷を負っただけで難を逃れたという。

官房副長官のニポン氏は内務省の敷地内で自動車に乗っているところを襲われ、頭に負傷し、肋骨を折られる重傷を負って一時、赤シャツ隊に捕まったと言われていた。しかし、赤シャツ隊は内務省を出た。内務省の警備に当たっていた警察は無抵抗であったという。

非常事態の執行司令官にはスーテップ副首相が任命された。これからは軍が前面に出ることになろう。

さらに、タクシンは中央政庁前に座り込んでいる赤シャツ・デモ隊に午後4時半ごろ電話で呼びかけ、「軍が出動した今が、”ゴールデン・タイム”だ」として、国民に決起を呼びかけたという。これでタクシンノ国家反逆罪容疑が確実になったといえよう。

赤シャツ隊は動員力が極度に落ちている(日当を貰って地方から動員されてきたグループは多くが帰ってしまった)が、バンコク周辺のメンバーと戦闘訓練を受けたメンバーが比較的少人数で道路封鎖などを行っていると見られる。

非常事態宣言下では集団デモ自体が禁止され、令状無しの逮捕拘禁が可能になる。

道路封鎖の強制解除は明朝以降になると思われるが、既に軍隊が56個中隊が鎮圧に乗り出したと報じられている。また、1千人規模の催涙弾(純粋の?)を携行した軍・警察の連合部隊が赤シャツ隊が座り込んでいる首相府前の広場に向かったという。

タイは4月11日(土)〜15日(水)まではソンクラン(水掛祭りといわれるタイ正月)の休日に入っている。一般の市民や観光客には実際の影響はない。赤シャツ隊もバンコクで多人数のデモをやるだけのエネルギーは最早ないといわれているが、数百人規模での過激行動や手榴弾投擲や銃撃は十分起こりうる。

⇒4月13日未明から軍による掃討作戦始まる。死者はゼロ(09年4月13日)


4月13日午前4時からディンデーンの交差点で軍が催涙ガス弾を発射し、交差点を封鎖していた赤シャツ軍団の排除を始めた。BBCは軍がデモ隊に小銃を乱射したと報じているが、全くのデタラメでデモ隊に死者は出ていない。BBCの特派員はいささかヒステリックになっている。

デモ隊は火炎瓶の投擲を始めたので、軍は一旦退き午前10時現在交差点の完全排除は終わっていない。赤シャツ軍団は近くのディンディーン団地にガス・ローリー2台を持ち込み、これを爆破すると脅している。団地には現在150人が居残っており、人質にとられた形だが、デモ隊もトラックを爆破する勇気はない模様である。

また、憲法裁判所に手榴弾3発が投げ込まれたが、こちらも人的被害は出ていないという。

アピシット首相はテレビで時折状況を国民に説明しているが、昼頃の情報では、軍・警察側に27人、うち4人はデモ隊側の発砲による銃創、デモ隊側は47人の負傷者が病院で手当てを受けたという。

軍はデモ隊に死者を出さないように細心の注意を払っている模様である。こういうことはタクシンとその後継のサマク、ソムチャイ政権下では考えられないことである。

デモ隊が封鎖していた交差点は徐々に軍が解放に成功しつつあり、赤シャツ隊は赤シャツを脱ぎ捨てて逃亡したり、火炎瓶を時々投げながら本隊のいる、中央官庁前に徐々に撤退しつつあるという。途中の戦勝塔のあたりに撤収してきた赤シャツ軍団はバリケードの車か何かに放火した様子で、黒煙が上がっているという。

バンコク市内ではパラゴンやワールド・トレード・センターやヤワラート(チャイナ・タウン)の金屋は店を閉めている。せっかくのソンクランの祭りも台無しである。

赤シャツ軍団は銃と手榴弾を持っているので、軍が一気に攻勢をかけると多数の死者が出る可能性があるので慎重にコトを運んでいるものと考えられる。しかし、勝敗ははじめから目に見えている。

(赤シャツ軍団はゲリラ戦に)

夕方までの負傷者は94名に達し、そのうち24名が重傷だと公共テレビ局が報じている。死者は出ていないが、危篤状態の負傷者もいるとのことである。

夕刻から夜にかけて赤シャツ軍団は放火などのゲリラ戦に入った模様である。政府はバンコク市民に夜間の外出は極力避けるように呼びかけをおこなった。

@午後5時半ごろ数十人の赤シャツ隊が教育省の建物に火炎瓶のようなものを投げ込み、建物の一部が火事になり、消防隊が駆けつけると、消防車の現場への接近を阻止していたという。消防隊は赤シャツ隊のブロックを突破し、消火活動に当たっているという。

Aソアマナス寺院の近くで赤シャツ隊がエアコンバスに放火したことで、付近の住民が怒り、銃を取り出し、赤シャツ隊と銃撃戦を始めたという。軍隊が駆けつけ、両者を分けたいるといわれている。町うに繰り出している赤シャツ軍団は銃で武装していることが分かる。

Bパトゥムタニ県(バンコクとアユタヤの中間)のThaiComの変電所に赤シャツ隊30人ほどが攻撃を仕掛け、送電装置を破壊しようとしたという。警備の警察隊が防戦しているとのことである。、

Cチャイナ・タウンのヤワラートの近くのナン・レゥン交差点を赤シャツ軍団が封鎖し、バリケードのタイヤなどに火をつけて軍隊の到着を阻止しようとしているという。怒った付近の住民500名ほどが赤シャツ隊に罵声を浴びせるなどしてにらみ合いを続けている。住民は自分達の店を荒らされないように道路にバリケードを築いているという。


D赤シャツ軍団が通りすがりに、ペブリ通りのイスラム教徒居住区のレストランのテーブルなどをひっくり返すなどの破壊行為にでたため、怒った住民約200人が赤シャツ隊と対峙しているという。駆けつけた警察隊に「お前らは赤シャツの仲間だ」と罵声を浴びせているという。黄色いシャツを着たイスラム教徒がソンクランの水掛アソビをやっていたのが赤シャツ軍団のお気に召さなかったのが発端だという。

E午後3時半ごろサイアム・パラゴン前で2台の装甲車が赤シャツ軍団に奪われたという。乗っていた兵士はつまみ出され、首に赤いキレを巻きつけられ、装甲車から降ろされたという。これを赤シャツ軍団が使って市街戦を始めたら大変なことになるが、実弾が装備されていたかどうかは明らかにされていない。

以上はほぼ英字紙ネーションによるものです。『タイの地元新聞を読む』というウエブにも最新情報が多数載せられています。

⇒バンコク制圧近し、赤シャツ隊市民2名を銃殺(09年4月14日

上記Cのチャイナ・タウンのヤワラート付近のナン・レゥン(nang Lern)交差点付近で赤シャツ軍団と付近住民が対立してにらにあっていたが、銃で武装していた赤シャツ隊が住民2名を射殺した。

赤シャツ軍団は付近の商店や露天などを襲撃し、屋台を破壊するなどの乱暴を働いていた。赤シャツ軍団はナン・レゥン市場に放火をしようとしたらしく、怒った住民が抵抗すると、銃を持って追い掛け回し、殺害したという。警察はボケーとして傍観していたという。

被害者は53歳と19歳の男性であった。自称「民主主義の旗手」タクシンがカネにあかせてデモを組織し、扇動しなければ死なずに済んだ2人であった。

軍はバンコク市内であちらこちに散発的に続く赤シャツ軍団の道路封鎖などを昨夜のうちに排除し、ついに全員を中央成長前広場のデモ隊本部にまで追い詰めた。

最後に3千人ほどが残っているといわれているが、何度も指摘するように手榴弾と銃(M16自動小銃を含む)で武装している「軍団」であり、軍は慎重に排除にかかるものと思われる。強行すれば双方に多数の死傷者がでることは間違いない。

土壇場で無益な死者が出ないこと、特にタクシンのために死ぬなどという馬鹿げたことが起こらないように祈りたい。デモの責任者の自覚を待つほかない。


⇒赤シャツ隊全面降伏(09年4月14日)

4月14日(火)現地時間午前11時(日本時間午後1時)に首相府前に立てこもっていたタクシン派の赤シャツ・デモ隊(2千人)は取り囲む軍に対し、降伏を申し入れた。


ウィーラ(Veer Mussigapong)とスポーン(Suporn Attawong)他のタクシン派赤シャツ・デモ隊幹部は政府の降伏勧告について鳩首協議を重ねていたが、午前11時になって、おそらく軍の最後通告を受け、全面降伏することでデモ隊に解散命令を出した。

幹部一向はデモ隊から離脱し、警察本部に連行された。

デモ隊員の中からは徹底抗戦すべしという声もあったというが所詮は勝ち目はなく、おとなしく大部分が荷物をまとめているという。


最後の段階での無益な流血の惨事が避けられた事は何よりであった。

ウェーラは市内で乱暴狼藉を働いた連中は赤シャツ隊とは無関係の「ギャング」であるなどといって早くも責任回避の発言を連行される直前にテレビ局に語ったという。「今回は敗北ではなく、デモ参加者の流血の惨事を避けるための解散である」と言っていたという。

もっと、傑作なのはタクシンで「私は今回の赤シャツ・デモとは関係ない。単なる応援団の一人にしか過ぎない」などと逃げを打っているという。毎日のように国際電話を使ってデモの参加者をアジっておきながら最後は逃げである。騒乱に乗じて赤シャツ・デモの先頭に立つなどと豪語していたではないか。

いずれ裁判で白黒つければ済むことであろう。これで、一部の「ギャング」がアチコチで手榴弾を投げ込んだり、要人を狙っての銃撃テロをやるかもしれないが、政治混乱はひとまず収束に向かうであろう。

アピシット首相と軍のネバリ勝ちである。タクシン派の警察幹部は今後どうするつもりであろうか?彼らの実態は今回国民の前にいやというほどさらされてしまった。

また、これとは別に、昨夜バンコク銀行本店とチャロン・ポカパン本社に放火をしようとした人物が逮捕され、拳銃や火炎瓶などとともに記者団に公開された。犯人は3人のグループで1人5千バーツ(≒14,000円)で雇われたという。他にも放火事件をたくらんでいたグループが存在するはずであるが。


⇒タクシンは赤シャツの4月暴動の指揮をカンボジアからとっていた(09年11月12日)

4月の赤シャツ隊のASEAN会議粉砕とバンコク暴動の際にタクシンは隣国カンボジアに滞在し、暴動が成功し、凱旋に備えられるように準備万端整えていたというウワサがあったが、タクシンはカンボジアには一歩も足を踏み入れたことはないと否定していた。

今回のカンボジア訪問は「亡命後」始めてであるという触れ込みであった。

ところが、09年11月12日の「asia times online」によると、一歩も足を踏み入れたことのないタクシンがシエム・レアップにある「アンコール・ゴルフ・クラブ」でプレイしたときの記念写真がゴルフ場に飾られていて、日付が09年4月となっていたと報じている。

ただ、残念なのは「タクシンに足があったか否か」はその記事には出ていない。

これでタクシンのついた嘘がまたばれてしまった。タクシンの参謀はチャクラポップ・ペンカイール(Jakrapob Penkair)であり、彼は暴動失敗後に国外に亡命し、プア・タイ党とは縁を切って、独自の民主派政党を作ったと称している。

チャクラポップはカンボジアに潜伏しているらしい。タイで問題を起こした人物は昔はよくシンガポールに逃げたものだが、シンガポールは滞在費が高くつくので、コストの安いカンボジアが最近は人気があるようだ。

また、ラオスのビエンチャンも滞在費が安いので、下っ端はラオスにトンズラというケースが増えるだろうと見られている。しかし、こちらは狭いのですぐに隠れ家がばれる可能性が高い。

チャクラポップは4月の暴動前に、カンボジアから小火器を輸入して赤シャツ戦闘部隊に配備していたらしい。カンボジア軍の装備はほとんどが中国製で昨年10月8日に警察が使った「殺傷力のある催涙弾」もカンボジアから輸入したモノかもしれない。いまだに入手先がハッキリしていないようである。

タクシンは11月12日にプノンペンで大講演会を開き、13日にドバイに自家用機で「帰国」の段取りであったが、暗殺計画があるらしいので出発を延ばすかもしれないという。

しかし、4月暴動でタクシンはカンボジアから指揮をとっていたとすれば「国家反逆罪」という罪も加わりかねない。カンボジアはタイの国内政治に干渉したことにもなりかねず、話しはややこしくなる。

今回の騒動で毎日新聞の某特派員は「これでアピシットは劣勢に立たされた」などと書いている。政治生命が終わろうとしているのはタクシンの方である。タクシンはザ・タイムズの件でもフンセンとの「友情」の件でも確実に墓穴を掘っているのである。

T09-14.アピシット首相の人気急上昇(09年4月15日)

アサンプション大学がおこなっている通称ABACポール(世論調査)によれば、タクシン派赤シャツ隊の解散直後の15都県の動向では、

@軍の任務遂行については10点満点中7.35ポイント、警察は6.38ポイントとなった。やはり、警察の対応にはやや不満を持っている人が多かったようである。

A政府の任務遂行については7.23ポイントと比較的高い評価が下された。この数字は調査対象者にタクシン支持者も当然含まれているので、実際の評価はかなり高いといえよう。

B幸福度度調査(住民の一般的な幸福感)では3月は6.18ポイントであったのに対し、昨日(4月14日)の調査では7.87ポイントであった。

Cアピシット首相の評価は3月は50.6%またはB-であったが、今回は58.2%、Bという評価に変わり、急上昇した。一方、タクシンについては23.6%だったものが15.9%とガタ落ちになった。

D回答者の68.9%が今後、デモ・抗議集会が再開されることを懸念すると答えた。また、70.4%が政治集会や活動に関する法律の制定をのぞむと答えた。

4月13日までの新聞の論調ではASEANサミットを潰されたアピシット首相の「無能、弱腰」を非難するものが多かったが、「強権政治」を避けようとするいかにも民主党政権らしい「ソフトな対応」が改めて評価されたものと思われる。

明らかにタイの民主主義政治の前進といってよいであろう。タクシン政権下でこういう事態が起これば「死屍累々」の大惨劇になった可能性がある。タクシン政権は麻薬撲滅運動だけで2800人以上の「被疑者」を殺している。

タクシンは軍は多くの赤シャツ隊を殺害したと主張している。彼は「殺害した人間を政府が隠すのは当たり前だ」などといっている。タクシン政権はそうだった。ソムチャイ弁護士も警察に拉致されてから、未だに遺体は発見されていない。

タクシンはこのまま引き下がるであろうか?答えはノーである。彼の執念深い性格からして、このまま終わらせるはずはないであろう。テロ行為が頻発する可能性は大いにある。彼はそれをおこなうだけの資金を十分持っている。また、暴力団組織もある。恐ろしい存在である。

警察自体がタクシンの暴力装置であった側面も否定できない。何しろタクシン派の犯行とみられる過去の爆弾事件など1件たりとも摘発されていない。警察官が赤シャツ軍団のメンバーとしてかなり参加していたともいわれている。現職の警察中佐が赤シャツ軍団を現地で指揮していたコトが後に判明し、逮捕状が出ているという。

今回の事件では警察も軍に協力して治安の維持にかなり努力したと見られるが、依然として赤シャツ軍団の内務省への侵入を放置したり、赤シャツ軍団の住民への襲撃を傍観したり、曖昧な態度をとった部隊もあった。アピシット政権としては警察改革も今後の大きな課題である。

警察官の中にも職務に忠実な人たちが実際は多数派であることは言うまでもない。2007年12月の選挙でタクシンのPP(パラン・プラチャーチョン)党の選挙違反(買収)を摘発し、同党の解党判決に導いた一因を作ったのも、現地警察官の捜査の結果である。もっともその警察官はサマック政権成立後に飛ばされて冷や飯を食わされたという話しだが。

T09-15.国際格付け会社タイの格付けを引き下げ(09年4月16日)

赤シャツ隊事件がアピシット政権の理性ある行動によって、最小限の被害で収まり、これから国内政治は安定に向かい、景気対策も本格的に取り組むことができるようになったとみられる中で、こともあろうにスタンダード&プアーズとフィチ(Fitch)がタイの信用格付けを引き下げた。(BBB+⇒BBB)

「政治不安定によって近い将来の安定への復帰の展望が薄れた」というのがその理由である。「今回の一連の事件はタイの統治能力の低さの反映である」というのである。しかし、タイは国際的なメディアまでを味方に引き込んだタクシンの野望を最小限の犠牲でついにくじくことができたのである。

これから良くなることは間違いないと思うのが普通だが、格付け会社はそうは思わないらしい。彼らの頭の構造は私のようなボンクラとは質が違うらしい。今回の世界金融危機のなかでもこれら格付け会社のさまざまな問題点が指摘され、G20でも彼らの行動を規制すべしという意見がEU側から出されたというがゴモットモな話しである。

格付け会社様の御意見がどうあれ、タイを知る日系企業の見方が変わるはずもないであろう。アメリカの機関投資家がタイを敬遠してイロイロ悪さをしなくなれば、結果オーライかもしれない。タイの株式市場もヘッジファンド様に「空売り」などやってもらわないほうが良いに決まっている。

タクシンはついにタイのパスポートを取り上げられ(国籍はそのまま)てしまったが、なんとタクシンはそのことを予想してちゃんと中米ニカラグアのパスポートを入手していて、にこやかにカメラに収まっている。

今日は滞在先のドバイから、アフリカの何処かの国に向かったという。赤シャツ軍団がペブリ通りのモスクに放火したことに怒ったバンコクのイスラム教徒団体がドバイからタクシンを追放するように要請したこともタクシンのアフリカ行きを急がせたのかもしれない。

今回の一連の事件についてタイの国内でさまざまなコメントが出されつつあるが、タクシン派の代表意見としてチュラロンコーン大学の政治学部のティティナン(Thitinan Pongsudhirak)先生の”Normalcy requires a semblance of equal justice"という文章がいつものBangkok Post(なぜかNationにはのらない)に出ている。なぜか、欧米、日本メディアはティティナン先生のご意見ばかりを報道してきた観がある。他にも立派な学者がタイにはたくさんいるのに不思議な現象であった。

ティティナン先生の言い分は赤シャツも悪いが黄色シャツも悪かったというだけではなく、今回の騒乱は「持てるもの(バンコクの王室を中心とするエリート)と持たざるもの(東北の農民)」とのいわば「階級闘争」だったというのである。

一見正論風で欧米のメディア(BBC,WSJ,FTなど)が事態の説明にしきりに使った論理である。それでは、そのリーダーのタクシンは一体何者なのだという説明はない。

「階級闘争」というのは明らかにおかしい。PAD(民主人民連合)は王室を支持する軍、官僚、富裕階層、中間層」の連合だというが、多くの労働組合も入っているし、多数の労働者階級はPAD側に入っている。

1976年のタマサート事件(10月6日事件)以降タイの体制が実は大きな変化を遂げたのである。近代的民主主義体制に方向を転換したのである。

プミポン国王と革新派の軍人(ニュー・タークスといわれた)は「タイに健全な、大多数の国民が参加して、安心して暮らせる民主的社会を作ろう」というコンセンサスを作ってきたのである。それがタイの王室を永続させる道であるという考えが背後にあったかもしれない。

その中心人物が1980代に8年間も首相を務めたプレム現枢密院議長なのである。プレムは軍事政権の首相でありながら、着々と時間をかけて「民主制復活」の準備をし、1988年にチャチャイ政権にバトン・タッチをおこなった。それは圧倒的にタイ国民の支持を受けた。その間、野心派の軍人はプレム路線に不満で何回かクーデタを仕掛けている。

1992年にスチンダという野心的な軍人が現れて、政権をハイジャックしようとしたが、これはバンコク市民が血を流して阻止したのである。その運動の中心人物が今回のPADのリーダーでもあるチャムロン氏(元少将)である。だからプレム氏とチャムロン氏は同じ考え方に立っているといえよう。チャムロン氏の悪口をいう「タイ通」学者が日本にいるのには驚かされた。

赤シャツ隊に動員された人たちは東北部を中心とする農民と彼らのマトメ役の村のボスとバンコクのスラムの一部の住民やオートバイ・タクシーの運転手である。4輪タクシーの運転手にも赤シャツ・メンバーはいたが、実際は反対派もかなり多かったいう。街の小商店主階級は民主党支持者が多い。

これが、なぜ「階級闘争」といえるのか私には理解できない。「タクシンを首班にいただく農民政権」が一体誰を代表する政権なのであろうか?その農民も「農民運動」から出てきたものではない。タクシンの「ポピュリズム政策」が有難かったというだけの話しである。

多くの「伝統的農民運動」の指導者はタクシンなど支持していない。彼らが今後は農民の声の代表者として表舞台に登場してくるであろう。ただし、タクシンのプアタイ党議員としてではなく。

私は、タクシン流「金権・独裁政治」に反対するタイの広範囲の国民の「民主主義」運動がPADの中核だったと理解している。これはある意味では「ブルジョア民主主義」といえるかもしれないが、健全なタイの伝統的社会思想なのである。PADも勢い余って空港を占拠する破目になったが、これは事前に計画されたものではない。

彼らを政治的に代表するのは言うまでもなく民主党である。本来、民主党は抑圧的な政策は採らず、汚職をする人間も少しはいるが、まともな経済政策を志向するブルジョア政党であることは近年の歴史が物語っている。

これからのタイ政治は民主党が政権を維持する限りは、安心できることは疑いない。国民の福祉という点ではタクシンよりも広範囲な理解をもっている。極東の某大国の政権政党よりは大分マシである。

タクシン一派がまかり間違って政権をとったらナニをしでかすか分かったものではない。ASEANサミットまでためらいもなくぶち壊して「勝った勝った」と浮かれまくる条理をわきまえない輩である。

「王室とプレム枢密院議長と軍と官僚(後から中間階層も加えられた)」の特権階級が既得権益を守るためにタクシン政権を潰したというのは、正しい面をついているかにみえるが、実は根本的に間違っている。

タイの国民は「健全なブルジョア社会」を作ろうとしているのであって、タクシンの「金権・独裁」政権を容認しないということなのである。そういう社会はある意味では「既得権益」の擁護になるだろうが、その「権益」なるものは民主主義社会では多くの国民に分与される。

タクシン政権下では「権益」はタクシン一族(全員国外に逃亡中であるが)とタクシンのクローニー(赤シャツ軍団の幹部など)に与えられる。しかし、彼等は今回「政治的ギャンブルに負けた」のである。タクシンは今回多少ギャンブルにカネをつぎ込んだが、身の安全は確保している。「オレは何も悪いことをしていないよ」などとシャーシャーとしている。まるで「蛙のツラに・・」である。


T09-16.PADのリーダー、ソンティ氏銃撃され重傷(09年4月17日)

予想されたことであるが、タクシン派のテロ部隊が動き始め、4月17日(金)午前5時ころPAD(民主主義人民連合)の中心的リーダーの1人であるソンティ・リムトーングン氏(雑誌プーチャドカン社主)の乗用車を本社近くで待ち伏せ銃撃した。

ソンティ氏は腕と頭部に銃弾を受け、左こめかみから入った銃弾が脳内出血を起こし、手術中であり、重態だと伝えられるたが、午後になって危機は脱したと医師からの説明があった。運転手も重傷を負い、危篤状態が続いているという。(当初は運転手の傷は軽いという情報であった)

ソンティ氏の車を、追跡してきた1トン・ピック・アップ車から、銃撃され、まずパンクさせられ、止まった乗用車に2人の男が自動小銃(AK-47とM-16)を乱射し、逃走したという。銃の乱射は5分ほど続いたという。

また、現場付近からはM-16、AK-47、Hk-33、合計3種類の銃の薬きょう86個と不発の手榴弾(M-78)1個が発見されたという。これらはもともと軍用のものである。

犯人は例によって捕まらないであろうが、プロ的な訓練を受けている連中の仕業であることは間違いない。かつてPADの幹部への襲撃を予告していたカッツティヤ少将は「今回はわれわれの仕業ではない。逃げ方が巧みなので”当局者”の仕業ではないか」と語っているという。カッティヤ系以外にも警察系のテロリスト集団も存在することは間違いない。

タクシンは無責任なメディアや学者によって「貧民層の味方」に祭り上げられ、いつの間にか「民主主義の旗手」を自称しているが、本質的には暴力団を常時抱えている「恐怖政治家」である。

因みに、今週のエコノミスト(ロンドン)はあまりの内容のお粗末さを自覚してか(私はまだ読んでいないが)タイでの販売を自粛するという。赤シャツ軍団擁護論か王室の悪口が書いてあったのではないだろうか?

おそらくチュラロンコーン大学のエセ左翼学者が書いたシナリオが源だと思うが「王室と軍と保守エリート層が結託して,民主主義者、貧民の味方タクシンを追い落とした」などといった類のデタラメ記事にはタイ人ならずとも憤りを感じざるを得ない。

なお、ソンティ氏は回復が順調で4月24日(金)には退院できるという。

⇒ソンティ氏銃撃容疑で兵士と警官2名に逮捕状(09年7月14日)

タイの英字紙The Nationの電子版(09年7月14日付け)によるとPAD(民主主義人民連合=黄色シャツ)の指導者ソンティ氏の暗殺未遂事件(上述)に絡んで、ロップリにある陸軍特殊部隊所属の下士官(パンヤ=Panya)と、警察麻薬取り締まり局に属する警察官の下士官(ワラウット=Weerawut)の2名に対する逮捕状が出された。

ワラウット伍長はDSI(特別捜査局)を2008年6月から兼務している。ワラウット伍長は現在2週間前から無断欠勤しており、既に口封じのために消されたのではないかと警察当局は危惧しているという。パンヤ曹長の身柄も確保されていない。警察ではワラウット伍長が主犯格と見ている(the first suspect).

両者とも軍事法廷ではなく一般法廷で裁判を受けることになるという。しかしながら、この両名がすでに消されてしまっていたら、事件は警察上層部に波及することなく1件落着で、タクシンの謀略組織は生き延びることになる。

アヌポン陸軍司令官は軍として全面的に捜査に協力すると語った。特殊部隊の下士官クラスの行動には軍としては関知していないことを世間にアピールしたのである。

また、近く10名以上の容疑者に対し逮捕令状が出されるという。しかし、本件の捜査を指揮しているターニー(Thanee)国家警察副本部長によると、捜査段階での情報が警察から外部に逐一漏れており、それが捜査の遅れの原因になっているという。

詳細については不明だが、事件の性格からして、専門の軍・警察関係者が実行犯ではないかと当初から取りざたされており、捜査としては大詰めを迎えようとしているが、同時に「トカゲの尻尾きり」というシナリオも見えて来たようにも思われる。

実行犯の上にいる人物や組織については今のところ何も明らかにされていない。この事件はタクシン系の謀略組織が動いたとの見方がされており、それにはかなり上級の警察幹部も関わっているといわれている。特にDSI(特別捜査局)所属の警官が実行犯に擬せられていることも問題視されている。

犯行に使われた車両(1トン・ピックアップ車)は陸軍特殊部隊のものではなく、ロップリの民間人であるラッサミ・メクチャイ(Rassami Mekchai、27歳)の所有のものと判明したが本人は事件とは無関係であるという。

犯行時に使われた車はナンバー・プレートが目撃されており、自動車の所有者と所在地が早い段階から特定されており、犯人逮捕に結びついたものと思われる。

PADのデモ隊に再三投擲された手榴弾は軍の武器庫から持ち出されたものであった。下手人に軍の下士官兵が使われたケースが過去にもあったが、それはタイ国軍上層部とはおおむね無関係であり、中級士官以下が「買収されて」犯行に及んだケースがあった。

⇒パンヤー容疑者は一時チェッター元国防相系の工場に身を隠す(09年7月16日)

陸軍特殊部隊のパンヤ曹長は現在も逮捕を免れているが、元国防相・陸軍司令官でルアム・チャイ・タイ・チャート・パタナ党党首を務め、最近プア・タイ党の顧問におさまっているチェッター・ターナジャロー陸軍大将(退役)の義理の娘のオラタイ・ターナジャロー女史が取締役になっている「香木加工工場」(トラート県)に潜伏していたことが明らかになった。

換言すればチェッター、プア・タイ党顧問がパンヤ容疑者をかくまったという疑念が生じても仕方がないところである。

警察が逮捕に向かったときは既に情報をえていて、姿をくらましてしまったという。オラタイ女史は元タイ・ラク・タイ党の国会議員候補であった。無効になった2006年4月の選挙では小泉元首相と一緒にとった写真を選挙用に使ったことでも知られている。

軍人といえどもタクシン系の人物もかなりおり、チェッター退役大将もその一人であった。

それはともかく、今までと少し違うのはタイ警察が本気になってソンティ事件を解決しようとしていることである。もちろんタイ警察の中にはタクシン派がトップにかなりおり、捜査の妨害を一生懸命やっている様子が窺える。いずれにせよソンティ氏を暗殺しようとしたのはタクシン系謀略組織であることはハッキリしてきた。

タイ警察が根本的におかしいのはPADのデモに対して殺傷力のある催涙弾を大量に行使したり(08年10月)、今年4月のパタヤ・サミットの警備をサボって赤シャツ軍団の会場突入を事実上許容するなど、タクシンの意を体したような行動をとり続けていることである。

また、最近も昨年末のPADの空港占拠事件についても幹部36人の出頭命令に「テロ容疑」という項目を入れていることである。デモの行き過ぎはあったにせよ「テロ容疑」というの見当違いであり、PADのデモ隊に軍から盗んだ手榴弾を何回も投げ込み、多くの死傷者を出した事件や、警察の「殺人催涙弾事件」などがテロ行為に当たると私には思えてならない。

このPADの「テロ容疑」については警察内部でも批判が出ているといわれているが、「タクシンの意向を反映した」容疑なので警察も一応言わざるをえないというのが実態らしい。しかし、タイ警察も最近目に見えて変わりつつある。一向に変わり映えしないのが極東の某経済大国の検察庁で、同じような罪状で野党の幹部はやっつけるが、与党の大臣は最初から「無罪」だなどと、戦前に逆戻りしているとしか思えない。「法の下での平等」というのは民主主義の大原則ではないか?

⇒ソンティ氏、暗殺未遂事件の資金提供者は「国外にいる人」と指摘(09年7月30日)

ソンティ氏は「暗殺未遂事件」にかかわったのは将官クラスの軍人と警察の特別捜査局の幹部であり、実行犯はロップリにある陸軍醍0特殊部隊の13人の軍関係者と1人の特別捜査局の警察官であると語った。このうち2名は既に逮捕状が出ている。

また、資金提供者は「国外にいる人」という言い方だが、タクシンと名指さなかっただけの話しである。名指せば、即名誉毀損で訴えられるからである。

特別捜査局のタウィー局長はタクシンに近い人物として知られ、サマク政権時代に任命された。アピシット首相はこういう人物のクビのすげ替えをほとんどやらなかった。

ソンティ氏はパチャラワート(Patcharawat)国家警察本部長の関与については言及しなかった。パチャラワート本部長は今回の捜査について「干渉した」との疑惑が持たれている。昨年の10月17日のPADのデモタイに対する警察の「催涙弾攻撃事件」の責任も問われている。

しかし、パチャラワート本部長の実兄はプラウィット(Prawit)国防相、元国軍司令官であり、プラウィット国防相はアヌポン陸軍司令官の元上官であり、アヌポン司令官の肝いりで入閣したと言われている。

パチャラワート本部長の事前の承諾なしにソンティ暗殺計画がおこなわれたかどうかが問題であるが、これについて直接言及するものはいない。しかし、「知らなかったはずはない」と多くのタイ国民は見ているであろう。

パチャラワート本部長は09年9月に停年退職するので、この際そっとしておこうというのがアピシット首相の方針のようである。こういうアピシット首相の慎重な態度は当然PADから批判される。
また、当事者からも逆手に取られかねない。

今回の事件の捜査担当のタニー(Thanee)国家警察副本部長によると「捜査」はかなり妨害にあっているという。しかし、今回のようにかなり上層部にまで疑惑解明の手が伸びたことはタイ警察史上異例の事態である。そのタニー副本部長も停年退職が2ヵ月後に迫っている。

(『タイの地元新聞を読む』と英字紙ネーションの09年7月30日の電子版を参照)


⇒国家警察本部長はゴテ、タクシンの義弟が「不公平」を非難(09年8月11日)

上記のようにタニー国家警察副本部長の「捜査に邪魔が入る」という発言は、さまざまな含意があるが、その一人になんとパチャラワート(Patcharawat Wongsuwan)国家警察本部長その人が含まれていたのである。

パチャラワート本部長がナニをたくらんでいたかは知る由もないが、要するにソンティ襲撃事件にタクシンの息のかかった警察のトップ・クラスや軍の特務機関に捜査の手が伸びるのを阻止しようとした可能性がある。

また、パチャラワート本部長は昨年10月7日のPAD(民主主義人民連合)のデモ隊排除事件で警官隊が殺人催涙弾を乱射し2名の死者と数百人の負傷者を出すという大惨劇の責任者なのである。

アピシット首相としては彼の更迭を考えていたようだが、パチャラワート本部長はプラウィット国防相の弟であり、このプラウィットが弟を更迭すればウォンスワン家への侮辱であり、タダでは済まさないとヤクザ顔負けの脅しをかけたという。闇組織を使って報復するといった主旨の話しが伝わっている。

思案の末、アピシット首相としては停年が2ヵ月後に迫っているパチャラワート本部長を無事退職させようとして、苦心の末「休職」処分にしようとした。その間、本部長代行にウィチャン副本部長を指名した。

ところがパチャラワート本部長は10日間の中国への長期出張を切り上げて帰国し、「本部長職務」に復帰すると一方的に宣言した。そうなるとウィチャン代行は職務権限をパチャラrワット本部長に返還せざるをえなくなった。

要するにパチャラワット本部長はアピシット首相の「親心」を踏みにじった格好になったのである。パチャラワート本部長を罷免すればプラウィット国防相が黙っていない。プラウィット国防相を推薦したのはアヌポン国軍司令官である。誠に困った事態に追い込まれたのはアピシット首相である。

ところが、もう1つの問題が発生した。というのは筆頭副本部長にプリューパン・ダマポン(Priewpan Damapong)警察大将がいたのである。このダマポン大将は誰あろうタクシンの義弟である。すなわちタクシン夫人の兄弟なのである。いくらなんでもこんな人物を警察のトップに据えるわけには行かない。

ダマポンは本部長代行を選ぶのならウィチャン副本部長よりもオレ様のほうが上席だと記者会見まで開いて涙の抗議をしたというのである。

しかし、出席した記者はタクシン系の新聞を除き誰もダマポンに同情的な記事を書いたものはいなかったようである。というのは2001年にタクシン首相に就任ししていらい、それまで窓際にくすぶっていたダマポンを「特進に次ぐ特進」をさせて警察のトップに近い地位まで引き上げてのはタクシンだからである。ダマポンを引き上げるために多くの有能な警察幹部が犠牲になったことはいうまでもない。

皮肉なことに彼らが今後の警察改革の中心になっていくであろう。タクシンも警察内部に自ら敵を作ってきたのである。

タクシンは軍では従兄弟のチャイヤシット・チナワット(Chaiyasit Shinawatra)を強引にトップにまで引き上げたが、軍もさるものチャイヤシットを「国軍総司令官」という実権のないセレモニー用のポストに祭り上げ、体よく追い出してしまった。

これはマズイと思ったタクシンは士官学校の同期のポーンチャイ・クランラート(Pornchai Kranlert)を陸軍司令官(このポストが最高の実権がある)の一歩手前の「陸軍副司令官」に就任させ、彼は若すぎるので、つなぎ役としてソンティ(Sonthi Boonyaratglin、イスラム教徒)大将を陸軍司令官に就任させたのである。

ところが、このつなぎ役のソンティ陸軍司令官が2006年9月にクーデターを起こし、タクシンを失脚させてしまったのである。要するにタクシンの思惑が外れたのである。タクシンの露骨な意図を見抜いてクーデターを企画したのはソンティ自身というより、軍主流の人々であったことは間違いない。その筆頭がプレム枢密院議長だということであろう。

だから、タクシンはプレム議長が憎くて仕方がないのである。外国のマスコミまで動員して(カネもかなり動いているといわれている)プレム批判を執拗に繰り返し「王党派」というレッテルをベタベタ貼り付けて反タクシン派を攻撃してきたのである。プレム邸には爆弾攻撃も仕掛けられた。

タクシンは自分の思惑が全てうまくいけば軍と警察の実権を掌握し、タイの独裁者になれると思っていたハズである。王制を廃止して、大統領になろうと本気で考えていたフシがある。そうでなければ、軍と警察の両方を支配するなどということは考える必要は毛頭ないはずである。タクシンのほうがそういう意味ではクーデターをたくらんでいたのである。

民主党のチュアン・リークパイ元首相もアピシット首相も軍や警察を支配しようなどと考えたことはないであろう。民主主義国家では軍や警察を支配する必要はないはずである。

タクシンは軍警以外にも特に主要官僚を自分の息のかかった人物で固めようとした。司法省関係ではタクシンノ妹の夫であり、その後首相になったソムチャイがさまざまな画策をしたといわれる。一時期憲法裁判所はタクシン派が主流になったこともある。

財務省関係もタクシンは買収などでトップ・クラスの役人を買収したしたと取りざたされている。彼等はほとんどクビにならず今日まで残って実権をふるい、あるいはサボタージュをやっているのは公然の秘密である。アピシット首相は時期が来れば彼らをパージしていくことになるであろう。

タクシンの負の遺産は相当根深くタイの社会に残っている。カネを使って得意の宣伝活動を執拗にやっている。言論の自由を守ろうとするアピシット首相はかえってその「甘さ」をつかれた格好になっている。それを日本の特派員がチャチャをいれて面白おかしく書き立てている。もっとマトモな記事を書いて欲しいと思う。彼等はタイ人も日本の読者もバカにしているのである。

⇒パチャラワート国家警察本部長辞任、タニー副本部長が代行(09年9月9日)

パチャラワート国家警察本部長は昨年10月8日の「PADのデモ隊殺傷事件」で警察の排除行動に行きすぎがあったとしてNCCC(国民汚職追放委員会=政治家・公務員の不法行動についても捜査権を持っている)からソムチャイ前首相らとともに刑事告発されているが、アピシット首相は9日付けで本部長の職を解き、内閣府付けにするという発令をおこなった。

ところがパチャラワート氏はその数時間後に国家警察本部長辞職願いを出して、本部長を正式に辞任してしまった。パチャラワート氏は9月末日で停年退職することが決まっている。

本部長代行には「ソムチャイ狙撃事件」を』担当しているタニー副本部長が就任する。タニー氏も9月末が停年である。

10月1日に新たに本部長に就任するのはパティープ(Patheep Tanprasert)警察大将かジュンポン(Jumpol Manmai)ッ警察大将か未だに決まっていないようである。

アピシット首相やチュアン・リークパイ元首相はパティープ氏を推しているが、スーテップ副首相やチャオワラット(Chaovarat Chanweerakul)内務相(ネーウィンのブム・ジャイ・タイ党)はジュンポン氏を推しているという。

パティープ氏の方がタクシンとは距離を置いてきた経歴があり、「警察の中立化」を進めるにはより適切な人材との見方がある。ジュンポン氏も別にタクシン派とは見られていないようだが、ややグレーがかった印象を持たれているようだ。

この人事権は最終的にはアピシット首相が握っているはずであるが、連立政権のためにある程度の閣内の合意が必要だとアピシット首相は考えているものと思われる。

それを見て外野席からはアピシット首相には「指導力がない」などとチャチャを入れる向きがある。

しかし、そういう見方は間違いであろう。タクシンのように「独裁的」にものごとを決めずに、あくまで当事者間で話し合いをおこなってから決定するという政治手法の違いでしかない。

⇒警察長官代行にパティープ氏を任命、長官を決められず(09年9月30日)

アピシット首相は9月30日中にパチャラワート警察長官(本部長)の後任を決められずに、やむなく長官代行としてパティープ(Patheep Tanprasert)警察大将を任命した。

これはネーウィン派がジュンポン(Jumpol Manmai)ッ警察大将を強硬に推し、パティープ長官の実現を阻止する行動に出たためのヤムをえない措置であったと考えられる。

これは警察評議員会でアピシット首相が多数派工作に失敗したというよりも、強行採決をおこなえば、与党連合で31議席を持っているネーウィン派のブム・ジャイ・タイ党とのキレツが深まり、一挙に政権が崩壊する危険が出てきたためである。

民主党は過半数にかなり足りない政党である以上ブム・ジャイ・タイ党にキャスティング・ボートを握られるのは最初から分かっていたことである。

アピシット首相としては国会を解散して総選挙を行い、過半数の議席を獲得したいところであるが、今はまだその時期ではないと考えているものと思われる。

なるべく政権を長持ちさせて、その間に景気回復などの実績をあげ、選挙が有利になるようなタイミングを見計らっていることは間違いない。

タクシンのプア・タイ党は景気が回復すると選挙で負けることは確実なため、アピシット首相の「景気対策」に反対し、追加財政支出などを阻止しようとしている。

タクシンは「赤シャツ隊」の反政府集会に電話出演をして「オレが首相をやればタイの景気はすぐ良くなる』などと豪語している。

ネーウィンとしてはあくまで民主党にコバンザメのようにくらいついて、自派の勢力を伸ばし選挙対策資金も手に入れたいところであろう。その際、タクシンが握っていた「警察への影響力」を自分が奪い取るためにジュンポンに固執しているものと見られる。

しかし、ここはアピシト首相としても絶対譲れないところであり、パティープを長官代行に任命することによって(任命権は首相にある)、ネーウィンの野望をくじいた形になった。

また、タクシン派として知られる法務省特別捜査局長のタウィー・ソートソーン警察大佐を法務省の「副次官」に昇進させ(棚上げ)、後任に公共部門汚職防止取締り委員会事務局長のターリッ・ペンディット氏を据えた。ターリット氏は民主党支持派と見られている。

タウィー局長は謀略活動を実質的に指揮していた疑惑もあり、ソンディ氏暗殺未遂事件にも彼の部下が関与している。

このような形で、一歩一歩警察からタクシンの影響力が除去されつつある。警察のトップが替われば、タイの警察も民主的なものにかなり変化していく可能性がある。アピシット首相も正念場を迎えている。


T09-17.アピシット首相、憲法改正で「国内融和」を目指す(09年4月21日)

アピシット首相はかねてタクシン派が要求していた「憲法改正」を提議することで、国内の融和に一歩踏み出そうとしているかに見える。

「憲法改正」のポイントは過去の2度にわたるタクシン党およびチャート・タイ党などのの解党宣告(重大選挙違反が理由)と、それにともなう執行部の「5年間の被選挙権剥奪」に対する扱いである。

アピシット首相としては「被選挙権剥奪5年」は厳しすぎるという個人的な思いもあったのではないかと思われる。

これが実現すれば、旧TRT(タイラクタイ)党執行部員111名やその後のPPP(人民の力地う)やチャート・タイ党幹部など、総勢200人ほどの「政治的復権」がなされることになる。

ただし、タクシンはこの規定からは外れるという。タクシンは刑事罰で2年の実刑が確定していながら、国外に逃亡中であり、他に訴訟案件がいくつもある。また、最近の赤シャツ騒乱事件の首謀者として「反逆罪」で裁かれる可能性もあり、「赦免」はありえないと思われる。

今回の「憲法改正論」は民主党内には異論もあるが、各政党が一堂に会して共通テーマで議論できることになり、結果はどうあれ話し合いがもたれることは議会制民主主義の建前からも好ましいという意見が大勢である。

一方、タクシンはアフリカにいったとか、ニクアラガにいったとかいわれながら、結局UAE=アラブ首長国連邦内にとどまっていたことが判明した。

タイ政府としてはUAEとは「犯人引渡し協定」を結んではいないが、国際警察を使ってでも身柄のタイ送還を目指している。

タクシンはさらにまずいことに、最近のフィナンシャル・タイムズとのインタビューで「プミポン国王は2006年9月の軍事クーデターを事前に知っていた」と語った。おそらく、これは事実としては正しいかもしれないが、元首相のタクシンがそれを言ったら、間違いなく「不敬罪」の容疑がかけらられるであろう。


なお、先のパタヤでのASEANサミットは6月にプーケット島で再度やろうということで各国との調整がほぼついたという。ASEAN各国ともアピシット首相の立場に理解を示しているといわれている。


T09-18.タイ、非常事態宣言解除、株価高騰(09年4月24日)


タクシン派の赤シャツ・デモ隊によってパタヤでのASEANサミットが粉砕され、勢いの乗ったタクシン派はバンコクを騒乱状態に陥れ、一気に「革命的状況」を作り、その混乱に乗じてタクシンがデモ隊の先頭に立って、バンコクに凱旋するというシナリオが描かれていた。

タクシン派の計画が成功したのは4月11日のパタヤ・サミット粉砕まで出、4月12日の騒乱は軍による鎮圧と、バンコク市民の「反赤シャツ行動」によって鎮静化させられてしまった。

ナニがいいたいのか、タクシン・ベッタリの評判の某一流紙特派員は「軍が制圧に乗り出し、120人以上の死傷者を出しながらも14日(赤シャツ・デモを)解散に追い込んだ。」という書き方をしている。

何も知らない人が読めば、軍隊がデモ隊を殺傷したという風に受け止めてしまう。まことに悪質な記事である。本社のデスクはナニをやっているのだろうか?

実際に、市民を2名銃殺したのは赤シャツ軍団である。

その後、PAD(民主主義人民連合」の代表幹部の1人であるソンティ氏が4月17日に自動小銃の乱射を受けながらも、奇跡的に命が助かるという事件が発生した。

しかし、事態が沈静化に向かっているという判断で、アピシット首相は4月24日(金)にバンコクと周辺に出されていた「非常事態宣言」を解除した。もちろん、市内で武力デモなどがおこれば、ただちに応急の対策がとられることはいうまでもない。

ここ2週間の間に、バンコクの雰囲気がかなり変わったという。一般市民が「暴力革命を辞さず」とするタクシン派に対する警戒感が強まったという。

タクシンの右腕と目され、国外に逃亡したといわれているチャクラポプは外国のメディアを通じて「今後は地下活動的なテロ事件が起こりうる」という脅しをかけている。あきれはてた男である。

株価の最近の動きは次のとおりである。タイの投資に対する安心感が昨日あたりから急に出始めていることがうかがえる。日本の新聞はS&PやFitchの格下げをさも大事のように報じているが、たいした実害は起こっていない。

「大変だ大変だ」などと騒ぎたてているのは過去さんざタクシン支持の提灯記事を書いてきた日本の某某紙くらいなものである。

4月 バンコク ジャカルタ シンガポール 東京・日経
17日 456.80 1634.79 1896.56 8907.56
22日 460.62 1615.23 1843.41 8727.30
23日 466.06 1592.70 1859.98 8847.01
24日 474.07 1591.94 1852.85 8707.99


普段、私は日本の新聞は大体「ナナメ読み」しかしないが、アジア記事だけは一応、エリを正して(?)読むことにしている。最近は特派員が記名j記事を書いているので、すぐにそういう方々の、「思想、姿勢、知識レベル」が分かってしまう。こういうレベルの記事では日本の新聞は「読者のアジア理解に貢献する」などというのは到底ムリである。アジアに駐在している日系企業の人も、気の利いた人たちは日本の新聞のアジア記事などろくに読まないと思う。地元の英語紙に到底かなわないからである。新聞社としても、本気で対策を考えて欲しいものである。本社のデスクの責任も大きいと思う。


T09-19.PADが新政党結成(09年6月6日)


赤シャツ隊の騒乱事件を収束し、経済政策に集中して取り組みつつあるアピシット首相へのタイ国民の支持率は60%以上を維持している。

アピシット首相は頭も良く、経済にコトも良く分かり、性格も温厚で、バランス感覚に優れた戦後のタイの首相の中ではナンバー・ワンの折り紙つきの政治家である。数少ない欠点をあえて挙げれば、彼は「漢字が読めない」コトである。

タクシンは中国人系の意識が強烈で、シンガポールと組んで、中国の影響力をASEANに強めるために狂奔した政治家であった。私はこれを「華人枢軸」と形容してきた。しかし、そういうことに気が付かない日本の政治家やメディアはタクシンの「権威主義的政治手法」に近親感を抱き続けてきたのだからよっぽどどうかしている。

アピシットはそういう政治家ではない。日本が最も頼れるパートナーだとして、首相就任後真っ先にやってきたのは日本であった。ところが日経新聞はじめいまだに「開発独裁論(??)」にシンパシーを感じているらしいアナクロニズムの一流紙はアピシットに「鼻も引っかけない」つれない対応をした。だいたい彼の訪日をほとんど報道すらしなかった。

タクシン派の暴動が始まれば、タクシン派(赤シャツ)支持のトーンの強い報道が紙面を埋めた。日経新聞にいたっては赤シャツ隊が2名の市民を銃殺したという記事の解説に「これでタイ政府の立場は弱くなった」などとマトハズレの記事を書いている。

前置きが長くなったが、空港を1週間ばかり占拠したことで、すっかり評判を落としたPAD(民主主義のための人民連合)が政党を結成することを決めた。

政党の名前はKarn Muang Mai=New Politics=新政治党というものである。党首はタイの労働運動の重鎮のソムサク・コサイスク(Somsak Kosaisuk)氏が就任する。

先ほどの銃撃テロで一命を取りとめたソンティ氏は下馬評には上がったが、党首にはならないという。理由は過去に自分の会社を倒産させたことがあるからだといっている。ただし、2ヵ月後の党大会で選ばれれば党首に就任するという可能性は否定しなかったようである。

ソムサク氏はいわゆる官公労のトップとして長い労働運動の経歴があるが、決して「御用幹部」ではなかった。今回のPADの運動でもタイの労働組合の多くが参加した。タクシン支持などという労働組合はほとんどなかった。ただし、モーター・サイ(オートバイ・タクシー)の団体だけはタクシンを支持し、しばしば暴力行為に参加した。


今回PADがなぜ政党を作るかは、PADを代弁する政党が必要だということに尽きる。本来、PADの参加者の大多数が民主党支持者なのだが、民主党の国会議員のなかにはややこしい人物が結構勢力を持っている。汚職の噂のあるものやカネさえ貰えば、何処かに転んでいくような人物もいる。


そういう中でもっとタイの「民主主義の純度」を高めたいという国民の声を代弁する政党にしたいということが今回の目的であろう。これによって打撃を受けるのはタクシン派のプア・タイ党ではなくてアピシット率いる民主党であろう。しかし、タイでは中選挙区制にもどったので、かえってよい結果が出てくるかもしれない。新政治党はまだ結党大会も済んでないので、どうなるかは予測もつかないが、民主主義運動の新しい核になりうる可能性がある。


今の段階で新政治党の特徴を挙げれば「王政擁護」を掲げるが、反動的な「王政党」などにはならない。どちらかというと、より左翼的で純度の高いブルジョア民主主義政党になることは間違いない。

労働組合や農民運動もこの政党に取り込まれていく可能性が高い。指導者もここ数年来PADを指導してきた人々から新しいメンバーに替わるであろう。市民運動的な要素が強くなり、タイの新しい政治リーダーの「養殖池」のような存在になるであろう。アピシットもこちらの党首のほうがイイナと内心思っているかもしれない。


T09-20.中国がタイの鉄道網大改革に全面協力(09年6月26日)


アピシット首相は08年12月に就任後初めて今回中国を訪問し胡錦濤主席と会談し、主に「貿易、投資、農業、観光、インフラ建設その他の部門」の協力を要請した(中国外務省6月26日発表)。

胡錦濤主席はアピシット首相が「伝統的な中ータイ関係の維持」に貢献していることを称えたという。それにしてはアピシット首相は就任後、最初の訪問国が日本で、中国には就任後半年もたってからの訪問であった。

タクシン政権崩壊以降、中国とタイはそれまでの「ホットな関係」がかなり冷めていたが、日本側が「タクシンにノスタルジャー」を感じてアピシット政権を冷たくあしらっている間に、中国はタイとの関係改善に大きく前進したというよう。

6月26日の英字紙The Nationの報道によれば、アピシット首相は中国側にタイの鉄道網の整備についての協力を要請し、中国側からの前向きの反応を引き出したという。これがアピシット首相の訪中目的の目玉ともいうべき重要性を持っているといえよう。

従来、タイは日本にも鉄道援助を要請していたが、在来線については日本の中古車両を提供する程度にとどまっていた。

今回アピシット首相はCRG(China Railway Group)のShi Dahua会長にも会い、鉄道網の増強をはじめ、全面的な協力を要請したという。CGSは調査ミッションを至急派遣することを約束したという。

従来タイは鉄道に関しては厳重な投資規制などがあり、外資の進出も規制されていたがNESDEB(国民経済社会開発委員会)が中心になって大幅な規制緩和を検討するという。要するに、民営化を含めた外資の参入を検討するということである。

民営化に対してはタイ国鉄労組は絶対反対の立場であり、つい先日もストをおこなったばかりであるが、このままではタイの鉄道の発展は望めないので、何らかの解決策が話し合われることになろう。

タクシン政権時代は道路建設業者(地元ゼネコン)の利害が最優先されており、鉄道の増設などは問題外であった。しかし、アピシット政権下では国民経済的視点からエネルギーの効率的使用のために、バス・トラックから鉄道輸送への切り替えが本格的に検討されているようである。

今回のタイの鉄道網拡張計画は周辺国との連携・接続も考慮に入れられているという。


タイは近代化に当たりイギリスとの国境画定時に借款を受け、鉄道網の新設をおこなった。そのとき敷設された鉄道は今日まで使われているが、その拡充と利用は「緩慢」の一語に尽きる。


現在のタイは庶民の交通は極度に道路すなわち自動車に依存している。そのためGDP単位あたりの石油消費量はタイは世界でもトップ・クラスといわれている。

遠距離の旅行はバスが最も幅を利かせており、金持階層は飛行機を利用する。鉄道も利用できるが料金は安いが時間はバスよりもかかる。さらに、本数が少ないため、切符の入手が容易でない。

タイの交通の最大の欠陥は鉄道であるといっても過言ではない。しかし、線路は敷かれているのである。線路の上を走る列車の姿があまり見られないだけの話しである。

東北部の自動車道路はベトナム戦争当時、米軍が「北爆」をタイの飛行場からおこなったおかげで、バンコクからタイ北部・東北部に通じる「高速道路」はかなり整備されている。

その分、鉄道の利用がなおざりにされたといっても過言ではない。


T09-21.タクシン国外から赤シャツ軍団に全国で誕生祝の集会をさせる(09年7月29日)


タクシンは2年の禁固刑判決を受けながら海外に逃亡し、各地で赤シャツ軍団による反政府集会を開催させ、そこに「電話参加」と称して大スクリーンに自分の姿を映写させ好き勝手な政府攻撃をおこなっている。

7月26日はタクシンの60回目の誕生日だとして、当社は王宮前広場(サナム・ルアン)で盛大な誕生日祝いの祝賀集会を開く計画であった。しかし、これはバンコク知事に広場使用を拒否され、結局ノンタブリ県のワット・ケウ・ファー・チュラ・マネー寺院で「悪運落としの祈祷会」をおこなうことにスケール・ダウンされたが、タクシン支持者の多い各地で「タクシンノ誕生日を祝う集会」がおこなわれた。

タクシンは口先では「誕生日祝いなどやって欲しくない」などといいながら、7月26日は「ビッグ・サプライズ」の日と称し国民を驚かせるような何かをやるという「期待感」を持たせ、集会にはいつもどおり「電話参加」をおこなった。

自分の誕生日を全国的に祝う集会を亡命中の犯罪者がやるというのはいかにも異常である。全国で誕生祝をやるのは国王夫妻や一部の王族だけである。それと同じことをやろうとしていたのだからタクシンという人物は「普通ではない」という感じはする。良識あるタイ人が苦々しく思うのは当然である。

そのような振る舞いを許容しているタイ政府にも問題がある。反政府集会への犯罪者の「電話参加」を許容するような国が他にあるだろうか?

ところで「ビッグ・サプライズ」の内容だが、当初は全国的に「作文コンテスト」を行い、成績優秀な6千人の生徒に「奨学金」を出すという触れ込みであったが、その話は立ち消えになり、「100チャンネル」のケーブル・テレビ局を開設し、世界に向けて、タクシンが始めた「一村一品」運動の産物を宣伝するということになったようである。

「一村一品」運動は日本の大分県のマネだが、これがタクシン人気の1つの理由になっている。それは政府による農村活性化政策には違いないが、同時にバラ撒き政策でもあるからである。肝心の「一品」のほうはほとんどめぼしいものはなく、一部竹篭細工や駄菓子みたいなものが地方空港に行くと「出品」されているが、買っている人はほとんどいない。

タクシンにしてみれば、常に話題提供を行い、国民から忘れられないようにしたいというところであろう。タクシンの帰国願望は強烈であるが、2年間の禁固刑が確定しており、その他にも裁判が進行中のものがいくつもあり、それらが有罪となれば何時ブタ箱から出られるか分からない。

それよりは自家用ジェット機にのって好きなところを飛び回るほうが良いに決まっている。

そこでタクシンが考えたのは「国王による恩赦を求めての100万人署名」運動である。これは国王を政治の舞台に引きずり込む行為であり、憲法に違反していると言われているが、当局は黙認しているようである。国王も刑が確定しながら一日も服役していない人物に恩赦の与えようがない。

しかし、アピシット政権はタクシンを追い詰める作戦を着実に進めている。それは「警察のパージ」である。タクシン派の警察幹部がここ数ヶ月のうちに要職から外されていくであろう。

また、「ソンティ暗殺未遂事件」で首謀者の特定が進んでおり、警察幹部と軍の一部(特殊部隊)が容疑者として上がっており、近く逮捕状が出されるという。捜査情報の遺漏事件もあり、警察幹部が疑いをもたれている。タイ警察の浄化がなければタイの民主主義は実現しない。

同時に、警察の幹部と一部の軍人を巻き込んでタクシンがやってきたさまざまな悪行が白日の下にさらされることがタイの政治の民主化につながっていくことは明らかである。


T109-22.世論調査にみるアピシットとタクシン(09年8月9日)

『タイの地元新聞を読む』の09年8月9日号によると(英字紙ネーションなどでも同趣旨の記事は読める)によると、私立アサンプション大学のABACポールという有名な世論調査で、17県在住の1,393人の18歳以上に対しておこなったアピシット首相とタクシン元首相についての認識調査がなされた。

一部の世論調査ではタクシンのほうがアピシットより「人気が高い」という結果が出て、タクシン支持者をいたく喜ばせたが、こちらの調査のほうがより正確であろう。

アピシット タクシン
リーダーとしての資質あり
 感情抑制面 73.8% 45.0%
 道義面 71.4 61.6
リーダーとしての名声 68.4 52.1
誠実さ 68.2 40.5
民主主義に対する信奉度 66.5 51.5
公共の利益の優先指向 65.4 36.4
カリスマ性 64.9 53.8
国民からの信頼度 61.4 57.9
公正な官僚人事 54.1 37.7
知識才能面 61.8 81.6
国民との意思疎通 55.3 68.2
国際社会との意思疎通 47.0 72.1
プロとしての統治掌握能力 40.2 76.0
迅速な問題処理能力 37.9 73.3
隣国をリードする大物性 25.1 71.4
在任中に住民が抱える問題を見捨てることはない 67.0 66.7


この結果を見ると、タクシンの政治手法がかなり浮かび上がってくる。タクシンはいろいろアイデアを出したことは確かである。しかし、それがタイ国民や国民経済にとってプラスであったかは別問題である。

「統治能力」という面についてはタクシンのやり方は「CEO」スタイルで「何でも自分が決める」式のやり方である。それに反してアピシットのやり方は「民主主義的」であり、独裁的にモノゴトをきめるというやり方は目下のところとっていない。自分の方針はしっかり持っているが、内閣のコンセンサスを重視している。連立政権の首相という立場もある。

「隣国をリードする大物性」などという設問はどうかと思うが、どこの国もタクシンなどにリードされた国はない。タクシンが外交面で一生懸命やったことはシンガポールと組んで「華人枢軸」とも言うべき露骨な親中国政策を推進しようとしたことである。

これにはインドネシアやマレーシアから明らかに「眉をひそめられて」いた。タイ人も華人系の人の中にはタクシンの外交政策を是としていた人々がいたことは確かである。しかし、一般国民には関係のない話であった。農産品の自由化を中国と「先行して」やったおかげでタイの農民が受けた被害は甚大であった。

「住民の抱える問題」についてタクシンが心の底から考えていたとは到底考えられないが、一連のポピュリズム政策は貧困層には新鮮かつアリガタイと映ったことであろう。

タクシンの本音は「公共の利益」よりも「私的利益」を優先させるということにあったとしか思えない。ラチャダピーセックの国有地払い下げに自分の女房に落札させたり、子供に無税で資産を譲渡するために国税局の役人の首をスゲ変えたなどと取りざたされている。

また、窓際に座っていた従兄弟を国軍総司令官に任命したり、自分の息のかかった人間を警察のトップにしたり、やりたい放題やっていたのである。

未解明事件ではあるが、1997年の通貨危機時に、フロート制に移行することを事前に知っていてチャワリット(当時首相)と組んで、ひそかに「バーツ売りドル買い」で膨大な利益を挙げたという報道が当時なされていた。それにはタクシンの子分であったタノン財務相が絡んでいたといわれている。

タイ人は多額のバーツの持ち出しを禁じられていたにも関わらず、イギリスのサッカー・チーム「マンチェスター・シティ」を買収したり、不動産をアチコチに所有するなどということがどうして可能だったのか?余りにも問題が多い疑惑の政治家であった。

アピシット首相は就任後まだ半年強である。しかし、良くやっているという評価は日ましに高まっている。強権的にいろいろやることは民主主義についてイギリスで教育を受けてきたジェントルマン政治家としてはできない。ヒットラー的な政治手法はタブーである。

麻薬撲滅運動と称して「路上で何千人も撃ち殺す」こともできないし、権力による殺人は「法治国」としてやるべきことではないというのがアピシット首相の考え方である。しかし、一般の民衆はあの虐殺事件に拍手を送っていた人が多いという。また、政治家は「少しくらい汚職をやっても良い政治をやって呉れればそれでいい」と考えている人が多数であるという。

しかし、汚職というのは「国民のカネ」を地位を利用して直接間接に特定の個人の懐に入れることである。そんな政治家の存在が是認されるはずはない。しかし、タイ在住の一部の日本人は「それも必要だ」とか「タクシンみたいな政治家があと2〜3人は出てきても良い」などと公言しているらしい。

しかし、普通の日系企業の駐在員はもっとマトモな考え方をしている人が多いと信じたい。タクシン支持だなっどといているとタイ国民からいずれは受け入れなくなるであろう。タイは間違いなく「民主主義の正道」を歩み始めている。

この辺を全く理解しようとしない日本の一流紙の特派員がいるのには唖然たる思いである。日経の8月8日の夕刊の記事などは、あらゆる口実を見つけてアピシト首相を誹謗する姿勢がありありと見える。

「タイ首相批判高まる」という大きな見出しの三河正久特派員の記事は明らかに悪意と誇張に満ちている。タクシン派ノエコノミストはメディア(バンコク・ポストはその傾向がある)はタイの経済がうまくいっていないなどといっているかもしれないが、この時期に東南アジアのどこの国がうまくいっているというのであろうか?

タクシンだったらもっとうまくやるとでもいうのであろうか?それは幻想にしか過ぎない。タクシン時代に経済成長率が高かったときもあるが、それは「中国ブーム」の時だけであり、その勢いに乗って「クレジット・カード」の乱用を促進し、現在の「個人・家計の借金漬け状態」に導いたのである。

三河氏の記事は全体にイデオロギー過剰である。それも犬も食わないタクシンびいきのイデオロギーである。なぜ、三河氏がタノンビダヤのお話しなど載せたのであろうか?彼はタクシンの一の子分だったことを知らないはずはあるまい。彼が通貨危機の前夜ナニをやったかタイでは広く知られている。

アピシット首相の「バラマキ政策」をタノン・ビダヤはあげつらうが、元凶はタクシンのポピュリズム政策にあることはいうまでもない。日経さんもっと勉強してくださいよ。おタク様のアジア記事は世界でも最低レベルにありますよ。

あるアンケートでタクシンの人気が最近回復して、アピシット首相の人気ががた落ちだなどと書いている。書くならもっと背景の事情にメスを入れて書くべきである。

日経は上記のABACポールについての記事を書くかどうかがミモノである。日本の新聞記者やアジア学者はどうして独裁者が好きなのか全く理解に苦しむ。「開発独裁論」などというインチキ理論に毒されているのである。貧困な理論である。


T109-23. アピシット政権はタイ鉄道の本格改善に取り組む(09年8月10日)

『タイの地元新聞を読む』によれば8月9日(日)のアピシット首相の定例政権放送の中で、タイ政府はタイの鉄道の本格的な改善に取り組むと宣言したという。

タイは20世紀のはじめから、本格的な鉄道の建設をおこなってきたが、その後の運営に完全に失敗した。タイの交通は極度に道路すなわち自動車に頼っているのである。

鉄道を利用しようにも、列車の運行が極度に少なく、需要に全く対応し切れていない。これは鉄道運賃が安くて国鉄の経営が赤字続きで、新規投資どころではないというが、要するに当局者の「怠慢」が根本原因である。

政治家は、膨大な資本投入を要する鉄道建設より、ポピュリズム政策で国家資金を農村にばら撒き農民の票を獲得したほうが政権獲得には近道だということで、タクシン時代は全国の鉄道網強化には投資が向かなかった。それどころか日常の保全までサボっていたのである。

鉄道関係の役人は「何もしなくても月給と勲章は頂戴できるので」であえて政治家の意向に逆らってまで事業の改善をおこなわなかった。労組も現状維持に安住した。

そのかわり、タイではバスやミニバスがアチコチで運行されていて、庶民はもっぱらそれを利用している。私は長年タイで暮らしたり,その後もタイを旅行したりしてきたが、鉄道を使ったことは一度もない。使いたくても使えないのである。

自動車に依存するタイ経済は国民総生産に占める石油使用がきわめて高いといわれる。石油消費を減らすにはもっと鉄道を活用すべきことはいうまでもない。鉄道事業への投資はタイ経済にとってきわめてプラスが大きいことは確かである。

バンコクの高架鉄道や地下鉄の利用状況を見ても、鉄道がいかに有効な交通手段であるかは立証されている。今度は遠距離鉄道の番である。また、バンコクから南部(ナコン・シ・タマラートやソンクラ)へのフェリー便の運行も必要である。

T09-24. タクシン派500万人の署名を集めタクシンへの恩赦を請願(09年8月17日)

タクシンは国有地を夫人に払い下げたのは違法であるとして2年間の禁固刑を言い渡され、国外に逃亡しているが、国王に特別恩赦を請願する署名運動なるものをおこなったきた。

既に500満員の署名が集まったので、それを王室に届け、かつ赤シャツ隊の動員力を誇示する目的で王宮前のサナン・ルアン広場で決起集会を開いた。

タクシンは国外から電話でメッセージを送り、自分に対する司法の不当な取扱いを非難した。

集会には東北部・北部を中心にバスで動員されてきた赤シャツ隊が約2万人集まったとWSJは報じている。

1千人の僧侶に先導された赤シャツ隊の代表1000人が1個1万人分の署名の入った箱を赤い切れで包んで、棒でかついで王室管理事務所に届けたという。

王室管理事務所は「全ての請願案件は政府の審査にゆだねることになっている」として門前払いをしたようである。500万人の署名というのはオーバーで重複などあり実際は350万人分であったという報道もある。

数はどうであれ、また正当性はどうあれタクシンとしては常に大衆を動員し続けることが目的であり、タイに政治的騒ぎを「休まず引き起こし」国民から忘れ去られないようにするのが目的である。

タクシンは電話で「自分は無罪である」と繰り返し主張しているが、本当に無罪であるならば国内で裁判を続けるべきであることはいうまでもない。

しかし、いくらなんでも政府が差し押さえた土地を、いくら競争入札という「公正な」な手続きをとったにせよ、首相の奥方が落札するというのは普通ではない。儲け話があればドンドン手を突っ込んでいくというのがタクシン流の昔からのやり方なのである。

日本の「簡保の宿」は「小泉改革グループ」のクローニー(お仲間)の落札だが、タイの場合は首相が自分でやってしまうというのだから程度の悪さはケタが外れている。

タイにはネーウィン・チューチョウブが率いる「青シャツ隊」というのもあって青と赤とで騒乱を引き起こすのではないかと取りざたされたが、雷雨以外は何事もなかったという。


T09-25.タイの新インフルエンザで111人が死亡、治療費300万バーツの例も(09年8月19日)

タイではタクシン首相が有り余るカネを使って、赦免嘆願書署名全国運動などやって、「政治的混乱」を必死になって作り出しているが、一方で庶民レベルでは新A型インフルエンザ(H1N1)が大流行し、既に8月19日の朝までに111名が死亡している。

タイよりも先に流行し始めた日本では死者は3名であるが、これから急激に増加する可能性を秘めている。体力が売り物のプロ野球選手や甲子園球児まで感染者が出ているというのはただ事ではない。

タイは低所得者には30バーツ診療改め「無料診療」制度で一応診察治療を受けられるが、中産階級はほとんどが有料の病院で診察を受けている。

私立の病院のなかには日本人の看護婦を雇い、外国人の患者も受け入れる準備だ整っているバムルンラード・ホスピタルのようなレベルの高いマトモな病院も少なくないが、中にはとんでもない私立病院があるらしい。

8月15日付けのネーションによればA型インフルエンザの治療を受けた28歳の男性が治療費になんと300万バーツ(≒820万円)をふんだくられた挙句死亡した例が報じられている。

人の弱みに付け込んでトコトン金儲けをしようという輩がタイにもいるらしい。こういう病院はタクシン政権が始まってから出現したものであろう。一昔前はこんな病院の話しは聞いたことがない。日本の「小泉改革」もロクなものではなかったが、タイの「タクシン改革」も多くの弊害を残した。

それもスクムヴィット地域の病院だというから日本人は要注意である。


T09-26.赤シャツ軍団からチャクラポップ等元共産党メンバーが脱退(09年8月28日)

チャクラポップ・ペンケー(Jackrapob Penkair)氏は赤シャツ隊の「09年4月蜂起」事件の後、どこか外国に亡命しいているとされるが、最近になってタクシン派が「恩赦請願署名運動」をおこなっていることに対して強く反対していた。理由は「実現性のないことに大衆を動員して不必要な幻想を与えた」からだという。

そればかりではなく、今回は元タイ共産党幹部でタクシン派の「反独裁民主主義同盟」(DAADまたはUDDまたは「同盟」)内の元タイ共産党員幹部のスラチャイ・セーターン氏や政治活動かのチューポン・ティーグアン氏らとともに新組織レッド・サイアム(Red Siam)を組織することにしたという。

これは赤シャツ軍団の分裂を意味するが、他にもDAADには元共産党員がタクシンの部下としてかなり多く働いており、彼らの帰趨は明らかになってはいない。

現在赤シャツ軍団は「3人組」と呼ばれるVeera Musigapong, Nattawut Saikua, Jatuporn Prompangの3人が主導権を握っている。彼等は大衆を動員して、「政治的混乱」を演出し、「タクシンの存在感をアピールする」ことに運動の主眼をおいており、それに対しタクシンは「応分の資金援助」をしていることは容易に推測されるところである。

8月30日(土)にも赤シャツ隊の一大デモンストレーションを挙行し、アピシット首相を退陣に追い込むとしている。

これに対し、アピシット首相としては「治安維持法」の適用を既に閣議決定しており、赤シャツ隊が騒乱を起こすことは許さないと宣言し、バンコク市民の80%がアピシット首相の方針を支持しているというアンケート結果が出ている。

チャクラポップらは赤シャツ隊の街頭行動はかえって赤シャツ隊のエネルギーを消耗し、力を削いできたという見方をしていたようである。3人組の大衆行動をチャクラポップは「モンキー・ショー」だといって批判し続けていた。

チャクラポップのレッド・サイアム(赤いサイアム)という組織がどれくらいの物になるかは明らかではないが、おそらくタクシンはこういうものにカネを出すはずはないので、個人的なサークルに終わる可能性もある。

タクシン派には元共産党のインテリがかなり多く参加していたという報道が過去にもなされているが、彼らも「心の底からタクシン派になりきって」いるものもいれば、革命運動の一環として「タクシンと共闘」すると考えていたグループがいる。それ以外にカネと地位目当てでタクシンに協力してきたグループもいる。

昔のドイツでヒットラーに多くの共産党員が協力したが、あれと全く同じ図式である。ドイツと違うのは、タイの軍部は2006年9月にク^デターを起こし、タクシンの独裁政権を潰したことである。その後、軍はタクシンに替わり政権をとったかといえば到底そうはなっていない。

要するに「民主主義の正道」にタイの政治を引き戻したのである。これはプレム枢密院議長が考えたことかもしれない。「タイをマトモな民主主義国家にしなければ王室(王制)が危ない」というのが79年のタマサート事件以来のタイの軍部と王室の基本的なコンセンサスともいえよう。

アピシット政権を「軍の傀儡」と呼ぶのはきわめて不適切である。それは現実の政治過程を見れば明らかである。

タイ人がどういう政治体制を望んでいるかはわれわれ外国人が干渉すべきことではない。バンコクの居酒屋で酒の肴にでもしていればよれでよいのだと思う。今までの日本の新聞の記事は明らかに異常であるし、日本政府の対応にもかなり問題があったことは確かである。


T09-27.世界最高水準をいくタイの通信技術、首相の音声を偽造(09年8月31日)

09年4月の赤シャツ隊の「バンコク蜂起」をアピシット首相が「武力を使って弾圧せよ」と命令を下す映像が音声とともにビデオ撮影されたという「事件」が発生した。

アピシット首相は平和主義者として知られ、タイ国民に対してたとえ相手が赤シャツ軍団であっても「流血」を伴うような弾圧を加えるはずもなく、首相自身がそのような命令は身に覚えがないと強く否定してきた。

しかし、実際にアピシット首相が弾圧を命令している「ビデオ・クリップ」が赤シャツ軍団に配布されており、反政府集会で「アピシット首相のタイ陣要求」の口実になっていたという。

ところが、最近にこのクリップの分析がなされ、映像そのものはアピシット首相のホーム・ページから収録され、音声はアピシット首相の「声紋」を解析して「捏造した」ものであることが判明した。

しかもその「捏造元」はタクシンの妹(インラック・チナワット)が会長を務めたクシン一族が所有する「SC Asset」なるシン・サット(元タクシンの通信会社でシンガポールのTEMASEKに売却された)の子会社であったことが判明したという。

8月30日までにこのクリップをE・メールで送信したとしてSC Asset社の社員2人(男1人、女1人)が逮捕されたという。赤シャツ隊は知らぬ存ぜぬといっているが、現実に赤シャツ隊の一部には既に流されている。

もし、有罪が確定すれば最高5年の禁固刑と罰金10万バーツが課せられる可能性があり、政党(この場合プア・タイ党)が関与していたとなれば、「解党命令」が出される可能性がある。

いや実際のところタクシン派もなかなか「ヤルモンダ」ネといったところか?しかも、これを暴いたのがタイの公安警察だという。これまた「ヤルモンダ」ねと感心させられる。

ところで、かなり前の話しになるが、民主党の前原代表時代に若手の永田議員が偽メールのトリックにかかって、議員を辞職し、最後は自らの命を絶つという痛ましい事件が起こった。

これなどはどう見ても与党関係者の誰かが「ワザをかけた」としか思えないが、日本の警察は何もしていない。事件はウヤムヤのうちに終わってしまった。もし、前原氏が民主党の代表を続けていれば、今回の民主党の大勝利などはなかったかもしれない。皮肉なものである。因果応報といったところか?


T109-28.公共保健省で汚職容疑発覚(09年9月28日)

ウィッタヤ(Witthaya Kaewparadai)公共保健相(民主党)は地方医師基金の医師からの告発で、アピシット政権が発動した「国民健康増進」特別予算92.9億バーツ(約250億円)がかなり怪しい使い方がされているという疑惑から、省内に「特別調査委員会」を設置して、実態調査に乗り出すことを明らかにした。

問題は、医療機器の購買が中心で、機器の購買について「地方医師」の意見を聴取することなく、不要な機器を、法外な値段で買い付けており、、政治家も関与しているらしいという。

地方医師財団の事務局長のポンテェプ(Pongthep Wongwatcharapaibul)i博士によれば政治家の関与について言及している。これには民主党の国会議員も含まれている可能性がる。

この92.9億バーツは第2次景気刺激策1兆5,600億バーツ(約4兆2,000億円)の一部として閣議決定されたものである。

具体的な例として、新型インフルエンザの重症患者などに使用される「集中呼吸器」が1台120万バーツで買われたが、相場は50万バーツであるとか、公共診療所には不必要な紫外線殺菌機器が1台4万バーツで大量に据えられ、これは1台6,000バーツで買えるものだという。

タイの役所はもともと汚職体質があり(インドネシアほどひどくはないが)、特別予算がつくとここぞとばかり悪さをする輩が存在するのは日本と同じであるが、今回政治家が絡んでいるということが問題を大きくする可能性がある。

タクシン時代はこの手の話は日常茶飯事で、スバンナブーミ国際空港の爆発物検査装置の大規模汚職事件などが有名である。日系企業も槍玉に上がってこともある。

民主党政権下では「クリーンな政治」を標榜しており、今回の事件が万一民主党議員が関与しているということになればアピシット政権にとっては大打撃になりかねない。
(The Nation 電子版、09年9月28日付け)


T109-29.タクシン時代の「2-3桁富くじ」事件で猶予付き判決(09年9月30日)


タクシン元首相が2003年に、闇社会が資金源にしていた「2桁、3桁のスピードくじ」を政府が取り上げ、公の富くじ化して、収益金の一部を社会に還元し、義務教育の充実などのために使うとして、実施した。タイ政府は以前から「6桁の宝くじ」を公式に発売していた。

ところが、これは社会に「射幸心」を蔓延させるモトであり、止めるべきだという仏教徒団体などの強い反対があった。

しかし、CEOタイプを自称するタクシンは法改正(1974年の富くじ法が存在する)などは一切おこなわず「閣議決定」だけでこの富くじを実施に移してしまった。典型的なタクシン流のやり方であった。

タクシンの思惑としては収益金を低所得者の教育費に充当したいという「ポピュリスト」的な狙いもあったことは確かであろう。

この富くじは「地上(On-land)くじ」とネーミングされていた。ヤクザ組織がやっていたヤミの富くじ「地下(Under-ground)くじ」に対抗するという名目である。

実際この収益金がどこにどう使われたかは「不透明」なのは最初から分かりきった話であり、一部は公共目的に使われたが、不明な部分がかなりあった。「法改正」もおこなっていないので収支決算や用途がハッキリしないため、裁判も手間取った。

結局、2006年9月の「クーデター」後に発足した「国家資産毀損調査委員会(Assets Examination Committee)」が取り上げ、「1974年政府宝くじ局法」や「政府準備金法」などに違反したとして訴追された。

最高裁政治家犯罪特別法廷はタクシン以下の当時の関係閣僚や内務省高官など47名に対し、ほとんどが無罪で、主犯格の当時の副財務相のワラーテープ(Varathep)氏,元財務省次官のソムチャイヌック(Somchainuek Engtrakul)、元政府宝くじ局長スラシット(Surasit Sangkapon)警察少将の3名に対し、2年間の執行猶予付きの2年間の禁固刑を言い渡した。タクシンは海外逃亡中のため別途裁かれることになるという。

最高裁の認定では損害総額369億6,183万バーツ(約998億円)のうち、「目的外使用」が140億バーツあったとしている。しかし、これは「横領された」とはいえないため、今回の被告には損害賠償は求めないという。

この有罪判決は予想されたよりも軽微な判決であったが、有罪判決には変わりなくタクシン陣営にとってはやはり痛手である。タクシン不在の裁判であるため、まだ決着がついたとは言えない案件である。

被告に執行猶予がついたのは彼らが今回いずれも「初犯」であるためだと判事は言っている。タクシンノ場合は有罪になれば執行猶予無しの、文字通りの実刑であり、国外に逃亡して裁判を忌避したことに対する罪も加算されるとかなりの重罪になる可能性がある。


T109-30.タイ、マプタ・プットの76工場に一時的に操業停止命令(09年10月1日)


タイの中央行政裁判所は9月29日(火)に東海岸のマプタ・プット(Map Ta Phut)地区の76件の工場について、環境上問題があるとして一時的に建設差し止め判決を出した。その間、政府機関が環境調査を個々の工場について実施するという。工事総額は4,000億バーツ(約1兆800億円。

事態を重く見た政府はアピシット首相を座長として緊急経済閣僚会議を開き、1両日中に控訴するとしている。

現地の企業にとっては由々しき大問題で、FTI(タイ産業連盟)のサンティ(Santhi)会長も、外資に与える影響が大きいとして重大な懸念を表明している。

操業の一時建設停止になった工場は上工程のペトロ・ケミカル工場などが多く、輸入代替金額は3,000億バーツ(約8,000億円)に相当し、雇用者数も10万人に上ると推定されている。

またタイ最大のペト・ケミ企業であるPTT社など個別企業も中止命令執行停止の仮処分を申請する動きがある。サイアム・セメントの工場も対象になっている。

しかしながら、マプタ・プット地区の公害問題は長年の歴史があり、呼吸器疾患患者は後を絶たず、肺がん発生率も高いといわれ、何らかの対策の「上積み」が要求されることは間違いない。

景気不振のなかの建設停止命令判決であり、大きなショックを与えている。


T109-31.首相秘書ニポン氏辞任か?古手民主党幹部の叛乱(09年10月2日)

タイの英字紙,ネーションとバンコク・ポスト両紙とも近くアピシット首相の秘書官であるニポン・プロンパン(Niphon Promphan)氏が辞任する見通しを報じている。10月2日現在辞表を提出していないが、ニポンは病気と称して数日間姿を現していない。しかし、ここに来て続投はありえないであろう。

首相秘書官といっても日本の場合と違って閣僚クラスの大物であり、官房長官といったイメージである。ニポン氏は民主党の複数の「副党首」の1人であり、前のチュアン・リークパイ首相時代も2度にわたり首相秘書官を務め、農相の経験もある重鎮である。

マネージメント能力が高く、タイの政界では顔が利くということでチュアン・リークパイ元首相・現民主党顧問が特に推薦してアピシット首相の秘書官につけたいきさつがある。

ところが、この任命を当のニポン氏自身が必ずしも喜んでいなかった雰囲気が最初からあった。というのは45歳のアピシット首相に比べ、57歳のニポン氏は党歴の上からもアピシットの大先輩に当たり、「世が世ならオレのほうが首相になっていたはずだ」という思いが内心あったことと思われる。

また、農相時代に土地改革問題(Sor Por Kor 4-01)が疑獄事件に発展し、農相を辞任しチュアン政権崩壊につながった。金銭的に民主党を支えてきたという自負も彼にはあった。

首相秘書官でありながら、出勤はいつもアピシットの後で、その件についてアピシットから注意を受けたことがあるという。また、勝手に行方をくらまし連絡が取れなくなることは再三であったという。

実はステップ副首相とニポンは義兄弟であり、今回の警察長官指名事件ではネーウィン派(Bhum Jai Tai党)と組んで元タクシン派の警察副長官ジュンポン(Jumpol Manmai)警察大将を警察長官に据えようとした。

そうすることによってステープとニポンはネーウィン派と組んで政権のイニシアティブをとれると考えたとしか思えない。一種の宮廷革命である。

しかし、アピシット首相としてはより透明度の高いパテェープ警察大将を長官に据えなければ、警察改革はできないと考えていたのである。アピシット首相の再三の協力要請をステープとニポンは拒否し続けたという。

結局、アピシット首相として正式の長官指名を一時あきらめ、パテェープを「長官代行」に首相権限で任命した(これは合法)のである。アピシット首相は面子を潰された形になった。

ステェープとニポンの言い分としては「ネーウイン派と妥協しなければ政権を維持できない」ということであろう。しかし、アピシット首相の方針に真っ向から反対してネーウィン派と同一行動をとるというのは「政治的叛乱」以外の何者でもない。

すでにニポンは辞任の意向を固めたとステェープ副首相は語っている。アピシットにしてもいずれネーウィン派とは選挙戦で闘う運命にあり、今まで以上に譲歩する考えはないことを示したともいえる。

ネーウィン派としてもタクシン派と決定的に対立しており、いまさら与党連合を離れられない立場にある。

アピシット首相にとてはこのような綱渡り的な政策運営がしばらくは続くものと見なければならない。今回分かったことは敵はタクシン派のプア・タイ党だけでなく、民主党内部にもいることがいまや明らかになった。

ニポンやステェープのような民主党古手幹部のなかには若造のアピシットが首相になってオレたちをあごで使うようになったというジェラシーもあることは間違いない。また、アピシット首相がいる限り、古手幹部にはチャンスがないというアセリもあったことであろう。

2005年の選挙でアピシットを排除して古手幹部のバンヤート(Banyat)を民主党党首(2004年)にし、タクシンとの選挙戦で惨敗した元凶となったのは彼ら古手党員であった。

過去において金銭的にも不正に手を貸していたのは古手党員である。チュアン・リークパイは人格者であるが、人事音痴であった。彼は民主党政権の発足に当たっても古手党員の動きを抑制すべきだったのである。

今回もニポンを首相秘書に推薦したのもチュアンである。民主党には若手の人材が多く、彼らを中心に政権を運営していけば特に問題はなかった。おそらく、国会解散は早まったとも考えられるが民主党は負けるはずはない。

野党のタクシンの政党プア・タイ党は党首になり手がなく、なんと元首相のチャワリットを党首に据えると報じられている。

⇒ニポン9月30日付けでやはり辞任。後任はコブサク副首相(09年10月6日)


アピシット首相はニポン首相秘書官長の辞任を9月30日付けで正式に承認した。後任はコブサク副首相兼財務相が当たることと見られる。

今回、アピシットっ首相秘書官長のニポンが首相の意図に反して、自分の支持するジュンポン警察大将を次期警察長官に推すという異常な事態は、さすがのタイでも不可解な行動という見方が多く、背後にどういう事情があったのか、説明を求める声が強い。

ニポンは民主党の副党首として、今後とも民主党政権を支えていくとはいっているが、ナニをやらかすか分からないと誰しも思うところである。

タクシンの買収の手が民主党内にも伸びてきているのではないかとすら疑う向きもあるという。タクシンとしてはアピシット政権がうまくいって国民の支持を集めると、復権の芽はなくなるので、ありうる話かもしれない。

ニポンの義兄弟で副首相を務めるステープはそのまま辞任せずに副首相を務めるようである。


T109-32.中国工商銀行がタイのACL銀行買収(09年10月6日)


中国最大の銀行である中国工商銀行(ICBC)はタイのバンコク・バンクからACL銀行(上場)の株式19.26%を35.5億バーツ(約96億円)で買取ることを決めたという。

ICBCは市場からさらにACL銀行の株を1株11.5バーツ(バンコク・バンクの売値と同じ)で公開で買い付けるとしている。(直近の終値=10バーツ/株)

コーン財務相はタイ政府の持株30.6%をICBCに売却する予定だという。今回、ICBCはタイに完全子会社の商業銀行を所有することになる。

この取引を契機にバンコク・バンクとICBCは今後密接な取引関係を構築していきたいとしている。

ACL銀行は中小企業向け融資をおこなっており、全国に16支店を有し、従業員は732名。09年6月30日現在の総資産は637億バーツ(約1720億円)と小型の銀行である。

(WSJ 09.10.1電子版参照)


T109-33.PADが新政党発足、ソンティ氏が党首に(09年10月8日)

タイの反タクシン市民運動グループであるPAD(民主主義人民連合=通称黄色シャツ隊)はNPP(New Politics Party=新政党)の結成を目指していたが、10月6日(火)党大会を開き、党首にPADのリーダーの1人であるソンティ・リムトンクン(Sonthi Limthongkul)氏を選出した。

ソンティ氏は雑誌プーチャドカン(マネージャー)社のオーナーであり、反タクシン運動の創始者の1人であり、去る4月17日には銃撃され危うく助かった。

また、名誉毀損訴訟を受け、禁錮6ヶ月の判決を受け控訴中である。NPPは現在党員が8,900名おり、党大会には2,300名が出席し、ソンティ氏は1,741票集め、初代党首に就任した。

大会にはチャムロン少将などのPAD幹部も出席したが、チャムロン氏は党に未加盟なので党首には選ばれなかったという。彼が手続き上未加盟なのか、加盟する意志がないのかは不明である。

PADのデモ隊に参加したメンバーは多くが民主党支持者であり、現在のアピシット政権の支持者が多いと考えられる。

その中でソンティ氏らがあえてNPPを結成した背景には、今の民主党政権は連立政権であり、PADが目指す「民主主義」からは遠ざかりつつあるというのが新党結成の理由のようである。

実際に、どういう綱領で、どのくらいの活動ができるのかは未知数であるが、野党のプア・タイ党は喜んでいる。というのは、NPPが選挙に出れば民主党の票が減り,共倒れになるからだという。

確かにバンコクではその可能性がある。結局「漁夫の利」をえるのはタクシンということになりかねない。アメリカにおいてブッシュ政権を誕生させたのは「ラルフ・ネーダー」だったこと思い起こさせる。

確かに民主党にも悪徳政治家がいて、公共保健省の医療機器購買汚職疑惑には国会議員が5人被疑者として上がっており、民主党とネーウイン派のバム・チャイタイ党の国会銀であるという。

怒ったアピシット首相は問題の「医療機器購買」を直ちに中止させている。


T109-34.ウワサを信じちゃイケナイヨ?バンコク株式暴落-5.3%((09年10月15日)

バンコクの株式市場は14,15日連続大幅な下げを記録した。昨日(14日)は746.67から-15.20=2.04%下げ、731.47となったが、本15日(木)の下げは731.47⇒692.72と-5.3%の大幅下げとなった。

15日は一時670.72まで下げたが、引けにかけてどうもウワサはマユツバだということもあってかなり値を戻した。

周辺諸国の株式市場は米国株式の上昇を受けて大なり小なり上げ基調にあるなか、タイの株式下落はいかにも唐突で下げ幅も普通じゃない。タイの経済情勢は周辺諸国よりも実質的には良好である。

売りを浴びた理由はウワサがウワサを呼んだためとしか新聞には書いてない。どういうウワサかということ「プミポン国王重態説」らしい。

9月19日からどプミポン国王は食欲不振や軽い肺炎の症状などで入院していたが、目下快方に向かっており、連日お元気になられたとの記事が出ているが、なかなか退院しないので、あらぬウワサが広まったのではないかと思われる。

一説にはタクシン派が余計なウワサをばら撒いて株式市場を混乱させているという憶測もあるらしいが、真否はもちろんわからない。売り始めたのは外国の証券会社だといわれている。

タクシンは米国のPR会社を使って、新聞記者を抱き込んでタクシン支持の記事などを流しているといわれ、今回は株式市場の混乱を画策したのではないかという見方である。いずれにせよウワサでこれだけ株式市場が混乱するのは好ましくない。

確かにプミポン国王に万一の事態が起こればタイ国民にとっては重大なショックであるが、民主主義政治が確立された今日、とんでもない野心家が現れない限り実際の政治的混乱は少ないと見られる。もちろんタクシンの復権などありえない。

最近のタイの株式、為替相場

株価指数 バーツ/$
7月31日 624.00 34.04
8月31日 653.25 34.01
9月8日 691.73 34.02
9月30日 717.07 33.45
10月12日 751.86 33.34
10月13日 746.67 33.30
10月14日 731.47 33.41
10月15日 692.72 33.48
15日/14日 -5.3%


主な銘柄の動き

PTT;255.00バーツ⇒-12.00バーツ=-4.49%
バンコク銀行;120.00⇒-8.00=-6.25%
チャロン・ポカパン;8.60⇒-0.85=-8.99%


⇒バンコク株式市場翌日には3.5%戻す。ウワサの犯人は誰?(09年10月18日

プミポン国王の「重態説」が株式市場でウワサとして広まり、外国証券会社を中心にいっせいに「空売り」が集中し、10月15日(木)には5.3%の急激な下げを演じた。

肝心のプミポン国王は回復は遅いが順調に容態が推移していることが確認され、16日(金)には3.5%回復し、717.21ポイントで引けた。

しかし、これだけいっせいに「歩調をそろえて」主要銘柄が売り込まれた背景が問題にされ、アピシット首相は「ウワサの出所」を追求すると言明していた。

証券取引委員会も警察も調査に動き出すこととなった。売り買いの実績は当然把握されており、何らかの実態が明らかになるであろう。

10月17日の赤シャツ隊のデモには例によってタクシンが電話参加したが、「国王に忠誠を誓い、早くタイに帰国したい」という泣き言に終始したようである。

10月17日はタクシンの「赦免請願書500万通」が出され、政府機関で審議すると約束して60日が経った記念日に当たる。政府機関の結論は出ていないが、出たとしても「ノー」であろう。

今回分かったことはタイの証券市場も「空売り規制は事実上やっていない」ということであった。これは日本も同じで「借株を担保」に「空売りを認めている」とはいうが事実上野放し状態である。

証券監視委員会なるものがあるらしいが、到底機能しているとは思えない状態が続いている。特に銀行株の下げなどは誰が見ても異常だが、亀井シズカ金融担当相も「シズカに見守っている」ようだ。

株価対策も景気の重要な浮揚策であり、各国とも「空売り規制」をしっかりやっているが、日本政府は「引き続き監視を続ける」という「他人ごと」のような態度にとどまっているようである。これでは与謝野時代と変わらない。

外国証券会社が日本市場に参加してくれるのは良いが「空売り」で参加していただいても、日本経済に何の益もない。喜んでいるのは「証券取引所」だけかも知れない。


⇒ウワサをばら撒いて空売り行為をおこなった犯人の目星つく(09年10月20日)

上院の「40人グループ(PAD系)」は声明を発表し、今回の「国王重態説のウワサ」をばら撒き、「空売り」をした犯人は頭文字が”Y"と”V or W"であると述べた。

頭文字だけでは誰のことか私には見当もつかないが、知る人ぞ知るで、タクシンの弁護士を務め、その後外務大臣にもなったノパドン(Nopapadon Pattana"氏(現在もタクシンの法律顧問)は、ソムチャイ(Somchai Sawaengkarn)上院議員に対し、もし「Y、VまたはW」が怪しいというならば証拠を示せと息巻いている。

こういう時は「沈黙は金」だと思うがノパドン弁護士の余計な発言によって、今回の事件は「タクシン陣営」が仕掛けたのではないかという、市場の噂はますます広まるであろう。「キジも鳴かずば撃たれまいに」とかいうケースであろう。(英字紙バンコク・ポスト、09年10月20日電子版参照)

⇒ウワサばら撒き犯2人逮捕(09年11月2日)

タイ警察は「国王重病説」を流布して10月15日のバンコク株式市場の暴落を誘った疑いがあるとして、前UBS証券(タイランド)の専務であったティラナン(Thiranan Wichupan=43歳)を逮捕した。

彼女は外国証券会社からの、「情報」を翻訳して、タクシン支持派のウエブ・サイトに乗せただけだという。

もう1人はカタ(Katha Pajajiriyapong)という37歳の証券会社(Seamico Securities)の社員でティラナン容疑者と同様な行為をおこなったという。同社はカタ容疑者の個人的行動で、会社としては無関係であることを強調している。

両者以外にも複数の容疑者が浮かび上がっており、近いうちに逮捕されるという。現在の警察は「タクシン派」ではなくなりつつあり、かなり大物も捕まる可能性がある。

今回の事件はタクシン派が仕組んだ「空売り事件」という容疑がもたれており、香港やシンガポールの証券会社と組んで、バンコクの株式市場を混乱させる目的があるのではないかという憶測がなされている。もちろん、「空売り」そのもので儲ける意図もある。

今回逮捕されたのは手先の小物であり、この事件は背後関係に捜査の手が伸びであろう。それにしても国際的に「用意周到に」いっせいに空売りに出た点が注目される。

バンコク市場への「空売り」は今日(11月2日)も続いている。証券取引委員会幹部にもタクシン派がいるといわれ、空売り規制をおこなわずに放置している可能性もある。

バンコク株の下げは11月2日も続き、これで4日連続の下げである。「売り方」はある一定期間下げが続かないと、大損をする可能性があるので、あくまで「売り続ける」であろう。しかし、タイの経済は日ましに好転しており、9月の輸出はついに前年同月比マイナス10%を切ったという(8月までははマイナス20%近い落ち込みが続いていた)。

なお、WSJ(09年11月2日、電子版)によれば、ティラナン容疑者はBloombergの記事を翻訳し、配信したという。また、タイ警察は香港のクレディ・スイス証券とシンガポールのUBS証券(ティラナン容疑者がタイ法人で働いていた)が保有する2つの口座を調べているという。

最近のタイの株式、為替相場

株価指数 バーツ/$
7月31日 624.00 34.04
8月31日 653.25 34.01
9月8日 691.73 34.02
9月30日 717.07 33.45
10月12日 751.86 33.34
10月13日 746.67 33.30
10月14日 731.47 33.41
10月15日 692.72 33.48
10月16日 717.12 33.44
10月19日 731.61 33.38
10月27日 714.54
33.44
10月28日 703.95 33.48
10月29日 690.10 33.48
10月30日 685.24 33.43
11月2日 677.22 33.44



T109-35.タクシンの士官学校同期生が20名、プア・タイ党に参加(09年10月21日)

タクシンと士官学校第10期の同期卒業生20名以上が、タクシンの政党であるプア・タイ党に入党することになったと、同党のプロームポン広報部長は語った。

その中の主だった顔ぶれはスメート・ポマーニー(Sumeth Phomane)空軍大将、マナット(Manas Paorik) 元第3軍副司令官、ジラシット(Jirasit Kesakomol)元第1軍団司令官であり、全員現役を引退している。

彼らのほとんどがタクシンの同期生ということで、かつては脚光を浴びたが2006年9月のクーデター以降は「冷や飯」を食わされた仲間であるが、スメートはサマク政権下で「国防相付き参謀長」を務めていた。

今回なぜ彼らがプア・タイ党に集団入党したかは明らかではないが、チャワリット元首相(退役大将)がプア・タイ党党首になることと関係があると見られている。

チャワリット党首のワキを固め、またある程度軍への働きかけもできる引退したての軍人を入党させたものと思われる。いずれにせよあまり気味が良くない話しとして注目を浴びている。

⇒その後も続々入党し、総勢50人に(09年10月23日)

当初の報道では士官学校第10期卒業生のうち20にん程度がタクシンのプア・タイ党に参加と言われていたが、その後急速に入党者が増え、元軍人だけでなく警察官OBも参加し、総勢約50人に達したといわれている。

入党組みで反タクシンであり、クーデター後、国軍副司令官にまで出世していたジラシット(Jirasit Kesakomol)大将に対し、冷や飯組みのマナット(Manas Paorik)氏はジラット氏は軍から派遣されたスパイではないか早くも「仲間割れ」の様相を呈している。

それにしてもこれだけの人数がプア・タイ党に入党するのは異常で、タクシンにとっても相当の出費になることであろう。また、今回軍警察関係者のタクシン派がアブリ出されたことにもなる。


T109-36.カンボジア・フンセン首相がタクシンの亡命受け入れ(09年10月23日)

タクシンの政党であるプア・タイ党のトップとして入党したチャワリット元首相がフンセン首相と会談した際に、フンセン首相は「タクシン氏は立派な政治家で、タイの発展に貢献し、カンボジアとの友好関係に貢献した人物である。そういう人が海外亡命せざるを得なくなったのは誠に遺憾で、カンボジアとしてはタクシン氏が望むなら立派な邸宅を用意して待っている」という主旨の発言をしたという。

おりしも10月23日(金)からASEAN10カ国の首脳会議がタイのホア・ヒンで開催されることになっており、フンセン首相がどういう挨拶をアピシット首相に対してするのかが見ものである。

ちなみにフンセン首相は多忙のために10月23日の首脳会議のオープン・セレモニーには欠席するとの意向である。

フンセン首相の発言は現在タイとカンボジアでカオプラウィハーン寺院遺跡をめぐる国境紛争の最中とはいえ、あまりに非常識な発言であり、タイとカンボジアの関係をいっそう悪化させる原因ともなりかねない。

フンセン発言はタイ政府に対する露骨な挑戦であり、チャワリット氏もこういう発言をフンセン首相から引き出し、タイ国内でアナウンスするという政治感覚が改めて問題にされることは間違いない。

タクシンはフンセン発言にすっかり気を良くしているということである。しかし、タクシンが実際にカンボジアに亡命したら只ではすまないことになるのは明らかである。


日本にも口を開けばASEANの地域統合とか一体化とかいう学者やジャーナリストが少なくないが、実態はこの程度のレベルにあることを認識すべきであろう。

10月23日にホア・ヒン入りしたフンセン首相は「タクシンは政治亡命者であり、タイとカンボジアとの犯人引渡し協定には違反しない」と語った。しかし、タクシンは刑事犯(汚職)で実刑判決が確定しており、フンセンの解釈は主観的なものであり、とうていタイ政府が納得できるものではない。

また、フンセンは「タクシンはアウンサンスーチー女史と同じ政治的な被害者である」とも語った。これは「これはASEANの常識を超えた新解釈である」とアピシット首相もあきれて果てていたようである。

この程度の認識の人物が首相を務めているカンボジア国民はなんともお気の毒としか言いようがない。(日本人が首相の資質についてあまり大きなことは言えないが)

フンセンの挑発的な発言の裏には、既にタクシンとの話しができている可能性があり、今後両国の関係はもつれるであろう。


⇒フンセン首相のタクシン擁護でアピシット首相の支持率急上昇(09年11月6日)

タイの英字紙Nation(『タイの地元新聞を読む』にも掲載)によると、最近の世論調査でアピシット首相への支持率が3倍に跳ね上がったという。

アサンプション大学のアンケート調査で、9月の段階ではアピシット首相の支持率が23.3%でタクシンの支持率をやや下回るものであったが、今回10月25〜11月5日にかけておこなわれた調査では、アピシット首相の支持率は68.3%と約3倍にハネ上がったという。

地域別には南部で88.2%(もともと民主党支持者が多い)、中部で68.9%、バンコクで68.8%、北部で64.6%、東北部(タクシン支持者が多い)で53.1%であった。調査対象などは不明だが、世論の動向が激変している様子は窺われる。

カンボジアのフンセン首相は最近いなってタクシンをカンボジア政府の経済顧問に任命し、国王の署名をとって辞令をタクシンに送ったという。

フンセン首相は10月23日のASEAN首脳会議の直前の発言を確認しただけでなく、タクシンが政治的な裁判で有罪判決を下されたなどといい「タクシン擁護」の姿勢を再確認した。

タクシンはフンセンの態度を歓迎するがビジネスで忙しくてしばらくカンボジアにはいけないとした上で、フンセン発言を問題視しているアピシット首相を「子供っぽい」とヤユする発言をおこなっている。

アピシットが未熟で無力な首相であるというのは日本のタクシン派の学者研究者が折りに触れて主張している。(私はまったく逆の見方だが)

「子供っぽい(?)」アピシット首相はカンボジアへの駐在大使を本国に召還する措置をとった。カンボジアも同様な報復行動に出たことはいうまでもない。

さらにタイ政府はタイとカンボジアで交わされた「大陸棚国境(石油・天然ガスの開発に関係)関する覚書」を破棄という措置に出た。この覚書は2001年6月にタクシン政権時代にスラキアート外相(当時)とカンボジアノソク・アン(Sok An)副首相がとな間で取り交わしたものである。

現在在タイとカンボジアでカオプラウィハーン寺院遺跡をめぐる国境紛争があり、両国の軍隊が国境線をはさんで対峙しているが、現地の両軍の司令官はお互いに平静を保つよう話ができているというから、一応安心できる状態にある。

今回のフンセン発言は先にチャワリット、プアタイ党党首(タクシンの政党)がカンボジアに突如訪問してから持ち上がった話であり、タクシンがデザインしたとおりにフンセン発言を引き出し、アピシット政権を国際的にも揺さぶる行為にでたと見る向きもある。

それにしてもフンセン首相というのは常軌を逸した言動に出たものである。おりしも本日(11月6日)メコン開発首脳会議でアピシット首相もフンセン首相も東京に来ているらしい。残念ながらお互いに話し合いができるような雰囲気ではないであろう。


なお、タイ輸出入銀行のナロンチャイ(Narongchai Arkkaraserance)総裁としては現在タイとカンボジアとの民間のビジネスに支障がないように努力すると語ったという。また、カンボジア在住のタイ・ビジネスマンの事業支援を継続する予定であるというが、タイ大使はビジネスマンを集めて両国関係の現状説明をおこなったという。今回の措置についてはカンボジア国内で反タイ暴動が起こることもありうる。
2003年にもタイ大使館が焼き討ちされた。

⇒タイとカンボジアの関係はこじれる一方(09年12月17日)


カンボジアはタクシンのフライト・スケジュールをプノンペン空港の管制官であるタイ人がタイの大使館の1等書記官に流したとして、逮捕し、裁判にかけ7年間の禁固刑と10万バーツ(27万円)の罰金刑に処した。

そのタイ人管制官はカンボジアの国王の「恩赦」によって放免されたという一幕があり、この事件は一部日本でも報道された。赦免に当たってはタクシンがフン・セン首相に働きかけ、それがうまくいったことでタクシンがポイントをかせいでアピシット首相が窮地に陥ったなどというマヌケた報道があった。

タイ人管制官がなぜプノンペン空港で働いていたかといえばカンボジア人には任せられないのでタイの会社に管制事業を丸投げしていたためである。

ところが、カンボジア当局はこの管制官の電話を盗聴していて、タイ大使館1等書記官にタクシンの個人のジェット機が何時何分に到着する予定ということをしゃべったというのである。べつにタイ空軍が白昼タクシンの個人ジェット機を撃墜するはずもないが、フンセン首相は「国家機密」をもらしたといってくだんの管制官を逮捕したのである。

同時にタイの1等書記官をカンボジアから追放してしまった。タイ政府も同等の処置をとった。タクシンは当分カンボジアの土は踏まないなどといっていたが14日の「恩赦のタイミング」に合わせて再びカンボジア入りしている。

タクシンはここで「一芝居打ってタイの国民に己の実力のほどをアピール」しようとたくらんだが、タイ国民はこのての「猿芝居」は見飽きているので、一向に反応を示さなかった。反応を示したのは「赤シャツ隊」と日本の新聞記者だけだったらしい。

それはさておき、アピシット首相としてはフンセンが「タイの司法制度批判」をしたことなどについて抗議をして何らかの謝罪を要求しているが、フンセンは「タイに次の政権が誕生しないかぎり両国関係の正常化はない」と追い討ちをかけてしまった。(09年12月17日付け「タイの現地新聞を読む)

沖縄の基地問題で頭にきているらしいアメリカの政治家でも鳩山首相にそんなセリフをはくことはありえない。元の自公政権が恋しいなどと考えているヤツはいるかもしれないが。

要するにフンセンという人物は余りにも一国の首相としてはムチャクチャな暴言を吐いたのである。背景にナニがあったか知らないが、隣国のタイの首相に向かって言うべき言葉ではない。アピシット政権が続けば何年でも外交関係の断絶状態が続くのであろうか?

これが2015年には経済的一体化を進めようとするASEANの実態である。私はビルマがASEANに加盟したときにASEANそのものの存在意義が疑われるという主旨のことを書いたが、事態は一向に改善されてない。

本来地域統合論なるものが幻想なのである。せいぜい「関税同盟の域をでない」というのが本当の姿であり、それすら実は危ういのである。

ASEANの経済的一体化にビルマやカンボジアは到底対応できない。おそらく、ラオスもそうであろうし、もしかするとフィリピンやインドネシアも危ない。

一連のフンセン発言も同情的な見方をすれば「自国の無能さ」に絶望したヒステリー現象なのかもしれない。タイはもちろんそういう事情が分かっているから「売り言葉に買い言葉的」な過剰反応は示さないであろう。


一方、カンボジアは中国から買った手榴弾や拳銃がタイに密輸され、赤シャツ隊の武装に使われているというウワサが絶えない。昨年10月に警官隊がPAD(民主人民連動=黄色シャツ隊)に対して大量に使用した殺傷力のある催涙弾は中国製でカンボジアから持ち込まれた可能性があるという。

今回タクシンがカンボジア訪問した際にも赤シャツ隊の武闘訓練を指導していたことで知られるカッティヤ少将(現役)がひそかにカンボジア入りし、フンセンとタクシンに会ったとされている。

タイ国軍はたまりかねてカッティヤ少将を規律違反で軍法会議にかけているが、なぜ今まで放置していたのか理解に苦しむ。


T109-37.タクシン曰く「国王が死ねば輝かしい新時代が開ける}(09年11月9日)


イギリスの"timesonline"のトップの見出しに”Ousted Thai lesder Thaksin Shinawatra calls for 'shining' new age after King's death"という驚くべき文字が並んだ。

ロンドンの”The Times"ノアジア担当編集長のリチャード・パリー(Richard I. Loyd Parry)氏がドバイでタクシン氏とインタビューしたA4で8ページの記事のサワリである。

11月12日にタクシンはカンボジアのフン・セン首相の招きで「経済顧問」に就任するためにカンボジア入りする。この件をめぐってタイとカンボジアの関係がおかしくなっているのは読者諸兄姉のご存知のとおりである。

インタビューそのものは大変長いので読者に直接お読みいただくのがよいと思う。

その中で、タクシンの本音ともよみとれる部分がいくつかあるので紹介する。

@今の国王は老齢でもあり、一生懸命仕事をされたので、私が「重荷を軽減」して差し上げるべく頑張った。大統領になるつもりはなかった。また、国王は「神様」であrち、私が「世俗」の仕事を分担してやろうとした。

A国王を取り巻く枢密院特にプレム院長は私の人気が高まるのを恐れて失脚させようとした。
プレム院長にしてみれば多くの元の部下(軍人)を食べさせていかなければならない。(1980年代に8年間首相を務めたプレム氏の政治については拙著『東南アジアの経済と歴史』2002年日本経済評論社刊を御参照ください。)

B国王が死ねば今の枢密院の権限も縮小され、ワチュラロンコン皇太子は西洋で教育を受けてきたのでもっと「王室制度(Institution)」の「改革」もおこなわれ、世界の発展・変化に見合うような形になり、輝かしい国王になるであろう。

C今の私は追放された元首相であるが、国外から政府を指導するように要請された。(支持者によってか?)

D私は国民の民主的選挙で選ばれたのに、軍事クーデターで追放されたのだ。(タクシンは民主主義で首相になったが、民主主義の擁護者ではなかったことが市民の反発を買ったー筆者注)

Eタイ政府(アピシット首相)は私(タクシン)がカンボジアに来ることを恐れている。私がカンボジアにいれば支持者は勢いづくからだ。ただし、私はカンボジアには常駐しない。インターネットなどでフン・センにアドバイスできる。

Fタイで凍結されている22億ドルのカネは私が政界入りする前に作ったカネだ。タイに正義があるなら返ってくるはずだ。

G次に選挙がおこなわれればまた勝つであろう。赤シャツ隊には資金援助はしていない。彼等は自分のカネで活動している。私が海外で持っている金は1億ドルぐらいのものだ。

H私は海外でビジネスをやっている。ウガンダでは10ヵ所の金鉱山を持っている。ウガンダとフィージーとアンゴラでは「宝くじ」発行のライセンスを持っている。パプア・ニューギニアでも金鉱山の開発権を取得した。

Iタイの経済はだんだん悪くなり、タイ国民の生活もいっそう苦しくなる。タイは世界の政治のスクリーンから消えていく。米国もいまやタイではなくインドネシアに向かっている。

J私はタイの政治権力構造について無理解であり、ビジネス・マンとして政治を扱った。それが失敗の元であった。只ひたすら、貧者救済を目指した。

私の簡単なコメント;タクシンは国王を愛し、尊敬しているといいながらも首相在任中に国王の「忠告」に耳を貸そうとはしなかった。国王の「重荷を肩代わりする」ことは別に政治権力を確立しようとして、独裁体制をしこうとしたことは間違いない。

議会で多数を得た後は主要官庁を支配下に置き、警察の支配を確立し、軍も自分の従兄弟を国軍司令官にし、士官学校の同期生で支配体制を作ろうとした。税金逃れのために国税局の幹部を入れ替え、海外にトンネル会社を作るなどあらゆる手立てを尽くした。

タクシンは形式民主主義選挙で首相になったが、彼の目指したのは独裁政治であり、民主主義の破壊であり、人権の無視であった。言論弾圧には特に意を用いた。彼は「独裁権確立」の前夜にクーデターで倒されたのである。このクーデターは国王の承認を得ていたという思いがタクシンにはあるのだろう。

タクシンの政治については私は観察記録をこのホーム・ページに残しておいたのでご関心の向きは御参照ください。

それにしても国王が死ねばタイはもっと良くなるという主旨の発言はタイ国内で相当な反響を呼ぶであろう。

(参考)

タクシンの 政治(2001〜06年)
 目次
タクシン時代の輝かしい事跡 


⇒タイムズの記事はタイでは閲覧禁止措置(09年11月10日

はたせるかなタイムズの記事はタイ国民(英語の読める)に大きな衝撃を与えた。タクシンはあわてて「言ってもいないことはタイムズが書いた」と息巻いているという。タイムズを例によって「名誉毀損」で訴える積りらしい。

タクシンの支持者は「この記事はタクシンを陥れようとするタイ政府とタイムズの合作である」と弁解に躍起である。アピシット首相はそんな小細工を弄するような愚か者ではない。

タイ政府は先ずこのタイムズの記事がタイ国民の間に広まらないようにアクセス禁止措置をとったとタイムズ・オンラインは報じている。(timesonlineにアクセスしてからthaksinで検索すれば記事が出てくる)

また、タクシンとタイムズ社を「不敬罪」で訴えることを検討しているという。タクシンが「不敬罪」で訴えられればタクシンの政治生命は終わりであろう(現に終わりつつあるが)。

タクシン時代に雑誌FEER(Far Eastern Economic Review)がワチュラロンコーン皇太子のビジネスの話を載せただけで発売禁止と不敬罪で訴える騒ぎを起こした。それ以降FEERはタイでは見かけなくなった。

下記のFEERの記事ではタクシンはかつて皇太子と何らかのビジネス関係を持っていたことが伺われる。そこにはタクシンの「何らかの下心」があったことを示唆するような内容だったのかもしれない。

今回、タクシンは何も言っていないというがタイムズ・オンラインの記事は1問1答形式の詳細なものであり、何も言わないことを書くはずもないであろう。それほどイイカゲンな新聞ではない。

タクシンは予定通り10日プノンペン入りをした。タクシンは「カンボジアの顧問になってナニが悪い」とあくまで強気である。ともかくここまで事態が悪化したらタクシンにとってはのっぴきならないセンを超えてしまった。

タイ政府はカンボジア政府に対してタクシンの身柄引き渡しを要求したが、カンボジア政府はこれを拒否した。

(参考記事)

4.ファー・イースタン・エコノミック・レヴュー(FEER)事件(タイ)(02年3月5日掲載、3月7日追加)

タイではFEER(Far Eastern Economic Review)という香港ベース(ダウ・ジョンウズ所有)の有名なアジア専門の週刊誌の1月10日号を発売禁止にすると同時に、駐在の記者2名(Rodney Tasker イギリス人とShawn Crispin  アメリカ人)を国外追放処分にし、香港の二人の論説記者もブラック・リストにのせる(入国禁止)と発表して、国際的な大問題にまで発展した。

記事の内容は日本の新聞(2月26日号の日経や毎日など)にも報じられていたのでご存知の方も多いと思うが、昨年末プミポン国王が誕生日のスピーチの中で「タイが最近おかしくなっている」とか「傲慢さ、無原則、エゴイズム」という表現で暗にタクシン批判をおこなったのである。これはまったく前例がないといってよいくらいの異例のことである。

このことをFEERは短い論説で紹介したまではよかっただが、タクシンが国王一家の内部問題にまで干渉した疑いがあるということに国王が苛立ちを示したということを書いてしまった。また、皇太子の関与しているビジネスにタクシンは関係しているということも付け加えた。

タクシンは日ごろ24時間体制でテレビ、ラジオはもちろんのこと新聞雑誌を監視するといういかにも警察官僚出身らしい体制をとっており、3月2日号のイギリスの経済雑誌「エコノミスト」も発売11時間後につかまってタイ国内で発売禁止処分を受けている。

タイ政府の言い分(警察)としては「ナショナル・セキュリティーにかかわる記事」を書いたとしてFEERの記者は追及されたのである。

もともとタイは王室にかかわることを記事にするのは法律の規制もあって、書くのが難しいところであるが、皇太子の名前まで出てきたので国王も怒ったというのが、タイの軍・警察筋の言い分のようである。

保守派の政治家や学者の一部にもFEER記者追放やむなしという意見もあったようだが、タイの新聞(ネーションとバンコク・ポストしか私は読んでいないが)はFEER記者追放はタイの言論の自由に対する弾圧であるとして激しく反発した。

アメリカのニュー・ヨーク・タイムズやワシントン・ポストでもこの事件は報じられ、米国国務省も追放を批判した。これに対しタクシンはこれは「国家主権にかかわる問題であり、外国の干渉は受け付けない」と激しい調子で反発した。

記事の内容を見る限りは「国家の安全を脅かす」ものとは到底考えられず、タイの何人かの上院議員も国王を批判したものではないとし、ジェルムサク上院議員は「この記事はタクシンを直接批判したものであって、国王批判ではない」と述べている。(3月1日AP電、シンガポールのストレート・タイムズ)

これは大筋としてはタクシンの言論弾圧の一環と考えられるが、FEERは皇太子のビジネスの話までしたのは少しまずかったという感じはする。というのはプミポン国王の後継者はワチラロンコン皇太子ということになっているが余り国民に評判が良くないという説がある(これはタイ国内では書けないが)。

そのためシリントン王女が独身のままでいるというのである(タイでは王女は結婚すると王位継承権がなくなる)。実態はうかがい知れないがこういう風評を誰よりも気にしているのは国王ご夫妻であろう。

したがって、あまり皇太子のビジネスのことなどは書かれたくないということかもしれない。

タクシンは国王が最近病気で入院したに対し、一般国民と同じ医療カード(保険証的なもの)を渡し、国民の反発をかっている。タクシン自身の支持率も低下傾向にあり、世論調査をやっている大学の機関に最近警察が「ご機嫌伺いに」行ったということで物議をかもしている。タイも急におかしくなってきたものである。

タクシンは今回の記事を最大限に利用しようとたことは間違いなく、「国の安全(National Security)に反するというより、タクシン自身の安全」に反したということだろうと現地の新聞は皮肉っている。

3月3日に補欠選挙がおこなわれたが、タクシンの率いるタイ愛国党は14人の候補を立てたが4人しか当選しなかったという選挙速報が出ている。もしそうだとすればタイの国民自身が今回の事件に判定をくだしたことになるであろう。

FEERはタイの国会議長あてに、詫び状を3月4日に送って、事態の収拾を図ろうとしている。タイ人の一般的常識では「この辺で・・・」ということになるが、タクシンの性格からいって、まだひともめするかも知れない。

追放取り消し決定;3月7日付けのニュー・ヨーク・タイムズによればタイ政府はFEERの二人のビザ取り消し処分を撤回した。当然のことながら喜ばしいことである。

ところが話はそれに終わらずタクシンはメディアに対するいやがらせの手を緩めず、今度はマネー・ロンダリング「不正資金の洗浄」という容疑を勝手につけ、目をつけているジャーナリストたちの預金口座を調査したりし始めたとのこと。

また、軍(チャワリット副首相の影響下にある)が電波の配給権を持っていることから、ネーション紙グループの放送部門に圧力をかけ「タクシンに批判的な政治評論家とのインタビュー」番組を放送をさせないようにしたとのこと。タクシンの独裁政治家としての本領が徐々に発揮されてきたようだ。

現地駐在の日本人も要警戒である。(3月7日追加)


T110-01.タクシン派の武闘派指導者カッテヤ少将家宅捜査(10年1月22日

現役の陸軍少将でありながら、公然とタクシン支持を表明し、タクシン派の赤シャツ武闘集団に戦闘訓練などを行い、カンボジアのフンセン首相とも親しいカッテヤ少将が余りにも露骨な軍規違反を繰り返していたため、今年1月5日に停職処分となっていた。

カッテヤ少将から武闘訓練を受けていたと見られる赤シャツ軍団はかつてPAD(民主人民戦線=黄シャツ・グループ)の集会に手榴弾を投げ込むなど、今まで多くの無実の人を殺傷してきた。

しかし、犯人は誰一人として捕まらず、カシット少将や赤シャツ武闘集団がタクシン派の警察とグルになっていたことは良く知られている。

カシット少将はなぜか己の力を過信し、停職処分を下された後も勝手に各地に赴き、「どうしようと、ワイのカッテヤ」とばかり、反政府活動」をおこなっている。一方、陸軍司令官のアヌポン大将に対しては「表を歩けないようにしてやる」とヤクザはだしの脅迫を行っているという。これではどちらが上官か分からない。

そうするうちに、15日未明に陸軍本部にM79手榴弾が投擲される事件が起こった。最初は軍はこの事件を否定していたが、下手人はカッティヤ将軍の配下とみてついに軍(第4騎兵連隊)と警察(特捜部)が21日にカッティヤ邸とその配下(複数の下士官)の家を家宅捜索した。

カッティヤ宅からはM26や銃器、銃弾が発見され、部下(一説によればカッティヤの運転手)の下士官の家からはM79手榴弾などの多数の武器が発見され、まるで「兵器庫」のような有様であたと捜査官は語っていたという。

カッティヤ少将には逮捕状が出ており、近く逮捕されるものと見られる。

私達の常識では到底理解できないのは、タクシン派の赤シャツ武闘集団に軍事的訓練を行い、かつPADに対しても執拗なテロ行為をおこなってきたという容疑がきわめて濃厚な人物に対し今までタイの軍も警察も手をこまねいて見過ごしてきたことである。

カティヤの活動資金は潤沢であると見られる。また、武器・弾薬の類は軍から持ち出したものではなくカンボジアから「密輸」された中国製のものが多いというウワサもある。

ともかく、謎に包まれたカッティヤ少将の行動に対し軍・警察はしかるべき対処をするべきことはいうまでもない。特にバンコク市民は今のままではナニをされるか分からないという不安感を持っている人は少なくない。

2月の末にはタクシンの「凍結資産」760億バーツ(約2千億円)の運命が決まる判決が出されることになっている。タクシンもカネを取り戻そうと必死である。


T110-02.タイで最高裁判事やアヌポン陸軍司令官への殺人予告(10-2-2)


タクシンが差し押さえられている760億バーツの帰趨をめぐっての最高裁判決が下される予定の2月26日に向けて、このところ最高裁判事や元汚職調査委員会委員やアヌポン陸軍司令官に対する殺害の危険予告をカッティヤ将軍は公然とおこなっている。

2月1日もアアピシット首相の自宅の警備の隙をついて汚物のはいったビニール袋が投げ込まれるという事件が起こった。

これが手榴弾だったら一大事件となるところであったが、タクシン派はそれぐらいのことはいつでもやれるということを示す威嚇行動であったといえよう。

軍・警察は警備は万全であるとしているが、一方でタクシン派の暴力集団はバンコクに結集しているとわれている。

カッティヤの「脅迫行為」もさることながら、陸軍本部に手榴弾が投擲された事件の容疑でカッティヤの武器不法所持が判明したにも関わらず、彼の逮捕に踏み切らないことについての市民の苛立ちが募っている。

現役の軍の高級将校が野党に所属し、殺傷事件に絡む行動にかかわりを持つなどということが許されるのであろうか。おそらく軍の中にもカッティヤ支持者がいる可能性が高い。タクシンからカネっを貰っている幹部もいるはずである。

さすがに2月1日になってカッティヤはパンロップ退役大将に伴われて警察本部に出頭したという。しかし、カッティヤは身柄を拘束されたという報道は見られないから未だに自由の身であるようだ。

パンロップ大将はカッティヤ少将の元上官であり、現役時代は第4軍(南部方面軍)司令官であり、2004年のイスラム教徒のナラティワット軍事基地襲撃事件の時に、クルセ・モスク事件やタクバイ事件を引き起こし、イスラム教徒との対立を激化させた張本人である。また、軍の謀略組織の元締めであったといわれている。

タクシン派は軍が再度クーデターを引き起こすという噂をばら撒いてバンコク市民に動揺を与えようとしているがアヌポン司令官はクーデターの可能性を否定しており、実際その可能性はありえない。

問題は2月26日にどういう判決が下されるかであるが、タクシンは資産没収となった場合は国際司法裁判所に提訴するとしている。ただし、国際司法裁判所がタクシンの訴えを受理するとも思えない。


T110-03. タイでタクシン派不穏な動き、大金がアラブ地区から流入(10-2-10)

英字紙ネーション電子版(2月10日付け)によると、アピシット首相は「中東から正体不明の大金がタイに流入していることを確認した」と語ったという。金額は3億バーツ(約8億1千万円)でタクシン派の幹部の口座に振り込まれているという。

これに対して赤シャツ派のリー・ダーは「この話は政府のでっち上げだ」として強く否定している。依然として活発な赤シャツ隊の活動資金は「夕食会」の会費でまかなわれているものだというのが彼の説明である。

一方、アピシット首相は自宅で警察幹部との会議を開き、最近活発な動きを示している赤シャツ隊対策を打ち合わせた。

2月26日はタクシンの凍結資産760億バーツ(約2,000億円)の処置についての最高裁の判決が予定され、タクシン派はそれに向けての「大衆行動」を起こそうとしているといわれている。昨年4月のソンクラン(水掛祭り)のバンコク騒乱はタクシン派の完敗に終わったが、今回はもっと巧妙に「騒乱状態」を作り出す動きもあるというのが当局の見方であろう。

タクシンとしては「騒乱状態」から「民衆による革命政府の樹立」を狙っているかもしれないが、目下のところバンコク市民に「不安感」を持たせているだけで、結局何もできずに終わるであろう。

つい最近の話題として、「赤シャツ軍」を組織して、武装闘争を行い総指揮官にプア・タイ党の党首におさまっているチャワリット元首相(退役大将)を当てようとしていたが、チャワリットがそんな話を受けるわけもなく、それならばとパンロップ退役大将(元第4軍司令官で謀略部隊の元締め)を担ごうとしたが、彼らも当然逃げた。

しかし、最近パンロップ退役大将とカシット少将がそろってドバイに行き、タクシンと面談したといわれている。その際2人は巨額の資金を持ち帰ったという噂が流れている。おそらくこの2人は「赤軍」を使って正面突破はとても無理だから、現役の軍幹部を買収して「軍事クーデター」を起こさせようとしているのではないかという観測が流れていた。

今まで、軍幹部の一部の買収には成功しているかも知れないが、軍全体を動かすのはとうてい無理で、「アヌポン陸軍司令官支持」という声明がほぼ全軍の幹部から出された。いくらなんでもタクシンにカネを貰ったからといってクーデタを起こすようなオメデタイ軍幹部はいないであろう。

しかし、そんなことであきらめるようなタクシンではないから、結局、赤シャツ隊のデモを東北部を中心に各地でかけるというこになっているようである。タクシンの出身地のチェン・マイはすでに政府の統制が利かなくなっているといわれている。しかし、バンコクを抑えられないかぎり所詮は「悪あがき」の域をでない。

タクシンの凍結資産がどうなるかは分からないが、全額没収になることはないであろう。返還される額にもよるが、2月26日を過ぎれば「タイの政治的混乱」は収束に向かうであろう。タクシンの狙いは「政治権力の奪取」ではなく、「凍結資産の返還」なのである。カネを取り返せばそれでおさらばとなるであろう。それが伝統的な「華僑」の生き様である。

いい面の皮はタクシンを「民主主義の旗手」などと勘違いして、タクシンを担いできた「観念左翼」の諸兄姉である。これから、もっと本気で「何をなすべきか」を考えるべきであろう。

もっと、オソマツなのは日本の一部の新聞記者と大学教授である。「タクシンは自由主義者でタイ経済のグローバル化によって発展を図ったが、民主党私見は王室と官僚の保守派と結託し既得権益階層の利益の温存を図っている」といった主旨の妄論をはいている。これはとんでもない間違いである。

タクシンは一言で言えば「ご都合主義者」である。彼の政策のベースは「個人的にトクであればそっちに動く」ということに尽きる。だから、カミさんに没収国有財産の競売に参加させて自由競争の結果うまく「落札」させてっしまう。手続き上問題ないというのが彼の言い分であった。それは首相という立場の人間がやれば「利害衝突」に他ならず、刑法上有罪とされたのは当然である。

アピシット首相もコーン財務相も極めてまともな近代的なエコノミストである。ただし、自由競争さえやっていれば後は神様がいい塩梅にやってくれるなどということを妄信している愚かな「新自由主義者」ではない。


T110-04.タクシン差押さえ資金760億バーツ中460億バーツ没収最高裁判決(2010-2-26)

2006年9月の軍事無血クーデターによって追放されたタクシン元首相(別件で2年の禁固刑判決が確定したが収監を恐れてドバイに滞在中)のタイの銀行口座に残されていた766億バーツ(約2070億円)が汚職調査委員会によって凍結されたままであったが、帰趨をめぐっての最高裁判決が本日下される。


7時間以上に及ぶ判決文朗読の後に下された判決は760億バーツ中460億バーツは没収され、300億バーツ強がタクシンに返されることとなった。

その300億バーツはタクシンガ首相に就任する前から持っていたカネだという解釈のようである。

今までに判明したところでは弁護側の主張はほぼ全面的に退けられたが、検察側の主張も、いくらがタクシンが政界入りする前から持っていたとされる明確な計算がなされていないという点が判決文のなかで述べられている。

タクシンとその家族が保有していた金額はタクシンが首相になるまえに「申告」された額が基準になりそうだが、家族や親族や家政婦に名義を書き換えた分の合法性も問題にされるであろう。

携帯電話の認可料金がタクシンの所有するシン・コーポレーション(後にシンガポールの国営投資会社TEMASEKに売却)に対し、同業他社より安く設定したり、衛星通信ビジネスもビルマに輸銀融資を増額してつけてタクシンの会社に受注させるなど、首相という地位を利用して個人的な利益(我田引水)をしきりにおこなってきた点が指摘された。

シン・コ^ポレーションの利益率が高いので株価は上昇し、そのピークでタクシンは同社の株を売り払った。

前にも有罪判決が出たが、ラチャダピーセク通りの国有地(政府が差し押さえた)の払い下げをポジャマン夫人に落札させた(日本のカンポの宿事件と類似)というところが既に有罪になっている。(2年の禁固刑はその罪状)

タクシンは他にもさまざまな疑惑が持たれているがそれは今後の話である。今回の事案や昨年の4月のソンクラン暴動などにまつわるタクシンへの刑事罰は問われないのであろうか?

タクシンとしてもこの判決には従わざるをえないであろう。これによってタクシンの反政府活動はひとまず収まるであろう。

赤シャツ運動は誰がなんと言おうとタクシンのカネによってタクシンの資金奪還闘争のためのものであった。これがタイの貧困層の「民主化闘争」だなどとネゴトを言っていってきたタイ通の皆様の今後の言動がミモノである。

赤シャツ隊も2月26日の判決日に最高裁などにデモをかけるという話しもあったが、貧困階級が超金持のタクシンの財産を守るために闘うなどというのはどう考えてもおかしい。

赤シャツ隊の運動もこれから潮が引くように収まっていくであろう。アピシット政権打倒のために彼等は闘いますかね。それがタイの「民主化闘争」ですか。

日本のタクシン派の先生方やジャーナリストの皆様がこれからどういうことになるのかミモノである。タクシン派の大幹部チャトゥロン氏の書いた本をわざわざ「適切なもの」などとして雑誌に紹介・投稿されたA先生もまことにご苦労様でした。

日本のタクシン派(彼等はタクシンのことをなぜか’タックシン’という共通の隠語めいたいいかたをしているから誰が隠れタクシン派かはすぐ見分けがつく)は従来、ほとんどタクシンの悪行を論じることはなかったが、この最高裁判決は主な事例を問題にしているので、ご関心の向きは御参照ください。

タックシン派の先生方に共通して言えることは「開発独裁支持者」だったのではないですか?あなた方の言う「タイの民主主義」とはタックシン民主主義だったに過ぎません。チュラ大のティティナン先生など日本のタックシン派からは大変頼りにされていたようですが彼はどう考えても反動ですよ。彼こそ隠れタクシンの典型だと私は思います。


⇒タクシンにはなお10件の違法行為が残されている(2010-2-27)

7時間以上にも及ぶ最高裁の判決文朗読には驚かされたが、それだけ政治的にも難しい裁判だったのであろう。この判決について朝日新聞はタイの司法は2重基準だなどといっている。

民主党が「解党判決」を受けるべきなのに無罪になったのはケシカランという特派員の記事である。朝日の駆け出しの特派員がそれだけのことを言い切る根拠は一体何か読者に説明すべきである。

民主党が「解党命令」を受けるべきだったと朝日新聞社が主張するのであれば、その根拠を明らかにすべきであろう。タイの裁判所はそんな理由がないから解党命令を下さなかっただけの話しではないであろうか。選挙違反を問われて失格した民主党議員もいるではないか?

私の知るかぎりではタイの司法は東南アジアでは最も公正で良心的な裁判をやるところだと思う。場合によっては日本よりもマトモである。タイの司法を「2重基準」として切り捨てられるだけの見識をその特派員は持っているのだろうか?

べつにこういうい方は朝日に限らず日本の「タイ通(つう)」の学者・研究者もしばしば口にしていたので、その口真似をしたに過ぎないのかもしれないが、朝日新聞は事情をキチントと日本の読者に対してする責任があるであろう。

今朝(27日)のタイの英字the Nationの電子版によればタクシンはなお10か条の訴追を受ける容疑があるという。その第1は「政府の許認可」を受ける会社の株式は国会議員は夫人を含め5%以上保有してはならないという規定がある。

タクシンが首相になった2001年の段階で、それに違反していたことはホジマン夫人自身が最近の最高裁の法廷で陳述している。

これを見過ごした当時の憲法裁判所は確かに「2重基準」であり、当時はタクシンに過半数の判事が買収されていたという。彼等は2006年9月のクーデター後に全員辞職した。

こういう記事は朝日に限らず、日本の新聞は一切報道しなかった。われわれは現地の新聞でそういうことがあったと知るのみである。

タイの最高裁が指摘したタクシンの主な事犯は;

@AIS(Advance InformationService=シンサットの子会社)は国営公社TOTに対して支払うべき「プレペイド携帯電話」の使用許可料(conccession fee)を25%から20%に引き下げさせ、その結果2001〜6年の間に702億バーツの損害を国家に与えた。さらに2006年から2015年の間に560億バーツの推計損失をもたらした。

AShinSatt(シン・コーポレーションの子会社)が当初400億バーツの予算でバック・アップ衛星タイコム(Taikcom)4号を打ち上げる際に、半分出資するという約束をしておきながら、間際になってShinSatは独自の商業衛星iPSTARに乗りかえタイコム3号をソデにした。

その結果、国家は200億バーツの損害を受けた。iPSTARは主に外国からの利用が多く、高利益を上げているという。確かにバック・アップ衛星では何のトクにもならない。

Bタイ輸出入銀行はビルマ政府に対しShinSatの「衛星サービス」を購入させるために40億バーツノローンを組ませた。これは後にタイ財務省が12年間で6億7千万バーツの「利子補填」をおこなうことにつながった。輸出入銀行は通常の5.5%の金利を3%に引き下げさせられ。最初の5年間は金利払いのみで元本の返済はなく、返済期間も12年間に決められた。

CNACC(国民汚職防止委員会、Nationalというのは’国民’と訳します)の記録では2001年にタクシンが首相に就任した際に、資産の申告をタクシンが5億6900万バーツ、ポジャマン夫人が99億6000万バーツと申告した。

しかし、今回の760億バーツ裁判でポジャマン夫人は340億バーツ所有しており、それが差し押さえられた760億バーツの内数だと臆面もなく主張したのである。このカネはタクシンが首相に就任する前から持っていたというのである。それであればタクシンはそもそも首相に就任する資格はなかったということになる。

さらに第2次タクシン政権発足時の2005年にはタクシンの5資産は5億600万バーツでポジャマン夫人の資産は89億1000万バーツであるとNCCCには申告していたのである。当時未成年であったタクシンノ長男と長女が32億6000万バーツの資産を保有していたと申告していた。

DタクシンはAISの許認可料を消費税」(excise tax)に「切り替えるという法的措置をとった。これによって目の上のタンコブであったTOT(通信公社)の影響を排除しようとしたのである。

Eポジャマン夫人は株式譲渡にかかわる脱税容疑で高等裁判所で係争中である。っその他にもタクシンの悪行は数々ある。その一部は私のホーム・ページにも記録してきた。

今回の判決は「差し押さえ金」の帰属に対する判決であり、タクシンの「利害相反」や「議員資格違反」に対する刑事罰は別個に訴追されるということである。そうなるとタクシンをめぐる裁判はここ数年続くことになるであろう。

⇒攻撃目標にされているバンコク銀行(2010-2-28)

最高裁判所の判決が出る1週間前の2月19日に、数百人の赤シャツ・デモ隊がバンコク銀座ともいうべきのシーロム通りにあるバンコク銀行の本店にデモをかけた。

その理由はプレム枢密院議長がバンコク銀行の諮問委員会の名誉議長をしているからだという。それよりも前からバンコク銀行は民主党の支持者であるとかPAD(民主主義のため人民連合=PAD)を支持しているということでッチェンマイではボイコット運動がおこなわれた。

判決の翌日の2月27日の午後9時半から10時ごろかけて今度は何者かによってバンコク銀行のシーロム支店、ラーマ2世通り支店、サムット・プラカンのプラパデン支店おっよびシリナカリン支店(不発)の4ヵ所に手榴弾が投げ込まれたという。

支店の玄関のガラスなどが破壊されたが、事件は夜だったため幸い人的な被害は出ていない。

手榴弾を投げ込んだのはオートバイに乗った2人組でまだ捕まっていない。犯人は「タックシン支持者」だと疑う向きが多いが、赤シャツ隊の幹部は「犯人は民主党か軍」の陰謀であると指弾しているという。

判決後タクシンは一度は「判決を受け入れると言う声明を出した(バンコク・ポッスト)が数時間後には「判決は承服できない」として今後も国際裁判所に提訴するなりして奪還闘争を続けると宣言した。

こんな案件を国際裁判所が受理するはずもないと思うが、タクシンは執念深くあきらめずにやるであろう。タイ国内の赤シャツ隊にどの程度資金援助を続けるかは未知数であろう。タックシン派の幹部は是非続けて欲しいといっているに決まっているが。

赤シャツ隊の幹部は3月14日には100万人集会を開いて「アピシット政権打倒」をブチ上げるという。タイ経済も急速に回復してきており、早くしないとアピシット政権のン程度がいっそう増すであろう。既にアンケート調査ではアピシット政権に対する支持率は50%を超えてきている。

また、アサンプション大学が27日おこなったABAC世論調査(17県内、1,308世帯)では56.7%がこの判決について妥当なものであり、タクシンはこの判決を受け入れるべきであるとしている。

一方、32.6%は意義を申し立てるべきだとしている。

また、今回の判決の意義については69.3%が「政治家の私欲のための職権乱用行為が減少する」という解党をおこなった。

確かにタクシンのやり方は、国庫のカネを選挙対策のバラ撒きに使ったが、「横領」はしていない。しかし、職権を行使して自分のビジネスに有利になるようなことは最高裁の判決にみるようにさんざやってきた。

また、クローニー(お仲間)の利益も大いに図り「タックシン派」のいう「新興勢力」は急速に拡大した。彼らがグローバリズムに対応する新勢力だなどというのは全くのマトハズレである。単なる新興利権集団に過ぎない。

グローバリズムに対応するという見方からすれば古くから日本に支店を開いているバンコク銀行の方が余ほど貢献している。

タクシンは首相時代に大学生に向かって「日本企業に就職するぐらいなら、タイの地元企業に就職すべきである」などと演説していた。彼がどうしてグローバリズムに対応したというのか?今のアピシット政権の方がよほど「開かれた政策」をとっているし、周辺諸国からもそう評価されている。コーン財務省はASEANでは最も優秀な財務相としての表彰も受けている。

また、タクシンは国家予算を直接投入せずに、「予算外(アアウト・オブ・バジェット)」で国会に諮らずに、国営の「クルンタイ・バンク」を使ってさまざまな投資をおこなった。その後、クルンタイ・バンクは不良債権で苦しむことになった。

農村への貸付も政府系金融機関が行い、多額の不良債権を背負わされている。30バーツ診療のしわ寄せは現地の医者や看護婦への過重負担としてのしかかり、医療期間の赤字だけでなく、医療の荒廃も進んでいる。

タクシンのポピュリズム政策はタイの経済社会にとって負担が大きすぎたのである。だからといって民主党政権はこれをやめるわけにはいかない。止めれば次の選挙で負けてしまう。

これらのことは日本の「タックシン派」の学者はほとんど問題にしていないし、紹介も報告もしていないから、日本ではほとんど知られていない。彼等は国立大学の研究者であったり、政府系や民間シンク・タンクのメンバーである。

彼等は何を勘違いして「タックシン」を好ましい政治家だとして支持しているのであろうか?私には全く理解できない。タイの多くの駐在員も私と同じ気持ちであろう。

いずれにせよ、タクシン政治の研究は「タックシン派」の学者・研究者とは別の視点でこれからなされなければならない。


⇒連続爆破事件の下手人はやはり赤シャツ過激グループか?(2010-3-5)


バンコク銀行の連続爆破事件にはタクシン派の武闘グループを指導してきたカッティヤ少将(現在停職中)の一味が関与していたという疑いが濃厚っとなってきた。

3月4日にカッティヤ少将の右腕と自他共に認めるK-Thong(ケー・トーン)ことPornwat ThongsomboonがYouTubeのサイトに「今後内乱とバンコクでの連続爆破事件」を起こすという書き込みをしていたというカドで逮捕状が出され、K-Thongの所有するサーバーとパソコンが押収された。

彼のサイトにアクセスしたり書き込みをしている過激派とみられる人物に対しても捜査の手が及ぶ可能性がある。

これとは別にカッティヤ少将自身もアピシット首相をはじめ英字紙ネーションの編集長や裁判官ら53名の実名を挙げ、「彼らの額にしるしを付けた」と自らのホーム・ページに書き込んでいるという。これは何を意味するかは不明であるが、暗殺を含む何らかの危害を加える予告とも取れる不気味さがある。

これははっきっり言って「脅迫の疑い」が濃厚であるが、アピシット首相は暗殺を恐れてはいないと明言している。ただし、全閣僚の公用車は「防弾仕様」のものを使うようである。

最高裁判決で凍結資産の約60%を没収されたとはいえタクシンは300億バーツを超える資金を持っており、まだまだかなりのことをやれるはずである。

また、タクシンの「盟友」であるカンボジアのフンセン首相は「アピシットに呪いをかけた」と称しているという。アピシット首相は何らかの理由で「不慮の死」を遂げるであろうというのである。

ASEANの結束とやらもタイシタものである。

タクシンについては日本のタックシン派はコトあるごとに「タックシン氏は選挙で選ばれた首相である」という決まり文句を多用している。しかし、タクシンは「選ばれて独裁者になろうとしていた」ことは事実が示すとおりである。警察はに手中に収め、軍も自分の同期の仲間(10期生)で全権を掌握すっる一歩手前まで来ていた。

しかし、2月26日の最高裁判決ではタクシンは「資産隠し」を行い、本来首相としての「適格条件」に欠けていたことが明らかにされた。法律的に適格者ではなかった人物であることは前々から分かっていたが、今回最高裁判決でいわば担当判事全員一致でオーソライズされたのである。

しかも、職権を乱用して、「CEO的やり方」と称して、勝手気ままに「職権乱用」をやってきたことも今回の判決で明らかにされた。彼が「民主主義者」を自称していて、それを「タックシン派」が「強い首相の登場」などといってホメそやしているのだから、誠に始末に終えない。

2006年の軍事クーデターがなければ,これらの真実は明かされることなく、タイは今頃は間違いなくタクシンの独裁国家になっていたであろう。

某国立大学教授はバンコクの中間層は「強い首相」の登場を待ち望んでいたというようなことを言って「タックシン」の擁護をおこなっているが、それは間違いである。PADに集まった市民は彼ら「新中間層」が中心であり、「軍関係者や官僚や既得権益を持っ旧守派集団」というのはマトハズレの議論である。

基本的には今の「反タクシン運動」は1992年の「反スチンダ運動」と同じ階層によっておこなわれているのである。民主派の旗手とみられるチャムロン少将がPAD(民主主義のための人民連合=黄色シャツ)の指導者を買って出たことを見ても明らかではないか?

これに反しタクシンは「タイ経済の改革派」であるというのが某教授の主張である。タイ経済を「自己中心の利益」に捻じ曲げたから市民階級の反発があったことを無視している。

日本の学者のタイ研究のレベルは相当低いとしか言いようがない。少数のオエラさんが「学会を牛耳っていて、「中世のギルド集団化」してしまっているかの観を呈している。先にも述べたように彼らは「タクシン」と呼ばずに「タックシン」という共通の言い方をしている。だから文章を読めばすぐに見分けがつく。

私は日本の「タックシン派」の皆様に言いたいのは、何かの勘違いで今日までの間違いを積み重ねてきたことであろうから、即刻自らの勘違いや誤解を正していただきたいものだと願っている。

「タックシン派」の皆様の今までの言動は誠に目に余るものがあり、日本人にとってもタイ人にとっても有害極まりない。日本の企業家にもタイについてのマイナス・イメージを不当に与えている

(3月4〜5日、ネーション、バンコク・ポスト電子版参照)


T110-5.タイの財務相、世界のトップ財務相に選ばれる(2010-3-2)


やや旧聞になって恐縮だが、2010年2月23日のフィナンシャル・タイムズによればタイのコーン(Korn Chatikavanij)財務相がフィナンシャル・タイムズの’Banker magazine'から’Global Finance of the Year'に選ばれた。

コーン氏は46歳で英国で生まれ、オックスフォード大学で政治学と経済学学び、アピシット首相の同期生であり、アピシットに乞われ財務相に就任した。大学を終えてから自分で証券会社を設立し、それを売却し、JP Morganのタイ現地法人の会長を務めていた。

曽祖父はオランダ人で、祖父は枢密院顧問官、父親は関税局長という日本の「タックシン派」の筆法を借りればさしずめ「旧守派」に属しているということになる。

アピシット政権が発足して約1年(2008年12月発足)であるが、その間グローバル経済不況の中でもみ抜かれていたタイ経済の舵取りをしっかりとやりぬいた点が評価されたようである。タイのGDPの数字を見れば明らかなように非常に分かりやすい。

インドネシアやフィリピンのように何が何でも「民間消費」は4%以上の成長を遂げたなどという数字はタイでは出てこない。経済が何とかなりそうだと分かれば「財政刺激」をさっさとスロー・ダウンさせる。

同じ民主党政権でも何が何でも1人2万6千円の子供手当てだなどという愚かな政策はとらない。日本の財政事情を見ればこんな政策はここ数年は採用の余地がないことぐらい自明ではないか?

与謝野元財務相が「民主党政権はオレ様のように経済が分かっているやつがいない」などと大見得を切るものだから話が余計にややこしくなる。日本経済をおかしくしたのは自公政権であることは疑いの余地はない。

自公政権が一番悪かったのは小泉政権を取り巻く「ネオ・リベラ一神教」に取り付かれたことである。経済諮問会議に出ていた学者やシンク・タンクの諸先生方や事務局を勤めていた役人諸君の責任は極めて重大である。

与謝野氏らの悲劇(被害者は日本国民であることはいうまでもない)は「経済が分かっていたつもり」になっていたことである。「ネオ・リベラル一神教」が万古不変の経済真理などではないのである。

これは20世紀の経済史を見れば一見して明らかである。麻生前首相が「今回の不況は100年来の大不況」だなどとい出だしたときには、あまりのことに唖然とした。こんな馬鹿げた説を首相に吹き込む悪者が政権の近くにいたことを意味する。赤坂の料亭あたりでインチキ学者のお話を聞いたせいかもしれない。

1930年代の「世界恐慌」の実態を知りたければ、映画「怒りの葡萄」を見ればよい。これなら2時間程度のお勉強ですむ。ところが「ネオ・リベラル一神教」では世界恐慌は説明できない。

コーン財務相も自由主義経済の理解者だがおそらく「ネオ・リベラル一神教」の信者ではないことは間違いない。かれの良さはタイ経済の実態分析から政策を組み立てている点にあると思われる。

コーン財務相には「骨太」もないし「骨細」もない。あるのは世界経済にとタイ経済の「現実」である。イイカゲンな「経済理論」などどうでもいいのだ。前の民主党はIMFの「ネオ・リベラル一神教」徒の攻撃にさらされて崩壊させられた。

コーン財務相の前には問題山積である。「タックシン派」の残党が暴れまわっているし、政権内には汚職閣僚もいる。また、マプタプットの工事差し止めを問題もある。マプタプット地区の環境問題は深刻であるが、環境基準の改定を一日も早くかたずけてプロジェクトを前進させる必要がある。これはむしろアピシット首相の縄張りではあるが。

フィナンシャル・タイムズによればコーン財務相も「環境問題」には前向きであるという。それはそれで結構なことだと思う。彼はこれからはタイでは相対的に遅れている「サービス部門」の成長促進したいのだという。

たしかに今日までのタイ経済の成長を支えてきたのは、エレクットロニクス産業や自動車産業などの工業部門であった。しかし、タイの工業化はこれで十分だという段階ではない。

彼は環境重視の立場からかも知れないがマラッカ海峡側に深掘り港湾(Dep sea port)を新設して新たな工業基地を作ることには反対だという。しかし、いずれにせよ西海岸を窓口にする工業化や南部の工業化はタイ政府が取り組むべき重要課題であることは間違いない。

タイの今の政権の良さは「柔軟性」である。この「柔軟性」は日本の民主党政権も見習わなければ、後々苦しむのは日本国民である。


T110-6.メコン河大渇水、雲南省のダム建設が原因(2010-3-4)


水量の豊さで知られるメコン河が乾季とはいえ50年ぶりの大渇水に見舞われ、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムの水田稲作への影響はもちろん水運にも深刻な打撃を与え、タイ北部から中国雲南省に通じる水運は完全にストップした状態にある。

チェン・セーン測候所で測定したところによると水位は例年に比べ150センチも低下しているという。近年乾季にはメコン河の水位の低下が問題にされたが、今年は最悪だという。

チェン・ライ県の税関は河川運航がストップしたため開店休業状態にある。そのかわり陸運は大忙しでタイと雲南省の西双版納(シーソンパンナー)を結ぶ2,000KmのR3A道路は1日50台の大型・コンテナー・トラックが走行している。従来は月間50台ぐらいのものであったという。

メコン河がこの時期に干上がったのは乾季による雨不足も原因だが、直接的には中国が雲南省に作ったダムの影響が大きいと地元では見ている。

中国はメコン河の上流にXiaowan hydro-electric damを完成させたばかりであり、このダムに水を溜め込んでいるというのがタイ側の見方である。

従来からもメコン河上流に設置された4基のダムが乾季には下流に極端な水不足をもたらし、逆に雨季にはダムの決壊を恐れて大量の放水をおこなうため、下流は洪水に泣かされてきた。

中国はメコン河委員会(中国は参加を拒否している)から再三警告を受けているがそ知らぬ振りをしているという。これは中国の常套手段だと地元では受け止めている。

コトあるごとに「Win-win Solution(両方が勝ち)」などといっておきながら、実際は大国らしからぬ「自己中心主義」だというのである。

こういう事態になることは以前から懸念されていたが、「親中国政権」であったタクシン時代には中国のやることなすことに文句の1つも言わなかったが、現在のアピシット政権はそうは行かないであろう。

T110-7. 3月12〜14日の赤シャツ100万人集会とその後に要注意(2010-3-7)

タクシン派の赤シャツ集団が3月12日から14日の間バンコクで100万人の反政府集会開くとして、準備が進められている。

タクシン派には既に100万人もの人数を集める実力はないが、中近東から多額の送金があったことが既に確認されており、赤シャツ隊のリーダーは何が何でも人を集めるということでヤッキになっているようである。

「大衆動員」に失敗して「政府を打倒」できなければ(できるはずもないが)、赤シャツ隊の武闘組織を利用して3日間で政府を打倒し、4日目にはタクシン元首相をバンコクにお迎えするなどと例のカッティヤ少将は号しているという。

到底普通とは思えないカッティヤの発言だが、最近になって第4軍(南タイ方面軍)のパッタルン工兵連隊の基地から3,000発の銃弾とM-16,AK-16自動小銃(数は不明)と20発の手榴弾が盗まれるという重大な事件が発生した。

犯人は軍関係者と見られているがアピシット首相もこの武器が赤シャツ集団によって使われることを懸念しているという。この武器は既に赤シャツ隊の「武闘組織」に渡っている公算が極めて高い。

軍内部にもタクシン派の将校はある程度存在し、最近のバンコク銀行支店爆破に使われたのは明らかに軍用手榴弾であり、PAD(黄色シャツ)集団に過去何回も投込まれ多数の死傷者を出した手榴弾も軍のものであると見られている。

逆に赤シャツ隊に対してはこのようなテロはおこなわれていない。

先のバンコク銀行のシーロム支店に手榴弾を投込んだ犯人のうちオートバイの運転をしていた男が逮捕されたが、赤シャツ隊の人物に雇われたと見られている。

アピシット首相は3月13日からかねての予定通りオーストラリアの公式訪問に出かけ、スーテップ副首相に代行を委任するといっている。

しかし、パッタルン基地の大量武器盗難事件が解決しなければ、期間中に何が起こるかわからない。また、他の軍事基地からも武器が持ち出されている可能性もある。

タクシン一派は先の最高裁判決後「大衆動員」はカネがかかりすぎるので(1日7〜8千万バーツ≒2億円前後)、少数のテロリストによる爆破攻撃や暗殺(PADリーダーのソンティ氏襲撃事件)に重点を切り替え、社会不安を継続さえ、政府への国民の信頼を失わせる作戦に出て来ることが予想される。

事件の度ごとに日本の特派員がアピシット政権の無能ぶりや「タイの司法の2重基準」などを蒸し返すことによって現行政府をやっつけることに「無意識に」お力添えをしているようにも見受けられる。

日本のメディアでアピシット首相をほめている記事はみたことがない。タイではアピシット首相の支持率は高い。

タクシン派は外国のメディア対策として特派員に対する働きかけを露骨にやってきたが、今後もそれは続くであろう。既にBBCの某特派員は露骨にタクシン支持の記事を書きまくり、「不敬罪」に問われているという。

フィナンシャル・タイムズの記事もかなりきわどいものが目立つ。それに比べれば日本の新聞はまだ「良識的??」といえるかもしれない。

それにしても私には理解できないのはカッティヤ少将をなぜ逮捕しないのであろうか?武器の不法所持など逮捕理由はいくらでもある。彼は数日前にドバイに飛び、タクシンと作戦の打ち合わせをおこなってきたようである。

軍部に言わせれば「カッティヤを勝手に泳がせておく」方が都合が良いと判断しているのであろうか?あるいはカッティヤは「2重スパイ的」な存在なのかもしれない。

まさかカッティヤに騒乱事件を起こさせておいて、その鎮圧のために軍が「クーデター」を起こすというような「猿芝居的」な筋書きがあるとは思えないが。しかし、今回は少し気味が悪い事件が起こった。

おそらく、赤シャツ大衆大動員はこれが最後になるかもしれないが、タクシン派の「テロ攻撃」は当分続くであろう。こちらの方がコストが安い上に「宣伝効果」が大きいからである。バンコク支店爆破事件はそのハシリと見ることができよう。

(英字紙ネーション、「タイの地元新聞を読む」などの3月6日、7日の電子版記事を参照)


⇒武器・弾薬盗難でタイ政府に緊張感高まる(2010-3-8)

パッタルの第4軍工兵隊基地から3月4日(木)に銃弾3,000発など大量の武器・弾薬が盗み出され、その行き先は未だにつかめていないが、軍内部のタクシン派の仕業という見方が強く、3月12〜14日の赤シャツの「100万人反政府集会」でそれが使われ、騒乱事件に発展する可能性を排除できなくなった。

アピシット首相は当初は3月13日からオーストラリアに出張する予定であったが、今日(8日)になって急遽出張を取りやめ、国内の治安維持に専念することになった。

カッティヤ少将は実は部下のケー・トーンという人物とともに3月6日(土)に逮捕され、仲間とともに警察に身柄を拘束されていたが、8日には保釈160万バーツの保釈金を積んで手下の5人と共に保釈されている。

カッティヤのグループは赤シャツの100万人集会のあと、赤シャツ軍団(カッティヤが訓練した武闘集団)を率いて暴動を起こすことを示唆しており、数日前タクシンとの打ち合わせにドバイに行って、帰国したばかりでああある。ただし、YouTubeで爆破や暴動を扇動したとされるケー・トーンは保釈を拒否された。

従って、3月14日過ぎてからの方がテロ事件や銃撃事件が多発する可能性が高い。本日はアジア株は各国とも上昇したが、タイのみ若干下がった。

タイ政府は事態の成り行きによっては地域を限定してISA(治安維持法)を施行して秩序に維持にあたることを検討中であるという。

アピッシット首相の政治手法はあまりに「民主主義的」でタクシンのように「CEO的手法」と称して独裁的な言動はとっていない。この辺がいかにもイギリスで教育を受けた民主主義者という感じがする。

昨年の4月のソンクラン騒擾事件のときも極めて穏健な対処をした。しかし、今や大量の武器弾薬が赤シャツ軍団の手に渡ったとなったら事態は明らかに違ってくる。特定の民間銀行が襲われたり、善良な市民もトバッチリを受ける可能性が出てきた。

カッティヤ少将が問題行動を起こしていたことは前々から分かっているのにこういう時期に「わずかなカネでアッサリ保釈されるタイの司法制度が私には理解できない。

昨年のパタヤでのASEAN会議をぶち壊した時のリーダーであったアリスマンもすぐに保釈され、裁判も受けずに相変らず、アピシット首相をやっつけろなどと赤シャツ隊でアジ演説を続けているという。

また、昨年のソンクラン事件の時にも露骨なアジ演説をおこない、逮捕を恐れてイギリスに遁走していやチュラロンコーン大学のジル・ウンパコーン先生もいつの間にか帰国し、タクシンを「民主主義者」としてたたえる言動を繰り返しているという。

タイ警察はタクシン派が健在であり、こういう危険な活動家にたいしては「寛容」のようだ。タクシン時代に警察官自身がかつてソムチャイ弁護士を拉致して消してしまったというようなお国柄である。


⇒タクシンの家族は既に海外に逃亡(2010-3-10)

タクシンは支持者に対してバンコクに集結して、「アピシット政権打倒を目指せ」などとしきりに扇動しているが、昨年4月のソンクラン暴動の時の同じく、家族は既に海外に逃亡している。

元妻のポジャマン夫人とセガレのパットンテは8日(月)に既に「商用」で香港に出張しており、ムスメ2人は今日(10日)にドイツに飛びたち、後にドバイにいってタクシンに合流する予定だという。

タクシンが昨年同様に家族を「国外逃亡」させたということは今回の3月12〜14日の「100万人集会」とその後の数日の間に「暴力沙汰」が起こる可能性を示唆している。

今回はカッティヤ少将に軍事訓練を受けた「赤シャツ軍団」の「精鋭」(??)が今までに盗み出した手榴弾や自動小銃で暴れまくる可能性がある。

タイ政府は既にISA(治安維持法)の施行を地域を限定し、期間を3月23日(火)までとし、警察から治安維持権限を軍中心のISOC(Internal Security Operations Committee)に移行している。

軍隊は市内各所に配備されるというが、武器を所持していない部隊が多いらしく、彼らは「飛び道具」で狙われる可能性がある。また、一般市民も前回同様巻き添えを食う危険もある(前回2名の市民が赤シャツに殺害された)。銀行など特定企業も爆弾攻撃を受ける可能性がある。

アピシット首相は赤シャツ支持者に達して「皆さんはタクシン一族の資産を守るために闘っている。皆さんが街頭で戦っているときにタクシン一家は有り余る資産の上にのうのうと胡坐をかいて豪奢な生活を送っている」とアピールしている。

全くそのとおりだが、赤シャツ隊のリーダーは「民主主義のための戦いだ」とか「かつてタクシンは貧乏人に救いの手を差し伸べてくれた」などといっているが、赤シャツ隊の参加者にも次第に意識の変化が出てくるであろう。動員数は100万人はムリで20万人どまりであろうという。

日本の「タックシン派」はやみくもの「タックシンの政治手法や経済政策は正しかった」ということを各種の出版物で主張し続けている。しかし、それは矛盾だらけだし、根本的に間違っているのである。

それは今まで私がこのホーム・ページで書いてきたし、今後も著書を出版していきたい。世上では「タックシン派」の書物が市場を独占している。これはわれわれの税金で運用されている政府系シンク・タンクにも問題がある。しかし、私のような「普通の民主派」ももっと頑張らなければならない。

台湾政府はいち早く国民に渡航注意の呼びかけを始めた。台湾人はタイに多くの工場を持ち、またタイに居住している人も数万人おり、警戒を呼びかけたものである。日本人も警戒を要することはいうまでもない。


⇒3月15日以降の赤シャツ隊の行動が問題、多数の手榴弾投擲機を押収(2010-3-14)


3月14日(日)の赤シャツのバンコク集会は100万人をはるかに下回る動員(20万人にも達していない模様)で平静の内に終わり、焦点は3月15日(月)からの赤シャツ隊の行動に移ってきた。

赤シャツ・デモ隊は3月14日(日)でスッキリ解散せずに3月15日(月)以降、アピシット内閣の総辞職と議会の解散、総選挙を求め引き続きバンコクでの集会を続ける方針である。

問題は3月15日からの赤シャツ隊の行動が、それまでの「平和的デモ」から昨年4月同様に「騒乱」行動に出るか否かである。

その際、昨年との違いは「主要交差点の占拠とバンコクの機能マヒ」という狙いから、一転して「手榴弾攻撃」などによる「連続個別破壊活動」に転換する可能性である。

そのためにカッティヤ少将の「赤シャツ軍団」は数多くの手榴弾(M79)を備蓄している疑いがもたれている。カッティヤは自分の育てた「戦闘員」に1人4発の手榴弾を持たせているという。

手榴弾といっても「手投げ」ではなく「投擲機」を使って比較的遠距離から発射するというやり方が彼らの戦法であり、PAD(黄色シャツ)は過去何度も手榴弾攻撃を受け多くの死傷者を出している。

今回アユタヤ県のワン・ノイ地区にあるFuji Auto Co.(日系ではない)という自動車部品会社から出荷直前の100丁の「投擲機」が発見され押収された。

さらに3月13日(土)にその工場に部品を納入したチョン・ブリ県のBang Bo地区の自動車部品会社のSiam KS Machine and Services社から600丁のM79投擲機とその部品5,000点を押収し、社長のスパウィット(Supawito Keskul、39歳)を逮捕した。

このような「出荷前」の多数の手榴弾投擲機が押収されてということは既に多数の現物が出回っていることを意味し、それに使われるM79手榴弾の数は少なく見積もっても数千発はどこかで誰かが隠匿・備蓄していることをうかがわせる。

この投擲機押収事件については赤シャツ隊の幹部はタクシンと袂を分かった「ネーウィン派」の仕業だといっているが、事実はやがて明らかにされるであろう。

実際に既にバンコク銀行の4支店が手榴弾攻撃を受けている。15日以降はさらにこういう事件が多発する可能性がある。


⇒第1歩兵連隊基地に6発の手榴弾投擲、2人の衛兵が負傷(2010-3-15)


3月14日(日)の赤シャツ100万人大集会は結局10万人前後の動員におわり、15日(月)から「延長戦」にはいったものの15日正午までにアピシット首相に辞任せよとの「最後通告」もあっさり断られ、赤シャツ隊としても振り上げたコブシのヤリ場に困っている様子が伺える。

次の手段は赤シャツ・デモ参加者から「採血」し、100万ccの血液を「首相官邸」や「民主党本部」や「アピシトの自宅」の3ヵ所にバラ撒くという戦術を明日3月16日(火)から実行するという。

なんとも血生臭い戦術であり、聞いただけでも気が滅入る。自作自演の「血の海事件」に過ぎない。東北から出てきたデモ参加者もこれには驚いたことであろう。

それにしても合計で300万ccの血液が必要となり、人数が10万人いるうちは1人当たり30ccで済むが人数が減ってしまったら大変である。バンコクだけでも赤シャツ支持者は12万人いるという話だから余計な心配はご無用と言ったところであろうか。

赤シャツ隊にしても「平和なデモ行進」だけでは手詰まりは明らかであり、長引けばカネがかかって仕方がない。。デモ隊に500バーツ札を配っていた写真がネーションに出ていたが、10万人に500バーツ配るとそれだけで1日5000万バーツ(1億4000万円)である。

いよいよ「実力行使部隊」の出番であろう。早速、15日午後1時半ころ対策本部の置かれている、第1歩兵連隊基地に6発のM79手榴弾が通行中の自動車から発射され、うち4発が破裂し、ゲートの裏側にいた衛兵2人が負傷した。2人とも生命には別状はないという。

ところがまもなくM79を発射した自動車が近くの検問所で捕まってしまった。発射した犯人は途中で車から降りて遁走してしまったが、自動車の運転手が逮捕されたようである。彼が運転していたのは三菱の新品の白いバンで放棄して逃げるわけには行かなかったものと見える。

捕まったのは目撃者が警察に通報したためである。すでにタクシン支持者はタイでは少数派になりつつあり、彼らの行動は一般市民からも「監視」されている状態にあるといえよう。

そうなると「赤シャツ軍団」のテロ攻撃は夜間に集中せざるをえなくなる。タニヤ街は照明が明るいからいいようなもののスクムヴィット通りの裏道などは当面危険含みである。早めのご帰宅が身のためかかも知れない。

タクシンはどこにいるか諸説あるがカンボジアも安全ではなく、ドバイはタクシンが約束に反して「反政府活動」をやっているので国外追放する可能性があり、ご令嬢2人が滞在しているドイツはタクシンの入国を拒否している。結局モンテネグロ(バルカン半島)にいるらしい。

タクシンがカンボジアあたりから直接指揮をとれなければ、今回の赤シャツ・デモはこれでおしまいということになるであろう。後は散発的な爆弾テロだけとなるであろう。

独裁政治家タクシンを担いで「民主化運動」をアピシット政権に対してやるなどということはどう考えて変である。変と感じていない「タックシン派」の先生も日本には数名おられることは間違いないが。

2月26日の最高裁判決以降流れは急速に変わりつつある。



⇒タクシンの破壊活動指示を米当局が電話傍受(2010-3-16)

モンテネグロで2人のお嬢様とくつろぎながらタクシンが電話で「バンコクでのテロ活動を指示する」内容が米国の電話盗聴網に引っかかり、米当局からタイ政府に「警戒警報」が寄せられていたことが明らかにされた。この米国の情報機関からの警告はタイ国軍にも寄せられているという。

それをスーテップ(Suthep)副首相が明らかにしたのはけしからんとタクシンは自分の"thaksinlive"という「ツイッター=ツブヤキ」で語ったという。(The Nation)

The Nationによれば”Sabotage"という表現で、これは「破壊活動」という意味であり、「変電所の破壊」なども含まれる言葉だが、実際にはM79手榴弾の投擲による破壊活動が中心になるであろう。

そのなかでタクシンはスーテップに対し「証拠があるなら示せ。スーテップはもう60歳なので、先の昇進(首相になる)の望みはないのだからイイカゲンにしろ」と凄んだという。

タクシンはツイッターの中で「民主主義を回復するための赤シャツのデモ隊に感謝している」という。まさか「おれののカネを取り戻すために頑張ってくれてありがとう」ともいえないであろう。

タクシン派がM79手榴弾やピンポン爆弾によるテロ活動をおこなう可能性については既にこのホーム・ページでも指摘したとおりである。今後何が起こるかわからないので要警戒である。

昨日はチェンマイでネーウィン・チョーチーブ氏(民主党と連立を組むBhumjaithai党の事実上の党首)の義父の事務所にピンポン爆弾が投込まれたが、人的被害はなかったという。

また、バンコク市内でも最高行政裁判所判事宅の近くの民家にM79手榴弾投擲された。これは判事宅を狙ったが、的を外したものと見られている。

なお、赤シャツ・デモ隊から「献血」を受けて「血を首相官邸の入り口」にバラ撒くという「タクシン流民主主義的儀式」は現地時間16時から実際におこなわれ、その後民主党本部でも同様の儀式がおこなわれた。

そこで雇われた祈祷師(ブラーマン)がアピシット首相に「呪いをかけた」という。20人の医師と200人の看護士が献血に動員されたという。彼らは赤シャツ支持者だと言われている。

一般の赤シャツ・デモ隊のメンバーはあまりのことにショックを受けている人が少なくないといわれている。なお「保健目的」以外に「献血」を強いることは法的に問題があるという。

なおいつものことであるが日経新聞などにはタクシンの農村重視政策がバンコク市民の反発を買って今日の「政治混乱」が起こったというような書き方がしてある。(2010-3-16日経朝刊)

バンコク市民の偏狭なエゴイズムがPAD(民主主義のための人民連合=黄色シャツ・グループ」の反タクシン運動につながったという認識は根本的に間違っている。実際にはタクシンの独裁政治と汚職・自己利益追求政策に反発する市民の「民主化要求運動(タクシン退陣)」なのである。

バンコク市民の納めた税金が貧農救済に使われたからバンコク市民が怒り狂ったなどということは聞いたことはない。タイ社会における「所得の再配分」はどの政権でもやってきたことである。タイ人は「弱者に対しては仏教的倫理観もあり極めて寛大」である。

タクシンはバンコク市民の寛大さにつけこんで、自分の党の票集めのために国家資金を使い、30バーツ診療など日本でもできないことをやったのである。議会で多数を占めると、次は「独裁権力」の獲得のために「言論機関」への弾圧などを容赦なくおこなった。彼のやり方には「民主主義の片鱗」すら見られなかった。

PADの運動はあくまでタクシン独裁体制への危機感からの民主主義運動なのである。ここを間違えるとタイの民主政治は永久に理解できないであろう。

また、末広昭氏などはタクシンが「グローバル化に対応する自由主義経済の確立を求め、既得権益層と対立した」ということを主張して「タックシン擁護」の論陣を張っているが、それは根本的に間違いである。

チュアン政権であれアピシット政権であれ民主党政権も一貫して「グローバリズム」に対応する「自由化政策」をとってきたことは間違いない。プレム政権(1980〜88年)もASEANの中では真っ先に「外資への門戸開放政策」をとったので、1985年以降の日系企業を中心とするタイ進出ラッシュが起こったのである。

タクシンはむしろ地元資本優先的(救済的)なナショナリズム色の濃い政策を当初はとっていたのである。彼の周りには華人資本家のクローニーがうようよしていたではないか。

彼が通信事業の門戸開放をどういう形でおこなったのかを見ても「ネオ・リベラル的」な自由化政策とは基本的に無縁であった。

日本のタックシン派の「タクシン評価」には問題点が多々あることを今は指摘するにとどめておく。

また、今後の展望であるが「政争はタクシンがあきらめるまで続く」ことは間違いないであろうが、赤シャツ隊は急速に勢力を失墜していくことは確実である。

彼らが「民主主義のために闘う」としたら「バンコクの新中間層」との共闘なしには何も実現しないからである。しかし、今タイの赤シャツ民主派が「闘うべき対象」とは一体ナンなのであろうか?アピシット政権は「軍の傀儡政権」だとでも言うのであろうか?軍の支持派受けているが「傀儡」とまではいえない。

⇒アピシット首相自宅の玄関先に赤シャツ隊が血をばら撒く(2010-3-17)


赤シャツ隊はデモ参加者から集めた300リットルの「献血」を16日(火)に首相官邸と民主党本部前にばら撒いたが、本日はアピシット首相の自宅に押しかけ、金属製の門の辺りに残りをぶちまけるという前代未聞の蛮行をやらかした。

赤シャツも「反独裁民主主義同盟」などと自称しているが、実際は「親独裁暴力同盟」である。特定個人の自宅にまで大挙して押しかけ血液をブチまけて呪いをかけるなどという蛮行は到底文明国の人間のやることではない。それ以前にも赤シャツはずいぶん無実の民主派市民を殺傷している。

秋篠宮もチェンマイ大学で名誉博士号を授与される予定であったが、急遽出張取りやめになった。また、外国人観光客が3千人ほどホテル予約をキャンセルしたという。

しかし、バンコクの株式市場は赤シャツ隊の動員力がガタ落ちに落ちて「勝負あった」と見たためであろうか。3月14日の「100万人集会(実際は10万人)」以降連日大幅な上昇を続けている。

タイ・バンコク インドネシア マレーシア
2月25日 717.10 2549.03 1270.78
2月26日 721.34 2549.03 1270.78
3月1日 721.37 2554.67 1283.40
3月10日 720.84 2670.22 1328.22
3月12日 733.54 2666.51 1311.20
3月15日 734.84 2669.61 1299.67
3月16日 752.20 2669.61 1298.86
3月17日 765.54 2756.26 1301.95
対3/12 +4.36% +3.36% -0.7%


今回のバカ騒ぎはこれで「1件落着」というところだが、執念深いタクシンはこんなことでは引き下がらない。次は武闘派集団の出番である。カッティヤ少将は赤シャツ隊幹部3人の「辞任を要求」している。

カッティヤは「赤シャツ軍団」を率いて武装闘争(テロ活動)」を展開し、3日間で情勢を逆転させると豪語しているという。もちろんこれは「誇大妄想」にしか過ぎないが、「血をばら撒いて呪いをかける」などという「民主派集団(??)」のなかには相当激しい連中がいることは間違いない。

カッティヤの計画は1日目は国会を包囲し、2日目は1997年憲法を復活させ、3日目にはタクシンを迎えいれるというのだそうである。夢物語そのものである。


⇒赤シャツ隊、3月20日から新たな「階級闘争」宣言(2010-3-18)


赤シャツ隊の動員数は既に1万人以下に減り、「撒血作戦」もタイ国民からも眉をひそめられ、国民の支持を急速に失いつつあっるなかで、トップ・リーダーの1人ナタウイット・サイグゥア氏は運動を全国規模に拡大し、タイの「平民層」による「絶対王政型官僚過ぎ打倒」に向けた「階級闘争」を開始すると息巻いている。

これは「王政打倒」を意味するのか「官僚制打倒」を意味するのかは曖昧だが、「王政打倒」のニュアンスが含まれていたら一大事件になることは間違いない。

タイは「絶対王政」ではなく「立憲民主制」であり、国王権限が強いとはいえ、基本的には「議会制民主主義」が確立している。

今のプミポン国王はタイに民主主義を根付かせるために1976年のタマサート大学事件以降最大の努力をしてきたとみるべきであり、国王が自らの権力を増すために何かをやったということはない。

ただし、タクシンのように議会で安定多数を占めたがために「CEO型政治」などと称して「独裁政治」をおこない「言論の自由を迫害」し「我田引水的な利権追求」に対しては「民主政治」の危機として捉え間接的な表現ながら、タクシン批判を何度かおこなった。

これを「タイ経済の近代化に対する反動」と見るのが末広昭氏などの「タックシン派」の見方である。国王が1994〜8年の通貨危機への反省として「足るを知る経済」を唱えたことが末広先生の逆鱗に触れたらしい。

しかし、通貨危機の原因は地元華人資本の「貪欲な不動産投資などに起因している」(拙著『東南アジアの経済と歴史』2002年経済評論社参照)ことに対する戒めにしか過ぎない。タイにおいて「貪欲資本主義」を蔓延させて貧富の格差を拡大し、貧民を苦しめる(日本のように)のは良くないことはタイ人の大多数が思うところである。

国王やバンコク市民の大多数がタクシンのような「これでもかこれでもか」というネオ・リベラル的な「貪欲志向」には批判的であったにせよ「健全な経済発展」を否定するものではないことは明白である。

そのことを気に入らないとして「タックシン擁護」に日本人の「専門家」が血道を上げるというのはいかがなものであろうか。末広の近著『タイ中進国の模索』(岩波新書)を読むとタクシンがやったという「近代化政策」なる項目が列挙してある。問題はその成果である。

「一村一品」運動にもそうとうなカネを使ったようである。ではその成果はどうであったか?農民を資本家に変えるとして「政府融資」をばら撒いたが、何がどう変わったのか?私の「老眼」には目立った変化は見られない。

どこの地方空港にいっても「一村一品運動」の成果が「販売」されていて、少しは日本などにも少しは輸出されているようだが、成果はこれから徐々に出てくるらしい。

多少は成果が上がっていることは間違いないであろうが、投下した資金とのバランスでいったらとても引き合うものではない。農民が政府に要求しているのは「借金棒引き(徳政令)」である。

農民資本家構想が成功しているなら「徳政令」は本来不要なはずではないか。農村に融資された「資金」が「資本」として使われず、「消費」に回ったという説もある。

ただ、今回バンコクに東北地方から向かった農民は「小型トラクター」にかなり乗っていたとも事実である。しかし、それが「資本主義的農業」とは直結するものではない。

末広はタクシン政権が発足してから、タイの経済成長が高まったとしてタクシンを持ち上げているが、中国向けの輸出増によるところが大きく、その成長に貢献したのはタイの通貨・経済危機に耐えて現地の企業を守ってきた日系企業をはじめとする「外国資本」である。

タクシン時代に「消費は美徳」だとしてやたらに「クレジット・カード」で消費を膨らませ、それは多少の「内需引き上げ効果」はあったと思うが、その後タイ人はその借金の返済に大変苦しむことになり、逆に長期の「個人消費不足」に陥り、それは今日現在まで続いている。

2003〜4年の成長を言う前にチャワリット政権(タクシン副首相)時代のデタラメ経済政策の尻拭いをし、IMFの圧制に耐えてきたチュアン民主党政権の「隠忍自重」があったことを忘れてはなるまい。

私の目から見ればこれが「タクシン」政策の成果だなどといえるものは、これといって見るべきものはない。タイ経済の成長を通貨危機後も支えてきたのは電子部品やコンピュータ部品や自動車などの「輸出産業」である。

輸出産業の発展に伴う「雇用の増加」が内需を拡大した。農村への国家資金のばら撒きによってどの程度成長にプラスしたかはほとんど目立った数字の検証は不可能である。もし、農村が劇的に豊になったのであれば「農民の出稼ぎ」は減り都市部での「労働力不足」が生じていたはずである。

『東南アジアの経済と歴史』(2002年)以降の変化については『シュリヴィジャヤの歴史』刊行(2010年4月予定)の後に取り組むことにしている。


⇒タクシン派の活力急速に衰える(2010-3-24)

タクシンは3月17日に後7日間で勝利を勝ち取ると宣言し、3月20日にはオートバイや1トン・ピックアップ車などを連ねてバンコクの主要道路をデモ行進し(モービル・デモ)、延べ20kmの赤シャツの威力を見せつけようとした。

6万5千人が参加したというこのモーター・デモはバンコク市民を困惑させて、かえって支持者を減らした模様である。ただし、沿道にはオート・バイを持たない赤シャツ隊員が横断幕などを掲げ、声援を送ったという。

赤シャツのリーダーはバンコクの一般市民の支持を受けて盛り上がったなどと「自画自賛」していたが、一般市民ではなく「サクラ」だったのである。バンコクでは日本より1週間ほど早く「サクラが満開」になったというわけである。

同時に国防省や臨時中央政府がある公共保健省に、手榴弾を投込む者がいたが、既に犯人の一部は特定され50万バーツ(140万円)の懸賞金がかけられている者もいる。

これは本格攻撃の「前触れ」という見方もできようが、それは不可能であり、線香花火で終わるであろう。

その最大の理由はタクシンは既に「大衆的支持」を急速に失いつつあるからである。赤シャツの「闘争」は所詮は「タクシン個人」のための「闘争」であることが次第に国民に認識されてきている。

これは東北の貧農層にも次第に認識されていくであろう。

それが分かっているタクシン派としては一日も早く「解散総選挙」を実施させようとアピシット政権に迫っている。いまのうちなら選挙に勝てるかも知れないという一縷の望みがあるという思惑である。

今度は国会を包囲して議会に「解散を迫る」作戦に出ようとしている。それを承知して、軍は逆に国会を包囲して、赤シャツの侵入を阻止している。

国会は開かれているが、タクシン派のプアタイ党は議会への出席をボイコットしているために、重要法案がスイスイ可決されるという「好ましくない」状態になっている。

タクシン派は27日にも再度「モーター・デモ」を実行し、国民の支持を取り付けたい考えだという。しかし、支持が盛り上がるはずもなく、タクシン派は完全な手詰まり状態になりつつある。

残る手段は民主連合政党の6党に対する「切り崩し」である。これをチャワリット元首相にやらせようとしている。議員1人当たりいくらというカネを積めば何とかなるという寸法である。

こんなことが成功するとも思えないが、タクシンとしては必死である。

しかし、そのタクシンもアラブ首長国連邦政府から「退去命令」が出たようである。既にモンテネグロ(バルカン半島)で「市民権」を得ているので、とりあえずはそこに落ち着くことになるであろう。

しかし、モンテネグロでも「国際的刑事犯」を長期にかくまって置けるか否かは問題があるという。同国の野党はタクシンに市民権を与えた経緯と理由を説明せよと政府に迫っている。

とはいえタクシンは十分な資金力があり、タイ国の「かく乱要因」であり続けるであろう。バンコクの一般市民にとっては「手榴弾の外レ玉」が何時直撃するか分からない。

赤シャツ隊幹部は「自分達の闘争」を「タクシン個人のための闘争」から「階級闘争」という看板に切変えようとしているが、「タクシンからカネを貰いながらやる階級闘争」とは一体どのようなものであろうか?
かつて日本でも、第1次安保闘争の頃学生運動の自称左翼幹部が右翼の大立者からカネを貰っていたことがあった。彼らはそのまま右翼路線に乗り換え「皇国史観」の支持者になるものまで現れた。

大衆に根ざさない「階級闘争」などというものが成り立ちうるものなのだろうか?赤シャツから離脱して「新政党」を作ったという元共産党員の諸君もことあるごとに「タクシン様おカネ頂戴」では話しにならない。

⇒3月27日(土)赤シャッツのバンコク・デモ、手榴弾攻撃(2010-3-28)

3月27日(土)に赤シャツは当初100万人規模の集会っを開きアピシット政権のタイ陣を迫ると豪語していたが、6万人〜10万人規模にとどまった模様である。

一方、警備についている軍隊は5万人にもおよび、過剰な警備体制ということになってしまった。赤シャツは28日(日)には政府の臨時本部が置かれている第11歩兵連隊に大規模デモをかけアピッシット首相の退陣を迫るという。

アピシット首相は3月12日から第11連隊本部で政務をおこなっている。首相官邸では建物全体の包囲が容易であり、出入りに危険が伴うためであろう。

タクシン派が下手人と思われる攻撃が27日(土)は4件ほどあった。午前2時ごろバンコク銀行のドク・カアム・タイ支店に手榴弾と自動小銃(A-47)23発が打ち込まれ建物に30万バーツ(約85万円)相当の被害が出た。

午前3時頃にはクロン・トイ港の税関本部にK75手榴弾が投込まれ、建物の内部が破壊されたが、人的な被害は無かった。クロン・トイはバンコクのスラム街があることでも有名であり、住民は「貧民の味方タクシン」の支持者が多いことで知られている。

午後7時には軍系のテレビ局(チャンネル5)の玄関先にM67手榴弾が投込まれ7名が負傷し、そのうちの4名は重傷を負ったという。7名中4名は兵士であった。

午後9時半ごろ政府系テレビ局(チャンネル11)にM79手榴弾が投込まれ、警備に当たっていた軍のテントに当たり、兵士4名が負傷した。これは近くの高速路上から発射されたものと見られている。

3月8日(日)の午前4時半ごろ臨時政府の置かれている第11歩兵連隊の基地にM79手榴弾2発が打ち込まれ駐在していた兵士4名が負傷し、うち2名は危篤状態だと伝えられる。

タクシン派はこれら一連の攻撃は政府の「自作自演」ではないかと主張しているが、そう信じるものは少ない。

タクシンは赤シャツ・デモ隊にたいし、相変らず海外からメッセージを送り、一日も早く議会を解散させ、選挙に持ち込めということとアピシット首相に対する敵意を丸出しにした攻撃をおこなっている。

アピシット首相に対する国民の信頼が高まっており、このまま「景気が回復してきたら、ますますアピシット人気が高まる」ことを恐れてのことであろう。

手榴弾も数種類あるが、いずれも軍仕様の正規品であり、軍から盗み出されたものかカンボジアあたりから密輸されたものであろう。A47自動小銃を持っていることも薄気味悪い。これがタクシン派の仕業ということになればタクシン派はタイの歴史上最大のマフィアということになる。

ただ、目撃情報を恐れて暗くなってしか犯行におよんでいない。外国人は夜間外出は止めた方が良いであろう。そのうちタニヤ街も狙われるかもしれない。念のため。


⇒3月28日にアピシット首相と赤シャツ幹部との初協議があるも物別れに終わる(2010-3-29)

水面下でアピシット政権と赤シャツ隊の間で「平和協定」のための協議について折衝がおこなわれていた。赤シャツ隊は「首相が議会を解散して選挙をやる」という条件を飲まなければ協議には応じられないとしていた。

もちろんアピシット首相はこんな条件を受け入れるはずも無かったが、3月28日(日)午後4時からキング・プラチャヂポック協会で第1回目の会談がおこなわれた。

政府側はアピシット首相、コーブサック(Korbsak Sapavasu)首相秘書、チャムニ(Chami Sakdiset)民主党国会議員(民主党副書記長)の3名と赤シャツ側はジャトポン(Jatuporn Prrompan)、ウィーラ(Veera Musikapong)、ウェーン(Weng Tohjirakarn)の3氏が出席した。

アピシット首相が事前に出した条件は第11連隊の前からデモ隊を撤退させろということであった。デモ隊の圧力に屈して協議に応じたと言わせないためであろう。

協議は約3時間、午後7時20分には終了した。協議の内容はテレビで実況中継されたという。

アピシット首相からは「憲法改正の協議」にタクシン派も協力し、憲法改正の後に選挙をやれば結果については誰もが納得できると主張し、早期解散総選挙を拒絶した。

また、今すぐ選挙をやるととくていの地域では民主党候補者などは殺害される可能性があり、立候補できないという点もアピシットは指摘した。

これに対して赤シャツの主張は、先にアピシット首相が2週間以内に辞任して選挙をやるなら、立候補者の身の安全は「保障する」主張して、早期解散を迫った。

赤シャツとしては大親分のタクシンに相談した上で再度3月29日(月)18時から協議を再開することで分かれた。タクシンの反応は「アアピシットは口が達者なヤツだから騙されるな」ということと「再度、早期解散」を迫れということのようである。

アピシット首相としては進退に窮している赤シャツに「名誉ある撤退」のチャンスを与えたつもりかも知れない。いずれにせよタクシンの返事待ちである。

赤シャツがこのまま「強硬路線」を突き進めば「泥沼化」して収拾がつかなくなることは目に見えている。何万というデモ隊を維持するには莫大なカネもかかる。手榴弾テロの継続は不可能であり、形勢はタクシン側に決定的に不利である。

アピシット首相の任期は2011年11月までであり、アピシット首相としてはこのまま現状を放置する手段も残されている。

今すぐ選挙をやればタクシン派が勝つなどという愚かしいことを主張している日本のメディアもあるが、実際問題として民主党の候補者は身の危険があって東北地方などでは立候補できないであろう。

赤シャツ隊の暴力行為は際立っており、プア・タイ党以外の候補者は民主党でなくても殺害される危険がある。

(バンコク・ポスト3月28日の電子版を参照)


⇒3月29日(月)の第2回会談も物別れに終わる。タクシン打ち切り示唆(2010-3-30)

3月29日(月)午後6時20分から昨日に引き続き第2回目の政府と赤シャツ代表との「和平会談」が行われたが、話しは平行線のまま推移し、次回は4月1日と一応は決めたが、実行は不透明である。

一方、ヨーロッパの何処かに滞在していると自称するタクシンは協議終了後の「テレビ演説」で「協議打ち切りを指示し、引き続き闘いを継続するように」赤シャツ隊にアピールした。

2日目の協議はアピシット首相がブルネイにとんぼ返りの出張から帰った直後に昨日と同じキング・プラチャヂポック協会の「政治開発評議会会議場」でおこなわれた。

今回は個別の問題について主にアアピシット首相と赤シャツ代表のジャトポン(Jatuporn Prrompan)氏との間でやりとりがあった。ジャトポンは政府側に「汚職問題」をただし、アピシット首相は昨年4月の赤シャツの暴動などについて述べたという。

赤シャツはあくまで15日以内の総辞職・解散をせまった。アピシット首相は憲法改正が国民投票によって認められれば、年内に解散・選挙を行っても良いと述べた。

この場合のポイントは「国民投票」を「国会議員選挙前」に行うことである。それによってタクシン派の支持基盤である東北タイの政治状況が把握できるからである。

タクシンにとってはこのままでは「タイの経済が好転してしまう」し闘争が長引けば、タクシンの資金を減ってしまう。ロクなことはないから、早期選挙を要求するしかない。今すぐ選挙をやればタクシン派にも勝つチャンスはあるという読みである(おそらくチャンスはない)。

しかし、早期選挙をやろうだなどという声は赤シャツ以外からは出てこない。経済界はせっかく景気が上向いてきたのに「選挙での騒乱」と「政治空白」は絶対に困るという。

いずれにせよ、タクシンの手下ジャトポンでは「役者が違いすぎ」て、全国にテレビ中継されれば、アピシットがポイントを稼ぐことは間違いない。この会談を続ければ続けるほどタクシンにとっては不利になる。

赤シャツ隊はアピシット政権側に比べて人材が決定的に見おとりがする。インテリが少ないのである。

この間も赤シャツ別働隊と思われるグループは首相官邸にピンポン爆弾を投込んだり、チェンマイを含めさまざまなテロ活動を行っている。引き続きバンコク銀行の支店が夜陰にまぎれ銃撃を受けている。

アヌポン陸軍司令官は今後はサボタージュ(暴力的破壊活動)に注意が必要だと述べている。テロ活動の方が少人数でコストが安くつくというのがタクシン派の計算のはずである。

なお、タクシンはここ数日スウェーデンに滞在していたが、タイ政府からの抗議で再び何処かに3月29日に旅立ったという。最後はカンボジアに亡命するのであろうか?


⇒ロシアより愛を込めて-タクシン強硬路線を指示(2010-3-31)


タクシンはスウェーデンを出国した後に今度はロシアに滞在している。ロシアの投資家とのアジアへの投資の打ち合わせが滞在目的だという。ロシアからタクシンはアピシット政権との和平協議を打ち切るように指示した。

ジュトポンは赤シャツ隊の未曾有のデモを4月3日(土)に挙行すると言明しており、政府との話し合いを今後行わないと宣言した。

アピシット首相は政府としては「憲法改正の国民投票を行い、その後年末までには議会を解散して選挙を行う」という、従来よりは一歩踏み込んだ提案を行った。

タクシン派としては「憲法改正してもタクシンに赦免を与えるようなものにならない」ことと「国民投票」自体を回避したいという思惑がある。

一方、世論は今までの2度の和平協議を経た後のABACポール(アサンプション大学)によれば、全国1,191家族(3月30日実施)のリアルタイム調査では75.9%が「和平のための直接協議を支持する」と回答した。

47.8%が「解散総選挙で対立は解消するとは確信しない」と回答した。「解消すると確信する」としたものが35.9%であった。また、42.2%がアピシット政権は任期(2011年11月)を全うすべしと答えている。

経済状態が最近著しく改善されており(2月の製造業生産指数は前年同月比+30.1%)、あわてて総選挙などをやり回復ムードに水を差すべきではないという思いもあろう。

27.2%が15日以内に解散すべし(赤シャツの主張)、13.9%が6ヶ月以内、13.8%が9ヶ月以内に解散すべしと答えた。こうみると赤シャツの支持者は30%を切っていることになる。

アピシット首相への評価は35.5%が向上したと答えた。35.4%が不変。26.2が評価は低下したと答えた。逆に、「赤シャツの確固とした意志や勇敢さに対する評価が向上した」としたものが35.9%が向上したと答え、28.7%が不変、32.7%が評価が低下したと答えた。

91.0%が両者が協力して対立を解消すべしと回答している。89.2%が経済問題、87.2%が社会的不公正問題、87.0%が麻薬・犯罪、84.5%が不正・汚職問題などである。民主党政権になっても不正や汚職は無くなっていないことを示唆している。もちろんタクシン政権時よりは大分マシになっているはずである。(以上は「タイの現地新聞を読む」とバンコク・ポストをを参照)

一方アピシット首相は現在バーレーンに出張中であるが、現地での記者会見で赤シャツが望むなら第3回目の和平協議を行う用意があると言明した。しかし、これはタクシンが「許可しない」であろう。

また、30日の午後8時ごろプレム邸から100メートルほど離れた「国家に貢献した政治家のための財団」(プレム系)の建物に対しM67手榴弾が投擲された。人身への被害は無かった。

警察の特捜本部は第20期士官学校出身の退役軍人のあるものが赤シャツに協力して「武器の持ち出し」に協力している疑いがあるとして捜査に入った発表した。「赤シャツ武闘派」の仕業と疑われている一連の手榴弾攻撃は軍仕様の手榴弾が使われていることから武器の出所の捜査が進んでいるという。

また、30日夜、赤シャツ・デモ参加者が帰郷途中に交通事故に巻きこまれ、ナコン・ラチャシマで貸切バスが横転し38名が重軽傷を負い、また30日未明チェン・ライで1トン・ピック・アップ車が街路に激突し、4名が死亡し、2名が重傷を負うという痛ましい事故が起こった。


⇒赤シャツ4月3日4日とショッピング・センター封鎖作戦(2010-4-4)

赤シャツ・デモ隊は史上空前の動員と豪語していたが、結局最大6万人しか集まらず、オートバイや1トン・ピックアップ車の隊列で市内の交通妨害をやった挙句、バンコクの中心地のワールド・トレード・センターのあるラジュプラソン交差点を閉鎖し、その周辺に陣取った。

ワールド・トレード・センターには伊勢丹やZenといった大デパートがあり、隣にはパラゴンという大ショッピング・モールがある。それらは3日・4日と2日連続でシャッターを閉める破目に陥った。土日の2日間で10億バーツ(29億円)以上の売り上げロスとなったといわれる。

また、その周辺にはエラワン・ホテルやハイヤット・ホテルなどがあり宿泊客に大迷惑をかけ、予約のキャンセルも相次いでいるという。

赤シャツの要求は15日以内の解散総選挙の1点であり、それもタクシンの強硬路線指示によるものである。

政府は解散命令を出す以外に、これといった強制排除には乗り出していないし、「治安維持法違反」の警告を発しているが、「戒厳令」的なものは打ち出していない。ただし、4日(日)午後になって赤シャツのシーロム通り、スラヲン通り、サットン・ロードなどへのタイ入りを禁止する命令を出した。

赤シャツ隊にも疲労感fが出てきて人数も減りつつあり、ワールド・トレード・センター前の通りには2車線ほど一般車が通れるスペースを空けたという。

アピシット首相はバンコク市民に「忍耐」を呼びかけているが、バンコク市民は赤シャツに対する嫌悪感をあらわにするものが急速に増えているという。

観光関係の業者が中心になってピンク・シャツ隊が組織され、ルンピニ後援で3000人ほどの集会が開かれたという。

また、政府と赤シャツの「直接対話協議」を従来は75%の国民が支持するとしていたが、今回バンコク首都圏住民1,442人を対象に行った世論調査(ヅシット・ポール)では協議を支持すると言うものが42.39%と激減し、「協議をやっても仕方が無い」という者が38.52%にも達した。

国会解散には43.03%が反対し、30.10%が国民に信を問うべしという理由で賛成(赤チャツの15日以内の解散賛成とは限らない)、26.67%が選挙制度の改善が無い限りどちらでも同じだという回答であったという。

また、3月12日からのデモに対しては44.35%がデモの長期化は経済に悪影響を与えるとし、29.88%が飽きたと答え、16.53%が平和的なデモを望むと回答した。いずれにせよ、赤シャツのデモへの積極的支持はほとんど見かけられない。

また、経済界はアピシット政権が来年末の任期一杯継続して政権をになうべしという声が日ましに高まっているという。それはもちろん最近のタイ経済の回復基調を維持したいという願望からではあるが、仮に選挙をやってタクシン派が万一政権をとれば(その可能性はきわめて低いが)、軍は再度クーデターを起こすという懸念もあるという。(WSJ)

いずれにせよタクシンの独善的一人相撲は国民の支持を急速に失いつつあり、政府としては彼らの非合法行為をどういう方法で将来阻止していくかである。アピシット首相の基本的スタンスは「市民権としての平和的デモは極力尊重するというイギリス的民主主義の精神(?)」で満ち満ちている。

ワールド・トレード・センター前広場の占拠であれば1万人足らずの人員で可能である。タクシンという人物は誠に執念深い。タイの民主主義も多難である。

なお、カンボジアのフンセン首相は赤シャツのデモが行われている限りはタクシンがカンボジアから政治指導を行うことは認めないという声明を4月4日に発表したという。ホア・ヒンでおこわれているメコン・サミットにフンセンが出席したことに対し、タイ国民から反発の声が上がっている。


(4月5日早朝追記)
4月5日(月)のアサヒのインターネット版を見て驚いた。「赤い運動、支持拡大 タイ、農村貧困層から都市部住民も」という見出しである。中身を読んでみれば、朝日の現地特派員の伝統的な「タクシンびいき」の記事であるが、この期に及んで「タクシン派への支持が拡大している」とはいかがなことか?

事実は全く逆ではないか?上のヅシット・ポールの数字を見ても明らかだし、朝日の現地駐在員(もっともこの記事はなぜか無署名だが)は一体何を見ているのであろうか?

東北から来たという「熱烈なタクシンびいき」の意見ばかり取材しないで、バンコクのどこにでもいる「反タクシン派」とか日本人の「気の利いた」駐在員にでも取材してみてはどうだろうか。(右翼の集まる日本の居酒屋にタムロしている連中ではなく。)

いずれにせよ、特派員たるものが「現地の情勢とかけ離れた記事を書く」というのは問題である。無知な読者はこれが正しいと信じてしまう。バンコク発の朝日の特派員の記事は現在の朝日新聞の品位を著しくソコネているとしか言いようが無い。

一体何の必要があったタクシンびいきの記事などを何時までグダグダとたれ流しているのか私には到底理解できない。お忙しいでしょうが、私がタクシン政権発足の頃から書いている、本ホーム・ページの記事などジックリお読みいただければと思わざるをえない。

ソレともっと暇があればパスク・ポンパイチットとクリス・ベーカー共著の「Thaksin」(Silkworm2004年)を読んで見られることをお勧めします。

末広昭先生の本などいくら読んでも大事なことは分かりませんよ。


⇒赤シャツのワールド・トレード・センター周辺の占拠3日連続(2010-4-5)

バンコクのショッピング・センターのラートプラソン通りの座り込み先日は4月3日から5日まで3日連続で続き、赤シャツ幹部はこの状態を「無期限で継続する」と息まいている。

迷惑を蒙っているのはワールド・トレード・センターやパラゴンのテナントだけでなく周辺の小商店から屋台のオバ様など広範囲に及んでいる。タクシンは大商店は困るが、デモ隊に飲食物を売る屋台の人たちは恩恵を蒙っているはずだとうそぶいているらしい。

あまりのことにたまりかねた商人グループのRSTA(Rachaprasong Square Trade Association)とTSCA(Thai Shopping Center Association)は赤シャツ隊に撤退を求める記者会見を開き、テレビで放映されたという。この周辺で働く数千人の人たちの迷惑は大変なものであるに違いない。

赤シャツの行為はアピシット政権がシビレを切らして「強制排除」に踏み切ることを待っていることは自明である。軍・警察が手出しをしてデモ隊に死傷者がでれば、一挙に「赤シャツ戦闘部隊」が市内で暴動を起こすという段取りになっているであろうことは想像に難くない。

裁判所に「退去命令の処分」を出させようとしたが、裁判所はISA(治安維持法)を発令していれば、アピシット首相の権限でいつでも強制排除できるはずだとしている。

しかし、赤シャツ隊にも問題があって、東北や北部から動員してきた農民がソンクラン(タイ正月;4月13日〜15日)の準備のために三々五々帰郷し始めたことである。それに数日の炎天下の「路上暮らし」は疲労を倍化させる。

赤シャツは選挙管理委員会にデモをかけ、「民主党の政治献金問題」の結論を速く出せと迫り、選挙管理委員会は4月20日には一応の結論を出す予定であるという回答を引き出した。ただし、その「結論」が気に入らなければ「選挙管理委員会」をぶっ壊すなどと脅迫したらしい。

これが赤シャツ・デモの「成果」らしい。赤シャツ隊は政府の治安管理部隊から侵入禁止を命じられているシーロム・ロードやスラウオン通りなどに6日はデモ行進をかけるという。明らかな挑発であるが治安部隊がどうでるかは分からない。デモ隊による道路の全面封鎖が行われれば「催涙弾」(いままで1発もッ使っていない)ぐらいはお見舞いするかもしれない。

結論的に赤シャツは「手ぶら」で封鎖態勢を解かざるをえない。少人数になれば、警察の「強制排除」が行われる可能性もある。

タイの証券取引所は4月5日も正常に開かれており、808.15ポイント(4月2日は801.15)と2008年6月以来の高値を記録した。投資家は赤シャツ・デモなど大して気にしていないようである。

もういいかげんいしてくれというのが大方のバンコク市民の思いであろう。アピシット政権の方がタクシン時代よりもはるかに「民主的」であるぐらいのことはほとんどの市民が分かっているのである。


⇒タイ非常事態宣言(2010-4-7)

アピシット首相は午後6時にバンコク全市、ノンタブリー全県およびサムット・プラカン、パトゥムタニー、ナコンパトムおよびアユタヤー県の一部に「非常事態宣言」を発令した。

ステープ治安担当副首相が「最高責任者」に任命された。

今まではISA(治安維持法)で赤シャツ・デモに対応しようとしてきたがバンコク市内の中心地であるラートプラソン通りを占拠し、周辺の商業施設は閉鎖状態に追い込まれ、7日(水)はデモ隊が国会議事堂に突入し、ステープ副首相に面談を強要し、警備の警察官からピストルを奪うなどの乱暴狼藉を働いたことなどがその理由である。

「非常事態宣言」に赤シャツ隊がどこまで抵抗するかは不明だが、「6人以上の集会や報道の自由」が規制され、解散命令に従わないデモ隊は逮捕される。幹部は令状無しに逮捕され、30日間の拘留が認められる。

アピシット首相は「直ちに強権発動はしないが、国際的な基準に従って段階的にデモ隊を排除していく」ことを言明している。

市民生活が長期にわたって脅かされ、一部のデモ隊が「進入禁止区域」に入り込み、交通を遮断し、病院に子供を連れて行く市民の自動車が阻止されたり、選挙管理委員会にデモ隊が押しかけ「審議中の案件の早期決着(民主党への献金問題)を強要する」などの問題が引き起こされた。

また、昨日は赤シャツ「別働隊」とみられる一味が民主党本部に手榴弾を投込み、警官2名が負傷するという事件も起こった。

赤シャツ隊としては「非常事態宣言」に抵抗を呼びかけているが、それらは全て「違法行為」として強制排除の対象となり、軍・警察も今までは赤シャツが押してくれば下がる一方であったが今後は具体的な排除行動を起こすことは間違いない。

また、軍の治安維持の責任者であった近衛師団第2騎兵連隊のスラサク連隊長が更迭され、昨年4月の赤シャツ暴動を制圧した実績のある近衛師団第2歩兵連隊のワリット連隊長が後任となったという。


⇒赤シャツ・デモ、「過去最大」のはずが竜頭蛇尾に終わる(10-4-9)

赤シャツ・デモ隊は4月9日(金)を「過去最大の動員による最後の決戦でアピシット政権を崩壊に追い込む」と豪語していたが、人数は集まるどころか減少しており、8日の午後にはバンコク市内の中心のラートプラソン地区ではわずかに3,000人にまで減ってしまったという。

これでは治安部隊に蹴散らされてしまうということで、急遽バンコク市内の赤シャツを動員して人数を補強したという。

政府側は東北地区から来ている赤シャツ・デモ参加者に対し、帰郷のバスを用意するという、「花も実もある」情け深い取扱いをしているという。「非常事態宣言」を出すまでも無く既に勝負はついているのである。

肝心のタクシンもこの大事なときに消息不明であった。重病との噂も流れていた。癌にかかりバンコクの有名病院の医師がドバイに駆けつけ「化学療法」を行っているという。

9日になってタクシンは赤シャツの集会の大スクリーンに数日振りに登場し、癌でないと言明し、10日からサウジの王子に呼ばれて農業開発のプロジェクトの打ち合わせに行ってくるとのことである。

この数日、彼はドバイにいたということのようだが、もっとタイの近くにいてデモの「指揮」をとっていたという可能性もある。もし健康であれば黙って布団をかぶって寝ているような男ではない。

8日は「非常事態宣言」によって大混乱がおこるのではないかという懸念からタイの株式は-3.5%という大きな下落を見せたが、アピシット首相の「強行策は採らない」という発言を受けて今日9日は+0.73%と回復に転じた。投資家もタイ経済についてはほとんどが楽観的な見方をしてえいる。

タイ・バンコク インドネシア マレーシア
3月17日 765.54 2756.26 1301.95
4月1日 801.32 2830.00 1329.84
4月5日 808.15 2887.25 1341.75
4月7日 812.65 2898.50 1345.09
4月8日 783.93 2850.83 1332.93
8日/7日 -3.5% -1.6% -0.9%
4月9日 789.66 2845.01 1333.98
9日/8日 +0.73% -0.20% +0.08%


デモそのものについては赤シャツ系テレビが放送を遮断されたため12,000名ほどのデモ隊が衛星通信を行っているThaiComに押し寄せて警備の機動隊ともみ合いになり、警備側は初めて催涙ガス弾と放水車を使った。警備側と赤シャツ隊に10名強の負傷者がでたという。

赤シャツ隊はThaiComの敷地内に陣取って気勢を上げていたが、夕刻赤シャツ系テレビが再放映されたため市内のラートプラソン地区に引き上げた。赤シャツは例によって「勝利」を宣言しているが、警備部隊がこれ以上の負傷者を出さないために引いたというのが実態である。

しかし、ラートプラソン地区では赤シャツの人数が減ってきているため治安部隊による強制排除もありうる。すでに赤シャツ隊幹部16名とカッティヤ少将に対しては逮捕状が出ている。


⇒タイ国軍ThaiComを再確保、赤シャツTVを再度遮断(2010-4-10)

一部の報道(Financial Times)では赤シャツ隊が衛星放送ステーションThaiComを占拠し、警備の兵士は装備を池の中に捨てて任務を放棄したということになっている。

実際は赤シャツ隊はThaiComの敷地は占拠したが、赤シャツ・テレビのPTV(People's Channel TV)の再放送を行うとして、赤シャツ隊と現地で「妥協」し必要以上の流血を避けたというのが実態で赤シャツ隊はThaiComの建物の中には入れなかったし、放送関係の機材も無傷であった。

ただし、敷地内を制圧した赤シャツ隊は7台の軍用トラックを占拠しその中から大量の弾薬(多分ゴム弾)を奪った。この失態の責任は現地の指揮官は追及されることは間違いない。

ThaiComが赤シャツに占拠されたというようなデマが飛び交ったことから、アピシット首相は10時30分ごろThaiComにおいて赤シャツ隊が防衛線を突破し敷地内を占拠させてことに対して国民に失望感を与えたことを謝罪し、急遽歩兵部隊30個中隊(約4,500人)を派遣し、ThaiComの敷地を確保しなおし、新たな防衛線を構築し、赤シャツTVの放映を再度遮断した。

また、これとは別に第2軍と第3軍から合計15,000人の兵員をバンコクの中心部に派遣し、赤シャツ隊が占拠するラートプラソン(Rajprasong)地区の警備に向かわせた。機会をみて赤シャツ隊の排除を行うという意思表示である。その場合は強制排除に否定的なアヌポン陸軍司令官ではなく、ソンキティ(Songkitti Jaggabatara)国軍総司令官が総指揮に当たるという説がある(バンコク・ポスト)。

また、排除の実行部隊の司令官にはプラユット(Prayuth Chan-ocha)陸軍副司令官が当たるようにアヌポン陸軍司令官から命令されている。

最近アピシット首相も「実力行使」をアヌポン司令官に求めているようだが、アピシット司令官は「タイ人の血をタイ軍が流すわけにはいかない」と主張しており、赤シャツに対して軍は融和的な姿勢をとってきた。あるいはタクシンに対して何か遠慮があるのかもしれない。

かつてアヌポン司令官はタクシンから巨額のカネを貰ったという噂があり、本人はこれを強く否定した経緯がある。

今回の赤シャツの動きをみていると「常軌を逸した大胆さ」がみられ、治安維持部隊がほとんど任務を放棄しているように国民の目には映るケースがまま見られた。この辺で軍としても実力の見せ所が近づいているのかも知れない。

一方、プラテェープ(Pratep Tanprasert)警察長官代行は逮捕状が出ている24人の赤シャツ・リーダーを直ちに逮捕するように指令を出している。ところが警察のトップ・クラスはなかなか動かない。

(4月10日午後、ついに軍が赤シャツ排除に動く、死者5名が出て夜9時に停戦)


赤シャツは10日昼頃第1軍本部にデモをかけたが、第1軍の警備隊から放水攻撃を受けた。赤シャツは投石を始めたが、軍としては本部を明け渡すわけはいかず、ついに反撃に出た。

ほぼ時を同じくしてラートプラソン通りに向けて軍と警察機動隊が動き始め、赤シャツは徐々に後退し始めた。赤シャツはプロンチット交差点にトラックなどバリケードを築き、軍・警察の進撃を阻止しようとしている。しかし、警察はこの交差点の突破をあきらめデモ隊から20分の猶予を与えられて撤退するという。

高架鉄道も午後3時頃全面ストップした。

軍はヘリコプターを使って催涙ガスを散布し始め、デモ隊はヘリコプターにも銃撃を加え兵士が1名負傷した。赤シャツ隊の総数は1万人足らずだといわれているが、軍・警察は銃火器を持たず、逆に赤シャツ隊のほうが銃器や手榴弾を保有している。

軍・警察はデモ隊と押しくらマンジュウーをしており、デモ隊の防衛線をなかなか突破できないようである。武器は催涙弾だけであり、赤シャツ隊が消耗するのを待っているような状況のようである。世界でもマレに見るような軍・警察のソフトな対応である。

なお、チェマイでは赤シャツ隊が県庁舎の敷地内に侵入したといわれている。

夜間に入って一部地域で両者の戦いが激化し、コーク・ワォ交差点では赤シャツが複数の手榴弾を軍に投擲するとともに、実弾射撃を開始し20名の兵士が負傷した。全体では、11名の死者と約700名が負傷し、うち軍の負傷者は64名と報じられている。

死者の大部分は銃弾と手榴弾によるもので日本人のロイター通信社のカメラマン・記者(村本博之氏)が含まれている

軍は催涙弾とゴム弾で応酬しているが、所詮実弾には太刀打ちできず、一時後退し、赤シャツ隊と休戦の話し合いに入った。

複数の報道関係者がデモ隊が火器で武装していると報じている。これから軍の圧力が強まれば負傷者の数が激増する可能性がある。最後は両者に相当数の死傷者がでるという最悪の事態も予想される。タクシンはすっかり喜んで激励のメッセージをデモ隊に送っているという。

結局、午後9時(日本時間午後11時)になって、両者が一時休戦の合意ができ、コブサク首相官房長と赤シャツ幹部との話し合いがおこなわれるという。

しかし、赤シャツ隊が手榴弾と銃で武装している以上、武装解除に応じなければ、軍としても再度強制排除を行わざるをえないであろう。

昨年4月ののソンクラン騒動の責任追及の甘さが今回の事件を招いたということになる。軍と警察の幹部の責任は極めて重大である。赤シャツ隊に軍の兵器を渡すような腐敗した軍人をキチント取り締まっていないからこういう事件が起こったともいえよう。


⇒4月10日の赤シャツ・デモ排除で20人死亡842人負傷、赤シャツは武装(2010-4-11)


4月10日(土)、赤シャツ隊の第1軍本部への抗議行動をキッカケに、バンコクの数箇所で軍・警察がデモ隊排除に乗り出した。

ところが夕刻になると、デモ隊は大型ガス・ボンベに火をつけて爆発させ、所持していた銃と手榴弾の投擲で軍をおしまくった。軍は催涙弾とゴム弾で応戦したが銃火器にはかなわず、デモ隊排除は第1ラウンドは不成功に終わった。

兵士も30名近くがデモ隊の捕虜になり,人質として拘束されている。

死者は20名(4月16日現在24名)とされており、日本人のカメラマン(ロイター所属)が銃撃され死亡した。兵士は死亡が確認されているものが5名で他に重態のものが数名いるという。14名は赤シャツ・デモ隊であり、味方の手榴弾の破片に当たったり、銃のソレ玉に当たったものと見られる。

公共保健省の集計では負傷者は842人とされている。兵士の負傷者は265名,、警察官は8名である。警察官のけが人が少ないのはデモ隊との対決を避けていたためではないかと疑念をもたれている。
(これらの数字は公共保健省が11日午後発表したものである)

このように多くの死傷者がでた原因は平和で非暴力をうたっていた赤シャツ・デモ隊が実は多数の銃や手榴弾を隠し持っており、それを軍に発射したためである。軍とデモ隊が接近していたため、赤シャツ隊にも多くの死傷者がでた。

軍の発砲したゴム弾でも負傷者は出ているがゴム弾による死者は出ていないものと考えられる。

アピシット首相は死者を悼むとともに、赤シャツの違法行為が今回の多くの犠牲者を生んだと非難し、個々に死因の特定などを行っていく考えであると語った。

赤シャツ隊やタクシン派メディアはここぞとばかり、アピシット首相の即刻辞任を求めているが、同首相は辞任するはずもない。ここで辞任すればタクシン派赤シャツ隊の不法・暴力行為が正当化されることになるからである。

政府と赤シャツ隊との休戦合意は一時的なものであり、赤シャツ隊が人質にしている兵士を解放し、所持している銃火器を放棄し、デモを解散し無い限り、軍は再度排除行動に出ざるをえない。

個々数日の軍と警察の対応のオソマツさが目立った。警察はもとより、軍からのタクシン派への協力者がいることも明らかになった。カッティヤ少将の行為を取り締まらなかった軍幹部の怠慢さが重大な結果を生んだことは否定すべくも無い。


⇒タイ軍ロムクラオ大佐の戦死(2010-4-13)


4月10日(土)の赤シャツ隊と治安部隊との戦闘では21名が死亡し、その中に日本人カメラマン村本博之さんが含まれていたことは広く報じられている。

しかし、タイ国軍も4名の死者と250人もの負傷者を出したということは、一般の戦争でもなかなか起こりえないような大戦闘であったことを物語る。

赤シャツ・デモ隊も多くの死傷者を出したが、軍が実弾を発砲したと称しているのは「デモ参加者」であり、多くの現地取材記者は赤シャツ側が発砲していたと証言している。村本さんのカメラにも赤シャツの攻撃に「盾と警防」を持った兵士が逃げ惑い、負傷者を救出しようとしていた映像が映っていた。

その「戦死者」のなかにタイ国軍近衛師団第2歩兵連隊の副参謀長ロムクラオ(Romklao)大佐が含まれていたことは日本では報道されていない。

彼は、デモ鎮圧部隊の先頭に立っていたのではなく、やや後方の「本部」におり、そこに手榴弾が投擲され、テントから飛び出したところをタクシン派の「狙撃兵」から高性能狙撃銃で狙い撃ちされたらしい(正確なところは公表されていないのでわからない)。

大佐は2009年4月の赤シャツの「ソンクラン(タイ正月)暴動」で暴徒制圧の指揮をとり、赤シャツ隊から「目の仇」にされていた人物だという(The Nationの報道)。

ロムクラオ大佐の通夜にはシリキット王妃とワチュラロンコーン皇太子が参列した。

ネーション紙の解説によれば、ロムクラオ大佐を識別できる「軍関係者」が赤シャツ特殊軍団の狙撃兵についていて、狙撃したのではないかという。

いずれにせよ、軍の後方にいた高級士官が狙撃銃で殺害されるというのは「軍の発砲」によるものではないことは自明であり、4月10日のデモ隊鎮圧作戦を事前に十分承知していたグループが赤シャツ軍団にいて、用意万端整えていたということになるであろう。

検視結果では11名の死者の多くは「高速銃」で撃たれたという。「高速銃」なるものの写真がネーション紙には出ていた(4月12日、電子版)。見る限りはかなりの重量の「機関銃」風のものであり、普通の自動小銃とは明らかにちがう。軍から持ち出された(盗まれた)ものではないかと思われる。

今回、不可解なのはアヌポン陸軍司令官の態度である。彼はデモ治安圧部隊の指揮を形式上の「上官」であるソンキティ(Songkitti Jaggabatara)国軍総司令官に譲り、実行部隊の指揮をプラユット(Prayuth Chan-ocha)陸軍副司令官に当たらせたということである。

彼はその後「政治問題の解決は政治的」になされるべきだと記者会見でも主張し、国内の治安維持の責任を回避するような発言をしている。

タイ陸軍の誤算は赤シャツ軍団が大量の武器弾薬を事前に用意し、攻撃を仕掛けてくるとは思っていなかったらしい。しかし、最近、赤シャツ軍団の仕業と思われる手榴弾投擲だけでも相当数起こっていた。

カッティヤ少将は赤シャツの銃撃部隊を「ローニン(浪人)戦士」の仕業だといっている。その組織を訓練したのはカッティヤ自身だといわれている。アピッシット首相は彼らを「テロリスト」といっている。その存在は前から知られているのに警察も軍も何も手を打たなかったのは全く不可解である。

警察も軍もタクシンのカネに汚染されているという疑惑をタイ国民からもたれても仕方が無いのである。

また、選挙管理委員会が民主党に対して「政治資金」問題で「解党命令」を出した。これはこれで大事件である。しかし、その容疑はほとんど証拠が無く,立件は困難であると見られていた。検察庁が選挙管理委員会の「訴状」を受け取り審議する。まだ帰趨は全く分からない。

選挙管理委員会は先日赤シャツ・デモ隊に襲われ、4月20日までに「結論を出す」と約束させられ、ビビッテ赤シャツが気にいるような結論を出して、問題を「検察庁」に送って、「厄介払い」をしたとも見られる。いずれにせよ、バンコクは目下「無政府状態」にあるかの如しである。黄色シャツは少なくとも「武装」はしていないし、他人を殺傷することも無かった。赤シャツ軍団は政府転覆を目指した「武装集団」であることを忘れてはならない。これに軍と警察の一部の幹部が直接・間接に「協力」しているとしか思えない。


⇒バンコク市民の反赤シャツ感情高まる(2010-4-15)


4月10日(土)の騒動でタイ国軍に大きな損害を与えて勝利に酔った赤シャツ隊はますます意気軒昂で伊勢丹デパートなどのあるバンコクの中心部るラートプラソン地区に本部を集中し、そこを「解放区」としてバンコク中をデモの嵐に巻き込む方針のようである。

なんと日本人の居住者が多い、スクムビット通り#31まで居座りデモを広げるというのだ。もちろん、そんなことはできっこない。赤シャツにやれることは夜陰にまぎれて手榴弾を投んだり、鉄砲を銀行のシャッターにぶっ放すことぐらいだ。

4月10日に黒マスクと黒衣に身を包み狙撃銃を持っている男が赤シャツ隊と行動をともにしているところを写真にとられた男が、赤シャツ幹部と共同記者会見をして「オレは悪いことをしていない、1万バーツを赤シャツに寄付するために田舎から出てきたのだ」と言い訳をしていた。

一方、アピシット首相は軍が撤退の時に1〜2の兵士が実弾の「水平射撃」を行ったことを認めた。朝日新聞の特派員は鬼の首を取ったように喜び(?)、これで政府批判が高まるであろうなどと報道している。

大体アピシット首相は「選挙で選ばれた首相ではない」などとテレビ朝日で偉い人が数日前に解説していた。これは飛んでもないオマチガイでアピシット首相は民主党の党首として他の政党との連立で首相に選ばれたのである。もっとよくお勉強をなさってからテレビにオデになられれば良いのにとつい憐憫の情を感じてしまう。

ところでタイはソンクラン祭りで、バンコク市民の反応はいまいち良く分からないが、バンコク市民のアピシット首相やグン・警察に対する「同情」は非常に高まっているらしい。

病院には献血希望者が引きもきらず、また死傷した軍人・警察官への見舞金の申し出が殺到しているtっという。赤シャツがオートバイの暴走族のように隊列を組んでバンコクの大通りを我が物顔にパレードするのを見て一般市民がどう考えるか分からないのであろうか。

赤シャツ・デモは明らかに暴力団的な威嚇行為を行っている。

赤シャツ別働隊の銃撃と手榴弾攻撃で最初に軍側におびただしい死傷者がでたことはバンコク市民は知っている。そのまえに数十日に亘って数十発の手榴弾が市内のアチコチに投擲されたこともよく知られている。HIVに汚染された血液をアピシット首相の自宅にまで撒き散らした。

赤シャツ・デモの指導者は徹底的な非暴力運動を展開しているなどといっているが、一方で、覆面をした黒シャツ隊が赤シャツ隊と同じ戦列から銃を発射し、手榴弾を投擲しているではないか。彼らはシャツの色が黒だから「赤シャツ隊」とは無縁だとはタイ国民は見るはずもない。子供でも分かる理屈である。

だいたい商業地区を占拠しておきながら、彼らが長期間商売できないことに「何の痛痒も感じず」に政府に協力すると「報復する」というのはまさしく「ヤクザの論理」である。国民やジャーナリストを威嚇するのはタクシンの常套手段であった。

あまつさえ、アピシット首相を捕らえれば1000万バーツ(約2,900万円)の懸賞金を出すなどといっている。そのカネは一体どこから出てくるのであろうか?東北の貧しい農民がそんなカネを持っているはずがない。

ところでタクシン様はこの非常時にどこにいたのであろうか。サウジにビジネスで出張していたことになっているが現在は「南太平洋の楽園で勝利の余韻を楽しんでおられる」らしい。

それでは、その前はどこにおられたのであろうか?ソレがどうもASEAN諸国の「某国」におられて赤シャツの日々の闘争をひそかに鼓舞しておられたようなのである。(いずれほんとうのことは分かるであろう)

これからどうなるであろうか?アピシット首相は「早期解散総選挙」に踏み切る可能性が高い。かりに選挙になってもタクシンの政党「プア・タイ党」が圧勝するなどということはありえない。前回よりも必ず議席を減らすであろう。

民主党が第1党にならないまでも、与党連合が勝利することはほぼ間違いない。バンハーンの党がタクシンにカネを貰ってプア・タイ党に寝返るかもしれない。前回は確かそうだった。

こんな予測は時期尚早である。しかし、タクシンが帰国し、再び政権の座につくことはない。その前にブタ箱暮らしを数年やっていただかなければならない。彼は「ブタ箱」が大嫌いらしい。

タイは結局、「最後は民主主義が勝利する」のである。タイの民主主義は日本人が考える以上に成熟しつつあるのである。日本のほうがむしろおぼつかない。

数年前の「小泉郵政改革フィーバー」は一体何事だったのだろうか?あんな政治家が現れて、日本の主要なメディアが提灯持ちに駆けつけて、「カイカクバンザイ」などと大合唱をしていたでなないか?

あのときは本当におっソロしくて生きた心地ちもしなかった。人間社会は何だかんだ言っても国民が助け合って生きていかなければならないのだ。

カネ持ちだけが特権を享受して、貧乏人のことはオレの知ったことかというのはまさに「資本主義的アナーキズム」である。

アメリカ人もそれに気がついてオアバマ大統領が誕生したのである。しかし、アメリカ人にも「ティー・パーティー」派などというのがのさばって来て「貧乏人にオレの税金を使うな」などといっている輩が結構多いらしい。人間の業(カルマ)は本当に恐ろしい。

タイでは亡くなったロムクラオ大佐の夫人が嘆き悲しむ様をみて、赤シャツのリーダーは演壇の上から「ザマーミロ、自業自得だ」といったそうである。既に赤シャツ運動の先は見えた。


⇒アヌポン陸軍司令官ついに平和維持本部長に就任(2010-4-17)

今回の赤シャツ騒動の取り締まりに消極的な態度をとり続けてきたアヌポン陸貧司令官は4月16日(金)にスーテップ副首相に代わり、「非常事態宣言」の実行責任者として「平和維持本部長」に就任するとアピッシット首相が発表した。

4月10日の陸軍の大敗北にくわえ、4月16日には赤シャツのリーダーのアリスマン(昨年パタヤ・サミット会場に突入し会議をキャンセルに追い込んだ男)一味が宿泊しているSCパーク・ホテル(タクシン一族の所有)に警察機動隊を派遣し、逮捕直前で取り逃がしたばかりか現地にいた警察幹部(少将と大佐)が逆に赤シャツ・デモ隊につかまり、ラーチャプラソンの赤シャツ・デモ隊の本部まで連行されるという「大失態」をやらかした。ようするに「逮捕された」のは警察官の方だったのである。

もともと警察は「トマト」といわれ「赤シャツ」のお仲間と見られていたが、何とも格好がつかないことになってしまった。よせばいのにスーテップ副首相は警察がアリスマン一味をSCホテルで包囲し、もうじき逮捕されるであろうというようなことを確認もせずにテレビで発表してしまった。

何とも頼りない副首相兼平和維持本部長である。4月10日の失敗と今回のマヌケな警察の失敗の責任を取らされて、即刻平和維持本部長を解任されたというしだいである。

アヌポン陸軍司令官は今回の赤シャツ騒動のはじまりから「腰が引けていた」ことは誰の目にも明らかで、4月10日の「治安維持活動」にも参加していなかったことは上で述べたとおりである。

何を考えているのかワケが分からないというのが、タイ国民の感想であろう。一説にはアヌポンはタクシンから巨額のワイロを貰っているためではないかなどと取りざたされている。また、タクシン派のテロリスト集団に軍事訓練を行っているカッティヤ少将をいままで何だかんだといいながら放置してきたのもアヤシイと見られている。

実際、陸軍の一部はスイカ(表面はグリーン(軍服)だが中身は赤い(タクシン派))であるという陰口はよく聞かれる。

あまつさえアヌポン司令官はとんでもない「失言」を4月10日以後やってしまった。それは「政治的問題は政治的に解決すべきである」と公の場で発言したことである。

これを聞いたタイ国民はアキレ果てた人が少なくなかったはずである。ようするに「非常事態宣言」を発令するほど治安と国益が危機にさらされてなかで、陸軍司令官が「治安維持の責任を放棄している」と受け止められたのである。

4月16日は朝からもう1つの事件がバンコクで起こった。というのは赤シャツでも黄色シャツでもない、バンコクの一般市民が数千人自然発生的に(発起人はチュラロンコーン大学の医学部のトゥン・シッティソムウォン=Tul Sitthisomwong 博士といわれている)集まって、第11歩兵連隊の前に押しかけアピシット首相と陸軍に声援を送った(Moral Support)というのである。

大型トラックに長い横断幕が張られ、そこには「政治問題は政治的に解決する。それでは治安問題はどうするのか?」と書かれていたという。

これが、バンコク市民(赤シャツ派以外の)の大方の感情であろう。そこでアヌポン司令官も「重い腰を上げた」という次第である。彼は9月末で、定年退職になる。このままでは任期を待たずに解任されることもありうる。彼が自分のためにクーデターをやろうとしても誰も乗ってこないであろう。

アヌポン治安維持本部長がこんご何をするかは分からないが、陸軍内部にも赤シャツに対する憎悪感が増しているといわれ、やられっぱなしではすまさないということになる可能性がある。赤シャツをのさばらせたのは、トマト警察とスイカ軍部の責任であることは間違いない。

外人投資家はタイの軍と警察は「治安維持能力なし」と判断して、タイから投資資金を引き上げにかかっているようである。4月16日の株価は736.16ポイントとほぼ3月中旬の水準のまで下げてしまった。

4月7日の812.65からみると9.4%のマイナスである。もちろんタイ経済の実態はホテルやバンコクの中心部のショッピング・センターは影響を受けているが、全体からみれば大したことはない。いずれ急反発するであろう。.


また、NHKなどが4月16日の警察のドジを報道したついでに「アピシット首相は窮地に追い込まれた」などといっているが今回の警察のドジについては国民は「ああトマトめまたやったか」という反応で、アピシット首相に何か責任があるなどとは誰も思っていないのである。

ピンチなのはむしろ赤シャツのほうで、毎日1万人近くの人間に日当を払ったり、メシを食わせたりする出費は大変な額に及ぶ。

タクシンの方は、毎日数千万円のポッケット・マネーが消えていく。アピシットのほうはその点、国民の税金でまかなっている。

しかも、アピシット首相が議会を解散させない限り、デモを止められない。何とか「政治的に解決してくれないか」と願っているのは彼らの方であろう。いつタクシンが音を上げるか、お互いに我慢比べである。


⇒黄色シャツいよいよ動き出す(2010-4-19)

PAD(民主主義のための人民連合)通称「黄シャツ」は4月18日(日)にバンコク郊外のランシット大学で集会を開き、今後の行動方針を討議した。

集会には約3000人(バンコク・ポストは2000人)集まったという。PADは赤シャツがバンコクで暴れまわってえいる間は静観していたが、4月10日(土)の流血事件のッ時に赤シャツ軍団が牙を剥いたことに危機感を感じたようである。

4月16日(金)には一般市民が歩兵第11連隊(ここで中央政府の政務が行われている)の前に数千人が集まってアピシット首相に声援を送り、軍隊にはバンコクの中心街からの赤シャツ排除を訴えた。

一般市民がPADよりも先に行動を起こしてしまった。PADとしてはこのまま傍観していては一般市民から置いていかれてしまうという危機感もあることであろう。

当日は「自由討議」ということで議論が行われたが、今後の方針として今後7日間の政府の動きをみて事態が解決しなければ15日後には大衆行動に出ることを決めたという。

このPADの集会には昨年銃撃を受けて瀕死の重傷を負ったソンティ氏は参加しておらず、チャムロン氏が表面に立って討議を進めていたようである。

一方赤シャツ隊は19〜20日にかけてシーロム通りにデモをかけ、バンコク銀行本店を封鎖し、タイの経済の中心部の機能を停止させ、政府を「降伏」に追い込むなどと例によって大法螺を吹いている。

しかし、赤シャツ隊の一般参加者は従順であり、本気でシーロム通りを「埋め尽くし」かねない。そうなると、今度は軍・警察より先に一般市民とのトラブルがそこで発生する可能性が高い。

赤シャツ隊対バンコク市民の戦闘が始まる可能性が高い。赤シャツ隊というのは別組織でタイ陸軍にも個別の戦闘では勝利することのできる銃や手榴弾で武装した「殺し屋」部隊を持っており、一般市民は非常な危険にさらされることになる。

アヌポン陸軍司令官は各軍団長や参謀長以外にも空軍と海軍のトップを集めての合同会議を開き、今後の赤シャツ隊対策を19日(月)に開くという(4月23日に延期)。

しかし、3軍の精鋭部隊は19日(月)に朝から待機しており、一部は市内の要所要所に展開している。

(4月19日夜10時に追記)

@4月19日は赤シャツはシーロムに完全武装の兵士が展開しているのを見て侵入をあきらめた。兵士は女・子供・老人は撃たないが、赤シャツ幹部やゴロツキ・アジテーター風情の人物は狙撃する可能性がある。

軍報道官サンサーン(Sansern)大佐は赤シャツ隊は女・子供・老人を盾にして幹部の逮捕を免れていると非難した。また、デモ隊に参加している兵士はいずれ識別し処分を下すとしている。

Aタクシンの消息は「南太平洋の何処かにいるらしい」という報道はここでも紹介したが、フィージーの臨時政府高官はタクシンがフィージーに高額の投資をしてくれれば、居住を認めるであろうと述べた。(Sydney Morning Heraldの記事をネーションが引用)

確かにフィージーはタイと「犯人引渡し協定」は結んでいないが、フィージーにタクシンがいるとなれば、いずれは暗殺や拉致の脅威にさらされることは間違いない。タクシンはここ数日Twitterにも書き込みをしていないので、重病説もあるが、案外カンボジアあたりに潜伏している可能性もある。

Bチャワリット・プア・タイ党議長(Chaiman)はソムチャイ前首相(タクシンの妹の亭主)とともに記者会見を行い、国王に「拝謁」し和平の仲介をお願いしたいと発表した。

それは、現在のタイの暴力的対立を終わらせるために「国王の仲介」以外に解決法がないという主旨である。

また、真の民主主義と公正の欠如が国内問題の根本原因であるとした上で政府に対し次の5か条を要求するという。

a) Stpop using violence and kiling people
b)Guarantee that a single life will not be shed because of protests.
c)Revoke the state of emergency so people have the right to engage freely in political activities.
d)Stop distorting news and information
e)Return the power to the people by dissolving the lower House

といった内容のものだが、私の知る限りはアピシット首相は赤シャツの反政府運動を「法的に許容できる範囲」では干渉しないという立場をとり続けてきた。

アピシット首相は軍・警察による武力の使用をギリギリまで抑制してきたが、公共の商業地区の不法占拠が長期化したため、「国際標準」にしたがってデモ隊を排除せざるをえなくなったことは間違いない。

しかし、赤シャツ軍団が突如として爆発物の使用と銃撃をはじめ、ロムクラオ(Romklao)大佐が狙撃によて殺害されるなど、軍側に銃撃や手榴弾攻撃による多数の死傷者がでた。もちろん、デモ隊や一般市民の犠牲者も多かったが、軍の発砲による、ものかどうかは判明せず、また手榴弾の破片による死傷者が多かったようである。

情報規制は「戒厳令施行前」には全く行われていなかった。情報の歪曲は赤シャツの方がひどかったように思える。

最後は、国会を即時解散しなければ、民主主義も公正も回復しないなどという話しはあり得ない。国会はすぐに解散する必要が無いと思っている国民の意向はどうなるのであろうか。

このチャワリットの行動はもちろん国王の了解は得られないし、拝謁も不可能であろう。

チャワリットというよりタクシンの意向は早く、この勝ち目の無い「闘争」を止めにして、出費をこの辺でとめたいということであろう。何とか「名誉ある幕引き」を国王にお願いしたいということであり、チャワリットとソムチャイの「提言」は深刻な(タクシンにとって)な意味合いがある。

しかし、こんな虫のいい「5項目提案」をいくらお人好しでもアピシット首相がが受けるはずもない。受けられるくらいなら、とっくにモノゴトは解決している。タクシン流の一歩も引かない「強引さ」がついに大惨事を招いてしまったのである。

4月10日事件で世論の動向は「アピシット批判」に傾くと読んでいたフシがあるが、タクシンや赤シャツの読みは完全に裏目に出て、バンコク市民の大反発を買う結果になった。


⇒赤シャツ防戦一方、ラートプラソン一角を死守、幹部の大半は逃亡(2010-4-20)

赤シャツは4月20日(火)は大動員をかけて、シーロム通り一体を占拠し、そこにステージを設け、バンコク銀行を閉鎖し、同行の「人民のカネを引き出す(強奪する)」などと例によって大ハッタリをかませていたが、デモ隊は集まらず、軍の警備も硬いことから、シーロムへの進行をあきらめ、逆に強制排除に備えて、伊勢丹デパート前のラートプラソン地区に集中するように指令を出した。

同地区にいるデモ隊も既に数千人に減ってきており、強制排除を受けたら壊滅寸前のところまできているようだ。

しかし、軍は4月10日の事件に懲りて、強制排除に乗り出すかどうかは余談を許さない。デモ隊から手榴弾の投擲や発砲があったら、軍も実弾射撃で応戦し「テロリスト」を壊滅させると宣言している。

赤シャツの有力幹部は現場から既に姿を消していると伝えられる。女・子供を盾にして、自分達がズラかる為の時間稼ぎをやっているようである。

戦いが敗北と決まれば潔く「降伏するのが」指導者としてのあるべき態度である。

戦争が完敗と分かっていても、国民を騙して戦争を無意味に継続し、おびただしい人命の損害を招いた極東の某大国の軍人指導者のようなマネはすべきでない。

人身への傷害が起こらないうちに「全面無条件降伏」すべきは目に見えているが、「最後の一兵まで」闘えなどといいながら、自分はトンンズラを決め込んでしまったようである。

幹部のあるものはタクシンから1億バーツ貰ったなどと大学時代の恩師に自慢していた輩がいるという。要するに赤シャツの動機は根底にはタクシンのカネがあったように思えてならない。

また、当局はタクシンの長男と長女が最近50億バーツ(約145億円)のカネを銀行から引き出したという。資金の流れは追及されることになる。その多くが今回の赤シャツ騒動の資金として使われた公算は大きい。

赤シャツ幹部も本当に民主主義と社会的公正を求めての戦いであれば、タクシンとは離れて独自に「ポケット・マネー」で闘うべきだったのである。そうすればバンコク市民の共感も得られたことは間違いない。

タクシンが政権にあった時にいかに手ひどく民主主義を弾圧し、言論の自由を抑圧し、人権を踏みにじってきたかはバンコク市民は良くしている。私も及ばずながら、この拙いホーム・ページでタクシン政治の実績をトレースしてきた。

願わくは最後の段階でデモ隊にも軍にも死傷者がでないことを祈らずにはいられない。


⇒軍が赤シャツ隊に最後通告?(2010-4-21)

CRES(Center for the Solution of Emergency Situation=非常事態解決本部または治安維持本部)は赤シャツ隊に対して最後通告を出した模様である。

赤シャツ隊幹部のジャトポン(Jatuporn Prompan)は軍の突入に備えて準備をしておくように指令を発する傍ら、幹部が集まって今後の方針について協議をしているという。

治安維持部隊は赤シャツが多くの銃火器を備蓄して戦闘に備えている以上、軍としても市街戦覚悟で臨むざるを得ず、その際赤シャツ幹部を含め500名程度の死者が出ることも覚悟しなければならないと見ているという。最終的に赤シャツが降伏しない限り、それも止むを得ないという物騒なものらしい。

軍としては4月10日の戦闘で500丁の自動小銃が赤シャツ隊に奪われ、まだ200丁しか返還されず、それ以前に隠匿している銃火器を考えれば、相当な戦力を保有していることは間違いない。軍が激しい市街戦を覚悟するのも当然であろう。

赤シャツは軍がいよいよ本気を出すということが分かったらしく、妥協(降伏)の条件を鳩首会談している。しかし、赤シャツ幹部の中には一般のデモ参加者から犠牲が出ることをあまり気にも留めていない者がいるという。本質的に「殺し屋」が幹部になっているのである。

赤シャツ幹部の中でもナタウットやウィーラのようなインテリは対して発言権が無いようににも見受けられる。最終的にはタクシンの決断を仰ぐことになろうが、タクシンも「人命尊重」という言葉が彼の「辞書」に載っているかどうかはなはなだ心許ないものがある。

幹部の中では強硬派が優勢で、国会解散は15日後でなくてはならないとか、幹部全員に対するアムネスティ(不逮捕・放免)を要求すべきだとかいろいろ勝手な案がでているようである。

しかし、今回の事件の重要性と重大な社会的影響を考えれば赤シャツ幹部の無罪放免(アムネスティ)などはあり得ないであろう。また、武器を完全放棄する無条件降伏に近い形の解決しかあり得ない。

武器を隠匿したまま放置しておけば今後も手榴弾投擲や銃撃事件が後を絶たないことは自明である。4月21日もパトゥム・タニ県の航空機用燃料備蓄タンクに手榴弾が投擲され、火災が発生している。

赤シャツ軍団の武装解除が今後のタイの市民生活の安全のためには欠かせないことはいうまでもない。単に赤シャツ・デモの解散だけでは問題の解決にはつながらない。

一方、PAD(民主主義のための人民連合=黄色シャツ)の指導者チャムロン少将(退役)は「法の執行を迅速に行うべし」と提言している。

事態がズルズルと引き伸ばされれば、一般市民がシビレを切らして自ら「法の執行に立ち上がる」ことになり、市民同士の内戦に発展することは間違いないという。

チャムロン氏の見方によれば「今回の件は政治的紛争ではなくて、悪者が法を無視しして起こした事件である」としている。また、もし政府がグズグズしているのならば、第1方面軍(首都圏防衛軍)が行動を起こし「戒厳令(Marshal Law)」を発令し、事態の収拾を図るべきであると主張している。

一般市民(多色カラー)グループは4月23日に市内の各所で10万人規模の「大集会」を開催するといっている。これには当然黄色シャツの支持者も多く集まるであろうと見られている。

また、空軍司令官のリティポーン(Littiporn Supawong)大将は間もなく問題は解決するはずであり、もうしばらく辛抱するように市民に呼びかけている。

赤シャツ・デモ隊参加者は現在1万人程度といわれ、そのうち70%がバンコクと周辺の住民であり、軍との衝突を恐れて帰宅するものが相次いでいるという。

赤シャツ隊の幹部は徹底抗戦派と和平派とが分かれていることは確かだが、徹底抗戦派が優勢で時間切れで軍の再突入は避けられない公算が大きい。彼らは「幻想と錯覚の世界」に生きており、客観情勢を冷静に読む力はなさそうだし、タクシンも同様であろう。リッティポーン司令官が考えるほど事態は簡単ではなさそうだ。

また、タクシンから1億バーツもらった者はナタウット(Nattuwut Saikua)であることが天下に知られることとなったのである。

彼は1億バーツを誰かから貰い、ソレを恩師に見せびらかしたことは否定していないが、「騒乱請負」はやっていないそうである。ではそのカネは何に使ったかということで現在、特捜部が調査中とのことである。

他にも赤シャツ幹部はタクシンから「多額のカネを頂戴している疑惑が持たれている。ウィーラ・ムシカポンがイギリスで土地を取得し、息子にレストランを経営させたり、チャトポン他の幹部も最近とみに資産額が増加していることが明らかになり、特捜部は捜査を開始するという。「タイの現地新聞を読む」、ネーション・バンコク・ポストなど参照)

また、今夜(21日)遅く入った情報によりと東北部のコン・ケーン(タクシン派の強い県)で軍隊が戦車や軍用車両を鉄道でバンコク方面に運ぼうとしたところ、赤シャツ隊約1,000人に阻止され、車両に乗っていた250人の兵士も赤シャツ隊に拘束されているという。

これとは別に、ウドン・タニ県に駐留していた兵士1,000名がトラックでバンコクに向かう途中にコンケーン=バン・パイ街道の交差点で赤シャツ隊につかまり、バス3台と兵士150名が拘束されてという。こんな情けない軍隊がモノの役に立つのであろうか。そもそも彼らはいわゆるスイカ陸軍なのであろうか?

チャムロン少将がグズグズしていないで首都圏の精鋭軍だけでケリをつけるべしと主張するのもムベなるかなである。


⇒赤シャツ先制攻撃、手榴弾投擲で市民1名死亡85名重軽傷(2010-4-23)


バンコクのビジネス街シーロム通りの入り口に近いルンピニ公園前に陣取っていた赤シャツ・デモ隊が昨夜10時45分ごろ5発のM79手榴弾を高架鉄道のサラディン駅に向かって発射し、うち1発が駅に命中し、1発は付近のファースト・フード店、もう一発はアユタヤ銀行支店前に落下し爆発した。他の2発も駅付近に落下した。

サラディン駅近くはシーロム通りの入り口に当たり、赤シャツ隊に反対する市民グループが対峙しており、またヤジ馬も多く、そこを狙って「投擲機」を使いM79を発射した。

その結果1名が死亡し、3名が重態、その他24名が重傷で4月25日(日)現在入院中という大惨事を招いた。

手榴弾の射程距離は300メートルほどあり、警察は赤シャツのデモ隊から400メートル以内に近づかないよう警告を発している。

市民側に死者が出たという知らせに赤シャツ陣営は歓声を上げて喜んだという。彼らは人命に対して普通の人間としての感情を持っていないようである。他人の生命を尊重しなければ、自分の生命を尊重してもらえない。彼らが仏教徒であるとは信じがたい。

これでいよいよ「市民戦争」が開始されたと見てよい。今度は赤シャツ・デモ隊がバンコク市民から「仕返し攻撃」を受けるであろう。ソレを避けようとすれば、治安維持軍が赤シャツの「強制排除」に乗り出さざるをえない。

治安維持部隊は4月22日を何もせずに空費したことが今回の惨事につながた。本日は昼間から何らかの動きがあるであろう。赤シャツ隊は「無防備・非武装のデモ」を標榜し、武力を持って攻撃するのは別の集団だといっているが、それは真っ赤なうそである。

こういう事件を引き起こしながら、赤シャツ・リーダーは国連軍に「平和維持部隊」の派遣を要請するという。国王に調停を要請したと思ったら、今度は国連だという。あきれ果てて物が言えない。

タクシン時代には「麻薬撲滅キャンペーン」で被疑者が2,500名ほど警察などによって殺害され、国連人権委員会が「殺さずに逮捕して正式に裁判にかけよ」と勧告した。

それにタクシンは反発して「タイは国連の指図は受けない。国連は父親でもあるまいし、余計なことを言うな」と言い切った。自分の命が危なくなったら、タクシンの子分の赤シャツ・リーダーは国連に助けを求めている。

タクシンのいくところ常に「死」が付きまとう。恐ろしい政治家である。そういう人物を日本の「タックシン派」の学者は「好き」らしく、一生懸命声援を送っている。タクシンのことをタイ経済の「近代化の立役者」などといっている。それも真っ赤なうそである。

タイ経済の近代化とグローバル化に最も貢献してきたのは日本の進出企業である。タクシンはどっちらかといえば日系企業の足を引っ張った。

⇒アピッシット首相は断固赤シャツの解放区を奪還する方針(2010-4-25)

赤シャツは世論の動向が圧倒的に不利になりつつあることを多少は認識し、23日(金)には1ヵ月後に解散すれば実際の選挙は2ヶ月かかり、実質後3ヶ月アピシット政権は続くという「妥協案」を出し、政府に譲歩を迫った。

しかし、タイは法治国である以上、赤シャツから交渉によって何かを引き出すという立場には最早ないことは明らかである。市内の商業地区を長期間不法占拠し、武装勢力が兵士や市民を殺傷した以上これは「国家反逆罪」に限りなく近い重大犯罪であり、完全武装解除と指導者の全員逮捕は政府の当然の義務である。

中途半端な「妥協」や「和解」で赤シャツ組織をそのままタイ社会に存続させることはできない。もし武器を所持した政治集団が存続し続ければ、いつ問題が再発するかは予測不可能であり、タイの社会、政治の安定は長期的に回復でない。

アヌポン陸軍司令官が態度をあいまいにして「軍は武力行使を行わない」といった発言を4月24日(土)にも行っていたと報道されたが、アピシット首相は断固強硬路線を貫くことを25日(日)の朝に全国にテレビ放送し、アヌポン陸軍司令官も発表に同席した。

いよいよ最後の段階に差し掛かったといえよう。赤シャツ隊が抵抗すれば、赤シャツ武装集団が全面降伏するまで戦闘は続くであろう。その場合双方に多数の死傷者がでることは避けられないであろう。

赤シャツのリーダーのナタウッドはアピシット首相は48時間以内に赤シャツ隊を屈服させよという命令を発したという情報をつかんでいるという。

アピシット首相は赤シャツ隊の武力解散については「国際基準のステップ」を忠実に踏んで、女子供・老人のデモ参加者には危害が及ばないように最新の注意を払い、幹部と武力行使者との決戦を行うとしている。赤シャツ隊としては「女子供・老人」を盾(人質)にしてその背後から銃撃戦を挑む考えであろう。

赤シャツは戦闘に備えて、赤シャツを脱ぎ捨て、一般市民と紛らわしい色のシャツに着替えるよう指令を出しているという。

(赤シャツ軍団=黒シャツの主力は元レンジャー部隊

4月21日早朝にに警察はメーティー・アモンウティクン(Methee Amornwuthikul)という俳優でプア・タイ党の党員であり、赤シャツ隊の中堅幹部を路上で逮捕した。メーティーは4月10日に軍との衝突で軍から奪った銃を所持していたのである。

身柄はヘリコプターで秘密の拘置所に送られ,取調べを受けているが、次々と4月10日の出来事を自白しているという。

法務省特別捜査局のターリット(Tarit Pengdit)局長はメーティー容疑者から得られた供述として、@メティーらは軍から機関銃を含む大量の武器を奪い、赤シャツメンバーに配給すると同時に自分もそのうちの1丁を所持していた。

Aデモ隊側から軍隊に向かい手榴弾の投擲と銃撃を行った。その命令は赤シャツ隊幹部から下されたという。B黒シャツを着た男達が銃撃に参加しており、彼らはルンピニ公園にも配置されていた。

メティーの逮捕は赤シャツ隊にはかなりの打撃だったようで、カッティヤ少将はメティーなどというのは小物で内部に事情には疎くデタラメの供述を行っていると非難している。

また、4月25日付けのバンコク・ポストの特集記事に”A man in black" という黒シャツ・グループの特集記事が乗っている。

その内容のいくつかのポイントを紹介すると;

@カッティヤ少将(通称セー・ディーン=Seh Daeng)はもとのレンジャー部隊員を集めて「人民軍」と称し、軍事訓練をおこなっていた。(カッティヤは彼らのことを「浪人戦士」と最近呼んでいる)

Aカッティヤの上にはタクシンと士官学校で同期の某将軍がいて、赤シャツ系軍事組織全般を取り仕切っている。(カッティヤの元の上官パンロップ退役大将のことか)

B普通の赤シャツ・デモ隊は別に怖くないが、退役兵士やレンジャー部隊員は重火器の扱いにも馴れており危険である。最近はM79の投擲機だけでなく、プロペラ付き「手榴弾」が使われ始めた。

Cパンロップ大将は赤シャツ軍団を「人民軍」に変えようとしており、その最高司令官にチャワリット元首相、プア・タイ党議長を担ごうとした。(チャワリットは断った)

D国境警備部隊(レンジャー部隊)はそもそもチャワリットの発案で1978年にジャングルに潜伏する「共産ゲリラ」対策として作られた。地域はタイ東北部である。後に21あった部隊が8部隊削減された。それを断行したのがスラユット陸軍司令官(当時、後に首相)であった。

E当時リストラされたレンジャー部隊員はスラユット氏に恨みを抱いているものが少なくない。彼らのあるものは暴力団と化し、あちらこちらで悪事を働いている。東北部やカンボジア国境や南部にもはびこっている。

具体的には第41〜43部隊の残党の一部が「殺し屋」として雇われている可能性がある。ただし、全体的にはレンジャー部隊員は規律正しく、マジメである。

Fパンロップがいうには約200人の元レンジャー部隊員が赤シャツ隊に参加しており、彼らは一様にチャワリット元陸軍司令官を尊敬している。

G赤シャツのリーダーのアリスマンは黒シャツが赤シャツの応援いやってくるという発言をしていた。黒シャツと聞けば現役の兵士も恐怖感を持つはずだと語っていたという。

要するに「黒シャツ隊」は十分な兵器をもって、正規軍との対決に備えており、いざ戦闘なれば軍も相当な犠牲を覚悟しなければならない。しかし、黒シャツ隊が「降伏」か「武器を捨てて逃亡」しない限り、彼らを殲滅するのがタイ国軍の役割であることも事実である。

⇒プミポン国王、軍・警察の職務怠慢を間接的に批判(2010-4-27)

プミポン国王は4月26日(月)に新任裁判官100名の「宣誓式」のあと、約10分ほどの「訓示」を行い、その中で「裁判官は国民の正義と秩序を守る重要な責務がある。国の中には自分達の義務を忘れてしまっているものがいる。諸君は自分の職務を正直かつ信念を持って遂行することによって、模範を示して欲しい」という話しをした(バンコク・ポスト参照)

「自分達の義務を忘れているもの」とは最近の赤シャツ・デモの違法行為をマトモに取り締まらず、かつ実質的に支援している行為があると見られてる一部の軍幹部や警察官への遠まわしな「批判」であることはいうまでもない。

アピシット首相は25日(日)の午後2時に東北部、北部、東部、中部の61県の知事をバンコク市外の第11歩兵連隊(そこで政府の日常政務が行われている)に集め、治安対策会議を行った。これにはアヌポン陸軍司令官とスーテップ副首相も出席した。

しかし、地方行政協会事務局長のチャトレー(Chatree Yonoprasert)氏は「地方行政府が中央政府の方針を支持することは適当でない。中央政府は国家を運営していく正当性に欠けて久しい」という赤シャツ隊そのものの主張を行った(会議で行ったかどうかは不明ーバンコク・ポスト記事

実際昨26日は東北部と北部の十数か所で赤シャツ隊が警察の車両の移動を阻止するという事件が起った。これに対し、警察側は「話し合い」と称して、赤シャツの言い分に応じている。特にコン・ケーンは軍の鉄道車両も阻止される事件が起こった。(上述)

しかし、ピッサノローク(スコタイの近く)では国境警備隊の門を封鎖した赤シャツ隊を武装警官が実力で排除し、無事車両をバンコクに向かわせた。パトゥム・タニでも赤シャツ隊が警察車両を阻止していたが、軍が排除に向かい、現地の赤シャツ隊の何人かを逮捕し、交通を再開させた。

国王の発言を受けてアピシット首相は26日「県知事や県警本部長で職責を果たさないものは更迭を含む処分をおこなう」と言明した。チャトレーのような人物が地方行政を支配していては逆に国民の安全は保てなくなる。彼らは中央政府が任命した公務員なのである。

政府は地方から軍と警察の応援をえて、バンコクの中心部の赤シャツ隊を排除する準備を着々と進めている。国王の発言を受けて、いままで「サバイ・サバイ(お気楽ムード)」を決め込んでいた警察や一部の軍も動かざるをえなくなってきたといえよう。


赤シャツ隊はシンボルの赤色の服装を脱ぎ捨て、これから「無色シャツ」に切り替えるということで昨日あたりは,普段着にほとんどが切り替えている。これはバンコク市内を逃亡する時に赤シャツを着ていると市民から襲撃されることを恐れての措置であろう。

しかし、軍から言わせると普段着で「軍人をデモ隊の中に潜伏させることができる」ということで、掃討作戦はやりやすくなったということである。いずれにせよ軍・警察の作戦開始は近いであろう。

また、アピシット首相はプア・タイ党議長のチャワリット元首相(退役大将)とカッティヤ少将が赤シャツ隊の武装集団(黒シャツ隊)に関与していることを間接的に指摘した。もし関与が、事実であるとすれば将来プア・タイ党の解党問題にも発展しかねない。


⇒ドン・ムアン空港付近で赤シャツ隊大敗北、手榴弾間に合わず(2010-4-29)


ドン・ムアン空港付近からバンコクへ通じる高速道路(Vibhavadhi RangsittoとPhanon Yothin)は一時赤シャツ隊が封鎖して、バンコクに入る地方の警察と軍の移動を阻止していた。しかし両方とも軍と警察が赤シャツの封鎖を排除して交通が確保されていた。

4月28日(水)になって赤シャツ隊は再びドン・ムアン空港付近の再封鎖に乗り出すべく中核リーダーのクワンチャイ(Kwanchai )が200台のオートバイと多数の1トン・ピックアップに総勢2,000人の赤シャツ隊員を率いて空港方面に向かった。

赤シャツ隊は空港を通り過ぎて、ナショナル・モニュメントのあたりに午後1時頃到着して、後続を待っていたところへ軍・警察の守備隊が待ち受けていて、赤シャツに引き返すように説得したがもちろん言うことを聞かず、1時半ころから戦闘が開始された。

赤シャツ隊の装備は鉄パイプやパチンコやピンポン爆弾と一部が銃を所持していた。軍・警察は催涙弾とゴム弾で赤シャツ隊を攻撃した。

その戦闘の中で兵士が1名死亡(味方の銃弾が頭に命中したという報道がある)、2名が負傷し、赤シャツ側は17名が負傷した。形勢不利と見た赤シャツはバンコクに向かった撤退を開始した。リーダーのクワンチャイは逮捕を恐れていち早くタクシーに乗って、ラートプラソンのデモ隊本部に逃げ帰った。

残された赤シャツはなお抵抗していたが3時半ごろにほぼ全道路から姿を消し、三々五々ピンポン爆弾などを使って軍・警察と「戦闘」を続けていたが、5時頃には全員が引き上げた。リーダー格の男10名ほどが逮捕された。

午後4時頃になって、バンコク方面からやってきた1台のオートバイが検問をやっているのを見て、Uターンして逃げ出した。怪しいと見た警備隊が追跡したところ、男はスティロールの箱をゴミ缶に捨てて、なおも逃走したが、袋小路に入り込み、オートバイを乗り捨てて壁を乗り越えて逃走してしまった。

男が捨てたスティロールの箱を回収して調べたところ、その中から62個のM79手榴弾と1個のM203発射装置が発見された。赤シャツ本部からの指令で緊急に戦闘現場に輸送の途中であったものと推測される。

もし、それが赤シャツ隊の手に渡っていたら、守備隊は手榴弾攻撃にさらされ多数の死傷者が出たであろうことは間違いない。赤シャツ隊は大量の武器・弾薬を保有していることは明らかであり、政府側も赤シャツ排除には慎重を期さざるをえない。


ところが、残されたオートバイからは現職のパトゥタニ県警の巡査部長補の「証明書」が発見された。本人が手榴弾を運搬していたかどうかは確認ができていないが、警察官が赤シャツ隊のメンバーもしくは「協力者」である可能性は高い。(彼は29日に逮捕されたー下記参照)

しかし、赤シャツ隊はラートプラソン地区からバンコク市内に「出撃」しても勝ち目は無く、ラートプラソン地区に完全に封じ込められた格好になった。軍・警察は周辺の交差点の検問を強化しているという。

(手榴弾運び屋警察官逮捕)

手榴弾(M79)を運んでいる途中、空軍基地手前の検問を見てオートバイを置き去りにして遁走した警察官のプリンヤ(Prinya)は29日(木)午後パトムタニ県内の路上で1トン・ピックアップ・トラックを運転しているところを逮捕された。

プリンヤは取調べに対し、所有していた63個の手榴弾を「顧客」に頼まれて運んでいたことを自白した。しかし、彼自身がM79手榴弾をバンコク市内その他で投擲したことはないと陳述したという。

彼は逮捕される前にランシットの「Zeer」デパートのカシコーン・バンク支店から29万バーツ(約84万円)を引き出し、ついでシー・ムアン・市場近くのクルンタイ・バンク支店から30万バーツ(約87万円)を引き出していた。彼はそこから地元の警察官にずっと尾行されていた。

彼の乗っていた車から9mmハンド・ガンとニセの自動車のナンンバー・プレート4枚と現金70万バーツ(約200万円)などが見つかった。

また、プリンヤの逮捕前におこなった捜査で自宅にあった自動車からM16ライフル3丁と100発の実弾と3個のM79発射装置と10個のM79手榴弾その他が発見された。

パトムタニ県警察本部長のメティ(Methi Kusolsang)警察少将はプリンヤを即刻懲戒免職するとともに、彼の武器取引のネット・ワークの調査を命じた。

28日に押収したオートバイにはプリンヤのIDカード(身分証明書)以外に他の2人のIDカードが見つかり2人とも逮捕された。タイの警察も全員がトマト(赤シャツ派)ではないことを示したスピード逮捕であった。本格的取調べの結果が注目される。

(バンコク・ポスト、2010年4月29日、電子版より)

(死亡した兵士は遠距離からの狙撃銃で殺害ー2010-4-30)

4月28日(水)にドン・ムアン空港付近の赤シャツ隊と警備隊との衝突で死亡したナロングリット(Narongrit Sala)兵卒(正式の階級は不明、英語ではPrivateとある)の検死が行われた。

死因は最初の報道ではWSJなどは「味方の明らかな誤射」としてあったが、そうではないらしいいことがほぼ明らかになった。

検死の結果は「遠距離からの高速銃弾が鉄カブトの左側部から貫通した」ことによるものであった。高速銃弾というのは「high-verosity bullet」の直訳だが、これは4月10日事件で銃殺された8名の検死結果と同じ「狙撃銃」によるものということになる。

狙撃銃を守備隊の軍が使用したという報告はなされていない。軍が使用したのはゴム弾であったということであり、軍が味方の兵士を狙って殺傷目的で「狙撃」をしたというのは信じがたい。

ところが赤シャツ隊とは少しはなれて「黒シャツ隊」が数名随行していたことがカタールのテレビ局のアルジャジーラの特派員が撮影し、そのうちの1名の正面写真を公開した。

その黒シャツ兵は防弾チョッキをまとっていた。おそらく、黒シャツ隊が狙撃銃でナロングリット兵卒を狙撃殺害した可能性が高い。味方による誤射であることが「明らか」だとしたWSJの記事の根拠が問われる。(ネーション、4月30日、電子版参照)

また、ポーンテープ中央科学捜査研究所長が5月4日に発表した見解では、弾道から見て「友軍の誤射ではなく、高速道路の下のガソリン・スタンドの建設中の建物の陰から狙撃したものである」と公表した。(5月4日、ネーション)

WSJの「軍隊による明らかな誤射」というのは間違いであることが明らかとなった。WSJの記事は赤シャツの情報に基づいて書かれたものであると考えられる。

なお、ガソリン・スタンド付近から何者かが狙撃している姿はアルジャジーラの記者に目撃・撮影されている。


⇒アピシット首相、強制排除のタイミングを模索(2010-5-2)

アピシット首相は5月2日(日)に特別閣議を招集し、改めて赤シャツ占領地域の解放方針を明らかにした。

これは前々からの基本方針でもあるが、ここ数日実行が延期されているのは、赤シャツ隊が一般人のデモ隊をいわば人間の盾(人質)にして守備を固めていることに加え、強力な武器(機関銃、狙撃銃、手榴弾、ガスボンベなど)で武装している「黒シャツ隊」を有しているからである。

実際戦闘になれば少なくとも数十人の死者がでることは確実である。赤シャツ隊は自分のデモ参加者を殺害することなどは気にも止めていないであろう。それは4月10日事件で立証済みである。デモ参加者の死傷者の多くは赤シャツ隊の「手榴弾」によるものである。

一般のデモ参加者をいかに「幹部」や「黒シャツ隊」から切り離すかがポイントとなっている。政府は携帯メールを通じて、デモ参加者に帰郷を促している。すでに何人かは「約束していた日当200〜300バーツが貰えずIDカードもとりあげられている」として民主党に泣きついてきているものもいるという。政府は帰郷のための「無料バス」を用意していると呼びかけている。

しかし、そんなことをしていてもラチがあかないので、タイミングを計って近々軍と警察は行動に出るであろう。

赤シャツ隊は4月2日にチュラロンコーン大学病院に押し入り、「兵士が隠れていないかどうか調べ」たという。病院側は危険を感じて入院している約140名の全患者を他の病院に移動した。大僧正だけは居残りを主張していたので、シリントン王女が自ら大僧正を見舞い、移動を承知させたという。

通常は4,000人ほどの外来患者がいるが、現在は緊急患者以外の診療を止めているため、20%ぐらいに減少しているという。看護スタッフは病院に入る際に赤シャツから厳しい荷物検査などを受けきたという。病院側は赤シャツ隊のリーダーの「謝罪」にも関わらず、全面再開は当分行わないとしている。

このチュラロンコーン大学付属病院への赤シャツ隊(200名)の侵入騒動は国民の大きな反発を呼んだことはいうまでもない。かつて太平洋戦争中も日本軍でさえ同病院には遠慮して軍を入れなかったという。赤シャツ隊は病院の患者を人質に取るぐらいは朝飯前である。

一方、ICG(International Crisis Groupe)は4月27日(金)に「このままでは内戦に発展するおそれがあるから、国際的に調停をする必要がある」などという「緊急提言」を行った。

しかし、ICGの提言なるものはタイ政府にとっては受け入れられない内容のものである。武装集団化した赤シャツ隊を「タイ社会」が抱えたままでいることは到底不可能である。アフリカの某国のように政府軍と反政府軍に「休戦」を求めるというような問題ではないのである。

ICGはインドネシアの「ジェマー・イシラミア分析」で一時期話題になったが、どうもスッキリしない組織である。「バリ島事件」の分析も当初はインドネシア軍部の関与も示唆しながら、結局アメリカのCIAの見解に収斂させてしまった。今回の提言もかなり「タックシン派」的な臭気が感じられる。

例えば、日本で過激派ゲリラが武装したまま存在を認められるであろうか?テロを起こせば政治信条の如何に関わらず、刑事罰に処せられるのは法治国家として当然である。

赤シャツ隊の残された道は武装放棄して、幹部全員が逮捕に応じ、後は彼らが「法廷闘争」を行うだけである。流血を避けるにはソレしかない。

アピシット政権はタクシンと違い「法律違反のものを社会の害虫として裁判にもかけずに駆除(殺害)する」ようなことはしない。

この辺の違いを日本の良識派一流紙やタックシン派の専門家の皆様は当然ご存知なのでしょうね。タクシンンは民主主義を推し進めたといわんばかりの見解に出っくわすと、さすがの私も狼狽する。


⇒アピシット首相、近く「和解案」を提示(2010-5-3)

アピシット首相は5月2日(日)に日本人の新聞記者と会見を行い、近く赤シャツとの「和解」を念頭に置いた「タイム・フレーム」を提示するという。

現在政府は9ヵ月後に議会を解散するとしていたが、それを6ヶ月に短縮する案を既に赤シャツにプア・パンディン党の党首のチャーンチャイ(Charnchai Chairungruang)工業相が「最後通告」として伝達しているという。

アピシットのいう「和解案」がどういうものになるかは明らかではないが、このスケジュールで「憲法改正」を行い、「国民投票」を実施した後に解散総選挙になるものと思われる。

赤シャツもこの辺で手を打たないといよいよ引っ込みがつかなくなるであろう。肝心のタクシンがどういうかに全てはかかっている。タクシンの本音としては政府が「強制排除」を行い、タイ東北部からのデモ参加者から死者がでれば、「反アピシット」感情が高まり、選挙で勝てるという打算もあるものと思われる。

タクシンが早期解散に固執する理由は、このまま時間が経てば、タイの経済は急速に回復し、アピシット首相の国民的人気が高まり、タクシンとしては「選挙での勝ち目」がなくなるためである。

一方、アピシット首相は現在の武力排除態勢は緩めてはいない。

法務省特別捜査局はカッティヤ少将ほかを「テロリスト」として別途逮捕状を請求するという。カッティヤ少将は赤シャツの「武闘集団」の指導者であるばかりか、最近の赤シャツの武力攻撃の指揮をとっていると見られている。

また、赤シャツ・リーダーのなかには「反王室」あるいは「王政打倒」を目指すものがいることは事実で、3月20日に起こった「国防省」への手榴弾攻撃は、実は王室の寺院である「エメラルド寺院」を狙ったものだということが明らかになった。

というのは3月20日事件の容疑者5名(元警察中佐ほか)が逮捕され(50万バーツの懸賞金がかかっていた)、彼らの供述によるとエメラルド寺院を狙ったが、手榴弾が途中の電線に引っかかり、手前の「国防省」の建物に当たってしまったものだという。

また、警察庁長官代行プラテープは5月2日にコンーケーン県警本部長のパタニ(Pattani)小将を更迭し、バンコクの本部付けにし、後任は県警本部次長のサクダ(Sakda)少将が昇任した。

コンケーン警察は赤シャツに対して「融和的な態度」をとり続け、陸軍の移動を赤シャツが阻止するのを傍観していたり、市民グル−プのリーダーのトゥン博士のコンケーン入りを「空港で阻止」する赤シャツ・デモを放置するなど、明らかな「任務違反」があったためとされる。警察幹部の処分は今後も続くであろう。


⇒アピシト首相11月14日の選挙と「ロード・マップ」を提示(2010-5-4)

アピシット首相は5月3日深夜、「和解のためのロード・マップ」なるものを公表した。総選挙は今年、11月14日に行うというものであり、それは5項目からなる「ロード・マップ」とセット・になっているという。その内容は後述のごとく「社会的不公正の是正」などといった抽象的な内容である。

赤シャツ隊としてはデモの参加者も激減し、世論の支持も失われつつあり、既に完全に「勝ち目の無い戦」となっている。このことをどの程度彼らが認識しているかだが、タクシンとしても毎日多額の出費にも関わらず、展望の無い戦いにそろそろ見切りをつける時が来たいるといえよう。

要するにタクシンの無謀かつ野蛮な戦争は終結の時を迎えたのである。

アピシット首相のいう「ロード・マップ」とはほぼ以下のような内容のものである。

@王室が政治対立の道具として利用されることを防止するための全階層による王室擁護。

A対立の元凶である不公正是正のための国家改革。そのなかには社会福祉の充実が含まれる。

Bマスコミ改革による対立を煽らない建設的な情報の提供。

C独立委員会による、4月10日の衝突やシーロム事件、ドン・ムアン事件に関する真相の解明。

D政治的対立の元となった憲法や法律の不公正や政治的権利の剥奪などに対する問題点を再検討し、憲法改正や国内治安法の改正に反映させる。

アピシット首相としてはこれらの「改革」は赤シャツの賛成が得られなくとも実行していくとしている。この中で、憲法の改正が大きなテーマとなり、それを国会で議決し、「国民投票」にかけるか否かがプア・タイ党(タクシンの政党)との争点になるであろう。

タクシンとしては11月14日の選挙対策にこれから全力で取り組むことに「方針を転換」するであろうが、勝算は薄いであろう。既に、イサーンでも「赤シャツ離れ」は進行しつつあるという。

(「タイの現地新聞を読む」、ネーション電子版2010年5月4日付けなど参照)


⇒タクシン、アアピシット提案受け入れのタイミング(2010-5-4-2)


タクシンは午後1時のプア・タイ党の会議に電話で参加し、その電話回線でメディアとも「電話会談」が行われた。

タクシンとしてはアピシット首相の「和解提案」を受け入れるタイミングであろうとした上で、決定はあくまで赤シャツの問題であるとした。

しかし、タクシンとしてはこの提案の第3項目の「公正な言論」という問題が引っかかるとコメントした。言わんとすることは赤シャツの宣伝機関であるテレビとラジオ放送が制約を加えられると、今後の「タクシン派の運動」に制約が加えられることを懸念したものと考えられる。

赤シャツはテレビとラジオ放送を通じて、アピッシット政権を批判するなどの農民に対する「洗脳活動」を行ってきたからである。こういうタクシンの発言をみると11月14日に予定される選挙に今後の決戦の場を移す考え方が伺われる。プア・タイ党の選挙での勝利に望みを託しているのである。

肝心の赤シャツ幹部の動きとしては数人の幹部はアピシット提案受け入れの方針を外部に伝えているが、彼ら自身には「逮捕状」が出ており、捕まれば当然司法の裁きを受けなければならないからである。できれば「亡命」を認めてもらいたいところであろう。しかし、そうはいかないであろう。

また、武闘派の処理と、武器の引渡し問題もある。彼らの逮捕と武装解除は現政府としてはどうしても強行する必要がある。既に部分的には赤シャツのガードマンの自宅や隠れ家が数件家宅捜索を受け、少なからぬ武器・弾薬・手榴弾などが押収されているが、まだまだ「氷山の一角」に過ぎない。

カッティヤ少将は赤シャツの実質支配権も終盤で握ったといわれ、彼の逮捕も問題となる。彼のボスのチャワリット元首相は現在プア・タイ党のチェアマンであり、「提案受け入れに」に賛成を表明した。

赤シャツのスポンサーのタクシンが降りてしまった以上、「和解案の受け入れ(降伏)」は最早時間の問題である。タクシンからのカネが無ければガソリンの入っていないエンジンと同じである。

なお、朝からバンコク株式市場は高騰しており、チュラロンコーン病院も明日(5月5日)から全面再開を4日朝には決めている。

なお、5月5日〜9日は国王の「戴冠記念日」であり、「和解案受け入れ」には絶好のタイミングである。

(赤シャツ、和解提案受け入れ表明)

UDD(赤シャツ)は午後7時にアピシット首相の「和解提案」を全員一致で受け入れることを表明した。目的はこれ以上の「人命」のロスを避けるためであるという。これには自分達の「生命」も当然含まれている。

ただし、いくつか条件をつけていて、選挙の日程は11月14日ということで了解したが、国会の解散日を何日にするか明らかにして欲しいとか、4月10日の軍の排除行動の責任を明らかせよとか、集会言論の自由を認めろとかいうことである。他人の集会や言論の自由を妨害したのは自分達であることを忘れてしまっているらしい。

条件が満たされるまで、今の集会を続けると称している。しかし、これらの条件でゴタゴタしてもデモ隊員はドンドン引き上げるであろうし、解散の日程などは選挙の45〜60日前と決められている。こんなゴタクを聞いている暇は政府には無いであろう。要するに「政府の腰の強弱を見ている」のである。

この中で注目すべきはカッティヤの武装集団の逮捕・解散と武器・弾薬の回収である。タイ全土に膨大な武器・弾薬や爆発物が隠匿されているのである。


⇒往生際の悪い赤シャツ、開城の日を明言せず(2010-5-6)

赤シャツ隊はアピシット首相の和解案を全員一致で合意したといわれるが、何だかんだと難癖をつけてデモ隊の解散を遅らせていて、ラートプラソン界隈を明け渡そうとしない。

昨日(5月5日)まではアピシット首相が「選挙の日は決めたが国会の解散の日を明言していない」とインネンをつけ、今日はPAD(民主主義のための人民連合=黄色シャツ)がアピシット首相の和解案は「テロリストの脅しに屈するもので、アピシット首相は辞任せよ」と表明したのがお気に召さないということで「集会を続ける」ことにしたという。

アピシット首相は6日夕刻PADの代表と面談して事情を説明し、了解を求めるということになっているが、その結果はまだ明らかではない。しかし、この際、PADは部外者の立場であり、直接の関係は無い。

要するに赤シャツは往生際が悪いだけである。時間稼ぎをするメリットは「赤シャツ武闘集団」を無事に脱出させ、武器もなるべく多く確保することである。赤シャツ幹部が治安維持本部に「連行される姿」をデモ隊員に見せたくないという思惑があるかもしれない。

タクシンの腹としては、11月の選挙で「勝利をすること」に最後の望みをかけているが、赤シャツ隊がゴテテいると選挙民への印象はますます悪化する。

もっとも赤シャツ幹部は前々から5月15日に警察に出頭して「保釈」を受け、「自由の身」でいたいと考えていた。しかし、軍人や一般市民を大勢殺傷してしまった後では「テロリズムと王政打倒容疑」からは逃れられない。これはアヌポン陸軍司令官も言っている「罪状」であり、当然只ではすまない。

「テロリズムと王政打倒をもくろんだ」容疑者として赤シャツ幹部9名が別途指名されている。この中には例のカッティヤ少将も含まれている。

治安維持実行本部(軍と警察)は赤シャツ隊包囲網を解いておらず、特に武器の持ち出しが行われないようにチェック体制を強化している。

⇒赤シャツついに5月10日(月)年貢を納めることを決める?(2010-5-7)

赤シャツは5月7日(金)午後6時に、記者会見を開き、5月10日(月)に4月10日事件の犠牲者の追悼集会の後、デモ隊を解散させることにしたと幹部のクワンチャイが報道陣に語っていた。

しかし、18時から記者会見をおこなったナタウットは「解散の日」は決まっていないと言明した。幹部の間で意見がまとまらないということである。

赤シャツはアピシット首相に対し、「黄色シャツからも和解案に賛成するように説得し、当事者全員がサインをするまでは解散しない」などとゴネまくっていた。

アピシット首相は昨夜(6日)PAD(民主主義のための人民連合=黄色シャツ)に事情説明したところ、PADは「和解案など悪党のオドシに屈した最悪のものである」と酷評した挙句、「赤シャツがグズグズ居座るなら、第1師団(首都駐留)が戒厳令を発して、一挙に赤シャツを粉砕すべきではないか」という強硬発言があったという。

「多色シャツ」のトゥン博士も「和解案に難色」を示しいるという。「選挙などはもっと後でやればよい」という主旨である。

民主党の元党首で現顧問ののチュアン・リークパイ氏も「和解案」そのものに反対であったという。しかし、民主党も他の連立与党も流血を避けるにはこれしかないということで結局賛成した。

タイ国民の60%が「和解案」に賛成だといわれているが、アピシット首相に対する国内の批判はかなり多い。「無法者赤シャツに甘い態度をとるな」ということである。

さすがのアピシット首相もも赤シャツが次々繰り出してくる無理難題についに「仏の顔も三度」とばかり、最後は全て突っぱねた。

一方、治安維持本部も広報官のサンサーン大佐が「赤シャツがデモを解散させないのならば、こちらは強制排除に踏み切る用意がある」と警告した。

ところで、東北のコン・ケーンから赤シャツの最強硬派600名がもうじきバンコクに助っ人にやってくるらしい。「コン・ケーン派」は地元の警察よりもはるかに強力でついこの間「軍の移動」を阻止した「輝かしい実績」がある。彼らのおかげで県警本部長のクビが飛んだばかりである。

例によって警察は「武器の所持はチェックするがバンコク入りは自由である」として放任する構えだという。「非常事態宣言」など警察はすっかり忘れてしまったらしい。この連中がラートプラソンにやってきたら「血を見なければ済まない」公算が大である。もともとケンカをやりにバンコクにやってくるのである。

果たして5月10日(月)までいかなるドラマが展開されるのであろうか?赤シャツの幹部連中がおとなしく「お縄を頂戴する」とはどうも思えないし、おとなしく武器・弾薬を引き渡すはずもない。もうひと騒動起こりそうな気がする。

チャトゥポン・プローンパンは「軍が大衆(自分達)への威嚇を止めて先に、引き上げなければ、解散はない」などと発言しているという。これでは振り出しにもどってしまう。(「タイの地元新聞を読む」参照)

タクシンは同じカネを使うなら「選挙戦」でという思いが強いであろう。タクシンは民主主義が好きらしいのである。民主主義といっても「選挙」に限定されるが。

ちなみにタクシンは「社会契約論」者(?)で、国民は民主主義的選挙で絶対多数で首相を選んだ以上、「国益を優先する」という立場から、首相に全ての実権を預けるべきであるとして独裁権を正当化する。

首相が国民の「自由を制限する」のは当然である
として「言論の自由」などの市民権や民主主義権利を極度に抑圧した。日本の「タックシン派」にはそれが「すばらしい」と映るらしいのである。

タイのグローバリズムの対応には「強い首相の存在」が必要であったというのが末広昭氏の主張である。「マジスカ?」といいたくなる。タクシンがタイ経済の「グローバリズム」に一体どれだけの貢献をしたのであろうか?

CEO的行政が効率的であったなどと末広はいうが、逆に「指示待ち人間」と「イエス・マン」を増やすだけである。ピーター・ドラッガーの「マネージメント」には「CEO型でやれ」などとは書いてない。

タクシンは外資の窓口である「投資委員会」も自分の人脈で固めたのである。これはグローバリズムに明らかに反する行動であった。

私は前にも言ったが、具体的にタイ経済のグローバリズム貢献したのは日本をはじめ欧米先進国の工業資本の進出であったといいたい。「チャン・ビール」がいかに巨大化しても「グローバリズム」とは関係ない。

また、タクシンは自分自身の権力を強化するために「警察や軍」を自分の親類縁者や関係者で固めたのである。これは国軍内に反タクシン感情を増幅させる原因となった。

アヌポン陸軍司令官はタクシンとは士官学校10期生の同期で、2003年に「第1歩兵師団長」に抜擢された人物であり、もと「タクシン派」と見られていた。しかし、アヌポンは2006年9月の「軍事クーデター」に参加し、タクシンを裏切ったとされる。

これからのアヌポン司令官の行動もミモノである。

⇒赤シャツ時間稼ぎ、東北からの援軍待つ(2010-5-9)

赤シャツは5月10日には解散するかもしれないなどといいながら、新しい「5項目提案」を作っているので、もう1〜2日時間を貸してくれという要求をしてきた。

アピシット首相は5月15日までには必ず解散するように赤シャツに申し入れたようである。赤シャツはアピシット首相の間の抜けた申し入れに対しては解散の日は確約できないと返事したという。

赤シャツは実は東北部の赤シャツ強硬派(ケンカ部隊)の到着を待っているのである。彼らはコン・ケーンを出発した時は600名であったが、途中で参加者が増え、アユタヤでは2,000人に達した。

彼らがバンコクで赤シャツ隊に合流すれば、「和平案」な吹き飛ぶことは目に見えている。彼らは5月8日(土)夜にバンコクに何とか入り、ラートプラソン地区の赤シャツ本隊に合流したようである。

ケンカ組みは途中で1台の「黒い乗用車」が道路に「鋲」をばら撒いて赤シャツの車両(オートバイを含む)を100台以上パンクさせてしまったのでバンコク入りが遅れたのである。誰がやったかは明らかではないが、こういう「直接行動」に今の段階で出るのはネーウイン・グループかもしれない。

赤シャツ隊の本部は穏健派と強硬派に分裂しているようである。強硬派はバックにカッティヤ少将と彼の率いる「武闘派(浪人戦士)」がついていて、断固「抗戦」すると息巻いているようである。

彼らは東北部からの2,000人(全体で5,000人という報道もある)の援軍を待っていたのである。東北部からの援軍は武器は所有していない。しかし、バンコクには赤シャツの武器庫があり、いつでも武器を手にすることができる。

5月7日から8日にかけてルンピニ公園とシーロム道路の周辺で、銃撃と手榴弾(M79)により警察官2名が殺害され、市民を含む12名が負傷するという事件が起こった。

事件の犯人は捕まっていないが、「赤シャツ・グループ」の仕業であることを疑う人は少ない。要は赤シャツ強硬派は「和平提案」を受け入れて「降伏」するのを拒否しているのである。

太平戦争中に沖縄を占領され、どうにもならなくなっても「本土決戦」を唱え、大勢の国民を死に追いやった大日本帝国陸軍将校と同じである。

結論的には赤シャツはアピシット首相とアヌポン陸軍司令官の弱腰を見抜いて、強気に出ているのである。東北の赤シャツ集団が合流したときに次の「大悲劇」が起こる可能性が大きい。

こういう場合に起こりうるケースは「大衆は強硬派幹部」に引きずられるということである。その結果大きな犠牲を強いられるのは「無知なる大衆」である。今回、そうならないことを祈らずにはいられない。

(5月9日追記: アピシット首相が5月10日までに結論を出せと迫る)


すっかり、赤シャツにナメられていた感のある、アピシット首相が9日(日)朝からテレビ演説を行い、5月10日(月)までに赤シャツに「和解案を受け入れるか否か」結論を出せと迫った。

もし、赤シャツが結論を出さなければ、「考えがある」ということである。おそらく、治安維持本部(軍と警察)による「強制排除作戦」に踏み切るということであろう。

赤シャツはカッティヤ少将率いる強硬派が既に「主導権」をにぎっており、やれるものならやってみなという態度にでてくるであろう。

7〜8日未明にかけての警官襲撃事件は赤シャツ強硬派が「和平案」受託への反対の意志表示として行ったと見られている。

アピシット首相は名指しで「カッティヤ少将が和解推進を妨害している張本人である」と断定した。

タクシンは11月14日の選挙で「勝ち目がない」と考え、カッティヤに強行策を支持した可能性もある。

タクシンが最も恐れているシナリオは「アピシット政権が永続するこ」である。その理由はアピシット首相がタイの現代政治歴史上「最高の政治家」であり、彼をなんとでもして「潰さなければ自分の出る幕は永久になくなる」と考えているからである。

赤シャツがアピシット首相の自宅に押しかけ「血液をバラまき、バラモンが呪いをかける」という前代未聞の行動に出たことをみても、いかにタクシンが「アピシットに憎悪の念を抱いているか」が分かろうというものである。

「和解案」を赤シャツに提示したアピシット首相がPAD(黄色シャツ)や市民グループや民主党内部からも批判を受けているのをチャンスと捉え、「和平案を潰してアピシット失脚させる」という戦術を取っている可能性が極めて高い。

アピシットはそれを察して、何回目かの「最後通牒」を赤シャツに突きつけ、一方で軍による「強行策」を模索しているものと考えられる。もし実行されれば数百人の死者が出ることも考えられる。

その際アヌポン陸軍司令官がどうするかが問題であるが、彼が「中立の立場」をとり続けるならば、解任され、後は副司令官のプラユット大将(Prayuth Chan-ocha)が指揮をとることになろうと見られている。

⇒赤シャツついに全面降伏を決める(2010-5-10)

アピシット首相の最後の「最後通告」に赤シャツ隊はついに全面降伏を決めたと報じられる。

赤シャツは最後の条件として、4月10日事件の政府側責任者としてスーテップ副首相の名前を挙げ、警察に出頭した段階で、デモ隊を解散するといっている。

スーテップ副首相は「治安維持本部隊長」として4月10日の赤シャツ隊強制排除の指揮をとった最高責任者で「有罪」だというのが赤シャツの口実である。同氏は法務省の特別捜査局に出頭することになるであろうがこれは何の問題もない。

赤シャツの投了(全面降伏)の「形作り」にしか過ぎない。相手に王手をかけてから「負けました」という例の将棋の流儀である。

テロ行為の首謀者としてカッティヤ少将とタクシンが名指され、赤シャツが軍・警察に抵抗して武装闘争を続けならば赤シャツの幹部全員が現場で射殺されるという事態を恐れたに違いない。

赤シャツの殺人武闘集団のリーダーとして多くの無実の人(軍人・警察官を含め)を殺傷してきた「異色の軍人」も元を正せばカネ欲しさからタクシンに接近してきた多くの政治屋と本質的には同じであり、最後は自分の命が大事なのである。

軍側は戦車と装甲車を現場近くに配備し、総攻撃をかける準備をしていた。

東北からきた「ケンカ部隊」にも道中数箇所の検問所で赤シャツ隊の本部に合流したら、生きては帰れないからこのまま引き返せとずいぶん説得を受けたらしい。命がけでタクシンのために闘うほど彼らはクレージーではないし、無知でもない。

赤シャツ隊が保有している武器も無防備な一般市民には脅威であっても、正規軍と戦闘になればワン・サイド・ゲームになる。4月10に事件で軍が敗退したのも、軍側に赤シャツ隊の武装についての知識が欠けていたためである。敗因は油断であった。

ゴム弾頭の銃では赤シャツが軍から盗み出した自動小銃や狙撃ライフルにはかなわない。実弾を装備し兵士は後方に配備され、先頭集団にはいなかったのである。赤シャツの銃撃に急遽、実弾射撃で応じたときは既に多くの兵士が殺傷された後であった。

今回は、実弾を装備した部隊が前面に出て、しかも戦車と装甲車が出撃するという万全の戦闘態勢が用意されていた。さすがのカッティヤ少将もこれには勝てないと考えたのであろう。

赤シャツの武装解除とカッティヤほか「浪人戦士」軍団の逮捕がどうなるかも残された問題である。カッティヤは独自に赤シャツ第2執行部を組織して、最後まで抵抗するといっているようである。赤シャツ執行部はそんなことはあり得ないといっているという。(ネーション、5月10日電子版)

しかし、浪人戦士の身元はほとんど割れているのである。彼らは東北地方の「国境レンジャー部隊」の出身者が大部分であり、いずれ個々にお縄を頂戴することになろう。

逃げ隠れして「マフィア」の用心棒として余生を送者も多いであろうが、彼らは「タタミの上では死ねない」ことになるであろう。

結局のところ赤シャツの幹部は「正義だの民主主義だの貧富の解消」だのといったところでタクシンから多額のカネを貰って「騒動を作り出した」いわばタクシンの走狗にしか過ぎなかった。

無知な農民やスラムの住人が彼らに利用されたのである。

農民層が階級闘争をやりたければ、自前の運動としてやれば良いのである。そうすればバンコクの労働者階級や中間階級からの支持者も現れ、タイの民主主義運動のひとつの潮流になるであろう。そういう潮流にはタクシンは個人的にお付き合いできもしないし、そんなことにそもそも関心がない。

バンコクの自称左翼もポケット・マネーを出して職を賭して彼らの先頭に立って闘えばよいではないか?チュラロンコーン大学やタッマサート大学の某某大先生方などは是非そうすべきである。

⇒赤シャツ投降取りやめ、軍も閉鎖強化(2010-5-12)

一旦は投降を決めた赤シャは結局は最後まで投降を拒否するカッティヤ少将を中心とする強硬派に押され、投降を取りやめた。

赤シャツは一旦は「解散に合意」したが、その後治安維持本部長のスーテップ副首相に「4月10日事件」の刑事責任(強制排除命令を出し、その後流血事件となったこと)をとるために「警察」に出頭せよと要求した。

スーテップ副首相は警察ではなく「法務省特別捜査局(米国のFBIのようなイメージ)」に出向いて、事件のあらましを「説明」した。赤シャツはそれではダメであくまで「警察」に行けという。

赤シャツが「警察」に固執するのは、自分達が「警察に捕まりたい」と思っているからである。警察は「赤シャツ」に好意的(タクシン派幹部が多い)であるとされる。

しかし、「警察」は本件は「特捜局」に移管しており、警察は本件は取り扱えないといっている。しかし、赤シャツはそれでも承知しない。スーテップ副首相は「法に基づいて行動するので、赤シャツの指示には従えない」という。ごもっともな話しである。

例え、スーテップが赤シャツの言うことを聞いて警察に行ったところで、次に赤シャツは「自分達の保釈要求」など無理難題を吹っかけてくることであろう。というのは赤シャツ執行部は「投降」できない大きな事情があるのである。

それはカッティヤ少将の存在である。彼はタクシンから「解散許可」がでていないし、執行部の「刷新」の指示を受けているといって、あくまで「解散・投降」に反対しているのである。これにジャトポンなどの強硬派も同調しているものと見られる。

カッティヤ少将は幹部会の議論をリードし、政府との妥協を模索する「ウィーラ・ムシカポン(元民主党員で長老格)、ナタウット・サイグア(1億バーツ男)、ウィーン・トーチラカーン(医師)、およびウィサー・カンタップを壇上に上げて演説させるべきではない」とした上で「アリスマン(元俳優で昨年のASEAN会議をぶち壊した)、スポン・アッターウォン、クワンチャイ(ウドンタニ赤シャツ軍団=コン・ラック・ウドンの親分)、ワイポット警察中佐」の武闘派4人を新たな第2執行部に据えろと主張したという。

これに対してはナタウット氏は事実ではないとしおり、赤シャツ隊は誰にも幹部を解任する権限はないとしている。しかし、組織の論理では「強いもの(暴力的な意味でも)が勝つ」のである。

結果的に、赤シャツ隊は強硬派にハイジャックされたことになってしまった。

アピシット首相は5月12日(火)にデモ隊解散を命令した。しかし、そんなことは聞き入れられない。治安維持本部は12日深夜から電気・水道・食糧のほか携帯電話なども遮断し、また外部からの人の出入りも規制すると通告した。赤シャツは自家発電気などで対応するといっている。なお、電気と水道は周辺施設への影響もあり、遮断は撤回された。

終局、最終段階でもつれているが、肝心のタクシンから「解散許可」がでない限り、「雇われ人」の赤シャツ幹部も動けない。一部が分離投降する動きがあったが、それも中止になった。

タクシンの狙いとしては「軍に介入させて、デモ隊に多くの死傷者を出させ、アピシット首相を辞任に追い込む」という筋書きを考えているに違いない。アピシット首相としては、まず「兵糧攻め」から手をつけたということであろう。

タクシンはデモ隊から死傷者がでることなどあまり気にしていない様子である。目的のためには手段を選ばないタイプの人間なのである。


コブサク官房長官は赤シャツが5月12日中に解散を宣言しなければ、11月14日選挙を白紙撤回するという声明を出した。これはアピシット首相の意向を踏まえた発言であり、これで話しは振り出しに戻ったようである。ただし、和解のための「5項目提案(貧困対策など)」は規定方針通り、実施していくという。現地時間7時15分発表。


⇒バンコク情勢いよいよ緊迫、軍隊今夜18時から排除行動か?(2010-5-13)

秩序維持本部は5月13日(木)からラートプラソン地域の包囲網を一段と狭め、軍隊に実弾使用を許可した。周辺の交通を全面的にストップさせ、電気・水道も遮断する。

デモ会場からの脱出は認めるが、会場内へ入ることは一切禁止する。また、周辺を通行するものは身分証明書の携行を義務付ける。

赤シャツ隊の代表のウェーンは300〜3000人の死者が出ても断固戦い抜く覚悟であると息巻いているという。

一方カッティヤ少将は和解派の赤シャツ幹部が出て行けば、あとは自分達が引き受けて闘うといっているという。

どちらにしても、カッティヤ率いる強硬派がいる限り、4月10日に次ぐ「大戦闘」は避けられない見通しになってきた。今夜その決戦が行われる可能性もある。周辺の事務所は午後3時に従業員を帰宅させている。

軍隊は装甲車を先頭に立てて排除行動にはゴム弾を使用するが相手が銃撃や手榴弾攻撃をしてきた場合は、自己防衛上の実弾射撃をして良いという「許可」がでているという。

カッティヤのような「変調をきたしている軍人」を仲間に引き入れた赤シャツ幹部の責任は重大であるが、その責任を実際に取らされる時間が近づいている。

軍はサラブリ県から120台の装甲車を用意し、包囲軍は総勢32,000人が動員されているという。赤シャツ隊の人数は明らかではないが、10,000人以下であると思われる。

もちろん、デモ隊解散宣言の時間的余裕はあるが、強硬派は別行動をとり、場合によっては「和解派」を拘束して自分達が新赤シャツ隊の代表であると宣言する可能性もある。ただし、現執行部も「闘争継続」を依然宣言している。

しかし、「闘争」⇒「逃走」は時間の問題であり、カッティヤによればウィーラは既に息子がレストランを経営するイギリスに亡命したという。もちろん、この時期に亡命などできっこない。国内の何処かで隠れているに相違ない。あるいは消された可能性もある。

カッティヤは赤シャツ隊の現執行部が投降しても、ラートプラソンを最後まで守り抜くために80名以上の「戦士」の署名を既に集め、アリスマンを新代表にすることとし、カッティヤは彼をワキから支える役割を演じるという。

カッティヤ少将がサラディン(ルンピニ公園前)で何者かに銃撃を受け、頭部に負傷し、病院に運ばれたが死亡(未確認)したというニュース速報があった。日本時間午後10時前。

詳しい情報は出いていないが現地時間午後7時半ごろセー・デーン(赤い参謀)ことカッティヤ少将が数人の地元記者や日本人のジャーナリストの取材を受けている最中に頭部を狙撃されフア・チュン病院に運ばれ、集中治療室で手当てを受けているという。一時期死亡説が流れたが、未確認である。同時に赤シャツ隊が激昂し、M79を投擲し始め、軍との銃撃戦がルンピニ公園前で散発的に行われているその中でデモ隊の25歳の若者が銃弾を受けて死亡した。
ルンピニ公園には赤シャツの武器が隠匿されていると見られている。


⇒カッティヤ少将重態で新たな展開(2010-5-14)


カッティヤ少将は銃撃を頭部に受けて、意識不明の重態といわれ、あるいは死亡したという説が飛び交った。犯人は軍という見方もできようが、赤シャツの狙撃部隊の可能性もある。カッティヤが邪魔になれば赤シャツは平気で味方をも殺す。

赤シャツ隊は強硬派の指導者がいなくなったということで、また新たな動きが出てくるであろう。

当面はカッティヤの復讐などといって強硬派は燃えるであろうが、それは一時的なもので、「殺し屋集団」ももっと馬鹿でかい「国家的殺し屋集団」=軍隊の敵ではない。

いずれ白旗を掲げる日が、そう遠くない将来にやってくる。


⇒赤シャツ隊全面降伏間近、女子供老人の撤退始まる(2010-5-16)


5月14日、15日、16日の3日間で死者31人、負傷者230人が出た(現地時間16日午後6時現在)。死者の大部分は赤シャツ・デモ隊員であるが、見物に来ていた20歳の女性が赤シャツのテロリストの狙撃によって殺害された。赤シャツの狙撃者はカメラマンや一般市民も時に標的する。

治安維持本部の「赤シャツ解放区」への徹底的な封鎖作戦の中での衝突であった。軍の「解放区」への突入は最後まで控えられていた。もしこれを強行していたが、死者の数は今日現在3桁に達していたものと思われる。

治安維持本部の作戦は「封鎖」と「兵糧攻め」であった。特に後者は6,000人ともいわれるデモ隊員に大きな打撃を与えた。酷暑のバンコク市内で水も食糧もなくて24時間緊張の連続の「戦闘」が続けられるはずはない。

16日(日)は戦闘はあまり行われず、午後3時になって「女子供・老人」が荷物をまとめ、隣接する寺院に引越しを始めた。それ以外にもデモ会場から去りたいものは出て行ってよいという「許可」が執行部からだされたようである。

赤シャツ幹部の言い分としては「女子供」を盾にして闘っているという政府側の非難に応えるためだという。

何人残るかは不明だが、正規軍とマトモに闘えるはずがない。徒手空拳のデモ隊を盾に手榴弾攻撃を仕掛けても、軍が近づかなければどうにもならない。軍も装甲車を投入してくる可能性もある。また、大量の手榴弾が隠し場所のルンピン公園などで軍に発見され押収されてしまった。

「黒服軍団(浪人戦士)」というカッティヤ少将が訓練した戦闘集団といえども、正規軍と対決すれば到底勝ち目はない。銃を持たない歩兵やカメラマンには効果があっても、正規に武装した第1軍団(バンコク防衛)の精鋭部隊と撃ち合いとなれば短時間のうちに全滅させられるであろう。

赤シャツのテロ部隊(黒シャツ)は素手の赤シャツ・デモ隊にまぎれて、デモ行進をして、軍に接近したら、隠し持っていた手榴弾を投擲するという作戦を取ったが、軍は戦闘の赤シャツ・デモ隊の足を射撃し、行進を止めるという戦術で応戦し、手榴弾の直撃は受けていないようである。

治安維持本部は一時期は「戒厳令」を「解放区の周辺」に布くことを検討していたが、中止になった。それまでやらなくとも勝負はつけられると踏んだのであろう。

赤シャツ隊は「国連」の斡旋の元に「休戦協定」を結びたいなどといっているが、政府は当然のことながら拒否した。国内の「テロリスト」と戦っているのに外国の斡旋や仲裁を受けるはずがない。

また、国連やICGなどの今回の事件への見解は外国のメディアの特定の記者(タクシンに買収されている疑いがもたれている)の記事に基づくものが多い。

日本のメディアもおよそ非常識な記事が多かった。特に一時期の朝日新聞の記事は「タクシン・ベッタリ」としか言いようがない内容のものであった。おかげで私の知る限り、日本人の多くは「タクシンは民主主義と貧者の味方」であると信じている。

赤シャツ隊が「完全武装解除」に応じなければ、ラートプラソン中心部への進軍もありうるが、それは間もなくはっきりするであろう。

なお、すでに逮捕されている赤シャツ・デモ隊員20数名は即決裁判で6ヶ月の禁固刑が言い渡されている。無抵抗で投降したデモ隊員は身元調査だけで多くは解放されるようである。

なお、日本で知られているクロントイ・スラムのヒロインであるプラテープ女史は赤シャツ隊の応援のための参加者の集会(1,000人ほど)で、「封鎖している軍隊を突破してラートプラソンのデモ隊本部に合流せよ」というアジ演説を行っていたそうである。彼女には日本人の支援者が多いと聞く。

クロントイ地区から食糧・水などを積んだトラックが軍の封鎖線を突破しようとしたが、軍に阻止され引き換えした。

なお、タクシン夫人と3人の子供は5月14日に国外に脱出し、チャワリット元首相も中国の昆明に脱出したと伝えられる。

また、106の銀行口座が凍結されたという。その中には13社の企業とタクシン一家のものやカッティヤ少将や赤シャツ幹部ソムチャイ前首相、チャイシット・チナワット元国軍総司令官(タクシンの従兄弟)、パンロップ退役大将(カッティヤ少将の元上官)などの口座が含まれている。

その後、チャワリット元首相や、クロントイ・スラムの女帝といわれるプラテープ女史らが追加された。赤シャツの活動資金の流れを止める目的であるとされている。

政府は5月17日、18日を臨時の休日にしているが、証券取引所と銀行の多くの支店は開業すると言う。また、地方の赤シャツが県庁を包囲するなどの動きが起こっており、現在東北部、北部各県の22県に「非常事態宣言」が出されている。

全国的に赤シャツが騒動を起こしているように報道されているが、県庁へのデモを禁止する(6人以上の集会禁止)目的が大部分であり、小競り合いは起こっているものの特に大きな問題はない。

なお、ラートプラソンの伊勢丹は4月3日から閉店しており、700人の従業員は自宅待機しているという。周辺でも同様な措置をとっているところが多い。一般の事務所は市内の別な場所に仮事務所を開いている。

⇒赤シャツ降伏を決断できず(2010-5-17)

治安維持本部は午後3時までにデモを解散してラートプラソン地区を明け渡すように赤シャツ隊に通告したが、赤シャツ隊は解散(降伏)の決断をできないままタイム・リミットを過ぎてしまった。死傷者の数は散発的な銃撃戦だけでも着実に増えていく。

そのまま時間を延長してズルズル時を過ごしている。最新の情報では赤シャツ隊はまだ5,000人近くが残っており、女子供・老人も相当いるという。彼らはリーダーのいうままに残っているのである。自分が人質として赤シャツの「盾」として利用されているという自覚はないであろう。

赤シャツは軍が強制排除に乗り出したら、女子供を自ら殺して「政府のせい」にしかねない。それを承知しているから軍も最後のトドメをさせないでいる。

赤シャツの幹部としては投降しようにも武器を持った500人の黒シャツ集団が背後にいては動きがつかないものと思われる。

暴力団に「理性」を期待しても無理であろう。彼らが戦闘能力を失うまでどうにもならないのではないであろうか。それはおそらく3桁の死者が出ることを意味する。

黒シャツ集団は4月10日に軍人を多数殺傷しているだけに降伏して捕まることを極度に恐れているものと思われる。最後の最後まで武装放棄に応じる様子はなさそうである。

軍としてはおそらく、女子供のいないところで、赤シャツと黒シャツを叩くことを考えているであろう。それには「封鎖ライン」をもっと近づけるのと「食糧・水の補給を絶つ」という一見遠回りの作戦に出るものと思われる。

スラムの元天使、プラテープ女史はクロントイのスラムの前の交通を遮断し、演壇を設け、人々に「ラートプラソンのデモ」に参加するようにアジ演説を行っているいるという。警察は形ばかりの「交通再開の勧告」をして「道路封鎖を事実上黙認」しているという。

彼女の言うには「警察は赤シャツの味方であり、兵士もいずれ賛同する」というkとである。

一方、大親分のタクシン様はパリに現れ、シャンゼリゼとおりのルイ・ヴィトンで次女のペートンタンと優雅なお買い物をしているところをビデオ・カメラに撮影され、それがバンコクで放映されたという。民主主義のシンボルにして貧民階級の救世主ともなるとやはりナミの神経ではない。

明朝から、軍が動きだすであろう。そのために臨時休日を18日までとってある。赤シャツの戦闘能力が封じ込まれているため、バンコク銀行本店(シーロム通り)は1日朝から平常どおりの営業を行った。

⇒「黒シャツ・テロリスト武装集団」を赤シャツ幹部が統括指揮(2010-5-18)

治安維持本部は赤シャツとの「交渉」に貴重な1日を空費した。バンコクに限って休日を5月21日(金)まで延期した。

赤シャツは「幹部の逮捕後に保釈」されることと「黒シャツ軍団が武器を携行したまま、脱出する」ことが認められなければラートプラソン地域から出て行かない。

そのために「軍が先ず撤退して兵舎に帰れ」、そうすれば「赤シャツもラートプラソンから出て行く」というのである。法治国家が凶悪犯罪者グループをせっかく追い詰めながら、無傷で「野に放つ」ことなどできるはずはない。

タクシンは外国法律事務所を使って、米国政府や国連や国連人権委員会などを使って「紛争の早期解決と死傷者をこれ以上だすな」という圧力をしきりにかけている。

NHKまでが18日夜10時のBS放送で、「早期の政治的解決が望まれる」などと「一見正論風のコメント」をしている。有害この上ないコメントである。政治的解決とは「妥協」である。それは「赤シャツの言い分を聞かない限りできない」ということをまるでわかっていない。

「赤シャツ幹部の全員逮捕」と「黒シャツの武装解除」以外にタイ政府としては妥協の余地がないのである。後は裁判所に任せるというのが「法治国家」である。

タクシン時代は「麻薬の売人」容疑者を2,500人以上も路上で殺害している。

赤シャツ・デモ隊員は「アモック(狂乱状態)」になっている者がいるという。これは多分「麻薬を使用している」可能性が強い。赤シャツ幹部は彼らを静めることができないといっているらしい。

ということは「赤シャツ幹部」はデモ隊の「統率」ができないことを白状しているのである。これといくら話しても何も解決できないであろう。

また、昨日朝死亡が確認されたカッティヤ少将の腹心という男(ピチェット)が、逮捕され、彼が「赤シャツ隊」の内情を「白状」してしまったという。それによればタクシンから1億バーツ貰って恩師に見せびらかしたというナタウットが実は「赤シャツのテロ行動を指揮していた」というのである。

タイ政府はそれを知らずに、コブサク官房長官がナタウットを交渉相手にして、まとまるはずのない交渉を延々と行い、貴重な時間をロスしてしまったのである。その分だけ死者の数が少なくて済んだともいえるが、無駄な交渉であった。

タイ政府は予定通り、赤シャツ隊を武力で屈服させ「無条件降伏」させる以外に選択肢はないといえよう。日本政府はどういう行動に出ているかは知らないが、無意味に「政治決着」などをタイ政府に勧告したりすべきではない。タイ政府のレベルの高い政治家や軍人が事態解決に全力で取り組んでいる最中である。

また、赤シャツがアチコチで抗議集会を開いて、「混乱が拡散してい、事態解決のメドが立たない」などというくだらない報道をNHKなどはしているが、黒シャツ軍団(テロリスト集団)がついていない赤シャツのデモなどタイシタことはない。

テロリスト集団をラートプラソンで殲滅させることが、今回の騒動の唯一の解決策なのである。それを邪魔する国際機関・外国政府などは「赤シャツの味方をした」といわれても仕方がない。


⇒赤シャツついにデモ解散宣言、朝から軍が強制排除に乗り出す(2010-5-19)

治安維持本部は軍に早朝から出動を命じ、ルンピニ公園前の赤シャツ・デモ隊を制圧した。ルンピニ公園内も掃討し、多数の武器弾薬を押収した。

ラートプラソンのデモ隊本部への突入は控えられているが、赤シャツの全面敗北は確実となり、ナタウットが13時半ごろデモ隊の解散を宣言した。これはタクシンが了解したためと考えられ、タクシンは解散がやむをえなかったことを表明しているという。6名の幹部が警察本部に1時半ごろ出頭した。

6名の幹部とはJatuporn Prompan(プア・タイ国会議員)、Natthawut Saikua(ナタウット)、Kwanchai Praipana(クワンチャイ=ウドン・タニ赤シャツの大親分)、Nishit Sintuprai, Yoswarit Chuklom, Whiphuatalaeng Pattanphuthaiである。Weng Tojirakarnの出頭は確認されていないが、単独でズラかるような人物ではないのでいずれ出頭するものと見られる。

また、アリスマン(昨年ASEAN会場に乱入)はパトゥム・タニ方面に逃亡したと伝えられていたが、会場近くのプロンチット地下鉄駅で逮捕される。ところが20日になってアリッスマンはなお「逃亡中」との記事があった。

ラートプラソン地区にはまだ女・子供を含め数千人が残っている。また、武装している「黒シャツ・テロリスト集団」は周辺のビルに立てこもっているといわれ、軍としては彼らとの最後の決戦が残っている。死傷者が増えるのはこれからかもしれない。

また、クロン・トイ地区ではプラテープ女史がリーダーとなって集会を開き、道路封鎖を行っていおり、数千人の新たなデモ隊が結集しているといわれているが、武装勢力がまぎれ込んでいる様子はない。数が多いので騒々しいが、武器弾薬が持ち込まれなければ大したことはない。

プラテープ女史には「逮捕状」が出ているが、5月22現在捕まったという報道はない。「プラティープ財団」には多くの日本人や団体が多額の寄付をしており、支援者への説明のためにも早く出頭し、「事情説明」を行う義務があるであろう。

ウドン・タニとコン・ケーンでは市庁舎に数千人の赤シャツ・デモが押し寄せ、両市で市庁舎に放火されたという。

ラートプラソン地区の4月3日からの赤シャツの不法占拠状態は終わりを遂げつつある。

また、ラートプラソンを脱出した赤シャツ隊員が徒党を組んで市内のアチコチに放火をするなどして暴れまわっている。市内15箇所以上で放火。

治安維持本部はバンコク市内に19日午後8時から20日午前6時まで夜間外出禁止令を発令した。いままで非常事態宣言が施行されていた地方にも「夜間外出禁止令」がだされた。

なお、これまでの作戦で4名の死者が新たに出ており、イタリー人の新聞記者が死亡した。

外国人のジャーナリストやカメラマンは赤シャツのテロリストが狙撃対象にしている。彼らが死ぬことによって外国政府や国連の介入を狙うのが赤シャツ(タクシン派)の狙いであると思われる。

(赤シャツ暴徒の乱暴狼藉)

激昂した赤シャツ・デモ隊員がセントラル・ワールド1階のガラスを打ち壊し、店内の略奪を始めた。デパート「Zen」(伊勢丹の並び)は放火され4階にまで火が燃え移っており、ビルの西半分が倒壊の危機に直面している。

伊勢丹はZenからは反対側の東棟にあり廊下でつながってはいるが、かなり離れており延焼は免れるとみられる。しかし、当分開店できない可能性が出てきた。


サイアム・スクエアの商店街が略奪され、映画館が放火され焼け落ちた。クロン・トイ地下鉄駅には「黒シャツの暴徒」が乱入し、電車に放火したという。また、コンビニにも乱入し、略奪をしている。

英字新聞、バンコク・ポストとネーションにも暴徒が押しかけ、バンコク・ポストは社員が一時避難をした。テレビ局第3チャンネルに暴徒が乱入し放火し、放送が不能になり、スタッフはヘリコプターで脱出したと伝えられる。

証券取引所の建物が放火され炎上しているという。午後1時49分で取引が打ち切られた。

赤シャツ暴徒は報道機関や証券取引所といった特定の場所を狙っており、事前に攻撃目標を決めて計画的に暴動を起こしていた可能性がある。

これらの暴徒に対し、警察は全く無策でろくな取締りをやっていないという非難が起こっている。最終的には軍が市内の秩序維持に向かわざるをえないであろう。このままでは警察も事件後大量の処分者がでる可能性がある。

⇒バンコク市内で31箇所の火災、ラートプラソン地区の制圧は未完(2010-5-20)

赤シャツ・デモ隊の解散宣言が行われ、幹部6名が警察本部に出頭したが、敗北に激昂した「強硬派」のデモ参加者が占領地域を中心に破壊と放火を行い、31箇所で火災が発生して、大きな被害をだしている。

その最大の原因は軍が人命の尊重に重きを置いて、ラートプラソン中心部の完全制圧をためらっていた為である。そのため赤シャツが「武装解除」に応じたとは言えない状態が続いている。

武装したテロリスト集団の「黒シャツ隊(浪人戦士)」がビルに隠れて、軍の到着を待って、攻撃を仕掛けて来る可能性がかなり残されているからである。

夕刻になり、周辺ビルの掃討が進み、サイトの中心地で「現場検証」が始められたという。中心地では爆発物のほか数丁のM16ライフルと銃弾が発見された。しかし、「黒シャツ軍団」の兵器はもっとはるかに多く、それは行方が分かっていない。

5月19日(水)の軍の作戦で、死者は推定14名と「意外」に少なかった。これは「黒シャツ隊」との決戦を避けたためでもある。その決戦は本日以降に持ち越されている。そのためか軍側の人的被害は少なかった。

ラートプラソン地区の避難場所に指定されているパトゥム・ワナーラム寺院には6名の遺体があることが確認されているが、回収されていない。興奮した赤シャツが大勢いるために、警察も怖くて強制措置が取れないのである。ただし、同寺院内の赤シャツ・メンバーは19日のピーク時は5000人近くいたが、700人程度に減ってきているという。

この6名の死因は謎に包まれており、「黒シャツ」が何らかの理由で狙撃して殺害したという見方がある。軍もこの時間には現場付近に進出してきており、軍からの発砲があったとデモ隊員は証言しているという。死者のうち1名は看護婦であり、寺院の入り口付近で射殺されたといわれる。

20日午後になり、ポーンテープ国立科学捜査研究所長をヘッドとする検死チームによる6人の死因の検査がおこなわれた。推定死亡時刻は19日午後6時〜7時とされ、遠距離からの銃撃によるものとの所見を得たが、発砲者は不明であるとの見解であった。

高所からの射撃であったことは間違いなく、黒シャツが政府の言うことを聞いて寺院に避難した無実の人間を見せしめのために射殺した可能性が高い。、軍が避難場所に指定した場所にいる無防備の人を撃つはずはないと見るべきである。アピシット首相は特別チームを設置して実態調査をするといっている。

バンコク市内全域で赤シャツが略奪や放火などを続けており、特にクロン・トイ地区のスラムが赤シャツのメンバーが多く、市内の掃討作戦も課題である。

警察の行動は緩慢であり、小規模な事件は広がりをみせていた。ただし、勝負はついたことは明らかで、時間とともに事態は収束に向かいつつある。

20日は金融機関のほとんどが閉鎖さtれている。証券市場も閉鎖されている

「夜間外出禁止令」について治安維持本部は20日から23日(土)まで午後9時から翌朝5時までバンコクと23県(非常事態宣言の出ている)について施行すると発表した。

軍の掃討部隊がラートプラソン地区にも入っており、「黒シャツ隊」の抵抗も報告されていない。何処かに隠れているか、武器を隠して逃亡したと見られる。

また、20日昼頃赤シャツのトップ・クラスの幹部であったウェーラ(Veera Musigapong)とウエン(Weng Tojirakarn)とコーケウ(Kokaew Pikulthong)が3人そろってが警察本部に出頭した。

コーケウは赤シャツ・デモ隊員に直ちに破壊行為を止めるよう呼びかける声明を出したという。もちろん何の効果もない。「武闘派」のアリスマンは昨日捕まったという報道があったが、実はまだ逃亡中だとのこと。

また、撮影されたビデオ映像からナタウットが赤シャツ隊に「放火と破壊活動」を呼びかけていたことが明らかになった。放火と破壊と略奪は興奮した赤シャツの「自然発生的」な行動というより、多くは「計画的な」破壊活動であった可能性が高い


⇒バンコクついに鎮火、すさまじい破壊の跡(2010-5-21)

タイのというよりタクシン流民主主義の荒っぽさと欺瞞が遺憾なく発揮されたここ数ヶ月の動きであった。軍はラートプラソン地域(日本で言えば東京の銀座)を完全に制圧した。

赤シャツのテロリスト集団「黒シャツ隊」は混乱に乗じて、うまくトンズラした。鉄砲は何処に隠したのかほとんど回収されていない。4月10日に軍から奪った銃だけでも300丁はあったといわれる。

銃弾はパトゥム・ワナーラム寺院の池から400発の機関銃用銃弾が回収されたが、肝心の機関銃は見つかっていない。黒シャツが狙撃用に使用していたM16ライフルもごく1部にしか過ぎない。手榴弾は多少回収されているようだが、実際赤シャツの手元には多くが残されているであろう。

要するに最後の段階でタクシン派のテロリスト集団を取り逃がしてしまったのである。これが、今後のタイ社会の大きな「負債」として残ってしまった可能性がある。彼らの動きが今後の「不安定要因」なのである。タクシンはバンコク市民の首筋にヤイバを突きつけ続けるのである。

民主主義をスローガンに掲げたタクシン派なるものが「タイの最大の民主主義の敵」として今後も存在し続ける。なんとも皮肉な話しだが、日本の学者やメディアの多くは一貫してタクシン派を支持してきたことを忘れてはならない。

ここでタクシンの思惑通りに「赤シャツ」がタイ国民の「支持」を受け、政権を握ったらどういうことになったであろうか?タクシンの独裁体制が復活することは目にみている。タクシン時代はタイの民主主義が大変抑圧された時代である。特に「政権批判」をするメディアはヒドイ目にあった。

一般市民の自由や人権や民主主義的権利は重大な危機にさらさるに相違ない。フィリピンのマルコス体制、インドネシアのスハルト体制、マレーシアのマハティール体制と同じものがタイに出現したであろうことは容易に想像がつく。

赤シャツの暴力行為的体質が背景にある怖い政権になったはずである。一般市民の生活は逼塞状態に追い込まれるであろう。

タクシンは貧しい農民層に救いの手を差し伸べたというが、それはあくまで選挙に勝つための「方便」であったことは明らかである。そこだけを取り上げてタクシンは「貧者と民主主義の味方だ」などというのはおかしい。

アピシット政権も貧困対策には本腰を入れてきた。べつにタクシン時代より今日の農村の暮らしが悪化したとも見えない。

世界のどこにいっても「都市と農村の格差」が縮小している国などほとんどない。日本などはまだ、マシなほうである。何しろ農業と工業の「生産性の格差」がどこの国にいっても5〜10倍あるのだ。

それがない国がASEANにある。それはビルマである。ビルマは工業化がほとんど進んでいない。そのために工業の生産性が極端に低く、農工格差も小さいということになる。

それにしてもバンコク市の傷跡は大きい。大きなショッピング・モールが放火により破壊された。今回の放火・破壊活動はナタウットのような赤シャツ幹部の戦術プランのなかに入っていたのである。タクシンとその手下の恐ろしさがいやというほど身にしみたのが今回の事件である。

PAD(黄色シャツ)も空港を占拠したのはやりすぎだったが、手榴弾や銃で武装して相手を殺傷するようことはやっていない。もっぱら、殺されたり、ケガをさせられる方に回っていた。放火も略奪ももちろんしていない。タクシン体制の「復活」に市民として抵抗したのである。

日本の学者やメディアは「タクシン体制」がいかなるものであったかという知識もないし(分かっていたが隠していた面もある)、分析もしていないから、ただ「選挙で勝った政権を軍事クーデターで打倒するのはケシカラン」ということの一本槍である。

過去には「悪いクーデター」がほとんどであった。しかし、まれには「良いクーデター」もありうるのである。タイでいえば、1976年のタマサート事件の後に誕生した「タニン反動政権」を潰したクリアンサクの軍事クーデターも、その後プレム政権に引き継がれ結果オーライであった。

ヒットラーだって民主主義選挙で政権についた。ヒットラーに抵抗するのは「悪」だったのか?ヒットラーは独裁者になっていった。その段階では既にヒットラーを潰すことはできなかった。タクシンは独裁体制を完成させる前夜に軍事クーデターで潰された。これをどう見るかである。

2006年9月の「軍事クーデター」は軍人が政権を自分のものにするために起こしたクーデターではなかった。スラユト政権はああくまで「暫定政権」で1年で民政移管を果たした。とりあえずタクシン独裁政権を倒すためのクーデターであった。


いわば「独裁政治から民主主義への軌道修正」をおこなったクーデターであった。それが、「民主的選挙」というプロセスを経て行われるのがベストであるが、買収などの「選挙違反」が恒常化しているタイでは不可能だったのである。

このクーデターで軍が政権を奪ったということではない。1年間の暫定的なスラユット政権を経て、再び「民政移管」して今日に至っている。




⇒外出禁止令を24日(月)まで延期(2010-5-23)

治安維持本部はバンコクの「外出禁止令「を23時から翌朝4時までに短縮して2日間延期方決定した。その後については情勢を見極めてから決定するとしている。

また、治安維持本部を郊外の第11歩兵連隊駐屯地から、都内の陸軍本部に移動することも決定した。日本人学校も明日5月24日(月)から再開されるという。証券市場も再開される。

しかし、赤シャツ隊の一部は武器を持ったままバンコク市内に潜伏しており、アピシット首相暗殺を狙っていることは間違いなく、警戒態勢を緩めることはなかなかできそうにない。

23日の0時30分ごろバンコク銀行のラートプアラオ支店に銃弾4発が撃ち込まれて窓ガラスなどが破壊された。「夜間外出禁止令」下にあっても赤シャツの破壊活動は続いている。

5月19日の赤シャツ排除作戦で、「黒シャツ隊」の主力メンバーを取り逃がし、大量の銃砲や手榴弾が赤シャツの手元に残っていると推察される。彼らは殺人について対象を選ばず、外国人を殺せば「話題性が高まる」と考えているフシがあり、引き続き要警戒である。

ともかく、赤シャツ部隊のラートプラソン地区の占領地は解放され、主要な幹部は逮捕されたが、赤シャツと警察の癒着関係は明らかであり、「スラムの天使」ことプラテープ女史はクロントイでの集会のアジ演説で「警察はわれわれ(赤シャツ)の味方であり、兵士もやがて改心するであろう」と公言してはばからなかったという。

警察官が赤シャツの行動を取り締まらないということは白昼、一般市民が襲われる危険が当分は消えないということを意味している。

一応の闘いが終わって、日本の新聞を読んで気がついたことは、未だに今回の赤シャツ騒乱の原因は「都市と農村の貧富の格差」(毎日)だの「背景に階級対立、政治的不平等感」(日経)だのという論説ばかりである。

私に言わせれば、今回の騒乱は「タクシンがいたから起こった」という一言で尽きると思う。タクシンが外国にいてゴチャゴチャ口出しをしなければ、デモは起こっても「騒乱」にまで発展するわけがない。

彼は何とか無実になって政権に復帰し、独裁政治の再現を狙っているものと思われる。今回も「和平交渉が一旦は合意に近づきながらも」土壇場でタクシンがイエスといわなかったために話しがぶち壊れた。チュラロンコーン大学のティティナン先生はスーテップ副首相が「特別捜査本部」に出頭しないで「警察に出頭すれば」ことは治まっていたとバンコク・ポストに寄稿している。

それは外国人向けのタクシン派のメッセージであり、警察も「本件は特捜部マターだからそちらに行ってくれ」と明言しているのは本HPに書いたとおりである。どうしてこういうミエスイたウソを言うのか理解に苦しむが、デマゴーグとはこういしたものである。

毎日の「貧困格差論」(西尾英之特派員)は古臭い理論であるが、まんざらウソではない。確かに貧富の格差は存在し続ける。しかし、これはある意味では解消できない格差である。農業と工業の「生産性格差」がバカデカイのである。しかし、ウドン・タニの大ボスのクワンチャイの乗用車はベンツですよ。

これに対して日経の5月21日の記事(高橋徹特派員)はややユニークである。タイの都市と農村との経済的格差の縮小があり、経済問題よりも「政治的不平等が問題にされた」という京大の玉田教授の説を引用している。

「選挙で勝ったのに政権が取れなかった」不満が最大の問題だという。しかし、タクシンをクーデターでバンコク市民が追い落とした背景には「独裁政治の拒否」という背景があったことは前号(5月21日)でのべたとおりである。

PAD(民主主義のための人民連合)の主張はまさに「タクシン独裁政権への拒否」であった。これを「旧守派、王党派」の「反動」と見るのは先のティティアンをはじめとする「タックシン派」特有の見方である。

タクシンが「改革派」で反タクシン派が「保守・反動派」だなどというのは全くのインチキである。タクシン政治こそ「金権・独裁政治」であった。現在の民主党中心の連立政権のほうがよっぽど、民主的で外資に対しても協調的であり、「経済合理性」重視の政策を行っている。

タクシンは一見「ネオ・リベラル的(小泉改革に似た)」な政策をとり、国営企業の民営化を進めた。しかし、これは実態的には「利権」をあさり「旨い汁を吸う」のがタクシン一派の手口であり、日本でもおなじみである。

何でもかんでも「自分の一族や一派に利益誘導していく」タクシン体制などは真っ平ご免であるというのがタイ経済のバック・ボーンの中産階級の意見である。彼らが「反タクシン」運動の中心であり、PAD(黄色シャツ)の運動の担い手でもあった。

彼らを「特権階級」と呼ぶタクシン派の言い方は間違いである。彼らこそ今後のタイの政治経済を動かしていく中心勢力なのである。タクシンに「既得権益を奪われた旧守派」などという見方はおよそ当てはまらない。「王党派」だなどとフランス革命期のような政治勢力はタイには存在しない。いても少数派であり、彼らだけでクーデターなど起こせるはずがない。

大体タイの国王は「君臨すれども統治せず」という、日本の「象徴天皇制」にどちらかといえば近い存在である。ただし、国王は「タイに民主制を定着させなければならない」という強信念を持っておられることは間違いない。それを長年支えてきたのはプレム枢密院議長(1980〜88年の首相)である。

タイの民主主義の破壊者としてタクシンに危機意識を持っていたのは、バンコクの中産階級やプレム氏や国王ご自身であったと考えられる。


私が理解に苦しむのは「スラムの天使」ことプラテープ女史の思想と行動である。「タクシンは多少の汚職はやったかも知れないが、貧民に目を向けてくれた最初の政治家」であると称えたうえで、2006年9月の軍事クーデターを批判した。「ネズミを追い出すのに家全体に火をつける必要はない」という。

しかし、相手は「ただのネズミではない」のである。タイ王国全体を食い物にする怪獣であり、あわよくば自分が独裁者として「大統領」になろうとしていたかもしれない。

この「ネズミ」論を使ってアジ研のレポート(『ワ−ルド・トレンドNo.137号』(2007年2月号)で玉田芳史氏と船津鶴代氏は「クーデターとスラユット政権ー岐路に絶つタイの民主主義」と題する共同論文で2006年9付きのクーデターをボロクソに批判した。

クーデターは「勤王派」が「タクシンの台頭に危機感を感じて」起こしたものだという解釈である。スラユット政権は「タクシンの汚職たたきに失敗した」とも主張している。しかし、官僚の「非協力」もあってそれがうまくいかなかったこと嘲笑している。

しかし、「汚職や利益誘導」があったことは間違いないし、そのうちの1件(ポジャマン夫人の国有地落札)でタクシンは2年の実刑判決が確定している。

要するにタイの政治は「汚職」はつきものだから、そんなことを問題にすべきではないというのがプラテープ女史や玉田の主張であり、それよりも「選挙結果」という「民主主義の大原則」をゆがめるべきではないという主張であった。

アジ研はわれわれの税金で費用の多くをまかなっている政府系シンク・タンクである。なぜこういう一方的な説のみをヒステリックに強調するのか理解しがたいものがある。アジ研も「タックシン派」にハイジャックされてしまったようだ。

「汚職」もさることながら、タクシン政治の「独裁化」がタイの中間階級にとってはより問題にされたのである。

それでは「民主主義的選挙」で首相になったタクシンが「独裁政治家」として国民の前に立ちはだかり、「汚職や利益誘導」を行って国民の利益を損なった時に国民は「無抵抗」を強いられるのであろうか?それではヒットラー体制の悲劇を何度でも人類は繰り返すことになりはしないか?

先進国のような(日本も含めて)、民主主義国家では概して国民の政治意識は高く、「言論の自由」も存在すれば(日本はかなり怪しいが)、少なくとも多少はましである。日本では害毒を振りまき続けた自民党政権さえ崩壊した。

それにしても、タクシンの政党は前回(2007年末)の選挙で第1党にはなったが「過半数」を取れなかたのである。それに加えて「分裂」があったから、プア・タイ党は2008年末に政権を失った。

当時の朝日新聞を読むと「タクシン派の大勝利、民主党の敗北」などとハシャイでいたが、民主党は100議席足らずだったのが166議席と大躍進したのである。

議会の首班指名で民主党のアピシット首相が誕生したのがケシカランといってラートプラソン通りを武装勢力を背景に50日近くも占拠し、排除にかかった軍を銃や手榴弾で殺傷し、戦いに負けたから今度はバンコクを火の海にするなどということは、どうにも「正当化」しようがない

日本の新聞記者はことの「是非」をしっかり認識すべきである。ティティナンや玉田の言うことを鵜呑みにして記事を書くようなマネは読者軽視というものである。もっとお勉強をしなさいよ。

⇒タクシンに「テロリスト容疑」の逮捕状が出る(2010-5-25)


タイの「刑事法廷」(Criminal Court)は法務省特別捜査局(DSI=the Departmment of Special Investigation)からの申請に基づき、タクシンに対する「テロリズム」に関与した容疑での「逮捕状」を発給した。 

当初は刑事裁判所もタクシンへの「テロリズム」容疑での逮捕状には躊躇していた(証拠がそろわないという危惧から)ようであるが、DSIは赤シャツ集会におけるタクシンのアジ演説(ビデオ参加)やその他の文書などの証拠を集めて「逮捕状」を請求していた。

「テロリズム」の定義は難しいが、デモ参加者の銃砲、爆弾使用による一般人の大量殺傷や軍人の正当な「法の執行」への攻撃と殺傷は十分にテロリズムの要件を満たすものであろう。

この逮捕状によって外国政府のタクシへの対応はいっそう厳しくなっり、居住はいっそう制限されることになり、場合によっては「逮捕・本国への強制送還」ということも起こりうる。

タクシンはテロ容疑の逮捕状が出ることは想定の範囲内であるとうそぶいているそうである。

日本においてはメディアや学者の意見の影響が大きく、タクシンは軍部のいわれなき「クーデター」によて政権を追われた「かわいそうな犠牲者」というイメージがほぼ定着している。

しかし、実態はそうではないと本ホーム・ページでは再三指摘してきたとおりである。

国民の税金を使った国立大学の研究者や豊富な資金を持つシンク・タンクや、何百万部という発行部数を誇る一般紙が「親タクシン的な」情報を垂れ流して、日本人に誤った認識を与えたままでよいのであろうか?このままで、日本人とタイ人の「相互理解」が得られるのであろうか?

過去2〜3年のタイの政治問題を振返って、メディアがどういう報道姿勢をとるかを目の当たりにした。
全く意外だったのは従来進歩的と見られていた某紙が独裁政治家のタクシンを露骨に支持し、民主勢力の運動にことごとくケチをつけていたことである。

欧米のメディアの特派員の中にも同様な記事を書き続けた特派員もいたが、本社がそのいかがわしさに気付いて交代させたところもあった。

しかし、タクシンのメディア対策は巧妙を極め、バンコク放火事件後においてすらタクシンは「外国は赤シャツに同情的だから、気落ちせずに頑張れ」という檄を赤シャツ・デモ隊員に飛ばしている。タクシンは外国人に対しでも相当の現ナマをばら撒いたといわれている。

おそらく、多くの日本人は「アピシット政権」は不当な手段で政権を獲得した政権であると信じ続けるのではないであろうか?

こういう事態は決して「日本人とタイ人の友好関係を促進」することにはならない。東アジア共同体などという話しは到底ムリである。日本の政治家の観念論や抽象論はとうていまともには取り合ってくれない。その原因は日本人の学者やメディアが作ってきた。

その根本原因は日本にいつの間にか根付いてしまった「開発独裁論」である。日本政府も御用学者もメディアも東南アジアの「独裁政権」を例外なく一生懸命支持してきたのである。遅きに失したとはいえ、もうそろそろ流れを変えてもいい頃である。

⇒タイ政府・軍は赤シャツへの警戒態勢緩めず。(2010-5-27)

タクシンに対する「テロ容疑」の逮捕状は世界でも注目されているが、タクシン親子はフランスで優雅なショッピングのあと、フランス政府から冷たくされ、モンテネグロに逃げ込んだ。

タクシンはモンテネグロの国籍を取得している(タイとの2重国籍)。モンテネグロは自国民を「犯罪者」といえども外国には引き渡さないということなので、タイ政府は「国際刑事警察機構」に逮捕状を公開し、逮捕の協力を呼びかけているが、タクシンがモンテネグロから外に出ない限りは逮捕・強制送還は難しい。

タクシンは「オレは悪いことは一切やっていないし、放火を指示したことはない」といっている。逆にタイ政府を国際司法裁判所に訴えると息巻いているそうである。悪いことをしていないならば、帰国して法廷に立って、持論を展開すれば良いであろう。

「スラムの天使」ことプラテープ女史にも「非常事態宣言」違反容疑で逮捕状が出ている。「非常事態宣言」では6人以上の集会を禁止しているが、プラテープ女史はクロントイ近くのラマ4世通りで1千人規模の反政集会を開き、5月17〜19日の3日間にわたり交通を遮断し、ラートプラソン地区への応援参加を呼びかけていた。

プラテープ女史はなぜか「プラティープ財団(福祉・教育事業)」の理事長を辞任した。しかし、逮捕されたという情報は入ってきていない(5月27日現在)。個人のカネで赤シャツ運動をやっていたというのなら、理事長を辞任せずに、堂々と警察に出頭し、法廷で「黒白」つけるべきであろう。

このままでは日本人からの財団への寄付が減りそうだから辞任したと受け取られかねない。

タイ政府は5月1
9日のラートプラソン地区の違法集会の排除で、武装した赤シャツ(「黒シャツ軍団」)のかなりのメンバーを取り逃がしている。武器の押収も意外に少なかった。武闘派幹部のアリスマンも警察幹部にかくまわれているという噂もある。

法務省特別捜査局は「地下に潜伏した赤シャツ軍団」を摘発するために特別チームを発足させたという。また、軍も武装赤シャツの「軍や政治家に対するテロ攻撃」の可能性があるとして国防相以下幹部が集まって、警戒態勢の強化を打ち合わせたという。

軍にとって頭が痛いのは「赤シャツ軍団」が使用した銃器・手榴弾はほとんど全てがタイ国軍から盗まれるか、売却(ヤミで)されたものであるということである。カンボジアからの密輸入品もあるだろうが、大部分はタイ国軍のものであるらしい。軍の武器管理態勢の強化が先ず必要であろう。

警察もデモ隊にトラックにつんだ武器をわざと盗ませたという疑いすらかかっている。

警察は東北3県の警察本部長を更迭した。軍の移動を赤シャツに阻止されたり、市役所の放火を阻止できなかった責任は極めて重大である。赤シャツが道路を封鎖して、一般車両の検問をやるのを黙認していたなどとは「法治国家」の姿ではない。バンコクの警察も近いうちに処分が出されるであろう。

今回の事件はせっかく回復基調にあるタイ経済に深刻な打撃を与えつつあるが、特に観光業やホテル業界、ラート・プラソン地区の商業には直接被害を与えた。損害は1,000億バーツ(2800億円)といわれるが、間接的な被害も入れると2,500億バーツ(7,000億円)とも言われている。

カシコン・リサーチ(カシコン銀行の調査機関)はこれでタイの2010年の成長率は2.3%〜4.2%となるだろうと見ている。タイ商工会議所大学は4.5%以上は行くと見ている。

1Q(1〜3月期)の成長率は12%(対前年同期比)だったので、「ゲタはき効果」もあり、成長率そのものは4%台にはとどきそうである。4月の輸出は35.2%伸びており、タイ経済は輸出が牽引しているので、さほどの落ち込みはなさそうである。輸入が46.0%伸びたがこれは資本財や中間財が増えたので、むしろ良い傾向である。心配なのはEUや中国の経済動向である。


⇒夜間外出禁止令は解かれたが「非常事態宣言」は継続(2010-5-30)

タイ政府はバンコクと23県の「夜間外出禁止令」は5月29日に解除したが、「非常事態宣言」はもうしばらく継続する方針である。6人以上の政治集会やメディアへの規制は継続されることになる。

5月19日の「強制排除」とそれに続くバンコク中心部の36件の放火やコンビニの略奪などの後は、一応平静を取り戻しているが、赤シャツからの武器の回収が意外に少なかったことが大問題で、政府は「武器狩り」を継続して行っている。

ウドン・タニのアカシャツの大親分クワンチャイのソイ・ランスアン(東京の青山通りに比べられる)のアパートの天井裏や階段の踊り場から銃器を発見するなど、多少の成果は上げているが、まだまだごく一部にとどまっている。

カッティヤの暗殺後、「武闘グループ」のリーダーとなったと見られているアリスマンもまだ捕まっていない。クロントイの集会を指揮したプラテープ女史も捕まったという報道はない。

赤シャツはかなりの「地下組織」を持っていて、次のチャンスをうかがっているものと見られる。相当な武器を温存していることも推測される。こういう状態で選挙をやれば、与党側の候補者は「暗殺」されるものも出てきかねない。

アピシット首相は5月29日(土)に外国人記者と外交団との会見を行った。先の赤シャツとの和解案で提示した、政策的和解案は誠実に実行に取り掛かるが11月14日選挙は来年に延期されるであろうと語った。

また、アピシット首相は5月19日のラートプラソンの奪還作戦は細心の注意を払い、人命の犠牲を最小限にしつつ「人民の場所を人民のために取り返した」と説明した。

ところが、ドイツ人のNick Nostitzというフリランサー・カメラマンが「私は赤シャツ・デモ隊のなかで取材していたが、デモ隊は単に政治的権利を主張していたに過ぎないが、兵士に銃撃された」と主張した。

これに対し、アピシット首相は「兵士は警告射撃をした。自分を守るために実弾射撃を行うこともあったが、ハッキリした目標(銃撃したり手榴弾を投擲するデモ隊員)に対して銃撃した。もし、そうでない証拠があるなら、それを持って調査委員会に提出してください。無差別にデモ隊を銃撃したことはない」と述べた。

また、寺院に避難していた6名が射殺された件については「現在調査中で最終結論には至っていない。しかし、戦争用の武器で殺害されたことは分かっているが、撃ったのは兵士ではない」と断言した。外国人記者は最初から気色ばんでいるものがいたという。(ネーション、5月30日)

外交団との会見はジャーナリストは立ち会えなかったが、米国のEric John大使は「米国はタイ政府のとった法に基づく,民主的なやり方を支持する」と語ったという。

米国のタイ商工会議所会頭は「タイ政府は比較的良好に事態を処理した。和解プロセスの早期実施を望む」と語ったっという。

また、国際連合商工会議所の代表者は「今回の事件で輸出は全く影響を受けていない。しかし、投資については信頼感をとりもどすのに時間がかかるであろう」と述べた。(ネーション5月30日)

総じて外交団のタイ政府の今回の問題の処理については好意的見方あったようである。特に軍の武器の使用は「国債基準に準拠した」ものであったという評価である。

今回の事件の処理についてはアピシット首相の穏健なやり方と粘り強さが印象的であった。それでも死者は事件発生以来合計で
88名に達した。これがタクシン政権下の事件であれば、死屍累々の惨劇となったであろう。

2003年の麻薬取締り事件
の時にはほとんど武器を持たない被疑者が2,500人も殺害されている。この時は軍は全く関与せず、警察がハッスルした。不思議な警察である。


⇒アピシット首相らへの不信任決議案を否決、新たな対立の火種も(2010-6-2)

6月1〜2日に行われた下院議院での討議の結果、アピシット首相ら6人の閣僚への不信任決議案は否決された。不信任の理由は、4月10日、5月19日の赤シャツ隊のラートプラソン地区からの強制排除に権力の過剰な行使があったというものである。

他の閣僚については、「利害相反」などが取り上げられた。

信任 不信任 棄権 無投票
アピッシット首相 246 186 11 21
スーテップ副首相 245 187 11 21
コーン財務相 244 187 12 21
カシット外務相 239 190 15 21
チャワラット内務相 236 194 14 22
ソーボン運輸相 234 196 13 22


チャワラット内務相とソーボン運輸相はネーウイン・チョーチーブ氏が率いるブーム・チャイ・タイ党の所属であり、この2人に不信任票を投じたのはプア・ペンディン党の一部の議員であったと見られている。

両党とも与党連合に属しているが、道路予算の配分について、プア・ペンディン党はブーム・チャアイ・タイ党に対する不満があり、最近は両者の間に軋轢が生じていた。

また、両党の議員が主に東北地区の選挙区で競合している。

ただし、両者とも与党連合を離れて、タクシンのプア・タイ党と手を組むという可能性はない。しかしながら、与党の第2党と第3党との仲たがいはアピシット首相にとっては頭の痛い問題である。

ブーム・ジャイ・タイ党は「われわれを採るかプゥア・ペンディン党を採るか」と迫っているという。

一方、プゥア・ペンディン党はブーム・チャイ・タイ党に内務相のポストを与えておくのは良くないので、内閣改造すべきだといっている。

また、野党のプア・タイ党にも今回のラートプラソン占拠事件の影響が出ており、1名(Nikom氏 )がアピシット首相を信任する票を投じている。さらに、10名ほどの議員がブーム・ジャイ・タイ党(ネーウィンの党)に移籍することを希望し、投票を棄権したと見られている。

下記の党以外にPAD(民主主義のための人民連合=黄色シャツ)は新しい政党=New Politics Partyを組織しており、支持率はかなり高いといわれている。これは民主党と次の選挙では競合するものと思われる。

議員数
プア・タイ党(タクシン系) 188(27) 野党
民主党 173(33) 与党
ブーム・ジャイ・タイ党 32(4) 与党・ネーウイン系
プゥア・ペンディン党 31(7) 与党・軍の支持
チャート・タイ・パタナ党 25(1) 与党・バンハーンの政党
ジャイ・タイ・チャート・パタナ党 9(1) 与党
プラチャ・ラート党 5(1) 野党
社会行動党 5(1) 与党
民衆党 3(1) 与党
合計 474(82)

(  )内は比例区で内数

⇒プア・ペンディン党の10名追放。新たにマトゥブム党加盟


パトゥム・ワナーラム寺院の6名の殺害に軍は関与していない、フランス人ジャーナリスト証言(2013-3-19)


バンコク・ポスト(2013-3-19インターネット版)によると2010年5月19日にラートプラソン地区の避難場所に指定されていたパトゥム・ワナーラム寺院において5名の赤シャツ・デモ隊員と1名の看護婦が何者かに銃撃された。

これは赤シャツの主張によれば軍が寺院内に避難してきたデモ参加者を国軍兵士が意図的に射殺したと主張し、日本においてもそのように報じられてきた。

2013年3月28日に当時の模様を証言するためにバンコク入りしているフィランス人ジャーナリスト、オリヴィエル・ロトゥル(Olivier Rotrou,48才)氏がバンコク・ポストとのインタビューで語ったところによると「当日第3軍の近衛歩兵連隊に随行していたが、少なくとも国軍兵士は寺院の避難民には発砲していない」と語った。

彼は「黒シャツ隊の仕業かどうかは何とも言えない」とも述べている。

彼はほかのジャーナリストと共にシーロムーサラディンの交差点から赤シャツ隊の占拠するラチャプラソン交差点に向かっての「排除活動」を5月19日の朝に取材したのちに一旦ホテルに戻り、午後からサイアム・スクエアにあるMBKショッピング・センターの近衛軍に同行した。

近衛軍はパトゥム交差点からサイアム・スクエアに午後5時頃に進撃したがその時サイアム・スクエアのビルは火に包まれていた。兵士はパトゥム・ワナーラム寺院方面に向かう途中で2名の略奪容疑者を逮捕した。兵士は銃撃の音がどこからともなく聞こえたのでユックリと寺院に近づいて行った(彼らが軍の先頭部隊だった)。

午後7時ごろ夕闇となったのでアンリ・ドュナン(Henri Dunant)交差点とラーマ1世通りから引き揚げた。彼もノボテル・ホテルに避難し、翌朝6時半に出て。その日のフライトでフランスに帰った。

彼は現在フランスでLine Press Photograoyのオーナーである。

最近、陸軍の某大佐から3月28日の裁判に撮影したビデオ・テープと共に出廷し、5月19日の一部始終を証言してほしいとのれリクエストがあり、来タイしたという。

イタリー人カメラ・マンのファビオ・ポレンヒ(Fabio Polenghi)氏も5月19日に射殺されたが、妹がフランス人記者から提供されたビデオを持って5月29日からの裁判に出廷するという。

赤シャツは両方とも軍による殺害だと主張し続けているが、軍は一貫して関与を否定してきた。また、最近になって赤シャツは「黒シャツ」隊という高性能銃で武装した軍事集団の存在すら否定し始めた。しかし、当時から「黒シャツ」軍団の存在と活動はよく知しられており、暗殺されたカッティヤ少将が「ローニン(浪人)部隊」として軍事訓練をほどこしてきた集団である。カッティヤ少将は「口封じ」のために赤シャツによって射殺されたとみられている。

赤シャツがパトゥム・ワナーラム寺院において非戦闘員を殺害したのは「罪を国軍になすりつける意図があった」とみられている。イタリー人カメラ・マンの死についても同様の疑いがある。また、日本人のロイター通信社のカメラマン・記者村本博之氏の死についても軍による殺害説に合理性がない。

日本のメディアの多くはは村本さんは軍の銃撃によって殺害されたと報道している(毎日ほか)が、デモ隊の後方からビデオ・カメラで撮影していた村本さんがなぜ、前から「銃撃」したとされる軍の銃弾にあたって死んだのだろうか?村本さんに前からの銃弾が届く前に相当数のデモ隊員が銃殺されていたのであろうか。そういう事実は報道されていない。

当時、日本のメデアは赤シャツ支持一本やりといってもよいほどの偏向ぶりであった。今回の裁判も経緯を詳しく報道してもらいたいものである。現在においてすら、国立大学の某教授、一般紙の某記者などタクシン派支持の論陣を執拗に張っている。タクシンが犯罪者として海外に逃亡し、海外からインラク政権を動かしている事実に目をつぶっている。