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Th.111.タクシンの政治危機と選挙

111-1.タクシンついに議会を解散、4月2日に投票(06年2月24日)

日ましに強まる国民の批判のなかで、タクシン首相は国会(下院)を解散し、60日以内に選挙を実施することを2月24日(金)夜8時40分からテレビ放送をおこなった。投票日は4月2日(日)である。国会解散については国王に謁見し、了解を得たとのことである。

現在500議席中375議席を占め、絶対多数を誇っているが、今のうちなら現有議席を多少減らしても、東北農村部などの支持が変わらなければ、与党のTRT(タイ・ラク・タイ)は楽勝でき、自分の政治生命も、「ミソギが済んだ」として維持できると踏んでいるものと思われる。

また、現行憲法では国会議員候補者は選挙前の90日間は政党に所属していなければ選挙に出られない規定になっており、野党陣営にとっては優れた候補者を新たに入党させて候補者にするなどの手段が制限されてしまう。また、与党TRTの党員も反タクシン派は脱党して他の政党から立候補するわけには行かなくなる。

確かに、反タクシン感情はバンコク市内の中産階級にはかなり広まっているが、その日の生活に追われている地方の貧しい農民の間でははタクシンの実施したいくつかのポピュリズム政策(30バーツ診療や一村一品運動や村ごとに100万バーツのばら撒きなど)が評価されている。

今の情勢では、反タクシン感情は確かに東北や北部の農村地帯にまで波及していないため、豊富な選挙資金を有するタクシン陣営が勝利する公算は大きいといえるが、それでタクシン政権の持つ基本的な欠陥がなくなるわけではなく、政治的混乱は結果的には長引くことになろう。

タクシンが再び首相になるような事態になれば、汚職は減らないし、南タイ問題の解決はいっそう難しくなるであろう。

日本人にはこの手の政治手法には先刻おなじみだが、タクシン一流のキタナイやり方だと、タイ国内の有識者にいわれても仕方だないであろう。

 

111-2.野党も4月2日の選挙を受けて立つ(06年2月27日)

タクシン流のご都合主義ともいえる4月2日の「ミソギ選挙」については当初、3野党(民主党、チャート・タイ党、マハチョン党)はボイコットをすることで協議を進めていた。

このまま放置すればTRTは選挙を強行し、議席を独占し、タクシン独裁体制が「永続化」するという判断から選挙に参加し、少しでもTRTの議席を減らそうということに踏み切った模様である。野党は今回の選挙を「政治改革のための選挙」と位置づけたいとしている。

3党はTRTと4月2日の選挙後の政治改革についての話し合いをおこなった。内容についての詳細は不明だが憲法改正を織り込んでいることは確かであり、タクシンは各大学の学長に憲法改正草案を作らせようという提案をしたという。

3党は4月2日に選ばれた議会は憲法改正を決め、90日以内に再度解散し、選挙をやり直すということを提案しているもようである。これをタクシンが受けて立つかどうかは不明である。

一方、2月26日(日)の反タクシン集会を組織したPAD(the People’s Alliance for Democracy=民主主義のための人民連合)はあくまでタクシンを辞任に追い込むことが先決であり、選挙をボイコットすべきだと主張している。

野党も一度は選挙ボイコットをおこなう方針を打ち出したが、政治的な混乱を一応回避し、選挙運動を通じて「タクシン首相・政権の悪行」を追及していく方針に転換した模様である。

民主党は3月3日までに候補者名簿を用意するといっている。

 

⇒タクシンが野党の政治改革要求拒否、野党3党は選挙をボイコット(06年2月27日)

一旦は4月2日の選挙後「憲法改正」を 中心として政治体制を構築するという基本f合意が成立する見通しであったが、2月27日(月)になってタクシンは野党の要求を拒否してしまった。

このため、選挙ボイコットに及び腰だったチャート・タイ(党首はバンハーン元首相)もボイコットやむなしとの結論にいたり、改めて野党3党が足並みをそろえて4月2日の選挙をボイコットすると言明した。

当初選挙ボイコットを表明していた民主党とマハチョン党がチャート・タイ党を説得できず、「政治改革」を選挙後おこなうことで、選挙を受けて立つと26日深夜決めたが、タクシンは「野党は弱気になった」と踏んで、一気に強硬策を選んだものと思われる。

「機を見るに敏な(実際は見当はずれが多い)」タクシンのことだから、またドンデン返しがあるかもしれないが、タイの政局は急激に混迷してきた。しかし、民主主義を守るということにこれだけ「国中が熱くなれる」というのはみていてうらやましい感じすらする。

タイではタクシンはもうどうしようもない。臭気紛々たる有様であり、政権に長くとどまればとどまるほど見苦しさが増してくるであろう。

フィリピンも同様である。アロヨ大統領への求心力は急速になえてきている。その点、日本は民主主義先進国とは到底思えない。

なんでもアリのペテン師のホリエモンを「息子だ、弟だ」などといって手をたかがかと上げていた人物が、民主党の若造議員(東大を出ていてもあの程度の間抜けは結構いるものだ)のなんともオソマツ極まりないチョンボで態勢が逆転するなんて、本末転倒もいいところである。

これから出るらしい素性のさだかでない雑誌の表紙に腕を組んでふんぞり返っている図などはとうてい正視に耐えない。コンナ行動を平気でとるということは、「教育は受けているが教養はない」人物のやることである。

 

111-3. タクシン選挙を強行、3月3日に20万人の支持者集会(03年3月6日)

タクシンは4月2日の選挙を野党3党のボイコットにもかかわらず強行する方針で手続きに入った。選挙の結果、有権者の50%の支持がなければ首相の座から降りることを明言した。

前回の選挙では61%の得票率(TRT党)であったから、今回も何とかやれると踏んだものと思われる。

3月3日(金)にはタクシン支持者集会を「反政府集会」に対抗しておこなった。全国から鉄道や5000台のバスに分乗して20万人を動員したといわれ、費用は〆て1億バーツ(約3億円)かかったと推定されている。そのほとんどがTRT党の負担であったと思われる。

集まったのは地方の農民が多く、村単位で村長が交通費と日当(100〜1000バーツ)付きで動員してきたといわれている。また、バンコク市内からはオートバイ・タクシーの運転手が数千人支持集会に参加した。彼らはタクシンがマフィアから解放してくれたので感謝しているという。

反タクシン派の集会は10万人といわれているから、その倍の人数を集めて反対派を圧倒しようとしたものである。ただし、反対派集会は原則全員が自費で集まったものである。集まったのは基本的に中産階級と呼ばれる人たちである。彼らが常に「民主化運動」の中心勢力であった。

そのような騒然たる雰囲気の中で、3月5日(日)に「最後の反タクシン集会」がサナム・ルアン(Sanam Luang)で開催された。これには約10万人が集まり、デモ行進がおこなわれた。

彼らの主張はタクシンの辞任であるが、一方で「選挙管理内閣」の首相をタクシン以外の人物にしてほしいと100人の大学教員が国王に誓願している。

タクシンが選挙を一方的に進める中で反対勢力は「ボイコット運動」という形での選挙戦を進めることになるが、東北部などの農村地帯では正確な情報が入らず、「タクシンのどこが悪い」といった雰囲気が濃厚であるという。

マスメディアを支配してきたタクシンの作戦が依然「効を奏している」といったところかもしれない。タイの民主主義も前途多難であるが、タクシンがこれ以上長期に政権に居座り続けることは最早不可能になってきたことも明らかである。

 

 

111-4.国軍司令官曰く 国王は現在の政治情勢について強い不快感、(06年3月8日)

プミポン国王は現在の反タクシン運動の高まりと、それに対抗するタクシン首相の「国民動員運動」との対立が激化している状況について、不快感をを抱いていることが、間接的ながらソン ティ (Sonthi)国軍司令官から政治家に伝えられた。(WSJ、3月8日インターネット版)

国王は、最近の政治的騒動についてはコメントは一切していないが、国論がこのように激しく2分されることに深い憂慮の念を抱いておられたことは明らかであり、しかも2001年に首相として就任以来のタクシン首相の言動についても過去何度か苦言をのべられていた。

また、警察のスポークスマンのアーチラウィット(Archirawit Suphanaphesat)中将は「この危機を打開するにはタクシン首相の辞任以外にありえない」と タクシン首相宛に「一国民としての」手紙を送ったと語った。

これは中立の立場を原則とする警察幹部の発言としてはきわめて異例なものであるが、警備を担当してきたものの立場として、これ以上タクシン政権が続けば、不測の事態(流血暴動 な)が予想されるという判断からの切羽詰った行動であろう。

また、国軍も国王の「憂慮」を国民に対して取り次ぐことによりタクシン首相を見放したとも受け取られよう。最近の反タクシン集会の報道について軍営テレビ局が「タクシンよりの報道」をしてきたことに対しソンディ司令官は報道は公正におこなわれなければならないと注意を促したという。

また、シンガポールの国営投資会社テマセク(TEMASEK)に対し、PAD(the People’s Alliance for Democracy)は買収計画を白紙に戻すよう申し入れた。バンコクのシンガポール大使館には抗議の民主団体のデモ隊が押しかけているという。

PADはTEMASEKがシン・コーポレーションの買収を強行すれば、同社の事業(携帯電話など)のボイコット運動を続けると言明している。また、TEMASEKからシン・コーポレーションの事業に参加(出資)を打診されているサイアム・セメントなどは固辞したという。

軍と警察を含むタイのエリート層から見放されたともいえるタクシン首相は国王の「憂慮」表明によって、いわば決定打を浴びせられた形となった。このまま、4月2日の選挙を強行して、仮に国民の50%以上の信任を得たとしても政権を運営していくことは不可能になったといえよう。

また、近々国営企業の労働組合連合もタクシン辞任要求のストを計画していると言うことである。

既にタクシン首相には早期に辞任する以外に道は残されていない。このままの状態を続ければ何が起こるかわからないといえよう。タクシン一家は当面タイで平和な一生活を続けることすら危うくなってきた。

逆にタクシンが辞任すれば、今回の騒動は急速に沈静化することは明らかである。ただし、タクシン政権下で私財をしこたま溜め込んだタクシンのクローニー(お仲間)は厳しい追及にあうことは確かであるにせよ。

特に南タイの騒乱はタクシンが在任する限り、泥沼化する一方である。タクシンが辞任すれば多少時間はかかるかもしれないがイスラム教徒も精神的に安定を取り戻すことは間違いない。もともと南タイはイスラム教徒も仏教徒も歴史的に仲良く共存して来たのである。

 

⇒シン・コーポレーション の株価大幅下げ(06年3月9日)

シン・コーポレーションのバンコク証券取引所における株価は3月8日(水)にTEMASEKへの売却価格49.25バーツから5バーツ以上も低い44バーツで引けた。

これは、この買収劇がどうなるかという多少の疑念が出てきたた上に、シン・コーポレーションがタイ国民からのボイコット運動のターゲットになってきたという懸念も出てきたためである。

民主派がおこなうとしているボイコット運動は単にシン・コーポレーショングループの企業だけでなく、タクシン政権を支えてきたチャロン・ポカパーン(Charoen Polaparn)グループ、Summit Group(タイ最大の自動車部品メーカーでオーナーのスリヤは副首相兼工業相)、Mahakisiri Group, Maleenont Group, などにも波及するという。

バンコクの株式市場は政治的混乱に嫌気売りが殺到し、3月6日750.81から3月7日738.36,3月8日723.86と大きく下落している。

 

111-5. プレム枢密院議長邸に爆弾(06年3月10日)

3月9日(木)午後2時ごろ、プレム枢密院議長(元首相)邸の門の外の守衛詰め所に爆弾が仕掛けられ、遠隔操作で爆破され、通りがかったイギリス人とカナダ人の観光客(いずれも男性)が軽い怪我をするという事件が起こった。

これは王室に強い影響力を持つプレム議長が最近「反タクシン」色を強めていることに対する「親タクシン」勢力の仕業であろうことは容易に想像される。犯人は捕まっておらず、もちろんタクシン首相が直接関与している証拠はない。

爆弾はTNT火薬が使われていたが、殺傷能力はさほど強いものではなかく、脅しのための爆弾事件だと警察ではみてるようである。

この種の爆弾事件が最近数件起こっている。1つはチャムロン元バンコク知事(元少将,民主派)が率いる仏教徒集団サンティ・アソックのルンピニ公園に設けられた「反タクシン集会」の本部テントに対して仕掛けられたものである。

3つ目はワチラウット大学(Vajiravudh College)のチャイアナン(Chai-anan)理事の家にファイア・クラッカー(爆竹)が投げ込まれた事件である。チャイアナン学長は最近国王に提出された「100名の大学教授・講師によるタクシン首相更迭の請願書」の 提出のリーダーである。

また、内務省のビルにも仕掛けられたといわれている(民主派がこんなことをするはずはなく、自作自演ではないかという見方もある)。いずれもけが人はなく単なる脅しであると見られている。1ヶ月以上前になるが、反タクシン集会の主催者であるソンディ氏の出版社にも爆弾投げ込まれた。

プレム議長に対するタクシン派の攻撃はテレビでもおこなわれていた。サマク(Samak Sundaravej)元バンコク知事がテレビのコメンテーターをやっていたが、日ごろのタクシン寄りの姿勢が行き過ぎてプレム枢密院議長が反タクシン勢力に組していてケシカランという趣旨の発言をした。

これにはテレビ局を牛耳っている軍部がいきり立ちサマクを早速降板させた。プレム氏は国軍幹部にとっては最も尊敬すべき先輩であり、強い影響力を持っている。また、枢密院議長という立場からも国王の信任のきわめて厚い人物である。

プレム議長は1980〜8年まで8年間も首相を務め、軍人首相でありながら「タイの政治の民主化の基礎を築いた」人物として国民にも幅広い人気がある。タクシンにとってはいわば「目の上のタンコブ」的な存在なのである。

早速、枢密院会議が開かれ、政治的混乱の解決策が議論されているという。

 

111-6. 国王が1992年事件のとき和平を諭した映像をいっせいに放映(06年3月13日)

タイのテレビ局は昨夜(3月12日)いっせいに、1992年5月20日に当時激しく対立して流血の惨事(数百人のデモ参加者を殺害されたという)招いた直後、スチンダ首相(軍人)とチャムロン氏(民主派リーダー,元少将)を国王が宮廷に招き、和平を諭したテレビ画像が放映された。

これは日本でも放映され、二人が跪いて国王の前に進み(膝行)、お言葉を拝聴するという「古典的」な様式に基づいての「聖断」が下されたのである。その後、スチンダは辞任し、チャムロンも街頭行動をやめ、アナン首相が任命された。

このアナン首相は大変有能な官僚出身の人物で、必要な改革を断行し、多くの経済立法をおこない法体系を整備したり、タイ経済の近代化にも大きく貢献したことで知られる。

アナン氏は現在、南タイの騒乱を収めるための特別委員会の委員長をやっているが、タクシン政権とはしばしば意見の相違がみられる(タクシンの強硬路線とは合わない)。

それはさておき、この1992年の時の国王の映像(8分間)が放映されたということは、プミポン国王が今の状況をどう考えておられるかを暗に国民に示したものと受け止められている。要は、タクシン首相に退陣を迫り、民主派も運動の矛を収めよというものである。

問題はタクシンという人物が国王の示唆に素直に従うかどうかである。しかし、もはやタクシンが居座ることは不可能になってきた。実際問題として与党TRT党にはソムキット副首相などそこそこの人材がおり、後継には事欠かないであろう。

民主派は3月14日(火)に大規模な抗議集会を予定している。

(http://www.nationmultimedia.com 参照)

 

111-7. 警察官僚出身のチドチャイを第1副首相に任命(03年6月15日)

3月13日(月)から始まった反タクシン集会は昨日(3月14日)10万人を超える規模のデモンストレーションをおこない、タイ政庁を取り巻き、3月15日まで依然として包囲を続けているという。

危機感をいっそう募らせているタクシン首相は警察官僚であったチドチャイ(Chidchai Vanasatidya)第2副首相兼司法相を第1副首相に突如昇格させ、第1副首相兼商業相であったソムキット(Somkid)を第3副首相に降格させた。(#91参照)

第3副首相兼工業相のスリヤ(Suriya Jungrungreangkit)は第2副首相に昇格した。かなり、露骨なソムキットの降格人事である。

この人事はタクシンが治安悪化を理由に非常事態宣言を出す準備工作と受け止められている。また、政権内部では比較的良識派と考えられてきたソムキット副首相をあえて降格させる狙いもあったものと思われる。要するにタクシンは首相の座を手放したくないのである。

ソムキットは国際的にも知られた財政家であり、タクシンが辞任した後はソムキットが後継首相に就任するのではないかとすら憶測されていた。あるいは、TRT党内部で「良識派」と「強硬派」との対立があるのかもしれない。

チドチャイは南タイ騒乱でも一貫した「強硬派」として知られ、強力な弾圧政策を主張しかつ実行してきた人物である。 また、チドチャイはタクシンと警察士官学校の同期生であり、タクシンが全幅の信頼をおいているといわれている。

彼はイスラム教徒で「ジェマー・イスラミア容疑者」に仕立てられら被告人を弁護していたソムチャイ弁護士を警察が拉致・殺害した事件の黒幕ではないかとの噂も一時出たくらいである。

チドチャイが第1副首相になったからといって、今の警察がタクシンの思惑通りに動くとは限らないが、タクシンは首相として「非常事態宣言」を発動する権限がり、あるその準備を進めていることは間違いないであろう。

というのも、フィリピンではアロヨ大統領が最近「非常事態宣言」を発動して、一時的にせよ政治危機を乗り切ったのを間近に見ているからである。

タイで非常事態宣言が発動されれば、反タクシン運動のリーダーである、ソンディやチャムロンやその他のPADのリーダーは当然逮捕される。反タクシン集会やデモも禁止され、テレビなどのマス・メディアもコントロール下におかれる。

しかし、チドチャイが抑えていると考えている警察自体が思惑通りに動くかどうかがまず確かではない。既に警察のトップからはタクシン首相の辞任を求める声が出てきているのは上にみたとおりである。(#111-4参照)

また、軍は全くタクシンの言うことを聞かないであろう。軍は元国軍司令官であり首相を務めたプレム枢密院議長に忠誠を誓っているものと考えられる。万一、タクシンが非常事態宣言を発動すれば軍は「ク−デター」を強行し一挙にタクシンを潰すことも考えられる。

実力行使になったら警察は到底軍の敵ではない。

(公務員給与の引き上げ)

このような政治的の混乱の最中にタクシン首相は「ポピュリスト」としての面目を遺憾なく発揮し、3月14日(火)に突如として公務員の給与の5%引き上げを発表した。

これは公務員の政治活動は禁止されているにもかかわらず、、最近公務員の間に、はっきりと反タクシン運動に参加するものが増え始め、休暇をとってデモに参加したり、外務省では喪服を着て出勤するものが急増するなどの事態に対応する「頭なで」政策であろうと見られている。

また、官業の民営化政策にも反対運動が高まっている。最近ではEGAT(発電公社)の民営化が延期された。なぜそういうことになったという理由のひとつに民営化によってタクシンのクローニーが「うまい汁を吸っている」というのである。

日本の民営化もカンバンのかけかえだけに終わっているケースが非常に多いことは既に周知の通りであるが、民営化によって役人の安定的な天下り先ができ、しかも会計検査院の検査がなくなり、誰もチェックできなくなったというとんでもない弊害が随所に出ている。

それを、チェックできるのは「損益」という基準があるというが、損益は親元(官庁)がもともと補償しているのである。彼らはそもそもがほとんど市場の競争にさらされていない。

日本の会計検査院があれだけの少ない陣容で、どれだけのことができるか疑問に思っているが、それよりも「気合がどれくらい入っているか」すら疑問である。というのは会計検査院の職員自体が「天下り先」を官庁から斡旋して貰っているのである。

その辺、タイではどうなっているかというと、タイの上院が主催した「汚職の実態を暴く」というセミナーにジャルバン会計検査院長自身が出席し、タクシン政権は最近のタイ史上最も汚職の激しい政権であると指摘している。(http://www.bangkokpost.com/ 3月14日)

こんなことは日本では到底考えられない。会計検査院が「検査白書」などだして一般国民にアピールするなどやってみたらもっと、国民の支持を得られ、変な予算の使割れ方が減ると思うが、そんなことより「天下り」と昇進の方が優先されるということであろうか。

 

⇒タクシン首相が一時的辞任を示唆発言(06年3月15日)

BBCインターネット版'3月15日付け)が伝えるところによれば、タクシン首相は「政治的危機を回避するためには一時的に首相の座を降りる(Step asaide)るのにやぶさかではない」と遊説先のタイ東北部で語ったという。

おそらく戒厳令や非常事態宣言を布告しようにも肝心の軍や警察がうごかず、逆に軍事クーデターの可能性すら出てきたという情勢分析によるものであろう。

「一時的に首相の座を降りるというのは良い考えだ(A good suggestion)だ」とはいっているが、「それはいくつかの選択肢の一つだ」とも語っているという。しかし、従来強気一辺倒だったタクシンの口から辞任という言葉が出てきたことは、事態の深刻さを改めて認識したものと思われる。

3月15日も昨日からの延長で5万人ものデモ隊が首相府を取り巻いて,辞任を要求しているという。

地方の農民層の支持があるといっても首都バンコクで四面楚歌の状態におちいってはタクシン首相といえども万策尽きたというほかはないであろう。

しかし、しぶといタクシンは何とか政権にしがみつく方策を模索し続けているに相違ない。今回の発言も世論の風向きをみる「観測気球」かもしれない。

 

111-8.タクシン支持派の農民など地方から集結(06年3月18日)

バンコクでタクシン首相を支持する集会を開くために、北部や東北部から農民などがトラクター(農耕用)などでバンコクの北部に乗りつけ、3月18日(土)にはいよいよバンコクに乗り込んで「タクシン激励集会」を開くという。2週間以上もかけてやってきた人も多いという。

北部と東北部の小農を中心にCOP(Caravan ofthe Poor=貧乏人のキャラバン)という組織を作り、委員長にはカマタ(Kamata Tanboonchan)という人物が就任している。バンコクの集会場所はチャトチャク公園という中心部からやや離れた場所である。

彼らがそこからタイ政庁にデモ行進をすれば、政庁を取り巻いている民主派グループとぶつかる可能性はある。

カマタ委員長は反タクシンの民主派グループ(PAD)と対決し騒動を引き起こす積もりはないと述べている。彼らの人数は公称3万人で、かなりの数ではあるが民主派の集会(公称10万人)に比べ 著しく見劣りがすることは否めない。

肝心のタクシン首相は選挙遊説のためと称して、カンチャナブリ方面に出かけてしまい、バンコクにはいない。

タクシン支持派の言い分は、貧しい農民に手を差し伸べてくれた首相はタクシンだけだというのである。30バーツ医療や農民の借金の返済延期や「一村一品運動」などがそれに当たる。いわばポピュリスト政策である。

これをやることによってタクシンの懐は少しも痛むところはない。資金は全て国家財政によってまかなわれているのである。いわば、国民の税金を使って自分の人気取り政策をやるというしくみである。

民主党政権時代はそういう政策を大々的にやりたくてもできなかった。というのは、チャワリットータクシン政権時代の「通貨・経済危機」の後始末をやらされた政権だったからである。

通貨・経済危機に対する救済融資の見返りに悪名高いIMFのコンディショナリティー(融資条件)をタイ政府に強制したのである。

その処方箋はネオ・リベラルという、極端に資本家の利益優先的経済学がその教科書になっていたからである。その実害たるや鳥インフルエンザの比ではない。

(日本でも「金持がより豊になれば、彼らがハッスルして経済が活性化するなどといった的外れなことを主張する政権が続いている。確かにホリエモン的やからがハッスルした。しかし、貧富の差だけは拡大し、自殺者の数はやたらに多いし、凶悪犯罪も増え、社会の安定性は急速に失われてきている。)

IMFのタイへの処方箋は要するに徹底的な引き締め政策を行って、財政を健全化すべきであるということに尽きたのである。その手段としては消費税を引き上げて民衆をいっそう窮乏化に追い込むことも重要な政策の1つであった。貧民などは生きようと死のうと勝手にさせろというものである。

そういう政策を忠実に実行したのが生真面目がとりえの銀行家出身のタリン財務相であった。民主党政府はともかくIMFへの義理はきちんと果たした。しかし、国民への福祉政策は民主党の本来の政策課題であったにもかかわらず、ほとんど実行できなかった。

経済が立て直り、これからという時期にタクシンが「改革者面」をして再登場し、政権をさらてしまった。これはタイの国民にとってこの上ない不幸であり悲劇であった。(日本においても消費税を3%上げますなどというクソ真面目な民主党が小泉自民党を圧勝させてしまった。)

タクシンにとっては、「国民の福祉向上」は政権維持のための方便であって、実際は自分自身とクローニーの地元資本家に利益を誘導する政策を行った。

自分の通信会社であったはずのシン・コーポレーションがいつの間にかテレビ局や航空会社まで傘下に収め、それを高くシンガポール政府(の支配下にあるテマセクという持ち株会社)に売り渡したのである。

しかも、一連の計画的な取引で、財産隠しをやった挙句、税金を1バーツも払わず、子供たちへの遺産相続もメデタク果たした。こんなトリッキーなことを一国の首相がやって許されるはずがない。タイ人の政治意識はタクシンが考えているよりははるかに高かったのである。

タクシン政権は史上まれに見る汚職体質の政権となったのである。汚職批判を封じるために、言論弾圧をおこなった。自分用のテレビ局まで買ってしまい、批判的な新聞の買収まで試みた(バンコク・ポスト事件)。

政権批判を行うジャーナリストには「名誉毀損罪」や非常識な高額賠償請求の訴訟を起こ、威嚇した(スピンヤ事件など)。

政権を独占するために、民主党の強固な地盤である南タイを押さえ込もうとして、今のドロ沼状態に結果的にはまり込む原因となった一連の事件を起こしたとさえ言われている。タイのイスラム教徒にもジェマー・イスラミア一派がいるとして無理やり容疑者をでっち上げ逮捕した。

彼らの弁護に当たったソムチャイ弁護士は警察の手によって虐殺され、遺体はドラム缶に詰められメコン川の濁流に放り込まれたという(確証は上がっていないが目撃情報はあるという)。

麻薬撲滅運動と称して2,500名もの人間が裁判抜きで殺された。このこと自体、タクシン支持派は評価しているというのだから恐ろしい。

タイの農民の貧しさは緩和されているというのである。しかし、彼らは依然としてタイでは最も貧しい階層であり、多くの農民がバンコクなどへの出稼ぎを続けている。ポピュリスト政策で農民階級の苦痛は一部は緩和されても、所得が向上したなどということはありえない。

農民の所得向上があったとすれば、タイ経済の工業化の進展による副次的効果であって、それはタクシンンの政策とは関係がない。

農民層は「中国とタイ」あるいは「オーストラリアとタイ」の自由貿易協定によってかえって打撃を受けている。このことはかなりの農民もわかってきている。しかし、それをタクシンの政策と関連付けて理解する農民は少ないというのが現状であろう。

それでも、貧しい農民達は「今日・明日のメシにありつけたのはタクシンのおかげである」と妄信してバンコクに乗り込んで北のである。

彼らの有識者が民主派と意見交換をすれば、また彼らの態度も変わるだろう。今回の両派のバンコクでの出会いはもしかするとタイの将来にとって良い結果を生むかもしれない。とにあれタクシンはバンコクから逃げたのである。

 

111-9.サイアム・スクエアのデモ行進を決行、さほどの混乱はなし(06年3月30日)

昨夜(3月29日)、反タクシンのPAD(民主主義のための人民連合)の数万人のデモがナショナル・スタジアムを出発点としてサイアム・スクエアとサイアム・パラゴンをはさむショッピング・センターの大通りで行われた。

当初は営業妨害で。売り上げが6億バーツ(約18億円)失われ、かえってバンコク市民の反発を買うからデモを中止すべきだという意見も新聞紙上に現れた。また、最近はデモ疲れで「もうタクシン反対運動には疲れた」という市民が増えているとも報じられた。

しかし、昨夜のデモは意外と整然と行われ、参加者もかつてないほど多く、交通混乱も予想外に少なかったといわれる。それは、デモによる混乱を予想して、事務所を午後3時ころ閉鎖し、社員を早めに帰宅させたなどの「賢明な措置」をとった企業が多かったためでもあろう。

最近開設された大ショッピング・モールのサイアム・パラゴンは2日間閉鎖され、その他のショッピング・モールも閉鎖された。しかし、かなりのレストランは開かれており、また周辺のホテルはキャンセルなどは一切なく平常どおりの営業が行われたという。

同時にサイアム・スクエアに隣接するチュラロンコーン大学では4,000人の教官、学生、卒業生が集まり、タクシンの辞任を求める大集会が開かれた。こういうことは同大学の歴史上もおそらくなかったはじめてのことであろう。

一方、マレー半島のチュンポン(クラ地峡の反対側)市では7,000人の反タクシンでも隊が高速道路(南下線)を閉鎖し、交通の大混乱が起こったという。これには相当な反発が出ることが予想される。

今回のデモは今日(3月30日)で一旦打ち切られ、次回は選挙(4月2日)後の4月7日に行われると報じられている。

4月2日の選挙でどういう結果が出るかが待たれるところである。500議席が完全に埋まらなければ、選挙のやり直しなどさらに政治的混乱は増す。また、TRT党の得票数と得票率も焦点になる。

主要野党3党が選挙をボイコットしているため選挙結果はTRTが形の上で「大勝利」することが予想されるが、タクシンが政権にとどまる限り、タイの政治的混乱は続くことは間違いない。PADは明らかに攻めあぐんでいるが、「敗北」を喫しているわけではない。

むしろ「死に体(シニタイ)」に追い込まれたのはタクシン政権であり、彼が国民(特にタイの中産階級、エリートなどの指導層)の信頼を回復して、これからも長期的に政治を運営していくことは困難になったといえよう。

PAD主催のデモ隊とは別に昨日(3月9日)農民が約5,000人集合し、スクムビット通りにあるクルンタイ銀行(国営)に謝金返済の延期と減免を求めて集会を開いた。彼らはタクシンが農民に拡大した「融資」の返済ができなくなったのである。

それは、その融資が「生産設備・機械」に使われるというよりも、オートバイなどの耐久消費財の購入に多くは向けられてしまい、それに見合う収入がないので返済できなくなったというのが実情である。

タクシンはこ農民の借金についても「徳政令」を出すなどとして善処してやるという約束を繰り返しているが、カネの出所は所詮は国民の税金であり、そう簡単にはことは進まない。

タクシンのポピュリスト政策は時間の経過とともに矛盾がますます顕在化してきている。

 

111-10. TRT党への支持票が激減の情勢(06年4月3日)

タクシン首相が強行した選挙は野党3党がボイコットしたまま、4月2日(日)に予定通り行われ、午後3時(日本時間5時)に締め切られ、即日開票が行われている。

投票率などは明らかにされていないが、即日開票では首都のバンコクではTRT党候補者の得票は棄権票(白票=反対票)に圧倒されているという。

TRT党の支持が強い北部・東北部の情報はまだ入ってきていないが、ここではTRT党支持が以前根強いと見られている。全国的には、出口調査ではTRT党は前回(05年2月6日))の1,900万票を大きく下回り、1,500万票程度に落ち込むものと見られている。

また、バンコクでの開票速報を見てあまりの反対票の多さに、タクシンはショックを受け、昨日の夕刻予定されていた記者会見をキャンセルして自宅に引きこもったままだという。(続く)

(http://nationmultimedia.com/参照)

⇒タクシンは勝利宣言するも、内容は大敗(06年4月4日)

タクシン首相は4月2日の選挙でTRT党は1,600票獲得し、投票総数の57%の支持を得たとして昨夜(4月3日)勝利宣言を行った。しかし、前回の得票1900万票を大きく下回った。

また、有権者4,300万人のうち、投票したものが2,800万人で前回の3,200万人を大きく下回った。今回棄権したのは投票ボイコットを呼びかけたPAD(民主人民連合)の要請にこたえたものであろう。

反タクシン派も投票に行って、白票を投じるべきか、投票そのものをボイコットすべきかで意見が2分され、投票に行かなかったものが400万人程度出たと見られる。

TRT党は首都のバンコクでは得票が45%に過ぎず、反対票(白票)51%を大きく下回り、南タイではほぼ全滅であった。北部と東北部での農民層の支持は前回同様得られたものと考えられる。

また、非公式集計としてiTV(最近までシン・コーポレーションが所有)が昨夜(4月3日)の午後5時に放送したところによると85%の開票の時点でTRTの得票率は44%であったとのことである。(他のメディアの報道がないため真偽のほどは不明である)

タクシンは国民和解のための委員会を設置し、そこで今後どうするかを決めたいとしているが、タクシンが首相の地位を去らない限り、「和解」はありえないであろう。また、「和解委員会」に誰が参加するかが問題である。現在は首相経験者を含む有識者がメンバーだとしている。

多分野党側はタクシンの辞任がなければ、参加しないであろう。いずれにせよタクシンの首相辞任がなければ政治の混乱は収まらない。

今回の選挙は野党3党の候補者が誰も立候補せず、事実上TRT党候補者だけの単独選挙とも言うべき内容の選挙であった。

400選挙区中278選挙区はTRT候補社しか立候補しておらず、他はにわか作りの野党候補が出た。当然、TRT党の圧勝に終わったが、単独候補選挙区では有権者の20%の得票を必要としており、39の選挙区で当選者が出なかったといわれる。

この39の選挙区ではやり直し選挙が行われるが、何回やっても当選者が決まらない可能性がある。比例区100人についても途中で1名のTRT候補者が下りてしまったため、欠員になってしまう。そうすると500名の議員が出揃わず、国会は開けないという可能性が出てきた。

また、選挙管理委員会がさまざまな問題を起こしており。公正な選挙ができていないという非難が出ている。

例えば、投票の際に、他人からは見られないような方法で、投票用紙に記入するのではなく、投票監視委員からどこに記入したかわかるようなやり方(対面記入)を採用するなどの方法がとられたという。

最終得票数が決まるのが4月5日(水)といわれている。

 

111-11 タクシン首相の辞任で民主派と合意成立(06年4月4日)

英字紙ネーションの伝えるところによれば、タクシンが首相を辞任すれば、PAD(民主人民連合)と民主党は反タクシン・デモを中止し今回の選挙後の「政治改革」に沿った選挙には参加するという基本合意に達したとのことである。

タクシンの辞任が実現すれば、次の出直し選挙には野党3党も復帰し、南タイの騒乱も急速に収まる事が予想される。仮にTRT党が第1党になっても民主党は文句はないはずである。

TRT党にもマトモな政治家が結構いるから同党からは野党の同意を得られるような人物が首相になることは十分可能である。タクシンは首相適格者はオレしかいないと最後までいきまいていたようだが、彼の日ごろ軽蔑する「マトモナ政治家」に彼自身が支えられていたのである。

タクシンの胸中には4人の名前が挙がっているということだが、そのうちの2名の名前が明らかにされている。1人は副首相兼商業相のソムキットであり、もう1人は国会議長のプコピンである。民主党からの受けのいいのはソムキットのほうである。

タクシンがいなくなれば、タクシンのクローニーも同時に勢力を失うので、出直し選挙結果いかんにかかわらず、タイの政治は一挙に安定化に向かう可能性が高い。

政党に所属していない民主派のチャムロンやソンディも矛を収めることは間違いない。今回、どうやら民主主義と清潔な政治を求めるタイの民衆の勝利が見えてきたようだ。

タクシンの「心変わり」の可能性もゼロではないが、首相を続けることは最早不可能な情勢である。もし続ければ、彼はなにもかも失う可能性すらある。

 

111-12. タクシン辞任後は院政を目指す(06年4月5日)

昨夜(4月4日)はタイ国民にとっては久しぶりに「良い知らせ」が届いた。昨日午後、タクシンはプミポン国王に拝謁し、政治的混乱の責任をとって辞任するという意向を明らかにしたのである。

タクシンがホア・ヒンにある王宮(離宮)に向かうという話しに真っ先に反応したのはバンコク株式取引所で午後は買いが殺到し、745.33(+6.66)ポイントという3月はじめの水準にまで戻したのである。おそらく、本日以降さらにタイは株高に向かうであろう。

タクシンは辞任の理由として、60日後に迫ったプミポン国王在位60周辺記念行事まで混乱を長引かすことはできないということを最大の理由に挙げている。この式典には各国元首が集まり、首相が式の司会役を務めなければならない。

今回の選挙結果は多くの未決部分を残した(40名に近い議席が未確定)ので4月23日に再選挙が行われ、タクシンが60日後もそのときまで「選挙管理内閣の首相」という現在の地位にとどまっているかどうかは不明である。しかし、彼はできるだけ早い機会に首相を辞任する。

タクシンは辞任後も国会議員としのみ分を維持し、かつTRT党首を続けると言明している。首相はTRT党から出して、「後部座席」からタイの政治を操っていこうという意図はミエミエである。TRT党もタクシンからカネが出なければ身動き取れないからタクシンの影響を排除できない。

今回の選挙騒動が一段落したら、改めて憲法を改正し、早急に次の選挙を行うという約束がタクシンと野党の間で取り交わされているので、そのときは野党3党も参加して通常の選挙が行われる。この場合もTRTが第1党になる公算は大きい。

今回のタクシンの辞任劇は出版業界の一方の旗頭であるソンディがテレビ番組のキャスターから降ろされ、それに抗議するための集会をバンコク市内の中心にあるルンピニ公園で開いたことが出発点である。

この集会に、かねてタクシンの政治に疑問を抱いていたバンコク市民が予想外に集まり、ついには政庁広場での大集会とデモにまで発展し、回を重ねるごとに規模を拡大し、最近はバンコク市内のショッピング・センターのあるサイアム・スクエア前での大デモン・ストレーションが展開された。

あれだけのデモを繰り返しながら、混乱は非常に少なく整然としたデモが繰り返されたというのはタイ人の政治意識の高さを物語るものといってよいであろう。また軍や警察は不必要な「挑発」を行わなかった。

このことはタクシンの身びいき的な人事異動(親族や友人を軍・警察のトップに任命した)に対する軍や警察の幹部の反発を招き、いざという時にタクシンの思惑通りには動かせなくなってしまったという皮肉な結果を招いたのであった。

タイの支持者も北部や東北部の農民を中心に欠き集められ、「貧者のキャラバン」と称する集団が形成されたが、カネの力で強引にタクシンの手下が組織した集団であるという印象はぬぐえなかった。

タイの農民にはもともと「農民運動」の伝統があり、反権力志向の人が少なくない。彼らは必ずしもタクシンに全幅の信頼を寄せてはいない。ただし、農村では小作人も多く、地主や村長に逆らうと生活していけなくなるという恐怖感は今も存在している。その農村のボスをタクシンは抑えてきたのである。

バンコクでは1992年5月には多数の死者を出す街頭デモの惨劇の教訓があり、今回は何として流血の惨事だけは避けたいという意識がデモ隊側にも軍・警察にもあったことは間違いない。

とにあれ民衆の「直接行動」が国会で絶対多数の安定政権を誇るタクシン首相を辞任に追い込んだのである。それだけ、タクシン政権が誰の目にも明らかな汚職や失政を続けたからである。

今日からのタイは暗雲が吹っ切れて、活力のある市民生活や経済活動が戻ってくることであろう。南タイの騒乱も近い将来、収束に向かうことは間違いない。

それに引き換え、内政外交にどうにも身動きの取れない暗愚の政権が支配する日本は、頼りは民間の経済活動だけである。

それも実際は外需依存型であり、設備投資も外需関連が多い。雇用が増えているといってもパート労働と若年の雇用増が中心であり、中高年は依然厳しい状況におかれている。株価が戻ったといっても小泉政権発足の少し前のレベルにしか過ぎない。

政治家の質が悪いのはやはり国民の政治意識の低さの反映であると思わざるを得ない。日本ではタイのような軌道修正が利かないのであろうか?

 

111-13. 民主派はタクシンに対する警戒感を緩めず(06年4月8日)

PADや民主党はタクシンの首相辞任はあくまで当面の国民の批判の矛先をかわすだけであって、TRT党を支配し続けて、政治的影響力を行使するのみならず、風向きいかんによっては、また首相に復帰を狙っていると見ている。

タクシンの執念深い性格を知る人にとっては当然の見方であろう。タクシンの強みは、有り余るほど金を持っているということである。これは、タイの政界においては断然たる強みである。

もともと、TRT党はタクシンが政治的野心を実現するために、チャムロンの率いていた「仏法の力党」の残党を核として、タクシンの財力(カネ)を使い強引に結成した政党であり、タクシンからのカネの流れが途切れれば、雲散霧消しかねない要素を持っている。

しかも、政権をとっていれば国家予算を自分に有利に使えるのである。これは日本でも同じことであり、「小泉改革」の5年間にも国家財政の赤字(国債発行残高)が国民の知らない間にドンドン膨れ上がった事実を見れば明らかである。

PADは4月7日(金)にもデモを行っている。約5万人が集まったといわれる。タクシン退陣のお祝いのデモであるが、同時にタクシンが国会議員とTRT党の党首からも辞任し、政治的に完全に引退することを要求するデモである。

4月2日の選挙は約40名の欠員を残した選挙であり、4月23日に欠員を残した選挙区では再選挙がおこなわれが、それでも決着がつかない公算は大である。そうなると何時までも議会が開けず、結局4月2日の選挙の有効性そのものが問われることになりかねない。

タクシンの後継首相はソムキット副首相兼商業相が有力視されているが、タクシンとは必ずしもソリがあわず、まだ流動的である。しかし、ソムキット支持者がTRT党内にも増えており、経済界もソムキットを押す空気が強いという。

 

111-14.憲法裁判所、4月2日の選挙無効判決、やり直しを命じる(06年5月8日)

憲法裁判所のウラ(Ura Wang-ormklang)判事は本日判決が言い渡される予定の4月2日の国会議員(下院)選挙について、無効の判決を出すであろうと、記者団に語った。

やり直し選挙の日程については今のところ明らかにされていないが、次の選挙には前回(4月2日)にボイコットした野党3党も選挙に参加するものと思われる。

これは形式的には4月2日の投票に対する2つのグループによる違憲訴訟への判決という形をとる。

その1つはタマサート大学の法学部講師による提訴で、4月2日に投票日を設定したことは、野党に対していちじるしく不利である(準備期間が短過ぎ)ことと、当選者が不法に有資格とされたことと、TRTの事実上の1党選挙を合法化するために、泡沫野党に資金などを供与して選挙に参加させたとなどである。

その2は、選挙当日、選挙管理委員会が、投票用紙記入ボックスを選挙管理者に見えるように位置を替え、投票の秘密が守られない状況を作り出したことに対する提訴である。(投票者の手元が前から丸見えにした)

このいずれも、憲法裁判所の判決としては「違法」性を認定し、選挙のやり直しを命じるものである。

しかし、それに先立つ4月25日にプミポン国王が、4月2日の選挙をめぐる混乱を裁判所として、適正に判断し「民主政治の原則」を守るようにという異例の「訓示」を与えたことに対する、同裁判所の判決であると見てよい。

実際問題として、500人の定員の下院議員が定員割れとなってしまった。

というのはTRT党候補しか立候補しなかった南部タイのいくつかの選挙区では、必要最低条件の「投票者の20%」の票が集められず、10議席以上の欠員が生じ、5月2日の国会開会予定日になっても国王が議会を憲法上召集できないという異常事態になっていた。

選挙管理委員会としては誠に困った自体に立ち至ったことになるが、直ちに辞任して、新しい員会を選び、その上で選挙を実施するか、あるいは現行体制のままで選挙をやり直すかは目下のところ不明である。

反タクシン集会を主催した、PAD(民主主義のための国民連合)は選挙管理員会の辞任を要求している。というのは選挙管理員会は、かなり「タクシン寄り」の言動があったため、今の選挙管理委員会のもとでは「公正な選挙」が期待できないという主張からである。

日本のアジア学者が「4月2日」の選挙は「違法ではない」などと新聞などで語っていたが、それはタイの裁判所の判断に任せるほうが良いであろう。

また、東南アジアには「民主主義は存在しない」などとも知ったかぶりをしていっている向きもあるが、それも余計なお世話である。日本の民主主義のほうがよっぽど危ういのではないだろうか?

 

111-15. TRTゲート、選挙管理委員長シドニーに逃亡?(06年5月12日)

4月2日の投票に対する無効判決が出て、選挙のやり直しが決まった(投票の日時は7月以降になるがまだ決定してない)が、選挙管理委員会は自らの責任はないとして辞任要求などを一切拒否し、司法当局に対し挑戦的な態度をとり続けてきた。(上記の#111-14参照)

一方、司法側は「選挙管理委員会(以下ECと略す)調査委員会」を組織し、選挙実態の洗い直しを詳しく行っている。

その中で、改めて浮上してきたのが(よく知られてはいたが)、与党TRT(タイ愛国党)党が、単独選挙を合法化するために、過去ほとんど実態のなかた泡沫政党にカネを渡して選挙に参加させたという具体的事実である。

これが事実であれば、TRT党は最悪の場合、憲法違反に問われ、政党として「解散命令」を受ける可能性があり、党首などの幹部は5年間公民権を停止される(国会議員などになれない)ことになる。

この「EC調査委員会」報告は全文が公表されているわけでなく、骨子がメディアに流れたものであるが、ECやTRT幹部に大きな衝撃を与えていることは間違いなく、メディアはこの事件を「TRTgate(TRTゲート)」と名づけている。

EC委員長のワサナ(Vasana Puemlarp)は昨夜(5月11日)、息子の留学先のオーストラリア、シドニーに向けて旅立った。来週早々には帰国するといっているが、大問題が起こっている矢先の出国だけに疑惑の目が向けられている。

タクシンはこの問題についてはコメントを避けている。

TRT党としては「党解散命令」を回避するために、この事件を起こしたのは「党全体」としてではなく「特定の個人」の責任であるということで処理しようとしているようである。いずれにせよタクシン流の強引な政治手法が「憲法違反」に問われることになる。

⇒ワサナ委員長のシドニー行きの同乗者たち(06年5月21日)

ワサナ委員長は5月11日(木)にバンコクからTG995で急遽シドニーに旅立った。帰国したのは5月15日(月)の夜で同じタイ国際航空のTG994便であった。座席は行きかえりともファースト・クラスである。

往復とも隣の座席に座っていたのはTRT党との関係が深いといわれる不動産業者のサワン・マンコンチャルン(Sawang Mankong-charoen)という女性である。

また、国税局のパイトーン・ポンカイソン(Paithoon Pongkaysorn)次長が乗っていた。パイトーン女史はタクシンが以前におこなったポチャマ・タクシン夫人とその親戚へのシン・コーポレーションの株式譲渡でタクシンの取引を合法と認めた人物である。

もう1人、チンタナ・クルアピン(Jintana Kruapin)も同乗していた。チンタナ氏の会社は選挙管理委員会の選挙キャンペーンを7700万バーツ(約3億3千万バーツ)で請け負った企業である。

ワサナは随行者などはおらず「一人旅」で、ポッケット・マネーでファースト・クラスの切符を買って往復したと称している。

はバンコク・ポスト(インターネット版)が5月19日に報じたものである。

おそれいったこうどうとしか言いようがない。ワサナ委員長の一連の選挙にかかわる動きをみても、相当TRT党との連携があったと多くのタイ人が疑惑をふかめるのも無理はない。

 

111-16. 選挙管理委員長、辞任の意向 、新党の動き活発化(06年5月17日)

一旦は次回の選挙を10月22日に実施すると発表していたタイ選挙管理委員会は最高裁など3つの最高級裁判所長官から現在の選挙管理委員会は次回の選挙に関し管理権も決定権もないと通告され、さすがのワサナ(Vasana Puemlarp)委員長も辞任やむなしという意向を固めたという。

ワサナ委員長は警察官僚出身者(将軍)らしく、自分なりの強引路線 をはじめから押し通そうとし、投票の秘密が守れない(選挙管理人の方を向いて覆いなしで投票用紙に記入する)選挙方法など、法治国家としてはおよそ考えられない「改革」をやってのけ、それらが違法判決をうけた。

いずれにせよ、新しい選挙管理委員会が選出され、与野党合意で選挙日程が決定されてからではないと、次回の選挙は行われないことは明らかであり、10月以降にずれ込む可能性は大きい。

思わぬ時間稼ぎができた野党陣営は新党結成などの新たな動きや、TRT党に対する切り崩しが活発に行われるであろう。

.今回の場合、今から120日以上もの空白期間がある。選挙に立候補するにはその政党に最低90日以上在籍する必要があることが現行憲法で定められており、政治家が政党間の移動をしたり、スター・プレイヤーを取り込む動きが活発化している。

問題はTRT党の良識派と考えられている国会議員の動きである。既に数人の国会議員が脱党表明しているが、TRT党は「離脱するものはほとんどいない」と豪語している。 しかし、すでに党内の有力者が相次いで離脱を始めており、タクシンがどれだけ求心力を維持できるか予断を許さない。

そういう中で新党結成の動きも活発化している。その中でも注目すべきはタクシンと袂を分かって脱党した大物政治家スノー(Snoh Thienthong)の動きである。彼は保守系政治家でTRT党の創立に参加し、ワン・ナム・イエン(Wan Nam Yen)という派閥を率いていた。

ところが彼の派閥はタクシンの妹の率いる派閥に圧迫され、次第に党内での発言力が落ち、ついに喧嘩別れして脱党してしまった。しかし彼の派閥の国会議員はの大半はTRT党ないにとどまっている。その最大に理由はカネの問題だといわれている。

スノーは転んでもただは起きない性格で、新しい政党プラチャラット(Pracharaj)党を結成して、来るべき選挙に打って出ようとしている。彼はTRT党の元内相でのプラチャイ(Purachai Piumsombun)の参加を得られるとしている。

プラチャイは「社会秩序派」とよばれナイト・クラブの営業時間を制限したり、青少年の非行防止対策としてバーなどへの出入りを禁止するなど一連の「社会浄化」政策を打ち出した。これには夜の街で営業する人々の反発があり、彼は内相を辞めさせられ、副首相にタナ上げされてしまった。

その後彼はタクシンに愛想を尽かし、若年にもかかわらず政界を引退し、ニュージー・ランドで家族とともに平和に暮らしていたが、今回の政治的混乱を傍観できず、タイの政界にカム・バックすることにしたという。

プラチャイの国民的人気は高く、スノーの新党にはうってつけの人材であることは間違いない。しかし、プラチャイはどこに行くかはまだ決めていないといわれる。

また、プラチャラット(Pracharaj)党にはタイ東北部で選挙に強い新希望党(党首はチャワリット元首相)の有力メンバーが参加すると伝えられている。彼らの参加がえれれればイサーン(東北部)のTRT党の議席はかなり減る可能性がある。

また、前の上院議員でタクシン批判を行っていたクライサク・チョナハン(Kraisak Chonhavan)やカルム(Karum Saingan)といった有名人がプラチャラット(Pracharaj)党に参加するという。そうなるプラチャラット(Pracharaj)党は一気に台風の目になる可能性がある。

TRT党の創立に参加したタマサート大学の教官のリキット(Likhit Theeravekin)はTRT党を離脱し、新たな政党を結成し政治改革を実行したいとしている。 彼はタマサート大学でしばしば学生からのつるし上げにあっていたといわれている。

また、前回、旗揚げして反タクシンノミックスを標榜し、2議席を獲得したマハチョン党(党首は元民主党の保守派幹部サナン)にも元民主党書記長であったプラディット(Pradit)などの有力メンバーが参加すると取りざたされている。

マハチョン党の初代党首であったアネク(Anek Laothammathat)はスノープラチャラット(Pracharaj)党に参加し書記長に就任する。

問題は次回の選挙でTRT党はどれくらいの議席を確保できるかということである。東北部や北部で議席をほぼ独占に近い状態で確保しているが、民主党以外の政党の狙いは東北部と北部にあり、タクシンの個人的人気と資金力だけが頼りのTRT党はかなり食い込まれる可能性が出てきた。

 

111-17.タクシンが「政務」に復帰(06年5月21日)

ワサナ選挙管理委員長が辞職の意向を表明しながら、時期は「しかるべき時に」といって依然として地位にしがみついている。そのため、次の選挙管理委員会も決められず、したがって選挙日程も決まらず、宙ぶらりんの政治情勢が続いている。

こういう情勢を利用してか、タクシンは「政務への復帰」を宣言し、「麻薬撲滅キャンペーン」委員会の座長を務めたりしている。前回の麻薬撲滅キャンペーンでは2,500人とも言われる「容疑者」が何者かに殺害されたが、それが国民に比較的評判が良かったことを思い出したのかもしれない。

この2,500人殺害事件は部分的にしか真相は解明されていないが、麻薬取引容疑者が逮捕もされず、裁判も受けずに抹殺されたことはタイの政府の重大な責任であり、「人道にもとる行為 」であるというのが国際的な常識である。タイではこれが一般の人には受けているというのであるから理解に苦しむ。

最近、国連の人権委員会の委員国が選挙されたが、中国やインドネシアなどが当選したのにタイは落選してしまった。これはタイ王国にとっては由々しき問題である。タクシン政権以前のタイではおよそありえなかったことである。

それはさておき、タクシンはチッチャイ首相代行から権限を取り上げ5月22日(月)から首相職に復帰すると宣言した。その口実が「選挙実施まであと数ヶ月はかかる。その間の政治的空白は許されない」として、貧困対策の実施や南タイで起こった女教師監禁事件などを理由に挙げている。

民主党はタクシンが、景気対策を口実に、その間に300億バーツの予算執行を行ってしまうことを警戒している。これは5月19日(金)に各県知事が「政府」から執行を急がされており、事実上TRT党の選挙対策に使われる可能性があることを野党陣営は 懸念している。

こういう事態になると、ワサナ委員長もタクシンの時間稼ぎ作戦への協力という意味からも、簡単には辞めそうもないという観測が流れている。

一方、タイの大学生は選挙管理委員会に5月26日(金)に大デモンストレーションをかけることを計画中だといわれる。その場合、タクシン側も選管支持のデモを行うであろう。最近はタクシン側の「御用デモ隊」がしきりに暴力事件を起こし、民主派を挑発している。

ここにきて、ワサナ委員長の去就が改めて注目される自体に立ち至った。

ソンティ(Sonthi Boonyaratkilin)国軍総司令官は軍のトップ・クラスの幹部を召集して会議を開き、軍は政治には関与しないが政治的混乱による治安の悪化には懸念を示していることを明らかにした。これは「軍はクーデターなど行わない」ことを宣言したものと受け止められている。

タクシンの士官学校時代に同期生の「クラス10」と呼ばれる軍のトップ・クラスにタクシン派と見られるグループがおり、その多くがバンコク周辺の実戦部隊の指揮官に昇進している。彼らが(もちろん全員ではないが)タクシンの意向に沿った動き(クーデターを含む)をしかねない という見方もある。

実際のところ、タクシンが軍の幹部を動かして何かやろうとしても、やれる状況にはないが、タクシンの意図するところは「政治的復権」であることはミエミエである。

 

111-18. 選挙管理委員会がTRT(タイ愛国党)の解散を司法にゆだねる(06年6月6日)

タイの英字紙ネーションの伝えるところによると、EC(選挙管理委員会)はタクシンの率いる与党TRT(タイ・ラク・タイ=タイを愛するタイ人の党)が先の4月2日に行われた選挙で憲法違反行為があったと する「調査委員会報告書」を検察庁に送った。パチャラ検察庁長官はこの事実を確認している。

検察庁は内部で検討したうえ、さらに「憲法裁判所」に調書を送り、立件するというて順序となり、憲法裁判所がTRTについて「解散」されるべきか否かを判断することになる。

従来のいきさつでは「憲法裁判所」はタクシン派判事が多数(8:7)を占めており、タクシンの政治生命を救ってきたといわれている。これからも「憲法裁判所」がどういう動きをするかは不明である。

解散勧告理由はTRTは民主党など野党3党が4月2日の選挙をボイコットしたため、「単独選挙」になるのを防ぐため、泡沫的な野党にカネを渡し、候補者を出させたという憲法上の重大違反行為が明らかになったためと見られる。

ECに付属する「調査委員会」が本件を調査していたが、元最高裁 副長官のナム委員長はその報告書でTRTの違法行為を指摘した。ECのワサナ委員長はさらに「詳細な調査」をするようにナム委員長に命じたがナム委員長はそれを拒絶した。

その後もワサナ委員長はTRTの立場を守るがごとき言動を続けていたが、EC自身のさまざまな違法行為についても最高裁、最高行政裁判所など3裁判所から「違法判決」がだされ、全く合法性がないまま次の選挙準備を進めようとしていた。

野党3党はこれをボイコットし、次の選挙日程など何も決められないまま、タクシン首相が「選挙管理内閣の首相」という地位で、実際の行政に復帰した。これ が長続きすることは、法的には「無政府状態」を意味しかねないものであり、タイ国内の指導層からも重大問題視されていたのである。

今回問題になった、TRTの泡沫野党買収事件はタクシン政権の国防相タマラク(Thamarak)が直接、泡沫野党幹部を事務所に呼びつけカネを渡して、選挙に「参加」させるという決定的証拠(ビデオ)が握られ、進退窮まった状態にあった。

おそらく、ECのワサナ委員長もこの件を無視することは、タイの民主政治を無視することに直結すると判断し、国民の批判を一身に浴びることになりかねず、とりあえずTRTの解散 の是非を司法に問うという「重大決断」を行ったものと思われる。

ECとしてはなんらのコメントなしでナム委員会報告書など関係書類を検察庁に送り、いわば司法に「ゲタを預ける」格好にした。 タクシンの「手先」とヤユされるECのワサナ委員長としてはこれが精一杯のところであろう。

これに先立ち、内閣官房長官のボブンサク(Bovornsak Uwanno)氏が突如辞任した。理由は「10日間」僧籍に入るためとしているが、政治的混乱にたいして嫌気がさしたということであろう。ボブンサク氏は法律の専門家でウィサヌ副首相の「引き」で内閣官房長官のポストについていた。

内閣官房長官のポストはもともと官僚のポストであり、政党出身議員である必要はない。

(6月6日の記事から内容が多少変更されています)

 

111-19. ウィサヌ副首相が辞任、タクシン首相ますます窮地に(06年6月24日)

タイの政局はプミポン国王の即位60周辺行事でしばらくは休戦状態にあり、即位記念式典を司会したタクシン首相が「国民の人気を取り返しつつある」というような報道も日本では一部流されていた。

しかし、タクシン首相の国民的人気が回復しているという兆しはあまり見られない。それどころかタクシン政権の政策を官房長官であったボブンサクといわば二人三脚で立案してきたともいえるウィサヌ副首相が6月22日(木)に辞任を表明し、タクシンもこれを認めた。

ということはタクシンにとっては最大のブレーンを失ったことを意味し、実務上はもちろん、心理的には相当な打撃となっていると伝えられる。

他のソムキット、スワット、チャトロンの3副首相は当面辞任の意向はないと伝えられる。しかし、チャトロン副首相(教育担当)の辞任の噂は絶えない。

ウィサヌーボブンサクのコンビで立案してきたと見られるTRT党の法務対策がうまくいかず、4月2日の選挙対策がとんでもない方向(泡沫野党買収容疑でTRT本体の解党の危機にまで発展しつつある)に進んできたことに対する「責任」をとったのではないかという見方もできよう。

またウィサヌは今回のタクシンの政治危機の原因の1つとなったシン・コーポレーション株売却の「法律面」の対策を行ったとも言われている。

いずれにせよ、次の選挙日程が未だに正式に決まらない(政府は一時的に10月15日としているが野党の合意を得ていない)という異常事態打開のためにも近々タクシン首相が重大な「政治決断」を迫られることは間違いない。

 

111-20.TRT党のみならず民主党にも解散命令?(06年6月28日)

タイ検察庁は既に与党のTRT党が4月2日の選挙で自党の候補者を当選させるために、対立の泡沫政党候補者を立てたとして、憲法違反に問われ、「解散命令」を憲法裁判所に提訴するかまえであるが、民主党も同時に解散させるべきであるという議論がでてきている。

民主党の解散の話しは6月26日)月)に選挙管理委員長のワサナから持ち込まれたばかりである。これはワサナ委員長がTRT党に配慮した行動であると見られている。

検察庁としては取扱いをどうするかについて11名からなる「小委員会」を設置し検討している。

小委員会の結論としては「TRT党だけでなく民主党も解散させる」べきだということになったようである。小委員会報告に基づき、検察庁としての方針を決定してから、早ければ訴状を今週末には作成し憲法裁判所に提訴する予定であるという。

小委員会報告では同時に「泡沫候補」を立てることに合意した3つの小政党も解散させるべきだという結論になったという。その意味では、TRT党が具体的に「泡沫政党」を自党のために利用しようとしたことを認める結論になっている。

民主党については「解散理由」がどうもハッキリしないが、選挙管理員会が民主党の解散要求を検察庁に提出したのは6月26日(月)であり、検察庁の小委員会が「民主党解散」を提起したのは、その翌日の6月27日(火)である。

この問題が解決しないことには次の選挙が行えないことは確かである。しかし、この際、法廷の場で一切の白黒をつけたほうが良いという面はあることは間違いない。

 

111-21.タクシン;「カリスマ的人物が追放を策す」発言(06年7月11日)

サッカー好きで知られるタクシン首相は、ワールド・カップの決勝戦を観に多忙ななかをドイツに出かけていったが、出発前の6月29日に大変な発言をしてしまった。というのは「憲法を超越したカリスマ的人物が私を政権から追放しようとしている」と言ってしまったのである。

タクシンはタイ語で発言したのだが、現地の英字紙は"charismatic figure who has reserved power beyond the Constitution "という書き方をしている。これは「憲法に拘束されないカリスマ的人物」という意味である。

問題は誰が「カリスマ的人物」かということである。

タイでは「憲法拘束されない人物」といえば普通は「国王]を意味するが、国王も憲法による拘束を受けている。しかし、国民一般を縛る法律からは多分、自由な立場にいると考えられる。

国王の次にイメージされるのは、枢密院議長のプレム元首相である。プレム氏は元タイ国軍最高司令官であり、1980年代の初めの8年間首相を務めた人物であり、自らは「軍事政権の首相」でありながら、今日のタイの民主政治体制の準備をした人物として軍人だけでなく国民からも広く尊敬されている。

ただし、プレム氏は到底「憲法を超越した存在」ではありえない。かれは南タイのソンクラ出身のれっきとした「平民」である。

そういうことになると、タクシンは「国王が自分を辞めさせようとしている」と発言したも同然であり、仮にそのよう意図が国王にあったとしても、国王自らがそのような発言をされない限り、タクシンは自分の「推測」で国王が政治に干渉していると言ったに等しいことになる。

現在、タイのメディアはタクシンに「カリスマ的人物とは誰を指すのか」明らかにせよと迫っている。もちろん、タクシンは回答を拒んでいる。

つい最近まで政府の法律顧問をしていたタイ法曹界の重鎮のミーチャイ(Meechai Ruchuphan) 氏は"reserved power"を持っているのは「国王」しかいないとして、タクシンが「国王」批判を行ったのは「憲法第8条」に違反していると述べている。

タクシン辞任を要求し続けてきたPAD(民主主義のための人民連合)のリーダーであるソンティ(雑誌プーチャドカン=マネージャーの発行者)氏は7月14日(金)からタクシン首相の辞任を要求する集会とデモ行進を再開するとしている。

タクシンは今までに軽率な発言を繰り返し、多くの国民の憤激を買ってきたが、ここに来て自らの軽率な発言によって「墓穴を掘」りかねない状態になってきた。

そのタクシン首相に対して日本政府は早くFTAを調印しろと迫っていると言う(ネーション、7月11日)。

タクシン首相は「選挙管理内閣」の首相であり、そのような「重要な条約・協定」にサインできる立場にはいないと思うが、タイとの「米(コメ)抜きFTA=自由貿易協定」は日本政府にとって何よりも貴重な協定なのであろう。

しかし、コメ問題=農業の構造改革についに抜本的に取り組まなかった小泉政権に、タイ国民も日本国民もこんな形で「有終の美」なぞ飾らせるいわれはない。

WTOのドーハ・ラウンドの話しが進まないのは、日本がコメに最高関税率を課すことに反対しているのが、最大の問題点の1つですよとパスカル・ラミー事務局長がわざわざ言いに来た。今まで逃げ隠れしていた日本政府の対応はダメですよと念を押されたのである。

もちろん、EUも農業保護が極めて重要な政策課題だし、米国も農業補助金の打ち切りという大きな課題を抱えている。もし先進国が「農業保護」が絶対に必要ならば、ドーハ・ラウンドのような「全面自由化路線」を修正して、非工業国の工業製品に対する限定された「保護関税」を認めることがひつようである。

ネオ・リベラル的な、極端な「先進国に都合の良い自由化万能思想」で色濃く塗り固められたドーハ・ラウンドなるものは精神的には19世紀中頃にイギリスがタイ王国と結んだ「ボーリング条約」と瓜二つの「不平等条約(途上国にとっての)」に他ならない。

その先進国が「農業問題」で参ってしまったのはなんとも皮肉である。ヨーロッパを旅すれば一目瞭然なのは、ヨーロッパは農業国だと言うことである。ともかく見渡す限り、美しい農地・牧草地が広がっている。あれを破壊するわけにはいかない。それは日本も同様である。

農業を守ると言う前提で、全体の話しをやり直すしか方法はない。いっぽうで、農業の構造改革を本気でやるとことが長期的に農業を守る唯一の方法である。小手先のその日暮しのやり方は既に限界に来ている。

日本政府の立場としては、ドサクサ紛れに「コメ抜きFTA」などをこのさいタクシン政権などと結ぶべきではない。大事なことは世界貿易秩序のための正論を貫き通すことである。コメ問題があるからそれができないと言うなら、そのための「政策]をきちんとたて実行すべきである。

遅きに失したが、やるべきことはやらなければならない。

 

111-22.ソンティ国軍司令官、親タクシン派軍幹部を左遷しはじめる(06年7月20日)

ソンティ国軍司令官はタクシン首相の士官学校同期生(第10期生)でタクシンと近いと思われている軍幹部を主要なポストから外すという人事異動を7月17日(月)付けで実施した。

異動名簿の129名のうち、半分以上の「中堅幹部」がタクシンの同期生であるという(ネーション紙、7月20日、インターネット版)。特に、首都バンコクに近い軍管区から、「タクシン派」は遠ざけられたと見られている。

通常、この種の人事異動は12月になってから行われる。

ソンティ司令官がこの人事異動を急いだ背景としては、最近、タクシンはソンティ司令官を「国軍総司令官」という1ランク上の地位にタナ上げして、代わりにタクシンの腹心とみられるポーンチャイ副司令官を昇格させようと画策しているという噂が出ていたことによるものと推測される。

ポーンチャイ(Pornchai Kranlert)副司令官は第10期生のトップでタクシンによって出世階段を急上昇してきた人物として知られる。

ソンティ司令官は昨日(7月19日)に南タイに出かけ、イスラム教徒との紛争地区を視察するとともに、現地の第4軍司令官のアヌポン(Anuphong Paojinda)中将と会談したと考えられる。アヌポン中将は10期生ではあるがタクシン派ではないと見られている。

一方、第1歩兵師団長のプリン(Prin Suwanatat)少将は同じく第10期生であるが、最近実権を奪われており、彼の腹心の部下が数多く異動させられたという。第1歩兵師団は王室警護にあたっている。

プリン師団長は昨年、民主派リーダーのソンディ(雑誌マネージャーの編集長)に対し、「タクシン攻撃に王室の名前を使うな」と言う警告文を送ったことで知られている。かなりハッキリしたタクシン派であると見られている人物である。

そのほかタクシン派とみられる第1歩兵師団(バンコク駐在)の第4騎兵大隊長のコシット(Khosit)中佐はサラブリに配置換えになった。同じく第1歩兵大隊のウェヤチャク(Wejachak)中佐はロップリに、第3歩兵大隊のアヌパープ(Anuparp)中佐は南タイに異動になった。

これら2つの歩兵大隊はいわば「近衛兵」であり、王宮警護に当たっているエリート部隊である。

第10期生のポーンチャイ副司令官は同期の仲間を集め、昨日(7月19日)に昼食をともにし政治情勢の議論をしあっと見られている。一時クーデターの噂が飛び交った。もちろんポーンチャイにはそんな力はない。彼はプレム枢密院議長の支持を受けていないからである。

今回のソンティ司令官の「先制攻撃」はプレム枢密院議長との協議の上で行われたと考えられる。プレム枢密院議長は最近は軍装(元国軍最高司令官)を着用して、勤務していると言う。

タクシンは、側近を要所要所に配置して、自分の権力を固めてきたが、つい最近は「憲法裁判所」の所長にウラ(Ura Wang-Orm-Klang)判事を就任させた。もともと憲法裁判所はタクシン派が多数を占めていたことで知られる。

また、司法省の事務局長にタクシンの妹のヤオワパ(Yaowapha=TRT党の最大派閥の長)の夫であるソムチャイ(Somchai Wongsawat)を復職させた。彼はしばらく労働省に出向していた。

最高裁判所と行政最高裁判所は今のところタクシン派判事は少ないが、さまざまな裁判が長期化するとナニが起こるかわからない。タクシンには「短期対策」としてはインドネシア流の「買収工作」と言う手も残されている。彼はそれで上院(本来中立の有識者集団)を も支配下に置いたといわれている。

 

111-23 タイ.国王10月15日の選挙を裁可(06年7月21日)

タクシン選挙管理内閣のロンポン(Rongphon)官房長は手術で入院中のプミポン国王がやり直し選挙を10月15日に実施することに裁可を下したと発表した。なお、国王の裁可の有効日は8月24日とするとのことである。

しかし、現在、与党のTRT党と民主党が解散の可能性のある裁判を受けており、また選挙管理委員会の3名の執行委員(委員長を含む)も解任の可能性のある裁判が行われている。

これらの結果如何によっては選挙の実行が事実上不可能になる。ただし、双方とも8月24日までには決着がつく公算が大きく、事態が変われば選挙日程の延期もありうるであろう。

 

111-24. 選挙管理委員3名が有罪、4年の禁固刑(06年7月25日)

4月2日に行われた国会議員選挙について、違法行為があったとして憲法裁判所からやり直し選挙を命じる判決が出ていたが、刑法裁判所は7月25日(火)に3名の選挙管理委員の4月2日の選挙の実施に当たって違法行為があったとして、4年の禁固刑の判決 を下した。

3名の選挙管理委員とはワサナ(Vasana Puemlap)委員長、プリンヤ(Prinya Nakchudtree)委員、ウイラチャイ(Virachai Naewboonien)委員である。他の2名のうち1名は死去しており、他の1名は「違法判決]が出た後に既に辞任しており、裁判の対象になならなかった。

3名とも保釈申請をおこなったが裁判所は認めなかったため、即日入獄することとなった。 有罪判決と同時に占拠管理委員としての資格がなくなるため、最高裁と上院は直ちに新しい選挙管理委員の選定を行うことになる。

有罪判決を受けた3名の選挙管理委員はかなり露骨にタクシン首相と与党TRTの肩を持った言動があり、「中立性」という点からははるかにかけ離れており、多くの国民の顰蹙を買っていた。(詳しくは111-14参照)

こういうことになると10月15日に選挙を実施することで国王の裁可を得たタクシンにとっては、選挙管理委員として「お気に入り」の委員を選べなくなる。新しい選挙管理委員会をはやくきめないと、今度は10月15日の選挙の実施が難しくなる。

もちろん次の選挙は野党グループは関係官庁とも協力体制を敷き、何とか選挙を実施することになろうが、その前にTRT党と民主党が解散をさせられる可能性を含んだ裁判が進行中であり、なおかなりの混乱は避けられない。

 

⇒前選挙管理委員3人組に2年の禁固刑追加、TRT解散命令の可能性も(06年9月16日)

刑法裁判所は前の 3名の選挙管理委員=ワワサナ(Vasana Puemlap)委員長、プリンヤ(Prinya Nakchudtree)委員、ウイラチャイ(Virachai Naewboonien)委員=に対し、4月2日の選挙の際にTRT党が小政党のいくつかにカネを渡して候補者を出させたことを黙認したとして、さらに2年の禁固刑を言い渡した。

これは民主党が刑事裁判所に告発した事件に関する判決である。3人の被告人おのおの12万バーツ(約38万円)の保釈金で釈放され、30日以内に控訴することが認められている。

この判決の意義は先に検察庁が「与党のTRT党が4月2日の選挙で自党の候補者を当選させるために、対立の泡沫政党候補者を立てたことは憲法違反であり、解散命令を出すべし」という訴えを憲法裁判所に提訴しており、目下審議中であるが、その件に影響を与える可能性大である。

もちろん憲法裁判所は別の判断(TRT党は無罪)を下す可能性もあるが、同一の事実をめぐって「異なる認識」を2つの裁判所がしめすことは考えにくいことから、憲法裁判所もTRTの有罪を認め、「解散命令とタクシンの5年間の立候補禁止」の判決を下す公算が大きくなった。

 

 

111-25. ソムキット副首相近く政界引退の意向(06年8月17日)

ソムキット(Somkid Jatusripitak)副首相兼商務相はタクシン政権の経済政策面を支える有能なエコノミストであり、タクシン引退後は与党TRT党のリーダーとして「最も望ましい人物」という評価をうけていた。

いわば、タクシン政権下の閣僚では最も良質な部類の人物で国内はもとより国際的にも高い支持を得ていた。

しかし、ソムキットは近く政界を引退し、大学の教職につくことを同僚のピニット(Pinij)保健相にもらしたとピニットは報道陣に語った。ソムキット自身は何も言っていないが、おそらくこれは彼の真意であろう。

その背景としては、タクシンとソムキットの間に重要な問題について意見の齟齬があったと思われる。タクシンは何かにつけて「独断専行」で決めたがるが、経済的合理性やバランス感覚に欠けていることがしばしばあったに相違ない。

また、ソムキットは反タクシン運動のリーダーであるソンディ(雑誌社プーチャトカン=マネージャーのオーナー)と旧友であったとも言われている。

タクシンはソムキットの引退について、まだ聞いてはいないが彼がいなくてもTRT党には人材が多く、ソムキットの辞任は問題ないと記者団に語ったという。

また、ピニット保健相自身も次の選挙でTRTが勝ったとしても閣僚として残る積りはないと語った。

ソムキット副首相の引退はタクシンにとっては大変な痛手であることは間違いない。良識的な政治家の代表がTRT党からいなくなるのは大変なイメージ・ダウンだが、おそらくソムキットはタクシンの政治手法とは相容れないものがあったものと思われる。

英字紙ネーションによればタクシンは次のように語ったという。

"I am the most important person who works with them. Everyone else is my helper."(オレが最も重要な人間なのだ。他のやつはワシの補佐役に過ぎん)

こんな傲慢なことをヌケヌケとい奴と誰が一緒に仕事をしいと思うだろうか?18世紀 後期にアユタヤ王朝の崩壊後、トンブリ王朝を一時期開いたタクシン王とよく似ている。彼は周辺の人間から退位させられ、今のプミポン国王のラーマ王統(ラタナコシン王朝またはチャクリ王朝)が成立した。

 

111-26. タクシン首相危うく暗殺を逃れる?(06年8月25日)

タイ警察の発表によると6.5Kgの爆発物(TNTとC-54との混合物)を積んだ乗用車が8月24日(木)に発見され、それはタクシン首相の暗殺を狙ったものではないかということである。

タクシンも暗殺を危うく逃れ「ラキーな日」であったとご満悦であったという。 しかし、タクシンが「危うく危機を脱した」という説には多くの疑問が残されている。

その乗用車を運転していたのはタワチャイという名前の陸軍中尉であり、200バーツで雇われてスアン・オイというタクシンの私邸の近くの地域にこの乗用車を運ぶ途中であったという。乗用車は既に登録期限の切れたオンボロ社であったという。

タワチャイ中尉の背後関係は不明だが、彼の自宅を警察が家宅捜索したところ与党のTRT党のブレザーが発見されただけであったという。

この乗用車に積まれていた爆発物はかなり強力なもので、半径1Kmのものを吹き飛ばす威力があり、タクシンの護衛付きの「車列」の近くで爆発すればタクシンの暗殺も可能であったと警察では見ている。

しかし、そんな大規模の爆発物はタイには現存しないという専門家の見方もある。

この事件の発覚と時を移さず、国内治安維持部隊の副司令官であるパンロップ(Panlop Pinmanea)将軍が突如解任され、この事件との関連を取りざたされている。

しかし、彼は容疑を言下に否定し、「誰がコンナ馬鹿げたことをやるのか?もし私がその気になれば、暗殺はとっくに成功しているはずだ。私は誠心誠意治安維持の任務を遂行してきた人間だ」と語った。

パンロップ(1936年生まれ)は民主運動家チャムロン少将と士官学校第7期の同期生であり、親交が厚かったと噂され、タクシン派からはかねてから煙たがられていた人物であるという。

しかし、一方では、パンロップは民主派のイメージとはほど遠く、以前、南タイの叛徒掃討の現地軍副司令官であり、2004年5月4日の「クルセ・モスク事件」ではモスクを破壊し、32名のイスラム教徒を殺害した責任者として有名である。

その後のタク・バイ事件(78名の虐殺)での軍の行動を支持していた。パンロップは政府の南タイのイスラム叛徒弾圧策が生ぬるいという批判を繰り返していたタカ派であるという。

捕まったタワチャイ中尉は以前、パロップ将軍の運転手をしていたことがある。

しかし、これが本当にタクシン暗殺を狙ったものかどうかについては専門家の間では疑問視されている。むしろTRT党関係者による「狂言」ではないかと見る向きもあるという。

この「事件」をタクシン暗殺計画として結びつけることによって、世間の目を「タクシンへの同情」に向けさせようという狙いがあるのではないかと言う疑念である。

そもそも、爆発物は「いつでも爆発できる状態にセット」されていたというのが警察の発表だが、当初は「材料だけ」で爆発物はセットされていなかったという発表がなされていた。 どうもこれが本当らしい。

野党の民主党は歴史も伝統もあるタイのインテリの政党であり、到底「手荒なこと」などやれる政党ではないし、過去の実績もない。もし、軍の諜報機関がやるとしたら、もっと巧妙に「ことを実現」していたはずである。民主派連合も非暴力ということで一貫している。

最近、民主派連合とみられる市民にタクシン支持派が暴行を加えるという事件が起こっている。自首してきた人物は政府のエランド・ボーイ(雑用係)であったという。

(8月26日追加)

また、タワチャイ中尉の夫人のところに警察がやってきて、「タワチャイに自白をするように奥さんからも説得してくれ、さもないとタワチャイは留置所内で死ぬかもしれない」と脅しをかけてきたという。

警察の留置所内で被疑者が「自殺」したり、「心臓発作」で急死するのはタイではしばしば起こることで、その意味をタイ国民はよく知っている。

もし、タワチャイ夫人が嘘を言っているのでなければ、今回の事件は「タクシン関係者と警察が仕組んだワナ」ということになるであろう。

(ネーションおよびバンコク・ポスト、インターネット版、8月25日付け参照)

 

111-27.タクシンついに首相再選を断念か?(06年9月13日)

WSJの伝えるところによると(AP電)、タクシン首相の側近のチャカパン(Chakaphan Yomchinda)氏が「先週テレビ番組作成のためにタクシンと会った際に、タクシン首相ははっきりとは言わなかったが、次の選挙後にはたとえ選挙に勝っても首相にはならない決意をかためたことが明確に読み取れた」と語った、

このての話しは前にも何回もあり、仮に「辞めると明言しても、当てにならない」ことはタイでは常識みたいになっているが、今回はいよいよ断念せざるを得ない事情に追い込まれたと見ることができるであろう。

9月10日(日)にヘルシンキで開かれたASEM首脳会議の席で、タクシンは小泉首相に向かって「次は”人生を楽しむ党”を一緒に作りませんか?」という冗談話をしたと伝えられている。

それはさておき、現在タクシンを追い詰めている最大の問題はタクシンが軍と決定的に対立して軍全体を敵に回したような格好になってしまったことである。

その@は軍の人事問題である。ソンティ陸軍司令官がまとめた人事案をタクシンが蹴飛ばしてしま い、タクシンは士官学校の同期生で気脈を通じている将軍をムリに昇格させようとした事件である(#111-22参照)。

タクシンの意を受けてさまざま画策したタマラク国防相は「政治家が軍人に干渉した」として直属の部下から公然と批判された。

そのAは最近の「爆弾によるタクシン暗殺計画」である。この事件はタクシンが国民の同情を買うためにデッチあげた「猿芝居」だという見方がされている。 (#111-26参照)

その後、逮捕された運転手タワチャイ中尉に運転を依頼したとされるチャクリット上級曹長が首謀者の1人として名前が出て、さらに警察はチャクリットの自白に基づき、P将軍(パンロップ将軍のこと)が首謀者で他に3人の少将などが関与している一大「暗殺計画」であるという話しになってしまった。

そもそも 下士官クラスの「自供」で軍組織の陰謀へのかかわりなどが分かるはずがない。しかも、爆弾を積んだ車の運転手をしていたタワチャイ中尉の逮捕と同時に、国内治安維持部隊の副司令官である 大物軍人のパンロップ(Panlop Pinmanea)将軍が突如解任されるという早業があった。

今のところ「自供」しているのはチャクリット1人だが、彼は国内治安維持部隊司令官のスラサク(Surasak)少将をこの計画の背後にいる人物として名指しているという。スラサク少将はタクシンの士官学校時代のクラス・メートであり、タクシンの側近に近い人物だと見られている。

なお、この国内治安維持部隊は首相直属であり、陸軍司令官に指揮権はない。いわばタクシンの息のかかった部隊でもある。

スラサクが自ら書いたシナリオかどうかは別として、 これは誰が考えても、パンロップ追放までを織り込んだ筋書きが事前に作られていたと考えざるを得ない。 この無神経極まりない陰謀事件は軍幹部をかなり怒らせたことが取りざたされている。

この猿芝居は呑気者で知られていたといわれる下士官チャクリットなどが脚本を書けるわけがない。タクシンの傘下にいると見られる警察系の「謀略グループ」の仕業であろう。

かねてタクシンびいきと見られている警察は軍が激怒していることを知って青くなっているといわれる。いざとなれば、警察は軍にはとうてい太刀打ちできない。また、警察幹部 の中にも反タクシンの動きをしているものがいることは上でも述べた。

タイのやり直し選挙は、新しい選挙管理委員会が決まったばかりであり、10月15日は到底ムリで、早くても11月19日になるといわれている。

その前に、TRT党が4月の選挙で小政党を買収し、TRT党に都合の良い行動をとらせたという罪で訴追されている。有罪となればTRT党には解散命令が出る。

現在Shin Corporationを買収したシンガポールの国営会社TEMASEKは違法に名義人を使って外資の出資制限(49%)のある通信会社を買収したのではないかとして取調べを受けている。これが違法となればタクシンは決定的なダメージを受ける。

これらを、全て一手に引き受けて戦いきるだけの能力はタクシンにはないことは明らかである。

9月13日にはバンコクで軍事クーデターの噂が飛び交ったという。軍の一部が訓練のため移動したからだという。今のバンコク市民の間には「クーデターによる問題の一挙解決」を望むムードも相当出てきているという。しかし、ソンティ陸軍司令官はこれを強く否定している。

タクシンはクーデターによる逮捕を恐れてヘルシンキから直接帰国せず、娘が滞在するロンドンの豪華マンションで数日休養した後、キューバで開かれる国際会議(非同盟諸国会議)に出席し、その後ニューヨーク回りでゆっくり帰ってくる予定だという。 帰国日は不明。

 

111-28. ついに軍事クーデター、陸軍首都制圧、タクシンも非常事態宣言で対抗(06年9月20日)

06年9月19日(火)夕刻バンコクに豪雨の降りしきる中、タイ陸軍ソンティ司令官はついに行動を起こし、タクシン内閣は追放された。陸軍は「民主改革評議会」を結成し、全国に「戒厳令」を布告し、全軍に現在の持ち場にとどまるように命令した。

今回の「クーデター」はバンコク市民からは過去の何回かのクーデターの中でも「最も歓迎される」ものであろう。タクシン支持が強いといわれるタイ東北部の農村地帯やタクシンの出身地のチェンマイなどの反応はまだ報道されていない 。

9月19日はバンコク市内では朝から軍隊の移動が盛んにおこなわれていたため、軍事クーデターの噂が流れていたという。

軍は中央政庁のほかに、テレビ局を占拠したが、9チャンネルだけはタクシンが外遊先のニューヨークから発した「非常事態宣言」を夜10時20分に放送した。また、陸軍の統制下にある5チャンネルは国王についての放送を従来どおりおこなった。

9チャンネルがタクシンの声明(非常事態宣言)を読み上げたのち、9チャンネルの責任者でマスコミ協会の会長のミンクワン(Mingkwan Saengsuwan) が逮捕されたと伝えられる。

タクシンの非常事態宣言を受けて、これに呼応する軍や警察の動きは目下のところ全く見られない。

他の閣僚やTRT党の幹部については、タクシンに同行しているカンタティ外相以外は目下消息不明であるが 、かねて強硬な言動をおこなっていた主要閣僚は逮捕されているといわれている。

軍は1997年憲法を撤廃(Repeal)し、上下両院と政府と憲法裁判所を解散した。「民主革命評議会」は午後11時のテレビ放映時から「行政改革評議会=ARC」 と自称している。どう評議会は国王の下にあり、枢密院(プレム議長)、憲法裁判所以外の裁判所は従来どおり機能している。

憲法裁判所が解散させられたのは1997年憲法停止という事態を受けたものであると思われるが、憲法裁判所は最もタクシンによって「汚染された」(買収された判事が多い)という噂のあった裁判所であった。

各県知事は4つの軍管区の司令官の指示に従うように通達が出された。

現在、バンコクの中央政庁は第4騎兵大隊によって占拠されおり、周囲には戦車が配備されている。プレム元首相の自宅も軍により厳重に警護されているという。なお、タクシン派の軍幹部の動きは伝えられていない。

「行政改革評議会」が発表した声明文の趣旨は以下の通りである。(ネーション紙による)

現在のように国民が分裂状態になったことはかってない。双方が手段を尽くして攻撃しあい行政と広範な汚職についての疑惑が蔓延している。国家機関と独立の組織が政治的な干渉を受け、憲法に定められたサービスを提供できなくなってしまった。

行政は日ごろ国王の権威を損ないかねない(不敬罪に近い)行いをしてきた。妥協のための方策がさまざまおこなわれてきたが、それもついに紛争を終わらせるにいたらなかった。

革命主体は権力を掌握する必要があるが、支配を続ける意図はなく速やかに権力を国民に返還し、平和と、タイ国民全てから敬愛される国王の名誉を保ちたい。

⇒9月20日(水)は臨時休日

「行政改革評議会」は9月20日(水)は臨時休日とし、官庁業務、銀行、株式市場などの業務は停止される。学校も休みである。

官庁の幹部、国営企業の経営者、大学学長などは事態の説明を受けるために午前9時(日本時間11時)に国軍本部に集合するようにテレビを通じて指示が出された。なお各国外交官も同時に招請を受けているという。

⇒タクシン夫人は9月18日(月)にシンガポールに出国

クーデターの話しはタクシン夫妻には事前に知らされていた可能性があり、ポジャマン夫人は既に9月18日(月)に安全地帯のシンガポールに出国していた。子供たちが同行しているかどうかは不明である。 その後の情報で2人ともロンドンに向けて出発したとのことである。

⇒主要閣僚などの動き

「行政改革評議会」に反抗的な閣僚は逮捕されたと伝えられているが、具体的には誰と誰が逮捕されたかは不明である。

タマラク国防相は危うく逮捕を免れ地方(不明)に逃亡中とのことである。逮捕された幹部のなかにはチッチャイ(Chidchai)副首相、ルエンロット(Ruengroj)国軍総司令官が含まれている。 ルエンロット総司令官はすぐに拘束を解かれ「行政改革評議会」議長(ソンティ)の顧問に就任した。

ルエンロット国軍総司令官はタクシンから陸軍司令官を兼務するようクーデター後指示を受けたというが、彼自身軍に対する直接的指揮をおこなえる立場にはなかった。今回にクーデターでも完全につんぼ桟敷におかれていたようである。

TRT(与党タイ・ラク・タイ=タイ愛国党)副首相で農業相のスダラート女史はパリに出国中。プロミン官房長はフィリピンに滞在中。プリディヤトン中央銀行総裁は世銀・IMFの会議のためシンガポールに滞在中(彼の逮捕の可能性はない)。

タノン財務相はシンガポールに滞在中だが、当分帰国しないとのこと。彼は通貨危機のときの財務相でもありバーツ切り下げ情報を事前にタクシンに流し、巨利を得させたという疑惑を持たれたことがある。

ソムキット商業相はパリに滞在中であるが、しばらく様子を見てから帰国するといっている。彼の逮捕の可能性は低い。

タクシンの義兄(夫人の兄)のプリューパン(Priewphan Damapong)警察大佐は警察評議会副議長兼警察副長官の地位にあったが、評議会議長 兼警察長官コウィット(Kowit Wattana)のところへ出頭した。

彼はタクシンの意向に沿って警察内でさまざまな画策をした疑惑を持たれているが、事実関係は不明である。

(06年9月22日朝現在拘禁されている人物)

@チッチャイ(Chidchai Vanasatidya)前副首相、首相代行、Aプロミン(Prommin Lertsuridej)元官房長官、Bプリン(Prin Suwanthat)少将、第1歩兵師団長、Cサニット(Sanit Phrommas)少将、第2騎兵師団長の名前が挙がっている。2人のタクシン派少将は兵営において拘禁されている。

また、タクシンの側近としてイサーンの農民をバンコクに連れてきて民主派に対抗させるなどの一連の作戦を指揮していたとされるネウィン前首相府長官とヨンユット天然資源相は逮捕拘禁された後釈放されたと伝えられている。

 

⇒首相に中央銀行総裁プリディヤトンが就任か(06年9月20日)

英字紙ネーションによれば「行政改革評議会」は首相に中央銀行総裁であるプリディヤトン(Priditathorn Devakula)に就任を要請し、同氏はこれを受諾し、急遽シンガポールから帰国し、緊急記者会見を開くという。

彼はクルンタイ・バンクの不動産業者への不正融資を厳しく処断し、タクシンと激しくやりあったことで知られる人物である。中央銀行の独立性を盾に辞任要求を蹴飛ばした硬骨漢として知られる。「骨太」かどうかは不明だが「骨が硬い」ことは立証済みである。

しかし、プリディヤトン総裁自身は誰からも首相就任要請など来ていないと噂を否定した。タイのエリート層のなかには誰が首相になっても「ああなるほど」と頷けるような人材が多い。これが極東の某経済大国とは大変な違いである。 こちらはだんだん質が劣化してくる。

なお、タクシンはとりあえずロンドンに亡命するという噂がある。タクシン一行はチャーター機を使ってロンドン入りをした。

(その後の候補者名06年9月22日現在)

スパチャイUNCTAD事務局長(前WTO事務局長、元民主党副党首)の名前が首相候補として急浮上しているといわれている。また、行政裁判所長官のアカラトン(Acaratorn Chularat)氏の名前も挙がっていたが、目下処理すべき案件が山積していて手を離せないといっているようである。

行政能力や国際的な知名度からみてスパチャイが了承すれば最適であろう。

 

⇒2週間以内に文民内閣に権限委譲(06年9月20日)

「行政改革評議会」のリーダーであるソンティ陸軍司令官は外交団との会見で、軍は権力を長期に保持する積りは全くなく、2週間以内に文民内閣を発足させる意向を明らかにした。

また、新内閣発足後、早急に「恒久憲法」を制定し、それに基づいて選挙をおこなうが、その時期は遅くとも2007年10月をメドとしたいとしている。

また、タクシン他の閣僚らのタイへの帰国はなんら問題ないとしている。 ただし、過去に違法行為があれば「法と証拠」に照らして処分されるといっている。これが彼らにとっては一番怖いのだ。

 

(今回のクーデrターに対する私見、その@)

今回のクーデターは十分に予見できた。タイの軍部はもちろん、軍に対する絶大な影響力を持っている元首相で王室の後見役であるプレム枢密院議長も軍事クーデターだけはなんとも避けたいという意向が強かった。プミポン国王自身もクーデターには最後の最後まで反対していたはずである。

しかし、タクシンは国軍に自分の影響力を増す手立てを種々めぐらし続け、自分の士官学校同期生(第10期生)で自分に「忠誠」を誓いそうな将軍を軍内部で抜擢・昇進させるという工作をおこない続けてきた。それに対応するタクシン派の将軍達の動きもあった。

タクシン政治に対する危機感をつのらせてきたタイのエリート層は既にPADなどを通じてタクシン追放運動を展開してきたことはいままで述べてきたとおりであるが、タクシンは東北部や北部の貧困農民層の支持(主に村長クラスの買収による)支持を背景に「選挙をやれば絶対に負けない」という確信のもとに政権に居座り続けてきた。

タクシンが致命的なミスを犯したのは所有していたシン・コーポレーションをシンガポールの国営投資会社テマセク(TEMASEK)に売却し、それに対する税金を1バーツも払わずに子供に相続させるという、首相という立場にいる人間としてはやってはいけないことを公然とやってしまったことである。

また、自分の地位と権力を強化するために、要所要所の人物を買収し、あるいは利権を与えてきたことである。一方において国民医療の30バーツ診療制度という「ポピュリスト」政策を行い貧困層の支持を獲得してきた。しかし、それは十分な国家財政に基礎を置いた政策ではなく、医療の荒廃をもたらすことにもつながった。

タクシンは自分への世論の批判をかわすために「名誉毀損」訴訟を連発してジャーナリストを迫害し、はてにはバンコク・ポストなどのメディアの買収も間接的におこなおうとした。

しかし、これらは1973年、76年、92年という民主化運動で多くの血を流してきたバンコク市民・タイ国民の許容するところとはならなかったのである。

さまざまの失策の結果万策尽きたタクシンは「爆弾事件」まで演出して、国民の同情回復を図ったが、それもかなわなかった。最後は軍の人事に介入し、自分の息のかかった第10期の将軍 達の昇進をはかったことが、タイ国軍をして今回のクーデターの引き金を引かせる結果につながった。

南タイの騒乱も元はといえばタクシンが起こした事件だともいえなくもない。ナラティワット襲撃を企画したのは与党TRT党の議員であった。

今回のクーデターをタクシンの息のかかった将軍達がひっくり返すようなことはありえない。彼らにそんな力はない。今回のクデターはプレム枢密院議長以下タイの「国難」を救おうとしたタイのエリート層の総意で引き起こされた、いわば周到に準備された計画である。

陸軍司令官ソンティはイスラム教徒の物静かな将軍であり、個人的野心は皆無といっていい。彼が望むのは平和な南タイの再構築である。彼はイスラム教徒も仏教徒も仲良く共存していた人情豊な南タイの復活しか考えていないはずである。

騒乱の後遺症は大きいものがあるがタクシンがいなくなれば南タイの平和が戻る日はそう遠くはない。つい2003年12月末まで平和は大体維持されてきたのである。

タイの投資環境は飛躍的に向上するであろうことは間違いない。私の短い経験でもタイほど仕事をやりやすい国はない。

今後の政治的プロセスはどうなるかは不明だが、TRT党は解散させられる公算が大きい。検察庁は解散を提訴したが、それを審議中の「憲法裁判所」が解散させられたことには問題があるが、「暫定憲法」で新しい選挙法を施行して早急に選挙がおこなわれるであろう。

その場合、民主党を中心とする新たな政権ができるであろう。TRT党の良識派のソムキットなども政権に戻るかもしれない。

なお、速報はタイの英字紙ネーションのホーム・ページを参照してください。バンコク・ポストは有料なので記事が全部読めない可能性があります。

ネーション;http://www.nationmultimedia.com/

バンコクポスト;http://www.bangkokpost.com/

 

111-29.米国はなぜタクシン政権の崩壊に失望したか?(06年9月21日)

タクシン政権が「軍事クーデター」によって崩壊させられたということに対し、欧米各国はその手段(軍事クーデター)が気に入らないとしてしきりに攻撃している。しかし、内容が 「健全な民主主義政権樹立のためのやむを得ざるクーデター」であったことを知らない国はまずないであろう。

知らないのは日本のテレビに出てくるインチキ・コメンテーターぐらいのものではないだろうか?

然るに、米国のブッシュ政権が異常に強い調子で軍事クーデターを非難したのはなぜか。

その答えはタクシンはブッシュの「ポチ」だったからである。

もともとタクシンはタイにはテロリストはいないと公言していたが、03年6月10日にタクシン首相が米国を訪問しブッシュ大統領と会見する直前に、ブッシュが目の敵にしている、アルカダの一派であるジェマー・イスラミア(JI)・グループに属するイスラム過激派が タイでも逮捕された。

タクシンもイスラム・テロリスト逮捕という結構な材料をブッシュに提供できて、めでたい限りであった。 タクシンは米国に忠実に「テロ対策」をやっていることをアピールできたのである。ことのほかブッシュ大統領もお喜びだったとのことである。

2002年10月にバリ島爆破事件を起こしたインドネシアがジェマー・イスラミアなどいないと主張し続けていたから、タイにもいるぞということになってブッシュも余計にうれしくなってしまったのかもしれない。

ところがこれにはイロイロ背後の事情があった。タイにジェマー・イスラミアがいて、その名前まで教えてくれたのはシンガポールのジェマー・イスラミア専門家だったのである。 世の中にはこういう情報を売ってメシの種にしている人間もいるのだ。

その情報をもとに イスラム教師ら4人が捕まったが、彼等はあくまで無罪を主張し続け、裁判でも結局無罪となった。しかし、その間に弁護士のソムチャイ(イスラム教徒)が警察官数人によって拉致され、行方不明 (死亡確実)になるという事件が2004年3月に起こった。

ソムチャイ弁護士は逮捕された4人の被疑者が警察から拷問され自白を強要されたという事実をつかみ、それを公判の争点の1つにしようとしたからである。ソムチャイの「失踪」直後タクシンは事情を知りながら「夫婦喧嘩でもして家出でもしたのだろう」という発言をして家族の怒りをかった。

その後、警察庁長官が辞任し、ソムチャイを「消した」のには政権トップが関与していたことが明らかになった。タクシンは捜査を進めるといいながらソムチャイの遺体の発見もできていない。(#50-2、ソムチャイ事件参照)

ついで、タクシンは大変なお手柄を立てた。 米国の9/11事件にも関与し、02年10月のバリ島爆弾事件の首謀者とみられ売国が懸賞金付きで行方をおっていたハンバリがアユタヤに潜伏していたところを03年8月に捕まえたのである。 (インドネシア;#12-6、参照)

これでブッシュの「信頼感」をかちえたタクシンは飛ぶ取り落とす勢いだったのである。このころタイは中国向け輸出が絶頂期にあり、タイ経済も好転した。経済にも強いタクシンという虚像はこの頃出来上がったといってよい。

そのタクシンが汚職などの罪で政権を追われたのだから、ブッシュとしては面白くない。「タイの民主主義はどうなっているのだ?」などというご発言が飛び出してきたものと思う。

しかし、ブッシュ大統領以前に、米国が東南アジアで支持してきた支配者の面々を見るとマルコスやスハルトといった民主主義とはおよそ縁がない顔ぶれがやたらに目に付く。自ら、中南米でも軍事クーデターをさんざ仕掛けてきたではないか。

ベネズエラのチャベス大統領を暗殺しようとしているという噂まで出ている。米国自身が「民主主義」の原則をしっかり守るお手本を示してもらいたいものだ。 そうすれば少しは世界の人々も米国への信頼感を増すであろう。

 

111-30. タイ国民の80%以上が今回のクーデター を支持(06年9月21日)

スアン・ヅシット・ラジャバート(Suan Dusit Rajabhat)大学が急遽おこなった世論調査(サンプル3000人)によると、バンコク市民の81.6%、地方住民の86.3%、全国平均で84.0%の人が今回の軍事クーデターを支持するという回答を寄せたという。

また、今回のクーデターによって今後政治が良くなると思うか?という質問に対しては;

バンコク市民;良くなると思う=72.8%、変わらない=20.0%、悪くなる=7.2%

地方住民;良くなると思う=77.27%、変わらない=20.45%、悪くなる=2.28%

全国平均;良くなると思う=75.04%、変わらない=20.22%、悪くなる=4.74%

 

以上の結果をみても、タクシン後の民主政治に国民が大きな期待を寄せていることが良く分かる。ただし、この調査をタクシンの出身地のチェンマイやタイの東北部(イサーン)に限ってやればまた、別な結果 が出たかもしれない。

しかし、今のところチェンマイもイサーンも静まり返っている。軍隊にはかなわないと思ってあきらめているのか、タクシンの政治にも問題があったことを認めているかどちらかであろう。

他のメディアのインタビュー調査を拾い読みして見ると、貧しい階層の人は30バーツ診療という格安の医療制度には大いに恩恵を受けているという。また、バンコクでもタクシン支持で有名なオートバイ・タクシーのドライバーは「タクシンンのおかげでヤクザにカネを払わなくて済むようになった」という点を評価している。

バンコクではオートバイ・タクシーの運転手達が「反タクシン運動」に強く反発し、新聞社を取り囲んで気勢をあげるなどし、一種の暴力団化したグループもあった。

こういった弱者への配慮という点ではバンコクのエリートの政党であった民主党はぬかっていたことは確かであろう。チュアン・リークパイ政権(タクシンの前の民主党政権)はIMFから厳しいタガをはめられ、経済再建に苦労し続けていたが、貧困階層への目配りは明らかにかけていた。

タクシンは国家の金(国民から集めた税金)を使ってその辺を上手く立ち回ったのである。

しかし、メッキはすぐにはがれたが、メッキに気が付かない国民大衆も多いわけで、それが貧困地帯のイサーンに典型的に現れた。彼らの支持を得て安定政権を作っておいて、タクシンやそのクローニーは汚職行為 (合法的装いを凝らした )や利益誘導(民営化などによる)などで私服を肥やしたのである。

タクシン自身もシン・コーポレーション事件でついに馬脚を現してしまった。

情報量も多く、それらに対してある程度的確な判断力を持つバンコクの中産階級は敏感に反応して、自らタクシン追放運動に立ち上がったのである。今回の軍事クーデターに反対している人(インテリ層に比較的多い)もタクシン追放には賛成している人が多い。

TRT党以外の政党が政権を握ったら上手くいかないのではないかという議論もあろうが、現にバンコク知事は民主党のアピラク氏であり、彼のパフォーマンスについて文句はあまり聞こえてこない。

タクシンといえどもできないことはできなかったのである。その典型的な例は「半年でバンコクの交通渋滞をなくしてみせる」という話しである。麻薬撲滅運動も2500人もの人を殺しながら、いつの間にか復活してきているし、マフィア退治もネズミ数匹で終わってしまった。

その間、合法非合法の汚職が蔓延した。

(南タイの反応)

PULO(パタニ解放組織)のヘッドでスウェーデンに亡命しているルクマン・リマはAPの記者に対して「タクシンが追放されたので話し合いが上手くいくのではないか」と歓迎の意向を示したという。

また、ソンティ陸軍司令官が打ち出した「対話路線」はタクシン政権中枢からは批判を受けていたが、現地での評価は高い(南タイのイスラム教徒に理解を示す唯一の人として)とルクマンは語っていたという。

ルクマンはPULOとしては完全独立達成まで戦うといいながらも、タクシン追放を歓迎しているようである。南タイの住民の大多数もタクシン追放を喜んでいると思われる。タクシン周辺の強硬論者による政策は流血と悪意と不信感以外何も生まなかった。今までに既に1700人殺されている。

また、南タイのビジネス界もタクシンの追放により、南タイの経済発展に注力する政権ができることを期待しているという。

 

⇒朝日新聞はタクシン擁護の記事?

日本ではリベラル派と見られている朝日新聞がインターネット版(06年9月21日付け)で「軍主流の不満噴出、背後に国王側近 タイ・クーデター」という見出しの記事が掲載されている。

記事の主旨は「タクシンは何も国王に対して不敬な言動はしていないのに、軍主流のプレム枢密院議長らがタクシン派との軍の人事異動を巡る争いからクーデターに踏み切ったとみられている」ということである。

また、タクシンは「議会制民主主義の手続きでプレム議長に挑戦して敗れた」としてタクシンに同情的な書き方をしている。解任されたときのタクシンは議会を解散した後の「選挙管理内閣の首相」であったに過ぎない。

また、タクシンはなぜ絶対多数を握る議会を解散し、新たに選挙をおこなわざるを得なかったかについての言及がないのは片手落ちもいいところである。インターネットの記事といえども朝日の記事である以上「記名」記事にすべきである。NYタイムズもWSJもそうしている。

その辺のところは百も承知の上でこういう論調の記事を書くのは、スハルト政権時代もそうだったが「権力批判」を忘れた「御用記事」の延長記事としか言いようがない。4月の選挙でもタクシン率いるTRTはナニをやったか、現地の特派員がいちばん良く知っているはずではないか。

他の朝日の記事を全て見ているわけではないが、ここまでイイカゲンな記事を書くとは驚きである。軍の勢力争いが今回のクーデターの原因であれば、国民が84%も支持するはずはないではないか。

そもそもタクシン派の師団長も今回のク^デターにはほとんどが賛同している (プリン第1歩兵師団長とサニット第2騎兵師団長は兵舎に拘禁されているが、クーデターに対しては直接反対行動はとらなかった)。

タクシンの政治手法やそれにともなう問題点を朝日は過去どれだけ調べ報道してきたのかといいたい。

また、プレム氏が1980年代に8年間軍政首相の座にあり、その間の長期的不況をのりきり、自由化を進め、民政移管の準備を着々と進めていった事実をこの特派員と本社のアジア総局は知っているのであろうか?

この書き方ではプレムが政権欲に駆られた行動をとったと受け止められても仕方があるまい。タクシンこそは警察を既に手中に収め、ついで軍も同期の第10期生を特別に昇進させ、軍と警察を握る「独裁政権」の樹立を目指していたことは自明ではないか。

ヒットラーは「議会制民主主義」を通じて独裁権を確立していったことを朝日の記者が知らないはずはあるまい。タクシンはきわめて周到にその準備を進めてきたということが、この私の拙いホーム・ページ「タクシンの政治」をはじめから読んでいただけば分かるはずである。

タイ人の有識者のタクシンへの危惧はその点にこそあったのである。

今回の朝日のような記事をいくら読まされても読者はタイのこともアジアのこともさっぱり分からない。 日本人一般のアジアへの理解不足は朝日に限らず、全国紙のイイカゲン記事のオンパレードにも相当責任があると私は思う。

 

111-31. タクシン等の資産調査のための委員会発足(06年9月22日)

「民主改革評議会」(The Council of Democratic Reform under Constitutional Monarchy=CDRM)はタクシンとその家族や閣僚15名などの資産を調査するための9人委員会を発足させることとした。

 

それ以外に会計検査院(委員長ジャルバン女史)は従来通り機能しているが、汚職追放委員会(NCCC)は機能停止している。NCCCはタクシンによって事実上機能不全状態に追い込まれつつあった。

タクシンのやり方は「自分の息のかかった」人物を委員候補に指名し、それを買収済みの上院議院の委員会で承認させ、着々とNCCCを骨抜きにしてきた。この手法はタクシンの常套手段でもあった。汚職しやすい政治・行政環境作りにかけてはタクシンは天才であった。

委員の人選はまだおこなわれていないが、元NCCC(国民汚職追放委員会=National Couter Corruption Commission)委員であったクラナロン(Klanarn Chantik)氏や前最高裁判事ナン氏、前中央銀行総裁チャト・モンコン氏などの名前があがってる。

この設置案に反対しているのはルアンロプ委員(国軍総司令官)1名だけであるが多数決で設置を決めたという。

現在のところ、タクシンの資産は凍結されてはいないと中央銀行(バンク・オブ・タイランド)は説明してる。ただし、海外送金は家族1名当たり年間百万ドルまでとされ、それ以上は中央銀行の許可が必要である。

 

⇒タクシン既に多額の現金を国外に持ち出す?(06年9月25日)

タクシンは失脚後に資産の没収をおそれて多額の現金を国外に持ち出しているという疑惑が持たれている。

最初にフィンランドに出かけ9月9日に58個のスーツケースやトランクを持ち出している。中身は定かではないが、国際会議用の書類がそれほどたくさんあるわけではない。タクシンの専用機Thai Koofa号はそのままフィンランドの飛行場に1週間以上も留め置かれた。

さらに、クーデターの2日前の9月17日に別の飛行機(エアバス340-600)で56個のトランクとスーツケースを国外に持ち出していることが判明した。

貨物の中身は分かっていないが、少なくともバンコク出発前からタクシンはクーデターについて事前に察知していたことは明らかである。

また、PAD(民主主義のための人民連合)の指導者のソンティ(陸軍司令官とは別人で雑誌ーマネージャーのオーナー)は2機のロシアの飛行機をチャーターしてタクシンは資産を海外に持ち出したという疑惑が持たれていると語った。

中央銀行プリディヤトン総裁はタクシンがシンガポールのテマセク(TEMASEK)に売却したカネはまだ大部分がバンコクにあるはずだし、外貨に変えてそれだけ多額の現金を持ち出したとも思えないと語っている。

しかし、はしこいタクシンのことだから物理的に可能な限りキャッシュ(バーツにせよ外貨にせよ)を持ち出したことは確かであろう。タイ・インターナショナルはタクシンが影響下においていた会社である。

現金を銀行に預けると口座を凍結されるおそれがあるため、100個以上のトランクに詰めた現金を持って移動して歩くのもご苦労な話しである。それだけ多くのトランクとスーツケースは今どこにあるかは謎であるがロンドンの豪華マンションである可能性が大きい。

なお、タイの法律では個人が外国に持ち出せるバーツの現金は1人当たり5万バーツ(15万5千円)に制限されている。

CDRM(はタクシン等の不正取得資産調査委員会の設置についで、政令23号でタクシン政権によって承認を受けた全プロジェクトの審査をやり直すことを決めた。