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◆竹輪(かまぼこ)の歴史 |
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底曳漁業が隆盛になるにつれ、サメ、タラ漁獲が上昇をたどり、昭和期に入ってから同30年のあいだに著しい進展を見せた焼き竹輪製造は特筆されるものであった。この最盛期は終戦をさかいにはじまっている。戦前から焼き竹輪製造を行っていたのは5工場に過ぎなかったが、同24年までに前記5工場を含め22工場が操業し、同25年の生産は40万箱を数えた。歯ごたえのある弾力性と魚肉のこげ茶色が食糧事情の悪い時期に大いにうけ、しかも他のかまぼことちがって冷凍が可能であり輸送に適したため、府県市場に吸収され、さらに政府のこの事業に対する砂糖、澱粉などの特配といった援助も、工場の急増、生産増大に側面的影響をもたらした。これは稚内の特産といわれ、森円次郎を会長とする稚内焼竹輪協会が結成され、水産加工界の王座に君臨したのであるが、物資が出回り経済が安定するに従い需要も下降線をたどり、同29年ころから斜陽化した。そのころからスケソ漁獲がめざましく増大し煉製品原料としてのガラ送りが始まり道南、本州方面の竹輪製造に拍車をかけた事も見逃せない。 |
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