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神奈川に住む孫の「フミ」が、尾花沢との比較をしてくれました。

比較した項目 秦野市 尾花沢市 気づいたところ
人口 168,505人 22,010人 秦野の方がかなり多い
面積 103.6㎢ 372.3㎢ 尾花沢は秦野の3倍以上
地形の特徴 盆地 盆地  
名前の由来 「秦野」の由来は、いくつかの説がある。古墳時代に、この地を開拓した人々の集団「秦氏(養蚕、機織りの技術に優れた渡来人の子孫の集団)」の名に由来しているということもその一つ。
平安時代に書かれた「委名鈔」には、秦野の古名は「幡多」だったと記載されている。
いずれにしろ、秦野は古くから人々が住み着き、困難を克服して新天地を形成してきたと考えられる。
尾花沢市のある村山地方には、縄文時代の集落跡が多くあり、アイヌ民族との交流話がある。地名由来もアイヌ語の「オバネ」と言われ、「オ」は兵や山の峰、「バネ」は赤い粘土地を指し、いわゆる赤土が露出した兵陵地を意味する。
長い間「尾羽根」の字があてられた。江戸期に羽州街道の宿場町で栄え、多くの「沢」が入りくんで流れる段丘の地にススキが群生して美しい穂波の景観が広がっていた。そこで「尾」のようにたれるススキの花は、歌言葉「尾花(おばな)」とも呼ばれ、参勤交代で訪れる大名や旅人たちに土地柄を印象付けるにふさわしい「尾花沢」に変えて地名に反映したといわれる。
 
市の木・市の花
キャッチフレーズ
市の木 : さざんか・こぶし
市の花 : なでしこ・あじさい
C F : みどり豊かな暮らしよい都市
市の木 : けやき
市の花 : つつじ
C F : 雪とスイカと花笠のまち
 
特産物 秦野の有名な特産物といったら「たばこ」や「落花生」だが、今はほとんど作られていない。
それに変わって、「牛乳」「豚」「バラ」「きゅうり」。特に「カーネーション」は、全国でも有数の産地となっている。
尾花沢の特産物は、
○ 葉タバコ(栽培面積:県1位)
○ スイカ(夏のスイカ生産量日本1位)
○ 尾花沢牛(黒毛和牛の肥育、出荷とも東北1位。毎年8月15日は徳良湖畔で「尾花沢牛肉まつりを開催)
○ 米(市の農産物出荷数で最も多い)丹生川沿いの肥沃な土壌で育った尾花沢米は、市場での評価も高い。
○ そば(作付面積東北1位)寒暖差が激しい風土と流れ出る清冽な地下水で作るソバは大変人気が高い。
秦野に比べて尾花沢はとても特産物が多い。
秦野で祭があるほどの「たばこ」も、今はほとんど作られていない。

名水 秦野では、「秦野盆地湧水群」といわれる「弘法の清水」をはじめ、「くずはの泉」など21カ所の湧水群がある。 「御所の水」をはじめ、13ヶ所の湧水があり、今も叔父がソバを打つたびに汲みに行っている。

(荒楯不動の水)
 
代表する祭り 秦野たばこ祭

~ 炎が舞い 光が奏でる ~
火とともに伝わる秦野の息
おばなざわ花笠まつり
27日は「諏訪神社」の例祭で朝早くから山車が祭囃子を奏でながら市内を練り歩く。
28日は「ヤッショー・マカショ」のかけ声にのせて繰り広げられるダイナミックな笠回し踊りのパレード。花笠踊りの発祥地として、市内外から2,500人を超える踊り手が参加する勇壮な夏祭りだ。

今年は、私も「チャレンジ花笠」というステージで花笠踊りをマスターしてきました。
“ヤッター”

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秦野の観光名所
弘法山をはじめ、震生湖・丹沢・大山や数々の史跡があります。
尾花沢の観光名所
〔 温泉 〕 銀山温泉をはじめ、4ヶ所
〔 名所・旧跡 〕 延沢銀山遺跡・徳良湖
〔 レジャー施設 〕 オートキャンプ場・スキー場
〔 文化 〕 おくのほそ道 (松尾芭蕉が紀行中最も長く10泊した)
〔 自然 〕 船形連峰 御所山・ホタルの里・宝栄牧場
〔 グルメ 〕 そば街道・尾花沢牛

○○ 更に詳しく調べました ○○
(1) 銀山温泉
  ~ 大正時代のおもかげをのこす旅館街 ~
  「おしん」や、名物おかみ「ジニーさん」でも有名
(2) 延沢銀山遺跡
 戦国時代に「延沢氏」という士族により尾花沢は発展した。 1456年には銀鉱が発見された。

夏知らずと言われるほど銀坑道の中はすごく涼しいよ!!
〔銀山温泉豆知識〕
 銀山温泉は、かつて栄えた延沢銀山の名に由来している。大正末から昭和初期に建てられた洋風木造多層の旅館が銀山川の両岸に沿って軒を並べ独特な温泉景観である。
 延沢銀山は、上方の
篠田八郎左衛門(しのだはちろうざえもん)が銀鉱を発見し、山形最上家の城将野辺沢遠江守光昌(のべさわとおとうみのかみみつまさ)が経営した。
 1624~1673年には、かなりの産銀があったが、発見からわずか100年で衰退した。1711~1715年に鈴木清風氏が、四方に石垣を寄付し湯坪(ゆつぼ)をこしらえ、
湯治場(とうじば)とした。
 幕末の見立番付
「諸国温泉効能鑑」東方四段目の「うち身かっけ最上銀山湯」は銀山温泉のこと。

明治6年(1873年)は、戸数39軒
大正2年(1913年)8月27日 銀山川の大洪水で温泉宿はほとんど流された。
大正10年(1921年)銀山電気株式会社が、銀山川の水を利用して発電所を作り、近村に配電を始めた。
昭和元年(1926年)には、温泉組合による源泉のボーリングで高温多量の湯が湧き出るようになり、各旅館は一斉に建て替えるなど活発になった。洋風の3層4層の木造建築、今のロマンあふれる光景のはじまり。
昭和3年(1928年)には、沿道の幅を広げ、昭和4年には公園を創設。
白銀の滝の下流にはプール、ミニゴルフ場やスキー場を開設した。また、鉱山跡の銀坑道を中心に「おもかげ園」一体の整備を行った。
昭和43年(1968年)11月には、「国民保養温泉地」の指定を受けた。
昭和61年(1986年)に、「銀山温泉家並保存条例」を制定し、大正期・昭和初期の風情ある旅館の景観を保存する決まりを設けた。
平成11年12月には、山形新幹線「つばさ」が最寄り駅まで延伸し、関東方面からもより近くなり、2001年度には320,200人の人々が訪れる観光地になっている。





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(3) 人造の湖 徳良湖  ~ 花笠音頭・花笠踊りが生まれたところ ~
 〔 築堤工事 〕 大正の初め、開田工事が盛んで、ため池を作る計画がなされ、大正10年5月に周囲2.7km.、深さ5.6m.の巨大なため池が完成した。 これが徳良湖。
この工事のときに唄われたのが「花笠音頭」で、もとは「土搗き唄」だったそうだ。また、この唄に合わせて即興で踊ったのが「花笠踊り」といわれている。
 
 
〔花笠踊り豆知識〕
 大正時代の始めごろ、尾花沢市の本町地区は盆地だったために川の水が流れなくて田の水は湧き水やため池を利用するしかなかったからほとんどが畑だった。畑では、桑・大豆・小豆・そば等を育てていたが、収入は米の1/3ほど。田を広げてたくさんの米を作ることが長年の尾花沢の人々の願いだった。
大正6年、尾花沢で魚店を経営し、今の徳良湖のところに原野を持っていた高宮常太郎(たかみやつねたろう)さんが、大きなため池を作ることを計画した。


〔 仕事の手順 〕 完成まで足掛け3年。延べ7万人の人たちの力。
仕事はどれも手作業で、男の人だけでなく女の人も働きました。(1日約300人)
ア)
山をけずる    「唐鍬」という道具で掘った。

イ)
土を運ぶ   「もっこ」や「しょいこ」、「トロッコ」で土を運んだ。
  
  ※当時の写真。トロッコを押しているところ

ハ)
土を固める(土搗き)
土手や、湖底を固めるために
「どつき」という仕事がある。重さ50kg.位の石に10本のロープをくくり、一人1本のロープを持って、呼吸を合わせて石を浮かせ、土に下ろす仕事。
息が合わないと上手く固められない。このため、
「土つき唄」を歌って呼吸を合わせた。
 土搗き作業の様子

時には日よけ雨よけ、時には土を掘ってはらい、そして何よりも唄に合わせて仲間に
「ガンバレ」と笠で風を送りながら。そんな、仲間を気づかい、苦労をともにしている仲間への思いやり。それが花笠踊りの原点となっています。

花笠踊りには、当時から踊り継がれている5つの流派があります。

○ 花笠音頭のかけ声「ヤッショーマカショ シャンシャンシャン」の意味(由来)
1. アイヌ語で、「どつき」のいみ。

 やわらかい所に、ねらいをつけて落とすという動作
2.徳良湖の完成を祝い、「田んぼ(ナッショ)に水を流し(マカショ)ましょう!」という方言。
 みんなで作った池の豊富な水だよ。安心して田んぼに水をあげて!
※ちなみに、シャンシャンシャンは、神様が舞い降りてくる時の音

物語的には、後者のほうが温かみがあっていいなー。

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(4) おくのほそ道 ~松尾芭蕉の10泊~
芭蕉にとって、尾花沢は古い友人の住む土地で、くつろげる場所だった。
尾花沢に滞在した10泊のうち7泊した養泉寺
境内には「涼しさを我が宿にしてねまるなり」と有名な句碑がある。
芭蕉と曽良が超えてきた「山刀伐(なたぎり)峠」
今は、遊歩道が整備されている。
 芭蕉清風歴史資料館
〔おくのほそ道 芭蕉の10泊豆知識〕
 芭蕉が言う「古い友人の住む土地」こそ尾花沢で、古い友人とは鈴木清風のこと。
「尾花沢にて清風という者をたずね、かれは富めるものなれども、志いやしからず。都にも折々かよいて、さすがに旅の情けをも知りたれば日ごろとどめて長途のいわり、さまざまにもてなしはべる」と芭蕉は語りました。
清風氏は、当時紅花商で出羽の国最上きっての豪商であるとともに、風雅を理解する人物でした。しかも、旅人の心も理解していた。芭蕉がたずねた当時、実は紅花収穫最盛期。大豪邸を清風氏もバタバタした中では芭蕉も旅の疲れをいやせまいと気づかい、当時閑静な場所にあって新築だった寺
「養泉寺」でもてなすことにした。
ここにも、
人をいたわり、もてなす尾花沢の人々の人柄がうかがえる。
10泊のうち俳句を通して芭蕉と尾花沢の人たちとの交流も盛んだったそうです。

〔尾花沢で詠んだ芭蕉の俳句〕
「涼しさを我が宿にしてねまるなり」
 おかげさまで、この涼しさをまるで我が家にいるような気分でいながら、気楽に膝をくずしてくつろげます。

「這い出よ飼屋が下のひきの声」
蚕を飼う部屋の床下から、ひき蛙の声が聞こえてくる。どうだ、そんな暗いところにいないでこっちに出ておいでよ。

「眉掃きを俤にして紅粉の花」
化粧用の紅を紅花が一つ咲いている。それを見ていると、どうしても女性がおしろいをつけた後に眉を払う小さな刷毛を連想してしまう。

「蚕飼ひする人は古代の姿かな」 (曽良)
蚕の世話をしている人たちの姿は、古代もきっとこうだった。昔をしのばせるほどに素朴だ。

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