欧米から見た朝鮮


 欧米人による日本研究は16世紀のカトリック宣教師に始まり、鎖国中もケンペル、ツュンベリー、シーボルトらによる報告が続いた。しかし朝鮮は日本よりずっと極端な鎖国政策をとっていたため、18世紀以前の朝鮮に関するまとまった報告といえば、1650〜60年代に捕虜になっていたハメルの『朝鮮幽囚記』くらいしかないらしい。19世紀に入ると、1816年に英国海軍の軍艦二隻が西海岸を探検航海した。1820年代に長崎にいたシーボルトは、同地で朝鮮人と接触し、著書『日本』に朝鮮情報を載せた。1830年代にフランス人宣教師による朝鮮宣教が始まると、久しぶりに欧米人が朝鮮を詳細に研究する機会が訪れた。1866年の大弾圧によって宣教は一時頓挫するが、この間に収集された資料によってダレの『朝鮮教会史』が書かれた。1876年の日本との江華島条約を皮切りに、1880年代に次々と欧米諸国との条約が締結され、ようやく朝鮮は開国した。そして宣教師以外に外交官や旅行家や各種の専門家が訪れるようになり、朝鮮は欧米世界に知られるようになった。
 ここでは、日本併合前の朝鮮に対する欧米人の評価をまとめてみた。拙訳にはいい加減なところが多いので、原文を併記した。



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目次 関連ページ
ヘンドリック・ハメル『朝鮮幽囚記』 画像倉庫
ベイジル・ホール『朝鮮・琉球航海記』 嫌韓派のための引用例
フランツ・フォン・シーボルト『日本』 反日派のための引用例
シャルル・ダレ『朝鮮事情』 別バージョンの検討
ゴンチャロフ『フリゲート艦パルラダ号』
E・J・オッペルト『禁断の国・朝鮮』
N・M・プルジェワルスキー『ウスリー地方紀行』
ウィリアム・グリフィス『隠者の国・朝鮮』
『P・G・フォン・メレンドルフ伝』
W・R・カールズ『朝鮮風物誌』
H・N・アレン『朝鮮見聞記』
H・B・ハルバート『朝鮮滅亡』
G・W・ギルモア『ソウル風物誌』
リリアス・H・アンダーウッド『まげの国の一五年』
ゲ・デ・チャガイ編『朝鮮旅行記』
A・H・サヴェジランダー『朝鮮−静かなる朝の国』
ジョージ・N・カーゾン『極東の諸問題』
イザベラ・バード『朝鮮紀行』
W・F・サンズ『極東回想記』
アンガス・ハミルトン『朝鮮』
F・A・マッケンジー『朝鮮の悲劇』
E・ワグナー『朝鮮の子どもたち』


ヘンドリック・ハメル『朝鮮幽囚記』
ヘンドリック・ハメル(生田滋訳)『朝鮮幽囚記』東洋文庫132, 平凡社, 1971.

 ヘンドリック・ハメル (Hendrik Hamel) は、1653年7月に難破し済州島に漂着したデ・スペルウェール号の乗組員で、同僚七人と1666年8月に日本に脱出するまで13年間朝鮮に幽閉された。
 南蛮人36名漂着の報を受けた朝廷は、1627年に慶州で捕えられたオランダ人朴延(ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー)を派遣した。朴延は訓錬都監で中国人・日本人からなる部隊の隊長をつとめていたが、25年を超える朝鮮生活のうちにオランダ語をほとんど忘れており、改めて漂着者たちから学び直した。漂着翌年の1654年5月、死亡者1名を除く全員がソウルに入り、訓錬都監に配属された。朝廷はオランダ人の存在が清国にもれることをおそれ、清使の来訪時には軟禁して監視をつけた。しかし1655(孝宗6)年4月、オランダ人2名が清使にとりすがって帰国を訴えた。朝鮮側は清使に多額の賄賂を贈り、この事件をもみ消した。訴え出たオランダ人2名は獄死した。
 朝廷は生存者33名を全羅道に送り、兵役に従事させた。人治主義の国らしく、温厚な長官が赴任して来たときはよかったが、冷酷な長官が来ると悲惨で、食糧も衣服も十分に供与されず、物乞いで糊口をしのぐはめになった。1666(顯宗7)年時点で生存者は16名となっていたが、この年の8月にハメル以下8名は船で脱出し、五島列島で捕えられ長崎奉行所に送られた。翌年幕府はハメル一行の帰国を認め、一行は11月にバタビアに到着した。また幕府は、残るオランダ人の引渡しを朝鮮側に求め、生存者7名は1668年6月に釜山で引き渡され、出島のオランダ商館に入った。
 ハメルは手記の中間部で朝鮮の政治・社会情勢を記述しているが、当然あまりよくは言っていない。後に朝鮮のステレオタイプとなる項目のうち、刑罰の恣行や男尊女卑や家屋の貧弱さ等が既に現われている。後進性については、日本や清の侵略のせいだという朝鮮人の見解を伝えている。

すなわち夫を殺した妻は、多くの人々の通る道傍に肩まで土に埋められ、その傍に木の鋸が置かれます。そしてそこを通る人々は貴族以外は彼女の頸をその鋸で挽いて死にいたらしめなければなりません。……夫が妻を殺した場合、それについて然るべき理由のあることが証明できる場合は、その理由が姦通であってもなくても、その罪によって訴えられることはありません。……過失致死犯は次のようにして罰せられます。彼等は酸っぱい、濁った、鼻をさすような匂いのする水で死者の全身を洗いますが、彼等はその水をじょうごを使って罪人の喉から流し込めるだけ流し込み、それから胃の所を棒で叩いて破裂させます。当地では盗みに対しては厳重な刑罰が課せられていますが、盗人は非常に沢山います。その刑罰は足の裏を叩いてしだいに死にいたらしめるのです。 (p. 41)

一般の人々は彼等の偶像の前で、ある種の迷信を行います。しかし彼等は偶像よりも自分の目上の人に対してより多くの敬意を払います。大官や貴族は偶像に対し敬意を表するということをまったく知りません。なぜならば彼等自身がそれよりも偉いと考えているからです。 (p. 43)

大官たちの家は非常に立派ですが、一般の人々の家は粗末なものです。これは自分の考えに基づいて家を建築することは誰にも許されていませんし、総督の許可なしに屋根を瓦でふくことも許されていないからです。 (p. 46)

この国民は妻を女奴隷と同じように見なし、些細な罪で妻を追い出すことがあります。夫は子供を引き取ろうとはしませんので、子供は妻が連れて行かねばなりません。したがってこの国は人口が多いのです。 (p. 48)

教師は子供たちに対してつねに先人の学識と、高い学識のおかげで出世した人々のことを例に挙げます。子供たちは昼も夜も勉強にはげみます。こんな幼い生徒が自分の習う知識の大部分を含む書物を立派に説明することができるのは、驚くべきことです。 (p. 49)

彼等は盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。他人に損害を与えることは彼等にとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません。 (p. 52)

彼等は病人、特に伝染病患者を非常に嫌います。病人はただちに自分の家から町あるいは村の外に出され、そのために作られた藁ぶきの小屋に連れて行かれます。そこには彼らを看病する者の外は誰も訪れませんし、誰も彼等と話をしません。その傍を通る者は必ず病人に向かってつばを吐きます。病人を看病してくれる親戚を持たない人々は、病人を看病に行かないで、そのまま見捨ててしまいます。 (p. 53)

この国はタルタル人がこの国の主人となるまでは、非常に豊かで楽しい国で、人々は食事や飲酒や、その他考えられるあらゆる楽しみにふけってばかりいましたが、現在では日本人とタルタル人のために国土が非常に荒らされてしまいましたので、凶作の年には食糧が充分に行き渡るかどうか危ない状態です。それは彼等が重い貢物を、特にタルタル人に納めなければならないからで、タルタル人は通常年に三回それを徴収に来ます。 (pp. 53-54)


ベイジル・ホール『朝鮮・琉球航海記』
ベイジル・ホール(春名徹訳)『朝鮮・琉球航海記』岩波文庫, 1986.

 ベイジル・ホール (Basil Hall, 1788~1844) は英国の海軍軍人で、1816年にアマースト使節団を清国に送り届けた艦隊の一隻であるライラ号の艦長だった。8月に使節団が上陸すると、ライラ号と僚艦のアルセスト号は朝鮮・琉球の探検航海に出た。ホールは琉球には貨幣も武器も刑罰もないと言い張っており(pp. 270-272)、だまされやすさには定評がある。それでも朝鮮人に対しては、体格の良さ、外国語の習得の早さ、民衆の好奇心の欠如と無気力、住居のみすぼらしさなど、後の著者と共通する記述が見られる。

これらの人々は、落着きと無関心がないまぜになった尊大な態度の持主である。また、好奇心を欠いている点でも、われわれに強い印象を与えた。身ぶりや絵によってわれわれが何を質問しているのかがあきらかになったときなど、彼らはしばしば嘲笑い、それを無視したのである。 (p. 28)

このおかげでわれわれは、彼らが均整のとれた、たくましい四肢を持っていることを観察することができた。しかし、この身体や、肩までたらしたざんばら髪は、じつに野蛮であるとしかいいようがない。 (p. 36)

このように老人が、きわめて異なった習慣をもつ人々の間にまじって、礼儀正しく、しかもやすやすと順応していった様子には、まことに敬服すべきものがあった。そして彼がこれまではわれわれの存在すら知らなかった可能性が高いことから考えると、その礼儀正しい振る舞いは、彼が自己の社会において高い身分を占めていることを示すだけではなく、その社会そのものが文明の高い尺度に位置していることをも如実に示していたのである。 (p. 62)

一方、家のなかは暗くて居心地が悪かった。むき出しの土の床はでこぼこ、壁は煤で黒ずみ、何もかもがきたならしくみえた。 (p. 76)

それでも留めることができないとみると、一人の男は、私の胸をつかんでいやというほどつねった。私はふりかえりざまに大声で、「何ということを!」 (Patience, Sir!) と、叫んだ。男は、私が不快を感じたことをみてとって手を放したが、つぎの瞬間には、 Patience, Sir! と自分も叫んだ。これを聞いた他の者たちもその真似をして、しばらくの間は、 Patience, Sir! という言葉だけがあたりにとびかったのである。誰の発音も申し分なく完璧であった。 (p. 80)

⇒英語


フランツ・フォン・シーボルト『日本』
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(尾崎賢治訳)『日本・第五巻』雄松堂出版, 1978.

 フランツ・フォン・シーボルト (Philipp Franz Jonkheer Balthasar von Siebold, 1796~1866) はドイツの医学者・博物学者・日本学者で、1823(文政6)年に来日し、1829(文政11)年にシーボルト事件で追放されるまで、日本の蘭学界にとてつもなく大きな影響を与えた。追放後はオランダで日本関連資料の整理に当たり、『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』を出版した。その後日本の開国に伴い、シーボルトの入国禁止令も解除されたため、1859(安政6)年に再来日して1862(文久2)年まで滞在した。
 大著『日本』の第11編(雄松堂版の第五巻)は、朝鮮に関する記述に当てられている。シーボルトはもちろん朝鮮を訪れていないが、日本に漂着し長崎で本国送還待機中の朝鮮人漁民と接触したり、日本人への聞き取りから朝鮮に関する情報を得た。またシーボルトの助手で、後に日本学者となったホフマン
(J. Hoffmann, 1805~1878) が、日本語文献による朝鮮情報を補足している。
 シーボルトはおおむね朝鮮人に好意的で、ハメルらの幽囚に関してもオランダ人より朝鮮人の肩を持つようなことを言っている。それでも朝鮮人の猜疑心の強さや不潔さ、技術水準の低さはあまりにも明らかだったようである。

朝鮮人は日本人より背丈が高いが、それでも五・五フィートを越えることはめったにない。体躯たくましく、体型は均整がとれており、活発、機敏である。 (p. 4)

朝鮮人の態度はまじめで落ち着いており、ときには快活で、あけっぴろげである。歩き方はしっかりしていると同時に機敏である。姿勢は一般に日本人のそれより自律性と自由さに富んでいることをうかがわせる。また、物腰からも日本人や中国人よりエネルギーと戦闘的精神を強く放射している。しかし精神的教養と生活の洗練という点では、朝鮮人は同じ階層の日本人よりかなり劣る。またわれわれが一番低い階層の日本人を見ても感心する共同生活におけるあの巧みさや高いレベルの暮らし方も、朝鮮人にはない。彼らは正直、忠実で、人がよいということであるが、彼らを清潔、親切だとしてほめる気はあまりしない。彼らは健啖で、アルコール類に目がなく、日本人よりはるかにアジア的なのんびり傾向が強いようである。 (pp. 4-5)

王位継承のさいは中国皇帝が叙任権を行使し、貢物を受けとるといわれている。少々きびしい見方をすれば、中国の家臣と解釈できるこの関係は、現在中国を支配している清朝が武力をもってこれを強制した一六三六年以来のことと記されている。一五九二年から一五九八年における日本の将軍秀吉(通常は太閤と呼ばれる)の侵入以来、朝鮮は日本に朝貢の義務を負っている。というよりむしろ日本とは善隣関係にある。 (pp. 34-35)

朝鮮の工業技術は隣国の中国や日本と比べてずっと遅れているように思う。木工は断然といってよいほど遅れており、陶磁器の作りはひどく粗末である。鉄器、特に刀その他の刃物は価値が低い。しかしそのほかでは非常に美しい光沢の絹物、繊細な馬毛の編みもの、もちのよい綿布、すぐれた紙および蝋紙がある。 (p. 38)

さらに一六五三年のド・スペルウェル号が朝鮮海岸で難破した。難船から救い出されたハメルと三十五人の乗務員は外国人として捕えられた。彼らはきびしい警戒の下に都に送られ、そこで国法によって国外へ出られないことを知った。彼らは王の猟場の従僕に任ぜられた。つまり若干の制約はあるものの、自由な雇用人になったのである。したがって、これから自分たちの運命を改善することは彼らの自由であった。しかしそのとき彼らは何をしたか? 彼ら自身が誇らしげに語っているところから判断すれば、彼らが脱走者、裏切者の役を演じてしまったあとの彼らのふるまいは、ヨーロッパのどこかの国でならば、朝鮮でよりも外国人として大目に見てもらえるはずというようなものではなかった。彼らは無益であるばかりか、国家にとってますます危険なことをする連中とみなされて罰を受けた――すなわち彼らが害を及ぼさない土地への追放である。 (p. 42)


シャルル・ダレ『朝鮮事情』
シャルル・ダレ(金容権訳)『朝鮮事情』東洋文庫367, 平凡社, 1979.

 シャルル・ダレ (Charles Dallet, 1829~1878) は、1866年にソウルで処刑されたダヴリュイ (Maeir-Nicolas-Antonie Daveluy, 1818~1866, 朝鮮名・安敦伊) らが収集した資料をもとに『朝鮮教会史』を書き、1874年に出版した。東洋文庫版の『朝鮮事情』は、その序論に当たる。ダレ自身はインドやベトナムで布教に当たったが、朝鮮に行ったことはない。
 カトリック教会は、1831年に朝鮮教区を新設した際、北京を根拠地とするパリ外邦伝教会に布教を委託した。そして1836年にモーバン神父、翌1837年にシャスタン神父とアンベール主教がソウルに潜入し、フランス人宣教師による宣教が始まった。しかしあまりに大胆に活動しすぎたため、1839年の大弾圧でフランス人3名を含む78名が処刑された。パリ外邦伝教会側は、こりずに1845年にフェレオル主教とダヴリュイ神父を潜入させた。哲宗(在位1849〜63)の治世は、安東金氏による勢道政治の時代だが、カトリック教への弾圧は比較的ゆるやかだった。1856年にベルヌー主教が入国し、常時10名前後のフランス人宣教師が朝鮮国内で活動を続けた。しかし1863年に即位した高宗の父である興宣大院君は、断固としてカトリック教を排除することを決意し、1866年に全国で8000余名を逮捕し、約400名に有罪を宣告した。このときベルヌーやダヴリュイを含む9名のフランス人宣教師が逮捕・処刑され、3名が辛うじて中国に脱出した。
 本書は李朝末朝鮮の後進性、政治的腐敗、社会的混乱、文化的貧困等を完膚なきまでに暴き、欧米における朝鮮のイメージを確定した。後のバードやグリフィスに与えた影響も大きい。実際、朝鮮の絶望的な状況は、中国や日本との比較において際立っていたのだろう。将来についてはロシアへの併合を予想しているが、この時点では日本が中国とロシアを退けるかも知れないなどと言っても、馬鹿にされるだけだったろう。

この山国では、道路と運輸機関とが実に不足し、それが大規模な耕作を妨げている。人びとは、各自の家の周囲とか手近なところを耕作するだけだ。また、大部落はほとんどなく、田舎の人びとは三、四軒、多くてせいぜい十二、三軒ずつ、固まって散在している。年間の収穫は、住民の需要をかろうじて満たす程度であり、しかも朝鮮では、飢饉が頻繁にみられる。 (p. 20)

一六三七年に締結された条約は、清に対する朝鮮の実際上の隷属条件を加重することはなかったが、形式的には、これまでよりいっそう屈辱的な従属関係のものとなった。朝鮮国王は清国皇帝に対して、たんに叙任権を認めるばかりでなく、身分上の直接の権限、すなわち主従(君臣)関係まで承認しなければならなくなった。 (p. 34)

朝鮮の王宮は、パリの少しでも余裕ある年金生活者でも住むのを嫌がるようなつまらない建物である。王宮は、女と宦官で充ちている。 (p. 53)

ソウルは、山並みに囲まれており、漢江の流れに沿って位置し、高くて厚い城壁にかこまれた人口の多い大都市であるが、建築物には見るべきものはない。かなり広いいくつかの道路を除いては、曲がりくねった路地だけがあり、この路地には空気も流れることなく、足にかかるものといえばごみばかりである。家はふつう瓦で覆われているが、低くて狭い。 (p. 64)

官吏の地位は公然と売買され、それを買った人は、当然その費用を取り戻そうと努め、そのためには体裁をかまおうとさえしない。上は道知事から最も下級の小役人にいたるまで、徴税や訴訟やその他のすべての機会を利用して、それぞれの官吏は金をかせぐ。国王の御使すらも、極度の破廉恥さでその特権を濫用している。 (p. 71)

その一つは、朝鮮における学問は、全く民族的なものではないという点である。読む本といえば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語でなく漢語であり、歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉している哲学体系は中国のものである。写本はいつも原本よりも劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べてかなり見劣りするのは、当然の帰結である。 (pp. 130-131)

昔日のことはさておき、こんにち公開試験〔科挙〕が極めて堕落していることは確かである。こんにちでは、最も学識があり最も有能な人に学位免許状が授与されるのではなく、最も多額の金を持った者や最も強力な保護者のいる人びとに対して与えられている。 (p. 135)

朝鮮の貴族階級は、世界中で最も強力であり、最も傲慢である。他の国々では、君主、司法官、諸団体が貴族階級を本来の範囲内におさえて、権力の均衡を保っているが、朝鮮では、両班の人口が多く、内部では対立しているにもかかわらず、自分たちの階級的特権を保持し拡大するために団結することはよく心得ており、常民も官吏も、国王すらも、彼らの権力に対抗することができないでいる。 (p. 192)

朝鮮においても、他のアジア諸国と同じように、風俗は甚だしく腐敗しており、その必然的な結果として、女性の一般的な地位は不快なほどみじめで低い状態にある。女性は、男性の伴侶としてではなく、奴隷もしくは慰みもの、あるいは労働力であるにすぎない。 (p. 212)

朝鮮人の大なる美徳は、人類の同胞愛の法則を先天的に尊重し、しかも日々実践していることである。われわれは先に、いかにさまざまの同業者組合や、とくに親族一家が、互いに保護し合い、援助し合い、支援し合い、そして助け合うために、緊密な団体を形成しているかを見てきた。しかし、この同胞に対する交誼の感情は、親族や組合の限界をはるかに越えて拡大される。 (p. 263)

この世では、もっとも良いことでも、常に悪い反面を伴っている。これまで述べた質朴な習慣にも、いくつかの不都合な点がある。その中でももっとも重大なことは、それらの習慣が、一群の悪い奴らの怠けぐせを野放しにすることである。これらの者は、人びとの歓待をあてにして、全く仕事をしないで、あちこちをぶらぶらしながら生活する。もっとも図々しい者になると、豊かな人や余裕のある人の家にまるまる数週間も身を落ち着け、服までも作ってもらう。 (p. 265)

朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。それは、彼らがいまだ浸っている半未開性のせいである。異教徒のあいだには、なんらの倫理教育も行われていないし、キリスト教徒の場合も、教育がその成果をあらわすまでには時間がかかる。大人は不断の怒りを笑って済ませるから、子供たちは、ほとんど懲罰を受けることもなく成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるようになる。 (p. 269)

しかし不思議なことに、にもかかわらず軍隊は概して非常に弱く、彼らは重大な危機があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない。たぶんそれは、訓練不足か組織の欠陥のためであろう。有能な将官さえいれば、朝鮮人はすばらしい軍隊になるだろうと、宣教師たちは確信している。 (p. 270)

朝鮮人は、金儲けに目がない。金を稼ぐために、あらゆる手段を使う。彼らは、財産を保護し盗難を防ぐ道徳的な法をほとんど知らず、まして遵守しようとはしない。しかしまた、守銭奴はほとんどいない。いるとしても、富裕な中人階級か商人のあいだにいるにすぎない。この国では、現金の二、三万フランもあれば金持だといわれる。一般に彼らは、欲深いと同時に、無駄づかいも多く、金を持てば余すところなく使ってしまう。 (p. 272)

朝鮮人のもう一つの大きな欠点は、暴食である。この点に関しては、金持も、貧乏人も、両班も、常民も、みんな差異はない。多く食べるということは名誉であり、会食者に出される食事の値うちは、その質ではなく、量ではかられる。したがって、食事中にはほとんど話をしない。ひと言ふた言を言えば、食物のひと口ふた口を失うからである。そして腹にしっかり弾力性を与えるよう、幼い頃から配慮して育てられる。母親たちは、小さな子供を膝の上に抱いてご飯やその他の栄養物を食べさせ、時どき匙の柄で腹をたたいて、十分に腹がふくらんだかどうかをみる。それ以上ふくらますことが生理的に不可能になったときに、食べさせるのをやめる。 (p. 273)

朝鮮の家屋は、一般に、非常に小さく不便である。台所の煙を送りだす通管〔房管〕を下に通す必要上、地面よりも少し高く建てられているが、しかしソウルでは、必ずしもこの方法が一般的とはなっていない。これは、冬場をしのぐにはかなり便利であるが、夏場になると、熱気が屋内にこもって、まるで人びとに耐えがたい体罰を課していると同じような状態になるからである。で、おおかたの人は戸外で眠る。 (pp. 300-301)

衣服は、白衣ということになっているが、しかし、ちゃんと清潔さを保っているのはとても労力のいることなので、たいていの場合、濃厚な垢のため色変わりしている。不潔ということは朝鮮人の大きな欠陥で、富裕な者でも、しばしば虫がついて破れたままの服を着用している。 (pp. 303-304)

朝鮮では、ある種の科学研究は国家が保護しているし、またそれらの発展を奨励するため政府によって建てられた専門の学校がある。にもかかわらず、研究はほとんど取るに足りない。正式の天文学者は、毎年北京からもたらされる中国の暦を利用するに必要な知識をもっているくらいで、あとはばかばかしい占星術のきまり文句を知っているだけである。……ただ、医学だけは例外となっている。朝鮮人は、中国医学を採用しながらも、それに改良を加える仕事に真剣に取り組んだようであり、朝鮮の最も有名な医学書である『東医宝鑑』〔許浚編著。一六一三年刊〕は、北京においてさえ、堂々と印刷上梓されたくらいである。 (p. 307)

朝鮮人は、科学研究の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、産業の知識においては、なおさら遅れている。この国では、数世紀もの間、有用な技術はまったく進歩していない。 (p. 309)

しかし、朝鮮人が中国人よりも優る産業が一つある。それは紙の製作である。彼らは、楮の皮で、中国のものよりもかなり厚くて強い紙を作る。それはさながら麻布のようで、破れにくく、その用途は無限に近い。 (p. 312)

商業の発達に大きな障害になっているものの一つに、不完全な貨幣制度がある。金貨や銀貨は存在しない。これらの金属を塊にして売ることは、多くの細かい規則によって禁止されている。例えば、中国の銀を朝鮮のものと同じ棒状に鋳造して売ってもいけない。必ずや見破られ、棒状の銀は没収されたうえ、その商人は重い罰金をとられ、おそらく笞刑に処せられるだろう。合法的に流通している唯一の通貨は、銅銭である。 (p. 313)

商取り引きにおけるもう一つの障害は、交通路のみじめな状態である。航行の可能な河川は非常に少なく、ただいくつかの河川だけが船を通すが、それもごく制限された区域の航行が許されているだけである。この国は、山岳や峡谷が多いのに、道路を作る技術はほとんど知られていない。したがってほとんどすべての運搬が、牛か馬、もしくは人の背によって行われている。 (pp. 314-315)

しかし政府は、おのれの保持のためには必要であると信じているこの鎖国を、細心に固守しており、いかなる利害や人道上の考慮をもってしても、これを放棄しようとしない。一八七一年、一八七二年の間、驚くべき飢饉が朝鮮をおそい、国土は荒廃した。あまりのひどさに、西海岸の人のうちには、娘を中国人の密貿易者に一人当たり米一升で売るものもいた。北方の国境の森林を越えて遼東にたどりついた何人かの朝鮮人は、むごたらしい国状を図に描いて宣教師たちに示し、「どこの道にも死体がころがっている」と訴えた。しかし、そんな時でさえ、朝鮮政府は、中国や日本からの食料買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。 (p. 322)

アジアの北東部から日増しに侵略の歩を進めているロシア人によって、いずれその難関は突破されるだろう。一八六〇年〔北京条約のこと〕から、彼らの領土は朝鮮と隣接するようになり、これら二国間で、国境問題と通商問題に関してさまざまな難問が起こった。これらの問題は、今後も間違いなく繰り返されるであろうし、いつの日にか、朝鮮はロシア領に併合されてしまうであろう。 (p. 323)


ゴンチャロフ『フリゲート艦パルラダ号』
심지은編譯, 러시아인, 조선을 거닐다, 한국학술정보(주), 2006.


 I・A・ゴンチャロフ(Ivan Alexandrovich Goncharov, 1812~1891)はロシアの作家で、1852〜55年にプチャーチン提督が率いるフリゲート艦パルラダ号に同乗し、アフリカ・ジャワ・シンガポール・香港・小笠原・日本・フィリピン・朝鮮を経てシベリアに到った。済州海峡の巨文島に上陸したのは1854年4月2日で、一旦長崎に戻り、その後永興湾(咸鏡南道)を探査した。
 本書
Фреzам <Паллаба>. Оуерки лутеств в лвуx томаxは1858年に出版された。韓国学術情報梶wロシア人、朝鮮を歩く』で訳出されているのは、1854年4月の巨文島到着から5月の永興湾探査までである。

조선인은 유구인들을 가장 많이 닮았으나 유구인들이 자그마한 데 비해 이들은 매우 체격이 좋다는 점에서 다르다. (p. 22)
朝鮮人は琉球人に最もよく似ているが、琉球人が小柄なのに比べ、朝鮮人はきわめて体格が良いという点で異なる。

대체로 그들의 태도나 손님접대 방식은 똑같은 중국문명에 속해 있는 일본인이나 유구인들에 비해 거친 편이다. (p. 24)
概して彼らの態度や客のもてなし方は、同じ中国文明に属す日本人や琉球人に比べて粗雑である。

이 돌담을 싸는 방법이란 게 유구인들과는 어찌면 이렇게도 다른지! 유구인들이 섬세하고 인내심이 강하며 질서정연하고 기예(技藝)가 있는 반면, 여기 사람들은 게으르고 투박하고 무능력하다. 진실로 조선인들은 "노력"을 싫어하는 것임에 틀림없다. (p. 26)
この石垣を積む方法と来たら、琉球人たちとどうしてこんなに違うのか! 琉球人が纎細で忍耐強く秩序整然としていて技藝がある反面、ここの人々は怠け者で粗悪で無能力だ。朝鮮人が「努力」を嫌うことは明らかである。

모든 것이 다 드러나 있으며, 보기에도 헐벗고 비참했다. 그렇기에 주민들이 우리에게 식량을 내줄 수 없었던 것은 당연하다. 왜냐하면 그들은 그들 자신이 굶어 죽지 않을 만큼의 식량만을 가지고 있기 때문이다. (pp. 26-27)
あらゆるものがあからさまで、見るからにみすぼらしく悲惨だった。したがって、住民がわれわれに食糧を供給できなかったのは当然である。なぜなら、彼らは自分が飢死しない程度の食糧しか持っていないからである。

조선인들은 우리 뒤를 따라왔다. 키가 크고 건강한 민족으로 거칠고 검붉은 얼굴과 손을 가진 운동선수들 같다. 그들은 일본인들과 달리 상냥하지도 않고 세련되지도 않았으며 아첨을 하지도 않고 유구인들처럼 소심하지도 않으며 중국인들처럼 이해가 빠르지도 않다. 조선인들에게서는 유명한 군인이 나올 법도 하다. 그런 그들이 중국식의 학문에 감염되어 한시(漢詩)를 쓰고 있다니! (pp. 57-58)
朝鮮人たちはわれわれの後をつけて来た。背が高く健康な民族で、荒々しく赤黒い顔と手を持つ運動選手のようだ。彼らは日本人と違って優しくもなく、洗練されてもおらず、お世辞も言わず、琉球人のように小心でもなく、中国人のように理解が早くもない。朝鮮人からは、有名な軍人が出るのがふさわしい。そんな彼らが中国式の学問に感染し、漢詩を書いているとは!


E・J・オッペルト『禁断の国・朝鮮』
E. J. 오페르트 지음, 신복룡・장우영 역주, 금단의 나라 조선, 집문당, 2000.

 E・J・オッペルト (Ernst Jacob Oppert, 1832~1903) はプロイセンの貿易商で、1866〜68年に三度朝鮮を訪れ、開港を要求したが受け入れられなかった。1851年から上海で貿易に従事していたオッペルトは、潜在的な取引先として朝鮮に興味を持つようになった。1866年2月、オッペルトは汽船ロナ号で忠清道海美に上陸して現地官吏と交渉したが、要領を得ずに帰った。同年6月、オッペルトは汽船エンペラー号で海美、次いで江華島を訪れ交渉したが、清国皇帝の勅書がなければ開国できないと言われただけだった。1868年、オッペルトは南延君球(興宣大院君の養父)の遺骨を盗み出して大院君を脅迫しようというフランス人神父フェロンの計画に賛同し、汽船チャイナ号と従船グレタ号で九萬浦に上陸した。しかし南延君墓が予想外に堅固で、目的を果たせなかった。一行はチャイナ号で永宗島に向かい、大院君宛の書簡を伝達した。数日後永宗島で銃撃戦を行い、死傷者数名を出して引き上げた。
 ドイツ語版
(Ein Verschlossenes Land: Reisen nach Korea) は1886年発行となっているが、なぜか英語版 (A Forbidden Land: Voyage to the Corea) の方が早く、1880年にロンドンとニューヨークで出ている。申福龍・張又永訳は、英語版からの翻訳である。本書には朝鮮人の容貌に対する賞賛が多いが、社会的腐敗や後進性への批判を欠いているわけではない。朝鮮の清国からの自主独立性を強調しているのは、「清国の許可なしに開国できない」という朝鮮側の言い訳によほど食傷していたためだろうか。

만일 그들이 유럽풍의 복장을 입고 있었다면 그들을 유럽인으로 착각했을지도 모른다. 그리고 잘 생기고 준수한 용모와 장미 빛의 피부 그리고 적갈색의 머리털과 푸른 눈동자를 가진 많은 어린이들은 유럽의 어린이들과 구별하기가 대단히 어려웠다. (p. 28)
もし彼らがヨーロッパ風の服装をしていたら、彼らをヨーロパ人と間違えたかも知れない。そして美しくすばらしい容貌とバラ色の肌、そして赤褐色の髪と青い瞳を持つ多くの子どもたちは、ヨーロッパ人の子どもと区別するのが大変難しかった。

서울의 거리는 중국의 일반 도시의 좁은 가로보다는 넓지만 관청이나 양반의 주택이나 심지어는 왕궁조차도 중국의 비교적 큰 도시에 있는 부유한 계층의 주택과는 비교가 되지 않는다. 중국의 도시에서 볼 수 있는 다양한 색상으로 화려하게 장식된 큰 사원은 서울에서 찾아볼 수 없다. 가옥들은 대개 진흙으로 지어진 단층집으로서 초라하기 때문에 결코 서울이 조선과 같은 나라의 수도라고 할 만한 인상을 주지 않는다. (p. 46)
ソウルの通りは中国の一般的な都市の狭い街路よりは広いが、官庁や両班の住宅やさらに言えば王宮さえも、中国の比較的大きな都市にある富裕な階層の住宅とは比較にならない。中国の都市に見られる多様な色相で華麗に装飾された大きな寺院は、ソウルには見出せない。家屋はたいてい泥で作られた平屋でみすぼらしいため、ソウルが朝鮮のような国の首都だという印象をまるで与えない。

조선과 중국의 관계에서 조선이 중국의 지배를 받아왔다는 일반적인 견해는 매우 잘못된 것이다. 물론 수백 년 저에 조선의 왕은 중국의 황제에게 군신의 예를 갖추었다. 그러나 그 당시의 종속 관계에서도 종주국의 권한은 매우 제한되어 있었기 때문에, 조선은 독자적인 권리를 행사할 수 있었으며 그나마 이완된 예속 관계마저도 사라진 지 오래 되었다. (p. 49)
朝鮮と中国の関係で、朝鮮が中国の支配を受けて来たという一般的な見解はまったく誤ったものである。もちろん数百年前に、朝鮮の王は中国の皇帝に君臣の礼をとった。しかしその頃の従属関係でも、宗主国の権限はきわめて制限されており、朝鮮は独自の権利を行使できたし、それさえも弛緩し隷属関係も消滅して久しい。

그들은 임기 동안에 주민의 안녕을 도모하는 데는 거의 관심을 갖지 않는 반면에 자신에게 불이익이 되지 않도록 오직 착취를 통해 신속하게 납세금을 징수하고 뒷돈을 챙기는 데에만 열중한다. 그들은 누구나 임기가 짧은 만큼 포괄적이고 신속하게 착취해야만 불로소득을 챙길 수 있다고 생각한다. (pp. 52-53)
官吏らは在任期間中に住民の安寧をはかることにほとんど関心を持たない反面、自分に不利益にならないようただ搾取を通じてさっさと納税金を取り立て、裏金を貯め込むことに熱中する。彼らはみな任期が短いだけに、包括的で速かに搾取しなければ不労所得を稼げないと考える。

독특하고 높은 수준의 문화를 자랑하며 문명화된 삶을 영위하고 있다고 공언할 수 있는 나라들 중에서 조선만큼 민족의 기원이나 역사에 관한 문헌이 불완전하고 부족한 곳도 드물다. 학자연하는 조선 사람들 중 누구도 자기 나라의 역사를 기술하려 하거나 그렇게 할 수 있는 사람은 없는 듯하다. 그들은 중국이나 일본의 사가(史家)들이 남겨 놓은 기록들이 더할 나위 없이 완전하다고 믿고 있는 것 같기도 하다. (p. 59)
独特で高い水準の文化を誇り、文明化された暮らしを営んでいると公言できる国の中で、朝鮮ほど民族の起源や歴史に関する文献が不完全で不足な所も珍しい。学者然とした朝鮮人のうち、誰も自分の国の歴史を記述しようとしたり、それができる人はいないらしい。彼らは中国や日本の史家が残した記録が、付け加えることがない完全なものだと信じているようでもある。

조선은 타이(Siam)와 마찬가지로 자주적인 독립 국가이며 과거에 체결했거나 동의했던 어떠한 조약이라고 오늘날에는 휴지 조각에 불과하고 그 또한 잊혀진 지 오래이다. 누구보다도 조선 사람들 자신이 그렇게 생각하고 있다. (p. 79)
朝鮮はタイ(Siam)と同じく自主的な独立国家で、過去に締結したり同意したいかなる条約も、今日では紙くずに過ぎず、また忘れられて久しい。誰よりも朝鮮人自身が、そのように考えている。

내가 보기에 아시아의 모든 민족들 중에서 조선 사람들 만큼 순수하고 진실되게 신앙심을 가질 수 있는 민족은 없으며 또 일단 기독교로 개종한 조선 사람들은 중국인들보다도 훨씬 더 마음속 깊은 곳에서부터 교리를 받아들이고 더욱 성실하고 완고하게 고수한다는 것을 나는 주장하고 싶다. (p. 104)
私が見るところでは、アジアのあらゆる民族の中で朝鮮人ほど純粋で真摯な信仰心を持てる民族はなく、また一度キリスト教に改宗した朝鮮人は中国人よりもずっと心の深い所から教理を受け入れ、より誠実で堅固に固守するということを私は主張したい。

절도 있고 민활한 걸음걸이를 보면 조선 사람들은 중국인들처럼 동작이 유연하고 활달해 보이며 일본인들에 비해 체구가 크고건장하다. 그들은 또한 일본인들에 비해 더욱 활기#44032; 넘치며 도전적인 태도를 보인다. 그들은 신체적・정신적으로 일본인에 비해 우월하지만 예법이 결여되어 있기 때문에 문화적인 관습면에서는 중국과 일본의 하층 계급에 비해서도 품행이 떨어진다. (p. 113)
節度ある敏活な歩き方を見ると、朝鮮人は中国人のように動作が柔軟で闊達に見え、日本人に比べ体躯が大きく壮健である。また彼らは日本人よりも活気にあふれ、挑戦的な態度を見せる。彼らは身体的・精神的に日本人よりも優越だが、礼法が欠けているため、文化的な慣習面では中国や日本の下層階級と比べても品行が劣る。

나는 조선 여자들의 외모가 남자들에 못지 않게 또한 매력적이라 짐작하고 있었는데 실제로 이런 추측을 충족시킬 기회를 가진 적이 있다. (p. 115)
私は朝鮮女性の容貌が男性に劣らず魅力的だろうと予想していたが、実際にこのような推測を満たす機会を持てたことがある。

질병에 대한 조선사람들의 지식과 치료법은 예상대로 원시적인 단계를 벗어나지 못한다. 따라서 주로 약초를 이용한 치료에 국한된 의술은 흡족할 만한 수준의 못 되며 오히려 병을 악화시킨다. 그러므로 환자에게는 가장 합리적인 처방이 요구된다. 조선의 의술은 중국에도 못 미치기 때문에 한의들은 그다지 존경을 받지 못한다. (p. 116)
疾病に対する朝鮮人の知識と治療法は、予想どおり原始的な段階を脱け出せずにいる。したがって主に薬草を利用した治療に限られた医術は、十分な水準に至っておらず、むしろ病気を悪化させる。そのため患者には最も合理的な処方が要求される。朝鮮の医術は中国にも劣るため、韓医たちはあまり尊敬されていない。

대체로 조선의 가옥들은 이웃나라들에 비해 매우 초라한 인상을 주며 조선의 건축 양식이 중국이나 일본에 이르기 위해서는 대단한 노력을 기울여야 할 것이다. (pp. 117-118)
概して朝鮮の家屋は近隣諸国に比べてひどくみすぼらしい印象を与え、朝鮮の建築様式が中国や日本の水準に至るには大変な努力が必要だろう。

중국인들이 유럽의 음악을 멸시하고 예술 전반에 대해서도 자신들에게 비할 바가 못 되는 듯이 동정을 보이는 것과는 달리 조선 사람들은 유럽의 음악을 이해하는 법을 알고 매우 즐겁게 듣는다. 그것은 결정적으로 조선 사람들이 음악적 소양을 가지고 있기 때문이다. (p. 122)
中国人がヨーロッパの音楽を蔑視し、芸術全般に対しても自分たちとは比べものにならないとでもいうように同情を寄せるのとは異なり、朝鮮人はヨーロッパの音楽を理解する方法を知っており、非常に楽しんで聞く。それは朝鮮人が決定的に、音楽的素養に恵まれているためである。

중국이나 일본에서는 매우 대중화되어 있는 극이나 다른 공연과 같은 연예가 조선에서는 전혀 낯선 영역에 속한다. 이것은 아마도 부분적으로는 조선 고유의 문학이 걸여된 데에서 비롯되었을 것이다. 다른 한편으로는 조선 사람들의 문화적 수준이 낮아서 이런 종류의 연예에는 감흥을 느끼지 못하기 때문이다. (p. 123)
中国や日本ではきわめて大衆化している演劇やその他の公演のような演芸が、朝鮮ではまったく欠けている。これはおそらく部分的には、朝鮮固有の文学が欠如していることによると思われる。他方では朝鮮人の文化的水準が低く、こうした種類の芸能には感興を感じる能力がないためである。

이미 언급한 대로 조선 사람들은 대체로 정직하고 착하며, 살인이나 강도와 같은 중죄를 저지르는 경우는 드물다. (p. 123)
既に言及したとおり、朝鮮人々はおおむね正直で善良であり、殺人や強盗のような重罪を犯す場合は稀である。

조선 사람들의 산업 기술과 기량은 아시아의 다른 민족들에 비해 훨씬 못 미친다. 이렇게 된 결정적인 이유는 억압적인 정치 체제에 기인한다. 정부는 정치적인 목적과 동기로 인해 산업 발전에 무관심했으며 심지어 직접적으로 그것을 억누르기까지 했다. 이러한 정황은 조선의 산업 발전을 이룰 수 있는 토대부터 이미 취약하며 따라서 현재의 정치 체제가 바뀌지 않고서는 어떠한 발전도이룰 수 없다는 것을 입증한다. (p. 144)
朝鮮人の産業技術と技量は、アジアの他の民族に比べてずっと劣っている。こうなった決定的な理由は、抑圧的な政治体制に起因する。政府は政治的な目的と動機から産業発展に無関心で、甚だしくは直接的にそれを押えつけさえした。こうした情況は朝鮮の産業発展を支える土台から既に脆弱で、したがって現在の政治体制が変わらなくては、いかなる発展も成し得ないことを立証している。

⇒英語


N・M・プルジェワルスキー『ウスリー地方紀行』
심지은編譯, 러시아인, 조선을 거닐다, 한국학술정보(주), 2006.

 N・M・プルジェワルスキー (Nikolai Mikhailovich Przhevalskii, 1839~1888) はロシアの軍人・地理学者で、1867〜69年にウスリー江岸を探検し、その過程で慶興(現恩徳郡)と地新墟の朝鮮人耕作地を訪問した。『ウスリー地方旅行1867-1869』の第4章第4節が朝鮮人の記述にあてられている。
 後にイザベラ・バードも指摘しているように、ロシアに移住した朝鮮人は勤勉に働いて財産を築き、評判が良かった。また朝鮮人は近隣の満州人に比べ清潔だったようで、プルジェワルスキーはこの点も賞賛している。

조선인 가정의 일상생활에서 조선인들, 즉 그들이 자신을 부를 때 쓰는 가우리는 무척이나 더러운 중국의 만즈이과 완전히 반대되는 근면과 특히 청결로 구별된다. 그들의 흰색 의상 자체가 이미 청결에 대한 애호를 보여준다. (p. 87)
朝鮮人家庭の日常生活では朝鮮人、すなわち彼らが自分たちを呼ぶとき使うカウリーは、とてつもなく汚い中国のマンジュイーと完全に対極にある勤勉と、特に清潔さによって区別される。彼らの白い衣裳それ自体が、すでに清潔に対する愛好を示している。

전반적으로 조선인의 용모는 보기 좋은 편이다. 비록 그들의 체격이, 특히 여성의 경우 균형 잡힌 체격이라고 하기는 어렵지만 말이다. 그중 가장 눈길을 끄는 것은 매우 좁고 짓눌린 듯한 가슴이다. 조선인의 얼굴은 대부분 동글고, 특히 여성들은 얼굴이 희며, 남성이나 여성 모두 머리색은 갈색이다. (p. 88)
全般的に朝鮮人の容貌は見目良い方である。しかし体格は、特に女性の場合、均衡がとれているとは言い難い。中でも最も目を引くのは、ひどく狭くて押さえつけられたような胸である。朝鮮人の顔は大部分丸く、特に女性は顔が白く、男女とも髪の色は褐色である。

조선에는 도시와 시골 모두에 아이들이 조선어를 배우는 학교가 있다. 그보다 더 재능이 있는 사람들은 그 위에 한문까지 배운다. 한문은 중국과의 모든 고급 외교문서를 작성하는 데 쓰이는 언어이다. (p. 89)
朝鮮には都市と農村を問わず、子どもたちが朝鮮語を学ぶ学校がある。それより更に才能がある者は、その上に漢文まで学ぶ。漢文は中国とのあらゆる高級外交文書を作成するのに使われる言語である。

씩씩함, 예의바름, 근면함은 내가 겪어본 바에 의하면 조선인이 가진 성격의 특징적인 측면이다. (p. 92)
たくましさ、礼儀正しさ、勤勉さは、私が経験して見たところによると、朝鮮人が持つ性格の特徴的な側面である。


ウィリアム・グリフィス『隠者の国・朝鮮』
William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004.

 ウィリアム・グリフィス (William Elliot Griffis, 1843~1928) は米国の牧師・東洋学者で、1870〜74(明治3〜7)年に日本に滞在し、福井と東京で西洋式教育制度の導入に尽力した。帰国後の1876年に出版した『皇国(The Mikado's Empire)』がベストセラーになり、東洋学者としての名声を確立した。1882年に初版が出た『隠者の国・朝鮮』も非常によく売れ、1911年までに9版を重ねた。キッシンジャー社から出ている復刻版は、1904年の第7版によるものである。グリフィスは朝鮮を訪れたことはなく、本書は英語・フランス語・ドイツ語・オランダ語等で書かれた既存文献と、日本・中国の史料に依拠している。しかし米国では、最初のまとまった朝鮮関連書として多大な影響力を持ち、「隠者の国」というフレーズは朝鮮の代名詞として有名になった。
 本書は三部構成になっており、第一部は古代・中世史、第二部は地理・政治・社会・文化等、第三部は近代史が記述されている。古代史では、日本人・朝鮮人とも扶余の子孫とし、日本に対する朝鮮の文化的影響を強調する一方、軍事的には日本が支配者だったとする。中世史は、ほとんどが文禄・慶長の役と、ハメルらオランダ人一行の朝鮮幽囚の記述に割かれている。第二部は主にダレの『朝鮮教会史』に依拠し、両班の横暴を最大の社会病理として指摘している。刑罰の恣行、男尊女卑、民衆の怠惰、建築の貧弱さ、暴食の習慣等の記述も、ダレのものを引き継いでいる。第三部では、朝鮮を日本・中国・ロシアの三大国いずれかの餌食となるべき、特に後進的で弱体な国と描き、自主独立の可能性は全く認めていない。

It is as nearly impossible to write the history of Corea and exclude Japan, as to tell the story of mediaeval England and leave out France. Not alone does the finger of sober history point directly westward as the immediate source of much of what has been hitherto deemed of pure Japanese origin, but the fountain-head of Japanese mythology is found in the Sungari valley, or under the shadows of the Ever-White Mountains. (p. 51)
日本を除外して朝鮮の歴史を書くのはほとんど不可能で、それはフランスを無視して中世イングランドを語るようなものである。ありのままの歴史が純粋な日本の起源としてまっすぐ西方を指し示しているのみならず、日本神話の源流はスンガリ川の渓谷や白頭山脈の影に見出される。

All being ready, the doughty queen regent set sail from the coast of Hizen, in Japan, in the tenth month A.D. 202, and beached the fleet safely on the coast of Shinra. The King of Shinra, accustomed to meet only with men from the rude tribes of Kiushiu, was surprised to see so well-appointed an army and so large a fleet from a land to the eastward. Struck with terror he resolved at once to submit. Tying his hands in token of submission and in presence of the queen Jingu, he declared himself the slave of Japan. Jingu caused her bow to the suspended over the gate of the palace of this king in sign of his submission. It is even said that she wrote on the gate “The King of Shinra is the dog of Japan.” (p. 54)
すべての準備が整った西暦202年10月、この勇猛な女王は肥前の海岸から出航し、無事に新羅の海岸に上陸した。新羅王はそれまで九州の未開な部族しか見たことがなく、この東国から来た精強な軍隊と巨大な船団を見て大いに驚愕した。恐れおののいた新羅王は、直ちに服従の意を示した。彼は自分の手を縛って女王に拝謁し、自分は日本の奴隷であると宣言した。神功皇后は自分の矛を王宮の門に立て、新羅王の服従のしるしとした。彼女は門に「新羅国の大王は日本の犬なり」と書いたとさえ言われている。

In the nineteenth century the awakened Sunrise Kingdom has seen her former self in the hermit nation, and has stretched forth willing hands to do for her neighbor now, what Corea did for Japan in centuries long one by. (p. 61)
19世紀に目覚めた日出る王国は隠者の王国にかつての自分を見出し、何世紀も前に朝鮮が日本にしてくれたことをするために、隣国に喜んで手を差し伸べたのである。

This is a good specimen of Corean varnish-work carried into history. The rough facts are smoothed over by that well-applied native lacquer, which is said to resemble gold to the eyes. The official gloss has been smeared over more modern events with equal success, and even defeat is turned into golden victory. (pp. 150-151)
これは朝鮮人による歴史の塗装作業の良い見本である。つらい現実には国産塗料を塗りたくり、黄金に見せかける。さらに後世の事件に対しても、公的な虚飾が巧妙に施され、敗戦すら輝かしい勝利に変えられる。

In the capital, as they had been along the road, the Dutchmen were like wild beasts on show. Crowds flocked to see the white-faced and red-bearded foreigners. They must have appeared to the natives as Punch looks to English children. The women were even more anxious than men to get a good look. Every one was especially curious to see the Dutchmen drink, for it was generally believed that they tucked their noses up over their ears when they drank. (p. 171)
ソウルに護送されたオランダ人一行は、まるで見せ物の野獣のようだった。白い顔と赤い髭を持つこの外国人を見に、群衆が押し寄せた。男たちよりも女たちが、よく見える場所を確保しようと必死になった。誰もがオランダ人がものを飲むのを見たがった。西洋人はものを飲むとき、鼻を耳より上につまみ上げると信じられていたからである。

Chō-sen is represented as a human being, of whom the king is the head, the nobles the body, and the people the legs and feet. The breast and belly are full, while both head and lower limbs are gaunt and shrunken. The nobles not only drain the life-blood of the people by their rapacity, but they curtail the royal prerogative. The nation is suffering from a congestion, verging upon a dropsical condition of over-officialism. (p. 229)
朝鮮は人にたとえられ、王はその頭、貴族は胴、人民は足である。胸と腹は膨れる一方、頭と下肢はやせ細っている。貴族はその強欲で人民の生き血をすするのみならず、王の大権をも侵している。国は充血を起こし、官僚主義の浮腫を患っている。

The vocabulary of torture is sufficiently copious to stamp Chō-sen as still a semi-civilized nation. The inventory of the court and prison comprises iron chains, bamboos for beating the back, a paddle-shaped implement for inflicting blows upon the buttocks, switches for whipping the calves till the flesh is ravelled, ropes for sawing the flesh and bodily organs, manacles, stocks, and boards to strike against the knees and skin-bones. (p. 234)
拷問の豊富さは、朝鮮がいまだに半文明国にとどまっていることを示すに十分である。法院と監獄の発明品としては、鉄鎖、背中を打つための竹、尻を打ち据えるためのパドル状の器具、肉が裂けるまでふくらはぎを叩くための鞭、肉と内臓を苛むためのロープ、手かせ、杖、そして膝とむこうずねを叩くための板等がある。

After their marriage, the women are inaccessible. They are nearly always confined to their apartments, nor can they even look out in the streets without permission of their lords. So strict is this rule that fathers have on occasions killed their daughters, husbands their wives, and wives have committed suicide when strangers have touched them even with their fingers. (p. 245)
結婚後は、女との接触は不可能である。女はほとんど常に内房に引きこもり、許しを受けずに家の外を覗くことすらできない。隔離があまりに厳しいため、部外者の指が触れたというだけで父は娘を、夫は妻を殺し、妻は自殺することがある。

Corean architecture is in a very primitive condition. The castles, fortifications, temples, monasteries and public buildings cannot approach in magnificence those of Japan or China. The country, though boasting hoary antiquity, has few ruins in stone. The dwellings are tiled or thatched houses, almost invariably one story high. In the smaller towns there are not arranged in regular streets, but scattered here hand there. Even in the cities and capital the streets are narrow and tortuous. (p. 262)
朝鮮の建築はきわめて原始的な状態にある。城郭、要塞、寺院、修道院および公共建築は、日本や中国の壮麗さにまるで及ばない。この国は古い歴史を誇っているのに、石造の遺跡がほとんどない。住居は瓦葺きか藁葺きで、ほとんど例外なく一階建てである。小都市では規則的な通りに配置されておらず、あちこちに散在している。大都市や首都でも、通りは狭くて曲がりくねっている。

The Corean rustic is, as a rule, illiterate. Probably only about four out of ten males of the farming class can read either Chinese or Corean, but counting in the women it is estimated that about eighty-five per cent of the people can neither read nor write, though the percentage varies greatly with the locality. (p. 444)
朝鮮の百姓は一般に文盲である。おそらく農民階級の男の十人に四人が中国語か朝鮮語を読めるだろうが、女も勘定に入れると約85パーセントの人々は読むことも書くこともできない。ただし地域差は大きい。

Corea has no samurai. She lacks what Japan has always had - a cultured body of men, superbly trained in both mind and body, the soldier and scholar in one, who held to a high ideal of loyalty, patriotism, and sacrifice for country. (p. 450)
朝鮮にはサムライがいない。日本にあって朝鮮に欠けているものは、心身ともによく鍛えられ、兵士であると同時に学者であり、忠誠心と愛国心と自己犠牲の高い理想をかかげる文化的集団である。


『P・G・フォン・メレンドルフ伝』
묄렌도르프 지음, 신복룡・김운경 역주, 묄렌도르프自傳(外), 집문당, 1999.


 P・G・フォン・メレンドルフ (Paul Georg von Möllendorff, 1847~1901) はドイツの外交官で、ハレ大学で東洋学と法学を専攻し、1869年に中国に渡り上海海関の監督官に採用された。その後中国各地のドイツ領事館勤務を歴任し、中国語・中国文化に精通した。1882年にドイツの公職を辞し、李鴻章の薦挙で朝鮮王・高宗の顧問に任じられた。そして1882年12月から1885年12月までの3年間、朝鮮における関税・通貨・教育等の諸制度の創設や、ヨーロッパ列強との外交交渉に尽力した。
 『P・G・フォン・メレンドルフ伝
(P. G. von Möllendorff: Ein Lebensbild)』は、妻のロザリーがまとめて1930年にライプチヒで出版された。申福龍らの韓国語訳では、なぜか「自伝」となっている。本書に限らず申福龍訳は、年月日をはじめ数字が間違いだらけで非常に読みにくい。

왕은 외모가 매우 좋아 보였고, 매우 호감이 가는 인상이었어요. 그 다음 다른 방에서 우리는 차 대접을 받았소. 한30분이 지나서 우리는 모두 왕과 함께 회의를 했는데, 회의할 때 우리는 앉는 것이 허락되었어요. 왕은 그의 넓은 옷을 벗고 넓은 모자만 쓰고 나왔소. (p. 73)
王は外貌がとても良く、とても好感が持てる印象でした。その後で別の部屋でわれわれは茶のもてなしを受けました。およそ30分が過ぎて、われわれ全員は王とともに会議をしましたが、そのときわれわれは座ることを許されました。王は寛衣を脱いで、つばの広い帽子だけかぶって現れました。

청국이 자기의 예속 국가가 위급한 상황에 처할 때, 과연 일본으로부터 보호해 줄 수 있을 것인지, 당시의 정세를 볼 중 아는 사람에게는 매우 회의적으로 여겨졌다. 따라서 이러한 이유로 조선이 청국 이외에 어떤 다른 힘에 의지해야 한다고 남편은 처음부터 분명한 생각을 가지고 있었다. 그 때의 상황을 감안하면 그것은 러시아가 틀림없었다. (p. 86)
清国はその隷属国が危急な状況に陥ったとき、果たして日本から保護してやれるのか、当時の情勢を見る目がある人にはきわめて懐疑的に思われた。したがって朝鮮は清国以外の別の力に頼るべきだと、夫は最初から明確な考えを持っていた。当時の状況を考えると、それはロシアしかなかった。

왕비는 극히 호감을 주는 인상이었으며, 매력적이고 퍽 섬세하며 온정이 가득한 모습인데다가 지적이기도 했다. (p. 89)
王妃はとても好感を与える人物で、魅力的で非常に繊細で温情にあふれていたが、知的でもあった。

또 전 같으면 반쯤 열린 문을 통해서 겨우 내게 모습을 보였던 왕비가 최근에는 스스로 그의 두 손으로 내 손을 꼭 잡아 주었다오. (p. 106)
また以前は半分だけ開いた扉からかろうじて姿を私に見せた王妃が、最近はみずから両手を差し出して私の手をしっかり握ってくれます。


W・R・カールズ『朝鮮風物誌』
W. R. 칼스 지음, 신복룡 옮김, 조선풍물지, 집문당, 1999.

 W・R・カールズ (William Richard Carles, 1846~1929) は英国の外交官で、1867年に北京駐在英国公使館の翻訳留学生として経歴を開始し、1901年に引退するまで、ほとんど中国で中国語の専門家として活躍した。朝鮮は二度訪れており、まず1883年11月から12月にかけて、江原道金化を中心に鉱山の調査に従事した。いったん中国に戻ったが、翌1884年に北京総領事パークス (Harry Parkes, 1828~1885) が条約締結のため訪朝した際に同行し、5月に高宗に謁見した。カールズは済物浦駐在の副領事に任命されたが、9月には北部旅行に出発し、平壌、義州、江界、元山を経て11月にソウルに帰着した。
 本書
(Life in Corea) は、中国に戻った後の1888年に出版された。当時の商工業の水準や日本人の進出、女性の地位をはじめ社会風俗に関する記述が豊富で興味深い。

우리는 곧 일본 집들이 즐비하게 늘어선 길가를 벗어나게 되었다. 일본 집들은 최근 외국인과의 장사로 톡톡히 재미를 보고 있는 소상인들이 서둘러 지은 집들이었다. 이런 종류의 집들을 굳이 비교하자면 일본 영사관 같은 고급 집과 이곳에 일자리를 찾으러 와 잠시 거주하는 조선 사람들의 오두막집의 중간 정도였다. 일본 집은 모두 매력적인 반면에 조선 사람들의 집은 통풍 장치가 전혀 되어 있지 않고 냄새가 나는 도로변 양쪽에 제멋대로 지어 올린 초가지붕의 토담집들이었다. (p. 28)
われわれはすぐに、日本家屋が立ち並ぶ一帯を通り抜けることになった。これらの日本家屋は、最近外国人たちとの商売で大きな利益を上げている小商人たちが建てたものだった。こうした種類の家は、あえて比較するなら、日本領事館のような高級建築と、そこで働きながら仮住まいをする朝鮮人たちのあばら家の中間程度だった。日本家屋はすべて魅力的な反面、朝鮮人たちの家は、通風装置がまったくなっておらずにおいがひどい道路の両側に散らばって立つ、草ぶき屋根と土塀の家だった。

신분이 낮은 다른 여인들은 아이들에게 젖을 먹이며 집 문 앞에서 서성거리거나 집안 일을 하고 있었다. 장옷을 가리지 않은 그들의 얼굴은 천연두를 앓은 혼적과 중노동의 비천한 대우를 받은 빛이 역력했다. 어깨 위로 입는 짧고 꾁 끼는 옷은 젖가슴을 드러나게 했고 그들의 누추한 옷과 모양새 없고 불결한 곳에서 사는 모습을 보며 우리는 조선 여인들에 대해 좋지 못한 인상을 받게 되었다. (p. 36)
身分が低い他の女性たちは子どもに乳を吸わせ、家の門の前をうろついたり家事をしたりしていた。長衣を着けない彼女たちの顔は、天然痘をわずらった痕跡と、重労働の卑賤な待遇を受けたことが歴然としていた。肩の上に着る短く窮屈な服は、乳房をあらわにしており、彼女たちの陋醜な服とみすぼらしく不潔な所に住む様子を見て、われわれは朝鮮女性たちに対し好ましからぬ印象を持つようになった。

아침에 일어나 보니 대형 가방이 없어졌다. 수색을 해서 선수에서 그것을 곧 찾았으나 내가 조선의 골동품을 사려고 했던 돈 몇 달러는 이미 없어져 버렸다. 조선의 일꾼이 그 돈을 훔쳤다는 것은 의심할 나위도 없다. 그는 부산으로 가는 도중이었으며 나의 가방 속에 든 내용물들을 본 적이 있었다. 상륙하기 전에 그를 발가벗겼으나 없어진 돈은 나오지 않았다. 그는 나에게 웃음을 지으며 작별 인사를 했고 그 다음에 만날 때도 그런 식으로 인사를 했다. 시골에 가면 방이 부족해 우리는 짐을 노천에 내어놓았지만 짐을 잃어버리는 경우가 없었다. 이런 점에서 볼 때, 조서 사람들은 서구 문물이 들어오기 이전까지는 정직했다. 그러나 서양 문물이 들어온 이후에 사정이 많이 바뀌어 절도에 대한 적절한 처벌이 필요하다는 얘기를 우리는 자주 들었다. (p. 69)
朝起きてみると、大型カバンがなくなっていた。捜索をして、船首でそれをすぐに見つけたが、私が朝鮮の骨董品を買おうと持って来た数ドルの金は既になくなっていた。朝鮮人の従僕がその金を盗んだことは、疑うべくもなかった。彼は釜山に行く途中で、私のカバンの中身を見たことがあった。上陸する前に彼を身体検査したが、なくなった金は出て来なかった。彼は私に笑みを浮かべて惜別のあいさつをして、次に会ったときも同じようにあいさつした。田舎に行くと部屋が不足なため、われわれは荷物を露天に置いておいたが、荷物がなくなったことはなかった。このような点から見て、朝鮮人は西欧の文物が入ってくる前は正直だった。しかし西洋の文物が入って来て後では事情が大きく変わり、窃盗に対する適切な処罰が必要だという話をわれわれはよく聞いた。

아주 경제적인 일본인조차도 조선에서 무역을 하는 것이 결코 돈 벌 일이 못 된다고 생각할 정도이다. 많은 일본 무역업자들이 조선에서 사업에 실패했다. 또한 이 지역에서 사업을 하는 몇 안 되는 유럽인들은 자신들이 수입하는 상품에 대한 은화 지급이나 현물 지급 방법이 어렵다고 불평한다. (p. 82)
きわめて経済的な日本人でさえ、朝鮮で貿易をすることが決して金儲けにならないと考えるほどだ。多くの日本の貿易業者が、朝鮮での事業に失敗した。またこの地域で事業を行うわずかなヨーロッパ人たちは、自分たちが輸入する商品に対する銀貨支給や現物支給の方法が難しいと不平を言っている。

그러더니 평안감사는 갑자기 대화를 바꾸어 곳체 박사와 조선 정부와의 관계라든가 그의 여행 목적에 관해서 물었다. 그리고 그와 같은 뜻으로 평안도의 자원, 무역, 인구 등에 대한 질문을 들으면서 나는 매우 괴로웠다. 그는 나의 여행 목적에 대해 경계하는 눈치였으며 예의에 벗어난 모습을 보이면서 자신의 국가의 모든 것을 비방했다. 그는 어떤 무역의 존재도 인정하지 않으려 했다. 그의 말에 따르면 대동강도 운항에 아무런 쓸모가 없으며, 광산들도 가치가 없다며 거의 3,000년의 역사를 가진 이 도시에 관심을 둘 만한 것이라고는 하나도 없으며 도자기, 청동 등 어떠한 상품도 구매할 가치가 없는 것들이라고 그는 말했다. (p. 120)
ところが平安監司は突然話題を変え、ゴッチェ博士と朝鮮政府の関係や彼の旅行目的について尋ねた。そしてそれと同じように平安道の資源、貿易、人口に対する質問をあげ、私はひどく苦しかった。彼は私の旅行目的に対し警戒している様子で、礼儀にもとることを言い、自分の国のあらゆることを非難した。彼はいかなる貿易の存在も認定するまいとした。彼の言葉によると、大同江もまったく運行に耐えず、鉱山も価値がなく、ほとんど3000年の歴史を持つこの都市には関心に値するものはひとつもなく、陶磁器や青銅等のいかなる商品も購買する価値がないと言った。

관찰사(觀察使)가 나를 찾아와 오랫동안 머물면서 내가 가지고 있는 이국적인 물건들에 많은 관심을 보였다. 그는 특히 서양 가죽 제품의 뛰어난 솜씨에 놀랐고 그것이 사용되는 용도의 수를 거의 믿으려 하지 않았다. 그는 가격에 대해 물었고 내가 그에게 보여 준 조그만 물건들의 가격에 몹시 놀랐다. 마침내 그는 억누르고 있었던 느낌을 말했다. 「조선은 매우 가난한 나라입니다. 조선에는 돈도 제품도 없습니다. 우리는 외국 물품을 살 만한 여유가 없습니다.」 물론 나는 그에게 조성의 무역을 발전시킬 수 있기를 바라는 인상을 주었다. 그러나 그는 내가 말한 것에 거의 관심을 두지 않고 다소 침울한 채 가 버렸다. (p. 125)
観察使が私を訪ねて来て長いこと居座り、私が持っている異国的な品物に強い関心を見せた。彼は特に西洋の革製品の際立った仕上がりに驚き、それが使われる用途の数をほとんど信じようとしなかった。彼は価格について尋ね、私が彼に見せてやった少数の品物の価格にひどく驚いた。最後に彼は押さえつけていた感情をあらわにした。「朝鮮はひどく貧しい国です。朝鮮には金も製品もありません。われわれは外国製品を買うだけの余裕がありません。」もちろん私は彼に朝鮮の貿易を発展させられることを願うという印象を与えた。しかし彼は私の言うことにほとんど関心を見せず、多少沈鬱な様子で出て行った。

모든 조선인들이 정중하지만 현령의 태도는 보다 더 정중했다. 그가 나를 위해 준비한 방은 기분 좋을 정도로 깨끗했으며, 그는 나에게 좀더 머물라고 간곡히 권유했다. 그러나 좀 오래 머물기에는 일정이 너무 많이 지체되었다. 그는 내가 자신의 관할 구역 내에 있는 동안 자신의 몸종과 동행하라고 권했으며 많은 다정한 말로써 나의 여행을 독려했다. (p. 140)
すべての朝鮮人は鄭重だが、県令の態度はさらに鄭重だった。彼が私のために用意した部屋は、気分がよい程度に清潔で、彼は私にもう少しとどまるよう鄭重に勧めた。しかし少し長くとどまるには、日程があまりに多く遅滞していた。彼は私が自分の管轄地域内にいる間、自分の小間使いと同行するよう勧め、多くの真情あふれる言葉で私の旅行を督励した。

의주에서 우리가 출발하는 날에 3개월에 한 번씩 열리는 시장이 열렸다. 상당한 수의 사람들이 이미 도시에 모여 있었고, 다른 사람들은 다른 길로 오는 중이었다. 그러나 나는 시장에서 기념품으로 가져갈 만한 것을 찾지 못했다. 나는 서울 근방에 있는 것들에 훨씬 못 미치는 가축들에 크게 실망했다. (p. 151)
われわれが義州を発つ日に、3ヶ月に1度開かれる市場が開かれた。相当な数の人々が既に都市に集まっており、他の人々は他の道から来る途中だった。しかし私は、市場で記念品として買って行くほどの物を見つけられなかった。私はソウル近郊にいるものよりずっと劣る家畜に大きく失望した。

강계에서 인상적이었던 일은 현감의 수행원 중에 여성들이 있었다는 점이다. 내가 답례로 그를 방문했을 때 그는 단지 몇 명 안 되는 남자 수행원만을 데리고 있었다. 일반적으로 조선의 관아에서 일하는 소년들은 한 사람도 없었지만, 얼굴을 가리지 않은 대여섯 명의 여성들이 있었다. 내가 더욱 당황한 것은 그가 그들의 미모를 어떻게 생각하느냐고 나의 의견을 물었다는 점이다. 그 소녀들은 현감 자신만큼이나 나의 답변을 듣고 싶어하는 것처럼 보았다. 다행히 그들의 모습에 대해 좋게 말하기란 쉬운 일이었다. 왜냐 하면 그들은 키가 크고 몸집이 우아했을 뿐만 아니라 그들 스스로도 몸을 잘 관리했으며 천연두 자국이 없었기 때문이었다. 그들은 분명히 내가 보았던 조선의 여성들 가운데서 최고의 미인들이었다. (pp. 171-172)
江界で印象的だったのは、県監の随行員の中に女性がいたという点だ。私が答礼で彼を訪問したとき、彼はごくわずかな男子随行員しか連れておらず、一般的に朝鮮の官衙で働く少年たちは一人もいなかったが、顔を隠さない数人の女性たちがいた。私がさらに驚いたことは、県監が彼女たちの美貌をどう思うかと私に意見を尋ねた点だ。その少女たちは、県監自身と同じくらい私の答えを聞きたがっているように見えた。幸い彼女たちの器量について良く言うのは簡単だった。なぜなら彼女たちは背が高く体躯が優雅であるのみならず、彼女たち自身が体をよく管理しており、天然痘の痕もなかったからだ。彼女たちは明らかに、私が見た朝鮮の女性たちのうちで最高の美人たちだった。

어떤 도시가 깨끗한 도시라고 불릴 수 있는 권리를 가지고 있다면 그 도시는 원산이다. 일본인들의 고급 주택들, 넓은 거리, 도시를 가로지르며 흐르는 하천, 그 앞에 있는 바다, 그리고 다른 도시와 비교해 볼 때 이 도시는 나에게 무척이나 깨끗하게 보였다. (p. 193)
ある都市が清潔な都市だと呼ばれる権利を持つとすれば、元山こそその都市だ。日本人たちの高級住宅、広い道、都市を二分して流れる河川、その前に広がる海。他の都市と比較して見ると、この都市は私にはとてつもなく清潔に見えた。

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H・N・アレン『朝鮮見聞記』
H. N. 알렌 지음, 신복룡 역주, 조선견문기, 집문당, 1999.

 H・N・アレン (Horace Newton Allen, 1858~1932) は米国の医療宣教師・外交官で、初期の米朝関係の確立に大きく貢献した。マイアミ医科大学を卒業後、一年間中国で活動したアレンは、1884年ソウルの米国公使館の医師に採用された。この年に起きた甲申政変で負傷した閔泳翊を治療したのが契機となり、翌年韓国最初の病院である廣惠院が建てられると医師・教師として働いた。1887年には全権公司・朴定陽の渡米に随行し、米朝外交に深く関与するようになった。1890年にはソウルの米国公使館の書記官となり、以後公使、総領事、全権公使を歴任した。1904年の乙巳条約によって朝鮮の外交権が剥奪されると、1905年帰国した。
 本書
(Things Korean: A Collection of Sketches and Anecdotes Missionary and Diplomatic) は1908年にニューヨークで出版された。アレンは朝鮮人にかなり好意的で、後進性や不衛生や政治的腐敗といった定番の批判は欠かさないながらも、紙製品以外の工芸品やオンドルやキムチを賞賛している例はきわめて珍しい。

배의 갑판에서 바라보면 조선의 해안은 너무도 황량하여 도무지 올라가 보고 싶은 마음이 들지 않는다. 이러한 현상은 조선 사람들이 자기네의 국토가 그렇게 보이도록 만들어 놓은 탓이다. (p. 51)
船の甲板から眺めると、朝鮮の海岸はあまりに荒涼としており、まったく上がって見たいという気がしない。この現象は、朝鮮人が自分たちの国土がそう見えるようにした結果である。

조선은 국토가 좁고 보잘것없는 나라이지만 유구한 문화를 가지고 있다. 이런 점에서 조선은 일본(日本)의 스승이다. 그들의 혈통과 가계에 대한 긍지는 이 고지식한 민족의 현저한 민족성의 하나가 되어 수세기 동안 그들의 은둔된 영토 내에 갇혀 있게 되었을 뿐만 아니라 자기들이 그 터전 안에서 태어날 수 있었단 것을 지극히 만족하게 생각하게 되었고 그들의 절연(絶縁 )된 생활 속에 홀로 있고 싶다고 요구하게 되었다는 사실은 조금도 놀라울 것이 없다. (p. 53)
朝鮮は国土が狭い小国だが、悠久な文化を持っている。この点で朝鮮は日本の師匠である。彼らの血統と家系に対する矜持は、この固陋な民族の顕著な民族性のひとつになっており、数世紀にわたってその隠蔽された領土内に閉じもるようになっただけでなく、自分たちがその基盤の中に生まれたということにきわめて満足するようになり、自分たちの絶縁した生活の中で一人きりでいたいと欲求するようになったという事実は、少しも驚くべきでない。

불쌍한 조선 사람들이여! 그대들은 너무도 오랫동안 무사 안일의 세월을 보냈다. 아마도 조선의 땅이 남의 나라에 의해 망한 것이 아니라 지진과 화산에 의해 폐허가 되었더라면 조선은 벌써 곤한 잠 속에서 깨어났을 지도 모른다. 그러나 조선 백성들이 잠자고 꿈꾸며 세상사에 개의치 않는 동안에 조선의 오랜 적인 일본인은 지금 당신들이 보고 있는 낯선 서양 사람들의 기술을 배우기에 분주했으며, 당신들의 선왕이 쌓은 저 요새로 뚫린 옛길을 기어오르고 있다. 기술을 배운 후에 일본인들은 지난날 자기들에게 문명을 전해 준 스승의 나라를 정복했으며, 원기 왕성해진 지난날의 제자가 당신의 국토를 넘보는 차제에, 한때는 저들의 선생이었으나 지금은 늙어빠진 퇴역이 된 현 왕조에게 여러분들은 무엇을 더 이상 기대할 수 있겠는가? (p. 58)
かわいそうな朝鮮人たちよ! あなたたちはあまりにも長いあいだ無事安逸の歳月を過ごした。もしも朝鮮の地が他国によって亡ぼされたのではなく、地震と火山によって廃墟になったなら、朝鮮は今ごろけだるい眠りから覚めたかも知れない。しかし朝鮮の民衆が夢をむさぼり外の世界に関心を向けなかった間に、朝鮮の仇敵たる日本は今あなたたちが見ている見慣れぬ西洋人の技術を学ぶことに奔走し、あなたたちの先王が築いたあの要塞にかつてくり貫いた道を這い上がって来ている。技術を学んだ後、日本人はかつて自分たちに文明を伝えた師匠の国を征服し、元気旺盛なかつての弟子があなたたちの国土を見下す状況で、かつて彼らの先生だったが今は老いさらばえた隠居になった現王朝に、あなたたちはこれ以上何を期待できるかというのか?

짙은 갈색 유지로 덮인 구들과 시멘트 방바닥은 하루에 두 번 밥을 짓기 위해서 때는 불만으로도 매우 따뜻하다. 조선 사람들은 이 점에서는 이웃 나라 사람보다 더 훌륭하다. 왜냐 하면 일본의 가옥은 해로울 정도로 춥고 화로가 손을 쬐는 유일한 재래식 난방장치일 뿐이며, 그 반면에 중국인들은 겨울의 혹한에도 결코 따뜻함을 모르기 때문이다. 그들은 북부 지방에서 하는 식의 불에 달군 돌 이외에는 집을 따뜻하게 하는 방법이 없다. 그러나 중국의 가옥들은 추울 때에도 그나마 전혀 온방되지 못해 몸을 따뜻하게 하기 위해서는 옷을 겹으로 입을 뿐이다. 영국의 여행가인 노만 (Henry Norman) 은 조선을 여행하는 동안 놀랍고 아름다운 이 나라를 매우 칭찬했다. 그는 북경을 방문한 후에 수도 서울에 이르러 쓴 글에서, 북경과 비교할 때 서울은 천국이라고 했다. (pp. 64-65)
濃褐色の油紙で覆われたオンドルとセメントの床は、一日に二度飯を炊くために燃やす火だけでもきわめて暖かい。朝鮮人はこの点では、隣国の人々より優秀である。なぜなら日本の家屋は体に障るほど寒く、手をあぶる火鉢が唯一の在来式暖房装置であり、一方中国人は冬の酷寒でも何ら暖かくする方法を知らないからである。彼らは北部地方のやり方である火で焼いた石以外には、家を暖める方法がない。しかし中国の家屋は寒いときでもそのまま全く暖房ができず、体を暖めるためには服を重ね着するのみである。英国の旅行家であるノーマン (Henry Norman) は、朝鮮を旅行した際に驚くほど美しいこの国を大いに賞賛した。彼は北京を訪問した後に首都ソウルに着いて書いた文で、北京に比べればソウルは天国だと述べた。

조선 사람들은 체격이 좋고 힘이 강하다. 제물포의 부두에서 1마일 떨어진 곳의 미국인의 상품 창고에서 짐을 운반하는 일에 종사하고 있는 어떤 노동자가 500파운드 무게의 짐짝을 나르겠다고 동료 일꾼들에게 내기를 걸었다. 그래서 다른 사람들이 합세하여 짐짝을 그의 지게에 실어 주었더니 그 사람은 더 이상 남의 도움을 박지 않고 짐짝을 1마일 운반했다. 그랬더니 하물(荷物) 노동자 조합이 그를 맹렬히 공격하고 심히 구타했다. 그 이유는 혼자 힘 자랑을 하여 노동 시장을 망쳐 버렸다는 것이다. 그 후로는 누구도 힘 자랑을 하면 심한 구타를 당할 것으로 알고 힘 자랑하는 사람이 없어졌다. (p. 91)
朝鮮人は体格が良く力が強い。済物浦の埠頭から1マイル離れた所の米国人の商品倉庫へ荷物を運ぶ仕事に従事していたある労働者が、500パウンドの重さの荷物を運んで見せると同僚の人夫たちと賭をした。そこで数人がかりで荷物を彼の背負子に載せてやったところ、その男はそれ以上他人の助けを借りずに荷物を1マイル運んだ。すると荷役労働者の組合が彼を猛烈に攻撃し、ひどく殴りつけた。その理由は、ひとりで力自慢をして労働市場を台無しにしてしまったということだった。その後には、誰もが力自慢をすればひどく殴られることを知って、力自慢をする者はいなくなった。

중국과 조선의 여자들은 천대를 받고 있다. 참을성도 많다. 그러나 너무 지나치게 압박을 받다가 반항할 때 그들의 분노는 상상하기조차 무섭다. 그렇게 되면 다듬잇방망이가 무시할 수 없는 무기가 되고 남성도 그 방망이를 무서워한다. (p. 95)
中国と朝鮮の女たちは虐待を受けている。忍耐心も強い。しかしあまりにひどく圧迫を受けて反抗するとき、彼女たちの憤怒は想像するだに恐ろしい。そうなればきぬたを打つ棒が無視できない武器になり、男たちもその棒を恐ろしがる。

조선 사람들은 원하는 것에 가까운 모양의 틀을 만들어 주물(鑄物)을 부어 넣음으로써 매우 훌륭한 놋식기들을 만든다. 경제적 여유가 있는 사람들의 식사에 사용되는 식기는 모두가 훌륭하고도 무거운 놋제품들이다. 식사를 한 후 손가락을 씻는 그릇으로 사용하기 위해 외국인들은 식기를 몇 벌씩 본국으로 가져간다. 외국인들은 이 식기가 깨지지 않고 빛깔이 금빛과 비슷하여 이 식기를 사용하는 데 놀랄 만큼 익숙하다. (p. 97)
朝鮮人は望みどおりに近い形の鋳型を作って鋳物を注ぎ込むことで、きわめて立派な真鍮の食器を作る。経済的余裕がある人々の食事に使われる食器は、すべて立派で重い真鍮製品である。食後に指を洗う器として使うため、外国人は食器を何個かずつ本国に持ち帰る。外国人はこの食器が割れることがなく、色合いが金と似ているため、この食器を驚くほど愛用している。

나무에 진주로 깨끗하고 매력적인 모양의 상감(象嵌)을 하는 것 외에도 조선 사람들은 칠판에 은으로 아주 멋있게 상금을 박는다. 우선 칠판으로 본을 뜬 다음 은을 박는데 그 모양이 매우 아름답다. 조선 사람들은 일본인처럼 능숙하지는 못하나 목공, 가구, 조립품에 훌륭한 솜씨를 가졌다. 조선인의 장롱 중에는 외국인들이 격찬하는 예술품이 있다. 대나무를 엮어 햇빛을 가리는 발(簾)은 흔히 사용하는 물건이며 침구로도 쓸 만큼 길고 아주 정교한 돗자리도 만든다. (p. 98)
木に真珠できれいで魅力的な模様の象嵌をする以外にも、朝鮮人は漆板に銀でとても美しく象嵌をする。まず漆板で型をとった後銀を塗るが、その模様が非常に美しい。朝鮮人は日本人のように巧みではないが、木工・家具・組立品に立派な腕前を持つ。朝鮮のタンスの中には、外国人たちが激讃する芸術品がある。竹を編んで日光を透す簾はよく使う品物で、寝具にも使えるほど長くとても精巧なむしろも作る。

나의 친구 중에는 매우 유능한 「착취꾼」이 있었는데 이번에는 그 사람이 최고 법정에 끌려가 자기보다 벼슬이 높은 관리에게 착취를당했다. 이와 같은 일을 설명하면서 그는 나에게 말하기를, 조선 사람이 재산을 가지고 있다는 것은 마치 범인처럼 취급된다고 한다. (p. 98)
私の友人にきわめて有能な「搾取師」がいたが、今度は彼が最高法廷に引っ張られて自分より官職が高い官吏に搾取された。この事情を説明しながら彼が言うには、朝鮮人が財産を持っていればまるで犯罪のように扱われると言う。

조선 사람들은 오랜 경험으로 이런 냄새에 익숙하다. 그러나 그들은 사방 8피트의 침실에서 이 해로운 공기를 어떻게 호흡하며 이 작은 방에 불을 때고 6내지 8명 한방에서 잠을 자고 생명을 유지해 나갈 수 있는지 매우 놀라운 일이다. 이런 방에 들어가려고 문을 여는 순간 확 끼치는 냄새는 무엇이라고 표현할 수 없으며, 이럴 때면 백인들은 누구든지 바깥 일기가 아무리 나빠도 숨이 막혀 밖으로 뛰쳐나갈 것이다. (p. 130)
朝鮮人たちは、長年の経験からこのようなにおいに慣れている。しかし彼らは8フィート四方の寝室でこの有害な空気を呼吸し、この小さな部屋で火を炊き、6〜8人が同じ部屋に寝てどうやって生命を維持できるのか、まったく驚かされる。このような部屋に入ろうとして扉を開いた瞬間、ぶわっと押し寄せるにおいは筆舌に尽くし難く、こんなとき白人なら誰でも、外の天気がいかに悪くても、息を止めて外に飛び出してしまうだろう。

조선 사람들은 매우 친절한 사람들이다. 이전에는 사실상 조선에 거지가 없었다. (p. 108)
朝鮮人たちはとても親切な人々である。以前には事実上朝鮮には乞食がいなかった。

이와 같은 현상은 조선의 부자들에게 부담이 된다. 그리고 누구나 번창하면 이전에는 본 족도 없는 친척들이 함께 끼여 살러 오고 심지어는 친구들까지도 데리고 온다. 그러나 이런 일에는 그만한 보상이 있다. 왜냐 하면 많은 사람들이 그렇게 찾아오는 집은 번성하든가 또는 조정(朝廷)에 세력이 있다는 것을 뜻하고 있기 때문이다. (p. 111)
こうした現象は朝鮮の富者に負担になる。そして誰であれ成功すれば、以前には見たこともない親戚が大勢押しかけて来て、はなはだしくは友人まで連れて来る。しかしこのことには、それだけの補償がある。なぜなら多くの人々がそのようにやって来る家は、繁盛しているかまたは朝廷に勢力があることを意味しているからである。

그런 일이 있은 후로는 노동자들의 입에서도 김치 냄새가 났다. 그들은 그 냄새를 좋아했을지 모르지만 나는 도저히 견딜 수가 없었다. 이 일이 있은 후에 어떤 사람이 마늘을 빼고 만든 이 김치의 맛을 보라고 권유했다. 그런데 나는 첫입에 그 맛에 사로잡혔다. (p. 112)
そんなことがあった後、労働者たちの口からもキムチのにおいがした。彼らはそのにおいを好んだのかも知れないが、私は到底耐えられなかった。このことがあった後に、ある人からニンニクを抜いて作ったキムチを味見してみろと勧められた。すると私は、最初の一口でその味に魅了された。

서울 주위의 근교는 매우 잘 미화되어 있다. 시내의 불결한 도로를 벗어 나 조용하고 뚝 떨어져 있는 묘지를 둘러보면 묘지가 있는 언덕 바로 아래에는 제물을 바치기 위한 절간과 같은 예술적인 건물이 무덤 바로 앞에 서 있음을 보게 된다. (p. 140)
ソウル周辺の近郊は、きわめてよく美化されている。市内の不潔な道路を抜け出し、静かな少し離れた墓地を見回せば、墓地がある丘のすぐ下には供物を供えるための祠のような芸術的な建物が、墓の正面に立っているのが見られる。

어느 날 아침 나의 환자가 보신탕을 먹었기 때문에 그는 원수의 살을 먹고 사는 유일한 방법을 가지고 있다고 선언했다. 왜 그런 것인지 설명해 달라기에 거리에서 일본인의 시체를 먹고 있는 개를 보았는데 그 환자가 그 개를 먹었으니 원수의 고기를 먹고 사는 것이 아니냐고 말했다. (pp. 178-179)
ある朝、私の患者が、補身湯を食べたから自分は仇敵の肉を食って生きる唯一の方法を持っていると宣言した。なぜそうなのか説明してくれと言うと、道端で日本人の死体を食っている犬を見たその患者がその犬を食ったから、仇敵の肉を食って生きることではないかと言った。

조선 사람들은 음모의 명수이며 어머니의 젖꼭지를 물고 있을 때부터 음모를 꾸미기 좋아하는 것 같았다. 이런 음모의 결과로서 진보적인 관리들이 종종 미국 공사관으로 피난하곤 했다. (p. 201)
朝鮮人は陰謀の名手で、母親の乳首に吸いついているときから陰謀を企むことを好むらしかった。こうした陰謀の結果として、進歩的な官吏たちがたびたび米国公使館に避難して来た。

⇒英語


H・B・ハルバート『朝鮮滅亡』
H・B・ハルバート(岡田丈夫訳)『朝鮮滅亡(上)』太平出版社, 1973.

 H・B・ハルバート (Homer B. Hulbert, 1863~1949) は米国の神学者・ジャーナリストで、ダートマス大学を卒業しニューヨークのユニオン神学校で神学を学んだ。1886年7月、ギルモア (George W. Gilmore) やバンカー (Dalzell A. Bunker) とともにソウルの育英公院の教師に赴任した。1891年12月にいったん帰国したが、1893年9月に再度来韓し『コリア・レビュー』の編集を主管した。日露戦争直後の1905年10〜11月、高宗の密書を持ち米国の政府要人と接触して第二次日韓協約を妨害しようとした。1907年7月、ハーグ万国平和会議で李儁ら高宗の密使を列強諸国の代表と会わせようとしたが失敗、朝鮮に戻れなくなり米国に帰国した。1949年7月、李承晩大統領の招請で来韓したが1週間で死去、馬浦楊花津の外国人墓地に安葬された。1950年建国功労勲章を追叙された。
 ハルバートは当然キリスト教至上主義者で、それが彼の反日・親韓の立場に影響しているらしい。朝鮮に比べキリスト教が普及しない日本を野蛮視し、日本の朝鮮支配を「第一級の国際的な誤謬」と非難している。欧米列強の植民地支配はキリスト教の普及という崇高な目的に奉仕するものだから善だが、非キリスト教国の日本が列強のようにふるまうのはけしからんということらしい。
 原書
(The Passing of Korea) は1906年にニューヨークで出版された。ちなみに訳書の下巻は入手していない。

日本は物質的には大転換したけれども、婦人の地位はそれほど変わらなかったし、広い意味での宗教はといったら、明瞭に、維新以前とほとんど変わるところがない。それは、たしかに西欧の知的刺戟によって上層階級を仏教的な「空」から解放はしたものの、上層階級のうちで、仏教に代わるものを受け入れたものは、比較的少数にとどまる。日本でのキリスト教は、朝鮮ほどにも発展せず、万事が証明するように、日本は、西欧文化の泉を掘りすすめることは断念し、いくつかの、目に見え、手に触れ得る成果を貯めるタンクをつくっただけだった。(上巻, pp. 19-20)
大部分は南部にある紙桑は大切な木材で、その内皮はもっぱら朝鮮人が日常生活で使う堅紙を作るのに用いられる。その名声は国境を越えてひろまり、それは日本の良質紙とまったく同じだ。(上巻, p. 29)

朝鮮人の民族性は、ちょうどその国土が日本と中国との間にあるように、日本人と中国人との中間にある。この二つの特性をあわせもっているところから、朝鮮人は合理的かつ理想主義的ということになる。(上巻, p. 50)

そのころから今まで、朝鮮は中国思想の奴隷となってきた。模倣が朝鮮の最高の野心となり、この狭い地平を越えるいっさいの展望を失ってしまった。表面にははっきり出ないが、朝鮮民族は高度の知的可能性の持主であるけれども、抑圧と教育のため、形のうえでは現在のようななさけない状態になっている。朝鮮民族をこの環境から脱出させ、自由奔放に発展させるチャンスを与えてやれば、極東民族の中でも出色の頭のいい民族になるはずだ。(上巻, p. 53)

私は、しぶしぶ冷たい素ぶりに出るといったが、朝鮮人はケチといわれるのを死ぬほど恐れる。彼は嘘つきとか道楽者とかいわれても、さっぱり気にしない。しかしケチといわれると、それはまさしく急所に命中する。親戚を丁寧にもてなすのは特別の義務となっていて、この風習がはびこっているのが、朝鮮にとっての最大の問題の一つなのである。(上巻, p. 59)

さらにもう一つ、朝鮮人の特性は、その誇りたかさだ。朝鮮人ほど、外観をととのえるのに夢中になる民族はない。(上巻, p. 60)

誠意という点からいうなら、朝鮮人の場合は、ともかくそれほど高くはない東洋全体の最良の水準に位置する。(上巻, p. 62)

もっと狭い意味での個人道徳についていうならば、朝鮮人はだらしがない。朝鮮語には「家庭[ホーム]」に相当する言葉がなく、この言葉に含まれる意味は、朝鮮人はあずかり知らないも同然だ。(上巻, p. 63)

朝鮮人は、本当に怒ると正気を失うといえるかもしれない。自分の生命などどうなってもいいといった状態になり、牙のある動物になってしまう。口のまわりにあぶくがたまり、いよいよ獣めいた顔つきになる。私の印象では、飲酒が節制されれば、喧嘩の数は相当に減るだろう、と思う。朝鮮人は、酒を飲むと、ゴール人ふうというよりはゲール人ふうになる。遺憾なことだが、この怒りの衝動に我を忘れるといった悪癖は、男性だけの独占ではない。それに捉われた朝鮮の女は、ギリシャ神話の三女神を打って一丸としたような、すさまじい凶暴さを発揮する。女は立ちあがってひどい大声でわめくので、しまいには喉から声が出なくなり、つぎには猛烈に嘔吐する。神経錯乱に陥るこうした女たちを見るだびに、私は、どうして脳卒中で倒れずに済んだのかと不思議に思う。どうも朝鮮人は、幼少のときから自分の気分を制御する術を学ぶことがないらしい。子どもも親を見ならって、自分の気に入らないことがあると、まるで気が狂ったように大あばれして、結局、我意を通すか、それとも長くかかって鎮静にもどるか、そのいずれかに落ちつく。(上巻, p. 66)

朝鮮には極東全域が無視できそうにない、はっきりした理性と感情のうえでの特性がある。だからして、もし日本が自分勝手な政策を強行して朝鮮民族をふみにじることにでもなれば、日本は第一級の国際的な誤謬をおかした責めを負うことにもなりかねないであろう。(上巻, p. 68)

この朝鮮にどんなに長く住んでいる者でも、住民が公正な裁判を受けられるといういささかの望みもなしに生きていかねばならぬみじめな状態で案外平気であるわけが、どうしても納得いかないだろう。文明国ならただちに民衆の反乱を呼び起すに相違ないような不正かつ野蛮な事件を見聞しないで済む日は、無いに等しい。民衆がよくもこれを辛抱しているものだ。(上巻, p. 85)

階層感情があまりにも強すぎて、結局朝鮮式アルファベットは、紳士の沽券にかかわるということで、もっぱら女・子どもの専用になってしまった。これが国民大衆に恐るべき害悪を与え、国王の善意は無に帰した。同じころ、国王は金属活字の鋳造を命じた。これは移動可能な金属活字の世界最初の発明であり、ヨーロッパの金属活字使用に先だつこと五十年である。(上巻, p. 128)

だが、日清戦争の戦場となった朝鮮の当面の状況の中から、独立国をつくりあげるという特殊な政治能力を日本がもっているかどうかを証明するのは、これからである。ところがまさにこの大切な一点では日本の弱さが暴露された。すなわち、日本のとったやり方は、日本が情勢を正しく把握していないことを証明したばかりか、直面する新たな奇妙な条件に適応する能力を欠いていることをも立証したのである。王妃を惨殺したり、朝鮮の民心をことさらに遠ざけたり、果ては国王を圧迫してロシアの保護を求めるよう仕向けたこと、これらはみな、複雑に入り組んだ政治問題を巧妙に解決するに必要な建設能力が日本人に欠けていることを示す証拠であった。(上巻, p. 169)

たとえロシアが日本を駆逐したとしても、朝鮮人民の日露両国への心底からの憎しみは変わりない。しかも、朝鮮がどちらか一国の牙にかけられたとき、その対立国に泣きつけば必ず助けてもらえると信じていた。問題をもっと広い観点からとらえ、個人的利益を離れて全体としての立場から朝鮮をどう救うかと考える朝鮮人は、皆無に近かった。(上巻, p. 265)

日本人は朝鮮人をまるで捕獲自由の鳥獣のように見くだしているし、他方朝鮮人としては、受けた損害を償ってくれるための裁きの場をもたないから、あえて日本人の仕打ちに報復しようとするものもいない。(上巻, pp. 274-275)

⇒英語


G・W・ギルモア『ソウル風物誌』
G. W. 길모어 지음, 신복룡 역주, 서울풍물지, 집문당, 1999.

 G・W・ギルモア (George William Gilmore, 1857~?) は米国の神学者で、プリンストン大学を卒業しニューヨークのユニオン神学校で神学を学んだ。1886年7月、ギルモアは妻を伴い、ハルバート (Homer B. Hulbert) やバンカー (Dalzell A. Bunker) とともにソウルの育英公院の教師に赴任した。しかし学生たちの向学心のなさに失望し、1889年に帰国した。本書 (Korea from its Capital: with a Chapter on Mission) は、1892年に米国で出版された。日本や中国と比較しての記述が多く、朝鮮人の体格の良さや女性の地位に関するステレオタイプに疑問を呈する等、興味深い点が多い。

사람들은 게으르고 무심해 보인다. 마을은 비위생적이고, 집들도 마음을 끌지 못한다. 관광객들의 기억 속에 피상적으로나마 남을 수 있는 것이 있다면 그저 오래 머물렀던 기억 밖에는 없다. (p. 20)
人々は怠け者で、放心しているように見える。村は非衛生的で、家々も興味を引かない。観光客の記憶に皮相的にでも残るものがあるとしたら、ただ長居をしたという記憶の他にはない。

한 사람이 상당한 양의 돈을 저축해 놓고 있다는 사실이 알려지게 되면 관리들은 차용을 요구할 것이다. 그것이 거절되면 그 사람은 몇 가지 조작된 죄목으로 투옥될 것이다. 그 죄인 아닌 죄인은, 그 요구들을 충족시키거나, 완고하게 버림으로써 그 관리들에게 그들 자신의 안전을 우려케 하도록 만들거나, 그의 몇몇 친인척들이 요구액을 지불하거나, 또는 어떠한 타협안이 나올 때까지 매일 아침 체찍질을 당할 것이다. (p. 28)
ある人が相当な量の金を貯蓄しているという事実が知られれば、官吏たちは借用を要求するだろう。万一それが拒絶されれば、その人は何種類かのでっち上げられた罪状で投獄されるだろう。その罪人ならぬ罪人は、その要求を充足するか、頑固に切り捨てることでその官吏たちに自分の安全を憂慮させるか、自分の親戚たちが要求額を支払うか、あるいは何らかの妥協案を出すまで、毎朝鞭打たれるだろう。

고유 언어와 함께 통신문이나 공식 문서 등등의 매개체로서 한자가 통용된다는 사실을 우리는 알고 있다. 고유 언어로 글을 쓰지 않는 것은 아니지만 고급 문학에는 고유 언어를 쓰지 않고 값싼 소설류에만 쓴다. 거의 모든 철학, 종교 및 윤리에 관한 글은 한문으로 쓴다. 이와 같은 사실은 중국 문화와 문자가 한반도를 장악하고 있음을 보여 준다. 중국의 공자(孔子)나 맹자(孟子)의 고전(古典)이 이곳에서 성전(聖典)으로 통하며 학자로 자처하는 사람들은 반드시 한자를 쉽게 읽고 바르게 쓸 줄 알아야 한다. 이것이 출세의 방편이다. 그렇지 못하면 벼슬을 할 수가 없다. 1/3이상, 또는 1/2의 조선 남자들이 양쪽 문자에 능통한데 그 이유는 출세에 있다. (p. 53)
固有言語とともに、通信文や公式文書等々の媒体として漢字が通用するという事実を、われわれは知っている。固有言語で文を書かないわけではないが、高級文学では固有言語を使わず、安価な小説類でのみ用いる。ほとんどすべての哲学・宗教・倫理に関する文は、漢字で書く。このような事実は、中国の文化と文字が朝鮮半島を掌握していることを示している。中国の孔子や孟子の古典が、ここでは聖典として通用しており、学者を自認する人は必ず漢字をたやすく読めて速く書けなければならない。それが出世の方便で、さもないと官職につけない。朝鮮人男子の1/3以上、もしくは1/2が両方の文字に堪能だが、その理由は出世のためである。

한반도를 방문하고 온 사람들조차도 이 나라 국민들의 체격에 관한 잘못된 인상을 가지고 있는 것이 사실이다. 여행객들이나 신문사 특파원들은 조선 사람들의 키가 마치 평균인보다 훨씬 더 큰 것처럼 말하거나 기술하곤 했는데, 여기에는 두 가지 해석이 가능하다. 첫째, 일본이나 중국을 방문하거나, 거기에서 살았던 사람들은 그 사람들의 자그마한 키에 익숙해 있다가 비교적 더 큰 조선 사람들 사이에 있을 때는 자연히 조선 사람들이 확대되어 보이기 때문이다. 둘째는 조선 사람들의 복장 때문이다. (p. 61)
朝鮮半島にやって来た人さえ、この国の国民の体格に関する誤った印象を持っているのが事実である。旅行者や新聞社の特派員らは、朝鮮人の背がまるで平均よりずっと高いかのように述べたり記述したりするが、これには二種類の解釈が可能である。第一は、日本や中国を訪問したりそこに住んでいた人が、そこの国民の背の低さを見慣れた後で、それに比べて大きい朝鮮人の間にいるときには、自然に朝鮮人が拡大されて見えることである。第二は、朝鮮人の服装のせいである。

조선 사람들의 체격은 일반적으로 튼튼하고 잘 발육되었으며 강한 민족이라는 인상을 풍기다. 그러나 관찰자들은 조선 사람들이 그 풍기는 외모처럼 강하지 않다는 것을 알고는 놀라기도 한다. (p. 62)
朝鮮人の体格は、一般的にがっちりとよく発育しており、強い民族だという印象を与える。しかし観察者たちは、朝鮮人が見かけのように強くないことを知って驚くことになる。

일본을 여행할 때면 사람들 속에서 어떤 활기참을 느끼게 된다. 일본 여자들의 눈에는 거의 항상 즐거운 쾌활함이 있고 유쾌한 생기가 감돈다. 그리고 이들의 눈은 미소로 답례하도록 유혹한다. 그들의 인생은 놀이나 소풍처럼 보인다. 그러나 조선 여인들에게서는 이러한 활기참과 쾌활함, 그리고 생기 같은 것이 부족하다. 이들의 인생은 심각하고 진지하다. 그러므로 우울함이 조선 여인들의 특징적인 모습이다. (p. 64)
日本を旅行すれば、人々の間にある種の活気が感じられる。日本女性の目には、ほとんど常に楽しげな快活さがあり、愉快な生気を発している。そして彼女らの目は、微笑に応えるよう誘惑する。彼女らの人生は、遊びや遠足のように見える。ところが朝鮮女性には、このような活気や快活さ、そして生気のようなものが不足している。彼女らの人生は深刻で真摯だ。したがって憂鬱さが、朝鮮女性の特徴的な姿である。

한편으로는 조선 사람들은 일본인들보다 더 변덕스럽지 않다. 1890년 봄처럼 지금도 일본인들은 아주 아무 것도 아닌 이유로 저항할 의사가 없는 외국인을 떼를 지어 습격하기도 한다. 그러나 조선에 오래 살아 본 사람들은 이 나라가 일본인의 변덕스러움보다는 중국인의 꾸준함에 더 가깝고, 국민들을 더 높은 수준의 생활로 끌고 갈 수 있는 훌륭한 감각의 저류가 있다고 생각한다. (p. 69)
一方では、朝鮮人は日本人ほど気まぐれではない。1890年春のように、現在も日本人はまったくどうということのない理由で抵抗の意思がない外国人を、群れをなして襲撃したりする。しかし朝鮮に長く住んでみた人々は、この国が日本人の気まぐれさよりは中国人の沈着さにより近く、国民をより高い水準の生活に導き得る立派な感覚の底流があると考えている。

조선 사람들의 또 다른 특징은 조국에 대한 사랑이다. 그들의 열성적인 애국심은 스위스에 못지않다. (p. 72)
朝鮮人のまた別の特徴は、祖国に対する愛である。かれらの熱誠的な愛国心は、スイス人に劣らない。

조선 사람들은 청결의 문제에서는 많은 비난을 받을 것이다. 동양에서는 경구(警句)를 배운다. 외국인들은 조선 사람들을 빗대어 재담하기를 좋아한다. 그래서 한 영국인은 조선에서는 가장 깨끗하다는 사람이 그가 본 가장 더러운 사람이었다는 말을 들은 적이 있다. 그가 뜻하고자 한 것은 조선 사람들이 지구상에서 가장 더러운 사람들이라는 것이다. (p. 74)
朝鮮人は、清潔さの問題では多くの非難を浴びるだろう。東洋では警句を学ぶ。外国人たちは、朝鮮人をさかなにジョークを言うことを好む。ある英国人は、朝鮮では最も清潔だという人物が、彼がこれまでに見た中で最も汚い人物だったと言ったことがある。彼が意味するところは、朝鮮人が地球上で最も汚い人々だということだ。

조선 사람들은 가정적이며 일반적으로 순수하다. 순수함이라는 면에서 본다면 그들은 이웃인 일본인보다 훨씬 더 높다. (p. 85)
朝鮮人たちは家庭的で、一般的に純粋である。純粋さという面で見れば、彼らは隣人である日本人よりずっと高い。

그러나 그렇다고 해서 조선의 아녀자들이 생활 면에서 아무런 영향력도 없다는 뜻으로 받아들여서는 안 된다. 왕비는 왕과 마찬가지로 매우 강력한 영향력을 행사하고 있고, 매우 많은 것이 왕비의 뜻에 따라 행해진다고 하는 것은 널리 알려진 사실이다. (p. 85)
しかしだからと言って朝鮮の婦女子が、生活面でなんら影響力がないと受け取ってはならない。王妃は王と同様にきわめて強力な影響力を行使しており、実に多くのことが王妃の意に沿って行われているということは、広く知られた事実である。

조선에서 의심할 여지없이 국가 발전의 장애물이 되고 있는 전통이 있는데 그것은 다름 아닌 양방(両班)들이다. 비록 그들의 재산이 자신의 삶을 영위할 수 없을지라도 그들은 생계를 위하여 육체적인 일이나 생산 활동을 하지 말아야 한다. 양반은 굶거나 구걸할지라도 일하지 않는다. 친척의 도움을 받거나 아내가 생계를 꾸려 나가는 한이 있더라도 양반은 절대로 그의 손에 흙을 묻히지 않는다. (p. 88)
朝鮮で疑う余地もなく国家の発展を妨げている伝統があるが、それは他でもない両班たちである。たとえ自分の財産で暮らしを建てて行けなくても、彼らは生計のために肉体労働や生産活動をすることはない。両班は飢えても物乞いをしても、働くことはない。親戚の援助を受けたり妻が生計を建てる場合でも、両班は絶対にその手で土を触ることはない。

앞 장에서는 조선 사람들의 두드러진 특징으로서 근엄성을 지니고 있는 반면, 결코 즐거움을 누리는 것을 싫어하지는 않는다는 것을 나타내 주는 사항들을 충분히 설명했다. 그들은 정신면에서 일본인들처럼 경박하지는 않지만 그렇다고 해서 중국인들처럼 둔감하지도 않다. (p. 121)
前の章では朝鮮人の際立った特徴として、謹厳さを保持する反面、決して楽しみを避けるわけではないことを示す事項を十分に説明した。彼らは精神面で日本人ほど軽薄ではないが、だからと言って中国人ほど鈍感でもない。

조선 사람들의 지적 능력은 우수하다. 그러나 우리는 단순히 기억력만을 기르는 학습을 경계하지 않으면 안 된다는 사실을 깨달았다. 그런 식의 학습은 단지 문장에 의존해서 차후에 사용 가능하도록 하는 저장 작업에 불과하다. 그럼에도 불구하고 우리는 그들이 훌륭한 논리학자이고 총명한 수학자이며 재능에 따라서는 전도가 유망한 철학자임을 알았다. (p. 176)
朝鮮人の知的能力は優秀である。しかしわれわれは、単純に記憶力を養うだけの学習を警戒せねばならないという事実を悟った。そうした学習はひたすら文章に依存し、後に引用できるようにする貯蔵作業に過ぎない。それにもかかわらずわれわれは、彼らが立派な論理学者で、聡明な数学者であり、才能によっては前途有望な哲学者であることを知った。

사관생도단은 기상 점호 나팔 소리를 듣고도 일어나지 않았다. 병사들은 어떤 군사 훈련도 거의 받지 않았다. 일사분란함과 시간 엄수 따위는 전혀 볼 수도 없었다. 군인들은 단지 밥을 위해 복무했으며 군인 정신이 없었다. 교관들은 환대와 높은 대우를 받는 반면 장교들의 태만과 무관심 그리고 불신 때문에 군사 장비를 효과적으로 사용하지 못했다. (p. 181)
士官候補生たちは、起床点呼ラッパの音を聞いても起きて来なかった。兵士たちは、どんな軍事訓練もほとんど受けなかった。一糸不乱さや時間厳守などというものは、全く見られなかった。軍人たちは単に飯のために服務し、軍人精神がなかった。教官たちは歓待と高い待遇を受けた反面、将校たちの怠慢と無関心、そして不信のため軍事装備を効果的に使えなかった。

조선은 독립국인가 아니면 중국의 속국인가? 이에 대한 결론은 쉽게 내려지지 않는다. (p. 191)
朝鮮は独立国なのか、それとも中国の属国なのか? これに対する結論は、簡単には下せない。

공식적으로 본다면 한일 관계는 가장 우수하다. 조선의 서민과 일본의 상인들 사이에는 때때로 심리적인 마찰이 있는데 이는 일본인들이 강경하게 흥정으로 몰아가고 터무니없는 요구를 하기 때문이다. 그러나 일반적으로 일본인들 입장에서는 선의의 바람이었으며, 일본 정부는 조선의 번영을 강력히 소망하고 있다. (p. 200)
公式的に見ると、日朝関係は最も優秀である。朝鮮の庶民と日本の商人の間で、ときに心理的な摩擦があるが、これは日本人が無理やり取引に持ち込んで途方もない要求をするためである。しかし一般的に、日本人の立場は善意で貫かれており、日本政府は朝鮮の繁栄を強く願っている。

조선의 종들은 매우 배우고 싶어하지만 그들을 훈련시키는 방식에는 많은 참을성이 요구되는 괴로움이 있다. 애당초부터 조선인들에게는 목욕할 필요성이 없는 것 같다. 집안 살림에 절대적으로 필요한 청결함을 이들에게 유지하도록 하기 위해서는 꾸준한 주의가 필요하다. (p. 208)
朝鮮の使用人たちは勉強熱心だが、彼らを訓練するには大変な我慢強さが要求される苦しさがある。まず朝鮮人たちは、風呂に入る必要性を感じないらしい。家庭内の暮らしで絶対に必要な清潔さを彼らに維持させるには、絶え間ない注意が必要である。

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リリアス・H・アンダーウッド『まげの国の一五年』
Lillias H. Underwood, Fifteen Years among the Top-Knots or Life in Korea, Kessinger, 2007.

 リリアス・H・アンダーウッド (Lillias Horton Underwood, 1851~1921) は米国の医師・医療宣教師で、米国長老教会から朝鮮に派遣された。当時未婚だったリリアス・ホートンは1888年3月に済物浦から上陸し、ソウルの長老教会医療宣教師ヘロン (John W. Heron, 1856~1890) 宅に寄宿した。7月に宮廷に呼ばれ、高宗と閔妃に謁見した。1889年3月にリリアスはホレス・G・アンダーウッド (Horace G. Underwood, 1859-1916) と結婚し、新婚旅行代わりに北部へ伝道旅行に出た。その年11月から翌年5月まで、夫妻は日本に滞在した。秋に長男 (Horace Horton Underwood, 1890~1951) が生まれ、一家で一時帰国した。1893年夏にリリアスと長男は朝鮮に戻り、閔妃に招かれて頻繁に宮廷を訪れた。1896年と1900年に、アンダーウッド一家は黄海道を中心に伝道旅行をした。1901年に一家は米国に帰国した。
 本書は米国伝道協会から1904年に出版された。キッシンジャー社の復刻版はかなり不鮮明で、変な書き込みもあり、もう少しましな原本がなかったのかと思わせる。

The common people are very poor and their homes seem to an American wretchedly poor and comfortless, and yet, compared with the most destitute of London or New York, there are few who go cold or hungry in Seoul. (p. 4)
ソウルの庶民は貧しく、家はアメリカ人にはどうしようもなく貧しく不快に見える。しかしロンドンやニューヨークの最下層に比べ、寒さや飢餓に苦しむ者は少ない。

She possessed mental qualities of a high order, as I soon learned, and although, like all Asiatics, her learning consisted chiefly in the Chinese classics, she possessed a very intelligent idea of the great nations of the world and their governments, for she asked many questions, and remembered what she heard. She was a subtle and able diplomatist and usually outwitted her keenest opponents; she was, moreover, a sovereign of broad and progressive policy, patriotic, and devoted to the best interests of her country and sought the good of the people to much larger extent than would be expected of an Oriental queen. In addition, she possessed a warm heart, a tender love for little children, a delicacy and consideration in her relations, at least with us missionaries, which would have done honor to any European lady of high rank. The queen, though a Korean who had never seen the society of a foreign court, was a perfect lady. (p. 24)
すぐに私は、王妃が高い知性を備えていることを悟った。すべてのアジア人と同じく、王妃の教養は主に中国の古典から成っていたが、世界の強国とその政府に対するきわめて知的な観念を持っており、多くの質問をして聞いたことを記憶した。王妃は明敏で有能な外交官で、最も老獪な政敵をも翻弄した。さらに王妃は広汎で進歩的な政策を採る君主で、愛国者で、東洋の王妃に期待されるよりはるかに自国とその人民の幸福に関心を抱いていた。それに加えて王妃は暖かい心を持ち、子どもたちを優しく愛し、少なくとも私たち宣教師との関係では細やかな配慮を示し、その点ではヨーロッパの身分の高い淑女にも劣らなかった。外国の宮廷社会を一度も見たことがない朝鮮人であるにもかかわらず、王妃は完璧な淑女だった。

The Korean inn is second only in filth, closeness, bad odors and discomfort to those in the interior of China. There is usually only one room for women, which has from one to four or five paper-covered doors or windows - they are nearly always the same size and bear the same name - opening in the kitchen, the court and the sarang. This room is often not more than eight by ten or twelve feet large, and very low. The paper which covers the door is commonly blackened with dirt, so that few indeed are the rays of light which manage to struggle in a disheartened way into these gloomy little apartments. (p. 39)
朝鮮の宿屋は不潔さ、狭さ、悪臭と不快さにおいて、中国内陸部の宿屋に次ぐものである。女性用の部屋は通常ひとつしかなく、紙を張った扉か窓がひとつから四〜五ヶ所ある。それらはほとんど常に同じ大きさで同じ名称で呼ばれ、厨房・中庭・書斎に通じている。この部屋は8×10または12フィートを超えることは少なく、床は低い。扉を覆う紙は一様に汚れで黒ずんでおり、光線がほとんど差し込まないため、部屋は陰鬱な感じがする。

The Koreans do not bear malice, nor are they very revengeful or cruel without great provocation. (p. 49)
朝鮮人に悪意はなく、極度に徴発しない限り執念深くも冷酷でもない。

As we drifted down the Amno those lovely spring days, with China lying on one side of us and Korea on the other, the contrast was wonderfully marked, almost as much, indeed, as if the two nations had been separated by oceans rather than a river. This difference too was almost as marked in the physical features of the country as in national customs. On the Korean shore the trees were mostly of pine; on the China side, of oaks and other deciduous varieties. The Korean peasants’ huts were of mud, straw thatched; the Chinese houses of brick or stone, roofed with tile. Koreans dressed in white were plowing with oxen; Chinese farmers in blue were plowing with horses. Rhododendrons gave a lovely roseate tinge to the rocks and hills on either side. It was easy for the passing traveler to see which country bore the greater appearance of prosperity and thrift. (p. 81)
その美しい春の日々、一方に中国、もう一方に朝鮮を見ながら鴨緑江を舟で下って行くと、両国は川よりは大海で隔てられているかのように際立った対照をなしていた。慣習の違いもそうだが、物理的な違いも同じくらい際立っていた。朝鮮側の木はほとんど松だが、中国側は樫と様々な落葉樹が茂っていた。朝鮮の小農の小屋は泥造りの藁葺きだが、中国人の家は煉瓦造りか石造りで瓦葺きだった。朝鮮人は白衣を着て牛で耕し、中国人は青衣を着て馬で耕していた。ツツジが両岸の岩に美しいバラ色の色合いを添えていた。通りすがりの旅人にとって、どちらの国がより富裕で倹約が行き届いているか、見分けるのは簡単だった。

Like those of their class in all countries, they are the most pitiable and hopeless of women, but unlike those who have thrown themselves away, they deserve small blame mixed with the compassion one feels for them, for these poor girls have been sold by their parents into their awful lives, and were given no choice of their destiny. Many a poor little Korean child is sold into slavery for a few bags of rice, to be trained as a dancing girl, used as a common drudge, or married to a man she has never seen, while she is hardly larger than our little ones playing with their dolls in the nursery. (pp. 93-94)
同じ階級に属す者たちと同様、彼女たちも最も哀れで絶望的な女性だが、自分から身を持ち崩す者とは違い、同情にこそ値するが非難すべきところはほとんどない。このかわいそうな少女たちは、恐ろしい生活苦から両親によって売られた身で、自身の運命に選択の余地がなかったのである。たくさんのかわいそうな朝鮮人の子どもが、米国の少女が子ども部屋でお人形ごっこをしている年頃に、数袋の米と引き換えに奴隷に売られ、妓生として仕込まれたり、ふつうの下女として使われたり、見たこともない男と結婚させられたりする。

Now, when Koreans attend a feast, they expect to finish an incredible amount of food on the spot (nor is it altogether unusual, in addition, to carry away as much in their sleeves and hands as strength will permit). Sometimes they fast for several days previous in order to do full justice to the entertainment, and generally, I believe, quantity is considered of far more import than quality. (p. 96)
ところで朝鮮人は宴会に招かれると、その場で信じられないくらいの量を平らげることを期待する(さらに袖に入れて持ち運べるだけの量を持ち帰ることも、ふつうに行なわれる)。時々彼らは宴会前の数日間絶食し、できるだけ詰め込む準備をする。一般に、食べ物の質より量の方がはるかに重視されている。

Next day, a wiser and a thinner man, he sadly told Mr. Underwood that he now understood why Japanese prospered, while Koreans grew poor. "Koreans," said he, "earn a hundred cash a day and eat a thousand cash worth, while Japanese, on the contrary, earn a thousand cash a day and eat a hundred cash worth." Never were truer words spoken, with regard to the Japanese at least. If these people have a virtue, which their worst enemies cannot gainsay, it is their industry and thrift. (p. 96)
翌日、やせ衰え賢くなった彼は、なぜ日本人が金持ちになって朝鮮人が貧乏になったかわかったとアンダーウッド氏に悲しげに告げた。「朝鮮人は日に百銭を稼いで千銭分食べるが、日本人は逆に千銭稼いで百銭分しか食べない」と。少なくとも日本人に関する限り、これ以上に正しい言葉はないだろう。最悪の敵でさえ否定できない日本人の美点があるとすれば、それは彼らの勤勉と倹約だろう。

Another similar instance was that of one of the Koreans who went with us to Chemulpo and Fusan, who saw the two-story houses, the ships in the harbor and various wonders of civilization, and exclaimed, “Poor Korea, poor Korea;” but when he heard a foreign band play at the Japanese consulate, remarked with delight, "At least there is one thing in which Japan cannot rival or compare with us, our music!" (pp. 118-119)
似たような例で、私たちと一緒に済物浦と釜山へ行ったある朝鮮人が、二階建ての家や停泊中の船や様々な文明の驚異を見て、「かわいそうな朝鮮、かわいそうな朝鮮」と叫んでいたが、日本領事館で外国の楽団が演奏するのを聞いて大喜びで言った。「日本がわれわれに匹敵できないものが、少なくともひとつある。われわれの音楽だ!」

Just when everything seemed hopelessly blocked, the epidemic of Asiatic cholera broke out. Why Koreans do not have this every summer raging through the whole country is one of the unsolved problems. All sewage runs into filthy, narrow ditches, which are frequently stopped up with refuse, so as to overflow into the streets, green slimy pools of water lie undisturbed in courtyards and along the side of the road, wells are polluted with drainage from soiled apparel washed close by, quantities of decaying vegetable matter are thrown out and left to rot on the thoroughfares and under the windows of the houses. (pp. 133-134)
あらゆることが絶望的に思えたその夜、アジア・コレラが発生した。なぜこの疫病が毎年夏に朝鮮全域に蔓延しないのか、謎のひとつである。すべての下水は汚くて狭い溝に流されるが、それはしょっちゅう詰まってあふれ出し、緑色の泥水が道路から中庭まで流れ込んで来る。井戸はすぐそばで洗濯される衣類の汚れで汚染され、大量の腐りかけの野菜くずが道路と窓の下に投げ捨てられ、腐るにまかせられる。

There were only a few beginnings of work in Hai Ju at that time. It is the capital of the province and rather a demoralized town, even in a heathen country, full of hangers-on of government officials, people accustomed to getting a living out of the people through fraud, bribery, oppression, "squeezing," and all sorts of political dirty work and corruption; evil men and still more evil women spreading the cancerous disease through the little town, until every one appears to be steeped in “the lust of the flesh, the lust of the eyes, and the pride of life,” and worshipers of the god of this world. (pp. 188-189)
そのころ海州での伝道は、始まったばかりだった。ここは黄海道の道都だが、未開な国の中でも陰鬱な都市だった。官僚のたかりが甚だしく、人々は欺瞞、買収、圧制、「搾取」といったあらゆる政治的腐敗と堕落の中で生き抜くことに慣れていた。邪悪な男と、さらに邪悪な女がこの小都市に癌のような病根を蔓延させ、誰もが「肉の欲望、目の欲望、そして人生の矜持」にとらわれ、現世の神の崇拝者に見えた。

The people at Sorai are extremely generous and were constantly bringing us presents of chickens, eggs, persimmons, etc. We were much embarrassed by all this bounty, for we knew the people were poor and that such gifts cost a large sacrifice on their part. (p. 191)
松川の人々はきわめて親切で、いつも私たちに鶏や卵や柿のような贈り物を持って来てくれた。人々は貧しく、こうした贈り物が大きな犠牲の上に成り立っていることを知っていたため、私たちはひどく困惑した。


ゲ・デ・チャガイ編『朝鮮旅行記』
ゲ・デ・チャガイ編(井上絋一訳)『朝鮮旅行記』東洋文庫547, 平凡社, 1992.

 ガリーナ・ダヴィドヴナ・チャガイ (Гадина Давыдовна Тяґай) はソ連科学アカデミー東洋学研究所の研究員で、1880〜90年代に朝鮮を旅行したロシア人による旅行記を編纂し、1958年に出版した。序文はマルクス=レーニン主義史観に染まっており、封建貴族および帝国主義勢力(特に日本)による人民の収奪と、それに対する抵抗運動に関心が集中している。

 パーヴェル・ミハイロヴィチ・ヂェロトケヴィチは1885(高宗23)年12月に済物浦(仁川)に上陸し、しばらくソウルに滞在した後、1886(高宗24)年1月14日にソウル発、金剛山、元山、咸興を経て咸鏡道を北上し、会寧を経て2月28日慶興着、豆満江を渡ってロシア領に入った。

[ソウルの]町を縦横に走るその他の街路は、約三サージェン幅の狭くて曲がりくねった道で、とりわけ朝夕は悪臭が充満する。つまり、食事の支度が開始されるその時刻には、街路に面して設けられ、しかも屋根の上ではなくて家屋の裾に開口する煙道のおかげで、煮炊きの煙が一斉に街路へ向けて放出されるからである。また汚物がそのまま街路へ投棄される夏には、なお一層ひどい事態になるそうである。 (p. 24)

昼食後、[吉州の]町を見物した。家々はいかにもみすぼらしくて、今にも崩れそうである。次席の家は他のものよりも幾分大きいが、本質的には他の家々とほとんど変わらない。一様に汚くて、みすぼらしいのだ。 (p. 52)

慶興はすっかり荒れ果てた古い町で、汚いことこの上ない。要塞の壁があちこちに残骸を晒している。国有の建造物もやはり一方に傾いでいて、町の移転はもはや時間の問題である。 (p. 63)

 アムール州総督官房付・公爵ダデシュカリアニは、1885年に朝鮮を視察したと思われるが、よくわからない。

性格的には、朝鮮人は自らが模倣に努める中国人よりも、日本人によく似ている。朝鮮人は機知に富み、活発で、感受性も好奇心も旺盛である。 (p. 74)

朝鮮人に固有といえる特徴は、温和、善良、従順である。一、一〇〇万の大衆は、軍隊の関与や戦闘がなくとも、ただ官吏の命令一下で統治されている。私は当局者のいないような極めて草深い村々も訪ねたが、秩序が乱れた所の記憶はない。 (p. 75)

朝鮮の男が家庭生活でルーズであるのと同じ程度に、朝鮮の女は貞節で道徳的である。彼女は買収することも誘惑することも叶わぬ。弱みの露見した女は気の毒である。夫もしくは親族は大手を振って彼女の首を切り落とすこともあり得るからである。朝鮮女性の道徳の厳しさは、朝鮮在住の外国人が全て、妻を日本から呼び寄せるのを余儀なくされるという事態まで招来している。 (p. 77)

但し首都だけは本物の都市、しかも戦略的見地からも商業面でも有利な場所に立地する美しい町、という印象を与える。ヨーロッパ人はこれをソウルと呼ぶが、これは朝鮮語で首都を意味する。本当の名前は漢陽(漢江河畔の要塞)である。 (p. 91)

朝鮮人労働者がいずれかの官吏のためでなく自分自身の利益のために働く港湾ならびに海外では、彼は勤勉と精励の模範である。彼は全ての国民にも増して、特に中国人と比べても優秀とされている。祖国における彼の生活条件を変え給え、そうすれば彼は疲れを知らぬ勤労者となるであろう。 (p. 97)

 参謀本部のウェーベリ中佐は1889年5月18日に慶興を出発し、元山、平壌を経て7月9日にソウルに到着した。

平壌の町は、高い壁に取巻かれた多角形の内部に密集する一二、〇〇〇世帯の朝鮮人からなる。壁の総延長は一〇露里を下らない。軒を接した家屋が混沌たる無秩序の中でひしめきあう。家屋の間は狭い路地が迷路のように走っていて、人間の大群が、蟻塚における蟻のようにうごめいている。特に驚かされるのは、通りの真中で仔豚どもと戯れる子供達で、通行人の足元を這い回っている。 (p. 136)

朝鮮政府は現有の軍事力を全く頼りにすることができない。周知の通り、武器を担える朝鮮男子は全員が兵役義務を負っている。しかしながら、多少とも資格を有する指揮官や組織編制を完璧に欠如するため、これを戦闘力と見なす訳にはゆかないのだ。その意味では、中国軍よりも始末におえない。 (p. 160)

 参謀本部のアリフタン中佐は、1895年12月から翌1896年1月にかけて咸鏡道を元山まで旅行したらしい。

朝鮮には大きな町の数が概して多くない。これらの町は人口を吸引するほどの魅力を有さず、教育および品物や改良された生産に関する知識がそこから国中へ広まってゆき、また商業がそこへ集中するといったような中枢の機能を果たしてはいない。朝鮮人は、まず何といっても農民である。 (p. 285)

しかしそこでは、朝鮮における貧窮の程度と朝鮮人の勤勉さが自分の目で確かめられる。畑仕事をするためではなくて、単にそこへ辿りつくのすら覚束ないような急斜面が耕されているのだ。われわれは一度ならず、驚きの余り立ち止まって朝鮮人の耕作の実態を眺めるとともに、その仕上げの見事さにも感嘆の声を上げるのだった。 (p. 291)

朝鮮における識字率はかなり高い。どんな小村にも学校があり、読み書きのできない朝鮮人には滅多にお目にかかれない。 (p. 301)

学校の与える知識は、極端に乏しい。現行の高官任命方式、また高等教育機関、ならびに自らの識見を伝達することの可能な有識者の欠如は、学術の開花に好影響を及ぼすことがありえず、実際のところ、朝鮮には学術が皆無である。 (p. 303)

朝鮮では親族関係がとても強靭で、非常に遠い親縁関係にある家族ですら、全てが常に支援と庇護を互いに供与しあっている。相互扶助は、未払いの負債や税金を杜撰な債務者の近親者に請求するところまで立ちいたり、あたかも相互保障にすら変貌してしまったかの観があるが、朝鮮ではかかる手順が頗る自然で、正義にも適うものと認められている。 (p. 309)

朝鮮の女が置かれている無権利状態のおかげで、朝鮮には、わが国で理解されるような家庭生活が存在しない。彼女は夫の女友達ではなくて、むしろ女奴隷ないし彼の召使いである。またそれ故に、夫婦は一つ屋根の下に暮らしていても、常に別個の時を過ごすのだ。 (p. 309)

朝鮮の貴族は、総じて非常に有力で誇り高いが、自らの権利保全にひどくご執心で、その権利を尊重しないような動きが僅かでも見られると、途方もない残忍さでそれを鎮圧するのだ。朝鮮貴族の人口は今や膨大な数に達している。この状況は、国にとって大きな災厄となっている。 (pp. 312-313)


A・H・サヴェジランダー『朝鮮−静かなる朝の国』
Savage-Landor, Henry A., Corea or Cho-sen - The Land of the Morning Calm, IndyPublish.com, 2007.

 A・H・サヴェジランダー (Arnold Henry Savage-Landor, 1865~1924) はイタリア生れの画家・旅行作家で、世界中を旅して多くの絵画と旅行記を残した。1889年から日本に滞在していたサヴェジランダーは、1890年12月25日に長崎を出航し、28日に済物浦(仁川)に上陸した。1891年1月2日にソウルに入り、数ヶ月間滞在して高宗にも謁見した。サヴェジランダーはおおむね朝鮮人に好意的で、特にその知力を高く評価しているが、社会的腐敗や停滞や怠惰さや不潔さといった定番の批判を欠かしているわけではない。
 ページ番号はIndyPublish.comの復刻版による。グーテンベルグ・プロジェクトのテキストではサヴェジランダー自身の手になるイラストが見られないので注文したが、本書には図版は再録されておらず、買ってバカを見た。

Cho-sen, then, is now the only name by which the country is called by the natives themselves, for the name of Korai has been entirely abandoned by the modern Coreans. The meaning of the word is very poetic, viz., "The Land of the Morning Calm," and is one well adapted to the present Coreans, since, indeed, they seem to have entirely lost the vigour and strength of their predecessors, the Koraians. (p. 18)
現在朝鮮人が自国を呼ぶときの名は朝鮮で、高麗という国名は完全に捨て去られている。朝鮮という語の意味はきわめて詩的で、「静かなる朝の国」というものである。これは現在の朝鮮人にふさわしい。彼らは祖先である高麗人の活気と力強さを、すっかり失ってしまったようだから。

The inhabitants of the land of Cho-sen, from my experience, are not much given to washing and still less to bathing. I have seen them wash their hands fairly often, and the face occasionally; only the very select people of Corea wash it daily. One would think that, with such a very scanty and irregular use of water for the purpose of cleanliness, they should look extremely dirty; but not a bit. It was always to me irritating to the last degree to see how clean those dirty people looked! (p. 32)
朝鮮の住民は、私の経験から言うと、あまり洗濯をせず、入浴はなおさらしない。彼らが手を洗うところは何度も見たし、顔を洗うところは時々見た。毎日顔を洗う人は、ごく少数である。清潔を保つための水の使用がそれほど少なく不規則だとしたら、朝鮮人はとてつもなく不潔に見えるだろうと思われるかもしれないが、そうでもない。私がいつもこの上なくイライラしたのは、この不潔な人々が、見た目は清潔に見えるということだった!

There are numberless stories of a tragic character in Corean literature, of lovely maidens that have committed suicide, or have been murdered by their husbands, brothers, or fathers, only for having been seen by men, and even to the present day a husband would be considered quite justified in the eye of the law if he were to kill his wife for the great sin of having spoken to another man but himself! A widow of the upper class is not allowed to re-marry, and if she claims any pretence of having loved her late husband, she ought to try to follow him to the other world at the earliest convenience by committing the jamun, a simple performance by which the devoted wife is only expected to cut her throat or rip her body open with a sharp sword. (p. 38)
朝鮮文学には、男に見られたというだけで自殺したり夫や兄弟に殺された愛すべき女性たちの悲劇が数え切れないほどある。今日でさえ、夫が自分以外の男に話しかけられたという大罪のため妻を殺すことは、法に照らしてきわめて正当なことと考えられている! 上流階級の寡婦は再婚を許されない。亡父に愛されていたと言い張るのであれば、できるだけ早い機会に「自刎」し、夫に従ってあの世に旅立たねばならない。貞淑な妻には、咽喉を掻き切るか、鋭利な刀の上に身を投げることが期待される。

This music is to the average European ear more than diabolical, this being to a large extent due to the differences in the tones, semi-tones, and intervals of the scale, but personally, having got accustomed to their tunes, I rather like its weirdness and originality. (p. 43)
朝鮮音楽は、平均的なヨーロッパ人には不愉快以外の何ものでもない。これは全音と半音、および音階の飛びの違いによるところが大きいが、慣れた後ではその風変わりなところと独創的なところが個人的に気に入った。

Whence it would appear that the people of Cho-sen carry their hospitality to an extreme degree, and in fact it is so even with foreigners, for when visiting the houses of the poorest people I have always been offered food or drink, which you are invariably asked to share with them. (p. 45)
朝鮮人のホスピタリティは極端なほどで、実際それは外国人に対してもそうである。最も貧しい人々の家を訪れた時でさえ、私は食べ物と飲み物を出され、一緒に食事して行くように誘われた。

The attractions of Seoul, as a city, are few. Beyond the poverty of the buildings and the filth of the streets, I do not know of much else of any great interest to the casual globe-trotter, who, it must be said, very seldom thinks it advisable to venture as far as that. No, there is nothing beautiful to be seen in Seoul. If, however, you are on the look-out for quaintness and originality, no town will interest you more. (p. 52)
都市としてのソウルの名所は少ない。建物の貧弱さと街路の不潔さ以外に、世界中を歩き回る旅行者の関心を引きそうなものは思いつかない。そうした旅行者は、わざわざソウルまで来るまでもないだろう。ソウルには美しいものは何もない。しかしあなたが何か風変わりで独創的なものを探しているなら、ソウルほどおもしろい都市はないだろう。

He proved to me that Coreans are at bottom very good-hearted and unselfish, and always ready to help relations and neighbours, always ready to be kind even at their own discomfort. This good-nature, however, lacks in form from our point of view, though the substance is always the same, and probably more so than with us. They are a much simpler people, and hypocrisy among them has not yet reached our civilised stage. (p. 54)
彼の言葉は、朝鮮人が心の奥底ではきわめて善良かつ利他的で、常に友人や隣人を助ける用意があり、自身の不便さを甘受してでも他人を助けることを証明してくれた。しかしこうした善良さは、本質は同じで、おそらくわれわれのそれを上回るとしても、われわれのような形態を取らない。彼らはずっと単純な人々で、彼らの偽善は文明化の段階に達していない。

Life, according to them, would not be worth living if it were not for eating. Brought up under a regime of this kind, it is not astonishing that their capacity for food is really amazing. I have seen a Corean devour a luncheon of a size that would satisfy three average Europeans, and yet after that, when I was anxiously expecting to see him burst, fall upon a large dish of dried persimmons, the heaviest and most indigestible things in existence. (p. 83)
朝鮮人によると、人生は食べるためのものでなければ生きる価値がない。このような体制下で育てば、彼らの食べる能力が驚くべきものになるのは当然である。私はある朝鮮人が、平均的なヨーロッパ人三人を満足させるほどの昼食を貪り食うのをみた。その後、破裂しないか心配して見ていたとき、彼はこの世で最も消化しにくい食物である干柿の大皿に飛びついたのである。

Naturally a life of this sort makes the upper classes soft, and somewhat effeminate. They are much given to sensual pleasures, and many a man of Cho-sen is reduced to a perfect wreck when he ought to be in his prime. The habit of drinking more than is proper is really a national institution, and what with over feeding, drunkenness, and other vices it is not astounding that the upper ten do not show to great advantage. (p. 85)
当然ながらこうした生活は、上流階級を柔和でいささか脆弱にする。朝鮮人の男は色欲に耽り、最盛期であるべき年齢には完全に廃人になってしまう。適量以上に飲むことは全国的に制度化されており、大食・飲酒その他の悪い習慣のために上位10パーセントが貴族らしく見えないのも無理はない。

The streets of the town could not be more tortuous and irregular. With the exception of the main thoroughfares, most of the streets are hardly wide enough to let four people walk abreast. The drainage is carried away in uncovered channels alongside the house, in the street itself; and, the windows being directly over these drains, the good people of Cho-sen, when inside their homes, cannot breathe without inhaling the fumes exhaled from the fetid matter stagnant underneath. (pp. 85-86)
ソウルの街路は、これ以上ないほど不規則に曲がりくねっている。主な大通りを除いて、ほとんどの通りは四人が横に並んで歩けないほど狭い。下水は家の横の街路の中の、蓋をしていない溝に流される。下水溝のすぐ上に窓があるため、朝鮮の善男善女は家の中では、すぐ下で腐って行く悪臭を放つゴミの臭いを嗅がずには呼吸できない。

Everybody, I suppose, is aware of the terrible system of "squeezing"; that is to say, the extortion of money from any one who may possess it. It is really painful all over Corea to see the careworn, sad expression on everybody's face; you see the natives lying about idle and pensive, doubtful as to what their fate will be to-morrow, all anxious for a reform in the mode of government, yet all too lazy to attempt to better their position, and this has gone on for generations! (p. 93)
誰もが「搾取」すなわち人の金を横取りする恐ろしいシステムに気づいていると思われる。朝鮮全域にわたって人々の顔にやつれと悲しみの表情が見られるのは、実に痛ましいことである。人々はけだるく憂鬱そうに寝そべり、明日は自分たちの運命がどうなるのかわからずにいる。誰もが政府の形態がどう改革されるのか気にしているが、誰もがあまりに怠惰で、自己の地位向上を試みさえしない。これが何世代にもわたって続いて来たのである!

One of the quaintest and nicest customs in Corea is the respect shown by the young for the old; what better, then, can the reigning people do but set the good example themselves? Every year the King and Queen entertain in the royal palace an old man and an old woman of over the age of ninety, and no matter from what class these aged specimens are drawn, they are always looked after and cared for under their own supervision and made happy in every way. (p. 111)
朝鮮で最も典雅で好ましい慣習は、敬老の精神である。この点に関し、支配層が模範を示すことほど素晴らしいことはない。毎年王と王妃は、宮殿で90歳以上の男女をもてなす。それらの老人の出身階層に関係なく、彼らは常に自分たちの指図どおりに世話を受け、最高のもてなしを受ける。

The life of royalty and of the nobility is, taken all round, a very lazy one. Exercise is considered a degenerate habit, fit only for people who have to earn a living; and, as for manual labour, a Corean nobleman would much prefer suicide to anything so disgraceful. (p. 114)
王族と貴族の生活は、全体として言えば、きわめて怠惰なものである。運動は下品な習慣で、自分で稼ぐ人々がするものとみなされる。朝鮮の貴族は、肉体労働のようなみっともないことをするよりは、自殺した方がましだと考える。

I was told that the examinations of the present day are a mere sham, and that it is not by knowledge or high achievements, in literary or other matters, that the much-coveted degree is now obtained, but by the simpler system of bribery. Men of real genius are, I was informed further, sometimes sent back in despair year after year, while pigheaded sons of nobles and wealthy people generally pass with honours, and are never or very seldom plucked. (p. 121)
私が聞いたところでは、今日の科挙は単なるいんちきで、人々が熱望する学位が得られるのは、文学その他の知識や高い達成度ではなく、単純な買収のシステムによってである。さらに聞いたところでは、ときに本当に才能がある男子が毎年のように失望を重ねる一方、貴族や金持ちの愚鈍な息子は好成績で合格し、落とされることはほとんど、あるいはまったくないと言う。

The generality of people in Corea are not religious, though in former days, especially in the Korai-an era, between the tenth and fourteenth centuries, they seem to have been ardent Buddhists. (p. 124)
かつて朝鮮人は、特に10〜14世紀の高麗時代には熱心な仏教徒だったらしいが、現在は一般に宗教的ではない。

Notwithstanding the fact that it is not uncommon to hear Coreans being classified among barbarians, I must confess that, taking a liberal view of their constitution, they always struck me as being extremely intelligent and quick at acquiring knowledge. To learn a foreign language seems to them quite an easy task, and whenever they take an interest in the subject of their studies they show a great deal of perseverance and good-will. They possess a wonderfully sensible reasoning faculty, coupled with an amazing quickness of perception; a fact which one hardly expects, judging by their looks; for, at first sight, they rather impress one as being sleepy, and dull of comprehension. The Corean is also gifted with a very good memory, and with a certain amount of artistic power. (p. 169)
朝鮮人はしばしば野蛮人に分類されるが、その性質をよく見ればきわめて知的であり、知識を獲得する速さには驚嘆せざるを得ない。彼らにとって外国語の習得は朝飯前のようで、研究対象に興味を抱いたときは、常に大いなる粘り強さと熱意を見せる。彼らは素晴らしく敏感な推理力と、驚くほど素早い理解力を有しており、これはその外見からは想像もつかないことである。一見すると彼らは、眠たげで頭が鈍いような印象を与えるからである。朝鮮人はまた、良い記憶力とかなりの芸術的パワーにも恵まれている。

Poor Corea! A sad day has come for you! You, who were so attractive, because so quaint and so retiring, will nevermore see that calm which has ever been the yearning of your patriot sons! Many evils are now before you, but, of all the great calamities that might befall you, I can conceive of none greater than an attempt to convert you into a civilised nation! (p. 174)
かわいそうな朝鮮! お前に悲しみの日が訪れた! あまりにも古風で内気なため魅力に溢れたお前は、愛国的な息子たちが切望したあの静けさを二度と手に入れることはない! お前の行く手には多くのわざわいが待ち受けているが、お前に降りかかる多くの不幸の中でも、お前を文明国にしようとする試みほどの災難はないだろう!


ジョージ・N・カーゾン『極東の諸問題』
George N. Curzon, Problems of the Far East: Japan-Korea-China, Kessinger, 2007.

 ジョージ・N・カーゾン (George Nathaniel Curzon, 1859~1925) は英国の政治家で、インド総督、外務大臣を歴任した。ケドルトンの男爵家に生まれ、オックスフォード大で学び、1886年に国会議員になった。1891〜92年インド政務次官、1895〜98年外務政務次官をつとめた。この間世界旅行をしており、1892年には日本・朝鮮・中国を訪れた。
 本書は1894年に出版され、序論の第1章に続き、第2〜3章が日本、第4〜7章が朝鮮、第8〜11章が中国に充てられている。本書は国際政治の研究書だが、朝鮮と中国に対しては見聞記めいた記述がある。

Indeed, if the men of the two nations are unlike--the tall, robust, good-looking, idle Korean, and the diminutive, ugly, nimble, indomitable Japanese--still more so are the women--the hard-visaged, strong-limbed, masterful housewife of Korea, and the shuffling, knock-kneed, laughing, bewitching Japanese damsel. (pp. 95-96)
確かに両国の男子は異なっている。朝鮮人男子が長身で頑丈で見ばえが良いが怠惰なのに対し、日本人男子は矮小で不細工だが敏捷で不屈である。ところが女子の違いはさらに際立っている。朝鮮人女子が仏頂面でがっしりして有能な主婦なのに対し、日本人女子はだらしなくガニ股だがよく笑い男をたぶらかす。

As individuals they possess many attractive characteristics -- the upper classes being polite, cultivated, friendly to foreigners, and priding themselves on correct deportment ; while the lower orders are good-tempered, though very excitable, cheerful, and talkative. (pp. 98-99)
個々人は多くの魅力的な性格を有している。上流階級は外国人に対し鄭重で文明的で友好的であり、礼儀正しさを誇っている。下流階級は興奮しやすいが温和で、活気がありお喋り好きである。

The politician in Söul remains civil, but is wholly deaf to persuasion. The coolie works one day and dawdles away his wages upon the two next. (p. 99)
ソウルの政治家は文明的だが、説得に全く耳を貸さない。苦力は一日働くと次の二日間で稼ぎを使い果たしてしまう。

Each street or alley, moreover, has an open gutter running upon either side, and containing all the refuse of human and animal life. Söul is consequently a noisome and malodorous place ; and exploration among its labyrinthine alleys is a disagreeable to the nostril as it is bewildering to the eye. (p. 128)
また通りや小路には一方に蓋がない溝が掘ってあり、人間と動物のあらゆる排泄物が流れている。ソウルはつまるところ不快で悪臭に満ちた場所である。迷路のような小路を探検することは、鼻にも目にも良くない。

For hose drawbacks, however, Söul does its best to atone by two properties of unquestioned and more creditable individuality --viz. a singular and picturesque street-life, and Court which is alternately dignified and comic, and sometimes both at the same time. (p. 130)
そうした欠点にもかかわらず、ソウルには間違いなくそれを補って余りある個性的な点がふたつある。すなわち独特で絵画的な路上生活と、それとは逆に厳粛で戯画的な宮廷で、時には両方が同時に見られる。

These girls, who are called ‘Ki-saing,’ correspond to the Geisha of Japan. Companies of them exist in every town of any size, combining prostitution with the pursuit of their profession. Many of them are far from bad-looking, the type of feature being much more regular, even if wanting in the feminine attractiveness of the Japanese girl. (p. 133)
「妓生」と呼ばれるこれらの少女は、日本の芸者に相当する。どんな小さな町にも妓生の一団がいて、本来の仕事に加えて売春も行っている。彼女らの多くはかなかなかの美形だが、顔立ちが特徴に乏しく、日本の少女のような女性的な魅力を欠いている。

His Majesty is a man of much amiability of character ; and many instances are related of his personal charm of disposition and bearing. If he does not share the bigotry, neither does he inherit the determination of his father ; and placed as he has been difficult circumstances, for which, by training and tradition, he was equally unprepared, there are many excuses to be made alike for volatility of purpose and irresolution of action. He takes a keen zest in any new discovery or invention, but is not free from the superstitions of his race and country. (p. 156)
国王陛下は温厚な性格で、その性格と態度の個人的魅力はよく知られている。国王には父親のような頑迷さは見られない代わりに、その決断力も受け継いでいない。これまで訓練不足と伝統のため、難局に陥った際の国王は常に準備ができておらず、目的の動揺と行為の不徹底が何度も見られた。国王は新しい発見や発明に強い興味を持っているが、自身の人種と国の迷信から自由でない。

The most powerful influence in the Palace, and indeed in the country, is reported to be that of the Queen, the members of whose family, known as Min, have been introduced into nearly every position of importance or emolument about the Court and in the Government, and have thereby acquired an ascendency which is the cause of great political jealousy and intrigue. (p. 156)
宮廷内、そして国中で最大の権力者は女王であると言われている。閔氏として知られる彼女の親族は、宮廷と政府の重要であるかもしくは俸給が高い地位のほとんどを占め、日の出の勢いを誇っているため、激しい政治的嫉妬と陰謀のもとになっている。


イザベラ・バード『朝鮮紀行』
Isabella L. Bird, Korea and Her Neighbours: A Narrative of Travel, with an Account of the Recent Vicissitudes and Present Position of the Country, 1898.
イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行−英国婦人の見た李朝末期』講談社学術文庫1340, 1998.

 イザベラ・バード (Isabella L. Bird, aka Mrs. J. F. Bishop, 1831~1904) は英国の旅行作家で、1894年から1897年にかけて四度朝鮮を旅行した。イザベラ・バードの日朝中では平凡社版の朴尚得訳を示したので、ここでは講談社版の時岡敬子訳に依拠する。

知能面では、朝鮮人はスコットランドで「呑みこみが早い」といわれる天分に文字どおり恵まれている。その理解の早さと明敏さは外国人教師の進んで認めるところで、外国語をたちまち習得してしまい、清国人や日本人より流暢に、またずっと優秀なアクセントで話す。彼らには東洋の悪癖である猜疑心、狡猾さ、不誠実さがあり、男どうしの信頼はない。女は蟄居しており、きわめて劣った地位にある。(p. 24)

政治、法律、教育、礼儀、社交、道徳における清の影響は大きい。これらすべての面において朝鮮はその強力な隣国の貧弱な反映にすぎない。(p. 34)

朝鮮人はわたしの目には新奇に映った。清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりもずっとみばがよくて、体格は日本人よりはるかにりっぱである。(p. 40)

城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから! 都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定二五万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どおしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。 (pp. 58-59)

外国人にとってはまったく安全である。舟を引いて急流をのぼっていく往々にして退屈な作業のあいだ、ロープをたぐるのはミラー氏と従僕たちにまかせて、わたしはいつもひとりで二、三時間土手を歩いたが、人里離れたところに出ても、あるいは村のなかを通っても、出会って不愉快なものといえば、おもに女性の示す不作法な好奇心くらいのものだった。(pp. 112-113)

清風にかぎらずどこにおいても、一般庶民は、好奇心はすさまじいものの粗野ではなく、わたしたちが食事をするのを眺めるときでもたいがいある程度はなれて見物していた。しかし庁舎に必ずたむろしている知識層から、わたしたちは育ちの悪い無作法な行為を何度も受けた。わたしの居室のカーテンを勝手に開けて中をのぞき、やめていただけないかと慇懃に頼んでいる船頭に威嚇する者までいた。 (p. 128)

非特権下級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目のもとに無慈悲な取り立てを行う両班から苛酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。 (p. 138)

女たちと子供はわたしのベッドに群がるように腰掛、わたしの服を調べ、ヘヤピンを抜いて髪をほどき、室内ばきを脱がせ、袖をひじまでまくり、腕をつねって自分たちと同じ血肉でできているかどうかを試した。そしてわずかながらのわたしの持ち物をつぶさに調べ、帽子と手袋を試着し、ウォンに三度追い返されたあともさらに大人数で押しかけてきた。(p. 167)

長安寺から元山にいたる陸路の旅のあいだには、漢江流域を旅したときよりも朝鮮人の農耕法を見る機会に恵まれた。日本人のこまかなところにも目のいく几帳面さや清国人の手のこんだ倹約ぶりにくらべると、朝鮮の農業はある程度むだが多く、しまりがない。(p. 211)

朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた。ところが沿海州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。みずからを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行のよさは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる。 (p. 307)

出発前、ほこりとごみと汚物にまみれた宿の庭にすわり、うつろに口をぽかんと開けた、無表情で汚くてどこをとっても貧しい人々に囲まれると、わたしには羽根つきの羽根のように列強にもてあそばれる朝鮮が、なんの望みもなんの救いもない哀れで痛ましい存在に思われ、ロシアの保護下に入らないかぎり一二〇〇万とも一四〇〇万ともいわれる朝鮮国民にはなんの前途もないという気がした。 (p. 425)

小金を貯めていると告げ口されようものなら、官僚がそれを貸せと言ってくる。貸せばたいがい元金も利子も返済されず、貸すのを断れば罪をでっちあげられて投獄され、本人あるいは身内が要求金額を用意しないかぎり笞で打たれる。(p. 433)

少女向けのこの国独自の学校はなく、上流階級の女性は朝鮮固有の文字が読めるものの、読み書きのできる朝鮮女性は一〇〇〇人にひとりと推定されている。 (p. 439)

狭量、マンネリズム、慢心、尊大、手仕事を蔑視する誤ったプライド、寛容な公共心や社会的信頼を破壊する自己中心の個人主義、二〇〇〇年前からの慣習と伝統に隷属した思考と行動、視野の狭い知識、浅薄な倫理観、女性蔑視といったものは朝鮮の教育制度の産物に思われる。(pp. 489-490)

まとめとして、わたしはあえてつぎのように提言する。朝鮮の国民の環境は日本もしくはロシアの援助を得て漸進的に改善されるはずである。 (pp. 497-498)

朝鮮の重大な宿痾は、何千人もの五体満足な人間が自分たちより暮らし向きのいい親戚や友人にのうのうとたかっている、つまり「人の親切につけこんでいる」その体質にある。そうすることをなんら恥とはとらえず、それを非難する世論もない。ささやかながらもある程度の収入のある男は、多数いる自分の親族と妻の親族、自分の友人、自分の親族の友人を扶養しなければならない。それもあって人々はわれがちに官職に就こうとし、職位は商品として売買される。 (pp. 556-557)

わたしは一八九七年の明らかに時代退行的な動きがあったにもかかわらず、朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない。ただし、それには左に掲げたふたつの条件が不可欠である。
 T 朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない。
 U 国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない。 (p. 563)

⇒英語


W・F・サンズ『極東回想記』
W. F. 샌즈 지음, 신복룡 역주, 조선비망록, 집문당, 1999.

 W・F・サンズ (William Franklin Sands, 1874~1946) は米国の外交官で、ジョージタウン大学を卒業後、東京での勤務を経て1898年にソウルの米国公使館に赴任した。1900年に公使館を辞任し、高宗の顧問として朝鮮の改革に努力したがこれといった成果を出せず、日露戦争の開戦とともに帰国した。その後は外交官以外に実業家としても活躍し、1927年以後はジョージタウン大学で外交を教えた。
 本書
(Undiplomatic Memories: The Far East 1896-1904) は1930年にニューヨークで出版され、序論と日本に関する1章を除いては、すべて朝鮮に関する記述である。専門の国際政治以外の分野では変な内容も多く、たとえば誰に聞いたのか「秀吉の朝鮮出兵はキリスト教徒の軍隊(小西隊?)を明鮮軍と加藤清正の仏教徒軍で挟み撃ちにして殲滅するための陰謀だった」と主張している。また李容翊を鉱夫としたり、厳妃を米国人女性エミリー・ブラウンと同一視している。朝鮮人と朝鮮社会に対する評価はふつうで、朝鮮人の従順さ・温和さを強調する点と、女性の美貌に対するきびしい評価を除いて特異な点はない。

왜 이 나라가 이토록 황폐한가에 대한 이곳 사람들의 설명은 참으로 한국적이다. 말에 의하면 가능한 한 외국 사람들을 낙담시키기 연안은 황폐하게 되었으며 내륙에는 호랑이를 몰아내기 위해 숲을 불살랐고 언덕은 그 정상에 있는 토양이 씻겨 내려오도록 있었다. (pp. 41-42)
なぜこの国がこれほど荒廃しているのかに対するここの人々の説明は、実に朝鮮的である。彼らの言葉によると、できるだけ外国人を落胆させるために沿岸部は荒廃させ、内陸では虎を追い出すために森を焼き払い、山はその頂上にある土壌が流れて来るように崩したのだそうだ。

그러나 조선 여성은 너무도 엄격히 보호되기 때문에 그들이 어느 침입자들로부터 당했을 때라 하더라도, 그들은 고발하기보다는 숨기는 것이 안전하다고 높은 계급에 있는 여성들이 집 밖으로 벗어났을 때는 장옷으로 얼굴을 가린다. 그럼에도 불구하고 그들은 집안에서는 있다. (p. 46)
しかし朝鮮女性はあまりに厳格に保護されているため、侵入者から暴行を受けたときでも、告発するよりはこれを隠したほうが安全だと考える。少し高い階級にいる女性たちが家の外に出るときは、長衣で顔を覆う。それにもかかわらず、彼女たちは家庭内では力がある。

조선 사람들은 이재 막 정착한 마을의 유목 민족과 같은 인상을 준다. 도시에는 유적이 있고 규모도 크고 매우 번성했을 것 같은 왕궁이 있으며, 외딴 곳에는 브리타니(Britany)나 영국에서 볼 수 있는 고인돌과 돌기둥이 있다. 서방세계의 모습이나 발명품을 바라보는 그들의 자세는 아브라함(Abraham) 시대의 이스라엘 사람들이 철도와 전차 그리고 복잡한 유럽의 정치를 보는 것처럼 당혹스러워한다. 어떤 것도 이해할 수 없고, 또 이해하기를 원하지도 않는다. 그들은 「은둔의 왕국」으로 있기를 원한다. (pp. 47-48)
朝鮮人は、村に定着したばかりの遊牧民族のような印象を与える。都市には遺跡があり、規模も大きくきわめて栄えていたらしい王宮があり、人里離れたところにはイングランドやウェールズで見られるドルメンや石柱がある。西方世界の様子や発明品を眺める彼らの様子は、アブラハム時代のイスラエル人が鉄道や電車や複雑なヨーロッパの装置を見るように当惑している。何も理解できず、また理解しようともしない。彼らは「隠者の王国」であり続けることを願っている。

집은 옹기종기 붙어 있고 개천과 골목을 따라 모여 있다. 홍수의 계절을 제외하고 푸른 찌꺼기 투성이의 바닥을 따라 스며 나와 장티푸스, 천연두, 콜레라를 옮긴다. 이런 우물에서 여자들은 즐겁게 빨래를 하고 날마다 음식을 씻는다. 배수로 표면에서 악취가 나는 이 얕은 우물보다 더 나쁜 곳은 없다. 지저분한 하층민의 집에는 토속 반찬인 김치의 시큼한 냄새가 난다. (p. 50)
家はぎっしりと固まって建っており、小川と路地に沿って集まっている。洪水の季節を除いて、青いごみだらけの下水は床に沿って染み出し、腸チフス・天然痘・コレラを伝染させる。こんな井戸で女たちは楽しげに洗濯をし、毎日食物を洗う。排水路の表面から悪臭がするこの浅い井戸よりひどいものはない。汚い下層民の家からは、土俗の食品であるキムチのすっぱい臭いがする。

조선은 이러한 과도기적 외교의 가장 좋은 사례이다. 왜냐하면 조선은 내부적으로 취약한 뿐만 아니라 열강들 사이에 확실한 공식적 보호국이나 우호국이 없다는 면에서도 극동 국가들 사이에서 가장 약한 나라였기 때문이다. (p. 65)
朝鮮はこのような過渡期的外交の最も良い事例である。なぜなら朝鮮は、内部的に脆弱であるのみならず、列強間に確実な公式的保護国や友好国がないという点で、極東国家の中で最も弱い国だったからだ。

나는 친절하고 상냥한 황제를 좋아했다. 그는 분명히 감정을 조절하지 못했고 점점 변해 가는 문화 속에서 자신의 위치가 복잡해지는 것에 적용하려 했으나 그러기에는 적절치 않은 인물이었다. 그는 자신이 이해하지 못하고 통제할 수 없으며 뿌리치려고 노력했던 세력들에 의해 어린 시절부터 고통을 받고 있었다. (pp. 70-71)
私は親切で心優しい皇帝が好きだった。彼は明らかに感情を調節できず、次第に変わり行く文化の中で自分の位置が複雑になって行くことに適応しようとしたが、それには向かない人物だった。彼は自分が理解も統制もできず厭わしく思った勢力によって、幼い頃から苦痛を被って来た。

민비는 모든 면에서 특별한 여자였다. 그는 똑똑했고 교육도 받았는데 조선의 여성들이 좀처럼 교육을 받을 수 없었다는 점을 고려한다면 그것은 아주 드문 일이었다. 그는 어린 남편의 관심사도 아주 잘 알고 있었다. 개성이 장하고 굽히지 않는 의지의 소유자이며 나이와 성별을 초월한 정치가였던 그는 대원군에게는 애당초부터 무서운 적수가 되었다. (p. 75)
閔妃はあらゆる面で特別な女性だった。彼女は怜悧で教育もあったが、朝鮮女性がめったに教育を受けられなかった点を考慮すれば、これはきわめて稀なことだった。彼女は若い夫の関心事もよく心得ていた。際立った個性と強靭な意志の持ち主で、年齢と性別を超越した政治家だった彼女は、大院君には最初から恐ろしい強敵になった。

조선의 하인들인 중국인이나 일본인처럼 유능하지도 않고 사회적 신분도 같지 않았다. 수위(守衛), 가마꾼, 경비원은 끝없이 갈등의 원인이 되었다. 여자 하인을 두고 있는 일본과는 달리 조선에서는 보통 남자 하인을 두고 있었고 모든 계층이 만성적인 도박꾼들이었다. 일본인들과 중국인들은 가끔 자기들끼리 모여 기분 전환을 하는 일이 있지만 말썽을 일으키는 경우란 거의 없었다. 그러나 조선의 하인들은 그들끼리만 남겨 둘 수가 없었다. 그들은 지배를 받아야만 했다. (pp. 111-112)
朝鮮人の下人は、中国人や日本人のように有能でもなく、社会的身分も同じでなかった。守衛、駕籠かき、警備員は絶え間なく悶着の原因になった。女中を置いている日本とは異なり、朝鮮ではふつう下男しかおらず、あらゆる階層が慢性的な賭博依存症だった。日本人や中国人はときどき自分たちだけで集まって気分転換をすることはあっても、面倒を起こすことはほとんどなかった。しかし朝鮮人の下人たちは彼らどうしで放っておくことができなかった。彼らは支配を受けなければならなかった。

과거 제도는 가장 낮은 수준으로 전락했다. 공직에 임용되면 어느 정도의 귀족 서열이 부여되며 따라서 「독직」(瀆職)과 사회적인 이유를 위해 과거에 응시했다. 문과에 합격하려면 문중의 배경이 좋거나 엄청난 뇌물을 바쳐야 했다. (p. 128)
科挙制度は最も低い水準まで転落した。公職に任命されれば、ある程度の貴族の序列が付与されるため、「涜職」と社会的な理由のために科挙に応試した。文科に合格するためには、家柄がよいか、おびただしい賄賂を使わねばならなかった。

조선의 양반들은 음주가 심하지가 않다. 신분이 낮은 사람들은 북부 유럽인이나 아메리카인들의 정도는 아니지만 술을 많이 마신다. 그들은 그렇게 많이 술을 마시면 몸이 견디지 못한다. 그들은 모두 엄청난 애연가인데 미국인 선교사들이 그러한 버릇을 바꾸려고 무던히 노력했다. 그들은 또한 엄청난 대식가이다. (pp. 145-146)
朝鮮の両班たちは深酒をしない。身分が低い人々は、北部ヨーロッパ人やアメリカ人ほどではないが、酒を多く飲む。彼らはそのように多く酒を飲めば、体を支えていられなくなる。彼らはみなとんでもない愛煙家だが、米国人宣教師たちがそうした悪習を正そうと努力した。彼らはまたとてつもない大食漢である。

사람들은 조선 사람을 세상에서 가장 겁이 만은 사람이라고 말한다. 내가 그들을 추측컨대 모든 이들이 국내외적으로 억압받아 왔기 때문에 권위 앞에서 위축되었다는 점은 어느 면에서 수긍할 수 있다. 이를테면 그들은 더 이상 견딜 수 없을 때까지 무슨 일이 벌어지면 난폭해지는 러시아의 농부처럼 눈이 먼 듯이 모든 것을 파괴한다. (pp. 150-151)
人々は朝鮮人を、世界で最も臆病な人々だという。私が推測するところでは、彼らが国内外的に圧迫を受けて来たため、権威の前で萎縮するという点はある面で首肯できる。そうかと思えば彼らは、これ以上耐えられなくなるまで何かが起これば、ロシアの農夫のように目に入るものを片っ端から破壊する。

왜냐하면 조선의 백성들은 절망적이라만큼 학대받지 않는 한 늘 평화롭고 남을 해치지 않기 때문이다. 조선 사람들보다 더 다스리기 쉬운 백성은 없다. (p. 157)
なぜなら朝鮮の民衆は、絶望的なほどに虐待されない限り、常に平和的で他人に害を及ぼさないからだ。朝鮮人ほど統治しやすい民衆はない。

조선 사람들은 외국인을 부끄러워하고 의심하는 것으로 알려져 있다. 나는 조선 사람들이 소설 속의 아랍인처럼 믿을 만하고 친절하다는 사실을 항상 발견했다. (p. 189)
朝鮮人は外国人に慣れておらず、疑いを抱いていると知られている。私は朝鮮人が、小説の中のアラブ人のように信頼できて親切だという事実を常に見出した。

나는 지도자에 대한 조선 국민들의 엄격한 감시와 국민들에 대한 관대하며 일관된 정직한 통치가 지도자들에 의해 이루어졌더라면 조선 사람들은 훌륭한 민족으로 육성되었을 것이라고 지금도 확신하고 있다. 중국이나 일본에서 여행할 때의 위험한 느낌이 조선에는 없었다. (p. 197)
指導者に対する朝鮮国民の厳格な監視と、国民に対する寛大で一貫した正直な統治が指導者たちによって行われれば、朝鮮人は立派な民族に育成できるものと、私は今でも確信している。中国や日本を旅行する際の危険な感じは、朝鮮にはない。

조선의 연극패들은 동방 지역의 여타 국가들보다 신분이 더 낮았으며 심지어 기생들이 대감 집에나 궁중에의 출입이 허가되어 있다 할지라도 일본의 게아샤(藝子)만큼의 대우도 받지 못했다. 기생들은 얼굴이 곱지도 않았다. 나는 조선 여인의 어떤 계급에서도 미모의 여자를 본 적이 없었다. (p. 202)
朝鮮の芸能人は東洋の他の国でよりも身分が低く、妓生が権力者の家や宮中に出入りを許されるとは言っても、日本の芸者ほどの待遇を受けていなかった。妓生たちは顔もきれいではなかった。私は朝鮮女性のどの階級ででも、美貌の女性を見たことがない。

조선을 위해 조선인들이 저지른 최악의 일은 이토를 암살하고 나의 후임자인 스티븐스 (Durham W. Stevens) 를 죽인 것이다. 내가 조선의 뛰어난 인물들과 민영환과 같은 열렬한 애국자들 그리고 황제와 그의 수다스런 내시들로부터 들은 것들을 종합햐 보면, 일본 천황이 용인한 이토 경의 제안은 일본, 중국, 조선 간에 긴밀한 동맹 관계를 맺도록 하는 방향임을 보여 주었다. (p. 234)
朝鮮人が朝鮮のためにやらかした最悪のことは、伊藤博文を暗殺し、私の後任者であるスティーヴンス (Durham W. Stevens) を殺したことである。私が朝鮮の際立った人物たちと閔泳煥のような熱烈な愛国者たち、そして皇帝とそのお喋りな内待たちから聞いたことを総合すると、日本の天皇が容認した伊藤卿の提案とは、日本・中国・朝鮮間に緊密な同盟関係を結ぶ方向だったことを示していた。


アンガス・ハミルトン『朝鮮』
Angus Hamilton, Korea, New York, Charles Scribner’s Sons, 1904.

 アンガス・ハミルトン (Angus Hamilton, 1874~1913) は英国生まれのジャーナリストで、日露戦争中の1904年に朝鮮を訪れ、ソウルから金剛山、元山、江華島等に足を伸ばした。本書は、日韓合邦以前のソウルの発展を示すためによく引用される。ブルース・カミングスは、そのような発展が主に米国資本によってもたらされたことを指摘し、日本資本なら植民地化、それ以外の資本なら近代化とみなす韓国人のダブル・スタンダードを皮肉った(http://aparc.stanford.edu/publications/japanese_colonialism_in_korea_a_comparative_perspective/)。
 ソウルの発展の一方で、民衆の怠惰と無気力は、ダレやバードが記述した時代とあまり変わっていないように思われる。ハミルトンはひどく日本を嫌っていたようだが、だからといって朝鮮人が好きなわけでもない。ハミルトンが愛したのは自然だけのようで、登山中には朝鮮の風光明媚さをひどく賞賛するが、山から下りて来るととたんに機嫌が悪くなるらしい。

Old Seoul, with its festering alleys, its winter accumulations of every species of filth, its plastering mud and penetrating foulness, has almost totally vanished from within the walls of the capital. The streets are magnificent, spacious, clean, admirably made and well drained. The narrow, dirty lanes have been widened; gutters have been covered, and roadways broadened; until, with its trains, its cars, and its lights, its miles of telegraph lines, its Railway Station Hotel, brick houses and glass windows, Seoul is within measurable distance of becoming the highest, most interesting, and cleanest city in the East. (p. 33)
かつてのソウル、その膿んだ路地、冬のあらゆる汚物の堆積、泥まみれのあたりを覆いつくす不潔さは、首都の城内から消え去った。通りは堂々としており、広々として清潔で、排水溝もよく整備されている。狭くて汚い路地は拡張され、どぶは蓋をされ、車道はひろげられた。列車と自動車と電灯と数マイルにおよぶ電線、駅前のホテル、煉瓦造りの家、ガラス窓によって、ソウルは遠からず東洋で最も高級で、最も興味深く、最も清潔な都市になるだろう。

The inhabitants of the Hermit Kingdom are peculiarly proficient in the art of doing nothing gracefully. There is , therefore, infinite charm and variety in the daily life of Korea. The natives take their pleasures passively, and their constitutional incapacity makes it appear as if there were little to do but to indulge in a gentle stroll in the brilliant sunshine, or to sit cross-legged within the shade of their houses. Inaction becomes them; nothing could be more unsuited to the character of their peculiar costume than vigorous movement. (p. 41)
この隠者の王国の住民たちは、泰然として何もしないことにきわめて慣れ切っている。そのため、朝鮮の日常には無限の魅力と多様性がある。住民たちは受動的に快楽を得て、体質的な無能さゆえに、明るい日差しのなかで優雅な散歩に耽るか、家の陰にあぐらをかいて坐る以外することがないかのようである。彼らは不活発そのもので、活発な動きほどその固有の特性に似つかわしくないものはない。

Until the introduction of foreign methods of education, and the establishment of schools upon modern lines, no very promising manifestation of intellect distinguished the Koreans. Even now, a vague knowledge of the Chinese classics, which, in rare instance only can be considered a familiar acquaintanceship, sums up the acquirements of the cultured classes. The upper classes of both sexes make some pretence of understanding the literature and language of China; but it is very seldom that the middle classes are able to read more than the mixed Chinese-Korean script of the native Press - in which the grammatical construction is purely Korean. (p. 103)
外国の教育方法が導入され、近代的な学校ができるまで、朝鮮人の知力には有望な徴候が認められなかった。現在でさえ、文化的階級が持つ知識といえば中国の古典についての曖昧な知識に限られ、習得したといえる人は稀である。上流階級の男女は中国の文献と言語を理解しているふりをしているが、中流階級には、純粋に朝鮮語の文法で書かれた国内新聞の漢字・ハングルまじり文を読める人はほとんどいない。

In the comparative nakedness of the women, in the noise and violence of the shopkeepers, in the litter of the streets, there is nothing to suggest the delicate culture of Japan. The modesty, cleanliness, and politeness, so characteristic of the Japanese, and conspicuously absent in their settlements in this county. (p. 130)
女性の肌の露出、店主たちの騒音と暴行、街路の散らかり具合、そこには日本の繊細な文化を思わせるものはない。日本に特有の謙虚さ、清潔さ、礼儀正しさは、朝鮮の日本人居住区には著しく欠けている。

The poverty and squalor of these hamlets was astonishing. The people seemed without spirit, content to live an idle, slatternly existence in sleeping, yawning, and eating by turns. Despite offers of payment, it was impossible to secure their services in a day’s fishing, although they generally admitted that the boats, nets, and lines were not otherwise engaged. As the outcome of this spirit of indifference among the natives, Japanese fishermen are rapidly securing for themselves the fishing-grounds off the coast. Unless these dreary, meditative, and dirty people arouse themselves soon, the business of fishing in their own waters will have passed altogether from their hands. (p. 249)
これらの漁村の貧困ときたならしさは、驚くほどである。人々は精神がなく、寝て伸びをして食べてを繰り返す怠惰でだらしない存在でいることに満足しているように見える。金を出すと言っても、日中釣り舟を出させるのは不可能だった。もっとも彼らは、舟も網も綱も予約されているわけでないことは認めた。原住民のこのような無関心な精神の結果として、日本人漁師たちが急速に沖合いの漁場を確保しつつある。この怠惰で瞑想的で汚い人々がすぐにも立ち上がらないと、自分たちの海域における水産業は彼らの手からすり抜けて行ってしまうだろう。


F・A・マッケンジー『朝鮮の悲劇』
F・A・マッケンジー(渡部学訳注)『朝鮮の悲劇』東洋文庫222, 平凡社, 1972.

 F・A・マッケンジー (Frederick Arther McKenzie, 1869~1931) はカナダ生まれのジャーナリストで、1904年にロンドン・デイリー・メイルの特派員として朝鮮に渡り、日露戦争が勃発すると日本軍に従軍取材した。1906年にも同紙特派員として朝鮮を訪れ、日本軍に抵抗する義兵団を取材した。英国に帰ると、マッケンジーは反日親韓派の急先鋒として論陣を張り、1907年に『東洋の正体(The Unveiled East)』を、1908年に本書(The Tragedy of Korea)を出版した。日本に対してはきわめて批判的だが、朝鮮に対しては過度にロマンチックな幻想を抱いているように思われる。

ごく初期のころ朝鮮に居住していたある外国人が、私に、つぎのように語ったことがある。「私が最初朝鮮に行ったとき、私はあたかも、現世からほんとうのアリスの不思議な国に来たような錯覚を覚えた。すべてがたいへん幻想的であり、この世のどこよりもあまりに異質的であり、不条理であり、よそよそしく、そして奇妙であったので、私はしばしば、自分自身がいま目覚めているのか、それとも夢をみているのか、と自問せざるをえなかった」と。(p. 27)

繁盛して富裕になったような人は、たちまちにして守令の執心の犠牲となった。守令は、とくに秋の収穫の豊かであった農民のところへやってきて、金品の借用を申し出る。もしも、その人がこれを拒否すれば、郡守はただちに彼を投獄し、その申し出を承認するまで、半ば絶食同様にさせたうえ、日に一、二回の笞刑を加えるのであった。(p. 28)

貴族に対する収租地の特許は、民衆にとってのもう一つの重荷であった。貴族すなわち両班(ヤングバン)は、自分たちは勤労階級に依存して生活する権利がある、と考えていた。(p. 28)

上流社会の婦人たちはきびしい隔離生活を営むが、その隠蔽の厳重さは彼女らの夫に対する尊敬の念の証左とみなされている。下層階級の婦人たちは、たいていはその家族を養うために一生懸命働く。彼女らは異様な衣服をまとうが、それは乳房はあけっぴろげにしておりながら、しかもその乳房の上の方の胸部はこれを丹念に覆うているのである。たとえ、女性が男性に対して屈従的地位におかれているとはいえ、この国の道徳は全体としてよく、日本のそれと比較してたしかに、非常に良好にそれが持せられている、と言いうるであろう。(p. 31)

この国には乞食はほとんどおらず、いてもほんの僅かであった。ここでは、貧民のために苦心してつくられた貧民救済制度はその必要がない。地方の人たちは、自らの土地をもち、そこで働き、特別な窮迫時は別として、自分の家族を養うための、今後一ヵ月の生計を維持するに足るだけの、十分な収穫をその秋に得ることができた。(p. 32)

朝鮮に滞在したことのある外国人は誰でも、その最初の数週間、嫌悪感と恐怖感でいっぱいになったであろう。しかし、彼がその民衆をよりよく理解すればするほど、彼らが、親切で、正直で、ほんとうに素朴で、好学心に富み、かつそのほかにもいろいろと数多くの愛すべき、愛さるべき性質をそなえていることをただしく見てとるようになるであろう。(p. 33)

古い制度下の韓国の貨幣は、世界中の悪貨のうちでも最たるものであった。あるイギリス公使の公式報告の中での有名な嘲笑、それは、韓国の貨幣は良貨・良い偽造貨・悪い偽造貨・あまりにも粗悪なので暗い所でしか通用しないような偽造貨、の四つに分類することができる、としているが、これは必ずしもつくり話ではない。(p. 109)

私は、韓国のイタリアとも言うべきこの忠清道地方のことをいろいろと聞いていた。しかし、その美しさと繁栄はまことに百聞一見にしかずである。それは、ほこりと無感動のソウルとは驚くべきコントラストをなしている。ここでは誰もがみな働いている。(p. 179)

⇒英語


E・ワグナー『朝鮮の子どもたち』
E. 와그너 지음, 신복룡 역주, 한국의 아동 생활, 집문당, 1999.


 E・ワグナー (Ellasue Canter Wagner, 1881~1957) は米国の教育家・女性牧師で、1904年に来朝して松都(開城)に女学校を建てた。1931年に朝鮮初の女性牧師となり、ソウルで女宣教会の経営に当たったが、1940年に日本当局によって強制帰国させられた。
 ワグナーは朝鮮に関する本を数冊出したが、本書
(Children in Korea) は1911年にロンドンで出版された。申福龍は本書では Korea を大部分「韓国」と訳しているが、ここでは他と合わせるため「朝鮮」で通した。申福龍は他の訳書でも「韓国」と「朝鮮」を使い分けているが、その規則はさっぱり分からない。

일반적으로 우리가 보기에 한국인들은 다소 활력이 없거나 게을러 보이지만 그들의 천성은 친절하고 자상하고 이지적이다. 그들이 저지르는 모든 실수와 악덕은 그들이 여러 세기 동안 감수해 온 압제와 무지의 결과라는 점에는 의심할 나위도 없다. (p. 22)
一般的にわれわれが見るに、朝鮮人はやや活力に欠け怠け者に見えるが、彼らの天性は親切でやさしく理知的である。彼らがなすすべての過ちと悪習は、彼らが何世紀もの間甘受して来た圧制と無知の結果という点には疑いの余地はない。

조선의 가옥에 관한 문제 중에서 가장 특이한 것은 난방에 관한 문제인데, 그 방법이 비록 경제적이라고는 하더라도 통풍이라는 점에서 본다면 아주 비위생적이며 치명적이다. (p. 27)
朝鮮の家屋に関する問題のうち最も特異なものは暖房に関する問題だが、その方法は経済的ではあるが、通風という点から見ればきわめて非衛生的で致命的である。

한국 여성의 생활은 결코 쉽지 않다. 어릴 때부터 그들은 지적으로나 지위, 그리고 능력에 있어서 그들보다 더 사랑을 받고 자라 온 오라버니들보다 더 열등하다는 가르침을 받는다. 그러므로 그가 생활에서 편안하고 행복하고자 한다면 일찍 결혼해서 남편과 시어머니께 철저하게 복종해야만 한다. 아내와 어머니의 역할은 그들의 삶의 가장 중용한 임무이며, 시갓댁 조상을 받들어 보실 아들을 낳음으로써만 융숭한 대접을 받을 수 있다. (p. 31)
朝鮮女性の生活は、決して楽ではない。幼い頃から彼女たちは、知的にも地位や能力でも自分よりずっと愛情を受けて来た兄たちより劣等だと教え込まれる。そして彼女が楽な暮らしをして幸福になろうとすれば、早くに結婚して夫と姑に徹底して服従しなければならない。妻と母の役割は彼女たちの暮らしで最も重要な任務で、嫁ぎ先の祖先を祀り仕える息子を産むことでのみまともな待遇を受けることができる。

무지의 미신이 만연되어 있는 곳에서는 아무런 도움을 받지 못하는 어린이들의 무방비한 어깨가 항상 짓눌린다. 집을 둘러싸고 있는 매우 불결하고 비위생적인 조석들, 그리고 여러 가지 위생법과 상식을 지키지 않음으로써 모든 종류의 질병과 고통이 일어난다. (p. 45)
無知と迷信が蔓延しているところでは、誰の助けも受けられない子どもたちの無防備な肩が常に押さえつけられている。家を取り巻いているきわめて非衛生的な諸条件、そして様々な衛生法と常識を守らないことによって、あらゆる種類の疾病と苦痛が生じる。

일본인들은 천부적으로 총명하고 지능이 높기 때문에 어디에서나 주목을 받는데, 동일한 기회와 동기가 주어지면 한국의 젊은이들이 모든 면에서 일본인과 동등할 것이라는 점은 의심할 나위도 없다. (pp. 53-54)
日本人は天賦的に聡明で知能が高いためどこででも注目を受けるが、同一の機会と動機が与えられれば、朝鮮の若者たちがあらゆる面で日本人と同等であるという点は疑いの余地がない。

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