嫌韓派のための引用例


 最近、欧米から見た朝鮮欧米から見た日本の両ページが、某翻訳掲示板で韓国人をおちょくるために使われていることに気づいた。テーマ別の抜粋では技術水準を対比したものが比較的まとまっていたが、いつまでたっても間違いが修正されないのが残念である。衛生状態に関するものは日本との対比がないため、「日本も似たようなものだった」という反論を許している。そこで見本を示すために、ここでは嫌韓の立場から引用例を作ってみた。逆の立場からの引用例は、反日派のための引用例に示した。機械翻訳を想定して、旧仮名遣いは新仮名遣いに直した。ここで用いた引用の中には、上記ページに未発表のものもある。


外国人が見た日朝の技術格差


日本の技術の高さに驚く外国人


メンデス・ピント(岡村多希子訳)『東洋遍歴記』平凡社東洋文庫,1979-1980. [初出=1578年頃]
 したがって、ゼイモトが善意と友情から、また、先に述べたように、ナウタキンから受けた礼遇・恩顧の幾分かに応えるために贈ったわずか一挺の鉄砲が因で、この国は鉄砲に満ちあふれ、どんな寒村でも少なくとも百挺の鉄砲の出ないような村や部落はなく、立派な町や村では何千挺という単位で語られているのである。(2巻, pp. 173-174)

ヴァリニャーノ(松田毅一他訳)『日本巡察記』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1583年]
 日本人の家屋は、板や藁で覆われた木造で、はなはだ清潔でゆとりがあり、技術は精巧である。屋内にはどこもコルクのような畳が敷かれているので、きわめて清潔であり、調和が保たれている。(p. 6)

申維翰(姜在彦訳注)『海游録』平凡社東洋文庫,1974. [初出=1719年]
 一間の広さはみな三歩にして、その規格は一国内がみな同じく、少しの差もない。間ごとに茵席(畳)三枚を舗き、その規格もまた差がない。障子と茵席が、その一つが欠けることがあっても、他方からこれを補って、みな符合する。国中で用いられる尺度の精なることが知られる。(pp. 290-291)

金仁謙(高島淑郎訳注)『日東壮遊歌』平凡社東洋文庫,1999. [初出=1764年]
 この島の村落は極めて小さいが/館所は壮麗で/絹の幔幕をはりめぐらし/緋毛氈を敷き/寝房、渡り廊下、浴室、厠にいたるまで/すべて精巧な造りだ(p. 191)
 河の中に水車を設け/河の水を汲み上げ/その水を溝へ流し込み/城内に引き入れている/その仕組みの巧妙さ/見習って造りたいくらいだ(p. 248)

C・P・ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1778-93年]
 この国民は必要にして有益な場合、その器用さと発明心を発揮する。そして勤勉さにおいて、日本人は大半の民族の群を抜いている。彼らの鋼や金属製品は見事で、木製品はきれいで長持ちする。その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである。(pp. 222-223)
 工芸は国をあげて非常に盛んである。工芸品のいくつかは完璧なまでに仕上がっており、ヨーロッパの芸術品を凌駕することもある。ただ、一方ではヨーロッパの水準に達しないものがある。日本人は鉄や銅を使って非常に良い仕事をする。絹地や木綿地は、他のインド地域からの生産品より勝ることもあるがほぼ同程度である。漆器製品、それも特に古い物は、これまでにそれを生産した他のどの民族の品にも勝っている。(p. 287)

ゴロヴニン(井上満訳)『日本幽囚記』岩波文庫,1943. [初出=1816年]
 日本人は農業、園藝、漁業、狩獵、絹および綿布の製造、陶磁器および漆器の製作、金屬の研磨については、殆んどヨーロッパ人に劣らない。彼らは礦物の精煉もよく承知して居り、いろいろな金屬製品を非常に巧妙に作っている。指物および轆轤業は日本では完成の域に達している。その上、日本人はあらゆる家庭用品の製造が巧妙である。だから庶民にとってはこれ以上、開化の必要は少しもないのである。(下巻, p. 31)
 これについて特記すべき點は、日本の銅器が極めて精巧にできていることである。われわれは日本で使つていた薬罐の丈夫さに何度も驚かされたものである。薬罐は何ケ月も囲爐裏に掛けっぱなしになつていても、少しも痛まないのであった。(下巻, p. 128)
 鋼製品はどうかというと、日本の大小刀は、おそらくダマスク製を除いて、世界中のあらゆる同種の製品を凌駕している。それは極端な試練に堪えるものである。鋼その他あらゆる金屬の研磨にかけては、日本人は一頭地を抜いている。彼らは金屬の鏡まで作るが、それはガラスの鏡と同様に立派に反射するのである。われわれは日本の指物や大工道具をたびたび見たが、それは丈夫さから云っても、仕上げの美事さから云っても、イギリス製にほとんど劣らない。日本の鋸は非常によくて、どんな堅い材木でも非常に薄い板にひくことが出來る。(下巻, p. 149)
 日本で出來るほどの漆器類はどこに行つても出來はしない――ということはもうヨーロッパ人も知っている。(下巻, p. 150)
 日本の陶器は支那の陶器より遥かにすぐれている。ただ大變に高價で、全國の需要をみたせない位に僅かしか生産しないので、日本人は支那から澤山の陶器を輸入している。(下巻, p. 150)

ジーボルト(斎藤信訳)『江戸参府紀行』平凡社東洋文庫,1967. [初出=1897年]
 川を渡ってまもなくわれわれは府中に着き、この土地の産物である有名な木工品や編細工品を見るために、長い街道を歩いて通り過ぎた。この地方は竹で編んだたいへんよくできている籠やときには高価な木で作った種々の家具、その他の漆器・人形・石の彫刻等々で、全国的に有名である。午後にこれらの製品がたくさんわれわれのところに運ばれて来たが、実際に技巧の入念なことはどんなにほめてもよいほどである。(p. 176)

土屋喬夫・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』岩波文庫,1948. [初出=1856年]
 日本人は極めて勤勉で器用な人民であり、或る製造業について見ると、如何なる國民もそれを凌駕し得ないのである。(1巻, p. 141)
 木材及び竹材加工に於て、彼等に優る國民はない。彼等は又世界に優るものなき一つの技術を有している。それは木材製品の漆塗りの技術である。他の諸國民は多年に亙つて、この技術に於て彼らと形を比べようと試みたが成功しなかつた。(1巻, p. 143)
 彼等は磁器を製作しているのだし、また或る人の語るところによれば支那人よりももっと立派に製作することができると云う。兎に角、吾々が見た日本磁器の見本は甚だ織巧美麗である。(1巻, p. 144)
 彼等は絹をつくる。そのうちの最良品は支那の絹よりも上等である。(1巻, p. 145)
 それ故に、吾々が現代發明したステロ・タイプと色刷印刷と一般人民用と安價な書物の製作の上で、日本は吾々より數世紀も先んじているのである。(1巻, p. 162)
 實際的及び機械的技術に於いて日本人は非常な巧緻を示している。そして彼等の道具の粗末さ、機械に對する知識の不完全を考慮するとき、彼等の手工上の技術の完全なことはすばらしいもののようである。日本の手工業者は世界に於ける如何なる手工業者にも劣らず練達であって、人民の發明力をもっと自由に發達させるならば日本人は最も成功している工業國民に何時までも劣ってはいないことだろう。他の國民の物質的進歩の成果を學ぶ彼等の好奇心、それを自らの使用にあてる敏速さによって、これ等人民を他國民との交通から孤立せしめている政府の排外政策の程度が少ないならば、彼等は間もなく最も惠まれたる國々の水準にまで達するだろう。日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将來の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう。(4巻, pp. 127-128)

ハリス(坂田精一訳)『日本滞在期』岩波文庫,1953. [初出=1930年]
 私は、スチーム(蒸氣)の利用によって世界の情勢が一變したことを語った。日本は鎖國政策を抛棄せねばならなくなるだろう。日本の國民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な國家となるであろう。(下巻, p. 87)

オールコック(山口光朔訳)『大君の都』岩波文庫,1962. [初出=1863年]
 日本人は、おそらく世界中でもっとも器用な大工であり、指物師であり、桶屋である。かれらの桶・風呂・籠はすべて完全な細工の見本である。(上巻, p. 375)
 日本の紙のほとんど全部は木の樹皮からつくられ、ある品質のものはヨーロッパのどの紙よりも、とくに強さの点で、まさっている。薄い種類のものでもなかなか破れにくいし、強い品質のものはどんなに努力しても破れない。実際に、それは、われわれならば布ないし布ぎれをつかうようなハンカチその他の家庭的な用途につかわれ、リンネルや白い麻布の代わりをする。(中巻, p. 209)
 物質文明にかんしては、日本人がすべての東洋の国民の最前列に位することは否定しえない。機械設備が劣っており、機械産業や技術にかんする応用科学の知識が貧弱であることをのぞくと、ヨーロッパの国々とも肩を並べることができるといってもよかろう。(下巻, p. 149)
 すべての職人的技術においては、日本人は問題なしにひじょうな優秀さに達している。磁器・青銅製品・絹織り物・漆器・冶金一般や意匠と仕上げの点で精巧な技術をみせている製品にかけては、ヨーロッパの最高の製品に匹敵するのみならず、それぞれの分野においてわれわれが模倣したり、肩を並べることができないような品物を製造することができる、となんのためらいもなしにいえる。(下巻, p. 177)
 すなわち、かれらの文明は高度の物質文明であり、すべての産業技術は蒸気の力や機械の助けによらずに到達することができるかぎりの完成度を見せている。ほとんど無限にえられる安価な労働力と原料が、蒸気の力や機械をおぎなう多くの利点を与えているように思われる。(下巻, p. 201)

ハインリッヒ・シュリーマン(石井和子訳)『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫,1998. [初出=1869年]
 一方、金で模様を施した素晴らしい、まるでガラスのように光り輝く漆器や蒔絵の盆や壷等を商っている店はずいぶんたくさん目にした。模様の美しさといい、精緻な作風といい、セーブル焼き〔フランスの代表的な陶器〕に勝るとも劣らぬ陶器を売る店もあった。(p. 134)
 日本刀の名声は東洋全体に鳴り響いている。その堅牢さと切れ味は凄いもので、太さ二センチの鉄の棒も一打ちに断ち切ることができると、誰もが請け合ったものだ。(p. 135)
 玩具の値もたいへん安かったが、仕上げは完璧、しかも仕掛けがきわめて巧妙なので、ニュルンベルクやパリの玩具製造業者はとても太刀うちできない。(p. 137)

黄遵憲(実藤恵秀・豊田穣訳)『日本雑事詩』平凡社東洋文庫,1968. [初出=1879年]
 日本の漆器は、もっともりっぱなものだといわれている。泥金・描金・灑金で、雲烟・山水・花木・鳥獣をえがき、たくみな画家でも、とてもおよばない。また種々の色漆で描くものがあり、爛々として人の目を射、その意匠は飛動しているような気がする。螺鈿の器は、ちりばめかたが、微に入り、これを拭えば、すこしの塵痕をもとどめないようである。(p. 273)
 りたためる扇は、じつは日本人にはじまった。またの名を聚頭という。竹をけずって十三本をつくる。(p. 276)

E・S・モース(石川欣一訳)『日本その日その日』平凡社東洋文庫,1970-1971. [初出=1917年]
 近頃私は日本の家内芸術に興味を持ち出した。これは我国で樺の皮に絵をかいたり、海藻を押したり、皮細工、貝殻細工その他をしたりするような仕事と同じく、家庭で使用する物をつくることをいう。衣裳の独創的と、仕上げの手綺麗な点で、日本人は我々を徹底的に負かす。(1巻, p. 237)
 日本人の特性は、米国と欧洲とから取り入れた非常に多数の装置に見られた。ある国民が、ある装置の便利さと有効さとを直ちに識別するのみならず、その採用と製造とに取りかかる能力は、彼等が長期にわたる文明を持っていた証例である。これを行い得るのは、只文明の程度の高い人々だけで、未開人や野蛮人には不可能である。(3巻, pp. 32-33)
 日本人は発明の才を持っていないといわれるが、而も東京をあるいている中に、私は我国の工匠たちが真似てもよいと思われるような、簡単な機械的の装置を沢山見た。(3巻, p. 157)

イザベラ・バード(高梨健吉訳)『日本奥地紀行』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1880年]
 漆器や珍しい木彫りは店頭で大いに人をひきつける品物であるが、日本人が日常生活で使う実用品の方が私にはずっと興味がある。それには工夫の巧妙さと完璧なまでの適応性と細工が見られる。(p. 89)


朝鮮の技術の低さに呆れる外国人

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(尾崎賢治訳)『日本・第五巻』雄松堂,1978. [初出=1897年]
 朝鮮の工業技術は隣国の中国や日本と比べてずっと遅れているように思う。木工は断然といってよいほど遅れており、陶磁器の作りはひどく粗末である。鉄器、特に刀その他の刃物は価値が低い。(p. 38)

シャルル・ダレ(金容権訳)『朝鮮事情』平凡社東洋文庫,1979. [初出=1874年]
 朝鮮人は、科学研究の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、産業の知識においては、なおさら遅れている。この国では、数世紀もの間、有用な技術はまったく進歩していない。(p. 309)
 商取り引きにおけるもう一つの障害は、交通路のみじめな状態である。航行の可能な河川は非常に少なく、ただいくつかの河川だけが船を通すが、それもごく制限された区域の航行が許されているだけである。この国は、山岳や峡谷が多いのに、道路を作る技術はほとんど知られていない。したがってほとんどすべての運搬が、牛か馬、もしくは人の背によって行われている。(pp. 314-315)

E・J・オッペルト(申福龍・張又永訳)『禁断の国・朝鮮』集文堂,2000.(韓国語) [初出=1880年]
 ソウルの通りは中国の一般的な都市の狭い街路よりは広いが、官庁や両班の住宅やさらに言えば王宮さえも、中国の比較的大きな都市にある富裕な階層の住宅とは比較にならない。中国の都市に見られる多様な色相で華麗に装飾された大きな寺院は、ソウルには見出せない。家屋はたいてい泥で作られた平屋でみすぼらしいため、ソウルが朝鮮のような国の首都だという印象をまるで与えない。(p. 46)
 朝鮮の医術は中国にも劣るため、韓医たちはあまり尊敬されていない。(p. 116)
 朝鮮人の産業技術と技量は、アジアの他の民族に比べてずっと劣っている。こうなった決定的な理由は、抑圧的な政治体制に起因する。(p. 144)
 朝鮮の鉄器や木製品はもちろん、中国や日本でも製造される象牙や鉄器等の優秀な嗜好品と奢侈品に比べてずっと質が落ちる。したがって朝鮮人が特に得意とする品目を例示することは、ほとんど不可能である。(p. 145)

ゴンチャロフ(シム・ジウン編訳)「フリゲート艦パルラダ号」(『ロシア人、朝鮮を歩く』より)滑リ国学術情報,2006.(韓国語) [初出=1858年]
 この石垣を積む方法と来たら、琉球人たちとどうしてこんなに違うのか! 琉球人が纎細で忍耐強く秩序整然としていて技藝がある反面、ここの人々は怠け者で粗悪で無能力だ。朝鮮人が「努力」を嫌うことは明らかである。(p. 26)

William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004. [初出=1882年]
 朝鮮の建築はきわめて原始的な状態にある。城郭、要塞、寺院、修道院および公共建築は、日本や中国の壮麗さにまるで及ばない。この国は古い歴史を誇っているのに、石造の遺跡がほとんどない。住居は瓦葺きか藁葺きで、ほとんど例外なく一階建てである。(p. 262)

W・R・カールズ(申福龍訳)『朝鮮風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1888年]
 われわれはすぐに、日本家屋が立ち並ぶ一帯を通り抜けることになった。これらの日本家屋は、最近外国人たちとの商売で大きな利益を上げている小商人たちが建てたものだった。こうした種類の家は、あえて比較するなら、日本領事館のような高級建築と、そこで働きながら仮住まいをする朝鮮人たちのあばら家の中間程度だった。日本家屋はすべて魅力的な反面、朝鮮人たちの家は、通風装置がまったくなっておらずにおいがひどい道路の両側に散らばって立つ、草ぶき屋根と土塀の家だった。(p. 28)

G・W・ギルモア(申福龍訳)『ソウル風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1892年]
 木と森を失ってしまった丘は炸裂する日光と雨にさらされ、荒涼たる側はひと夏の洪水で生じた溝におおわれている。海岸に沿って航海しても、日本の内地を行くときに見られる耕地整理の美しさは見られない。ただ荒廃した丘、でこぼこの岩山、そして海岸線のあちこちのへこんだ所にいくつか漁村のあばら家が群集しており、まるで押し寄せる30フィートの波に洗われる海岸の寂しさに対抗するために、互いに力を合わせて保護し合っているようだ。(p. 20)

ゲ・デ・チャガイ編(井上絋一訳)『朝鮮旅行記』平凡社東洋文庫,1992. [初出=1958年]
 ここで朝鮮の交通手段について触れるのも無駄ではあるまい。この点では朝鮮人が野蛮人の域を余り脱しておらず、また彼らが如何に時間と人の労力を重んじないかも判る。(p. 89)
 即ち、かかる文化水準は、まさしく交通路によって正しく測定することが可能なのだ。馬車のない所、移動が常にかつもっぱら徒歩で行なわれてきた所、さらに特権階級が駕籠以外では旅をしない所において、文明国では当然とされる交通手段に相応しい道路が見出せるとしたら、却って不思議であろう。(p. 129)
 朝鮮には大きな町の数が概して多くない。これらの町は人口を吸引するほどの魅力を有さず、教育および品物や改良された生産に関する知識がそこから国中へ広まってゆき、また商業がそこへ集中するといったような中枢の機能を果たしてはいない。朝鮮人は、まず何といっても農民である。(p. 285)
 朝鮮における交通問題は全般として、更にまた交通手段も含めて先史時代の段階にある。(p. 294)

イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行』講談社学術文庫,1998. [初出=1898年]
 旧市街はみすぼらしいところだとわたしは思ったが、朝鮮の一般的な町のみすぼらしさはこの町と似たり寄ったりであることをのちの体験で知った。狭くて汚い通りを形づくるのは、骨組みに土を塗って建てた低いあばら家である。窓がなく、屋根はわらぶきで軒が深く、どの壁にも地面から二フィートのところに黒い排煙用の穴がある。家の外側にはたいがい不規則な形のみぞが掘ってあり、固体および液体の汚物やごみがたまっている。(p. 41)
 城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから! 都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定二五万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。(pp. 58-59)
 長安寺から元山にいたる陸路の旅のあいだには、漢江流域を旅したときよりも朝鮮人の農耕法を見る機会に恵まれた。日本人のこまかなところにも目のいく几帳面さや清国人の手のこんだ倹約ぶりにくらべると、朝鮮の農業はある程度むだが多く、しまりがない。(p. 211)

W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
 なぜこの国がこれほど荒廃しているのかに対するここの人々の説明は、実に朝鮮的である。彼らの言葉によると、できるだけ外国人を落胆させるために沿岸部は荒廃させ、内陸では虎を追い出すために森を焼き払い、山はその頂上にある土壌が流れて来るように崩したのだそうだ。(pp. 41-42)
 朝鮮人は、村に定着したばかりの遊牧民族のような印象を与える。都市には遺跡があり、規模も大きくきわめて栄えていたらしい王宮があり、人里離れたところにはイングランドやウェールズで見られるドルメンや石柱がある。西方世界の様子や発明品を眺める彼らの様子は、アブラハム時代のイスラエル人が鉄道や電車や複雑なヨーロッパの装置を見るように当惑している。何も理解できず、また理解しようともしない。彼らは「隠者の王国」であり続けることを願っている。(pp. 47-48)

E・ワグナー(申福龍訳)『韓国の児童生活』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1911年]
 韓日合邦以後、日本総督府は全般的に見たとき、朝鮮の物質的開明と向上に多くのことをした。(p. 17)


外国人が見た日朝の衛生状態


日本の清潔さに驚く外国人

ケンペル(斎藤信訳)『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫,1977. [初出=1777-79年]
 これに反して人びとは非常に清潔で飾りを施し便利なように努めていて、こういうことが低い木造の家の中でも全く快適に暮らすことを可能にする。(p. 27)

申維翰(姜在彦訳注)『海游録』平凡社東洋文庫,1974. [初出=1719年]
 夏の暑い時、蝿がはなはだ稀である。これはすなわち、室中を清潔にして汚さず、魚肉の腐敗したものはただちに土に埋め、厠間の悪臭を放つものはただちに田畔に移すからである。だから蝿が生じる余地がないのである。(p. 292)

C・P・ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1778-93年]
 清潔さは、彼らの身体や衣服、家、飲食物、容器等から一目瞭然である。彼らが風呂に入って身体を洗うのは、週一回などというものではなく、毎日熱い湯に入るのである。その湯はそれぞれの家に用意されており、また旅人のためにどの宿屋にも安い料金で用意されている。(p. 223)

ゴロヴニン(井上満訳)『日本幽囚記』岩波文庫,1943. [初出=1816年]
 しかし日本家屋の最上の装飾であり、最も賞賛すべき装飾と認むべきものは、上下を通じて守られている小ざっぱりと清潔なところであろう。(下巻, p. 95)

土屋喬夫・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』岩波文庫,1948. [初出=1856年]
 下田は進歩した開化の様相を呈して居て、同町の建設者が同地のC潔と健康とに留意した點は、吾々が誇りとする合衆國の進歩したC潔と健康さより遙に進んでいる。濠があるばかりでなく下水もあって、汚水や汚物は直接に海に流すか、又は町の間を通っている小川に流し込む。(4巻, p. 27)
 函館はあらゆる日本町と同じように著しくC潔で、街路は排水に適するようにつくられ、絶えず水を撒いたり掃いたりして何時でもさっぱりと健康によい状態に保たれてある。(4巻, p. 93)

ゴンチャロフ(井上満訳)『日本渡航記』岩波文庫,1941. [初出=1858年]
 まず眼につくのは、中庭や、茣蓙を敷いた木造の階段や、それから當の日本人のなみはずれたC潔さである。この點は全く感服せざるを得ない。彼らは身體も、衣服も、C潔でこざっぱりとしている。(p. 107)

ハリス(坂田精一訳)『日本滞在期』岩波文庫,1953. [初出=1930年]
 柿崎は小さくて、貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度も丁寧である。世界のあらゆる國で貧乏に何時も附き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。彼らの家屋は、必要なだけのC潔さを保っている。(中巻, p. 14)

オールコック(山口光朔訳)『大君の都』岩波文庫,1962. [初出=1863年]
 だがいまでは、長い経験からして、わたしはあえて、一般に日本人は清潔な国民で、人目を恐れずたびたびからだを洗い(はだかでいても別に非難されることはない)、身につけているものはわずかで、風通しのよい家に住み、その家は広くて風通しのよい街路に面し、そしてまたその街路には、不快なものは何物もおくことを許されない、というふうにいうことをはばからない。すべて清潔ということにかけては、日本人は他の東洋民族より大いにまさっており、とくに中国人にはまさっている。(上巻, p. 288)

ハインリッヒ・シュリーマン(石井和子訳)『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫,1998. [初出=1869年]
 日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。(p. 87)

グリフィス(山下英一訳)『明治日本体験記』平凡社東洋文庫,1984. [初出=1876年]
 けれども日本人は石鹸を表す言葉を知らないし、今日になってもそれを使ったことがない。にもかかわらず、どのアジア人よりも身なりも住居も清潔である。(p. 42)

イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行』講談社学術文庫,1998. [初出=1898年]
 南山の斜面には簡素で地味な白い木造の日本公使館がありその下には茶屋、劇場をはじめ日本人の福利に不可欠なさまざまな施設を備えた、人口ほぼ五〇〇〇人の日本人居住区がある。ここでは朝鮮的なものとはきわめて対照的に、あくまで清潔できちょうめんで慎ましい商店街や家々が見られる。(p. 64)


朝鮮の不潔さに呆れる外国人

ベイジル・ホール(春名徹訳)『朝鮮・琉球航海記』岩波文庫,1986. [初出=1818年]
 一方、家のなかは暗くて居心地が悪かった。むき出しの土の床はでこぼこ、壁は煤で黒ずみ、何もかもがきたならしくみえた。(p. 76)

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(尾崎賢治訳)『日本・第五巻』雄松堂,1978. [初出=1897年]
 しかし精神的教養と生活の洗練という点では、朝鮮人は同じ階層の日本人よりかなり劣る。またわれわれが一番低い階層の日本人を見ても感心する共同生活におけるあの巧みさや高いレベルの暮らし方も、朝鮮人にはない。彼らは正直、忠実で、人がよいということであるが、彼らを清潔、親切だとしてほめる気はあまりしない。(pp. 4-5)

シャルル・ダレ(金容権訳)『朝鮮事情』平凡社東洋文庫,1979. [初出=1874年]
 ソウルは、山並みに囲まれており、漢江の流れに沿って位置し、高くて厚い城壁にかこまれた人口の多い大都市であるが、建築物には見るべきものはない。かなり広いいくつかの道路を除いては、曲がりくねった路地だけがあり、この路地には空気も流れることなく、足にかかるものといえばごみばかりである。家はふつう瓦で覆われているが、低くて狭い。(p. 64)

William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004. [初出=1882年]
 国家的にも個人的にも、朝鮮人はトイレットの便宜に疎い。バスタブは稀で、川や海での水浴びに適した夏の暖かい日を除いて、水中にいる朝鮮人にはめったにお目にかかれない。1876年に条約調印に来た日本人たちは、バスタブを船から陸揚げせねばならなかった。(p. 270)

W・R・カールズ(申福龍訳)『朝鮮風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1888年]
 道の両側には汚物でいっぱいのどぶ川が流れ、道はひどく狭くて二匹のロバが出会えば一方がどぶに落ちるのを免れるのが難しいほどだ。領事館で利用する井戸はこのどぶ川とは関係なく、他の水源から充分に供給されている。家の中に井戸がなく、火災に対する準備も出来ていない。天然痘にかかった子どもたちは、路地にずらりと並んでいるあばら家の外で親が看護する。衛生問題に神経を使う人が見れば、事実上多くの病気の要因が領事館の門前で待機しているということになる。(p. 84)

H・N・アレン(申福龍訳)『朝鮮見聞記』集文堂,1999.(韓国語)[初出=1908年]
 朝鮮人たちは、長年の経験からこのようなにおいに慣れている。しかし彼らは8フィート四方の寝室でこの有害な空気を呼吸し、この小さな部屋で火を炊き、6〜8人が同じ部屋に寝てどうやって生命を維持できるのか、まったく驚かされる。このような部屋に入ろうとして扉を開いた瞬間、ぶわっと押し寄せるにおいは筆舌に尽くし難く、こんなとき白人なら誰でも、外の天気がいかに悪くても、息を止めて外に飛び出してしまうだろう。(p. 103)

G・W・ギルモア(申福龍訳)『ソウル風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1892年]
 朝鮮人は、清潔さの問題では多くの非難を浴びるだろう。東洋では警句を学ぶ。外国人たちは、朝鮮人をさかなにジョークを言うことを好む。ある英国人は、朝鮮では最も清潔だという人物が、彼がこれまでに見た中で最も汚い人物だったと言ったことがある。彼が意味するところは、朝鮮人が地球上で最も汚い人々だということだ。(p. 74)
 朝鮮の使用人たちは勉強熱心だが、彼らを訓練するには大変な我慢強さが要求される苦しさがある。まず朝鮮人たちは、風呂に入る必要性を感じないらしい。家庭内の暮らしで絶対に必要な清潔さを彼らに維持させるには、絶え間ない注意が必要である。(p. 208)

Lillias H. Underwood, Fifteen Years among the Top-Knots or Life in Korea, Kessinger, 2007. [初出=1904年]
 言う間でもなくこうした家に付属しているものはおそろしく不衛生で、多くは不潔で害虫でいっぱいである。あらゆる下水は道の両側にある、お話にならない溝に流される。(p. 5)
 朝鮮の宿屋は不潔さ、狭さ、悪臭と不快さにおいて、中国内陸部の宿屋に次ぐものである。女性用の部屋は通常ひとつしかなく、紙を張った扉か窓がひとつから四〜五ヶ所ある。それらはほとんど常に同じ大きさで同じ名称で呼ばれ、厨房・中庭・書斎に通じている。この部屋は8×10または12フィートを超えることは少なく、床は低い。扉を覆う紙は一様に汚れで黒ずんでおり、光線がほとんど差し込まないため、部屋は陰鬱な感じがする。(p. 39)
 油紙の上か、あるいは直に地面の上のことの方が多いが、マットが敷かれており、それは埃と、そこいら中を這い回る害虫でいっぱいである。この部屋が最後に掃かれ、マットがはたかれてから、部屋に入って同じマットに寝た人の何人が赤痢や天然痘やコレラやチフスに罹って死んで行ったのだろうなどと考え始めない方がよい。(p. 40)
 あらゆることが絶望的に思えたその夜、アジア・コレラが発生した。なぜこの疫病が毎年夏に朝鮮全域に蔓延しないのか、謎のひとつである。すべての下水は汚くて狭い溝に流されるが、それはしょっちゅう詰まってあふれ出し、緑色の泥水が道路から中庭まで流れ込んで来る。井戸はすぐそばで洗濯される衣類の汚れで汚染され、大量の腐りかけの野菜くずが道路と窓の下に投げ捨てられ、腐るにまかせられる。(pp. 133-134)

ゲ・デ・チャガイ編(井上絋一訳)『朝鮮旅行記』平凡社東洋文庫,1992. [初出=1958年]
 町を縦横に走るその他の街路は、約三サージェン幅の狭くて曲がりくねった道で、とりわけ朝夕は悪臭が充満する。つまり、食事の支度が開始されるその時刻には、街路に面して設けられ、しかも屋根の上ではなくて家屋の裾に開口する煙道のおかげで、煮炊きの煙が一斉に街路へ向けて放出されるからである。また汚物がそのまま街路へ投棄される夏には、なお一層ひどい事態になるそうである。(p. 24)

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 朝鮮の住民は、私の経験から言うと、あまり洗濯をせず、入浴はなおさらしない。彼らが手を洗うところは何度も見たし、顔を洗うところは時々見た。毎日顔を洗う人は、ごく少数である。清潔を保つための水の使用がそれほど少なく不規則だとしたら、朝鮮人はとてつもなく不潔に見えるだろうと思われるかもしれないが、そうでもない。私がいつもこの上なくイライラしたのは、この不潔な人々が、見た目は清潔に見えるということだった! (p. 32)
 ソウルの街路は、これ以上ないほど不規則に曲がりくねっている。主な大通りを除いて、ほとんどの通りは四人が横に並んで歩けないほど狭い。下水は家の横の街路の中の、蓋をしていない溝に流される。下水溝のすぐ上に窓があるため、朝鮮の善男善女は家の中では、すぐ下で腐って行く悪臭を放つゴミの臭いを嗅がずには呼吸できない。(pp. 85-86)

W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
 家はぎっしりと固まって建っており、小川と路地に沿って集まっている。洪水の季節を除いて、青いごみだらけの下水は床に沿って染み出し、腸チフス・天然痘・コレラを伝染させる。こんな井戸で女たちは楽しげに洗濯をし、毎日食物を洗う。排水路の表面から悪臭がするこの浅い井戸よりひどいものはない。汚い下層民の家からは、土俗の食品であるキムチのすっぱい臭いがする。(p. 50)


発展の根幹は私有財産の保護


朝鮮は私有財産が保護されない両班地獄

シャルル・ダレ(金容権訳)『朝鮮事情』平凡社東洋文庫,1979. [初出=1874年]
 一般に、政治的活気とか進歩、革命といわれるものは、朝鮮には存在しない。人民は無視され、彼らのいかなる意見も許されない。権力を一手に掌握している貴族階級が人びとに関心を向けるのは、ただ彼らを抑圧してできるだけ多くの富をしぼり取ろうとするときだけである。(p. 40)
 朝鮮の貴族階級は、世界中で最も強力であり、最も傲慢である。他の国々では、君主、司法官、諸団体が貴族階級を本来の範囲内におさえて、権力の均衡を保っているが、朝鮮では、両班の人口が多く、内部では対立しているにもかかわらず、自分たちの階級的特権を保持し拡大するために団結することはよく心得ており、常民も官吏も、国王すらも、彼らの権力に対抗することができないでいる。 (p. 192)
 朝鮮の両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君の如くふるまっている。大両班は、金がなくなると、使いの者をおくって商人や農民を捕えさせる。その者が手際よく金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて投獄され、食物も与えられず、両班が要求する額を支払うまで笞打たれる。(p. 192)

E・J・オッペルト(申福龍・張又永訳)『禁断の国・朝鮮』集文堂,2000.(韓国語) [初出=1880年]
 官吏らは在任期間中に住民の安寧をはかることにほとんど関心を持たない反面、自分に不利益にならないようただ搾取を通じてさっさと納税金を取り立て、裏金を貯め込むことに熱中する。彼らはみな任期が短いだけに、包括的で速かに搾取しなければ不労所得を稼げないと考える。(pp. 52-53)

William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004. [初出=1882年]
 朝鮮は人にたとえられ、王はその頭、貴族は胴、人民は足である。胸と腹は膨れる一方、頭と下肢はやせ細っている。貴族はその強欲で人民の生き血をすするのみならず、王の大権をも侵している。国は充血を起こし、官僚主義の浮腫を患っている。(p. 229)
 朝鮮人の大部分にとって、餓死の危険がない限り産業への動機づけはなく、事業を起こす理由はほとんどない。ゆっくりと改善されてはいるがまだ残っている古い条件下では、役人や両班や地主のような捕食階級は庶民の稼ぎと蓄えを食いものにしており、生計を維持する以上に働くことは無益で、馬鹿げてさえいると思われる。(p. 447)
 古いアジアの国はほとんどそうだが、朝鮮も西洋の進歩的な国に特徴的な知的な中間階級をほぼ完全に欠いている。この朝が鮮やかな地には、総人口の約十分の一を占める支配階級がいる。この両班(文班と武班)は古来からの特典と権利に守られ、実質的に租税と賦役から免除され、庶民を食いものにしている。(p. 448)

H・N・アレン(申福龍訳)『朝鮮見聞記』集文堂,1999.(韓国語)[初出=1908年]
 私の友人にきわめて有能な「搾取師」がいたが、今度は彼が最高法廷に引っ張られて自分より官職が高い官吏に搾取された。この事情を説明しながら彼が言うには、朝鮮人が財産を持っていればまるで犯罪のように扱われると言う。(p. 98)

G・W・ギルモア(申福龍訳)『ソウル風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1892年]
 ある人が相当な量の金を貯蓄しているという事実が知られれば、官吏たちは借用を要求するだろう。万一それが拒絶されれば、その人は何種類かのでっち上げられた罪状で投獄されるだろう。その罪人ならぬ罪人は、その要求を充足するか、頑固に切り捨てることでその官吏たちに自分の安全を憂慮させるか、自分の親戚たちが要求額を支払うか、あるいは何らかの妥協案を出すまで、毎朝鞭打たれるだろう。(p. 28)

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 誰もが「搾取」すなわち人の金を横取りする恐ろしいシステムに気づいていると思われる。朝鮮全域にわたって人々の顔にやつれと悲しみの表情が見られるのは、実に痛ましいことである。人々はけだるく憂鬱そうに寝そべり、明日は自分たちの運命がどうなるのかわからずにいる。誰もが政府の形態がどう改革されるのか気にしているが、誰もがあまりに怠惰で、自己の地位向上を試みさえしない。これが何世代にもわたって続いて来たのである! (p. 93)
 「働いて金を稼いだからって何になるんだい」かつてある朝鮮人が私にこう言った。「仕事が終わって金をもらっても、役人に巻き上げられるだけだ。ボロボロになるまで働いても、ずっと貧乏なままだ。それでも遠隔地に追放されて、そこの役人を肥え太らせるためにこき使われるよりは、幸運と思わなきゃならない」(p. 93)

イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行』講談社学術文庫,1998. [初出=1898年]
 門内には朝鮮の庶民の生き血をすする者たちがおおぜいいる。チロリアンハットに青色の多い粗織綿の制服を着た兵士、わんさといる雑卒、書記、警官、送達吏がただいま仕事中のふりをしているし、数ある小部屋ではさらに多くの男たちがすずりや筆をそばにおいて床にすわり、長いキセルでたばこを吸っている。(p. 119)
 非特権下級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目のもとに無慈悲な取り立てを行う両班から苛酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。(p. 138)
 朝鮮の官僚は大衆の生き血をすする吸血鬼である。わたしたちはすでに京畿道との境である塔峴を越え、黄海道に入っていた。政府官僚の大半は、どんな地位にいようが、ソウルで社交と遊興の生活を送り、地元での仕事は部下にまかせている。しかも在任期間がとても短いので、任地の住民を搾取の対象としてとらえ、住民の生活向上については考えようとしない。(p. 392)

Angus Hamilton, Korea, New York, Charles Scribner's Sons, 1904.
 海岸沿いの海には多くの魚がおり、漁労が適切になされれば豊かな輸出産業に成長するだろう。現在では自給に必要な量を確保するのがやっとで、豊かな日々はその夜明けすら始まっていない。漁業は官吏の取り立てによって完全に寄生されている。農民と同じく漁民も、衙門の要求から免れるには極貧の状態にとどまるしかないことをよく心得ているのである。(p. 248)

F・A・マッケンジー(渡部学訳注)『朝鮮の悲劇』平凡社東洋文庫,1972. [初出=1908年]
 繁盛して富裕になったような人は、たちまちにして守令の執心の犠牲となった。守令は、とくに秋の収穫の豊かであった農民のところへやってきて、金品の借用を申し出る。もしも、その人がこれを拒否すれば、郡守はただちに彼を投獄し、その申し出を承認するまで、半ば絶食同様にさせたうえ、日に一、二回の笞刑を加えるのであった。(p. 28)


日本は私有財産が保護される法治国家

河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1549-52年]
 この地方では盗人は少なく、また盗人を見つけると非常に厳しく罰し、誰でも死刑にします。盗みの悪習をたいへん憎んでいます。彼らはたいへん善良な人びとで、社交性があり、また知識欲はきわめて旺盛です。(3巻, p. 97)

ケンペル(斎藤信訳)『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫,1977. [初出=1777-79年]
 普通に判断すると、多くの法律のあるところには、また多くの犯罪者がいる、という。しかし、この国の政府当局は非常に用心深く、父のように油断がないので、犯罪が予想されるあらゆる機会を予防しようとして、たくさんの新しい法律を作るのは当然であって、これは音の出ない鐘ではなくて、実際に違反者に対しては避け難い死刑の判決を下すのである。しかしながら、これらの法律を厳密に考察すると、われわれキリスト教徒の国々よりも、この大きな異教の国では、刑場が人間の肉体で満ち溢れ、犯罪人の血で煙ることは少ない。平生は自分の生命をそれほどとも思っていないこのタタール人的な強情な国民も、全く避け難い死刑に対する恐怖の念で甚だしく抑制され、犯罪の減少を可能にしている。(pp. 31-32)

C・P・ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1778-93年]
 自由は日本人の生命である。それは、我儘や放縦へと流れることなく、法律に準拠した自由である。法律はきわめて厳しく、一般の日本人は専制政治化における奴隷そのものであると信じられてきたようである。しかし、作男は自分の主人に一年間雇われているだけで奴隷ではない。またもっと厳しい状況にある武士は、自分の上司の命令に服従しなければならないが、一定期間、たいていは何年間かを勤めるのであり、従って奴隷ではない。(p. 220)
 日本の法律は厳しいものである。そして警察がそれに見合った厳重な警戒をしており、秩序や習慣も十分に守られている。その結果は大いに注目すべきであり、重要なことである。なぜなら日本ほど放埓なことが少ない国は、他にはほとんどないからである。さらに人物の如何を問わない。また法律は古くから変わっていない。説明や解釈などなくても、国民は幼時から何をなし何をなさざるべきかについて、確かな知識を身につける。そればかりでなく、高齢者の見本や正しい行動を見ながら成長する。(p. 291)

ゴロヴニン(井上満訳)『日本幽囚記』岩波文庫,1943. [初出=1816年]
 かように日本政府が一般民衆や私人の利益を保護してうることは、極めて賞讃すべきことである。そしてそれは不公平で嚴格なわがヨーロッパの裁判官たちをして、「もう日本人を野蠻人の數から除外すべき時だ」と覺らせる有力な理由の一つであろう。(下巻, p. 156)

カッテンディーケ(水田信利訳)『長崎海軍伝習所の日々』平凡社東洋文庫,1964. [初出=1860年]
 民衆はこの制度の下に大いに栄え、すこぶる幸福に暮しているようである。日本人の欲望は単純で、贅沢といえばただ着物に金をかけるくらいが関の山である。何となれば贅沢の禁令は、古来すこぶる厳密であり、生活第一の必需品は廉い。だから誰も皆、その身分に応じた財産を持つことができるのである。(p. 126)

E・S・モース(石川欣一訳)『日本その日その日』平凡社東洋文庫,1970-1971. [初出=1917年]
 そこで亭主に、私が帰る迄時計と金とをあずかってくれぬかと聞いたら、彼は快く承知した。召使いが一人、蓋の無い、浅い塗盆を持って私の部屋へ来て、それが私の所有品を入れる物だといった。で、それ等を彼女が私に向かって差出している盆に入れると、彼女はその盆を畳の上に置いた儘で、出て行った。しばらくの間、私は、いう迄もないが彼女がそれを主人の所へ持って行き、主人は何等かの方法でそれを保護するものと思って、じりじりしながら待っていた。然し下女はかえって来ない。私は彼女を呼んで、何故盆をここに置いて行くのかと質ねた。彼女は、ここに置いてもいいのですと答える。私は主人を呼んだ。彼もまた、ここにおいても絶対に安全であり、彼はこれ等を入れる金庫も、他の品物も持っていないのであるといった。未だかつて、日本中の如何なる襖にも、錠も鍵も閂も見たことが無い事実からして、この国民が如何に正直であるかを理解した私は、この実験を敢てしようと決心し、恐らく私の留守中に何回も客が入るであろうし、また家中の召使いでも投宿客でもが、楽々と入り得るこの部屋に、蓋の無い盆に銀貨と紙幣とで八十ドルと金時計とを入れたものを残して去った。……我々は一週間にわたる旅をしたのであるが、帰って見ると、時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋の無い盆の上にのっていた。(3巻, p. 91)

イザベラ・バード(高梨健吉訳)『日本奥地紀行』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1880年]
 自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。(p. 152)


勤勉な日本人 vs 怠惰な朝鮮人


日本人の勤勉さに驚く外国人

C・P・ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1778-93年]
 私はヨーロッパ人が滅多に入国できないこの国で、長い旅の間に、珍しい道の植物をたくさん採集することができるであろうと想像していた。しかしこうした望みが、この国ほど当てはずれになった所はない。私はここで、ほとんど種蒔きを終えていた耕地に一本の雑草すら見つけることができなかった。それはどの地方でも同様であった。このありさまでは、旅人は日本には雑草は生えないのだと容易に想像してしまうだろう。しかし実際は、最も炯眼な植物学者ですら、よく耕作された畑に未知の草類を見いだせないほどに、農夫がすべての雑草を入念に摘みとっているのである。(p. 131)

ジーボルト(斎藤信訳)『江戸参府紀行』平凡社東洋文庫,1967. [初出=1897年]
 勤勉な農夫は自然の蕃殖力と競う。驚嘆すべき勤勉努力によって火山の破壊力を克服して、山の斜面に階段状の畑をつくりあげているが、これは注意深く手入れされた庭園と同じで――旅行者を驚かす千年の文化の成果である。(p. 70)

オールコック(山口光朔訳)『大君の都』岩波文庫,1962. [初出=1863年]
 自分の農地を整然と保っていることにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはないであろう。田畑は、念入りに除草されているばかりか、他の点でも目に見えて整然と手入れされていて、まことに気持ちがよい。(中巻, p. 49)

E・S・モース(石川欣一訳)『日本その日その日』平凡社東洋文庫,1970-1971. [初出=1917年]
 少数の老衰した男女や、小さな子供は見受けられたが、他の人々は、いずれも田畑で働くか、あるいは家の中で忙しくしていた。これはこの国民が、如何に一般的に勤勉であるかを、示している。人々は一人残らず働き、みんな貧乏しているように見えるが、窮民はいない。(2巻, p. 195)

イザベラ・バード(高梨健吉訳)『日本奥地紀行』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1880年]
 吉田は豊かに繁栄して見えるが、沼は貧弱でみじめな姿の部落であった。しかし、山腹を削って作った沼のわずかな田畑も、日当たりのよい広々とした米沢平野と同じように、すばらしくきれいに整頓してあり、全くよく耕作されており、風土に適した作物を豊富に産出する。これはどこでも同じである。草ぼうぼうの「なまけ者の畑」は、日本には存在しない。(p. 153)


朝鮮人の怠惰さに呆れる外国人

シャルル・ダレ(金容権訳)『朝鮮事情』平凡社東洋文庫,1979. [初出=1874年]
 これまで述べた質朴な習慣にも、いくつかの不都合な点がある。その中でももっとも重大なことは、それらの習慣が、一群の悪い奴らの怠けぐせを野放しにすることである。これらの者は、人びとの歓待をあてにして、全く仕事をしないで、あちこちをぶらぶらしながら生活する。もっとも図々しい者になると、豊かな人や余裕のある人の家にまるまる数週間も身を落ち着け、服までも作ってもらう。(p. 265)

William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004. [初出=1882年]
 想像されるように、こうした[相互扶助の]システムは乞食や浮浪者や脅迫者や怠け者を大量生産し、人の善意につけこんで「たかり」を働く。裕福な家族はよくこうした招かれざる寄生虫にとりつかれ、彼らは何週間もずうずうしく食卓に居座る。彼らは遠慮するどころか、服を作れと騒ぎ立てさえする。(p. 289)

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 朝鮮全域にわたって人々の顔にやつれと悲しみの表情が見られるのは、実に痛ましいことである。人々はけだるく憂鬱そうに寝そべり、明日は自分たちの運命がどうなるのかわからずにいる。誰もが政府の形態がどう改革されるのか気にしているが、誰もがあまりに怠惰で、自己の地位向上を試みさえしない。これが何世代にもわたって続いて来たのである! (p. 93)

イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行』講談社学術文庫,1998. [初出=1898年]
 彼らは怠惰に見える。わたしも当時はそう思っていた。しかし彼らは働いても報酬が得られる保証のない制度のもとで暮らしているのであり、「稼いでいる」とうわさされた者、たとえそれが真鍮の食器で食事をとれる程度であっても、ゆとりを得たという評判が流れた者は、強欲な官吏とその配下に目をつけられたり、近くの両班から借金を申しこまれたりするのがおちなのである。(p. 110)

Angus Hamilton, Korea, New York, Charles Scribner's Sons, 1904.
 この隠者の王国の住民たちは、泰然として何もしないことにきわめて熟練している。そのため、朝鮮の日常には無限の魅力と多様性がある。住民たちは受動的に快楽を得て、体質的な無能さゆえに、明るい日差しのなかで優雅な散歩に耽るか、馬の陰にあぐらをかいて坐る以外することがないかのようである。彼らは不活発そのもので、活発な動きほどその固有の特性に似つかわしくないものはない。(p. 41)
 これらの漁村の貧困ときたならしさは、驚くほどである。人々は精神がなく、寝て伸びをして食べてを繰り返す怠惰でだらしない存在でいることに満足しているように見える。金を出すと言っても、日中釣り舟を出させるのは不可能だった。もっとも彼らは、舟も網も綱も予約されているわけでないことは認めた。原住民のこのような無関心な精神の結果として、日本人漁師たちが急速に沖合いの漁場を確保しつつある。この怠惰で瞑想的で汚い人々がすぐにも立ち上がらないと、自分たちの海域における水産業は彼らの手からすり抜けて行ってしまうだろう。(p. 249)

W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
 朝鮮人は中国人ほど召使いに向いていない。そのような仕事のための創意も能力もなく、様々な度合いの飲酒癖と不道徳さと怠惰さを備えている。主人はよく召使いに待ちぼうけを食らわされる。(p. 274)

F・A・マッケンジー(渡部学訳注)『朝鮮の悲劇』平凡社東洋文庫,1972. [初出=1908年]
 最初の数年間、朝鮮に入国した外国人の大多数が見たのは、開港地である釜山、済物浦および首都だけに局限されていた。これらの場所で彼らは、朝鮮のもっとも悪い面を見た。とくに、ソウルには、貴族や宮廷に寄生する食客の大群がおり、彼らは怠惰で不潔であり、農村地方では見られないような下劣さを感じさせるのであった。(pp. 29-30)


尚武の国・日本 vs 文弱の国・朝鮮


昔から勇猛で知られた日本人

マルコ・ポーロ(愛宕松男訳注)『東方見聞録』平凡社東洋文庫,1970-71. [初出=1300年頃]
 ただそれにしても、さすがのカーンもチパング諸島に対してだけは何ともしかたがなく、彼等は最後まで入貢しなかったし、したがってカーンもこれに課税することができなかった一事だけは、最後に付記しておきたい。(2巻, p. 141)

申叔舟(田中健夫訳注)『海東諸国紀』岩波文庫,1991. [初出=1471年]
 兵は好みて槍・剣を用う。俗、能く鉄を練りて、刀を為る。精巧比無し。(p. 117)

河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1549-52年]
 私はこれほどまでに武器を大切にする人たちをいまだかつて見たことがありません。弓術は非常に優れています。この国には馬はいますが〔彼らは〕徒で戦っています。彼らはお互いに礼儀正しくしていますが、外国人を軽蔑していますので、〔私たち外国人に対しては〕彼らどうしのようには礼儀正しくしません。財産のすべては衣服と武器と家臣を扶持するために用い、財宝を蓄えようとしません。非常に好戦的な国民で、いつも戦をして、もっとも武力の強い者が支配権を握るのです。(3巻, p. 170)

ヴァリニャーノ(松田毅一他訳)『日本巡察記』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1583年]
 これらの人々は大いに武器を尊重する傾向があり、その階級を問わず、十二歳に達すると、ことごとく大・小(両)刀を携行する。(p. 10)

ドン・ロドリゴ(村上直次郎譯註)『ドン・ロドリゴ日本見聞録』奥川書房, 1941. [初出=1610年頃]
 日本人は戰を好み、支那人、高麗人、テレナテ人(Therenates)其他マニラ付近の何れの國民よりも勇敢なり。彼等は長銃を用い、其發射は確實なれども、速度遅し。又大砲を有すれども、少數にして操方拙なり。戰爭に於ては好く命令に服從す。但し今は何國とも戰わず、又之と戰爭を開く者あるべしとも思われず。大支那若し其武力を用いることあるも、日本には地勢上攻陥不能なる城多數あり。(p. 70)

姜(朴鐘鳴訳注)『看羊録』平凡社東洋文庫,1984.
 以前〔私が〕、倭将・倭卒に、「生を好み、死を悪むのは、人〔も、生〕物もその心を同じくするであろうに、日本人だけが死を楽しみとし、生を悪むのは、一体どうしてなのか」と問うたところ、みな次のように答えた。
「日本の将官は民衆の利権を独占し、一毛一髪〔とるに足らぬ物〕も民衆に属するものはない。だから、将官の家に身を寄せなければ、衣食の出どころがない。ひとたび将官の家に身を寄せてしまえば、この体も自分の体ではない。少しでも胆力に欠けると見なされてしまったら、どこへ行っても容れられない。佩刀がよくなければ、人間扱いされない。刀瘡の痕が顔の面にあれば、勇気のある男だと見なされて重〔い俸〕禄を得る。耳の後ろにあれば、逃げ廻るだけの男と見なされ、排斥される。それだから、衣食に事欠いて死ぬよりは、敵に立ち向かって死力を尽くす方がましである。力戦するのは、実は自分自身のためを謀ってそうするのであって、何も主〔公〕のためを計ってするのではない」(pp. 176-177)

申維翰(姜在彦訳注)『海游録』平凡社東洋文庫,1974. [初出=1719年]
 既にして兵になることを許されれば、すなわちその身はみずからのものにあらず、死生と飢飽はすべて将官の手中にゆだねられる。ひとたび名を軍籍に謄録すれば、いたる処で他人に劣るような佩剣を見せてはならず、それが劣れば人間仲間に列することができない。刀槍の傷跡が面前にあれば、指して勇夫となし、禄を得る。それが耳後にあれば、指して善く逃げる者として、斥けられる。けだしその法令の人を駆使すること、かくの如くである。(p. 298)

C・P・ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1778-93年]
 この国の歴史は、外国からの暴力や国内の反乱から自国を守った勇士の偉業に満ちている。しかし他国やその所有物を侵害したことについては、一度も書かれていない。日本人は他国を征服するという行動をおこしたことはないし、一方で自国が奪い取られるのを許したこともない。(p. 224)

ゴンチャロフ(井上滿譯)『日本渡航記』岩波文庫,1941. [初出=1858年]
 戰爭に訴えて日本に強制することとなるかも知れない。だがこの點においても日本は支那よりも遥かに優越している。もし日本がヨーロッパから軍事技術を取り入れて港灣を堅めたならば、如何なる攻撃を受けても、安全となるであろう。(pp. 308-309)

カッテンディーケ(水田信利訳)『長崎海軍伝習所の日々』平凡社東洋文庫,1964. [初出=1860年]
 この切腹から考えても、真の日本人は恥を受けるよりも、死を選ぶことが判る。だから日本人は勇敢な国民であることを疑わない。(p. 207)

A・B・ミットフォード(長岡祥三訳)『英国外交官の見た幕末維新』講談社学術文庫,1998. [初出=1915年]
 最初の罪人は力いっぱい短剣で腹を突き刺したので、はらわたがはみ出した。彼はそれを手につかんで掲げ、神の国の聖なる土地を汚した忌むべき外国人に対する憎悪と復讐の歌を歌い始め、その恐ろしい歌は彼が死ぬまで続いた。次の者も彼の例にならい、ぞっとするような場面が続く中を、十一人目の処刑が終わったところで――これは殺されたフランス人の数であったが――フランス人たちは耐え切れなくなって、デュ・プチ・トゥアール艦長が残り九名を助命するように頼んだ。(pp. 153-154)

グリフィス(山下英一訳)『明治日本体験記』平凡社東洋文庫,1984. [初出=1876年]
 この武士が日本の「文武」階級を形成している。「学者・紳士」がアメリカ人おはこの賛辞であるが、日本では「学者・兵士・紳士」になるのが武士の望みである。これは一見乱暴な組合せのようだが、その精神がこのアジアの帝国の若い命を燃え立たせて、キリスト教国の科学と言葉の流入から学ぼうと思わせるのである。(p. 59)

ラフカディオ・ハーン(池田雅之訳)『新編・日本の面影』角川ソフィア文庫,2000. [初出=1894年]
 日本人が一見おとなしそうなのは、主に道徳の観念に照らして、そうしているのである。遊び半分に日本人を叩いたりする外国人は、自分が深刻な誤りを犯したと思い知るだろう。日本人は、いい加減に扱われるべき国民ではないのである。あえてそんな愚挙に出ては、あたら命を落してしまった外国人が何人もいるのである。(p. 313)


昔から文弱で知られた朝鮮人

徐兢著(朴尚得訳)『宣和奉使 高麗図経』国書刊行会,1995. [初出=1125年頃]
 高麗はもとより箕子の八条の教〔古朝鮮の法律である犯禁八条〕の地である。そしてその兵器は甚だ簡にして疎である。どうしてその性に基づかないであろうか。『兵法』は言う。「兵器は堅くなく、鋭くない。仲間が同じ仲間を打つ」と。ひとり高麗人の兵器は、疎にして簡である。これがしばしば匈奴に抑え付けられる所以であり、その軍士と同類になれないのである。(p. 99)

シャルル・ダレ(金容権訳)『朝鮮事情』平凡社東洋文庫,1979. [初出=1874年]
 しかし不思議なことに、にもかかわらず軍隊は概して非常に弱く、彼らは重大な危機があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない。たぶんそれは、訓練不足か組織の欠陥のためであろう。 (p. 270)

W・R・カールズ(申福龍訳)『朝鮮風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1888年]
 われわれはノサンで、長銃の操作をソウルで習った300人の兵士と出会った。そのとき彼らは、習ったことを同僚たちに伝授するために咸興に向かう途中だった。彼らの体格は堂々としていたが、規律はきわめて劣悪だった。数人は雄牛や雌牛の背にまたがっており、他の者は疲れ切ってその後をのろのろ歩いていた。(p. 201)

G・W・ギルモア(申福龍訳)『ソウル風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1892年]
 朝鮮人の体格は、一般的にがっちりとよく発育しており、強い民族だという印象を与える。しかし観察者たちは、朝鮮人が見かけのように強くないことを知って驚くことになる。(p. 62)
 士官候補生たちは、起床点呼ラッパの音を聞いても起きて来なかった。兵士たちは、どんな軍事訓練もほとんど受けなかった。一糸不乱さや時間厳守などというものは、全く見られなかった。軍人たちは単に飯のために服務し、軍人精神がなかった。教官たちは歓待と高い待遇を受けた反面、将校たちの怠慢と無関心、そして不信のため軍事装備を効果的に使えなかった。(pp. 180-181)

ゲ・デ・チャガイ編(井上絋一訳)『朝鮮旅行記』平凡社東洋文庫,1992. [初出=1958年]
 朝鮮政府は現有の軍事力を全く頼りにすることができない。周知の通り、武器を担える朝鮮男子は全員が兵役義務を負っている。しかしながら、多少とも資格を有する指揮官や組織編制を完璧に欠如するため、これを戦闘力と見なす訳にはゆかないのだ。その意味では、中国軍よりも始末におえない。(p. 160)


正直な日本人 vs 狡猾な朝鮮人


日本人は誠実で正直

C・P・ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1778-93年]
 正義と忠実は、国中に見られる。そしてこの国ほど盗みの少ない国はほとんどないであろう。強奪はまったくない。窃盗はごく稀に耳にするだけである。それでヨーロッパ人は幕府への旅の間も、まったく安心して自分が携帯している荷物にほとんど注意を払わない。(p. 225)

ハリス(坂田精一訳)『日本滞在期』岩波文庫,1953. [初出=1930年]
 私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の國におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と滿足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。(下巻, p. 26)

グリフィス(山下英一訳)『明治日本体験記』平凡社東洋文庫,1984. [初出=1876年]
 日本人一般の道徳的性格は、率直、正直、忠実、親切、柔和、鄭重、孝行、愛情、忠誠などである。(p. 288)

E・S・モース(石川欣一訳)『日本その日その日』平凡社東洋文庫,1970-1971. [初出=1917年]
 人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。(1巻, p. 34)

グスタフ・クライトナー(小谷裕幸・森田明)『東洋紀行』平凡社東洋文庫,1992-93. [初出=1881年]
 日本人の召使いはどんな場合でも信頼できる。彼らは心底正直者で、何日家を留守にしても盗みを働く心配はない。(1巻, p. 222)


朝鮮人は狡猾で不正直

ヘンドリック・ハメル(生田滋訳)『朝鮮幽囚記』平凡社東洋文庫,1971. [初出=1668年頃]
 彼等は盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。他人に損害を与えることは彼等にとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません。 (p. 52)

シャルル・ダレ(金容権訳)『朝鮮事情』平凡社東洋文庫,1979. [初出=1874年]
 もし仮に、正直な官吏がいたとして、この横領を正すなんらかの手段を講じようとしたとしても、その時は、他のすべての官吏が彼に対抗して力を合わせるだろう。そうして、彼は身動きがとれなくなり、目をつぶらざるを得なくなって、成り行きにしたがうか、さもなければ、その地位を放棄せねばならないだろう。 (pp. 72-73)

William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004. [初出=1882年]
 これは朝鮮人による歴史の塗装作業の良い見本である。つらい現実には国産塗料を塗りたくり、黄金に見せかける。さらに後世の事件に対しても、公的な虚飾が巧妙に施され、敗戦すら輝かしい勝利に変えられる。(pp. 150-151)

W・R・カールズ(申福龍訳)『朝鮮風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1888年]
 朝起きてみると、大型カバンがなくなっていた。捜索をして、船首でそれをすぐに見つけたが、私が朝鮮の骨董品を買おうと持って来た数ドルの金は既になくなっていた。朝鮮人の従僕がそれを金を盗んだことは、疑うべくもなかった。彼は釜山に行く途中で、私のカバンの中身を見たことがあった。上陸する前に彼を身体検査したが、なくなった金は出て来なかった。彼は私に笑みを浮かべて惜別のあいさつをして、次にあったときも同じようにあいさつした。(p. 69)

H・N・アレン(申福龍訳)『朝鮮見聞記』集文堂,1999.(韓国語)[初出=1908年]
 朝鮮人は陰謀の名手で、母親の乳首に吸いついているときから陰謀を企むことを好むらしかった。こうした陰謀の結果として、進歩的な官吏たちがたびたび米国公使館に避難して来た。(p. 201)

イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行』講談社学術文庫,1998. [初出=1898年]
 彼らには東洋の悪癖である猜疑心、狡猾さ、不誠実さがあり、男どうしの信頼はない。(p. 24)


「残虐な日本軍人」は空想の産物


世界が称賛した日本軍の規律正しさ

William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004. [第7版=1904年]
 朝鮮はその土壌に二国の大軍団が踏み込んだにもかかわらず、驚くほど被害が少なかった。朝鮮人たちは日本人に嫌々ながら提供した労役と物資に気前の良い支払いを受け、この場合日本人は過剰な丁重さから害を被らなかった。(p. 478)

H・N・アレン(申福龍訳)『朝鮮見聞記』集文堂,1999.(韓国語)[初出=1908年]
 この頃の日本軍の軍紀と準備状態は、まさしく奇跡的だった。なぜなら軍紀と準備は、全く期待できなかったからである。世界はこのとき初めて、日本の軍事組職の卓越さを知ることになった。(p. 217)

Lillias H. Underwood, Fifteen Years among the Top-Knots or Life in Korea, Kessinger, 2007. [初出=1904年]
 ソウルにとどまった私たちは多かれ少なかれ健康を害したが、情勢は平穏で秩序があった。日本軍の規律は大したもので、ソウルの朝鮮人と外国人の秩序と快適さは、勝利したこの東国の軍隊の慈悲のおかげである。(pp. 113-114)

イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行』講談社学術文庫,1998. [初出=1898年]
 住民たちは三世紀前の遺産である憎しみから日本兵を嫌っているが、彼らに対してはなにも言えないでいる。日本兵がきちんと金を払ってものを買い、だれにも危害を加えず、庁舎の門外にはめったに出てこないことを知っているからである。(p. 371)
 この町でも、またほかのどこでも、人々は日本人に対して激しい嫌悪感をいだきながらも、日本人が騒ぎを起こさず、なにを手に入れるにもきちんと金を支払っていることを認めざるをえない。(p. 393)
 そのあとの占領中、日本軍は身を慎み、市内および近郊で得られる物資に対してはすべて順当な代金が支払われた。日本兵を激しく嫌ってはいても、人々は平穏と秩序が守られていることを認めざるをえず、また、日本軍が引き上げれば、訓練隊がのさばることもよくわかっていた。(p. 404)
 慈山でもほかと同様、人々は日本人に対してひとり残らず殺してしまいたいというほど激しい反感を示していたが、やはりほかのどこでもそうであるように、日本兵の品行のよさと兵站部に物資をおさめればきちんと支払いがあることについてはしぶしぶながら認めていた。(p. 441)
 わたしは日本が徹頭徹尾誠意をもって奮闘したと信じる。経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため買わなくてもいい反感を買ってしまったとはいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる。(pp. 564-565)

W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
 日本人たちは誰もが無秩序を考えすらしなかった。彼らはよく訓練されているのみならず、自制力が強い民族だった。日本軍が朝鮮人と接触する際の鄭重さと配慮には、誰もがさらに驚かされた。(p. 240)

F・A・マッケンジー(渡部学訳注)『朝鮮の悲劇』平凡社東洋文庫,1972. [初出=1908年]
 日本軍は、当初、非常な節制のもとに行動した。彼らは、自分たちに敵対した韓国官吏たちを処罰せずにそのままにしておき、そのうちの幾人かはただちに日本側の仕事に採用したりもした。北方へ進撃中の部隊は、厳格な規律を保ち、住民をも丁寧に取り扱った。徴発した食糧にも公正な代価を支払い、運搬人として軍役に動員した数千人の労務者に対しても、おうようにしかも敏速に補償を行なって彼らを驚かせた。(p. 107)


残虐行為は朝鮮人の方が上手

ヘンドリック・ハメル(生田滋訳)『朝鮮幽囚記』平凡社東洋文庫,1971. [初出=1668年頃]
 国王はその夫人を一室に幽閉しました。そこには銅版の床が作ってあって、その下で火をたいて、彼女を死にいたらしめました。……すなわち夫を殺した妻は、多くの人々の通る道傍に肩まで土に埋められ、その傍に木の鋸が置かれます。そしてそこを通る人々は貴族以外は彼女の頸をその鋸で挽いて死にいたらしめなければなりません。……過失致死犯は次のようにして罰せられます。彼等は酸っぱい、濁った、鼻をさすような匂いのする水で死者の全身を洗いますが、彼等はその水をじょうごを使って罪人の喉から流し込めるだけ流し込み、それから胃の所を棒で叩いて破裂させます。当地では盗みに対しては厳重な刑罰が課せられていますが、盗人は非常に沢山います。その刑罰は足の裏を叩いてしだいに死にいたらしめるのです。 (pp. 40-41)

William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004. [初出=1882年]
 拷問の豊富さは、朝鮮がいまだに半文明国にとどまっていることを示すに十分である。法院と監獄の発明品としては、鉄鎖、背中を打つための竹、尻を打ち据えるためのパドル状の器具、肉が裂けるまでふくらはぎを叩くための鞭、肉と内臓を苛むためのロープ、手かせ、杖、そして膝とむこうずねを叩くための板等がある。(p. 234)

イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行』講談社学術文庫,1998. [初出=1898年]
 朝鮮で屠殺した肉を見れば、だれだって菜食主義者にならざるをえない。ヤギの屠殺方法は小さな川で引っ張りまわすというもので、この方法だと癖のあるにおいが消えるといわれている。犬は首になわをかけて振りまわし、そのあとで血を抜く。朝鮮人の手にかかった仔牛の運命については前に述べた。暑い日ざしの下ではせわしなくて汚く、哀れで不愉快な光景だった。(p. 382)

W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
 朝鮮では、時には証言を引き出すため、時には罰を加えるため、軽い拷問を加えるのが慣例のようになっていた。最も深刻なものは、刑具に縛りつけて棒でねじるものだが、これは中世時代のヨーロッパ人がやった方式とまったく同じである。(p. 155)

Angus Hamilton, Korea, New York, Charles Scribner's Sons, 1904.
 朝鮮人は動物を恥知らずなやり方で扱い、宣教師たちもそうした不幸な動物の運命を和らげてやる努力を一切していない。朝鮮人の主人のポニーに対する非情な仕打ちの結果、背中の傷は地球上の他のどこでも見られないほど大きく重篤である。 (p. 270)

F・A・マッケンジー(渡部学訳注)『朝鮮の悲劇』平凡社東洋文庫,1972. [初出=1908年]
 二人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の二人)が、街路にひきずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。そのうちの一人は、首のうしろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声をはりあげた。群衆は、その死体に向かって石を投げつけ、あるいは踏みつけ、またある者はその四肢をずたずたに切り裂いた。一人の男は、自分の小刀を抜き放って、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって「さあ! 奴らを食おうではないか」と叫んだ。(p. 79)


大食の朝鮮人 vs 小食の日本人


朝鮮人はヨーロッパ人の三倍食べる

シャルル・ダレ(金容権訳)『朝鮮事情』平凡社東洋文庫,1979. [初出=1874年]
 朝鮮人のもう一つの大きな欠点は、暴食である。この点に関しては、金持も、貧乏人も、両班も、常民も、みんな差異はない。多く食べるということは名誉であり、会食者に出される食事の値うちは、その質ではなく、量ではかられる。したがって、食事中にはほとんど話をしない。ひと言ふた言を言えば、食物のひと口ふた口を失うからである。そして腹にしっかり弾力性を与えるよう、幼い頃から配慮して育てられる。母親たちは、小さな子供を膝の上に抱いてご飯やその他の栄養物を食べさせ、時どき匙の柄で腹をたたいて、十分に腹がふくらんだかどうかをみる。それ以上ふくらますことが生理的に不可能になったときに、食べさせるのをやめる。(p. 273)

William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004. [初出=1882年]
 暴食に関しては、富者も貧者も、貴人も賎民も変わらない。大食は名誉であり、宴席の良し悪しは供される料理の質ではなく量によって決まる。食事中に会話はほとんどない。喋っている間に一口分損するからである。従って大きな胃袋を持つことが重要になるため、赤ん坊の頃から弾力性のある腹を形成することが目標とされる。母親はしばしば赤ん坊を膝に乗せ、銃に充填するようにご飯を詰め込み、匙で腹を叩いて一杯になったか繰り返し確かめ、子どもがもはや生理的にそれ以上飲み込めなくなったときにようやく詰め込むのをやめる。(p. 269)

Lillias H. Underwood, Fifteen Years among the Top-Knots or Life in Korea, Kessinger, 2007. [初出=1904年]
 ところで朝鮮人は宴会に招かれると、その場で信じられないくらいの量を平らげることを期待する(さらに袖に入れて持ち運べるだけの量を持ち帰ることも、ふつうに行なわれる)。時々彼らは宴会前の数日間絶食し、できるだけ詰め込む準備をする。一般に、食べ物の質より量の方がはるかに重視されている。(p. 96)

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 朝鮮人によると、人生は食べるためのものでなければ生きる価値がない。このような体制下で育てば、彼らの食べる能力が驚くべきものになるのは当然である。私はある朝鮮人が、平均的なヨーロッパ人三人を満足させるほどの昼食を貪り食うのをみた。その後、破裂しないか心配して見ていたとき、彼はこの世で最も消化しにくい食物である干柿の大皿に飛びついたのである。(p. 83)

Angus Hamilton, Korea, New York, Charles Scribner's Sons, 1904.
 消化不良は全国的に蔓延しており、大量の飯と生魚を早食いする習慣がこの災いを促進している。(p. 258)


日本人はヨーロッパ人の半分しか食べない

C・P・ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1778-93年]
 一般大衆は富に対して貪欲でも強欲でもなく、また常に大食いや大酒のみに対して嫌悪を抱く。(p. 223)

ゴロヴニン(井上満訳)『日本幽囚記』岩波文庫,1943. [初出=1816年]
 日本人はヨーロッパ人に比べると、食が大變に細い。われわれは監禁中、運動しなくても、ひとりで日本人の二人前は食べていた。また旅行中はこちらの水兵一人前でおそらく日本人の三人が滿腹する位であったろう。(下巻, p. 105)

ゴンチャロフ(井上満訳)『日本渡航記』岩波文庫,1941. [初出=1858年]
 日本人は一日に三度食事をするが、それは非常に攝生を守った食べ方である。朝の起床時(彼等は大變な早起で、夜明け前のこともある)と、正午頃と、最後は晩の六時である。食事の量は非常に少いので、食慾の旺盛な者には日本の正餐では前菜にも足りない程である。(p. 320)

ハリス(坂田精一訳)『日本滞在期』岩波文庫,1953. [初出=1930年]
 私は、日本人のように飲食や衣服について、ほんとうに儉約で簡素な人間が、世界のどこにもあることを知らない。(中巻, p. 196)


教育が普及していた日本 vs 文盲大国だった朝鮮


19世紀以前の日本人の高い識字率

河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1549-52年]
 大部分の人は読み書きができますので、祈りや教理を短時間に学ぶのにたいそう役立ちます。(3巻, p. 97)

ゴロヴニン(井上満訳)『日本幽囚記』岩波文庫,1943. [初出=1816年]
 日本の國民教育については、全體として一國民を他國民と比較すれば、日本人は天下を通じて最も教育の進んだ國民である。日本には讀み書きの出來ない人間や、祖國の法律を知らない人間は一人もいない。(下巻, p. 31)

土屋喬夫・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』岩波文庫,1948. [初出=1856年]
 普通教育制度に似たものもあるようである。何故ならばメイランが、あらゆる階級の男女兒童は差別なく初等學校に通學せしめられると述べているからである。それが國家によって維持されているものかどうかについては語っていない。その學校で生徒等は全部讀み書きを教わり、自國の歴史についての知識をすこし手ほどきされるのである。かようにして、最も貧しい農夫の子供にも大抵は學問が出來る仕組なのである。(1巻, p. 162)

黄遵憲(実藤恵秀・豊田穣訳)『日本雑事詩』平凡社東洋文庫,1968. [初出=1879年]
 だからかの国の子供は、ことばをならってからは、仮名に通じて、小説をよんだり、てがみをかいたりすることができる。仮名は、ときには漢字につづけてつかわれる。ただ仮名だけつかえば、女でも読めないものはない。(p. 106)
 おもうに、日本人は天性文章にたくみなのであろう。物茂卿のいってるように、(文章を)わが(中国の)音で、上から読ませたならば、わが国人になかま入りをすることも、むつかしいとはいえない。朝鮮や安南などは、もんだいにならない。(p. 126)

ハインリッヒ・シュリーマン(石井和子訳)『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫,1998. [初出=1869年]
 それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。(pp. 167-168)


漢文がわかるふりをする朝鮮人の識字率の実態

William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004. [初出=1882年]
 朝鮮の百姓は一般に文盲である。おそらく農民階級の男の十人に四人が中国語か朝鮮語を読めるだろうが、女も勘定に入れると約85パーセントの人々は読むことも書くこともできない。(p. 444)

イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行』講談社学術文庫,1998. [初出=1898年]
 少女向けのこの国独自の学校はなく、上流階級の女性は朝鮮固有の文字が読めるものの、読み書きのできる朝鮮女性は一〇〇〇人にひとりと推定されている。(p. 439)

Angus Hamilton, Korea, New York, Charles Scribner's Sons, 1904.
 上流階級の男女は中国の文献と言語を理解しているふりをしているが、中流階級には、純粋に朝鮮語の文法で書かれた国内新聞の漢字・ハングルまじり文を読める人はほとんどいない。(p. 103)


開化以前の女性の地位


日本女性の地位は東洋では最も高かった

C・P・ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1778-93年]
 日本は一夫一婦制である。また中国のように夫人を家に閉じ込めておくようなことはなく、男性と同席したり自由に外出することができるので、路上や家のなかでこの国の女性を観察することは、私にとって難しいことではなかった。(p. 82)

土屋喬夫・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』岩波文庫,1948. [初出=1856年]
 日本の社會には、他の東洋諸國民に勝る日本人民の美點を明かに示している一特質がある。それは女が伴侶と認められていて、單なる奴隷として待遇されてはいないことである。女の地位が、キリスト教法規の影響下にある諸國に於けると同様な高さではないことは確だが、日本の母、妻及び娘は、支那の女のように家畜でも家内奴隷でもなく、トルコの妾房[ハーレム]に於ける女のように浮氣な淫樂のために買い入れられるものでもない。一夫多妻制の存在しないと云う事實は、日本人があらゆる東洋諸國民のうちでは最も道コ的であり、洗練[リファイン]されている國民であるという勝れた特性を現わす著しい特徴である。(4巻, pp. 16-17)

カッテンディーケ(水田信利訳)『長崎海軍伝習所の日々』平凡社東洋文庫,1964. [初出=1860年]
 日本では婦人は、他の東洋諸国と違って、一般に非常に丁寧に扱われ、女性の当然受くべき名誉を与えられている。もっとも婦人は、ヨーロッパの夫人のように、余りでしゃばらない。そうして男よりも一段へり下った立場に甘んじ、夫婦連れの時でさえ、我々がヨーロッパで見馴れているような、あの調子で振る舞うようなことは決してない。そうだといって、決して婦人は軽蔑されているのではない。(p. 47)

ハインリッヒ・シュリーマン(石井和子訳)『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫,1998. [初出=1869年]
 他国では、人々は娼婦を憐れみ容認してはいるが、その身分は卑しく恥ずかしいものとされている。だから私も、今の今まで、日本人が「おいらん」を尊い職業と考えていようとは、夢にも思わなかった。ところが、日本人は、他の国々では卑しく恥ずかしいものと考えている彼女らを、崇めさえしているのだ。そのありさまを目のあたりにして――それは私には前代未聞の途方もない逆説のように思われた――長い間、娼婦を神格化した絵の前に呆然と立ちすくんだ。(p. 140)

グリフィス(山下英一訳)『明治日本体験記』平凡社東洋文庫,1984. [初出=1876年]
 しかし、アジア的生活の研究者は、日本に来ると、他の国と比べて日本の女性の地位に大いに満足する。ここでは女性が東洋の他の国で観察される地位よりもずっと尊敬と思いやりで遇せられているのがわかる。日本の女性はより大きな自由を許されていて、そのためより多くの尊厳と自信を持っている。(pp. 264-265)


朝鮮女性の地位は不快なほど低かった

ヘンドリック・ハメル(生田滋訳)『朝鮮幽囚記』平凡社東洋文庫,1971. [初出=1668年頃]
 この国民は妻を女奴隷と同じように見なし、些細な罪で妻を追い出すことがあります。夫は子供を引き取ろうとはしませんので、子供は妻が連れて行かねばなりません。したがってこの国は人口が多いのです。(p. 48)

シャルル・ダレ(金容権訳)『朝鮮事情』平凡社東洋文庫,1979. [初出=1874年]
 朝鮮においても、他のアジア諸国と同じように、風俗は甚だしく腐敗しており、その必然的な結果として、女性の一般的な地位は不快なほどみじめで低い状態にある。女性は、男性の伴侶としてではなく、奴隷もしくは慰みもの、あるいは労働力であるにすぎない。(p. 212)

William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004. [初出=1882年]
 女はほとんど常に内房に引きこもり、許しを受けずに家の外を覗くことすらできない。隔離があまりに厳しいため、部外者の指が触れたというだけで父は娘を、夫は妻を殺し、妻は自殺することがある。(p. 245)

ゲ・デ・チャガイ編(井上絋一訳)『朝鮮旅行記』平凡社東洋文庫,1992. [初出=1958年]
 朝鮮の女が置かれている無権利状態のおかげで、朝鮮には、わが国で理解されるような家庭生活が存在しない。彼女は夫の女友達ではなくて、むしろ女奴隷ないし彼の召使いである。またそれ故に、夫婦は一つ屋根の下に暮らしていても、常に別個の時を過ごすのだ。(p. 309)

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 朝鮮女性は奴隷であり、快楽と労働に慣れている。彼女は話すことも見ることもできず、夫以外の男に会うことは許されない。……今日でさえ、夫が自分以外の男に話しかけられたという大罪のため妻を殺すことは、法に照らしてきわめて正当なことと考えられている! 上流階級の寡婦は再婚を許されない。亡父に愛されていたと言い張るのであれば、できるだけ早い機会に「自刎」し、夫に従ってあの世に旅立たねばならない。貞淑な妻には、咽喉を掻き切るか、鋭利な刀の上に身を投げることが期待される。(p. 38)

イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行』講談社学術文庫,1998. [初出=1898年]
 人が白い衣服を着ているかぎり、洗濯は朝鮮の女性にとって自明の運命となる。先に触れた汚い水路でも、《桑の宮殿》[景福宮]の池でも、どこのどぶでも、また城外の小川でも、洗濯にいそしむ女性の姿が見られる。衣類は一部縫い目をほどき、灰汁で三度煮る。そして固いかたまりにまとめ、石の上に載せて重い棒でたたく。乾かしたあとは筒に乗せて木の棒でたたき、くたびれた繻子に似たつやを出す。女たちは洗濯の奴隷で、洗濯棒を打ちつける規則正しい響きは、ソウルの夜の静寂を破る唯一の物音である。(p. 66)
 朝鮮の女性はきわめて厳格に家内にこもっている。おそらく他のどの国の女性よりも徹底してそうではなかろうか。ソウルにはとても奇妙な取り決めが定着している。八時に《大釣鐘》が鳴り、それを合図に男たちが家に引きこもると、女たちが家から出て遊んだり友人を訪ねたりするのである。(p. 68)
 女性は教育を受けず、どの階級においてもきわめて下位に見なされている。(p. 437)
 ダレ神父〔『朝鮮教会史序論』の著者〕によれば、故意と偶然のいかんによらず、よその男と手が触れ合っただけでも、娘は父親に、妻は夫に殺され、自害する女性すらいたという。またごく最近の例では、ある下女が女主人が火事に遭ったのに助けだそうとはしなかった。その理由は、どさくさのなかでどこかの男性が女主人にさわった。そんな女性は助けるに値しないというのである!(p. 438)
 朝鮮の女性は家庭のしあわせなど求めない。朝鮮人には家はあっても家庭はないのである。(p. 440)

W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
 日本女性は彼女たちだけの社会があり、さらに公共の場所でも男性たちが礼儀を守ってくれるなら彼らにあいさつして話もできる。紀元後初期の数世紀の間、日本の宮廷貴族と夫人たちは南部フランスの吟遊詩人たちの社会と似ていた。しかし朝鮮女性はあまりに厳格に保護されているため、侵入者から暴行を受けたときでも、告発するよりはこれを隠したほうが安全だと考える。(p. 46)

E・ワグナー(申福龍訳)『韓国の児童生活』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1911年]
 朝鮮女性の生活は、決して楽ではない。幼い頃から彼女たちは、知的にも地位や能力でも自分よりずっと愛情を受けて来た兄たちより劣等だと教え込まれる。そして彼女が楽な暮らしをして幸福になろうとすれば、早くに結婚して夫と姑に徹底して服従しなければならない。妻と母の役割は彼女たちの暮らしで最も重要な任務で、嫁ぎ先の祖先を祀り仕える息子を産むことでのみまともな待遇を受けることができる。(p. 31)


美しい日本女性 vs 不細工な朝鮮女性


美しい日本女性

ケンペル(斎藤信訳)『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫,1977. [初出=1777-79年]
 住民は均整がとれていて小柄である。ことに婦人に関しては、アジアのどんな地方でも、この土地の女性ほどよく発育し美しい人に出会うことはない。(p. 87)

申維翰(姜在彦訳注)『海游録』平凡社東洋文庫,1974. [初出=1719年]
 女性の容貌は、多くのばあい、なまめかしくて麗しい。脂粉を施さなくても、たいてい肌がきめこまかくて白い。その脂粉を施して化粧した者でも、肌が軟らかくてつやつやしく、生来のものの如くに自然である。すなわち、眉を画き、顔をいろどり、黒髪、花簪に五色紋の錦衣を着け、帯をもって腰を束ね、扇をいだいて立つと、これを望めば人の形のようでない。髻には冬柏油(椿油)や香膏の諸物を用い、髪は漆の如くに光沢がある。(p. 311)

金仁謙(高島淑郎訳注)『日東壮遊歌』平凡社東洋文庫,1999. [初出=1764年]
 人々の容姿のすぐれていることも/沿路随一である/わけても女人が/皆とびぬけて美しい/明星のような瞳/朱砂の唇/白玉の歯/蛾の眉/芽花の手/蝉の額/氷を刻んだようであり/雪でしつらえたようでもある/人の血肉をもって/あのように美しくなるものだろうか/趙飛燕や楊太真が/万古より美女とのほまれ高いが/この地で見れば/色を失うのは必定/越女が天下一というが/それもまこととは思えぬほどである/これに我が国の衣服を着せ/七宝で飾り立てれば/神仙鬼神もさながらと/恍惚感いかばかりだろう(p. 264)

ジーボルト(斎藤信訳)『江戸参府紀行』平凡社東洋文庫,1967. [初出=1897年]
 女性はたいへん優美である。若い娘は美しく白い皮膚をし、頬は生き生きとした赤みを帯び、まるまるとした顔立ちである。鼻根は深く押しつけられ、内側の眼角の間隔が広く顴骨はいちだんと突き出ていて、そのためちょっと見ると内斜視である眼の独特の位置が、他の日本人について観察したのよりもいちだんと目立つのである。(p. 77)

カッテンディーケ(水田信利訳)『長崎海軍伝習所の日々』平凡社東洋文庫,1964. [初出=1860年]
 私は日本美人の礼賛者という訳ではないが、彼女らの涼しい目、美しい歯、粗いが房々とした黒髪を綺麗に結った姿のあでやかさを、誰が否定できようか。しかしいったん結婚すると、その美しい歯も、忽ちおはぐろで染めて真黒にする。(p. 47)

オールコック(山口光朔訳)『大君の都』岩波文庫,1962. [初出=1863年]
 わたしは、わたしの国の婦人たちに劣らぬほど美しく、健康そうな血色にほおを赤く染めた多くの婦人を見た――ただし、健康そうな血色がほおに現われているというのは、洗いたての顔で、ほおやくちびるに化粧して顔やくびを米粉で塗りたくる前のことである。(上巻, p. 291)

グリフィス(山下英一訳)『明治日本体験記』平凡社東洋文庫,1984. [初出=1876年]
 かわいい娘たちが朝の挨拶をしに出てくる。そのうちの目の印象的な娘が、緑茶のいっぱい入った茶碗をのせたお盆と、赤い砂糖菓子の皿を持ってきて、「ごいっしょにどうぞ」と言う。その美人のために小額の紙幣を盆に置くが、そのどちらも欲しくなかった。娘は十七歳ぐらいで姿が美しく、後ろに大きな蝶結びのある広い帯できちんと着物をむすび、首には白粉が塗ってある。笑うと白い美しい歯が並ぶ。まっ黒の髪が娘らしく結ってある。日本で最も美しい見物は美しい日本娘である。(p. 45)


不細工な上に粗野な朝鮮女性

W・R・カールズ(申福龍訳)『朝鮮風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1888年]
 身分が低い他の女性たちは子どもに乳を吸わせ、家の門の前をうろついたり家事をしたりしていた。長衣を着けない彼女たちの顔は、天然痘をわずらった痕跡と、重労働の卑賤な待遇を受けたことが歴然としていた。肩の上に着る短く窮屈な服は、乳房をあらわにしており、彼女たちの陋醜な服とみすぼらしく不潔な所に住む様子を見て、われわれは朝鮮女性たちに対し好ましからぬ印象を持つようになった。(p. 36)

G・W・ギルモア(申福龍訳)『ソウル風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1892年]
 日本を旅行すれば、人々の間にある種の活気が感じられる。日本女性の目には、ほとんど常に楽しげな快活さがあり、愉快な生気を発している。そして彼女らの目は、微笑に応えるよう誘惑する。彼女らの人生は、遊びや遠足のように見える。ところが朝鮮女性には、このような活気や快活さ、そして生気のようなものが不足している。彼女らの人生は深刻で真摯だ。したがって憂鬱さが、朝鮮女性の特徴的な姿である。(p. 64)

イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行』講談社学術文庫,1998. [初出=1898年]
 朝鮮の女性はあだっぽい美女ではないので、顔や体を隠すのはむしろけっこうなことである。(pp. 65-66)
 が、四〇人を超すこの集団は、ひとり残らず礼儀に欠けていた。女たちはわたしの服を調べ、わたしを引っ張りまわし、帽子を取ってかぶり、髪をほどいてヘアピンを試し、手袋をはずさせてきゃあきゃあ笑いながらそれをはめた。(p. 121)
 わたしにとって朝鮮の宿で不快きわまりなかったのは、人々とくに女性の不作法でどうにも御しがたい物見高さだった。今回旅したどの地域でも人々はこれまで西洋の女を見たことがなく、わたしはそれ相応のいやな思いをした。四方巨里はその典型といえるかもしれない。(pp. 166-167)
 女たちと子供はわたしのベッドに群がるように腰掛、わたしの服を調べ、ヘヤピンを抜いて髪をほどき、室内ばきを脱がせ、袖をひじまでまくり、腕をつねって自分たちと同じ血肉でできているかどうかを試した。そしてわずかながらのわたしの持ち物をつぶさに調べ、帽子と手袋を試着し、ウォンに三度追い返されたあともさらに大人数で押しかけてきた。(p. 167)
 朝鮮の下層階級の女性は粗野で礼儀を知らず、日本の同じ階層の女性のしとやかさや清国の農婦の節度や親切心からはおよそほど遠い。着ているものは汚れ放題で、夜遅くまで休みなく洗濯をするのは自分たちでも、きれいな衣服を着るのは男の専売特許といわんばかりである。(p. 435)

W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
 朝鮮の芸能人は東洋の他の国でよりも身分が低く、妓生が権力者の家や宮中に出入りを許されるとは言っても、日本の芸者ほどの待遇を受けていなかった。妓生たちは顔もきれいではなかった。私は朝鮮女性のどの階級ででも、美貌の女性を見たことがない。(p. 202)

Angus Hamilton, Korea, New York, Charles Scribner's Sons, 1904.
 隠された顔と丸出しの乳房の対照の効果は、実にこっけいである。よく見れば片目でも、頬の印象やひたいやこめかみの面影は明らかである。しかしこれは、ほとんど必要がない。大部分の女性の場合、唯一の魅力はチョゴリが隠してるかも知れない美貌だけだからである。(p. 37)


朝鮮と日本の子どもたち


虐待され癇癪を起こす朝鮮の子ども

シャルル・ダレ(金容権訳)『朝鮮事情』平凡社東洋文庫,1979. [初出=1874年]
 大人は不断の怒りを笑って済ませるから、子供たちは、ほとんど懲罰を受けることもなく成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるようになる。(p. 269)

H・B・ハルバート(岡田丈夫訳)『朝鮮滅亡−古き朝鮮の終幕』太平出版社,1973. [初出=1906年]
 子どもも親を見ならって、自分の気に入らないことがあると、まるで気が狂ったように大あばれして、結局、我意を通すか、それとも長くかかって鎮静にもどるか、そのいずれかに落ちつく。(上巻, p. 66)

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 下層階級の女性は、常に昂奮と憤怒の状態にあるように思われる。彼女たちはいつも互いを罵り合い、名前を呼び合い、子どもを叱り虐待すらしている。(p. 39)
 全体として貴族や金持ちの子は、苛酷なほどに厳しく育てられるが、虐待されているとまでは言えないだろう。しかし貧乏人の子は、しばしば情容赦なく殴られる。(p. 46)


愛されておとなしい日本の子ども

ベルナルディーノ・アビラ・ヒロン(佐久間正訳)「日本人の家庭生活」岩生成一編『外国人の見た日本 1 南蛮渡来以後』筑摩書房,1962. [初出=1600年頃]
 子供は非常に美しくて可愛く、六、七歳で道理をわきまえるほど理解力が良いが、父母は子供を教えも罰しもしないのであるから、子供はその秀れた理解力について両親に感謝する必要はない。(p. 304)

E・S・モース(石川欣一訳)『日本その日その日』平凡社東洋文庫,1970-1971. [初出=1917年]
 赤坊が泣き叫ぶのを聞くことは、めったになく、又私はいま迄の所、お母さんが赤坊に対して癇癪を起しているのを一度も見ていない。私は世界中に日本ほど赤坊のために尽す国はなく、また日本の赤坊ほどよい赤坊は世界中にないと確信する。(1巻, p. 11)
 ここでまた私は、日本が子供の天国であることを、くりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしてる所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。(2巻, p. 68)

イザベラ・バード(高梨健吉訳)『日本奥地紀行』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1880年]
 子どものたちは家庭において黙って従うことに慣れているから、教師は苦労をしないで、生徒を、静かに、よく聞く、おとなしい子にしておくことができる。(p. 77)
 いくつかの理由から、彼らは男の子の方を好むが、それと同じほど女の子もかわいがり愛していることは確かである。子どもたちは、私たちの考えからすれば、あまりにもおとなしく、儀礼的にすぎるが、その顔つきや振舞いは、人に大きな好感をいだかせる。(p. 86)
 私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。(p. 222)



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