このページでは、19世紀までの欧米人による日本人・日本社会への評価をまとめた。うわさを聞き伝えただけのマルコ・ポーロはともかく、最初に日本を訪れた西洋人は、1540年代に来日したポルトガルの貿易商人だったとされる。1549年にはザビエルが鹿児島に上陸し、イエズス会によるカトリック宣教が始まった。ザビエルに続いてポルトガル人を中心とする宣教師が続々と来日し、ヨーロッパにおける日本研究の基礎を築いた。1600年にはリーフデ号が豊後に漂着し、オランダ人とイギリス人も日本に足跡を記した。これらのプロテスタント教国は宣教に興味を示さず、平戸に商館を開いて貿易に専念したが、英国はやがて撤退した。
1639年に鎖国体制が確立すると、カトリック教国は追放され、オランダ商館だけが出島に存続を許された。鎖国中の日本研究としては、出島の三学者による著作が有名で、ケンペルは1691〜92年、ツュンベリーは1776年、シーボルトは1826年に江戸参府して旅行記を残した。一方でロシアはカムチャツカを拠点に日本方面への探検航海を行い、1739年にベーリング探検隊の二隻が日本人と接触した。1806年のフヴォストフらの樺太襲撃を受け、幕府は東北諸藩から兵力を動員し北方警備に当て、1811年に国後島に上陸したディアナ号のゴロヴニン艦長以下七名のロシア人を捕虜にした。
米国海軍のペリー提督は砲艦四隻を率いて1853年浦賀に来航し、翌年日米和親条約を締結した。1856年にハリスが初代米国総領事として来日し、日米修好通商条約を締結して日本を正式に開国させた。これによってヨーロッパ列強も続々と日本と条約を結び、英国からは1859年にオールコックが初代駐日公使として、1862年にサトウが通訳官として来日した。
明治維新以降は、軍人や外交官に加えて種々雑多な外国人が日本に押し寄せ、見聞記の数は爆発的に増えた。グリフィスは福井藩の招きで1870年に来日し、米国に帰国後は日本と朝鮮の紹介者として人気を博した。モースは腕足類の研究のため1877年に来日し、東京大学で動物学を教えた。ハーンは1890年に通信記者として来日し、後に日本に帰化して独特の日本論を展開した。
初期の日本人への評価は、名誉心が強い、好奇心が強く道理を重んじる、親切で礼儀正しいといったものだった。戦国時代には好戦的という評価も見られたが、鎖国と泰平の世では180度変わり、ゴロヴニンなどは勇気と果断さに欠けると評価している。勤勉さと生活の質素さに対する言及も、多くの著者に共通している。社会的公正さと治安の良さを評価する者が多い一方で、刑罰の苛酷さ、密偵制度、身分制度、服従の習慣を指摘する者もあった。
入浴の習慣の普及とともに「清潔」「きれい好き」という評価が広まったが、同時に平気で裸体をさらす風紀の悪さに驚く記述も増えた。淫乱さや性道徳の乱れへの指摘も、複数の著者に共通して見られる。「うそつき」という評価は、幕末に来日した外交官に集中して見られるが、幕府側も体制の維持に必死で体面など構っていられなかったのかも知れない。他に性格的欠点としては、「残虐」「高慢」「頑固」「悠長」「軽率」といった評価が散見される。
漆器・陶磁器・金属製品等の工芸品に対する賞賛は、18世紀から現れる。この技術水準の高さから、いずれ欧米列強に肩を並べる強国になるだろうとの評価も相次いだ。絵画に対する高い評価が出て来るのはペリー以降だが、彫刻や建築や音楽に対する評価は低いままだった。
お歯黒や白粉は評判が悪いものの、日本美人への礼賛は複数の著者に共通して見られる。女性の地位に対しては、ペリーは非西洋世界で最も高いと評価しているが、オールコックはこれに反対している。親子関係の良好さへの評価は全般的に高く、親は子どもに親切で子どもは親に従順であるということでおおむね一貫しているが、カッテンディーケは放任主義の「遺憾な結果」に言及している。
以下で〔 〕は原文中にある注、[ ]はこのページ独自の注である。なるべく原文どおり入力するように努めたが、注番号や傍点等は全て省略した。ルビも重要なもの以外は、やはり省略した。
マルコ・ポーロ(愛宕松男訳注)『東方見聞録』東洋文庫158,183, 平凡社, 1970-71.
マルコ・ポーロ (Marco Polo, 1254~1324) はベネチアの商人で、1275年に元の大都に至り、フビライ帝に厚遇され17年間中国にとどまった。1292年に泉州を発ち、1295年にベネチアに帰った。『東方見聞録』は、ジェノバの捕虜となっていた1298年に同囚のルスチケルロに口授したもの。黄金の宮殿の描写は、平泉の中尊寺金色堂の話を聞き伝えたものと言われる。食人の習慣については、誰かにかつがれたものか、本人のホラなのかわからない。
チパング〔日本国〕は、東のかた、大陸から千五百マイルの大洋中にある、とても大きな島である。住民は皮膚の色が白く礼節の正しい優雅な偶像教徒であって、独立国をなし、自己の国王をいただいている。この国ではいたる所に黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している。 (2巻, p. 130) この国王の一大宮殿は、それこそ純金ずくめで出来ているのですぞ。我々ヨーロッパ人が家屋や教会堂の屋根を鉛板でふくように、この宮殿の屋根はすべて純金でふかれている。したがって、その値打ちはとても評価できるようなものではない。 (2巻, p. 130) しかしこの一事だけは是非とも知っておいてもらいたいからお話しするが、チパング諸島の偶像教徒は、自分たちの仲間でない人間を捕虜にした場合、もしその捕虜が身代金を支払いえなければ、彼らはその友人・親戚のすべてに「どうかおいで下さい。わが家でいっしょに会食しましょう」と招待状を発し、かの捕虜を殺して――むろんそれを料理してであるが――皆でその肉を会食する。彼等は人肉がどの肉にもましてうまいと考えているのである。 (2巻, pp. 139-140) |
メンデス・ピント(岡村多希子訳)『東洋遍歴記』東洋文庫366,371,373, 平凡社, 1979-1980.
フェルナンド・メンデス・ピント (Fernado Mendes Pinto, 1509?~1583) はポルトガルの商人で、1537年頃からインドを手始めにアジア・アフリカを広く遍歴し、日本を四度訪れた。1551年の三度目の訪日時にフランシスコ・ザビエルと親交を結んだが、その時には相当な財産を蓄えていた。1554年4月に四度目の訪日のためゴアを発ったが、途中マラッカでイエズス会の修道士になった。1556年7月に九州に着き、11月に離日したが、この間にピントはイエズス会を脱会した。1558年にポルトガルに戻り、1578年頃『遍歴記』を書いた。
その寺院というのはすこぶる壮麗・豪華で、彼らの司祭に当たる坊主たちは私たちを手厚く迎えてくれた。この日本の人々はみな生来大変に親切で愛想がいいからである。 (2巻, p. 171) したがって、ゼイモトが善意と友情から、また、先に述べたように、ナウタキンから受けた礼遇・恩顧の幾分かに応えるために贈ったわずか一挺の鉄砲が因で、この国は鉄砲に満ちあふれ、どんな寒村でも少なくとも百挺の鉄砲の出ないような村や部落はなく、立派な町や村では何千挺という単位で語られているのである。このことから、この国民がどんな人たちか、生来どんなに武事を好んでいるかがわかるであろう。 (2巻, pp. 173-174) そしてこれら日本人というのは世界のどの国民よりも名誉心が強いので、彼は、自分の前に生ずるいかなる不都合も意に介さず、自分の意図を万事において遂行しようと決心した。 (3巻, pp. 124) この日本人というのは、そのあたりの他のどの異教徒よりも道理に従うものだ、と私が何度も言うのを読者諸氏は聞いてきたのではあるが、坊主たちは他の人々よりも多くのことを知っているという生来の自負心と自惚れのために、一旦自分の言ったことを否定したり、自分の信用に関する議論で他人に譲ることは、たとえそのために千回その生命を危険に曝そうとも、名誉を損なうものと見なすのである。 (3巻, p. 195) それは、彼らがそのあたりの他の異教徒よりも元々優れた理解力を持っていることは否定し難い人々だからで、したがって、彼らを信仰へ改宗させるためにに注がれる努力は、コモリンやセイロンのシンガラ人よりは、この人々における方が、より大きな実りを結び、したがって、より効果的であろうと思われる。 (3巻, p. 201) |
河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』東洋文庫579-582, 平凡社, 1994.
フランシスコ・ザビエル (Francisco de Jassu y Xavier, 1506~1552) はスペイン生まれの宣教師で、イエズス会創設に参加、1542年からインドのゴアを中心に布教に当たった。1547年アンジロウに出会い日本布教を決意し、1549年8月鹿児島に上陸し同地で布教した。1550年8月平戸に移り、10月京都へ向け出発、11月に山口で布教、12月に堺に到着した。1551年1月京都に入るが天皇拝謁・延暦寺訪問とも果たせず、3月に平戸に戻った。4月から山口で布教し、9月にポルトガル船到着の報を聞いて豊後府中に赴いた。11月に同地を出航し、翌1552年2月ゴアに帰着した。
第一に、私たちが交際することによって知りえた限りでは、この国の人びとは今までに発見された国民のなかで最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが、武士も、そうでない人びとも、貧しいことを不名誉とは思っていません。 (3巻, p. 96)
大部分の人は読み書きができますので、祈りや教理を短時間に学ぶのにたいそう役立ちます。彼らは一人の妻しか持ちません。この地方では盗人は少なく、また盗人を見つけると非常に厳しく罰し、誰でも死刑にします。盗みの悪習をたいへん憎んでいます。彼らはたいへん善良な人びとで、社交性があり、また知識欲はきわめて旺盛です。 (3巻, p. 97) 彼らは道理にかなったことを聞くのを喜びます。彼らのうちで行なわれている悪習や罪について、理由を挙げてそれが悪であることを示しますと、道理にかなったことをすべきであると考えます。 (3巻, p. 98) 私はこれほどまでに武器を大切にする人たちをいまだかつて見たことがありません。弓術は非常に優れています。この国には馬はいますが〔彼らは〕徒で戦っています。彼らはお互いに礼儀正しくしていますが、外国人を軽蔑していますので、〔私たち外国人に対しては〕彼らどうしのようには礼儀正しくしません。財産のすべては衣服と武器と家臣を扶持するために用い、財宝を蓄えようとしません。非常に好戦的な国民で、いつも戦をして、もっとも武力の強い者が支配権を握るのです。 (3巻, p. 170) 〔日本人たちは〕好奇心が強く、うるさく質問し、知識欲が旺盛で、質問は限りがありません。また彼らの質問に私たちが答えたことを彼らは互いに質問しあったり、話したりしあって尽きることがありません。 (3巻, p. 186) 日本人は白人です。日本の国の近くには中国の国があり、前に書きましたように、〔日本の〕諸宗派は中国から伝えられたものです。中国はたいへん大きな国で、平和で、戦争はまったくありません。そこにいるポルトガル人からの手紙によりますと、正義がたいへん〔尊ばれている〕国で、キリスト教国のどこにもないほど正義の国だそうです。日本や他の地方で今まで私が会った限りでは、中国人はきわめて鋭敏で、才能が豊かであり、日本人よりもずっと優れ、学問のある人たちです。 (3巻, p. 202) 〔日本へ行く神父は〕考えも及ばないほど大きな迫害を受けなければなりません。昼間はずっと、そして夜になっても大勢の訪問客に押しかけられ、質問攻めにあってたいへんてこずり、そして断わりきりないような指導者〔階級の〕人たちの家に招かれます。神父は祈り、黙想し、観想する時間がありませんし、霊的に内省する〔余裕〕もありません。少なくとも初めのうちはミサ聖祭を挙げることもできません。〔神父は〕質問に答えるのに絶えず追われて、聖務日課を唱える時間もなく、食事や睡眠の時間さえもありません。日本人はほとんど問題がないような〔小さなことでも〕とくに外国人にうるさくつきまとって〔質問し〕、外国人たちを馬鹿にして、いつもあざ笑っています。 (3巻, pp. 213-214) |
ヴァリニャーノ(松田毅一他訳)『日本巡察記』東洋文庫229, 平凡社, 1973.
アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ (Alejandro Valignano, 1539~1606) はイタリアの宣教師で、イエズス会の巡察師として日本を三度訪れた。初来日は1579(天正7)年7月で、島原半島の口之津に上陸し、長崎と豊後府中(大分)を訪れた。翌年3月には瀬戸内海航路で堺に至り、織田信長に歓迎され、畿内各地を巡回した。9月に豊後、11月に長崎に戻り、そこで一連の会議を開催した。1582(天正10)年2月20日、天正少年使節団を伴ったヴァリニャーノは、長崎を出航しゴアに向かった。
1590(天正18)年7月、ヴァリニャーノは少年使節団を伴い長崎に上陸した。翌年3月に豊臣秀吉に謁見し、間もなく長崎に戻った。1592(天正20)年10月、ヴァリニャーノは長崎を出航し、マカオに向かった。三度目の来日は1598(慶長3)年8月で、このときはほとんど長崎にとどまり、1603(慶長8)年1月に離日した。
以下は、第1回日本巡察にもとづいて執筆された『日本諸事要録(S. I. SUMARIO de las cosas de Japón)』(1583)からの抜粋である。本書は長らくイエズス会機密文書として眠っていたが、1954年に初めて出版された。
人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨーロッパ人よりも優れている。 (p. 5) 国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供達は我等の学問や規律をすべてよく学びとり、ヨーロッパの子供達よりも、はるかに容易に、かつ短期間に我等の言葉で読み書きすることを覚える。また下層の人々の間にも、我等ヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。 (p. 5) 牧畜も行なわれず、土地を利用するなんらの産業もなく、彼等の生活を保つ僅かの米があるのみである。したがって一般には庶民も貴族もきわめて貧困である。ただし彼等の間では、貧困は恥辱とは考えられていないし、ある場合には、彼等は貧しくとも清潔にして鄭重に待遇されるので、貧苦は他人の目につかないのである。 (p. 6) 日本人の家屋は、板や藁で覆われた木造で、はなはだ清潔でゆとりがあり、技術は精巧である。屋内にはどこもコルクのような畳が敷かれているので、きわめて清潔であり、調和が保たれている。 (p. 6) 日本人は、全世界でもっとも面目と名誉を重んずる国民であると思われる。すなわち、彼等は侮蔑的な言辞は言うまでもなく、怒りを含んだ言葉を堪えることができない。したがって、もっとも下級の職人や農夫と語る時でも我等は礼節を尽くさねばならない。 (p. 6) しかして国王及び領主は、各自の国を能うる限り拡大し、また防禦しようと努めるので、彼等の間には通常戦争が行なわれるが、一統治権のもとにある人々は、相互の間では平穏に暮らしており、我等ヨーロッパにおけるよりもはるかに生活は安寧である。それは彼等の間には、ヨーロッパにおいて習慣となっているような多くの闘争や殺傷がなく、自分の下僕か家臣でない者を殺傷すれば死刑に処されるからである。 (p. 10) 日本人はきわめて忍耐強く、飢餓や寒気、また人間としてのあらゆる苦しみや不自由を堪え忍ぶ。それは、もっとも身分の高い貴人の場合も同様であるが、幼少の時から、これらあらゆる苦しみを甘受するよう習慣づけて育てられるからである。 (p. 11) また彼等は、感情を表すことにははなはだ慎み深く、胸中に抱く感情を外部に示さず、憤怒の情を抑制しているので、怒りを発することは稀である。 (p. 12) 次に述べるように、日本人は他のことでは我等に劣るが、結論的に言って日本人が、優雅で礼儀正しく秀でた天性と理解力を有し、以上の点で我等を凌ぐほど優秀であることは否定できないところである。 (p. 14) 彼等の間には、罵倒、呪詛、悪口、非難、侮辱の言葉がなく、また戦争、借用者、海賊の名目をもってなされる場合を除けば、盗みは行なわれず、(窃盗)行為はひどく憎悪され、厳罰に処せられる。 (p. 16) だが彼らに見受けられる第一の悪は色欲上の罪に耽ることであり、これは異教徒には常に見出されるものである。……最悪の罪悪は、この色欲の中でもっとも堕落したものであって、これを口にするには堪えない。彼等はそれを重大なことと考えていないから、若衆達も、関係のある相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠蔽しようとはしない。 (p. 16) この国民の第二の悪い点は、その主君に対して、ほとんど忠誠心を欠いていることである。主君の敵方と結託して、都合の良い機会に主君に対し反逆し、自らが主君となる。反転して再びその味方となるかと思うと、さらにまた新たな状況に応じて謀反するという始末であるが、これによって彼等は名誉を失いはしない。 (p. 17) 日本人の第三の悪は、異教徒の間には常に一般的なものであるが、彼等は偽りの教義の中で生活し、欺瞞と虚構に満ちており、嘘を言ったり陰険に偽り装うことを怪しまないことである。……既述のように、もしこの思慮深さが道理の限度を超えないならば、日本人のこの性格から、幾多の徳が生まれるであろう。だが日本人はこれを制御することを知らぬから、思慮は悪意となり、その心の中を知るのに、はなはだ困難を感じるほど陰険となる。そして外部に表われた言葉では、胸中で考え企てていることを絶対に知ることはできない。 (p. 18) 第四の性格は、はなはだ残忍に、軽々しく人間を殺すことである。些細なことで家臣を殺害し、人間の首を斬り、胴体を二つに断ち切ることは、まるで豚を殺すがごとくであり、これを重大なこととは考えていない。だから自分の刀剣がいかに鋭利であるかを試す目的だけで、自分に危険がない場合には、不運にも出くわした人間を真っ二つに斬る者も多い。……もっとも残忍で自然の秩序に反するのは、しばしば母親が子供を殺すことであり、流産させる為に、薬を腹中に呑みこんだり、あるいは生んだ後に(赤子の)首に足をのせて窒息させたりする。 (p. 19) 日本人の第五の悪は、飲酒と、祝祭、饗宴に耽溺することである。その為には多くの時間を消費し、幾晩も夜を徹する。この饗宴には、各種の音楽や演劇が伴うが、これらはすべて日本の宗教を日本人に教えた人々が考案したもののように思われる。この飲酒や類似の饗宴、過食は、常に他の多くの堕落を伴うので、これによって日本人の優秀な天性がはなはだしく損なわれている。 (p. 19) 彼等のことごとくは、ある一つの言語を話すが、これは知られている諸言語の中でもっとも優秀で、もっとも優雅、かつ豊富なものである。その理由は、我等のラテン語よりも(語彙が)豊富で、思想をよく表現する(言語だ)からである。 (p. 26) 上述のすべての点において、真実の精神が彼等の心の中に宿るならば、彼等は我等よりも優れた素質を有すると言いうる。なぜなら、彼等が天性として有するものに我等が到達する為には、我等は大いなる努力を必要とするからである。 (p. 98) 彼等は生来その性格は萎縮的で隠蔽的であるから、心を触れ合おうという気持を起こさせ、納得せしめることが必要である。なぜならば、信仰や真実で堅固な徳操に到達する為、及び心の曇りを除いて不快や誘惑を退ける為には、日本人の天性であり、習性となっているこの萎縮的性癖ほど大きい障害はないからである。 (p. 102) したがってこの報告書の中でたびたび言及したように、我等が習慣や性格のまったく反対である外国人であり、また政治上の統治という問題には触れず、それによって彼等を援助するようなことはまったく無く、かえって既述のように大きい不幸が惹起しているにもかかわらず、我等が日本に居住することを日本人が認めているのは驚嘆に値する。これにより、日本人がいかに道理に従う人々であるかが判明する。 (p. 133) |
村上直次郎譯註『ドン・ロドリゴ日本見聞録/ビスカイノ金銀島探検報告』奥川書房, 1941.
ドン・ロドリゴ、本名ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ (Rodrigo de Vivero y Velasco, 1564~1636) はメキシコの政治家で、江戸初期に日本に漂着し見聞記を残した。1608年6月からフィリピン臨時総督としてマニラに滞在したロドリゴは、次期総督と交代のため1609(慶長14)年7月メキシコへの帰路に着いた。しかし台風のためロドリゴを乗せたサン・フランシスコ号は上総国岩和田村(千葉県御宿町)の海岸で難破し、地元民に救助された。大多喜藩主本多忠朝に厚遇されたロドリゴ一行は、江戸へ送られ徳川秀忠と会見し、さらに駿府城で徳川家康とも会見した。豊後でサンタ・アナ号が遠洋航海に耐えないことを確認したロドリゴは、江戸に引き返した。そして江戸湾に停泊中だった安針丸を提供され、サン・ブエナベンツーラ号と改名し、1610年8月1日(慶長15年6月13日)出航した。同号は10月27日、無事にマタンチェルに到着した。ロドリゴは日本で救助され厚遇されたためか、カトリックらしい偏見はあるものの、日本人に対しかなり好意的である。
日本に於ては地震を恐れ、大身等の通常睡眠し又居住する室は石を以て造らず、而も其巧妙に工作し、金銀の各種の型及び色を用ひ、啻に天井のみならず、床より上方に至るまで常に見るべきものあり。予はトノの居りし室に至り坐に着きて暫く語りたる後、彼は武器庫を示したるが、一箇の騎士の所有にあらず、國王の所有するものなりと思はれたり。 (pp. 13-14) 此市[江戸]及び街路には觀るべき物甚だ多く、市政も亦大に見るべき所あり。ローマ人の政治と競ふことを得べし。市街は互に優劣なく、皆一様に幅廣く又長くして直なること西班牙の市外に勝れり。家は木造にして二階建なるものあり、而して外觀に於ては我が家屋優良なれども、内部の美は彼遙に勝れり。又街路はC潔にして何人も之を蹈まずと思はるゝ程なり。 (pp. 16-17) 次に宮中[江戸城]の第一室あり、床も壁も天井も見るべからず。何となれば床には疊(tatames)と稱し我が席よりも遙に美しきものあり。疊は端に金の織物、金にて花を[繍 繡]出せる天鵞絨等の飾を施し、方形にして机の如く互に並べ合はすべき甚だ精巧なるものなり。壁は皆木と板とを以て造り、金銀竝に繪具を以て狩獵の繪を畫けり。天井も亦之に同じく、木地は見ることを得ず。我等外國人は此の第一室にて觀たる所に勝りたるものは望むべからずと考へしに、第二室は之より好く、第三室は更に之に勝り、内に進むに從ひ益々巧妙にして美麗なり。 (p. 22) 予は五日間旅行して終に駿河(Surrunga)に着きしが、太子の豫告に依り各所に於て大に款待せられたり。若し此野蠻人の間にデウス缺けず、我國王の臣下たらば、予は古郷を捨てゝ此地を選ばんとす。 (p. 25) 駿河より都まで八十レグワにして、道は平坦にして愉快なり。途中數個の水多き河あれども、一方より他方に曳船にて渡り、船は甚だ大にして旅客の馬自由に之に入ることを得べし。旅客者多數なれども途中無人の地に宿泊することなし。何となれば前に述べたる如く、日本國中一レグワの四分の一の不毛の地なく、若し村小にして家屋處々に散在せば驚くこと少なきも、此の如く廣大にして交通盛に、又街路及び家屋のC潔なる町々は世界の何れの國に於ても見ることなきこと確實なり。 (p. 42) 予は思ふに、當地[大坂]は日本國中最も立派なる所にして、人口は二十萬あり、海水其家屋に波打つが故に、非常に潤澤に海陸の贈物を具有せり。家屋は二階建を通常とし、構造巧なり。 (p. ) 日本人は戰を好み、支那人、高麗人、テレナテ人(Therenates)其他マニラ付近の何れの國民よりも勇敢なり。彼等は長銃を用ひ、其發射は確實なれども、速度遅し。又大砲を有すれども、少數にして操方拙なり。戰爭に於ては好く命令に服從す。但し今は何國とも戰はず、又之と戰爭を開く者あるべしとも思はれず。大支那若し其武力を用ふることあるも、日本には地勢上攻陥不能なる城多數あり。 (p. 70) 此國は天の授けたる特別優良なる物を有し、氣候はイスパニヤの氣候に似たり、但し冬は遙に寒冽なり。饑餓及び疫病を知らず、又其話を聞きたることなし。其國の最大なる不幸は、貧民に對する富者の壓迫酷使なり。然れども小麥、大麥及び米に不作の年なく、収穫多量なるが故に、能く諸人を養ひ、寧ろ外國の人及び船の來りて糧食を輸出せんことを希望せり。 (pp. 70-71) 日本人は飲酒の悪癖あり、之より他の更に大なる惡事を生ず、即ち己の有する妻を以て滿足せず、力の限多くせんとし、時には百人を超ゆることあり。彼等は妻に對して忠實ならざれども、彼女等は之に反し、嫁したる婦人の夫に背きて不義を行ひたるを聞くことは甚だ稀にして、珍しき事なり。日本人は甚だ鋭敏なれども堅實ならず、商賣に巧妙にして、此業に於て他人を欺くこと最も巧妙なる者を尊重す。 (p. 71) 日本は嘗て他の國民より敗られ又は征服せられたることなし。支那人及び高麗人は來り戰ふこと數次なりしが、常に手を頭に當てゝ引還したることは他の人達の記するが如し。彼等は穎知にして互に禮儀を重んず。 (p. 95) 彼等の市政は優良にして、之を治むる者は非常なる注意を以て公事に當れり。家屋は甚だC潔にして、市外に至る迄大にC潔にす。其土地は金銀に富み、若し鑛夫及び水銀あらば更に多量を収むべし。小麥はイスパニヤよりも良く、産額又多量にして通常一アネガ〔フアネガ(Fanega)にして六十四、六アレア(一アレアは十メートル平方)に當る〕より五十アネガ〔Fanega穀量にして位置フアネガ五五、五リートルに當る〕を収納すれども、日常の食料は米なり。パン(pan)は果物の如く少量に食し、肉は狩獵に依りて殺したるものゝ肉の外は食せず。狩獵及び漁業の獲物は鹿・兎・鶉・鴨其他川及び湖上の鳥類等我等よりも多く有せり。 (p. 96) 日本人の政治は世界の諸國に就きて予が知るものに勝れり。デオス(Dios)〔神〕を識らざる國民にして、此の如く完全にして慈悲に適へる法律を有するは忌々しき事と思はる。此國に於ては前に述べたるが如く、惡事は皆罰するが故に、盗賊少く彼等の爲めに道路の不安なる事全然なし。 (p. 100) 婦人は持參金なくして嫁し、貴人及び大身達は其身分に相當なりと考ふる數の夫人を有し、或は五十人六十人を超ゆることあれども、第一を以て最も大なる夫人とし、此人の子女を最も尊敬す。然れども他の何れの夫人寵幸せらるゝも之を侮辱となすことを得ず。甚だ貧窮なる者は唯一人を養ひ、他は其資力に應じて二人又は四人を養へり。 (p. 102) 日本國民は勇敢傲慢にして、之を誇ること思慮ある理智の人の如くならず寧ろ野蠻人に似たり。何となれば啻に戰場に於て勇敢なるのみならず、若し犯罪の爲め死刑の宣告を受けたる時は、刑吏の之を執行するを欲せず、自殺するが故なり。 (p. 107) 此國人は物を與ふるに吝なり。又性急にして忍從ならざるを常とす。 (p. 108) 此六十六箇國には多數の都市あり、廣大にして人口多く、C潔にして秩序正しく、欧洲に於て之と比較すべきものを發見すること困難なるべし。而して陸路を行くこと二百レグワを超ゆるも人の居住せざる地一レグワを見ること稀なり。家屋市街及び城郭は善美にして、これを過賞すること難し。人民の數非常に多く、悉く國内に容るゝこと能はざるが如し。人口二十萬の市多く、都の市は八十萬を超えたり。此等の住民若しイスパニヤ土人の如く野蠻ならば恐るゝに足らざれども、彼等は長銃を有し最も熟練せる兵士の如く巧妙に之を用ふ。又弓、矢、鎗、及びカタナ(cathanas)と稱する劍及び短劍を有す。而してイスパニヤ人と同じく勇敢なるのみならず議論及び理解の能力に於ても之に劣ることなし。 (pp. 113-114) 是故に國内には常に甚だ多數の武装せる兵士ありと言ふことを得べし。又力あり名譽を重んずる國民なるが故に、其勇氣に付十分に信頼することを得べし。而して軍事上の訓練に於ては我等に劣る所あれども、生命を輕しとすることに於ては、劣る所なきのみならず、只外見の爲め之を失ふ者も多數あり。 (p. 155) |
村上直次郎譯註『ドン・ロドリゴ日本見聞録/ビスカイノ金銀島探検報告』奥川書房, 1941.
セバスティアン・ビスカイノ (Sebastian Vizcaino, 1548~1615) はスペインの探検家で、日本の東方にあるとされた伝説上の金銀島探索の目的を持って訪日した。ドン・ロドリゴが帰国すると、ビスカイノは答礼大使に任命され、サン・フランシスコ号で1611年6月10日(慶長16年4月30日)浦賀に上陸した。江戸で徳川秀忠、駿府で徳川家康に謁見後、浦賀に戻って金銀島探検の準備を進めた。10〜12月には東北地方を探検し、仙台を経て根臼まで北上し、そこから江戸に引き返した。1612(慶長17)年5〜7月には、京都・大坂・堺を訪れて江戸に戻った。9月16日(陰暦8月21日)ようやく浦賀を出航し、日本の東方を探索したが、台風に遭って探検を断念し浦賀に戻った。サン・フランシスコ号は破損が激しいため、伊達家と慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号に同乗する契約を結んだ。同号は1613年10月27日(慶長18年9月14日)出航し、12月サカトラに到着した。ビスカイノは江戸での交易が不調だった上に金銀島も発見できなかったためか、八つ当たり気味に日本人の悪口を並べている。
此國に於ては皇帝も領主等も少しも確定安全なる事なし。蓋し他の人々の官職を有するは暴力に據る所にして、力多き者多く達成するが故なり。 (p. 142) 貴族は禮儀正しきが、又虚榮心、没常識及び慢心大にして、血統及び武器を重んず。又外見を張るが故に収入多額なれども常に負債を有す。此の如くなるは又皇帝の事〔政策の意なり〕に因る所なり。 (p. 144) 一般人民は甚だ惡しく、予は之を誇張することを好まざれども、世界に於て最も劣惡なる者なり。彼等は金錢の爲め子女及び妻女を賣却す。 (p. 144) 浮浪人又は無職の人なし。彼等の生活は何に依るか直に明白となり三日以上一所に居ることを得ざるが故にして、職無く主人無き者を發見すれば之を斬る。 (p. 146) 此國は長さ及び幅五百レグワを超ゆるに係らず、言語は一にして文字の書方も一様なり。男女共に皆讀み書き又計算をなし、商賣の事に甚だ機敏にして猶太人も彼等には及ばず。又神は此の惡しき國民に其希望する所を悉く與へ給へるが如く、甚だ優雅にして疫病の何たるかを知らず、病の流行することなく、内科醫又は外科醫の必要なし。 (p. 147) 彼等は大なる者も小なる者も皆試合供應酒宴をなし、一年の大部分は之を行へり。領主及び司祭は一層甚だしく皆逸樂の生活をなせり。 (p. 147) |
フランソア・カロン(幸田成友訳注)『日本大王国志』東洋文庫90, 平凡社, 1967.
フランソア・カロン (Francits Caron, 1600~1673) はフランス系オランダ人で、オランダ東インド会社の日本専門家として活躍し、平戸のオランダ商館長もつとめた。カロンは1619(元和5)年、貿易船の料理方手伝いとして初来日し、1626(寛永2)年2月にはオランダ商館助手になった。この頃には日本語に能通しており、翌年には台湾長官ピーター・ヌイツの江戸参府の際に通訳をつとめた。ヌイツに従いいったん台湾に渡ったが、末次船拘留事件で捕虜となり、大村に抑留された。1630(寛永7)年5月にバタビヤ(ジャカルタ)に赴いて状況を報告し、10月には交渉のため日本に戻った。ようやく1632(寛永9)年にオランダ船出航禁止の解除を勝ち取り、その報告のためバタビヤに赴いた。1633(寛永10)年には商館長次席として平戸に赴任し、1634(寛永11)年3月と1636(寛永13)年5月に徳川家光に謁見した。1636年6月には平戸に戻り、バタビヤ商務総監フィリップス・ルカスゾーンの質問に答えて『日本大王国志』を執筆した。島原の乱の最中の1638(寛永15)年初、カロンはバタビヤに赴き、そこで平戸のオランダ商館長の辞令を受けた。9月に平戸に戻り、1639(寛永16)年2月の前商館長ニクラス・クーケバッケルの離日とともに館長職を継いだ。6月にカロンは幕府に献上した迫撃砲の実射を麻生で行い、幕府側を満足させた。1640(寛永17)年4月、カロンは江戸に参府し商館を長崎に移す計画を阻止しようと運動したがはかばかしくなく、家光への謁見もかなわなかった。11月、平戸で「今後商館長は1年以上日本に滞在すべからず」との命令を受けたカロンは、これを承諾して翌年2月長崎を発ちバタビヤに向かった。
『日本大王国志 (Besechrijvinghe van het machtigh Coninckrijck Iapan) 』は1645年にオランダで出版され、ケンペルの『日本誌』が出るまで唯一の日本紹介書として重視された。
位置の高下を問わず、夫人はすべて政治上または社会的の事業に関係せず、一意主人に仕えることに力め、それが女の守るべき道であるとして教えられている。仮に尋ねた所で何らの返事を得ず、主人は怒って沈黙するのが通例である。故に賢い夫人は主人が毫も不満足を起こさぬように注意警戒する。 (p. 135) 微罪と雖も死に当たる。特に盗みはたとえ一スタイフェルでも死に値す。賭博は死罪、殺人は過失であっても、謀殺であっても死罪、その他我々の本国で死刑に当たるものは皆当国でも同様である。刑法上の事件は個人の犯罪により個人が死に処せられるのみならず、父・兄・弟及び男子は連座して殺され、金財産は没収せられ、母・姉妹及び女子は奴隷に下され売却される。 (p. 143) 日本国民殊に無邪気のように見える婦人は、悲痛の色を示さず、従容泰然として死に就く。 (p. 148) この国民は特に迷信的でも無ければ宗教的でも無い。彼等は朝夕、食膳・食後・あるいは時々祈ることも無い。一ヵ月に一度寺院に参詣する者は信心深いと言わざるを得ぬ。 (p. 150) 僧侶並に貴族大身中には男色に汚れているものがあるが、彼らはこれを罪とも恥ともしない。 (p. 154) 夫婦の間に自由選択は無い。凡そ結婚は双方の両親、両親が無ければ最も近い親戚の相談決定する所である。一夫一婦を本則とするが、妻が夫の気に入らぬ場合、夫は適当且つ名誉ある方法を以て妻を離別し得る。 (p. 164) 彼らは子供を注意深くまた柔和に養育する。たとえ終夜喧しく泣いたり叫んだりしても、打擲することはほとんど、あるいは決して無い。 (p. 166) この国民は信用すべしと認められる。彼らは第一の目的である名誉に邁進する。また恥を知るを以て漫に他を害うことは無い。彼らは名誉を維持するためには喜んで生命を捨てる。 (p. 169) |
ケンペル(斎藤信訳)『江戸参府旅行日記』東洋文庫303, 平凡社, 1977.
エンゲルベルト・ケンペル (Engelbert Kaempfer, 1651~1716) はドイツの医学者・博物学者で、1690〜92(元禄3〜5)年にオランダ商館の医師を勤めた。在任中の1691年2月〜5月と1692年3月〜5月の二度にわたって、長崎・江戸間を往復した。著書『日本誌 (Geschichte und Beschreibung von Japan) 』は死後の1717年にまず英訳本が出版され、ドイツ語版は1777〜79年にようやく出版された。東洋文庫版は、その第二巻第五章に当たる。
それから馬に乗っている日本人は、遠くから見ると非常に滑稽な姿勢をしている。なぜかというと、日本人は元来背が低く肩幅が広い体格をしているし、そのうえ馬上で大きな帽子をかぶり、幅が広くふくらんだ外套を着、ダブダブのズボンをはいているので、背丈と横幅がほとんど同じくらいになってしまうからである。 (p. 12) 田畑や村の便所のそばの、地面と同じ高さに埋め込んだ蓋もなく開け放しの桶の中に、この悪臭を発するものが貯蔵されている。百姓たちが毎日食べる大根の腐ったにおいがそれに加わるので、新しい道がわれわれの眼を楽しませるのに、これとは反対に鼻の方は不快を感ぜずにはいられないことを、ご想像いただきたい。 (p. 19) そしてどんな小部屋でもきれいに飾ってあって、そうでないのを見受けることがないのは、国内の材料でこと足りるからである。従ってきれいにしておくことが一層容易なのである。家は杉や松の材木で建てられ、前から後ろへ風通しが良いように開け放すことができるので、大へん健康的な住居と考えてよい。 (p. 27) しかしながら、これらの法律を厳密に考察すると、われわれキリスト教徒の国々よりも、この大きな異教の国では、刑場が人間の肉体で満ち溢れ、犯罪人の血で煙ることは少ない。平生は自分の生命をそれほどとも思っていないこのタタール人的な強情な国民も、全く避け難い死刑に対する恐怖の念で甚だしく抑制され、犯罪の減少を可能にしている。 (pp. 31-32) だから中国人が日本の国を、中国の売春宿と呼んだのは不当ではない。なぜなら中国では娼家と売春とは厳罰を課してこれを禁止しているからである。だから若い中国人は情欲をさまし銭を捨てに、よく日本にやってくるのである。 (p. 61) さて、長崎からの同伴者のような、人間のくずみたいな連中は除外しなければならないが、旅館の主人らの礼儀正しい応対から、日本人の礼儀正しさが推定される。旅行中、突然の訪問の折りにわれわれが気付いたのであるが、世界中のいかなる国民でも、礼儀という点で日本人にまさるものはない。のみならず彼らの行状は、身分の低い百姓から最も身分の高い大名に至るまで大へん礼儀正しいので、われわれは国全体を礼儀作法を教える高等学校と呼んでもよかろう。そして彼らは才気があり、好奇心が強い人たちで、すべて異国の品物を大へん大事にするから、もし許されることなら、われわれを外来者として大切にするだろうと思う。 (pp. 70-71) 住民は均整がとれていて小柄である。ことに婦人に関しては、アジアのどんな地方でも、この土地の女性ほどよく発育し美しい人に出会うことはない。ただ、いつもこってりと白粉を塗っているので、もしもその楽しげで朗らかな顔つきが生気を示すことがなかったら、われわれは彼女たちを操り人形だと思ったであろう。 (p. 87) 見附の宿場はずれの小さい部落の手前には、ふしだらな女性が大勢いた。戸外には俄雨でずぶぬれになった瀕死の僧侶がうつぶせになっていた。それでもまだ生きている証拠にうめき声を出していたので、みんなは彼のことを死んでいるとは考えず、手荒く扱わないようにしていた。しかし、石も涙を流すかもしれないこうした場面にも、日本人は全く冷淡であった。 (p. 212) |
S・ワクセル(平林広人訳)『ベーリングの大探検』世界教養全集23, 平凡社, 1961.
S・ワクセル (Sven Waxell, 1701~1762) はスウェーデン人で、ロシア海軍に入り1733〜49年のベーリングの探検航海で副官を務めた。探検の一環として、1739(元文4)年には日本遠征が行なわれ、スパンベヤ司令の第一船「天使長ミカエル」号とワルトン副指令が率いる第二船「希望」号がはぐれ、別々に日本人と接触した。
すると二隻の漁船がこぎ寄せてきた。漁民が船に上がってきて、新鮮な魚、米、大きいタバコの葉、塩漬けにしたキュウリなどをはじめいろいろな小さい売り物をひろげた。だがそれを売ろうとするのではなく、水夫たちに、何か小さい持ち物と交換してほしいという態度をして見せるのであった。彼らの交易態度はすこぶる合理的で、眼識も相当に高いものであった。 (p. 217) スパンベヤは、日本人の観察とその形態をつぎのように描いている。日本人は、なよなよしていて発育不十分な感じで、身長だけは中背に見えるが、これならば正しくたくましい壮者というような男に遭遇することはほとんどなかった。 (p. 218) そのはじめて来た舟艇は、ふたたび姿を現した。こんどはその船にいろいろな細かな品物を積んできて、それを買わせるか、またはロシアの品物と交換したい様子をして見せた。なかでも異彩を放ったものは、漆黒の染め味を出しているリンネルであった。司令も世界中これほどすばらしい染め色の出ているものを見たことがないといっていた。 (p. 219) スパンベヤ司令は、その後さらに数日にわたって日本の沿岸をまわって、つぶさにその実態を観察した結果、この国は容易ならない国であることを知った。彼は、よくもこの国を目ざして来たものと喜びにたえなかった。その一端をあげてみるとしても、まずその無数の船舶を見ただけでもわかることで、ヨーロッパで見られるものと比較しても、けっして見おとりのしない優秀なものが少なくない。同じく貨幣を収集してみても、十分にその優秀な文化を反映している。その他はいうにおよばず、その能力はあなどれない国民性をもっている。彼は口をきわめて、よくもこの国に来ることができた、日本こそ、やがて親交を結ぶべき国であると叫んだ。 (p. 219) |
C・P・ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』東洋文庫583, 平凡社, 1994.
C・P・ツュンベリー (Carl Peter Thunberg, 1743~1828) はスウェーデンの医学者・植物学者で、1775(安永4)年8月に長崎に着き、翌年春にオランダ商館長フェイト (Arend Willem Feith) の江戸参府に随行、同年12月離日した。『1770年から1779年にわたるヨーロッパ、アフリカ、アジア旅行記 (Resa uti Europa, Afrika, Asia, förrättad ären 1770-1779) 』は1788〜93年にかけてスウェーデンで出版され、東洋文庫版はその日本に関する部分(第3巻の全部と第4巻の一部)である。
日本帝国は、多くの点で独特の国であり、風習および制度においては、ヨーロッパや世界のほとんどの国とまったく異なっている。そのため常に驚異の目でみられ、時に賞讃され、また時には非難されてきた。地上の三大部分に居住する民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。しかし、多くの点でヨーロッパ人に遅れをとっていると言わざるを得ない。だが他方では、非常に公正にみてヨーロッパ人のうえをいっているということができよう。他の国と同様この国においても、役に立つ制度と害をおよぼす制度、または理にかなった法令と不適切な法令の両方が共存していると言える。しかしなお、その国民性の随所にみられる堅実さ、法の執行や職務の遂行にみられる不変性、有益さを追及しかつ促進しようという国民のたゆまざる熱意、そして一〇〇を超すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。このように、あまねくかつ深く祖国を、お上を、そして互いを愛しているこんなにも多数の国民がいるということ、自国民は誰一人国外へ出ることができず、外国人は誰一人許可なしには入国できず、あたかも密閉されたような国であること、法律は何千年も改正されたことがなく、また法の執行は力に訴えることなく、かつその人物の身上に関係なく行なわれるということ、政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、君主も臣民も等しく独特の民族衣装をまとっていること、他国の様式がとりいれられることはなく、国内に新しいものが創り出されることもないこと、何世紀ものあいだ外国から戦争がしかけられたことはなく、かつ国内の不穏は永久に防がれていること、種々の宗教宗派が平和的に共存していること、飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くに人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。 (pp. 13-14) 通詞は洋書の大愛好家であり、日本へやってくる商人から毎年一冊ないし数冊の洋書を購入する。彼らは本を所有しているだけでなく、それを熱心に読み、かつ学んだことを記憶する。その上、ヨーロッパ人から何かを学ぼうという意欲に燃えており、あらゆる事柄、とくに医学、物理学、自然誌に関してたえず多くの質問をあびせるので、しばしばうんざりさせられる。 (pp. 46-47) 日本の陶磁器は藁を使ってごく丁寧にきちんと荷造りされているので、輸送中に割れることはまずない。これら陶磁器類は、見た目にはたしかに美しくも粋でもなく、どちらかといえば粗野で、厚ぼったく下手な塗りである。したがってこの点では、広東から輸出される中国製品には遥かに劣るが、熱に強いという長所があり、火の上においても簡単にひび割れするようなことはない。 (p. 61) 日本人には平気で放屁するという悪癖がある。ヨーロッパならば大変な不作法となるが、日本人は恥ずべきこととは思っていない。他の点では、礼儀をわきまえた他民族と同じくきちんとしてる。 (p. 77) まったく奇異に思えるのは、幼女期にこのような家に売られ、そこで一定の年月を勤めたあと完全な自由を取り戻した婦人が、はずかしめられるような目で見られることなく、後にごく普通の結婚をすることがよくあることである。 (p. 81) 日本人にとって、一般に羞恥はあまり美徳ではなく、また不貞はひろく行なわれているようである。女性は時どき仕切りのない場所で入浴しており、オランダ人が一度ならず目の前やそばを通っても、身を隠すような気配はほとんどない。 (p. 81) 日本は一夫一婦制である。また中国のように夫人を家に閉じ込めておくようなことはなく、男性と同席したり自由に外出することができるので、路上や家のなかでこの国の女性を観察することは、私にとって難しいことではなかった。 (p. 82) 既婚女性が未婚者とはっきり区別できるのは、歯を黒くしているからである。日本人の好みでは黒い歯はまさしく美しいものとされている。だが、大半の国なら家から夫が逃げだしてしまうしろものだ。大きな口にぎらぎらした黒い歯が見えるのは、少なくとも私にとっては醜く不快なものであった。 (p. 82) このような状況に、私は驚嘆の眼を瞠った。野蛮とは言わぬまでも、少なくとも洗練されてはいないと我々が考えている国民が、ことごとく理にかなった考えや、すぐれた規則に従っている様子を見せてくれるのである。一方、開化されているヨーロッパでは、旅人の移動や便宜をはかるほとんどの設備が、まだ多くの場所においてまったく不十分なのである。 (p. 107) この国民は絶えず清潔を心がけており、家でも旅先でも自分の体を洗わずに過ごす日はない。そのため、あらゆる町や村のすべての宿屋や個人の家には、常に小さな風呂小屋が備えられ、旅人その他の便宜をはかっている。 (p. 121) 注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。まったく嘆かわしいことに、もっと教養があって洗練されているはずの民族に、そうした行為がよく見られる。学校では子供たち全員が、非常に高い声で一緒に本を読む。そのような騒々しい場所では、ほとんど聴力を失ったようになる。 (p. 121) その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ち良い旅ができたのはオランダ以外にはなかった。また人口の豊かさ、よく開墾された土地の様子は、言葉では言い尽くせないほどである。国中見渡す限り、道の両側には肥沃な田畑以外の何物もない。 (p. 129) 私はヨーロッパ人が滅多に入国できないこの国で、長い旅の間に、珍しい道の植物をたくさん採集することができるであろうと想像していた。しかしこうした望みが、この国ほど当てはずれになった所はない。私はここで、ほとんど種蒔きを終えていた耕地に一本の雑草すら見つけることができなかった。それはどの地方でも同様であった。このありさまでは、旅人は日本には雑草は生えないのだと容易に想像してしまうだろう。しかし実際は、最も炯眼な植物学者ですら、よく耕作された畑に未知の草類を見いだせないほどに、農夫がすべての雑草を入念に摘みとっているのである。 (p. 131) 各家に不可欠な私的な小屋〔厠〕は、日本の村では住居に隣接して道路に向けて建てられている。その下部は開いているので、通りすがりの旅人は表から、大きな壷のなかに小水をする。壷の下部は土中に埋められている。尿や糞、また台所からの屑類は、ここでは耕地を肥沃にするために極めて丹念に集められているが、暑熱下にしばしばそこから非常に強く堪え難いほどの悪臭が発生する。 (p. 138) 江戸と都を結ぶ街道のあちこちに、たいていは足に障害のある乞食がいた。この国の他の場所では障害者はごく稀だったので、これは私には極めて異常なことに思われた。 (p. 200) 日本人は体格がよく柔軟で、強靭な四肢を有している。しかし彼らの体力は、北ヨーロッパ人のそれには及ばない。男性は中背で、一般にあまり太っていないが、何回かはよく太った人を見た。 (p. 218) 一般的に言えば、国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き、善良で友情に厚く、率直にして公正、正直にして誠実、疑い深く、迷信深く、高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である。 (p. 219) 自由は日本人の生命である。それは、我儘や放縦へと流れることなく、法律に準拠した自由である。法律はきわめて厳しく、一般の日本人は専制政治化における奴隷そのものであると信じられてきたようである。しかし、作男は自分の主人に一年間雇われているだけで奴隷ではない。またもっと厳しい状況にある武士は、自分の上司の命令に服従しなければならないが、一定期間、たいていは何年間かを勤めるのであり、従って奴隷ではない。日本人は、オランダ人の非人間的な奴隷売買や不当な奴隷の扱いをきらい、憎悪を抱いている。身分の高低を問わず、法律によって自由と権利は守られており、しかもその法律の異常なまでの厳しさとその正しい履行は、各人を自分にふさわしい領域にとどめている。 (p. 220) 礼儀正しいことと服従することにおいて、日本人に比肩するものはほとんどいない。お上に対する服従と両親への従順は、幼児からすでにうえつけられる。そしてどの階層の子供も、それらについての手本を年配者から教授される。その結果、子供が叱られたり、文句を言われたり打たれたりすることは滅多にない。 (p. 221) この国民の好奇心の強さは、他の多くの民族と同様に旺盛である。彼らはヨーロッパ人が持ってきた物や所有している物ならなんでも、じっくりと熟視する。そしてあらゆる事柄について知りたがり、オランダ人に尋ねる。それはしばしば苦痛を覚えるほどである。 (p. 222) この国民は必要にして有益な場合、その器用さと発明心を発揮する。そして勤勉さにおいて、日本人は大半の民族の群を抜いている。彼らの鋼や金属製品は見事で、木製品はきれいで長持ちする。その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである。農夫が自分の土地にかける熱心さと、そのすぐれた耕作に費やす労苦は、信じがたいほど大きい。 (pp. 222-223) 節約は日本では最も尊重されることである。それは将軍の宮殿だろうと粗末な小屋のなかだろうと、変わらず愛すべき美徳なのである。節約というものは、貧しい者には自分の所有するわずかな物で満足を与え、富める者にはその富を度外れに派手に浪費させない。節約のおかげで、他の国々に見られる飢餓や物価暴騰と称する現象は見られず、またこんなにも人口の多い国でありながら、どこにも生活困窮者や乞食はほとんどいない。一般大衆は富に対して貪欲でも強欲でもなく、また常に大食いや大酒のみに対して嫌悪を抱く。同時に、土地をタバコや他の無用な栽培には費やさないし、穀物は造酒と称するような有害なものの製造には利用されない。 (p. 223) 清潔さは、彼らの身体や衣服、家、飲食物、容器等から一目瞭然である。彼らが風呂に入って身体を洗うのは、週一回などというものではなく、毎日熱い湯に入るのである。その湯はそれぞれの家に用意されており、また旅人のためにどの宿屋にも安い料金で用意されている。 (p. 223) 正義は広く国中で遵守されている。君主が隣国に不正を働いたことはないし、古今の歴史において、君主が他国に対して野望や欲求を抱いた例は見いだせない。この国の歴史は、外国からの暴力や国内の反乱から自国を守った勇士の偉業に満ちている。しかし他国やその所有物を侵害したことについては、一度も書かれていない。日本人は他国を征服するという行動をおこしたことはないし、一方で自国が奪い取られるのを許したこともない。 (p. 224) 正義と忠実は、国中に見られる。そしてこの国ほど盗みの少ない国はほとんどないであろう。強奪はまったくない。窃盗はごく稀に耳にするだけである。それでヨーロッパ人は幕府への旅の間も、まったく安心して自分が携帯している荷物にほとんど注意を払わない。だがこうした一方で、少なくともオランダ商館に働く底辺の民衆は、桟橋からまたは桟橋への商品の荷揚げまたは荷積みのさいに、特に砂糖や銅をオランダ人からくすねることを罪とは思っていないのである。 (p. 225) 迷信は他の国民に比して、この国民の間により広くより深く行き渡っている。それは彼らがほとんど学問を知らないことと、異教の神学や無知な僧侶らがこの国民に教え込んだ原理によるものである。このような迷信は祭り、神事、神聖なる約束事、ある種の治療法、吉凶による日取りの決め方等々に見られる。 (p. 225) 高慢は国民の大きな誤りの一つといえよう。いくつかのアジア民族が傲慢にも馬鹿げた思い込みをしているように、自分たちの神聖なる起源は神、天、太陽、月に他ならないと思いこみ、自分らは他の人種よりすぐれてると信じこんでいる。とくにヨーロッパ人は劣ると思っている。 (pp. 225-226) 前述した日本人の高慢、正義、そして勇気について知っていれば、この国民が怒りを抱けば、自分の敵に対してまったく容赦しないということについて驚くことはなかろう。彼らは尊大で大胆であると同様にまた、極めて執念深く無慈悲でもある。そして己れの激しい憎悪をむき出しにすることなく、しばしばそれを異常なまでの冷淡さの内に隠し、復讐の好機をねらう。この国民ほど、激情に流されることのない者を、私は知らない。 (p. 228) 貞節は既婚未婚を問わず、まずまず守られてはいるが、それにもかかわらずこの国では不貞はありふれている。相手に不貞をはたらかれて屈辱をうけた者が自殺することもある。また当地では、ある男たちが妾を持つという不名誉な悪習がある。 (p. 282) 一般的に言って、日本の学問はヨーロッパの水準より遥かに劣っている。しかしながら国史は、他のほとんどの国より確かなものであろうとされ、家政学とともに誰彼の区別なくあらゆる人々によって学ばれる。日本人は、自国の繁栄と存続のために最も必要にして有益なものは農業であると考えており、世界で日本ほどことさら農業に重きをおいている国はない。 (pp. 283-284) 工芸は国をあげて非常に盛んである。工芸品のいくつかは完璧なまでに仕上がっており、ヨーロッパの芸術品を凌駕することもある。ただ、一方ではヨーロッパの水準に達しないものがある。日本人は鉄や銅を使って非常に良い仕事をする。絹地や木綿地は、他のインド地域からの生産品より勝ることもあるがほぼ同程度である。漆器製品、それも特に古い物は、これまでにそれを生産した他のどの民族の品にも勝っている。 (p. 287) 日本の法律は厳しいものである。そして警察がそれに見合った厳重な警戒をしており、秩序や習慣も十分に守られている。その結果は大いに注目すべきであり、重要なことである。なぜなら日本ほど放埓なことが少ない国は、他にはほとんどないからである。さらに人物の如何を問わない。また法律は古くから変わっていない。説明や解釈などなくても、国民は幼時から何をなし何をなさざるべきかについて、確かな知識を身につける。そればかりでなく、高齢者の見本や正しい行動を見ながら成長する。国の神聖なる法律を犯し正義を侮った者に対しては、罪の大小にかかわらず、大部分に死刑を科す。 (p. 291) このような国では農作業についての報酬や奨励は必要ない。そして日本の農民は、他の国々で農業の発達を今も昔も妨げているさまざまな強制に苦しめられるようなことはない。農民が作物で納める年貢は、たしかに非常に大きい。しかしとにかく彼らはスウェーデンの荘園主に比べれば、自由に自分の土地を使える。 (p. 301) 商業は、国内のさまざまな町や港で営まれており、また外国人との間にも営まれる。国内の商取引は繁栄をきわめている。そして関税により制限されたり、多くの特殊な地域間での輸送が断絶されるようなことはなく、すべての点で自由に行なわれている。どの港も大小の船舶で埋まり、街道は旅人や商品の運搬でひしめき、どの商店も国の隅々から集まる商品でいっぱいである。とくに大商業都市はそうである。またこれらの商業都市、とりわけ国の中心地に位置する都では、いくつかの大きな市が催され、品物の売買のために国中から人々がどっと集まる。 (p. 323) |
ゴロヴニン(井上満訳)『日本幽囚記』岩波文庫青33-421, 1943.
ワシリー・ミハイロヴィッチ・ゴロヴニン (Vasilii Mikhailovich Golovnin, 1776~1831) はロシアの海軍軍人で、1811(文化8)年に国後島で捕虜となり、二年二ヶ月にわたって函館および松前に幽閉された。
1804年にロシアの遣日使節レザーノフが来日し通商を求めたが、幕府に拒否されると武力強圧策を皇帝に進言した。レザーノフが明確な命令を出さずにペテルブルグに戻った後、フォヴォストフ大尉が自己の判断で1806年9月に樺太を襲撃した。この報せを受けた幕府は東北諸藩の兵力を動員し、北方警備に当てた。フォヴォストフはその後も千島に武力侵攻を続たため、幕府は1807年12月にロシア船打ち払い令を出した。ゴロヴニンを艦長とするディアナ号は、1809年9月にカムチャツカに到着した。1811年には千島諸島の測量に従事していたが、7月11日に国後島に上陸したところを、ゴロヴニン以下ロシア人七名が日本側の捕虜となった。
一行は最初は函館、後には松前に幽閉され、奉行所の尋問を受けた。1812年4月には、ムール少尉を除くロシア人六名が脱獄したが、九日後には全員が逮捕され、再び松前の獄舎に幽閉された。夏にリコルドが率いるディアナ号が国後島に来航し、高田屋嘉兵衛ら日本人数名をカムチャツカに拉致した。1813年6月、ディアナ号は再び国後島に来航し、交渉のため水兵のシーモノフとアイヌ人通訳アレクセイが出牢して国後島に向った。交渉は妥結し、ディアナ号は9月28日に函館に入港し、ロシア人捕虜全員を収容してカムチャツカに帰還した。
『日本幽囚記 (ЗАГИСКИ О ПРЙКЛЮЧЕНИЯХ В ПЛЕНУ У ЯПОНЦЕВ В 1811-13) 』は1816年にロシア海軍印刷局から出版され、直ちにヨーロッパ各国語に翻訳された。このうちドイツ語からオランダ語への重訳が1817年に出ており、それを馬場佐十郎らが日本語訳した『遭厄日本紀事』が1825(文政8)年に出た。
「日本人もわれわれと同様に、直角三角形の(と私はそれを圖示した)兩邊の平方の和は斜邊の平方に等しいと思ってゐますか」 「むろん、その通りです」と彼は答へた。 「何故です」とわれわれがたづねると、彼は最も争ひ難い方法でそれを證明した。といふのは兩脚器で紙上に圖形を描き、三つの正方形を切りぬき、そのうち兩邊の長さから取った二つの正方形を折つたり切つたりし、それを斜邊から作つた正方形の上にのせて、ぴつたりとその全面積を蔽つてしまつたのである。 (中巻, p. 140) さて私は、「日本側がわれわれを優遇し、釋放に同意したのは、彼等が臆病なためであり、ロシヤの報復を恐れたためである」といふ一部の批評についてもう自分の意見を述べてもよいであらう。私自身としては、われわれに對する日本側の態度は、全く彼等の人間愛に根ざすものと考へてゐる。その理由は次の通りである。もし現在日本側が恐怖心に押されたのだとしたら、その同じ恐怖心のため彼らが最初からロシヤとの和解を求めない筈はないではないか。ところが實際は、日本側では武力に訴へてもわれわれを打佛はうとした。のみならずわれわれが存命してゐるばかりでなく、日本側で大いに一同の健康保持に苦勞してゐる時に、われわれ一同は殺害されたとまで、リコルド君に傳へさせたではないか。しかし讀者はこの物語によつて、ロシヤ側が日本のために何をし、日本側がわが方のために何をしたかを知られたら、この點について自ら判斷がつくであらう。 (中巻, pp. 237-238) われわれが美コの一つに數えてゐる資質のうち、現在日本人に缺けてゐるものが一つだけある。それはわれわれが剛毅、勇氣、果斷と稱するものであり、また時には男らしさといふものである。しかし彼らが臆病であるとしても、それは日本の統治の平和希求的な性質によるものであり、この國民が戰爭をしないで享受して來た永い間の太平のためである。いやむしろ流血の慘事に慣れてゐないためだと云つたがよからう。 (下巻, p. 26) 罪惡のうちで最も日本人を支配してゐるのは肉慾らしい。日本人は法律上の妻は一人しか持つことは出來ないが、畜妾の權利を持つてゐるので、裕福な連中は遠慮なくこの權利を用ひ、破目をはづすことも屢々である。 (下巻, p. 28) 復讐心もまた昔は、主として日本人特有の罪惡の一つに數へることが出來た。昔は身に蒙つた恥辱に對する復讐の義務は、恥辱をうけた側の子孫が恥辱を加へた方の子孫に對して復讐の義務を果すまで、祖父から孫までも、甚だしきは曾孫までも傳承したものである。しかし日本人たちの斷言するところによると、この凶暴な情熱は今では人の頭にそれほど強い作用を及ぼさず、恥辱はすぐに忘れられるやうになった相である。 (下巻, p. 30) 日本人は節儉ではあるが、吝嗇ではない。その證據として、彼らが常に守錢奴を大いに卑しみ、吝嗇ものについて彼等の仲間うちに辛辣なアネクドートが澤山できてゐることを擧げることが出來る。 (下巻, p. 30) 日本の國民教育については、全體として一國民を他國民と比較すれば、日本人は天下を通じて最も教育の進んだ國民である。日本には讀み書きの出來ない人間や、祖國の法律を知らない人間は一人もゐない。日本の法律はめつたに變らないが、その要點は大きな板に書いて、町々村々の廣場や人目にたつ場所に掲示されるのである。 (下巻, p. 31) 日本人は農業、園藝、漁業、狩獵、絹および綿布の製造、陶磁器および漆器の製作、金屬の研磨については、殆んどヨーロッパ人に劣らない。彼らは礦物の精煉もよく承知して居り、いろいろな金屬製品を非常に巧妙に作つてゐる。指物および轆轤業は日本では完成の域に達してゐる。その上、日本人はあらゆる家庭用品の製造が巧妙である。だから庶民にとつてはこれ以上、開化の必要は少しもないのである。 (下巻, p. 31) 繪畫、建築、彫刻、製版、音樂そして恐らく詩についても、日本人はあらゆるヨーロッパ人より遥かに後れてゐる。彼らは各種兵學を通じてまだ赤ン坊で、航海術は沿岸航海以外には全く知つてゐないのである。 (下巻, p. 35) 日本人はあらゆる階級を通じて、應對が極めて鄭重である。日本人同志の禮儀正しさは、この國民の本當な教養を示すものである。 (下巻, p. 39) しかし國民の總數に比すると、宗教的偏見を脱却した日本人の數は甚だ少數で、全體として見れば日本人は極めて信心深いどころか、迷信的でさへある。日本人は妖術を信じ、その妖術についていろいろの昔話をするのが好である。 (下巻, p. 50) 日本では布教される各種の宗教や教派がいろいろと違ってゐるにも拘はらず、それは政府にも社會にも少しも不安を與へない。市民は誰でも好きな宗教を信じ、また好きなだけ幾らでも宗旨を代へる權利を持つてゐる。また良心に覺るところがあるとか、また何かの都合があるとかで轉宗しても、誰も何とも云はないのである。 (下巻, p. 54) 日本政府はその立法上に極めて重大な缺陥が澤山あることを覺つてゐる。その缺陥のうちでも最も重大な點は刑罰の苛酷さであるが、政府はこれを一氣に變更することを恐れて、順を逐うて、極めて緩慢に改正してゐる。 (下巻, p. 81) とはいへ日本人の嫉妬ぶりは他のアジヤ民族のそれとは全然比較にならない。私から見ると、日本人は嫉妬ぶかいとは云へない。彼らは用心ぶかいだけだ。いやもつとあつさり云へば、日本人は西洋人よりも嫉妬ぶかくないとさへ考へてゐる。 (下巻, p. 87) 日本人は自分の子弟を立派に薫育する能力を持つてゐる。ごく幼い頃から讀み書き、法制、國史、地理などを教へ、大きくなると武術を教へる。しかし一等大切な點は、日本人が幼年時代から子弟に忍耐、質素、禮儀を極めて巧みに教へこむことである。われわれは實地にこの賞讃すべき日本人の資質を何度もためす機會を得た。 (下巻, pp. 87-88) 日本では熱烈に論爭することは、大變に非禮で粗暴なことと認められてゐる。彼らは常にいろいろ申譯をつけて、自分の意見を禮儀正しく述べ、しかも自分自身の判斷を信じてゐないやうな素振りまで見せる。また反駁する時には決して眞正面から切り返して來ないで、必ず遠廻しに、しかも多くは例を擧げたり、比較をとつたりしてやつて來る。 (下巻, p. 88) 日本には土臺のほかには石造の建築物はない。その原因は激烈な地震である。木造家屋は多くは一階建であるが、二階建もあることはある。しかし暖かな氣候のため、どの建物も概して手輕に出來てゐる。部屋部屋を區切る屋内の仕切りは、必ず移動式になつてゐるので、それを取り拂ふと、一軒の家屋を一つの部屋に變へることが出來る。 (下巻, p. 94) そのうへ名士や富豪はみな家の側に庭園を持つてゐる。日本人はこの方にかけては、なかなかの數寄者である。かれらは園藝がなかなか巧者で、庭造りのためなら何も惜まないといふ連中が澤山ゐる。しかし日本家屋の最上の装飾であり、最も賞賛すべき装飾と認むべきものは、上下を通じて守られてゐる小ざつぱりと清潔なところであらう。 (下巻, p. 95) 日本人はヨーロッパ人に比べると、食が大變に細い。われわれは監禁中、運動しなくても、ひとりで日本人の二人前は食べてゐた。また旅行中はこちらの水兵一人前でおそらく日本人の三人が滿腹する位であつたらう。 (下巻, p. 105) 日本人は至つて快活な氣風を持つてゐる。私は親しい日本人たちが暗い顔をしてゐるのを見たことは一度もない。彼らは面白い話がすきで、よく冗談をいふ。勞働者は何かする時には必ず歌を歌う。 (下巻, p. 109) これについて特記すべき點は、日本の銅器が極めて精巧にできてゐることである。われわれは日本で使つてゐた薬罐の丈夫さに何度も驚かされたものである。薬罐は何ケ月も囲爐裏に掛けつぱなしになつてゐても、少しも痛まないのであつた。 (下巻, p. 128) 日本で出來るほどの漆器類はどこに行つても出來はしない――といふことはもうヨーロッパ人も知つてゐる。 (下巻, p. 150) 鋼製品はどうかといふと、日本の大小刀は、おそらくダマスク製を除いて、世界中のあらゆる同種の製品を凌駕してゐる。それは極端な試練に堪へるものである。鋼その他あらゆる金屬の研磨にかけては、日本人は一頭地を抜いてゐる。彼らは金屬の鏡まで作るが、それはガラスの鏡と同様に立派に反射するのである。われわれは日本の指物や大工道具をたびたび見たが、それは丈夫さから云つても、仕上げの美事さから云つても、イギリス製にほとんど劣らない。 (下巻, p. 149) 日本の陶器は支那の陶器より遥かにすぐれてゐる。ただ大變に高價で、全國の需要をみたせない位に僅かしか生産しないので、日本人は支那から澤山の陶器を輸入してゐる。 (下巻, p. 150) しかし日本人は上等の綿布は作れないか、でなければ作らうとは思はないらしい。われわれは人並みの綿布は一度も見たことがなかつた。われわれの持つてゐた東インド産のハンカチやうすものの襟巻を見ると、日本人たちはそれが綿織物だとは信じないのであつた。 (下巻, p. 150) 日本人は金屬の像を鑄造し、石造や木造を刻むことも出來るが、われわれが松前の寺院で見た偶像から判斷すると、この藝術は日本ではまだ非常に未完成の状態にある。また繪畫や、製版や、印刷にかけても日本人は、これらの藝術がまだいはば小兒時代にあるヨーロッパ諸民族に比べても、なほはるかに立ちおくれてゐる。しかし彫像以外の彫刻にかけては日本人はかなり器用である。また貨幣も、金、銀、銅貨を通じて相當によく鑄造してある。 (下巻, pp. 150-151) 日本人は手工にかけて仕事ずきであると同様に、産業にかけても倦むことを知らない國民である。ことに漁業は巧妙で、非常に熱心にこれに從事してゐる。 (下巻, p. 151) 日本人の商賣好きは、どの町どの村に行つてもよく現はれてゐる。ほとんどどの家にも、いろいろな必要品を賣る店がついてゐる。イギリスに行くと、數十萬もする寶石店の隣りに牡蠣屋があると云つた光景をよく見かけるが、それと同様に日本でも高價な絹織物を商ふ商人と、草鞋商人とが隣り同志に暮らしたり、店を開いたりしてゐるのである。日本人はあらゆる秩序を通じて實にイギリス人と似てゐる。彼らはイギリス人と同様に清潔と極端な正確さを要求する。イギリスではどんな下らぬ品にも品名、價格、使用法、製造者または工場の名、さては褒賞をうけたことなどを書きこんだ印刷物が附いてゐるが、日本人もこれと同様にほとんどあらゆる商品に小さな印刷物を附けてゐる。 (下巻, pp. 154-155) 日本人は工兵の方の學問についても、兵學の他の領域と同様に、大して判つてゐない。われわれの見ることを得た日本の要塞や砲臺は、全くでたらめな構造で、(この構築者たちは經驗とか築城學の法則はおろか、常識さへ守つてないぞ)と考へるほど滑稽にできてゐた。 (下巻, p. 174) われわれは日本水夫の敏捷さをたびたび目撃した。かれらが海岸ぞひの猛吹雪を冒し、また潮の干滿が殘りなく猛威を振ふ河から海への落ち口の世にも物凄い潮流を冒して、あの大きな船を輕快巧妙に操つてゐるのは驚くべきものがある。かういふ海員にはどんな期待でも掛けることが出來る。日本の水夫は仕事が多難で危険なだけ報酬も澤山とつてゐるけれども、金使ひの荒らさはイギリスの船員に似てゐる。何ケ月も生命がけで稼いだ金を、酒店や賣笑婦に數日の中に使つてしまふのである。 (下巻, p. 177) |
ジーボルト(斎藤信訳)『江戸参府紀行』東洋文庫87, 平凡社, 1967.
フランツ・フォン・シーボルト (Philipp Franz Jonkheer Balthasar von Siebold, 1796~1866) はドイツの医学者・博物学者・日本学者で、1823(文政6)年に来日し、1829(文政11)年にシーボルト事件で追放されるまで、日本の蘭学界にとてつもなく大きな影響を与えた。追放後はオランダで日本関連資料の整理に当たり、『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』を出版した。その後日本の開国に伴い、シーボルトの入国禁止令も解除されたため、1859(安政6)年に再来日して1862(文久2)年まで滞在した。
東洋文庫版の『江戸参府紀行』は、大著『日本 (Nippon) 』の第2章である。1826(文政9)年参府時の商館長はヨハン・ウィレム・ドゥ・スチュルレルで、シーボルトとその助手のハインリヒ・ビュルガーが同行した。日本人は通詞の他、シーボルトの門人の高良斎・二宮敬作・石井宗謙・西慶太郎、画家の登与助、シーボルトの召使の伊之助と熊吉らが同行した。一行は2月15日に長崎を出発、4月10日に江戸に着き、5月1日と4日に将軍家斉に拝謁した。帰りは5月18日に江戸を発ち、7月7日に長崎に着いた。
察するに昔の日本の船は朝鮮のものの模倣であって、年代記の記述によれば、日本人は紀元前四三年に朝鮮の船を知っていた。われわれが神社の奉納画で見るような古代の日本船の絵はこうした見解の正しいことを示している。ともかくそれは独特な構造をもっていて、今日にいたるまで支那の造船術からほとんど受けついでいるものもないし、ヨーロッパの造船術からの影響は皆無である。 (p. 26) 勤勉な農夫は自然の蕃殖力と競う。驚嘆すべき勤勉努力によって火山の破壊力を克服して、山の斜面に階段状の畑をつくりあげているが、これは注意深く手入れされた庭園と同じで――旅行者を驚かす千年の文化の成果である。 (p. 70) しかし[小倉]藩の下級武士の家族や召使が住んでいる町はずれでは、裕福な暮らしというのは当てはまらないように見える。それゆえ私の助力をもとめてやって来たたくさんの患者は、――たいていは慢性の皮膚病・眼病であるが――痼疾の梅毒や胸・腹部の古い疾患に起因する彼らの症状によって、われわれがこの町にはいって来た時に驚いたこぎれいな住居は、ただ貧困をかくしているに過ぎないことを打ち明けていた。 (p. 82) 日本人は自分の祖国に対しては感激家で、先祖の偉業を誇りとしている。教養ある人も普通の人も天皇の古い皇統に対し限りない愛情を抱き、古い信仰や風俗習慣を重んじる。それゆえ外国人が、日本人の民族性に追従し、彼らの宗教や風俗習慣を尊重し、そして原始時代の伝統や神として崇められた英雄の賛美に好意をもって耳をかたむけるのは、非常に結構なことである。 (p. 84) われわれの出発前まだ出島にいたころ、博物学の知識を少しは持っていた給人に、ヨーロッパ人が日本で集めることが許されている天産物のコレクションやその他の珍しい物を見せて、私の関心事に彼を引きつけておいた。日本人特有の知識欲と自然の珍しい物に対する愛着とは、ある秘密の目的を私がとげようと努めていた時には、いつも役に立った。 (p. 97) 日本において国民的産業の何らかの部門が、大規模または大量生産的に行なわれている地方では一般的な繁栄がみられ、ヨーロッパの工業都市の人間的な悲惨と不品行をはっきり示している身心ともに疲れ果てた、あのような貧困な国民階層は存在しないという見解を繰り返し述べてきたが、ここでもその正しいことがわかった。しかも日本には、測り知れない富をもち、半ば餓え衰えた階級の人々の上に金権をふるう工業の支配者は存在しない。労働者も工場主も日本ではヨーロッパよりもなお一層きびしい格式をもって隔てられてはいるが、彼らは同胞として相互の尊敬と好意とによってさらに堅く結ばれている。 (p. 127) 日本の国民は小さい町の中でも、しつけの良い従順な多数の家族に比較できる。長老――高官や大名は自分たちの家族のことで、たえ難い心痛を覚えることがヨーロッパではよくあるのは遺憾にたえないが、日本ではそういう懸念は滅多になく――彼らは子供を家庭で教育し、あるいは学校で勉強させる。 (p. 137) 川を渡ってまもなくわれわれは府中に着き、この土地の産物である有名な木工品や編細工品を見るために、長い街道を歩いて通り過ぎた。この地方は竹で編んだたいへんよくできている籠やときには高価な木で作った種々の家具、その他の漆器・人形・石の彫刻等々で、全国的に有名である。午後にこれらの製品がたくさんわれわれのところに運ばれて来たが、実際に技巧の入念なことはどんなにほめてもよいほどである。しかしこの商人たちは、われわれが自信をもって言い値の四分の一に値切ってもさしつかえないほど法外の値段をふっかけてくる。 (p. 176) 全住民のうちの大名という階級をわれわれによく示しているのは、この人たちの愛すべき家族たちであった。端正・礼儀作法と上品、心からの親切・誠実・誇りの影さえみせぬつつましやかな教養などはお丈夫な老候[薩摩藩主・島津重豪]にも、子供たちや夫人たちにも現われていた――要するにこれらすべては、教養あるヨーロッパ人の尊敬に値する特性である。 (p. 194) 私は、たとえば宿の主人のような低い階層の日本人との交際についてたいへんきびしく自分の意見を述べたことに対し、実に申訳けないと思う。この善良な男とその家族は、読者は是認されるに相違ないが、静かな夜を淋しく過ごすわれわれをできるだけ愉快にしようとして、本当に最善をつくしたのである。 (p. 207) こんなに多くの人間が住んでいる都会では高度の贅沢とひどい貧乏の両極端がみられる。大名たちの食膳に出すためには、一升の米から数粒を、しかもいちばん大きくて上質のものをえらび出し、何度も洗ってさらに調べ、たいた釜の中からただ真ん中のところだけを使うので、二〇分の一以上はむだになってしまう。同様に魚類・野菜類・そのほかの食品ならびに酒類は大名屋敷ではむだに使われる。これに反して乞食などの最低の階級の者は、人の住む家にさえも住めず冬の寒空にあわれな露命をつないでいる。まったく江戸にみるよりひどい貧困と甚しい贅沢とはこの国のどこにも見受けられない。食料品の値段は非常に高く、おそらく日本の他の地方の城下町より五倍は高い。 (pp. 216-217) 全国の財貨が集まる非常に重要な商業都市では、罪を犯す幾多の機会が生じる。それでも実際の犯罪者はまれであるということを、われわれは日本人全体の名誉のために言っておかなければならない。数をあげると、一年中、大坂の町で約百人の犯罪者が死刑に処せられるだけである。 (p. 238) ちょうど妹背山(Imose Jama)という外題で有名な芝居が上演された。役者の中にはたくさんの一流の芸術家がおり、彼らはヨーロッパにおいてさえ一般の拍手を受けたであろう。国民性と情熱のたくまない表現とがひとつになった彼らの身振りや台詞回しは全く賞賛に値するものであったし、彼らの高価な衣装はその印象を高め、劇場そのものの貧弱な設備を忘れさせた。 (p. 243) 大坂の町からは、特別な設備をして糞尿を積んだ汚穢舟がよくやってくるが、これは日本じゅうで使われている肥料で、夏期にはいろいろな野菜や穀物に施すのが普通である。そのため六、七および八月にはすべての地方、特に大都会周辺の地方は悪臭に満ちていて、すばらしい自然を楽しむのにたいへん妨げとなることがよくある。 (p. 248) |
土屋喬夫・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』岩波文庫青422, 1948.
M・C・ペリー (Matthew Calbraith Perry, 1794~1858) は米国の海軍軍人で、艦隊を率いて1853(嘉永6)年7月浦賀に来航し、翌1854(嘉永7)年神奈川で日米和親条約を締結した。ペリーが蒸気船ミシシッピ号を率いてノフォークを出航したのは1852年11月24日で、翌1853年5月に上海でサスケハナ号に乗り換え旗艦とした。ペリー艦隊は5月26日に那覇に入港し、ここを基地に沖縄本島と小笠原諸島を探査した。7月2日、蒸気船サスケハナ号・ミシシッピ号および帆船プリマス号・サラトガの四隻は浦賀沖に停泊し、浦賀奉行所との交渉に入った。7月14日、ペリーは乗員約300人を従えて浦賀に上陸し、フィルモア大統領の親書を戸田伊豆守・井戸石見守に手渡した。7月17日、艦隊は江戸湾を去り那覇に向った。ペリーは琉球に交易所と石炭貯蔵所を開設させた後、香港に戻った。
1854年1月、蒸気船サスケハナ号・ミシシッピ号・ポーハタン号に帆船四隻を加えたペリー艦隊は香港を出航し、琉球を経由して2月13日に江戸湾に入った。3月8日、ペリーは約500名を率いて横浜に上陸し、林大学頭を筆頭とする日本側代表と条約締結の交渉に入った。3月31日、横浜で日米和親条約への署名が行なわれた。ペリーは開港場に指定された下田と箱館を調査した後、香港に戻った。
『日本遠征記 (Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China and Japan etc.) 』は、ペリーおよび士官数名の通信や日記に基づき、ペリーの監修の下にフランシス・L・ホークスが編纂したもので、1856年に議会の特殊刊行物として数十冊が刊行された。
日本人は極めて勤勉で器用な人民であり、或る製造業について見ると、如何なる國民もそれを凌駕し得ないのである。 (1巻, p. 141) 彼等は外國人によつて齎された改良を觀察するのが極めて早く、忽ち自らそれを會得し、非常な巧みさと精確さとを以てそれを模するのである。金属に彫刻するのは甚だ巧みであり、金属の肖像を鑄ることもできる。 (1巻, p. 142) 木材及び竹材加工に於て、彼等に優る國民はない。彼等は又世界に優るものなき一つの技術を有してゐる。それは木材製品の漆塗りの技術である。他の諸國民は多年に亙つて、この技術に於て彼らと形を比べようと試みたが成功しなかつた。 (1巻, p. 143) 彼等は磁器を製作してゐるのだし、また或る人の語るところによれば支那人よりももつと立派に製作することができると云ふ。兎に角、吾々が見た日本磁器の見本は甚だ織巧美麗である。但し或る筆者の語るところによると、最良質の粘土が盡きたために、現在では嘗てのやうに立派に製造することができないと云ふ。 (1巻, p. 144) 彼等は絹をつくる。そのうちの最良品は支那の絹よりも上等である。……木綿織物もつくられてゐるが、その製造にはさまで熟練してゐない。 (1巻, p. 145) 必要にして、且つ交通の多い處には、屡々石で立派な橋をつくつてゐるが、トンネルをつくる技術を知らないやうである。土木工學上の或る原理を知つてゐてそれを適用してはゐるが、工兵學の原理を少しも知らない。……彼等は數學、機械學及び三角法を幾らか知つてゐる。このやうにして彼等は同國の甚だ立派な地圖をつくつたのであつた。 (1巻, p. 152) 日本人は、活潑な氣性を有する多くの他の人民と同様に、珍奇なものに對する強い好奇心を有して居り、屡々はむしろ瞞着されるのも辭さないのである。 (1巻, p. 154) だが迷信が障害となつてゐる。死人に觸れることは汚れとされてゐるのである。このやうな研究をしないのだから、内科醫及び外科醫の知識もつまり不完全であることが明らかである。 (1巻, p. 157) 藥品は大抵動植物であり、化學の知識は非常に乏しくて鑛物藥品を用ひようとしない。けれども醫用植物學については非常に意を用ひて研究して居り、彼らの療法は一般に有效であると云はれてゐる。 (1巻, p. 158) 普通教育制度に似たものもあるやうである。何故ならばメイランが、あらゆる階級の男女兒童は差別なく初等學校に通學せしめられると述べてゐるからである。それが國家によつて維持されてゐるものかどうかについては語つてゐない。その學校で生徒等は全部讀み書きを教はり、自國の歴史についての知識をすこし手ほどきされるのである。かやうにして、最も貧しい農夫の子供にも大抵は學問が出來る仕組なのである。 (1巻, p. 162) 日本音樂の中には、ヨーロッパ人とアメリカ人との耳に適ふやうなものがない。但し序に一言すれば、日本人は音樂を熱烈に愛してゐる。 (1巻, p. 163) すでに述べたやうに彼等は解剖學を全く知らない。従て彼等は彫刻家でもないし又肖像畫家でもない。彼等は遠近法を知らないので風景を描くことができない。然し一つの物體を表現する際の細部の正確さ、物の本質を眞實に把握する點では、彼等に及ぶものがない。彼らの不完全なのは構圖である。 (1巻, p. 164) 彼らが藝術としての建築を知つてゐると云ふことはできない。但し甚だ巧みに石を彫つてそれを配置するのである。寶石造りも上手ではない。 (1巻, p. 165) これ等の日本役人は、何時もの通り、その好奇心を多少控へ目に表はしてゐたが、しかも、汽船の構造及びその装備に關するもの全部に對して、理解深い關心を示した。蒸気機關が動いてゐる間、彼等はあらゆる部分を詳細に檢査したが、恐怖の表情をせず、又その機械について全く無智な人々から期待されるやうな驚愕を少しも表はさなかつた。 (3巻, p. 13) 日本人は何時でも、異常な好奇心を示した。それを滿足させるためには、合衆國から持つて來た珍しい仕掛の色々な品物、種々の機械装置、巧妙珍奇な色々の發明品が、充分な機會を與へてくれた。彼等は、彼等にとつて驚くべき程不思議に見えるあらゆる物を、極めて詳細に檢査する事だけに滿足しないで、士官や水兵につきまとひ、あらゆる機會を捕へては衣服の各部分を檢査したのである。 (3巻, p. 202) 疑もなく日本人は、支那人と同じく、非常に模倣的な、適合性のある、素直な人民であつて、これ等の特性のうちに、假令高級な文明の比較的高尚な原理や、比較的良好な生活ではなくとも、外國の風俗習慣が比較的容易に輸入されることを約束されてゐるのが見出されるだらう。 (3巻, p. 203) 一言もつて云へば、日本人の饗應は、非常に鄭重なものではあつたが、料理の技倆について好ましからざる印象を與へたに過ぎなかつた。琉球人は明かに、日本人よりもよい生活をしてゐた。 (3巻, p. 246) 二人の夫人は何時までも慇懃で、玩具の頸振り人形のやうに絶えず頭を下げた。彼女等は絶えず賓客に微笑をもつて挨拶してゐたが、微笑をしない方がよかつたらうと思ふ。唇を動かす毎に嫌な黒齒と色の褪せた齦が露れたからである。町長婦人はひどく鄭重で、自分の赤ん坊をつれてきたほど善良な性質であつた。賓客達はその赤ん坊をできるだけ可愛がらなければならないと感じた。但しその顔は垢だらけであり、一體にきたならしい様子だつたので、止むを得ず抱いたり頬ずりしたりして可愛がつたが、それは全く苦痛な努力であつた。 (4巻, pp. 14-15) 下流の人民は例外なしに、豊に滿足して居り、過勞もしてゐないやうだつた。貧乏人のゐる様子も見えたが、乞食のゐる證據はなかつた。人口過剰なヨーロッパ諸地方の多くの處と同じく、女達が耕作勞働に從事してゐるのも屡々見え、人口稠密なこの帝国では誰でも勤勉であり、誰をでも忙しく働かせる必要があることを示してゐた。最下流の階級さへも、氣持ちのよい服装をまとひ、簡素な木綿の衣服をきてゐた。 (4巻, pp. 15-16) 日本の社會には、他の東洋諸國民に勝る日本人民の美點を明かに示してゐる一特質がある。それは女が伴侶と認められてゐて、單なる奴隷として待遇されてはゐないことである。女の地位が、キリスト教法規の影響下にある諸國に於けると同様な高さではないことは確だが、日本の母、妻及び娘は、支那の女のやうに家畜でも家内奴隷でもなく、トルコの妾房[ハーレム]に於ける女のやうに浮氣な淫樂のために買ひ入れられるものでもない。一夫多妻制の存在しないと云ふ事實は、日本人があらゆる東洋諸國民のうちでは最も道コ的であり、洗練されてゐる國民であるといふ勝れた特性を現はす著しい特徴である。 (4巻, pp. 16-17) 既婚婦人が常に厭わしい黒齒をしてゐることを除けば、日本婦人の容姿は惡くない。若い娘はよい姿をして、どちらかと云へば美しく、立居振舞は大いに活潑であり、自主的である。それは彼女等が比較的高い尊敬をうけてゐるために生ずる品位の自覺から來るものである。 (4巻, p. 17) 下田は進歩した開化の様相を呈して居て、同町の建設者が同地のC潔と健康とに留意した點は、吾々が誇りとする合衆國の進歩したC潔と健康さより遙に進んでゐる。濠があるばかりでなく下水もあつて、汚水や汚物は直接に海に流すか、又は町の間を通つてゐる小川に流し込む。 (4巻, p. 27) 民衆は皆日本人獨特の鄭重さと、控へ目ではあるが快活な態度とをもつてゐる。裸體をも頓着せずに男女混浴をしてゐる或る公衆浴場の光景は、住民の道コに關して、大に好意ある見解を抱き得るやうな印象をアメリカ人に與へたとは思はれなかつた。これは日本中到る所に見る習慣ではないかも知れない。そして實際吾々の親しくした日本人もさうではないと語つた。然し日本の下層民は、大抵の東洋諸國民よりも道義が優れてゐるにも拘らず、疑もなく淫蕩な人民なのである。入浴の光景を別とするも、通俗文學の中には淫猥な挿繪と供に、或る階級の民衆の趣味慣習が淫蕩なことを明かにするに足るものがあつた。その淫蕩性は啻に嫌になる程露骨であるばかりでなく、不名誉にも汚れた堕落を表はすものであつた。 (4巻, pp. 30-31) 函館はあらゆる日本町と同じやうに著しくC潔で、街路は排水に適するやうにつくられ、絶えず水を撒いたり掃いたりして何時でもさつぱりと健康によい状態に保たれてある。 (4巻, p. 93) 吾々は、日本造船者の方法又は技倆に何等特異なものを見なかつた。下繪を畫き雛型をつくるための科學的法則を有するか否か、船の排水量を確かめるための科學的法則を有するか否かは疑はしく、又法律が全部の船舶を一つの型及び大きさに制限して居るから、恐らくそれらを必要としないであらう。 (4巻, p. 120) 實際的及び機械的技術に於いて日本人は非常な巧緻を示してゐる。そして彼等の道具の粗末さ、機械に對する知識の不完全を考慮するとき、彼等の手工上の技術の完全なことはすばらしいもののやうである。日本の手工業者は世界に於ける如何なる手工業者にも劣らず練達であつて、人民の發明力をもつと自由に發達させるならば日本人は最も成功してゐる工業國民[マニュファクチャ−リング・ネーションズ]に何時までも劣つてはゐないことだらう。他の國民の物質的進歩の成果を學ぶ彼等の好奇心、それを自らの使用にあてる敏速さによつて、これ等人民を他國民との交通から孤立せしめてゐる政府の排外政策の程度が少ないならば、彼等は間もなく最も惠まれたる國々の水準にまで達するだらう。日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将來の機械工業の成功を目指す競争に加はるだらう。 (4巻, pp. 127-128) 遠征隊の士官達が持ち歸つた繪入りの書物や繪畫のうち数個が今吾々の前にあるが、日本人のそれに示してゐる美術の性質をよく調べると、この注目すべき人民は他の非常に多くの點に於けると同じく美術にも驚くべき發達を示してゐることが著しく眼につく。 (4巻, p. 133) すでに述べたやうに汽船の機關が日本人の間に烈しい興味をよび起した。彼等の好奇心は飽くことを知らないやうであり、又日本の畫家達は機會ある毎に絶えず機械の諸部分を描き、その構造と運動の原理とを知らうとしてゐた。艦隊の二囘目訪問の際ジョーンズ氏は、機關全體を正しい釣合で畫いた完全な繪畫を日本人がもつてゐるのを見た。機械の数個の部分も適當に描かれてゐて他國で描かれてもこれ以上はできないほど正確で立派な繪圖であつたと彼は語つてゐる。 (4巻, pp. 136-137) 日本の宗教は偶像崇拜であるから、多數の彫刻をもつてゐる。從つて石造や金属像や木像が寺院や祠や路傍に澤山ある。これ等の彫像の千篇一律の手法には一般に大いに手工業上の熟練さが現はれてゐるが、いづれも藝術的作品と云ふことはできない。 (4巻, p. 139) 低い周圍の家屋に比較してやゝ立派な諸所の寺院や門以外には、アメリカ人に對して日本建築の高い理想を印象づけた建築を見なかつた。この藝術部門中の最も立派な見本は、幾つかの石の堤道と石橋であつた。それらのものは屡々簡単にして雄渾なローマ式アーチを土臺にして設けられてゐるのであつて、その設計や疊石法は、他の國の最も科學的にして藝術的な構造のものにも匹敵する。 (4巻, p. 139) 教育は同帝國到る所に普及して居り、又日本の婦人は支那の婦人とは異つて男と同じく知識が進歩してゐるし、女性獨特の藝事にも熟達してゐるばかりでなく、日本固有の文學にもよく通じてゐることも屡々である。 (4巻, p. 140) 地震によつて生じた災禍にも拘はらず、日本人の特性たる反撥力が表はれてゐた。その特性はよく彼等の精力を證するものであつた。彼等は落膽せず、不幸に泣かず、男らしく仕事にとりかゝり、意氣阻喪することも殆どないやうであつた。 (4巻, p. 240) |
ゴンチャロフ(井上満訳)『日本渡航記』岩波文庫2686-2689, 1941.
I・A・ゴンチャロフ(Ivan Alexandrovich Goncharov, 1812~1891)はロシアの作家で、1852〜55年にプチャーチン提督が率いるフリゲート艦パルラダ号に同乗し、アフリカ・ジャワ・シンガポール・香港・小笠原・日本・フィリピン・朝鮮を経てシベリアに到った。父島でコルヴェット艦オリヴーツァ号・運送船メシニコフ侯号・スクーナー船ヴォストーク号と落ち合ったパルラダ号は、三隻を従えてロシア暦1853年8月10日(嘉永6年7月16日)長崎に入港した。すぐさま長崎奉行所との交渉に入ったが埒が明かず、11月11日(和暦10月23日)パルラダ号は上海に向かった。12月22日に再び長崎に入港したプチャーチンは、幕府全権川路左衛門尉らと交渉を重ねた。1854年1月21日(嘉永7年1月4日)、パルラダ号は長崎を出航し、ペリー艦隊と入れ替わりに那覇に入港した。2月9日に那覇を出航したパルラダ号は、フィリピン滞在を経て3月9日に済州海峡の巨文島に上陸し、4月9日に三度長崎に入港した。4月15日に出航して朝鮮の東海岸を探査しながら北上し、ハヂ湾でディアナ号を待った。
本書(Фреzам <Паллаба>. Оуерки лутеств в лвуx томаx)は1858年に出版された。岩波文庫版『日本渡航記』に訳出されているのは、1853年6月の香港滞在から1854年2月の琉球出発までである。
我々がフランス語を、スウェーデン人がドイツ語を、學者がラテン語を知つてゐるやうに、日本人はみな支那語を知つてゐる。彼等は日本語でも、支那語でも書くが、支那文字を自己流に發音するだけである。總じて言語も、進行も、習慣も、服装も、文化も、教養も、何も彼も支那から傳來したものである。 (p. 54) 日本人でも別に變つたところはない。ただ服装と、例の愚劣極まる髪型が目障りになるだけのことである。その他の點ではこの國民は、ヨーロッパ人と比べなければ、相當に開けて居り、應待も氣樂で氣持がよく、又あの獨特の教養は極めて注目すべきものがある。 (p. 71) 彼等は大砲や小銃を見て廻り、イギリスで購入した新式表尺のついた小銃の説明を傾聴した。すべてが彼等に物珍しかつた。日本人達は餘り露骨に見せまいと自制してはゐたが、その好奇心には幼稚な、子供じみたところが澤山あつた。 (p. 73) 美しい顔は殆んど見かけなかつたが、特色のある顔は非常に多く、大部分が、いや殆んど全部がさうである。 (p. 81) まづ眼につくのは、中庭や、茣蓙を敷いた木造の階段や、それから當の日本人のなみはづれたC潔さである。この點は全く感服せざるを得ぬ。彼らは身體も、衣服も、C潔でこざつぱりとしてゐる。 (p. 107) 日本人は何の臭氣も出さない。頭を見ると、髷の下はきれいに剃り上げた盧頂である。むき出しの腕は、廣い袖から奥の方まで見え、日に焦げてこそゐるが、C潔だ。その動作は禮儀正しく、その應待は鄭重である。一口に云へば誰に見せても立派な人間なのだ。ただ彼等を對手にしては仕事は出來ない。引きのばして、ちょろまかして、嘘をついて、その揚句が拒絶するのだ。毆るには可哀さうだ。彼等は、たとひ拒絶すまいと思つたり、前例のない事件をやらうと思つたりしても、それがよい事でも、少なくとも進んではやれないやうな制度を作つてゐるのだ。 (p. 107) 彼等のあの無感動の蔭に、どれだけの生命が、どれだけの陽氣さが、剽輕さがかくされてゐることだらう! 豊かな才能、天分があることは、些細な事柄にも、つまらぬ會話にも現はれてゐる。だが又、内容といふものがない。本来の生活力が全く沸き盡き、燃え盡きて、C鮮な新原則を求めてゐる、といふことも判る。日本人は非常に活潑で、天眞爛漫である。支那人のやうな、愚劣なところが少い。 (p. 114) 私は遂に日本の婦人を見た。男子と同じ袴で、咽喉を包む上着を着て、頭だけが剃つてない。立派な身装りの婦人は、ピンで後から髪をとめてゐる。みんな色黒で、大變見苦しい! (p. 151) 戰爭に訴へて日本に強制することとなるかも知れない。だがこの點においても日本は支那よりも遥かに優越してゐる。もし日本がヨーロッパから軍事技術を取り入れて港灣を堅めたならば、如何なる攻撃を受けても、安全となるであらう。日本を滅ぼし得るものは反亂だけである。 (pp. 308-309) 私達はどういふ結果になるかをお互に色々と論議し合つた。幼稚で、未開な癖に狡猾な日本人を相手のことで、確かな結論を下せなかつたからである。 (p. 271) だが現在でも日本をして一擧に開國させることが出來る。と云ふのは日本は餘りにも弱小であつて、如何なる戰爭にも堪へ得ないからである。 (p. 309) 彼等は、あらゆるアジア人と同様に、官能の擒となつてゐて、その弱點を蔽くさうとも、責め立てようともしないのである。この點について何か詳しく知りたいことがあつたら、ケムペルかトゥンベルグの本を讀んで戴きたい。 (p. 313) 日本人は一日に三度食事をするが、それは非常に攝生を守つた食べ方である。朝の起床時(彼等は大變な早起で、夜明け前のこともある)と、正午頃と、最後は晩の六時である。食事の量は非常に少いので、食慾の旺盛な者には日本の正餐では前菜にも足りない程である。 (p. 320) |
ハリス(坂田精一訳)『日本滞在期』岩波文庫赤759-761, 1953.
タウンゼンド・ハリス (Townsend Harris, 1804-1878) は米国の外交官で、1856(安政3)年に初代駐日総領事として下田に赴任し、1858(安政5)年幕府と日米修好通商条約を締結した。1853年、上海にいたハリスはペリー艦隊への同行を希望したが拒絶された。ハリスは駐日総領事を希望して帰国して運動し、ピアス大統領はペリーにも相談し、ハリスを派遣することとした。1855年10月17日、ハリスは単身ニューヨークを出航し、インドでオランダ語通訳のヒュースケンと合流した。1856年5月にタイとの条約を締結した後、8月21日に下田に到着した。
和親条約の英文では、総領事の駐在は一方の国が必要と認めれば派遣できるとなっていたが、日本文では両国が必要と認めた場合にのみ可能となっていた。そこで日本側は駐在を拒否しようとしたが、ハリスはこれを押し切って9月3日に柿崎の玉泉寺に入った。1857年6月17日、ハリスはアメリカ人の居住権、長崎での薪水食糧等の供給、領事旅行権等を内容とする下田条約を下田奉行との間で締結した。11月、ハリスは下田を発ち江戸の蕃書調所に入った。12月7日、ハリスとヒュースケンは江戸城で将軍家定に謁見した。1857年2月、ハリスは病を得て下田で静養した。7月23日、ミシシッピ号が下田に入港し、英仏がインドと中国を屈服させたことを伝えた。ハリスはこれをタネに条約締結を迫った。日米修好通商条約は1858年7月29日、ポーハタン号上で調印された。
柿崎は小さくて、貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度も丁寧である。世界のあらゆる國で貧乏に何時も附き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。彼らの家屋は、必要なだけのC潔さを保っている。土地は一吋もあまさず開墾されている。 (中巻, p. 14) 料理は立派なもので、見る目も至って綺れいで、C潔なものであった。私は、彼らの料理に甚だ好い印象をうけた。 (中巻, p. 23) そして、我々一同はみな日本人の容姿と態度とに甚だ滿足した。私は、日本人は喜望峰以東のいかなる民族よりも優秀であることを、繰りかえして言う。 (中巻, p. 24) 日本の法典は少し殘酷である。殺人、放火、強盗、大竊盗、それに父親に對する暴行には死罪が科せられる。 (中巻, p. 88) 日本人はC潔な國民である。誰でも毎日沐浴する。職人、日雇の勞働者、あらゆる男女、老若は、自分の勞働を終ってから、毎日入浴する。下田には澤山の公衆浴場がある。料金は錢六文、すなわち一セントの八分の一である! 富裕な人々は、自宅に湯殿をもっているが、勞働階級は全部、男女、老若とも同じ浴室にはいり、全裸になって身體を洗う。私は、何事にも間違いのない國民が、どうしてこのように品の惡いことをするのか、判斷に苦しんでいる。 (中巻, p. 95) 又或る時ヒュースケン君が温泉へゆき、眞裸の男三人が湯槽に入っているのを見た。彼が見ていると、一人の十四歳ぐらいの若い女が入ってきて、平氣で着物を脱ぎ、「まる裸」となって、二十歳ぐらいの若い男の直ぐそばの湯の中に身を横たえた。このような男女の混浴は女性の貞操にとって危檢ではないかと、私は副奉行に聞いてみた。彼は、往々そのようなこともあると答えた。そこで私は、處女であると思われている女と結婚して、床入りの時そうでないことを知ったときには、男の方はどうするかと問うた。副奉行は、「どうにも」と答えた。 (中巻, p. 161) さて話題は、いつもの日本式のものへ移った。この人たちの淫奔さは、信じられないほどである。要件がすむや否や、彼らが敢て談ずる一つの、そして唯一の話題がやってくる。 (中巻, p. 168) 私は、日本人のように飲食や衣服について、ほんとうに儉約で簡素な人間が、世界のどこにもあることを知らない。寶石は何人にも見うけられない。黄金は主として、彼らの刀劍の飾りに用いられている。ある特殊の場合は、金絲の入った錦織が緋や黄色のものとともに用いられるが、そんなことは滅多にない。それらは例外であって、法則ではない。着物の色は黒か灰色である。貴人のものだけが絹布で、その他すべての者の布は木綿である。日本人は至って欲望の少ない國民である。 (中巻, p. 196) なんとかして眞實が囘避され得るかぎり、決して日本人は眞實を語りはしないと私は考える。率直に眞實な囘答をすればよいときでも、日本人は虚偽をいうことを好む。 (中巻, p. 239) 私は、どんな種類の美術品をも精巧に作るという點について、日本人の習性を買いかぶってきたと思う。彼らの政府の特性は、富と奢侈のために品物を作る腕前をふるうことを、禁じているように見える。奢侈禁止法は、形、色彩、材料と、すべての衣類の着換時を嚴しく取締っている。それだから、家具の贅澤なぞは、日本では知られていない。この國では、大名の邸宅の家具ですら、アメリカの謹直で堅實な職工の家に見られるものの半分の値打ちもないといって憚らない。純朴と質素は、この國の重要な格律となっている。それは最もおどろくべき方法によって實施されている。官憲の取締によって、日本人のあらゆる行為を抑壓しようとすることが、絶えざる仕事となっている。 (中巻, p. 247) 見物人の數が増してきた。彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない――これが恐らく人民の本當の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開國して外國の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の國におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と滿足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。 (下巻, p. 26) 私は、スチーム(蒸氣)の利用によって世界の情勢が一變したことを語った。日本は鎖國政策を抛棄せねばならなくなるだろう。日本の國民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な國家となるであろう。 (下巻, p. 87) |
カッテンディーケ(水田信利訳)『長崎海軍伝習所の日々』東洋文庫26, 平凡社, 1964.
カッテンディーケ (Willem Johan Cornelis Huyssen van Kattendijke, 1816~1866) はオランダの海軍軍人で、1857〜59(安政4〜6)年に長崎の海軍伝習所の教官団長をつとめた。同伝習所は1855年7月設立され、ベルス・ライケンを団長とする第一次教官団が11月に到着した。カッテンディーケ中佐は幕府から注文を受けた蒸気船咸臨丸を長崎に回航するとともに、第二次教官団を率いてライケンと交代するよう命令を受けた。咸臨丸は1857年3月26日にレフートスロイスから出航し、9月21日長崎港に到着した。教官団は伝習所で教えるとともに、天草・五島・対馬・福岡・鹿児島等に練習航海に出た。
1859(安政6)年1月、幕府は練習艦の朝陽丸と咸臨丸を江戸に呼び寄せ、伝習所は練習航海ができなくなった。3月10日、カッテンディーケは長崎奉行から伝習所閉鎖を告げられた。教室での講義は4月18日をもって停止された。11月4日、カッテンディーケら教官団七名は商船で長崎を発ち、27日にバタヴィアに到着した。しかしポンペ軍医やハルデス機関士ら数名は、日本に残った。
この二世紀にもわたる長い間の平和は、国民の性格に影響を及ぼさずには済まなかった。歴史に伝えられるキリスト教掃滅の暴虐は、全く言語に絶し、今なお人心を戦慄せしめるものがある。その暴虐に比べると今の国民の温良さはまた格段で、日本人はたとい死は鴻毛のごとく軽く見ているとはいえ、かりそめにも暴虐と思われることは、いっさい嫌悪する。 (p. 20) ラウツ教授は知識欲に燃えているのが日本人の特徴であると言っているが、まことに至言である。例えばポルトガル人の渡来以来、日本人は如何によくヨーロッパ人の知識を咀嚼して自己のものにしおおせたか、これは世人の熟知するところである。 (p. 21) 日本人は物解りは早いが、かなり自負心も強い。我々のしていることを見て、直ぐさま他人の助けを藉らずともできると思い、その考えの誤りであることを諭されても、なかなか改めようとはしない。その上、非常に頑固で、陳腐な観念にコビリついている。 (p. 30) 私は一般に日本国民は、辛抱強い国民であると信じている。彼等はお寺詣りをするのが、努めであると考えており、我々がお寺に詣でることをも非常に喜ぶ。彼等の年長者に対する尊敬心および諸般の掟を誠実に遵守する心掛けなど、すべて宗教が日本人に教え込んだ性質であり、また慈悲心が強く惨虐を忌み嫌うのは、日本人の個性かとさえ思われる。 (p. 41) 私はこうも考える、すなわち日本にはあまり貧乏人がいないのと、また日本人の性質として、慈善資金の募集に掛るまでに、既に助けの手が伸ばされるので、それで当局は貧民階級の救助には、あまり心を配っていないのではなかろうかと。 (p. 43) 日本では婦人は、他の東洋諸国と違って、一般に非常に丁寧に扱われ、女性の当然受くべき名誉を与えられている。もっとも婦人は、ヨーロッパの夫人のように、余りでしゃばらない。そうして男よりも一段へり下った立場に甘んじ、夫婦連れの時でさえ、我々がヨーロッパで見馴れているような、あの調子で振る舞うようなことは決してない。そうだといって、決して婦人は軽蔑されているのではない。私は日本美人の礼賛者という訳ではないが、彼女らの涼しい目、美しい歯、粗いが房々とした黒髪を綺麗に結った姿のあでやかさを、誰が否定できようか。しかしいったん結婚すると、その美しい歯も、忽ちおはぐろで染めて真黒にする。 (p. 47) 私に最も力抜けを覚えさせたことは、日本人が非常に大切な問題を扱う場合に、いとも事なげに扱うかと思えば、反対に何でもないことにダラダラと数ヶ月も審議に時を費やすといった頼りない態度であった。 (pp. 52-53) 日本人の悠長さといったら呆れるくらいだ。我々はまた余り日本人の約束に信用を置けないことを教えられた。 (p. 56) 自分は日本人のすること、為すことを見るにつけ、がっかりさせられる。日本人は無茶に丁寧で、謙譲ではあるが、色々の点で失望させられ、この分では自分の望みの半分も成し遂げないで、ここを去ってしまうのじゃないかとさえ思う。 (p. 58) 我々は若い娘たちに指輪を与えた。その娘たちはどうしたのか胸もあらわに出したまま、我々に随いて来る。見たところ、彼女たちは、われわれがそれによほど気を取られていることも気付かないらしい。我々が彼女たちの中で一ばん美貌の娘に、最も綺麗な指輪を与えたことが判ると、数名の娘たちは我々の傍に恥ずかしげもなく近寄って来て、その露出した胸を見せ、更に手をさわらせて、自分こそ一ばん美しい指輪をもらう権利があるのだということを知らそうとする。こんな無邪気な様子は他のどこでも見られるものではない。しかしこの事実から、これらの娘たちは自分の名誉を何とも思っていないなどと結論づけようものなら、それこそ大きな間違いである。 (p. 86) この国が幸福であることは、一般に見受けられる繁栄が、何よりの証拠である。百姓も日雇い労働者も、皆十分な衣服を纏い、下層民の食物とても、少なくとも長崎では、申分のないものを摂っている。もし苦力[クーリー]などが裸体のまま、街頭に立っていたとすれば、それは貧乏からではなくて、不作法のせいであると言う。それも尤もなことで、上流者は駕籠でなければ、町に決して出ないのである。 (p. 123) 下層の日本人は、互いに礼儀というものを全然知らない。男も女も、また男の子と娘も、一つの同じ大きな風呂に入っていることが往々ある。我々がその風呂の傍を通ることがあれば、彼等はその風呂から飛び出し、戸口に立って眺めている。 (pp. 123-124) これに反して、町人は個人的自由を享有している。しかもその自由たるや、ヨーロッパの国々でも余りその比を見ないほどの自由である。道徳および慣習に違反する行為は、間諜の制度によって、たちまち露見し、犯人は逮捕せられる。市民はそれを歓迎しているようだ。そうして法規や、習慣さえ尊重すれば、決して危険はない。 (p. 125) 民衆はこの制度の下に大いに栄え、すこぶる幸福に暮しているようである。日本人の欲望は単純で、贅沢といえばただ着物に金をかけるくらいが関の山である。何となれば贅沢の禁令は、古来すこぶる厳密であり、生活第一の必需品は廉い。だから誰も皆、その身分に応じた財産を持つことができるのである。上流家庭の食事とても、至って簡素であるから、貧乏人だとて富貴の人々とさほど違った食事をしている訳ではない。日本人は頑健な国民である。苦力や漁師たちは、少なくとも長崎においては、冬でもほとんど裸で仕事をしている。しかも彼等は、歌をうたい冗談を喋りながら、すこぶる快活に仕事をしているのである。 (p. 126) 日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない。江戸城内には多数の人間がいるが、彼等は皆静粛を旨とし、城内は森閑としている。これはヨーロッパの宮廷にて見かける雑踏の騒音とは、まさに対蹠的な印象を受ける。 (p. 127) 私は日本人ほど、無頓着な人種が他にもあるとは信じない。八、九月の頃、長崎市およびその付近でコレラ病が発生し、莫大な犠牲者を生じた時でも、住民は少しも騒がなかった。それどころか、彼等は町中行列を作り、太鼓を叩いて練り歩き、鉄砲を打って市民の気を浮きたたせ、かくして厄除けをしようとしていたようであった。 (pp. 129-130) 日本人の死を恐れないことは格別である。むろん日本人とても、その近親の死に対して悲しまないというようなことはないが、現世から彼の世に移ることは、ごく平気に考えているようだ。彼等はその肉親の死について、まるで茶飯事のように話し、地震火事その他の天災をば茶化してしまう。だから私は仮りに外国人が、日本の大都会に砲撃を加え、もってこの国民をしてヨーロッパ人の思想に馴致せしめるような強硬手段をとっても、とうてい甲斐はなかろうと信ずる。そんなことよりも、ただ時を俟つのが最善の方法であろう。 (p. 130) 一般にいって上海と長崎の間には大きな相違がある。何といっても、長崎のほうが勝っている。両市とも約六万の人口を有する商業都市であるから比較に便利である。長崎の町は広くて真直ぐで舗装されているに反し、上海のほうは狭隘で曲って、ごみごみしている。 (p. 156) 私はこの支那の滞在中でも、ああ日本は聖なる国だと幾たび思ったことか。日本は国も住民も、支那に比べれば、どんなによいか知れない。だから二月四日の金曜日に、無事長崎番所付近に上陸して、菜種咲く畔を横切り、山を越え谷を渡って、幾町かを歩み、再び出島に帰り着いたその節は、ほんとに仕合せだと感じた。 (p. 157) 想像力に非常に富んでいるところは、日本人とイタリー人がよく似ている。そうして祖先の英雄的行為を語る場合など、非常に昂奮するところなども、両者の似た点である。 (p. 160) 人は何と言おうが、とにかく日本人ほど寛容心の大きな国民は何処にもいない。そうしてもし彼等の寛容心が、ただどうであろうが構わないという無頓着の結果でなかったならば、この点において我々キリスト教徒はたしかに教え導かるべきであろう。 (p. 161) 私は日本の海軍士官が、全然部下の乗組員のことに関係しないのは、日本人の持って生まれた尊大心からであると思う。彼等は乗組員がどんなふしだらなことをしても、未だかつて叱責したことがない。それに触れては手を汚すという気持ちがそうさせないのである。こうした結果、下層民は前にも言ったとおり、全然上層民と関係がないから、誰にも抑制されることがない故、公衆の前でも平気でどんな乱暴でも働くということになる。 (p. 182) 日本人は旺盛な独立心をもっているが、しかし水兵たちはその上官さえ、その育ちと経験によって水兵たちの信頼を獲得するだけの人物であるならば、彼等はよくその船内における自己の地位を弁えている。日本人はそのくらいのことは十分心得ている。そうして我々が時に大声で叱咤せねばならぬような場合には、我々の声におとなしく従い、与えられた命令を迅速に遂行するのである。 (p. 183) 思うに日本海軍士官に、厳格なる船内規律の如何に必要であるかを認識せしめ、また彼等の先入観をいっさい取り除かしめる唯一の方法は、彼等をごく幼少の頃に、ヨーロッパ式軍艦に乗せて勤労を見習わしめることである。日本人は一般にすこぶる軽率である。 (p. 184) また彼等の物事に飽きっぽい性質は、常に士官の純科学的養成に一大障碍である。日本人は敏捷であるから、必要だとさえ感得するならば、如何なる学問でもごく僅かな時間のうちに、ただ上っつらの知識だけではあるが、苦労なしで覚えることができる。しかし悪いことには、ちょっと始めると直ぐさま彼等の好奇心は満腹して、忽ち他の変わったものに目をつける。何事でも徹底的に学ぶ辛抱というものが、彼らには欠けている。 (p. 184) 日本人がその子らに与える最初の教育は、ルッソーがその著『エミール』に書いているところのものと非常によく似ている。多くの点において、その教育は推奨さるべきである。しかし年齢がやや長ずると親たちはその子供たちのことを余り構わない。どうでもよいといった風に見える。だからその結果は遺憾な点が多い。 (p. 202) 私は或る階級の日本人全部の特徴である自惚れと自負は、すべて教育の罪だと思う。二百五十年の間、全く他国民と交渉を持たず、そうして外国人といえば、常に流刑者とばかり見るように教えられてきた日本国民が、井中の蛙のごとき強烈なる国民的自負を持つのも、あながち驚くには当たらない。日本人は非常に物わかりが早い。しかしまたその一面、こうした人々によくある通り、どうも苦労をしないで、あれもこれも直ぐ飽いてしまう。彼等は人倫を儒教によって学び、徳を磨くことに無限の愛を感じ、両親、年長者および教師に対し、最上の敬意を払い、政府の力や法規を尊重すること、あたかも天性のごとくである。その反対に、最も慎重に扱わねばならぬ事柄でも茶化してしまうような、軽薄な国民でもある。 (pp. 203-204) 日本人の悪い一面は不正直な点である。私はこれを始終経験した。これは皆その隣人を、あたかも密偵のごとくに思わしめるような政府の政治組織が悪い結果であると思う。外国人の関係する問題などが起こった場合、明瞭にこの日本人の不正直さが現われてくる。 (p. 205) 私は彼等を高慢な、うわべを飾る、すれからしの、何でもむずかしいことは嘘をついて片づけてしまうという手合いと思っている。この他では、日本はつき合ってまことに気持ちの良い国民である。しかし決して物事を共にすべき相手ではない。善良なところも多々あるが、言葉の真の意味における友情などということは全く知らない。 (p. 205) 他所では何処でも精神的文明が発達するにつれて、婦人は男子と相並んで社会上立派な地位を占めている。然るに日本の婦人は幾ら大切にせられ、自分の自由を持ってるとはいえ、男子に対しては絶対にあがめ奉ることを強いられている。 (p. 206) 決して日本が一ばん不行儀な国であるとは言わないが、しかしまた文明国民のなかで、日本人ほど男も女も羞恥心の少ない国民もないように思われる。風呂は大人の男も女も、また若い男女も皆一緒に入るのであるが、男も女も真っ裸で風呂から町に出ているのを往々見かける。 (p. 206) この切腹から考えても、真の日本人は恥を受けるよりも、死を選ぶことが判る。だから日本人は勇敢な国民であることを疑わない。 (p. 207) 私はこうした、まんざら不良でもない日本人観を持って日本を去った。ああ日本、その国こそは、私がその国民と結んだ交際並びに日夜眺めた荘厳な自然の光景とともに、永く愉快な記憶に残るであろう。 (p. 207) |
オールコック(山口光朔訳)『大君の都−幕末日本滞在記』岩波文庫青424-1〜3, 1962.
ラザフォード・オールコック (Rutherford Alcock, 1809~1897) は英国の外交官で、1859(安政6)年に初代駐日公使として赴任した。前年、エルギン伯によって日英修交通商条約が締結された。広東にいたオールコックは辞令を受け、1859年6月4日長崎に到着した。6月26日、オールコックは軍艦サンプソン号で江戸に到着し、住居を高輪の東禅寺に定めた。9月末、オールコックは箱館を視察し、ホジソンを領事に任命して10月末江戸に戻った。
1860(安政7→万延1)年3月24日、大老井伊直弼が暗殺された。8月25日、オールコックは将軍家茂に謁見した。9月4日、オールコック一行は富士登山に出発、伊豆を旅行し3週間ほどで帰着した。11月27日、英人マイケル・モースが狩猟中銃の暴発で日本人役人を負傷させ、オールコックは1000ドルの過料と3ヶ月の禁固を言い渡し香港に追放した。
1861(万延2)年1月15日、米国公使館通訳ヒュースケンが暗殺された。オールコックは各国の公使と諮り横浜に移ったが、3月2日江戸に戻った。その直後オールコックはモース裁判の件で香港に出張し、5月末長崎に戻った。オールコックはオランダ総領事デ・ウィットらとともに大坂から東海道を歩いて7月2日神奈川に帰り着いた。7月4日、江戸の英国公使館(東禅寺)が襲撃され、オリファント書記官が重傷を負ったが、公使館員に死者はなかった。
1862(文久1)年1月23日、竹内下野守保徳を全権とする使節団が英国艦オーディン号で、ヨーロッパに向けて江戸を出航した。3月23日、オールコックは森山榮之助と淵辺徳蔵を伴い、これを追った。5月にロンドンに到着したオールコックは、本書 (The Capital of the Tycoon) を出版する手はずを整え、翌年に出版された。
長崎の町の山の手の部分の概観は、半ば荒廃した都市のようである。その理由の一半は道路の道幅にあり、他の一半はおびただしい人口をもつ中国の諸都市と比較してみたことにあると思う。商店には、品物が乏しいような感じがした。陶磁器・漆器・絹製品などがあるだけだ――江戸を相手に商売をしてるのではないであろうから、まったく見くびるのはどうかと思うが、それにしてもあまり心をひきつけるものはない。 (上巻, p. 147) かれらを、その類似点や相違点をも合わせて、全体的に考えてみると、日本のワビング〔ロンドンのテームズ川ぞいのドックのある地区で、ロンドンの海からの入り口をなしている〕ともいうべきこの港町から判断しただけで、すぐに数世紀にわたってかれらのなかに住みついた中国人居留民から悪習を教えこまれ、またオランダ人その他の外国人からも過去・現在をつうじて悪習を教えこまれながらも、愛想がよくて理知的で、礼儀正しい国民であり、そのうえに上品で、イタリア語とまちがえるような一種の柔らかなことばを話すという結論をえることができる。市が開かれる広場でのかれらのあいさつは、からだを低く折りまげてする品位があって入念なおじぎである。 (上巻, p. 151) いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわす。それに、ほとんどの女は、すくなくともひとりの子供を胸に、そして往々にしてもうひとりの子供を背中につれている。この人種が多産系であることは確実であって、まさしくここは子供の楽園だ。 (上巻, p. 152) 私は読者に、立体鏡の筒を目にあてがって、新しい時代や他の民族についての先入見や周囲の対象をことごとくしめだすようにおねがいする。このことは、まえまえから考えていたことで、そうすれば読者は、われわれの祖先がプランタジネット王朝〔イギリスの王家(一一五四−一三九九年)〕時代に知っていたような封建制度の東洋版を、よく理解することができるであろう。われわれは、一二世紀の昔にまいもどるわけだ。なぜなら、「現在の日本」の多くの本質的な特質に類似したものは、十二世紀にしかもとめられないからである。 (上巻, p. 187) よく手入れされた街路は、あちこちに乞食がいるということをのぞけば、きわめて清潔であって、汚物が積み重ねられて通行をさまたげるというようなことはない――これはわたしがかつて訪れたアジア各地やヨーロッパの多くの都市と、不思議ではあるが気持ちのよい対照をなしている。 (上巻, pp. 199-200) 日本人は、いろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる。ところで、その欠点のうちでもっとも重要なことは、かれらには、軍事的・封建的・官僚的なカスト――これは、カストというよりも、階級といった方がよいかも知れぬが、どちらも似たり寄ったりだ――があるということだ。 (上巻, p. 204) たしかに日本人は、なんでも二つずつというのを好むようだ。二元的原理が人間の組織のなかにはいり、全自然に浸透しているのをわれわれは知っているが、日本の特質のなかには、この二元的なものが、どこよりもひときわ念入りに進歩しているようだ。ある博学な医者が主張するように、われわれが外見上二つの目と耳をもっていると同じく、頭のなかには二つの完全な頭脳がはいっていて、そのおのおのが両者を合わせた機能のすべてを果たし、また独立したいくつもの思考さえ同時に営むことができるということが事実だとすれば、日本人の頭脳の二重性はあらゆる種類の複合体を生み、政治的・社会的・知的な全生活のなかにゆきわたり、これらをいわば二重化する方法を生み出してきたと見なすことができるであろう。日本では、ただひとりの代表だけと交渉するということは不可能だ。元首から郵便の集配人にいたるまで、日本人はすべて対になって行動する。 (上巻, pp. 259-260) 名詞に性がないということ、また三人称の「かれ」・「彼女」・「それ」などのあいだの差異を示す人称代名詞がないということは、日本語の文法上の顕著な事実なのだが、このことは、奇妙にも、公衆浴場の混浴その他の日常生活の習慣の面でも実践されているようだ。たしなみということについてのわれわれのいっさいの観念とはまったく反対のことが日本で行なわれていながら、しかもヨーロッパではそんなことをすれば必然的に生ずると思われる結果が日本でも生じているかどうかということを自信をもっていえるほど、われわれはまだその国民や社会生活に通じているとはいえないようだ。 (上巻, p. 260) すべてこういったことのなかで、われわれが第一に知ることは、妙に自己を卑下する傾向であり、個人主義・自己主張がある程度欠けているということだが、これは、他面、かれらの国民性のなかのあるものにひじょうに反している。日本人は、自分の種族や国家を誇り、自分の威厳を重んじ、すべて習慣やエチケットが規定するものを怠ったり拒絶したりすることによって自分たちに投げかけられる軽蔑とか侮辱にたいして、きわめて敏感である。それゆえ、当然のことながら、かれらは儀式張って堅苦しい国民である。かれらが軽蔑とか侮辱に敏感であるのにまったく正比例して、他人を腹立たせたり、他人の気にさわることを避けるために、ひじょうに気を使う。 (上巻, p. 263) だがいまでは、長い経験からして、わたしはあえて、一般に日本人は清潔な国民で、人目を恐れずたびたびからだを洗い(はだかでいても別に非難されることはない)、身につけているものはわずかで、風通しのよい家に住み、その家は広くて風通しのよい街路に面し、そしてまたその街路には、不快なものは何物もおくことを許されない、というふうにいうことをはばからない。すべて清潔ということにかけては、日本人は他の東洋民族より大いにまさっており、とくに中国人にはまさっている。中国人の街路といえば、見る目と嗅ぐ鼻をもっている人ならだれでも、悪寒を感じないわけにはゆかない。 (上巻, p. 288) それは、女が貞節であるためには、これほど恐ろしくみにくい化粧をすることが必要だというところをみると、他国にくらべて、男がいちだんと危険な存在であるか、それとも女がいちだんと弱いか、のいずれかだということである。 (上巻, p. 292) 日本人の外面生活・法律・習慣・制度などはすべて、一種独特のものであって、いつもはっきりと認めうる特色をもっている。中国風でもなければヨーロッパ的でもないし、またその様式は純粋にアジア的ともいえない。日本人はむしろ、ヨーロッパとアジアをつなぐ鎖の役をしていた古代世界のギリシア人のように見える。かれらのもっともすぐれた性質のある点では、ヨーロッパ民族とアジア民族のいずれにもおとらぬ位置におかれることを要求するだけのものをもっているのだが、両民族のもっとも悪い特質をも不思議にあわせもっている。 (上巻, p. 333) どの役職も二重になっている。各人がお互いに見張り役であり、見張り合っている。全行政機構が複数制であるばかりでなく、完全に是認されたマキャヴェリズムの原則にもとづいて、人を牽制し、また反対に牽制されるという制度のもっとも入念な体制が、当地ではこまかな点についても精密かつ完全に発達している。 (上巻, p. 340) 日本人は、おそらく世界中でもっとも器用な大工であり、指物師であり、桶屋である。かれらの桶・風呂・籠はすべて完全な細工の見本である。 (上巻, p. 375) しかしながら、そこにある建て物はけっして独創的なものではない。事実、それらは木像の建築物で、中国式の建て物をすこし修正したものにすぎない。寺院や門や大きな家は、いちじるしく中国風で、ただかたちが改良され、ひじょうによく保たれている。 (中巻, p. 24) かれらはきっときれい好きな国民であるにちがいない。このことは、われわれがどんなことをいい、あるいはどんなことを考えても、かれらの偉大な長所だと思う。住民のあいだには、ぜいたくにふけるとか富を誇示するような余裕はほとんどないとしても、飢餓や貧乏の徴候は見うけられない。 (中巻, p. 26) かれらの全生活におよんでいるように思えるこのスパルタ的な習慣の簡素さのなかには、称賛すべきなにものかかがある。そして、かれらはそれをみずから誇っている。 (中巻, p. 27) 自分の農地を整然と保っていることにかけては、世界中で日本の農民にかなうものはないであろう。田畑は、念入りに除草されているばかりか、他の点でも目に見えて整然と手入れされていて、まことに気持ちがよい。 (中巻, p. 49) この土地は、土壌と気候の面で珍しいほど恵まれており、その国民の満足そうな性格と簡素な習慣の面でひじょうに幸福でありつつ、成文化されない法律と無責任な支配者によって奇妙に統治されている。わたしは「成文化されない」といったが、その理由は、閣老たちはわたしに成文の法典があるとはいうものの、わたしはいままでいちどもその写しを手にしたことがないし、それにかれらがわたしを誤解させていないかぎりは、それはいまだかつて印刷されたことがないからだ。 (中巻, p. 165) 民族のある体質的な特徴は、ある道徳的な特徴とともに、世代から世代へと伝えられる。日本人のばあいにもこの例外ではなくて、うそをつくその性癖はなにか最初の体質が完全に身についてしまったに相違ない。それでもなおその上に、日本人はその性質のなかになにか上品で善良なものの痕跡を多くとどめている。 (中巻, p. 177) 日本中どこでも、男はとくに計算がへたらしくて、この点ではヨーロッパ人の「くろうと」の好敵手たる中国人よりもはるかに劣っている。不思議なことに、女は、その主人よりもはるかに計算が上手である。それで、足し算や掛け算をするときには、かならず主婦の調法な才能にたよったものだ。 (中巻, p. 208) たしかに、乞食はいる。首都のなかやその周辺にはかなり多数いる。とはいえ、かれらは、隣国の中国におけるように無数にいるとか飢餓線上にあるのをよく見かけるというような状態にはまだまだほど遠い。 (中巻, p. 222) 聞くところによれば、地代は地方によって、そしてまた土地の生産性にしたがって異なるようである。しかしながら、日本人はきわめて質素で窮乏しており、一般に貧しく見えるところから判断すると、耕作者にのこされるのは、かろうじて生きてゆくに足るだけの米と野菜、それにかれらがいつも着ているたいへん粗末でわずかばかりの着物を買うのにやっとのものだけらしい。 (中巻, pp. 353-354) 一般に、婦人たちの特徴になっているのは、おだやかな女らしいつつしみ深い表情と挙動であり、男たちのなかでも身分のいやしくない者は、その態度にある種の洗練さと優雅さがうかがえる。一方、下層階級の人びとでさえ、つねにたいへん礼儀正しく、他人の感情と感受性にたいする思いやりをもち、他人の感情を害することを好まない。そのような気持ちは、世間一般が野卑で粗野な束縛のない放縦が広く行なわれているなら、とてもたもちつづけることができないであろう。 (中巻, p. 392) 商品や客をのせた何千という舟が広い水面をおおっており、どの橋にも外国人を見ようとする人びとが驚くほどぎっしりつめかけていた。まったく日本人は、一般に生活とか労働をたいへんのんきに考えているらしく、なにか珍しいものを見るためには、たちどころに大群衆が集まってくる。 (中巻, p. 397) 日本人は、女には家庭の軽労働をさせ、男が戸外の重労働をするという点で、文明のすすんだ国のなかでひときわ目立っているように思えるのである。 (中巻, p. 424) 全体のこの牧歌的な効果をそこなっていた唯一のものは、奇妙なことだが、婦人たちだった。歯を黒くして赤い紅をつけているとはいえ、彼女たちのもっともみにくいいやな点は、けっしてその顔ではないのである。実際、大君や大名がいかに絶対的かつ専断的な権利を行使しているかを考えると、一六歳以上ともなれば女が着物をまとわないで外へ出るのは重い犯罪であり、不行跡だとする法令がなかったとは、不思議ではないにしても残念なことだと思える。 (中巻, p. 429) 現在日本を現実に支配しているのは、一種の封建的貴族制であると思われるが、これはある点ではロンバルディア公国〔六世紀にイタリア北部ロンバルディアに樹てられ、七七四年シャルルマーニュゲルマン人の一派・ランゴバルド族によって倒された王国〕やメロヴィンガ王朝〔四八一−七五一〕のフランスや昔のドイツで、特定の家から王を選んだころの状態を思わせるものがある。貴族や領主の連邦が土地を所有し、サクソン時代やプランタジネット朝〔一一五四−一三九九〕初期のイギリスの豪族と大体同じように支配権を享受しているように思われる。 (下巻, p. 120) わたしは、この著者の説にまったく賛成であって、日本人の悪徳の第一にこのうそという悪徳をかかげたい。そしてそれには、必然的に不正直な行動というものがともなう。したがって、日本の商人がどういうものであるかということは、このことから容易に想像できよう。 (下巻, p. 127) ある国においては、真理にたいする愛はほとんど認めがたい。日本はそんな国である。虚偽・賭博・飲酒はさかんに行なわれているし、盗みや詐欺もかなり行なわれており、刃傷沙汰も相当多い。しかし、わたしの意見をのべておくと、こういったことはキリスト教の律法のもとにおかれ、キリスト教の美徳を行なうのにもっと好都合な条件のもとにおかれていると信じられる多くのヨーロッパの国々におけるよりも、はるかに多いというわけではない。 (下巻, p. 136) 政府は、封建的な形態を保持しており、行政のもとになっているのは、これまでに企てられたなかでももっと巧妙な間諜組織である。この組織は、必然的に文明化をさまたげる作因となり、知的・道徳的進歩にたいするひとつの障害として作用する。 (下巻, p. 136) わたしのいっているのは、男女の関係、法律によって認められた交わり、そして婦人の地位である。この点にかんしては、不当にも多くの讃辞が日本人に与えられてきたとわたしは信じている。ここでは日本人が国民全体として他国民より不道徳であるかないかといった問題には立ち入りたくない。しかしながら、父親が娘を売春させるために売ったり、賃貸ししたりして、しかも法律によって罪を課されないばかりか、法律の認可と仲介をえているし、そしてなんら隣人の非難もこうむらない。 (下巻, p. 137) 日本政府がとっている制度ほど、思想・言論・行動の自由を決定的に抑圧する制度は、ほかに考えることが困難だ。さらにわたしは、日本の政治制度は、人間の最上の能力の自由な発達と相いれず、道徳的・知的な性質が当然熱望するものを抑圧する傾向にあり、正常にして根絶しがたいすべてのものをつちかい、発揮する手段を与えないと信じる。 (下巻, p. 140) 物質文明にかんしては、日本人がすべての東洋の国民の最前列に位することは否定しえない。機械設備が劣っており、機械産業や技術にかんする応用科学の知識が貧弱であることをのぞくと、ヨーロッパの国々とも肩を並べることができるといってもよかろう。 (下巻, p. 149) 日本人は中国人のような愚かなうぬぼれはあまりもっていないから、もちろん外国製品の模倣をしたり、それからヒントをえたりすることだろう。中国人はそのうぬぼれのゆえに、外国製品の優秀さを無視したり、否定したりしようとする。逆に日本人は、どういう点で外国製品がすぐれているか、どうすれば自分たちもりっぱな品をつくり出すことができるか、ということを見いだすのに熱心であるし、また素早い。 (下巻, pp. 149-150) このように、世界でも最良の道路をもっておりながら、通信の速度と手段にかんする点では、かれらは他の文明世界に三世紀もおくれている。しかもこのひじょうに原始的な郵便も、人びとの必要にはなんの関係もなく、政府とその役人のあいだの連絡を保っておくのに役立っているだけである。 (下巻, p. 175) 個人や公共の建て物の大きさなり価値については、もし日本の精神文明なり道徳文明がそんなもので評価されるとするなら、日本人にとっては酷なことであろう。かれらには建築と呼びうるようなものはない。……したがって、世界最大の都市のひとつである江戸の街路ほど、むさくるしくみすぼらしいものはない。大名の屋敷でさえ、同じような建て方の低い一列のバラックにすぎず、ただ屋根が高いだけだ。 (下巻, p. 176) すべての職人的技術においては、日本人は問題なしにひじょうな優秀さに達している。磁器・青銅製品・絹織り物・漆器・冶金一般や意匠と仕上げの点で精巧な技術をみせている製品にかけては、ヨーロッパの最高の製品に匹敵するのみならず、それぞれの分野においてわれわれが模倣したり、肩を並べることができないような品物を製造することができる、となんのためらいもなしにいえる。 (下巻, p. 177) だが、人物画や動物画では、わたしは墨でえがいた習作を多少所有しているが、まったく活き活きとしており、写実的であって、かくもあざやかに示されているたしかなタッチや軽快な筆の動きは、われわれの最大の画家でさえうらやむほどだ。 (下巻, p. 179) 漆器については、なにもいう必要はない。この製品の創始者はおそらく日本人であり、アジアでもヨーロッパでもこれに迫るものはいまだかつてなかった。……日本人はきわめてかんたんな方法で、そしてできるだけ時間や金や材料を使わないで、できるだけ大きな結果をえているが、おそらくこういったばあいの驚くべき天才は、日本人のもっとも称賛すべき点であろう。 (下巻, p. 181) すなわち、かれらの文明は高度の物質文明であり、すべての産業技術は蒸気の力や機械の助けによらずに到達することができるかぎりの完成度を見せている。ほとんど無限にえられる安価な労働力と原料が、蒸気の力や機械をおぎなう多くの利点を与えているように思われる。他方、かれらの知的かつ道徳的な業績は、過去三世紀にわたって西洋の文明国において達成されたものとくらべてみるならば、ひじょうに低い位置におかなければならない。これに反してかれらがこれまでに到達したものよりもより高度な、そしてよりすぐれた文明を受けいれる能力は、中国人を含む他のいかなる東洋の国民の能力よりも、はるかに大きいものとわたしは考える。 (下巻, p. 201) |
アーネスト・サトウ(坂田精一訳)『一外交官の見た明治維新』岩波文庫青425-1〜2,1960.
アーネスト・サトウ (Ernest Mason Satow,1843~1929) は英国の外交官・日本学者で、公使館付通訳官として来日し、前後25年にわたって日本に滞在して日本語と日本文化に精通した。日本語通訳官に採用されたサトウは、北京に数ヶ月滞在した後、1862(文久2)年9月横浜に到着した。当時オールコックは不在で、ニール陸軍大佐が臨時代理公使をつとめていた。
1863(文久3)年8月、サトウはアーガス号に搭乗して薩摩藩との戦闘に参加した。1864(文久4→元治1)年3月、オールコックが帰任した。9月、サトウはキューパー提督付き通訳官として長州藩との戦闘に参加した。12月28日、サトウは英国海軍士官を暗殺した清水清次の処刑に立ち会った。このときオールコックはラッセル外相に召還され、帰国の途に着いた後だった。
1865(元治2→慶応1)年7月初旬、ハリー・パークス公使が着任した。サトウは江戸の公使館へ移り、パークスの輔佐のひとりに起用された。10月30日、サトウは清水の共犯者間宮一の処刑に立ち会った。11月1日、英米仏蘭の連合艦隊は幕閣との談判のため大坂に向い、サトウはパークスに随行した。
1866(慶応2)年3月6日、サトウは日本伝習兵の観兵式を観覧した。11月26日、横浜に大火があり、サトウは書物とノートの多くを失った。12月、サトウは政治情報の収集にプリンセス・ロイヤル号で長崎に赴き、宇和島・土佐・肥後藩士らと会談した。
1867(慶応3)年1月、サトウはアーガス号で鹿児島に赴き、英国人一行は薩摩藩の歓待を受けた。アーガス号は宇和島を経て1月11日に兵庫に入港し、サトウは西郷隆盛と会談した。4月、サトウはパークスと徳川慶喜への会談を通訳した後、画家のワーグマンとともに陸路で江戸に戻った。7月、サトウは同僚のミットフォードと新潟から金沢・福井・宇治を経て大坂まで陸路を旅行した。9月、サトウは英国水兵殺人事件の調査のため長崎に赴いた。12月、サトウは書記官に昇進した。
1868(慶応4→明治1)年1月8日、サトウは大坂城でパークスとフランス公使ロッシュが徳川慶喜に謁見するのに同席した。2月4日、備前兵が神戸の外国人居留地を攻撃したが、英米の守備軍に撃退された。サトウは京都でこの事件の解決に当たり、3月に備前藩士滝善三郎の切腹に立ち会った。3月23日、諸外国の公使は京都で明治天皇に謁見する予定だったが、行列が二名の凶漢に襲われ、パークスは宿舎の智恩院に引き返した。3月26日、パークスが天皇に謁見し、通訳にはミットフォードが付いた。5月22日、パークスは大坂で再び天皇に謁見し、サトウはミットフォードとともに陪席した。9月18日から10月17日まで、サトウは書記官のアダムズとともに蝦夷に出かけた。
1869(明治2)年1月5日、サトウはパークスに随行して東京で天皇に謁見した。2月24日、サトウは賜暇を得て横浜を出航し、帰国の途に就いた。
本書 (A Diplomat in Japan) は、1921年にロンドンのシーレー・サービス会社から出版された。序文によると本書の前半はシャム滞在中だった1880年代前半に書かれたが、その後未完成のまま放り出されていた。サトウは1907年以後は英国のデボンシャイアに隠棲したが、親戚から勧められて1919年以後再び筆を進め、ようやく完成した。本書は、日本では終戦まで25年間禁書とされていた。
日本の商人も、往々同様な手段で相手に返報されたが、不正行為を差引きすれば日本の方がはるかに大きかった。そんなわけで、外国人たちの間に、「日本人と不正直な取引者とは同義語である」との確信がきわめて強くなった。両者の親善感情などは、あり得べくもなかったのである。 (上巻, p. 21) 何度繰りかえして言っても、とにかく大名なる者は取るに足らない存在であった。彼らには、近代型の立憲君主ほどの権力さえもなく、教育の仕方が誤っていたために、知能の程度は常に水準をはるかに下回っていた。このような奇妙な政治体制がとにかく続いたのは、ひとえに日本が諸外国から孤立していたためであった。ヨーロッパの新思想の風がこの骨格に吹き当たったとき、それは石棺から取り出されたエジプトの木乃伊のように粉々にこわれてしまったのである。 (上巻, p. 42) 私は、日本語を正確に話せる外国人として、日本人の間に知られはじめていた。知友の範囲も急に広くなった。自分の国に対する外国の政策を知るため、または単に好奇心のために、人々がよく江戸から話をしにやっていた。私の名前は、日本人のありふれた名字(訳注 佐藤)と同じいので、他から他へと容易につたわり、一面識もない人々の口にまでのぼった。 (上巻, p. 194) 黒山のような群集が、どこへ行っても私たちのあとからついてきて、衣服にさわったり、いろいろな質問を発したりしたが、それらの態度は至って丁寧だった。私は、日本人に対する自分の気持が、いよいよあたたかなものになってゆくのを感じた。 (上巻, p. 219) また、彼らは、天皇(訳注 孝明天皇)の崩御を知らせてくれ、それは、たった今公表されたばかりだと言った。噂によれば、天皇は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。この天皇は、外国人に対していかなる譲歩をなすことにも、断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ。 (上巻, p. 234) 私はいつも、日本の舞踏、というよりもその身振りに、はなはだもって感心しないのだ。日本の踊りは、多少とも優美な(あるいは不自然に気取った)肢体の動作によって、三絃のリュートの伴奏で唄われる唄の文句を表現するのである。 (上巻, p. 244) 翌日、越前の首都で、人口四万の福井に着いた。この町も街路が清掃されていた。晴れ着を着た見物人が列をつくって店先に並んでいたが、そのありさまはあたかも席料を出してイギリス議会開院式に臨席する女王を拝観する時の光景に似ていた。私はまだ他のどこにおいても、こんなに大勢の美しい娘たちのいる所を見たことはなかった。 (下巻, p. 29) 私たちには、さして高官でもない伊藤のような人物がこうした二役の兼任に適していると考えられたり、また一般の人民が容易にそれらの人間に服従するということが奇妙に感じられたのだが、私の日記にも書いてあるように、日本の下層階級は支配されることを大いに好み、権能をもって臨む者には相手がだれであろうと容易に服従する。ことにその背後に武力がありそうに思われる場合は、それが著しいのである。伊藤には、英語が話せるという大きな利点があった。これは、当時の日本人、ことに政治運動に関係している人間の場合にはきわめてまれにしか見られなかった教養であった。もしも両刀階級の者をこの日本から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治はさして困難ではなかったろう。 (下巻, pp. 140-141) 天皇が起立されると、その目のあたりからお顔の上方まで隠れて見えなくなったが、しかし動かれるたびに私にはお顔がよく見えた。多分化粧しておられたのだろうが、色が白かった。口の格好はよくなく、医者のいう突顎であったが、大体から見て顔の輪郭はととのっていた。眉毛はそられて、その一インチ上の方に描き眉がしてあった。 (下巻, p. 199) |
ハインリッヒ・シュリーマン(石井和子訳)『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫1325, 1998.
ハインリッヒ・シュリーマン (Heinrich Schlieman, 1822~1890) はドイツの考古学者で、1871年にトロイアの遺跡を発掘した。それに先立つ1864年世界漫遊に旅立ち、1865年4月に清国、6月に日本を訪れた。本書の日本文明論はオールコック『大君の都』の引き写しに近いので、ここでは省略した。
道を歩きながら日本人の家庭生活のしくみを観察することができる。家々の奥の方にはかならず、花が咲いていて、低く刈り込まれた木でふちどられた小さな庭が見える。日本人はみんな園芸愛好家である。日本の住宅はおしなべて清潔さのお手本になるだろう。 (p. 81) 日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。 (p. 87) 「なんと清らかな素朴さだろう!」始めて公衆浴場の前を通り、三、四十人の全裸の男女を目にしたとき、私はこう叫んだものである。私の時計の鎖についている大きな、奇妙な形の紅珊瑚の飾りを間近に見ようと、彼らが浴場を飛び出してきた。誰かにとやかく言われる心配もせず、しかもどんな礼儀作法にもふれることなく、彼らは衣服を身につけていないことに何の恥じらいも感じていない。その清らかな素朴さよ! (p. 88) [豊顕寺の]内に足を踏み入れるや、私はそこに漲るこのうえない秩序と清潔さに心を打たれた。大理石をふんだんに使い、ごてごてと飾りたてた中国の寺は、きわめて不潔で、しかも退廃的だったから、嫌悪感しか感じなかったものだが、日本の寺々は、鄙びたといってもいいほど簡素な風情ではあるが、秩序が息づき、ねんごろな手入れの跡も窺われ、聖域を訪れるたびに私は大きな歓びをおぼえた。 (p. 104) 僧侶たちはといえば、老僧も小坊主も親切さとこのうえない清潔さがきわだっていて、無礼、尊大、下劣で汚らしいシナの坊主たちとは好対照をなしている。 (p. 105) 一方、金で模様を施した素晴らしい、まるでガラスのように光り輝く漆器や蒔絵の盆や壷等を商っている店はずいぶんたくさん目にした。模様の美しさといい、精緻な作風といい、セーブル焼き〔フランスの代表的な陶器〕に勝るとも劣らぬ陶器を売る店もあった。 (p. 134) 木彫に関しては正真正銘の傑作を並べている店が実に多い。日本人はとりわけ鳥の木彫に秀でている。しかし石の彫刻は不得手であり、たまに見かける軟石を使った石彫もつまらないものである。大理石は日本ではまったく知られていないようだ。 (p. 135) さらに、大きな玩具屋も多かった。玩具の値もたいへん安かったが、仕上げは完璧、しかも仕掛けがきわめて巧妙なので、ニュルンベルクやパリの玩具製造業者はとても太刀うちできない。たとえば玩具の小鳥が入っている鳥籠は五〜六スーで売られているが、小鳥は機械が起こすほんのわずかな風でくるくる廻るようになっているし、仕掛けで動く亀などは三スーで買える。日本の玩具のうちとりわけ素晴らしいのは独楽で、百種類以上もあり、どれをとっても面白い。 (p. 137) 日本人は絵が大好きなようである。しかしそこに描かれた人物像はあまりにリアルで、優美さや繊細さに欠ける。 (p. 137) 他国では、人々は娼婦を憐れみ容認してはいるが、その身分は卑しく恥ずかしいものとされている。だから私も、今の今まで、日本人が「おいらん」を尊い職業と考えていようとは、夢にも思わなかった。ところが、日本人は、他の国々では卑しく恥ずかしいものと考えている彼女らを、崇めさえしているのだ。そのありさまを目のあたりにして――それは私には前代未聞の途方もない逆説のように思われた――長い間、娼婦を神格化した絵の前に呆然と立ちすくんだ。 (p. 140) 日本の宗教について、これまで観察してきたことから、私は、民衆の生活の中に真の宗教心は浸透しておらず、また上流階級はむしろ懐疑的であるという確信を得た。ここでは宗教儀式と寺と民衆の娯楽とが奇妙な具合に混じり合っているのである。 (p. 141) |
グリフィス(山下英一訳)『明治日本体験記』東洋文庫430, 平凡社, 1984.
ウィリアム・グリフィス (William Elliot Griffis, 1843~1928) は米国の牧師・東洋学者で、1870〜74(明治3〜7)年に日本に滞在し、福井と東京で西洋式教育制度の導入に尽力した。帰国後の1876年に出版した『皇国 (The Mikado's Empire) 』がベストセラーになり、東洋学者としての名声を確立した。東洋文庫の『明治日本体験記』は、その第二部である。
グリフィスはラトガース大学古典学部で牧師になる勉強をしたが、そこで数人の日本人留学生と交流し、日本への関心を抱くようになった。福井の明新館が米国人の理化学教師を求めていたところ、オランダ改革派教会外国伝導局の名誉主事フェリス (John H. Ferris) の推薦を受けたグリフィスが就任することになった。グリフィスは1870(明治3)年12月29日に横浜に上陸し、翌年2月16日まで東京にとどまり、大坂経由で3月4日に福井に到着した。福井での待遇はよく、グリフィスは順調に親日感情を育てて行った。7月18日に廃藩置県の決定が伝えられ、10月1日越前藩主松平重昭が正式に退位した。1972(明治4)年1月22日にグリフィスは福井を発ち、東海道経由で2月3日に東京に着いた。
1874年7月に帰国したグリフィスは、ニューヨークのユニオン神学校で牧師になる準備をするとともに、弟子の今立吐酔を助手に『皇国』の執筆を進めた。1876年、同書はニューヨークのハーパー・アンド・ブラザーズ社から出版され、30年以上の長きにわたって米国で最も人気のある日本歴史書として読み継がれた。グリフィスは牧師になるくらいだから、当然キリスト教至上主義者で、日本が西洋の尖兵となってアジアにキリスト教を広めることを期待していたらしい。
けれども日本人は石鹸を表す言葉を知らないし、今日になってもそれを使ったことがない。にもかかわらず、どのアジア人よりも身なりも住居も清潔である。 (p. 42) 日本の法律は乞食を人間とみとめていない。乞食は畜生である。乞食を殺しても訴えられも罰せられもしない。道路に死んで乞食が横たわっている。いやそんなことがあろうかと思うだろうが、事実そうなのである。 (p. 45) 娘は十七歳ぐらいで姿が美しく、後ろに大きな蝶結びのある広い帯できちんと着物をむすび、首には白粉が塗ってある。笑うと白い美しい歯が並ぶ。まっ黒の髪が娘らしく結ってある。日本で最も美しい見物は美しい日本娘である。 (p. 45) 日本を無双の自然美、礼儀正しい国民、善良で勇敢な男、美しい娘、やさしい婦人の国として描いたらどうか。それなのに乞食、血だらけの首、胸のわるくなるような傷跡、殺人の現場、暗殺者の蛮勇、数世紀の君主専制によって高潔な人間性が踏み消されるのを、なぜ持ちこむのか。いけないはずがない。見栄を張らない真実がうわべだけ立派な虚偽よりよいからだ。また真実をかくすのは罪である。アメリカ人はあまり上手に何でも信じてしまうほど気が大きく、修辞的な詐欺師や真実を握りつぶす人に迷わされて、日本について最も誤った考えを抱くが、それを正すのは探り針のような筆の力のみである。私の筆は誰よりも早くその誤った考えを正しては記録するだろう。私は一八七一年の日本の真の姿を描く。 (p. 49) この武士が日本の「文武」階級を形成している。「学者・紳士」がアメリカ人おはこの賛辞であるが、日本では「学者・兵士・紳士」になるのが武士の望みである。これは一見乱暴な組合せのようだが、その精神がこのアジアの帝国の若い命を燃え立たせて、キリスト教国の科学と言葉の流入から学ぼうと思わせるのである。 (p. 59) 動物を極端に哀れむのは日本人の特徴である。それは仏の慈悲の教えの結果である。 (p. 81) 日本の住民や国土のひどい貧乏とみじめな生活に私は気がつき始めた。日本はその国について書かれた本の読者が想像していたような東洋の楽園ではなかった。 (p. 111) 実際の日本人の生活がどんなものか知り始めると、よく知ることがパン種のように軽蔑を生じてきた。私は人種や国籍が違うことを神に感謝した。それが偽善的であるとは思わない。 (p. 119) 日本人のように遊び好きであったといってもいいような国民の間では、子供特有の娯楽と大人になってからの娯楽の間に境界線を引くのは必ずしも容易ではない。実際、ここ二世紀半の間に外国人がやってくる以前から、この国の主な仕事は遊びであったといってもいいだろう。オールコック氏の本の中で最も楽しい表現の一つは「日本は子供の天国である」であった。さらに氏は日本はまた遊びを愛する人にとって非常に楽しい住処であると付け加えたかも知れない。この点では中国人と日本人の性格の対照は極端である。中国の学校では初歩読本、三歩格古典のまさに最後の文章の一つに「遊びは益なし」と書かれてある。 (p. 152) この問題を研究する人は、日本人が非常に愛情深い父であり母であり、また非常におとなしくて無邪気な子供を持っていることに、他の何よりも大いに尊敬したくなってくる。子供の遊びの特質と親による遊びの奨励が、子供の方の素直、愛情、従順と、親の方の親切、同情とに大いに関係があり、そしてそれらが日本では非常にきわだっていて、日本人の生活と性格のいい点の一つを形成していると私は思う。 (p. 164) 暑い時の日本の町では、生きている彫像の研究にすばらしい機会がもてる。働く人はよくふんどし一枚になっている。女性は上半身裸になる。身体にすっかり丸みがついたばかりの若い娘でさえ、上半身裸でよく座っている。無作法とも何とも思ってないようだ。たしかに娘から見ると何の罪もないことだ。日本の娘は「堕落する前のイブ」なのか。 (p. 235) 一八七一年の日本の進歩の記録はすばらしい。天皇の政府はもう不安定ではない。国家の軍隊が組織された。陰謀や反乱が鎮圧された。出版物が文明の原動力の一つになった。すでに数種の新聞が東京で創刊された。地方の古い支配の形態が国家のそれに吸収された。租税と行政が国じゅうに平等化された。封建制度が死んだのだ。使節団がヨーロッパへ派遣された。使節団の構成は「大君」を代表する身分の低い手先役人でなく、日本と真の統治者のために弁じる皇国の貴族や閣僚であった。天皇は古い伝統を捨てて、今、国民のなかに現われ、屈辱的な忠誠を求めない。すべての階級間の結婚が許され、階級制度が消えつつある。被差別階級が法によって守られる市民になった。武士の刀が廃止された。国内の平和と秩序は驚くほどだ。進歩はどこへ行っても合言葉だ。これが神のみわざでなくてなんだろう。 (p. 248) しかし、アジア的生活の研究者は、日本に来ると、他の国と比べて日本の女性の地位に大いに満足する。ここでは女性が東洋の他の国で観察される地位よりもずっと尊敬と思いやりで遇せられているのがわかる。日本の女性はより大きな自由を許されていて、そのためより多くの尊厳と自信を持っている。 (pp. 264-265) 放蕩が日本人の性格の一番の特色であるという外国人の間に広まっている信念にも、日本では肉体の純潔が未知のものに近いという考えにも私はくみしない。というのは事実はそうでないと信じているからである。 (p. 268) 欧米諸国の女性と比べ、標準的に見て、日本の女性は美しいものへのあの優雅な趣味では全く同等の資格があり、服装や個人の装身具においてもよく似合って見える。また礼儀作法が女性らしく上品であることでもひけをとらない。美、秩序、整頓、家の飾りや管理、服装や礼儀の楽しみを生まれながらにして愛することでは一般に日本女性にまさる女性はない。 (p. 274) この本に書いたことで誤りやすいところがあるのは充分に承知しているが、確かに言えることは、イエス・キリストの宗教のみが日本人の心に新生をもたらし、日本の社会を清め、国家に新しい造血をすることができることである。イエス・キリストの教える精神道徳のみが、とりわけ純潔が、日本人にアメリカ人と同じ家庭生活を与えることができる。アメリカ人の過ちや罪、アメリカ社会の腐敗や失敗にもかかわらず、その家庭生活、社会生活は、日本人よりも計り知れないほどに高く純粋であると信じる。 (p. 277) 日本人一般の道徳的性格は、率直、正直、忠実、親切、柔和、鄭重、孝行、愛情、忠誠などである。真理のための真理愛、純潔、節制は持ち前の美徳ではない。高度の、苦しいまでの名誉の感覚が武士によって養成された。普通の職人や農民は精神的におとなしい羊である。実際に商人は知能が平凡で、道徳的性格が低く、この点で中国人以下である。日本の男性は他のアジア諸国ほど女性に横柄でなく、むしろ鄭重である。政治意識や社交能力では田舎の人は赤ん坊で、都市の職人は少年である。農夫はその性質のどんなに細い繊維にまでも迷信が深くしみ込み染まっている、紛れもない異教徒である。 (p. 288) 真のキリスト教を中心に集まるこれらの力と、一つの国を起し、一つの国を倒す全能の神の下に、日本はやがて世界の主要な国々と平等な位置を占め、太陽とともに前進する文明国として、日本が世界の歴史の舞台に今こそ登場しつつあるアジア諸国の指導的立場を取るであろう。私はそのような希望を強く胸に抱いている。 (p. 299) |
E・S・モース(石川欣一訳)『日本その日その日』東洋文庫171,172,179,平凡社,1970-1971.
E・S・モース (Edward Sylvester Morse, 1838~1925) は米国の動物学者で、腕足類の研究のため1877(明治10)年6月18日来日した。日光見物の後、江ノ島で腕足類の研究を始めたが、そこで発足間もない東京大学生物学講座の動物学教授に招請された。9月にモースは東大の学生を動員して大森貝塚を発掘調査し、その後数回にわたって本格的な発掘を行なった。モースは大学で進化論を講義したが、当時のお雇い外国人には宣教師も多く、モースを攻撃する者が多かった。モースは米国での公演のため、11月に帰国した。
1878(明治11)年5月、モースは二度目の来日をした。東大で講義する一方、7〜8月には北海道を旅行し、標本採集を行った。翌1879(明治12)年5月には、長崎・熊本・鹿児島でも標本採集や貝塚の調査をした。
1882(明治15)年6月、モースは陶器蒐集のため三度目の来日を果たした。7月26日、モースはビゲロウ (William Sturgis Bigelow, 1850~1926) およびフェノロサ (Ernest Francisco Fenollosa, 1853~1908) とともに、京都・広島・岩国・和歌山・奈良等を回って美術品を蒐集した。この三人の貢献によって、ボストン美術館の日本美術コレクションは、日本国外では最も充実したものになった。
本書 (Japan Day by Day) は、1917年にボストンで出版された。モースは大の親日家で、日本人の鄭重さや正直さを大いに賞賛し、「それに比べて米国人と来たら…」と批判する。執筆時のモースは80歳近い老人で、「米国の最大の脅威は若い男女の無頼漢的の行為である」というボストンの警察署長の言葉に深く共鳴し、若者への嫌悪感を強めていたらしい。
日本の町の街々をさまよい歩いた第一印象は、いつまでも消え失せぬであろう。――不思議な建築、最も清潔な陳列箱に似たのが多い見馴れぬ開け放した店、店員たちの礼譲、いろいろなこまかい物品の新奇さ、人々の立てる奇妙な物音、空気を充たす杉と茶の香。我々にとって珍しからぬ物とては、足の下の大地と、暖かい輝かしい陽光と位であった。 (1巻, p. 6) 巡査がいないのにも係らず、見物人は完全に静かで秩序的である。上機嫌で丁寧である。悪臭や、ムッとするような香が全然しない……これ等のことが私に印象を残した。そして演技が終って見物人が続々と出てきたのを見ると、押し合いへし合いするするものもなければ、高声で喋舌る者もなく、またウイスキーを売る店に押しよせる者もない(こんな店が無いからである)。只多くの人々がこの場所を取りまく小さな小屋に歩み寄って、静かにお茶を飲むか、酒の小盃をあげるかに止った。再び私はこの行為と、我国に於る同じような演技に伴う行為とを比較せずにはいられなかった。 (1巻, p. 18) 日本人がいろいろな新しい考案を素速く採用するやり口を見ると、この古い国民は、支那で見られる万事を死滅させるような保守主義に、縛りつけられていないことが非常にハッキリ判る。 (1巻, p. 30) 汽車に間に合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、途中、私の人力車の車輪が前に行く人力車の甑にぶつかった。車夫たちはお互に邪魔したことを微笑で詫び合った丈で走り続けた。私は即刻この行為と、我国でこのような場合に必ず起る罵詈雑言とを比較した。 (1巻, p. 30) 人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。 (1巻, p. 34) いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致する事がある。それは日本が子供たちの天国だということである。この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少なく、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。 (1巻, p. 37) 汽車に乗って東京へ近づくと、長い防海壁のある入江を横切る。この防海壁に接して、簡単な住宅がならんでいるが、清潔で品がよい。田舎の村と都会とを問わず、富んだ家も貧しい家も、決して台所の屑物や灰やガラクタ等で見っともなくされていないことを思うと、うそみたいである。 (1巻, p. 38) 同様に見えるばかりでなく、彼等は皆背が低く脚が短く、黒い濃い頭髪、どちらかというと突き出た唇が開いて白い歯を現わし、頬骨は高く、色はくすみ、手が小さくて繊細で典雅であり、いつもにこにこと挙動は静かで丁寧で、晴々しい。下層民が特に過度に機嫌がいいのは驚く程である。 (1巻, p. 39) 外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生れながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。 (1巻, p. 40) 日本人の清潔さは驚く程である。家は清潔で木の床は磨き込まれ、周囲は綺麗に掃き清められているが、それにも係らず、田舎の下層民の子供達はきたない顔をしている。 (1巻, p. 55) 我々に比して優雅な鄭重さは十倍も持ち、態度は静かで気質は愛らしいこの日本人でありながら、裸体が無作法であるとは全然考えない。全く考えないのだから、我々外国人でさえも、日本人が裸体を恥じぬと同じく、恥しく思わず、そして我々に取っては乱暴だと思われることでも、日本人にはそうでない、との結論に達する。たった一つ無作法なのは、外国人が彼等の裸体を見ようとする行為で、彼等はこれを憤り、そして面をそむける。 (1巻, p. 89) 日本に数年住むと、日本の最も荒れ果てた場所にいる方が、二六時中、時間のいつを問わず、セーラムその他我国の如何なる都市の静かな町通りにいるよりも安全だということを知る。 (1巻, p. 100) 田舎の人々――農民――は、概して不器量である。男の方が女よりもいい顔をしていて、時々知的な顔を見受ける。私は綺麗ともいうべき娘を五、六人見た。 (1巻, p. 102) 外国人の立場からいうと、この国民は所謂「音楽に対する耳」を持っていないらしい。彼等の音楽は最も粗雑なもののように思われる。和声の無いことは確かである。彼等はすべて同音で歌う。 (1巻, p. 102) 仕事をしていると男、女、娘、きたない顔をした子供達等が立ち並んで、私を凝視しては感嘆これを久しゅうする。彼等はすべて恐ろしく好奇心が強くて、新しい物は何でも細かに検査する。 (1巻, p. 154) 然し私は誰からも、丁寧に、且つ親切に取扱われ、私に向かって叫ぶ者もなければ、無遠慮に見つめる者もない。この行為と日本人なり支那人なりが、その国の服装をして我国の村の路――都会の道路でさえも――を行く時に受けるであろう所の経験とを比較すると、誠に穴にでも入り度い気持がする。 (1巻, pp. 157-158) 日本人が丁寧であることを物語る最も力強い事実は、最高階級から最低階級にいたる迄、すべての人々がいずれも行儀がいいということである。世話をされる人々は、親切にされてもそれに狎れぬらしく、皆その位置をよく承知していて、尊敬を以てそれを守っている。 (1巻, p. 171) 日本の舟夫達は優秀だとの評判があるにかかわらず、非常に臆病であるらしく、容易なことでは陸地から遠くへ出ない。今日私は遠方へ行くので、彼らを卑怯者といわねばならなかった。 (1巻, p. 199) 日本人のこれ等及び他の繊美な作品は、彼等が自然に大いなる愛情を持つことと、彼等が装飾芸術に於て、かかる簡単な主題(Motif)を具体化する力とを示しているので、これ等を見た後では、日本人が世界中で最も深く自然を愛し、そして最大な芸術家であるかのように思える。 (1巻, p. 222) 我国では非常に一般的である(欧洲ではそれ程でもない)婦人に対する謙譲と礼譲とが、ここでは目に立って欠けている。馬車なり人力車なりに乗る時には、夫が妻に先立つ。道を歩く時には、妻は夫の、すくなくとも四、五フィートあとにしたがう。その他、いろいろなことで、婦人が劣等な位置を占めていることに気がつく。………酌量としていうべき唯一のことは、日本の婦人が、他の東洋人種よりも、遥かに大なる自由を持っているということ丈である。(2巻, pp. 4-5) 日本の召使の変通の才は顕著である。私は四人雇っているが、その各の一人は、他の三人の役目をやり得る。 (2巻, p. 119) 東京へ近づくにつれ、特にこの都会の郭外で、私は子供達が、田舎の子供達よりも、如何に綺麗であるかに注意した。この事は、仙台へ近づいた時にも気がついた。子供達の間に、このような著しい外観の相違があるのは、すべての旅館や茶店が女の子を使用人として雇い、これ等の持主が見た所のいい女の子を、田舎中さがし廻るからだろうと思う。彼等は都会へ出て来て、やがては結婚し、そして彼等の美貌を子孫に残し伝える。これはすくなくとも、合理的な説明であると思われる。 (2巻, p. 217) 日本人の特性は、米国と欧洲とから取り入れた非常に多数の装置に見られた。ある国民が、ある装置の便利さと有効さとを直ちに識別するのみならず、その採用と製造とに取りかかる能力は、彼等が長期にわたる文明を持っていた証例である。これを行い得るのは、只文明の程度の高い人々だけで、未開人や野蛮人には不可能である。 (3巻, pp. 32-33) 和服を着た人々の群を見ると、そのやわらかい調和的な色や典雅な折り目が、外国の貴婦人達の衣服と著しい対照を示す。小柄な体躯にきっちり調和する衣服の上品さと美麗さ、それから驚嘆すべき程整えられ、そして装飾された漆黒の頭髪――これ位この国民の芸術的性格を如実に表現するものはない。 (3巻, p. 36) 国中が朝鮮の高圧手段に憤慨し、日本の軍隊が鎮南浦まで退却することを余儀なくされた最中に、私は京都へ行く途中、二人の朝鮮人と同じ汽車に乗り合わした。私も、朝鮮人はめったに見たことが無いが、車室内の日本人達は、彼等がこの二人を凝視した有様から察すると、一度も朝鮮人を見たことが無いらしい。二人は大阪で下車した。私も、切符を犠牲にして二人の後を追った。彼等は護衛を連れていず、巡査さえも一緒にいなかったが、事実護衛の必要は無かった。彼等の目立ちやすい白い服装や、奇妙な馬の毛の帽子や、靴やその他すべてが、私にとって珍しいと同様、日本人にも珍しいので、群衆が彼らを取りまいた。私は、あるいは敵意を含む身振か、嘲笑するような言葉かを発見することが出来るかと思って、草臥れて了うまで彼等の後をつけた。だが日本人は、この二人が、彼等の故国に於て行われつつある暴行[壬午軍乱]に、まるで無関係であることを理解せぬ程莫迦ではなく、彼等は平素の通りの礼儀正しさを以て扱われた。自然私は、我国に於る戦の最中に、北方人が南方でどんな風に取扱われたかを思い浮かべ、又しても私自身に、どっちの国民の方がより高く文明的であるかを訊ねるのであった。 (3巻, pp. 104-105) 火葬場への往復に我々は、東京の最も貧しい区域を、我国の同様な区域が開いた酒場で混雑し、そして乱暴な言葉で一杯になっているような時刻に、車で通った。最も行儀のいいニューイングランドの村でも、ここのいたる所で見られる静けさと秩序とにはかなわぬであろう。これ等の人々が、すべて少なくとも法律を遵守することは、確かに驚く可き事実である。ボストンの警視総監は、我国を最も脅かすものは、若い男女の無頼漢であるといった。日本には、こんな脅威は確かに無い。事実誰でも行儀がよい。 (3巻, p. 152) 日本人は造園芸術にかけては世界一ともいうべく、彼等はあらゆる事象の美しさをたのしむらしく見えた。 (3巻, pp. 155-156) 日本の農夫は、一日に五、六回、主として米、大根、魚等の食物を食う。実際測ったところによると(医学生である竹中は私にかく語った)、日本人の胃は外国人のそれよりも大きい。これは、彼等が米を多量に摂取するからかも知れない。田舎の子供達が、文字通りつめ込んだ米のために、まるくつき出した腹をしているのを見ては、驚かざるを得ぬ。 (3巻, p. 165) 粗野で侵略的なアングロ・サクソン人種はここ五十年程前までは、日本人に対し最も間違った考を持っていた。男性が紙鳶をあげ、花を生ける方法を学び、庭園をよろこび、扇子を持って歩き、その他女性的な習慣や行為を示す国民は、必然的に弱くて赤坊じみたものであると考えられていた。 (3巻, p. 234) |
イザベラ・バード(時岡啓子訳)『イザベラ・バードの日本紀行』講談社学術文庫, 2008.
イザベラ・バード (Isabella L. Bird, aka Mrs. J. F. Bishop, 1831~1904) はイギリスの旅行家・探検家で、世界各地を旅して数多くの旅行記を残した。日本へは1878(明治11)年6月に上陸し、日光・新潟・山形・秋田を経て北海道に渡り、アイヌ人の村落を調査した。イザベラ・バードの日朝中では平凡社東洋文庫の高梨健吉訳を示したが、ここでは講談社学術文庫の時岡啓子訳を示す。
上陸してつぎにわたしが感心したのは、浮浪者がひとりもいないこと、そして通りで見かける小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸のへこんだ貧相な人々には、全員それぞれ気にかけるべきなんらかの自分の仕事というものがあったことです。 (上巻, pp. 43-44) 日本人は洋服を着るとえらく小柄に見えます。どの洋服も不似合いで、貧弱な体型と国民全体の欠陥であるへこんだ胸とO脚が誇張されます。 (上巻, p. 55) その後わたしは本州奥地と蝦夷の一二〇〇マイル〔約一九二〇キロ〕を危険な目に逢うこともなくまったく安全に旅した。日本ほど女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う。 (上巻, p. 484) これほど自分の子供たちをかわいがる人々を見たことはありません。だっこやおんぶをしたり、手をつないで歩いたり、ゲームをやっているのを眺めたり、いっしょにやったり、しょっちゅうおもちゃを与えたり、遠足やお祭りに連れていったり、子供がいなくては気がすまず、また他人の子供に対してもそれ相応にかわいがり、世話を焼きます。 (上巻, pp. 182-183) なぜか子供は男の子が好まれるとはいえ、女の子も同じようにかわいがられます。子供たちはわたしたちの抱いている概念から言えば、おとなしすぎるししゃちほこばってもいますが、外見や態度は非常に好感が持てます。 (上巻, p. 183) 疥癬、しらくも、輪癬、眼炎、不健康そうな発疹が流行っているのを見るのはつらいことです。それに村民の三割以上に疱瘡のひどい痕があります。 (上巻, p. 184) 新しい馬はらくだのように体を揺らして歩き、小佐越で放免したときはほっとしました。小佐越は高原にある小さな村で、とても貧しく、家々は貧困に荒れています。子供たちはとても汚くて、ひどい皮膚病にかかり、女性たちは重労働のせいで血色が悪くて顔つきが険しく、木を炊く煙を大量に浴びているのでとても醜くて、その体つきは均整がとれているとはとてもいえません。 (上巻, p. 195) 両側には住まいがあり、その前にはかなり腐敗した肥料の山があって、女性たちがはだしでその山を崩し、どろどろになるまでせっせと踏みつけています。みんな作業中はチョッキとズボンという姿ですが、家のなかでは短いペティコートしかつけていません。何人かの立派な母親たちが、なんら無作法と思わずにこの格好でほかの家を訪問するのをわたしは目にしています。幼い子供たちはひもに下げたお守り以外なにも見につけていません。人も衣服も家も害虫でいっぱいで、不潔ということばが自立して勤勉な人々に対しても遣われるなら、ここの人々は不潔です。 (上巻, pp. 200-201) ヨーロッパの国の多くでは、またたぶんイギリスでもどこかの地方では、女性がたったひとりでよその国の服装をして旅すれば、危険な目に遭うとまではいかなくとも、無礼に扱われたり、侮辱されたり、値段をふっかけられたりするでしょう。でもここではただの一度として無作法な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともないのです。それに野次馬が集まったとしても、無作法ではありません。 (上巻, p. 228) ついきのうも革ひもが一本なくなり、もう日は暮れていたにもかかわらず、馬子は一里引き返して革ひもを探してくれたうえ、わたしが渡したかった何銭かを、旅の終わりにはなにもかも無事な状態で引き渡すのが自分の責任だからと、受け取ろうとはしませんでした。 (上巻, p. 229) 彼らは丁重で、親切で、勤勉で、大悪事とは無縁です。とはいえわたしが日本人と交わした会話や見たことから判断すると、基本的な道徳観念はとても低く、暮らしぶりは誠実でも純粋でもないのです。 (上巻, p. 237) わたしは野次馬に囲まれ、おおむね礼儀正しい原則のたったひとつの例外として、ひとりの子供がわたしを中国語で言うフェン・クワイ――野蛮な鬼――と呼びましたが、きつく叱られ、また警官がついさっき詫びにきました。 (上巻, p. 240) 日本人は子供がとにかく好きですが、道徳観が堕落しているのと、嘘をつくことを教えるため、西洋の子供が日本人とあまりいっしょにいるのはよくありません。 (上巻, p. 272) 彼らは汚く、ぎっしり集まっています。この家の女性たちはわたしが暑がっているのを知ると、気をきかせてうちわを取り出し、丸一時間わたしをあおいでくれました。代金を聞くと、それはいらないと答え、まったく受け取ろうとしません。これまで外国人を一度も見たことがない、本にわたしの「尊い名前」を書いてもらったからには、お金を受け取って自分たちを貶めるわけにはいかないというのです。 (上巻, pp. 312-313) 吉田は豊かで繁栄しているように見え、沼は貧しくてみすぼらしいものの、山腹から救出された沼のわずかな農地は吉田のそれと同じようにすばらしく整然として手入れが行き届き、完璧に耕されています。また日当たりのいい米沢の平野の広い農地と同じように、気候に合った作物をふんだんに産します。そしてこれはどこでもそうなのです。「無精者の畑」は日本には存在しないのです。 (上巻, pp. 321-322) ごちそうだということを示すために、ぺちゃぺちゃ、ごくごくと音をたてて食べたり飲んだり派手に息を吸ったりするのは正しいことです。作法では厳然とそう定められており、これは西洋人にとってはとても困ったことで、わたしはこのお客さまの食べ方にもう少しで笑い出してしまうところでした。 (上巻, p. 338) どこでも警察は人々に対してとてもやさしく、反抗しない相手には、二言三言静かに発するか、手をひと振りするかすれば事足ります。 (上巻, p. 374) 港には二万二〇〇〇人の見物人が町外から集まったと警官が教えてくれました。それでも三万二〇〇〇人の行楽客に対して、警官は二五人いれば事足りるのです。その場を引き上げた午後三時まで、わたしはひとりの酔っ払いも見かけませんでしたし、粗野な振る舞いや無作法な態度をただの一度も目にしませんでした。しかもいちばん人で込んだところですら、みんな暗黙に了解しているかのように輪をつくり、息のできる空間をわたしに残してくれたのです。 (上巻, p. 401) 午前五時には豊岡の全住民が集まり、朝食をとるあいだ、わたしは外にいる村人全員ばかりか、土間に立ってはしごを見上げている四〇人以上の人々の注目の「的」となりました。人々は宿のあるじからいついなくなってくれるのかと訊かれると、「こんなにめずらしいものを一人占めするとはずるいし、隣人の思いやりに欠ける。外国人の女性なんて、いま見ておかなければ、一生見られる機会はないかもしれない」と答えました。それで彼らはいてもいいということになったのです! (上巻, p. 407) そこかしこで出会う親切な人々について話したいのですが、馬子ふたりは特に親切で、わたしが辺鄙な内陸で足止めをくわされるのを怖れて蝦夷行きを急いでいると知ると、そっとわたしを抱き上げて馬に乗せてくれたり、乗るときに背中を踏み台代わりにしてくれたり、野草の赤い実を集めてくれたり、手を尽くしてわたしに協力してくれました。赤い実は礼儀上食べたものの、なにか嘔吐剤のような味がしました。 (上巻, p. 418) わたしの宿泊費は(伊藤の分も含めて)一日三シリング未満で、これまでほぼどこに行っても、快適にすごしてもらいたいという心温まる思いやりがありましたし、日本人ですら足を踏み入れない一般コースをはずれた小さくて素朴な村落に泊まることが多いことを考えると、宿泊設備は、蚤と臭気をのぞけば、驚くほどすばらしく、世界のどの国へ行っても、同じように辺鄙なところで同等の宿泊設備は得られないと考えるべきでしょう。 (上巻, p. 426) 日本の女性は独自の集いを持っており、そこでは実に東洋的な、品のないおしゃべりが特徴のうわさ話や雑談が主なものです。多くのことごと、なかんずく表面的なことにおいて、日本人はわたしたちよりすぐれていると思いますが、その他のことにおいては格段にわたしたちより遅れています。この丁重で勤勉で文明化された人々に混じって暮らしていると、彼らの流儀を何世紀にもわたってキリスト教の強い影響を受けてきた人々のそれと比べるのは、彼らに対してきわめて不当な行為であるのを忘れるようになります。わたしたちが十二分にキリスト教化されていて、比較した結果がいつもこちらのほうに有利になればいいのですが、そうはいかないのです! (上巻, p. 429) しばらくそのまま馬を引いていたところ、鹿皮を積んだ荷馬の行列を連れたふたりの日本人に会いました。ふたりは鞍を元に戻してくれたばかりでなく、わたしが乗るあいだ鐙を支えてくれ、別れ際には丁重にお辞儀をしました。これほど礼儀深くて親切な人々をどうして好きにならずにいられるでしょう。 (下巻, p. 53) 黄色い肌、馬毛のように硬い毛髪、弱々しいまぶた、細長い目、平たい鼻、へこんだ胸、モンゴロイド特有の顔立ち、脆弱な肉体、男のよろよろした足取り、女のよちよちとした歩き方など、総じて日本人の外見からは退化しているという印象を受けますが、それに対しアイヌからはたいへん特異な印象を受けます。 (下巻, p. 104) 伊藤が夕食用に鶏を買いましたが、一時間後に絞めようとしたら、嘆き悲しんだ売り主がここまで育ててきた鶏が殺されるのを見るのはしのびないとお金を返してきました。ここは未開の辺鄙な場所ですが、勘は美しいところだと告げています。 (下巻, p. 161) |
グスタフ・クライトナー(小谷裕幸・森田明)『東洋紀行』東洋文庫555,558,560, 平凡社, 1992-93.
グスタフ・クライトナー (Gustav Kreitner, 1847~93) はオーストリーの軍人・外交官で、1877〜80年にハンガリー貴族セーチェーニ・ベーラ伯爵の東洋旅行に同行した。一行は1878(明治11)年6月に上海から汽船で長崎に着き、瀬戸内海航路で神戸に上陸した。大阪・京都を見物後、富士山に登頂してから東京に入った。8月にクライトナーは単身で南北海道を踏査し、9月に上海で一行と合流した。この日本旅行が機縁となり、クライトナーは1884年に横浜領事、後に総領事となったが、45歳で死亡し横浜外人墓地に葬られた。
脱線はこの程度にして再び長崎に話を戻してみると、町の辻裏の雑然とした営みは、品位、道徳、美徳に関するわたしたちの観念と正反対である。しかし男女を問わず、日本人はおしなべて親切で愛想がよい。底抜けに陽気な住民は、子供じみた手前勝手な哄笑をよくするが、これは電流の如く、文字通り伝播する。 (1巻, p. 214) プロテスタントの宣教師の話では、中国ではおよそ三万人の住民がキリスト教に改宗している。中国人の場合、一度改宗すればその人はいつまでもキリスト教徒のままである。例えば、ある宣教師が十六年前にある村で三〇〇人の人に洗礼を施していた。宣教師がその村を再び訪れた時には、信者は十六年前より増えていた。これに比べて、日本では改宗させるのははるかに容易だが、この国の民衆は宗教の面でも「去る者は日々に疎し」という諺に忠実である。 (1巻, p. 219) 日本人の召使いはどんな場合でも信頼できる。彼らは心底正直者で、何日家を留守にしても盗みを働く心配はない。 (1巻, p. 222) 山門の前あたりから、はや道端に露店が並び、菓子、小間物、日本製彫り物、櫛、ガラス器、喫煙具等を売っている。売り子の女たちは真底愛想がよいので、外国人などはつい買う気にさせられてしまう。日本人がいろいろの点で人気があるのも、この親切さや素朴さのおかげであることは確かである。 (1巻, p. 224) 日本女性の地位は、たった今述べたことからも明らかなように従属的である。女性の役割は受動的なもので、夫は、妻とか娘の心の動きなどはまったく無視し、自分の好きなように、そして自分の欲する通りに家庭内をとりしきる。 (1巻, pp. 251) 日本の田舎の人は富の恩恵を受けていない。生活は惨めなものである。米を食べることのできる裕福な家庭は数える程ほどしかない。 (1巻, pp. 271-272) 旅行者なら誰でも、日本の国土と国民の虜となって日本から去っていく。このことは日本人のほうも心得ていて、外国人に好かれようと努力する。 (1巻, p. 283) 実際に眺めてみると、期待した程のものではなかった。東京は大きな村という感じだった。そして、町の無数の貧弱な木造家屋の中に高々と聳え立っている帝の居城さえも、宮殿というよりもむしろバラックといった趣であった。 (1巻, p. 289) しかし、心の飛躍を阻む民族的慣習を根絶することを政府は怠っている。文化の発展の基礎は、公衆道徳にある。しかし、日本人には公衆道徳がまったく欠如している。この面での日本人の考え方は、ヨーロッパ人のそれとはまったくかけ離れている。ヨーロッパ人たるわたしは、一挙手一投足ごとに、ヨーロッパ人の風俗や習慣の概念とはまったく相容れない場面に出くわすのである。……柵の奥にはそれぞれ五〜一〇人の娘がいて、けばけばしい着物で飾り立て、一片の羞恥心さえもあるとは思えない程に平然と落ち着きはらって、通行人たちの目に身をさらしている。どんな町の路地、どんな小さな村にも共同浴場があり、そこでは、日本人は男女の区別なく、ひとつの浴室に集まる。 (1巻, pp. 294-295) 日本の発展と、強い影響を及ぼすその文化とには多くの賞讃が寄せられている。が、わたしは、日本讃美にとりつかれるのは、たいていの場合、深い基盤を欠いた、一時の浅薄な熱狂にすぎない、と見ている。 (1巻, p. 306) |
ラフカディオ・ハーン(池田雅之訳)『新編・日本の面影』角川ソフィア文庫,2000.
ラスカディオ・ハーン (Lafcadio Hearn, 1850~1904) はギリシア生まれのジャーナリスト・作家で、1890(明治23)年に通信記者として来日、1896(明治29)年に帰化し小泉八雲と名乗った。この間、松江中学校や熊本第五高等学校で英語を教え、「神戸クロニクル」紙の記者を経て東京帝国大学英文科の講師となった。
本書 (Glimpses of Unfamiliar Japan) は来日後初の作品集で、1894年ボストンとニューヨークで出版された。ハーンの日本賛美と西洋批判はモースよりさらに極端で、近代化・産業化への強い反感が日本にのめり込む素地になったらしい。
日本の生活にも、短所もあれば、愚劣さもある。悪もあれば、残酷さもある。だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しのよさに、目を見張るばかりだ。 (p. 7) 日本がキリスト教に改宗するなら、道徳やそのほかの面で得るものは何もないが、失うものは多いといわねばならない。これは、公平に日本を観察してきた多くの見識者の声であるが、私もそう信じて疑わない。 (p. 10) まるでなにもかも、小さな妖精の国のようだ。人も物もみんな小さく、風変わりで神秘的である。 (p. 13) 旅人が、社会変革を遂げている国を――とくに封建社会の時代から民主的な社会の現在へと変わりつつあるときに突然訪れれば、美しいものの衰退と新しいものの醜さの台頭に、顔をしかめることであろう。そのどちらにも、これから日本でお目にかかるかもしれないが、その日の、この異国情緒溢れる通りには、新旧がとてもうまく交じり合って、お互いを引き立てているように見えた。 (pp. 18-19) そのとき私は、それらの人々の足が、なんと小さくて格好がいいかに気づいた。農民の日焼けした素足も、ちっちゃなちっちゃな下駄を履いた子供のきれいな足も、真っ白い足袋を履いた娘たちの足も、みんな同じように小さくて格好がいい。足袋は、親指のわかれた白い靴下のようなものであるが、牧神ファウヌスの切れこみのある白い足の上品さに通ずるとでもいおうか、真っ白な足下に神話的な香りを添えている。何かを履いていようが、裸足であろうが、日本人の足には、古風な均整美といえるものが漂っている。それはまだ、西洋人の足を醜くした悪名高き靴に歪められてはいない。 (pp. 22-23) 街道沿いでは、小さな村を通り抜けざまに、健康的で、きれいな裸体をけっこう見かける。かわいい子供たちは、真っ裸だ。腰回りに、柔らかく幅の狭い白布を巻いただけの、黒々と日焼けした男や少年たちは、家中の障子を取り外して、そよ風を浴びながら畳の上で昼寝をしている。男たちは、身軽そうなしなやかな体つきで、筋肉が隆々と盛り上がった者は見かけない。男たちの体の線は、たいていなめらかである。 (p. 51) 田舎の人たちは、外国人の私を不思議そうな目で見つめる。いろんな場所で私たちがひと休みをするたび、村の老人が、私の洋服を触りに来たりするのである。老人は、謹み深く頭を下げ愛嬌のある笑みを浮べて抑えきれない好奇心を詫びながら、私の通訳に変わった質問をあれこれぶつけている。こんなに穏やかで優しい顔を、私はこれまで見たことがない。その顔は、彼らの魂の反映であるのだ。私はこれまで、怒鳴り声をひとつも耳にしたことがないし、不親切な行為を目にしたこともないからである。 (p. 51) この村落は、美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には、日本人の造型に対するすぐれた美的感覚を表してないものは、何ひとつとしてない。花の金蒔絵が施された時代ものの目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが、一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした、青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の頭がついた真鍮の火鉢までもが、私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれるのである。実際に、今日の日本のどこかで、まったく面白味のない陶器や金属製品など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない。 (p. 57) これまで立ち寄った小さな田舎の村々と変わらず、ここの村の人たちも、私にじつに親切にしてくれた。これほどの親切や好意は想像もできないし、言葉にもできないほどである。それは、ほかの国ではまず味わえないだろうし、日本国内でも、奥地でしか味わえないものである。彼らの素朴な礼儀正しさは、けっしてわざとらしいものではない。彼らの善意は、まったく意識したものではない。そのどちらも、心から素直にあふれ出てきたものなのである。 (p. 58) この国の人はいつの時代も、面白いものを作ったり、探したりして過ごしてきた。ものを見て心を楽しませることは、赤ん坊が好奇心に満ちた目を見開いて生まれたときから、日本人の人生の目的であるようだ。その顔にも、辛抱強くなにかを期待しているような、なんともいえない表情が浮かんでいる。なにか面白いものを待ち受けてる雰囲気が、顔からにじみ出している。もし面白いものが現れてこないなら、それを見つける旅に、自分の方から出かけてゆくのである。 (p. 97) 日本人は、野蛮な西洋人がするように、花先だけを乱暴に切り取って、意味のない色の塊を作り上げたりはしない。日本人はそんな無粋なことをするには、自然を愛しすぎていると言える。 (pp. 108-109) 神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、どうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕えることのできない、神道という存在に舌を巻くしかないのだ。 (p. 153) と同時に、同じような理由で、日本の古い庭園がどのようなものかを知った後では、イギリスの豪華な庭を思い出すたびに、いったいどれだけの富を費やしてわざわざ自然を壊し、不調和なものを造って何を残そうとしているのか、そんなこともわからずに、ただ富を誇示しているだけではないかと思われたのである。 (p. 216) 私が思うに、日本の生徒の平均的な図画の才能は、西洋の生徒より少なくとも五十パーセントは上回っている。この民族の精神は、本来が芸術的なのだ。 (p. 276) しかし、心得るべきことは、どんなに貧しくて、身分が低いものであろうと、日本人は、不当な仕打ちにはまず従わないということである。日本人が一見おとなしそうなのは、主に道徳の観念に照らして、そうしているのである。遊び半分に日本人を叩いたりする外国人は、自分が深刻な誤りを犯したと思い知るだろう。日本人は、いい加減に扱われるべき国民ではないのである。あえてそんな愚挙に出ては、あたら命を落してしまった外国人が何人もいるのである。 (p. 313) 日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。 (p. 317) |