反日派のための引用例


 最近、欧米から見た朝鮮欧米から見た日本の両ページが、某翻訳掲示板で韓国人をおちょくるために使われていることに気づいた。一方で反日韓国人による利用は、今のところ見られない。そこで見本を示すために、ここでは反日の立場から引用例を作ってみた。逆の立場からの引用例は、嫌韓派のための引用例に示した。機械翻訳を想定して、旧仮名遣いは新仮名遣いに直した。ここで用いた引用の中には、上記ページに未発表のものもある。なお、後半の「犬食」「乳出しチョゴリ」「清潔さ」の項は反論用の資料である。


文化大国・韓国 vs 野蛮な小国・日本


文化大国・韓国

徐兢著(朴尚得訳)『宣和奉使 高麗図経』国書刊行会,1995. [初出=1125年頃]
 聞くところによると、蛮の諸国では額に入れ墨をし、足を組み合わして胡座をかき、髪をざんばらがみにし、体に文身を入れ、山犬や狼と居を共にし、となかいや鹿とともに遊ぶと言う。どうしてまた官を設け、吏を置く法を知ろうか。ひとり高麗はそうではない。衣冠、礼儀、君臣の上下に燦然として規則があって相接している。(p. 147)
 東夷の性質は仁である。その地には君子不死の国がある。また、箕子が封ぜられた所であり、朝鮮の境域の習俗には、もともと八条の教えが実っている。その地の男子は礼儀に勝れており、婦人は正しい信義に由っている。飲食は高坏でもってする。路を行く者は譲りあっている。もとより昔、朝鮮の北方にあった国の蠻貉の雑類のように頭を締め括り、手足に胼胝があり、辮髪し、横幅の布裂を衣にし、父娘が同寝し、親族が棺を同じくするような卑しく怪しいのとは異なっている。(p. 269)

ヘンドリック・ハメル(生田滋訳)『朝鮮幽囚記』平凡社東洋文庫,1971. [初出=1668年頃]
 教師は子供たちに対してつねに先人の学識と、高い学識のおかげで出世した人々のことを例に挙げます。子供たちは昼も夜も勉強にはげみます。こんな幼い生徒が自分の習う知識の大部分を含む書物を立派に説明することができるのは、驚くべきことです。(p. 49)

ベイジル・ホール(春名徹訳)『朝鮮・琉球航海記』岩波文庫,1986. [初出=1818年]
 このように老人が、きわめて異なった習慣をもつ人々の間にまじって、礼儀正しく、しかもやすやすと順応していった様子には、まことに敬服すべきものがあった。そして彼がこれまではわれわれの存在すら知らなかった可能性が高いことから考えると、その礼儀正しい振る舞いは、彼が自己の社会において高い身分を占めていることを示すだけではなく、その社会そのものが文明の高い尺度に位置していることをも如実に示していたのである。(p. 62)

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(尾崎賢治訳)『日本・第五巻』雄松堂,1978. [初出=1897年]
 自分の思想を即席に、型に当てはめて、十分でなくとも間違いのない中国文字でさらさらと書く能力は、朝鮮の文化水準についてのよいイメージをわれわれにあたえた。彼らのふるまい全体ににじみ出ている、そしてこういう詩で自分をほのぼのと語る真率な心根は、この国民について、これまで邪推と脅迫でその海岸と国境から外国人を追い出してきた国民というイメージよりよほど好感のもてるイメージをわれわれに抱かせるものである。(p. 26)

シャルル・ダレ(金容権訳)『朝鮮事情』平凡社東洋文庫,1979. [初出=1874年]
 朝鮮人は、中国医学を採用しながらも、それに改良を加える仕事に真剣に取り組んだようであり、朝鮮の最も有名な医学書である『東医宝鑑』〔許浚編著。一六一三年刊〕は、北京においてさえ、堂々と印刷上梓されたくらいである。(p. 307)

N・M・プルジェワルスキー(シム・ジウン編訳)「ウスリー地方紀行」(『ロシア人、朝鮮を歩く』より)滑リ国学術情報,2006.(韓国語) [初出=1858年]
 たくましさ、礼儀正しさ、勤勉さは、私が経験して見たところによると、朝鮮人が持つ性格の特徴的な側面である。(p. 92)

H・N・アレン(申福龍訳)『朝鮮見聞記』集文堂,1999.(韓国語)[初出=1908年]
 朝鮮は国土が狭い小国だが、悠久な文化を持っている。この点で朝鮮は日本の師匠である。(p. 53)

G・W・ギルモア(申福龍訳)『ソウル風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1892年]
 朝鮮人の知的能力は優秀である。しかしわれわれは、単純に記憶力を養うだけの学習を警戒せねばならないという事実を悟った。そうした学習はひたすら文章に依存し、後に引用できるようにする貯蔵作業に過ぎない。それにもかかわらずわれわれは、彼らが立派な論理学者で、聡明な数学者であり、才能によっては前途有望な哲学者であることを知った。(p. 176)

ゲ・デ・チャガイ編(井上絋一訳)『朝鮮旅行記』平凡社東洋文庫,1992. [初出=1958年]
 朝鮮における識字率はかなり高い。どんな小村にも学校があり、読み書きのできない朝鮮人には滅多にお目にかかれない。(p. 301)

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 朝鮮人はしばしば野蛮人に分類されるが、その性質をよく見ればきわめて知的であり、知識を獲得する速さには驚嘆せざるを得ない。彼らにとって外国語の習得は朝飯前のようで、研究対象に興味を抱いたときは、常に大いなる粘り強さと熱意を見せる。彼らは素晴らしく敏感な推理力と、驚くほど素早い理解力を有しおり、これはその外見からは想像もつかないことである。一見すると彼らは、眠たげで頭が鈍いような印象を与えるからである。朝鮮人はまた、良い記憶力とかなりの芸術的パワーにも恵まれている。(p. 169)


野蛮な小国・日本

ケンペル(斎藤信訳)『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫,1977. [初出=1777-79年]
 田畑や村の便所のそばの、地面と同じ高さに埋め込んだ蓋もなく開け放しの桶の中に、この悪臭を発するものが貯蔵されている。百姓たちが毎日食べる大根の腐ったにおいがそれに加わるので、新しい道がわれわれの眼を楽しませるのに、これとは反対に鼻の方は不快を感ぜずにはいられないことを、ご想像いただきたい。(p. 19)

C・P・ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1778-93年]
 日本人には平気で放屁するという悪癖がある。ヨーロッパならば大変な不作法となるが、日本人は恥ずべきこととは思っていない。(p. 77)

ゴロヴニン(井上満訳)『日本幽囚記』岩波文庫,1943. [初出=1816年]
 繪畫、建築、彫刻、製版、音樂そして恐らく詩についても、日本人はあらゆるヨーロッパ人より遥かに後れている。彼らは各種兵學を通じてまだ赤ン坊で、航海術は沿岸航海以外には全く知っていないのである。(下巻, p. 35)

ジーボルト(斎藤信訳)『江戸参府紀行』平凡社東洋文庫,1967. [初出=1897年]
 大坂の町からは、特別な設備をして糞尿を積んだ汚穢舟がよくやってくるが、これは日本じゅうで使われている肥料で、夏期にはいろいろな野菜や穀物に施すのが普通である。そのため六、七および八月にはすべての地方、特に大都会周辺の地方は悪臭に満ちていて、すばらしい自然を楽しむのにたいへん妨げとなることがよくある。(p. 248)

ゴンチャロフ(井上滿譯)『日本渡航記』岩波文庫,1941. [初出=1858年]
 私達はどういう結果になるかをお互に色々と論議し合った。幼稚で、未開な癖に狡猾な日本人を相手のことで、確かな結論を下せなかったからである。(p. 271)

グリフィス(山下英一訳)『明治日本体験記』平凡社東洋文庫,1984. [初出=1876年]
 日本の住民や国土のひどい貧乏とみじめな生活に私は気がつき始めた。日本はその国について書かれた本の読者が想像していたような東洋の楽園ではなかった。(p. 111)

イサベラ・バード(高梨健吉訳)『日本奥地紀行』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1880年]
 おいしい御馳走であることを示すために、音を立てて飲んだり、ごくごくと喉を鳴らしたり、息を吸いこんだりすることは、正しいやり方となっている。作法ではそのようなことをするようにきびしく規定してあるが、これは、ヨーロッパ人にとって、まことに気の滅入ることである。私は、もう少しで笑い出すところであった。(p. 164)
 女が裸の赤ん坊を抱いたり背負ったりして、外国人をぽかんと眺めながら立っていると、私はとても「文明化した」日本にいるとは思えない。(p. 94)


韓国と日本の師弟関係


韓国は日本に技術を教えた師匠

ジーボルト(斎藤信訳)『江戸参府紀行』平凡社東洋文庫,1967. [初出=1897年]
 察するに昔の日本の船は朝鮮のものの模倣であって、年代記の記述によれば、日本人は紀元前四三年に朝鮮の船を知っていた。われわれが神社の奉納画で見るような古代の日本船の絵はこうした見解の正しいことを示している。(p. 26)

メレンドルフ(申福龍・金ウンギョン訳)『メレンドルフ自傳・外』集文堂,1999.(韓国語)
 数世紀にわたり朝鮮の豊かで肥沃な土地を貪欲に眺めていた日本人たちは、1600年ごろ武力侵略して来た。彼らは中国によって撃退されたが、退却しながら朝鮮のあらゆる陶工を強制連行したため、それ以後朝鮮には陶磁器産業が存在しなくなったのだ。(p. 84)

William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004. [初出=1882年]
 日本の史書によると、西暦29年から79年の間に新羅からの使節が来日し、ミカドに謁見して鏡・刀・玉と工芸品や美術品を贈った。われわれはここに日本の装飾芸術の起源に関するヒントを見出すことができる。これらの贈物と、中国の歴史家達が報告した新羅人の洗練された作法や世襲貴族制度や整った軍備から見て、新羅の文明は北方の隣人達よりずっと高かったことが明らかである。日本より圧倒的に高かったことは確かで、この西方からの訪問者によって新羅の文明は日本の肥沃な土地に、豊かな都市に、そして無防備な海岸に広がった。(p. 33)

H・N・アレン(申福龍訳)『朝鮮見聞記』集文堂,1999.(韓国語)[初出=1908年]
 日本は朝鮮から立派な陶磁器を作る技術を学んで行き、陶磁器に限らず多くの分野で朝鮮は日本の師匠だった。1598年に日本の大侵略があったとき、鍋島直茂将軍は初期朝鮮の陶磁器のあらゆる見本とあらゆる陶磁器技術者とその家族を捕え、日本へ連れて行って自分の故郷である薩摩ママに定着させた。ここでこの流人たちは陶磁器を作り続け、その技術を隣人たちに教えてやった。(p. 188)
 朝鮮は国土が狭い小国だが、悠久な文化を持っている。この点で朝鮮は日本の師匠である。(p. 53)

H・B・ハルバート(岡田丈夫訳)『朝鮮滅亡−古き朝鮮の終幕』太平出版社,1973. [初出=1906年]
 そして高句麗が百万の中国軍を撃退することはできたとしても、日本の神功皇后がはるかに先進文明をもつ朝鮮半島の全部を征服したなどとは、到底思えない。新羅は比較的高度の文明の中心であって、朝鮮側の史料は、日本におよぼした朝鮮からの影響をほとんど伝えていないけれども、逆に日本側の文献は、進んだ思想や文明の影響が、海峡を越えて日本列島に絶えず流れこんできたことを示している。(上巻, p. 105)
 西暦五世紀当時、朝鮮は高度の文明に達しており、半ば未開の日本の諸種族に、文化への最初の刺戟を与えた文明の宝庫であった。(上巻, p. 17)

G・W・ギルモア(申福龍訳)『ソウル風物誌』集文堂,1999.(韓国語)
 陶磁器を作る方法を日本に教えた人々が日本に強制で拉致されて行き、もはや朝鮮では陶器が失われた芸術となっている事実を記憶することは、朝鮮人としてはきわめて憤痛が爆発することである。(p. 166)
 グリフィス (E. Griffis) 博士がその著書『隠者の国・朝鮮』で指摘したところによると、朝鮮半島に対する日本の最後の侵略は、朝鮮の産業と芸術を死滅させ、この地に日本の芸術を復活させたという。日本人たちは撤収するとき、彼らが学ぶことができるすべての技術者たちを連れて行ったため、日本では産業と芸術の生産が復興した反面、朝鮮ではそれらすべてが消え去った。(p. 164)

ゲ・デ・チャガイ編(井上絋一訳)『朝鮮旅行記』平凡社東洋文庫,1992. [初出=1958年]
 朝鮮の過去は、農業の成功のためにもまた工業制産業のためにも、あらゆる与件が揃っていることを立証する。かつては朝鮮人が、今日の日本国民の誇りである諸技術(陶器、絹製品ならびに金属製品の製造)について日本人に教えることのできた時代もあった。(p. 97)

W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
 朝鮮の歴史は黄昏期に退歩している。初期には中国文化によって影響を受けたが、彼らの文明は一時日本を上回っていた。(p. 48)


日本は教わった技術を生かせないダメな生徒

ドン・ロドリゴ(村上直次郎譯註)『ドン・ロドリゴ日本見聞録』奥川書房, 1941. [初出=1610年頃]
 彼等は航海の術を知らず、堅固の名を冠すべき船を建造すること能はず。故に若し多數の人、他の地方を征服せんとして此等の船にて出づることあらば、大なる砲門を有する船は、少しの冒險なく之を撃沈することを得べし。(p. 156)

姜(朴鐘鳴訳注)『看羊録』平凡社東洋文庫,1984.
 天文・地理・人物をうらなうというのは、昔から伝わったものはありません。安国寺〔恵瓊〕なる者がやや天文を解すると称していますが、それもやはり、でたらめな言辞で大衆の耳を惑わしているに過ぎません。医僧の〔吉田〕意安が、日影台と銅の渾〔天〕儀を作り、天地四方の遠近を測ったといいますが、それとても、天象を観〔測し〕て人事を験するという点では、全然だめであります。(p. 218)

C・P・ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1778-93年]
 日本の陶磁器は藁を使ってごく丁寧にきちんと荷造りされているので、輸送中に割れることはまずない。これら陶磁器類は、見た目にはたしかに美しくも粋でもなく、どちらかといえば粗野で、厚ぼったく下手な塗りである。(p. 61)

ゴロヴニン(井上満訳)『日本幽囚記』岩波文庫,1943. [初出=1816年]
 繪畫、建築、彫刻、製版、音樂そして恐らく詩についても、日本人はあらゆるヨーロッパ人より遥かに後れている。彼らは各種兵學を通じてまだ赤ン坊で、航海術は沿岸航海以外には全く知っていないのである。(下巻, p. 35)
 日本の砲兵はまだまだ大變に不完成である。日本の砲兵の現状は、鑄造砲をやつと使ひ始めた頃のわがヨーロッパの砲兵の状態と同様である。(下巻, p. 169)
 日本人は工兵の方の學問についても、兵學の他の領域と同様に、大して判っていない。われわれの見ることを得た日本の要塞や砲臺は、全くでたらめな構造で、(この構築者たちは經驗とか築城學の法則はおろか、常識さへ守ってないぞ)と考えるほど滑稽にできていた。(下巻, p. 174)

土屋喬夫・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』岩波文庫,1948. [初出=1856年]
 必要にして、且つ交通の多い處には、屡々石で立派な橋をつくっているが、トンネルをつくる技術を知らないようである。土木工學上の或る原理を知ってゐてそれを適用してはいるが、工兵學の原理を少しも知らない。(1巻, p. 152)
 死人に觸れることは汚れとされているのである。このような研究をしないのだから、内科醫及び外科醫の知識もつまり不完全であることが明らかである。(1巻, p. 157)
 吾々は、日本造船者の方法又は技倆に何等特異なものを見なかった。下繪を畫き雛型をつくるための科學的法則を有するか否か、船の排水量を確かめるための科學的法則を有するか否かは疑はしく、又法律が全部の船舶を一つの型及び大きさに制限して居るから、恐らくそれらを必要としないであらう。(4巻, p. 120)

カッテンディーケ(水田信利訳)『長崎海軍伝習所の日々』平凡社東洋文庫,1964. [初出=1860年]
 日本人は敏捷であるから、必要だとさえ感得するならば、如何なる学問でもごく僅かな時間のうちに、ただ上っつらの知識だけではあるが、苦労なしで覚えることができる。しかし悪いことには、ちょっと始めると直ぐさま彼等の好奇心は満腹して、忽ち他の変わったものに目をつける。何事でも徹底的に学ぶ辛抱というものが、彼らには欠けている。(p. 184)

オールコック(山口光朔訳)『大君の都』岩波文庫,1962. [初出=1863年]
 かれらには建築と呼びうるようなものはない。……したがって、世界最大の都市のひとつである江戸の街路ほど、むさくるしくみすぼらしいものはない。大名の屋敷でさえ、同じような建て方の低い一列のバラックにすぎず、ただ屋根が高いだけだ。(下巻, p. 176)

グスタフ・クライトナー(小谷裕幸・森田明)『東洋紀行』平凡社東洋文庫,1992-93. [初出=1881年]
 実際に眺めてみると、期待した程のものではなかった。東京は大きな村という感じだった。そして、町の無数の貧弱な木造家屋の中に高々と聳え立っている帝の居城さえも、宮殿というよりもむしろバラックといった趣であった。(1巻, p. 289)


乞食がいない韓国 vs 乞食だらけの日本


乞食がいない韓国

W・R・カールズ(申福龍訳)『朝鮮風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1888年]
 人々は貧しいが、まったく窮乏しているように見えなかった。朝鮮のどこでも乞食は見かけられず、飢饉が蔓延している所ですら乞食はいなかった。(p. 124)

H・N・アレン(申福龍訳)『朝鮮見聞記』集文堂,1999.(韓国語)[初出=1908年]
 朝鮮人たちはとても親切な人々である。以前には事実上朝鮮には乞食がいなかった。(p. 108)

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 朝鮮で乞食を見ることはめったにない。祝祭や特別の機会以外は、乞食が街を歩き回ることは禁じられている。(p. 52)

F・A・マッケンジー(渡部学訳注)『朝鮮の悲劇』平凡社東洋文庫,1972. [初出=1908年]
 この国には乞食はほとんどおらず、いてもほんの僅かであった。ここでは、貧民のために苦心してつくられた貧民救済制度はその必要がない。地方の人たちは、自らの土地をもち、そこで働き、特別な窮迫時は別として、自分の家族を養うための、今後一ヵ月の生計を維持するに足るだけの、十分な収穫をその秋に得ることができた。(p. 32)


乞食だらけの日本

ケンペル(斎藤信訳)『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫,1977. [初出=1777-79年]
 府中を過ぎた所と同じように、ここでもわれわれに群がる乞食に出会ったが、彼らのうちにいた胸をあらわにした一人の美しい少女が、われわれの駕籠に近づいて来て、要領よく布施をせしめた。(p. 209)

金仁謙(高島淑郎訳注)『日東壮遊歌』平凡社東洋文庫,1999. [初出=1764年]
 山路にさしかかる/田畑は痩せ/道端には時折/物乞いの姿も見かける(p. 268)

C・P・ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1778-93年]
 江戸と都を結ぶ街道のあちこちに、たいていは足に障害のある乞食がいた。この国の他の場所では障害者はごく稀だったので、これは私には極めて異常なことに思われた。(p. 200)

ジーボルト(斎藤信訳)『江戸参府紀行』平凡社東洋文庫,1967. [初出=1897年]
 街道はここらではたいへん活気があった。これまでより乞食が多かったし、旅行者の慰めに六歳から一二歳ぐらいの少年少女が上品とはいえないトンボ返りをしていた。

オールコック(山口光朔訳)『大君の都』岩波文庫,1962. [初出=1863年]
 たしかに、乞食はいる。首都のなかやその周辺にはかなり多数いる。(中巻, p. 222)

E・S・モース(石川欣一訳)『日本その日その日』平凡社東洋文庫,1970-1971. [初出=1917年]
 ある町で、私は初めて二人の乞食を見たが、とても大変な様子をしていた。即ち一人は片方の足の指をすっかり失っていたし、もう一人の乞食の顔は、まさに醗酵してふくれ上らんとしつつあるかのように見えた。(1巻, p. 44)


誠実な韓国人 vs 大嘘つきの日本人


韓国人は誠実で純粋

E・J・オッペルト(申福龍・張又永訳)『禁断の国・朝鮮』集文堂,2000.(韓国語) [初出=1880年]
 表面に現われる彼らの一般的な性格を見ると、朝鮮人の品行は隣国の人々よりずっと良い。彼らは概して開放的で正直である。(p. 112)

G・W・ギルモア(申福龍訳)『ソウル風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1892年]
 朝鮮人たちは家庭的で、一般的に純粋である。純粋さという面で見れば、彼らは隣人である日本人よりずっと高い。(p. 85)

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 彼の言葉は、朝鮮人が心の奥底ではきわめて善良かつ利他的で、常に友人や隣人を助ける用意があり、自身の不便さを甘受してでも他人を助けることを証明してくれた。しかしこうした善良さは、本質は同じで、おそらくわれわれのそれを上回るとしても、われわれのような形態を取らない。彼らはずっと単純な人々で、彼らの偽善は文明化の段階に達していない。(p. 54)

W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
 指導者に対する朝鮮国民の厳格な監視と、国民に対する寛大で一貫した正直な統治が指導者たちによって行われれば、朝鮮人は立派な民族に育成できるものと、私は今でも確信している。中国や日本を旅行する際の危険な感じは、朝鮮にはない。(p. 197)

F・A・マッケンジー(渡部学訳注)『朝鮮の悲劇』平凡社東洋文庫,1972. [初出=1908年]
 朝鮮に滞在したことのある外国人は誰でも、その最初の数週間、嫌悪感と恐怖感でいっぱいになったであろう。しかし、彼がその民衆をよりよく理解すればするほど、彼らが、親切で、正直で、ほんとうに素朴で、好学心に富み、かつそのほかにもいろいろと数多くの愛すべき、愛さるべき性質をそなえていることをただしく見てとるようになるであろう。(p. 33)


日本人は陰険な嘘つき

ヴァリニャーノ(松田毅一他訳)『日本巡察記』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1583年]
 日本人の第三の悪は、異教徒の間には常に一般的なものであるが、彼等は偽りの教義の中で生活し、欺瞞と虚構に満ちており、嘘を言ったり陰険に偽り装うことを怪しまないことである。……日本人はこれを制御することを知らぬから、思慮は悪意となり、その心の中を知るのに、はなはだ困難を感じるほど陰険となる。(p. 18)

ハリス(坂田精一訳)『日本滞在期』岩波文庫,1953. [初出=1930年]
 なんとかして眞實が囘避され得るかぎり、決して日本人は眞實を語りはしないと私は考える。率直に眞實な囘答をすればよいときでも、日本人は虚偽をいうことを好む。(中巻, p. 239)

カッテンディーケ(水田信利訳)『長崎海軍伝習所の日々』平凡社東洋文庫,1964. [初出=1860年]
 日本人の悪い一面は不正直な点である。私はこれを始終経験した。これは皆その隣人を、あたかも密偵のごとくに思わしめるような政府の政治組織が悪い結果であると思う。外国人の関係する問題などが起こった場合、明瞭にこの日本人の不正直さが現われてくる。(p. 205)

オールコック(山口光朔訳)『大君の都』岩波文庫,1962. [初出=1863年]
 民族のある体質的な特徴は、ある道徳的な特徴とともに、世代から世代へと伝えられる。日本人のばあいにもこの例外ではなくて、うそをつくその性癖はなにか最初の体質が完全に身についてしまったに相違ない。(中巻, p. 177)
 外国人が、なにかのことについて――どんなに小さなことでも、あるいはどんなにつまらぬことでもいいから、とにかくひとつのことについて――なにかの知識をえたがっているというだけでもうだめである。たちまちにして日本人は、いっさいの知識をつたえることを拒んだり、わかりきったうそでもいいからうそを教えることをもって、自分たちの仕事とこころえ、あるいはそうすることを楽しみとする。(中巻, p. 338)
 わたしは、この著者[スラップ]の説にまったく賛成であって、日本人の悪徳の第一にこのうそという悪徳をかかげたい。そしてそれには、必然的に不正直な行動というものがともなう。したがって、日本の商人がどういうものであるかということは、このことから容易に想像できよう。(下巻, p. 127)
 とはいえ、だますことの巧妙さと一般性にかけては、日本人ははるかにわれわれにまさっている、とわたしは考える。うそということにかんしては、そのことばの十分な意味なり、そのやり方がどの程度にまで完全なものになっているかということを知るためには、役人、すなわち日本の官吏と多少つき合ってみる必要がある。いかなる代償を払っても――愛をもってしても、金にものをいわせても――真実をえることができない。一国がこういう特徴をもちつづけているかぎりは、本当の進歩というものは不可能だ、とわたしは信ずる。(下巻, p. 128)
 ある国においては、真理にたいする愛はほとんど認めがたい。日本はそんな国である。虚偽・賭博・飲酒はさかんに行なわれているし、盗みや詐欺もかなり行なわれており、刃傷沙汰も相当多い。(下巻, p. 136)

アーネスト・サトウ(坂田精一訳)『一外交官の見た明治維新』岩波425-1〜2,1960. [初出=1921年]
 日本の商人も、往々同様な手段で相手に返報されたが、不正行為を差引きすれば日本の方がはるかに大きかった。そんなわけで、外国人たちの間に、「日本人と不正直な取引者とは同義語である」との確信がきわめて強くなった。(上巻, p. 21)

イサベラ・バード(高梨健吉訳)『日本奥地紀行』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1880年]
 日本人は子どもに対して全く強い愛情をもっているが、ヨーロッパの子どもが彼らとあまり一緒にいることは良くないことだと思う。彼らは風儀を乱し、嘘をつくことを教えるからだ。(p. 136)


酷薄な日本人 vs 善良な韓国人


酷薄な日本人

ヴァリニャーノ(松田毅一他訳)『日本巡察記』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1583年]
 第四の性格は、はなはだ残忍に、軽々しく人間を殺すことである。些細なことで家臣を殺害し、人間の首を斬り、胴体を二つに断ち切ることは、まるで豚を殺すがごとくであり、これを重大なこととは考えていない。だから自分の刀剣がいかに鋭利であるかを試す目的だけで、自分に危険がない場合には、不運にも出くわした人間を真っ二つに斬る者も多い。……もっとも残忍で自然の秩序に反するのは、しばしば母親が子供を殺すことであり、流産させる為に、薬を腹中に呑みこんだり、あるいは生んだ後に(赤子の)首に足をのせて窒息させたりする。(p. 19)

ケンペル(斎藤信訳)『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫,1977. [初出=1777-79年]
 戸外には俄雨でずぶぬれになった瀕死の僧侶がうつぶせになっていた。それでもまだ生きている証拠にうめき声を出していたので、みんなは彼のことを死んでいるとは考えず、手荒く扱わないようにしていた。しかし、石も涙を流すかもしれないこうした場面にも、日本人は全く冷淡であった。(p. 212)

C・P・ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫,1994. [初出=1778-93年]
 前述した日本人の高慢、正義、そして勇気について知っていれば、この国民が怒りを抱けば、自分の敵に対してまったく容赦しないということについて驚くことはなかろう。彼らは尊大で大胆であると同様にまた、極めて執念深く無慈悲でもある。そして己れの激しい憎悪をむき出しにすることなく、しばしばそれを異常なまでの冷淡さの内に隠し、復讐の好機をねらう。(p. 228)

グリフィス(山下英一訳)『明治日本体験記』平凡社東洋文庫,1984. [初出=1876年]
 日本の法律は乞食を人間とみとめていない。乞食は畜生である。乞食を殺しても訴えられも罰せられもしない。道路に死んで乞食が横たわっている。いやそんなことがあろうかと思うだろうが、事実そうなのである。(p. 45)

W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
 日本人ほど狷介で暴力沙汰を起こしやすく、憤慨する人々はこの地球上にいない。日本人は喧嘩をすれば相手を殺すか不具にしてしまう。喧嘩は戦争の一部分である。(p. 37)

F・A・マッケンジー(渡部学訳注)『朝鮮の悲劇』平凡社東洋文庫,1972. [初出=1908年]
 一人の日本兵が野菜売りの妻女を犯すあいだ、他の兵士は着剣した銃でその家を見張っていた。その婦人の悲鳴を聞きつけた一人の少年が、走って行って、その夫を連れて来た。彼は小刀を手にしてやって来た。その長老は私に反問した。「しかし、彼に何ができたというのでしょう? 門前には剣つき鉄砲を持った兵士がつっ立っていたというのに!」と。(p. 190)


善良な韓国人

ヘンドリック・ハメル(生田滋訳)『朝鮮幽囚記』平凡社東洋文庫,1971. [初出=1668年頃]
 彼[済州牧使・李元鎮]はまた時々宴会を開いたり、その他の娯楽を与えたりして私たちに悲しみを忘れさせようと勤めました。彼は毎日のように「国王からの回答が到着したら、すぐに諸君は日本に送還されるであろう」といって私たちを元気づけてくれました。彼はまた負傷者を治療させました。このようにして私たちはこの異教徒から多くのキリスト教徒が恥ずかしい思いをするほどのもてなしを受けたのでした。(p. 15)

シャルル・ダレ(金容権訳)『朝鮮事情』平凡社東洋文庫,1979. [初出=1874年]
 朝鮮人の大なる美徳は、人類の同胞愛の法則を先天的に尊重し、しかも日々実践していることである。われわれは先に、いかにさまざまの同業者組合や、とくに親族一家が、互いに保護し合い、援助し合い、支援し合い、そして助け合うために、緊密な団体を形成しているかを見てきた。しかし、この同胞に対する交誼の感情は、親族や組合の限界をはるかに越えて拡大される。相互扶助と、すべての人に対する気前のよいもてなしは、この国の国民性の顕著な特徴であり、すぐれた美点である。率直に言って、これらの特性は、朝鮮人が、われわれ現代文明の利己主義に侵された諸国民よりもずっと上位にあることを示している。(p. 263)

William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004. [初出=1882年]
 朝鮮人の大なる美徳は、人類の同胞愛の先天的な尊重と日常的な実践にある。朝鮮人どうしの相互扶助と寛容なもてなしは、この国の際立った特徴である。(p. 288)

W・R・カールズ(申福龍訳)『朝鮮風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1888年]
 彼がわれわれを迎える態度はきわめて丁寧で、驚くほどだった。しかしその後私は、朝鮮人たちを知るにつれて、客人に対する彼らの親切さと行動の鄭重さをさらに実感できた。(p. 31)

G・W・ギルモア(申福龍訳)『ソウル風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1892年]
 朝鮮の家屋の建築方式は、特別で安上がりである。人々はとても親切で、新しい移住者や火事に遭った人があれば、互いに集まってその人の建築を手伝ってやるのはありふれたことである。(p. 93)
 1890年春のように、現在も日本人はまったくどうということのない理由で抵抗の意思がない外国人を、群れをなして襲撃したりする。しかし朝鮮に長く住んでみた人々は、この国が日本人の気まぐれさよりは中国人の沈着さにより近く、国民をより高い水準の生活に導き得る立派な感覚の底流があると考えている。(p. 69)

Lillias H. Underwood, Fifteen Years among the Top-Knots or Life in Korea, Kessinger, 2007. [初出=1904年]
 松川の人々はきわめて親切で、いつも私たちに鶏や卵や柿のような贈り物を持って来てくれた。人々は貧しく、こうした贈り物が大きな犠牲の上に成り立っていることを知っていたため、私たちはひどく困惑した。(p. 191)
 朝鮮人に悪意はなく、極度に徴発しない限り執念深くも冷酷でもない。(p. 49)

ゲ・デ・チャガイ編(井上絋一訳)『朝鮮旅行記』平凡社東洋文庫,1992. [初出=1958年]
 朝鮮人に固有といえる特徴は、温和、善良、従順である。一、一〇〇万の大衆は、軍隊の関与や戦闘がなくとも、ただ官吏の命令一下で統治されている。私は当局者のいないような極めて草深い村々も訪ねたが、秩序が乱れた所の記憶はない。(p. 75)

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 ここでまた、私は朝鮮人の性質の優れた点を指摘したい。ある人が思いがけない災難で家財を失ったとする。朝鮮人はほとんど財産を持っていないのだが、災難に遭ってさらに貧乏になり、悲惨と欠乏にさらされたとする。その場合、より文明化された国とは違って、友人は決して彼を見捨てない。それどころか友人たちは進んで家の建て直しを手伝い、衣服や家財道具を貸し与え、一般的に言って、彼が再び羽を広げ自分で羽ばたけるようになるまであらゆる援助を惜しまない。こうして、誰かの家が焼けてしまった場合、友人はもちろん見知らぬ人までが彼を家に泊め、家が建て直されるまで養うのは珍しいことではない。つまりメダルの両面を見れば、われわれから見て朝鮮人には多くの欠点があるだろうが、より文明化され慈悲深いと自認するわれわれに勝る何らかの長所を有しているのである。(p. 163)

W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
 朝鮮人は外国人に慣れておらず、疑いを抱いていると知られている。私は朝鮮人が、小説の中のアラブ人のように信頼できて親切だという事実を常に見出した。(p. 189)

E・ワグナー(申福龍訳)『韓国の児童生活』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1911年]
 一般的にわれわれが見るに、朝鮮人はやや活力に欠け怠け者に見えるが、彼らの天性は親切でやさしく理知的である。彼らが行うすべての過ちと悪習は、彼らが何世紀もの間甘受して来た圧制と無知の結果という点には疑いの余地はない。(p. 22)


韓半島で証明された日本人の悪逆非道さ


世界を憤怒させた日帝の残虐行為

H・B・ハルバート(岡田丈夫訳)『朝鮮滅亡−古き朝鮮の終幕』太平出版社,1973. [初出=1906年]
 王妃は続き部屋の一つに隠れているところを見つかって、たちまち、むざんにも虐殺された。直接手をくだしたのが朝鮮人か日本人か、絶対の正確さをもっていうことはできないけれども、下手人は武器をもった日本人のひとりだということは、おそらく本当だろう。(上巻, p. 183)
 平壌に住む一朝鮮人が日本の一民間人から、時価の四分の一の値段で家を売ってくれと強くせがまれた。その人間がこの申し出に異議を唱えると、たちまち付近の日本軍兵舎にひっ張られていかれて、めちゃくちゃにぶんなぐられた。この侮辱に耐えかねた彼は、毒を飲んで自殺した。その死体がまだあたたかいうちにもう例の日本人がやってきて、未亡人にむかって、さきの値段でぜひとも家を売ってくれと迫った。(上巻, p. 279)

ゲ・デ・チャガイ編(井上絋一訳)『朝鮮旅行記』平凡社東洋文庫,1992. [初出=1958年]
 公然たる日本人の敵、ならびに活動的で聡明な女性である王妃は、日本人の圧迫に一人耐えて国王を支えていたが、彼らによって惨殺された。(p. 322)

W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
 数人の暴徒たちが王と大院君を護衛する間、大部分の壮士たちは王妃を殺せと叫びながらあちこちに散って行った。今回は残念ながら王妃を護衛してやる強靭な鉱夫はいなかった。王妃を発見した暴徒たちは、刀を振るった後、まだ息がある彼女を油に浸した薪の上に投げ込んだ。結局彼女の死体は焼き尽くされ、数個の骨が埋葬のため拾い集められただけだった。(pp. 75-76)

Angus Hamilton, Korea, New York, Charles Scribner's Sons, 1904.
 したがって自国の半ダースほどの米穀商の利益を守るために禁輸の維持にこだわった日本の行為は、最も非難すべきことである。この大量死の一次的な責任は、全的に日本政府にある。朝鮮政府を脅して行動を縛り、結果的に百万人以上の死者を出した日本政府の政策は、根拠と常識を全く欠いており、人道主義のあらゆる原理に反するものである。 (p. 253)

F・A・マッケンジー(渡部学訳注)『朝鮮の悲劇』平凡社東洋文庫,1972. [初出=1908年]
 一人の日本兵が野菜売りの妻女を犯すあいだ、他の兵士は着剣した銃でその家を見張っていた。その婦人の悲鳴を聞きつけた一人の少年が、走って行って、その夫を連れて来た。彼は小刀を手にしてやって来た。その長老は私に反問した。「しかし、彼に何ができたというのでしょう? 門前には剣つき鉄砲を持った兵士がつっ立っていたというのに!」と。(p. 190)
 壮士たちは、ふるえながら逃げまわる宮女たちをつかまえ、頭髪をつかんで振りまわし、殴打して、王妃の所在を言えと強要した。彼女らは、うめき泣きながら、自分たちは知らないと言いはった。そこで彼らは、数名の宮女の頭髪を引っぱりながら隣室に押し入った。先頭に立った岡本が、その部屋の一隅に自分の頭髪をしっかりかかえながらうずくまっている一人の小柄な婦人を見つけ、王妃ではないかと尋ねた。その婦人は、それを否認し、いきなり彼らを押しのけ、叫びながら廊下へと走り出た。当時、そこにいあわせた彼女の子息は、彼の名を呼ぶ彼女の声を三度聞いたが、しかし、その次の呼び声の出る前に、日本人たちは彼女をつかまえて斬り倒したのであった。彼らは、王妃の待臣数名を引きずり入れて死体をみせ、それが王妃であることを確認させたが、そのあとそのうちの三人を剣で刺し殺した。(p. 63)


淫乱な日本人 vs 貞節な韓国人


淫者の国・日本

ヴァリニャーノ(松田毅一他訳)『日本巡察記』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1583年]
 最悪の罪悪は、この色欲の中でもっとも堕落したものであって、これを口にするには堪えない。彼等はそれを重大なことと考えていないから、若衆達も、関係のある相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠蔽しようとはしない。(p. 16)

ケンペル(斎藤信訳)『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫,1977. [初出=1777-79年]
 だから中国人が日本の国を、中国の売春宿と呼んだのは不当ではない。なぜなら中国では娼家と売春とは厳罰を課してこれを禁止しているからである。だから若い中国人は情欲をさまし銭を捨てに、よく日本にやってくるのである。(p. 61)
 そのうえ私が黙って見逃すことができないのは、村の街道に沿ってたくさん並ぶ家の中に、九軒か一〇軒の立派な店構えの家があり、その前に十歳から十二歳までの二、三人の少年たちが、きれいに着飾り化粧して、きちんと一列に並んで坐っていたことである。彼らは婦人の姿をし、銭を払えば、神にそむくいやらしいやり方で、通りすがりの好色家の思いのままになった。(p. 156)

申維翰(姜在彦訳注)『海游録』平凡社東洋文庫,1974. [初出=1719年]
 淫穢の行はすなわち禽獣と同じく、家々では必ず浴室を設けて男女がともに裸で入浴し、白昼からたがいに狎れあう。夜には必ず燈を設けて淫をおこない、それぞれ興をかきたてる具をそなえて、百媚千媚の雲情雨態(男女交情)を写す(浮世絵の春画のこと)。また春薬(媚薬)が数種あり、その荒惑(心が狂いまどう)を助けるという。(p. 312)

金仁謙(高島淑郎訳注)『日東壮遊歌』東洋文庫662,平凡社,1999. [初出=1764年]
 丘の上には毎日/倭人の女どもが集まり/乳房丸出しにして指差しながら/首を振っておいでおいでをする/尻をはだけて叩き/手を振って招く/裾をまくって下を見せ/呼んだりもする/恥じらいというものまったく見られず/風俗は淫らである(pp. 186-187)

ゴロヴニン(井上満訳)『日本幽囚記』岩波文庫,1943. [初出=1816年]
 しかし、日本人にとって最大の恥辱であり、醜態ではあるが、肉慾のため發明された全アジア人共通の醜惡な罪惡が、日本においても行われていることを傳へて置かねばならない。政府はこれを認めてはいないが、嚴重な禁止策を講じてもいない。信仰上の皇帝の住んで居る京都地方は、住民の間に男性同志の情交が行われる點で有名である。またこの地方では、この忌むべき商賣のために、主として少年を提供しているのである。(下巻, p. 29)

土屋喬夫・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』岩波文庫,1948. [初出=1856年]
 日本の下層民は、大抵の東洋諸國民よりも道義が優れているにも拘らず、疑もなく淫蕩な人民なのである。入浴の光景を別とするも、通俗文學の中には淫猥な挿繪と供に、或る階級の民衆の趣味慣習が淫蕩なことを明かにするに足るものがあった。その淫蕩性は啻に嫌になる程露骨であるばかりでなく、不名誉にも汚れた堕落を表わすものであった。(4巻, pp. 30-31)

ハリス(坂田精一訳)『日本滞在期』岩波文庫,1953. [初出=1930年]
 又或る時ヒュースケン君が温泉へゆき、眞裸の男三人が湯槽に入っているのを見た。彼が見ていると、一人の十四歳ぐらいの若い女が入ってきて、平氣で着物を脱ぎ、「まる裸」となって、二十歳ぐらいの若い男の直ぐそばの湯の中に身を横たえた。このような男女の混浴は女性の貞操にとって危檢ではないかと、私は副奉行に聞いてみた。彼は、往々そのようなこともあると答えた。そこで私は、處女であると思われている女と結婚して、床入りの時そうでないことを知ったときには、男の方はどうするかと問うた。副奉行は、「どうにも」と答えた。(中巻, p. 161)
 さて話題は、いつもの日本式のものへ移った。この人たちの淫奔さは、信じられないほどである。要件がすむや否や、彼らが敢て談ずる一つの、そして唯一の話題がやってくる。(中巻, p. 168)

カッテンディーケ(水田信利訳)『長崎海軍伝習所の日々』平凡社東洋文庫,1964. [初出=1860年]
 下層の日本人は、互いに礼儀というものを全然知らない。男も女も、また男の子と娘も、一つの同じ大きな風呂に入っていることが往々ある。我々がその風呂の傍を通ることがあれば、彼等はその風呂から飛び出し、戸口に立って眺めている。(pp. 123-124)
 我々は若い娘たちに指輪を与えた。その娘たちはどうしたのか胸もあらわに出したまま、我々に随いて来る。見たところ、彼女たちは、われわれがそれによほど気を取られていることも気付かないらしい。我々が彼女たちの中で一ばん美貌の娘に、最も綺麗な指輪を与えたことが判ると、数名の娘たちは我々の傍に恥ずかしげもなく近寄って来て、その露出した胸を見せ、更に手をさわらせて、自分こそ一ばん美しい指輪をもらう権利があるのだということを知らそうとする。(p. 86)

オールコック(山口光朔訳)『大君の都』岩波文庫,1962. [初出=1863年]
 名詞に性がないということ、また三人称の「かれ」・「彼女」・「それ」などのあいだの差異を示す人称代名詞がないということは、日本語の文法上の顕著な事実なのだが、このことは、奇妙にも、公衆浴場の混浴その他の日常生活の習慣の面でも実践されているようだ。(上巻, p. 260)
 それは、女が貞節であるためには、これほど恐ろしくみにくい化粧をすることが必要だというところをみると、他国にくらべて、男がいちだんと危険な存在であるか、それとも女がいちだんと弱いか、のいずれかだということである。(上巻, p. 292)

グリフィス(山下英一訳)『明治日本体験記』平凡社東洋文庫,1984. [初出=1876年]
 暑い時の日本の町では、生きている彫像の研究にすばらしい機会がもてる。働く人はよくふんどし一枚になっている。女性は上半身裸になる。身体にすっかり丸みがついたばかりの若い娘でさえ、上半身裸でよく座っている。無作法とも何とも思ってないようだ。(p. 235)

イサベラ・バード(高梨健吉訳)『日本奥地紀行』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1880年]
 しかし、私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ清純でもない、と判断せざるをえない。(p. 124)

グスタフ・クライトナー(小谷裕幸・森田明)『東洋紀行』平凡社東洋文庫,1992-93. [初出=1881年]
 柵の奥にはそれぞれ五〜一〇人の娘がいて、けばけばしい着物で飾り立て、一片の羞恥心さえもあるとは思えない程に平然と落ち着きはらって、通行人たちの目に身をさらしている。どんな町の路地、どんな小さな村にも共同浴場があり、そこでは、日本人は男女の区別なく、ひとつの浴室に集まる。(1巻, p. 295)


貞節の国・韓国

シャルル・ダレ(金容権訳)『朝鮮事情』平凡社東洋文庫,1979. [初出=1874年]
 この誇張された謙虚さというか羞恥心が、当然避けられるはずの不祥事を生む事例があまりにも多い。たとえば、ある恥知らずの放蕩者が両班の夫人の部屋へ密かに侵入したとしても、夫人は、他人の注意をひくために叫び声をあげたり、最小限の抵抗をすることすらできない。もしそうすれば、彼女に罪があろうとなかろうと、彼女の部屋へ男が入ったというその一事だけで、彼女は永遠の不名誉を背負うことになるからである。(p. 214)

William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004. [初出=1882年]
 上流階級の場合、若い女が結婚できる年齢になれば、最近親を除いて親族といえども彼女に会ったり話しかけたりできない。どうしても会わねばならないときは、非常に儀式ばった面会の約束を交わさなければならない。(p. 245)

W・R・カールズ(申福龍訳)『朝鮮風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1888年]
 私が見た中で女性たちが楽しむ娯楽としては、多くの女性たちがある春の日の遅い時間にブランコに乗っていたのが唯一の事例だ。その日は大部分の男性たちが隣村の市場に行っており、誰にも邪魔されない日だった。しかし邪魔者が見えるや否や、彼女たちは家に走り込んでしまった。(p. 84)

G・W・ギルモア(申福龍訳)『ソウル風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1892年]
 朝鮮人の生活の鍵は、女人たちが隔離された生活をしているということである。誰であれ街を歩いたり通りに沿って歩いてみても、ほとんど女性を見ることがない。(p. 77)

ゲ・デ・チャガイ編(井上絋一訳)『朝鮮旅行記』平凡社東洋文庫,1992. [初出=1958年]
 朝鮮の男が家庭生活でルーズであるのと同じ程度に、朝鮮の女は貞節で道徳的である。彼女は買収することも誘惑することも叶わぬ。弱みの露見した女は気の毒である。夫もしくは親族は大手を振って彼女の首を切り落とすこともあり得るからである。朝鮮女性の道徳の厳しさは、朝鮮在住の外国人が全て、妻を日本から呼び寄せるのを余儀なくされるという事態まで招来している。(p. 77)

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 ソウルに着いて最初の数日間の驚きは忘れられない。道で出くわす女が、みな扉を開けて家に入って行くところだったのである。私と出くわした女という女が、ちょうど家に帰り着いたところだったというのは、いかにも奇怪に思われた。そこで私は自分が夢を見ているのではないか、それとも街の家はみな女たちの共同所有になっているのかと考えはじめた。(pp. 34-35)

イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行』講談社学術文庫,1998. [初出=1898年]
 朝鮮の女性はきわめて厳格に家内にこもっている。おそらく他のどの国の女性よりも徹底してそうではなかろうか。ソウルにはとても奇妙な取り決めが定着している。八時に《大釣鐘》が鳴り、それを合図に男たちが家に引きこもると、女たちが家から出て遊んだり友人を訪ねたりするのである。(p. 68)

W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
 しかし朝鮮女性はあまりに厳格に保護されているため、侵入者から暴行を受けたときでも、告発するよりはこれを隠したほうが安全だと考える。少し高い階級にいる女性たちが家の外に出るときは、長衣で顔を覆う。それにもかかわらず、彼女たちは家庭内では力がある。(p. 46)

F・A・マッケンジー(渡部学訳注)『朝鮮の悲劇』平凡社東洋文庫,1972. [初出=1908年]
 上流社会の婦人たちはきびしい隔離生活を営むが、その隠蔽の厳重さは彼女らの夫に対する尊敬の念の証左とみなされている。下層階級の婦人たちは、たいていはその家族を養うために一生懸命働く。(p. 31)


日本人と韓国人の容貌の差


チビで貧相な日本人

姜(朴鐘鳴訳注)『看羊録』平凡社東洋文庫,1984. [初出=1656年]
 その〔倭の〕人は、〔背が低く〕短小で力もありません。わが国の男子が倭と角力をとれば、倭人が屈します。(p. 67)

ケンペル(斎藤信訳)『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫,1977. [初出=1777-79年]
 それから馬に乗っている日本人は、遠くから見ると非常に滑稽な姿勢をしている。なぜかというと、日本人は元来背が低く肩幅が広い体格をしているし、そのうえ馬上で大きな帽子をかぶり、幅が広くふくらんだ外套を着、ダブダブのズボンをはいているので、背丈と横幅がほとんど同じくらいになってしまうからである。(p. 12)

ゴンチャロフ(井上滿譯)『日本渡航記』岩波文庫,1941. [初出=1858年]
 私は遂に日本の婦人を見た。男子と同じ袴で、咽喉を包む上着を着て、頭だけが剃ってない。立派な身装りの婦人は、ピンで後から髪をとめている。みんな色黒で、大變見苦しい!(p. 151)
 その後には背の低い人民がK山のように集っていた。その多くは醜くて、裸體であった。(p. 104)

E・S・モース(石川欣一訳)『日本その日その日』平凡社東洋文庫,1970-1971. [初出=1917年]
 同様に見えるばかりでなく、彼等は皆背が低く脚が短く、黒い濃い頭髪、どちらかというと突き出た唇が開いて白い歯を現わし、頬骨は高く、色はくすみ、手が小さくて繊細で典雅であり、いつもにこにこと挙動は静かで丁寧で、晴々しい。(1巻, p. 39)

イサベラ・バード(高梨健吉訳)『日本奥地紀行』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1880年]
 街頭には、小柄で、醜くしなびて、がにまたで、猫背で、胸は凹み、貧相だが優しそうな顔をした連中がいたが、いずれもみな自分の仕事をもっていた。(pp. 6-7)
 日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人のみじめな体格、凹んだ胸部、がにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである。(p. 14)
 日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱弱しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、男たちのよろよろした歩きつき、女たちのよちよちした歩きぶりなど、一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である。(p. 292)


韓国人は体格がよく、容貌も立派

ベイジル・ホール(春名徹訳)『朝鮮・琉球航海記』岩波文庫,1986. [初出=1818年]
 このおかげでわれわれは、彼らが均整のとれた、たくましい四肢を持っていることを観察することができた。(p. 36)

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(尾崎賢治訳)『日本・第五巻』雄松堂,1978. [初出=1897年]
 朝鮮人は日本人より背丈が高いが、それでも五・五フィートを越えることはめったにない。体躯たくましく、体型は均整がとれており、活発、機敏である。(p. 4)

ゴンチャロフ(シム・ジウン編訳)「フリゲート艦パルラダ号」(『ロシア人、朝鮮を歩く』より)滑リ国学術情報,2006.(韓国語) [初出=1858年]
 朝鮮人たちはわれわれの後をつけて来た。背が高く健康な民族で、荒々しく赤黒い顔と手を持つ運動選手のようだ。彼らは日本人と違って柔和でもなく、洗練されてもおらず、お世辞も言わず、琉球人のように小心でもなく、中国人のように理解が早くもない。朝鮮人からは、有名な軍人が出るのがふさわしい。(pp. 57-58)

E・J・オッペルト(申福龍・張又永訳)『禁断の国・朝鮮』集文堂,2000.(韓国語) [初出=1880年]
 もし彼らがヨーロッパ風の服装をしていたら、彼らをヨーロパ人と間違えたかも知れない。そして美しくすばらしい容貌とバラ色の肌、そして赤褐色の髪と青い瞳を持つ多くの子どもたちは、ヨーロッパ人の子どもと区別するのが大変難しかった。(p. 28)
 節度ある敏活な歩き方を見ると、朝鮮人は中国人のように動作が柔軟で闊達に見え、日本人に比べ体躯が大きく壮健である。また彼らは日本人よりも活気にあふれ、挑戦的な態度を見せる。(p. 113)
 私は朝鮮女性の容貌が男性に劣らず魅力的だろうと予想していたが、実際にこのような推測を満たす機会を持てたことがある。(p. 115)

N・M・プルジェワルスキー(シム・ジウン編訳)「ウスリー地方紀行」(『ロシア人、朝鮮を歩く』より)滑リ国学術情報,2006.(韓国語) [初出=1858年]
 全般的に朝鮮人の容貌は見目良い方である。しかし体格は、特に女性の場合、均衡がとれているとは言い難い。中でも最も目を引くのは、ひどく狭くて押さえつけられたような胸である。朝鮮人の顔は大部分丸く、特に女性は顔が白く、男女とも髪の色は褐色である。(p. 88)

W・R・カールズ(申福龍訳)『朝鮮風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1888年]
 幸い彼女たちの器量について良く言うのは簡単だった。なぜなら彼女たちは背が高く体躯が優雅であるのみならず、彼女たち自身が体をよく管理しており、天然痘の痕もなかったからだ。彼女たちは明らかに、私が見た朝鮮の女性たちのうちで最高の美人たちだった。(pp. 171-172)

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 全体として、朝鮮人男性は見栄えがよい。顔は卵型で一般的に長いが、横顔はわずかに凹型で、両眼の間の鼻梁はいくぶん平らで、鼻翼は広い。(p. 27)
 そうした時おり見られる欠陥を除けば、朝鮮人の体は均整がとれており、身のこなしも良い。直立すれば男子の体はバランスが良く、歩くとき着込んだ服が邪魔だが、歩みは合理的である。(p. 172)

イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行』講談社学術文庫,1998. [初出=1898年]
 朝鮮人はわたしの目には新奇に映った。清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりもずっとみばがよくて、体格は日本人よりはるかにりっぱである。(p. 40)
 一般に表情はにこやかで、当惑が若干混じる。顔だちから察せられるのは、最良の場合、力あるいは意志力よりも明敏さである。朝鮮人はたしかに顔だちの美しい人種である。(p. 23)

ニム・ウェイルズ(安藤次郎訳)『アリランの歌』みすず書房,1965. [初出=1941年]
 朝鮮人は、極東でいちばん器量のよい民族だ、と私はすぐさま決め込んでしまった。かれらは、背が高くて、神経が太く、体力が強くて、つねに手足の釣合いがとれている。……多くの朝鮮人は非常に美しい横顔をしている。顔付きには、日本人と中国人の特徴が混じっていることがよくある。日本でも中国でも、朝鮮人は映画スターとして歓迎される。……朝鮮婦人には、デリケートで天女のような性質をもつ全く美しい女がよくいる。他にくらべてこんなにも美しく聡明で卓越して見える民族が、たしかに外見の引立たない小柄な日本人に屈従しているのを見るのは、何となく生物学的に不釣合いな感じがする。(pp. 9-11)


韓国と日本の子どもたち


賢く美しい韓国の子ども

ヘンドリック・ハメル(生田滋訳)『朝鮮幽囚記』平凡社東洋文庫,1971. [初出=1668年頃]
 子供たちは昼も夜も勉強にはげみます。こんな幼い生徒が自分の習う知識の大部分を含む書物を立派に説明することができるのは、驚くべきことです。(p. 49)

E・J・オッペルト(申福龍・張又永訳)『禁断の国・朝鮮』集文堂,2000.(韓国語) [初出=1880年]
 もし彼らがヨーロッパ風の服装をしていたら、彼らをヨーロパ人と間違えたかも知れない。そして美しくすばらしい容貌とバラ色の肌、そして赤褐色の髪と青い瞳を持つ多くの子どもたちは、ヨーロッパ人の子どもと区別するのが大変難しかった。(p. 28)

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 十歳以下の幼い少女たちは、本当に可愛らしい。髪は真ん中で注意深く分けられ、後ろでふたつのお下げに編まれている。緑色のチョゴリと赤のチマ姿の彼女たちは、確かに風情がある。彼女たちがいかに行儀がよく、大人しいかにも注意すべきである。彼女たちのひとりを微笑ませることは不可能だ。お菓子やおもちゃや、他に何でも喜びそうな物をあげても、消え入りそうな「ありがと」の言葉が返って来るだけで、彼女は走り去り、贈り物を母親に見せに行く。(p. 48)


みっともなく躾も悪い日本の子ども

ケンペル(斎藤信訳)『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫,1977. [初出=1777-79年]
 三島から少し行った所で、少年・少女の山伏の一群が、歌をうたいながらわれわれの方にやって来た。男の子の方が少女たちより厚かましかった。(p. 207)
 この土地にはきれいな旅館や寺が多いが、また躾の悪いいたずらっ子も多い。(p. 272)

土屋喬夫・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』岩波文庫,1948. [初出=1856年]
 町長婦人はひどく鄭重で、自分の赤ん坊をつれてきたほど善良な性質であつた。賓客達はその赤ん坊をできるだけ可愛がらなければならないと感じた。但しその顔は垢だらけであり、一體にきたならしい様子だつたので、止むを得ず抱いたり頬ずりしたりして可愛がつたが、それは全く苦痛な努力であつた。(4巻, pp. 14-15)

カッテンディーケ(水田信利訳)『長崎海軍伝習所の日々』平凡社東洋文庫,1964. [初出=1860年]
 しかし年齢がやや長ずると親たちはその子供たちのことを余り構わない。どうでもよいといった風に見える。だからその結果は遺憾な点が多い。(p. 202)

オールコック(山口光朔訳)『大君の都』岩波文庫,1962. [初出=1863年]
 そして、たいていの子供は、シラクモ頭だ。この病気は、ほこりと多少関係があるものと医者は普通考えている。たしかに子供たちは、何度もからだを洗っているにちがいないのだろうが、きたなく見える。だが、じつをいうと、日本の下層階級の人びとは、男も女もいっしょになって群らがり、ねむり、入浴するので、接触感染をする病気があるとかならずまんえんするのである。(中巻, p. 425)

E・S・モース(石川欣一訳)『日本その日その日』平凡社東洋文庫,1970-1971. [初出=1917年]
 子供は、僅かな例外を除いて、可愛らしくない。(2巻, p. 194)
 子どもはどこにでもいて、間断ない興味の源になる。だがみっともない子が多い。この国には加答児にかかっている子供が多いからである。(1巻, p. 47)

イサベラ・バード(高梨健吉訳)『日本奥地紀行』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1880年]
 ここはたいそう貧しいところで、みじめな家屋があり、子どもたちはとても汚く、ひどい皮膚病にかかっていた。(p. 93)
 幼い子どもたちは、首から紐でお守り袋をかけたままの裸姿である。彼らの身体や着物、家屋には害虫がたかっている。独立勤勉の人たちに対して汚くてむさくるしいという言葉を用いてよいものならば、彼らはまさにそれである。(p. 98)


日本と韓国の犬食文化


犬食は韓国の伝統文化

シャルル・ダレ(金容権訳)『朝鮮事情』平凡社東洋文庫,1979. [初出=1874年]
 羊肉もなく、それに代わるものとして犬の肉があるが、宣教師たちの言うところでは、べつに嫌な味のものではないという。(p. 301)

William Elliot Griffis, Corea the Hermit Nation, Kessinger, 2004. [初出=1882年]
 犬肉は肉屋でふつうに他の肉とともに売られ、朝鮮人はアメリカ・インディアンと同様にこれを好む。しかし一月には、宗教上の忌避から犬肉は食べられず、イヌ科の動物の料理も禁じられる。(p. 267)

H・N・アレン(申福龍訳)『朝鮮見聞記』集文堂,1999.(韓国語)[初出=1908年]
 ある朝、私の患者が、補身湯を食べたから自分は仇敵の肉を食って生きる唯一の方法を持っていると宣言した。なぜそうなのか説明してくれと言うと、道端で日本人の死体を食っている犬を見たその患者がその犬を食ったから、仇敵の肉を食って生きることではないかと言った。(pp. 178-179)

ゲ・デ・チャガイ編(井上絋一訳)『朝鮮旅行記』平凡社東洋文庫,1992. [初出=1958年]
 ソウルには夥しい数の犬がおり、食用として販売するため各自が自宅で数頭は飼っている。(p. 24)

W・F・サンズ(申福龍訳)『朝鮮備忘録』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1930年]
 時々犬の屠殺業者が犬を捕まえるのを見ることがあるが、彼らは犬を罠の綱で縛り、意識を失った犬を死ぬまで振り回す。良い肉を買えない人々は、これを食べるため嫌な臭いがする肉をゆでる。(p. 50)

イザベラ・バード(時岡敬子訳)『朝鮮紀行』講談社学術文庫,1998. [初出=1898年]
 朝鮮で屠殺した肉を見れば、だれだって菜食主義者にならざるをえない。ヤギの屠殺方法は小さな川で引っ張りまわすというもので、この方法だと癖のあるにおいが消えるといわれている。犬は首になわをかけて振りまわし、そのあとで血を抜く。朝鮮人の手にかかった仔牛の運命については前に述べた。暑い日ざしの下ではせわしなくて汚く、哀れで不愉快な光景だった。(p. 382)


日本人も犬を食っていた…しかも韓国人より残酷に

ゴロヴニン(井上満訳)『日本幽囚記』岩波文庫,1943. [初出=1816年]
 多くの日本人は宗教上の規則を無視して、これ見よがしに肉を食べていた。またある役人はアイヌの習慣に從って、好んで犬の肉を食べていた。そして當のアイヌ人たちでも面をそむけるような、世にも野蠻な調理法を使うのであつた。その役人のやり方は、小さな子犬をぐらぐら沸った熱湯の中に生きたまま投げ入れ、やがてすぐに引上げて、毛をむしって食べるのであった。(下巻, p. 50)


露出は文明度のバロメータ


日本人は裸体丸出しの野蛮人

ケンペル(斎藤信訳)『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫,1977. [初出=1777-79年]
 普通の従者、特に乗り物をかついだり槍を持ったりする者はズボンをはかず、いちだんと敏捷に行動できるように、上衣をはしょい裾を帯にはさんでいるので、彼らの下半身は露わになっているが、このことを彼らは少しも恥ずかしがらない。(p. 12)
 府中を過ぎた所と同じように、ここでもわれわれに群がる乞食に出会ったが、彼らのうちにいた胸をあらわにした一人の美しい少女が、われわれの駕籠に近づいて来て、要領よく布施をせしめた。(p. 209)

土屋喬夫・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』岩波文庫,1948. [初出=1856年]
 水夫達は身長の高い筋肉の隆々とした男達で、その赤銅色の肉體には腰の周りに一片の布をつけているきりで、あとは全部裸であった。(2巻, p. 188)

ゴンチャロフ(井上滿譯)『日本渡航記』岩波文庫,1941. [初出=1858年]
 裸體の男達や、これも腰のところまで上半身が裸體の女達を見た。女達は青い簡単な腰巻をしているだけである。(p. 136)

カッテンディーケ(水田信利訳)『長崎海軍伝習所の日々』平凡社東洋文庫,1964. [初出=1860年]
 我々は若い娘たちに指輪を与えた。その娘たちはどうしたのか胸もあらわに出したまま、我々に随いて来る。見たところ、彼女たちは、われわれがそれによほど気を取られていることも気付かないらしい。我々が彼女たちの中で一ばん美貌の娘に、最も綺麗な指輪を与えたことが判ると、数名の娘たちは我々の傍に恥ずかしげもなく近寄って来て、その露出した胸を見せ、更に手をさわらせて、自分こそ一ばん美しい指輪をもらう権利があるのだということを知らそうとする。(p. 86)

グリフィス(山下英一訳)『明治日本体験記』平凡社東洋文庫,1984. [初出=1876年]
 暑い時の日本の町では、生きている彫像の研究にすばらしい機会がもてる。働く人はよくふんどし一枚になっている。女性は上半身裸になる。身体にすっかり丸みがついたばかりの若い娘でさえ、上半身裸でよく座っている。無作法とも何とも思ってないようだ。(p. 235)

E・S・モース(石川欣一訳)『日本その日その日』平凡社東洋文庫,1970-1971. [初出=1917年]
 奥地へ入って見ると、衣服は何か重大なことがある時にのみ使われるらしく、子供は丸裸、男もそれに近く、女は部分的に裸でいる。(1巻, p. 80)

H・N・アレン(申福龍訳)『朝鮮見聞記』集文堂,1999.(韓国語)[初出=1908年]
 服といえばふんどししか着けていない人々が漕ぐ20隻の小さな三板が私たちの船を取り囲むのを見て、何かがおかしいと思った。あのように暴風が荒れ狂う海で、私たちは道に迷って南太平洋のどこかの島に錨を下ろしたのではないのか? (p. 39)

イサベラ・バード(高梨健吉訳)『日本奥地紀行』平凡社東洋文庫,1973. [初出=1880年]
 両側には農家があり、その前にはだいぶ腐った堆肥の山がある。女の人たちはそれを崩して、その裸足で踏みながらそれをどろどろにする作業に従事していた。仕事中はみな胴着とズボンをつけているが、家にいるときは短い下スカートをつけているだけである。何人かりっぱな家のお母さん方が、この服装だけで少しも恥ずかしいとも思わずに、道路を横ぎり他の家を訪問している姿を私は見た。(p. 98)


韓国人は乳しか出さない文明人

W・R・カールズ(申福龍訳)『朝鮮風物誌』集文堂,1999.(韓国語) [初出=1888年]
 肩の上に着る短く窮屈な服は、乳房をあらわにしており、彼女たちの陋醜な服とみすぼらしく不潔な所に住む様子を見て、われわれは朝鮮女性たちに対し好ましからぬ印象を持つようになった。(p. 36)

George N. Curzon, Problems of the Far East:Japan-Korea-China, Kessinger, 2007. [初出=1894年]
 上流階級に属す女子は人目に触れることはない。しかし貧困層の女子は家庭内や路上や田畑で労働に従事しているところを見ることができ、美しいとは言えない。その服装が変わっていて、胴着で肩を覆いながら乳房は完全に露出しているのである。(pp. 94-95)

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 朝鮮女性の手持ちの衣裳といえば、ふつう白か赤か緑色の、ごく短い上着しかない。その特徴は、あまりに短くて両の乳房が丸出しになることである。既に見たように、ロシアやカナダより寒いくらいの朝鮮の気候を考えれば、奇妙でまるで非実用的なファッションである。(p. 35)

Angus Hamilton, Korea, New York, Charles Scribner's Sons, 1904.
 女性の服装には、首都特有のものがある。上着は白かクリーム色の、ズアーブ兵のジャケットのようなもので、絹、紗、または更紗でできている。数インチあいて、帆のようにだぶだぶで地面につくくらいの白のスカートが、広い帯からつながっている。両者の間は肌が露出し、乳房が丸出しになっている。外に出ている女性はよぼよぼの年寄りばかりなので、これはいただけない。 (p. 36)

F・A・マッケンジー(渡部学訳注)『朝鮮の悲劇』東洋文庫222, 平凡社, 1972.
 彼女らは異様な衣服をまとうが、それは乳房はあけっぴろげにしておりながら、しかもその乳房の上の方の胸部はこれを丹念に覆うているのである。(p. 31)


「清潔な日本人」は幻想


実は不潔な日本人

Henry A. Savage-Landor, Corea or Cho-sen, IndyPublish.com, 2007. [初出=1895年]
 確かに清潔な湯につかるのであれば、彼らは清潔だろう。残念ながら、日本人はそうしていない。私のような文明化されていない者から見れば、汚いお湯につかることは、まったく入浴しないより十倍も不潔に思われる。(p. 74)


実は清潔な韓国人

徐兢著(朴尚得訳)『宣和奉使 高麗図経』国書刊行会,1995. [初出=1125年頃]
 『旧史』が記録に載せている。「高麗のならわしでは、全てが清潔である」と。今に至るもやはりそのようである。いつも中国人の垢の多いのを笑っている。だから朝起きると、必ず先に沐浴し、その後外出する。夏には毎日二度沐浴する。その多くは渓流のなかである。男女の別はない。(p. 159)

N・M・プルジェワルスキー(シム・ジウン編訳)「ウスリー地方紀行」(『ロシア人、朝鮮を歩く』より)滑リ国学術情報,2006.(韓国語) [初出=1858年]
 朝鮮人家庭の日常生活では朝鮮人、すなわち彼らが自分たちを呼ぶとき使うカウリーは、とてつもなく汚い中国のマンジュイーと完全に対極にある勤勉と、特に清潔さによって区別される。彼らの白い衣裳それ自体が、すでに清潔に対する愛好を示している。(p. 87)

H・N・アレン(申福龍訳)『朝鮮見聞記』集文堂,1999.(韓国語)[初出=1908年]
 アイルランド出身のソウル駐在英国公使ジョーダン (N. J. Jordan) は、いつだったか私に朝鮮の家屋はアイルランドの小作人の家より便利で清潔で衛生的なようだと言ったことがある。(p. 102)



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