映画の誘惑

TOP新作批評>セプテンバー11

『セプテンバー11』
11'09''01 September 11
2002年//35mm/カラー/129分

監督:サミラ・マフマルバフ (イラン)、クロード・ルルーシュ (フランス)、ユーセフ・シャヒーン (エジプト)、ダニス・タノヴィッチ (ボスニア)、イドリッサ・ウエドラオゴ (ブルキナファソ)、ケン・ローチ (イギリス)、アレハンドロ・ゴンザレス・イナリチュ (メキシコ)、アモス・ギタイ(イスラエル)、ミラ・ナイール(インド)、ショーン・ペン (アメリカ)、今村昌平 (日本)

セプテンバー11

世界各国の11人の監督が、9.11を様々な視点から描いたオムニバス映画。

レビュー

世界の著名な映画作家11人が、それぞれの視点から昨年の9月11日のテロ事件を描いたオムニバス映画『セプテンバー11』が、先日テレビで放映された。メルマガのなかでも紹介しておいたので、ご覧になった方も多いと思う。

あのテロを主題に描き、上映時間を11分に収めるという以外は、すべて自由に撮ってよいという形で、11人の監督が撮った11の短編を集めたものが、この映画である。よほど才能のある監督といえども、11分という短さはかなり厳しい。これだけ短いと、舌足らずのものになるか、逆に出来すぎたものになるか、そのいずれかになるのがオチである。その予想は半ば当たっていたが、それでもいずれも興味深い作品に仕上がっていた。なかでは特に、サミラ・マフマルバフとアモス・ギタイの作品、それとケン・ローチのものなどが、個人的には印象に残った。

イスラエルの監督アモス・ギタイの作品は、テルアビブの街の一角で爆弾テロが起きた直後の場面から始まる。救急班の男が忙しく救助活動を続けているところへ、テレビ局の女レポーターがキャメラマンを連れて現れ、取材を始める。救助活動の邪魔になると怒鳴る男をほとんど無視して取材を続ける女レポーター。やがて、テレビ局から彼女の耳に、どうやら遠いアメリカで大変なテロがあったらしいという知らせが入り、結局この取材がNGになるところで映画は終わる。ギタイはここまでの一連の流れを、最初から最後までワンカット=ワンシークウェンスで、つまり切れ目なしの長回しで撮り続けている。要するに、この作品はたったひとつのショットで構成されているわけだ。これはギタイのほかの作品でもお馴染みの手法であるのだが、ここではかなり意図的に、ある種悪意をもって使われているとさえいってもいい。

女レポーターが伝えるそのテレビ映像はけっして画面に映ることはないのだが、それが事件を恣意的に断片化し、紋切り型のナレーションでさらに歪曲し、いやというほど繰り返して伝えるであろうことは眼に見えている。映画は、そうしたメディアの映像さえも包みこむ形で、コメントを一切はさまず現実をまるごと客観的に捉え続ける。いうなれば、メディア的な映像に対する、映画の優位がここで主張されているといってもよいかもしれない。

それとともに、ギタイのこの作品は、テルアビブにおけるテロによってアメリカ同時多発テロを異化し、また一方で、同時多発テロによってテルアビブのテロを異化するということを試みているように思える。きみたちはツインタワービルが崩壊するのを見た、世界中の人がそれを見た。だがここテルアビブでは、中東では、そんなことは日常茶飯事なのだ。きみたちはわれわれがここで置かれている状況を一度でも真剣に考えたことがあるのか・・・。

フォルムの点ではこの作品が一番力強かった。

・ ・ ・  ・ ・ ・  ・ ・ ・

ケン・ローチ編は、いつものようにきまじめな、まっとうすぎるとも思えるアプローチで、アメリカの真実を暴き出してゆく。

映画はチリからロンドンに亡命した作曲家の回想という形で、ニューズリールを交えながら、チリの歴史にアメリカがどのように暴力的に介入したのかを物語る。チリでは、70年にアジャンデ政権が成立し、ラテンアメリカにおける民主的手続による最初の社会主義政権が誕生したのだが、アジャンデ政権は73年の軍部のクーデターによってあえなく崩壊する(それは偶然にも、9月11日、しかも同じ火曜日のことだった)。そのクーデターを影で操っていたのがアメリカだったことを、この映画は暴いてゆく。ここには9.11以後のチョムスキーの活動に通ずるものがある。チョムスキーの発言同様に、ケン・ローチのこの作品にも、テロリスト側に利用されかねない危険がないわけではないが、こうした歴史の真実を知る人は少ないのだから、愚直といわれようが、こうしたことは語ってゆく必要があるのだ。

(ちなみに、去年、奇跡的に『見出された時』が公開されたラウール・ルイス監督は、チリ映画のリーダーとしてアジャンデ政権の映画顧問を務めたが、政権崩壊後フランスに亡命し、今現在もフランスを中心に活動を続けている。)

・ ・ ・  ・ ・ ・  ・ ・ ・

わたしが一番気に入ったのは、『りんご』で知られるイランの女性監督サミラ・マフマルバフの作品だ。舞台となるのは、テロ事件後のイランのアフガン難民キャンプ。人びとは、アメリカによるアフガン空爆に備えて、煉瓦を積み上げてシェルターを作っている。ほとんどなんの役にも立ちそうにないそのシェルターづくりに、子供たちまでがかり出されている。そこへひとりの女教師が現れ、「そんなシェルターなんて核爆弾が落とされたらなんの役にも立たない。子供たちは学校に来なさい」といって、子供たちを洞窟のような教室に集め、アメリカで起こったテロについて説明を始める。だが、子供たちには事態が少しも飲み込めない。「アメリカで大変なことが起きました。なにが起きたのかあなたたちは知ってますか」と問う女教師に、「井戸に人が二人落ちて、一人は死に、一人は足を折りました」と無邪気に答える子供。そうじゃなくて、アメリカの世界貿易センタービルが壊されたのだ、と女教師は説明するのだが、子供たちはビルがなにを意味するのかさえ定かではない様子。そこで彼女は、煉瓦を焼くために使われる高い煙突を指さす。ビルを壊したのはだれだと思いますかと問う女教師に、「神様」と答える子供。あきれ顔で彼女はそばの黒板を拾い上げると、それにチョークで円を描き、「これが時計です。いまからビルの下敷きになって死んだ人たちのために、1分間黙祷を捧げます」といって、指を秒針に見立てて円にそって動かす。けれども子供たちは、目を閉じるどころか、他愛もないおしゃべりを続ける。「あなたたちは黙祷しませんでした」、女教師はそういって子供たちを外に連れ出し、煙突の前に並ばせて、今度はそこで黙ってお祈りを捧げるように命ずる。

 ――でも、しゃべりたくなったらどうすればいいですか?
 ――唇をかんで煙突を見るのよ。

突然画面はロングショットとなり、黒い煙を吐き上げる煙突と子供たちのシルエットをしばらく捉えて映画は終わる。子供たちは最後に黙祷を捧げることができたのだろうか。

この作品がなにを意味するのか、わたしには正直いってよくわからない。だが、サミラが、メディアの紋切り型の映像ではないもうひとつの映像、ひょっとしたら映画だけに可能かもしれない映像を提示しようとしたことはわかる。それが、逆しまの塔のように地底にのびてゆく井戸のイメージであり、黒い煙を吐く煙突のイメージであり、黒板に書かれた時計のイメージなのだ。たったひとつでもいいから、強烈なイメージを創造すること。それが映画であることを、サミラの映画はいつも思い出させてくれる。

セプテンバー11『セプテンバー11』
Copyright(C) 2001-2007
Masaaki INOUE. All rights reserved.