この映画のどのショットも、少女たちが世界を発見するのを描くとともに、監督がまさに映画を発見しつつあるみずみずしさで満ちている。
(旧作だが、今年初めて見たので紹介しておく。)
イランのとある家庭でふたりの少女たちが両親によって十数年間家に監禁されている、かわいそうなので助けてやってほしいという、近所の住人たちの署名入りの嘆願書が福祉事務所に送られてくるところから、『りんご』は始まる(紙にペルシャ語でびっしりと書かれた嘆願書につぎつぎと署名がされてゆくただそれだけのイメージについ見とれてしまう。それぞれが紙の隅に拇印を押して嘆願書が書き終えられたとき、その上にりんごが一個そっと載せられるのだ)。
その家はたちまちマスコミの餌食となり、少女たちはいったんは両親から引き離されて役所に引き取られる。二度と少女たちを閉じこめないと約束して、父親はやっと娘たちを返してもらうのだが、家に帰ると彼はそ知らぬ顔で玄関に鍵をかけ少女たちを家に閉じこめて出かけてゆく。やって来た福祉事務所の女がそれを知って少女たちを家の外に出し、逆に両親を鉄格子に鍵をかけて家のなかに閉じこめてしまう。少女たちが初めて見る外の世界。彼女たちは最初は言葉さえ満足に話せないが、やがて鏡で自分自身を発見し、お金の使い方を覚え、近所の子供たちと友だちになって一緒に遊びながら、短時間のうちに成長していく・・・。
これは実際にあった事件であり、でてくる人物たちも当の本人たちである。事件をニュースで知ったサミラはすぐに現場にキャメラをもって出かけ、それがドキュメンタリーとなるかフィクションとなるかもわからないまま撮影を始め、わずか11日間でこの映画を撮り上げたという。サミラ・マフマルバフはこの事件をドキュメントとして撮りながら、それをベースにして映画を一種のメルヘンへと高めることに成功している。女性の視点から見たイラン社会の旧弊への批判は随所に感じられるが、そこには批判者特有の性急さや押しつけがましさはまるでない。その眼差しは他者を理解しようとする優しさに満ちている。
たしかに話だけ聞けばひどい親だと思われるかもしれない。しかし少女たちの母親は盲目であって家にひとりっきりにできないし、父親は娘たちのことが本当に心配だから外に出そうとしないのだ。だが、父親の取った行動が娘たちへの愛情からだったとしても、それは本当に娘たちのためになっていたのか? サミラの映画はそれを無言で問いかける。鉄格子のなかに閉じこめられた少女たちのイメージは、女に自由を認めない古いイラン社会を象徴していると言っていい。鍵を握っているのは父親=男であり、少女たちには鍵の使い方さえわからないのだ。少女たちが満足に言葉を話せなかったのは、彼女たちが学校に行ったことがなかったからで、実際この通りであったのだが、ここにも自分を主張する権利を奪われた女性の抑圧的状況が象徴されていると見ることもできよう.。
初めて外の世界に触れた少女たちは、近所の少年が高い窓から紐につるして遊んでいたりんごを手につかもうとするが、少年がりんごを上下させるのでつかむことができない。りんごはいわば自由の象徴でありまた知識の象徴でもある。やがて彼女たちはりんごを手に入れ、公園で友だちになった別の女の子たちとそれをおいしそうにかじることになるのだ。
サミラの視線はだれに対しても愛情に満ちているように思われるが、ただ、顔を布ですっぽり覆い隠した盲目の母親だけは例外で、いつも小声でぶつぶつと激しい罵詈雑言を吐いているこの母親のイメージには常にどす黒い怨念のようなものが感じられた。映画は、家にひとり残されたこの母親が路地にさまよい出て、少年が窓からつり下げるりんごにまさに振れなんとする瞬間に終わる。封建的なイラン社会で無知のなかに閉じこめられた女たちは今やっとそこから自由になろうとしている……。
鉄格子、鍵、鏡、りんごといった小道具のシンボリックな使い方は、いささか紋切り型で分かりやすすぎるきらいがあるが、この映画のどのショットも、少女たちが世界を発見するのを描くとともに、監督がまさに映画を発見しつつあるみずみずしさで満ちていて、このままいつまでも見続けていたくなる。わずか18歳でこんな処女作を撮ってしまうとは、恐ろしい。
『りんご』 |
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