映画の誘惑

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『平原の都市群』

『三人三色』

『真昼の不思議な物体』

『夢の中で』『愛についての実話』

『DV──ドメスティック・バイオレンス』

〈ヤマガタ+plus〉映画祭
"Post Fiction" in 関西

先頃、神戸・大阪・京都の三都市で行われた「〈ヤマガタ+plus〉映画祭 “Post Fiction” in 関西」で見た映画のことを、簡単にまとめておく。

レビュー

『平原の都市群』

神戸会場は非常に遠いので、結局、どうしても見逃せないロバート・クレイマーの作品だけしか見ることができなかった。『青春クロニクル』などはひょっとするとかなり面白かったのではないかという気がする。

さて、『平原の都市群』はクレイマーの遺作である。ロバート・クレイマーは、この作品の完成を間近にして、1999年11月に亡くなった。編集はほぼ終わっていたが、音入れなどの重要な作業が残されていた状態だったという。クレイマーの死後、かれの妻エリカ(この映画にも出ている)を中心とするスタッフたちによって、映画は完成された。それがどの程度作者の意志を継ぐものであったかは、よくわからない。いずれにせよ、クレイマーの作品はほとんど見ていないので、この作品がかれの映画としてはどれほどの出来なのか、わたしに判断することはできない。おそらく、最高のクレイマー作品とはいいがたいものなのかもしれない。それでも、これが非常に水準の高い作品であるのはたしかだ。作家がたまたま最後に撮り上げた作品は、遺作などと呼ばれ、時として人はそこに、あらぬ死の予兆を好んで探し求めたりする。まずいことに、この映画には、死を予感させるようなイメージがなくはないのだ。だが、クレイマーはけっしてネガティブな気持ちでこの映画を撮ったわけではないと思う。ほとんど作品を見ていないのに、こんなことをいうのもなんだが、かれはこの作品でなにか新しい方向に進もうとしていたのではなかろうか。そんな気がしてならない。

舞台となるのは、おそらくはフランス北部に位置し、町の中心を運河の流れる一都市。リールのような無味乾燥な工業都市の雰囲気に近いものを感じさせる町だが、リールのような大都会にはほど遠い田舎町であり、そうした大都市郡のあいだの谷間に残ったある種遺物のような町といってもいいかもしれない。この町に住むひとりの盲目の老人が、一応この映画の主人公ということができるだろう。盲目の老人はかつて、おそらくはアルジェリアあたりからマグレブ移民としてこの町にやってきたらしい。かれは苦労して働き、やがて自分の店を持つようになり、フランス女性と結婚し娘をもうける。だが、結婚したあとのかれは、家族をほったらかしにして、賭けポーカーに興じる日々。やがて、政情不安定な故郷に住む母親の安否を気遣ったかれは、家族を残して旅立つ。そして母親の死という最悪の結果をもってフランスに帰ってみると、店は売却され、妻子は別の男のもとに去ったあとだった。さらには、あげくの果てに、チンピラに因縁をつけられて暴行を受け、視力までも失ってしまう。視力を失ったいま、それまで自己中心的で独りよがりな生き方をしてきたかれの人生はどのように変わってゆくのか・・・。

ストーリーを取り出せば、ざっとこんな風になるだろうか。だが、こうして筋を話したところで、この映画の場合ほとんど意味をなさない。実際の映画は、一見ちぐはぐな断片を寄せ集めて作ったかのような印象を与える。盲目の老人と、この町にやってきたころのかれ、そしてこの町である程度の成功を収め、フランス娘と結婚したころの壮年期のかれ、同一人物のこの三つの時期は、実は、それぞれまったく似てもにつかない顔の俳優によって演じられている。そのため、こういう映画になれていない人は、全体の構成がわからずにまごつくかもしれない(そういうわたしも、あまり細部まで理解している自信がなく、今すぐにでももう一度見直したいぐらいなのだが)。

映画は、町を見下ろすビルの一室で、若い女性が、都市の見取り図を示すパソコンのモニターを前に仕事をしている場面から始まる。どうやら彼女は、都市をデザインする仕事に携わっているらしいのだが、詳しいことはよくわからない。彼女が盲目の老人とどういう関係にあるのか、それともないのか、それもずっと先の方にならなければわからないだろう。ときおり現れる彼女の場面も、観客のミスリーディングを誘うものかもしれない。

それと、この映画には、老人の心のなかに見えているらしい、主観的世界を表すイメージがときおり挿入される。この映画は、大部分がビデオで撮影したものを35ミリにブローアップしたもので、独特のざらついた質感が、フィクション映画をときとしてドキュメンタリーへと接近させている。ただ、おそらくこの主観的イメージの部分だけは、スタジオでフィルム撮影したものであろう。そんな主観的場面のひとつに、老人の死んだ母親が現れるのだが、そこの台詞はたしか、ホメロスの「オデュッセイア」で、冥界に行ったオデュッセウスの前に母親の亡霊が現れる場面からの引用だったと思う。ときおり挿入される暗い運河の場面も、冥府を流れるスティクス川のイメージと重ね合わされているような気がした。いずれにしても、故郷を離れて異国に暮らすこの盲目の老人と、アメリカではまともに映画を撮ることができず、亡命するようにヨーロッパで映画を撮り続けるクレイマーの姿を重ね合わせてみたくなるのは、避けがたいだろう。そして、この盲目の老人の姿に、オデュッセウスとならんで、盲目のオイディプスを想像しないでいることもまた難しい。たしかに、めしいたオイディプスの手を取って道案内してくれるアンチゴネーはここにはいない。それどころか、老人は幼いころに娘とは別れ別れになり、いまでも疎遠なままだ。ただ、そのかわりに、かれには幼い少年の友だちがいる。映画の終わり近く、川べりで少年と肩をならべて座った老人は、おそらくは娘にあげるつもりでいた金の入った鞄を少年にそっとさしだし、その金で好きなものを買うようにいう。そこには若いころのかれの押しつけがましさはない。

個人のレベルから都市のレベルにまでいたる、広い意味でのコミュニケーションがその中心主題であるといってもいい、この映画の最後で、人生の終わりにさしかかった男が、人生の出発点にいる少年にさしだす鞄。それはこの映画のことかもしれない、と思いながら見ていると、つい感動してしまった。

 

 

▼ 『三人三色』

これは、ジャ・ジャンクー、ツァイ・ミンリャン、ジョン・アコムフラーの三人によるビデオ短編をまとめたオムニバス映画だ。ジョン・アコムフラーの作品は、出来のよくないクリス・マルケルといった感じの SF 風恋愛映画。正直いってよくわからなかった。ツァイ・ミンリャンの「神様との対話」も、人気のない地下道や執拗に映し出される死魚のイメージなどにかれらしいこだわりが見れたものの、ツァイ・ミンリャンはドキュメンタリー作家としてはあまり才能ないかも、と思わせただけだった。やはり、評判の高かったジャ・ジャンクーの「In Public」が、三作品のなかではひとつ抜きんでていたといっていいだろう。

ジャ・ジャンクーは、『一瞬の夢』『プラットフォーム』で知られる中国の新鋭監督。新作、『青の稲妻』がまもなく公開なので、そちらも楽しみだ。この短編「In Public」は、夜景を捉えていたキャメラが緩やかに右にパンして、とある駅の待合室を映し出すところから始まる。離れた場所に座った二人の男。どうやらだれかを待っているようだ。画面奥の扉の向こうの暗闇を線路が走っているらしいのが、ときおり通り過ぎる列車の音でそれとなくわかる。だが、キャメラは外の世界にはほとんど無関心に、待っている男たちをひたすら長回しで撮り続ける。やがて、列車のひとつから降りてきたらしき数人の乗客たちがぞろぞろと待合室に入ってくる。どうやら、そのなかに待っていた人がいたらしい。先ほどの男のひとりが、かれらとともに出口の方に消えていくところでこの場面は終わる。

それに続く場面では、もう昼である。城の周辺を思わせるようなだだっ広い空間が左右に広がっていて、画面奥の方には、みすぼらしい集合住宅が建ち並んでいるのが見える。その住宅から出てきたらしき人々が、こちらに向かって大勢歩いている。先ほどの待合室の場面と同じく、いかにも侘びしい中国の一風景だが、このふたつの場面がどうつながるのかわからない。一瞬迷子になりかけるが、やがてそこがバスの停留所であることがわかったとき、この映画のコンセプトがやっと飲み込めてくる。これは、待っているものたちをひたすら撮り続ける映画なのだ。そのとき、「In Public」というタイトルの意味も自ずと明らかになる。バス停で、バスに乗り遅れた女を、キャメラは執拗に撮り続ける。女はやっとやってきた別のバスに乗って去ってゆくのだが、キャメラは今度はバスのなかに乗り込んで、バスの乗客たちを捉え続ける。バス停の次は空港の待合室かなと予想していたので、これにはちょっとあわてる。別に待っている人物にこだわっているわけではなく、要は、不特定な匿名の個人がかりそめにひとつに集まる場所を映像に収めるということらしい。

これに続く最後の場面でも、やはりどこかの待合室らしきものが映し出されるのだが、「まもなく発車します」というアナウンスからすると、ここも駅の待合室なのだろうか。だが、そこにはビリヤード台がおかれ、流行歌にあわせて踊っている人がいたりもする。何事が起こるわけでもなく、時間だけが流れ、やがて画面いっぱいに垂れ幕が映し出されると、その幕を手で開いて人が次々と現れてキャメラの背後に消えてゆく。どうやら、かれらはこれからどこかに出発するようだ。その瞬間、映画は不意に終わる。

これら「公共の場」を捉えた映像から一様に浮かび上がってくるのは、孤独な個人の人影である。この映画を見ながら、わたしはなぜかリュミエール兄弟の撮った映画のことを思い出していた。映画の創始者であるフランス人リュミエール(もっともアメリカ人にとっては、いまだに映画を発明したのはエジソンだが)、かれが撮った『ラ・シオタ駅への列車の到着』を初めて見た観客たちが、自分たちの方に向かって列車が走ってくるので、ひかれると思って客席のなかでのけぞったというエピソードは、あまりにも有名である。この映画のことを思い出したのは、リュミエールの約100年後に、中国の若手監督が、ビデオという別のメディアを使って、別のかたちで列車の到着を描いたということに、深い感慨を覚えたというのがひとつである。それともうひとつは、Fiction / Documentary という境界線上にある作品をセレクトしたこの映画祭に似つかわしく、このリュミエールの映画は果たしてドキュメンタリーなのだろうか、それともフィクションなのだろうかと、考えたのだった。列車が駅に到着する、ただそれだけのことをフィルムに収めた映画に見えるが、嘘か本当か、あの列車から降りてくる乗客たちの大部分はリュミエールの親族たちだったという。

「リュミエールこそはフィクションの元祖であり、メリエスはドキュメンタリー作家なのだ」と演説をぶつ『中国女』のジャン=ピエール・レオを待つまでもなく、要するに、リュミエールこそが Post Fiction だったのだ。

『真昼の不思議な物体』

タイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督(冗談のような名前だ。第一、ややこしくて覚えられない)の『真昼の不思議な物体』は、かなり変な映画だ。走る車のフロントガラスに映し出される街の風景とともに映画は始まる。次いで、その車で商売をしているらしい女が、自分は幼いときに父親によって借金の形に売り飛ばされたのだと、悲惨な体験を語り始めるのだが、話が終わるとインタヴュアーは、今聞いたばかりの物語にはまるで無関心に、「なにか話をしてください。作り話でもいいです」と、彼女にうながす。女はおもむろに、車いすに乗ったひとりの少年の物語を語り始める。

「少年にはいつもそばに女の家庭教師がついていた。あるとき、女家庭教師が急に意識を失い、彼女のスカートの下から不思議な丸い物体が転がり出てきた・・・。」

こんなおとぎ話めいた物語を、「フィクション」映像が再現してゆく。そして、撮影隊は、タイを北から南へと旅しながら、この物語の続きを様々な人びとに作らせてゆくのだが、その旅のあいだに、無邪気に物語を語るタイの人々の「ドキュメンタリー」映像と、その物語の「フィクション」映像が交互に挟み込まれてゆき、ときには、物語は、旅芸人の一座によって即興芝居のかたちで演じられさえする。物語は語り手=作り手によって様々にトーンを変えて語り継がれながら、やがて思わぬ方向に展開し始め、家庭教師はいつしか、偽の家庭教師と本物の家庭教師の二人に分裂し、最後には、無邪気な子供たちによって物語は SF に限りなく接近し、ほとんど再現不可能なものにさえなる。

ロバート・クレイマーの『ルート1』や原将人の諸作品など、旅を通じて歴史や社会の断層を浮かび上がらせてゆくドキュメンタリーは、とくに珍しいものではないが、この映画は、それらとはまったく別のアプローチを試みた作品といっていい。監督がどこまで方法論的に意識してやっているのか多少疑問で、素朴でオプティミスティックすぎる気がしないでもないが、興味深い試みであることは間違いない。ビデオ作品を続けて見たせいか、この映画のざらついた35の画面は心地よかった。監督自らがキャメラを回していたようなのだが、フレームの一つひとつに並々ならぬセンスが感じられた。タイにもこんな作家の映画があったとは驚きだが、その「作家」自体を疑問に付す映画になっているところがまた面白い。もっとも、娯楽映画中心のタイでは、かれの映画はほとんど上映される機会がないという。

ウィーラセタクンの新作『Blissfully Yours』は、今年のカンヌに出品され、フランスのプレスでも話題になっていたが、知らない監督の名前なので実はあまり注目していなかった。これからは要注意人物としてマークするつもりだ。

▼ 『夢の中で』『愛についての実話』

『夢の中で』『愛についての実話』は、オーストラリアに住む韓国人二世である女性監督メリッサ・リーによる作品。いずれも30分程度の短編である。

『夢の中で』は、母親に反対されながらも映画監督になることを決心したメリッサのデビュー作。彼女の家族と同じくオーストラリアに住む、ある韓国人の芸能一家を描いたドキュメンタリーだが、その家族へのインタビューというかたちを借りた、彼女の映画監督宣言にもなっているところが面白い。気負いのない初々しい作品だが、インタヴューの失敗したテイクまでそのまま見せていくところに、この監督の姿勢がすでに現れている。

続く『愛についての実話』はがらりと変わって、結構手の込んだ作品になっている。メリッサは、アメリカに住むアジア人監督のドキュメントを撮る目的でアメリカに渡り、そこで韓国系二世と日系二世の二人の映画監督と出会い、ともに恋に落ちてしまう。彼女はその二人のあいだで揺れ動きつつも、つねにカメラを回し続け、ベッドのなかにまでビデオを持ち込んで撮影を続ける。それでこの作品には「A true story about love」というタイトルがつけられているのだが、これは見かけほど単純な映画ではない。終始プライヴェート・フィルム風に撮られてはいるが、最後になって、すべて演技だったのではないかと匂わせ、ドキュメンタリーとフィクションの境界を曖昧にしてしまう。

日系二世の監督の、白人コンプレックスの裏返しのような妙に自信ありげの態度が面白かったが、日本の血を引くかれと恋に落ちてしまったメリッサが、「韓国人をレイプしまくった日本人はみんな敵だと思っていた」というのを聞くとやはりどきりとさせられる。この監督も、今後どのように成長してゆくのか、注目してみたい。

 

▼『DV――ドメスティック・バイオレンス』

『DV』は、フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーとしては最新作になる作品。いつものワイズマンである。タイトルも、いつものように素っ気ない。『福祉』とか『臨死』とか『動物園』とか、よくもまあこう味も素っ気もないタイトルをいつもいつもつけられるものだ。山形映画祭でやるならともかく、一般公開となると「BALLET」だけではちょっとインパクトがないので、『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』などと、適当な副題をつけないとさまにならず、配給側も苦労しているようだ。関係ないが、先日レンタル・ビデオ店で、ガレルの『夜風の匂い』のビデオに「人妻エレーヌ」という副題がつけられているのを見てびっくりした。だれがつけたのか知らないが、いくら何でも「人妻エレーヌ」はないだろ。そんなにして売りたいか。

アメリカン・バレエ・シアターの世界 『アメリカン・バレエ・シアターの世界』

それはともかく、ワイズマンだが、タイトルの話をしたのは、こういう一般名を題名に使っていることが、なにかかれの映画の本質にかかわるような気がしたからだ。実際、『高校』や『病院』、あるいは『聴覚障害』といった、一般名をタイトルにした映画では、いったいなにが問題になっているのだろうか。そうしたタイトルとは裏腹にそこで描かれているのは、常に、ある特定の場所にあって固有の名前をもった高校であったり、病院であったり、施設であったりするのだ。『DV』においても、「ドメスティック・バイオレンス」一般が、テレビのドキュメンタリー番組のように、適当なナレーションを通して説明されるなどといったことは一切なく、ここでもまたフロリダのある特定の一施設がひたすら描かれるばかりである。

映画はいかにもワイズマンらしい始まり方をする。海から見たフロリダを捉えた遠景の固定ショットに始まり、街の周辺を走るハイウェイの映像などが短く矢継ぎ早にモンタージュされたあと、街をパトロールするパトカーがとある家の前にやってくる。家庭内暴力の通報を受けて、DV専門の警官が駆けつけてきたのだ。夫からひどい暴力を受けて運ばれてゆく妻。街の治安の悪さを訴える近所の住民。ひとしきり現場の映像が見せられたあと、場面はとある施設に移る。そこは家庭内暴力に苦しめられたものたちを保護し、再生させるための施設で、まだ幼い子供たちから、人生の辛酸をなめつくした大人たちまで、様々な形で暴力を体験した者たちが、そこで暮らしているのだ。以後映画は、そこの患者たちや、カウンセラーたちが語る姿をひたすら描き出してゆく。映画の大部分は、このフロリダの一施設を描いたものである。そして、予想通り、終わりの部分でキャメラは再び街に出て、冒頭と同じパトロールの現場をまた映し出す。そこに描かれるのは、またしても夫から暴力を受けた女性と、それが暴力であることさえわかっていない夫である。警官を前に夫婦はかみ合わない言い争いを続け、それは一見他愛もない夫婦喧嘩にも見えるのだが、なにかただならぬ暴力性がそこにむき出しになって現れていて、すさまじい緊迫感を覚える。例によって、そのあとは、またフロリダを捉えた短いショットが続いて映画は終わる。

さて、始めに戻るが、ここに描かれているのは「ドメスティック・バイオレンス」とはなにかという一般問題なのだろうか。それとも、様々な家庭内暴力の被害者たちという個々のケースの実体を描くことが問題となっているのだろうか。いや、ワイズマンの映画に現れるあの名もなき者たちは、一般でも個でもなく、一般と個という二項対立を超えた存在なのだと思ってみたりするのだが、果たして本当にそうなのか。これは、ワイズマンにおけるドキュメンタリーとフィクションという問題とも、別の次元でかかわってくることである。

「だいたい8週間かけて、ある特定の社会組織を訪れ、そこで興味深いものをなんでも撮影する。だいたい100時間から120時間ぶんのフィルムを撮影し、それをだいたい10ヶ月かけて見直し、そこから発見したことに基づいて編集する。構成については撮影順などには一切こだわらない。私の編集はまったく主観的なもので、ひとつひとつのショットをどこに配置するかはすべて私の考えの反映であり、ある特定の場所にある特定のショットがあることにはすべて私の考えた意味がある」と自らの方法論を語るかれのドキュメンタリーが、限りなくフィクションに近いものであるのは明らかだ。ワイズマンのドキュメンタリーには、そのモンタージュを通して見えないフィクション性が刻み込まれている。かれの新作「最後の手紙」が、3時間4時間は当たり前というワイズマン作品にあって62分という異例の短さの「劇映画」であることを知ったとき、驚いたと同時になにか自明のことのように思えたのは、こういうわけだ。

さて、ワイズマンについてはまだまだ考えなければならないことがたくさんある。とりわけ、クレイマー VS ワイズマンというのが、目下わたしにとっての問題だ。果たして、ロバート・クレイマーとフレデリック・ワイズマンを同時に愛することは可能か。個人的には、クレイマーの方に圧倒的なシンパシーを覚えるのだが、ワイズマンはとうてい無視し得る存在ではない。ワイズマンとはいつか決着をつけなければならないと思っている。

・ ・ ・  ・ ・ ・  ・ ・ ・

わたしが見たのは、ほんの少しの作品だが、それでもかなりレベルの高い作品が集まっていることはわかった。ただ、神戸・大阪・京都と会場が分散したために、「映画祭」という雰囲気はまるでなく、見る意欲を多少そがれたのが残念だ。我が家から一番近い京都会場がレイトショーだけというのも、ちとがっかりだった。欲を言えば、6500円ぐらいで10回券がほしかった、などなど。まあ、なかなか見る機会のない作品が見れたのだから、それでよしとしようか。

 

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