映画の誘惑

TOP新作批評>プラットホーム

『プラットホーム』
Platform

──草が育つのを見るように

2000年/香港=日本=フランス/35mm/カラー/151分

監督・脚本:ジャ・ジャンクー 撮影:ユー・リクウァイ
出演:ワン・ホンウェイ、チャオ・タオ、リャン・チントン、ヤン・ティェンイー

プラットホーム

 中国の若き新人ジャ・ジャンクーの長編第2作は、草が育つように変化する歴史を内側から静かに描く傑作だ。

レビュー

「だれも草の育つのを見ることはできない。」 クロード・シモン

クロード・シモンの小説にはいつも絶妙のエピグラフが添えられているのだが、これは彼の小説『歴史』の冒頭に置かれたものだ(ひょっとしたら『草』のエピグラフだったかもしれない。今手元に本がなく、記憶で引用しているので、全然見当違いをしている可能性もある)。『プラットホーム』の監督ジャ・ジャンクーが、「変わり続ける時代を、《歴史》ではなく《気配》で描きたかった」と語るのを聞いて、ふとこの言葉を思い出した。この映画に描かれるのは紛れもなく《歴史》であるが、ジャ・ジャンクーはいわば草が育つように気づかぬうちに変わってゆくその歴史に内側から迫っていこうとしたのである。

この映画は、旅回りの文化劇団の姿を通じて、毛沢東の死後3年目の1979年から天安門事件の2年後の91年までの約10年間の中国を描いている。中国の80年代。それは一言で言って《政治の時代》から《経済の時代》へと社会が推移していく時期に当たる。けれどもここには歴史の年表に現れるような《事件》はほとんど現れない。ジャ・ジャンクーはこの時代の変貌する社会を、聞こえてくる音楽と登場人物たちのファッションの変化を通じて描いてゆく。同じように旅芸人の一座を通じて長いスパンで歴史を描きながら、節々に歴史上の事件を描き込み、さらにはそれを神話のなかにとけ込ませる、アンゲロプロスの『旅芸人の記録』とはずいぶん異なるアプローチの仕方だ。

「プラットホーム」というタイトルは80年代を通して中国で大ヒットした同名の歌謡曲から取られたものだ。「ぼくたちは待っている。ずっとずっと待っている」と歌うその曲には、この時代の人々が漠として抱いていた期待が込められている。そして映画はまさに列車の場面で始まるのだ。ただし列車といっても、舞台の出し物として演じられる列車である。「シャオシャン行きの列車」というこの演目は、毛沢東の生地シャオシャンという地名からもわかるとおり、毛沢東を称えるプロパガンダ演劇の十八番である。中国の進歩を象徴するかのように列車は走り続けるというわけだ。

もっとも、映画の冒頭のこの時点からしてすでにこうした演目と劇団員たちの意識とのあいだには大きなずれが感じられる。文化大革命時代の列車はすでに目的駅に着こうとしているが、そこで乗り換えた新しい列車がどこに向かってゆこうとしているのかはわからない。そういう曖昧な中間地点が中国の80年代だったのかもしれない。その意味でも「プラットホーム」というのは象徴的なタイトルである。

この10年間の社会の変貌は速いようで遅く、遅いようで速い。なにも変わっていないようでいて、その実、なにかが徐々に変わっている。その微妙な変化の有り様をこの映画はショットとショットの連鎖によって、というよりもその隙間によって表現してゆく。遠方の友からのハガキを読むシーンの次には、もうその友だちが帰ってくるシーンが続くという具合に、この映画のカットとカットのあいだには、短くはないがかといって長すぎもしない時間の欠落があり、うっかりしているとそのことに気づかないぐらいだ。なにも変わっていないようでありながら、時間は確実に流れている。それにつれて登場人物たちの関係も次第に変化してゆく。キャメラは決して彼ら個々の登場人物たちから離れようとはしないが、逆に近づきすぎもしない。あくまでも大きな流れのなかで彼らを見据えようとしている。だから、ほとんどすべてのショットが引いた位置からの長回しで撮られており、クローズアップはいっさい使われない。こういう映画を見ると、「登場人物の顔がわからないし、淡々としすぎていて眠くなる」と言う人がいる。そういう人はこの映画は見なくていい。家でテレビドラマでも見ていたほうがいいだろう。登場人物に自己同一化できなければ映画を楽しめないというのは、はっきり言って観客として未熟だ。

ところで、この映画には万里の長城が何度か登場する。まあ、月だか火星だかから肉眼で見える地球上の唯一の建造物なんだから、それが中国映画に出てきてもなんの不思議はない。けれども、この映画に描かれる城壁を見たとき、わたしは新鮮なショックを覚えた。この城壁がこんなにも自然なものとして映画に現れるのを見るのは初めてだったからだ。もちろん、城壁が出てくる中国映画は他にもたくさんあるだろう。中国映画にそんなに詳しいわけではないのであまり大きなことは言えない。だが、この映画の城壁には、それ以前のフランス映画ではたんなるデコールにすぎなかったエッフェル塔が、トリュフォーの『大人は判ってくれない』で初めて物としてむき出しの形で現れるのを見たときのような、新鮮な驚きがあった。

70年生まれというジャ・ジャンクーはいわゆる中国第6世代の作家ということになるのだろうか。中国第5世代の旗手チェン・カイコーがハリウッドをうろうろしているのを見るにつけ、こういう新しい世代の作家が中国に現れたのは頼もしいかぎりだ。『沈む街』のツァン・ミン、『趙先生』のルオ・ラー以外にもまだまだ隠れた才能が眠っているのかもしれない。チェン・カイコーで思い出したが、『プラットホーム』には映画館の場面が何度か出てくる。そこで上映されているのがインド映画だったりするのが面白いのだが、おそらくここには監督の個人的な体験が反映されているのだろう。チェン・カイコーが青春時代を綴った自伝『私の紅衛兵時代』にはこうした映画体験がほとんど欠落していたことを思うと、こういうところにも世代の差を感じる。

プラットホーム『プラットホーム』

上に戻る

Copyright(C) 2001-2007
Masaaki INOUE. All rights reserved.