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「みずほ流」点訳入門教室

7.こそあど言葉・「〜にして」など



こそあど(『てびき』p36〜)

小学校の国語の時間に「こそあど言葉」って習いませんでしたか?
「こう・そう・ああ・どう」「この・その・あの・どの」「こんな・そんな・あんな・どんな」というふうに語頭が「こそあど」で共通している、「指示する言葉」のことですね。
『てびき』では、副詞「こう・そう・ああ・どう」と、連体詞「この・その・あの・どの」について書いてありますが、このふたつは、うしろに付属語を伴わないで使われることが多いものです。
「私はこう思う」「そのことは内密に」「どう言えばいいの?」「ああいった場合はね」等々。
しかし、ほかの「こそあど言葉」でも、おおむね自立語と考えて、うしろに付属語がくれば続けて、自立語であれば切って書きます。
副詞だから、連体詞だから、というように考えるより、「こそあど言葉」は基本的に自立語と考えて、自立語のルールに従って点訳すればいいと思います。

副詞・連体詞以外の「こそあど」はほとんど代名詞で、「これ・それ・あれ・どれ」「どちら・そちら・あちら・どちら」「こっち・そっち・あっち・どっち」「こいつ・そいつ・あいつ・どいつ」「ここ・そこ・あそこ・どこ」等。その他に形容動詞の「こんな・そんな・あんな・どんな」というのがあります。
こういった語も、自立語です。

とはいうものの、「こそあど」の副詞・連体詞に関しては、非常に例外が多い。例外というか、要するに一語化していて切らない、というものがとても多いのです。

『てびき』p37に「切らない例」が出ていますね。
「この世」「あの世」は一語として使われますが、「その世」「どの世」というふうにはあまり使いません。「その世」であるとか「どの世」とかいった言葉は、まず前提として「世」についてなんらかの説明があって、その説明の中で言及されている「その、世」であったり、どういう世界、どんな世の中なのか知らない場合の「どの、世」なのですが、それに対して、「この世」は、とくに説明がなくても、「今の世界」、「現世」、というはっきりした意味があるのは誰でも知っています。
「あの世」も同様に、なんの脈絡もなく出てきても、みんな「死後の世界」だってわかるくらい一語になっているわけです。
では「この世の中」なんていうときは、どうでしょうね?
「この」が「世の中」にかかるとしたら、「コノ■ヨノナカ」(「世の中」も一語として続ける言葉です)、「この世」の「中」といっているのであれば「コノヨノ■ナカ」になりますが、うーん、これは文脈で考えるしかないですね。
この他、「この際」は続けるけれど、「その際」「あの際」は切るとか、「この分」は続けて「その分」「あの分」は切る、といったようなものがあります。
どうしてこうなるのか、という説明はなかなか難しいのですが、切るときには「その」や「あの」が指し示すものが比較的具体的にあるんですね。
「とても経済的に困っていたことがあって、その際に、友人に助けてもらった。その分、お返しをしないと、と考えているよ」といったときの、「その際」は「経済的に困っていた際」なのであり、「その分」は「助けてもらった分」なのです。
しかし、普通私たちが「この際」と使う場合、「この際、はっきり言っておく」などというときは、「ちょうどいい機会だから」みたいなニュアンスで使っているのではないでしょうか?
「この分では雨になりそうだなあ」の「この分」は「今の感じでは」「現在の様子では」といった感じでしょうか?
ちょっと難しいのですが、私たちは日常の会話の中で、こういった微妙な言い回しを、案外苦もせずに使い分けているものです。
それもたいてい無意識に使い分けているので、いざ点訳なんてことになると、そのときになって初めて、それぞれの語の持っている雰囲気の違いみたいなものに気付いたりします。

同じかたちで、続ける場合と切る場合がある語も多いので、注意します。
「見栄っ張りでそのうえ乱暴者」「そのうえにある本を取ってくれない?」
この2つの文では、前者の「そのうえ」が続ける例です。「さらに」とか「それに加えて」といった意味で使われる場合です。
後者は「ソノ■ウエ」。単純に「何かの上である」、という「場所」を指し示しているわけですね。

「そのうちご挨拶に伺おうとは思っているのですが」「そのうちの何人が本当のことを知っているんだ?」
前者は、「いずれ」「近日」という意味。後者は、何人か人がいて、「ソノ■ウチ」の誰か、という意味です。
こういった語を見分けるのに大切なのは、やはり文脈をつかむ、ということだと思います。
前後関係、修飾関係をつかみ取って、「こそあど言葉」が指し示す方向を見極める、ということですね。

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  練習問題 11
 1.どこのコンビニでのことだったか。何人もの中学生が、店の駐車場のあっちこっちにグループを作ってたむろしていた。

 2.どのグループも人数はせいぜい3、4人で、全部で3グループ。そのうちの1グループには、女の子もいる。どうやら酒の回し飲みをしているようだ。タバコを吸っている子もいる。

 3.もう夜中の12時を過ぎている。こんな時間に中学生が、と考えるのは、認識不足というものである。いまやコンビニの駐車場は、中学生の社交場と化している。どこへも行く場所がなく、それほどお金を持っているわけでもない、そのうえ家にいて親と顔を突き合わせているのも願い下げだとなれば、24時間営業のコンビニ駐車場くらいしか、友人と集まる場所がないのかもしれない。

 4.大人としては、こういう場合、やはり「君たち、こんなところにいないで、早く家へ帰りなさい」くらいは言ってやるべきであろう。しかし、どの大人も「そんなことを言おうものなら、どんな目にあわされるかしれたものじゃない」と思っている。「この際、若い連中にはがつんと言ってやらねば」とはわかっていても、それを行動に移す大人はあまり、いや、ほとんどいない。「どうして、自分がそんなおせっかいをやかなければならないんだ?」というのが案外ホンネかもしれない。

 5.そんなこんなで、誰からも注意してもらえない、迷惑そうな視線は向けられても、心から心配してはもらえない、そんな子供たちがあちこちで、真夜中、なんとなくコンビニに群がっている。

 6.親は、そんな時間帯に、いったいどうしているのだろう? 自分たちも夜中にどこかへ出かけているから、子供もどこで何をしていてもかまわない、それが自主性の尊重だとでも思っているのだろうか?
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<練習問題11>について

練習問題11の気がついたところを書き出してみます。

 1.の「あっちこっち」は「アッチ■コッチ」。「あちこち」になると、続けるんですが、これは拍数とか自立性なんかに関係していて(あとで出てくると思います)、「あっちこっち」とか「あちらこちら」は切るんですね。

 3.の「認識不足」はひと続き。
「認識(にんしき)」という語に「不足(ふそく)」という語がつくと、「不足」の方は、濁って「ニンシキブソク」と発音されますね。これは、連濁といって、本来濁らない言葉が、前の語に続いたときに限って濁って発音されることをいいます。こういう場合は、点訳では無条件で続けます。
「株式会社」なんていうのが、よく例にでてきます。「会社」は、単独では「ガイシャ」と読むことはありませんが、「株式」という語に続くことによって濁る。「関連会社」とか「有限会社」とかいった場合もおなじです。
「放蕩三昧(ほうとうざんまい)」「応援合戦(おうえんがっせん)」「小春日和(こはるびより」「兄弟喧嘩(きょうだいげんか)」といった、もし、濁らなければ切るような語でも、連濁することによって続けることになります。あまり意識して使いませんが、「春霞(はるがすみ)」「花火(はなび)」「長良川(ながらがわ)」などの「霞(がすみ)」「火(び)」「川(がわ)」なんていうのも、連濁なんですね。単独で、「火」を「び」って読むことないでしょう?
「たまり醤油」って書いてあったら、どう読みますか?
私は「しょうゆ」が連濁して「タマリジョーユ」に違いないと思っていたんですが、ある料理の本で、「たまりしょうゆ」って書いてあって、だとしたら「タマリ■ショーユ」かなあ、なんて考えてしまいました。
こういうものが、外国人が、日本語の複雑さにあきれる所以なのかもしれません。

 同じく3.の「社交場」・・・なんて読むでしょうね?
わたしは「シャコージョー」だと思っていたんですが、「シャコーバ」もありますか?
どなたか教えて下さい。

 5.の「迷惑そうな」の「そうな」は助動詞なので、前の語に続けます。

 4.の「どうして、自分がそんなおせっかいをやかなければならないんだ?」
 6.の「親は、そんな時間帯に、いったいどうしているのだろう?」
このふたつの「どうして」の使い分けはいいですね。
前者は「なぜ」という意味で、この場合は続けます。
後者は「どのようにして」「どんなふうに」といった意味で、「昨日の日曜日は、どうして過ごしていたの?」だったら、「どんなふうにしていたの?」の意味ですので、「ドー■シテ」と切ります。
「どうしてここへ来たの?」はどっちでしょう?
「どういう手段で」という意味で、車で来たのか、飛行機で来たのか、ヒッチハイクで来たのか?ということをたずねているのか、「なぜ」「どういう理由で」ここに来たのか、とたずねているのか、これだけではわかりませんね。相手が「宇宙船で来たよ」って答えたら「ドー■シテ」ですけど、「だって自分の家だもん」って答えたら「ドーシテ」なんですけど。やっぱり文脈かな。


「このかん」

『てびき』の備考にあるような、「1語になっている場合は続けて書く」というのが面倒ですね。
例に出ている、接続詞としての「そうして」、何故という意味の「どうして」、やがてという意味の「そのうち」、「そのまま」など、結構よく出てきます。
「我が師」は切って「我が家」を続けるのはなぜか、という疑問にすっきりとは答えられません。
「1語になっている」度合いが違うんでしょう。
それを判断するときの目安に、辞書の見出し語になっているかどうか、というのがあります。
尤も、辞書によっても収録語彙や考え方に差がありますから、いつも頼りになる目安、というわけではありませんが。

まだ点訳を始めたばかりの頃、「コノ■カンノ■グンタイノ■ウゴキヲ」と打ったことがあります。
読者から、「このかんの」は切らないでしょう、とお叱りをいただきました。
「この間の」を「このあいだの」と読むと、「先日の」という意味であれば続けます。
何かと何かの間、という意味なら切ります。
そして、「このかんの」と読めば続けるんです。
でもね、実は私が打ったのは「この漢の軍隊の」という文章だったんです。井上靖の『楼蘭』だったでしょうか。
よく知っている読者で、しかもそう指摘してくださったので、「それは誤解というもんです」と言い訳できましたが、そうでなければ軍隊も点訳者も誤解されたままですね。
その辺が、漢字仮名混じり文を仮名点字にしてしまう無理、とでも言いましょうか。
それがあったおかげで、以来、「この間(かん)」は続ける、というのは忘れません。


「どうしても」

Q. 「どうして」は切る場合と続ける場合があるようですが、「どうしても」はどうなるのでしょう?

まず、「どうして」のこと。
「どうして」について、『てびき』は、「どうやって」という意味のときは切り、「何故」という意味の場合と、「なかなかどうして」という用法の場合は、一語になっているので続ける、と言っていますね。
「どうやって」の意味の「どうして」の場合は、副詞の「どう」+動詞の「する」+助詞の「て」だから、自立語である動詞の前で切れる。
それに対して、「何故」などの「どうして」は、品詞で言えばひとまとまりの副詞だから切れない、という解釈だろうと思います。
ところが辞書を見てみると、「どうして」は、「どうやって」の意味の場合も含めて、副詞だと言っています。
その説をとるなら、「どうやって」の意味であっても切れませんね。
ですが、私たちは文法の専門家ではないので、このことについて判断をくだす力もなく、なにはともあれ、『てびき』を拠り所にして勉強してきましたので、「どうやって」の意味の「どうして」は切ることにしてきました。

さて、問題の「どうしても」ですが、これについては『てびき』は言及していません。
で、これまでどうしていたかというと、点訳者の間で広く使われている『点字表記辞典』の意見に従って、「絶対」という意味の「どうしても」は続け、「どのようにやっても」という意味の場合は切っていました。
それは、「どうして」についての『てびき』の方針の準用と言っていいでしょう。
でも、やはり辞書は「どうしても」全体を副詞と言っていますので、意見は違っていました。
ところがここへきて、『表記辞典』は改訂に伴って、「絶対」の意味の「どうしても」も切る、ということにしたようですね。
その変更の理由は勝手に推測するしかないのですが、私は、多分、切るものと続けるものの境がはっきりしなかったからだと思っています。
「どうしても私にはできない」というとき、どちらにもとれます。
どちらにもとれるケースが非常に多い言葉だと思います。
それでは、みんなを悩ませるだけで、表記を分けている意味がなくなってしまうので、いっそのことみんな切ってしまおう、ということになったのではないかと思っているのですが、邪推でしょうか?
いっそのことみんな続けてしまおう、と思ってくださったら、辞書の分類とも合致してメデタシメデタシだったのです。
でも、点字表記の大方針として、わかりにくくならない限り、なるべく短く切っておこう、というのがあります。
その原則に照らせば、「ドー■シテモ」と打って、特に意味がとりにくくなるのでなければ、切った方がいいわけですね。
「絶対」という意味の「どうしても」と「どうやっても」という意味の「どうしても」を、書き分ける必要は必ずしもないのではないか、という気に私はちょっとなっています。

点字表記は、いろいろな原則によっています。
発音どおりという原則、現代仮名遣いどおりという原則、原本どおりという原則、品詞分類を基準にするという原則・・・。
それらはときどきぶつかり合ったりします。
その際、勝敗を決するのは何か、というと、「読みやすさ」「意味のとりやすさ」という、最も基本的な必要性なのですね。
それによって、局面に応じて種々の原則が取捨選択されるということでしょうか。
なんだか周りを、ぐるぐる回っているばかりで、お尋ねに対して的確なことが言えなくて申し訳ありません。


「にして」「をして」「ずして」など(『てびき』p38)

「して」というのは、「もの」や「こと」と同様、ちょっと厄介です。
字面は同じでも、動詞だったり助詞だったりするからです。
動詞の「する」の連用形「し」に助詞の「て」が付いた「して」は自立語ですから切ります。
「明日にしてもいい?」「だめ、今して!」「そんな怖い顔して・・・」「1時間してできてなかったら承知しないからね」というような「して」は、動詞です。
それに対して、助詞の「して」は付属語ですから続けます。
この助詞の「して」は、主にちょっと古風な言い回しのときに使います。
「寡聞にして存じ上げません」「あの彼をして非を認めるに至らしめたとは」「日光を見ずして結構と言うなかれ」のようなとき、あるいは古風ではないですが「みんなして応援してるよ」というようなときの「して」ですね。
「天高くして馬肥ゆる」というのと、「看板の位置、もう少し高くしてください」というのとでは、「高くして」の意味が違います。
但し、いつもこんなにわかりやすいとも限りませんのでお気をつけください。

「として」は、ほとんどの場合切ります。
顕著な例外は、「おもに」という意味の「主として」だけと考えてくださってもいいかもしれません。
人によって多少続ける方に含める言葉が多くなったりもします。
それは、その人の言葉の捉え方、こだわりなどによっても違ってきます。
点字のルールは、ひとつひとつの言葉について扱いを決めているわけではないので、決まっているルールを、どう具体的な言葉に当てはめるかは、点訳者に任されている部分も多少はあるのです。

さて、練習問題です。

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  練習問題 12
 1.今般の大雨により各地で被害甚大と聞くが、幸いにしてこの地域では、数十年ぶりの規模と言われる河川の増水にもかかわらず、ここの堤がよく耐えて人々と田畑とを守った。

 2.こうして堤に立ち、ゆったりとした流れを見ていると、いかにも穏やかにして豊かな風景に思えるのだが、水はひとたび狂うと、人間の作った柔な構築物などひとひねりにしてしまう力を持っている。

 3.およそ百年ほど前、この地に生を受け、若くして実業界に名を遂げたある人物が、私財をなげうってこの堤を築かせたものだと伝えられている。

 4.現代に較べて、かつてはそうした話が各地にあった。もちろん滅多にないことであるからして、美談として語り継がれている。しかし少数といえどもそういうことがあったというのは、単に公共事業が頼むに足りなかったからなのか。それとも、財をなした人物の男気の問題だろうか。

 5.この治水事業は、大富豪と言われた彼にしてはじめてなし得た事業であったが、幾多の困難を乗り越え、彼をしてそれをなさしめた確固たる意志は一体那辺より生じたものであろうか。

 6.彼がいまだ幼くしてこの村に暮らしていた頃、ある年、台風による暴風雨でこの川が氾濫、村は一瞬にしてほぼ全域が水没したという。その際彼の家では、母親と乳飲み子であった妹とが命を落としている。

 7.もちろん、彼の家ばかりではない。村の半数の家が犠牲者を出し、家屋や田畑に大きな被害を出さなかった家は一軒としてなかったという。不幸にして、それは、この川のほとりの村に何百年にわたって繰り返されてきた歴史であった。

 8.この繰り返しを何とか終わりにしたい、というのが彼の悲願であった。しかし、いかに資金があるとはいえ、周囲の協力を得ずしてそんな大工事ができるはずもない。当初は、労多くして先の見えない計画に役所も村人も決して協力的とは言えなかったという。

 9.粘り強い説得と、当時、期せずしてこの地を襲った中程度の大雨の脅威によって、ようやくにして着工にこぎつけたのだが、技術的な問題もあり、完成までには三十年近い時日を要している。彼は、工事半ばにしてこの世を去ることになるが、その後この地に大洪水の被害の記録はない。

 10.だが脅威は自然界からのみやってくるわけではない。長期間の平穏が人々をして災害の恐ろしさに鈍感ならしむるということもある。先人の努力に守られている事実さえもが、えてして忘れられてゆく。そうして慢心が次なる悲劇を生むかもしれないのだ。
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<練習問題12>について

練習問題は、本来、正解がはっきりしている文例を選んで練習していただくのがいいとは思うのですが、今回、どちらもありうるだろう、と思われる箇所を敢えて入れてしまいました。
先にも書きましたように、点訳の約束ごとは、基本的な部分では、こうでなければならない、とキチンと決まっているのですが、基本を越える部分とか、あるいは細かい点では、解釈・考え方によって多少表記が変わってくる部分もあるのです。
たとえば、同一の英書を別の人が翻訳すると、相当違った訳文になりますよね。
それと較べればずっと差は小さいと思いますが、点訳でも、点訳者による違いはあるのが普通です。
もちろんそれは、いい加減でいい、ということでは決してなく、むしろ、自分はこう解釈するからこう表記する、という点訳者の主張がなければならない、ということです。
・・・なんて言うと、大それたことのように聞こえるかもしれませんが、そうではなくて、こう書いた方が意味がとりやすいかな、とか、切ったらわかりにくくなりそう、とか、『てびき』に出ていたあの文例の仲間だと思う、とか、そういうことを自分なりにちょっと考えて、理由付けをしながら切ったり続けたりしてくださるといいと思います。

練習問題12で、いくつか気づいたことを挙げますと、
 3.「築かせた」――「キズカセタ」ですね。
「キヅカセタ」だと、「気付かせた」になってしまいます。
 4.「そうした」――「ソー■シタ」と打ちます。
この「シタ」が動詞かどうか、なかなかわかりにくいし説明しにくいのですが、「そういう」「そういった」と同じような意味ですよね。
「怖い顔した閻魔様」というときの「した」と仲間でしょうか。
「ああした場所はもうこりごりだ」「こうした問題にどう対処するか」「どうしたわけか」など、この手の言葉は「アア■シタ」「コー■シタ」「ドー■シタ」と打ちます。
 4.「語り継がれて」――これはまだちゃんと説明していないことなのですが、複合動詞なのでひと続きに打ちます。
 7.「一軒としてなかった」――これは、品詞としては助詞の「して」と考えていいと思うのですが、『てびき』は「として」はほぼ全部を切る、と言っているので、一応これも切ることにします。
ただ、「何ひとつとして」「誰一人として」「一日として思い出さぬ日はない」などの「して」は、以前は助詞だということで前に続けていたので、続けたら間違い、というものではないと思います。
「として」は、「にして」「をして」「ずして」以上に助詞か動詞かの区別がつきにくいので、とりあえずほぼみんな切ることにしましょう、ということなのだと思います。
 9.「その後」――「そのあと」「そのご」「そののち」と幾通りにも読める言葉ですね。
どれでなければならない、ということもないかもしれません。
ちょっとした文章の調子・雰囲気で、どちらかと言えばこれの方が落ち着くかなあ、というくらいの差はあるでしょうか。
実は私も、ここは「そののち」がいちばんしっくりするような気にはなっていたのですが、その辺は人によって違うでしょう。
ただ、「そのご」と読んだ場合はひと続き、「そのあと」「そののち」と読むと「ソノ■アト」「ソノ■ノチ」と切ります。
 10.「そうして」――「そして」という接続詞の代わりとしての「そうして」はひと続き、「そのようにして」という意味なら「ソー■シテ」と切るんでしたよね。
この場合は、どういう意味でしょう?
私は、どちらにもとれる、と思っています。
どちらがアタリとかハズレとかいうことはありません。
接続詞だと捉えた方は続けて打ってくださればいいし、「そのようにして」という意味だと思う方は切ってくださればいいのです。

念のために、「して」「した」を拾い出してみます。
 1.「幸いにして」――助詞なので続けます。
 2.「こうして」――副詞+動詞と考えて切ります。「そうして」には接続詞の「そして」の代わりのとき、という例外がありましたが、「こうして」「ああして」は全部切ることになります。
   「ゆったりとした」――「した」に独立の意味があるので、切ります。
   「穏やかにして」――助詞なので続けます。
   「ひとひねりにしてしまう」――独立の意味があるので切ります。
 3.「若くして」――助詞なので続けます。
 4.「そうした」――前述
   「あるからして」――あまり意味はなく、語調を整えるような役割をしている助詞です。
   「美談として」――「として」なので切ります。
 5.「彼にして」――助詞なので続けます。
   「彼をして」――同
 6.「幼くして」――同
   「暮らして」――動詞「暮らす」の連用形+助詞の「て」なので切れません。
   「一瞬にして」――助詞なので続けます。
   「水没した」――「した」は動詞なので切ります。
   「落として」――動詞「落とす」+助詞「て」なので続けます。
 7.「一軒として」――前述
   「不幸にして」――「幸いにして」と同じです。
 8.「得ずして」――助詞なので続けます。
   「多くして」――同
   「決して」――副詞の一部なので、切れません。
 9.「期せずして」――助詞なので続けます。
   「ようやくにして」――同
   「要して」――動詞の一部+助詞の「て」
   「半ばにして」――助詞なので続けます。
 10.「人々をして」――同
    「えてして」――副詞の一部なので切れません。
    「そうして」――前述






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