芸術家ものというのはどうも苦手だ。たいていは退屈で見ていられない。しかし、映画がわからない人間に限ってこういうものが好きだったりする。ギャングが主人公だと見向きもしないのに、画家や作家が主人公というだけで、なにか高級な映画だと思ってしまうのかも知れない。
クリムトの映画というだけで警戒していいところである。だが、それがラウール・ルイスの作品となると、見に行かないわけにはいかないだろう。一説によると、その作品数は数百本を超え、フィルモグラフィーを作ることも難しいといわれるこのチリ出身の亡命映画作家の作品は、日本ではこれまでたった一本しか正式には公開されていない。その一本がプルーストの『失われた時を求めて』の最終巻「見出された時」を映画化した「文芸映画」であるというのも、なんだか情けない話である。この監督の作品は、「文芸もの」か「芸術家もの」でしか日本で見ることができないのだろうか。ラウール・ルイス映画祭とロジャー・コーマン映画祭を同時開催するというのがわたしの夢なのだが、どうやらその機はまだ熟していないようだ(わたしにいわせれば、ルイスはヨーロッパのロジャー・コーマンなのである)。
主題がクリムトで、主演がジョン・マルコヴィッチであれば、これはさすがに公開されるのではないかとホームページに書いたのは、もう2年以上前のことだ。実際、こうしてめでたく公開されることになったのだが、関西での公開は思ったよりもしょぼいものだった。大阪では、一応2館で公開されたとはいえ、ひとつの映画館では短期間のモーニングショーで上映されただけだ。マルコヴィッチといえば、最近の活躍もめざましく、スター俳優といっていいと思っていたのだが、よく考えてみれば、トム・クルーズやブラッド・ピットの前では無にも等しい存在だったことを思い知る。「笑っていいとも」の観客100人の内、5人が知っていたらいいところだろう。マルコヴィッチで見に来るという観客などたかが知れている。地味なかたちの公開になるのもしかたがないのかも知れない。
まあ、これなら無理もないな、というのが実際に見終わっての感想だ。『見出された時』を見た人なら想像がつくように、『クリムト』は、いわゆる「伝記映画」とはちょっと、いや相当趣の異なる作品になっている。プルーストを読んでいないものにはルイスの『見出された時』はまったくでたらめな映画に見えたかもしれないが、原作を知っているものにはむしろ、ルイス作品としては意外なほど、忠実な映画化に思えた。わたしはクリムトについてはごく一般的な知識しか持ち合わせていない。そういうものが見ると、『クリムト』も相当変な映画に思える。たしかに、ここには世紀末ウィーンに実在した画家の姿が描かれているわけだが、ルイスのプリズムを通して見られたクリムトを見ていると、これは本物のクリムトではなく、ひょっとしたらクリムトと同じ時代を生き、同じ絵を描いた偽のクリムトの話ではないかという気さえしてくるくらいだ。
実際、本物と偽物というテーマはこの映画の中心テーマでもある。クリムトがパリ万博のときに出会う美女レアにはもうひとり偽物のレアがいるのだが、どちらが本物でどちらが偽物なのかは、最初から判然としない。実のところ、彼女たちはふたりとも偽物かもしれない、それどころか生きているのか死んでいるのかさえわからないのだ。マジック・ミラーの裏と表ににそっくりな本物と偽物を配置するというアイデアも秀逸だが、そもそもクリムトが彼女と最初に出会うのが、スクリーンの映像のなかだというのが興味深い。生と死、本物と偽物、現実と虚構、実在と不在のあいまいな境界線であるようなこの薄っぺらい遮蔽幕。しかも、その映像を撮影したのがメリエスだという、いかにもありそうで一瞬信じてしまいそうになるフィクションまで用意しているのだからまいる(同じ俳優がまったく異なるアイデンティティで別の映画に回帰してくることの驚きを、ルイスがどこかで語っていたことを思い出す)。
クリムトといえば、エロスとタナトスの画家ということになるのだろうが、わたしのなかではラウール・ルイスと「エロス」という言葉はどこか結びつかない。この映画には、たしかに裸の女たちがあちこちに登場し、R-15 指定にさえなっている。しかし、バタイユ風にいえば生よりも死と強く結びついているはずのエロスは、ここではむしろ無数の命を生み出すことにのみ寄与しているかのようだ。嘘か本当かわからないが、クリムトにはさまざまな愛人に生ませた子供が30人もいたという。しかし、この映画のクリムトには父性を感じさせるものがみじんもない。ただただ彼自身のコピーだけが増殖していくように思えるのだ(「鏡と性交は、人間の数をふやすゆえに忌まわしい」という、ボルヘスの有名な言葉をここで思い出しておくのもいいだろう。事実、この映画には無数の鏡が登場する)。
エロスはそれほど感じられないにしても、死はこの映画に濃厚に立ちこめている。クリムトの絵をバックにキャメラがぐるぐると回転しはじめるタイトルバックから、どこかで水の音がしているのに気づく。この水の動くような音は、映画全編で繰り返される通奏低音となっていくであろう。あれは梅毒に冒された体に水銀治療を施しているところだと思うのだが、首のところまで水に浸かったクリムトが、死を前にして意識ももうろうとしているところにエゴン・シーレが駆けつける場面から映画ははじまる。映画は一種の回想形式というか、死の床に横たわるクリムトの見た妄想のようなものとして構成されているとひとまずはいっていい。ベッドに横たわるクリムトの姿は、冒頭と最後以外はほとんど示されることはないのだが、たえず聞こえてくる水の音が、これが単なる回想ではなく、現在と同時に存在する過去のイメージであることを思い出させる。映画の最後に、ついに息を引き取ったクリムトは、いつの間にか鏡の向こう側からこちらの世界へと視線を投げ返している。ジャン・コクトー的な死の装置である鏡を通り抜けて、その向こう側へと渡ってしまったとでもいうかのようだ。ここでもまた鏡である。
クリムトらがカフェのテーブルで絵画について議論をしていると、なぜかキャメラはその周りをぐるぐると回り出す。マックス・オフュルスの映画を見ていると、キャメラが動いているのかセットが動いているのかわからなくなる瞬間がときおりあるが、この映画のラウール・ルイスは、シーンによっては、キャメラが動くと見せかけて実際にはセットのほうを動かしている、あるいはその両方を同時に動かしているように見える。『見出された時』でも同じことをやっていたと思うのだが、このキャメラとセットの相互運動もまた、境界の曖昧な世界を作り出すことに貢献している。「文芸映画」や「芸術家もの」を期待して見に来た客のなかには、なんだこれはと思ったものもいるだろう。映画を見ながら、オフュルスのことを自然と思い浮かべたのだが、あとでルイスがこの映画に「シュニッツラー風に」という副題を付けていることを知り、わたしのなかで符合するものがあった(オフュルスは『輪舞』などのシュニッツラー作品をなんどか映画化しているのだ)。
ネットに垂れ流されている雑文をざっとチェックしてみたが、やはり評判はそれほどよくはないようだ。映画とは関係なしに、画家クリムトについての蘊蓄をここぞとばかりに披露し、映画については最後にちょこっとふれて終わるだけか、梅毒で頭のおかしくなった画家が見る現実と幻想が入りまじった世界を難解に描いた、独りよがりでつまらない作品などと書いているブログが目立った。自分が期待していたものとはちがうものを見せられると、すぐに「独りよがり」と決めつける態度のほうが独りよがりではないかと思うのだが、ルイスの初期の作品がほとんど公開されていないのだから、あんまり観客に理解を期待してもしかたがないのだろう。ルイスのほかの作品を見れば、この映画がクリムトの「内面世界」をことさら描き出したものではなく、世界とは基本的にそういうものなのだとルイスが考えていることがわかるはずだ。
この映画は監督ラウール・ルイスのファンタスムにまかせて自由奔放に撮られているようでいて(実際、そのように撮られているのだが)、その一方で、周到な時代考証がなされている。しかし、この映画の支離滅裂なイメージの展開について行けない観客には、可能な限り忠実に再現された世紀末のウィーンの魅惑的な雰囲気もまた、たんにもったいないと思えるだけかもしれない。それこそもったいない話である
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