繰り返されるたびに次第に密度を増していく平凡な日常。ここに描かれるのはほんの数人の人物に過ぎないが、ほんの数人のほんの数十分間でさえもが、小さな幸福や苦悩の無数の断片で充ち満ちていることを、この映画はゆっくりと、だが確実に示してみせる。
ふたりの少年が銃を乱射しはじめ、パニック状態になったハイスクールの校内。教室でひとり逃げ遅れて放心状態となっていた少女のもとに、アメフトをやっている体格のいい黒人の少年がやって来て、近くのガラス窓から彼女を外に逃がしてやる。黒人の少年は、自分も逃げようと思えば逃げられるのに、勇敢なのかそれとも彼自身放心状態のなかにいるのか、そのままふらふら歩きだし、廊下で銃を撃っている少年の方に向かってゆっくりと近づいてゆく。その瞬間銃声がして、黒人の少年は倒れ、そのまま動かなくなる。
キャメラはこの光景を、遠すぎることも近すぎることもない距離から、ただ淡々と捉えつづけるだけだ。このシークエンスの人物の動き、キャメラの移動、なにも説明しようとしない非常に即物的な描き方を見ていて、ふと黒沢清の映画のことを思い浮かべた。ガス・ヴァン・サントの映画が黒沢清の映画に似てしまう──。そんなことがあり得るとは、想像さえしたことがなかった。70年代にカウンター・カルチャーの洗礼を受け、メカスやウォーホールに刺激され、そして80年代の後半にインディ映画として非常にローカルな場所から映画を撮りはじめた、初期の『ドラッグストア・カウボーイ』や『マイ・プライベート・アイダホ』のころでさえ、ヴァン・サントの映画がここまで実験的であったことはない。『グッド・ウィル・ハンティング』や『小説家を見つけたら』でいっときハリウッド映画と戯れたあとで、どうやらヴァン・サントは不意にそれに見切りをつけ、まったく新しい地平にむかって動きはじめたようだ。
同じようにコロンバイン高校の銃乱射事件を取りあげたマイケル・ムーアのドキュメンタリー『ボウリング・フォー・コロンバイン』が、事件の原因をアメリカの銃社会に求めるという単純明快さで、ある種の爽快感を観客にもたらしたとするなら、『エレファント』は一部の観客にフラストレーションを感じさせるかもしれない。
映画は最初、惨劇の舞台となるオレゴン州ポートランドの郊外にあるハイスクールの平凡な一日を、複数の人物の視点を重ね合わせるようにして描いてゆく。ひとりの人物の背中を追いつづけていたキャメラが、今度はその途中ですれ違った別の人物の視点から、同じ時間をたどり直す。ときにはそうして描かれた人物同士がどこかで出会い、言葉を交わし合う。そのときふたりの背後で、別のもうひとりの人物がキャメラを横切ってゆくのに、ふたりは気づかない。キャメラは次に、その名もなき人物をとおして、同じ瞬間を反復することになるだろう……。
繰り返されるたびに次第に密度を増していくこのほんの数十分間の平凡な出来事に、観客は次に起きる惨劇を知っているだけに、息詰まるような緊迫感を覚えてゆく。映画が焦点を合わせるのはほんの数人の人物に過ぎないが、ほんの数人のほんの数十分間でさえもが、小さな幸福や苦悩の無数の断片で充ち満ちていることがわかれば、それで十分である。
ガス・ヴァン・サントは彼らの育ってきた環境や、彼らの内面についてはいっさい説明しようとしない。事件を起こすふたりの少年についても、彼らがなぜそのようなことをしたかについて、なんらかの原因を提示しようとはしない。なるほど、インターネットを通して容易に銃が手に入る銃社会の危険、学校内のいじめ、暴力的なテレビゲーム、ナチスへの傾倒など、様々な要因と思われるものを、映画のそこここにちりばめることをヴァン・サントは忘れてはいない。映画の冒頭で、酔っぱらった父親の運転する車がふらふらと走っていく姿は、あるいは大人たちの頼りのなさを象徴しているのかもしれないし、その父親に代わって高校生の息子が車を運転するのは、大人たちが背負うべき責任を子どもたちが背負わされていることを意味しているのかもしれない。とはいえ、それらはいずれも巨大な問題(エレファント)に最終的な解答を与えるものではないし、ひょっとしたらかえって問題を見えにくくさえしているものかもしれない。むろん、ヴァン・サントはその答えを求めてこの映画を撮ったはずだが、安易な答えだけは出すまいという意思が映画のフォルムそのものに感じられる。原因という過去に遡るのではなく、永遠に続くかと思われる現在のなかに観客を置くこと。未来の答えはそこに探るしかない。その意味で、人物の背中を追ってゆくこの映画の長いトラヴェリング撮影は作家の倫理的な選択なのだ。
ガス・ヴァン・サントは『エレファント』を撮るにあたって、イギリス人監督アラン・クラークによる89年の同名作品に影響を受けたと、公言している。北アイルランドの過激派による無差別な殺戮を描くアラン・クラーク版の『エレファント』では、歩いている男の背中を捉えたショットに始まり、その男が次々と人を殺していくのをひたすらキャメラが追っていくだけというスタイルで全編が描かれているという。見た人によると、ガス・ヴァン・サントの作品との類似は明らからしい。だとするなら、ヴァン・サントの『エレファント』は、アラン・クラークの『エレファント』のある種リメークとして撮られたといってもいいのかもしれない。
周知のように、ヴァン・サントはすでに一度リメークに挑戦している。実をいうと、彼によるヒッチコックの『サイコ』のリメークは、ファンのあいだでもあまり評判がよくない。けれども、わたしは最近のヴァン・サントの作品のなかではこれがいちばん好きなのだ。ヒッチコックをリメークする。これはなかなかの難題だ。ヒッチコックの映画から彼のスタイルを取りのぞけば陳腐な物語が残るだけだろう。もしも、リメークするならば、タイトルだけ借りてまったく別の映画を作るか、それとも一コマ一コマを忠実にコピーするか、そのどちらかしかない。ガス・ヴァン・サントが選んだのは後者の方法だった。優等生的なやり方というなら、確かにそうかもしれない。しかし、わたしは、そういうやり方を通してある種の限界点を見極めようとするかのような意思をそこに感じた。だから、出来不出来は別にして、最近のヴァン・サントの作品のなかでは、この映画にいちばん惹かれるのだ。
『サイコ』に見えたと思ったガス・ヴァン・サントの「可能性の中心」は、残念ながら、その後の『グッド・ウィル・ハンティング』や『小説家を見つけたら』では、追求されることがなかった。アラン・クラーク作品を見ていないので推測でしかないが、もしもヴァン・サントの『エレファント』がアラン・クラークの『エレファント』の一種のリメークであるなら、彼が自身の「可能性の中心」へと向かいはじめるきっかけとなったのがまたしてもリメークであったというのは興味深い。
(フランスでは、ガス・ヴァン・サントとアラン・クラークの2本の『エレファント』がパッケージでDVD化されている。そんな粋なことを考える人が、日本にはたしているかどうか。)
ヴァン・サントの路線変更は、どうやら『エレファント』の前作『Gerry』から始まったらしいのだが、前にも書いたように、そこにはハンガリーの映画作家ベーラ・タルの映画との出会いが少なからぬ影響を与えたと思われる。『エレファント』で、ハイスクールでの何気ない一日が、ふたりの高校生の銃乱射によって悪夢と化すまでを、視点を変えて何度も繰り返し描く手法が、『サタンタンゴ』の影響を受けたものであるのは、『サタンタンゴ』を見たものには一目瞭然だろう。ただ、わたしは思うのだが、ベーラ・タルのような人は、ガス・ヴァン・サントのような作家のためのいわば触媒としてのみ存在しているのではないだろうか。『サタンタンゴ』は確かにおもしろい作品だし、時間軸をずらす手法も、あちらのほうがずっと効果的に用いられているとさえいえる。けれども、わたしにはベーラ・タルの作品が通俗性を欠いているように思えてしかたがない。なにか「芸術作品」をずっと見せつけられているような、そんな気分にさせられるところが、いまひとつあの映画を好きになれない理由なのだ。
わたしは「通俗性」という言葉を、ときにはけなし言葉として使い、ときにはほめ言葉として使う。その違いは非常に微妙でもあり、また一目瞭然でもあるのだが、人に説明するとなると非常に難しい。これについてはいずれどこかで書いてみたいと思っているのだが、いまはただ、『エレファント』にはいい意味での通俗性があり、それがガス・ヴァン・サントのベーラ・タルに対する優位、ひいては「アメリカ映画」の優位なのであると、曖昧に断言しておく。
いつまでたっても全体(エレファント?)が見えてこない迷路のような学校の廊下を、生徒たちが思い思いにどこかにむかって歩く背中を、キャメラが追いつづける流麗な移動撮影には、ひょっとするとキューブリックのホラー映画『シャイニング』が影響を与えているのかもしれない。そして彼らが廊下の片隅に立ち止まっているところを捉えたショットには、フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリー『高校』のイメージが重なる。しかし、だれの影響を受けているかといったことは、さして重要なことではない。冒頭で挙げた場面が、黒沢清の映画を思わせるといっても、ヴァン・サントが黒沢清の映画に影響を受けたとは思えない。要は、この映画には「映画」が息づいているということだ。
結局、映画というのは、わたしが考える「映画」というのは、この決して通俗的でない通俗性のことではないだろうか。
ところで、最近、ある学校で子どもが子どもを殺すという陰惨な事件があり、加害者の女児が『バトル・ロワイヤル』の熱狂的なファンであることがわかって、マスコミでしきりに取りあげられた。こういう事件が起こるたびに、暴力的な映画を検閲しようとする動きがある。わたしとしては、年齢制限を設けて、テレビ放映の際などに配慮さえするなら、一部の例外(例えば本物の殺人を写した映画など)をのぞいて、どんな映画を作ろうが見ようが自由だと思う。それがわたしの基本的な考えであるが、一方で、そういう事件と映画とはまったく関係がないと言い張るつもりもない。『バトル・ロワイヤル』を見た人間がみんな殺人者になるわけではないのはいうまでもないが、あの少女が『バトル・ロワイヤル』に影響を受けたこともまた間違いない。それまでも否定するのはよほど現実逃避している映画バカだろう。ただ、そこから映画の暴力をやみくもに抑圧する方向にしか頭が動かない人もまた、頭のネジが相当ゆるんでいるとしかいいようがない。
簡単にいうなら、問題は暴力ではなく、暴力の描き方のほうにある。同じような過激な暴力描写を含んでいても、こういう文脈では、例えば北野武や三池崇史の映画はあまり話題にならない。暴力の痛みをリアルに描く北野作品と、暴力描写をほとんどナンセンスに近いものにしてしまう三池作品では描き方に違いはあるが、どちらの作品でも作家が適度な距離を置いて対象を見つめていることが感じられる。いずれにせよ、彼らの映画には安易なメッセージはいっさい含まれていない。『バトル・ロワイヤル』の最大の問題は、そこにメッセージがないことよりも、暴力が安易なメッセージと結びついている点なのだ。
『エレファント』がそういうメッセージ性から免れていることはいうまでもない。もしもこの映画が暴力的であるとするなら、それは「内容の暴力」ではなく、「形式の暴力」である。内容だけが扇情的で、形式のほうにはなんの刺激もない最近のアメリカ映画のなかで、この映画が異彩を放っているのは、この映画の「形式の暴力」が観客の脳髄を刺激するからだ。『サイコ』のリメークが、凡百のリメーク作品とは異なる過激な作品となり得ていたのも、あの映画で問題になっていたのが結局はフォルムの問題だったからだといまはいえる。
とはいえ、『サイコ』は、ある意味、空虚な文体練習にすぎなかった。『エレファント』は、フォルムの探求を極端に押し進めて、それを一編の詩のようなものにまで高め、しかもそこからエモーションを引き出すことに成功している。微速度撮影された曇り空、ふとその空を見上げる少女、街路樹から舞い落ちて地面を埋め尽くした枯れ葉、カフェテリアの雑踏、人気のない体育館、決して引き伸ばされることのない写真のネガ、あまりにも甘美なベートーヴェンの「月光」の調べ、そしてあの鮮やかな黄色いTシャツ。
すべてが反響しあって一つの交響曲を作り上げながら、同時に一つひとつの音が粒だって聞こえてくる。ここでは、フォルムそのものがエモーションを生み出している。
『エレファント デラックス版』 |
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