im Wein ist Wahrheit - 6




 大した傷ではないといっても怪我をしたことに変わりはないからと、オリヴィエはオスカーを部屋に残し、この館の執事を務めるハインリッヒを捜し出して、救急箱とコーヒーの用意を頼んで戻った。
 部屋の中では、オリヴィエが出ていった時のままの姿で、オスカーがソファに座っていた。
「オスカー」
 らしくもなく、躊躇いがちに声を掛ける。
 その声に振り返ったオスカーは、力なく自嘲の笑みを浮かべた。
「……悪かったな、情けないところを見せちまって」
「たまには、いいわよ。それより、傷の方はどう?」
 聞きながら歩み寄る。
「アルコールが入ってるからな、大したことはないが、なかなか出血が止まらん」
 そう言ってハンカチを巻いた右手を上げると、そのハンカチは血でかなり変色していた。
 ほどなくしてノックがあり、入室を促すと、ハインリッヒがオリヴィエに言われた通り、救急箱とコーヒーを持って入ってきた。
「大丈夫でございますか?」
 自分がやるからと、そう言って手当てをするオリヴィエに、ハインリッヒはオスカーの傷ついた右手を心配そうに覗き込みながら尋ねた。
「傷自体は小さいから、そんなに心配することはないと思うわ。グラスの破片は取りきったはずだしね。ただ、お酒呑んでるからね、なかなか血が止まらないだけ。大丈夫よ」
「さようでございますか」
 ハインリッヒはオリヴィエの答えにホッとしたように頷き、テーブルの上にコーヒーを置くと、「よろしくお願いいたします」とオリヴィエに頭を下げて、退室していった。
 丁寧に包帯を巻き、さあ終わり、と軽く手の甲を叩いて、オリヴィエは先刻まで自分が座っていた席に戻った。そしてコーヒーを手に取ったのを見て、オスカーは告げた。
「手間、かけさせたな、オリヴィエ。それ飲んだら、帰れよ」
「え?」
 オスカーの言葉に、オリヴィエは眉を寄せた。
「何よ、それ。帰るなって言ったり帰れって言ったり」
「悪かったよ。けど、もう付き合わなくていいから、帰れ」
 右手の包帯を見下ろしながら力のない声で呟くように告げるオスカーに、オリヴィエは盛大に溜息を吐いて見せた。
「ったく素直じゃないんだから。最後まで聞いてやるって言ったでしょ。全部ぶちまけちまいなさいよ。他にこんな話聞いてやれる奴なんていないんだから、この機会に、溜め込んでないで吐き出してしまいなさいよ。私のことは気にしなくていいからさ」
 そうだ、と言いながらオリヴィエは思った。
 今、オスカーが口にしているのは聖地批判の最たるものだ。そしてそんな話をできる相手など、他には誰もいない。
 オスカーの最も身近な人物といえば、首座を務める光の守護聖たるジュリアスだが、とてもそんな話のできる相手ではない。それ以前に、オスカーが話すとも思えないが。今まで、そんなことを思っているなど、微塵も感じさせなかったのだ。おそらく、自分が好奇心に駆られて聞きだそうなどとしなければ、最後の最後まで誰にも気取られることなく、自分の胸の内に秘めたままだっただろう。
 オリヴィエは後悔していた。最後まで、決して誰にも言うつもりなどなかっただろう話をさせてしまったことを。
 だがその一方で、良かったのかもしれないと思ってもいた。もし誰にも話すことなく、ひたすらに己の中に溜め込んでいったら、いつしかそれは膨れ上がり、オスカーを内から壊していくことになりかねないと、そうなるとは限らないが、それでもその恐れがあるのではないかと思えてならないから。
「オリヴィエ……」
「聞いたげるから、話しなさいよ。それに元を正せば、嫌がるあんたから聞きたがったのは私なんだから、責任を取る意味でもね」
 大したことではないとでもいうように、オスカーが話しやすいようにと軽い調子で促す。
 考え込むように、オスカーは黙ったまま顔を俯けた。
 そんなオスカーを、オリヴィエは何も言わずに見つめていた。
 今まで、こんなに力ない姿のオスカーを見たことはなかった。目にすることがあるなどと思ったこともなかった。いつも呆れるくらいに自信過剰で、時には傲慢とすら受け取られかねない男だった。そんな男の中に、実はこんな姿もあったのだと、はじめて知った。
 そして誰にも見せるつもりなどなかっただろうそれを晒させたのは自分だから、そうさせた責任を取ろうと決めた。明日から、オスカーがまたいつもの彼に戻れるように。そのために、一度は話を切り上げて帰ろうと思ったのを思い直した。あとはオスカーが話す気になるのを待っていればいい。
 暫くして、オスカーは俯いたまま、小さな声であったが、ゆっくりと話しはじめた。
「……先代が聖地を去って、俺が正式に守護聖の座を継いで、その慌しさからようやく落ち着いた頃だ。俺は、自分の国がどうなっているのか気になって調べたんだ」
 口を湿らすように、既にすっかり冷めてしまったコーヒーを口にして、それからまた続ける。
「画面に映し出された画像に、俺は愕然とした。何かの間違いだと思った。何度も星図を確認して、何度も座標軸を打ち込みなおして……。だが何度やっても、画面に映るものは変わらなかった。今でも覚えてる。最後に見たのは、エメラルドのように輝いている美しい惑星(ほし)だった。それがどうだ、目の前に映し出されている惑星は、そんな面影なんかこれっぽちもない、赤茶けた惑星だった。監視用の衛星がまだ生きているのが分かって、それを何とか操作して地上を映し出した。それは酷いものだった。建物という建物は原型もなく破壊され、草木もなぎ倒され、かつての美しい草原は焼け焦げて一面真っ黒だった。生きて動いているものなんて何もない、全てが死に絶えた、まさに死の惑星と化していた」
 そこまで話して、オスカーは顔を上げてオリヴィエを見た。
「それからだ、俺が疑問を持ちはじめたのは。聖地は、女王は、俺たち守護聖は、この宇宙を守り育み、恙無く統治し、運行するために存在するのだと、そう教わった。だが目の前の現実はそれを裏切っていた。本当に教わった通りならこんなふうになるはずがない、あってはならないと。確かに内政問題だ。だが、宇宙を、そこに住む民を正しく導くのが役目だというなら、そうなる以前になんらかの手を打つべきじゃないのか? そのために聖地は存在するんじゃないのか? それを一切していない聖地なら、なんのために存在するんだ? 何のための女王だ、何のための守護聖だ、何のためのサクリアだ!?」
 オスカーは問い掛けてはいたが、それは質問としての問いではないと、自分に答えを欲しているものではないと分かっていたから、オリヴィエは何も答えず、口を挟まずに、ただ黙って聞き役に徹していた。
「だから俺は調べて、そして思った。聖地なんて、不要だってな」
 そう告げるオスカーの瞳は、常よりもさらに冷たく氷のように冴え冴えとしていた。





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