エルフリーデが予測したとおり、翌日には、飛空都市中にオスカーと、彼の館にいるエルフリーデの話が噂として広まっていた。たぶんに、ランディがマルセルやゼフェルあたりに話をし、そこから広まったのだろう。オスカー自身は、エルフリーデのことが館外の者に知られれば、噂話になるだろうことは考慮済みだった。そして噂が広まることに関しては別段気にはしていなかったが、あまりにも口が軽すぎるな、と後輩でもある、噂が広まるきっかけになったであろう年少の守護聖たちについて、いささかならずとも眉をしかめる。とはいえ、それで相手を叱ろうなどとまでは考えていないが。
オスカーが館から聖殿へ向かう途中、大勢の人間が彼を遠巻きにし、ひそひそと会話を交わしている。女ったらし、聖地一のプレイボーイの名をほしいままにしているオスカーに特定の女ができた、それが本当に真実なのかどうか信じがたい、あるいは、特にオスカーに恋焦がれている女性たちにしてみれば、信じたくないといったところだろうか。だから、直接聞いて確かめるのが、ある意味怖くてできない、といったところかとオスカーはあたりをつける。
そんなオスカーに、後ろから声がかかった。
「はーい、オスカー」
振り向くと、そこにいたのは自分に向かって歩いてくるオリヴィエだった。フッと笑みを浮かべながら、オスカーはオリヴィエが自分の元まで来るのを立ち止まって待ってやった。
「おはよう」
「おはよ、オスカー。ところで、昨日から噂になって広まりだしてる話、ホントなの?」
早速その話か、まあ、挨拶をしてからだけましか、と思いながら、オスカーは頷きながらオリヴィエに答えた。
「今夜、時間はあるか?」
「今夜? んー、特に予定はなかったと思うけど」
「ならちょうどいい、今夜は俺の館で一緒に夕食を摂ろう。その時に紹介する。以前に話をしただろう、あの女だ」
「マジ?」
オリヴィエは目を丸くして尋ね返した。
「もちろん、こんなことで嘘をつく必要はないだろう?」
「諦めたんじゃなかったの? そう言ってなかった?」
「ああ、確かに一度は諦めたんだがな。こっちに来る前にあいつの所へ行ったら、ちょうどその日が最後で娼館を出ると聞かされて、それで思い切って話をして、俺の館へ招いた」
会話を交わしながら歩いていた二人は、いつしか聖殿にたどり着いており、夜の約束をして、それぞれの執務室に入っていった。
その日の午後、オスカーは必要な書類を持ってジュリアスの執務室を訪れた。そして必要な話を終えて、退出の挨拶をしようとしたオスカーに、ジュリアスが問い掛けをしてきた。
「オスカー、そなた、……結婚、したそうだな?」
「……俺が、結婚、ですか?」
オスカーからの問い返しに、ジュリアスは言いづらそうに、そして彼らしくもなく、オスカーから視線をずらして問いを重ねる。
「昨日から噂になっている。午前中にランディにも確かめた。そなたの館に、見知らぬ女性がいて、執事がその女性を“奥様”と呼んでいたと……。だから、結婚、したのであろう?」
ジュリアスの言葉に、オスカーは一瞬驚いたように目を見開き、そして、クスッと小さく笑った。
「オスカーッ!?」
「失礼を。確かに、館の者がそう呼ぶ女性を置いていますし、そう呼ぶのを止めてはいませんが、結婚はしていません。籍を入れていませんし、これからもそのつもりはありませんので。ですが、暫くの間、共に過ごしたいと思った女性であるのは確かです」
「なぜ籍を入れぬのだ? 守護聖だから結婚は許されぬとでも考えているのか?」
ジュリアスはオスカーの答えを訝しみ、眉を寄せながら問いを重ねる。
「いえ、そうではありません。俺に人の夫や、子の父親となる資格がないからです」
「なぜそんな風に自分を卑下するかのように考えるのだ。そなたは炎の守護聖として立派に執務をこなしているではないか。……まあ、確かに私事では眉を顰めるところが多々あるのは否めない事実だが……」
「それは俺の個人的な事情ですので」
その一言に、ジュリアスは何も言えなくなる。「プライベートには口を出してほしくない」と女王試験が開始される前に言われたばかりなのだ。それを考えれば、今回の件を問うたのもまずかっただろうかと、今になって気まずくなるジュリアスだった。しかし、飛空都市中に流れている噂について確認したいとの意味もあっての問いかけであり、それ自体についてはオスカーはきっちりと答えをよこしていることから、彼にとってはこれは許容範囲、想定範囲内のことだったのだろうとも思う。
「彼女を迎えてからも、特に隠しておきたいから黙っていたわけではありませんが、かといって騒がれるのも面倒でしたので、その考えから、突然俺の態度が変わるのも変に思われるかとこれまでどおりにしてきましたが、噂が広まって、その必要もなくなりました。以前、女王試験開始前にジュリアス様からいわれた二人の女王候補に対することについても、これでジュリアス様のご懸念は晴れたことと存じます」
「う、うむ……」
オスカーの言葉は、ジュリアスには、もうこれ以上は問うてくれるな、と言っているように聞こえ、本音を言えばもう少し確認したくもあるのだが、それに躊躇いを覚える。
「それでは、今日はこれで失礼を」
ジュリアスが思案している間に、オスカーは退出の挨拶をして一礼すると、さっと踵を返して執務室を出て行った。その背を黙って見送りながら、ジュリアスはやはりこれ以上踏み込ませる気はないのか、との思いを強くしたのだった。
約束した時間よりも若干早めに、オリヴィエはオスカーの館を訪れた。
「いらっしゃいませ、オリヴィエ様。オスカー様から伺っております。オスカー様は居間の方にいらっしゃいますので、そちらへご案内いたします」
そうしてオリヴィエは執事のハインリッヒに導かれるまま、オスカーの元へと案内された。考えてみれば、この飛空都市に来て以来、オスカーの館を訪ねるのははじめてだったと思いいたる。
「オスカー様、奥様、オリヴィエ様がお見えです」
「よお、オリヴィエ」
ソファに座ったまま、オスカーがオリヴィエに声を掛けてきた。そのオスカーの隣には、一人の女性が座っている。
「こんばんは。おしかけさせてもらったわ」
二人に近づきながら、オリヴィエはそう声を掛ける。
「いらっしゃいませ、オリヴィエ様」
「紹介しよう、エルフリーデだ」
「はじめまして」そう応えながら、オリヴィエは二人の前のソファに腰を降ろした。「噂どおりというか、噂以上というか、流石にオスカーが認めて相手にするだけのことはある美女ね」
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
エルフリーデは、オリヴィエの言葉に嫣然とした笑みを浮かべて応えた。
「これ、お土産ね」そう言って、オリヴィエは持参した白と赤の2本のワインをローテーブルに載せた。「花にしようかとも思ったんだけど、どんな花があうかわからなかったから、無難なところでワインにさせてもらったわ。といっても、これも好みがあるからどうかとも思ったんだけど」
「おまえが選んだものなら、そうそう間違いはないだろう」
そんなふうに挨拶の延長の会話を交わしているところへ、ハインリッヒがやってきて声を掛けてきた。
「夕食のご用意が整いましたので、よろしければダイニングの方へお移りください」
その言葉に、三人は連れだってダイニングルームへと向かう。
移動しながら、オリヴィエは、聖地にある炎の館と比較して、若干趣が異なっているように感じた。そして、これは彼女の嗜好、意向が反映されているのだろうかと思った。
食事の間は、三人ともあまり突っ込んだ内容の話はしなかった。ただ、オリヴィエが昨日から飛空都市中に広まっている噂の内容と、それによる周囲の反応などを話し、それにオスカーが苦笑を浮かべたり、エルフリーデが相槌をうったりしたくらいだ。あとは出された食事へのコメント程度だ。
食事を終えて再び居間に戻ると、ローテーブルの上に、既にハインリッヒが用意しておいたのだろう、オリヴィエが持参したワインの横に、三人分のグラスとつまみがあった。
「相変わらず、そつがないわね、あんたんとこの執事」
「そうだな。人手を少なくしてしまった分、やることを増やして申し訳ないと思ってるんだが、皆、文句も言わずにこなしてくれてるんで助かってる」
オスカーの言うように、彼の館に仕えている人数は、他の守護聖の館に比較すれば断然少ない。他の館には、自分のところも含めて、数倍の人間がいる。なぜこんなに少ないのかと、聖地で出会ってはじめてオスカーの館を訪れた時にそう思い、後で聞いてみたところ、オスカーは「あまり人に構われるのは好きじゃないんで、最低限の人数を残してあとはやめさせた」と答えた。しかし、今はそれだけではないのだろうと思っている。飛空都市に来る前に聞かされたオスカーの話から、彼が聖地に対して拒絶をした結果ではないのかと。
「でね、こいつったら、あんたのこと、自分のことを坊や扱いするって言ってたのよ」
「まあ、それは……、否定、しきれませんわね」
オリヴィエがエルフリーデに向けて告げた言葉に、彼女は微笑みを浮かべながらそう応じた。
「でも、男性というものは、幾つになってもどこかしら子供っぽいところがあるものですからね」
話題にされているオスカーは、グラスを片手に苦笑を浮かべながら二人の会話を聞いている。
「……それって、私にもそんなところがあるっていうことかしら?」
「否定はしませんわ。とはいえ、本人には分からないでしょうけれど」
ホホホと、口元に手を当ててエルフリーデは微笑み続ける。
男性、とひとくくりにして言ってるってことは、ジュリアスやクラヴィスとかにもそういう部分があるってこと? とエルフリーデの様子からオリヴィエは考える。
ジュリアスについては、そう言える部分があるかもしれない、とも思うが、クラヴィスについては、どうしても考え付かない。何も思いつかない。
分からないことをいくら考えても仕方ないと、オリヴィエは話の転換を図った。
「ところで、この男、あんたを引かせたいけど、あんたのこと、引かせて自分のところに呼び寄せたいけど、あんたは決してそれを受け入れないだろうって、だから諦めたって言ってたんだけど、どうしてここに来る気になったの?」
「あら、オスカーったらそんなこと言ってましたの?」
エルフリーデはオリヴィエの言葉を受けて、隣に座るオスカーを見て微笑った。
「でもそうね、以前だったら、もし言われたとしても断っていたでしょうね。仕事は仕事として、他人の力でではなく、自分でしっかりケリをつけたかったですし」
「ならなぜ?」
「ちょうど、明けましたのよ、私の仕事。最後の夜にオスカーが来て、その話をしたら誘われましたの。でも聖地って外界とは時間の流れが違いますでしょう? でも女王試験の関係で時間の流れは外界と同じになるという話で。それならいいかな、って思いましたの。オスカーのことは嫌いではありませんでしたし、私ならば、と私を選んでくれたのが嬉しくもあったので、彼の話を受けたんですわ」
「あんたなら、って、オスカー、何か取引でもしたの? 彼女の言い方だとそんな風に受け取れるんだけど」
「取引じゃない、契約、だな」
「契約?」
オリヴィエはオスカーの答えに首をひねる。守護聖たるものが外界の人間と契約? いったい何の?
「士官学校の卒業式の日、そのまま前線に配属されて出発することが決まってたんだが、その日に、母に言われたんだよ。俺の子の顔が見たい、だからきっと無事に帰ってきてくれ、ってな。もうその母はいないが、どこかで見てるかもしれないだろう? だから、見せてやりたいと思ったんだよ、俺の子の顔を。けど、俺には人の子の親になる資格なんてものはないと思ってるからな。そうなると、金で苦労させる気はないが、シングルマザーとして、誰の子ともしれない子を育てていくだけの気概をもった女でないとダメだと思った。その点、エルフリーデなら大丈夫だと判断して、正直に話したんだよ」
「そしてそれを私が受け入れた、それだけの話ですわ」
「だから、彼女が俺のところにいるのは、女王試験の間、聖地と外界の時間がイコールの間だけ。けど、女王試験はたぶん一年から長ければ二年、それだけあれば十分だろう、子供をつくるのには」
「それが理由っていうか、目的? そしてあんたはそれでいいって、ほんとにそう思ってこいつの話を受けたの?」
オリヴィエは、オスカーとエルフリーデの顔をそれぞれ見つめながら問い返した。
「ええ、本当ですわ」
「けど、この話はさすがにここだけのことにしといてくれよ」
オスカーは釘をさすかのようにオリヴィエに告げた。ランディがしたように、他の人間にこの場での話をすることは許さないと。
「わ、分かったわ、誰にも言わない……」
オスカーの鋭い眼光に、オリヴィエはただ頷くしかなかった。
|