Vertrag - 2




 月の曜日の早朝、オスカーはエルフリーデを連れて、聖地の己の住まいである炎の館に戻った。
 帰宅したオスカーを出迎えた執事のハインリッヒは、オスカーの隣に立つ女性の姿に、思わず口を開けたまま呆然としてしまった。後で、執事としてはあるまじき失態と、ひどく恥じ入ったが。
「ハインリッヒ、彼女はエルフリーデ。今日から俺と一緒に過ごす。部屋は、俺の部屋の隣が空いていたな、そこを用意してくれ。ああ、だが寝室はいい。寝るのは俺と一緒だから」
 笑いながらそう告げるオスカーの言葉に、ハインリッヒは、オスカーがエルフリーデと呼んだその女性を、女主人として扱うことを決めた。オスカーにそこまでの意思はないかもしれないが、彼の言葉が示すことは、ハインリッヒからすれば、そういうことになるのだ。
「畏まりました。ところで、まだ出仕までお時間がありますが、朝食はどうなさいますか?」
 ハインリッヒは、オスカーから彼が外出する時に常に持ち出している鞄と、エルフリーデの少し大きめなキャリーバッグを受け取りながら、そう尋ねた。
「済ませてきたから、食事はいい。コーヒーだけくれないか。エルフリーデ、君は?」
「そうね、私もそれでいいわ」
「ではそのように」
 ハインリッヒは奥のキッチンにいる妻に、二人分のコーヒーの用意をするように告げると、オスカーとエルフリーデの後をついて2階に上がった。
 まずはオスカーの部屋に入り、オスカーの鞄を机の上に置き、それから、いまだ何の用意もできていないものの、とりあえず場所の案内という意味も込めて、エルフリーデと共にオスカーの部屋を辞した。
「こちらが奥様のお部屋になります」
 扉を開け、エルフリーデのキャリーバッグと共に室内に入る。そして部屋の隅にそのキャリーバッグを置くと、閉められていた窓を開けた。
「この部屋の内装や必要なものについて何かございましたら、遠慮なくお申し出ください。現時点では、最低限のものしかございませんので」
 部屋の中を見回していたエルフリーデは、ハインリッヒに告げた。
「奥様、なんて、そんな大層なものじゃないから、名前で呼んでくれていいわ。第一、籍を入れるわけでなし」
「そうかもしれませんが、オスカー様がこれから共に過ごすと言われた方なら、私たちはそのように受け止めます。
 オスカー様が出仕されましたら、この館にいる他の者たちを紹介しましょう。といっても、わけあって、私の身内しかおりませんが。ああ、あと聖地におられる他の方々にはそうとは知られないようにされていますが、オスカー様の外での部下の方が四名、いらっしゃいますので、こちらも後程ご紹介しましょう」
「ああ、簡単には聞いているわ。王立派遣軍からここに詰めているんでしょう? その四人」
「はい」
 その時、部屋に備えられているインターフォンが為り、ハインリッヒがその受話器を取った。
「はい」
『ああ、ハインリッヒか。エルフリーデに、こっちに来るように伝えてくれ。コーヒーが届いた』
「畏まりました、すぐに」
 ハインリッヒは受話器を置くと、エルフリーデにオスカーの言葉を伝え、エルフリーデは軽く頷いて、隣室のオスカーの部屋に戻った。その後にハインリッヒが続く。
「部屋はどうだった?」
 オスカーは部屋のほぼ中央に置かれている応接セットの一人掛けのソファに腰を降ろし、既にコーヒーを口に運びながら、エルフリーデに問うた。
「特に問題ないわ」オスカーの向かい側、もう一つのカップが置かれた方のソファに腰を降ろしながら、エルフリーデは答えた。「それに、ここにいるのはそう長いことではないでしょう? 貴方の話通りなら、飛空都市とやらの屋敷の方で過ごすのがメインになりそうだし」
 エルフリーデはコーヒーカップにミルクを少しだけ垂らしながら、そう応じた。
「確かにその通りだ。だが、それならそれで、あちらの部屋の用意のために、何か必要なものがあったら、早めにハインリッヒに告げておいてくれ。それ以外、必要な事柄はハインリッヒに確かめてくれ。ハインリッヒ、急なことですまないが、よろしく頼む」
「畏まりました」
「そしたら、俺はそろそろ出仕の仕度をして出かける。ハインリッヒから必要な説明とかを受けたら、今日は君の思うように過ごしてくれ。今後の詳しいことは、夕べ軽く説明したが、帰宅してから、そうだな、夕食の時にでも、改めて話を詰めよう」
「そうさせてもらうわ」
 オスカーはエルフリーデの答えを聞くと、コーヒーを飲みほした後、着替えのために隣の寝室に入っていった。
 エルフリーデは、ゆっくりとコーヒーを味わいながら、オスカーが着替えて再び出てくるのを待った。傍らには、ハインリッヒが立ったまま、同じようにオスカーを待っている。
 やがて着替え終えて出てきたオスカーと共に三人で、玄関まで行く。
 そこで、オスカーとエルフリーデは互いの両の頬を、右、左と、軽く合わせた。
「では行ってくる」
「行ってらっしゃい、気をつけて」
 エルフリーデのその言葉に、オスカーは嬉しそうに軽い笑みを浮かべ、ハインリッヒが開けて待っている玄関扉から出て行った。



 オスカーが外出した後、エルフリーデは、ハインリッヒに館の中を案内されながら、館にいる他の者たちを紹介された。もちろん、オスカーの部下である王立派遣軍の四人も含めて。
 彼らは皆、一様にエルフリーデの美貌に息を呑んだ。
 輝く黄金色の髪、サファイアを思わせる蒼い瞳、嫌味でない程度の艶のある赤い唇、そして染み一つなさそうな白磁の肌。その唇から零れる声もまた、美しく綺麗に響く、決して高すぎないソプラノだ。彼らは知らないが、流石に主星の首都にある名高い娼館のNo.1を誇っていただけの美貌である。もっとも、美しさだけでNo.1を取り続けられるものでもない。しっかりと確立した自己を持ち、娼婦という立場ではあったが、それでも彼女は己の仕事に誇りをもって臨んでいた。そんなところも、オスカーがエルフリーデを選んだ要因の一つだろう。何よりも、彼女の性質をもって、これならと思い、オスカーは彼女を選んだのだから。



 オスカーの帰宅を、エルフリーデとハインリッヒが出迎えた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
 出かける時と同様に、互いの頬を合わせながら言葉を交わす。
 ハインリッヒはそんな二人の様子を見ながら、一通りの遣り取りを終えたところで、オスカーからマントを受け取りながら、言葉を掛けた。
「ダイニングルームの方に、既に夕食の準備を終えております」
「分かった」
 オスカーは頷いて、エルフリーデの腰に軽く手を当てながら、二人してダイニングルームへと向かい、ハインリッヒは、オスカーから預かったマントを持って、彼の自室へと向かった。
 ハインリッヒがダイニングルームを覘いてみると、数年前にソムリエの資格をとった娘婿が選んだと思しき白ワインを、二人してグラスを軽く合わせて、乾杯、と小さく声にして、それからグラスに口をつけ、嗜むようにワインを口にした。
 テーブルの上に並べられたものを見るに、エルフリーデを迎えての最初の晩餐ということで、急なことではあったが、妻と娘、そして甥の妻は、普段よりも頑張って豪勢にしたらしい。とはいえ、普段のオスカーは質素を心掛けているような部分があり、おそらく他の守護聖に比べれば、今夜の内容さえおよばないであろうが。とはいえ、本職のシェフが作っているであろう他の館と比較すれば、それなりの料理の腕前は持っていると、夫として、父として思ってはいるが、所詮は素人の創る者であれば、限度がある。故に、せめて栄養面だけは十分に注意している。そしてそれはオスカーも承知してくれているし、もともと、全員解雇と言われたものを、ハインリッヒの訴えで自分たちだけでもと置いてもらっている状態だ。そういったことからも、オスカーは彼女たちの仕事、供される食事の内容には十分に満足していると告げてくれている。そこにお世辞は見受けられない。そしておそらくそのあたりも既に聞いていたのだろう、エルフリーデも満足してくれているように見受けられる。実際のところは、一度聞いてみようかと思いもするが。
 二人は、食事を進めながら会話を交わす。
「で、飛空都市とやらには、いつごろ行くことになるの?」
「あと十日前後ってところになりそうだ。聖地と外界の外界の時間の差は既に殆ど解消されて、ほぼ同じ流れになっている。
 数日後に女王候補のお嬢さんたちがやってきて、それから一緒にあちらに移ることになるだろう。
 こちらには、王立派遣軍から来ている四人を残して、他の者は全員あちらへ行く予定だ」
「そんなことで、大丈夫なの? まあ、さすがに聖地の、しかも守護聖の館に対して誰かが何か、とは思えないけど」
「俺の意思からとはいえ、人が少ないからな。やりくりを考えれば他に方法がない。そういった点では、軍から四人来ているのは、今回は助かったな。あいつらなら、基本的に自分のことは自分でやるし、あとは適当に館の管理をしてもらうように頼んだ。試験期間中は、他の守護聖も皆、あちらへ行くから、特に問題もないだろうしな」
「そう。貴方がそう言い切るなら、そうなんでしょうね。ところで……」
 エルフリーデは少し見上げるような感じでオスカーを見て、言葉を意識的に途中で止めた。
「何かあったか?」
「大したことじゃないのよ。ただ、貴方の朝のコーヒーくらいは、私が淹れさせてもらおうかな、と思って」
「そりゃ嬉しいが、なんでまた?」
「だって、こちらの執事さん、私のことを“奥様”って呼ぶのよ。私はそんな立場じゃないし、名前で呼んでくれっていうのに、変えてくれそうにないの。なら、それらしく、朝のコーヒーくらいは私が、って思ったんだけど」
「君が淹れてくれるコーヒーの味はよく分かってるし、それなりに飲んで美味いと思ってるから、そうしてもらえるなら、嬉しい。たとえ仮初めの僅かの間のことであっても」
「じゃあ、早速明日からでもそうさせてもらうわね。それと、明日は、買い物に出たいけど、問題はないかしら?」
「君のことはこの館の者として登録してきたから、問題はないが。やはり何か足りないものでもあったか?」
「洋服を、もう少し揃えようかとね。他にもちょっと細々したものを。それで、執事のハインリッヒさんの娘さんに付き合ってもらえるように頼んだの」
「まあ、買い物は女の特権、なんていう言葉もあるそうだし。案内されがてら、ゆっくり買い物を楽しんで来ればいい。そう長く滞在する場所じゃないが、話の種にはなるだろう」
「じゃあ、そうさせてもらうわね。いずれ、他に必要なものがたくさん出てくるでしょうけど、それはまだいつになるか分からないし。確か、飛空都市にも、買い物とかできる町みたいなもの、あるって言ってたわよね?」
 エルフリーデが言うものが何をさしているのかを察したオスカーは、頷きつつ、「そのあたりはまかせる」とのみ短く答えた。
 女のことはともかく、子供のことは、ましてや赤ん坊のことは何も分からない。妊娠してから誕生までのこととなればなおさらだ。そのへんは、経験者や当事者に任せるのが一番だろう。分かっていない者が下手に口を挟むことではないだろうと思う。ましてや、子供が生まれた後、その子に対して、父親としては何もしてやることはできない、いや、何もしないのだから、育児について学んでも意味もないと、オスカーは割り切っているし、そのあたりのオスカーの心情は、エルフリーデは昨夜の彼の言葉からそれなりに察してくれているのを見て取っていた。
 そんなエルフリーデに対し、オスカーは思う。自分には過ぎた女だと。だがその一方で、彼女を選んだことに間違いはなかったと。





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