その夜、オスカーは久しぶりに馴染みにしている娼館へと足を運んだ。
 受付で、ここ最近ずっと贔屓にしている女の名を告げる。彼女は空いているかと。尋ねられた受付の担当者は簡単に確認をとった。
「大丈夫、空いてますよ。部屋にいるはずですから、連絡を入れておきますのでいつものようにどうぞ」
「ありがとう」
 担当者の言葉に一言礼を返して、オスカーは奥の階段を上がり、2階にある目的の女の部屋を目指した。
 目的の部屋の前まで来ると、オスカーは一呼吸してから扉をノックした。そして「どうぞ」との中からの女の声に、扉を開けて部屋に足を踏み入れた。
「久しぶりね、オスカー。相変わらずいい男で嬉しいわ」
「あんたもな、エルフリーデ」
 そう短い、挨拶とも言えないような会話を交わして、軽く口づける。
「でも、今日来てくれてよかったわ」
「何かあったか?」
「実は、今日が最後なのよ、私」
「えっ?」
 オスカーが来ると恒例となっているコーヒーを淹れながら、女── エルフリーデ── はなんでもないことのように告げたが、それはオスカーには突然のことで、驚きに目を見張った。
「漸く綺麗に片付いて、少しばかりの蓄えもできたし、安心して出ていけるわ。これも貴方のおかげね。私にとっては、貴方は一番の上客で、チップも多くくれたから。だから貴方には感謝してるのよ。それで、できれば最後に貴方に会いたいなって思ってたの。そしたらその通りに貴方がきてくれたわけじゃない。とても嬉しいわ」
 エルフリーデが微笑みを浮かべながら話し続ける間に、漸くオスカーの頭の中の整理がついた。
「そうか、今日が最後なのか」
「ええ」
 確かめるようなオスカーの言葉に、エルフリーデは笑顔で答える。
「なら、もう遠慮はいらないのかな」
「え?」
「もうずっと、言おうか言うまいか、悩んでいた。それでも、今日こそは言おうと決めてきたんだが、ちょうどよかった」
「一体何の話?」
 オスカーの言葉に、彼が何を言いたいのか見当もつかず、エルフリーデは小首を傾げて尋ねた。
「今日が最後、ってことは、明日からは自由の身、ってことだよな」
「ええ、そうよ。明日の朝、ここを出ていくの」
「行き先は決まってるのか?」
「いいえ、具体的にはまだ。暫くは、町から離れて田舎にでも行ってみようかな、なんて考えたりはしてるけど」
「なら、俺のところに来ないか?」
「え?」
 今度は、エルフリーデがオスカーの言葉に目を見開く番だった。
「……それって、もしかして、求婚……だったりとか、するのかしら……?」
 エルフリーデが表情も変えぬまま、いや、まるで感情が消えたような顔でオスカーに問い掛ける。
「いや、違う」
 余人が聞いていたなら、オスカーの言葉は、プロポーズと聞こえただろう。だが、彼は即座に否定した。
 その答えに、どことなく安心したかのような表情を浮かべて、エルフリーデは応じた。
「そうよね。王立派遣軍の元帥閣下ともあろう方が、娼婦あがりの女を妻に、なんて、できるわけないもの」
「! 知って……!?」
「というより、気が付いた、って言う方が正しいかしら」
 唇に右の人差し指を当てながら、エルフリーデは答えた。
「ここって、王立派遣軍の軍人さんもわりと来ることがあるのよ。で、そんな彼らが寝物語に話をすることがあるのだけど、ああ、もちろん、本来は客の話は見ざる聞かざる話さず、よ。でも、私以外の女のところでもそうだという話だということで、もっぱら店内だけの噂になっているのだけど、その話題が、必ずではないけれど高確率で、自分たちのことではなく、彼らが尊敬してやまない、総司令官であるラフォンテーヌ元帥閣下の自慢話らしいのよ。それで気が付いたわけ」
「……あいつら……、こんなとこで何話してんだ……」
 オスカーは思わず口元を右手で押さえながら、小さな、それでもすぐ傍にいるエルフリーデにははっきりと聞き取れる声で、呆れたといった感じを漂わせながら呟いた。
「聞いた話の調子からすると、たぶんこの店だけじゃなく、他の店でも、噂になってる可能性、高いと思うわよ」
「……」
 エルフリーデのその言葉が留めになったかのように、オスカーは口元だけではなく、その大きな手を広げて顔全体を隠すかのように押さえた。エルフリーデが察するに、恥ずかしさもあるのだろう。幾分、顔がほのかに赤みを帯びている感じが見て取れる。
 エルフリーデはオスカーが落ち着くのを暫く黙ってみていたが、間をおいて口を開いた。
「で、話を戻すけど、求婚でないなら、貴方のところへ、っていうのはどういう意味なのかしら?」
「……俺は、一生誰とも結婚する気はない」
 決して大きな声ではないが、はっきりと明言されたその言葉に、エルフリーデは驚いた。
 純粋に考えれば、王立派遣軍の総司令官が何者なのか、という一点を除けば、女にとってはその妻となることは、いわゆる玉の輿だ。憧れない娘はいないだろう。ましてやこれほどの男ならば。そして、彼自身の立場からすれば、相手はよりどりみどり、どんな相手だろうと叶うだろう。唯一、この宇宙の女王陛下を除いて。
 しかしオスカーが発した言葉は、受ける感じからするに、彼の過去にあっただろう何かに起因しているような気がした。
「でも、俺の子供の、つまりは、孫の顔を見たい、と言っていた母親の願を叶えてやりくてな。その母親はもうとうの昔に死んでしまったが、それでも、あの世とやらで見ているかもしれないだろう? だから、俺の子供の顔を見せてやりたい。そう思った。知らずに親不孝を重ねた俺の、せめてもの親孝行だとでも思ってくれ」
 そこまで言ってオスカーは言葉を切り、幾分乾いた喉を潤すために、エルフリーデが淹れてくれたコーヒーを口にした。
「それで、私を選んだわけは? 何の意味も理由もなく私を選んだわけではないでしょう?」
 オスカーがカップを置くのを待って、エルフリーデは疑問を口に乗せた。
「今まで見てきて、あんたなら、大丈夫だろうと判断した。あんたなら、父親のいない子供を抱えても、きっと一人で十分にやっていけると。それだけの気概を持つ女だと、そう思ったから、あんたを選んだ」
「つまり、それだけ私という人間を買ってくれた、と思ってくれたと、そう考えていいのかしら?」
 幾分苦笑気味にオスカーに問い掛ける。
「まあ、そう思ってもらっても、決して間違いではないな。
 詳しいことは言えないが、俺は、人の夫にも、ましてや父親という存在にも、とてもなれるような男じゃない。
 俺が今、軍でやっていることは、聖地に認められるようなことじゃない。聖地が、守護聖である軍の総司令官に対して望むこと以外の、いや、それ以上のことを俺はやっているからな。そうなったのは、俺が守護聖になり、軍の総司令官の地位についた当時の軍の実質的No.1であった、副指令をはじめとした軍の首脳部が抱えていた問題、そして俺自身の持っていたもの、それらを実行に移すにあたって、互いに利害の一致をみた結果のようなものだ。彼らが望んでいたことを俺が叶えるかわりに、彼らを利用して、俺がしたいと思っていることを実行に移すという。
 できれば他言してほしくないことだが、それは聖地に対して、一種の裏切り行為にも等しいと言っても、決して過言ではないことだろう。そんな男を父親として育つのは、おそらく子供にとっては不幸なのではないかと思う。
 もっとも、それはあくまで理由の一つであって、本当の所は、全く別の、俺の個人的な問題がもっと大きいんだが」
「要するに、子供に父親の存在を知らせず、私だけの子供として育てろってこと?」
 確認するように、エルフリーデはオスカーに尋ねた。
「ありていに言えばそういうことだ。俺が言っていることは、父親が不明不在のシングル・マザーになってくれってことだ。もちろん、先々金銭的に困るようにはしない。それなりのことはさせてもらうつもりではいるが。
 どうだろう、駄目だろうか?」
「……」
 即答できず、エルフリーデは少し考え込んだ。オスカーは黙ってその答えを待っている。
「詳しい事情はおいておくとして、貴方がそういう意味で私を選んでくれたことは、誇りに思ってもいいんでしょうね。それだけの女だと私を認めてくれてのことなのだろうから。
 でもただ一つ、問題があるわ」
「問題?」
「ええ。王立派遣軍の総司令官は、本来、聖地に身をおく守護聖。そしてその聖地と、聖地が言うこの外界の時間の流れは異なる。貴方のところへ行くということは、いずれ私はこの世界の時間の流れから取り残されるということだわ。違わない? 戻ったら、知ってる人は誰もいませんでした、っていうのは、流石に嫌なのよ。そしてそれ以上に、自分の知らない世界、というか時代に、状況になってました、っていうのがね」
「ああ、そういうことか」
 エルフリーデの答えに、ある意味安堵したかのように、オスカーは深い息を吐き出した。
「ほどなく、女王試験が開始される。その間、落選した女王候補が外界に戻っても問題がないように、外界と聖地の時間の流れは同じになる。早くて1年、長くても2年くらい、だろう。それだけあれば、子供をつくる時間は十分にあるだろう? そして子供が生まれたら、あんたはその子と一緒にこっちに戻ってくればいいだけの話だ。手配は俺の方で全てする。その点であんたに迷惑はかけない。それでも駄目か? 受け入れられないか? あんたに無理だと言われたら、俺には他にいい相手を見つけられそうにないんだが」
「それって、なんだか調子よく利用されてやることのような感じがするのは、私の気のせいかしら?」
「いいや、あんたの気のせいじゃない。多分に、俺はあんたを、俺の望みを叶えるために利用しようとしている。
 とはいえ、あんたのことを何とも思ってなければ、あんたを選ぼうとは思わなかったのも事実だ。そして肝心の俺は、夫という立場になる気もなければ、生活の保障はなんとかするつもりではあるが、血の繋がりがあるだけの、それ以外のことは何もしてやる気のない、父親としては落第もいいところの男だがな」
「つまりこれは、私と貴方との、一種の契約、と言ってもいいものなのかしら?」
 念押しのようにエルフリーデは問い続ける。
「そう受け取ってもらって差し支えない」
 そう答えを返しながら、オスカーは焦ることなく、エルフリーデの結論を待った。そう簡単に出せる結論ではないと思うからだ。
「……いいわ、受けてあげましょう、その契約。
 私にとって一番の問題ともいえるのが時間の流れのことだったんだけど、それが問題とならないというのなら、否やはないわ。貴方ほどの男に見込まれたんですもの、女冥利に尽きるってものでしょう」
 美しい微笑みを見せて、エルフリーデはオスカーにそう答えた。
 その答えを受けて、オスカーは一瞬、驚いたように目を見開いて、それから破顔した笑みを見せ、エルフリーデの躰を抱き寄せた。
「すまん、あんたには迷惑をかけるだけのことになるだろうに」
「いいのよ、貴方の話を聞いて、私が決めて受け入れたんだから。貴方が気にすることは何もないわ」
「感謝する」
 オスカーを抱きしめ返しながら、エルフリーデは彼の孤独を思った。それは、彼が自分を、いや、女を抱きに娼館に足を運んでいる理由を、夜を重ねる間に、おぼろげながら察しているからだ、今の遣り取りに、彼女はその思いを一層強くした。
 どれほどの立場にあろうとも、この男は孤独なのだと、そう思う。はっきりと確信にまでは至っていないが、これまでの付き合いから、そして今の遣り取りからそう思えてならないのだ。
 だから、たとえ表面に出すことができなくても、自分の血の引く者がこの世界に存在するということが、僅かなりともこの男の、せめてもの慰めとなればいいとも思う。



 そして翌朝、仕度を終えたエルフリーデは、オスカーと共に聖地に向かった。






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