今、フランツの目の前にはゲンシャー将軍がいた。
意識を失った青年を看護師たちに預けた後、病棟を出た彼を事務局長が呼び止めたのだ。ゲンシャー将軍が呼んでいると言って。そうして今、ゲンシャーの許に出頭したのだが、フランツはゲンシャーが自分を呼び出した理由に心当たりがなく、表情には出していなかったが、実のところ戸惑っていた。
「わざわざすまなかったね、少佐」
敬礼するフランツに、ゲンシャーはデスクに座ったまま、軽く頷いた。
「いえ」
「君に来てもらったのは他でもない、君にやってもらいたいことがあってね」
「私に? それはご命令ですか?」
「……そう受け取ってもらって差し支えない」
そう返したゲンシャーに、フランツは軽く片眉を上げた。
「お言葉ですが、将軍、私は直接将軍からの命令をいただく立場にはなかったと思いますが」
「確かにそうだな。だから、フランツ、君の上司であるフォルスト少将には君を借り受ける了解を得ている」
「承知しました」
了承の意を伝えるように、フランツは軽く息を吐き出した。そしてゲンシャーが彼をファースト・ネームで呼んだことで、これは公的な、少なくとも公にできる類のものではないのだと、先のことは分からないが、現段階では王立派遣軍と無関係ではないだろうが、あくまでゲンシャーの個人的な裁量の範囲内のことであると察して、口調を変えた。
「で、俺に何をさせたいんですか、将軍」
「子守りを、頼みたいんだ」
「子守り、ですか?」
フランツは一瞬我が耳を疑い、そのまま問い返した。
「ああ」
そうして頷くゲンシャーに、ああ、と思い当たる。
「あの坊や、ですか」
「そう。聞いたところによると、部屋から消えた彼を見つけてくれたそうじゃないか」
「お耳の早いことで」
苦笑するフランツに、ゲンシャーもフッと軽く笑みを見せた。
「彼が起きたかどうか確認しようとして連絡を入れたら、ちょうど、君が彼を見つけたところだったらしくてね」
「成程。それで、将軍がそれほどに気に掛けるあの坊や、一体何者です?」
口調は軽かったが、そう尋ねる眼差しは真剣なものだった。フランツは青年の正体に興味があった。
ゲンシャーは一旦目を閉じてから、再度フランツを見上げた。
「彼が何者か、今はまだ言えない。だが、とても重要な人物とだけ言っておこう」
「……それは、貴方にとってですか、それとも、王立派遣軍にとってですか、どちらです?」
「……どちらにとっても、と言っておこう」
その答えに、フランツはあからさまに致し方ないと言いたげに、大きく溜息を吐いた。結局のところ、この人には敵わないのだ、子供の頃から── と思いながら。
「承知しました。引き受けますよ、あの坊やの子守りをね、おじさん」
「すまないな、フランツ。ところで」
「何です? まだ何か?」
「彼は、どんな様子だったね?」
「……どんな、と言われても……。あの時はどうも正気ではなかったようでね。気になることを言ってましたけど、はっきりどう、とは。ただ、よほどショックなことがあったのだろうと思いますが」
「そうか」
そうして考え込むようなゲンシャーに、フランツは念を押すように告げた。
「今、とは言いませんが、後で必ず教えて下さいよ、彼が何者か」
「あ、ああ」
「じゃあ、俺はあの坊やのところへ戻ります」
そう言って踵を返しかけ、忘れていた、と言うように問うた。
「ちなみに、今回の任務、いつまで、です?」
「……そうだな、彼が、彼の在るべき場所に戻るまで、とでも言っておこうか」
その答えとは言えない答えに、フランツは軽く肩を竦めてから、ゲンシャーの執務室を後にした。
フランツは青年のために用意された特別室で、彼の眠るベッドの脇に椅子を持ってきて腰を降ろした。脚を組んで、じっと青年を見つめ続ける。彼が目覚めるのを待って。
どのくらいそうしていただろうか、微かに、瞼がピクリと動いたのが見てとれた。
やがてゆっくりと蒼氷の瞳が現れた。
自分の置かれている状況が分かっていないのだろう、瞬きが繰り返され、視線があちこちに流されるのが、端からも見て取れた。
暫くして、彼の蒼氷の瞳がフランツの存在を捉えた。
「漸くお目覚めのようだな」
掛けられた声に、はっとして、彼は慌てて上半身を起こした。
「あ、貴方は誰、です? それに、ここは一体……」
フランツは立ち上がり、青年に近付くとおもむろにその右手を青年の額に当てた。
伸ばされた手にびくっとして身を引きかけた青年だったが、額に置かれた手の温もりに、その動きを止めた。
「まだ熱があるようだな。もう少し横になっていた方がいいだろう」
「あの……」
瞳に不安の色を滲ませながらフランツを見上げる青年に、ああ、と頷いた。
「俺はフランツだ。フランツ・シュレーダー少佐。王立派遣軍参謀本部勤務。ここは軍の総司令部内にある病院だ。昨夜、ゲンシャー将軍が坊やを拾ったらしい」
「ぼ、坊やって、俺は……!」
坊や── と、そう呼ばれたことに馬鹿にされたと思ったのだろう、顔を真っ赤にして怒鳴る青年に、フランツはこれならもう大丈夫かと思った。少なくとも、先刻のような不安定さとでもいうようなものは感じられない。
「生憎名前を知らないんでな、呼びようがない。で、坊やの名前は?」
「……オスカー……」
「オスカー?」
「……オスカー……、ラフォンテーヌ」
そう名を答える青年── オスカーのベッドに置かれた手が握り締められ、その腕が微かに震えているのに、フランツは気がついて、訝しく思った。
名を名乗るだけでこの反応は一体何なのか、と。それは坊やと呼ばれたことに対するものからとは思えない。
「……ザルービナ共和国陸軍第2師団所属、階級は、少尉……」
── ザルービナ共和国……?
その名に、フランツは引っ掛かりを覚えた。
その国を知ってはいない。だが確かに以前どこかでその名を聞いた記憶があった。
「……ラフォンテーヌ少尉、か。色々と聞きたいことはあるが、とりあえず、話は熱が下がってからにした方がいいだろう。何かあればナースコールを。看護師たちに言えば、俺に連絡が来るように話をつけてあるから」
「……シュレーダー、少佐? あの、どうして……」
「ゲンシャー将軍から坊やの、失礼、少尉の面倒をみてくれと頼まれたんでな」
オスカーが疑問に思い聞きたいのだろうことを、フランツは先回りして答えてやった。
だがその答えに、オスカーはまた別の疑問を抱いたらしく、眉を寄せていた。
「何だ?」
「ゲンシャー将軍というのは……」
「グレゴール・ゲンシャー大将。王立派遣軍副指令だ。将軍は少尉のことを知っているようだが」
オスカーの顔色が、明らかに変わった。
その様子に、フランツのオスカーに対する疑念がますます膨らんでいく。
ゲンシャー将軍は、オスカーのことを重要な人物だと言っていたのだ。だが、どこかしら聞き覚えはあるものの、名も知らぬ国の、ろくな経験があるともいえぬ陸軍少尉の、一体どこにそれほどの価値があるというのか。
「……とにかく、今はゆっくり休むことだ」
そう言って踵を返そうとしたフランツを、オスカーは慌てて呼び止めた。
「待ってください、少佐!」
フランツは足を止めて、自分を見上げるオスカーを見返した。
「何か?」
「……あの……」
わなわなと、唇が震えている。
察するに、聞きたいことがあるのに、それを口に出せない、といったところだろうか。だがオスカーがそれを言わない限り、フランツには何もできない。応えてやることはできない。このままオスカーがそれを口にするのを待つか、日を改めるか、だろう。
「他に用がないのなら俺は……」
「ちがっ……」
縋るようなその瞳に、フランツは一つ大きく息を吐き出すとオスカーの元へ戻った。そのまま、彼のいるベッドに腰を降ろす。
「何が聞きたい? 聞きたいことがあるんだろう?」
「……もし、知っていたら、教えて下さい」
知りたいと思う一方で、知ることを恐れてでもいるかのようだと、フランツはそう思った。そしてそのまま、オスカーの次の言葉を待つ。焦らず、焦らせずに。
「……Ω座ルアサ星系の、ヴィーザのことを……」
辛そうに、苦渋に顔を歪めながらオスカーが口にしたその固有名詞に、フランツは目を見開いてオスカーの顔を見た。
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