Schwur - 4




 フランツ・シュレーダー少佐は、先日入院した同僚の見舞いに訪れた帰りだった。
 フランツは、軽く首を傾げた。
 様子がおかしい。何かあったのだろうか。妙に病棟がざわついている。
 看護師が走り回っていた。普段は、走っている者がいると「走らないように」と煩く注意をする者までが、小走りに駆けている。そして看護師同士の間で交わされる会話を耳を澄まして聞いていると、「見つかった」「見つからない」というものが殆どだった。
 どうやら誰かを探しているらしいと分かる。おそらく患者の誰かが、病室から抜け出しでもしたのだろう。だがそれにしても、と思う。いささか騒ぎ過ぎではないのかと。それとも、抜け出した患者はそれほどの重要人物なのか? しかしフランツには、そのような人物が入院したという話は、耳にした記憶はなかった。
「おい、エレーナ」
 フランツは自分の横を通り過ぎようとした、顔見知りの看護師に声を掛けた。
「シュレーダー少佐。何か?」
 呼び止められた看護師── エレーナ── は、その声の主を確認すると足を止めた。
「さっきから何やらざわついているが、何かあったのか?」
 フランツのその問いに、エレーナは逡巡した。
 話してよいものかどうか悩んでいる、といった態のエレーナの様子に、フランツは何が起きているのかと、ますます疑問を大きくした。
「……実は……」
 躊躇いながらも、エレーナがゆっくりと口を開いた。
「男性の患者が一人、病室からいなくなってしまって……」
 その答えに、フランツはやはり、と思う。
「その患者というのは、重要人物、なのか?」
 続く問いに、エレーナは首を横に振った。
「エレーナ?」
「分かりません。その患者の身元は、分からないんです、名前すらも。ただ……」
「ただ?」
「その患者は、昨夜ゲンシャー将軍が連れてこられたんです。当直の者からの引継ぎによれば、その際に将軍から、『詳しいことは話せないが、理由(わけ)ありの人物だから十分注意してくれ』と言われたとのことで」
 エレーナの答えに、フランツは訝しげに眉を寄せた。
 王立派遣軍の副指令──実質的なNo.1たるゲンシャー将軍がそれほどに気にする、あるいは気にしなければならない人物が誰なのか、全く思い当たらない。そのような人物が存在すること自体、疑問だった。
「どんな人物なんだ? よければ、俺も捜してやろうか?」
 一体どのような人物なのか、それに興味があった。だから手伝ってやると持ちかけて、その人物についての情報を探り出す。
 エレーナはまさかフランツがそんなふうに考えているとは思わず、ただ純粋に手伝ってくれようとしているのだと思って、最初は答えるのを躊躇ったことが嘘のように嬉しそうに、安堵したように微笑(わら)った。
「助かります。年の頃は、たぶん……17、8くらい、20歳にはなってないと思います」
 思い出すように、確認するように、時々言葉を区切りながら、エレーナは告げる。
「身長は175から180位かしら。ああ、そう、たぶん、見れば一目で分かりますよ」
「一目で?」
「ええ。とても印象的な髪の色。赤いんです、それも、まるで燃えるような赤」
「赤毛、ね。分かった。見つけたら、ナースセンターに連絡すればいいのかな?」
「ええ、お願いします」
 フランツは頷くエレーナの肩を、了解した、というようにポンと軽く叩いた。そしてエレーナが足早に立ち去るのを見届けてから自分も歩き出す。
「さて、どこから捜したものかな」
 そう呟きながらも、フランツの脳裏は疑念で一杯だった。相手が18程度のガキだと知れて、それに、一体どのような人物なのかと、疑問が尚一層膨らんでいく。
 暫く病棟内を歩き回って、ふと、屋上へ続く階段が目に止まった。
 もしかしたら……そう思って、フランツはその階段を上りはじめた。
 階段を上りきり、表に出る扉をゆっくりと開ける。足を踏み出し、辺りを見回して、ふと、目の端を赤いものが(よぎ)ったような気がした。
『赤いんです、それも、まるで燃えるような赤』
 エレーナの言葉を思い出し、そちらに静かに足を向けた。
 最初は、洗濯物の影に見え隠れしていたが、やがてはっきりとその後ろ姿を捉えた。
「成程……、確かに、見事な赤毛だ」
 小さく口笛を吹いて、間違いないと確信し、一歩一歩近付いていく。
「おい、坊や、そんなところで何をしてるんだ? 看護師たちがおまえを探し回ってるぞ」
 声が届くだろうところまで足を進め、決して大きくはないが、よく通る声でその後ろ姿に声を掛けた。
 だが、反応は無かった。何一つとして。
 声は間違いなく届いているはずだが、聞こえていないのか聞いていないのか、何の反応も返ってはこなかった。
「おい、坊や」
 再度声を掛ける。
 やはり何の反応も無く、そのあまりの反応の無さに、フランツは不安になった。
 ただ反応が無いだけではない、間違いなく目の前にいるのに、存在感が全く感じられないのだ。
 厭な予感が、した。
 彼の手が柵に掛かり、身を乗り出すようにしたのに、フランツは「ちっ」と口の中で呟き、慌てて駆け寄った。
「この馬鹿っ! 何してるっ!?」
 柵に掛けられた腕を掴み、その躰ごと自分の方に思い切り引き寄せる。てっきり抵抗されるだろうと思ったその躰は、何の抵抗もないままに腕の中に収まった。
「おい」
 腕の中の青年に声を掛ける。
 何の反応も返らないことに苛ついて、フランツは青年の顎に手を掛けると自分の方を向かせた。そして、
「おい! おま、え……」
 青年の、あまりに空ろで生気を感じられないその瞳に、息を呑んだ。
 フランツは右手で軽く青年の頬を叩いた。二度、三度、声を掛けながら頬を叩く。数度繰り返して、漸く、ピクリと微かな反応が返った。
「おい、おまえ、自分が何をしようとしたか、分かってるか?」
「……な、に……?」
 まだその瞳の焦点ははっきりと合っているとは言い難い。だが、確かにフランツの声に反応したようで、青年はゆっくりと、自分の意思でその瞳をフランツに向けた。
「何をしようとしたか、自分で分かっているのか?」
 畳み掛けるように、フランツは同じ問いを繰り返す。
「……何、を……? ただ、行こうとしただけだ……。皆が待ってるから、呼んでるから……」
 意味を図りかね、夢遊病か何か、かと思った。
「ここがどこか分かってるのか? 10階建てのビルの屋上だ。あのままだと、落ちて死んでたんだぞ」
 自分の言っていることがどこまで通じているか分からなかった。殆ど分かっていないかもしれない。そう思いながらも、ともかくも正気に戻させることだと声を掛け続ける。
「死ぬ?」
「そうだ。俺が止めなきゃ、落ちてたんだからな。この高さじゃ即死だ。そんなことになったら、後に遺された家族や友人が……」
「くくっ」
 先程よりは意識がはっきりしてきたらしい青年が、喉の奥で、笑った。
「おい……?」
「残された家族? 友人? ……遺されたのは、俺の方だ。もう、誰もいない。皆、俺をおいていった。俺一人、取り残された。俺だけが……」
 ふいに、フランツの腕にかかる重みが増えた。
 完全に意識を失った青年の体を支えながら、誰もいない── と、そう告げた時に、一瞬青年の瞳を過った光を思う。
 そこにあったのは、憎しみ、怒り、哀しみ、絶望、そして、孤独── それらの感情が交じり合った、複雑な色をしていた。一体どれほどのことがこの青年の身に起こったというのか、フランツはもはや何も窺い知ることのできない、青年の意識のない顔をじっと見つめた。





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