何もないのなら何もないで良いとは思わないかね?
よこせっ、それよこせっ
And, I run away, again.
目の下が熱くなって、涙がこぼれそうになる。同時に、喉の奥がぎゅっとしまって、声が出なくなる。懐かしい、懐かしい悔しさだ。
自分の力では何も変えることができなかったあの頃。それは今でも変わってはいないのだ。僕は、未だにあの頃のちっぽけな人間で、結局少しも変わってはいないのだ。
もう一度へまをして、文句を言われたら、今度は口より先に手が出るだろう。そんな気がした。短気なのも変わっちゃいない。
もっとのんびりと、だらだら仕事がやりたい。急かされるのは嫌だ。流れに追いつけずにいると叱られ、右も左も分からないのに方言でしゃべるおばさん達になんやかやと言われ、飯はまずく、頭は痛い。
あの世界はあの婆様どもに会わせて作られているんだ。私は屈み、そして腰を痛める。
ベルトコンベアは嫌だ。ベルトコンベアは嫌だ。ベルトコンベアは嫌だ。
小さな体をうち振るわせながら、その子はいった。
「お、お代官様、一体何を。」
「怖がるでない。すぐに済むわ。」
少し艶のある、赤い帯だった。帯に手を掛け、その小さな体をくるくると回しながら赤い帯を引っ張ってゆく。
「あ〜れ〜。」
「そうれ、そうれ!」
帯が全て取られてしまうと、しっとりとしめった白い肌が現れた。そのあまりの美しさに興奮して、鼻息荒くその白い肌にむしゃぶりつくのであった。
そこには詐欺師がおり、乞食がおり、行商がおり、宗教があり、嫌われ者がおり、出会いがあり、友人がおり、仲間がいる。人々はその場にいて世界に出歩き、出会い、会話し、闘って、廃人になる。
皆さん、オンラインゲームには気をつけましょう。
現代人は遂に、大勢の中にいて孤独であることを身に付けた。群衆の中にいて、群衆の一部でなく、小規模の集団であり、あるいは個人であり、閉鎖的な空間に埋没する能力こそ、20世紀末から21世紀にかけての現代人、特に日本の都市、あるいはその近郊に生息する人間の大きな特徴であると言うことができよう。
子ども達は外で携帯ゲーム機で遊び、おばさん達は道をふさぎ、若者はイヤホンで音楽を聴き、ネーチャンは電車内で化粧をして、おっさんは酔っぱらってくだを巻くのである。
今日、私は新鮮な体験をした。ネーチャンが電車内で化粧をするのはもう見飽きた。脚にクリームを塗ってるのを見たことがあるから、ちっとも驚かない。おっさんがビールの缶を持って車内に入ってきてもビックリしない。ホームに酒の自販機がおいてあるのところだってある。車内で飯を喰おうが全く平気だ。そんな光景は既にありふれたものなのだ。
前々から電車内で化粧をする女がいるなら、電車内で髭を剃る男もそのうち出るだろうと思ってはいたのだ。しかしながら、本日私の前に座った男は、私の想像する文化変遷の階段を数段飛び越えて新たな境地をかいま見せてくれた。
やや肌の黒い野性的な感じのその若者は、大変身なりを気にするようで、初めは自分のかぶり物(バンダナの上に帽子をかぶり、その上にサングラスをのせていた。)を調整していたのであった。それが終わると男はバッグから鏡とリップクリームを取り出し、それを唇へ塗った。リップクリームの後に出てきたのは毛抜きだった。私はまた眉毛でも調整するのかと思っていたが、男は左手に持った鏡に向かい、右手の毛抜きを鼻の下に持っていった。
素晴らしい。男は電車の中で鼻毛を抜き始めたのだ。予想だにしない事件であった。おそらく彼は電車内で鼻毛を抜く若者の先駆けである。今後はこういった若者が増えてくる。だが、恐れてはいけない。今後の電車内文化の発展はこんな事では収まりはしないのだ。
灯を点けましょ爆弾に、お花をあげましょ桃の花
この歌の改詩者は、潜在的にこの歌のメロディーのもの悲しさを感じとったのであろう。それは良いのだが、桃の花を菊の花にしてしまってはひな祭りでも何でも無くなってしまうので読者諸氏にはくれぐれもご注意願いたい。