罪と罰

個を大事にしすぎるのではないか。
社会性の欠如なのか。

全て平等にという考えが通常となっているが、それもまた問題なのではないか。
昔は運動会でのかけっこで一番から三番までは褒美が出た。
今はないそうだ。
昔は成績の良い者は職員室の壁に50位まで貼り出された。
昔は学芸会があったのに、今は誰もが主役になりたがるから廃止。
なんでもかんでも「平等」という言葉がはびこる世の中になってきた。
そういう一面も、なんだか世の中を犯している要素なのではないのだろうか。

親を親とも思わず教師を先生とも崇めず、友達の作り方にしても下手くそ。
悪質ないじめを平気でする。
昔は、ガキ大将というのが必ずいた。
だからと言って今のように集団でシカトをしたりはしない。
昔は、男の子は小刀を必ず持ち歩いていた。
でも、それで、人を刺したりはしない。遊びに使ったのだ。
昔は昔は昔は・・・
昔のことを言うと嫌われるという。
しかし、敢えて言おう!
声を大にして言おう!

今が全てではない!
昔の良い所をどんどん復活すべきだ!

住みにくい世の中は君だって、あなただって、みんなみんな嫌いなのだから!

たとえ、「いらないお世話だ!」とはねつけられても、なんらかの手立てが
なかったのだろうか。
実際問題、問題児ならぬ問題の親は一切聞く耳も持っていなかったのだろうか。
なんと悲しい現実なのか。

裁判長は重罪判決を言い渡しながら「再出発を」と語りかけ、それを受け止めた少年は
淡々としていたという。
親子関係の持ち方に問題はあったけれど、それでもご両親なりに愛情はあった。
それに気付いて欲しい。再出発を一番望んでいるのはご両親だ。頑張ってください。」と
語りかけた裁判官の心情は?
検察官は涙を手でぬぐった・・・
弁護士は固い表情で少年を見守った・・・

未だ控訴するか否かは決まっていない。
少年の考え次第では、控訴を取り下げるかもしれないという。

少年はどこまで反省することができるのか。
この新聞の内容だけでは分らない多くの部分があるだろう。
一概には言えない重い事件である。
親も悪ければ子も悪いと、言えばおしまいである。
こういう悲惨な事件が二度と起こらぬよう、我々大人は真剣に考えねばならない。
他人の子を叱ることができない現状を、我々が小さかった頃のように、我が子の如く、
褒めたり叱ったりできる世の中。
何がどう歯車を狂わせてしまったのだろう。

現在、凶悪犯罪を犯した少年には刑罰か、保護処分の二者選択の処方箋しかない。

識者は、この点こう述べている。
一つは「保護処分で、矯正が適当」という元神戸家裁判事の意見だ。
犯した行為の重大性を認識させ、責任を自覚させる前提として、念入りな性格の矯正が
いるが、刑務所の手には余るであろう。
生み直し、育て直すほどの手間ひまと専門的かかわりが必要だという。

また、元裁判官で、現大学院教授の話では、「二分法を止め、制度変更を」と述べている。
重大な凶悪事件に対して、保護処分のみで臨む事が社会の納得を得られるのかどうか。
本人による償いは重要だ。
服役させながら、教育的な処遇を施せるよう少年刑務所の役割を充実させるべきだ。
ただ、これも限界があり、中間的な施設を設けることも議論すべきだ、と述べている。

幼い頃から虐待を受けていた少年は弁護士に「自由になりたいという気持ちから、自己中心的に
なった。奈良の少年も同じだと思う」と語ったそうだ。
また、福岡で教師の発言がいじめを呼んだ問題では「言葉の暴力を選んだ教師はどうなるのか」
とも・・・

歪んだ親の子育てが、如何に悲惨なことになるか!
親は勿論責任を持つべきだ。
だからといって、人は人を殺めてはならない。
しかし、こうなるまでの、様々な経緯があるわけで、どうして、こうなるまでに、救いの手を
伸べることができなかったのか。
親がダメであれば、親戚や教師や近所の大人の手で助けることはできなかったのだろうか。

また、今読んでいる本は、上下巻とあり、まだ下巻を読み終えていない状態ではあるが、
多分あれは冤罪ではないかと思える人物の心理状態を細かく記した物語である。
ある有名な大学に入学し、優秀な院生が、見に覚えのないレイプ及び傷害の罪で問われ、
2年の懲役の判決が出た。
その当時事情聴取した刑事は、軽い罪で終わると踏んでいたため、その時の判決結果を
知ろうともせず、10年後に初めて、その異様な判決結果に不審を抱く。
思い出した。自白を強要したつもりはないのだ。
自白をすれば、罪が軽くなる・・・そうそそのかしたという。
しかし、覚えがない。今や、自白を信用せず、証拠固めで有名な刑事係長の汚点であった。
レイプという罪で犯罪者になった弟を持ってしまった政治家希望の兄は未来に絶望し自殺。
両親からは勘当。しかし、姉だけは弟を信じ、当時の弁護士と共に、再審請求をしようと、
証拠を探すべく日夜汗を流す。
しかし刑期を終えたその人物はその後やくざに毒され、悪の道を辿ってゆく。
自殺をしようと線路に寝ていたところを、やくざに拾われたのが分かれ道であった。

長々と、物語の内容を述べている場合ではないが、要するに、何が真実で何が嘘かを
見分ける刑事や、またその控訴内容を吟味し、判決を下さなければならない、
裁判官の苦悩は如何に?と考えさせらた話だということだ。

今回の事件にしても、様々な意見がある。

ひとつに、今回の判決は、被害者感情の配慮や、少年犯罪の凶悪化が叫ばれ「厳罰化」を
求める世論を反映したものである。
「行為の重大性に即した刑罰を与えることで、事件に怒り、おびえる社会に安心感を
与える」という考えである。

「罪と罰」
このタイトルを見て、ああー、あのドストエフスキーの?と大抵の方は思うであろう。
いえ、失礼致しました。今回はかの有名な物語の感想を述べるわけではありません。
先ずは、ずるくも紙面の都合上、11月30日付けになっているこのmutterに対し、お許しのほどを。
12月2日の新聞のトップ記事でご存知の方も大勢いらっしゃる、ある事件の判決結果に
ついて、皆様はどのようにお考えでしょう?

昨年6月、当時15歳の少年が両親を殺害し、殺人などの罪に問われたあの事件の判決が1日、
東京地裁で言い渡された。
裁判長は「強固な殺意に基づく、計画的ではなはだ悪質な犯行」と指摘。
「被告の内省はいまだ深まっていない。責任を自覚させるため、行為の重大性に即した刑罰を
与えることが必要だ」と述べ、懲役14年(求刑懲役15年)を言い渡した。
49年の少年法施行後、16歳未満の少年に対する最も重い量刑である。

刑事罰の対象の下限が16歳から14歳に引き下げらる以前であれば、刑が課せられること自体が
なかったわけだが・・・
一方、今年6月に16歳の少年が母と弟妹を焼死させた事件では、こちらは家裁であるが、処罰を
選ばず、中等少年院送致という保護処分を決定している。

人が人を裁く・・・
先日、ある裁判官の小説を読んだ。
無罪を言い渡されたその人は、実は犯人だったという、怖い物語である。
一見、親切そうなその人は、実は親切の押し売りであり、最初の内はその親切も「良い感じ」
として、皆に受け入れられるが、その内その押し付けがましさに、みな反感を覚えるようになる。
そして、良い人のお面をかぶったその人は、友人が心変わりをしたとみなすや、
異常な精神に陥り、鬼と化すのである。

平成18年11月30日

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