命の洗濯
洗濯をするのは衣類だけではなく、人間の生命そのものの疲れも洗い落とせる。
普段の苦労や束縛から解放され、自分の気の向くままに楽しむ。
いよいよゴールデンウィークの突入だ。
有給休暇がたくさん残っていても、毎年消化できず、長いお休みを取ることなど
今まで何十年も働いてきた中、一度としてないのは実に悲しい。
外国のように、長期のいわゆる大型バカンスとは無縁の日々である。
故に、お上が定めた祝祭日のいわゆるG.Wは貴重な休暇なのであるが、
さて、どこへ行っても混雑このうえなく、結局は家でまったりというケースが
例年となってしまった。
しかし、世の中、今年は例年になく海外旅行者が増加だとのこと。
ということは、やはり景気は良くなっているのだろうか。
全体的には多少回復したとはいうものの、現実は企業においては優劣の格差が
激しくなっているらしい。
ということは個々においてもそれは言えることで、資本主義の弱みが出てきて
いるということなのだろうか。
学生時代に習った、修正資本主義という言葉はどこへやら?
何年か前までは中流意識が多かった日本国民だが、果たして現在でもそうなのか?
経済的なレベルとは面白いものである。
同じ年収でもある家庭では「お金がナイナイ」と嘆き、ある家庭では
「ゆとりある生活」だとの認識があったりする。
要するに、ある一つの物を買う場合に値段というものはピンからキリまで
あるわけで、物の取得価格の違いで、どうにでもやりくりできるわけなのだが、
その点分っていないのが、前者なのであろう。
今や、一流企業にしても安泰だと言われた銀行にしても、リストラが平然として
行われる昨今である。
では、不幸にもそういう遭遇をした場合、生活のレベルダウンというものが簡単に
できるものだろうか。いやできはしない。
それが現状であろう。
やはり、普段の心得というものが、ここで各家庭、個人にかかってくるわけだ。
しかし、個人的には極端に、思うままに贅沢をするのも、生活を切り詰め
ぴりぴりするのも、どちらともいただけない。
「良い加減」に生活ができたら、それで良い。
しかしながら、これはあくまでも理想であって、そうそう上手くは行かないのが
現実であり、なかなか厳しいものではある。
先日新聞のコラムでこんなことが書かれていた。
日本画家の矢谷長治氏は現在90歳になられるが、3年前に脳梗塞を患い、歩きは
不自由になったが、今でも毎日絵筆を握っている。
「絵の神様が描けと言っている」
実は矢谷氏の絵が注目され始めたのはなんと80歳を過ぎてからだという。
初の「矢谷長治画集」を出したのは84歳の時のことだが、成川美術館館主の
成川寛氏が後書きに「地位も名誉も金銭欲も捨て、純粋の心に到達しなければ
描けない。そこには絵に魂が入っている」と書かれたそうだ。
実に悠々としたその生き方に共感を覚えたのは確かである。
しかしながら、悲しいかな、どんなに奇麗事を言おうとも、所詮世の中お金の
世の中であることは否めない。
お金がなければ、何もできない。
勿論、その前に健康であることが一番大切であるのは言うまでもないが・・・
人は普段の生活でどれだけの危機感を持って生活しているのであろうか。
もし、もし、もし自分がそうなったらば・・・という危険予測というものは
何も車の運転だけではないような気がする。
たとえどんな不幸なことが押し寄せようとも、毅然と対処できるような心構え
というものは普段の生活で鍛えたい。
毎日汚れた衣類を洗濯するように、命の洗濯も毎日したい!
そして、お日さまに当て日光消毒だ。
アルコール消毒という手もあるが・・・(笑)
林野庁などが、「森林セラピー基地」または「ウオーキングロード」として、
全国の計10箇所の森を認定したらしい。
森林セラピーとは森林の地形や自然を利用した医療、リハビリテーション、
カウンセリングなどをさす。
具体的には、森林浴、森林レクリエーションを通じ、健康回復、維持、
増進をはかる活動である。
森の中では、実際に脈拍数や血圧が下がり、唾液中のストレスホルモンの
濃度も低下するらしい。
そういえば、随分前のことだが丸太の森(神奈川県足柄市)を歩いたことが
あったが、あの時の森林浴には目を見張った。
まだ森林浴がささやき始められた頃だから、22・3年位前の話だ。
なんともすがすがしい気持ちになり、心が落ち着いてくるのが分り、なるほど
これがいわゆる森林浴と言われるものなのかと目の当たりにして感じ入った記憶がある。
忙しい仕事の合間の貴重な休日を如何に過ごすか?
「所詮世の中お金の世の中で・・・」などと馬鹿な暴言を吐くことのない
自分探しにでも出かけてみようか・・・
先ずは積もるに任せた命の洗濯をしなければね。
「鬼の居ぬ間に洗濯」ではなく「鬼の居る間の洗濯」ではあるけれど・・・(笑)