しかし、せめて大晦日だけはと父親が好きだった北海亭のかけそばを食べたいと・・・
それだけが唯一贅沢なこととして許されたことだったのである。
それは続いた。翌年も、そしてその次の年も・・・
毎年一杯のかけそばを頼む親子の姿を見て、ついに北海亭の夫婦は親子が必ず座れるように、2番テーブルを
予約席にするようになった。
いつしか楽しみにするようになったのである。
しかし、ある年からパタッと来なくなるかけそば親子・・・どうしたのだろう?
不思議に思いながらも予約席は取り、今年こそはと待ち続けた。
そして、十数年後のある日突然、かけそば親子は現れたのである。
立派に成長した二人の子供を目の当たりにして、北海亭のご夫婦は泪した。
親子はかけそばを頼んだ。
主人は泪しながら「あいよっ!かけ三丁!」
この話には裏話もあるが、今日は避けておこう。
2005年も今日でお別れだ。
今年もたくさんの方々とお知り合いになり、素敵な思い出のページをたくさん作ることができた。
ご縁があり、お付き合いが始まり、日々時を刻み、人の記憶の片隅に入れていただく。
全て良いことばかりとはいえないが、それも仕方がないことなのかもしれない。
お釈迦様、キリスト様ではないのだから・・・
しかし、人間と言うものはなんと身勝手なものであろうか。
最終的には自分が一番可愛いのだと改めて思う。
いけないことをしたと思いつつも謝る事が出来ない。
そして、そのことをどうしても許せない。
そして、それを傍観している。
各々の人間模様が思い出のページに刻まれる。
華やかな輝いているページもあれば、悲しみでぼろぼろのページ、怒りで破れてしまって修復が
利かないページ等々。
しかし、全ては自分が撒いた種であることには間違いない。
いやなページは捨てる?
いや、捨ててはいけない?
時々、立ち止まって思い出のページを開けてみようか。
そうして、次には前向きな姿勢で歩くことができるよう、リハリビしてみようか。
リハリビの後には、何が残る?
足並みが揃わず苦労するかもしれないね。
でも、一歩でも前へ進むことができるよね。
クリスマスに近いある日、新聞でこんなコラムを見つけた。
筆者は毎年クリスマスが近付く頃に読み返したくなる本があるのだそうだ。
ドイツの作家ケストナーの『飛ぶ教室』だ。
寄宿学校を舞台に一群の生徒達と、彼らを取り巻く人々との交流の物語である。
主人公のマルチンは、貧しい給費生であるが、冬の休暇直前に故郷から手紙が届いた。
父親が失職し、旅費が工面できないとの悲しいお知らせであった。
他の生徒が帰省する中、学校に一人寂しく居残る彼を、舎監のべク先生が見つけた。
「どうしたわけなのだ」
「言いたくありません」
泣き崩れるマルチンに先生は20マルクを渡すのである。
「クリスマスの前日に送る旅費は返すに及ばない。その方が気持ちがいいよ」と言って・・・
その晩遅く、息子の帰省に驚く両親にまっ先に言ったのは「帰りの汽車賃もぼく持っているよ」と
いう言葉だった。
もう随分昔の話になるが「一杯のかけそば」という話が話題を呼んだことがある。
大晦日の晩、札幌のお蕎麦屋さん「北海亭」に二人の子供を連れた貧しそうな女性が現れる。
そして、申し訳なさそうに「あのー・・・かけそば一人前なのですが・・・よろしいでしょうか?」
と注文した。
何か事情がありそうだと察したご主人は、密かに1.5人前のかけそばを作ったのである。
その一杯のかけそばを肩を寄せ合い分け合って食べる姿・・・
やはり事情があった。
父親を交通事故で亡くし、生活は困窮。
ハートウォーミング