心の隙間に忍び寄る・・・懺悔
ふとした心の隙間ができた時、ああー、あの時は何故あんな事をしたのだろうという懺悔に似た気持に
なったことがないだろうか。
後悔なんて生易しいものではなく、そう、いわゆる懺悔である。
私は別にキリスト教信者でもなんでもないが、時折忍び寄るいくつかの過去に接した時、いたたまれない
気持に苛まれる。
人は誰かに悩みなり、心の底を吐き出した時、気持が和らぐという。
キリスト教信者であれば司祭に話すことにより、痛みは半減することも・・・さもありなんと・・・
しかし、殆どの人は多分心の奥底にそっとしまいこんでしまっているのではないか。
しかし、ふとした瞬間に、その暗い扉の鍵はいとも簡単に開けられ、外に出ようとするし出てしまうこともある。
何事もない平穏な日々、どちらかと言うと、幸せの絶好調である時に限って、悪魔は囁くのである。
自分が正しいと思って行動した事でも、相手次第で捕らえ方は千差万別である。
良かれと信じてやったことが裏目に出て、他人を思わぬ結果に導いた場合、それは加害者となり、
また被害者と化す。
普段は安穏として忘れている事でも、本当にまさかと思うひょんな時に、ドドドーッと大きな波が押し寄せるか如く
次から次と連鎖して、ああー、あんなこともあった、こんな事も・・・と思い出す。
果たして、人は一生の間に誰一人として傷つけずに終えることが出来るのであろうか?
否! そういう聖人君子はまれであろう。
後悔と言う言葉がある。
「後悔」の「悔」は懺悔の「悔」でもある。
後悔してもしきれず、行動を起こすのが、多分懺悔であろう。
ここまで読まれた奇特な方は、「えーっ、やしのみさんって、そんなに悪いことをしたのー?」と
驚かれることでしょう。
いえいえ、多分他人から見れば大したことではないのかもしれません。
勿論法的に触れるようなことではなく(笑)内容的にも一笑に付されることなのかもしれません。
ただ自分自身の信条、ポリシーにおいて反する行為だとみなされた時、それはとてつもない後悔となり
懺悔に変わってしまうのである。
そう、罪悪感で胸が苦しくなるのである。
あなたの胸のうちは如何なものでしょう?
人生の大半を生きてきた今、いや今だからこそ、きっと、反省し、後悔し、懺悔の気持になるのかもしれない。
人生経験が未熟な若い頃の他人から見れば浅はかな行為。
若さゆえで片付けていいものかどうか。
人を傷つけるのに刃物はいらない。
たとえ法的な罪は犯さずとも、知らない内に人を傷つけることの恐ろしさ。
失敗は成功の母という。
後悔して懺悔して、それで終わりではなく、残る半分の人生をプラスで埋め、過去のマイナス部分を相殺、
いや例えプラス0.01でもいいではないか、将来に向けての指標を増やすことが出来たなら!
厳しい冬将軍がやって来る前に、山積みした難問題を解く鍵を探し、開ける。
解決の鍵が開くのがいつかは分らない。
しかし、地道にコツコツと悔い改める努力を惜しんではいけない。
きっと、それは懺悔から始まるのかもしれない。
悪魔のささやき・・・胸を張って受け入れましょうぞ。