今渦巻いている憎しみのエネルギーに警戒を
新年が明けてまだ日も浅いのですが、残念なことに、今回は非常に暗い話題を取り上げねばならないと思っています。
たしか3ヶ月ほど前だったと思います。「優先席付近では、携帯電話の電源は必ずお切りください。最近、車内でのお客様同士のトラブルが増えております。ご協力をお願いいたします。」こういった車内放送を聞いた翌日、今度は別の路線で、「先ほど○○駅におきまして、お客様同士のトラブルがあった関係で、下り電車約10分ほど遅れております。」こういう構内放送を聞きました。私は昨夏ごろから、街行く人々に、苛立ちというか殺気というか、異様に攻撃的な雰囲気を感じていました。
私ひとりが感じているのかな、と思っていたころ、ある週刊誌の見出しに「異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか」の文字が。私は週刊誌が嫌いで、普段手に取ることはまずないのですが、このときは思わず買ってしまいました。この記事では、昨夏からではなく、すでに1980年代半ばから攻撃的な人々が徐々に増えてきたという内容なのですが、私も同感です。私は、攻撃的な人々が元々少しずつ増えてきていたことに加えて、昨夏ごろからさらに拍車をかけて急激に増えているように感じます。(ちなみに、この週刊誌の記事は内田樹著「呪いの時代」という本を基に書かれたようです。)
●震災の影響
これには、東日本大震災の影響が深く関わっていると思います。震災の被害というと、津波の被害と原発の被害ばかりに目が行きがちで、間接的な被害、特に被災地以外での震災の影響による倒産、失業、収入減などは忘れられがちです。震災発生直後は「被災地の人たちに比べれば、これくらいどうってことない」という思いで、何とか我慢できたと思うのですが、さすがに夏ごろになると計画停電が行なわれたこともあって、その我慢も限界に達してしまったと思います。特に計画停電による交通機関の乱れは、攻撃的な人々を激増させたと思います。
●ネットの影響
また、震災の影響以外では、ネットの影響というものがやはり否めないと思います。ネット上には、親しい人たちだけが集まるコミュニティの場もあり、そういった場で有名人の悪口を書いたり、乱暴な言葉のやり取りがあっても、私は構わないと思うのですが、問題はそういった乱暴な言葉使いがネット上では普通なのだと思い込み、他の多数の人たちが閲覧するようなサイトやブログにも乱暴な言葉を書き込んでいるのが多数見受けられることです。例えば、ショッピングサイトのユーザーレビューに「この本の著者はアホじゃねーか?」といった具合です。
こうした乱暴な言葉使いはネット上だけにとどまらず、新聞やテレビ番組への投稿、他人や企業と交わすメールや書類、さらには実際の会話にまで広がっていて、ネットのこうした風潮が社会全体へ悪影響を及ぼしているのは明らかです。
●低収入の影響
格差社会により、ここ20年くらいの間に、富裕層の数はそれほど減っていないかもしれませんが、低収入層は激増しています。例えそれなりに収入がある人でも、養う家族が多ければ一人当たりの収入は少なくなってしまいます。誰しも経験があると思うのですが、ずっと前から欲しかった高価な物をお金をコツコツ貯めてやっと手に入れたときの喜びは格別で、それまでの苦労が全部吹き飛んでしまうくらいです。たまにこういうことがあるからこそ、普段の生活での面倒なことにも耐えられるのではないでしょうか。しかし現在は、経済的な余裕がなくて、高価な物などまったく買えないという人たちが非常にたくさんいると思われます。いや、もしかしたら日本人全体の半分以上の人たちがそうかもしれません(私もそのうちの一人です)。
高価な物をまったく買えなくなってしまった人たちの心はどうなるでしょうか。憧れの洋服やアクセサリーも買えない、バイクやパソコンも買えない、旅行にも行けない、家やマンションなんてとんでもない話… これでは多くの人が「生きてても何にもいいことねぇや」と心が荒れだし、毎日イライラするか、酒に頼るか、場合によっては「うつ」になってしまう人もいるでしょう。こうしたことが、攻撃的な人を増やす一因になっていることは間違いありません。
●内的な要因と人口過密
こうした外的な要因に加え、内的な要因も増えています。自己中心的、礼儀知らず、苦労知らず、他人と関わる経験が少ない、周囲の人から愛情を注がれなかったなど、精神的に未熟な人は増えていると思います。他人の気持ちを思いやる能力には、かなり個人差があるようです。常に他人に迷惑をかけないように、自分のことよりも周りの人たちに重きを置いて行動する利他的な人たちがいる一方で、常に自分のことばかりを考え、他人を物と同様にしか感じることのできない利己的な人たちもたくさんいます。
こうしたことは、子供の頃の育った環境の影響や先天的な原因による場合が多いと思われますが、都会の人口過密の影響も軽視できません。ある大きさのケースの中に数匹のネズミを入れ、充分な餌を与えた場合、ネズミがどこまで増えるかという実験に関する話題を以前テレビで見たことがあります。それによると、最初はあっという間に増えますが、ある程度になるとそれ以降はまったく増えなくなるそうです。その増えなくなる原因が「ストレス」だそうです。過密によるストレスが、ネズミの増加を抑制するということです。つまり人間においても、人口が過密になるにつれて人々が感じるストレスが増加し、それが攻撃性や心の病気につながっていることは、容易に推察できることです。
●都会の人たちと地方の人たちとの意識の違い
人口過密によるストレスが増加していることに加えて、今、もうひとつのストレス増加の原因が都会で発生していると思います。それが、被災した人たちの都会への流入です。私は、首都圏に暮らす人々のマナー意識は非常に高いと以前から感じていました。例えば、旅行などで地方でバスに乗るとき、停留所で待っていた順番は関係なく、乗りたい人から先にバスに乗り込みます。早く乗って座席を取りたい人は、バスの到着と同時にわれ先にとバスのドアの前へと行きます。ところが首都圏では、並んで待っている場合はもちろん、並んでいなくても、先に停留所で待っていた人が先にバスに乗り込むというのが暗黙のルールです。これはとても素晴らしいことだと思います。
都会ではそうしないと、さまざまな場所で混乱が生じてしまうので、自然といろいろなルールが生まれ、マナー意識が洗練されていくのだろうと思います。日本人の道徳心の高さも根底にあると思います。しかし、地方から来た人たちはそうしたルールを知らないことも多いので、首都圏で暮らす場合もルールを無視して行動しがちです。もちろん、これは仕方のないことです。被災した人たちも、好きで都会にやって来たわけではありませんし、ましてや放射能汚染によって避難を強いられた人たちは、憤りを感じながらの都会暮らしになると思います。ですが、そうしたルールやマナーがあることを知っていただいて、守っていただければありがたいです。
●攻撃的精神状態の伝染
さまざまな要因によって今攻撃的な人たちが激増しています。さらに恐ろしいのは、こうした人たちの攻撃的な行いが、さらにたくさんの攻撃的な人たちを生み出すという事実です。例えば、たまたま入った飲食店の店員がイライラしていて、水も持ってこない。「すいませーん」と呼んだら「チェッ」と舌打ちするのが聞こえて、無造作に水をドンと置いたらどうでしょう。あるいは、電車に乗ろうとしたとき、誰かが割り込んできて「どけ」と言いながら先に乗って行ったとしたら、その場に居合わせた人たちはどんな気持ちになるでしょうか。皆「ムカッ」となるでしょうし、中には怒る人もいるでしょう。こうした出来事が頻繁に起こると、攻撃的ではなかった人までもが攻撃的になってしまいます。ちょうどインフルエンザが他の人にもうつるように、攻撃的な精神状態も簡単に人にうつってしまい、攻撃的な人の増加を加速させることになるのです。
攻撃的な人が増えてくることによって、新たな悪い状況も生まれてきます。すべての人たちが、他人に対して不信感を持つようになるという状況です。例えば、親切心で席を譲ったのに「余計なことしないで!」などと言われるのではないかとか、近くに行っただけで嫌な顔をされるのではないか、バカにされるのではないか、といった不信感です。こうした不信感が広がることによって、人と人との関係がどんどん険悪なものとなってしまいます。
●どう対応するか
気づかない人が多い中、こうした険悪な状況は静かに不気味に広がっていて、人と人との間に亀裂を生じさせ、世の中を殺伐としたものにしている気がします。
では、このような状況の中、私たちはどのように過ごせばよいのでしょうか。ひとつはっきりしていることは、攻撃的な振舞いは苦しい状況や悲惨な結果を生み出すことはあっても、良い結果は何も生み出さないということです。ですから、これをご覧になっている人までもが攻撃的になってはいけません。まずは「攻撃的に振舞うことは間違ったことだ」とはっきり認識することです。
しかし現実は、一歩外へ出れば、攻撃的な人たちがウヨウヨといる状態です。攻撃的な人による攻撃を受けても平静でいることは、かなり難しいことです。世の中がこういう状況になってしまった以上、結局のところ、知らない人とはなるべく関わらない、という姿勢がどうしても必要になりそうです。ただし、周囲にいる人に対して「どうせコイツも攻撃的なんだろう」などと先入観を持つのは良くありません。攻撃的な人かどうかは、外見では判断できません。また、攻撃的な人を見かけても「懲らしめてやろう」などと考えてはいけません。上述したように、攻撃的な振舞いは苦しい状況を生み出すだけですので、誰かが懲らしめる必要はありません。
攻撃的な人による攻撃を受けてしまった場合は、是々非々で対応するよりほかはないと思います。我慢できる程度であれば水に流し、度が過ぎていれば反撃するなり、従業員や警察官などに訴えるという対応が必要になろうかと思います。
●ネット上の改善策
先述のネットの影響について考えてみましょう。ネット上で使われている言葉には、何か独特のものを感じます。例えば、テレビに出演しているときはきちっとした丁寧な言葉使いで話しているタレントが、自分のブログになるとなぜか「撮影中に失敗しちゃったよ〜」などとなる。そういう私もネットを始めたばかりの頃は、掲示板などで「いや〜、助かりましたよー」などと書いていた覚えがあります。普段そんな言い方をしないのに。
もう、このようなネット独特の言葉使いはやめませんか。いい年した中年の男性が女子高生に合わせるかのように絵文字を多用しているのはヘンだと思います。普段使っている言葉をそのまま使えば良いのではないでしょうか。つまり、目下や親しい人にはタメ口でも構わないでしょうが、目上や知らない人には敬語で、不特定多数の人たちが見る場合はやはり丁寧な言葉を使うのが常識的ではないでしょうか。
ちなみに、最近はタメ口を使いたがる人やタメ口の方がいいと思っている人がたくさんいるようですが、タメ口には人と人との距離を縮める良い効果もありますが、反面、自分の中の悪い面やわがままな面が出やすくなるという欠点もあるのです。昔は家族の間でも敬語を使って話をする家庭がたくさんありましたが、それは自分のわがままや悪い面を外に出にくくして、家庭円満を守るための昔の人の知恵であったのではないかと、私は思います。
●低収入の不満は反格差社会に向けよう
低収入の影響については、今までこのコーナーでも書いてきたとおり、格差社会は一刻も早く終わらせるべきだと思います。一方で、現在はデフレの状態が続いていて、幸いにも少ない所持金でいろいろなものが買える状況になっています。この状況であまり贅沢を望むのは良いとは言えないでしょう。いろいろな物が欲しくなる背景には、広告や宣伝の煽りの影響もあると思います。私たちは時折、絵門ゆう子さんの「毎日がいのちの記念日」や本田美奈子.さんの「LIVE FOR LIFE」といったメッセージに帰る必要があると思います。低収入の不満は、格差社会や過剰な競争社会を終わらせることに向けられるべきだと思います。
●最後に
昨年3月11日以降、「がんばろう日本」「負けるな東北」「たすけあい」の言葉が飛び交い、日本がひとつになるかのように見えました。実際、援助活動をした人、寄付をした人、助けられた人がたくさんいらっしゃると思います。しかし、今の日本を見ていると、その反動で人々は互いに離れ合い、憎しみのエネルギーが蔓延してしまっているように見えます。この憎しみのエネルギーが蔓延している状況を軽視していると、とんでもないことに巻き込まれる可能性があります。今回、この攻撃的な人たちが増えている原因を探ってきたことで、もともと社会の変化で攻撃的な人たちが増えてきているという背景はあったものの、やはり昨年の大震災のさまざまな影響で、攻撃的な人たちが激増してしまったという事実が浮き彫りになったと思います。この事実を知れば、「こういった状況もやむを得ないな」と冷静に受け止められるのではないでしょうか。冷静に行動しましょう。
2012年1月12日
新たな経済の体制を考える
その後、帝国主義⇒軍国主義という暗黒の時代をたどったことを考えると、私はどうしても幕末の志士たちを英雄視する気持ちにはなれないのですが、今年は大河ドラマの影響があってか、また幕末の英雄たちがブームになっているようですね。坂本竜馬や西郷隆盛といった人たちが英雄視されるのは、もちろん、それまでの鎖国、封建社会を終わらせ、日本を近代国家に生まれ変わらせるという革命を成し遂げたからでしょう。
ところで皆さんは、この「封建社会」とか「絶対王政」という時代にどんな印象をお持ちでしょうか? 「良い時代だった」と思う人、いるでしょうか? ほとんどの人は「悪い時代」「悲惨な時代」と思っているのではないでしょうか? だとすれば、私たちは今すぐ、坂本竜馬や西郷隆盛になって、今現在のこの社会も変えなければなりません。その理由を今からご説明しましょう。
●下請けはクライアントの奴隷
少し前に、皆さんご存知のとおり、トヨタのリコール問題というのがありました。トヨタ側は欠陥ではないと言っているようですが、欠陥があると主張している側は、ブレーキが作動する際のシステムに問題があるのではないかと主張しています。この「システムの問題」という言葉、15年ほど前からニュースや新聞などでよく見聞きするようになりました。システムの問題で ATMが使えなくなったり、空港で搭乗券が発券できなくなったり、自動改札機でICカードから過剰に料金が引かれたり… 世界中で話題になった2000年問題(Y2K) も早い話、システムの問題です。このようなニュースを聞けば、大抵の人は「何やってんだ!」と憤慨されると思いますが、ソフトウェア開発の経験がある人からすれば、「しかたないよねぇ」と思う方も多いのではないかと思います。なぜなら、ソフトウェア開発の現場は、非常に劣悪な環境に置かれている場合が多いからです。
私がソフトウェア開発会社に勤めていた10〜20年前も、朝9時から深夜1時までの労働を見張りつきで強要されるなど、ひどいものでしたが、現在は不況な上に技術者が不足しているということですから、さらに悪化していると思われます。それに加え、仕事を請け負う際には、開発側が見積りで提示した金額や開発期間は大幅にカットされるのが普通です。これでは、製品化、本格稼動した際に、何らかの不具合が出るのも無理はありません。
これはもちろん、システム開発の分野だけでなく、ほとんどの分野・業界で見られる問題です。中小運送会社のトラック運転手は寝る暇もなく、赤信号で停止している間に仮眠をとるという話も聞いたことがあります。これで本当に、経済大国とか民主主義国家と言えるのでしょうか。こうした問題は、少し考えればわかるとおり、下請けはクライアントに逆らえない、絶対服従である、ということが原因です。
つい最近のドラマで見たのですが、ある女性社員がクライアントの幹部にセクハラされたものの、誰にも相談できず自分の胸にしまい込むというシーンがありました。セクハラを受けたことを公にしてしまえば、クライアントとの関係に亀裂が生じ、会社全体に大きな経済的ダメージを与えてしまうからです。こういったことは、実際にも起こり得ることだと思います。
クライアントから発せられる「是が非でも安くあげろ!」という要求は、いまや経済界全体で大合唱になっていると思います。この「是が非でも安くあげろ!」という要求が、マンション耐震強度偽装事件やミートホープの牛肉偽装事件、コムスンの不正水増し事件、老人福祉施設「たまゆら」での火災事故など、さまざまな事件や惨事を引き起こし、さらには最近増えている過労死やうつ病にもつながっていると思われます。
●真の権力者は誰か
江戸時代までは、幕府に権力が集中しているという封建社会が続いていました。その後、明治維新で封建社会が倒れたものの、第二次世界大戦まで混迷の時代が続き、戦後ようやく本当の意味での民主主義国家になったと言ってよいのでしょう。「民主主義」という言葉を見れば、それまで一握りの為政者が握っていた“権力”というものが、われわれ一般市民に移されたのだ、と誰もがそう思うはずです。
しかし、ここからが重要なのです。たしかに、それまでの幕府や国家などの為政者から、「民」へと権力が移されたのは事実です。しかし、権力が民に移されたとたん、とんでもないことが起こりました。われわれ一般市民全員に権力が移されるはずだったのが、ごくわずかな資本家と呼ばれる人たちに権力が奪われてしまったのです。どうしてこんなことが起こってしまったのか… それは言うまでもなく、日本が民主主義国家であると同時に、資本主義国家でもあるからです。
これを書くにあたって、封建時代というものがどんな時代だったのか、資料を読んでみたのですが、…これは本当に驚いたのですが…、封建時代といえば、とにかく、幕府や諸藩の大名たちが絶対的な権力を握っていて、その下の農民や商人、職人などは、役人に対しては絶対服従であった、そういうイメージないでしょうか。ほとんどの時代劇でも、そのように描かれていると思います。しかし、それはとんでもない間違いだったようです。貨幣制度が定着してきた1700年代、「大坂の豪商ひとたび怒って、天下の諸侯おそる」という言葉が示すように、すでにこの時代、武家たちは財政が苦しく、商人たちに頭が上がらない状態になっていたようです。
私はこの事実を知って、少し寒気がしてきました。江戸後期から昭和にかけて、日本は激動の時代を過ごしました。しかしその裏で、財閥を中心とした資本家たちは 300年にもわたって、影の権力者として君臨し続けていることになるのです。ここでひとつ、重要な事実が浮かび上がりました。それは、政治の仕組みがどうあろうと、真の権力はお金であり、お金を持つものが真の権力者であるということです。
現在「官から民へ」と盛んに言われています。しかし、政治家や官僚が口にする「民」という言葉は、「一般市民」を指しているのではなく、結局のところ「資本家」を指しているということに注意してください。さまざまな権限が官から民へと移されるということは、資本家が影の権力者から、いよいよ表舞台に登場することを意味しています。昨今問題になっている「派遣切り」はまさにその現われと言っていいでしょう。政治や行政の場において、経済界の発言力がどんどん強まっているのは誰の目にも明らかです。財政が非常に厳しく、「消費税を上げなければ…」と言われている時代に、なぜ法人税を下げる必要があるのでしょうか?
●新たな経済の体制を考えよう
とても悲しいことに、結局のところ日本においては、16世紀までは「権力=武力」、17世紀以降は「権力=お金」という時代がずっと続いているようです。現在、私たちは「お金を生み出す力があるかどうか」で価値判断されています。本当にこれでいいのでしょうか? 皆さんはこれからも「失業するのではないか」という不安にビクビクしながら、消費者やクライアントの言いなりになることを続けていきますか? 問題の根底にあるのは言うまでもなく「資本主義」ですが、この資本主義から脱却できない原因は、国家の経済的な体制として、資本主義か共産主義かのどちらかしかないという思い込みにあると思います。資本主義に強い疑問を感じている人でも、「だからといって、共産主義はあり得ないだろう」といった具合です。しかし、この二つだけではないはずです。私たちが知恵を出し合えば、こんな欠陥だらけのイデオロギーよりも、もっともっとよい体制が見つかるはずです。
たとえば、アメリカが掲げる『自由・平等・博愛』の精神はとても素晴らしいものです。しかし、現在のアメリカを見ていると二つの問題点が浮かび上がります。一つは、自由といっても、法律もルールもないような完全な自由は実現不可能だということ。よりよい社会を築くためには、さまざまな規制がとうしても必要になります。もう一つは、博愛の精神がどんどん薄れているということ。政府や州だけが持つのではなく、民間企業や一般の人々にも博愛の精神をもってもらうことが必要だと思います。最近、ビル・ゲイツ氏が「資産家は慈善団体に寄付をすべきだ」として、自ら多額の寄付をし、ほかの多くの資産家もその呼びかけに応じて寄付をしたということがありましたが、これはとても注目すべき出来事だと思います。
これらのことを参考にして、日本でも『平等・博愛・可能な限りの自由』を掲げて、それを前提に新たな経済のしくみを導き出すとよいのではないでしょうか。特にこれからは「博愛」が重要で、これを軽視するからこそ、社会が間違った方向に進むのであって、政府はこの博愛を民間にも強く求め、企業は自然環境に配慮する、資産家はその資産の一部を社会に還元するのは当然のこととして、強い姿勢で臨むべきだと思います。
資本主義を卒業するときが来ていると思います。新たな経済体制を造り上げることを、資本主義が崩壊する前にやらなければなりません。
2010年10月14日
覚せい剤やめますか? それとも、人間やめますか?
●基準ディスクに描かれた「のりピーちゃん」
あるコンテストに応募するための「草原につづく道」の新曲が、つい先日完成しました。音質、音量などを整える最後の仕上げの作業(マスタリング)では、いつも「おさかな天国」という曲のCDを基準ディスクにして、このCDと同じ音量に聴こえるように調整しています。この「おさかな天国」については、2002年5月1日のこのコーナーで触れたのですが、とてもいい曲で、音量バランスなども非常によく整えられているため、基準ディスクとして使わせてもらっている次第です。このCDの盤面には、さかなや答案用紙などのかわいいイラストが描かれています。タイトルは「のりピーちゃん」。
先ほど、その酒井法子さんの謝罪会見を見ました。なんとも悲しいものでした。暴力団との関わりが噂されているだけに、「あの清純なイメージは偽りだったか」「私生活は乱れていたのか」などと想像していましたが、会見のときに見せたあの大粒の涙は、心の中にまだきれいな部分が残っていることを物語っていました。それだけに「なぜ?」と疑問は深まるのですが、今まで薬物で逮捕された有名人たちを思い起こしてみると、失礼な言い方ですが、何となく「薬物に手を出してもおかしくないな」と思える人ばかりだったのですが、酒井法子さんに関してはそういうイメージがまったくない。さらに、薬物を何回かやってしまった人には、意味不明の言動や行動が見られ、「頭がやられちゃってるな」という印象が必ずあったのですが、酒井法子さんにはそういう印象もまったくない、初めてのケースだという気がします。それだけに、恐ろしさも感じるのです。
最近、有名人が薬物の所持で捕まるというニュースは、明らかに増えていると思います。外国人や学生などが、自宅や空き地などで大麻草を栽培していたというニュースもよく耳にします。先日は、公立中学校の副校長が薬物の所持で逮捕されるという事件がありました。10代の若者たちの間に、薬物汚染がかなり広がっているということは、もう10年以上前から言われています。脱法(合法)ドラッグまで含めると、世の中に一体どれほど薬物が広がっているのか… ゾッとする思いです。
●麻薬や覚醒剤をやってはいけない本当の理由
なぜ、麻薬や覚醒剤をやってはいけないのか? こう疑問に思う人は少なくないでしょう。この疑問に対する多くの答えは、「心も体もボロボロになるから」です。でもこれだけだと、「ちょっとだけならいいじゃん」「試しに一回だけ」という考えに陥りがちです。特に、知人に薦められたときはそうなりやすいでしょう。しかし、これはとんでもない間違いです。たとえ一回だけでも、ごく微量であっても、とんでもない結果を招くことになります。薬物がもたらす作用というのは、一時的な快感とその後の中毒症状だけではありません。むしろそれらは副次的な作用です。本当の作用は、私たちの魂にもたらされます。これは実に恐ろしい作用です。オーストラリア人ミシェル・デマルケさんが書いた「Abduction to the 9th planet」(邦題「超巨大宇宙文明の真相」徳間書店)から引用してみましょう。ちなみに、文中に出てくる「アストラル体」は「魂」と解釈していただいて結構です。
麻薬は肉体的健康を奪うばかりか、個人の宇宙的進化の過程を反転させて精神を蝕みます。同時に、麻薬は幸福感や人工的パラダイスの状態を引き起こす時に、アストラル体に直接的な害を与えてしまいます。これはとても重要なことなので、詳しく説明しましょう。
アストラル体は二つのことによって害を受けます。麻薬とある種の騒音によって引き起こされるバイブレーションです。麻薬だけを考えてみると、完全に自然に反する影響力を持つことを理解しなければなりません。麻薬はアストラル体を、本来あるべきではない別世界に移してしまいます。アストラル体は、肉体内またはそのハイアー・セルフ(高次の自我)とともになければなりません。麻薬を使用すると、個人のアストラル体はまるで“眠っている”ような状態になり、その人の判断力を完全に歪める人工的な感覚を体験させます。それは、肉体が深刻な手術を受けているのと同じ状態です。また、私たちが使い方を間違えて曲げたり壊してしまう道具に似ています。
その人が麻薬に影響を受けている時間の長さに比例してアストラル体は衰えていき……より正確に言えば、間違ったデータで満たされていきます。アストラル体の“回復”には数回人生をくり返すほどの時間がかかります。このため、絶対に麻薬は避けなければなりません。
魂(アストラル体)には、宇宙が始まってから今までに経験したことのすべてが記録されています。その記録が破壊されてしまうのですから、その分の人生をやり直さなければならないのは当然のことです。私たちは、魂の成長のために生きているのですから、薬物によって魂が破壊されてしまうというのは、文字どおり“最悪”の出来事です。薬物には絶対に手を出さないでください。薬物をやっていそうな人や場所には近づかないでください。もちろん、脱法・合法ドラッグも含めてです。 もし、やってしまった人や、やっている人は、もちろん今すぐにやめ、中毒症状が出ている場合は、病院やそういった相談受け付けている所に連絡をとってみてください。
●ごみくずほどの価値もない「サイケデリック」
遊び感覚で、一時的な快楽を求めて薬物を使用するのは、まったくもって愚かだと言うほかありませんが、よく聞かれるのが、芸術家がさらによい作品を生み出すためにとか、宗教家がさらに高い世界を体験するために薬物を使用するというケースです。しかし、先ほどの引用文にあったとおり、薬物によって体験できる世界というのは、高い世界でも神の世界でも何でもなく、単なるデタラメな世界です。超低次元な「パッパラパー☆パラダイス」です。それを、さも高い価値があるかのように「サイケデリック」などと称してもてはやしているのは笑止千万。それと、はっきり言って「神秘体験」などというものは、魂の成長に何の寄与もしないということを付け加えておきましょう。 もっとも、薬物によって体験できるのは神秘体験ではなく、まったくアホらしい「パッパラパー☆体験」ですが…
覚せい剤やめますか? それとも、人間やめますか?
有名なフレーズですが、グリーンハートパークからもひとつ。
数時間の快楽、味わいますか? その後、数百年の苦しみを味わうことになっても?
2009年10月30日
裁判員制度に反対
裁判員制度の実施が近づくにつれ、その内容がだいぶ見えてきました。まさか国がそんなにひどいものを作るわけがないと思っていたため、その内容について今まで特に関心はなかったのですが、報道などでその内容を見聞きするにつれ、「かなり問題があるのでは?」という疑念を持つようになりました。そして、NHK でこの制度について大きく取り上げた番組を見て、これがとんでもない制度であるということがわかってきました。
私も裁判員に選任される可能性があるようなので、ここに強く、この制度に対しての反対の意を表したいと思います。以下に、この制度について私から見た問題点を挙げていきたいと思います。
●特別な理由がない限り辞退できない
裁判員として選任されたとき、特別な理由がない限り、これを辞退できません。特別な理由とは、ざっと挙げると次のようなものです。
高齢であること(70歳以上)、学生であること、過去に裁判員の経験があること、重い病気を患っていること、家族を養育・介護する必要があること、仕事を休むと業務に重大な支障をきたすこと
などです。
なぜ、このような理由がない限り、裁判員としての参加を強制されるのか、理解できません。「徴兵ですか!?」と言いたくなります。全体主義的な臭いを感じます。
●裁判員に課せられる責任があまりに重い
裁判員が参加する裁判は次のようなものです。
死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る刑事裁判の一審
つまり、かなり凶悪な事件の裁判に関わる可能性もあるということです。しかも、裁判員の意見は判決に直結します。ですから、ひとりの一般人が、死刑判決に直接関わる場合も少なくないと思います。自分たちが下した判決によって、ひとりの人間の命が奪われる。この責任の重大さは、説明しなくてもお分かりいただけると思います。「一審だからそんなに重く考えなくてもいい」という問題ではないと思います。
また、裁判員には守秘などの義務が課せられます。これを破ると、罰金または懲役に処せられるという、こんな責任まで負わされるのです。
●そもそもメチャクチャな話
憲法において私たちには思想・信教の自由が認められています。本来、司法試験という最も難しい試験に合格し、法律に関する深い知識を身につけ、より厳しい公明正大さが求められる人たちが座る場所。そのような場所に、法律に関する知識もなく、死刑制度に賛成の者、反対の者、命を尊いと思う者、他人の命に何の重みも感じない者、貧しい人たちを助ける活動をする人、邪悪な宗教を信じる人などなど、バラバラな考え方や価値観を持った人たちが最も重要なポジションに座り、検察側、被告側の意見を聞き、最終的な判決を下す。 …メチャクチャな話だと思います。
医学の知識がなく勉強もしていない人が(たとえプロの医師のサポートがあったにせよ)患者さんの容態を聞き、どのような処置を施し、どのような薬を投与するかを判断する、そんなことができるでしょうか。あるいは、プロ野球のチームにある日突然、野球を全くやったことのない人たちが6人入って試合をしたらどうなりますか。
●危険が及ぶ可能性
裁判員に危険が及ぶと予想されるような裁判は、裁判員が参加しない形式にするよう、法律で定められています。しかし、殺人のような重大な事件の場合、裁判員に危険が及ばないと言い切れるケースなどあるのでしょうか。重い刑の判決を下せば被告側から恨まれますし、軽い刑の判決を下せば逆に被害者側から恨まれてしまいます。ましてや、社会を騒然とさせたような事件、その判決が日本中の注目を集めるような事件では、当事者だけでなく、事件に全く関係のない人たちにまで恨まれてしまい、普通に街を歩けない、という状況に追い込まれる可能性もあると思います。
さらには、別の危険に晒されらる可能性もあります。PTSDなどの心の傷を負う可能性です。公判では、事件当時の凄惨な状況を詳しく聞くことになるでしょう。また、被告人から「おまえも絶対殺してやるからな!」などと言われる可能性もあります。さらには、死刑判決を下すにしろ、減刑するにしろ、「自分のせいで死刑に…」「被害者の家族があんなに死刑を望んでいたのに…」といった罪悪感に、裁判終了後も長きにわたって苛まされるケースも出てくると思われます。
●裁判の質が低下する、というより…
裁判は、なんと3日程度で終了するそうです。3人の玄人と6人の素人が集まって3日間審議し、判決を下す。「あれっ、えーと…、これって模擬裁判でしたっけ?」と錯覚を起こしそうです。本来の裁判では膨大な量の資料や証拠が用いられるわけですが、裁判員が参加する裁判ではそれらの資料は「公判前整理手続」によって要約され、争点が絞られた上で裁判員に提示されるそうです。しかし裁判というものは、最近の痴漢事件の例を見ても明らかなように、非常に判断が難しいもので、慎重に慎重を重ねて行なわなければならないものではないでしょうか。それを、3人の玄人と6人の素人によって、たった3日間の審議で判決を下す。裁判の質が低下するというより、こんなことが本当に許されるのか、という思いです。
■まとめ
とにかく、このようなとんでもないものが、実際の制度としてよく成立したものだと、逆に感心してしまいます。私は従来の裁判のやり方に特に問題はないと思っているので(仮にあったとしても、それが裁判員制度によって解決するとは到底思えない)、裁判員制度の必要性を全く感じません。
もしどうしても実施するというのでしたら、二つほど提案したい。ひとつは、裁判員に裁判官的役割を任せるのではなく、公判中に何度か意見陳述をし、裁判官はそれを参考にする、という程度にした方がよいのではないかということと、もう一つは、ある人が裁判員として選ばれたときに、理由なしに辞退できる権利を与えるべき、ということです。
私も民事裁判の経験があります。たかが数十万円の問題でも、当事者はかなり必死です。刑事裁判でも常習犯ならともかく、何もやっていないのに逮捕されてしまった人や被害者の側にとっては、人生がメチャクチャになるかどうかのギリギリのところでの必死の争いとなるはずです。裁判官、検察官、弁護士といった司法の専門家だけで裁判を行なうと、一般の人たちの感覚からかけ離れた公判・判決になってしまうというのであれば、やはり上に述べたように、裁判員が判決に直接関わるのではなく、公判中に何度か意見を述べる機会を設け、裁判官はそれを参考にする、というやり方のほうが良いのではないでしょうか。
2009年4月18日
絵門ゆう子さんに学ぶLセルフメディケーション
前回の更新が昨年の12月。つまり、今回が今年初めての更新ということになるので、今年起こった出来事や思ったことも含めて書いてみたいと思います。
●チビ、ありがとう!
暦によると、今年の私は「変化の年」だそうで、今年の初めの時点では「仕事が変わるのか、それとも引っ越すことになるのか…」などと考えていたのですが、結局、実家で飼っていたネコの「チビ」が天国へ逝ってしまったことが最も大きな変化となりました。私にとってはこれは本当に大きな出来事で、17年間ほとんど一緒に暮らし、遊んだり話したり癒されたりして、いつも居ることが当たり前だった存在がいなくなってしまうというのは、いまだに実感が湧かないくらいです。チビが生きている頃は「こちらが面倒を見ている」という気分でしたが、いなくなってみると、逆にこちらがお世話になっていたのだとしみじみ思います。
チビが生きていた17年間というのは、私が自分のやりたいことと現実との狭間で必死にもがいていた時期とちょうど重なり、私を精神的に支えるためにこの世に来てくれたのではないかと思えてなりません。実際、チビが亡くなる日というのは、私は気になって仕事から帰宅後すぐに実家に行ったのですが、その時はすでに息も絶え絶えで、私が到着してから20分後に呼吸が止まりました。「オレが来るのを待っていたんだ…」と思い、涙が止まりませんでした。チビの支えを無駄にしないためにも、また、今でもチビの魂は近くにいると思うので「これからもちゃんとしなくては」と気持ちが改まります。
チビ、また会おう!
●宮沢賢治展
今年8月、東京・日本橋のデパートで「絵で読む・宮沢賢治展」が開催され、私もわくわくしながら観に行きました。直筆の原稿や「雨ニモマケズ」の詩が書かれた本物の手帳が展示され、興奮してかじりつくように見てしまいました。「春と修羅」や「注文の多い料理店」刊行当時に作られた広告には「買ふ買はぬは第二として、見る丈はゼロ、見て頂きたい」(買う買わないはひとまず置いておくとして、見るだけならタダ、見て頂きたい)などと書かれていて、とても興味深いものでした。また、個人的にかなりびっくりしたのが、賢治が「注文の多い料理店」のイラストを依頼した菊池武雄に送った手紙の内の一つ。宛先が「四谷第六小学校内」となっていたのです。四谷第六小学校と言えば、絵門ゆう子さんが朗読コンサートや講演を行なった所で、最も親交の深かった小学校です。
そう言えば、絵門さんが朗読の活動を始めるきっかけになったのが、 NHKの青木裕子アナウンサーの朗読会。これは「銀河鉄道の夜」の朗読会でした。今回の宮沢賢治展の案内には「賢治の作品が今もなお愛され評価されているのは、読み手を幻想的な世界へと誘うからにほかなりません」と書かれていますが、絵門さんは「がんでも私は不思議に元気」の中で、天国に向かう銀河鉄道に、友とともに乗っている。そしてふと気がつくと、この世に戻っている。銀河鉄道の世界が自分自身に重なった。と書いています。
それから今回「宮沢賢治展」が行なわれた日本橋は、絵門さんのオフィスがあった所で、とても縁の深い場所。会場になったデパートは「うさぎのユック・サイン会」が行なわれた場所でした。
宮沢賢治と言えば今でこそ知らない人はいない童話作家であり詩人であり、数え切れないほどの本も出版されているわけですが、生前はプロの作家でも詩人でも何でもなく、「愛国婦人」に「雪渡り」を発表したときに得た5円が、生前に得た唯一の原稿料であるという事実は、私を果てしなく勇気づけてくれるのです。
●西洋医学をどう捉えるか
テレビのニュースを見ていると、国や地方自治体の財政が依然厳しい状況にあることがよく伝えられています。実際具体的にはどのような部分にお金がかかっているのか私は知らなかったのですが、実は医療や福祉に膨大な税金が使われているんですね。これは仕方がない面もあるかと思いますが、ただ私たちは、病気とか健康に関することについて、あまりにも病院や医師に頼りすぎていないでしょうか。これには「素人判断はしてはいけない」という常識が強く影響していると思います。
たしかに素人判断はとても危険なものです。実は絵門さんは、素人判断をしてとんでもないことになってしまった代表的な人物かもしれません。「西洋医学」というものをどう捉えるか、これは絵門さんもかなり翻弄された問題だと思いますが、絵門さんも、私の場合、結局西洋医学に助けられたから、「西洋医学が最良で、他の療法は危険だと主張する立場」と受け取られがちだが、実際には、患者に良いことは吟味して取り入れ、広い分野で治療の統合が図られることこそ必要と考えているので、そういう単純な図式にされないように伝えることも大切だった。(「ゆっくり日記」) 一方、西洋医学に頼らず、一年二ヶ月頑張った私は、死の一歩手前まで行った。反対に、同じ乳がんで、的確な時に的確な西洋医学の治療を受けた人たちは、再発せずに完治しているケースがとても多い。こうした事実を知ろうともせず、頭ごなしに西洋医学を批判する。これは、ほんとうに良くないことだ。(「がんでも私は不思議に元気」) と言っているように、西洋医学を全面的に肯定したり、全面的に否定すること自体が間違っているのでしょう。
江原啓之さんが「西洋医学も人間の叡智」とテレビ番組で言っていましたが、まさにそのとおりだと思います。今までにたくさんの人たちの献身的な努力があってここまで進歩したのだと思います。しかしその一方で、絵門さんの著書を読んで、あるいはその他医療に関するさまざまな報道を見ていて、あるいは自分や周囲の人たちの経験をとおしてみても、現在の医療に強い疑問を感じるのもまた事実です。例えば絵門さんの場合、なぜ乳がんになったのか。もちろんこの原因は、はっきりとはわかりません。しかし、かなり疑わしい事実があります。不妊治療と流産のときに受けたホルモン剤の投与です。不妊専門医院で出されたホルモン剤が、乳がんの引き金になった確率は非常に高い。(中略)知識がないのか、妊娠させる確率さえ上げれば良いと考えていたのか、本意はわからないが、この不妊専門医を恨みたくなる気持ちは簡単に拭い去れない。(「がんと一緒にゆっくりと」) と絵門さんも怒りを隠しません。
さらに驚くのは、この「がんと一緒にゆっくりと」よりも15年以上も前に書かれたエッセイ「花どろぼう」の一節。絵門さんが顔に次々と発疹ができるという“奇病”に悩まされたときのこと。 「そうですね、僕には卵巣に異常があると思われます。ホルモン剤による治療が必要なのではないでしょうか」(中略)診察を終えると、私に差し出されたものは両手にいっぱいのビタミン剤とホルモン剤だった。 このときも絵門さんはかなりの量のホルモン剤を服用したことがわかります(ホルモン剤にもさまざまな種類があり、皮膚の疾患にはステロイド剤も多く用いられますが、ここでは「卵巣に異常がある」という医師の言葉が記されているので、やはり女性ホルモン系の薬であると推測されます)。最近、薬の副作用というものが改めて問題になっているようですが、こうしたある意味で安易な薬の処方が、別のもっと深刻な病気を引き起こすケースは、実はかなり多いのではないかという気がします。
●セルフメディケーションの実践
素人判断はたしかに危険なものですが、同時に“玄人判断”も結構危険なのではないかと思います。では、どうすればよいのでしょうか? 私たちが体と病気に関する正しい知識を身につけ「セルフメディケーション」を実践することが、とても良いことなのではないでしょうか。どんな名医でも、患者の症状や痛みを正確に把握することは極めて困難です。絵門さんもご自身でがんについて勉強したり、さまざまな療法を試していたようですし、「自然治癒の道を選ぶ!」と言って、抗がん剤の治療を断ったりもしています。それらが良かったのか悪かったのかは別にして、私は絵門さんの著書を読んでいて、「がんという重い病気になってもそこまでやった人がいるんだから、自分ももっとセルフメディケーションを実践してもいいだろう」と思えるのです。
私は10年以上前に呼吸器に異状が表れたときに(結局何の病気かはわからなかったが、3ヶ月くらいで完治)、病気に関して少しは勉強したいと思い、「家庭医学大事典」という6500円もする本を思い切って買ってみました。しかしこれが意外とおもしろい。「こんな病気もあるんだぁ」とか「これはこういう原因で起こるのかぁ」など、初めて知る事実がたくさんありました。たとえば、最近ある“予言”で少し話題になった「デング熱」を調べてみると、「熱帯、亜熱帯に多いネッタイシマカが媒介するデング熱ウイルスによっておこる」とあり、その隣に書かれている「黄熱」もやはりネッタイシマカが媒介するとあります。マラリアはハマダラカが媒介すると書いてあります。これらは以前から地球温暖化によって本州にも広がると言われている病気ですから、蚊に刺されないようにすることも重要な予防手段であることがわかるのです。こういうことを知れば、夏は網戸をきちっと閉めるとか、蚊取り線香や電気蚊取り機を忘れずにつけるなどの対策が執れるのです。もちろんデング熱だけではありません。他にもさまざまな大事な知識があります。義務教育だけで9年間、高校・大学も合わせれば16年間さまざまなことを勉強するのに、なぜこういった大事なことは勉強しないのか不思議でなりません。現在こういった学習は理科や保健体育に組み入れられているようですが、そうではなくて、「保健」とか「医学」という独立した科目にすべきでしょう。
●病院も活用する
セルフメディケーションというのは、「病院に行かない」ということでは決してありません。むしろ、セルフメディケーションを実践する上では、病院も大いに活用すべきだと思います。特に欠かせないのが「健康診断」。毎年一回必ず行なって、自分の体の状態をデータ的に把握しておくことはとても大事だと思います。それから、体に明らかに異状が表れた場合、病院で診てもらい、医師の所見と検査結果を得ることもとても大事だと思います。ですから、何か異状が表れれば体を丸ごと預けてしまうような従来の病院だけでなく、これからは私たちのセルフメディケーションをサポートするための施設が求められると思います。現在の病院では、X線撮影や血糖値の測定などの検査をするには、医師の診断があって初めて可能になりますが、そうではなく、私たちの意思によって自由に検査できるしくみが求められると思います(もちろん、何らかの規制も必要ですが)。「セルフメディケーション・サポートセンター」のような施設が増えてきても良いと思います。
●最も重要なこと
セルフメディケーションのみならず、私たちが健康というものを考える上で絶対に忘れてはならないのが、「精神的な意味」です。肉体をただ単に機械的な物と捉えて日々生活したり、病気になっても物質的な対処に終始すると、とんでもない結果を招くことになります。「精神的な意味があるから病気になる」ということを決して忘れてはなりません。絵門さんが「私のところに何を言いにやってきたのか、『がんちゃん』の声を聞いてみるのもいいかなって」(がんと一緒にゆっくりと)、あるいはご自身のがんをこの世という修行の場の指導者(ゆっくり日記)と捉えていたように、体に何らかの変化が現れたときは、その精神的な意味を考えることが最も重要なのです。それを理解しなければ、病気が根本的に治ることはありませんし、薬や外科的処置で強引に治してしまうと、さらに別の病気や不幸を招くことになるのです。
●薬を使わないために
先ほどの絵門さんのホルモン剤の例を見ても明らかなように、薬というものは極めて危険なものです。「薬はとても危険なものである」ということは、どんなに強調してもよいと思っています。最大の問題は、医師も含めて私たちが薬を用いるときに、「精神的な意味」を考えていない点にあります。ですから「薬が危険なものである」というのは「この薬は有害で、この薬は無害」という単純なことではなく、同じ薬でも用いるタイミングによって有害であったり有効であったりするのです。単に医学的見地だけでなく、精神的な意味も考慮して判断しなければなりません。その判断はとても難しいものです。基本的には「薬はできるだけ用いない」という姿勢が大事ですが、そのためには、普段から病気にならない生活を心がけることが最重要です。
病気は何でもかんでも悪いもの、というわけではなく、普段の生活や態度に何の問題がなくても病気になることがあり、それは、肉体の改善のためであったり、精神的な成長のためであったりするのですが、ただ、それとは別に、私たちが病気を招きやすい次の三つのパターンには充分注意しなければなりません。一つめは、受け入れるべき苦労から逃げること。二つめは、不必要なお金・財産を手に入れること。三つめは、自己中心的な態度です。
●最も大切な二つのこと
すべての人にセルフメディケーションを勧めるつもりはありません。機械の操作が得意な人もいれば、苦手な人もいるように、セルフメディケーションにも向き不向きがあると思います。
ただ、「素人判断はしてはいけない」という常識があるがゆえに、医学に関する知識や情報が医学の世界の中だけに封じ込められていて、一般の人たちはそこに手を触れてはいけないというような雰囲気がまだあるような気がします。
セルフメディケーションを実践する上で、最も大切な二つのこと。それは、正しい医学的な知識を身につけること。そして、精神的な意味を常に考えること。この二つを忘れずにいれば、最近の健康ブームが物語っているように、セルフメディケーションには結構楽しい面もあり、また、私たち一人一人が健康を保つことはそれぞれの人の幸せにもつながり、ひいては世の中全体が良くなることにもつながるので、大いに実践してよいのではないでしょうか。
2008年10月31日
絵門ゆう子さんに学ぶK講演でのメッセージ
今年も残すところ、あとわずかとなりました。仕事の忙しさと「草原につづく道」の作業で、こちらの更新までなかなか手が回らない状態が続いていましたが、個人的には、ここ最近は至福の日々を過ごしていました。というのも、入手不可能とあきらめていたDVD「浪漫朗読コンサート・ふぅちゃん」が手に入ったからです。以前「浪漫朗読コンサート・うさぎのユック」を購入したとき、どちらのDVDにするか尋ねられることなく、自動的に「うさぎのユック」の方が送られてきたので、私は「ははぁ、ふぅちゃんの方は在庫が切れてるんだ…」と思い込んでしまったのですが、最近になって「追加で作られてるかも」と思い、メールで問い合わせたところ、在庫があるとのこと。さっそく購入したのでした。しかも、その対応をしてくださった方は、なんと絵門さんのご主人! 二重のうれしさでDVDを観たのでした。その内容はというと、「感動」なんていう言葉をはるかに超えた素晴らしいものでした。これについては、また後日触れたいと思っています。
●絵門さんの講演活動
さて、絵門さんの行なった講演の内容は「統合医療」というような医学的なものから「命の大切さ」という道徳的なものまで多岐にわたっていて、そのどれもがとても高い価値をもっていると思います。当初は「がん患者とその家族をとりまく環境を改善する」ということに重点が置かれていたと思われる絵門さんのメッセージですが、やがては「命の大切さ」「生きるとは?」「言わないことの大切さ」といった普遍的なメッセージに重点が移されていったように思います。 2006年3月に新宿で行なわれた講演でも「病気であるないに関わらず生きる上で普遍に通じるメッセージを受け取っていただければと思います」と、そのパンフレットの中で綴っているのです。
いろいろな絵門さんのメッセージの中でも、最も簡潔にわかりやすくまとめられているのが、これらの講演におけるメッセージかもしれません。残念ながら私もその内容はごく一部しか知らないのですが、しかしそのどれもがとても深い内容になっていますので、今回は絵門さんの講演について見ていきたいと思います。
●「生きているからこそ」(日本標準)
「生きているからこそ」(絵門ゆう子、浜辺祐一、石川文洋著)という本がありまして、これは 2005年8月に東京の津田ホールで行なわれた教育フォーラムの講演の記録なのですが、絵門さんの講演の内容が書籍という形で出版されているのはこの一冊だけですから、とても貴重なものだと思います。とにかく絵門さんの本や作品に触れるたびに感服するのは、そこにまた今までとは別の新しい、とてつもなく貴重なメッセージが必ず含まれているということです。
この本でまず目につくのは次の部分。まずはじめに魂があって、それが肉体に宿って「命」になると私は考えています。自分のものも含めて、命はすべて預かりものなのではないでしょうか。… どういうことかというと、自分の命、自分の体でありながら思うようにいかないんです。… 魂のもち方、精神の高め方という心のあり方も含めて、どうやって命を永らえようかと四苦八苦しているわけです。 これは、釈迦の言葉とそっくりだと私は思いました。
●命を大切にするために最も大切なこと
しかし、絵門さんは人の言ったことを真似するような人ではありません。ここから、絵門さん独自の深い理論が展開されていきます。命の大切さ… 命を大切にするには、一体どうしたらよいのか。絵門さんは言います。一人一人違うということを認めることです。これができないから争いも絶えない。傷つけ合うことも絶えないと。たしかに、戦争や殺人などは、自分の価値観で相手を推し量ってしまうところに原因があることがほとんどでしょう。しかし、もっと深くこのことを見つめてみると、実は病気というものも、そういった原因で引き起こされることがとても多いのではないかという気がしてきます。「何であいつはこんなこともできないのか!」「あの人は何であんなこと言うの!?」。こんなふうに考えていると、自分にも相手にもストレスが溜まってきます。絵門さん自身、「がんは心のしこりだ」という話を聞いて、「自分にも周りにも『○○すべき』と考えることが多かった」(「がんと一緒にゆっくりと」新潮社)と反省点を挙げています。ただ、絵門さんは「だからといってあまり自分を責めてばかりいてもダメだ」と後々付け加えていますが。
いすせれにしても、自分の価値観、自分の中にある一つの物差しで何もかも価値判断してしまうことが、さまざまな争いや問題を引き起こすことは間違いない事実でしょう。だから絵門さんは、「物差しをたくさんもつこと」とした上で、人と接するときは「違うんだろうな、違うんだろうな」という姿勢で接することが大切だと言っています。
●魂、体、脳、を切り離す
もう一つ深いお話が、「命を大切にするためには、魂と体と脳みそを別物と考えるべきだ」という話です。これは少し難しい。「あと3ヶ月で死にますよ」というような医師の言葉が患者の命を傷つける、と絵門さんは言います。 2005年4月21日の「がんとゆっくり日記」(朝日新聞社)に、これと関連すると思われる記述があります。私は自分の病状を把握し、それが楽観できないことを知っている。西洋医学の治療の限界も知っている。奇跡をうたった民間療法、サプリメントで結果を出せる確率の低さも知っている。でも、その事実と命の可能性を切り離し別物にする作業を、無意識のうちに、私という生命体を守る一種の防衛本能として、しているのではないかと思う。(同様の言葉が「私は不思議に元気」の第六章でも見られる。)
外から入ってくる言葉や常識、既成概念、データ、といったものには、その人にとって有害なものも数多く含まれています。脳に入ってきたそれらのものをまともに消化・吸収してしまうと、その害が体や魂にまで及んでしまいます。特に絵門さんの場合は、医学的な常識やデータでは完治の可能性はもちろん、長い期間の生存率も低いとされていますから、そういった情報は脳で受け取るだけにして、体や魂にまで流さないようにする。そうすることによって、あの数々の素晴らしい活動の原動力が損なわれずに済んだのだと思います。
しかしそれは、そう簡単なことではなかったと思います。絵門さんも、生存率の低さなどの厳しい現実を全く無視していたわけではありません。対峙すべき時にはとことん対峙していたということが、絵門さんの著書を読むことによってわかります。つまり、魂と体と脳を別物にするというのは、自分に大きなダメージを与えるような情報、気力を奪いとってしまうような情報は、それに飲み込まれてしまうのではなく、脳と体、魂の間に水門を設けるような感じで、流れを上手くコントロールする、そういうことではないかと思います。
●厳しい状況だった2005年の夏
ちなみに、この「生きているからこそ」という本に掲載されている、つまり、この講演での絵門さんの写真を見ると、生き生きとしたあのいつもの素敵な笑顔で写っているのですが、実はこのころ、2年以上使ってきた抗がん剤に耐性ができたという現実もあって、この1カ月、本の執筆に頭をかきむしり、治療の方針に心を乱し、暑さにあえぎ、厳しい日々を過ごしていた。(がんとゆっくり日記) ことに加えて、「うさぎのユック」を書くきっかけを作ってくれた少女が天国に旅立ったこともあり、精神的には相当落ち込んでいた時期だったということを知ってから読むと、まただいぶ印象が違ってくるかもしれません。
●2006年2月、八千代での講演
前回も書きましたように 2006年2月に八千代市市民会館で行なわれたイベントの第一部は「命は命がつなぐもの」という講演でした。このときは絵門さん自作の物語「ふぅちゃん」を交えて、命の大切さを伝えました。ここでも極めて重要なメッセージが登場します。「命っていうのは死ぬの死の反対の命じゃないって私は思うんです。命っていうのは“生きるエネルギー”。植物にも動物にも、みんな生きるエネルギーがある。それを渡しあっていくことが、人が生きていくっていうことなんだろうなぁっていうのを感じます。」常識的に言えば、命というのは肉体の活動の根本にあるもので、個々が独占的に所有しているもの。他の人に渡すことなんてできない。でも、絵門さんの解釈は違います。他の人との間で、渡したり受け取ったりできるエネルギー。なるほど、現に私は絵門さんから莫大な量の生きるエネルギーをもらっています。
これは私たちにとって極めて重要な考え方ではないでしょうか。“生きるエネルギーの流れ”という観点で見てみると、この世界の、また別の様相が浮かび上がってきます。すなわち、どのような場所で生きるエネルギーが放出され、どのような場所でそれが利用され流れていくのか。あるいは、どのような場所でそれが停滞しているのか…。
●患者会での講演
冒頭で触れた「ふぅちゃん」のDVDを購入したとき、絵門さんが参加していた患者会の講演記録も購入させていただきました。絵門さんの対談が二つと、絵門さんを偲んでの座談会が一つ掲載されている貴重な資料です。購入前の予想では、医学的なまじめな話をされていることを想像していたのですが、もちろん基本的にはそういうお話をされているのですが、リラックスした雰囲気での対談ということもあってか、意外にもぶっちゃけた話が多く、著書にはまったく書かれていないような話もあって、とても興味深い内容でした。ここでその詳しい内容に触れることは控えたいと思いますが、ただ、「絵門さんはかなりスピリチュアルな人」という私の推測は、これを読むことによって確信へと変わりました。
「実はこの話あんまりしていないんですが」と前置きした上で、絵門さんはある告白をしているのですが、私はこれを読んで「やっぱり!」と思いました。こういうこと(スピリチュアルなこと)が絵門さんの心の中で、大きな存在となっていた、ということを知ることは、絵門さんの考え方を理解する上で極めて重要だと思います。
●抗がん剤をやめた理由の一つ
たとえば、絵門さんは病院に行かないで、あるいは医師の言うことを聞かないで、自然療法や民間療法に走るという行為を、お母さんの看病のときも含めると、実は生涯に3回も繰り返しています。3回とも良い結果にならなかった(お母さんのときは悪い結果だったとも言えない)ので、普通の人からは絵門さんのこうした行動が最も理解されない点だろうと思います。これはよく「お母さんの看病時代に受けたトラウマ」だと言われ、絵門さん自身もそう言っているわけですが、私はそれだけではないような気がしています。絵門さんはかなりスピリチュアルな人です。私は、絵門さんは根本的に、手術のように人為的に強引に肉体を変えてしまうような方法や、抗がん剤のような人為的に肉体に強い作用を与えるような方法に対して、普通の人より何倍も強い抵抗感を持っていたのではないかと思うのです。
「この世に命より大切なものはない」という言葉をよく耳にします。そう言いたくなる気持ちはわからないでもないですが、「草原の心拠」のページにも書いたように、私は命よりもさらに大切なものがあると考えています。それが魂であり、精神性です。乱暴な言い方をすると、「魂を悪化させるくらいなら、死んだ方がましだ」と思っているくらいです(本当に乱暴な言い方ですから、真に受けないでください)。
絵門さんが抗がん剤をやめた理由の一つを次のように綴っています。私はまず、これからもずっと感謝の心を持っていたいと思った。… 今の私は、入院したときのような痛さや苦しさはなく、マーカーが上がり続けているだけ。そんな時に周りに何かしてもらって、それでよい結果が出なかったら、人間ができていない私は、逆恨みしないとも限らない。それは何がなんでも嫌だ。自分の心は、感謝で満たされていたい。(「がんでも私は不思議に元気」新潮社) 絵門さんが自身の延命よりも「きれいな心」を重視していた、ということがうかがえます。
●まとめ
今回、これらの絵門さんの講演を見てきて、また一つとてつもなく重要なことを学びました。それは、絵門さんが「命」というものを、ただ単に「肉体活動の源」と捉えていたのではなく、むしろ「生きるための精神的なエネルギー」と捉えていたことです。この「命」についての解釈は、極めて大事ではないでしょうか。
おとといテレビを見ていたら、スピリチュアルブームの立役者・江原啓之さんが「生きているっていうことは本当に奇跡」と言っていました。「あれ…、絵門さんと同じこと言ってる」と思ったわけですが、「絵門さんは本当に偉大な人だった」と考えている私は、どんどん自信を深めています。
今年も絵門さんからさまざまな大切なことを学び、浪漫朗読コンサートの映像からは多大なエネルギーをいただき、気持ちよく新年が迎えられます。天国の絵門さんに深く感謝。皆様もよいお年をお迎えください。
2007年12月24日