ティーハウス 2002年5月1日 〜 12月1日 掲載分

 


草原につづく道

江戸川(千葉県)どこに向かって生きて行くのか・・・ ということをときどき考えることがあります。いろいろ答えが返ってくる中で共通しているのは、上へ、前へ、幸せな方へ、おもしろい方へ、豊かな方へ・・・ 世の中の第一線でバリバリと働いている人、役者やアーティストとして成功した人、若くして年商何億円の会社を築いた人などなど・・・ そういった人たちが、すごい人、カッコいい人に見えるでしょう。そこまで行かなくても、自分もそこそこ幸せになりたいとか、もっと充実した毎日を送りたいとか、もっと金が欲しいとか、思いますよね。

その一方で、こういうのはどうでしょう。「幸せも豊かさも充実した日々もいらない」。 ・・・こう心に言い聞かせるのは、とても難しいことです。いや、そもそもこんなことを言い聞かせても無意味だと思われるかもしれませんね。

先日、コンビニで買い物をしているときに、おもしろい発見をしました。すごく食べたいおにぎりがあって、思わず手に取ったのですが、その瞬間「これだ」と思ったのです。これがエゴ(自我)を肥大化させているんだ、と。それは、幼い子供に欲しがるものを次々買い与えていると、わがままな子供に育っていくのと似ています。コンビニで食べたいおにぎりを見つけたとき、それを我慢してその隣に置いてあるまったくおいしくなさそうなおにぎりを手に取るのは、一見何の意味も無いようで、実は意味があります。同じように「幸せも豊かさも充実した日々もいらない」と心に言い聞かせることには、大きな意味があります。

でも、そう心に言い聞かせるのはとても難しいことです。なにしろ、子供のころから夢見てきたことですからね、それを捨てるというのはとても悲しいことです。でもご心配なく。しばらくすると、とてもすばらしい風景が見えてくるのです。すばらしい草原、イーハトーボが見えてくるのです。それは心の原風景となって、本当の幸せ、本当の豊かさ、本当の充実した日々がその中にあることに気がつくと思います。こちらが本物であることはすぐにわかると思います。がっかりする事はなかったのです。

だから、自信を持ってその道を歩いて行きましょう。

イーハトヴは一つの地名である。しいて、その地点を求むるならば、それは、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスがたどった鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠のはるかな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。じつにこれは著者の心象中に、このような状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。そこでは、あらゆることが可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風に従えて北に旅することもあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。罪や、かなしみでさえそこでは聖くきれいにかがやいている。 (宮沢賢治著『注文の多い料理店』より)


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そういったことを心に据えながらやっている音楽活動「草原につづく道」というのがあります。HPもあるのですが、今までは営利的な側面もあったため、あくまでもグリーンハートパークとは別と考えていました。しかし今回、その営利的な側面をなくした方が、今後より良い活動ができるのではないかと思い、同時にグリーンハートパーク内に移設しようかと思っています。そちらの方も、どうぞご愛顧承りますよう・・・

2002年12月1日

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3本の映画

お台場(東京都)「そこまでやるかね・・・」 理不尽な悲しい出来事、つらい出来事にあったときに、僕がよく心の中で呟く言葉です。これは相手に対して言うのではなく、神様というか運命というか、そういう漠然としたものに対して言うのですが、最近は「そこまでやるかね・・」を連発するような状況でした。とても気が滅入っていたので、とにかく気分を変えたいと思っていたところに、観たい映画が三つ・・・。僕は、映画館に足を運ぶのは3年に一度くらい、レンタルビデオもまったく見ない、それくらい映画については“ド素人”なのですが、だからこそ映画を3本も立て続けに観たら、かなりの気分転換になるのではないかと思い、実際に行ってみました。今回はその3本の作品を紹介するつもりで、感想を書いてみたいと思います(評論ではありません)。3本とも邦画です。


ドールズ
[監督・脚本:北野武 出演:菅野美穂、西島秀俊 配給:松竹=オフィス北野]

今回は下に書いた「阿弥陀堂だより」をメインに考えていたので、正直言ってこちらの方はまったく期待していなかったのですが、そんな予想に反してとてもいい作品でした。圧倒的に悲しくて残酷なストーリーです。たいがい、映画でも音楽でも小説でも、「愛」というものは美しくて温かくて、幸せに結びつくものとして描かれていることが多いわけですが、この作品ではそうではなく、むしろ人を破滅に追い込むものとして描かれています。「愛は地球を救う」とか「最後に愛は勝つ」とか、愛というものをとかくきれいなイメージで安易にもてはやしている私たちに対して、「愛が人を破滅に追い込むことだってたくさんあるんだよ」という強烈なメッセージを北野武監督は投げかけているようです。そういえば、ある番組の対談でたけしさんは「今はやたらと人を励まし過ぎる。励まし過ぎるプレッシャーっていうのがあるような気がする。あんただってやればできるのよ、とか、あんたは勉強はできないけどスポーツがあるじゃない、とかって、そんなのが子供たちに重いプレッシャーになってるんじゃないかなぁ」と言っていたのを思い出します。このHPのコンセプトの欄にも書きましたが、今はあまりにも“プラス志向”に偏り過ぎている。こういう時だからこそ、この作品のようなネガティブなメッセージがとても重要なのではないでしょうか。



阿弥陀堂だより
[原作:南木佳士 監督:小泉堯史 出演:樋口可南子、寺尾聡 配給:東宝=アスミック・エース]

「僕のために作ったんじゃないの?」と思わせるくらい、僕好みの映画でした。グリーンハートパークのコンセプトと共通する点もとても多いです。作品全体を通してストーリー性も弱く、クライマックスと呼べるような所もなく、感情に訴えてくる所はほとんどありません(とは言うものの何度も泣きましたが・・)。だからこそこの映画を観て「退屈だ」と感じる人も多いようですし、たしかに感情に訴えかけてくる映画のほうが、観ていて興奮したり感動したりして「おもしろい」と感じることでしょう。でもそれは、感情が揺さぶられるだけで終わってしまうのです。それはそれで意味があるとは思いますが、すべての映画がそれではとても残念です。この作品は感情が揺さぶられない分、映像、音、言葉の一つ一つが心に直接入ってくるのです。生きていく上で「本当に大切なものは何か」ということを、淡々と、そして着実に訴えかけてきます。それから、作品に登場してくる一人一人の存在がとても重要です。阿弥陀堂のおうめさん(北林谷栄)の存在感はスゴイです。“グリーンハートパーク推薦映画”としましょうか。


群青の夜の羽毛布
[原作:山本文緒 監督:磯村一路 出演:本上まなみ、玉木宏 配給:ギャガ・コミュニケーションズ]

「痛てててて・・」と本当に言いそうになってしまうくらい、心の痛くなるストーリーでした。「家族とは何か」という明確なテーマ、感情を荒げるシーンが多い、衝撃的な展開・・・ これは今流行りの(トレンディーな)作品という感も否めませんが、深い孤独感、歪んだ愛情、仕事や家庭の忙しさで自分を見失っている人、希望や行き場がなくて浮遊する若者、という今多くの人たちが抱える問題についてもとても考えさせられます。僕自身、これから降りかかるであろう苦痛を必要以上に怖がり過ぎていたのか、ということに気づかされた気がする映画でした。

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結果的にとてもいい気分転換になりました。3本とも、主演した女優の魅力がとても目立っていたことは共通の特長です。3本とも「観に行って良かった」映画であることは間違いありません。嫌な事があったときには、お酒でごまかすより、映画を観に行くのも一つの手かもしれませんね。

2002年11月1日

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“自分”にご注意

東京文化会館2ヶ月以上も空いてしまいましたか・・・、申し訳ありません。3月に設置したアクセスカウンターもおかげさまで1000を超えました。決して多い数字ではないでしょうけど、まったく何の宣伝行為も行なっていないこのHPとしては充分多い数字です。ありがとうございます。

タマちゃんのニュース見ました? タマちゃんがかわいいのも確かに微笑ましいんですけど、たまたま多摩川に迷い込んできたアザラシに「タマちゃん」という名前をつけて、全国的に話題になってしまうというほのぼのとした雰囲気が結構好きです。最近、いなくなっちゃったようですが・・・

・・・さて、話しは変わりますが、自分自身が“自分”をどう捉えるか、どう扱うかは、とても難しい問題でもあり、とても大事なことでもあると思います。というのも、これだけ平和で豊かで自由な世の中になりましたから、常に“自分の質”が問われてくるわけです。そして、常に自分の質が問われてくるので、どうしても自分(自我)が強大化、肥大化してしまいます。

強大化した自我はたいてい悪い状況を生み出します。強大化した自我は、とにかく自分が損するという状況を絶対に許せません。そして、得するという状況を異常なまでに好みます。(こういう人、結構いますよね。) その結果、強大化した自我は、やたらと周囲の物事に評価を与えるようになります。しかも、しばしば悪い評価です。今ほんとに多いですよね、やたらと人や物事に「ダメ出し」しておきながら、自分から何もやらない人。一億総評論家みたいな時代になってしまいました。それから、強大化した自我は病気も引き起こします。強大化した自我が自然治癒力を妨害するからです。また、日常的な作業をしなくなるという傾向もあります。強大化した自我は、家事が大の苦手です。

子供たちを見てみましょう。僕は子供たちを見ていてつくづく思うのですが、彼らはデフォルトの状態で楽しいのです。つまり、何もおもちゃがなくても、何も楽しい話題がなくても、別に未来が明るくなくても楽しいのです。もちろん、子供たちはまだ自我を強大化させていません。大人たちはやたらと「夢」や「希望」にこだわりますが、子供たちは夢や希望なんかなくても楽しいのです。

自我を強大化させないためには、自分が損するという状況を許せるようにならなければなりません。それには、自分のことや周囲の状況をいちいち評価しないということと、プライドをできるだけ低くするということが重要になってきます。とかく悪い意味で使われがちな“いい加減”も、今の時代では逆に大切なものになってきます。自我というものそれ自体はそれほど正しいものでもないし、それほど善なるものでもないし、結局それほどあてにはならないのです。自我はとても未熟です。必要のないときは思考を停止させるという技術が大切です。起きているあいだ中、ずっと思考が働いているというのは危険です。もちろん僕自身も気をつけなければなりません。

タマちゃんのニュースを見て「タマちゃん見て何が面白いんだよ。くだらねぇ」なんて言っているとしたら要注意ですよ。

Don't just stand there and shout it
Do something about it
そこに立って怒鳴るのではなく、自ら行動に移せ
Judas / Depeche Mode

2002年9月9日

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心の透明度

上野公園(東京都)前回は奈良へ行ったときのお話をしました。あのとき(1月)は本当に苦しい状況だったのですが、同時にとても心が澄んだ状態でもありました。「概して苦しいときのほうが精神的には高い状態にある」と何かの本で読みましたが、本当にそのとおりだと思います。私の場合、それまでは自宅で仕事をするスタイルだったのですが、今年の2月からは基本的に会社勤務になりました。これは、生活が規則正しくなるとか仕事中に適度な緊張感があるなど、良い効果が多かったのですが、逆に「心の透明度」はどうしても落ちてしまうようです。心をきれいな状態に保つのは、本当に難しいものだということを実感しました。

私が思うに、心というのは池のようなものだと思います。そして、その池の底には魂があります。池の水が澄んでいれば問題ないのですが、そこに欲望やら思考やらが流れ込んできて、水が濁ってしまうのです。仕事の忙しい状態が続いた後に、ふと我に帰ってみると、焦りや不安、強気や弱気、優越感や劣等感といったものが、池の中にたくさん流れ込んでいることに気がつくのです。例えば、周りの人と自分を比較してしまったり、良い業績を残さなければならないと思い込んでいたり・・・ といった具合に心が濁ってくるのです。いったん濁ってしまうと、なかなか澄んだ状態には戻りません。

私の場合は、毎日出勤する前に音楽を聴いたりして心を落ち着かせるようにしたのですが、それでも心の濁りはなかなか取れないですね。結局のところ、このコーナーのコラムを書いたり、「みどりの森」のコーナーを更新することが心の濁りを取るのに最も効果的だったようです。あとは、心がきれいになるような本や言葉を読むのも効果的でした。

ところで、心が濁ることがなぜいけないのでしょうか?

もしあなたがたが自分の中にあるものを取り出したら、その取り出したものがあなたがたを救うことになる。もしあなたがたが自分の中にあるものを取り出さないなら、それを取り出さなかったことによって、あなたがたは破滅する。
 ----- イエス・キリスト『トマスの福音書』 -----


さきほど「その池の底には魂があります」と書きました。心が濁っていなければ、魂と情報のやり取りができます。つまり「自分の中にあるもの」を取り出すことができるのです。もし心が濁っていたら、それはできません。座禅とはまさに心を透明にして魂と情報をやり取りする作業なのです。

現代のような欲望を肯定してしまう社会の中で、一体どれほどの人が「自分の中にあるもの」を取り出して生きているでしょうか。そして、欲望を満足させるという行為が、環境破壊や世界全体の閉塞感をますます拡大させているのではないでしょうか。今から約二千年前にイエス・キリストが語った言葉が、これから人類に起こることを予言しているように思えてなりません。 ・・・キリスト教でもイスラム教でも仏教でも儒教でも老荘思想でも、なぜあれほど戒律が厳しく、欲望に対して否定的であったか、少しはわかっていただけるでしょうか。

2002年7月1日

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奈良を訪ねて

先日テレビを見ていたら、アフリカの野生動物についてやっていました。それは10分くらいの短いコーナーだったのですが、私の中にあった「野生動物の世界」のイメージを根底から覆す、ある意味とても衝撃的なものでした。チーターが主役だったのですが、チーターといえば「地球上で最も速い動物」として、ものすごい速さで獲物を捕らえる映像を見たことある人も多いのではないでしょうか。当然「強い」というイメージがあったのです。チーターに限らず、大型の肉食動物はみんな強く、草食動物たちはいつもそれらに怯えながら生活しているというイメージがあったのです。

ところがどうでしょう。テレビに映っている映像は、それとは全く逆の光景でした。チーターはシマウマやヌーといった草食動物たちに怯えながら生活しているのです。ようやく獲物を捕らえても、近くにいたシマウマたちに威嚇されて渋々別の場所に移動していきます。シマウマは草食ですから、もちろん獲物をよこせと言ってるわけではありません。それはまるで「秩序を乱すな」、「勝手なことするな」といってる感じなのです。しばらくチーターたちを威嚇しながら追いかけ、チーターたちがおとなしくなると引き返してきます。それ以上の攻撃はしないのです。私はそれを見ていて、自然界には全く私たちには計り知れない大きな秩序があるということを感じました。それは「弱肉強食」といったものとは全くかけ離れた秩序です。イメージとか既成概念といったものは、本当にばかばかしいものです。

今年の一月、奈良を訪ねたのですが、一番印象的だったのは想像以上にたくさんの鹿が、しかも街中を堂々と歩いていたということです。人間と鹿が全く違和感なく、一緒に生活しているのは本当に驚きです。そもそも今回の奈良行きを思い立ったのは、昨年末、物質的・経済的にとても苦しい状況にあったとき、突然ひらめいたのがきっかけでした。ま、私のような人間はしばしば物質的・経済的に窮地に追い込まれ、生活していくのがやっとという感じなのですが、今回はいよいよ「もう終わりか」というくらいに追い込まれた状況だったので、「これからどうするのか」ということについて、その答えを奈良まで見つけに行ったという旅であったと思います。

まったく不思議なものです。その奈良の旅がきっかけで状況が好転し、現在はとても良い状態になっているのですから。これは今では、上にも書いた「自然界の大きな秩序」が私に味方してくれたのだ、と思っています。しかし、だからといって浮かれているわけにもいきません。これからも現実には苦しいことがつづくかもしれません。それは「自然界の大きな秩序」と「社会の秩序」があまりにもかけ離れているからです。「自然界の大きな秩序」に従って生きる者は、この社会の中で生きていくのは容易ではありません。それでも、いざというときには“自然界”が今回のように大きな力を貸してくれることもあり、最終的には良い結果になると思っています。心を汚してまで生きていくつもりはありません。

これからまた苦しい状況に直面しても、この奈良の旅という“原点”に戻ることによってクリアな状態に戻ることが出来るでしょう。

2002年6月1日

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「おさかな天国」と「注文の多い料理店」

先日、仕事の忙しい状態も一段落ついたので、以前から欲しいと思っていた二つの“作品”を買いました。ひとつは「おさかな天国」というCD(ご存知の方も多いと思うのですが、現在ブレーク中・4月15日時点でヒットチャート第4位の曲。もともと「全漁連」が11年前に魚の販売促進のために制作した曲。)なのですが、これがとてもいい曲で感激しました。何回も聴いているうちにこの曲がヒットした訳がなんとなくわかってきました。

とにかく余計な飾り気や音が一切なく、「黄金のコード進行」といった感じのサビがグッと心に訴えかけてきます。そして、もう一つの特長は“開き直り”にあると思います。この曲の歌詞、曲調、プロモーションで使われているキャラクターなどは、はっきり言って“ダサい”のですが、しかしそれは、“ダサくなってしまった”のではなく、最初から「ダサい・ダサくない」を完全に無視して作られているのです。現代のあらゆる物が必要以上に「もっと良いもの、もっとすごいもの」を求め過ぎて、かえって行き詰まっているのに対し、この曲はむしろそういったものを削ぎ落として純粋に「いい音楽」に立ち帰っているところが私たちを惹きつけるのだと思います。また、この曲はハナっから100%商業音楽であるということも開き直っている点です。ほとんどのヒット曲が商業音楽でありながら、表面的には「芸術作品」を装っているのに対して、この曲は最初から「魚をたくさん買ってください!」と言っているわけで、かえって潔くて気持ちがいいです。作品を作る上で「子供からお年寄りまで幅広く受け入れられる」というのは最も重要な要素だと思いますので、そういう点でも大変参考になる曲です。

話は変わって、私はもう一つ「注文の多い料理店」(宮澤賢治著)という本を買いました。私は知らなかったのですが、宮澤賢治が生きていた時代に出版されたのは、この「注文の多い料理店」という童話集と「春と修羅」という詩集の二冊だけだったということを知り、大変驚きました。しかもさらに驚くのは、二冊とも宮澤賢治自身が盛岡で自主的に出版したものであり、実際にはほとんど売れなかったという事実です。今回私が買ったのは、角川文庫から出ている“復刻版”というもので、出版当時に近い形になっているのですが、そこには賢治自身が書いた「序」と「新刊案内」というものが付けられていて、賢治の素顔を知る上で大変興味深いものです。それを読んで三たび驚くのは、「注文の多い料理店」という童話集が「イーハトヴ童話シリーズ」全十二巻のうちの第一巻だったということです。

一.これは正しいものの種子を有し、その美しい発芽を待つものである。しかもけっして既成の疲れた宗教や、道徳の残滓を色あせた仮面によって純真な心意の所有者たちに欺き与えんとするものではない。

二.これは新しい、よりよい世界の構成材料を提供しようとはする。けれどもそれは全く、作者に未知な絶えざる驚異に値する世界自身の発展であって、けっして畸形に捏ねあげられた煤色のユートピアではない。
(新刊案内)

けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
(序)
宮沢賢治著「注文の多い料理店」(角川文庫)より

今回購入した「おさかな天国」と「注文の多い料理店」という、もともと子供向けの二つの作品。今後、私に良いエネルギーを与えてくれそうです。

2002年5月1日

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