ティーハウス 2005年11月15日 〜 2006年7月23日 掲載分

 


絵門ゆう子さんに学ぶC

●「言いたいこと」が本心とは限らない
多くの人が「言いたいこと」=「本音」だと思っているようです。酔っ払って、友人や上司の悪口をベラベラしゃべっている人がいると、「本音が出た」とか「本性をあらわした」などとよく言います。しかし、本当にそうでしょうか? 翌日になって「あー!また余計なこと言っちゃったよ〜」と頭を抱えている姿は、ウソの姿なのでしょうか? 私は、すべての人が軽い多重人格的な面を持っているのだと思います。その時その時によって、低い自分が表れたり、高い自分が表れたり、不機嫌な自分が表れたり、上機嫌な自分が表れたりするのだと思います。それは、自分自身の魂が成長の過程にある証拠ですし、あるいは自分に憑いている霊の影響もあるかもしれません。大事なのは、それら自分のさまざまな面の中から、自分自身がどこに焦点を当てるかという事だと思います。

今回ご紹介する絵門さんの著書は、出版されたばかりのエッセイ集「ありがとう」(PHP研究所)。 この本は、他の絵門さんの著書とはずいぶん性質が異なります。まず、語調が違うということ。絵門さんの著書としては、めずらしく「ですます調」で書かれています。二つめは「がんがテーマではない」ということ。絵門さんの著書の多くはがんがテーマであるのに対して、この本は「ありがとう」という言葉がテーマになっています。三つめは「絵本のようになっている」こと。全盲のイラストレーター、 エム ナマエさんの絵が一つのエッセイに一つずつ描かれています。全体的に見ても、とても穏やかで優しい内容で、前回ご紹介した「がんでも私は不思議に元気」とは対極にあると言ってもいいかもしれません。

「がんでも私は不思議に元気」の中で、絵門さんはこのエッセイ集についてこう書いています。月刊誌『PHP』に、「ありがとう」をテーマにエッセイをと言われ、一年半連載した。きっと『ゆっくりと』を読んでいただき、私の心が感謝で満たされているだろうと思ってもらえたからこその依頼だったと思う。そのエッセイのうちいくつかは、高校の現代国語の試験問題になったり、中学校の道徳の教科書に転載されたりもした。「ありがとう」を語れるほどの人間ではないのにと、気恥ずかしかった。実際は、月に一回、なんとか自分の中から「ありがとう」をしぼり出していたわけで、これはなかなか大変な作業だった。 これを読むと、こちらが本音で、「ありがとう」はずいぶん無理をして書いていたように感じるかもしれません。しかし、「不思議に元気」が出版されたときに出演したラジオ番組ではこうも言っています。私が何かしてきたっていうよりも、動かされてきちゃってるんです。周りに、いっぱい素敵な方との出会いがあって、「どうしてこんなに会えてしまうんだろう」って。だから私は、「ありがたい、できれば生かして」っていう思いで生きてるだけなんです。そういう意味では、本には医療フォーラムなんかで噛みついてる話とか書いてますけど、気持ちは、4年前のあの時に助けてもらった命があっての感謝でいっぱいなんです。(TBSラジオ「下村健一の眼のツケドコロ」HPより)  人間、どのときがその人の本心かというのはなかなか判断できないものです。そういう意味では、エッセイ集「ありがとう」には、絵門さんの中のとても穏やかで清らかな面が表れている、と言って良いのでしょう。

●「苦しみ→ありがたい→しあわせ」の法則
ただ特筆したいのは、彼女が天国に召される直前までボクらは仕事の打ち合わせをしていたという事実である。(「エム ナマエ公式サイト」より)  この「ありがとう」の絵を描いたナマエさんのコメントによると、完成した絵の中から表紙として使うものを絵門さんが選んだのは4月3日、つまり絵門さんが亡くなられたその日だったということです。最後の最後まで仕事をしていたという、絵門さんらしいエピソード。そう思うと、この本の表紙が、天国の絵門さんがこちらの世界に向かって「ありがとう」と言っているように見えてきます。(表紙は絵門さんのHPで見ることができます。)

私は今、毎朝起きるたびに「ああ、ありがたい」と思います。それは、「明日はないかもしれない」「こんなに辛く痛く苦しいのなら、明日がないほうがまだまし」と思った時期を経験したからです。 この本の冒頭部分です。その日、生きていること自体がありがたい… この本を読んでいてはっきりとわかってくるのは、「ありがたい」=「しあわせ」だということです。そして、その「ありがたい」に行き着くためには辛く苦しい経験が必要だということです。つまり、苦しい経験が「ありがたい」を生み出し、「ありがたい」が「しあわせ」を生み出すという、とても重要な法則が見えてくるのです。

48年も生きて周りの方たちから受けた「感謝」に思いをはせると、一日中考えていても足りないほど、お返ししなければならない「ありがとう」が出てきます。そういったお返しは、なかなか直接その相手にはできない場合も多い。でも、テニスや卓球のように、受けたボールをそのまま相手に返さなくても、ためて、ずいぶん時間がたってから、あっちこっちに投げ返す…そんなことでもいい。と絵門さんは言います。誰かに喜んでもらえることをすれば、その人から直接のお礼がなくても、それは回りまわって世の中がよくなることで返ってくると考えればいいのです。「ありがとう」の返信は違う相手に届いてもいい。むしろ違う相手に届くことで、時空を超えて感謝エネルギーは広がるわけです。 …なんだか、とても深いですよね。

●かなりスピリチュアルな絵門さん
乳がんになった私は大変な思いもしたわけですが、今、決して悔やんでいるだけではないのです。むしろ、そういう経験ができてよかったとさえ思える自分がいるのです。… 今私は嘘とか強がりでなく、この病気になったことは私の人生にとってプラスだったと感じています。 とても重要な発言ですよね。やはり、人は精神的に成長するために生きている、ということを証明するものだと思います。

「50才で母になりギネスブック入りを果たそう!」絵門さんは常識に囚われない発言が多いのですが、私はこういった発言に本当に勇気づけられます。最近、江原啓之さんの活躍で「スピリチュアル」がブームになっていますが、絵門さんは実はかなりスピリチュアルな人です。あるがん患者さんのお話です。その方は、医療の力では治らない状態だと言われ、自分の死を覚悟したそうです。そうなってから世の中を見るととても美しく、木々の緑を見ては心が癒され、花を眺めては慰められ、朝に夕に近所を散歩するようになりました。 この「死を覚悟したとき、世の中がとても美しく見える」というのは「草原の心拠」のコーナーでも触れましたが、とても重要な“鍵”だと思うんですよね。このがん患者さんは、道端一面に咲くマーガレットの花の上に「どうかこの私にあなたの力をくださいな」と毎日手をかざしたところ、病気を忘れるほどまでに回復したのだそうです。その話を聞いた絵門さんは、私はこういう話が大好きで、無条件に信じる。西洋医学を拒否してあらゆる療法を試し、命を失いかけた経験は、教訓にし、周りにも伝えている。しかし、人の心や体は科学や医学の範疇を越える摩訶不思議なものだと今も考え、信頼できる主治医を持った上で、治療の妨げにならないものであれば可能性を信じ追求することは良いことで、時に絶大な威力を発揮するものだと思っている。と、「がんとゆっくり日記」(朝日新聞社)に書いています。絵門さんの本を読んでいると、実はかなり超常的なものを信じていた(というより知っていた?)ことがわかるのです。

●揺れ動く死生観
この本のラストのエッセイでは、絵門さんの家で飼われていた犬のチャロが登場します。ある晩、チャロは庭の真ん中で土を踏みしめるように立ち、澄み渡った空に浮かぶ丸い月を見上げていました。月の中のうさぎさんと何か交信でもしているかのよう。ハアハアと荒い息をして、声をかけても振り向かないチャロの目には、人を寄せつけない決意の輝きがありました。そのあくる早朝、彼の旅立ちを知った私。私は彼の亡骸を納めた箱の周りに、ただひたすら「ありがとう」の文字を書き続けました。月を見上げていたチャロの姿は、私に、「死」は「終わり」ではなく「出発」であることを無言で教えてくれたのです。 こうした、死を受け入れるような考えは、絵門さんが「うさぎのユック」を書いたときに打ち消され、以降、とことん生に向かうという考えに変わったわけですが、再びここでこのように書いているということは、やはり絵門さんの心の奥では、このような死生観が生き続けていたことがうかがえるのです。がんになって年を重ね、天に向かった仲間が増えていき、私の中で、生と死のバリアがどんどんなくなっていく。これからは、生も死もなく、ただひたすら魂を輝かせることをみつめていこう。壮大な宇宙は、生も死もなく、すべての命に光を注いでいるはずだから。 前回触れるのを忘れてしまいましたが、「不思議に元気」の最後はこう締めくくられているのです。

死を受け入れるような死生観は、私から見ればむしろ正しいという気がしますが、絵門さんがそれをいったん打ち消し、「とことん生に向かう」という考えに変わったのは、まだまだやりたいことがたくさんあったからではないでしょうか。「死を受け入れてる場合じゃない」…そんな気持ちだったのだと思います。そして、とことん生に向かったからこそ、閃光のように輝いたのだと思います。

●安里我渡有…絵門菩薩?
私はこの本を「がんとゆっくり日記」と一緒に、紀伊国屋書店で購入しました。レシートを見てみると、「がんとゆっくり日記」が「随筆・評論」に分類されているのに対し、こちらの「ありがとう」は「思想・哲学」に分類されていました。私は「むしろ逆なんじゃないの?、結構いい加減だなぁ」と思いましたが、読み終えてみるとあながちいい加減でもないような気がします。「ありがとう」は全体的に穏やかな文章で、他の絵門さんの著書に比べるとかなり抽象的な内容なので、その分かえって奥深さが感じられます。

これは自己流の語呂合わせですが、「ありがとう」を「安里我渡有」とし、「安心のある心の里に自分自身(我)を渡し、そこに居られる(有)ようにすること」という意味に置き換えてみると、「ありがとう」がとてもおつき合いしやすい相手に変わります。 再びラストのエッセイから。私は「言葉に正確な絵門さんが語呂合わせなんてめずらしいな。しかも締めくくりの部分で…」と思いました。しかし、だからこそ、この言葉に何か特別な意味でもあるのではないかと思ってしまいます。「安里我渡有」を「安らぎの地に我渡り、そこに在る」というように解釈すると、これはまさに仏教そのものです。「涅槃」のことです。この本の締めくくりでも、そして「不思議に元気」の締めくくりでも「生も死もなく」と繰り返し言っていますから、「悟りの道は遠けれど」と言いながら、実は絵門さん、とても精神性の高い人だったのでは? そう言えば「不思議に元気」で、死後の世界はきっとある。今私は、天国の母がすぐそばで応援してくれている気がする。ならば死を、生きる場所が変わるだけの、楽しいこととしてしまえばいい。死んだら、あちらではこの世より楽しいお仕事が待っていて、この世の大切な人たちを自由自在に助けられる。と書いていますから、今ごろ菩薩のようになって、こちらの世界を助けてくれているのかもしれません。

2006年7月23日

←戻る

 


絵門ゆう子さんに学ぶB

つい先日、5月30日から6月9日にかけて、絵門さんの著書の出版ラッシュとなりました。しかもこれは、絵門さんが亡くなったからではなく、以前から予定されていたものです。新しいものとしては、エッセイ集「ありがとう」(PHP出版)と、朝日新聞に連載していたコラムを1冊の本にまとめた「がんとゆっくり日記」(朝日新聞社)が出版されました。どちらも大変素晴らしい本なので、後ほどゆっくり見ていきたいと思っていますが、今回は前回ご紹介した名著「がんと一緒にゆっくりと」の続編である「がんでも私は不思議に元気」を見ていきたいと思います。

「がんでも私は不思議に元気」(新潮社)
この本は、前作「ゆっくりと」が出版されてからこの本が出版されるまでに絵門さんが感じたこと思ったことがズバズバと書かれています。とても場所とか立場をわきまえていた絵門さん、新聞のコラムや月刊誌のエッセイ、講演などではその場にふさわしい表現を選んで伝えていたわけですが、それでは差し障りのないことしか伝えられず、ヘンに優等生的な読みものは、患者をかえって落ち込ませることが多いのではないかと考えたようで、この本では日常の中で感じた怒りや心の葛藤なども包み隠さず書かれています。

・生に執着していたか
絵門さんの活動や言動を見て、「生に執着している」と感じた人もいるかもしれません。実際に「あなたは生への執着を捨てるべきだ」といったメールももらったそうです。しかし、それはまったくの勘違いで、本当はそれほど執着していなかったと思います。絵門さんがいろいろな場で「生に執着する」と言っていたのは、いろいろな経験、特にがんになってからの半端ではない精神的な落ち込みと肉体的な不調という経験をとおして、「心も体も一番良い状態に保つためには、生に執着することが一番いい」という考えにたどり着いたからだと思います。そしてもう一つは、死の一歩手前から奇跡的な回復をするという経験によって、本当に心の底から“生きていることが嬉しかった”のだと思います。「生に執着する」… まるで「往生際が悪い」というようなニュアンスがありますが、絵門さんはそういう意味では使っていませんでした。

・ジャーナリズムの世界に欠かせなかった
この本は、医療への提言にかなりのページが割かれています。特に、絵門さん独特で面白いと思うのは、医師と患者の理想的なやり取りのシミュレーションが書かれている部分です。絵門さんが考えるところの理想的な会話が、13ページにわたって書かれているのですが、その中で私が注目したのは、医師が「わかりません」を連発し、患者の質問に対してとてもあいまいに答えている点です。普通なら「あの先生はダメだ」と言われてしまいそうですが、絵門さんはそれが理想的だと言うのです。それはどういうことかと言うと、“病気を治す”という点では、検査結果や医学的事実よりも、患者の心を前向きにすることが大切なのだと言うのです。どんな質問に対しても、まずは患者にとって、その答えがプラスになるかマイナスになるかというフィルターに通し、答えている。これは医療の世界のみならず、どんな世界でもとても大切なことではないでしょうか。

絵門さんの本は、強烈な共感を感じながら読ませてもらっていますが、もう一つ強烈な共感を感じた本、このサイトでも何度も取り上げている「Abduction to the 9th planet」(邦題「超巨大・宇宙文明の真相」)には、人類社会の中で最も危険なものとして、お金、政治、ジャーナリズム、麻薬、宗教、の五つが挙げられています。その中のジャーナリズムについては、無責任な報道による害は想像をはるかに上回るものなので、責任者達は心理学を学んでおくべきです。残虐な殺人事件などは後回しにし、人々に有益な情報を優先させるべきなのです。とあります。つまり、報道するにあたっては、視聴者にとってその情報がプラスになるかマイナスになるかというフィルターに通すことが必要だというわけです。

絵門さんはもともとジャーナリストです。先述したエッセイ集「ありがとう」には、こんなエピソードが明かされています。絵門さんが以前、ワイドショーの司会をしていた頃、出産を終えたばかりの幸せなお母さんにインタビューをしたそうです。ところが翌日、放送前の打ち合わせのとき、同じ日にインタビューした医師が不幸な十代の母について話している場面で、この幸せなお母さんの映像が使われているのを見て、「これじゃあ、まるでこの赤ちゃんが十代の少女が産んだ不幸せな赤ちゃんだって、見た人は思うじゃないですか」とディレクターに訴え、結局その映像を取り替えたことがあったそうです。絵門さんが「視聴率のためなら、多少傷つく人がいてもしょうがない」という考えを許さなかったことを示すエピソードです。あまり絵門さんとジャーナリズムの関わりが取り上げられていないようですが、この本「不思議に元気」や前作「ゆっくりと」は、エッセイと言うよりノンフィクションと言っても良いくらいですから、私は「絵門さんがこれからもずっと生きていたら、ジャーナリズムのあり方を変えたかもしれない」と思うのです。

・学ばないことの大切さ
絵門さんはかなり怒っています。もともと“怒りっぽい性格”だそうですが、特に、患者の希望を奪うようなことを言う人たちと、民間療法や健康食品などでがん患者を食い物にするような人たちには怒りをあらわにしています。そして、他人の性格や生き方にまで「ああすべきた、こうすべきだ」と言ってくる人たちを“踏み込み屋”と称して非難しています。前回、私は「絵門さんは魂の人だ」と書きました。魂の人は、魂の声に耳を傾けて行動しているため、踏み込み屋には拒絶反応を示します。私もそうです。また、ある民間療法の専門家の踏み込み発言に絵門さんがキレたとき、「学ばないことの大切さ」を確認できたと言っています。「学ぶ」ことは「真似る」ことになりかねない。とても重要なことではないでしょうか。昨今、あまりにも安易に学びすぎる傾向があるように思います。経済、芸術、スポーツ、IT、建設、医療… ありとあらゆる分野で安易に「How to本」や「○○セミナー」というレールが敷かれ、多くの人がそのレールの上を歩く。「M&A」が話題になると皆それを“学び”、「オブジェクト指向」が話題になると皆それを“学び”、「コンプライアンス」が話題になると、それが本当に良いものなのか、他にも方法がないのか、ということを考えもせずに皆それを学ぶ。世の中のあらゆるものが何だか画一的になってきているのは、そういったところに原因があるのでしょう。

きっと私は一生、「ありがとう」に恋いこがれ、「ありがとう」を我が物にできず、なんとか、「ありがとう」に自分を捧げて生きていこうとするのだろう。そして、この「ありがとう」の心には、相反するように思える「怒り」が、意外に大切な要素になっているのではないかと思う。…私が怒りっぽい自分をあえて出しているのは、実はこの「怒り」という感情が、病気をはねのける力につながってきた面もあると思うからだ。「怒り」と「ありがとう」は、かけ離れているようで、意外にも表裏一体。私も最近は、精神的に成長したからといって、「怒り」の感情がなくなるわけではない、という気がしています。もし、怒りの感情がなくなることがあるとすれば、それはこの世の中を見捨てたときだけだろうと思います。この世の中を見捨てなければ、怒りの感情がなくなることもない。絵門さんがこれだけ怒っているのは、世の中を見捨てていなかった証拠だと思うのです。

・成功する確率1%以下の亡命
この本の中で最も強く心に迫ってくるのが、絵門さんが抗がん剤をやめる決断をするまでのいきさつが書かれた第六章だと思います。右に行けば、そのうち新しい抗がん剤も効かなくなって、薬によって体全体がダメになっていく私がいる。左に行けば、がんがどんどん暴れ出し、あっという間に前よりひどい症状になって死んでいく私がいる。私たちの想像を絶する心の葛藤だと思います。抗がん剤をやめるという選択… 理解できない人もいると思います。私も、とても「理解できる」なんてことは安易には言えません。しかし、わかる気がするのです。絵門さんは「生に執着する」とか「90才になってお茶しよう」と言ってはいましたが、心の奥ではこのまま病院の言うとおりにちゃんと治療を続けていても、そう遠くないところに自分の死が待っていることを充分承知していたということが、この章を読むことによって伝わってきます。それは私にとって、後ろからすぐにピストルで撃たれてしまう可能性が九十九パーセント以上、成功する確率が一パーセント以下の、覚悟を決めた上での亡命なのだ。「抗がん剤でがんを治すことはできない」ということを絵門さんは見抜いていました。だからこそ、「自然治癒力でがんが完治する」という国への亡命… 多分、多くの人にとって理解できない所だろうと思いますが… 私は思います。このとき絵門さんは、次のような魂の力強い一言を聞いたのだと思います。
  「人間として正しく生きていれば、何も問題ない」
もうすでに、「生きる意味」や「本当の幸せ」を知っていた絵門さん。「この生き方をこのまま続けていれば、がんが自然に完治することだって充分あり得るはず」。そう考えたのだと思います。

では、なぜそうならなかったのか? これは「草原の心拠」のコーナーでずっと考えてきたことです。これからも考えてゆきたいと思います。私のように、医師から効く薬があると提示されながら、特殊な思考回路を経て、それを使わないという決断にいたる人は、患者の一パーセントにも満たないと思う。“特殊な思考回路”…これこそ魂とつながっている回路だと思います。そして、絵門さんが“生に執着している”というよりは、むしろ普通の人よりも“潔かった”ということがわかるのです。

・いつまでも書店に並ぶことを願って
この「がんでも私は不思議に元気」が出版されたのは、奇しくも今日からちょうど半年前の12月21日でした。朝日新聞社発行の「一冊の本・6月号」に「不思議に元気」と「がんと一緒にゆっくりと」の編集者・笠井麻衣さんのコメントが寄せられているのですが、今年2月、電話のやり取りで絵門さんは「遺言として聞いてほしいのだけど、この二冊に関しては、私が死んでも、どんな手を使ってでも売って欲しいの」と言っていたそうです。意外な言葉です。『不思議に元気』という本に『追悼』なんて帯がついたら、洒落にならないもんねとよく言っていた絵門さん。もちろん、この本には「がんを患っている人が元気で前向きになれるように」との願いが込められています。しかし私は、がんを患う人だけでなく、健康な人も含めたすべての人たちにとって、大切なメッセージが詰まっていると思います。絵門さんが天国に旅立った今も、この本の価値は少しも変わらず、私たちに光り輝くメッセージを投げかけてくれています。電話での絵門さんの言葉は、そのことを語っているような気がしてなりません。

「がんと一緒にゆっくりと」、「がんでも私は不思議に元気」に続いて第3弾は「がんとはにっこりさようなら!」のはずだったのですが… 絵門さんのメッセージはいつも私たちを明るい気持ちにさせてくれます。

2006年6月21日

←戻る

 


絵門ゆう子さんに学ぶA

不思議なものです。訃報に触れるまでは、正直な所、絵門さんについて詳しいことはまったく知らなかったのです。NHKの朝のニュースは見ていましたから、顔とお名前は知っていましたし、童話には興味があるので「うさぎのユック」が出版されたときは、書店で手にしたこともあります。しかし、その程度だったのです。なのに、絵門さんの訃報を新聞で見たとき、何かものすごく引き寄せられるものを感じました。そして、絵門さんのサイトや著書などを読んで行くうちに、私が言いたかったことやそれ以上の素晴らしいメッセージをたくさん発信していることを知り、とても近い価値観を持っていることも知りました。つい先日のことですが、絵門さんの著書「がんと一緒にゆっくりと」を読みたいと思ったときは、書店で探しても見つからなかったので、ネットで購入することにしたのですが、相変わらず貧乏暮らしの私は、天国の絵門さんに「申し訳ない」と思いつつ、中古本を注文したのです。ところがその翌日、注文した書店から次のようなメールが届いたのです。「ご注文頂いた商品ですが、検品の際、見返しのページに著者のサインが見つかりました。本日発送予定でしたが、誠に勝手ながら発送を停止させていただきました。心よりお詫び申し上げるとともに、ご確認のメールをさせていただきます…」といったものでした。本当に驚きました。届いた本には実際に絵門さん直筆のサインがあり、「応援してるからね」と天国の絵門さんから声をかけてもらったような気がしました。

絵門さんが発したメッセージは、私たちにとってとてつもなく高い価値を持っています。なぜなら、民間療法などを試みているうちにがんが進行して死の一歩手前まで行き、聖路加病院に入院して一命を取り留め、その後適切な処置で回復する、という経験によって、絵門さんは本当の自分、本当の幸せ、本当の生きる意味をはっきりと知ったからです。とりわけ、言葉というものに対して誰よりも繊細で正確でこだわりを持っていた絵門さんが、推敲に推敲を重ねて書き上げた2冊の本と1冊の童話、それと朝日新聞連載のコラムは、本当に珠玉の名作と言ってもいいもので、どこを読んでも私たちの心や魂に深く訴えかけてきます。その内容を詳しく見てみましょう。(たくさん引用することをどうかお許しください。)

「がんと一緒にゆっくりと」
“絵門ゆう子のデビュー作”と言ってもいい、この「がんと一緒にゆっくりと」は、絵門さん自身、私は、本(がんと一緒にゆっくりと)を読んでもらえたと言われることが、とにかく嬉しい。命がけで書いた本、私の数十年の仕事人生の中で最も自慢できる仕事だ。と、続編の「がんでも私は不思議に元気」の中にこう書いています。どうしても、がんを患っている人や医療関係者に向けられた本と捉えられがちですが、本当はすべての人にとって大変貴重なメッセージが詰まっています。このことは、この本の終章の次の言葉でもわかります。ある日、「書けばいいのに」と言った夫に、私は「うん」と答えていた。それから半年、がん対策生活をながら族で続けながら、来る日も来る日もパソコンに向かい原稿を書き続けることになった。書き始めると、伝えたい思い、書きたいことが、私をせっつくように溢れてきた。がんを患う仲間とその家族の方たちはもちろんだが、がんとは今まで無縁だった方たちにも「このことは聞いてほしい。知ってほしい」と思うことが次々押し寄せてきた。

絵門さんが“魂の人”であるということをしみじみと感じます。絵門さんがまだ西洋医学を拒否していた頃、お寺にお参りした帰り道、私はふと「私もがんに、『ありがとう』って言ってみようかな」と思った。…「このままがん患者を続けていくなら、そこに楽しみを見つけよう。けっこう得することだってあるかもしれない」と、新たな思考の回路が生まれた。うどん屋を出て駅に向かう私は、夫の隣で饒舌だった。私は唐突に言った。「ね、健ちゃん、私ね、今日からがんのこと『がんちゃん』って呼ぼうかな。そのほうが怖くない感じするでしょ。『がんちゃん』って、つき合ってみると、けっこう味わい深い相手かもしれない。私のところに何を言いにやってきたのか、『がんちゃん』の声を聞いてみるのもいいかなって」絵門さんは一貫して、がんを敵視するようなことはありませんでした。今から約一年前、それまで続けていた抗がん剤が効かなくなり、新たな抗がん剤に切り替えることを提案されたときも、「今までのタキソールは経済封鎖、でもこれからさらに違う薬を続けるのは、なんとなく空爆っていう感じがするんです。私、いろいろ考えて、アメリカのブッシュは嫌いだって。非暴力不服従のインドのガンジーが好きなんです」と言って、新たな抗がん剤の使用を断ったときのことを、続編の著書に書いています。こういう思考は、物質ばかりを重視する多くの現代人にとっては理解できないかもしれません。場合によっては愚かに見えるかもしれません。しかし、魂の世界では、まったくまともな思考なのです。

もうひとつ面白いのは(「面白い」なんて言うと怒られるかもしれませんが)、西洋医学を拒否し続けている間に、状態が極めて悪くなり、いよいよ聖路加病院に行くことになった車の中での『山の神様』とのやり取りです。「あの(流産の)ショックから立ち直って、やっと前向きになったのに。そしたら、今度は乳がん? あんまりだと思う。ひどすぎる! …ねえ、富士山の『山の神様』教えてよ。私の何がそんなにいけなかったのか教えてよ!」「ねえ神様、私は大したことない人間だけど、健ちゃんは、ほんとうにいい奴だよ。…そういういい人が悲しむようなことをしちゃ、神様としてもあまり得策じゃないんじゃないかな」 私はこういうやり取りをしょっちゅうしているので、「他にもこういうやり取りをしている人いるんだなぁ」と思うと、可笑しくなりました。でも、こういうやり取りを通して、魂との対話をしていたのだと思います。

いろいろな所で引用されていることが示しているように、この本の中で最も心に深く訴えかけてくるのは次の部分だと思います。がんは、『死』という大きな切り札を掲げながら、『生きる』ということについて、私に厳しく問いかけ続けた。初めはそんながんを、怖がり、拒絶していたけれども、今はその問いかけに正対し、時には笑ったり面白がったりしながら受け止め投げ返すことができるようになっている。がんの切り札は『死』ではなく、『生』だったのかもしれない。がんのおかげで、私は人間として、少し成長できたと思う。がんになったことを、もろ手を挙げて良かったとは決して言えないが、それでも、がんになったことも含めて、自分の人生をけっこう楽しめ、捨てたものじゃないと思えるようになった。これからも、がんから逃げず、がんの問いかけに一つずつ真面目に向かい合って生きていってみようと思う。そしていつか、もろ手を挙げて「がんになれて良かった」と言える日を迎えたい。今はまだ、あまり大きな声ではないけれども、小声でなら「ありがとう」と言える。がんに向かってこっそり「ありがとう」と言う時、私はけっこういい顔をしていると思う。

絵門さんから何を学ぶべきか。それは、「どう生きればよいのか」ということだと思います。どう生きればよいのか。その答えが絵門さんのメッセージ、そして生き方に示されていると思います。ベランダにいる私をふっと優しい目で見上げたチャロ(聖路加病院に入院する2ヶ月前に亡くなった柴犬)の写真を、私は入院中もずっと病室に置いていた。今も私は、症状や検査データが思わしくなく不安が押し寄せてくる時、チャロの写真を見て、ベランダに出る。「大丈夫。生きても死んでも大丈夫。治っても治らなくても大丈夫。ひたむきに生きていればちゃんと生きられるし、ちゃんと死ねるよ」 庭からは、そんなチャロの声が聞こえてくる気がする。 ひたむきに生きる。その生き方は人それぞれだと思いますが、私たちが普段、いかに「欲望」というものに、その「ひたむきに生きる」ことを阻害されているかということを感じずにはいられません。絵門さんが「うさぎのユック」などを朗読するときの姿は、常人を超越したかのような存在感と輝きを放っていました。それは「欲望」など全くひとかけらも持たないような輝き方でした。

そして、何が「本当の幸せ」なのかということも教えてくれているのです。ベランダで風を浴びる。洗濯物が気持ち良さそうに揺れる。夫のもの、私のもの、ニャンコの小春と小夏のもの…。その一つ一つを、私は自由に動かせるこの体で干していく。こういう日がいつまでもいつまでも続いてほしいと、空を見上げて私は願う。そして、この本は次の言葉で締めくくられています。朝目覚める。「今日も生きている」と思う。嬉しい。

「がんと一緒にゆっくりと」絵門ゆう子 新潮社 (5月30日に文庫版が発売されるそうです)

2006年5月18日

個人的な話です。先日、千葉市で行われた、絵門さんが出演する予定だったイベントを観に行きましたが、そこで見知らぬ方にチケットを譲っていただきました。突然のことで、ろくすぽお礼も言わずそのままになってしまったのが大変心残りです。このページをご覧になることはないと思いますが、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

←戻る

 


絵門ゆう子さんに学ぶ@

(実際に会ったわけではありませんが)つい先日、とてもとても素敵な人との出会いがありました。ただ、非常に残念なのは、その出会いのきっかけがその人の訃報であったことです。エッセイスト、作家、カウンセラー、アナウンサー、女優など、さまざまな顔を持つ「絵門ゆう子」さんです。以前から気になっていました。がんが発見されても西洋医学による治療を当初は拒否されたときや「うさぎのユック」という童話を出版されたときなど…。今思えば、なぜもっと早く絵門さんの魅力に気がつかなかったのだろうと本当に悔やまれてなりません。

絵門さんの公式サイト「ゆっくり生きよう」を拝見しました。そこには絵門さんから発せられるメッセージが溢れていましたが、その内容は私がグリーンハートパークで言いたかったことやそれ以上の素晴らしいメッセージがたくさん書き綴られていました。私がグリーンハートパークを運営するに当たっては、このように人の生き方などについてとやかく言うHPは、宗教関係などを除けば他にないだろうと思っていたんですが、人の生き方について素晴らしいメッセージをたくさん発信している絵門さんのサイトがあることを知り、うれしさと悲しみが同時にこみ上げてきました。

極めて重要なのは、自分が「もうまもなく死ぬかもしれない」という経験。死が遠ざかれば遠ざかるほど、本当の自分と本当の幸せも遠ざかります。絵門さんが当初、西洋医学による治療を拒否したことについて、たいていの人は「最初からきちんとした治療を受けていればもっと長生きできたのに」と言うかもしれません。しかし、最初から西洋医学による治療を受けてあっという間に治った場合、あのような光り輝く素晴らしいメッセージをあそこまで力強く発信し続けられたでしょうか。確かに私も、絵門さんにもっと長く生きていてほしかったと思います。しかし、病気は偶然になるものではなく、必ず意味があります。絵門さんのとった選択は、決して間違いではなかったと思います。絵門さんにもそれがわかっていたと思いますし、実際、自分の選択を後悔するような言葉は見当たりません。

それにしても「絵門ゆう子」という名前になってからの絵門さんの活動には本当に驚かされます。本来ならずっと病院で過ごさなければならないような重い病状なのに、健康な人よりもむしろ精力的に活動していました。ご存知のように絵門さんはもともときれいな方ですが、改名後はそこに何事も暖かく包み込むような優しい表情が加わってますます素敵になっています。とりわけ、亡くなる直前まで朗読コンサートやコラムの執筆を続け、また、最後の最後まで西洋医学の言いなりにならず、自分の状態を冷静に分析して治療方法を決めていた姿勢には本当に感服させられます。(昨年、「タキソール」という抗がん剤が効かなくなり、医師に別の抗がん剤に切り替えることを提案されたが、どうやらそれを断っていたようです。)

人はよく「99%ダメでも、残り1%でも可能性があるならやってみろ」などと言います。絵門さんのメッセージにも「わずかでも可能性があるなら希望を失わない」という意思が溢れています。しかし、そのメッセージの端々には「本当はダメかもしれない」「自分の思うとおりにやってみて、それでダメなら仕方がない」という覚悟も感じられます。そういった絵門さんの生き方を見ていると、「99%ダメでも…」ではなく、「100%ダメだとわかっていても、自分の正しいと思うことをやることには価値があるんだ」ということを深く感じさせられます。

絵門さんのメッセージから勇気や感動をもらった人はたくさんいらっしゃると思いますし、これから受け取る人もたくさんいらっしゃると思います。また、そういった人たちがさらに他の人たちに伝えていくことと思います。そして、それはその人たちをひと回りもふた回りも成長させることになるのだと思います。私もたくさんの勇気と感動をもらいましたし、これからまだまだ受け取ることになりそうです。絵門さんの著書の一文をお借りして、私も、
「これからも、苦しみから逃げず、苦の問いかけに一つずつ真面目に向かい合って生きていってみようと思う。」
(原文は「これからも、がんから逃げず、がんの問いかけに一つずつ真面目に向かい合って生きていってみようと思う。」『がんと一緒にゆっくりと』新潮社)

2006年4月18日

←戻る

 


新しい段階へ

前回の更新からずいぶん間が空いてしまいました。ここへ来て、そろそろグリーンハートパークというか私自身というか、が新しい段階に移りつつあることをひしひしと感じています。今まで私自身もグリーンハートパークも、「なぜ生きているのか」「何をすべきなのか」という、生きる上で非常に基本的な事柄を探ることに最重点を置いてやってきたのだと思います。それは、このHPを始めてから5年、私個人的には約20年にわたる作業でした。そして、一昨年前に「草原の心拠」というコーナーを新設して、「なぜ生きているのか」「何をすべきなのか」ということについて自分なりの心の拠り所をまとめてきたわけですが、それは結局20年にわたった心拠探しの作業の最後のまとめであったようです。

ぶっちゃけたことを言いますと、私は今まで、心拠探しの作業に最重点を置いてきたがために、普段の生活とか仕事といったものを非常にないがしろにしてきました。その結果、経済的にも社会的地位にしても非常に低い場所での生活を余儀なくされてきました。心拠探しの作業にとってはそれはむしろ必要なことだったのですが、心拠がまとまり、それを実践に移そうとしている今、これからはそういった物質的に乏し過ぎる状況はむしろマイナスです。現在は、急ピッチでそうした物質的悪状況を改善していこうという心境です。

今までほんとに、心拠探し、哲学的考察にずいぶん時間を費やしてきました。しかし、心拠がほぼまとまった今、そういった哲学的考察は不要になりつつあります。同時に、今までの形の「グリーンハートパーク」もその存在意義が薄らいできました。いや、正確に言うと、更新する必要がなくなってきました。

ただし、「グリーンハートパーク」というのは、やさしさやきれいな心を大切にする場所、という意味合いで付けた名前です。それはつまり、草原の心拠を実践する場所、小さなイーハトーボのことでもあります。私が現実にそういった場所を実現する方向に向かうことには、これからも変わりありません。いわば、今までのグリーンハートパークが「心拠構築編」だとすれば、今度は「心拠実践編」が始まるはずです。そしてそのまた先は、実現したグリーンハートパークから情報を発信する本来の姿になるはずです。

実は、そのグリーンハートパーク実現のための拠点を昨年創りました。それは現在個人オフィスである「草げんハウス」と言います。当面はソフトウェア開発など、具体的・営利的活動が中心となりますが、最終的にはグリーンハートパークの実現も目指しています。

といったわけで、このHPだけ見ているとなにやらグリーンハートパークというものがしぼんで行くように見えたかもしれませんが、実は相変わらず静かに活発に動いているということがおわかりいただけたでしょうか。これからこのHPの更新回数は非常に少なくなりますが、それはグリーンハートパークというものがインターネットという枠を超えて広がり始めたということを意味します。もし、このHPを定期的に見ている方がいるとしたら、これからは草げんハウスのほうにも注目していただけると、とてもうれしいです。

考えてみると、草原の心拠がまとまる時期と、経済的な面が改善されてきた時期がちょうど重なったというのもとても不思議です。いつか、現実のグリーンハートパークでお逢いしましょう。

2006年2月25日

←戻る

 


「優越型」の空しさ

今、山梨県の「笛吹川フルーツ公園」という所にある宿にてこのコラムを書いています。この辺りはそれほど有名な観光地ではないんですが、とても良い所です。穴場だと思います。この模様は「みどりの森」のコーナーで詳しく紹介したいと思っていますが、とにかく今日は天気も良く、ちょうど紅葉も見頃で、素晴らしい景色を堪能することができました。

さて、人の生き方というか、生きる方向は大きく三つに分けることができると思います。一つは自分の欲求のおもむくまま生きるという方向。これは刹那的で快楽主義と言っても良いかもしれません。これを快楽型と呼びましょうか。二つ目は社会的な満足を追及する方向。例えば、裕福になるとか有名になるとか社長になるとか…。これは優越型と呼びましょうか。三つ目は自分自身の成長を追及する方向。欲求や社会的な優越を追及することなく、苦しいことや難題にも冷静に取り組んでいくような生き方です。これを成長型と呼びましょう。もちろん、それぞれの人がこの三つの生き方のどれかにはっきり分かれるわけではなく、それぞれの人がこの三つの生き方を同時に内面に抱えているのが普通だと思います。

率直に言ってグリーンハートパーク的には、快楽型と優越型は間違った方向で、三つ目の成長型のみが正しい方向ということを言いたいわけですが、残念ながら最近は快楽型と優越型が増え、逆に成長型は減る傾向にあります。それもそのはずで、一つは自由な社会になったことで、「欲望追求」が肯定的に認められるようになってきたこと、もう一つは、競争社会になったことで裕福になるとか有名になるとか社長になるといったようなことが「立派である」というふうに見られるようになったことなどによるものです。しかしここで決して忘れてはならないのは“この世は精神的な成長のためにある”ということです。“成長型こそ正しい”というのは曲げようのない事実なのです。そこから外れて、快楽型や優越型をとる人が増えれば増えるほど、地球が危機的な状況になります。地球温暖化はもうすでに始まっています。数十年内に来る世界規模の大災害は、残念ながらもう防げない状況です。この大災害は今年起きたハリケーンの被害とは比較になりません。

私たちが今やらなければならないことは、特に成長型の人は、その成長型の生き方に誇りをもつということです。今の社会では優越型が最も優勢です。ヘタをすると「成長型の生き方は間違っている」という風潮さえ生まれかねません。実際、本当は成長型なのに、表面的に優越型に合わせてしまって空しい毎日を過ごしている人たちがたくさん見受けられます。今現在、成長型の人にとっては踏んだり蹴ったりの受難の時代です。快楽型には迷惑をかけられる一方で、優越型にはさまざまなものが奪われていく一方だからです。つまり、成長型はこんな豊かな時代でも、貧しさと通常の何倍もの苦痛の中で生活して行かなければならないのです。最近、おとなしくてまじめな人が突然凶行に及ぶ事件が増えているのも、こんな理由によるところが大きいのです。成長型の人はもっと誇りをもたなければなりません。人間の価値はお金や社会的地位とは関係ないことを再確認しなければなりません。場合によっては、快楽型や優越型の人々に対して怒りの感情さえ必要かもしれません。(まぁしかし、成長型の人が現実的にどう生きていくかは「草原の心拠」のコーナーで追い追い述べていきたいと思います。)

----------
ここ笛吹川フルーツ公園の夜景は素晴らしいです(新日本三大夜景の一つ)。今夜は幸い、快楽型の人は泊まっていないようで、静かな夜を迎えています。先ほどテレビで、有名な占い師がゲストの有名人にズバリものを言う番組をやっていました。今回のゲストは、かつて「御三家」と呼ばれて今や芸能界の大御所と言われてもおかしくないような人だったのですが、そんな人でも最近は“自殺”を真剣に考えていたそうです。何もかもが下らなく思えていたそうです。優越型の生き方をどんなに極めても、最後には空しさだけが残るということを如実に示してくれたようです。

2005年11月15日

←戻る